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2021年04月29日 (木) | 編集 |
伝説が、幕を閉じる。
日本が生んだ、史上最高のスウォードアクション活劇「るろうに剣心」シリーズ、7年ぶりとなる最新作にして最終章。
大友啓史監督、アクション監督の谷垣健治をはじめ、主要スタッフ、キャストは前作からの続投組が多数を占め、抜群の安定感だ。
今回のヴィランは、剣心の頬に刻まれた十字傷の謎を知る男、上海マフィアのボス・雪代縁。
かつて剣心がその手で斬殺した妻・巴の弟であり、剣心への復讐心をこじらせて、幕末の動乱の結果生まれた明治の日本そのものを敵視する哀しきテロリストだ。
彼は仇である剣心に最大限の苦しみを与えるべく、綿密な計画を立てて、剣心が守ってきた世界を壊してゆく。
最終章二部作は、時系列的にはラストにあたる「The Final」と全体の始まりを描く「The Beginning」からなるが、なぜか公開順は「The Final」が先。
普通に考えたら、「The Beginning」で先に物語の背景を説明しておいた方が、「The Final」を描きやすいと思うのだが、あえて順番を逆にしたのは何か理由があるのだろう。
とりあえず、その辺りは「The Beginning」をお楽しみに、ということか。
すっかり剣心役が板についた佐藤健と、圧巻の身体能力を見せつけ、ついにアクション映画で代表作を得た縁役の新田真剣佑はもちろん、役者が皆素晴らしい。
こちらもその身体能力を存分に発揮する土屋太鳳も、美味しいところをさらってゆく神木隆之介も、武井咲や青木崇高たち一作目からのレギュラー陣も、みんなカッコよくてエモくて揺さぶられっぱなし。
最終章らしく、最大級の熱量を持つアクションは、俳優たちの生身の肉体によって、ホンモノの説得力を獲得している。
香港武侠映画のそれとは違って、ちゃんと重力を感じさせる超スピードのワイヤーワークは、もはやそれだけで芸術品だ。
今回は基本的にプロットラインに枝道が無く、随分シンプルな作りとなったが、シームレスなドラマとアクションは独特の緩急を作り出し、138分に及ぶ長尺を飽きさせない。
物語的には、過去のシリーズで剣心の抱えていた葛藤はほぼ解消しているので、本作の実質的な主人公は、復讐心に取り憑かれた縁であり、剣心はある種のメンターとなって彼の間違った憎しみを挫き、人として導く役割。
明治維新というのは、一つの国が丸ごと作り替えられた革命だから、その影では多くの残酷な行為があり、一度壊れてしまったものは元には戻らない。
癒えることの無い傷と、どう折り合いをつけて未来を生きるのか?というのは、シリーズが一貫として描いてきたことだ。
そして本作の白眉ともいえるのが、回想シーンに登場する巴役の有村架純の美しさ。
彼女と剣心が中心になるであろう、「The Beginning」が今から楽しみで仕方がない。
物語の時系列としては、これで一応の完結。
心に傷を抱えた流浪人(るろうに)の生き直しの物語として、見事な有終の美を飾った。
ところで、本作は原作既読者にはあまり評判がよろしく無いらしいが、基本的に映画版しか知らない私にとっては、全く無問題だった。
しかし、コロナ禍で一年の公開延期を余儀なくされ、ようやく日の目を見た途端に三度目の緊急事態宣言。
このタイミングでの公開は、あまりにも気の毒だ。
とりあえず緊急事態宣言で劇場が閉まるのは東京と関西だけなので、他県の映画ファンには盛り上げてもらいたいなあ。
今回は、物語の完結を祝して、福井県鯖江の加藤吉平商店の「梵(ぼん) 純米大吟醸 プレミアムスパークリング」をチョイス。
アルコール度数の低い甘ったるい日本酒スパークリングとは一線を画し、海外のスパークリングワインとも戦える本格的なもの。
精米歩合20%の生原酒を、酵母と共にシャンパン瓶で二次発酵させた一本で、米ならではの吟醸香が微細な泡と共に弾け、ふくよかな味わいとスッキリした喉ごしを演出してくれる。
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日本が生んだ、史上最高のスウォードアクション活劇「るろうに剣心」シリーズ、7年ぶりとなる最新作にして最終章。
大友啓史監督、アクション監督の谷垣健治をはじめ、主要スタッフ、キャストは前作からの続投組が多数を占め、抜群の安定感だ。
今回のヴィランは、剣心の頬に刻まれた十字傷の謎を知る男、上海マフィアのボス・雪代縁。
かつて剣心がその手で斬殺した妻・巴の弟であり、剣心への復讐心をこじらせて、幕末の動乱の結果生まれた明治の日本そのものを敵視する哀しきテロリストだ。
彼は仇である剣心に最大限の苦しみを与えるべく、綿密な計画を立てて、剣心が守ってきた世界を壊してゆく。
最終章二部作は、時系列的にはラストにあたる「The Final」と全体の始まりを描く「The Beginning」からなるが、なぜか公開順は「The Final」が先。
普通に考えたら、「The Beginning」で先に物語の背景を説明しておいた方が、「The Final」を描きやすいと思うのだが、あえて順番を逆にしたのは何か理由があるのだろう。
とりあえず、その辺りは「The Beginning」をお楽しみに、ということか。
すっかり剣心役が板についた佐藤健と、圧巻の身体能力を見せつけ、ついにアクション映画で代表作を得た縁役の新田真剣佑はもちろん、役者が皆素晴らしい。
こちらもその身体能力を存分に発揮する土屋太鳳も、美味しいところをさらってゆく神木隆之介も、武井咲や青木崇高たち一作目からのレギュラー陣も、みんなカッコよくてエモくて揺さぶられっぱなし。
最終章らしく、最大級の熱量を持つアクションは、俳優たちの生身の肉体によって、ホンモノの説得力を獲得している。
香港武侠映画のそれとは違って、ちゃんと重力を感じさせる超スピードのワイヤーワークは、もはやそれだけで芸術品だ。
今回は基本的にプロットラインに枝道が無く、随分シンプルな作りとなったが、シームレスなドラマとアクションは独特の緩急を作り出し、138分に及ぶ長尺を飽きさせない。
物語的には、過去のシリーズで剣心の抱えていた葛藤はほぼ解消しているので、本作の実質的な主人公は、復讐心に取り憑かれた縁であり、剣心はある種のメンターとなって彼の間違った憎しみを挫き、人として導く役割。
明治維新というのは、一つの国が丸ごと作り替えられた革命だから、その影では多くの残酷な行為があり、一度壊れてしまったものは元には戻らない。
癒えることの無い傷と、どう折り合いをつけて未来を生きるのか?というのは、シリーズが一貫として描いてきたことだ。
そして本作の白眉ともいえるのが、回想シーンに登場する巴役の有村架純の美しさ。
彼女と剣心が中心になるであろう、「The Beginning」が今から楽しみで仕方がない。
物語の時系列としては、これで一応の完結。
心に傷を抱えた流浪人(るろうに)の生き直しの物語として、見事な有終の美を飾った。
ところで、本作は原作既読者にはあまり評判がよろしく無いらしいが、基本的に映画版しか知らない私にとっては、全く無問題だった。
しかし、コロナ禍で一年の公開延期を余儀なくされ、ようやく日の目を見た途端に三度目の緊急事態宣言。
このタイミングでの公開は、あまりにも気の毒だ。
とりあえず緊急事態宣言で劇場が閉まるのは東京と関西だけなので、他県の映画ファンには盛り上げてもらいたいなあ。
今回は、物語の完結を祝して、福井県鯖江の加藤吉平商店の「梵(ぼん) 純米大吟醸 プレミアムスパークリング」をチョイス。
アルコール度数の低い甘ったるい日本酒スパークリングとは一線を画し、海外のスパークリングワインとも戦える本格的なもの。
精米歩合20%の生原酒を、酵母と共にシャンパン瓶で二次発酵させた一本で、米ならではの吟醸香が微細な泡と共に弾け、ふくよかな味わいとスッキリした喉ごしを演出してくれる。

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2021年04月24日 (土) | 編集 |
「Songs My Brothers Taught Me・・・・・評価★★★★+0.5」
「ザ・ライダー・・・・・評価★★★★+0.6」
長編三作目となる「ノマドランド」で、本年度アカデミー賞6部門にノミネートされ、自身も監督・脚色・編集の3部門でノミニーとなり、一躍脚光を浴びたクロエ・ジャオ。
映画をご覧になった方は分かるだろが、非常にアメリカンなスタイルで、とてもこれが中国出身の女性が撮ったとは思えない作品だ。
クロエ・ジャオは1982年に、北京で生まれた。
父親は中国最大級の鉄鋼会社・首鋼集団の経営者の一人という超エリートで、母親は人民解放軍の文芸工作団の病院に所属していたが、のちに両親は離婚。
そんな家庭環境の影響もあったのだろう、「非常に反抗的なティーンだった」と語るジャオは、15歳の時に英語も話せないまま厳格な教育で知られる英国ブライトンの寄宿学校へと送られ、やがてアメリカへと渡り、マサチューセッツのマウント・ホリヨーク大学で政治学を専攻。
そしてニューヨーク大学のティッシュスクールで映画制作を学ぶと、数本の短編を監督したのち、2015年に作り上げた長編第一作が、サウスダコタ州のパインリッジ・リザベーションを舞台とした「Songs My Brothers Taught Me(兄が教えてくれた唄)」だ。
日本では第二作となる「ザ・ライダー」が先に各配信サイトなどで観られるようになっていたが、この二作は共にパインリッジ・リザベーションを舞台とし、「ザ・ライダー」で描かれたものの背景が、「Songs My Brothers Taught Me」では前面に出ている。
キャストにも共通の人物がいるなど、実質的にパインリッジ二部作と言っていい構造になっている。
もともと、ジャオがパインリッジに興味を持ったのは、マウント・ホリヨーク時代に、この地域の若者の自殺率が異常に高いということを知ったからだという。
パインリッジは、ネィティブ・アメリカンの中でも、いわゆる平原インディアンの最大部族であるスー族の支族、オグララ・スー族の人々が自治権を持つリザベーション(居留地)だ。
ラコタ・ネイションとも呼ばれるスー族は、コロンブス以来400年に渡ったインディアン戦争で、しばしば白人の軍を相手に勝利を収めた。
1876年に、カスター将軍の第七騎兵隊を壊滅させた、リトルビックホーンの戦いは特に有名だ。
しかし、手強さゆえに政府の敵視政策は厳しく、ララミー砦条約で約束されたはずの領土は分割され、豊富な地下資源を持つ聖地ブラックヒルズは奪われた。
そして、1890年12月29日には、300人を超えるスー族が騎兵隊によって殺害されたウーンデッドニーの虐殺が起こる。
この事件によって、北米先住民による組織的な抵抗の時代は終焉を迎えるのだが、米国史にとって象徴的な意味を持つウーンデッドニーがあるのが、他ならぬパインリッジなのである。
これはパインリッジに限った話では無いが、全米各地に散らばる先住民のリザベーションは僻地が多く、ごく一部のリザベーションを除いて力のある産業がほとんど存在しない。
仮に地下資源などがあったとしても、開発する能力がないから、結局外部の資本と技術を入れざるを得ず、リザベーションの住民は単なる労働力となってしまう搾取構造に陥る。
米国を旅していると、ギャンブルが禁止されている州でも、たまにカジノを見かけることがあるが、あれは自治権を持つリザベーションが少しでも収入を得ようと経営しているものなのだ。
平原と荒野のパインリッジも同様で、牧畜以外産業らしい産業はない。
失業率は常に80パーセント以上に達し、犯罪率も高く、域内の平均寿命はアフリカの紛争地並みの50歳前後。
ジャオが、リザベーションに興味を持つきっかけとなった若者の自殺率は、全米平均の4倍に達する。
リザベーションに住む若者が、カウボーイ以外の職業でキャリアを積もうとすると、否応なしに外に出るしかないのである。
「Songs My Brothers Taught Me」の主人公、ジョニーもそんな葛藤を抱えた一人。
高校生のジョニーはロサンゼルスの大学に進学するガールフレンドと共に、希望を持てない故郷を出て、カリフォルニアに移住しようと考えている。
もっとも、彼自身は進学する当てはない。
リザベーションの中でも格差があり、比較的家が裕福で成績優秀な彼女と違って、極貧家庭のジョニーは酒の密売で金を稼ぐのに忙しく、授業中に机に突っ伏して寝ている。
劇中、鞄に隠した酒を、ジョニーが各家庭に売り捌く、まるで禁酒法時代のような描写があるが、アルコール依存は現在の全ての先住民コミュニティを蝕む、最大の脅威なのだ。
アメリカ大陸は広大で、例えばカナダ国境のイロコイ・ネイションとアリゾナのナバホ・ネイションは直線距離で3500キロも離れており、ネイティブ・アメリカンやインディアンと言う便利な言葉で一括りにしても、実際にはロシア人とスペイン人ほどに異なるたくさんの民族の集合体だ。
だが、たぶんに遺伝的要因が影響していると言われているが、ヨーロッパ人との接触以前、飲酒文化がなかった先住民は、総じてアルコールに弱い。
失業と貧困は依存をもたらし、リザベーション内のアルコールが原因となる疾患や死亡者の割合は突出して高いのだ。
そのため、全米のほとんどのリザベーションでは酒類の販売が禁止されているのだが、需要そのものは高いため、ジョニーのような密売人が横行する。
この映画でも、登場人物の多くがアルコールの問題を抱えているが、いわば毒を売って自分で飲むような状況が続いているのである。
一方、「ザ・ライダー」では、リザベーションの抱える問題はほとんどメンションされない。
自分がどこで、何者として生きたいのか、部族社会の中でまだ揺れ動いているジョニーと違って、こちらの主人公のブレディは既に大人の男で、カウボーイとして地元で生きることを決めていたがゆえ、逆に大きな葛藤を抱えてしまうのだ。
映画は終始ブレディに寄り添い、彼のパーソナルな生き様にフォーカスする。
ロデオ競技のスターだったブレディは、競技中に頭に大怪我を負い、一応治癒はしたものの、右手にロデオライダーとしては致命的な障害が残ってしまう。
高等教育を受けていないリザベーションの若者たちが、ある程度の大金を稼げる数少ない仕事がカウボーイの娯楽であるロデオ。
それに、平原インディアンとして、代々馬と共に生きてきたスー族の人たちにとって、馬に乗ることイコール人生。
大好きな相棒で、生活の糧でもある馬に乗れないことは、半分死んだのと同じなのだ。
現実を受け入れて、諦めることに関する物語は、多くのスポーツ映画で描かれてきたが、本作ではスー族の精神文化そのものが、重要なバックボーンになっているのが特徴だ。
「Songs My Brothers Taught Me」も「ザ・ライダー」も、キャストの多くが本職の俳優ではなく、パインリッジに暮らす本人役での出演。
前者では高校卒業後に故郷を離れるのか否か、後者では命をかけてでもロデオ競技に戻るのか否かという葛藤が物語を貫き、主人公が自ら結論を下すまでの物語だ。
どちらの作品でも、主人公の抱えている問題以外、特に大きな事件は起こらない。
代わり映えのしない人々の日々の営みが、淡々と描かれてゆくのみ。
一作目にして「ノマドランド」で開花した半ドキュメンタリー的な作風が完成してるのも凄いが、特徴的なのがテレンス・マリックの影響で、特に「Songs My Brothers Taught Me」ではマリック風味が強烈だ。
広角気味のレンズの奥行きの使い方なんてまさにだし、オープニングの自然描写なんてほとんどまんま。
マリックが撮ったと言って見せられたら、信じてしまうだろう。
もっとも、「ザ・ライダー」「ノマドランド」と、作品毎に独自性の方が強まっているので、作家としてはまだまだ発展途上ということか。
それでいて、もうこれだけ力のある作品を撮ってるのもアメージングだが。
とにかく閉塞した地元を出たい。
ジョニーのこの感情は、日本の過疎の田舎で育った若者が抱く衝動に近いと思う。
違いは、少数民族である彼らにとって、今となっては土地だけが、残されたアイデンティティの証だということ。
たとえ痩せた荒野だとしても、彼らのネイションを形作るのは人と土地の持つ記憶。
リザベーションを出るということは、愛する家族と共に、合衆国の中で細々と命脈を保ってきた民族のアイデンティティを半ば捨てることを意味する。
私の知る限りでだが、都市に移った先住民はほぼ例外なく、“白人的な生活”を追い求めるようになる。
これは良い悪いではなく、都市では故郷のような生活は物理的に出来ないからだ。
「Songs My Brothers Taught Me」のジョニーは、葛藤の末にパインリッジに残ることを選択するのだが、いわばジョニーの未来の姿、地元に残った若者たちを描くのが「ザ・ライダー」なのである。
日本で、この映画を鑑賞した人の感想を読むと、「同調圧力」という言葉をよく目にする。
再起不能になるかもしれない怪我を負ってでも、再び馬に乗ることを当然だと考える、パインリッジの若者たちには、確かに日本の田舎にもある同調圧力的な力が働いているのかもしれない。
外の世界での可能性を諦めたジョニーも、様々なプレッシャーは感じていただろう。
だが、都市も田舎も基本的に同質の社会で、気に入らなければ出て行ける日本とは、はじめから選択の重みが違う。
馬に乗れるのと乗れないのとでは、経済的な格差に繋がる。
そして彼らにとって、カウボーイであることは、誇り高きラコタ・ネイションのアイデンティティと同義なのである。
「同調圧力」があったとしても無かったとしても、個人の中の葛藤は遥かにディープにならざるを得ないのだ。
どちらの映画も、情報を何も知らずに観たら、おそらくオグララ・スー族の作家が地元で撮った作品と思うに違いない。
「ノマドランド」もそうだったが、クロエ・ジャオの最大の強みは、マイノリティ一人ひとりが持つ個人史への強い共感力。
それはやはり、若くして故郷を離れ、遠い米国で映画の旅を続けている自身の経歴が影響しているのだろう。
しかし悲しいかな、世界中で絶賛されたジャオの映画は、故郷中国では冷遇されていると言う。
「Songs My Brothers Taught Me」を撮った時、「中国にいた十代の頃、周りには嘘が満ちていて、ここからずっと出られないだろうと思っていた」と、中国の体制批判とも取れる発言をしていたことが発掘されたためだ。
まあ実際に作ってる映画を観たら、どう考えても全体主義の中国共産党が喜ぶようなキャラクターじゃないのだけど、ジャオのようなノマドな作家がナショナリズムに翻弄されるのも皮肉な話だ。
彼女の次回作は、今までとはガラッと毛色の違ったディズニー/マーベルの大作「エターナルズ」。
初の純粋娯楽映画は、ある意味で演出家としての真価が問われる作品になるだろう。
予定どおり、11月に公開されることを楽しみに待ちたい。
アルコールに苦しめられる人々を描いたこの二作品は、お酒と合わせるのはさすがに不謹慎なので、今回はナシ。
「ザ・ライダー」は現在アマゾンプライムの有料レンタルで、「Songs My Brothers Taught Me」は、英語版のみだが配信サービスのMUBIで鑑賞可能。
非常に寡黙な映画なので、高校生程度の英語力があれば十分に理解できるだろう。
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「ザ・ライダー・・・・・評価★★★★+0.6」
長編三作目となる「ノマドランド」で、本年度アカデミー賞6部門にノミネートされ、自身も監督・脚色・編集の3部門でノミニーとなり、一躍脚光を浴びたクロエ・ジャオ。
映画をご覧になった方は分かるだろが、非常にアメリカンなスタイルで、とてもこれが中国出身の女性が撮ったとは思えない作品だ。
クロエ・ジャオは1982年に、北京で生まれた。
父親は中国最大級の鉄鋼会社・首鋼集団の経営者の一人という超エリートで、母親は人民解放軍の文芸工作団の病院に所属していたが、のちに両親は離婚。
そんな家庭環境の影響もあったのだろう、「非常に反抗的なティーンだった」と語るジャオは、15歳の時に英語も話せないまま厳格な教育で知られる英国ブライトンの寄宿学校へと送られ、やがてアメリカへと渡り、マサチューセッツのマウント・ホリヨーク大学で政治学を専攻。
そしてニューヨーク大学のティッシュスクールで映画制作を学ぶと、数本の短編を監督したのち、2015年に作り上げた長編第一作が、サウスダコタ州のパインリッジ・リザベーションを舞台とした「Songs My Brothers Taught Me(兄が教えてくれた唄)」だ。
日本では第二作となる「ザ・ライダー」が先に各配信サイトなどで観られるようになっていたが、この二作は共にパインリッジ・リザベーションを舞台とし、「ザ・ライダー」で描かれたものの背景が、「Songs My Brothers Taught Me」では前面に出ている。
キャストにも共通の人物がいるなど、実質的にパインリッジ二部作と言っていい構造になっている。
もともと、ジャオがパインリッジに興味を持ったのは、マウント・ホリヨーク時代に、この地域の若者の自殺率が異常に高いということを知ったからだという。
パインリッジは、ネィティブ・アメリカンの中でも、いわゆる平原インディアンの最大部族であるスー族の支族、オグララ・スー族の人々が自治権を持つリザベーション(居留地)だ。
ラコタ・ネイションとも呼ばれるスー族は、コロンブス以来400年に渡ったインディアン戦争で、しばしば白人の軍を相手に勝利を収めた。
1876年に、カスター将軍の第七騎兵隊を壊滅させた、リトルビックホーンの戦いは特に有名だ。
しかし、手強さゆえに政府の敵視政策は厳しく、ララミー砦条約で約束されたはずの領土は分割され、豊富な地下資源を持つ聖地ブラックヒルズは奪われた。
そして、1890年12月29日には、300人を超えるスー族が騎兵隊によって殺害されたウーンデッドニーの虐殺が起こる。
この事件によって、北米先住民による組織的な抵抗の時代は終焉を迎えるのだが、米国史にとって象徴的な意味を持つウーンデッドニーがあるのが、他ならぬパインリッジなのである。
これはパインリッジに限った話では無いが、全米各地に散らばる先住民のリザベーションは僻地が多く、ごく一部のリザベーションを除いて力のある産業がほとんど存在しない。
仮に地下資源などがあったとしても、開発する能力がないから、結局外部の資本と技術を入れざるを得ず、リザベーションの住民は単なる労働力となってしまう搾取構造に陥る。
米国を旅していると、ギャンブルが禁止されている州でも、たまにカジノを見かけることがあるが、あれは自治権を持つリザベーションが少しでも収入を得ようと経営しているものなのだ。
平原と荒野のパインリッジも同様で、牧畜以外産業らしい産業はない。
失業率は常に80パーセント以上に達し、犯罪率も高く、域内の平均寿命はアフリカの紛争地並みの50歳前後。
ジャオが、リザベーションに興味を持つきっかけとなった若者の自殺率は、全米平均の4倍に達する。
リザベーションに住む若者が、カウボーイ以外の職業でキャリアを積もうとすると、否応なしに外に出るしかないのである。
「Songs My Brothers Taught Me」の主人公、ジョニーもそんな葛藤を抱えた一人。
高校生のジョニーはロサンゼルスの大学に進学するガールフレンドと共に、希望を持てない故郷を出て、カリフォルニアに移住しようと考えている。
もっとも、彼自身は進学する当てはない。
リザベーションの中でも格差があり、比較的家が裕福で成績優秀な彼女と違って、極貧家庭のジョニーは酒の密売で金を稼ぐのに忙しく、授業中に机に突っ伏して寝ている。
劇中、鞄に隠した酒を、ジョニーが各家庭に売り捌く、まるで禁酒法時代のような描写があるが、アルコール依存は現在の全ての先住民コミュニティを蝕む、最大の脅威なのだ。
アメリカ大陸は広大で、例えばカナダ国境のイロコイ・ネイションとアリゾナのナバホ・ネイションは直線距離で3500キロも離れており、ネイティブ・アメリカンやインディアンと言う便利な言葉で一括りにしても、実際にはロシア人とスペイン人ほどに異なるたくさんの民族の集合体だ。
だが、たぶんに遺伝的要因が影響していると言われているが、ヨーロッパ人との接触以前、飲酒文化がなかった先住民は、総じてアルコールに弱い。
失業と貧困は依存をもたらし、リザベーション内のアルコールが原因となる疾患や死亡者の割合は突出して高いのだ。
そのため、全米のほとんどのリザベーションでは酒類の販売が禁止されているのだが、需要そのものは高いため、ジョニーのような密売人が横行する。
この映画でも、登場人物の多くがアルコールの問題を抱えているが、いわば毒を売って自分で飲むような状況が続いているのである。
一方、「ザ・ライダー」では、リザベーションの抱える問題はほとんどメンションされない。
自分がどこで、何者として生きたいのか、部族社会の中でまだ揺れ動いているジョニーと違って、こちらの主人公のブレディは既に大人の男で、カウボーイとして地元で生きることを決めていたがゆえ、逆に大きな葛藤を抱えてしまうのだ。
映画は終始ブレディに寄り添い、彼のパーソナルな生き様にフォーカスする。
ロデオ競技のスターだったブレディは、競技中に頭に大怪我を負い、一応治癒はしたものの、右手にロデオライダーとしては致命的な障害が残ってしまう。
高等教育を受けていないリザベーションの若者たちが、ある程度の大金を稼げる数少ない仕事がカウボーイの娯楽であるロデオ。
それに、平原インディアンとして、代々馬と共に生きてきたスー族の人たちにとって、馬に乗ることイコール人生。
大好きな相棒で、生活の糧でもある馬に乗れないことは、半分死んだのと同じなのだ。
現実を受け入れて、諦めることに関する物語は、多くのスポーツ映画で描かれてきたが、本作ではスー族の精神文化そのものが、重要なバックボーンになっているのが特徴だ。
「Songs My Brothers Taught Me」も「ザ・ライダー」も、キャストの多くが本職の俳優ではなく、パインリッジに暮らす本人役での出演。
前者では高校卒業後に故郷を離れるのか否か、後者では命をかけてでもロデオ競技に戻るのか否かという葛藤が物語を貫き、主人公が自ら結論を下すまでの物語だ。
どちらの作品でも、主人公の抱えている問題以外、特に大きな事件は起こらない。
代わり映えのしない人々の日々の営みが、淡々と描かれてゆくのみ。
一作目にして「ノマドランド」で開花した半ドキュメンタリー的な作風が完成してるのも凄いが、特徴的なのがテレンス・マリックの影響で、特に「Songs My Brothers Taught Me」ではマリック風味が強烈だ。
広角気味のレンズの奥行きの使い方なんてまさにだし、オープニングの自然描写なんてほとんどまんま。
マリックが撮ったと言って見せられたら、信じてしまうだろう。
もっとも、「ザ・ライダー」「ノマドランド」と、作品毎に独自性の方が強まっているので、作家としてはまだまだ発展途上ということか。
それでいて、もうこれだけ力のある作品を撮ってるのもアメージングだが。
とにかく閉塞した地元を出たい。
ジョニーのこの感情は、日本の過疎の田舎で育った若者が抱く衝動に近いと思う。
違いは、少数民族である彼らにとって、今となっては土地だけが、残されたアイデンティティの証だということ。
たとえ痩せた荒野だとしても、彼らのネイションを形作るのは人と土地の持つ記憶。
リザベーションを出るということは、愛する家族と共に、合衆国の中で細々と命脈を保ってきた民族のアイデンティティを半ば捨てることを意味する。
私の知る限りでだが、都市に移った先住民はほぼ例外なく、“白人的な生活”を追い求めるようになる。
これは良い悪いではなく、都市では故郷のような生活は物理的に出来ないからだ。
「Songs My Brothers Taught Me」のジョニーは、葛藤の末にパインリッジに残ることを選択するのだが、いわばジョニーの未来の姿、地元に残った若者たちを描くのが「ザ・ライダー」なのである。
日本で、この映画を鑑賞した人の感想を読むと、「同調圧力」という言葉をよく目にする。
再起不能になるかもしれない怪我を負ってでも、再び馬に乗ることを当然だと考える、パインリッジの若者たちには、確かに日本の田舎にもある同調圧力的な力が働いているのかもしれない。
外の世界での可能性を諦めたジョニーも、様々なプレッシャーは感じていただろう。
だが、都市も田舎も基本的に同質の社会で、気に入らなければ出て行ける日本とは、はじめから選択の重みが違う。
馬に乗れるのと乗れないのとでは、経済的な格差に繋がる。
そして彼らにとって、カウボーイであることは、誇り高きラコタ・ネイションのアイデンティティと同義なのである。
「同調圧力」があったとしても無かったとしても、個人の中の葛藤は遥かにディープにならざるを得ないのだ。
どちらの映画も、情報を何も知らずに観たら、おそらくオグララ・スー族の作家が地元で撮った作品と思うに違いない。
「ノマドランド」もそうだったが、クロエ・ジャオの最大の強みは、マイノリティ一人ひとりが持つ個人史への強い共感力。
それはやはり、若くして故郷を離れ、遠い米国で映画の旅を続けている自身の経歴が影響しているのだろう。
しかし悲しいかな、世界中で絶賛されたジャオの映画は、故郷中国では冷遇されていると言う。
「Songs My Brothers Taught Me」を撮った時、「中国にいた十代の頃、周りには嘘が満ちていて、ここからずっと出られないだろうと思っていた」と、中国の体制批判とも取れる発言をしていたことが発掘されたためだ。
まあ実際に作ってる映画を観たら、どう考えても全体主義の中国共産党が喜ぶようなキャラクターじゃないのだけど、ジャオのようなノマドな作家がナショナリズムに翻弄されるのも皮肉な話だ。
彼女の次回作は、今までとはガラッと毛色の違ったディズニー/マーベルの大作「エターナルズ」。
初の純粋娯楽映画は、ある意味で演出家としての真価が問われる作品になるだろう。
予定どおり、11月に公開されることを楽しみに待ちたい。
アルコールに苦しめられる人々を描いたこの二作品は、お酒と合わせるのはさすがに不謹慎なので、今回はナシ。
「ザ・ライダー」は現在アマゾンプライムの有料レンタルで、「Songs My Brothers Taught Me」は、英語版のみだが配信サービスのMUBIで鑑賞可能。
非常に寡黙な映画なので、高校生程度の英語力があれば十分に理解できるだろう。

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2021年04月21日 (水) | 編集 |
ぼくたちの、ちょっとこんがらがった青春。
快進撃を続ける今泉力哉監督による、下北沢を舞台とした群像劇。
古着屋で働く青は、浮気された上にフラれた恋人の雪のことが忘れられない。
そんな時、美大に通う女性から彼女が監督する自主映画への出演を依頼される。
読書好きの青の小さなセカイを中心に、幾つものセカイの波紋が、お互いに影響し合いながら広がってゆく。
映画全体の大きなフレームになるのは、下北沢の街そのものだ。
共同脚本に、「音楽」などで知られる漫画家の大橋裕之を迎えたオリジナルストーリー。
主人公の青を「あの頃。」にも出演していた若葉竜也、恋人の雪に穂志もえか、青が通う古本屋の店員に古川琴音、自主映画の監督に荻原みのり、映画の衣装スタッフで青と仲良くなる城定イハに中田青渚と、生きのいい若手俳優たちがリアリティたっぷりに街の人々を演じる。
下北沢の小さな古着屋で働いている荒川青(若葉竜也)は、人生ではじめてできた恋人の雪(穂志もえか)から、浮気を告白され、別れを告げられてしまう。
失意の青だったが、古本屋で買った本を読んで暇をつぶし、夜にはふらりとライブに行ったり、馴染みの店でランチをしたり、平凡な日常のサイクルは変わらない。
そんなある日、店にやって来た美大生の高橋町子(萩原みのり)から、彼女が監督する自主制作映画に出演してほしいと頼まれる。
演技なんてやったことが無いので断ろうと思っていたところ、行きつけのバーで「それは告白だ!」と焚きつけられ、馴染みの古本屋の店員の冬子(古川琴音)に、演技の練習ビデオを撮ってもらったりしているうちに、だんだんとその気になってくる。
しかし撮影の当日、緊張のし過ぎで何テイク撮ってもNGとなり、最後には代役を使われてしまう。
打ち上げ会場で青が落ち込んでいると、衣装スタッフの城定イハ(中田青渚)から誘われて、なぜか彼女の部屋に行くことに・・・・
冒頭、本を読む青の姿が映し出される。
これは彼の出演した自主制作映画のワンカットなのだが、完成した映画に青の姿は無い。
初めての経験にガッチガチに固まってしまった彼の演技は、下手すぎて使えなかったのだ。
この映画を端的に言えば、下北沢の街を俯瞰で描いた点描画のような作品だ。
点描画は、遠くからはたくさんの情報が見えているようで、ある程度以上近寄ると全ては小さな色の点となって意味を失ってしまう。
青の幻の出演カットのように、この街の上では日々様々な出来事が起こり、その殆どは誰も見ることは無いけど、確かに存在している。
そしてそれは下北沢という街の持つ色彩を、人知れず豊かにしているのだ。
青の行動範囲は異様に狭い。
基本的にはアパートの部屋と勤務先の古着屋、そして近所の古本屋や飲食店だけ。
電車に乗ったりする描写もなく、全て徒歩圏内。
下北沢の街の中に存在する、彼の小さなセカイである。
ここでは、誰もが自分のセカイと、物語を持っている。
普段は独立して存在しているセカイ同士が、何らかのきっかけでぶつかり合うと、波紋が生じ、一つの波紋がまだ誰かのセカイとぶつかり、絡み合って複雑な模様を描き出してゆく。
面白いのがそれぞれのキャラクターには、文化の街・下北沢を象徴する様々な要素が紐づけられていること。
青は元ミュージシャンで、今はファッションの仕事をしている。
古本屋の冬子はもちろん本・文学で、町子は映画、衣装担当のイハは映画とファッションだ。
友情出演というには相当ガッツリ出ている、朝ドラ俳優役(実際に2本出ている)の成田凌は芝居。
唯一、青の元カノの雪は何をやっている人なのか不明だが、交友関係からすると彼女も芝居関係なのかもしれない。
中盤で青がカフェの店長と文化と街について語るシーンがある。
店長は漫画や映画、小説といった文化はずっと残るから、どんどん変化する街よりもすごいと語る。
それに対して青は、変わってもなくなっても、あったことは事実だから街もすごいと言う。
街はそこにいる人も店も文化も内包して、常に変化してゆく。
そして本作の登場人物は全員、下北沢という街を形作る色の点なのである。
今泉力哉監督といえば、恋愛映画マイスターとして知られるが、今年公開された「あの頃。」では恋愛モードを封印し、新しい可能性を見せた。
一方、先に完成していた本作は、コロナ禍のために公開が延期されていたが、恋愛模様を内包しつつも、様々な形の人の繋がりを描き、最後にはある種の映画論まで。
いわば今までの集大成的な、今泉力哉全部入りの賑やかさがある。
本作が撮影されたのは2019年だが、今観ると人々が誰もマスクをせず居酒屋で騒いだり、ライブハウスに行ったり、なんの心配もなく日常を楽しんでいる風景が懐かしく思える。
青が務める古着のヒッコリー、古書のビビビ、カフェCITY COUNTRY CITY、ライブハウスのTHREE、小劇場のザ・スズナリからミニシアターのトリウッドまで、本作では実在の場所や店がそのまま使われていて、見知った街が非常に映画的にフレーミングされ、本当にこの街にいそうな人たちの、ちょっとした日常と非日常の合間の物語にワクワク。
もともと俳優の個性を引き出すのには定評のある今泉監督だけに、本作でも若い才能のアンサンブルが見事なハーモニーを奏でてくれる。
全体の軸となる若葉竜也は最近飛ぶ鳥を落とす勢いだが、中盤から登場する城定イハ役の中田青渚が、インパクトのある名前と関西弁キャラクターで美味しいところを全部持ってゆく。
若葉竜也と成田凌は、「愛がなんだ」でも共演しているが、過去作との俳優陣のオーバーラップと役柄の遊び心は、作家のパラレルユニバース的な楽しみもある。
そして、本作はフィックスの長回しショットが非常に印象的。
中でも青がイハの家に招かれて、二人っきりのムッチャながーくてちょいドキドキする、恋バナのシーンは抜群の安定感で本作の白眉。
フィックスの長回しは、演出力の無い人が撮るととことん悲惨だが、これはむしろずっと眺めていたくなる不思議な魅力があふれている。
そんな長い夜が開けた後に起こる、路上で5人の男女の恋愛感情がそれぞれの思惑込みでぶつかりあう、爆笑シーンとのコントラスト。
絶妙な緩急の付け方が、ストーリーテリングのダイナミズムを生み出している。
小さな色の点は混じり合い、弾き合い、一つのユニークな風景となって、青の小さなセカイは、いつの間にか下北沢という”世界”の一部となっている。
いい意味で肩の力が抜けた、今泉監督の円熟を感じさせる傑作。
ところで城定秀夫監督が「じょうじょうひでお」だと、イハのおかげで知った。
失礼ながら、ずっと「しろさだ」だと思い込んでいた。
今回は、青の愛飲酒「レモンサワー」をチョイス。
まさに財布に優しい庶民のカクテルで、多種多様なうまい缶が発売されているが、配合なんかは結構個人の好みが出るもの。
ここでは我が家のレシピを。
氷にを入れたグラスに、冷やした甲種焼酎100ml、ペリエ250ml、レモンの絞り汁適量を注ぎ、軽くステアする。
炭酸水はお好みでいいが、ある程度強めのものがおすすめ。
最後に、1/4にカットしたレモンを飾って完成。
氷が溶けて薄まってきたら、レモンを絞るとある程度相殺できるので、大きめにしておく。
レモンに含まれるクエン酸が、肝機能を促進するおかげで悪酔しにくいのもあって、量的には人生で一番飲んでる酒かもしれない。
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快進撃を続ける今泉力哉監督による、下北沢を舞台とした群像劇。
古着屋で働く青は、浮気された上にフラれた恋人の雪のことが忘れられない。
そんな時、美大に通う女性から彼女が監督する自主映画への出演を依頼される。
読書好きの青の小さなセカイを中心に、幾つものセカイの波紋が、お互いに影響し合いながら広がってゆく。
映画全体の大きなフレームになるのは、下北沢の街そのものだ。
共同脚本に、「音楽」などで知られる漫画家の大橋裕之を迎えたオリジナルストーリー。
主人公の青を「あの頃。」にも出演していた若葉竜也、恋人の雪に穂志もえか、青が通う古本屋の店員に古川琴音、自主映画の監督に荻原みのり、映画の衣装スタッフで青と仲良くなる城定イハに中田青渚と、生きのいい若手俳優たちがリアリティたっぷりに街の人々を演じる。
下北沢の小さな古着屋で働いている荒川青(若葉竜也)は、人生ではじめてできた恋人の雪(穂志もえか)から、浮気を告白され、別れを告げられてしまう。
失意の青だったが、古本屋で買った本を読んで暇をつぶし、夜にはふらりとライブに行ったり、馴染みの店でランチをしたり、平凡な日常のサイクルは変わらない。
そんなある日、店にやって来た美大生の高橋町子(萩原みのり)から、彼女が監督する自主制作映画に出演してほしいと頼まれる。
演技なんてやったことが無いので断ろうと思っていたところ、行きつけのバーで「それは告白だ!」と焚きつけられ、馴染みの古本屋の店員の冬子(古川琴音)に、演技の練習ビデオを撮ってもらったりしているうちに、だんだんとその気になってくる。
しかし撮影の当日、緊張のし過ぎで何テイク撮ってもNGとなり、最後には代役を使われてしまう。
打ち上げ会場で青が落ち込んでいると、衣装スタッフの城定イハ(中田青渚)から誘われて、なぜか彼女の部屋に行くことに・・・・
冒頭、本を読む青の姿が映し出される。
これは彼の出演した自主制作映画のワンカットなのだが、完成した映画に青の姿は無い。
初めての経験にガッチガチに固まってしまった彼の演技は、下手すぎて使えなかったのだ。
この映画を端的に言えば、下北沢の街を俯瞰で描いた点描画のような作品だ。
点描画は、遠くからはたくさんの情報が見えているようで、ある程度以上近寄ると全ては小さな色の点となって意味を失ってしまう。
青の幻の出演カットのように、この街の上では日々様々な出来事が起こり、その殆どは誰も見ることは無いけど、確かに存在している。
そしてそれは下北沢という街の持つ色彩を、人知れず豊かにしているのだ。
青の行動範囲は異様に狭い。
基本的にはアパートの部屋と勤務先の古着屋、そして近所の古本屋や飲食店だけ。
電車に乗ったりする描写もなく、全て徒歩圏内。
下北沢の街の中に存在する、彼の小さなセカイである。
ここでは、誰もが自分のセカイと、物語を持っている。
普段は独立して存在しているセカイ同士が、何らかのきっかけでぶつかり合うと、波紋が生じ、一つの波紋がまだ誰かのセカイとぶつかり、絡み合って複雑な模様を描き出してゆく。
面白いのがそれぞれのキャラクターには、文化の街・下北沢を象徴する様々な要素が紐づけられていること。
青は元ミュージシャンで、今はファッションの仕事をしている。
古本屋の冬子はもちろん本・文学で、町子は映画、衣装担当のイハは映画とファッションだ。
友情出演というには相当ガッツリ出ている、朝ドラ俳優役(実際に2本出ている)の成田凌は芝居。
唯一、青の元カノの雪は何をやっている人なのか不明だが、交友関係からすると彼女も芝居関係なのかもしれない。
中盤で青がカフェの店長と文化と街について語るシーンがある。
店長は漫画や映画、小説といった文化はずっと残るから、どんどん変化する街よりもすごいと語る。
それに対して青は、変わってもなくなっても、あったことは事実だから街もすごいと言う。
街はそこにいる人も店も文化も内包して、常に変化してゆく。
そして本作の登場人物は全員、下北沢という街を形作る色の点なのである。
今泉力哉監督といえば、恋愛映画マイスターとして知られるが、今年公開された「あの頃。」では恋愛モードを封印し、新しい可能性を見せた。
一方、先に完成していた本作は、コロナ禍のために公開が延期されていたが、恋愛模様を内包しつつも、様々な形の人の繋がりを描き、最後にはある種の映画論まで。
いわば今までの集大成的な、今泉力哉全部入りの賑やかさがある。
本作が撮影されたのは2019年だが、今観ると人々が誰もマスクをせず居酒屋で騒いだり、ライブハウスに行ったり、なんの心配もなく日常を楽しんでいる風景が懐かしく思える。
青が務める古着のヒッコリー、古書のビビビ、カフェCITY COUNTRY CITY、ライブハウスのTHREE、小劇場のザ・スズナリからミニシアターのトリウッドまで、本作では実在の場所や店がそのまま使われていて、見知った街が非常に映画的にフレーミングされ、本当にこの街にいそうな人たちの、ちょっとした日常と非日常の合間の物語にワクワク。
もともと俳優の個性を引き出すのには定評のある今泉監督だけに、本作でも若い才能のアンサンブルが見事なハーモニーを奏でてくれる。
全体の軸となる若葉竜也は最近飛ぶ鳥を落とす勢いだが、中盤から登場する城定イハ役の中田青渚が、インパクトのある名前と関西弁キャラクターで美味しいところを全部持ってゆく。
若葉竜也と成田凌は、「愛がなんだ」でも共演しているが、過去作との俳優陣のオーバーラップと役柄の遊び心は、作家のパラレルユニバース的な楽しみもある。
そして、本作はフィックスの長回しショットが非常に印象的。
中でも青がイハの家に招かれて、二人っきりのムッチャながーくてちょいドキドキする、恋バナのシーンは抜群の安定感で本作の白眉。
フィックスの長回しは、演出力の無い人が撮るととことん悲惨だが、これはむしろずっと眺めていたくなる不思議な魅力があふれている。
そんな長い夜が開けた後に起こる、路上で5人の男女の恋愛感情がそれぞれの思惑込みでぶつかりあう、爆笑シーンとのコントラスト。
絶妙な緩急の付け方が、ストーリーテリングのダイナミズムを生み出している。
小さな色の点は混じり合い、弾き合い、一つのユニークな風景となって、青の小さなセカイは、いつの間にか下北沢という”世界”の一部となっている。
いい意味で肩の力が抜けた、今泉監督の円熟を感じさせる傑作。
ところで城定秀夫監督が「じょうじょうひでお」だと、イハのおかげで知った。
失礼ながら、ずっと「しろさだ」だと思い込んでいた。
今回は、青の愛飲酒「レモンサワー」をチョイス。
まさに財布に優しい庶民のカクテルで、多種多様なうまい缶が発売されているが、配合なんかは結構個人の好みが出るもの。
ここでは我が家のレシピを。
氷にを入れたグラスに、冷やした甲種焼酎100ml、ペリエ250ml、レモンの絞り汁適量を注ぎ、軽くステアする。
炭酸水はお好みでいいが、ある程度強めのものがおすすめ。
最後に、1/4にカットしたレモンを飾って完成。
氷が溶けて薄まってきたら、レモンを絞るとある程度相殺できるので、大きめにしておく。
レモンに含まれるクエン酸が、肝機能を促進するおかげで悪酔しにくいのもあって、量的には人生で一番飲んでる酒かもしれない。

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2021年04月17日 (土) | 編集 |
“ブルー”は、不屈の色。
これはむっちゃ切なくて、優しい映画だ。
誰よりも熱心だが、試合では勝てない男と、才能豊かで強いけど、体に爆弾を抱えた男、そしてなんちゃってボクサーのつもりが、本気になってしまった男。
同じジムに所属する、それぞれに個性的な三人のボクサーの物語。
タイトルの「BLUE ブルー」は、ボクシングの試合では、ランキング下位の選手が常に“青コーナー”、つまり“挑戦者”であることに由来する。
ボクサー三人の群像劇というと「アンダードッグ」が記憶に新しいが、あれは三者三様の“終わらせ方”の物語だった。
対してこちらは、ボクシング人生の“どこ”に立っているのかはそれぞれ違うが、とことん“諦めのわるい男たち”を描く。
松山ケンイチが負け続きの瓜田信人を、東出昌大がチャンピオン街道をひた走る小川一樹を、柄本時生がなんちゃってからプロを目指す楢崎剛を演じる。
男臭い物語の中で、瓜田の幼馴染で小川の婚約者となる天野千佳に、紅一点の木村文乃。
中学生の頃から30年に渡ってジムに通い、多くのボクサーたちの生き様を目撃してきたという吉田恵輔監督は、本作では“殺陣指導”も兼務。
従来の発想にとらわれない、ボクシング映画の新たな傑作を作り出した。
プロボクサーの瓜田信人(松山ケンイチ)は、理論派で分析力には長けているが、どんなに努力しても試合では負け続き。
一方、同じジムの後輩でライバルの小川一樹(東出昌大)は、豊かな才能に恵まれ日本チャンピオンにも手が届くポジションまで駆け上がり、瓜田の幼馴染の天野千佳(木村文乃)との結婚を控えていた。
瓜田にとって、千佳はボクシングをはじめるきっかけとなった初恋の人。
栄光も愛も、全てを持っていかれても、瓜田はひたすら練習に打ち込む。
ジムには女性にモテたいがため“ボクシングをやってる風”を目指す、楢崎剛(柄本時生)が入門し、最初こそヘタレを隠そうとしなかったが、瓜田の的確な指導で確実に強くなってゆく。
やがて、小川の日本タイトルへの挑戦が決まり、瓜田と楢崎も前座試合に出ることになる。
ところが、小川にパンチドランカーの症状が現れ、日増しに悪化してゆくのだが・・・・
吉田監督の作品で、諦めのわるい人々を描いた作品というと「ばしゃ馬さんとビッグマウス」だ。
脚本家を志して十数年、必死に努力を重ねるものの、一向に売れない麻生久美子演じるばしゃ馬さんと、まだ一行も脚本を書いたことがないのに、誰に対しても偉そうな上から目線でダメ出しをする、安田章大の自称天才ダメ男のビッグマウスが、好コントラストを形作る。
水と油の二人だが、実はこの二人のキャラクターは、創作にかけた青春の始まりと終わりの姿。
自分は何でも出来る、何者にだってなれると、根拠無く思い込んでいる時期がビッグマウスで、どんなに努力しても、それが報われないこともあると、悟る時期に差し掛かっているのがばしゃ馬さん。
成功できるのは、ほんのひと握りの才能と幸運を兼ね備えた者のみの世界で、誰にでもいつかは大好きなことを続けるのか、やめるのかの決断の時がやって来る。
本作は、いわば「ばしゃ馬さんとビッグマウス」のボクシング版だ。
ボクシングには一応定年はあるが、それまでは自分で決めなければ終わりがない。
たとえ世界タイトルを取ったとしても、勝ち続けなかればチャンピオンではなくなってしまう。
これはボクシングに限ったことではないが、スポーツには見果てぬ夢であるという点で、創作と似た中毒性があるのかもしれない。
本作のキャラクターには、吉田監督が見てきた実際のモデルがいるという。
瓜田のモデルとなった人物は、映画と同じく日がな一日中ジムにいて、昼はダイエット目的の主婦にボクシングを教え、夜は自分の練習に打ち込む努力の人。
面倒見も良く、絵に描いたようないい人だったそうだが、ボクサーとしては芽が出ずに、万年四回戦ボーイのまま「2勝13敗」というある意味凄い記録を残して、最後の試合の翌日に誰にも告げずに突然ジムをやめてしまったそうだ。
彼が今何をしてるんだろう?という想いが、本作を執筆するきっかけとなったとか。
また瓜田と楢崎の対戦相手の元キックボクサー役を演じているのは、やはり監督のジム仲間で、ボクサーとしては開花することが出来なかった人だと言う。
この映画は、彼らのように懸命に努力しても夢を果たせなかった、無名のボクサーたちに手向けられたファンレターのような作品なのかも知れない。
このスタンスを作品として具現化するのが、ボクシング映画としては異色のアプローチ。
観客がこのジャンルの映画に期待するのは物語的、映像的なカタルシスである。
そのためには勝利が必要だ。
できればどん底からの復活劇ならば、なおのこと盛り上がるだろう。
リアリティを重視して、最終的に敗北させるとしても、それは判官贔屓の観客の感情移入を誘う、勝利に等しい敗北であるべきだ。
三幕の構造を生かし、第一幕で落ちぶれた主人公を、第二幕で葛藤と共に成長させ、第三幕のクライマックスで迫力満点の激闘を描く。
歴史的に名作の多いボクシング映画だが、殆どの作品はこういったお約束を背負ってきた。
ところが、本作は全く異なる視点からボクサーという人種を描く。
主人公のポジションにいる瓜田は、勝てないけど落ちぶれてはいない。
ライバルの小川は全てを手にしているように見えて、全てを失おうとしている。
楢崎に至っては、そもそもやる気がない。
作劇と編集もユニークだ。
中盤までは試合の描写がほとんどなく、代わりに練習とスパーリング。
劇中で何かが起こっても、その結論はスルー。
ドラマチックな脚本のセオリーは、三幕の構造の中に、いくつもの小さな三幕を盛り込んでゆくことだが、ここではニ幕までを繰り返すことによって、全ては途中、終わってないことが強調される。
試合のシークエンスも独特で、相手に呆気なくKOされたり、目蓋のカットで試合を止められたり、盛り上がる前に試合が終わってしまう。
ここでも、肝心の三幕目は描かれないのである。
だからこの映画には、多くのボクシング映画のような、試合そのものの描写には胸のすくカタルシスは無いかも知れない。
しかし、好演する俳優たちの肉体を含め、極めてリアリティを感じさせる三人の人生の物語があり、作られたドラマではなく、ホンモノを観たという深い満足感を得られる。
ボクサーとは元々複雑に矛盾した人々だ。
人は誰でも他人から殴られたくないだろうが、ボクサーは殴り殴られてなんぼ。
瓜田のように負け続けてもやめない人もいるし、小川のようにその後の人生と引き換えにしても続けたいという人もいる。
経済的報われるのは全体の1パーセントもいないだろうし、普通に考えればデメリットの方が多い仕事なのは確実なのに、なぜボクシングの魔力に魅せられた彼らの生き方はこれほど輝いて見えるのか。
これはボクシング映画ではなく、ボクサー人生の映画だ。
彼らの物語に、決着はまだついていない。
今プロのリングに立っていなかったとしても、心の中にリングがある限り、終わりは来ない。
だからこそ、ラストショットの瓜田の後ろ姿は、鳥肌が立つくらいカッコいいのである。
今回は、タイトルにちなんで佐藤酒造の青い日本酒「清藍」をチョイス。
透明な日本酒を、ハーブティーなどでも人気のバタフライピーで青く色付けしたもの。
バタフライピーそのものには味がないので、味はしっかりと日本酒。
レモンを絞ると、化学変化が起こって紫色に変化する色変も楽しめる。
香り豊かでスッキリしたお酒で、冷やして目と舌で涼んでもいいが、深みやコクはややもの足りないので、色を生かして日本酒カクテルのベースにするのがピッタリだ。
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これはむっちゃ切なくて、優しい映画だ。
誰よりも熱心だが、試合では勝てない男と、才能豊かで強いけど、体に爆弾を抱えた男、そしてなんちゃってボクサーのつもりが、本気になってしまった男。
同じジムに所属する、それぞれに個性的な三人のボクサーの物語。
タイトルの「BLUE ブルー」は、ボクシングの試合では、ランキング下位の選手が常に“青コーナー”、つまり“挑戦者”であることに由来する。
ボクサー三人の群像劇というと「アンダードッグ」が記憶に新しいが、あれは三者三様の“終わらせ方”の物語だった。
対してこちらは、ボクシング人生の“どこ”に立っているのかはそれぞれ違うが、とことん“諦めのわるい男たち”を描く。
松山ケンイチが負け続きの瓜田信人を、東出昌大がチャンピオン街道をひた走る小川一樹を、柄本時生がなんちゃってからプロを目指す楢崎剛を演じる。
男臭い物語の中で、瓜田の幼馴染で小川の婚約者となる天野千佳に、紅一点の木村文乃。
中学生の頃から30年に渡ってジムに通い、多くのボクサーたちの生き様を目撃してきたという吉田恵輔監督は、本作では“殺陣指導”も兼務。
従来の発想にとらわれない、ボクシング映画の新たな傑作を作り出した。
プロボクサーの瓜田信人(松山ケンイチ)は、理論派で分析力には長けているが、どんなに努力しても試合では負け続き。
一方、同じジムの後輩でライバルの小川一樹(東出昌大)は、豊かな才能に恵まれ日本チャンピオンにも手が届くポジションまで駆け上がり、瓜田の幼馴染の天野千佳(木村文乃)との結婚を控えていた。
瓜田にとって、千佳はボクシングをはじめるきっかけとなった初恋の人。
栄光も愛も、全てを持っていかれても、瓜田はひたすら練習に打ち込む。
ジムには女性にモテたいがため“ボクシングをやってる風”を目指す、楢崎剛(柄本時生)が入門し、最初こそヘタレを隠そうとしなかったが、瓜田の的確な指導で確実に強くなってゆく。
やがて、小川の日本タイトルへの挑戦が決まり、瓜田と楢崎も前座試合に出ることになる。
ところが、小川にパンチドランカーの症状が現れ、日増しに悪化してゆくのだが・・・・
吉田監督の作品で、諦めのわるい人々を描いた作品というと「ばしゃ馬さんとビッグマウス」だ。
脚本家を志して十数年、必死に努力を重ねるものの、一向に売れない麻生久美子演じるばしゃ馬さんと、まだ一行も脚本を書いたことがないのに、誰に対しても偉そうな上から目線でダメ出しをする、安田章大の自称天才ダメ男のビッグマウスが、好コントラストを形作る。
水と油の二人だが、実はこの二人のキャラクターは、創作にかけた青春の始まりと終わりの姿。
自分は何でも出来る、何者にだってなれると、根拠無く思い込んでいる時期がビッグマウスで、どんなに努力しても、それが報われないこともあると、悟る時期に差し掛かっているのがばしゃ馬さん。
成功できるのは、ほんのひと握りの才能と幸運を兼ね備えた者のみの世界で、誰にでもいつかは大好きなことを続けるのか、やめるのかの決断の時がやって来る。
本作は、いわば「ばしゃ馬さんとビッグマウス」のボクシング版だ。
ボクシングには一応定年はあるが、それまでは自分で決めなければ終わりがない。
たとえ世界タイトルを取ったとしても、勝ち続けなかればチャンピオンではなくなってしまう。
これはボクシングに限ったことではないが、スポーツには見果てぬ夢であるという点で、創作と似た中毒性があるのかもしれない。
本作のキャラクターには、吉田監督が見てきた実際のモデルがいるという。
瓜田のモデルとなった人物は、映画と同じく日がな一日中ジムにいて、昼はダイエット目的の主婦にボクシングを教え、夜は自分の練習に打ち込む努力の人。
面倒見も良く、絵に描いたようないい人だったそうだが、ボクサーとしては芽が出ずに、万年四回戦ボーイのまま「2勝13敗」というある意味凄い記録を残して、最後の試合の翌日に誰にも告げずに突然ジムをやめてしまったそうだ。
彼が今何をしてるんだろう?という想いが、本作を執筆するきっかけとなったとか。
また瓜田と楢崎の対戦相手の元キックボクサー役を演じているのは、やはり監督のジム仲間で、ボクサーとしては開花することが出来なかった人だと言う。
この映画は、彼らのように懸命に努力しても夢を果たせなかった、無名のボクサーたちに手向けられたファンレターのような作品なのかも知れない。
このスタンスを作品として具現化するのが、ボクシング映画としては異色のアプローチ。
観客がこのジャンルの映画に期待するのは物語的、映像的なカタルシスである。
そのためには勝利が必要だ。
できればどん底からの復活劇ならば、なおのこと盛り上がるだろう。
リアリティを重視して、最終的に敗北させるとしても、それは判官贔屓の観客の感情移入を誘う、勝利に等しい敗北であるべきだ。
三幕の構造を生かし、第一幕で落ちぶれた主人公を、第二幕で葛藤と共に成長させ、第三幕のクライマックスで迫力満点の激闘を描く。
歴史的に名作の多いボクシング映画だが、殆どの作品はこういったお約束を背負ってきた。
ところが、本作は全く異なる視点からボクサーという人種を描く。
主人公のポジションにいる瓜田は、勝てないけど落ちぶれてはいない。
ライバルの小川は全てを手にしているように見えて、全てを失おうとしている。
楢崎に至っては、そもそもやる気がない。
作劇と編集もユニークだ。
中盤までは試合の描写がほとんどなく、代わりに練習とスパーリング。
劇中で何かが起こっても、その結論はスルー。
ドラマチックな脚本のセオリーは、三幕の構造の中に、いくつもの小さな三幕を盛り込んでゆくことだが、ここではニ幕までを繰り返すことによって、全ては途中、終わってないことが強調される。
試合のシークエンスも独特で、相手に呆気なくKOされたり、目蓋のカットで試合を止められたり、盛り上がる前に試合が終わってしまう。
ここでも、肝心の三幕目は描かれないのである。
だからこの映画には、多くのボクシング映画のような、試合そのものの描写には胸のすくカタルシスは無いかも知れない。
しかし、好演する俳優たちの肉体を含め、極めてリアリティを感じさせる三人の人生の物語があり、作られたドラマではなく、ホンモノを観たという深い満足感を得られる。
ボクサーとは元々複雑に矛盾した人々だ。
人は誰でも他人から殴られたくないだろうが、ボクサーは殴り殴られてなんぼ。
瓜田のように負け続けてもやめない人もいるし、小川のようにその後の人生と引き換えにしても続けたいという人もいる。
経済的報われるのは全体の1パーセントもいないだろうし、普通に考えればデメリットの方が多い仕事なのは確実なのに、なぜボクシングの魔力に魅せられた彼らの生き方はこれほど輝いて見えるのか。
これはボクシング映画ではなく、ボクサー人生の映画だ。
彼らの物語に、決着はまだついていない。
今プロのリングに立っていなかったとしても、心の中にリングがある限り、終わりは来ない。
だからこそ、ラストショットの瓜田の後ろ姿は、鳥肌が立つくらいカッコいいのである。
今回は、タイトルにちなんで佐藤酒造の青い日本酒「清藍」をチョイス。
透明な日本酒を、ハーブティーなどでも人気のバタフライピーで青く色付けしたもの。
バタフライピーそのものには味がないので、味はしっかりと日本酒。
レモンを絞ると、化学変化が起こって紫色に変化する色変も楽しめる。
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2021年04月13日 (火) | 編集 |
永遠のバケーションは、幸せ?
妹の結婚式のため、ロサンゼルス近郊のリゾート「パーム・スプリングス」に滞在中のクリスティン・ミリオティ演じるサラが、式のスピーチを肩代わりした出席者のナイルズと共に、砂漠に出現した不思議な洞窟に入った結果、結婚式の1日を延々と繰り返す時間ループに閉じ込められる。
しかもアダム・サムバーグ演じるナイルズは、前の仕事を思い出せないくらいずっと前から、ループにいると告白。
閉じ込められた理由は不明で、一度洞窟に入ると、もう逃れられない。
パーム・スプリングスからどんなに離れても無駄。
たとえ死んでも、必ず結婚式の朝に戻ってしまう。
古今東西、時間ループものSFは数多いが、本作は切り口がユニークだ。
このジャンルの作品では、主人公は大抵の場合ループ内で困難な状況に置かれている。
例えば「オール・ユー・ニード・イズ・キル」では、宇宙人との戦争の真っ最中で、ちょっとでも油断すると戦死してしまう。
「ハッピー・デス・デイ」では、主人公は謎の殺人鬼に殺される毎日を繰り返す。
ループから脱出しようとする主人公は、同じことを何度も体験する中で学習し、だんだんと状況に適応できるようになって、”反撃”を開始するのがお約束。
ところがこの作品の場合、ループが作られているのは平和なリゾートの1日なので、特に何も起こらない。
ただ一点、ナイルズがサラの前にループに誘ったロイという老人に逆恨みされ、何度も殺されそうになるのだが、死んでもリセットされるから嫌がらせにしかならない程度。
ロイは普段100マイルほど離れたパサデナに住んでいて、たまに気が向いた時に復讐しにくるだけなので、結婚式の出席者の中では同じ時間を生きているのは二人だけ。
サラとナイルズは、いわば“永遠のバケーション”に閉じ込められてしまったのである。
同じ1日の繰り返しでも、ちょっとずつ変化をつけて自分の居心地のいい時間にすることは可能。
ナイルズはループから抜け出すことをとっくに諦めていて、一日ごとにデイテールを変えてこのシチュエーションを楽しんでいる。
彼をつけ狙っていたロイも、自分の子供たちと過ごす時間の方が楽しいと、パサデナから出てこなくなる。
サラも最初のうちはリゾートの毎日を楽しもうとしてみるが、結局何をやってもリセットされてしまう状況に閉塞感を感じ始める。
繰り返すだけの意味の無い人生を、ぬるま湯の楽園として甘んじて受け入れるか、それとも知恵と工夫でループから脱出することを目指すのか。
人生うまくいかない時は、前に進んでいるつもりでも、実は同じところをぐるぐる巡っている場合がある。
これはそんな状況を、SF設定に落とし込んだ生き方に関する寓話なのだ。
諦めの早い男たちに対して、サラにはこのループが心地よくない理由がある。
妹が晴れの日を迎えた反面、サラは結婚に失敗し、自分を家族の問題児だと思っている。
そしてそんな鬱屈とした心からか、ある背徳的な行為をやらかしてしまい、毎朝目覚めるごとに自責の念に苛まれる。
彼女にとって、ループは罰であり、脱出することでしか救われないのである。
これは、ぬるま湯のループにつかり、人生の意味を失ってしまう男と、罪のループに閉じ込められてしまったやらかし女の、それぞれの成長物語にもなっているのだ。
展開は先を読ませず、主人公二人の掛け合いはウィットに富む。
お金はかかってなさそうだが、後味は爽やか。
時間ループもののお手本のような、SFロマンチックコメディの秀作だ。
本作は、結婚式が舞台で、砂漠の中の青いプールが印象的。
ということで、今回はフランスの青いスパークリングワイン「ラ・ヴァーグ・ブルー」をチョイス。
青は聖母マリアのシンボルカラーで、結婚式のパーティでよく供される。
ソーヴィニヨン・ブランがベースで、やや辛口。
アペリティフとしてももちろん、料理に合わせてもいい。
何よりも透明感のある美しいブルーは、見るだけでリゾート気分にさせてくれる。
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妹の結婚式のため、ロサンゼルス近郊のリゾート「パーム・スプリングス」に滞在中のクリスティン・ミリオティ演じるサラが、式のスピーチを肩代わりした出席者のナイルズと共に、砂漠に出現した不思議な洞窟に入った結果、結婚式の1日を延々と繰り返す時間ループに閉じ込められる。
しかもアダム・サムバーグ演じるナイルズは、前の仕事を思い出せないくらいずっと前から、ループにいると告白。
閉じ込められた理由は不明で、一度洞窟に入ると、もう逃れられない。
パーム・スプリングスからどんなに離れても無駄。
たとえ死んでも、必ず結婚式の朝に戻ってしまう。
古今東西、時間ループものSFは数多いが、本作は切り口がユニークだ。
このジャンルの作品では、主人公は大抵の場合ループ内で困難な状況に置かれている。
例えば「オール・ユー・ニード・イズ・キル」では、宇宙人との戦争の真っ最中で、ちょっとでも油断すると戦死してしまう。
「ハッピー・デス・デイ」では、主人公は謎の殺人鬼に殺される毎日を繰り返す。
ループから脱出しようとする主人公は、同じことを何度も体験する中で学習し、だんだんと状況に適応できるようになって、”反撃”を開始するのがお約束。
ところがこの作品の場合、ループが作られているのは平和なリゾートの1日なので、特に何も起こらない。
ただ一点、ナイルズがサラの前にループに誘ったロイという老人に逆恨みされ、何度も殺されそうになるのだが、死んでもリセットされるから嫌がらせにしかならない程度。
ロイは普段100マイルほど離れたパサデナに住んでいて、たまに気が向いた時に復讐しにくるだけなので、結婚式の出席者の中では同じ時間を生きているのは二人だけ。
サラとナイルズは、いわば“永遠のバケーション”に閉じ込められてしまったのである。
同じ1日の繰り返しでも、ちょっとずつ変化をつけて自分の居心地のいい時間にすることは可能。
ナイルズはループから抜け出すことをとっくに諦めていて、一日ごとにデイテールを変えてこのシチュエーションを楽しんでいる。
彼をつけ狙っていたロイも、自分の子供たちと過ごす時間の方が楽しいと、パサデナから出てこなくなる。
サラも最初のうちはリゾートの毎日を楽しもうとしてみるが、結局何をやってもリセットされてしまう状況に閉塞感を感じ始める。
繰り返すだけの意味の無い人生を、ぬるま湯の楽園として甘んじて受け入れるか、それとも知恵と工夫でループから脱出することを目指すのか。
人生うまくいかない時は、前に進んでいるつもりでも、実は同じところをぐるぐる巡っている場合がある。
これはそんな状況を、SF設定に落とし込んだ生き方に関する寓話なのだ。
諦めの早い男たちに対して、サラにはこのループが心地よくない理由がある。
妹が晴れの日を迎えた反面、サラは結婚に失敗し、自分を家族の問題児だと思っている。
そしてそんな鬱屈とした心からか、ある背徳的な行為をやらかしてしまい、毎朝目覚めるごとに自責の念に苛まれる。
彼女にとって、ループは罰であり、脱出することでしか救われないのである。
これは、ぬるま湯のループにつかり、人生の意味を失ってしまう男と、罪のループに閉じ込められてしまったやらかし女の、それぞれの成長物語にもなっているのだ。
展開は先を読ませず、主人公二人の掛け合いはウィットに富む。
お金はかかってなさそうだが、後味は爽やか。
時間ループもののお手本のような、SFロマンチックコメディの秀作だ。
本作は、結婚式が舞台で、砂漠の中の青いプールが印象的。
ということで、今回はフランスの青いスパークリングワイン「ラ・ヴァーグ・ブルー」をチョイス。
青は聖母マリアのシンボルカラーで、結婚式のパーティでよく供される。
ソーヴィニヨン・ブランがベースで、やや辛口。
アペリティフとしてももちろん、料理に合わせてもいい。
何よりも透明感のある美しいブルーは、見るだけでリゾート気分にさせてくれる。

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2021年04月08日 (木) | 編集 |
ヒーローは決して負けない。
竹宮ゆゆこの同名小説を、SABU監督が映画化した作品。
トリッキーな作劇で、「えっ、まさか?」というところに着地するが、とても良かった。
中川大志演じる高校3年生の濱田清澄は、ひょんなことから、同級生たちから激しいいじめにあっている1年生の蔵本玻璃と知り合う。
強い正義感を持つ清澄は玻璃のことを放っておけなくなり、頑なに他人を拒んでいた玻璃も、清澄に対して徐々に心を開いてゆく。
映画の前半は、石井杏奈が演じる玻璃のキャラクターがちょっと痛々しいものの、いじめられっ子の少女を、正義漢の少年がその優しさで救ってゆくという、どこにでもありそうなの学園青春ものだ。
ところが、物語の中盤から映画はその装いを大きく変えてくる。
玻璃が心を閉ざしていたのには、実は家族にまつわる誰にも言えない秘密があったがゆえ。
予想だにしなかったその秘密に触れてしまったことで、清澄と玻璃は絶体絶命の危機に陥る。
冒頭の嵐の意味づけがよく分からなかったので、主人公たちと絡まないままの、北村匠海と原田知世の立ち位置がずっと疑問だったのだが、なるほどこれは狙い。
「UFOを撃ち落とした結果、死んだのは何人?」
終わってみると、このファーストカットの問いに全ての答えがあるので、注目してみて欲しい。
後半になって物語の全貌が見えてくると、いよいよそれまで巧妙に隠れていた“UFO”の攻撃がはじまり、清澄と玻璃はお互いを生き残らせるために、ヒーローとして究極の戦いをはじめる。
清澄少年の語る、ヒーローの三原則。
ヒーローは悪の敵を身逃さない。
ヒーローは自分のためには戦わない。
ヒーローは決して負けない。
つまりヒーローとは、自分でない誰かを傷付けようとする悪を見逃さず、決して悪に負けてはならないのである。
その必死の心を、私たちは“愛”と呼ぶ。
これは”愛”と”永遠“に関する寓話で、魅力を言語化するのが非常に難しい作品だ。
愛によって生かされた者は、その愛を引継ぎ、また別の誰かに愛を注ぐことで、例え肉体が滅んだとしても精神は永遠に生き続ける。
SABU監督と言えば疾走する映画で知られるが、本作では一応清澄が走る描写はあるものの、映画そのものは決して勢いで押し流すスタイルではない。
むしろトリッキーな作劇に隠して、キャラクターの心情を丁寧に描いているのが印象に残るが、彼らの内面では愛の激流が流れている。
いかにも一本気な中川大志と、捨てられた子猫のような石橋杏奈は、それぞれ運命の恋人たちを好演。
堤真一の不気味さ、コミックリリーフ気味の松井愛莉と清原果耶の尾崎姉妹コントラスト。
そして物語の結果として、北村匠海と原田知世の決意を秘めたキャラクター。
さすが役者出身の監督らしく、俳優を生かすのが実に上手い。
普通の学園ものとは、一味も二味も違った刺激的な青春活劇だ。
しかし、私的には大好物な作品だったんだが、相当にクセが強いから、これをハッピーエンドと捉えるかどうかを含めて、お客さんを選びそうではある。
今回は、毒のある甘い青春映画なので「スウィート・ポイズン」をチョイス。
ライト・ラム30ml、ココナッツ・ラム60ml、ブルー・キュラソーを氷と共にシェイクし、冷やしたグラスに注ぎ、適量のパイナップル・ジュースで満たし、最後にカットしたパイナップルを飾る。
ゴシック小説の世界を再現していることで知られる、ニューヨークのテーマレストラン、“Jekyll and Hyde Club”の人気カクテル。
色合いは名前の通り毒々しいが、味わいは甘めでスッキリとした初恋の味。
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竹宮ゆゆこの同名小説を、SABU監督が映画化した作品。
トリッキーな作劇で、「えっ、まさか?」というところに着地するが、とても良かった。
中川大志演じる高校3年生の濱田清澄は、ひょんなことから、同級生たちから激しいいじめにあっている1年生の蔵本玻璃と知り合う。
強い正義感を持つ清澄は玻璃のことを放っておけなくなり、頑なに他人を拒んでいた玻璃も、清澄に対して徐々に心を開いてゆく。
映画の前半は、石井杏奈が演じる玻璃のキャラクターがちょっと痛々しいものの、いじめられっ子の少女を、正義漢の少年がその優しさで救ってゆくという、どこにでもありそうなの学園青春ものだ。
ところが、物語の中盤から映画はその装いを大きく変えてくる。
玻璃が心を閉ざしていたのには、実は家族にまつわる誰にも言えない秘密があったがゆえ。
予想だにしなかったその秘密に触れてしまったことで、清澄と玻璃は絶体絶命の危機に陥る。
冒頭の嵐の意味づけがよく分からなかったので、主人公たちと絡まないままの、北村匠海と原田知世の立ち位置がずっと疑問だったのだが、なるほどこれは狙い。
「UFOを撃ち落とした結果、死んだのは何人?」
終わってみると、このファーストカットの問いに全ての答えがあるので、注目してみて欲しい。
後半になって物語の全貌が見えてくると、いよいよそれまで巧妙に隠れていた“UFO”の攻撃がはじまり、清澄と玻璃はお互いを生き残らせるために、ヒーローとして究極の戦いをはじめる。
清澄少年の語る、ヒーローの三原則。
ヒーローは悪の敵を身逃さない。
ヒーローは自分のためには戦わない。
ヒーローは決して負けない。
つまりヒーローとは、自分でない誰かを傷付けようとする悪を見逃さず、決して悪に負けてはならないのである。
その必死の心を、私たちは“愛”と呼ぶ。
これは”愛”と”永遠“に関する寓話で、魅力を言語化するのが非常に難しい作品だ。
愛によって生かされた者は、その愛を引継ぎ、また別の誰かに愛を注ぐことで、例え肉体が滅んだとしても精神は永遠に生き続ける。
SABU監督と言えば疾走する映画で知られるが、本作では一応清澄が走る描写はあるものの、映画そのものは決して勢いで押し流すスタイルではない。
むしろトリッキーな作劇に隠して、キャラクターの心情を丁寧に描いているのが印象に残るが、彼らの内面では愛の激流が流れている。
いかにも一本気な中川大志と、捨てられた子猫のような石橋杏奈は、それぞれ運命の恋人たちを好演。
堤真一の不気味さ、コミックリリーフ気味の松井愛莉と清原果耶の尾崎姉妹コントラスト。
そして物語の結果として、北村匠海と原田知世の決意を秘めたキャラクター。
さすが役者出身の監督らしく、俳優を生かすのが実に上手い。
普通の学園ものとは、一味も二味も違った刺激的な青春活劇だ。
しかし、私的には大好物な作品だったんだが、相当にクセが強いから、これをハッピーエンドと捉えるかどうかを含めて、お客さんを選びそうではある。
今回は、毒のある甘い青春映画なので「スウィート・ポイズン」をチョイス。
ライト・ラム30ml、ココナッツ・ラム60ml、ブルー・キュラソーを氷と共にシェイクし、冷やしたグラスに注ぎ、適量のパイナップル・ジュースで満たし、最後にカットしたパイナップルを飾る。
ゴシック小説の世界を再現していることで知られる、ニューヨークのテーマレストラン、“Jekyll and Hyde Club”の人気カクテル。
色合いは名前の通り毒々しいが、味わいは甘めでスッキリとした初恋の味。

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2021年04月05日 (月) | 編集 |
人類を救うのは”ガラクタ”!
これは凄い。
“超大作”と形容したくなるスケール感を持つ、ストップモーションアニメーションの大労作。
地球環境の悪化で、人類は地下の開発を計画し、そのための労働力として人工生命体“マリガン”を創造する。
しかし、自我に目覚めたマリガンが反乱を起こし、地下の世界を乗っ取られてしまう。
そして地球が地上に暮らす人類と、地下に暮らすマリガンの世界に別れてから1600年が経った未来。
人間は生身の肉体を捨て、”意識の器”とすることで永遠の命を得るが、生殖能力を失い絶滅の危機に瀕している。
そこで嘗て自らが創造した、マリガンの生殖能力を研究しようと、一人の調査員を未知なる地下への冒険に送り込む。
一つの世界を、ここまで徹底的に作り込んだ作品は久々に観た。
これがデビュー作となる堀貴秀監督が、7年をかけてゼロから全てを作り上げた、驚くべき没入感を持つ傑作である。
地球が人類の住む地上と、マリガンの住む地下に別れ、往来が途切れてから1600年後。
人類は遺伝子操作の結果その頭部だけを保存し、機械の体を得ることで永遠の生命を持ったが、代償として生物としての生殖能力を失った。
ところがある時、謎のウィルスが蔓延し、人口の30%が失われる
崖っぷちに追い込まれた人類は、地下世界で大量繁殖し独自に進化していたマリガンの生殖能力を調べるために、地下調査員を募集。
ダンス講師のパートンは、生徒が激減してしまったために、講師を廃業して調査員に応募。
宇宙服のような厳重なボディを纏って、地下世界への降下を始める。
ところが、そんなパートンの乗ったカプセルは、マリガンのハンターに目撃され、正体不明の物体としてミサイルで撃破されてしまう。
バラバラになり、命を落としそうになったパートンの頭部は、別のハンターの三バカ兄弟たちが発見し、ルーチー博士の工房に持ち込まれる。
不格好なサイボーグのボディを与えられ、蘇ったパートンは自分が何をしに地下へ来たのか、記憶を失ってしまっていた・・・・
主人公のパートンが、冒険とは全く関係ないダンス講師という設定が面白い。
しかし地下への降下中、「なんか落ちてきたから、とりあえず撃っとけ」とマリガンから攻撃され、体がバラバラになってしまう。
とは言っても、この時代の人間に残っている生身の部分は、意識の器となっている頭部だけ。
頭だけを適当な体に繋げれば再生できるので、頭を拾ったマリガンのルーチー博士によって、ダサいサイボーグの体を与えられる。
この“頭だけ”がポイントで、途中何度かぶっ壊れたり、記憶を失ったりしながら、どんどんボロくなってゆく“ガラクタの頭(JUNK HEAD)”こそが主人公なのだ。
もはや器だけとなった人類は、生きていても本当の意味では生きてない。
それは主人公も同じで、ダンス講師であるパートンは、バーチャルな意識の中で生徒と踊っているが、実際に肉体(サイボーグの体)を使って対面したことは一度もない。
無気力な人生に飽きて、地下への探検に志願した彼は、命あふれる弱肉強食のマリガンの世界で、本当の“死”に直面したことで、初めて“生”を意識するのである。
奇妙キテレツな世界観の作り込みが凄まじく、まるで自分が地下の世界を訪れた来訪者になった気分。
人類との交流が途絶えたマリガンは独自の進化を遂げているが、一応人類のことは自分たちを創造した“神さま”としてリスペクトしているようだ。
全体的な雰囲気は、シュヴァンクマイエルなどの東欧系ストップモーション作品を思わせるが、H・R・ギーガーっぽい「エイリアン」ライクなクリーチャーデザインや、監督が「初恋の人のような映画」と語る「不思議惑星キン・ザ・ザ」や「ヘルレイザー」など、作者の映画的記憶が複雑に絡み合ったカオスの世界。
何十層もの地下世界は、途中主人公が拾われる巨大バブルの村の様なスチームパンク調の階層もあれば、危険な生物が徘徊する廃墟のような階層や、何のために存在するのか分からない、やたらとだだっ広い空間もある。
次々と新しいステージが開き、未知なる生態系に驚愕する。
作中に明確な説明はないものの、どうやら地下世界の生き物は全てマリガンの亜種らしい。
人工の生物であるマリガンは、遺伝子が不安定で、様々な形に進化するという。
ある者は人形に、ある者は虫のような形になり、ある者は巨大な捕食者となる。
人形のマリガンにも頻繁に奇形が発生するが、異形の者は差別を受けているという細かな設定が、世界観を深化させている。
バブル村の筋骨隆々とした女たちと、完全に尻にひかれている男たちには、ちょっと宮崎駿的な味わいもある。
未見性の塊の様な作品で、次はどんな画を見せてくれるの?という世界観とキャラクターへの期待だけでも十分に持つ。
この大怪作を世に出し、監督・原案・キャラクターデザイン・編集・撮影・照明・音楽・絵コンテ・造形・アニメーター・効果音・VFX・声優と作品制作のほぼ全てを担当し、文字通りの生みの親である堀貴秀は、プロの映像クリエイターではなかったというのだから驚きだ。
本職は内装業で、仕事に使っている倉庫に1/6スケールのセットを組み、最初は30分の短編版を一人で作って2014年に発表。
その後出資を受けてスタッフを募集すると、長編化した本作を2017年に完成させた。
もともと絵を描いていたというから、構図感覚とか芸術的素養はもちろんあったのだろうが、全編に渡って決め込まれたビジュアルを、ネットで調べながら作ったというのだからまぎれもない天才だ。
その制作経緯のせいか、例えば近年のライカ作品でお馴染みの、3Dプリンターを使ったパペトゥーン手法の表情変化など最新の技術は導入されておらず、伝統的なザ・ストップモーション。
キャラクターデザインで特徴的なのが、サイボーグの主人公を筆頭に、キャラクターの表情、特に目の変化が読み取れないこと。
「目は口ほどに物を言う」という言葉もあるが、アニメーションキャラクターでは目の演技が果たす役割が非常に大きい。
だから例えば「攻殻機動隊」のバトーの様な目にしてしまうと、”何を考えているのか分からない”キャラクターになる。
ところが、本作ではあえて目による表現を封じたとこで、逆に登場人物の感情変化を想像させる余地が生まれているのが面白い。
キャラクターのとぼけた仕草にも味があり、クスッとした笑いがあちこちに散りばめられているのもいい。
表情は読めなくても、喜怒哀楽の全てが見えてくるのだ。
それぞれの階層に暮らすマリガンの個性も見所で、主人公を守る三バカ兄弟のユーモラスな体型を、終盤ギャップとして使ってくるのは上手い。
まさか、アイツらに泣かされるとは思ってなかったよ。
堀監督によると、本作ははじめから三部作とする構想だという。
実際、この映画は旅の目的地が明らかになり、パートンの旅の仲間(3人だけだけど)が結成されるところで終わっている。
単体作品として考えると、作劇にも難がある。
矢継ぎ早に事件が起こり、現状では主人公の変化も最小限なので、テーマ的にもまだまだ描き足りていない。
しかし、この稀有な世界観を持つ壮大なストーリーを、クオリティを維持したまま完結させることが出来たら、ストップモーション世界の「ロード・オブ・ザ・リング」ならぬ、アニメーション映画史に残る本物の神話となる可能性がある。
すでに第二部のプリプロには入っているそうだが、ぜひ三部作を完遂して欲しい。
ガラクタパートンの冒険の続きを、楽しみに待ちたい。
日本のクラフトマンシップを感じさせるこの映画には、サントリー「響 ブレンダーズチョイス」をチョイス。
近年やたらと高くなってしまったジャパニーズ・ウィスキーだが、これはまだリーズナブル。
様々な樽で熟成された幅広い酒齢の原酒を丁寧にブレンド。
上品な甘みと、柔らかなコクを楽しめる。
ウィスキーは年を重ねることで味に深みが出てくるが、果たして第二部はいつ見られるのかな。
本作の制作期間は7年だが、こればっかりはあんまり“熟成”をして欲しくはないな(笑
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これは凄い。
“超大作”と形容したくなるスケール感を持つ、ストップモーションアニメーションの大労作。
地球環境の悪化で、人類は地下の開発を計画し、そのための労働力として人工生命体“マリガン”を創造する。
しかし、自我に目覚めたマリガンが反乱を起こし、地下の世界を乗っ取られてしまう。
そして地球が地上に暮らす人類と、地下に暮らすマリガンの世界に別れてから1600年が経った未来。
人間は生身の肉体を捨て、”意識の器”とすることで永遠の命を得るが、生殖能力を失い絶滅の危機に瀕している。
そこで嘗て自らが創造した、マリガンの生殖能力を研究しようと、一人の調査員を未知なる地下への冒険に送り込む。
一つの世界を、ここまで徹底的に作り込んだ作品は久々に観た。
これがデビュー作となる堀貴秀監督が、7年をかけてゼロから全てを作り上げた、驚くべき没入感を持つ傑作である。
地球が人類の住む地上と、マリガンの住む地下に別れ、往来が途切れてから1600年後。
人類は遺伝子操作の結果その頭部だけを保存し、機械の体を得ることで永遠の生命を持ったが、代償として生物としての生殖能力を失った。
ところがある時、謎のウィルスが蔓延し、人口の30%が失われる
崖っぷちに追い込まれた人類は、地下世界で大量繁殖し独自に進化していたマリガンの生殖能力を調べるために、地下調査員を募集。
ダンス講師のパートンは、生徒が激減してしまったために、講師を廃業して調査員に応募。
宇宙服のような厳重なボディを纏って、地下世界への降下を始める。
ところが、そんなパートンの乗ったカプセルは、マリガンのハンターに目撃され、正体不明の物体としてミサイルで撃破されてしまう。
バラバラになり、命を落としそうになったパートンの頭部は、別のハンターの三バカ兄弟たちが発見し、ルーチー博士の工房に持ち込まれる。
不格好なサイボーグのボディを与えられ、蘇ったパートンは自分が何をしに地下へ来たのか、記憶を失ってしまっていた・・・・
主人公のパートンが、冒険とは全く関係ないダンス講師という設定が面白い。
しかし地下への降下中、「なんか落ちてきたから、とりあえず撃っとけ」とマリガンから攻撃され、体がバラバラになってしまう。
とは言っても、この時代の人間に残っている生身の部分は、意識の器となっている頭部だけ。
頭だけを適当な体に繋げれば再生できるので、頭を拾ったマリガンのルーチー博士によって、ダサいサイボーグの体を与えられる。
この“頭だけ”がポイントで、途中何度かぶっ壊れたり、記憶を失ったりしながら、どんどんボロくなってゆく“ガラクタの頭(JUNK HEAD)”こそが主人公なのだ。
もはや器だけとなった人類は、生きていても本当の意味では生きてない。
それは主人公も同じで、ダンス講師であるパートンは、バーチャルな意識の中で生徒と踊っているが、実際に肉体(サイボーグの体)を使って対面したことは一度もない。
無気力な人生に飽きて、地下への探検に志願した彼は、命あふれる弱肉強食のマリガンの世界で、本当の“死”に直面したことで、初めて“生”を意識するのである。
奇妙キテレツな世界観の作り込みが凄まじく、まるで自分が地下の世界を訪れた来訪者になった気分。
人類との交流が途絶えたマリガンは独自の進化を遂げているが、一応人類のことは自分たちを創造した“神さま”としてリスペクトしているようだ。
全体的な雰囲気は、シュヴァンクマイエルなどの東欧系ストップモーション作品を思わせるが、H・R・ギーガーっぽい「エイリアン」ライクなクリーチャーデザインや、監督が「初恋の人のような映画」と語る「不思議惑星キン・ザ・ザ」や「ヘルレイザー」など、作者の映画的記憶が複雑に絡み合ったカオスの世界。
何十層もの地下世界は、途中主人公が拾われる巨大バブルの村の様なスチームパンク調の階層もあれば、危険な生物が徘徊する廃墟のような階層や、何のために存在するのか分からない、やたらとだだっ広い空間もある。
次々と新しいステージが開き、未知なる生態系に驚愕する。
作中に明確な説明はないものの、どうやら地下世界の生き物は全てマリガンの亜種らしい。
人工の生物であるマリガンは、遺伝子が不安定で、様々な形に進化するという。
ある者は人形に、ある者は虫のような形になり、ある者は巨大な捕食者となる。
人形のマリガンにも頻繁に奇形が発生するが、異形の者は差別を受けているという細かな設定が、世界観を深化させている。
バブル村の筋骨隆々とした女たちと、完全に尻にひかれている男たちには、ちょっと宮崎駿的な味わいもある。
未見性の塊の様な作品で、次はどんな画を見せてくれるの?という世界観とキャラクターへの期待だけでも十分に持つ。
この大怪作を世に出し、監督・原案・キャラクターデザイン・編集・撮影・照明・音楽・絵コンテ・造形・アニメーター・効果音・VFX・声優と作品制作のほぼ全てを担当し、文字通りの生みの親である堀貴秀は、プロの映像クリエイターではなかったというのだから驚きだ。
本職は内装業で、仕事に使っている倉庫に1/6スケールのセットを組み、最初は30分の短編版を一人で作って2014年に発表。
その後出資を受けてスタッフを募集すると、長編化した本作を2017年に完成させた。
もともと絵を描いていたというから、構図感覚とか芸術的素養はもちろんあったのだろうが、全編に渡って決め込まれたビジュアルを、ネットで調べながら作ったというのだからまぎれもない天才だ。
その制作経緯のせいか、例えば近年のライカ作品でお馴染みの、3Dプリンターを使ったパペトゥーン手法の表情変化など最新の技術は導入されておらず、伝統的なザ・ストップモーション。
キャラクターデザインで特徴的なのが、サイボーグの主人公を筆頭に、キャラクターの表情、特に目の変化が読み取れないこと。
「目は口ほどに物を言う」という言葉もあるが、アニメーションキャラクターでは目の演技が果たす役割が非常に大きい。
だから例えば「攻殻機動隊」のバトーの様な目にしてしまうと、”何を考えているのか分からない”キャラクターになる。
ところが、本作ではあえて目による表現を封じたとこで、逆に登場人物の感情変化を想像させる余地が生まれているのが面白い。
キャラクターのとぼけた仕草にも味があり、クスッとした笑いがあちこちに散りばめられているのもいい。
表情は読めなくても、喜怒哀楽の全てが見えてくるのだ。
それぞれの階層に暮らすマリガンの個性も見所で、主人公を守る三バカ兄弟のユーモラスな体型を、終盤ギャップとして使ってくるのは上手い。
まさか、アイツらに泣かされるとは思ってなかったよ。
堀監督によると、本作ははじめから三部作とする構想だという。
実際、この映画は旅の目的地が明らかになり、パートンの旅の仲間(3人だけだけど)が結成されるところで終わっている。
単体作品として考えると、作劇にも難がある。
矢継ぎ早に事件が起こり、現状では主人公の変化も最小限なので、テーマ的にもまだまだ描き足りていない。
しかし、この稀有な世界観を持つ壮大なストーリーを、クオリティを維持したまま完結させることが出来たら、ストップモーション世界の「ロード・オブ・ザ・リング」ならぬ、アニメーション映画史に残る本物の神話となる可能性がある。
すでに第二部のプリプロには入っているそうだが、ぜひ三部作を完遂して欲しい。
ガラクタパートンの冒険の続きを、楽しみに待ちたい。
日本のクラフトマンシップを感じさせるこの映画には、サントリー「響 ブレンダーズチョイス」をチョイス。
近年やたらと高くなってしまったジャパニーズ・ウィスキーだが、これはまだリーズナブル。
様々な樽で熟成された幅広い酒齢の原酒を丁寧にブレンド。
上品な甘みと、柔らかなコクを楽しめる。
ウィスキーは年を重ねることで味に深みが出てくるが、果たして第二部はいつ見られるのかな。
本作の制作期間は7年だが、こればっかりはあんまり“熟成”をして欲しくはないな(笑

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2021年04月01日 (木) | 編集 |
「さようなら」は、言わない。
車に生活に必要な全てを積み込み、大陸を放浪して暮らす現代の「ノマド(遊牧民)」たち。
彼らの生き様を綴ったジェシカ・ブルーダーのノンフィクションを、「スリー・ビルボード」のフランシス・マクドーマンドが、プロデュース・主演を兼ねて映画化した作品。
監督・脚本を務めたのは、2017年に発表した「ザ・ライダー」で注目を集めた、中国出身の新鋭クロエ・ジャオ。
劇映画でありながら、ドキュメンタリー的な手法を取り込んだ、独特のストーリーテリングのスタイルが新しい。
不況で家を失い、手製のキャンピングカーに荷物を詰め込んで旅に出た未亡人が、各地で一期一会を繰り返しながら、日々を懸命に生きてゆく姿を味わい深く描いている。
第77回ベネチア国際映画祭で、最高賞の金獅子賞、第78回ゴールデングローブ賞でも作品賞、監督賞を受賞し、今年の賞レースの先頭を走る話題作だ。
リーマンショックがもたらした、不況の影響が色濃く残る2011年。
住んでいた町「エンパイア」が、所有する企業によって閉鎖されたことで、ファーン(フランシス・マクドーマンド)は突然家を失う。
彼女はキャンピングカーに改造したバンに荷物を積み込み、車上生活をしながら季節労働の働き口を求めて全米を移動する、「ノマド」として生きることを決意する。
感謝祭が終わって、ホリデーシーズンが本格化すると、ネバダにあるアマゾンの物流センターへ。
年が明けると、今度はアリゾナの砂漠で開催される、ノマドたちの集会「RTR(ラバー・トランプ・ランデブー)」へ向かう。
様々な理由で車上生活を送るノマドたちと出会い、ベテランたちから車上で生きる術を学んだファーンは、また新たな働き口を求めて荒野をさすらう。
ところが、ある時バンが故障し、やむを得ずファーンはずっと会っていなかった姉に助けを求めるのだが・・・・
本作の原作者ジェシカ・ブルーダーは、ノマドの生活を取材するために、ヴァン・ヘイレン号と名付けたバンに乗り込み、自ら旅に出たという。
3年間、24000キロに及ぶ旅の記録は、ノンフィクション「ノマド 漂流する高齢労働者たち」となって2017年に出版される。
この本の映画化権を獲得したフランシス・マクドーマンドは、「ザ・ライダー」を観てクロエ・ジャオに監督を依頼、快諾を受ける。
ジャオの出世作となった「ザ・ライダー」は、サスダコタ州のパインリッジ・リザベーションに暮らす、オグララ・スー族のロデオのスター、ブレディ・ジャンドローをモデルとした作品。
頭にロデオライダーとしては致命的な怪我を負った青年が、復帰への希望と後遺症の絶望との間で葛藤しながら、新たな生き方を探す物語だ。
主人公をジャンドロー自身が演じている他、登場人物の多くが本人役で登場するなど、劇映画でありながら半分ドキュメンタリーのような手法が特徴で、登場人物にそっと寄り添う作家の視点が印象的。
代々馬と共に生きてきた、オグララ・スー族の精神文化が物語のバックボーンとなっていて、中西部の雄大な風景の中で展開する物語は、ビターな詩情を感じさせるものだった。
独特の手法とムードは、本作でも健在だ。
フランシス・マクドーマンド演じる主人公のファーンは、60代の女性。
彼女は長い間夫と共に、ネバダ州に実在した「エンパイア」で暮らしてきた。
この町は、建築資材大手のUSジプサムが作ったもので、隣接する石膏鉱山と工場で働く人々のための”社宅”だった。
ところが、2008年のリーマンショックの余波で建築不況が押しよせ、USジプサムはエンパイアの閉鎖を決定し、郵便番号も廃止される。
ジプサムに勤めていた夫を病で亡ったのちも、彼の愛したエンパイアに住み続けていたファーンも、立ち退きを余儀なくされる。
近隣の町から100キロも離れた陸の孤島で、生活を維持することは不可能なのだ。
リーマンショックでは、サブプライムローンを組んでいた多くの低所得層の人たちが家を失ったが、ファーンのように建築・不動産の関連産業でも、家も職も無くしてしまったという人も少なくない。
突然家を追い出された人たちの中には、「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」で描かれたように、補償金のいらないモーテルなどを、束の間の安息地として再起を図る者もいれば、残された全財産を車に積み込み、ノマドとなる者もいた。
このようなライフスタイの人はもともと存在していたが、この時期に急増したという。
そして新たなノマドの多くは、新たに家を買おうにもローンが組めない高齢者なのである。
還暦を過ぎてから路上に放り出された人々に、取り得る生活の手段は多くない。
ファーンは古いバンに手を加え、キャンピングカーに仕立て上げると、愛する夫との思い出の品と共に旅に出る。
まずは同じネバダにある、アマゾンの物流センターへ。
11月の感謝祭が終わると、ブラックフライデーとクリスマス商戦の繁忙期が始まり、大量の短期雇用の募集があるからだ。
ホリデーシーズンが終わると、アリゾナの砂漠で開かれるノマドの祭典「RTR」へ向かい、放浪生活の先輩たちから様々なことを学ぶ。
夏休みシーズンにはサウスダコタのバッドランズ国立公園のRVパークと、ウォールドラッグで働き、秋にはネブラスカで収穫期を迎えたテンサイの加工工場に職を得る。
閉鎖されたエンパイアから始まる旅は、一期一会を繰り返しながら1年をかけて中西部諸州を巡ってゆく。
このアメリカン・ニューシネマの血統を受け継ぐ、実にアメリカ的な物語を、中国出身の女性監督が作ったのが面白い。
自分を「反抗的なティーンだった」と語るジャオを、両親は英語が話せないにも関わらず、厳格な教育で知られるイギリスの寄宿舎学校へと送り、高校時代にアメリカへと移る。
十代で故郷を遠く離れ、アメリカで映画の旅を続けるジャオにとって、反骨精神にあふれるファーンはもう一人の自分であり、共感できる主人公なのだろう。
多くのキャストが俳優ではなく、実際のノマド。
前作と同様の半ドキュメンタリースタイルがもたらすのは、圧倒的なリアリティだ。
この映画に登場する人々は、普通の映画のような作劇上の明確な“役割”を持たない。
マクドーマンドが演じる極めて繊細で複雑な葛藤を秘めたファーンという軸は存在するが、誰もが自然に彼女の人生と出会い、別れてゆく。
中には何のために出てきたのか分からない人もいるが、現実の人生もそんなものだろう。
その出会いが意味あるものかどうかなんて、その時には分からない。
ロケ地はどこも荒涼とした風景だが、同時に荘厳で息を呑むほど美しい。
無限の地平線を意識させるゆっくりとしたパンが象徴的に使われているが、撮影監督のジョシュア・ジェームズ・リチャーズは、「ザ・ライダー」に続いて素晴らしい仕事をしている。
タフな世界で生きる人たちには、確固たる芯がある。
「おばさんはホームレスになったの?」と知人の子どもに聞かれたファーンは、「私はホームレスじゃないよ、ハウスレスよ」と答える。
「ホーム」は常に心の中にあり、モノである「ハウス」とは別物。
物語の終盤、ファーンは車の修理代を借りるために、カリフォルニアに住む姉の家を訪れ、次いで元ノマドで彼女に思いを寄せるデヴィッドの家の感謝祭に招かれる。
この二つのシークエンスで、ファーンには定住して生きる選択も示されるが、結局彼女はノマド生活を続けることを選ぶ。
彼女が閉塞していない訳ではない。
たった一人で季節労働をしながら、各地を転々とする生活は孤独だし、還暦を過ぎた身には辛い面も多いだろう。
しかし心の中に「ホーム」を持つファーンは、路上でこそ解放されているのだ。
ノマドの生活には、本当の「さようなら」がない。
出会って別れても、その人とはたぶんどこかの路上でまた会える。
だから皆「またね」が合言葉。
言い換えれば、喜びも悲しみも、希望も絶望も、大陸を網の目のように巡る道が全て記憶していて、ノマドの誰かがもうそこにいない愛する人のことを話す時、それは別の誰かの思い出となるのである。
高齢者のノマドは社会問題であり、アメリカのネガティブな側面だという意見もある。
だが、知らない誰かとでも、通じ合い思いやることができるというこの映画は、コロナ禍で未来が見えず、誰もが不安を抱える2021年にあって、むしろ人と人とのシンプルな関係の美しさを思い出させてくれる。
厳しくも純粋な、人生の旅路の物語だ。
今回は、どんなアメリカの僻地でも売っている、「バドワイザー」をチョイス。
1876年に発売されてから、実に140年の歴史を誇るアメリカン・ビールの代表格。
水みたいに薄いのだけど、カラカラに乾燥し切った砂漠地帯で飲むと、まさに命の水のように美味しく感じる。
馬鹿でかいピッチャーで売ってる店も多いが、バドワイザーは余裕で飲めてしまうのだ。
酒というより水分補給(笑
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車に生活に必要な全てを積み込み、大陸を放浪して暮らす現代の「ノマド(遊牧民)」たち。
彼らの生き様を綴ったジェシカ・ブルーダーのノンフィクションを、「スリー・ビルボード」のフランシス・マクドーマンドが、プロデュース・主演を兼ねて映画化した作品。
監督・脚本を務めたのは、2017年に発表した「ザ・ライダー」で注目を集めた、中国出身の新鋭クロエ・ジャオ。
劇映画でありながら、ドキュメンタリー的な手法を取り込んだ、独特のストーリーテリングのスタイルが新しい。
不況で家を失い、手製のキャンピングカーに荷物を詰め込んで旅に出た未亡人が、各地で一期一会を繰り返しながら、日々を懸命に生きてゆく姿を味わい深く描いている。
第77回ベネチア国際映画祭で、最高賞の金獅子賞、第78回ゴールデングローブ賞でも作品賞、監督賞を受賞し、今年の賞レースの先頭を走る話題作だ。
リーマンショックがもたらした、不況の影響が色濃く残る2011年。
住んでいた町「エンパイア」が、所有する企業によって閉鎖されたことで、ファーン(フランシス・マクドーマンド)は突然家を失う。
彼女はキャンピングカーに改造したバンに荷物を積み込み、車上生活をしながら季節労働の働き口を求めて全米を移動する、「ノマド」として生きることを決意する。
感謝祭が終わって、ホリデーシーズンが本格化すると、ネバダにあるアマゾンの物流センターへ。
年が明けると、今度はアリゾナの砂漠で開催される、ノマドたちの集会「RTR(ラバー・トランプ・ランデブー)」へ向かう。
様々な理由で車上生活を送るノマドたちと出会い、ベテランたちから車上で生きる術を学んだファーンは、また新たな働き口を求めて荒野をさすらう。
ところが、ある時バンが故障し、やむを得ずファーンはずっと会っていなかった姉に助けを求めるのだが・・・・
本作の原作者ジェシカ・ブルーダーは、ノマドの生活を取材するために、ヴァン・ヘイレン号と名付けたバンに乗り込み、自ら旅に出たという。
3年間、24000キロに及ぶ旅の記録は、ノンフィクション「ノマド 漂流する高齢労働者たち」となって2017年に出版される。
この本の映画化権を獲得したフランシス・マクドーマンドは、「ザ・ライダー」を観てクロエ・ジャオに監督を依頼、快諾を受ける。
ジャオの出世作となった「ザ・ライダー」は、サスダコタ州のパインリッジ・リザベーションに暮らす、オグララ・スー族のロデオのスター、ブレディ・ジャンドローをモデルとした作品。
頭にロデオライダーとしては致命的な怪我を負った青年が、復帰への希望と後遺症の絶望との間で葛藤しながら、新たな生き方を探す物語だ。
主人公をジャンドロー自身が演じている他、登場人物の多くが本人役で登場するなど、劇映画でありながら半分ドキュメンタリーのような手法が特徴で、登場人物にそっと寄り添う作家の視点が印象的。
代々馬と共に生きてきた、オグララ・スー族の精神文化が物語のバックボーンとなっていて、中西部の雄大な風景の中で展開する物語は、ビターな詩情を感じさせるものだった。
独特の手法とムードは、本作でも健在だ。
フランシス・マクドーマンド演じる主人公のファーンは、60代の女性。
彼女は長い間夫と共に、ネバダ州に実在した「エンパイア」で暮らしてきた。
この町は、建築資材大手のUSジプサムが作ったもので、隣接する石膏鉱山と工場で働く人々のための”社宅”だった。
ところが、2008年のリーマンショックの余波で建築不況が押しよせ、USジプサムはエンパイアの閉鎖を決定し、郵便番号も廃止される。
ジプサムに勤めていた夫を病で亡ったのちも、彼の愛したエンパイアに住み続けていたファーンも、立ち退きを余儀なくされる。
近隣の町から100キロも離れた陸の孤島で、生活を維持することは不可能なのだ。
リーマンショックでは、サブプライムローンを組んでいた多くの低所得層の人たちが家を失ったが、ファーンのように建築・不動産の関連産業でも、家も職も無くしてしまったという人も少なくない。
突然家を追い出された人たちの中には、「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」で描かれたように、補償金のいらないモーテルなどを、束の間の安息地として再起を図る者もいれば、残された全財産を車に積み込み、ノマドとなる者もいた。
このようなライフスタイの人はもともと存在していたが、この時期に急増したという。
そして新たなノマドの多くは、新たに家を買おうにもローンが組めない高齢者なのである。
還暦を過ぎてから路上に放り出された人々に、取り得る生活の手段は多くない。
ファーンは古いバンに手を加え、キャンピングカーに仕立て上げると、愛する夫との思い出の品と共に旅に出る。
まずは同じネバダにある、アマゾンの物流センターへ。
11月の感謝祭が終わると、ブラックフライデーとクリスマス商戦の繁忙期が始まり、大量の短期雇用の募集があるからだ。
ホリデーシーズンが終わると、アリゾナの砂漠で開かれるノマドの祭典「RTR」へ向かい、放浪生活の先輩たちから様々なことを学ぶ。
夏休みシーズンにはサウスダコタのバッドランズ国立公園のRVパークと、ウォールドラッグで働き、秋にはネブラスカで収穫期を迎えたテンサイの加工工場に職を得る。
閉鎖されたエンパイアから始まる旅は、一期一会を繰り返しながら1年をかけて中西部諸州を巡ってゆく。
このアメリカン・ニューシネマの血統を受け継ぐ、実にアメリカ的な物語を、中国出身の女性監督が作ったのが面白い。
自分を「反抗的なティーンだった」と語るジャオを、両親は英語が話せないにも関わらず、厳格な教育で知られるイギリスの寄宿舎学校へと送り、高校時代にアメリカへと移る。
十代で故郷を遠く離れ、アメリカで映画の旅を続けるジャオにとって、反骨精神にあふれるファーンはもう一人の自分であり、共感できる主人公なのだろう。
多くのキャストが俳優ではなく、実際のノマド。
前作と同様の半ドキュメンタリースタイルがもたらすのは、圧倒的なリアリティだ。
この映画に登場する人々は、普通の映画のような作劇上の明確な“役割”を持たない。
マクドーマンドが演じる極めて繊細で複雑な葛藤を秘めたファーンという軸は存在するが、誰もが自然に彼女の人生と出会い、別れてゆく。
中には何のために出てきたのか分からない人もいるが、現実の人生もそんなものだろう。
その出会いが意味あるものかどうかなんて、その時には分からない。
ロケ地はどこも荒涼とした風景だが、同時に荘厳で息を呑むほど美しい。
無限の地平線を意識させるゆっくりとしたパンが象徴的に使われているが、撮影監督のジョシュア・ジェームズ・リチャーズは、「ザ・ライダー」に続いて素晴らしい仕事をしている。
タフな世界で生きる人たちには、確固たる芯がある。
「おばさんはホームレスになったの?」と知人の子どもに聞かれたファーンは、「私はホームレスじゃないよ、ハウスレスよ」と答える。
「ホーム」は常に心の中にあり、モノである「ハウス」とは別物。
物語の終盤、ファーンは車の修理代を借りるために、カリフォルニアに住む姉の家を訪れ、次いで元ノマドで彼女に思いを寄せるデヴィッドの家の感謝祭に招かれる。
この二つのシークエンスで、ファーンには定住して生きる選択も示されるが、結局彼女はノマド生活を続けることを選ぶ。
彼女が閉塞していない訳ではない。
たった一人で季節労働をしながら、各地を転々とする生活は孤独だし、還暦を過ぎた身には辛い面も多いだろう。
しかし心の中に「ホーム」を持つファーンは、路上でこそ解放されているのだ。
ノマドの生活には、本当の「さようなら」がない。
出会って別れても、その人とはたぶんどこかの路上でまた会える。
だから皆「またね」が合言葉。
言い換えれば、喜びも悲しみも、希望も絶望も、大陸を網の目のように巡る道が全て記憶していて、ノマドの誰かがもうそこにいない愛する人のことを話す時、それは別の誰かの思い出となるのである。
高齢者のノマドは社会問題であり、アメリカのネガティブな側面だという意見もある。
だが、知らない誰かとでも、通じ合い思いやることができるというこの映画は、コロナ禍で未来が見えず、誰もが不安を抱える2021年にあって、むしろ人と人とのシンプルな関係の美しさを思い出させてくれる。
厳しくも純粋な、人生の旅路の物語だ。
今回は、どんなアメリカの僻地でも売っている、「バドワイザー」をチョイス。
1876年に発売されてから、実に140年の歴史を誇るアメリカン・ビールの代表格。
水みたいに薄いのだけど、カラカラに乾燥し切った砂漠地帯で飲むと、まさに命の水のように美味しく感じる。
馬鹿でかいピッチャーで売ってる店も多いが、バドワイザーは余裕で飲めてしまうのだ。
酒というより水分補給(笑

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