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2021年05月19日 (水) | 編集 |
壊れてゆくセカイ。

非常に辛い映画だ。
ロンドンに住む81歳のアンソニーと、彼を介護する娘のアンの物語。
この作品が特徴的なのは、認知症を患うアンソニーの視点で描かれていること。
だから自分がどこにいるのか、誰と話しているのか、時間も場所も主人公の主観では完全に混乱している。
原作はフランスの劇作家、フロリアン・ゼレールが2012年に発表した戯曲「Le Père(父)」
2015年にはフィリップ・ル・ゲ監督のコメディ映画「Floride」として映画化されていて、本作は原作者自身がメガホンをとったセルフリメイク版だ。
ゼレールは、「危険な関係」でアカデミー脚色賞に輝いたクリストファー・ハンプトンと共に元の戯曲を脚色し、演劇的な構造を色濃く残しながらも、実に映画的なストーリーテリングで魅せる。
名優アンソニー・ホプキンスが、名前も誕生日も本人と同じ設定に当て書きされた主人公を演じ、圧巻の存在感。
彼の娘アンを、オリビア・コールマンが演じる。

ロンドンに住むアンソニー(アンソニー・ホプキンス)の元に、娘のアン(オリビア・コールマン)が訪ねてくる。
せっかく雇った介護士の女性を、偏屈なアンソニーが追い出してしまったと怒っているのだ。
アンは色々と世話を焼くが、アンソニーは自分には介護など必要ないと思っているので、父娘はすれ違ったまま。
すると唐突にアンが「新しい恋人とパリに移住する」と言い出す。
今までのように、毎日は来られないから、アンソニーの日常をサポートしてくれる介護士が必要だと説得する。
しかしアンソニーは腑に落ちない。
それならば、リビングでのんびりと新聞を読んでいる、アンの夫だという男は誰だ?
そして帰宅したアンは、まるで別人のようだ。
ある朝、アンが手配した新しい介護士の女性が面接にやって来る。
ローラ(イモージェン・プーツ)と名乗った女性は、なかなか会いに来ない次女のルーシーとそっくりだ。
アンソニーは混乱し、自分の置かれている状況が理解できなくなってゆくのだが・・・・


本作は、いわゆる“信頼出来ない語り手”による物語だ。
これはアメリカの評論家ウェイン・C・ブースが名著「フィクションの修辞学」で提唱した概念で、語った内容が検証しようのない一人称の語り手は信用に欠くというもの。
語った内容が嘘かも知れないし、妄想かもしれない。
例えば、ガイ・リッチー監督の「ジェントルメン」では、イギリスの大麻王が引退を決意した結果、利権を狙う悪党たちが抗争を繰り広げる顛末が、ヒュー・グラント演じる事件記者の書いた、一人称のルポ記事という形で進行してゆく。
しかし記者自身も利権を狙う悪党の一人なので、語られている物語が本当なのか、それとも彼の都合のいいように改変された話なのか判断がつかない。
受け手にとって、語り手に対する信頼が弱いと物語そのものが揺らいで来る。
もっとも、黒澤明の「羅生門」のように、同じ話を別々の視点から見るだけでも、異なる事実が浮かび上がることもあるから、二人称、三人称の語り手が信頼出来なくなることも多いし、必ずしも一人称だから、ということではないのだが。
そして、時として語り手に対する信頼の無さが、観客の想像力を刺激し、物語に対する興味を増幅させる場合もある。

本作のアンソニーは何しろ認知症なので、ある意味一番信頼出来ない語り手だ。
もっとも自分では認知症だという自覚がなく、自分は健康だから娘の手を借りなくとも普通に生活できると思っている。
でも彼の見ている世界は、確実に壊れてゆく。
最初は長年暮らしている自分のフラット(マンション)に住んでいて、アンが通って来ていると思っているのだが、いつの間にかアンが夫と暮らすフラットに、自分が引き取られたのだと言われて戸惑を隠せない。
部屋の間取りや家具も変わり、財産を娘夫婦に奪われたのかと疑う。
一度体験したことが二度起こり、時にはアンの夫が別人になったり、アン自身の容姿も全く変わったりする。
新たに雇われた介護士は、なぜか音信不通の次女ルーシーとそっくりに見える。
これらの不可思議で理解不能な変化が、アンソニーの中では現実として、シームレスに起こるのである。

認知症を描いた作品は古今東西無数にあるが、この病気をこれほどディープに、体験的に理解させてくれる作品は無かった。
多くのフィクションは、認知症患者を介護したり、治療したりする立場から描かれているのだが、本作では患者自身の認識している奇妙な世界を垣間見ることが出来るのだ。
日常が歪み、時間も空間も刻々と変化してゆく。
よく知っている人が、いつの間にか別人になってしまう。
ふと気づくたびに、別の世界線にいるようなものだから当然混乱するし、自分がおかしいという自覚が無いぶん余計にキツい。
自分だけが人と異なる世界にぽつんと取り残される、その孤独と恐ろしさ。
認知症患者本人にしてみれば、まるで自分が不条理ホラーの出演者になってしまったような感覚だろう。

この映画では、アンソニーの認識している世界は変化するが、基本は彼の暮らすフラットを舞台とした密室劇
空間は演劇的だが、主人公の認識している世界の表現は極めて映画的だ。
アンソニーの視点で描かれてはいるものの、本当に主観だけだと訳の分からないシュールな映画になってしまうので、観客が状況を理解できる適度に客観描写を取り混ぜ、混乱を誘う美術や衣装の工夫など、画面の隅々まで作り込まれている。
フロリアン・ゼレールは当然舞台の経験は豊富なはずだが、元の戯曲が持っていた演劇的な要素を、カメラによるフレームワークと編集による時間のコントロールという映像的要素に変換し、初監督とは思えないくらいに洗練されたテリングで魅せる。

そしてやはり、本作の白眉はアンソニー・ホプキンスだ。
アカデミー賞では、「マ・レイニーのブラックボトム」でキーパーソンを演じた、故チャドウィック・ボーズマンの受賞が確実視されていたために、サプライズなんて言われてしまったが、いやこの演技は文句なしに凄い。
本作が見事なのは、単に認知症の恐ろしさを体験させるのではなく、ドラマの根底に家族に刺さった過去の傷を設定し、父娘の葛藤のドラマとしたことにある。
実はアンソニーが一番愛していたのは、亡くなった次女のルーシーで、彼の心の中では画家だった彼女は今もどこかで生きている。
実際に彼の世話をしているアンの前でも、大切なルーシーに対する想いを隠そうともしないのだ。
この世の誰もが老からは逃れられず、もしかしたら認知症になるかも知れない。
ホプキンスは運命に抗おうとして、いつの間にか病に絡めとられる主人公を味わい深く演じ、誰もが感情移入せざるを得ない。
そしてアンは、自分があまり愛されていなかったと感じているからこそ、壊れてゆく父へのわだかまりだけでなく、亡き妹に対してももはやぶつけることが出来ない複雑な感情を抱いているのである。
家族に対する愛憎を、抑えた演技の中で巧みに表現したオリビア・コールマンもまた素晴らしい。
本作では、認知症という病によって顕在化された、不完全な人間に対する愛おしさが、凝った脚本と丁寧な演出によって、優れた心理劇として昇華されている。
驚くべき未見性を持った傑作である。

いぶし銀の人間ドラマには、ウィスキーが相応しい。
300年以上の歴史を持つ、スコッチの定番「ザ・マッカラン 18年」をチョイス。
最低18年、シェリー樽で熟成されたスコッチは、明るいマホガニーの色合いも美しく、複雑なアフターテイストを楽しめる。
マッカランは10年や12年ものも十分に美味しいが、人間と同じでこの18年あたりからグッと深みを増す。
それでも名優アンソニー・ホプキンスの領域にはまだまだだろうが。

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