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2021年05月08日 (土) | 編集 |
100年前の「BLM(ブラック・ライヴズ・マター)」
うだるような熱波に包まれた真夏のシカゴで、伝説的なブルース歌手、マ・レイニーのレコーディングセッションが行われる。
ところが、セッションはリハーサルから波乱含み。
自らのルールを絶対に曲げないマ・レイニーは、白人のプロデューサーらと衝突し、彼女の音楽は古いと吹聴するビックマウスのトランペッター、レヴィーはバンドメンバーの和を乱しまくる。
幾つもの不協和音がぶつかり合い、浮かび上がってくるのは、ブルースに隠された哀しい歴史と、100年後の今なお続く差別と絶望への抵抗だ。
巨匠オーガスト・ウィルソンの同名戯曲を、「グローリー -明日への行進-」などで知られるルーベン・サンチャゴ=ハリソンが脚色、メガホンを取ったのはトニー賞に輝いた劇作家・舞台演出家でもあるジョージ・C・ウルフ。
タイトルロールのマ・レイニーを演じるヴィオラ・デイヴィス、彼女のアンチテーゼとなる野心家のレヴィー役のチャドウィック・ボーズマンが素晴らしい名演をみせる。
昨年の8月に43歳の若さでこの世を去ったボーズマンの、これが最後の出演作品となる。
1927年夏のシカゴ。
パラマウントのレコーディングスタジオでは、マネージャーのアーヴィン(ジェレミー・シェイモス)とプロデューサーのスターディヴァント(ジョニー・コイン)が、”ブルースの母”と呼ばれる伝説的な大物歌手、マ・レイニー(ヴィオラ・デイヴィス)の到着を待ちわびていた。
バンドメンバーのレヴィー(チャドウィック・ボーズマン)、トレド(グリン・ターマン)、カトラー(コールマン・ドミンゴ)、スロー・ドラッグ(マイケル・ポッツ)は時間通りにやってきたが、マ・レイニーの姿はない。
メンバーはリハーサルを開始するが、独立を画策しているトランペッターのレヴィーは、レコーディング予定曲の「ブラックボトム」を自分のアレンジで演奏しようとして他のメンバーとぶつかる。
マ・レイニーが、ガールフレンドのダッシー・メイ(テイラー・ペイジ)と甥のシルベスター(デューサン・ブラウン)と共にスタジオに現れた時には、既に予定時間を1時間過ぎていた。
すぐにでもレコーディングを始めたい白人の男たちに対し、マ・レイニーは契約条件の冷えたコーラが用意されてないと歌うことを拒否。
コーラが届き、ようやくセッションを開始しようとするが、今度は曲の冒頭の口上を任されたシルベスターが吃音でNGを連発。
やがて、レコーディングセッションは、不穏な雰囲気に包まれてゆく・・・・・
楽曲のタイトルになっている「ブラックボトム」とは、1920年代に流行したダンスのスタイルのこと。
前情報無しで観はじめたら、なんだかどこかで聞いたような話だなと既視感を感じていたのだが、途中で思い出した。
これ大学時代に、授業でやった戯曲だった。
映画を観た方は分かるだろうが、めちゃくちゃ鬱な話なので、読み終わってドヨーンとしている学生の反応に、先生だけがほくそ笑んでたのを覚えている。
オーガスト・ウィルソンがこの物語を書いたのは、40年近く前の1982年。
ピッツバーグに生まれたウィルソンは、20世紀のアフリカ系コミュニティに生きる人々の葛藤や、白人社会との軋轢を描いた「ピッツバーグサイクル」と呼ばれる一連の戯曲群で知られた作家で、ヴィオラ・デイヴィスに初のオスカーをもたらした、デンゼル・ワシントン監督の「フェンス」の原作もその中の一本だ。
本作の戯曲は、85年のトニー賞の最優秀演劇作品賞を受賞している。
物語は、1927年夏のシカゴのレコーディングスタジオでの1日の出来事を描いているが、背景となっているのが奴隷解放後の黒人人口の大移動だ。
19世紀後半、敗戦した南部の経済は悪化し、黒人たちは奴隷の身分ではなくなったものの、今度は職につけないという悪循環に陥る。
相変わらず差別の激しい南部での生活に見切りをつけ、北部での生活に活路を見出す人々が増加し、19世紀後半から20世紀初頭にかけて数百万人が移り住んだ。
伝統的な南部のアフリカ系コミュニティの暮らしを選ぶか、それとも北部の白人たちの世界で新参者として生きるか、人生を選択できるようになった黒人たちの中で、新たな分断と葛藤が生まれる。
そして南北戦争期のディープサウスの混乱の中で生まれ、この時代に人々の流れと共に広まっていった音楽が魂の歌ブルースなのである。
広大なアフリカ大陸の各地から、バラバラに連れてこられた奴隷たちは、アメリカの地でアイデンティティを奪われ、メルティングポットの中の混ぜこぜのシチューとして消費された。
そして、食べ残しの肉や人参だったものが、残飯となって白人社会へと放り出される。
それがアメリカ社会の中で、黒人の置かれた立場の原点だと、本作は強くメンションする。
文字を書くことすら禁じられていた南部のアフリカ系コミュニティにとって、ブルースとは世代を超えて歌い継がれた抵抗の言葉であり、同時に彼らの世界で何が起こったのかを記録した歴史そのものなのだ。
本作の時代よりも少し後の作品になるが、差別主義者の白人によって木に吊るされた黒人の遺体を歌った「奇妙な果実」はあまりにも有名で、ある時代に起こっていたことをどんな歴史書よりも雄弁に、その時の空気までも含めて表現している。
だが黒人の魂であるブルースも、時代と場所によって変わってゆく。
マ・レイニーは実在の歌手で、一説によると「ブルース」というジャンルの名付け親とも言われる人物だが、戯曲が書かれるまでほとんど忘れられた存在だったそうだ。
同時代のブルース歌手といえば劇中にも名前が出てくるベッシー・スミスが有名だが、マ・レイニーに関しては写真などの資料がほとんどが残っていない。
それはおそらく、彼女が巨体で金歯の入った強面の女性で、メイクも衣装も可憐とは言いがたかったという以上に、彼女が典型的な南部人で南部に暮らす黒人のために歌っていたからだろう。
本作では、冒頭にマ・レイニーのコンサートが行われてる描写がある。
ヴィオラ・デイヴィスの歌唱が素晴らしいが、この人ジュリアードでみっちり声を鍛えられているから当然か。
南部の森の中のテントで開かれているコンサートは、レコードなど持てない貧しい庶民の娯楽だ。
人種隔離政策が維持されていた南部では、黒人と白人の世界は別れ、彼女は“ホーム”である黒人の世界の音楽の女王だった。
しかし、レコーディングのために行く北部は、いわば“アウェー”だ。
そこは白人たちの世界で、自分の尊厳は自分で守らねばならない。
彼女が何を言われても自分のルールを曲げないのも、白人たちからプロフェッショナルとしてリスペクトを受けるためだ。
白人が欲しいのは、自分の歌なのだから、最高の環境を整えるのは当然。
真夏のシカゴで、締め切られたスタジオでレコーディングするのに、扇風機を用意するのは必須で、喉を冷やすためにコーラを用意すると約束していたのだから、用意されるまで歌わない。
口上を担当した甥にも、バンドメンバーにも、仕事をした者にはきちんと希望する形で報酬を支払わせる。
彼女は単に大物ぶって我がままなのではなく、守るべき仲間を持つリーダーとして、自立した女性として、必要だからそうしているのだ。
一方、バンドメンバーの中で、一番若く野心家でビッグマウス。
マ・レイニーのアンチテーゼと言えるのが、チャドウィック・ボーズマン演じるトランペッターのレヴィーだ。
レコーディングする予定の「ブラックボトム」を勝手にアレンジして、マ・レイニーのバージョンはもう古いと言い放つ。
白人からの承認欲求に取り憑かれたレヴィーが、8歳の頃に彼の家族に起こった悲劇を独白するシーンのボーズマンの演技は圧巻で、本作の白眉だ。
自分はなんでもできる、何者にもなれると思っているが、それが幻想にすぎないことを彼は本能的に知っているのである。
アメリカの黒人は、白人に逆らっては生きていけない。
南部のアフリカ系コミュニティをベースとするマ・レイニーと違って、北部の白人社会でのしあがろうとすると尚更だ。
劇中で、レヴィーがこじ開けようとしている建て付けの悪い控室のドアが、アメリカの黒人の状況を象徴する。
開けさえすればどこへでも行けると思っていたのに、実際にはドアを開けたらもう一つの壁があるだけ。
拠り所だった音楽の才能すら否定され、どこにも行けないことが分かった時、レヴィーは最悪の自滅行為をしてしまうのだが、どんなに大物だろうが搾取から逃げられないのは、マ・レイニーも同じ。
終盤、なんとかセッションを終えた彼女は、200ドルのギャラと引き換えに権利の譲渡証明書にサインを求められる。
当然ロイヤリティなどはなく、黒人ミュージシャンはレコードの権利全てを、白人よりもずっと安く奪い取られるのだ。
それでも、彼女にできることは歌うことだけ。
たとえブルースの母だったとしても、白人が支配する音楽業界に生きる以上、システマチックな搾取構造の中にいる。
映画のラストで、レヴィーからたった5ドル(現在の貨幣価値にすると8000円程度)で買い叩いたオリジナル曲を、全員白人のバンドでレコーディングしている風景は、持てる者は際限なく膨れあがり、持たざる者は永遠に持たざるままというアメリカ流資本主義社会を象徴する。
そしてそれは、映画の時代から100年近く経った今もなお変わらないと言う事実が、40年前に書かれた戯曲に強烈な現在性を与えている。
一見すると対照的に見えるマ・レイニーとレヴィーは、共に尊重される人生を求めて、心で叫び続けているのである。
ブルースは今でも抵抗の歌であり、この物語そのものもまたブルースなのだ。
今回は、マ・レイニーの故郷、ジョージアの名を持つコーンウィスキー「ジョージア・ムーン」をチョイス。
まあ、作られているのはケンタッキーなのだが。
まるでジャムの瓶の様な、広口のボトルがトレードマーク。
コーン80%以上を使用し蒸留し、30日以内の短期熟成を売りにしたユニークな酒だ。
“ムーン”という名は禁酒法時代の“密造酒”を指すスラングで、一見するとウィスキーとは思えない無色透明。
熟成が短い若い酒だけにピリピリとしたアルコールの刺激が先に来る。
コーンの風味はあるが、味わいとしては単純なので、ショットグラスでグイッとやるか、カクテルベースにして飲むのがオススメ。
話は変わるが、ジョージアと言えば映画の撮影誘致で有名な州で、特産品のピーチのマークを映画のエンドクレジットで見ることも多い。
ところが、黒人有権者を投票から遠ざけるとして、現在のジム・クロウ法と言われる選挙に関する州法改正案、通称「SB(上院法案)202」の成立したことを受け、複数のハリウッドのスタジオからボイコットされるなど総スカン状態に陥っている。
「BLM」だけでなく、戦いは常に続いているのだ。
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うだるような熱波に包まれた真夏のシカゴで、伝説的なブルース歌手、マ・レイニーのレコーディングセッションが行われる。
ところが、セッションはリハーサルから波乱含み。
自らのルールを絶対に曲げないマ・レイニーは、白人のプロデューサーらと衝突し、彼女の音楽は古いと吹聴するビックマウスのトランペッター、レヴィーはバンドメンバーの和を乱しまくる。
幾つもの不協和音がぶつかり合い、浮かび上がってくるのは、ブルースに隠された哀しい歴史と、100年後の今なお続く差別と絶望への抵抗だ。
巨匠オーガスト・ウィルソンの同名戯曲を、「グローリー -明日への行進-」などで知られるルーベン・サンチャゴ=ハリソンが脚色、メガホンを取ったのはトニー賞に輝いた劇作家・舞台演出家でもあるジョージ・C・ウルフ。
タイトルロールのマ・レイニーを演じるヴィオラ・デイヴィス、彼女のアンチテーゼとなる野心家のレヴィー役のチャドウィック・ボーズマンが素晴らしい名演をみせる。
昨年の8月に43歳の若さでこの世を去ったボーズマンの、これが最後の出演作品となる。
1927年夏のシカゴ。
パラマウントのレコーディングスタジオでは、マネージャーのアーヴィン(ジェレミー・シェイモス)とプロデューサーのスターディヴァント(ジョニー・コイン)が、”ブルースの母”と呼ばれる伝説的な大物歌手、マ・レイニー(ヴィオラ・デイヴィス)の到着を待ちわびていた。
バンドメンバーのレヴィー(チャドウィック・ボーズマン)、トレド(グリン・ターマン)、カトラー(コールマン・ドミンゴ)、スロー・ドラッグ(マイケル・ポッツ)は時間通りにやってきたが、マ・レイニーの姿はない。
メンバーはリハーサルを開始するが、独立を画策しているトランペッターのレヴィーは、レコーディング予定曲の「ブラックボトム」を自分のアレンジで演奏しようとして他のメンバーとぶつかる。
マ・レイニーが、ガールフレンドのダッシー・メイ(テイラー・ペイジ)と甥のシルベスター(デューサン・ブラウン)と共にスタジオに現れた時には、既に予定時間を1時間過ぎていた。
すぐにでもレコーディングを始めたい白人の男たちに対し、マ・レイニーは契約条件の冷えたコーラが用意されてないと歌うことを拒否。
コーラが届き、ようやくセッションを開始しようとするが、今度は曲の冒頭の口上を任されたシルベスターが吃音でNGを連発。
やがて、レコーディングセッションは、不穏な雰囲気に包まれてゆく・・・・・
楽曲のタイトルになっている「ブラックボトム」とは、1920年代に流行したダンスのスタイルのこと。
前情報無しで観はじめたら、なんだかどこかで聞いたような話だなと既視感を感じていたのだが、途中で思い出した。
これ大学時代に、授業でやった戯曲だった。
映画を観た方は分かるだろうが、めちゃくちゃ鬱な話なので、読み終わってドヨーンとしている学生の反応に、先生だけがほくそ笑んでたのを覚えている。
オーガスト・ウィルソンがこの物語を書いたのは、40年近く前の1982年。
ピッツバーグに生まれたウィルソンは、20世紀のアフリカ系コミュニティに生きる人々の葛藤や、白人社会との軋轢を描いた「ピッツバーグサイクル」と呼ばれる一連の戯曲群で知られた作家で、ヴィオラ・デイヴィスに初のオスカーをもたらした、デンゼル・ワシントン監督の「フェンス」の原作もその中の一本だ。
本作の戯曲は、85年のトニー賞の最優秀演劇作品賞を受賞している。
物語は、1927年夏のシカゴのレコーディングスタジオでの1日の出来事を描いているが、背景となっているのが奴隷解放後の黒人人口の大移動だ。
19世紀後半、敗戦した南部の経済は悪化し、黒人たちは奴隷の身分ではなくなったものの、今度は職につけないという悪循環に陥る。
相変わらず差別の激しい南部での生活に見切りをつけ、北部での生活に活路を見出す人々が増加し、19世紀後半から20世紀初頭にかけて数百万人が移り住んだ。
伝統的な南部のアフリカ系コミュニティの暮らしを選ぶか、それとも北部の白人たちの世界で新参者として生きるか、人生を選択できるようになった黒人たちの中で、新たな分断と葛藤が生まれる。
そして南北戦争期のディープサウスの混乱の中で生まれ、この時代に人々の流れと共に広まっていった音楽が魂の歌ブルースなのである。
広大なアフリカ大陸の各地から、バラバラに連れてこられた奴隷たちは、アメリカの地でアイデンティティを奪われ、メルティングポットの中の混ぜこぜのシチューとして消費された。
そして、食べ残しの肉や人参だったものが、残飯となって白人社会へと放り出される。
それがアメリカ社会の中で、黒人の置かれた立場の原点だと、本作は強くメンションする。
文字を書くことすら禁じられていた南部のアフリカ系コミュニティにとって、ブルースとは世代を超えて歌い継がれた抵抗の言葉であり、同時に彼らの世界で何が起こったのかを記録した歴史そのものなのだ。
本作の時代よりも少し後の作品になるが、差別主義者の白人によって木に吊るされた黒人の遺体を歌った「奇妙な果実」はあまりにも有名で、ある時代に起こっていたことをどんな歴史書よりも雄弁に、その時の空気までも含めて表現している。
だが黒人の魂であるブルースも、時代と場所によって変わってゆく。
マ・レイニーは実在の歌手で、一説によると「ブルース」というジャンルの名付け親とも言われる人物だが、戯曲が書かれるまでほとんど忘れられた存在だったそうだ。
同時代のブルース歌手といえば劇中にも名前が出てくるベッシー・スミスが有名だが、マ・レイニーに関しては写真などの資料がほとんどが残っていない。
それはおそらく、彼女が巨体で金歯の入った強面の女性で、メイクも衣装も可憐とは言いがたかったという以上に、彼女が典型的な南部人で南部に暮らす黒人のために歌っていたからだろう。
本作では、冒頭にマ・レイニーのコンサートが行われてる描写がある。
ヴィオラ・デイヴィスの歌唱が素晴らしいが、この人ジュリアードでみっちり声を鍛えられているから当然か。
南部の森の中のテントで開かれているコンサートは、レコードなど持てない貧しい庶民の娯楽だ。
人種隔離政策が維持されていた南部では、黒人と白人の世界は別れ、彼女は“ホーム”である黒人の世界の音楽の女王だった。
しかし、レコーディングのために行く北部は、いわば“アウェー”だ。
そこは白人たちの世界で、自分の尊厳は自分で守らねばならない。
彼女が何を言われても自分のルールを曲げないのも、白人たちからプロフェッショナルとしてリスペクトを受けるためだ。
白人が欲しいのは、自分の歌なのだから、最高の環境を整えるのは当然。
真夏のシカゴで、締め切られたスタジオでレコーディングするのに、扇風機を用意するのは必須で、喉を冷やすためにコーラを用意すると約束していたのだから、用意されるまで歌わない。
口上を担当した甥にも、バンドメンバーにも、仕事をした者にはきちんと希望する形で報酬を支払わせる。
彼女は単に大物ぶって我がままなのではなく、守るべき仲間を持つリーダーとして、自立した女性として、必要だからそうしているのだ。
一方、バンドメンバーの中で、一番若く野心家でビッグマウス。
マ・レイニーのアンチテーゼと言えるのが、チャドウィック・ボーズマン演じるトランペッターのレヴィーだ。
レコーディングする予定の「ブラックボトム」を勝手にアレンジして、マ・レイニーのバージョンはもう古いと言い放つ。
白人からの承認欲求に取り憑かれたレヴィーが、8歳の頃に彼の家族に起こった悲劇を独白するシーンのボーズマンの演技は圧巻で、本作の白眉だ。
自分はなんでもできる、何者にもなれると思っているが、それが幻想にすぎないことを彼は本能的に知っているのである。
アメリカの黒人は、白人に逆らっては生きていけない。
南部のアフリカ系コミュニティをベースとするマ・レイニーと違って、北部の白人社会でのしあがろうとすると尚更だ。
劇中で、レヴィーがこじ開けようとしている建て付けの悪い控室のドアが、アメリカの黒人の状況を象徴する。
開けさえすればどこへでも行けると思っていたのに、実際にはドアを開けたらもう一つの壁があるだけ。
拠り所だった音楽の才能すら否定され、どこにも行けないことが分かった時、レヴィーは最悪の自滅行為をしてしまうのだが、どんなに大物だろうが搾取から逃げられないのは、マ・レイニーも同じ。
終盤、なんとかセッションを終えた彼女は、200ドルのギャラと引き換えに権利の譲渡証明書にサインを求められる。
当然ロイヤリティなどはなく、黒人ミュージシャンはレコードの権利全てを、白人よりもずっと安く奪い取られるのだ。
それでも、彼女にできることは歌うことだけ。
たとえブルースの母だったとしても、白人が支配する音楽業界に生きる以上、システマチックな搾取構造の中にいる。
映画のラストで、レヴィーからたった5ドル(現在の貨幣価値にすると8000円程度)で買い叩いたオリジナル曲を、全員白人のバンドでレコーディングしている風景は、持てる者は際限なく膨れあがり、持たざる者は永遠に持たざるままというアメリカ流資本主義社会を象徴する。
そしてそれは、映画の時代から100年近く経った今もなお変わらないと言う事実が、40年前に書かれた戯曲に強烈な現在性を与えている。
一見すると対照的に見えるマ・レイニーとレヴィーは、共に尊重される人生を求めて、心で叫び続けているのである。
ブルースは今でも抵抗の歌であり、この物語そのものもまたブルースなのだ。
今回は、マ・レイニーの故郷、ジョージアの名を持つコーンウィスキー「ジョージア・ムーン」をチョイス。
まあ、作られているのはケンタッキーなのだが。
まるでジャムの瓶の様な、広口のボトルがトレードマーク。
コーン80%以上を使用し蒸留し、30日以内の短期熟成を売りにしたユニークな酒だ。
“ムーン”という名は禁酒法時代の“密造酒”を指すスラングで、一見するとウィスキーとは思えない無色透明。
熟成が短い若い酒だけにピリピリとしたアルコールの刺激が先に来る。
コーンの風味はあるが、味わいとしては単純なので、ショットグラスでグイッとやるか、カクテルベースにして飲むのがオススメ。
話は変わるが、ジョージアと言えば映画の撮影誘致で有名な州で、特産品のピーチのマークを映画のエンドクレジットで見ることも多い。
ところが、黒人有権者を投票から遠ざけるとして、現在のジム・クロウ法と言われる選挙に関する州法改正案、通称「SB(上院法案)202」の成立したことを受け、複数のハリウッドのスタジオからボイコットされるなど総スカン状態に陥っている。
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