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※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
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2021年05月31日 (月) | 編集 |
もう一つの、「ありのままで。」
ファッションデザイナー志望の少女エステラは、いかにして悪魔の様な女”クルエラ・ド・ヴィル“となったのか。
白と黒のツートンヘアが特徴的な「101匹わんちゃん」のディズニーヴィラン、正確に言えばヴィラントリオの誕生譚。
パンクムーブメントが盛り上がる70年代のロンドンで、数奇な運命に導かれたエステラがファッション業界で才能を開花させ、やがて自分が本当は何者なのかを知る。
エマ・ストーンがノリノリで演じるタイトルロールは、本作では文字通りに白黒決着をつけただけで、そんなに悪いことはしてないのだが、エキセントリックなキャラクターは非常に魅力的。
ディズニーヴィランの再定義としては「マレフィセント」に次ぐものだが、さすが小粒でもピリリと辛い人間ドラマを得意とする、クレイグ・ギレスピー監督だ。
彼の作品で一番有名なのが出世作の「ラースと、その彼女」と、アリソン・ジャネイにアカデミー助演女優賞をもたらした「アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル」だろうが、どの作品を見ても人間ドラマが丁寧。
この映画も、たとえ元のキャラクターを知らなかったとして、十分に楽しめる。
※核心部分に触れています。
1964年のイギリス。
生まれつきの白毛症で、白と黒の2色に分かれた髪を持ち、燃えるような情熱と抑えられない怒りを抱えた少女エステラ(エマ・ストーン)は、度重なるトラブルで小学校を放校される。
シングルマザーの母キャサリン(エミリー・ビーチャム)は援助を求めるために、とある邸宅を訪ねるが、不慮の事故で転落死。
怖くなったエステラは一人で逃げ出し、トラックの荷台に乗ってロンドンへとたどり着く。
ストリートキッズのジャスパー(ジョエル・フライ)とホーレス(ポール・ウォルター・ハウザー)と仲良くなったエステラは、廃屋の屋根裏を根城に、泥棒を生業にして成長してゆく。
10年が経ったころ、仕事で使う変装用の衣装の裁縫やデザインに才能を発揮していた彼女は、いつしかファッション業界に強い憧れを抱くようになる。
泥棒家業から足を洗い、一流百貨店のリバティに入店するも、仕事は雑用ばかり。
そんな時、酒に酔って店のディスプレイをめちゃくちゃにしてしまったところ、カリスマデザイナーのバロネス(エマ・トンプソン)に見いだされ、アシスタントとしてファッション業界に足を踏み入れるのだが・・・・
1961年に公開された「101匹わんちゃん」では、ダルメシアンのポンゴとパーディタ夫婦が、生まれたばかりの15匹の子犬をクルエラ一味に誘拐される。
クルエラはダルメシアンの毛皮を使ったコートを作るために、15匹の他にも99匹もの子犬をさらっている恐ろしい女なのだ。
彼女の計画は、子犬の居場所を知ったポンゴとパーディタと仲間たちによって阻止されるが、クルエラはそのルックスのインパクトもあって人気ヴィランとなる。
長身の悪女がデブとヤセの子分を従えたビジュアルは、日本のタイムボカンシリーズの三悪キャラクターにも大きな影響を与え、1996年に作られた実写リメイク版「101」と続編の「102」では、名女優のグレン・クローズがクルエラを怪演した。
前日譚となる本作では、エマ・ストーンが若き日のクルエラを演じる訳だが、物語の時代設定をオリジナルが制作したされた1960年前後から、パンクムーブメントの黎明期に当たる70年代半ばのロンドンに移したアイディアが秀逸。
当時の“英国病”によって社会が衰退し、人々が強い閉塞を感じている時代にあって、パンクの登場は音楽だけでなく政治やファッションなど多くの分野に影響を及ぼした一大カルチャームーブメントだった。
この時代設定によって、もともとぶっ飛んだキャラクターだったクルエラに、若さと共にとんがった反逆性が備わった。
物語の序盤、少女時代のエステラは、常に心に怒りを感じている。
シングルマザーのキャサリンに育てられ、学校に通うようになっても、協調性はゼロ。
男の子にも平気でケンカを売り、ついには小学校を追い出されてしまう。
だがそんなパンクなキャラクターは、突然のキャサリンの死をきっかけに、影をひそめる。
ジャスパーとホーレスと出会い、特徴的なツートンヘアも目立たない色に染めてしまう。
三人がストリートキッズからプロの泥棒トリオへと成長してゆく辺りは、いかにも20世紀のイギリス映画という風情。
ひょんなことからカリスマデザイナーのバロネスに気に入られ、スタッフとしてデザイナーを目指す様になると、今度は「プラダを着た悪魔」みたいなお仕事映画の趣だ。
ちなみにやたらと豪華な本作の脚本チームには、あの映画のアライン・ブロッシュ・マッケンナも原案で参加している。
彼女が生来のパンクな属性を取り戻すのが、実はバロネスこそがキャサリンを殺した敵だということを知った時。
それまでのまじめで出来る女のエステラは消え去り、怒りに燃えて復讐のためなら何でもする悪女クルエラが姿を現すのである。
髪の色を白黒に戻し、バロネスのパーティーに白いコートを纏って現れたクルエラが、一瞬で真っ赤なドレスに変身し、宣戦布告するシーンはまことにカッコいい。
ここから彼女が次々と仕掛ける世間を巻き込んだパフォーマンスは、守旧のバロネスと新世代クルエラのデザイナーバトルともなっている。
ゴミで出来た超長いドレスなど、度肝を抜く反逆的デザインは、まさに彼女のパンクなスピリットを象徴する。
ニーナ・シモンからクイーン、ドアーズ、ザ・クラッシュなど、絶妙なタイミングで映画を彩る時代を代表するサウンドもピタリと決まり、どこまでもスタイリッシュだ。
しかしこの辺りまでは、女性版のややマイルドな「ジョーカー」的な雰囲気で、ディズニー映画であることを忘れていた。
クルエラとバロネスの関係も、「ジョーカー」のホアキン・フェニックスとロバート・デ・ニーロとの愛憎関係とちょっと似ている。
ところが物語のミッドポイントを境にして、世界観は急速に神話的な様相を帯びてくるのだ。
自分に喧嘩を売っているクルエラの正体がエステラだとバロネスにバレ、一気に絶体絶命の危機に追い込まれると、それまで役割が分からないキャラクターだったマーク・ストロング演じるバロネスの執事が、重要なキーパーソンとして浮上してくる。
そして語られる、クルエラの出生の秘密。
この物語がある種の貴種流離譚であることが明らかになり、ついには“未来の話”である「101匹わんちゃん」の伏線まで盛り込んで、由緒正しいディズニーのお伽話の話型、それもパンクな本作らしく、従来の形ではなく反転したニューバージョンへと収束するのだからお見事だ。
ここでは、本来無償の愛を注ぐはずの生母が真のヴィランであり、悪の役割を押し付けられがちな義理の母は正しき者である。
孤児となった可哀想なお姫様は、王子様を待つのではなく、自らの才覚で世の中の権威に牙を剥き、ちょっと情けない男たちを従えて復讐を果たすのだ。
終盤の畳み掛けるような展開は、亡き母の無念をはらす痛快なクライマックスであるのと同時に、キャラクターとしてのクルエラも一気呵成に完成させる。
良くも悪くも、ヴィランがヴィランで無くなってしまった「マレフィセント」と違って、クールな悪を感じさせるところに着地するのもいい。
「アイ,トーニャ」でキャラクターに感情移入させながら、きっちりと内面のダークサイドを描いたギレスピーだけのことはある。
本作に続編があるとすると、時系列的には「101匹わんちゃん」の再リメイクとなるのだろうが、あの映画のクルエラとは、ダルメシアンへの態度をとっても、いまいち繋がらないような気がする。
いっそ、基本設定だけ借りてオリジナルストーリーでもいいのではないか。
とりあえず、一本だけでお終いにするにはあまりにも勿体無い、非常に魅力的なキャラクターだ。
今回は、悪魔のような女の物語ということで「デビルズ」をチョイス。
ポート・ワイン30ml、ドライ・ベルモット30ml、レモンジュース2dashを、氷と共に素早くステアして、グラスに注ぐ。
名前はコワイが、本作のクルエラがワルカッコいい人だったように、実はマイルドで飲みやすい。
優しく甘いポートワインに、ベルモットの香りがアクセントとなり、レモンの酸味が爽やかな味後味を演出する。
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ファッションデザイナー志望の少女エステラは、いかにして悪魔の様な女”クルエラ・ド・ヴィル“となったのか。
白と黒のツートンヘアが特徴的な「101匹わんちゃん」のディズニーヴィラン、正確に言えばヴィラントリオの誕生譚。
パンクムーブメントが盛り上がる70年代のロンドンで、数奇な運命に導かれたエステラがファッション業界で才能を開花させ、やがて自分が本当は何者なのかを知る。
エマ・ストーンがノリノリで演じるタイトルロールは、本作では文字通りに白黒決着をつけただけで、そんなに悪いことはしてないのだが、エキセントリックなキャラクターは非常に魅力的。
ディズニーヴィランの再定義としては「マレフィセント」に次ぐものだが、さすが小粒でもピリリと辛い人間ドラマを得意とする、クレイグ・ギレスピー監督だ。
彼の作品で一番有名なのが出世作の「ラースと、その彼女」と、アリソン・ジャネイにアカデミー助演女優賞をもたらした「アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル」だろうが、どの作品を見ても人間ドラマが丁寧。
この映画も、たとえ元のキャラクターを知らなかったとして、十分に楽しめる。
※核心部分に触れています。
1964年のイギリス。
生まれつきの白毛症で、白と黒の2色に分かれた髪を持ち、燃えるような情熱と抑えられない怒りを抱えた少女エステラ(エマ・ストーン)は、度重なるトラブルで小学校を放校される。
シングルマザーの母キャサリン(エミリー・ビーチャム)は援助を求めるために、とある邸宅を訪ねるが、不慮の事故で転落死。
怖くなったエステラは一人で逃げ出し、トラックの荷台に乗ってロンドンへとたどり着く。
ストリートキッズのジャスパー(ジョエル・フライ)とホーレス(ポール・ウォルター・ハウザー)と仲良くなったエステラは、廃屋の屋根裏を根城に、泥棒を生業にして成長してゆく。
10年が経ったころ、仕事で使う変装用の衣装の裁縫やデザインに才能を発揮していた彼女は、いつしかファッション業界に強い憧れを抱くようになる。
泥棒家業から足を洗い、一流百貨店のリバティに入店するも、仕事は雑用ばかり。
そんな時、酒に酔って店のディスプレイをめちゃくちゃにしてしまったところ、カリスマデザイナーのバロネス(エマ・トンプソン)に見いだされ、アシスタントとしてファッション業界に足を踏み入れるのだが・・・・
1961年に公開された「101匹わんちゃん」では、ダルメシアンのポンゴとパーディタ夫婦が、生まれたばかりの15匹の子犬をクルエラ一味に誘拐される。
クルエラはダルメシアンの毛皮を使ったコートを作るために、15匹の他にも99匹もの子犬をさらっている恐ろしい女なのだ。
彼女の計画は、子犬の居場所を知ったポンゴとパーディタと仲間たちによって阻止されるが、クルエラはそのルックスのインパクトもあって人気ヴィランとなる。
長身の悪女がデブとヤセの子分を従えたビジュアルは、日本のタイムボカンシリーズの三悪キャラクターにも大きな影響を与え、1996年に作られた実写リメイク版「101」と続編の「102」では、名女優のグレン・クローズがクルエラを怪演した。
前日譚となる本作では、エマ・ストーンが若き日のクルエラを演じる訳だが、物語の時代設定をオリジナルが制作したされた1960年前後から、パンクムーブメントの黎明期に当たる70年代半ばのロンドンに移したアイディアが秀逸。
当時の“英国病”によって社会が衰退し、人々が強い閉塞を感じている時代にあって、パンクの登場は音楽だけでなく政治やファッションなど多くの分野に影響を及ぼした一大カルチャームーブメントだった。
この時代設定によって、もともとぶっ飛んだキャラクターだったクルエラに、若さと共にとんがった反逆性が備わった。
物語の序盤、少女時代のエステラは、常に心に怒りを感じている。
シングルマザーのキャサリンに育てられ、学校に通うようになっても、協調性はゼロ。
男の子にも平気でケンカを売り、ついには小学校を追い出されてしまう。
だがそんなパンクなキャラクターは、突然のキャサリンの死をきっかけに、影をひそめる。
ジャスパーとホーレスと出会い、特徴的なツートンヘアも目立たない色に染めてしまう。
三人がストリートキッズからプロの泥棒トリオへと成長してゆく辺りは、いかにも20世紀のイギリス映画という風情。
ひょんなことからカリスマデザイナーのバロネスに気に入られ、スタッフとしてデザイナーを目指す様になると、今度は「プラダを着た悪魔」みたいなお仕事映画の趣だ。
ちなみにやたらと豪華な本作の脚本チームには、あの映画のアライン・ブロッシュ・マッケンナも原案で参加している。
彼女が生来のパンクな属性を取り戻すのが、実はバロネスこそがキャサリンを殺した敵だということを知った時。
それまでのまじめで出来る女のエステラは消え去り、怒りに燃えて復讐のためなら何でもする悪女クルエラが姿を現すのである。
髪の色を白黒に戻し、バロネスのパーティーに白いコートを纏って現れたクルエラが、一瞬で真っ赤なドレスに変身し、宣戦布告するシーンはまことにカッコいい。
ここから彼女が次々と仕掛ける世間を巻き込んだパフォーマンスは、守旧のバロネスと新世代クルエラのデザイナーバトルともなっている。
ゴミで出来た超長いドレスなど、度肝を抜く反逆的デザインは、まさに彼女のパンクなスピリットを象徴する。
ニーナ・シモンからクイーン、ドアーズ、ザ・クラッシュなど、絶妙なタイミングで映画を彩る時代を代表するサウンドもピタリと決まり、どこまでもスタイリッシュだ。
しかしこの辺りまでは、女性版のややマイルドな「ジョーカー」的な雰囲気で、ディズニー映画であることを忘れていた。
クルエラとバロネスの関係も、「ジョーカー」のホアキン・フェニックスとロバート・デ・ニーロとの愛憎関係とちょっと似ている。
ところが物語のミッドポイントを境にして、世界観は急速に神話的な様相を帯びてくるのだ。
自分に喧嘩を売っているクルエラの正体がエステラだとバロネスにバレ、一気に絶体絶命の危機に追い込まれると、それまで役割が分からないキャラクターだったマーク・ストロング演じるバロネスの執事が、重要なキーパーソンとして浮上してくる。
そして語られる、クルエラの出生の秘密。
この物語がある種の貴種流離譚であることが明らかになり、ついには“未来の話”である「101匹わんちゃん」の伏線まで盛り込んで、由緒正しいディズニーのお伽話の話型、それもパンクな本作らしく、従来の形ではなく反転したニューバージョンへと収束するのだからお見事だ。
ここでは、本来無償の愛を注ぐはずの生母が真のヴィランであり、悪の役割を押し付けられがちな義理の母は正しき者である。
孤児となった可哀想なお姫様は、王子様を待つのではなく、自らの才覚で世の中の権威に牙を剥き、ちょっと情けない男たちを従えて復讐を果たすのだ。
終盤の畳み掛けるような展開は、亡き母の無念をはらす痛快なクライマックスであるのと同時に、キャラクターとしてのクルエラも一気呵成に完成させる。
良くも悪くも、ヴィランがヴィランで無くなってしまった「マレフィセント」と違って、クールな悪を感じさせるところに着地するのもいい。
「アイ,トーニャ」でキャラクターに感情移入させながら、きっちりと内面のダークサイドを描いたギレスピーだけのことはある。
本作に続編があるとすると、時系列的には「101匹わんちゃん」の再リメイクとなるのだろうが、あの映画のクルエラとは、ダルメシアンへの態度をとっても、いまいち繋がらないような気がする。
いっそ、基本設定だけ借りてオリジナルストーリーでもいいのではないか。
とりあえず、一本だけでお終いにするにはあまりにも勿体無い、非常に魅力的なキャラクターだ。
今回は、悪魔のような女の物語ということで「デビルズ」をチョイス。
ポート・ワイン30ml、ドライ・ベルモット30ml、レモンジュース2dashを、氷と共に素早くステアして、グラスに注ぐ。
名前はコワイが、本作のクルエラがワルカッコいい人だったように、実はマイルドで飲みやすい。
優しく甘いポートワインに、ベルモットの香りがアクセントとなり、レモンの酸味が爽やかな味後味を演出する。

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2021年05月29日 (土) | 編集 |
ゾンビVS傭兵プラス色々。
ザック・スナイダー久々の新作は、劇場用映画デビュー作「ドーン・オブ・ザ・デッド」から17年ぶりのゾンビ映画。
しかも長編では、大怪作「エンジェルウォーズ」以来となる脚本兼務作だ。
途中降板した「ジャスティス・リーグ」は、バトンを受け継いだジョス・ウェドンの仕事に満足できなかったのか、最近「スナイダーカット版」がリリースされたが、原点回帰とも言える本作ではさらに撮影監督まで務める入れ込みっぷりだ。
ゾンビに占領され、巨大な隔離壁に囲まれたラスベガスで、カジノの金庫に残された大金を巡る冒険が繰り広げられる。
主人公の元傭兵スコット・ワードに、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」のドラッグス役で知られるデイヴ・バウティスタ。
彼を死地へと誘う謎の男、ブライ・タナカを真田広之が演じる。
突如として起こったゾンビパニックによって、ラスベガスが壊滅。
街は巨大な壁によって完全に隔離された。
政府は無数のゾンビの巣と化したラスベガスを、戦術核兵器で消滅させることを決定。
カジノの所有者だったブライ・タナカ(真田広之)は、地下の金庫に残されたままの2億ドルの現金を、核ミサイルが発射される前に回収することを、元傭兵のスコット・ワード(デイヴ・バウティスタ)に依頼する。
スコットは、ゾンビが発生した時に多くの人を救った英雄だが、今は場末の店でハンバーガーを焼いて過ごす日々。
感染した妻を殺したことで、娘のケイト(エラ・パーネル)とも疎遠になっている。
5千万ドルの成功報酬を示されたスコットは、かつての仲間に声をかけてチームを結成。
感染疑いの人々が強制収容されているキャンプで、”コヨーテ”と呼ばれる案内人(ノラ・アルネゼデール)を雇い、秘密の通路から封鎖された街に潜入する。
灼熱の砂漠にあるラスベガスでは、多くのゾンビは水分を失って休眠状態になっているが、そこには「アルファズ」と呼ばれる知性のあるゾンビの一団が待ち構えていた・・・
ことの発端は、米軍がエリア51から運び出した謎のコンテナ。
不慮の事故によってコンテナが破損し、積まれていた最強のゾンビが逃げ出した先は、ド派手なネオン煌めく不夜城、ラスベガス。
この舞台設定が絶妙で、砂漠の中に突如として現れる孤立したカジノシティゆえに、米軍は大きな犠牲を出しながらも街をぐるりと包囲する隔離壁の設置に成功する。
他地域への蔓延を阻止したが、ラスベガスは無数のゾンビが跋扈する、文字通りのゾンビランドとなってしまうのだ。
驚くべきは、普通の映画なら30分はかけるであろう、ここまでの怒涛の展開とキャラ紹介を、オープニングのタイトルバックまでにスタイリッシュかつ効率的に描いちゃっていること。
さすがは「映画は映像」が身上の、スナイダーだけのことはある。
で、本筋はここからだ。
政府は危険なゾンビたちを、ラスベガスの街ごと核ミサイルで消滅させることを決定するが、かつて1兆円を超える収益を出していた世界有数の歓楽街には、まだ巨額の金が眠っている。
真田広之演じる黒幕のタナカが目をつけたのが、ゾンビとの戦いで大活躍したものの、不遇の生活を送っている元傭兵のスコットというわけだ。
もっとも、彼の依頼にはこの手の映画のセオリー通り、まだ裏があるのだけど。
ゾンビの群れの中から、2億ドルを奪還するという危険なミッションの成功報酬は5千万ドル。
この基本プロットは、先日公開された「新感染半島 ファイナル・ステージ」とまるかぶり。
まあ入口が「エイリアン2」なのは同じだが、こちらは隔離都市という「ニューヨーク1997」的な舞台装置があるので、全体の印象はだいぶ異なる。
しかし、スナイダーが作り出した、全力疾走する21世紀型ゾンビを、ヨン・サンホが「新感染 ファイナル・エクスプレス」で継承、発展させ、また同じころに両者が似た設定の映画を撮るのも面白い偶然だ。
映画は前半50分を使ってチーム集めし、その後1時間40分のノンストップ活劇。
ゾンビ映画で2時間半は、いかにも切れないスナイダーらしいが、全く飽きさせないので長尺は気にならない。
成り行きでついてくることになった娘のケイトをはじめ、隔離後の街をよく知る案内人に、かつての傭兵仲間、ゾンビ殺しを投稿していたYouTuberに、気弱な金庫破り、タナカによって送り込まれたお目付役など雑多な面々が集まった旅の仲間は総勢11人。
ちなみにヘリのパイロット役のティグ・ノタロは、本来キャスティングされていたクリス・ディエラがスキャンダルで降板したために代役で入った人で、すでに全体の撮影が終了していたため、すべてのシーンを一人で演じて合成したとか。
技術の進化はすさまじく、観終わるまで全然気づかなかったよ。
一応物語の軸となっているのは、母の死をめぐってスコットと疎遠になっているケイトとの関係なのだけど、スナイダーが長期間現場から遠ざかっていた原因が、「ジャスティス・リーグ」撮影中の娘の急逝と言うことを考えると、ここに描かれる父娘の葛藤は感じ入るものがある。
面白いのは、命を持たないはずのゾンビにも突然変異が起こり、知性を持ち集団で行動する「アルファズ」と呼ばれる新種が存在している設定だ。
もはや「それってゾンビなの?」と突っ込みたくなるが、マントを纏ってゾンビ馬に乗った妙にカッコいいゾンビの王とスコット、それぞれの行動原理が共に「愛」となったことで、奇妙な対抗関係が出来上がる。
元祖ジョージ・A・ロメロ以来の、社会性の伝統も受け継がれている。
ラスベガスの壁は、誰が見てもトランプ前大統領がメキシコとの国境に設置した壁を思い出すだろう。
少しでも感染疑いのある人たちが、非人道的な強制収容所に押し込められていたり、ゾンビに支配されたラスベガスを、核ミサイルで焼き払うという乱暴っぷりや、ラストである人物が向かう先を見ても、トランプ時代への皮肉がいっぱい。
対位法的な音楽のチョイスもシニカルだ。
もっとも、せっかく街全体がテーマパークみたいなラスベガスが舞台なのに、建物やアトラクションのギミックを生かした描写がないのはもったいない。
予算の関係かもしれないけど、カジノシティであることはもっと生かせたと思う。
先日相次いで死去した伝説的なマジシャン、ジークフリード&ロイ(昭和世代には懐かしい!)のホワイトタイガーがゾンビ化しているのは可笑しかったけど。
本作は一応単体で完結しているが、そもそも米軍がエリア51から運び出していた、異常に高い身体能力を持つゾンビ第一号は何者なのかとか、ゾンビ軍団の中に青く光る眼と明らかに金属の骨を持つアンドロイドと思しき個体がいたり、いろいろと謎が残ったままだ。
どうやらスナイダーはユニバース化を目論んでいて、すでに前日譚の「Army of Thieves」や、アニメーションシリーズ「Army of the Dead: Lost Vegas」が決まっているというから、まだしばらくは楽しませてくれそうだ。
今回は、「新感染半島」と同じく悪酔い必至の酒、「ゾンビ」をチョイス。
ホワイトラム30ml、ゴールドラム30ml、ダークラム30ml、アプリコットブランデー15ml、オレンジジュース 20ml、パイナップルジュース 20ml、レモンジュース 10ml、グレナデンシロップ 10mlをシェイクして、氷を入れたゾンビグラスに注ぐ。
意外にもフルーティーでフレッシュな味わいだが、もともと酩酊させるために複数のラムを混ぜたという凶悪なカクテルで、飲んでいるうちにだんだんとゾンビと化してしまう。
ところで、巨額の現金を強奪する映画は数多いが、どれも金の重さに無頓着すぎる。
2億ドルって、お札でも2トンになるんだぞ。
あの人数で運べるわけないし、よしんば運べたとしても、重すぎてヘリ墜落しちゃうよ(笑
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ザック・スナイダー久々の新作は、劇場用映画デビュー作「ドーン・オブ・ザ・デッド」から17年ぶりのゾンビ映画。
しかも長編では、大怪作「エンジェルウォーズ」以来となる脚本兼務作だ。
途中降板した「ジャスティス・リーグ」は、バトンを受け継いだジョス・ウェドンの仕事に満足できなかったのか、最近「スナイダーカット版」がリリースされたが、原点回帰とも言える本作ではさらに撮影監督まで務める入れ込みっぷりだ。
ゾンビに占領され、巨大な隔離壁に囲まれたラスベガスで、カジノの金庫に残された大金を巡る冒険が繰り広げられる。
主人公の元傭兵スコット・ワードに、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」のドラッグス役で知られるデイヴ・バウティスタ。
彼を死地へと誘う謎の男、ブライ・タナカを真田広之が演じる。
突如として起こったゾンビパニックによって、ラスベガスが壊滅。
街は巨大な壁によって完全に隔離された。
政府は無数のゾンビの巣と化したラスベガスを、戦術核兵器で消滅させることを決定。
カジノの所有者だったブライ・タナカ(真田広之)は、地下の金庫に残されたままの2億ドルの現金を、核ミサイルが発射される前に回収することを、元傭兵のスコット・ワード(デイヴ・バウティスタ)に依頼する。
スコットは、ゾンビが発生した時に多くの人を救った英雄だが、今は場末の店でハンバーガーを焼いて過ごす日々。
感染した妻を殺したことで、娘のケイト(エラ・パーネル)とも疎遠になっている。
5千万ドルの成功報酬を示されたスコットは、かつての仲間に声をかけてチームを結成。
感染疑いの人々が強制収容されているキャンプで、”コヨーテ”と呼ばれる案内人(ノラ・アルネゼデール)を雇い、秘密の通路から封鎖された街に潜入する。
灼熱の砂漠にあるラスベガスでは、多くのゾンビは水分を失って休眠状態になっているが、そこには「アルファズ」と呼ばれる知性のあるゾンビの一団が待ち構えていた・・・
ことの発端は、米軍がエリア51から運び出した謎のコンテナ。
不慮の事故によってコンテナが破損し、積まれていた最強のゾンビが逃げ出した先は、ド派手なネオン煌めく不夜城、ラスベガス。
この舞台設定が絶妙で、砂漠の中に突如として現れる孤立したカジノシティゆえに、米軍は大きな犠牲を出しながらも街をぐるりと包囲する隔離壁の設置に成功する。
他地域への蔓延を阻止したが、ラスベガスは無数のゾンビが跋扈する、文字通りのゾンビランドとなってしまうのだ。
驚くべきは、普通の映画なら30分はかけるであろう、ここまでの怒涛の展開とキャラ紹介を、オープニングのタイトルバックまでにスタイリッシュかつ効率的に描いちゃっていること。
さすがは「映画は映像」が身上の、スナイダーだけのことはある。
で、本筋はここからだ。
政府は危険なゾンビたちを、ラスベガスの街ごと核ミサイルで消滅させることを決定するが、かつて1兆円を超える収益を出していた世界有数の歓楽街には、まだ巨額の金が眠っている。
真田広之演じる黒幕のタナカが目をつけたのが、ゾンビとの戦いで大活躍したものの、不遇の生活を送っている元傭兵のスコットというわけだ。
もっとも、彼の依頼にはこの手の映画のセオリー通り、まだ裏があるのだけど。
ゾンビの群れの中から、2億ドルを奪還するという危険なミッションの成功報酬は5千万ドル。
この基本プロットは、先日公開された「新感染半島 ファイナル・ステージ」とまるかぶり。
まあ入口が「エイリアン2」なのは同じだが、こちらは隔離都市という「ニューヨーク1997」的な舞台装置があるので、全体の印象はだいぶ異なる。
しかし、スナイダーが作り出した、全力疾走する21世紀型ゾンビを、ヨン・サンホが「新感染 ファイナル・エクスプレス」で継承、発展させ、また同じころに両者が似た設定の映画を撮るのも面白い偶然だ。
映画は前半50分を使ってチーム集めし、その後1時間40分のノンストップ活劇。
ゾンビ映画で2時間半は、いかにも切れないスナイダーらしいが、全く飽きさせないので長尺は気にならない。
成り行きでついてくることになった娘のケイトをはじめ、隔離後の街をよく知る案内人に、かつての傭兵仲間、ゾンビ殺しを投稿していたYouTuberに、気弱な金庫破り、タナカによって送り込まれたお目付役など雑多な面々が集まった旅の仲間は総勢11人。
ちなみにヘリのパイロット役のティグ・ノタロは、本来キャスティングされていたクリス・ディエラがスキャンダルで降板したために代役で入った人で、すでに全体の撮影が終了していたため、すべてのシーンを一人で演じて合成したとか。
技術の進化はすさまじく、観終わるまで全然気づかなかったよ。
一応物語の軸となっているのは、母の死をめぐってスコットと疎遠になっているケイトとの関係なのだけど、スナイダーが長期間現場から遠ざかっていた原因が、「ジャスティス・リーグ」撮影中の娘の急逝と言うことを考えると、ここに描かれる父娘の葛藤は感じ入るものがある。
面白いのは、命を持たないはずのゾンビにも突然変異が起こり、知性を持ち集団で行動する「アルファズ」と呼ばれる新種が存在している設定だ。
もはや「それってゾンビなの?」と突っ込みたくなるが、マントを纏ってゾンビ馬に乗った妙にカッコいいゾンビの王とスコット、それぞれの行動原理が共に「愛」となったことで、奇妙な対抗関係が出来上がる。
元祖ジョージ・A・ロメロ以来の、社会性の伝統も受け継がれている。
ラスベガスの壁は、誰が見てもトランプ前大統領がメキシコとの国境に設置した壁を思い出すだろう。
少しでも感染疑いのある人たちが、非人道的な強制収容所に押し込められていたり、ゾンビに支配されたラスベガスを、核ミサイルで焼き払うという乱暴っぷりや、ラストである人物が向かう先を見ても、トランプ時代への皮肉がいっぱい。
対位法的な音楽のチョイスもシニカルだ。
もっとも、せっかく街全体がテーマパークみたいなラスベガスが舞台なのに、建物やアトラクションのギミックを生かした描写がないのはもったいない。
予算の関係かもしれないけど、カジノシティであることはもっと生かせたと思う。
先日相次いで死去した伝説的なマジシャン、ジークフリード&ロイ(昭和世代には懐かしい!)のホワイトタイガーがゾンビ化しているのは可笑しかったけど。
本作は一応単体で完結しているが、そもそも米軍がエリア51から運び出していた、異常に高い身体能力を持つゾンビ第一号は何者なのかとか、ゾンビ軍団の中に青く光る眼と明らかに金属の骨を持つアンドロイドと思しき個体がいたり、いろいろと謎が残ったままだ。
どうやらスナイダーはユニバース化を目論んでいて、すでに前日譚の「Army of Thieves」や、アニメーションシリーズ「Army of the Dead: Lost Vegas」が決まっているというから、まだしばらくは楽しませてくれそうだ。
今回は、「新感染半島」と同じく悪酔い必至の酒、「ゾンビ」をチョイス。
ホワイトラム30ml、ゴールドラム30ml、ダークラム30ml、アプリコットブランデー15ml、オレンジジュース 20ml、パイナップルジュース 20ml、レモンジュース 10ml、グレナデンシロップ 10mlをシェイクして、氷を入れたゾンビグラスに注ぐ。
意外にもフルーティーでフレッシュな味わいだが、もともと酩酊させるために複数のラムを混ぜたという凶悪なカクテルで、飲んでいるうちにだんだんとゾンビと化してしまう。
ところで、巨額の現金を強奪する映画は数多いが、どれも金の重さに無頓着すぎる。
2億ドルって、お札でも2トンになるんだぞ。
あの人数で運べるわけないし、よしんば運べたとしても、重すぎてヘリ墜落しちゃうよ(笑

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2021年05月27日 (木) | 編集 |
絶望の中で、燃え盛る。
めっちゃヘビーで痛いけど、目が離せない。
中学生の息子の視点で描かれる、母さんの生き様の物語。
7年前に夫を交通事故で亡くしたシングルマザーに、ありとあらゆる理不尽が降りかかる。
そのどれもが、最近どこかで聞いたような話。
彼女はいわば、今の日本で苦しんでいる生活弱者の象徴みたいなキャラクターだ。
石井裕也監督作品では、2017年の「夜空はいつでも最高密度の青色だ 」に並ぶ、キャリアベストの仕上がりと言っていいだろう。
ほとんど出ずっぱりで主人公の田中良子を演じる、尾野真千子が素晴らしい。
間違いなく、彼女の代表作の一つとして記憶されるだろう。
語り部となる13歳の息子を、和田庵が演じる。
これは、コロナ禍の今の時代を映し出した、懸命に生きる庶民の物語だ。
元舞台女優の田中良子(尾野真千子)は、7年前にミュージシャンだった夫の陽一(オダギリジョー)を、高齢ドライバーのアクセルとブレーキの踏み間違え事故で亡くした。
加害者から謝罪がなかったことを理由に、賠償金の受け取りを拒否し、今は13歳になる息子の純平(和田庵)と共に、公営団地で暮らしている。
経営していた小さなカフェはコロナ禍でつぶれ、昼はホームセンターの生花コーナーで、夜は繁華街のピンサロで働いて日銭を得ているが、養父の介護施設費や、陽一が外で作った子供の養育費まで背負い込んでいるので家計は常に苦しい。
生きづらい世の中に翻弄されながらも、純平の前では決して怒りや悲しみを見せることなく、気丈に振る舞う毎日。
どんな苦しい時にも穏やかで「まあ頑張りましょう」が口癖の母の生き方が、純平にはもどかしく思えて仕方がない。
そんなある日、ピンサロの同僚のケイ(片山友希)と飲んだ良子は、珍しく隠していた本心を吐露し、酔い潰れてしまうのだが・・・・
本作は、石井裕也監督の前作「生きちゃった」の裏表の様な作品だ。
「生きちゃった」では、本音を言えない主人公の仲野太賀が、大島優子演じる幼馴染と結婚していて、5歳の娘を授かっている。
だが彼のささやかな幸せは、自分自身が知らないうちに壊れてしまう。
そして、一度歪んでしまった世界は、粉々に弾け飛ぶまで歪み続けるのだ。
妻の不倫からはじまる際限のない負の連鎖によって、平凡だと思っていた人生が、あっけなく壊れてしまう展開は、本作とも共通する。
重複するキャストも多く、例えば大島優子を絶望へと追い込むヤクザ者を演じている鶴見辰吾が、本作では主人公の人生をめちゃくちゃにした事故の加害者遺族だったり、キャラクターと配役にも意図を感じる。
仲野太賀は全てが壊れてしまった後、夫婦共通の幼馴染み役の若葉竜也に「(たとえ不幸にしてしまったとしても)出会っちゃったんだから」と本音の心情を吐露するが、この台詞が本作の「愛しちゃったんだから」に繋がるのは明らかだ。
しかし、2019年に公開された「生きちゃった」と本作が決定的に異なるのは、コロナ禍という現実を背景とした圧倒的なリアリティである。
冒頭、陽一の事故の様子が、ニュース番組の再現CG画面を交えて描かれる。
この事故は明らかに2019年に起こった池袋暴走事故をモチーフにしており、これは攻めた映画だぞ、と端的に感じさせる秀逸なオープニング。
ちなみにオダギリジョーは、このシーンのみ出演という贅沢さだ。
理不尽な事故によって夫を亡くしたにもかかわらず、良子は加害者が一言も謝罪しなかったために賠償金の受け取りを拒否。
純平を育てるためにカフェを経営するも、コロナ禍によって閉店を余儀なくされる。
家賃の安い公営団地に暮らし、昼はホームセンターのパート、夜はピンサロで働き、爪に火をともすようにして生きている。
しかも、陽一が亡くなって7年も経っているのに、養父が入所している介護施設費に、夫の愛人の娘に養育費まで払い続けているのだ。
彼女が収入を得たり、何かにお金を使うたびに、その金額が生々しい数字として表示される。
収入は「ピンサロ時給:3200円」「パート時給:930円」で、支出は「家賃:27000円」「養育費:70000円」「介護施設費:100000円(良子の負担分)」その他諸々だから、普通に考えたら足りるわけがない。
そんなどん詰まりの状況でも、良子の口癖は「まあ、頑張りましょう。」
本作の語り部でもある純平は、母の気持ちが理解できない。
もっと本音を言えばいいのに、嫌なことにはもっと怒ればいいのにと思っている。
色々問題のある陽一を「愛しちゃった」代償に、全ての理不尽を正面から受け止めながら、元舞台女優の良子はずっと演技をしている。
演技しすぎて、本当の自分が分からなくなるくらい。
そして彼女を崖っぷちに追いやるのは、卑屈な薄ら笑いを浮かべる男たち。
事故の加害者の弁護士、良子をリストラするホームセンターの上司、侮蔑的な言葉を投げかけるピンサロの客、そして彼女の恋心を弄ぶ同窓生。
どいつもこいつも、上から目線で良子を蔑み、彼女の心を削ってくる。
しかし彼女は知っている。
この男たちも、所詮は誰かの手のひらで転がされている、良子よりもほんの少しだけマシな立場の弱者に過ぎないことを。
中盤、ピンサロの同僚で、良子以上に過酷な人生を送っているケイが、彼女を飲みに誘う。
酒の勢いも借りながら、良子が隠していた本心を吐露するシーンは本作の白眉だ。
「まあ、頑張りましょう」は、自分自身と周りに向けた、心を落ち着かせる呪文であるのと同時に、諦めの言葉。
気丈に見える美子も、深く傷つき、ギリギリの心の状態でなんとか暮らしている。
しかしどんなに生き辛くても、「愛しちゃった」結果としての最愛の息子がいる限り、彼女は人生への希望を失わない。
てんこ盛りの理不尽が燃料となり、痛んで廃棄されてもなお咲き誇る生花のように、傷付きながらも茜色の夕空のように燃え盛るのだ。
燃え尽きてはいけない。燃え続けなければならない。
母なる者、女なる者の情念の塊のような尾野真千子が、圧巻の存在感。
ここに描かれるのは、社会正義が蔑ろにされ、強者が弱者を、弱者がさらなる弱者を搾取する現在の日本の縮図だ。
いつからこうなってしまったのか、それは分からないが、コロナ禍によってハッキリと顕在化された世知辛い社会。
国民の誰もが理不尽を感じた2019年の事故から始まり、2021年の緊急事態宣言下でオリンピック開幕準備に突き進む、まことに滑稽なるこの国で、踏みつけられたままの人たちが無数にいる。
良子と純平の激しい生命力、薄幸なケイの絶望、そして永瀬正敏が演じるピンサロ店の店長の達観が体現するのは、そんな世界に抗う我々庶民の生き様であり、死に様だ。
もがき苦しみながらも、誇りだけは失わず前を向いて歩んでゆく、コロナの時代の鮮烈な日本人のドラマは、大いなる問題提起を伴っている。
今回は、タイトルつながりで長野県の土屋酒造の「茜さす 純米大吟醸」をチョイス。
佐久酒の会が手がける、農薬無散布栽培の酒米・美山錦の一番最良な部分のみで醸される純米大吟醸。
雑味はなく、滑らかな絹のようなきめの細かい舌触りと、豊かな吟醸香。
米の持つ上品な甘味、旨味が楽しめ、最後は辛味が残る上質な日本酒だ。
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めっちゃヘビーで痛いけど、目が離せない。
中学生の息子の視点で描かれる、母さんの生き様の物語。
7年前に夫を交通事故で亡くしたシングルマザーに、ありとあらゆる理不尽が降りかかる。
そのどれもが、最近どこかで聞いたような話。
彼女はいわば、今の日本で苦しんでいる生活弱者の象徴みたいなキャラクターだ。
石井裕也監督作品では、2017年の「夜空はいつでも最高密度の青色だ 」に並ぶ、キャリアベストの仕上がりと言っていいだろう。
ほとんど出ずっぱりで主人公の田中良子を演じる、尾野真千子が素晴らしい。
間違いなく、彼女の代表作の一つとして記憶されるだろう。
語り部となる13歳の息子を、和田庵が演じる。
これは、コロナ禍の今の時代を映し出した、懸命に生きる庶民の物語だ。
元舞台女優の田中良子(尾野真千子)は、7年前にミュージシャンだった夫の陽一(オダギリジョー)を、高齢ドライバーのアクセルとブレーキの踏み間違え事故で亡くした。
加害者から謝罪がなかったことを理由に、賠償金の受け取りを拒否し、今は13歳になる息子の純平(和田庵)と共に、公営団地で暮らしている。
経営していた小さなカフェはコロナ禍でつぶれ、昼はホームセンターの生花コーナーで、夜は繁華街のピンサロで働いて日銭を得ているが、養父の介護施設費や、陽一が外で作った子供の養育費まで背負い込んでいるので家計は常に苦しい。
生きづらい世の中に翻弄されながらも、純平の前では決して怒りや悲しみを見せることなく、気丈に振る舞う毎日。
どんな苦しい時にも穏やかで「まあ頑張りましょう」が口癖の母の生き方が、純平にはもどかしく思えて仕方がない。
そんなある日、ピンサロの同僚のケイ(片山友希)と飲んだ良子は、珍しく隠していた本心を吐露し、酔い潰れてしまうのだが・・・・
本作は、石井裕也監督の前作「生きちゃった」の裏表の様な作品だ。
「生きちゃった」では、本音を言えない主人公の仲野太賀が、大島優子演じる幼馴染と結婚していて、5歳の娘を授かっている。
だが彼のささやかな幸せは、自分自身が知らないうちに壊れてしまう。
そして、一度歪んでしまった世界は、粉々に弾け飛ぶまで歪み続けるのだ。
妻の不倫からはじまる際限のない負の連鎖によって、平凡だと思っていた人生が、あっけなく壊れてしまう展開は、本作とも共通する。
重複するキャストも多く、例えば大島優子を絶望へと追い込むヤクザ者を演じている鶴見辰吾が、本作では主人公の人生をめちゃくちゃにした事故の加害者遺族だったり、キャラクターと配役にも意図を感じる。
仲野太賀は全てが壊れてしまった後、夫婦共通の幼馴染み役の若葉竜也に「(たとえ不幸にしてしまったとしても)出会っちゃったんだから」と本音の心情を吐露するが、この台詞が本作の「愛しちゃったんだから」に繋がるのは明らかだ。
しかし、2019年に公開された「生きちゃった」と本作が決定的に異なるのは、コロナ禍という現実を背景とした圧倒的なリアリティである。
冒頭、陽一の事故の様子が、ニュース番組の再現CG画面を交えて描かれる。
この事故は明らかに2019年に起こった池袋暴走事故をモチーフにしており、これは攻めた映画だぞ、と端的に感じさせる秀逸なオープニング。
ちなみにオダギリジョーは、このシーンのみ出演という贅沢さだ。
理不尽な事故によって夫を亡くしたにもかかわらず、良子は加害者が一言も謝罪しなかったために賠償金の受け取りを拒否。
純平を育てるためにカフェを経営するも、コロナ禍によって閉店を余儀なくされる。
家賃の安い公営団地に暮らし、昼はホームセンターのパート、夜はピンサロで働き、爪に火をともすようにして生きている。
しかも、陽一が亡くなって7年も経っているのに、養父が入所している介護施設費に、夫の愛人の娘に養育費まで払い続けているのだ。
彼女が収入を得たり、何かにお金を使うたびに、その金額が生々しい数字として表示される。
収入は「ピンサロ時給:3200円」「パート時給:930円」で、支出は「家賃:27000円」「養育費:70000円」「介護施設費:100000円(良子の負担分)」その他諸々だから、普通に考えたら足りるわけがない。
そんなどん詰まりの状況でも、良子の口癖は「まあ、頑張りましょう。」
本作の語り部でもある純平は、母の気持ちが理解できない。
もっと本音を言えばいいのに、嫌なことにはもっと怒ればいいのにと思っている。
色々問題のある陽一を「愛しちゃった」代償に、全ての理不尽を正面から受け止めながら、元舞台女優の良子はずっと演技をしている。
演技しすぎて、本当の自分が分からなくなるくらい。
そして彼女を崖っぷちに追いやるのは、卑屈な薄ら笑いを浮かべる男たち。
事故の加害者の弁護士、良子をリストラするホームセンターの上司、侮蔑的な言葉を投げかけるピンサロの客、そして彼女の恋心を弄ぶ同窓生。
どいつもこいつも、上から目線で良子を蔑み、彼女の心を削ってくる。
しかし彼女は知っている。
この男たちも、所詮は誰かの手のひらで転がされている、良子よりもほんの少しだけマシな立場の弱者に過ぎないことを。
中盤、ピンサロの同僚で、良子以上に過酷な人生を送っているケイが、彼女を飲みに誘う。
酒の勢いも借りながら、良子が隠していた本心を吐露するシーンは本作の白眉だ。
「まあ、頑張りましょう」は、自分自身と周りに向けた、心を落ち着かせる呪文であるのと同時に、諦めの言葉。
気丈に見える美子も、深く傷つき、ギリギリの心の状態でなんとか暮らしている。
しかしどんなに生き辛くても、「愛しちゃった」結果としての最愛の息子がいる限り、彼女は人生への希望を失わない。
てんこ盛りの理不尽が燃料となり、痛んで廃棄されてもなお咲き誇る生花のように、傷付きながらも茜色の夕空のように燃え盛るのだ。
燃え尽きてはいけない。燃え続けなければならない。
母なる者、女なる者の情念の塊のような尾野真千子が、圧巻の存在感。
ここに描かれるのは、社会正義が蔑ろにされ、強者が弱者を、弱者がさらなる弱者を搾取する現在の日本の縮図だ。
いつからこうなってしまったのか、それは分からないが、コロナ禍によってハッキリと顕在化された世知辛い社会。
国民の誰もが理不尽を感じた2019年の事故から始まり、2021年の緊急事態宣言下でオリンピック開幕準備に突き進む、まことに滑稽なるこの国で、踏みつけられたままの人たちが無数にいる。
良子と純平の激しい生命力、薄幸なケイの絶望、そして永瀬正敏が演じるピンサロ店の店長の達観が体現するのは、そんな世界に抗う我々庶民の生き様であり、死に様だ。
もがき苦しみながらも、誇りだけは失わず前を向いて歩んでゆく、コロナの時代の鮮烈な日本人のドラマは、大いなる問題提起を伴っている。
今回は、タイトルつながりで長野県の土屋酒造の「茜さす 純米大吟醸」をチョイス。
佐久酒の会が手がける、農薬無散布栽培の酒米・美山錦の一番最良な部分のみで醸される純米大吟醸。
雑味はなく、滑らかな絹のようなきめの細かい舌触りと、豊かな吟醸香。
米の持つ上品な甘味、旨味が楽しめ、最後は辛味が残る上質な日本酒だ。

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2021年05月23日 (日) | 編集 |
全力でチャランポラン!
2012年の「スプリング・ブレイカーズ」以来となる、ハーモニー・コリンのパリピムービー。
マシュー・マコノヒー演じる詩人の“ムーンドッグ”は、若い頃に出版した詩集が大評判となるも、その後は大富豪の女性と結婚し、妻の金で放蕩三昧。
今ではマイアミの本宅を出て、フロリダ半島から南西に向かって伸びる弧状列島フロリダキーズの先端にあるリゾート、キーウェストに一人で入り浸っている。
ところがある日、娘の結婚式で久々にマイアミに帰ったところ、妻が突然事故死してしまうのだ。
青天の霹靂はこれだけで終わらない。
妻は「俺はまだやる気出してないだけ」の状態がずっと続いていた夫の行く末を心配していて、遺産を相続するには、本を出さなけれならないという遺言を残していたのだ。
もちろん毎日遊んで暮らしていて、自分の資産など一銭もないから、ムーンドッグは家を追い出されてホームレスになってしまう。
タイトルの「バム」とは、ホームレスやダメ人間を意味する言葉。
普通のハリウッド映画だと、ここで一念発起するのがセオリーだが、そこはハーモニー・コリン。
一発屋のカリスマ詩人は、とことん変わらない。
上映時間のほとんどは、ムーンドッグがラリって遊び回っている時間で占められている。
彼はいわばフツーの人のアンチテーゼで、求めるのは自由、酒、葉っぱにおっぱいのみ。
それさえあれば、着の身着の儘で放り出されて、吹きっさらしのビーチでも橋の下でも楽しく過ごせてしまうし、そもそも人生を楽しめなければ、詩なんて書けないとうそぶく。
実際この人、旧式のタイプライターを持ち歩いていて、常に書いてはいるんだな。
大邸宅も高級車もブランド服も、ムーンドッグにとっては全ていつかは消えてゆくバブルの様なもので、そんなところに本当の人生はないと思っている。
実は根はマジメなんだけど、価値観が世間一般とは大きく違う。
彼が体現するのは、ある意味物質主義の対極の境地なのだ。
「スプリング・ブレイカーズ」の女子学生たちは、夏休みのように無駄に長くもなく、サンクスギビングやクリスマスの様に帰省圧力もない、一、二週間のスプリングブレイクという非日常の中で思いっきり弾ける。
しかし始まった時には永遠に思えたスプリングブレイクも、現実にはあっとういう間に終わってしまう。
リゾートに向かうテンションMAXな笑顔と、全てが終わって帰る時のどんよりした表情の落差。
あの映画では、主役の女子学生たちがあっさりと日常へと帰還していったのに対し、ジェームズ・フランコが演じたラッパーのエイリアンをはじめ、おバカな男たちは必滅の楽園を永遠のものとするために全力で抗う。
この映画は、いわば「スプリング・ブレイカー」の男女逆転版だ。
とんがったエイリアンをもうちょっとマイルドにして、ラッパーから詩人に設定し直すと、ムーンドッグの出来上がり。
48歳になったハーモニー・コリンは、彼と同世代だろう。
ムーンドッグのキャラクターには、19歳で「KIDS/キッズ」の脚本を書き、早熟の天才と呼ばれたコリン自身が投影され、不真面目なパリピ暮らしを一生続けると決めた真面目な男に、作者が深い共感を抱いているのが分かる。
ぶっ飛んでいても、犯罪を犯すのはちょっと躊躇があったり、あちこちに本来の生真面目さが覗くのもいい。
チャランポランこそがムーンドッグのアイデンティティで、そんな夫を愛した妻の遺言も、本を出すのが唯一の条件で、普通になれとは書いてない。
まあ妻も妻で、夫の友達でもあるスヌープ・ドッグがセフレ設定だったり、類は友を呼ぶというか、相当に弾けた家族なのは間違いない。
映画のスタイルも、キチッとした物語構造からはあえて逸脱していたり、相当にフリーダムな作りなので、この辺りが受け入れられる人にとっては至福の時間だろう。
受け手の大らかさも問われる作品だ。
今回は「セックス・オン・ザ・ビーチ」かなと思ったが、もうちょっと軽やかな感じで「ビーチ・フィズ」をチョイス。
クレーム・ド・ぺシェ40ml、レモン・ジュース10ml、グレナデン・シロップ1tspをシェイクし、氷を入れたタンブラーに注ぐ。
最後にソーダを一杯にして、軽くステアして完成。
甘いピーチの香りがソーダで弾け、さほど強くないのでアルコールに弱い人でも心地よく飲める。
ほんのりピンクの美しいカクテルだ。
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2012年の「スプリング・ブレイカーズ」以来となる、ハーモニー・コリンのパリピムービー。
マシュー・マコノヒー演じる詩人の“ムーンドッグ”は、若い頃に出版した詩集が大評判となるも、その後は大富豪の女性と結婚し、妻の金で放蕩三昧。
今ではマイアミの本宅を出て、フロリダ半島から南西に向かって伸びる弧状列島フロリダキーズの先端にあるリゾート、キーウェストに一人で入り浸っている。
ところがある日、娘の結婚式で久々にマイアミに帰ったところ、妻が突然事故死してしまうのだ。
青天の霹靂はこれだけで終わらない。
妻は「俺はまだやる気出してないだけ」の状態がずっと続いていた夫の行く末を心配していて、遺産を相続するには、本を出さなけれならないという遺言を残していたのだ。
もちろん毎日遊んで暮らしていて、自分の資産など一銭もないから、ムーンドッグは家を追い出されてホームレスになってしまう。
タイトルの「バム」とは、ホームレスやダメ人間を意味する言葉。
普通のハリウッド映画だと、ここで一念発起するのがセオリーだが、そこはハーモニー・コリン。
一発屋のカリスマ詩人は、とことん変わらない。
上映時間のほとんどは、ムーンドッグがラリって遊び回っている時間で占められている。
彼はいわばフツーの人のアンチテーゼで、求めるのは自由、酒、葉っぱにおっぱいのみ。
それさえあれば、着の身着の儘で放り出されて、吹きっさらしのビーチでも橋の下でも楽しく過ごせてしまうし、そもそも人生を楽しめなければ、詩なんて書けないとうそぶく。
実際この人、旧式のタイプライターを持ち歩いていて、常に書いてはいるんだな。
大邸宅も高級車もブランド服も、ムーンドッグにとっては全ていつかは消えてゆくバブルの様なもので、そんなところに本当の人生はないと思っている。
実は根はマジメなんだけど、価値観が世間一般とは大きく違う。
彼が体現するのは、ある意味物質主義の対極の境地なのだ。
「スプリング・ブレイカーズ」の女子学生たちは、夏休みのように無駄に長くもなく、サンクスギビングやクリスマスの様に帰省圧力もない、一、二週間のスプリングブレイクという非日常の中で思いっきり弾ける。
しかし始まった時には永遠に思えたスプリングブレイクも、現実にはあっとういう間に終わってしまう。
リゾートに向かうテンションMAXな笑顔と、全てが終わって帰る時のどんよりした表情の落差。
あの映画では、主役の女子学生たちがあっさりと日常へと帰還していったのに対し、ジェームズ・フランコが演じたラッパーのエイリアンをはじめ、おバカな男たちは必滅の楽園を永遠のものとするために全力で抗う。
この映画は、いわば「スプリング・ブレイカー」の男女逆転版だ。
とんがったエイリアンをもうちょっとマイルドにして、ラッパーから詩人に設定し直すと、ムーンドッグの出来上がり。
48歳になったハーモニー・コリンは、彼と同世代だろう。
ムーンドッグのキャラクターには、19歳で「KIDS/キッズ」の脚本を書き、早熟の天才と呼ばれたコリン自身が投影され、不真面目なパリピ暮らしを一生続けると決めた真面目な男に、作者が深い共感を抱いているのが分かる。
ぶっ飛んでいても、犯罪を犯すのはちょっと躊躇があったり、あちこちに本来の生真面目さが覗くのもいい。
チャランポランこそがムーンドッグのアイデンティティで、そんな夫を愛した妻の遺言も、本を出すのが唯一の条件で、普通になれとは書いてない。
まあ妻も妻で、夫の友達でもあるスヌープ・ドッグがセフレ設定だったり、類は友を呼ぶというか、相当に弾けた家族なのは間違いない。
映画のスタイルも、キチッとした物語構造からはあえて逸脱していたり、相当にフリーダムな作りなので、この辺りが受け入れられる人にとっては至福の時間だろう。
受け手の大らかさも問われる作品だ。
今回は「セックス・オン・ザ・ビーチ」かなと思ったが、もうちょっと軽やかな感じで「ビーチ・フィズ」をチョイス。
クレーム・ド・ぺシェ40ml、レモン・ジュース10ml、グレナデン・シロップ1tspをシェイクし、氷を入れたタンブラーに注ぐ。
最後にソーダを一杯にして、軽くステアして完成。
甘いピーチの香りがソーダで弾け、さほど強くないのでアルコールに弱い人でも心地よく飲める。
ほんのりピンクの美しいカクテルだ。

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2021年05月19日 (水) | 編集 |
壊れてゆくセカイ。
非常に辛い映画だ。
ロンドンに住む81歳のアンソニーと、彼を介護する娘のアンの物語。
この作品が特徴的なのは、認知症を患うアンソニーの視点で描かれていること。
だから自分がどこにいるのか、誰と話しているのか、時間も場所も主人公の主観では完全に混乱している。
原作はフランスの劇作家、フロリアン・ゼレールが2012年に発表した戯曲「Le Père(父)」。
2015年にはフィリップ・ル・ゲ監督のコメディ映画「Floride」として映画化されていて、本作は原作者自身がメガホンをとったセルフリメイク版だ。
ゼレールは、「危険な関係」でアカデミー脚色賞に輝いたクリストファー・ハンプトンと共に元の戯曲を脚色し、演劇的な構造を色濃く残しながらも、実に映画的なストーリーテリングで魅せる。
名優アンソニー・ホプキンスが、名前も誕生日も本人と同じ設定に当て書きされた主人公を演じ、圧巻の存在感。
彼の娘アンを、オリビア・コールマンが演じる。
ロンドンに住むアンソニー(アンソニー・ホプキンス)の元に、娘のアン(オリビア・コールマン)が訪ねてくる。
せっかく雇った介護士の女性を、偏屈なアンソニーが追い出してしまったと怒っているのだ。
アンは色々と世話を焼くが、アンソニーは自分には介護など必要ないと思っているので、父娘はすれ違ったまま。
すると唐突にアンが「新しい恋人とパリに移住する」と言い出す。
今までのように、毎日は来られないから、アンソニーの日常をサポートしてくれる介護士が必要だと説得する。
しかしアンソニーは腑に落ちない。
それならば、リビングでのんびりと新聞を読んでいる、アンの夫だという男は誰だ?
そして帰宅したアンは、まるで別人のようだ。
ある朝、アンが手配した新しい介護士の女性が面接にやって来る。
ローラ(イモージェン・プーツ)と名乗った女性は、なかなか会いに来ない次女のルーシーとそっくりだ。
アンソニーは混乱し、自分の置かれている状況が理解できなくなってゆくのだが・・・・
本作は、いわゆる“信頼出来ない語り手”による物語だ。
これはアメリカの評論家ウェイン・C・ブースが名著「フィクションの修辞学」で提唱した概念で、語った内容が検証しようのない一人称の語り手は信用に欠くというもの。
語った内容が嘘かも知れないし、妄想かもしれない。
例えば、ガイ・リッチー監督の「ジェントルメン」では、イギリスの大麻王が引退を決意した結果、利権を狙う悪党たちが抗争を繰り広げる顛末が、ヒュー・グラント演じる事件記者の書いた、一人称のルポ記事という形で進行してゆく。
しかし記者自身も利権を狙う悪党の一人なので、語られている物語が本当なのか、それとも彼の都合のいいように改変された話なのか判断がつかない。
受け手にとって、語り手に対する信頼が弱いと物語そのものが揺らいで来る。
もっとも、黒澤明の「羅生門」のように、同じ話を別々の視点から見るだけでも、異なる事実が浮かび上がることもあるから、二人称、三人称の語り手が信頼出来なくなることも多いし、必ずしも一人称だから、ということではないのだが。
そして、時として語り手に対する信頼の無さが、観客の想像力を刺激し、物語に対する興味を増幅させる場合もある。
本作のアンソニーは何しろ認知症なので、ある意味一番信頼出来ない語り手だ。
もっとも自分では認知症だという自覚がなく、自分は健康だから娘の手を借りなくとも普通に生活できると思っている。
でも彼の見ている世界は、確実に壊れてゆく。
最初は長年暮らしている自分のフラット(マンション)に住んでいて、アンが通って来ていると思っているのだが、いつの間にかアンが夫と暮らすフラットに、自分が引き取られたのだと言われて戸惑を隠せない。
部屋の間取りや家具も変わり、財産を娘夫婦に奪われたのかと疑う。
一度体験したことが二度起こり、時にはアンの夫が別人になったり、アン自身の容姿も全く変わったりする。
新たに雇われた介護士は、なぜか音信不通の次女ルーシーとそっくりに見える。
これらの不可思議で理解不能な変化が、アンソニーの中では現実として、シームレスに起こるのである。
認知症を描いた作品は古今東西無数にあるが、この病気をこれほどディープに、体験的に理解させてくれる作品は無かった。
多くのフィクションは、認知症患者を介護したり、治療したりする立場から描かれているのだが、本作では患者自身の認識している奇妙な世界を垣間見ることが出来るのだ。
日常が歪み、時間も空間も刻々と変化してゆく。
よく知っている人が、いつの間にか別人になってしまう。
ふと気づくたびに、別の世界線にいるようなものだから当然混乱するし、自分がおかしいという自覚が無いぶん余計にキツい。
自分だけが人と異なる世界にぽつんと取り残される、その孤独と恐ろしさ。
認知症患者本人にしてみれば、まるで自分が不条理ホラーの出演者になってしまったような感覚だろう。
この映画では、アンソニーの認識している世界は変化するが、基本は彼の暮らすフラットを舞台とした密室劇。
空間は演劇的だが、主人公の認識している世界の表現は極めて映画的だ。
アンソニーの視点で描かれてはいるものの、本当に主観だけだと訳の分からないシュールな映画になってしまうので、観客が状況を理解できる適度に客観描写を取り混ぜ、混乱を誘う美術や衣装の工夫など、画面の隅々まで作り込まれている。
フロリアン・ゼレールは当然舞台の経験は豊富なはずだが、元の戯曲が持っていた演劇的な要素を、カメラによるフレームワークと編集による時間のコントロールという映像的要素に変換し、初監督とは思えないくらいに洗練されたテリングで魅せる。
そしてやはり、本作の白眉はアンソニー・ホプキンスだ。
アカデミー賞では、「マ・レイニーのブラックボトム」でキーパーソンを演じた、故チャドウィック・ボーズマンの受賞が確実視されていたために、サプライズなんて言われてしまったが、いやこの演技は文句なしに凄い。
本作が見事なのは、単に認知症の恐ろしさを体験させるのではなく、ドラマの根底に家族に刺さった過去の傷を設定し、父娘の葛藤のドラマとしたことにある。
実はアンソニーが一番愛していたのは、亡くなった次女のルーシーで、彼の心の中では画家だった彼女は今もどこかで生きている。
実際に彼の世話をしているアンの前でも、大切なルーシーに対する想いを隠そうともしないのだ。
この世の誰もが老からは逃れられず、もしかしたら認知症になるかも知れない。
ホプキンスは運命に抗おうとして、いつの間にか病に絡めとられる主人公を味わい深く演じ、誰もが感情移入せざるを得ない。
そしてアンは、自分があまり愛されていなかったと感じているからこそ、壊れてゆく父へのわだかまりだけでなく、亡き妹に対してももはやぶつけることが出来ない複雑な感情を抱いているのである。
家族に対する愛憎を、抑えた演技の中で巧みに表現したオリビア・コールマンもまた素晴らしい。
本作では、認知症という病によって顕在化された、不完全な人間に対する愛おしさが、凝った脚本と丁寧な演出によって、優れた心理劇として昇華されている。
驚くべき未見性を持った傑作である。
いぶし銀の人間ドラマには、ウィスキーが相応しい。
300年以上の歴史を持つ、スコッチの定番「ザ・マッカラン 18年」をチョイス。
最低18年、シェリー樽で熟成されたスコッチは、明るいマホガニーの色合いも美しく、複雑なアフターテイストを楽しめる。
マッカランは10年や12年ものも十分に美味しいが、人間と同じでこの18年あたりからグッと深みを増す。
それでも名優アンソニー・ホプキンスの領域にはまだまだだろうが。
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非常に辛い映画だ。
ロンドンに住む81歳のアンソニーと、彼を介護する娘のアンの物語。
この作品が特徴的なのは、認知症を患うアンソニーの視点で描かれていること。
だから自分がどこにいるのか、誰と話しているのか、時間も場所も主人公の主観では完全に混乱している。
原作はフランスの劇作家、フロリアン・ゼレールが2012年に発表した戯曲「Le Père(父)」。
2015年にはフィリップ・ル・ゲ監督のコメディ映画「Floride」として映画化されていて、本作は原作者自身がメガホンをとったセルフリメイク版だ。
ゼレールは、「危険な関係」でアカデミー脚色賞に輝いたクリストファー・ハンプトンと共に元の戯曲を脚色し、演劇的な構造を色濃く残しながらも、実に映画的なストーリーテリングで魅せる。
名優アンソニー・ホプキンスが、名前も誕生日も本人と同じ設定に当て書きされた主人公を演じ、圧巻の存在感。
彼の娘アンを、オリビア・コールマンが演じる。
ロンドンに住むアンソニー(アンソニー・ホプキンス)の元に、娘のアン(オリビア・コールマン)が訪ねてくる。
せっかく雇った介護士の女性を、偏屈なアンソニーが追い出してしまったと怒っているのだ。
アンは色々と世話を焼くが、アンソニーは自分には介護など必要ないと思っているので、父娘はすれ違ったまま。
すると唐突にアンが「新しい恋人とパリに移住する」と言い出す。
今までのように、毎日は来られないから、アンソニーの日常をサポートしてくれる介護士が必要だと説得する。
しかしアンソニーは腑に落ちない。
それならば、リビングでのんびりと新聞を読んでいる、アンの夫だという男は誰だ?
そして帰宅したアンは、まるで別人のようだ。
ある朝、アンが手配した新しい介護士の女性が面接にやって来る。
ローラ(イモージェン・プーツ)と名乗った女性は、なかなか会いに来ない次女のルーシーとそっくりだ。
アンソニーは混乱し、自分の置かれている状況が理解できなくなってゆくのだが・・・・
本作は、いわゆる“信頼出来ない語り手”による物語だ。
これはアメリカの評論家ウェイン・C・ブースが名著「フィクションの修辞学」で提唱した概念で、語った内容が検証しようのない一人称の語り手は信用に欠くというもの。
語った内容が嘘かも知れないし、妄想かもしれない。
例えば、ガイ・リッチー監督の「ジェントルメン」では、イギリスの大麻王が引退を決意した結果、利権を狙う悪党たちが抗争を繰り広げる顛末が、ヒュー・グラント演じる事件記者の書いた、一人称のルポ記事という形で進行してゆく。
しかし記者自身も利権を狙う悪党の一人なので、語られている物語が本当なのか、それとも彼の都合のいいように改変された話なのか判断がつかない。
受け手にとって、語り手に対する信頼が弱いと物語そのものが揺らいで来る。
もっとも、黒澤明の「羅生門」のように、同じ話を別々の視点から見るだけでも、異なる事実が浮かび上がることもあるから、二人称、三人称の語り手が信頼出来なくなることも多いし、必ずしも一人称だから、ということではないのだが。
そして、時として語り手に対する信頼の無さが、観客の想像力を刺激し、物語に対する興味を増幅させる場合もある。
本作のアンソニーは何しろ認知症なので、ある意味一番信頼出来ない語り手だ。
もっとも自分では認知症だという自覚がなく、自分は健康だから娘の手を借りなくとも普通に生活できると思っている。
でも彼の見ている世界は、確実に壊れてゆく。
最初は長年暮らしている自分のフラット(マンション)に住んでいて、アンが通って来ていると思っているのだが、いつの間にかアンが夫と暮らすフラットに、自分が引き取られたのだと言われて戸惑を隠せない。
部屋の間取りや家具も変わり、財産を娘夫婦に奪われたのかと疑う。
一度体験したことが二度起こり、時にはアンの夫が別人になったり、アン自身の容姿も全く変わったりする。
新たに雇われた介護士は、なぜか音信不通の次女ルーシーとそっくりに見える。
これらの不可思議で理解不能な変化が、アンソニーの中では現実として、シームレスに起こるのである。
認知症を描いた作品は古今東西無数にあるが、この病気をこれほどディープに、体験的に理解させてくれる作品は無かった。
多くのフィクションは、認知症患者を介護したり、治療したりする立場から描かれているのだが、本作では患者自身の認識している奇妙な世界を垣間見ることが出来るのだ。
日常が歪み、時間も空間も刻々と変化してゆく。
よく知っている人が、いつの間にか別人になってしまう。
ふと気づくたびに、別の世界線にいるようなものだから当然混乱するし、自分がおかしいという自覚が無いぶん余計にキツい。
自分だけが人と異なる世界にぽつんと取り残される、その孤独と恐ろしさ。
認知症患者本人にしてみれば、まるで自分が不条理ホラーの出演者になってしまったような感覚だろう。
この映画では、アンソニーの認識している世界は変化するが、基本は彼の暮らすフラットを舞台とした密室劇。
空間は演劇的だが、主人公の認識している世界の表現は極めて映画的だ。
アンソニーの視点で描かれてはいるものの、本当に主観だけだと訳の分からないシュールな映画になってしまうので、観客が状況を理解できる適度に客観描写を取り混ぜ、混乱を誘う美術や衣装の工夫など、画面の隅々まで作り込まれている。
フロリアン・ゼレールは当然舞台の経験は豊富なはずだが、元の戯曲が持っていた演劇的な要素を、カメラによるフレームワークと編集による時間のコントロールという映像的要素に変換し、初監督とは思えないくらいに洗練されたテリングで魅せる。
そしてやはり、本作の白眉はアンソニー・ホプキンスだ。
アカデミー賞では、「マ・レイニーのブラックボトム」でキーパーソンを演じた、故チャドウィック・ボーズマンの受賞が確実視されていたために、サプライズなんて言われてしまったが、いやこの演技は文句なしに凄い。
本作が見事なのは、単に認知症の恐ろしさを体験させるのではなく、ドラマの根底に家族に刺さった過去の傷を設定し、父娘の葛藤のドラマとしたことにある。
実はアンソニーが一番愛していたのは、亡くなった次女のルーシーで、彼の心の中では画家だった彼女は今もどこかで生きている。
実際に彼の世話をしているアンの前でも、大切なルーシーに対する想いを隠そうともしないのだ。
この世の誰もが老からは逃れられず、もしかしたら認知症になるかも知れない。
ホプキンスは運命に抗おうとして、いつの間にか病に絡めとられる主人公を味わい深く演じ、誰もが感情移入せざるを得ない。
そしてアンは、自分があまり愛されていなかったと感じているからこそ、壊れてゆく父へのわだかまりだけでなく、亡き妹に対してももはやぶつけることが出来ない複雑な感情を抱いているのである。
家族に対する愛憎を、抑えた演技の中で巧みに表現したオリビア・コールマンもまた素晴らしい。
本作では、認知症という病によって顕在化された、不完全な人間に対する愛おしさが、凝った脚本と丁寧な演出によって、優れた心理劇として昇華されている。
驚くべき未見性を持った傑作である。
いぶし銀の人間ドラマには、ウィスキーが相応しい。
300年以上の歴史を持つ、スコッチの定番「ザ・マッカラン 18年」をチョイス。
最低18年、シェリー樽で熟成されたスコッチは、明るいマホガニーの色合いも美しく、複雑なアフターテイストを楽しめる。
マッカランは10年や12年ものも十分に美味しいが、人間と同じでこの18年あたりからグッと深みを増す。
それでも名優アンソニー・ホプキンスの領域にはまだまだだろうが。

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2021年05月15日 (土) | 編集 |
郷愁は、時としてビター。
名匠ロン・ハワードが、アメリカでベストセラーとなったJ・D・ヴァンスの回想録「ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち」を映画化した作品。
タイトル通り、主人公はオハイオ州の貧しいヒルビリーの家庭の出身で、今後の人生を決めるインターン面接を控えた、イェール大学のロースクールの学生。
ところがある夜、母がドラッグの過剰摂取で入院したという連絡を受ける。
彼は自分のキャリアと故郷の家族の間で、深刻な葛藤を抱えてしまうのだ。
背景にあるのは世代を超えて繰り返す、貧困の連鎖。
脚色を担当したのは、「シェイプ・オブ・ウォーター」が記憶に新しいヴァネッサ・テイラー。
主人公のJ・D・ヴァンスにガブリエル・バッソ、母親のベヴにエイミー・アダムズ、祖母のマモーウにグレン・クローズ、姉のリンジーにヘイリー・ベネットと、重厚なキャスティング。
夢を実現させるためには、何が必要なのか。
いかにもアメリカらしい、骨太のファミリードラマだ。
名門イェール大学のロースクールに通うJ・D・ヴァンス(ガブリエル・バッソ)は、正念場のインターン面接を控えたある夜、故郷からの連絡を受ける。
母親のベヴ(エイミー・アダムズ)がヘロインの過剰摂取が原因で倒れ、入院したというのだ。
オハイオ州ミドルタウンの典型的なプアホワイト家庭に育ち、子供の頃から躁鬱の激しいベヴに振り回されてきたJ・Dにとっては、故郷は必ずしも良き郷愁を感じるところではない。
一晩車を走らせて、ミドルタウンに到着したものの、翌日の面接に間に合わせるためにはその日の夜にはまた元来た道を戻らねばならない。
ベヴに重篤な後遺症は無かったが、入院の延長が認められず、病院を追い出されそうになっていた。
彼女の理解者だった祖母のマモーウ(グレン・クローズ)は既に亡くなり、同棲していたジャンキー男とは破局し、帰る家がない。
J・Dは姉のリンジー(ヘイリー・ベネット)と協力して、夜までになんとかベヴが滞在できる施設を探そうとするのだが・・・
ヒルビリーとは、遅れてきた移民である主に北アイルランド出身のスコットランド人のこと。
彼らの社会を描いた作品と言えば、ジェニファー・ローレンスが初めてアカデミー主演女優賞にノミネートされ、大女優への道を歩み出した「ウィンターズ・ボーン」が強く記憶に残る。
19世紀の半ば以降に新大陸に渡ってきた彼らは、肥沃な平地を購入することが出来ず、ある者はゴールドラッシュに沸く西部を目指し、ある者はアメリカ東部から中部にかけて広がるアパラチア・オザークの山間に入植し、「高地のスコットランド人」を意味するヒルビリーと呼ばれるようになる。
寒冷な山間部ではろくな農産物は育たず、容赦なく貧困が襲う。
山を降りて平地に暮らすようになっても、働き口の炭鉱や製鉄はいつしか斜陽産業となり、アパラチア山脈の西側は現在では”ラスト(錆)ベルト”と呼ばれ貧しいままだ。
それでも、山深いミズーリ州オザークを舞台とし、周りの人間が皆犯罪で生計を立てている「ウィンターズ・ボーン」のヒルビリーと比べれば、本作の登場人物はずっと”普通”の生活をしている。
主人公のJ・Dの家族はもともとケンタッキー州のジャクソンに住んでいたのだが、祖父母の代で駆け落ち同然に故郷を出て、オハイオ州ミドルタウンに移住。
当時そこはアームコという製鉄会社の企業城下町で、それなりに栄えていたからだ。
しかし、20世紀後半になるとアメリカの製造業の例に漏れず、急速に衰退してしまう。
本作の序盤に、祖父母が若い頃の活気あふれるミドルタウンと、すっかり寂れて日本で言うところのシャッター通りと化した現在を対比する描写がある。
ラストベルトの特徴が、一つの地場産業に支えられている地域が多く、その産業がダメになると、代替する産業が育たず地域ごと没落してしまうこと。
失業は貧困を、貧困は家庭内でのドラッグ、アルコール依存、DV問題を作りだし、離婚は急増し家庭は崩壊。
子供たちもまともな教育は受けられず、負の連鎖は世代を超えて受け継がれてゆく。
人種的にはマジョリティーに属することで、例えば黒人社会のようなダイナミックな社会変革とは無縁だった彼らプアホワイトが、忘れられた貧困層として静かな不満を募らせて、ついに爆発したのがトランプ大統領を誕生させた2016年の大統領選挙だ。
狡猾なトランプは、彼らの不満を上手くすくい上げ、自らの熱烈な支持層とすることに成功したのである。
この映画の原作である「ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち」が出版され、ベストセラーとなったのも、前回の大統領選挙真っ只中の2016年の夏。
トランプを支持するプアホワイトの背景にあるものが描かれていると、大手メディアから注目されて大きな話題となった。
実際ラストベルトのトランプ熱は高く、昨年の大統領選挙でも、J・Dのルーツであるオハイオ、ケンタッキーではトランプが勝利した。
ところで本作は、アメリカの一般視聴者には好評なのだが、批評家受けがすこぶるよろしくない。
それは「ヒルビリー・エレジー」というタイトルにも関わらず、上記したような社会的、政治的な背景をほとんど描かずに、こじんまりとした主人公の家族の物語としてしまったからだろう。
同時期に公開された「Mank/マンク」や「シカゴ7裁判」が、露骨にトランプ再選阻止を目的とした政治映画だったのに対し、ある意味トランプ政権誕生に最も関わりの深い本作が、政治性から逃げたように見えてしまった。
しかし映画のアプローチはそれぞれなので、私は家族の関係に絞った本作を肯定したい。
おそらく全てを描こうとすると、2時間の映画では到底足りず、ミニシリーズのような形にするしかないだろう。
ロン・ハワードは、故郷でベヴの居場所探しをするJ・Dの今を起点に、彼の子供時代を並行に描いてゆく。
たぶんもともと躁鬱の激しい人なのだろうが、看護師をしていたベヴは感情が先走ると手が付けられない。
新しい恋人を作っては別れ、不満をまぎらわすためにドラッグに溺れて、職場で抜き打ちの尿検査があると、あろうことかJ・Dにオシッコをさせてそれを提出する。
子供の頃から、エキセントリックな母に振り回されて育ったJ・Dにとって、恩人と言えるのがグレン・クローズ演じる祖母のマモーウだ。
アカデミー賞では、「ミナリ」のユン・ヨジョンとの口の悪いお婆ちゃん対決で敗れたが、胸に刺さる格言を連発するこの役の演技は本当に素晴らしかった。
J・Dが、ラストベルトの貧困の連鎖から抜け出すことができたのは、問題を抱えた母ではなく、全てを達観したマモーウによって育てられたから。
そして地元を出て海兵隊に入隊したことで、初めてラストベルト以外の世界を知り、東部の大学へ通うチャンスを得る。
「ウィンターズ・ボーン」でも、主人公が軍に志願する描写があるが、アメリカで自分の置かれた立場を脱しようと思うと、一番手っ取り早いのが軍に入隊することなのだ。
この映画に描かれているのはトランプ時代、そしてポスト・トランプ時代のアメリカが抱える深刻な分断の、ほんの一面に過ぎない。
だが、東部でエリートへの切符を手にしたJ・Dと、故郷に残った家族のごくパーソナルな葛藤の中にも、実は全てが含まれているのである。
華やかな都会と衰退する田舎、世界で最も裕福な社会と世代をまたぐ貧困に苦しむ社会、共通するのは共に白人という括りだけで、二つの世界は完全に引き裂かれている。
カトラリーの使い方すら知らない環境で育ち、今まさに負の連鎖から脱出しようとしているJ・Dにとって、故郷の記憶はある意味逃れられない呪縛だ。
成功するためには去らねばならないが、そこには助けを求める愛する者たちがいる。
政治性を可能な限り排除した結果、現在アメリカの社会分断を理解する上で、非常に分かりやすい入門編となっているのも事実。
なぜプアホワイトはトランプを支持したのか、J・Dに差し出されたベヴの悲しげな手が物語る、切実な願いからその答えが見えてくる。
困難の中の家族愛を描いた本作には、ルビー色のカクテル「トゥルー・ラブ」をチョイス。
ドライ・ベルモット15ml、ポートワインの赤15ml、スコッチ・ウィスキー15mlを氷と一緒にミキシンググラスでステアして、グラスに注ぐ。
口当たりはマイルドで非常に美しいカクテルだが、材料を見れば分かるとおり、見た目とは違ってかなり強い。
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名匠ロン・ハワードが、アメリカでベストセラーとなったJ・D・ヴァンスの回想録「ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち」を映画化した作品。
タイトル通り、主人公はオハイオ州の貧しいヒルビリーの家庭の出身で、今後の人生を決めるインターン面接を控えた、イェール大学のロースクールの学生。
ところがある夜、母がドラッグの過剰摂取で入院したという連絡を受ける。
彼は自分のキャリアと故郷の家族の間で、深刻な葛藤を抱えてしまうのだ。
背景にあるのは世代を超えて繰り返す、貧困の連鎖。
脚色を担当したのは、「シェイプ・オブ・ウォーター」が記憶に新しいヴァネッサ・テイラー。
主人公のJ・D・ヴァンスにガブリエル・バッソ、母親のベヴにエイミー・アダムズ、祖母のマモーウにグレン・クローズ、姉のリンジーにヘイリー・ベネットと、重厚なキャスティング。
夢を実現させるためには、何が必要なのか。
いかにもアメリカらしい、骨太のファミリードラマだ。
名門イェール大学のロースクールに通うJ・D・ヴァンス(ガブリエル・バッソ)は、正念場のインターン面接を控えたある夜、故郷からの連絡を受ける。
母親のベヴ(エイミー・アダムズ)がヘロインの過剰摂取が原因で倒れ、入院したというのだ。
オハイオ州ミドルタウンの典型的なプアホワイト家庭に育ち、子供の頃から躁鬱の激しいベヴに振り回されてきたJ・Dにとっては、故郷は必ずしも良き郷愁を感じるところではない。
一晩車を走らせて、ミドルタウンに到着したものの、翌日の面接に間に合わせるためにはその日の夜にはまた元来た道を戻らねばならない。
ベヴに重篤な後遺症は無かったが、入院の延長が認められず、病院を追い出されそうになっていた。
彼女の理解者だった祖母のマモーウ(グレン・クローズ)は既に亡くなり、同棲していたジャンキー男とは破局し、帰る家がない。
J・Dは姉のリンジー(ヘイリー・ベネット)と協力して、夜までになんとかベヴが滞在できる施設を探そうとするのだが・・・
ヒルビリーとは、遅れてきた移民である主に北アイルランド出身のスコットランド人のこと。
彼らの社会を描いた作品と言えば、ジェニファー・ローレンスが初めてアカデミー主演女優賞にノミネートされ、大女優への道を歩み出した「ウィンターズ・ボーン」が強く記憶に残る。
19世紀の半ば以降に新大陸に渡ってきた彼らは、肥沃な平地を購入することが出来ず、ある者はゴールドラッシュに沸く西部を目指し、ある者はアメリカ東部から中部にかけて広がるアパラチア・オザークの山間に入植し、「高地のスコットランド人」を意味するヒルビリーと呼ばれるようになる。
寒冷な山間部ではろくな農産物は育たず、容赦なく貧困が襲う。
山を降りて平地に暮らすようになっても、働き口の炭鉱や製鉄はいつしか斜陽産業となり、アパラチア山脈の西側は現在では”ラスト(錆)ベルト”と呼ばれ貧しいままだ。
それでも、山深いミズーリ州オザークを舞台とし、周りの人間が皆犯罪で生計を立てている「ウィンターズ・ボーン」のヒルビリーと比べれば、本作の登場人物はずっと”普通”の生活をしている。
主人公のJ・Dの家族はもともとケンタッキー州のジャクソンに住んでいたのだが、祖父母の代で駆け落ち同然に故郷を出て、オハイオ州ミドルタウンに移住。
当時そこはアームコという製鉄会社の企業城下町で、それなりに栄えていたからだ。
しかし、20世紀後半になるとアメリカの製造業の例に漏れず、急速に衰退してしまう。
本作の序盤に、祖父母が若い頃の活気あふれるミドルタウンと、すっかり寂れて日本で言うところのシャッター通りと化した現在を対比する描写がある。
ラストベルトの特徴が、一つの地場産業に支えられている地域が多く、その産業がダメになると、代替する産業が育たず地域ごと没落してしまうこと。
失業は貧困を、貧困は家庭内でのドラッグ、アルコール依存、DV問題を作りだし、離婚は急増し家庭は崩壊。
子供たちもまともな教育は受けられず、負の連鎖は世代を超えて受け継がれてゆく。
人種的にはマジョリティーに属することで、例えば黒人社会のようなダイナミックな社会変革とは無縁だった彼らプアホワイトが、忘れられた貧困層として静かな不満を募らせて、ついに爆発したのがトランプ大統領を誕生させた2016年の大統領選挙だ。
狡猾なトランプは、彼らの不満を上手くすくい上げ、自らの熱烈な支持層とすることに成功したのである。
この映画の原作である「ヒルビリー・エレジー アメリカの繁栄から取り残された白人たち」が出版され、ベストセラーとなったのも、前回の大統領選挙真っ只中の2016年の夏。
トランプを支持するプアホワイトの背景にあるものが描かれていると、大手メディアから注目されて大きな話題となった。
実際ラストベルトのトランプ熱は高く、昨年の大統領選挙でも、J・Dのルーツであるオハイオ、ケンタッキーではトランプが勝利した。
ところで本作は、アメリカの一般視聴者には好評なのだが、批評家受けがすこぶるよろしくない。
それは「ヒルビリー・エレジー」というタイトルにも関わらず、上記したような社会的、政治的な背景をほとんど描かずに、こじんまりとした主人公の家族の物語としてしまったからだろう。
同時期に公開された「Mank/マンク」や「シカゴ7裁判」が、露骨にトランプ再選阻止を目的とした政治映画だったのに対し、ある意味トランプ政権誕生に最も関わりの深い本作が、政治性から逃げたように見えてしまった。
しかし映画のアプローチはそれぞれなので、私は家族の関係に絞った本作を肯定したい。
おそらく全てを描こうとすると、2時間の映画では到底足りず、ミニシリーズのような形にするしかないだろう。
ロン・ハワードは、故郷でベヴの居場所探しをするJ・Dの今を起点に、彼の子供時代を並行に描いてゆく。
たぶんもともと躁鬱の激しい人なのだろうが、看護師をしていたベヴは感情が先走ると手が付けられない。
新しい恋人を作っては別れ、不満をまぎらわすためにドラッグに溺れて、職場で抜き打ちの尿検査があると、あろうことかJ・Dにオシッコをさせてそれを提出する。
子供の頃から、エキセントリックな母に振り回されて育ったJ・Dにとって、恩人と言えるのがグレン・クローズ演じる祖母のマモーウだ。
アカデミー賞では、「ミナリ」のユン・ヨジョンとの口の悪いお婆ちゃん対決で敗れたが、胸に刺さる格言を連発するこの役の演技は本当に素晴らしかった。
J・Dが、ラストベルトの貧困の連鎖から抜け出すことができたのは、問題を抱えた母ではなく、全てを達観したマモーウによって育てられたから。
そして地元を出て海兵隊に入隊したことで、初めてラストベルト以外の世界を知り、東部の大学へ通うチャンスを得る。
「ウィンターズ・ボーン」でも、主人公が軍に志願する描写があるが、アメリカで自分の置かれた立場を脱しようと思うと、一番手っ取り早いのが軍に入隊することなのだ。
この映画に描かれているのはトランプ時代、そしてポスト・トランプ時代のアメリカが抱える深刻な分断の、ほんの一面に過ぎない。
だが、東部でエリートへの切符を手にしたJ・Dと、故郷に残った家族のごくパーソナルな葛藤の中にも、実は全てが含まれているのである。
華やかな都会と衰退する田舎、世界で最も裕福な社会と世代をまたぐ貧困に苦しむ社会、共通するのは共に白人という括りだけで、二つの世界は完全に引き裂かれている。
カトラリーの使い方すら知らない環境で育ち、今まさに負の連鎖から脱出しようとしているJ・Dにとって、故郷の記憶はある意味逃れられない呪縛だ。
成功するためには去らねばならないが、そこには助けを求める愛する者たちがいる。
政治性を可能な限り排除した結果、現在アメリカの社会分断を理解する上で、非常に分かりやすい入門編となっているのも事実。
なぜプアホワイトはトランプを支持したのか、J・Dに差し出されたベヴの悲しげな手が物語る、切実な願いからその答えが見えてくる。
困難の中の家族愛を描いた本作には、ルビー色のカクテル「トゥルー・ラブ」をチョイス。
ドライ・ベルモット15ml、ポートワインの赤15ml、スコッチ・ウィスキー15mlを氷と一緒にミキシンググラスでステアして、グラスに注ぐ。
口当たりはマイルドで非常に美しいカクテルだが、材料を見れば分かるとおり、見た目とは違ってかなり強い。

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2021年05月11日 (火) | 編集 |
最後に笑うのは誰だ?
イギリスの裏社会で大成功したアメリカ人の大麻王、ミッキーが引退を決意。
巨大な大麻ビジネスの利権を巡って、ユダヤ系のフィクサーやらチャイニーズマフィアやら、怪しい連中がワラワラ集まってくる。
主人公のミッキーに、マシュー・マコノヒー、妻のロザリンドにミッシェル・ドッカリー、腹心のレイにチャーリー・ハナム、ユダヤ系アメリカ人でビジネスを買い取ろうとするマシューにジェレミー・ストロング、チャイニーズマフィアのドライ・アイにヘンリー・ゴールディング、事件記者フレッチャーにヒュー・グラント、そして図らずもキーパーソンとなってしまう格闘技道場のコーチにコリン・ファレル。
登場人物全員が、裏社会に蠢く悪党。
腹に逸物を抱えたくせ者たちを、これまた一癖ある演技派俳優陣が演じる。
ダメな時はとことん酷いが、出来る子モードの時はかなり上手く仕上げてくる、どっちに転ぶかわからないのがガイ・リッチー。
とは言え、近年は「シャーロック・ホームズ」や「コードネーム U.N.C.L.E.」といったプログラムピクチュアで評価を高め、ついにはディズニーで「アラジン」を大ヒットさせた。
今回はリッチーのオリジナル脚本で、路線的には初期の「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」や「スナッチ」への回帰とも言えるが、以前よりも安定感と円熟味が増したのは明らか。
やたらと豪華な俳優たちの生かし方も巧みで、十分に面白い。
構成としては、全体が事件記者フレッチャーが取材した“ストーリー”になってるのが特徴。
彼は組織のビジネスの全貌を暴露されたくなかったら、2000万ポンド(約30億円)払えとレイを脅すのだが、そもそもの発端はボスのミッキーが大麻ビジネスの売却を決意したことだ。
ミッキーは英国の貧乏貴族たちと密かに契約を結び、彼らの領地にいくつもの地下栽培所を作り、巨額の売り上げを誇っている。
ヨーロッパでは大麻の合法化が進んでいるが、需要に対して供給が追いつかないので、今後ますますビジネスは大きくなる。
この美味しい話に最初に手をあげたのがユダヤ系アメリカ人のマシューで、4億ポンドでの買収に一度は合意する。
ところがある事件が起こり、ビジネスの価値が毀損されたところに、チャイニーズマフィアのドライ・アイが割り込んでくる。
そもそも、事件を起こしたのは誰なのか。
ビジネスの価格が下がると、一体誰が得をして誰が損をするのか。
フレッチャーが語り部となって進行する話は、どこまで本当なのか、同じ事件を別の視点で眺めると何が見えてくるのか。
終盤15分くらいがちょっと駆け足で雑になっちゃうのが残念だが、ストーリーテリングのテンポは快調で、悪漢たちが入り乱れてのコンゲームは飽きさせない。
絶妙なのがミッキーのキャラクター造形をはじめとする“倫理観”の設定。
いくらクライムムービーと言えども、本当のクズでは感情移入ができない。
ミッキーは、悪党ではあるんだけど一途な愛妻家だったり、大麻という現時点では非合法な商品を扱いながら、人間を廃人にしてしまうケミカル系の麻薬は毛嫌いするなど、一定の倫理観を持っていてギリギリ感情移入できるキャラクターになってる。
だから観ているうちに、観客の中でも笑って欲しいキャラと泣いて欲しいキャラが別れてきて、悪党しか出てこない映画でも、ちゃんと勧善懲悪なところに持ってくるのは非常に上手い。
権謀術数渦巻き、常に潮目が変わってゆく弱肉強食の裏社会で、キングはいつどう動くべきなのか、ある種のお仕事ムービーとしても観応えあり。
みんな色々悪いことを考えている中で、飄々としたコリン・ファレルが実に美味しい役。
格闘技のコーチのはずなんだが、何気に劇中では一度もアクションしないのもいい(笑
本作では三つの組織が騙し合うので、イングランド、スコットランド、アイルランドの三つの国の旗が合体して出来た「ユニオンジャック」をチョイス。
ドライ・ジン45mlとクレーム・ド・バイオレット(パルフェタムール)15mlをステアして、グラスに注ぐ。
アメジストを思わせる美しいパープルのカクテル。
クレーム・ド・バイオレットは珍しい花のリキュールで、本来はスミレだが進化系のパルフェタムールはバラとスミレの香りが芳しく広がる。
優美で辛口の一杯だ。
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イギリスの裏社会で大成功したアメリカ人の大麻王、ミッキーが引退を決意。
巨大な大麻ビジネスの利権を巡って、ユダヤ系のフィクサーやらチャイニーズマフィアやら、怪しい連中がワラワラ集まってくる。
主人公のミッキーに、マシュー・マコノヒー、妻のロザリンドにミッシェル・ドッカリー、腹心のレイにチャーリー・ハナム、ユダヤ系アメリカ人でビジネスを買い取ろうとするマシューにジェレミー・ストロング、チャイニーズマフィアのドライ・アイにヘンリー・ゴールディング、事件記者フレッチャーにヒュー・グラント、そして図らずもキーパーソンとなってしまう格闘技道場のコーチにコリン・ファレル。
登場人物全員が、裏社会に蠢く悪党。
腹に逸物を抱えたくせ者たちを、これまた一癖ある演技派俳優陣が演じる。
ダメな時はとことん酷いが、出来る子モードの時はかなり上手く仕上げてくる、どっちに転ぶかわからないのがガイ・リッチー。
とは言え、近年は「シャーロック・ホームズ」や「コードネーム U.N.C.L.E.」といったプログラムピクチュアで評価を高め、ついにはディズニーで「アラジン」を大ヒットさせた。
今回はリッチーのオリジナル脚本で、路線的には初期の「ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」や「スナッチ」への回帰とも言えるが、以前よりも安定感と円熟味が増したのは明らか。
やたらと豪華な俳優たちの生かし方も巧みで、十分に面白い。
構成としては、全体が事件記者フレッチャーが取材した“ストーリー”になってるのが特徴。
彼は組織のビジネスの全貌を暴露されたくなかったら、2000万ポンド(約30億円)払えとレイを脅すのだが、そもそもの発端はボスのミッキーが大麻ビジネスの売却を決意したことだ。
ミッキーは英国の貧乏貴族たちと密かに契約を結び、彼らの領地にいくつもの地下栽培所を作り、巨額の売り上げを誇っている。
ヨーロッパでは大麻の合法化が進んでいるが、需要に対して供給が追いつかないので、今後ますますビジネスは大きくなる。
この美味しい話に最初に手をあげたのがユダヤ系アメリカ人のマシューで、4億ポンドでの買収に一度は合意する。
ところがある事件が起こり、ビジネスの価値が毀損されたところに、チャイニーズマフィアのドライ・アイが割り込んでくる。
そもそも、事件を起こしたのは誰なのか。
ビジネスの価格が下がると、一体誰が得をして誰が損をするのか。
フレッチャーが語り部となって進行する話は、どこまで本当なのか、同じ事件を別の視点で眺めると何が見えてくるのか。
終盤15分くらいがちょっと駆け足で雑になっちゃうのが残念だが、ストーリーテリングのテンポは快調で、悪漢たちが入り乱れてのコンゲームは飽きさせない。
絶妙なのがミッキーのキャラクター造形をはじめとする“倫理観”の設定。
いくらクライムムービーと言えども、本当のクズでは感情移入ができない。
ミッキーは、悪党ではあるんだけど一途な愛妻家だったり、大麻という現時点では非合法な商品を扱いながら、人間を廃人にしてしまうケミカル系の麻薬は毛嫌いするなど、一定の倫理観を持っていてギリギリ感情移入できるキャラクターになってる。
だから観ているうちに、観客の中でも笑って欲しいキャラと泣いて欲しいキャラが別れてきて、悪党しか出てこない映画でも、ちゃんと勧善懲悪なところに持ってくるのは非常に上手い。
権謀術数渦巻き、常に潮目が変わってゆく弱肉強食の裏社会で、キングはいつどう動くべきなのか、ある種のお仕事ムービーとしても観応えあり。
みんな色々悪いことを考えている中で、飄々としたコリン・ファレルが実に美味しい役。
格闘技のコーチのはずなんだが、何気に劇中では一度もアクションしないのもいい(笑
本作では三つの組織が騙し合うので、イングランド、スコットランド、アイルランドの三つの国の旗が合体して出来た「ユニオンジャック」をチョイス。
ドライ・ジン45mlとクレーム・ド・バイオレット(パルフェタムール)15mlをステアして、グラスに注ぐ。
アメジストを思わせる美しいパープルのカクテル。
クレーム・ド・バイオレットは珍しい花のリキュールで、本来はスミレだが進化系のパルフェタムールはバラとスミレの香りが芳しく広がる。
優美で辛口の一杯だ。

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2021年05月08日 (土) | 編集 |
100年前の「BLM(ブラック・ライヴズ・マター)」
うだるような熱波に包まれた真夏のシカゴで、伝説的なブルース歌手、マ・レイニーのレコーディングセッションが行われる。
ところが、セッションはリハーサルから波乱含み。
自らのルールを絶対に曲げないマ・レイニーは、白人のプロデューサーらと衝突し、彼女の音楽は古いと吹聴するビックマウスのトランペッター、レヴィーはバンドメンバーの和を乱しまくる。
幾つもの不協和音がぶつかり合い、浮かび上がってくるのは、ブルースに隠された哀しい歴史と、100年後の今なお続く差別と絶望への抵抗だ。
巨匠オーガスト・ウィルソンの同名戯曲を、「グローリー -明日への行進-」などで知られるルーベン・サンチャゴ=ハリソンが脚色、メガホンを取ったのはトニー賞に輝いた劇作家・舞台演出家でもあるジョージ・C・ウルフ。
タイトルロールのマ・レイニーを演じるヴィオラ・デイヴィス、彼女のアンチテーゼとなる野心家のレヴィー役のチャドウィック・ボーズマンが素晴らしい名演をみせる。
昨年の8月に43歳の若さでこの世を去ったボーズマンの、これが最後の出演作品となる。
1927年夏のシカゴ。
パラマウントのレコーディングスタジオでは、マネージャーのアーヴィン(ジェレミー・シェイモス)とプロデューサーのスターディヴァント(ジョニー・コイン)が、”ブルースの母”と呼ばれる伝説的な大物歌手、マ・レイニー(ヴィオラ・デイヴィス)の到着を待ちわびていた。
バンドメンバーのレヴィー(チャドウィック・ボーズマン)、トレド(グリン・ターマン)、カトラー(コールマン・ドミンゴ)、スロー・ドラッグ(マイケル・ポッツ)は時間通りにやってきたが、マ・レイニーの姿はない。
メンバーはリハーサルを開始するが、独立を画策しているトランペッターのレヴィーは、レコーディング予定曲の「ブラックボトム」を自分のアレンジで演奏しようとして他のメンバーとぶつかる。
マ・レイニーが、ガールフレンドのダッシー・メイ(テイラー・ペイジ)と甥のシルベスター(デューサン・ブラウン)と共にスタジオに現れた時には、既に予定時間を1時間過ぎていた。
すぐにでもレコーディングを始めたい白人の男たちに対し、マ・レイニーは契約条件の冷えたコーラが用意されてないと歌うことを拒否。
コーラが届き、ようやくセッションを開始しようとするが、今度は曲の冒頭の口上を任されたシルベスターが吃音でNGを連発。
やがて、レコーディングセッションは、不穏な雰囲気に包まれてゆく・・・・・
楽曲のタイトルになっている「ブラックボトム」とは、1920年代に流行したダンスのスタイルのこと。
前情報無しで観はじめたら、なんだかどこかで聞いたような話だなと既視感を感じていたのだが、途中で思い出した。
これ大学時代に、授業でやった戯曲だった。
映画を観た方は分かるだろうが、めちゃくちゃ鬱な話なので、読み終わってドヨーンとしている学生の反応に、先生だけがほくそ笑んでたのを覚えている。
オーガスト・ウィルソンがこの物語を書いたのは、40年近く前の1982年。
ピッツバーグに生まれたウィルソンは、20世紀のアフリカ系コミュニティに生きる人々の葛藤や、白人社会との軋轢を描いた「ピッツバーグサイクル」と呼ばれる一連の戯曲群で知られた作家で、ヴィオラ・デイヴィスに初のオスカーをもたらした、デンゼル・ワシントン監督の「フェンス」の原作もその中の一本だ。
本作の戯曲は、85年のトニー賞の最優秀演劇作品賞を受賞している。
物語は、1927年夏のシカゴのレコーディングスタジオでの1日の出来事を描いているが、背景となっているのが奴隷解放後の黒人人口の大移動だ。
19世紀後半、敗戦した南部の経済は悪化し、黒人たちは奴隷の身分ではなくなったものの、今度は職につけないという悪循環に陥る。
相変わらず差別の激しい南部での生活に見切りをつけ、北部での生活に活路を見出す人々が増加し、19世紀後半から20世紀初頭にかけて数百万人が移り住んだ。
伝統的な南部のアフリカ系コミュニティの暮らしを選ぶか、それとも北部の白人たちの世界で新参者として生きるか、人生を選択できるようになった黒人たちの中で、新たな分断と葛藤が生まれる。
そして南北戦争期のディープサウスの混乱の中で生まれ、この時代に人々の流れと共に広まっていった音楽が魂の歌ブルースなのである。
広大なアフリカ大陸の各地から、バラバラに連れてこられた奴隷たちは、アメリカの地でアイデンティティを奪われ、メルティングポットの中の混ぜこぜのシチューとして消費された。
そして、食べ残しの肉や人参だったものが、残飯となって白人社会へと放り出される。
それがアメリカ社会の中で、黒人の置かれた立場の原点だと、本作は強くメンションする。
文字を書くことすら禁じられていた南部のアフリカ系コミュニティにとって、ブルースとは世代を超えて歌い継がれた抵抗の言葉であり、同時に彼らの世界で何が起こったのかを記録した歴史そのものなのだ。
本作の時代よりも少し後の作品になるが、差別主義者の白人によって木に吊るされた黒人の遺体を歌った「奇妙な果実」はあまりにも有名で、ある時代に起こっていたことをどんな歴史書よりも雄弁に、その時の空気までも含めて表現している。
だが黒人の魂であるブルースも、時代と場所によって変わってゆく。
マ・レイニーは実在の歌手で、一説によると「ブルース」というジャンルの名付け親とも言われる人物だが、戯曲が書かれるまでほとんど忘れられた存在だったそうだ。
同時代のブルース歌手といえば劇中にも名前が出てくるベッシー・スミスが有名だが、マ・レイニーに関しては写真などの資料がほとんどが残っていない。
それはおそらく、彼女が巨体で金歯の入った強面の女性で、メイクも衣装も可憐とは言いがたかったという以上に、彼女が典型的な南部人で南部に暮らす黒人のために歌っていたからだろう。
本作では、冒頭にマ・レイニーのコンサートが行われてる描写がある。
ヴィオラ・デイヴィスの歌唱が素晴らしいが、この人ジュリアードでみっちり声を鍛えられているから当然か。
南部の森の中のテントで開かれているコンサートは、レコードなど持てない貧しい庶民の娯楽だ。
人種隔離政策が維持されていた南部では、黒人と白人の世界は別れ、彼女は“ホーム”である黒人の世界の音楽の女王だった。
しかし、レコーディングのために行く北部は、いわば“アウェー”だ。
そこは白人たちの世界で、自分の尊厳は自分で守らねばならない。
彼女が何を言われても自分のルールを曲げないのも、白人たちからプロフェッショナルとしてリスペクトを受けるためだ。
白人が欲しいのは、自分の歌なのだから、最高の環境を整えるのは当然。
真夏のシカゴで、締め切られたスタジオでレコーディングするのに、扇風機を用意するのは必須で、喉を冷やすためにコーラを用意すると約束していたのだから、用意されるまで歌わない。
口上を担当した甥にも、バンドメンバーにも、仕事をした者にはきちんと希望する形で報酬を支払わせる。
彼女は単に大物ぶって我がままなのではなく、守るべき仲間を持つリーダーとして、自立した女性として、必要だからそうしているのだ。
一方、バンドメンバーの中で、一番若く野心家でビッグマウス。
マ・レイニーのアンチテーゼと言えるのが、チャドウィック・ボーズマン演じるトランペッターのレヴィーだ。
レコーディングする予定の「ブラックボトム」を勝手にアレンジして、マ・レイニーのバージョンはもう古いと言い放つ。
白人からの承認欲求に取り憑かれたレヴィーが、8歳の頃に彼の家族に起こった悲劇を独白するシーンのボーズマンの演技は圧巻で、本作の白眉だ。
自分はなんでもできる、何者にもなれると思っているが、それが幻想にすぎないことを彼は本能的に知っているのである。
アメリカの黒人は、白人に逆らっては生きていけない。
南部のアフリカ系コミュニティをベースとするマ・レイニーと違って、北部の白人社会でのしあがろうとすると尚更だ。
劇中で、レヴィーがこじ開けようとしている建て付けの悪い控室のドアが、アメリカの黒人の状況を象徴する。
開けさえすればどこへでも行けると思っていたのに、実際にはドアを開けたらもう一つの壁があるだけ。
拠り所だった音楽の才能すら否定され、どこにも行けないことが分かった時、レヴィーは最悪の自滅行為をしてしまうのだが、どんなに大物だろうが搾取から逃げられないのは、マ・レイニーも同じ。
終盤、なんとかセッションを終えた彼女は、200ドルのギャラと引き換えに権利の譲渡証明書にサインを求められる。
当然ロイヤリティなどはなく、黒人ミュージシャンはレコードの権利全てを、白人よりもずっと安く奪い取られるのだ。
それでも、彼女にできることは歌うことだけ。
たとえブルースの母だったとしても、白人が支配する音楽業界に生きる以上、システマチックな搾取構造の中にいる。
映画のラストで、レヴィーからたった5ドル(現在の貨幣価値にすると8000円程度)で買い叩いたオリジナル曲を、全員白人のバンドでレコーディングしている風景は、持てる者は際限なく膨れあがり、持たざる者は永遠に持たざるままというアメリカ流資本主義社会を象徴する。
そしてそれは、映画の時代から100年近く経った今もなお変わらないと言う事実が、40年前に書かれた戯曲に強烈な現在性を与えている。
一見すると対照的に見えるマ・レイニーとレヴィーは、共に尊重される人生を求めて、心で叫び続けているのである。
ブルースは今でも抵抗の歌であり、この物語そのものもまたブルースなのだ。
今回は、マ・レイニーの故郷、ジョージアの名を持つコーンウィスキー「ジョージア・ムーン」をチョイス。
まあ、作られているのはケンタッキーなのだが。
まるでジャムの瓶の様な、広口のボトルがトレードマーク。
コーン80%以上を使用し蒸留し、30日以内の短期熟成を売りにしたユニークな酒だ。
“ムーン”という名は禁酒法時代の“密造酒”を指すスラングで、一見するとウィスキーとは思えない無色透明。
熟成が短い若い酒だけにピリピリとしたアルコールの刺激が先に来る。
コーンの風味はあるが、味わいとしては単純なので、ショットグラスでグイッとやるか、カクテルベースにして飲むのがオススメ。
話は変わるが、ジョージアと言えば映画の撮影誘致で有名な州で、特産品のピーチのマークを映画のエンドクレジットで見ることも多い。
ところが、黒人有権者を投票から遠ざけるとして、現在のジム・クロウ法と言われる選挙に関する州法改正案、通称「SB(上院法案)202」の成立したことを受け、複数のハリウッドのスタジオからボイコットされるなど総スカン状態に陥っている。
「BLM」だけでなく、戦いは常に続いているのだ。
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うだるような熱波に包まれた真夏のシカゴで、伝説的なブルース歌手、マ・レイニーのレコーディングセッションが行われる。
ところが、セッションはリハーサルから波乱含み。
自らのルールを絶対に曲げないマ・レイニーは、白人のプロデューサーらと衝突し、彼女の音楽は古いと吹聴するビックマウスのトランペッター、レヴィーはバンドメンバーの和を乱しまくる。
幾つもの不協和音がぶつかり合い、浮かび上がってくるのは、ブルースに隠された哀しい歴史と、100年後の今なお続く差別と絶望への抵抗だ。
巨匠オーガスト・ウィルソンの同名戯曲を、「グローリー -明日への行進-」などで知られるルーベン・サンチャゴ=ハリソンが脚色、メガホンを取ったのはトニー賞に輝いた劇作家・舞台演出家でもあるジョージ・C・ウルフ。
タイトルロールのマ・レイニーを演じるヴィオラ・デイヴィス、彼女のアンチテーゼとなる野心家のレヴィー役のチャドウィック・ボーズマンが素晴らしい名演をみせる。
昨年の8月に43歳の若さでこの世を去ったボーズマンの、これが最後の出演作品となる。
1927年夏のシカゴ。
パラマウントのレコーディングスタジオでは、マネージャーのアーヴィン(ジェレミー・シェイモス)とプロデューサーのスターディヴァント(ジョニー・コイン)が、”ブルースの母”と呼ばれる伝説的な大物歌手、マ・レイニー(ヴィオラ・デイヴィス)の到着を待ちわびていた。
バンドメンバーのレヴィー(チャドウィック・ボーズマン)、トレド(グリン・ターマン)、カトラー(コールマン・ドミンゴ)、スロー・ドラッグ(マイケル・ポッツ)は時間通りにやってきたが、マ・レイニーの姿はない。
メンバーはリハーサルを開始するが、独立を画策しているトランペッターのレヴィーは、レコーディング予定曲の「ブラックボトム」を自分のアレンジで演奏しようとして他のメンバーとぶつかる。
マ・レイニーが、ガールフレンドのダッシー・メイ(テイラー・ペイジ)と甥のシルベスター(デューサン・ブラウン)と共にスタジオに現れた時には、既に予定時間を1時間過ぎていた。
すぐにでもレコーディングを始めたい白人の男たちに対し、マ・レイニーは契約条件の冷えたコーラが用意されてないと歌うことを拒否。
コーラが届き、ようやくセッションを開始しようとするが、今度は曲の冒頭の口上を任されたシルベスターが吃音でNGを連発。
やがて、レコーディングセッションは、不穏な雰囲気に包まれてゆく・・・・・
楽曲のタイトルになっている「ブラックボトム」とは、1920年代に流行したダンスのスタイルのこと。
前情報無しで観はじめたら、なんだかどこかで聞いたような話だなと既視感を感じていたのだが、途中で思い出した。
これ大学時代に、授業でやった戯曲だった。
映画を観た方は分かるだろうが、めちゃくちゃ鬱な話なので、読み終わってドヨーンとしている学生の反応に、先生だけがほくそ笑んでたのを覚えている。
オーガスト・ウィルソンがこの物語を書いたのは、40年近く前の1982年。
ピッツバーグに生まれたウィルソンは、20世紀のアフリカ系コミュニティに生きる人々の葛藤や、白人社会との軋轢を描いた「ピッツバーグサイクル」と呼ばれる一連の戯曲群で知られた作家で、ヴィオラ・デイヴィスに初のオスカーをもたらした、デンゼル・ワシントン監督の「フェンス」の原作もその中の一本だ。
本作の戯曲は、85年のトニー賞の最優秀演劇作品賞を受賞している。
物語は、1927年夏のシカゴのレコーディングスタジオでの1日の出来事を描いているが、背景となっているのが奴隷解放後の黒人人口の大移動だ。
19世紀後半、敗戦した南部の経済は悪化し、黒人たちは奴隷の身分ではなくなったものの、今度は職につけないという悪循環に陥る。
相変わらず差別の激しい南部での生活に見切りをつけ、北部での生活に活路を見出す人々が増加し、19世紀後半から20世紀初頭にかけて数百万人が移り住んだ。
伝統的な南部のアフリカ系コミュニティの暮らしを選ぶか、それとも北部の白人たちの世界で新参者として生きるか、人生を選択できるようになった黒人たちの中で、新たな分断と葛藤が生まれる。
そして南北戦争期のディープサウスの混乱の中で生まれ、この時代に人々の流れと共に広まっていった音楽が魂の歌ブルースなのである。
広大なアフリカ大陸の各地から、バラバラに連れてこられた奴隷たちは、アメリカの地でアイデンティティを奪われ、メルティングポットの中の混ぜこぜのシチューとして消費された。
そして、食べ残しの肉や人参だったものが、残飯となって白人社会へと放り出される。
それがアメリカ社会の中で、黒人の置かれた立場の原点だと、本作は強くメンションする。
文字を書くことすら禁じられていた南部のアフリカ系コミュニティにとって、ブルースとは世代を超えて歌い継がれた抵抗の言葉であり、同時に彼らの世界で何が起こったのかを記録した歴史そのものなのだ。
本作の時代よりも少し後の作品になるが、差別主義者の白人によって木に吊るされた黒人の遺体を歌った「奇妙な果実」はあまりにも有名で、ある時代に起こっていたことをどんな歴史書よりも雄弁に、その時の空気までも含めて表現している。
だが黒人の魂であるブルースも、時代と場所によって変わってゆく。
マ・レイニーは実在の歌手で、一説によると「ブルース」というジャンルの名付け親とも言われる人物だが、戯曲が書かれるまでほとんど忘れられた存在だったそうだ。
同時代のブルース歌手といえば劇中にも名前が出てくるベッシー・スミスが有名だが、マ・レイニーに関しては写真などの資料がほとんどが残っていない。
それはおそらく、彼女が巨体で金歯の入った強面の女性で、メイクも衣装も可憐とは言いがたかったという以上に、彼女が典型的な南部人で南部に暮らす黒人のために歌っていたからだろう。
本作では、冒頭にマ・レイニーのコンサートが行われてる描写がある。
ヴィオラ・デイヴィスの歌唱が素晴らしいが、この人ジュリアードでみっちり声を鍛えられているから当然か。
南部の森の中のテントで開かれているコンサートは、レコードなど持てない貧しい庶民の娯楽だ。
人種隔離政策が維持されていた南部では、黒人と白人の世界は別れ、彼女は“ホーム”である黒人の世界の音楽の女王だった。
しかし、レコーディングのために行く北部は、いわば“アウェー”だ。
そこは白人たちの世界で、自分の尊厳は自分で守らねばならない。
彼女が何を言われても自分のルールを曲げないのも、白人たちからプロフェッショナルとしてリスペクトを受けるためだ。
白人が欲しいのは、自分の歌なのだから、最高の環境を整えるのは当然。
真夏のシカゴで、締め切られたスタジオでレコーディングするのに、扇風機を用意するのは必須で、喉を冷やすためにコーラを用意すると約束していたのだから、用意されるまで歌わない。
口上を担当した甥にも、バンドメンバーにも、仕事をした者にはきちんと希望する形で報酬を支払わせる。
彼女は単に大物ぶって我がままなのではなく、守るべき仲間を持つリーダーとして、自立した女性として、必要だからそうしているのだ。
一方、バンドメンバーの中で、一番若く野心家でビッグマウス。
マ・レイニーのアンチテーゼと言えるのが、チャドウィック・ボーズマン演じるトランペッターのレヴィーだ。
レコーディングする予定の「ブラックボトム」を勝手にアレンジして、マ・レイニーのバージョンはもう古いと言い放つ。
白人からの承認欲求に取り憑かれたレヴィーが、8歳の頃に彼の家族に起こった悲劇を独白するシーンのボーズマンの演技は圧巻で、本作の白眉だ。
自分はなんでもできる、何者にもなれると思っているが、それが幻想にすぎないことを彼は本能的に知っているのである。
アメリカの黒人は、白人に逆らっては生きていけない。
南部のアフリカ系コミュニティをベースとするマ・レイニーと違って、北部の白人社会でのしあがろうとすると尚更だ。
劇中で、レヴィーがこじ開けようとしている建て付けの悪い控室のドアが、アメリカの黒人の状況を象徴する。
開けさえすればどこへでも行けると思っていたのに、実際にはドアを開けたらもう一つの壁があるだけ。
拠り所だった音楽の才能すら否定され、どこにも行けないことが分かった時、レヴィーは最悪の自滅行為をしてしまうのだが、どんなに大物だろうが搾取から逃げられないのは、マ・レイニーも同じ。
終盤、なんとかセッションを終えた彼女は、200ドルのギャラと引き換えに権利の譲渡証明書にサインを求められる。
当然ロイヤリティなどはなく、黒人ミュージシャンはレコードの権利全てを、白人よりもずっと安く奪い取られるのだ。
それでも、彼女にできることは歌うことだけ。
たとえブルースの母だったとしても、白人が支配する音楽業界に生きる以上、システマチックな搾取構造の中にいる。
映画のラストで、レヴィーからたった5ドル(現在の貨幣価値にすると8000円程度)で買い叩いたオリジナル曲を、全員白人のバンドでレコーディングしている風景は、持てる者は際限なく膨れあがり、持たざる者は永遠に持たざるままというアメリカ流資本主義社会を象徴する。
そしてそれは、映画の時代から100年近く経った今もなお変わらないと言う事実が、40年前に書かれた戯曲に強烈な現在性を与えている。
一見すると対照的に見えるマ・レイニーとレヴィーは、共に尊重される人生を求めて、心で叫び続けているのである。
ブルースは今でも抵抗の歌であり、この物語そのものもまたブルースなのだ。
今回は、マ・レイニーの故郷、ジョージアの名を持つコーンウィスキー「ジョージア・ムーン」をチョイス。
まあ、作られているのはケンタッキーなのだが。
まるでジャムの瓶の様な、広口のボトルがトレードマーク。
コーン80%以上を使用し蒸留し、30日以内の短期熟成を売りにしたユニークな酒だ。
“ムーン”という名は禁酒法時代の“密造酒”を指すスラングで、一見するとウィスキーとは思えない無色透明。
熟成が短い若い酒だけにピリピリとしたアルコールの刺激が先に来る。
コーンの風味はあるが、味わいとしては単純なので、ショットグラスでグイッとやるか、カクテルベースにして飲むのがオススメ。
話は変わるが、ジョージアと言えば映画の撮影誘致で有名な州で、特産品のピーチのマークを映画のエンドクレジットで見ることも多い。
ところが、黒人有権者を投票から遠ざけるとして、現在のジム・クロウ法と言われる選挙に関する州法改正案、通称「SB(上院法案)202」の成立したことを受け、複数のハリウッドのスタジオからボイコットされるなど総スカン状態に陥っている。
「BLM」だけでなく、戦いは常に続いているのだ。

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2021年05月04日 (火) | 編集 |
静寂の音を聞け。
「プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命」の共同脚本家、ダリウス・マーダーがメガホンを取り、本年度アカデミー賞で、編集賞と音響賞に輝いた作品。
リズ・アーメット演じる主人公のルーベン・ストーンは、最愛の恋人のルーと結成したメタルデュオ、ブラックギャモンのドラマーとして、エアストリームのカッコいいキャンパーで全米を旅している。
裕福ではないものの、愛する人と大好きな音楽があるノマド生活。
しかし、そんな幸せな時間は、ある日突然終わりを迎える。
ルーベンは原因不明の難聴を患い、急速に聴覚を失ってゆく。
ミュージシャンとしては致命的な疾患に、それまでの人生は失われる。
これは運命によって翻弄される男女の、世界の崩壊と断絶、その先にある再生の物語だ。
「サウンド・オブ・メタル」とは、直訳すれば「鋼の音」だが、主人公の職業とのダブルミーニング。
私の知人にも難聴を患った人が何人かいるが、聞こえない程度の差はあれ本当に突然くるらしい。
予期せぬ事態に、若い二人は慌てふためく。
検査の結果、ルーベンの聴覚は確実に機能しなくなること、人工内耳をインプラントする治療法があることを知るが、保険適用外のために巨額の手術費用がかかる。
放浪のメタルデュオにそんな金はなく、ひとまずこの状況の中で生活していかねばならない。
ルーベンは聴覚障害者として生きるため、支援コミュニティの寮に入居し、疎遠だった父を頼ったルーとは離ればなれに。
だが、ここに至っても、彼は元の生活に戻ることを諦めていない。
当面の生活を支援コミュニティに頼り、音のない世界を学びつつも、なんとか金を作って手術を受け、ルーとの音楽活動の再開を目指す。
ルーベンのメンターとなる支援コミュニティのリーダー、ジョーの言葉を借りれば、もともとジャンキーだったルーベンは、この切なる願いに依存している。
だが、この時の彼はまだ知らない。
人生は常に流れてゆくもので、一度壊れてしまったものは、それが肉体でも心でも、決して元どおりにはならないことを。
本作で特筆すべきはアカデミー賞を得た音響の表現で、ルーベンの聴覚状態を綿密に再現することで、観客に彼と同じ体験をさせる。
健常者だった頃のルーベンの世界、難聴のルーベンの世界、そしてインプラント手術後の世界。
主人公と共に、実際の音の世界を経験することで、彼の感じている絶望、希望、そして再びの絶望まで、リアリティたっぷりに実感することができるのだ。
ルーベンとルーは共に複雑な片親家庭に育ち、依存や自傷などの荒んだ生活を送った末に、二人でようやく掴んだのが音楽と共に生きる幸せ。
一刻も早く治療を受けたい主人公にどっぷり感情移入していたので、支援団体の人々が提示する、そもそも聴覚障害は治すべきものなのか?という視点は新鮮だった。
彼らは聴覚を必要としない独自のコミュニティを作り上げていて、そこで生きる分には耳が聞こえないことはハンディにならない。
しかし、なんとしてもルーと音楽を取り戻したいルーベンには、そこは終の住処にはなり得ないのである。
本作は、エグゼクティブ・プロデューサーのデレク・シアフランスが、2009年から制作していた「Metalhead」という企画が元になっていて、ガゼル・アンバー・バレンタインとエドガー・ライヴェングッド夫妻による実在のメタルデュオ、Juciferを描く作品になるはずだった。
ところが撮影に入るも資金繰りに失敗し、キャンセルされた企画を、盟友のマーダーが受け継いでフィクションとして膨らませたもの。
彼らの過去作品からも分かるように、この物語に奇跡は起こらない。
前に進むために必要なのは、残酷で不可逆な現実をルーベン、そしてルーが受け入れること。
人生で唯一感じていた幸せへの依存、しかしその世界がすでに存在しないことを知った時、彼らは初めて心静かに静寂の意味を感じ、それぞれの行先を一人で決めねばならない。
独特の詩情を感じさせる、ラストの余韻が心に長く残る。
今回は、メタルな外装の辛口イタリアンスパークリング、「ボッティガ ホワイトゴールド」をチョイス。
グラッパ職人の息子だったサンドロ・ボッティガが、1986年に19歳で創業した銘柄。
ほんのりと色付いたライトなイエローに、きめ細やかな発泡が美しい。
フルーティな桃を思わせる香りに豊かなミネラル感。
CPは高く、呑みごたえは十分だ。
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「プレイス・ビヨンド・ザ・パインズ/宿命」の共同脚本家、ダリウス・マーダーがメガホンを取り、本年度アカデミー賞で、編集賞と音響賞に輝いた作品。
リズ・アーメット演じる主人公のルーベン・ストーンは、最愛の恋人のルーと結成したメタルデュオ、ブラックギャモンのドラマーとして、エアストリームのカッコいいキャンパーで全米を旅している。
裕福ではないものの、愛する人と大好きな音楽があるノマド生活。
しかし、そんな幸せな時間は、ある日突然終わりを迎える。
ルーベンは原因不明の難聴を患い、急速に聴覚を失ってゆく。
ミュージシャンとしては致命的な疾患に、それまでの人生は失われる。
これは運命によって翻弄される男女の、世界の崩壊と断絶、その先にある再生の物語だ。
「サウンド・オブ・メタル」とは、直訳すれば「鋼の音」だが、主人公の職業とのダブルミーニング。
私の知人にも難聴を患った人が何人かいるが、聞こえない程度の差はあれ本当に突然くるらしい。
予期せぬ事態に、若い二人は慌てふためく。
検査の結果、ルーベンの聴覚は確実に機能しなくなること、人工内耳をインプラントする治療法があることを知るが、保険適用外のために巨額の手術費用がかかる。
放浪のメタルデュオにそんな金はなく、ひとまずこの状況の中で生活していかねばならない。
ルーベンは聴覚障害者として生きるため、支援コミュニティの寮に入居し、疎遠だった父を頼ったルーとは離ればなれに。
だが、ここに至っても、彼は元の生活に戻ることを諦めていない。
当面の生活を支援コミュニティに頼り、音のない世界を学びつつも、なんとか金を作って手術を受け、ルーとの音楽活動の再開を目指す。
ルーベンのメンターとなる支援コミュニティのリーダー、ジョーの言葉を借りれば、もともとジャンキーだったルーベンは、この切なる願いに依存している。
だが、この時の彼はまだ知らない。
人生は常に流れてゆくもので、一度壊れてしまったものは、それが肉体でも心でも、決して元どおりにはならないことを。
本作で特筆すべきはアカデミー賞を得た音響の表現で、ルーベンの聴覚状態を綿密に再現することで、観客に彼と同じ体験をさせる。
健常者だった頃のルーベンの世界、難聴のルーベンの世界、そしてインプラント手術後の世界。
主人公と共に、実際の音の世界を経験することで、彼の感じている絶望、希望、そして再びの絶望まで、リアリティたっぷりに実感することができるのだ。
ルーベンとルーは共に複雑な片親家庭に育ち、依存や自傷などの荒んだ生活を送った末に、二人でようやく掴んだのが音楽と共に生きる幸せ。
一刻も早く治療を受けたい主人公にどっぷり感情移入していたので、支援団体の人々が提示する、そもそも聴覚障害は治すべきものなのか?という視点は新鮮だった。
彼らは聴覚を必要としない独自のコミュニティを作り上げていて、そこで生きる分には耳が聞こえないことはハンディにならない。
しかし、なんとしてもルーと音楽を取り戻したいルーベンには、そこは終の住処にはなり得ないのである。
本作は、エグゼクティブ・プロデューサーのデレク・シアフランスが、2009年から制作していた「Metalhead」という企画が元になっていて、ガゼル・アンバー・バレンタインとエドガー・ライヴェングッド夫妻による実在のメタルデュオ、Juciferを描く作品になるはずだった。
ところが撮影に入るも資金繰りに失敗し、キャンセルされた企画を、盟友のマーダーが受け継いでフィクションとして膨らませたもの。
彼らの過去作品からも分かるように、この物語に奇跡は起こらない。
前に進むために必要なのは、残酷で不可逆な現実をルーベン、そしてルーが受け入れること。
人生で唯一感じていた幸せへの依存、しかしその世界がすでに存在しないことを知った時、彼らは初めて心静かに静寂の意味を感じ、それぞれの行先を一人で決めねばならない。
独特の詩情を感じさせる、ラストの余韻が心に長く残る。
今回は、メタルな外装の辛口イタリアンスパークリング、「ボッティガ ホワイトゴールド」をチョイス。
グラッパ職人の息子だったサンドロ・ボッティガが、1986年に19歳で創業した銘柄。
ほんのりと色付いたライトなイエローに、きめ細やかな発泡が美しい。
フルーティな桃を思わせる香りに豊かなミネラル感。
CPは高く、呑みごたえは十分だ。

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