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シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇・・・・・評価学1800円
2021年03月17日 (水) | 編集 |
26年目の「終劇」

1995年に放送開始し、社会現象化したTV版「新世紀エヴァンゲリオン」とその劇場版、さらに2007年からリブートされた「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序・破・Q」、これら全てを内包し、全ての葛藤に決着をつける完結編。
「シン・ゴジラ」を間に挟んで「Q」から9年。
結論から言うと、全てが腑に落ちた。
これは四半世紀をかけた庵野秀明の究極の私小説であり、αでありω、極大でありながら極小。
星をつぐものの壮大な神話が、碇シンジと碇ゲンドウの超パーソナルな内面の葛藤に帰結するのは、実に日本的というか、日本以外ではなかなか出てこない作品かもしれない。
※核心部分に触れています。

葛城ミサト(三石琴乃)率いる反NERV組織「ヴィレ」は、パリの旧NERV本部からEVAのパーツなどを回収する作戦を敢行。
NERVのエヴァ軍団の執拗な妨害を受けるが、マリ(坂本真綾)の乗る8号機の活躍で、目的は達成される。
一方、シンジ(尾形恵美)と仮称綾波レイ(林原めぐみ)は、アスカ(宮村優子)に導かれて、ニアサードインパクトから生き残った人間たちが暮らす第3村へとたどり着く。
そこには、大人になった鈴原トウジ(関智一)とヒカリ(岩男潤子)夫妻や相田ケンスケ(岩永哲哉)が暮らしているが、重すぎる罪の意識に押しつぶされ、生きる気力を失ったシンジは誰とも話そうとしない。
シンジは、アスカと共にケンスケの家で世話になり、仮称レイはトウジの家で赤ん坊の世話や農業の手伝いをして過ごす。
仮称レイにとって、初めて経験する人間らしい暮らしであり、徐々に感情や言葉を覚えてゆく。
廃人状態になっていたシンジも、仮称レイのおかげで少しずつ元気を取り戻すが、本来NERVの施設内でしか生きられない仮称レイの体には限界が迫っていた。
そんな時、ヴィレのヴンダーが補給とアスカのピックアップのために、第3村にやってくることになるのだが・・・


90年代、大センセーションを巻き起こしていた「新世紀エヴァンゲリオン」を初めて観たのは、日本での放送が始まってしばらく経った頃。
当時私はアメリカに住んでいたのだが、在留邦人向けに日本のTV番組をビデオ録画してレンタルする店(当時でも法的にはアウト)があり、そこに入荷するのを心待ちにしていたのだ。
むちゃくちゃ面白かった。
庵野秀明という名は、ずっと憧れだった。
自主映画を作っていた高校生の頃、「DAICON FILM」を観て物凄いショックを受けて以来ずっと追っていて、「トップをねらえ!」も「ふしぎの海のナディア」も素晴らしかったが、「エヴァ」は格が違うと感じた。
だからこそ、観続けた結果セカイ系を象徴するような有名なラストに困惑し、それをさらにひっくり返した「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」でも頭を抱えた。
いや、面白いことは面白かったんだけど、真逆の話を連続して作って、最終的にどこへ着地したいのか理解できなかったのだ。

数年後、独立した庵野秀明が再び「エヴァ」を作ると聞いた。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」として「序・破」が作られ、個人的にもこの頃に少し「エヴァ」関連の仕事もした。
遅延はあったものの、「Q」も封切られ、このまま完結するものだと思っていたが、まさか9年もかかるとは思わなかったよ。
今回「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」と、またまた名を変えた完結編を迎える前に、数年ぶりに「序・破・Q」を観直した。
やっぱり、むちゃくちゃ面白かった。
「序・破」は言うに及ばず、物議をかもした「Q」も一度設定が頭に入れば、95分と尺が短いこともあり、怒涛の勢いで物語が進んでゆく。
レイを助けるためとは言え、図らずもニアサードインパクトを引き起こし、人類の大半を滅ぼしてしまったシンジ。
重過ぎる罪によって壊れてしまった彼の魂は、どこへ向かってゆくのか、どんな決着がつくのか。
半分の期待と、半分の不安が渦巻くなか、151分の完結編を鑑賞した。

エヴァといえば、全編に散りばめられた、主に聖書に由来する数々の“謎”が作品世界を特徴付ける。
アイテムやキャラクターに関連する謎がさらなる謎を呼ぶ展開は、その筋の猛者たちがすでに多くの考察を発表しているので、ここではあまり触れない。
それにこの作品における謎要素は、「シン・ゴジラ」の膨大なセリフや字幕と同じで、観客を作品世界に惹きつけるためのある種のフックであり、作品を紐解くヒントであっても本質はそこには無いと思う。

最初のTV版以来、一貫してシリーズのバックボーンとなっているのは、主人公の碇シンジと、父親の碇ゲンドウの対立である。
ではシンジとゲンドウとは何者なのか、この二人の関係性こそが作品の核心だろう。
共に作者の脳内から生み出された対照的な親子は、どちらも葛藤する本人の分身なのだと思う。
TVシリーズが放送されていた時、庵野秀明は35歳。
十分に成熟した大人としての現実の自分と、内面に封じ込められた少年の自分。
いわば、大人たるものに対する幼児性の反逆こそが、エヴァなのではないか。
だから、TV版では第弐拾伍話の心象独白大会に象徴されるように、大人と子供の関係が非常にギスギスしていて、お互いがお互いを信じていない。

ところが、「新劇場版:序・破」を観て驚いた。
基本的な物語の流れは、TV版を踏襲してはいたが、90年代とは大人と子供の関係が大きく違っていたのである。
端的に言えば、こちらではお互いを信じようと(少なくとも努力は)している
エヴァは庵野秀明の私小説であり、作品世界は制作時の彼の精神状態をそのまま反映している。
だから「序・破」を作った時、庵野秀明は幸せだったのだと思った。
彼の妻である安野モヨコが、株式会社カラーの創立10周年を記念して描いた「大きなカブ(株)」という漫画がある。
この漫画の中で主人公の“おじいさん(庵野秀明)”は、希望に満ちた表情でカラーという新しい農場にカブを植え、見事に「序」と「破」と言う大きなカブを収穫する。
ところが何か思うところがあったのか、おじいさんはしばらく放浪し、その後「Q」を収穫するのだが、その時にカブの下敷きになって大怪我を負ってしまうのだ。
実際、「Q」の制作後、庵野秀明は重いうつ状態に陥り、日常生活に支障をきたすほどだったと言う。
漫画のおじいさんは、その後“超・おじいさん(宮崎駿)”のところでリハビリをしたりしながら、徐々に元気を取り戻し、隣の畑に新しいカブを植え、「シン・ゴジラ」という形で収穫する。
「シン・ゴジラ」の成功ですっかり回復したおじいさんが、最後のカブとしてエヴァ完結編を植えるところで漫画は終わる。

TV版とその映画版の頃の庵野秀明は、自分の中にいるシンジとゲンドウの間で激しく葛藤していたのだろう。
そして、2002年に安野モヨコと結婚して精神の安定が訪れ、幸せな大人として暮らしている頃に作り出したのが「序」と「破」なのではないか。
それまでのエヴァ作品に全く関わりなく、「破」で唐突にマリが登場するのも、マリ=安野モヨコだと考えるとしっくりくる。
もっとも作品では「これは理想化した妻です」とは言えないので、納得できる設定を加えている。
本作では、マリが“イスカリオテのマリア”であることが明らかになる。
イスカリオテと言えば本来はユダだが、彼女はゲンドウや冬月と同門で、人類補完計画を裏切った存在なので整合性はとれる。
前記したようにシンジ=ゲンドウであり、彼はヴィレの槍で自らを貫き、人類の再生のために十字架とともに消えようと考えていた。
つまりはキリストなのだが、結果としてユイが身代わりとなることで、ゲンドウは消えたがシンジは残された。
ここで、彼の新たな世界での帰るべき所として機能するのがマリ(マリア)。
要するに、この映画の人類補完計画が失敗した後の世界は、マーティン・スコセッシの「最後の誘惑」で、十字架にかけられなかったキリストが、マグダラのマリアと愛し合っているという“もしも”の幻想を見るシークエンスと同じようなことをしているのだ。

そして、本作でシンジを救うのが第3村というコミュニティであることが、過去のエヴァと本作を差別化する最大のポイントである。
「大きなカブ(株)」で大怪我を負って引きこもりとなるおじいさんは、「Q」のラストで生きる気力を失い廃人となるシンジそのものだ。
この第3村は、東日本大震災後の仮設住宅の村を思わせる。
「Q」が、それまでの二作とうって変わって鬱な内容になったのには、おそらく制作中に発生した3.11の影響がある。
あの悲劇は、戦後の日本人にとってまさにセカンドインパクトであり、多くのクリエイターが3.11の経験と向かいあおうとした。
震災発生の時点でどの程度制作が進んでいたかは分からないが、ニアサードインパクトいうカタストロフィを扱っていた「Q」は、3.11とシンクロしてしまった。
知らない間に世界は滅び、自分は何も出来なかったという、シンジの意識は作者の無力感と無関係ではないだろう。
彼の中で3.11の経験がいかに重要だったかは、3.11の再シミュレーションとでもいうべき「シン・ゴジラ」を観るとよくわかるのだが、「Q」の徹底的な絶望が「シン・ゴジラ」では絶望の先にある希望へと変わっている。

映画作りは一人ではできない。
「シン・ゴジラ」のような超大作では、膨大な人とのコミュニケーションが必要だっただろう。
それはそのまま癒しとなり、本作で40分もの尺を使って描かれる、第3村のシークエンスに投影されているのだと思う。
交わされる「おやすみ、おはよう、ありがとう、さようなら。」
他人との間に壁を作っていたシンジが、人との暮らしを知らない仮称レイが、平和な日常生活と人々とのコミュニケーションを通じて癒されてゆく展開は、良い意味で驚きだった。
そして彼らは当たり前の生活の中で労働をし、大人の責任と信頼の意味を知るのである。
孤独な子供たちが、他人との触れ合いを通じて成長する。
そしてそこには、トージやケンスケらかつて子供だった大人がいる。
肉体は10代のままでも14年間に心は大人になっているアスカも、口は悪いが迷える子供たちの良き導き手となっている。
ここには、葛藤はあっても大人と子供の対立は存在しない。

そして、全てが収束する物語の終盤には、ある意味で子供たち以上に頑なだった大人たちも、次々と壁を取り払ってゆく。
まずはシンジをエヴァに乗せたことで、彼以上の重い罪を背負ったミサトが、次いでそもそもの元凶たるゲンドウが、成長したシンジに心を開いてゆくのである。
同時に、作者の心の中にある対立装置としてのエヴァの全貌も明らかとなってゆく。
マイナス宇宙での最後の対決で、シンジの初号機とゲンドウの13号機は、映画のセットの中で戦いを繰り広げる。
エヴァは、現実の葛藤を虚構で戦わせるための装置であり舞台。
愛用のSDATプレイヤーが触媒となり、自分のセカイを作って引きこもり、もっとも子供っぽい願望を抱いていたのは実はゲンドウであること、自分の心の弱さを認められない幼児性を、シンジによって指摘される。
終盤、カヲルがいみじくも「君はイマジナリーではなく、すでにリアリティの中で立ち直っていた」と語るが、エヴァという虚構に乗ることで傷ついたシンジの回復をもたらしたのは、現実を反映した第3村のリアリティ。
「時間も世界も戻さない、エヴァに乗らなくてもいい世界に書き換えるだけ」と、シンジは言う。
英語タイトル「EVANGELION:3.0+1.0 THRICE UPON A TIME」が示すように、四半世紀の間に三度に渡って行われてきた「庵野秀明補完計画」は、過去作全てを内包する形でここに完結したのである。
星をつぐものの壮大な宇宙神話は、心の中のシンジとゲンドウの一体化というミニマムな現象に落とし込まれ、創造の連環はやはり葛藤を抱えた別の誰かによって受け継がれるだろう。
時の輪は閉じ、大人と子供、虚構と現実は溶け合い、新たなハーモニーとなって未来へと進む。

ちなみに作者の過去の発言の影響からか、本作のラストを虚構の否定であると読み解く向きも有るようだが、逆だと思う。
還暦を迎えた庵野秀明が辿り着いたのは、大人も子供も基本的には一つであるように、虚構には現実が必要だし、現実を生きるには時として虚構が必要だという、スティーブン・スピルバーグが「レディ・プレイヤー1」で導き出したのと同じ境地ではなかろうか。
だからこそ、ラストショットで決してフォトジェニックではない現実の中に、虚構のままの二人を解き放った訳で。
TV版の完結編としても、新劇場版の完結編としても、100%納得の世界線である。

今回は、コア化した海と巨大綾波レイをイメージして「レッド・アイ」をチョイス。
冷やしたトマト・ジュース100mlをグラスに注ぎ、ビール100mlを静かに加えて軽くステアする。
ビールの種類によって味わいが大きく変わるが、個人的には軽めのピルスナーがおすすめ。
レッド・アイという名前は、二日酔いの朝の充血した目から取られている。
ちょいビターだがさっぱりとした味わいで、ビールが苦手な人でも飲みやすい。

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