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2021年06月28日 (月) | 編集 |
彼女は永遠の生の先に、何を見たのか。

人類で初めて不老不死の体を得た女性の、17歳から135歳までを描く一代記。
必滅の存在である人間が、死する運命から解放された時、一体何が起こるのか。
原作は、2011年の傑作短編「紙の動物園」で、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、世界幻想文学大賞の三冠を制し、大ベストセラーとなった「三体」シリーズの英訳でも知られる、米国の人気作家 ケン・リュウ。
彼の短編集「もののあはれ」の一編「円弧(アーク)」を、「蜜蜂と遠雷」の石川慶が監督と脚本を兼務して映画化した作品だ。
ケン・リュウの作品が長編映画化されるのはこれが初めて。
本人もエグゼクティブ・プロデューサーとして名を連ね、いわば原作者のお墨付きの映画化だ。
見た目はずっと30歳のまま、心だけが歳を重ねると言う極めて難しい設定の主人公、リナを芳根京子が演じ、彼女のメンターとなるエマに寺島しのぶ。
老化を止めるテクノロジーを開発する天才科学者の天音を、岡田将生が演じる。
大いなる流れに身を委ね、静かに、ディープに命の円弧を考察する、深淵なる127分だ。
※核心部分に触れています。

17歳で産んだばかりの我が子と別れ、孤独な放浪生活を続けていたリナ(芳根京子)は、19歳の時にエマ(寺島しのぶ)と出会い、遺体を生きていた時の姿のまま保存する施術を行うプラスティネーションの仕事を得る。
遺体の、最も生き生きした瞬間を見出すことに才覚を発揮したリナは、やがてプラスティネーションの第一人者となってゆく。
一方、エマの弟で天才的な科学者の天音(岡田将生)は、プラスティネーションの技術を発展、応用し、人間の肉体から老化という現象を取り去る研究に打ち込んでいた。
やがて天音と愛し合うようになったリナは、30歳の時に不老不死となる処置を受け、人類で初めて死から解放された存在となる。
そして不老不死が当たり前となった89歳の時、リナは有限の命を全うする道を選んだ人々の最期を見とる施設を運営していた。
そんなある日、施設に末期癌患者の芙美(風吹ジュン)が入居してくる。
彼女の夫の利仁(小林薫)は、あえて不老不死の処置を受けなかったと言うのだが、彼にはある秘密があった・・・・


ケン・リュウの小説が長編映画となるのは今回が初めてだが、是枝裕和監督がフランスで撮った「真実」の劇中映画として、「母の記憶に」という作品が取り上げられたことがある。
地球で暮らす娘のもとに、7年に一回母が訪ねてくる。
不治の病に冒され余命2年を宣告された母は、超高速で飛行する宇宙船に登場することで時間の流れが遅くなる、ウラシマ効果によって娘の人生の時間に寄り添おうとする。
母の姿はずっと変わらないまま、やがて娘は母の年齢を追い越して年老いてゆく。
このように、ケン・リュウの作品ではしばしば時間と生命というモチーフが取り上げられる。
彼の作品の大きな特徴が、宇宙に大きな時空の流れが存在していて、登場人物は時に小さく抗ってみせるものの、流れそのものを止めることはできず、波間にたゆたうような死生観を持っていることだ。
これは映画「メッセージ」の原作「あなたの人生の物語」で知られる、同じく中国系の人気作家テッド・チャンの作品にも見られる傾向なので、東アジアの情緒と言えるのかもしれない。

映画の冒頭で、産んだばかりの我が子を捨てたリナは、その2年後にグァダニーノ版「サスペリア」みたいなアングラなダンスのステージに姿を現す。
肉体言語であるダンスは、まさに命の象徴だ。
このステージでプラスティネーションの名手エマに才能を見出され、彼女は遺体の時間を永遠に止め、保存する仕事につくことになる。
プラスティネーションは、死への抗いだとエマは言う。
誰しも死にたくないが、死は避けられない。
死する運命の人間の、せめてもの抵抗が、まるで生きているように遺体を保存するプラスティネーション。
時を止められた遺体、あるいはその一部は、芸術の域にまで高められた生の痕跡として表現され、忌むべきものとしては描かれていない。
だが、プラスティネーション技術は不老不死の登場によって意味を失う。
死は克服され、もはや抗う対象ではなくなるのである。

古今東西、人類究極の夢である不老不死をモチーフにした作品は数多いが、私には本作が一番リアルに感じられた。
もしこの夢が実現したとして、歴史上の数々のテクノロジーと同じように、最初は倫理的な抵抗と分断が起こるだろう。
続いて格差による経済的分断、最後は身体要件などによる技術的な分断。
本作でも、不老不死の時代を開いた天音が、遺伝子異常による細胞の癌化によってあっけなく死んでしまう描写がある。
だが、過去の例を見てもいずれ過渡期の問題は克服される。
全ての人類が歳を取らないことを選択できるようになった時、私たちの世界には何が起こるのだろうか。

過去に不老不死の技術を扱った作品の多くが、それをネガティブなものとして描いてきた。
私の世代では、機械の体によって不老不死を得る「銀河鉄道999」のインパクトが大きかったが、あの作品では明確に永遠の命を否定し、限りある命だからこそ生命は輝けると説いた。
また手塚治虫の「火の鳥 未来編」では、核戦争で人類が滅亡し、生き残った主人公が火の鳥によって死ねない体にされてしまう。
いつか再び、地上に知的生命が生まれるまで見守れというのだ。
たった一人、話し相手もおらず、永遠の孤独に耐える。
ここでは、はもはや永遠の命は呪いである。
高畑勲の遺作となった「かぐや姫の物語」では、不老不死が約束されているが、永遠に何の変化もない月の世界の人であるかぐや姫が、有限の命にあふれ、人々が四苦八苦する地上に憧れやって来る。
不老不死となるということは、宇宙の時空の流れから切り離されることを意味する。
個人的には、その先にあるのはゆっくりとした静かな滅びであると思うが、本作はその世界をディストピアとしては描かないのだ。

命に対する感覚は、世代によって変わってゆくだろう。
生まれた時から不老不死が当たり前の世代と、その前の世代では当然死に対する受け止め方も異なり、死生観も違ったものになってゆくはず。
限りある命しか知らない私たちにとって、それがディストピアに思えたとしても、未来の子供たちにとっては無限にあらゆるチャレンジが可能なユートピアかもしれない。
リナが不老不死の処置を受けた時の記者会見で、「死があるからこそ、人生に意味があるのでは?」と質問する記者が出てくるが、不老不死が当たり前になった時代に生まれたリナの娘は、死が生に意味を与えるというのは「昔の人の神話」だと言う。
たぶん、彼女の中では本当にそうなのだろう。
でも死する運命の私たちは、この物語を前に考えざるを得ない。
始まりだけあって終わりのない人生にとって、死の持つ意味とは何だろう。

プロットは、ケン・リュウの原作に基本的には忠実。
しかし石川慶は脚色で幾つかの要素を加えることで世界観を広げ、思考の材料を増やしている。
例えば小説では可能とされていた若返り技術は無くなり、不老不死の処置を受けるには技術的に年齢制限があること、技術の普及に伴う出生率の極端な低下などの設定は、シミュレーションとしてのリアリティを高めている。
天音の死後、リナが運営している死にゆく者のための施設“天音の家”のエピソードは、より死の意味を掘り下げることにつながっているし、小林薫演じる生き別れだった彼女の息子に末期癌の妻を見取らせたことで、人生の二つの選択のコントラストが際立つ。
リナの人生で、息子に再会する89歳から90歳の部分はモノクロの映像となっているのだが、ここは彼女自身の心の時間が止まっていたと言うことだろう。

人間の世界は不合理で、有限の世界に生まれたリナは、結局無限の使い方を学べなかった。
若き日のプラスティネーション同様に、遠大な時空間の流れの中で、少しだけ抗っただけ。
映画を観た私は、永遠に生きるチャンスを与えられた最初の人間、そしてそれを諦めた最初の人間となったリナに深く感情移入したが、答えは観客の数だけある。
生命の時間は必ず円弧(アーク)なのか、それとも無限に未来に続く直線もあり得るのか。
日本映画ではなかなか出会えないであろう、難役に挑んだ芳根京子が素晴らしい。
彼女の代表作になるのは、間違いないだろう。

今回は本作の撮影地の一つ、香川県小豆島の唯一の酒蔵、森國酒造の「ふわふわ。 純米吟醸」をチョイス。
花のような軽やかな吟醸香に、喉越しさわやか、後味スッキリの辛口の吟醸酒。
瀬戸内の海の幸はもちろん、お肉との相性も抜群だ。
雲が浮かぶラベルは、ゆったりとした島時間を表しているという。
森國の酒は「ふわふわ」の他にも「びびび。」や「うとうと。」など、島時間を擬音化したユニークなネーミングとお洒落なラベルが特徴。
さすが島全体に美術作品が点在する、アートの島の酒蔵だ。

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ヒノマルソウル~舞台裏の英雄たち~・・・・・評価額1650円
2021年06月25日 (金) | 編集 |
それぞれの、飛ぶ理由。

長野オリンピックのクライマックス、スキージャンプのラージヒル団体。
日本の逆転金メダルを影で支えた、25人のテストジャンパーたちの物語を「ステップ」が記憶に新しい飯塚健監督が映画化した、実話ベースの作品。
東京オリンピックに合わせた安易なタイアップ企画と思いきや、これはとても端正に作り込まれた秀作だった。
主人公は田中圭演じるリレハンメル五輪の銀メダリスト、西方仁也。
西方と、リレハンメルで金を逃した“戦犯“にされた原田雅彦との関係を軸に、長野までの四年間が描かれる。
脚本は杉原憲明と鈴木謙一のオリジナル。
西方の妻の幸枝を土屋太鳳、友人でライバルの原田雅彦を「カメラを止めるな!」の監督役でブレイクした、濱津隆之が演じる。

1994年、リレハンメル冬季五輪。
スキージャンプ日本代表の西方仁也(田中圭)は、金メダルをほぼ手中にしながら、チームメイトの原田雅彦(濱津隆之)の失敗ジャンプによって銀メダルに終わる。
四年後の長野へ向けて練習を再開し、順調に調整を重ねていたある日、西方はジャンプに失敗し、大怪我を負ってしまう。
妻の幸枝(土屋太鳳)との間には、子供が生まれたばかり。
諦めるわけにはいかない西方は、賢明なリハビリの末に最終選考前に復帰するも、結果は落選。
失意の西方の元に、コーチの神崎(古田新太)からオリンピックのテストジャンパーの話が持ち込まれる。
25人のテストジャンパーは、毎朝せっせとジャンプしてジャンプ台の雪を整え、競技場の安全を確かめる地味な役割。
一度は断った西方だったが、スキー連盟との関係も考えて引き受ける。
そして、ついに長野オリンピックが開幕するのだが・・・・


リレハンメルでは二回目のジャンプ、西方ら3人が飛んだ段階で日本は首位。
ところが最終ジャンパーの原田が失速し、二位に落ちてしまう。
もちろん銀メダルだって凄いことなのだが、選手も国民も金を信じて疑わなかった結果、銀メダルは敗北と受け取られ、それは「原田のせい」にされてしまうのだ。
この繰り返されるオリンピックの功罪とジレンマ、才能に恵まれた者にスポーツで生きる糧をもたらす反面、選手たちは巨大なプレッシャーにさらされ、負ければ国賊扱いされて、多くの確執を生んでしまうことをきちんと描いている。
単純にニッポンバンザイ、オリンピックバンザイではなく、かつては人の命すら奪ったオリンピックの負の部分を描いて、綺麗事の話にしなかったのがいい。

敗北の雪辱は長野で晴らすはずだったのだが、西方は代表選考の前に怪我をしてしまい、年齢的に後がないのに代表落ち。
それなのに、自分の「金」を奪い取った原田は、代表として再び大舞台に立っている。
そして、飛びたくもないのにスキー連盟とのしがらみでテストジャンパーを引き受けるに至って、西方は妬み嫉みの塊りになってしまう。
当然やる気なんて無く、毎夜宿舎で飲んで憂さ晴らし。
何しろこの人、冒頭に描かれる長野での原田の一回目のジャンプのシーンで「落ちろ、落ちろ」と呪いの言葉を吐くのである。
ここまでアスリートの嫉妬の毒を描いた作品は、他に記憶にない。
しかし、この時の西方は自分の悲運を慰めることで頭がいっぱいで、原田がどんな想いで飛んでいるのかを考えることが出来ていないのだ。

濱津隆之が演じる原田雅彦という人は、デフォの顔がちょっとはにかんだような笑顔で、照れ隠しなのか言動もわりと軽い感じ。
そのためか、リレハンメルの悲劇のジャンプ後には「ふざけている」と受け取られて世間から激しいバッシングを受けている。
どんなに綺麗事を言っても、金メダルと銀メダルでは選手生活はもちろん、キャリアを終えた後の人生すら変わってくる。
四年前は、チームメイトの金メダルのチャンスを、自分の失敗で潰してしまった。
もし、自国開催の長野で、同じことを繰り返してしまったら・・・。
この時の原田は、長野オリンピックに参加したどの選手よりも、確実に重いプレッシャーを背負っているのである。

それぞれの理由で”敗者“となった二人の男の葛藤に、テストジャンパーとして集った25人の若者たち、そして古田新太演じるコーチの神崎の物語が絡み合う。
25人全員がそれぞれの物語を持っている、とは言っても流石に多すぎるので、主に描かれるのは日向坂46の小坂菜緒演じる、北海道からやってきた女子高生ジャンパーの小林賀子と、山田裕貴の聴覚障害を抱えたジャンパー高橋竜二だ。
当時の冬季五輪にはまだ女子ジャンプ競技はなく、女子が五輪で飛びたければテストジャンパーになるしかない。
地味な裏方だったとしても、それしか道がないのである。
一方、普段は耳が聞こえないせいで様々な困難や差別にさらされている高橋は、飛んでいる時だけは自由だと言う。
彼らはそれぞれに飛ぶ意味を見出して、テストジャンパーと言う役割に向かい合っている。
そして代表コーチとして西方らを鍛え、長野でテストチームを束ねる神崎は、現役時代には代表になったことがない。
いわば悔しさしか知らない男なのだ。

本作に登場するジャンパーは、全員が表舞台に立てない、あるいは表舞台で失敗した敗者たちだ。
だが敗者は敗者なりに、飛ぶ理由はある。
雪辱を晴らすため、後身に道を切り開くため、世話になった人たちに報いるため、自らの経験を積むため。
そんな彼らに、突然金メダルのチャンスがやってくる。
ラージヒル一回目を飛んだ後、日本チームは四位。
ところが吹雪が激しくなり、審判団はテストジャンパー25人が全員ジャンプを成功させることを競技再開の条件とする。
つまり、飛べれば日本の金メダルも可能だが、飛べなければメダル無しが確定する。
裏方のはずの彼らは図らずも、リレハンメルの原田と同じような状況に立つことになる。

ただし、危険を冒して成功しても世間から讃えられることもなく、貰えるメダルもない。
ここで、徐々に周りの影響を受けていたものの、心を閉ざしていた主人公の西方のジャンプ人生が問われる。
なぜ飛ぶのか、飛んでいたのか。
自分にとってスキージャンプとは何なのか。
それまで、飛ぶ理由を失っていた西方が、最後の最後に妬み嫉みのネガティブな心を氷解させ、大切な人を思い浮かべて飛ぶ、と言う怪我から復帰できた初心を思い出すのは感動的。
銀メダルという”敗北“で生まれた葛藤を出発点として、表舞台に立てない閉塞を抱えた者たちの不屈を描く群像劇。
作り込まれた時代性、映像的なクオリティも高く、実に観応えのある人間ドラマだ。

しかし、本来ならば現実のオリンピックと合わせて盛り上げていきたかったのだろうが、始まる前から厭戦気分でオリンピックそのものへの拒否感が広がってしまうと言うのは、本作の企画時には想像も出来なかったのだろう。
実際興行的には相当に苦戦していて、このままだとオリンピック開幕まで持たなそうで、つくづく不運すぎる作品だ。
私はコロナ禍での東京オリンピック開催には反対だが、もちろん選手にも作品にも罪はない。
返す返すもIOCの銭ゲバっぷりと、この国の組織委員会、為政者の無能っぷりが恨めしい。

今回は長野県小布施の桝一市村酒造場の「純米大吟醸 鴻山」をチョイス。
日本酒度7の、辛口の純米大吟醸。
フルーティーにして、キレキレのシャープさ。
米の旨味と適度なコクもあり、付け合わせる肴を選ばない。
鴻山とは桝一市村酒造場の12代目高井鴻山のことで、葛飾北斎の門人で、晩年の北斎を小布施に招いたことでも知られる。
信州の、豊な歴史を感じさせる酒だ。

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ショートレビュー「クワイエット・プレイス 破られた沈黙・・・・・1650円」
2021年06月24日 (木) | 編集 |
絶対無音ホラー再び。

これぞ「B級だけど、ちゃんと面白い」お手本のような映画だ。
2018年に予想外の大ヒットとなり、全世界で3億4千万ドルを稼ぎ出した異色のSFホラー「クワイエット・プレイス」の第二弾。
尺も前作から若干のびたとは言え、クレジットを抜いた実質はほぼ90分というコンパクトさも相変わらず。

ある日突然現れた謎の怪物の大群は、完全に盲目だが異常に優れた聴覚を駆使し、人々を次々と捕食。
弾丸をも跳ね返す強靭な肉体を持つ彼らに、人類の文明はなす術なく崩壊。
音を出すと即襲われるので、生き残った人々は極力静かに、声を潜めて生活している。
第一作は、そんな極限状態の中で、出産という絶対に音が出てしまう状況を迎えた、エミリー・ブラント演じるエヴリンと家族たちの物語だった。
ジョン・クラシンスキー監督以下、主要スタッフ、キャストは続投。
監督自ら演じた父親のリーは、前作のクライマックスで家族のために犠牲となり、住んでいた農場は破壊されてしまったため、今回は次なる住処を探すブラントと子供たちに、キリアン・マーフィーが演じる一家の友人のエメットが加わる。
聾唖の長女リーガンの持つ特製の補聴器を使い、スピーカーでハウリングを起こすと、怪物は無防備な内耳を覆う鎧のような頭蓋を閉じられなくなるという弱点は前作で判っちゃったので、今回はそれをどう生かすかと言う話。

前作では描かれなかった、奴らが地球へとやって来た“Day1”を描く冒頭15分が圧巻。
上空から突如として巨大な“何か”が落下し、平凡な田舎町の日常が捕食者たちのキリングフィールドへと変貌する。
一作目はハリウッド映画としては低予算の1700万ドルで作られたそうだが、今回は予算も3倍に増え、“Day1”はスピルバーグの「宇宙戦争」を思わせる、問答無用のパニックスペクタクル。
このビギニングシークエンスを冒頭に持ってきたことで、スケールと共に世界観もグッと広がり、つかみはバッチリだ。

農場を中心とした一家の生活圏だけで物語が成り立っていた前作に対し、今回は赤ん坊を抱えて動けないエヴリンのチームと、ある場所を目指す娘のリーガンのチームのロードムービーが並行に描かれるツートラック
エヴリンはエメットが身を隠していた廃工場の地下に、怪我をした息子のマーカスと赤ん坊と共に立て篭もり、怪物を倒す鍵である補聴器を持つリーガンは、救えなかった息子たちへの贖罪の気持ちを抱えるエメットとバディを組み、海上の島に生き残っているラジオ局を目指す。
ハウリングを電波に乗せて、生き残っている人々に武器として使ってもらおうと言うのだ。
しかしこれなら、実際に海賊対策などに使われている音響兵器と変わらない気もするが、特別な周波数とかがあるんだろうな、たぶん。

基本的に、音に反応する怪物に見つからない様にするのは変わらないので、個々のシチュエーションでやってることはほぼ同じ。
登場人物が怪物に追われて息を潜めると、観てる方も絶対音を出してはいけないモードに入ってしまうのが可笑しい。
実際この映画の上映館は、異常に静かだ。
ツッコミどころ満載なのも相変わらずだが、そんなところもB級映画の醍醐味。
ツートラックのメイン、実質的な主人公のポジションにリーガンが入り、人間関係が新しくなったおかげで、葛藤の種類もチェンジ。
前作で弟を死なせる原因を作り、父リーと確執を抱えていたリーガンが、すっかり大人っぽく、反骨精神旺盛に逞しく成長していて感服。
演じるミリセント・シモンズも素晴らしい。
相変わらず超ヘタレなマーカスの決意も含め、子供たちの成長物語としてもよく出来ている。
今回も続編を感じさせるオチだったが、果たしてパート3はあるのだろうか。
正しいB級映画としては、稼げるうちは続きを作って欲しいけど。

前回と同じく、「痛撃」の意味を持つカクテル「スティンガー」をチョイス。
ブランデー45ml、ペパーミント・ホワイト15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ベースとなるブランデーの銘柄次第で味が大きく変わるので、好みの物を選ぶといい。
コクのあるブランデーとスッキリとしたペパーミント・ホワイトのコンビネーションは、名前の通りに刺激的。
アブサンを2dash加えることで、さらに刺激の強い「スティンガー・ロイヤル」へと変化する。

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ショートレビュー「漁港の肉子ちゃん・・・・・評価額1700円」
2021年06月21日 (月) | 編集 |
世界は、本当に愛で満ちているの?

昭和レトロな東北の漁港の街に住み着いたのは、訳あり人生を辿って来た母娘
トトロみたいなまん丸の母ちゃんに育てられた、ボーイッシュな11歳の娘の成長を描くリリカルな青春ストーリーだ。
西加奈子の同名小説を、傑作「海獣の子供」の渡辺歩監督と作画監督・キャラクターデザインの小西賢一らメインスタッフが再結集して映画化。
タイトルロールの肉子ちゃんを大竹しのぶ、娘のキクコをCocomiが演じる。
企画・プロデュースを明石家さんまが手掛けているのも話題で、制作を担当したのは最近吉本絡みの作品が多いSTUDIO 4℃。
昨年末に公開された「えんとつ町のプペル」は、テリングはゴージャスだったものの、プロットが破綻していてちょっと残念な出来だったが、こちらは素晴らしい仕上がり。
企画ものと敬遠している人は、騙されたと思って是非観てほしい。

キャラクターの体型に引っ掛けて、作中では宮崎駿オマージュが激しいものの、内容的にはむしろ「じゃりん子チエ」の高畑イズムを意識させる作品だ。
実際、焼肉屋が重要な舞台の一つだったり(じゃりん子チエはホルモン屋だけど)、頼りない親に対して子供の方がしっかりしていたり、共通点も多い。
小西賢一は高畑作品への参加が多く、遺作となった「かぐや姫の物語」では作画監督を務めていたのも、高畑ジブリの系譜を感じさせる由縁だろう。

大竹しのぶが凄まじい演技の振り幅で怪演する肉子ちゃんは、食べることとダメンズが大好き
惚れっぽく、情に絆されて金を貢いだ挙句に騙され、借金抱えて各地を転々。
最後の彼氏だった小説家志望の男が、遺書を残して家を出たことから、彼を探し続けていつしか東北の日本海側にある今の街に流れ着き、焼肉屋で働きながら港に係留されている古いグラスボートに娘のキクコと住んでいる。
11歳のキクコは母とは正反対のスレンダーな体型で、顔も全く似ていない。
肉子の波乱万丈の人生を見て来たせいか、性格もかなりクール
クラスの同級生の関係を敏感に読み取って、打算的に面倒を避けるくらい大人に育っている。
愛嬌のあるデブの母を愛している反面、ちょっと恥ずかしくも思っているのはいかにも思春期。
私は知らなかったが、キクコを演じるCocomiはキムタクの娘さんらしい。
声優の発声じゃないなと思ってたけど、ナチュラルでとても良かったよ。

実は肉子の本名も漢字違いの見須子(みすじ)キクコなのだが、この親子の人生には、ちょっとした違和感があちこちに仕掛けられていて、それらが終盤の怒涛の展開によって回収される仕掛け。
シンプルな人情ものと見せかけて、実は相当にヘビーな方に持っていくのは西加奈子らしい。
実質的な主人公であるキクコの周りには、母の他にも永遠に完成しない街の模型を作っている変顔の同級生・二宮や、キクコにとってこの街で最初の友達となったマリア、母娘を見守っている焼肉屋の大将サッサンといったキャラクターが配され、それぞれとの関係がキクコの成長を後押しする。
やがて、歳の割には大人びているくらいに思っていたキクコが、実は誰にも知られないまま、大きな葛藤を心の底に秘めていたことが明らかとなる。
そして、キクコが自分の生まれて来た本当の意味を知り、大人の階段を少しだけ上がったことによって、ちょっと変わった母娘は、愛と悲しみの絆を共有する女同士として、新たな関係を結ぶのである。

やはり少女の成長譚だった「海獣の子供」と同様、心象を裏打ちする繊細な自然描写を含めて、渡辺歩監督が素晴らしい仕事をしている。
冒頭からの怒涛のカリカチュアで、アニメーションの動く楽しさを見せ、これもジブリを思わせる飯テロ攻撃も効果的で、実にお腹が減る映画だった。
ただ可愛い絵柄だが、構成がトリッキーなことと、ネグレクトなどの結構ドロドロした部分も描いているので、あまり小さな子供向けとは言い難い。
世の中綺麗事だけではないよ、ということなのだが、基本的にキクコと同じくらいの年代に向けた作品で、小学生以下にはちょっと厳しいかな。

今回はもちろんミスジ肉に合う酒。
秋田県の両関酒造の「花邑 純米吟醸 酒未来生酒 をチョイス。
隣県山形の銘酒「十四代」の高木社長から、技術指導というか全面的なプロデュースを受けて作られた酒。
優しく瑞々しくフルーティ。
ボディはライトで、余韻は穏やか。
軟らかくて濃厚な脂の旨味を持つ、ミズジ との相性は抜群だ。

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ジャスティス・リーグ: ザック・スナイダーカット・・・・・評価★★★★+0.8
2021年06月17日 (木) | 編集 |
ついに、本当の姿へ!

DCエクステンデッド・ユニバース(DCEU)のスーパーヒーロー大集合映画、「ジャスティス・リーグ」を途中降板したザック・スナイダーが、本来意図した姿を取り戻すため、追加撮影を行って完成させたアナザーバージョン。
その名も「ジャスティス・リーグ: ザック・スナイダーカット」!
劇場公開されたジョス・ウェドン版の120分に対し、こちらは全体が7つのパートに分かれ、上映時間は実に240分もあるのだが、体感的にはあっという間。
基本は同じ話ではあるものの、印象としてはウェドン版とはほとんど別物だ。
ヴィランのステッペンウルフなんて、中間管理職に格下げされた上に、デザインも全然違うじゃないか。
ギラギラの変形するアーマーを纏い、ずっと禍々しい。
ビジュアル的な完成度の高さは圧倒的で、ぶっちゃけ遥かに面白い
まあ配信に割り切ったから、こんな長い尺が許されたのだろうが、もし最初からこのレベルの仕上がりだったら、劇場公開時の予想外の大コケは免れたのではないか。
返す返すもDCEUの戦略不在がもったいない。

クリプトンの怪物を倒すため、スーパーマン(ヘンリー・カヴィル)は我が身を犠牲にして死んだ。
バットマンことブルース・ウェイン(ベン・アフレック)は、スーパーマン亡き後の地球を守るため、特殊能力を持った超人たちでチームを結成することを決意。
その頃、超常の力を秘め、太古の時代からアマゾン、アトランティス、人間界に分割して封印された“マザーボックス”が起動し、その力に召喚された邪悪な侵略者、ステッペンウルフ(キアラン・ハインズ)が地球に到来。
アマゾン、アトランティスのマザーボックスは奪われ、残るは人間界の一つのみ。
バットマンの元には、ワンダーウーマン(ガル・ガドット)、超速の男フラッシュ(エズラ・ミラー)、アトランティスのアクアマン(ジェイソン・モモア)、機械の体を持つサイボーグ(レイ・フィッシャー)が結集。
しかし、強大な力を持つステッペンウルフと戦う切り札として、バットマンは人間界に残されたマザーボックスの力を使い、スーパーマンを復活させようとする。
しかし、死の世界から目覚めたスーパーマンは、以前とはどこか違っていた・・・・


尺の制約から解き放たれ、キャラクター描写が圧倒的に豊かになって、なぜこのメンバーなのかにも説得力が出た。
基本的に単体作品や脇役での登場を先行させるのが原則のMCUと違い、ウェドン版「ジャスティス・リーグ」公開時には、6人のヒーローのうち、アクアマンとフラッシュとサイボーグは初出場。
なのにほとんど背景が描かれていないので、どんなキャラクターかもろくに分からず、無口なサイボーグなんて空気にしかなっていなかった。
その後アクアマンは単体作品が作られたものの、フラッシュとサイボーグは今回ようやく人となりが理解できた。
ちゅうかサイボーグ、あんたマザーボックスの分身やんか!
ありとあらゆるネットワークに侵入して、思いのままに操ることができるとか、そんな凄いキャラクターだったとは。
レイ・フィッシャーによる“告発”があった今となっては、実質スナイダーが発掘した新人だったフィッシャーに倒する、嫌がらせに近いものだったのかも知れないが、ウェドン版での雑な扱いが可哀想過ぎる。

本作のヒーローたちに共通するのが両親、特に父親との関係に何らかの問題を抱えていること。
人間とアトランティス人のミックスであるアクアマンは、どちらの世界にも居場所が無いと感じていて両親とは疎遠。
フラッシュの父親は無実の罪で刑務所にいて、彼は父の冤罪を晴らそうと法律家を目指している苦学生。
事故で瀕死の重傷を負ったサイボーグは、父親のストーン博士によってマザーボックスと接続されたことによって、半分機械の体となって再生されるが、復活した自分の姿を醜いと感じ、博士を恨んでいる。
共に幼くして両親を失った、バットマンとスーパーマンは言わずもがな。
唯一土から作られたワンダーウーマン には父親がいないが、彼女の場合はかわりに包容力抜群の初恋の人、スティーブ・トレバーに心を全部持っていかれている。
スナイダー版に描かれた重厚な人間ドラマによって初めて、これが「マン・オブ・スティール」を受け継ぐ、父性の物語であることが明確になった。
エンドクレジットに、スナイダー夫妻が撮影現場を離れるきっかけとなった、二十歳で急逝した娘オータムへの追悼文があるのも、実際に映画を観るとグッとくる。

アクション映画としてもグレードアップし、スナイダーの出世作「300 スリーハンドレッド」を思わせるスローモーションのカッコいい殺陣もあるし、リチャード・ドナー版「スーパーマン」の、時間逆回転オマージュも入ったクライマックスはむっちゃアガる。
ウェドン版はあれはあれで面白くはあったが、本作とは尺のダイジェスト感以上に、例えて言えば一昔前の漫画と劇画みたいな違いがある。
ストーリーを単純化し、思いっきり間口を広げて、低年齢層も取り込もうとしたウェドン版は、アクション描写も全世代向けにマイルドに抑えられていた。
対して、こっちはずっとダーク&ハード。
完全に大人向けと割り切った作りで、バイオレンス描写も容赦がない。
スナイダーによる過去のDCEU作品との一貫性があるのは、確実にこちらだろう。

あと本作で注目すべきは、復活したスーパーマンの扱いだ。
ウェドン版のレビューで、私はDCEUの大きな欠点として「スーパーマンが強大過ぎること」と書いた。
これはMCUのキャプテン・マーベルにも同じようなことが言えるのだが、彼女は基本宇宙を放浪しているノマドで、たまに地球に戻ってくる人。
救世主キリストのメタファーとして、人類の前に姿を現したスーパーマンとは立場が違う。
神をも超える超常の力を持つスーパーマンと拮抗できるのは、同じクリプトン人かクリプトン由来のものだけで、どんな強いヴィランが出てきたとしても、彼が登場した瞬間に先が見えてしまう。
実際、ウェドン版ではスーパーマンが本来の心を取り戻し、ジャスティス・リーグに参戦した時点で、ステッペンウルフにはどう見ても勝ち目がなく、物語は終わったようなものだった。

そこでスナイダーは、本作を今後も続く遠大な“サーガ”の第一章と位置づけ、スーパーマンを今は味方だが、もしかすると敵になるかもしれない存在として描く。
言うまでも無いことだが、スーパーマンが人類の敵となれば、これはもうMCUからキャプテン・マーベルでも借りてこない限り誰も勝てない、史上最強のヴィランである。
DCを代表するヒーローであるスーパーマンを、どっちに転ぶのか分からない、“トランプのジョーカー”とするアイディアは非常に面白い。
エピローグでちょっとだけ出てくる予知夢のシーンとか、ムッチャ面白そうで続編を期待したくなるのだが、ベン・アフレックはもうバットマン役降りちゃったし、果たしてホントの完結まで作られるのだろうか。
このまま終わりだと、蛇の生殺し状態なんだけど。

今回は、チームのリーダーであり、特殊能力は「金持ち」と言い放つバットマンのイメージで、「ミリオネアー」をチョイス。
まあ、彼の資産はミリオンどころかビリオンでも全然足りないだろうけど。
ラム15ml 、スロー・ジン15ml、 アプリコット・ブランデー15ml、 ライム・ジュース15mlまたは1個 、グレナデン・シロップ1dashをシェイクしてグラスに注ぐ。
脂ギッシュなおじさんみたいなネーミングだが、実際にはライムの酸味が個性的な素材をまとめ上げ、スッキリとした飲みやすいカクテルだ。
これならワンダーウーマン も飲んでくれるだろう。

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映画大好きポンポさん・・・・・評価額1800円
2021年06月13日 (日) | 編集 |
ようこそ、夢と狂気の王国へ!

めちゃくちゃ面白い。
原作を知らず、「SHIROBAKO」みたいな作品かと、何となく観に行ってぶっ飛んだ。
映画の都ハリウッドならぬニャリウッドで、天才プロデューサーのポンポさんのアシスタントをしている主人公のジーンが、新作映画の監督を任されることになる。
序盤は緩いタッチなのだが、制作が始まると一気に熱量を帯びて狂気モードに。
「幸せは創造の敵」と言い放つポンポさんに導かれ、映画という魔物に挑むジーンの葛藤がディープに描かれる。
杉谷庄吾【人間プラモ】がpixivで発表したウェブ漫画を基に、「魔女っこ姉妹のヨヨとネネ」の平尾隆之が監督・脚本を兼務して映画化。
キャラクターデザインを「ソードアート・オンライン」シリーズの足立慎吾、アニメーション制作を「この世界の片隅に」の製作プロデューサーだった松尾亮一郎が設立したCLAPが担当した。
映画制作の内幕を巡る喜怒哀楽が90分の尺に凝縮された、セルフ・リフレクシブ・フィルムの新たな傑作だ。

敏腕映画プロデューサーのジョエル・ダヴィドヴィッチ・ポンポネット、通称ポンポさん(小原好美)のアシスタントをしているジーン・フィニ(清水尋也)は、観た映画の総てを記憶しているオタク脳の持ち主だ。
映画を撮りたいとは思っていたが、自分には無理だと初めから諦めていた。
ある時、ポンポさんからコルベット監督(坂巻学)の新作映画の15秒スポットの制作を命じられたジーンは、その知識をつぎ込み好評を得ると、すべての予告編制作を任されることに。
“作ること“に手ごたえを感じていたある日、ジーンはポンポさんから自ら執筆した映画「MEISTER」の脚本を渡され、監督に指名される。
主演は、10年間映画に出演していなかった名優マーティン・ブラドッグ(大塚明夫)。
新人女優のナタリー・ウッドワード(大谷凜香)がヒロインに抜擢され、映画はいよいよクランクインの日を迎えるのだが、ジーンはこれが自分の人生を変える大波乱の始まりだとは、まだ知る由もなかった・・・

  
映画業界を舞台にした映画は数多い。
劇中でも言及されている「ニュー・シネマ・パラダイス」をはじめ、「バートン・フィンク」やアカデミー賞に輝いた「アーティスト」、日本映画では記憶に新しい「カメラを止めるな!」に、まもなく公開となる「キネマの神様」など、アプローチも様々で傑作から怪作まで枚挙にいとまがない。
本作は、実写映画の制作内幕を、あえてアニメーションで描写したのが面白いところ。
舞台となるのはハリウッドを模した映画の街、その名もニャリウッド
一見するとアメリカっぽいのだが、美術のディテールは日本風でもあり、分かりやすいアニメスタイルのキャラクターデザインとも相まって、世界観は無国籍な印象。
この街でペーターゼンフィルムなる映画プロダクションを率いるポンポさんは、小柄で一見すると子供にも見える年齢不詳。
伝説的な大プロデューサーだった祖父から、映画作りの才能と業界の強力なコネクションを受け継ぎ、生まれた時から映画漬けの日々を送っている。
映画の神に祝福された申し子のような人だが、作る映画はなぜか90分以内のB級映画ばかりという、女ロジャー・コーマンのようなプロデューサーだ。
そしてコーマンの元から多くの若き映画作家たちが育っていったように、この映画ではポンポさんがジーンの内なる才能を“発掘”する。

超アクティブなポンポさんとは対照的に、ジーンは典型的なギークとして描かれている。
学生時代から根暗な映画オタクで、学園ヒエラルキーの頂点たるジョックたちのグループとは対照的な存在。
親しい友人もおらず、現実から逃げて“人生で大切なことは全部映画から学んだ”タイプの人間だ。
だがポンポさんは、そんな満ち足りてないジーンにこそ可能性を見出す。
彼女曰く「クリエイターは全員社会不適合者」(笑
まあ社会不適合者かどうかはともかく、幸せで満ち足りた者からは、何かを作りたい、何かを表現したいという渇望が生まれにくいことは事実だろう。
ジーンが撮影現場に入ると、インディ・ジョーンズ風の帽子を愛用していて、同僚のコルベット監督はハン・ソロ風のチョッキを着ているのも、オマージュと共に映画監督は全員貪欲な冒険者であるということを示唆している。
渇望の重要性は作り手の分身たる映画の主人公にも言えることで、欲しいものを手に入れて人生に満足しているキャラクターは主人公になり得ず、何か問題を抱えているキャラクターほど魅力的になるのと同じことだ。
ジーンは監督に抜擢されたことでコミュ障を脱し、人生で初めて自分の想いを貫き通すための努力をする。
彼は、すべてを失った音楽家という「MEISTER」の主人公に自分を重ね合わせ、内面のドラマを掘り下げてゆくのである。

しかし本作の白眉は、映画撮影の内幕そのものではなく、平尾隆之によって原作から大幅に脚色された後半部分だ。
映画を観てから慌ててpixivに公開される原作読んだのだが、映画版は元のプロットに忠実ながら、本作の展開を地で行く取捨選択と構成の妙があって改めて驚く。
特にユニークなのが、原作ではたった4ページしかないクランクアップ後のポストプロダクション描写、特に編集の楽しさと難しさにスポットを当て、主人公の作家としての進化を描き込んだことだろう。
映画制作のプロセスを一本の木の成長に例えると、企画や脚本などのプリプロダクションは木の根に当たる。
根が土壌に広く、深く張られていないと、どんな木もまともには育たない。
実際の撮影、プロダクションは木の幹の部分だ。
杉のようにまっすぐ堂々たる姿になるのか、盆栽のように曲がりくねった美を見せるのか、強固な根があってこその幹の形には作り手のビジョンが現れる。
だが、ここまでではまだ、最終的にどんな木になるのかは決まっていない。
枝ぶりは?葉は生い茂っているのか?どんな花が咲くのか?どんな実がなるのか?最終的に木の印象を決めるプロセスが、編集を含むポストプロダクションだ。
撮影はやることが決まっているが、編集はいわば答えのないパズルのようなもの。
同じ素材を使っても、組み合わせによって全く違ったものになってしまうのは、本作の劇中でも描かれた通り。
初監督にして編集まで任されたジーンは、映画を撮りながらと編集に大苦闘しながら、二度にわたって映画を“発見”してゆくのである。
めっちゃ楽しいけど、はまり込むと出られなくなる、編集という底知れぬ迷宮を、ここまでフィーチャーした作品は、おそらく映画史上初だろう。

ここで一応ポスプロを生業とする者として、当たり前で身も蓋もない話をすると、ジーン監督は何日も徹夜で編集していたが、徹夜すると作業効率が極端に低下して、正常な判断が出来なくなるのでやらない方がいい。
迷ったら一度グッスリ寝てから、改めて集中して作業した方が、ずっと早く良いものが出来るのは間違いない。
舞台がアメリカっぽく見えても、この辺りはクリエイター環境がブラックな日本ぽいのは、皮肉なんだろうか。
ともあれ、編集でもう一段映画を掘り下げた結果、決定的に足りない要素を見出したジーンは、追加撮影を決意するのだが、追加撮影絡みのエピソードを含む、映画の後半部分そのものが原作ベースだと追加されたシークエンスに当たるメタ構造。
原作者の杉谷庄吾【人間プラモ】は、アニメーション制作会社のプロダクション・グッドブックでデザインなどを担当しているアーティストだとか。
普段から映像制作に接しているからこそこのプロット、このディテールなのだろうが、平尾隆之が現役の映画監督として、原作だけではジーンの作家としての葛藤が足りないと判断したのもよく分かる。

しかし、言うまでもないことだが、一度バラした現場をもう一度作り上げるのは、少なくない予算と時間と労力がかかる。
スポンサーがいる場合は、資金の回収が遅れることにつながるので、当然嫌がられる。
本作のクライマックスはここからで、それまで単に勢いのいい人だったポンポさんが、プロデューサーとしての一面を見せ、映画業界の外まで巻き込んだ今風の仕掛けを作り、それぞれにとっての映画とは?を問いかける。
この映画版オリジナルの重層的な仕掛けによって、物語がグッと深味を持った。
アニメーションならではの、光と動きによる主人公の心象表現のカリカチュアも、ドライブ感があふれていい感じだ。
まあ実際には編集が終わったからといって即完成にはならないし、結構豪快にすっ飛ばされている制作過程もあるのだけど、本作は別にドキュメンタリーじゃないし至上命題の90分に収めるにはこれしかあるまい。

ちょっと気になったのは、ジーンが試写室で観ている「ニュー・シネマ・パラダイス」は、どっちのバージョンなのだろう?ということ。
この映画は最初に公開された123分版と、173分のディレクターズカット版があって、それぞれに印象が全く違ったものになっている。
映画が編集によって、いかに変化するかの教科書のような作品で、本作での言及もそれゆえだと思う。
個人的には123分版が圧倒的に好きなのだが、90分のサクッと観られる尺にこだわっているポンポさんに言わせると、現在の娯楽としては120分でも“優しくない”そうだけど。
そう考えると、追加撮影した挙句に、120分だった映画を240分にしてしまったザック・スナイダーは、めちゃくちゃ優しくない監督だな(笑

今回は、徹夜の連続で何とか映画を仕上げたジーン監督に、「レッド・アイ」をチョイス。
夜通し飲み明かした後の迎え酒として知られるビアカクテルで、寝不足で真っ赤に充血した目がその名の由来。
トマト・ジュースをタンブラーの四割ほどまで注ぎ、ビールを同分量注いで、軽くステアする。
当然ながら、ビールの種類によって味わいが大きく異なる。
印象としてはビール風味のトマト・ジュースという感じで、主役はトマト。
炭酸ののど越しによるスッキリ感に、トマトの酸味が疲れた胃を癒してくれる。

ところで、観ながら何となく「ポンポさん、デミアン・チャゼル好きそう」と思ってたのだが、漫画のキャラクター紹介の好きな映画欄にちゃんと「セッション」があった。
あれは106分あるけど、いいのか?

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オクトパスの神秘:海の賢者は語る・・・・・評価★★★★+0.8
2021年06月11日 (金) | 編集 |
おじさんは、タコストーカー。

第93回アカデミー長編ドキュメンタリー賞受賞作。
タコは甘える、タコは遊ぶ、タコは賢く、タコはかわいい。
堅苦しい邦題から、ナショナルジオグラフィック的な、真面目な海洋ドキュメンタリーかと思って観始めたのだが、さにあらず。
原題の「My Octopus Teacher」もイマイチしっくりこない。
なぜならば、これはまるでリアル版「シェイプ・オブ・ウォーター」のような、切ないラブストーリーなのである。
本作に出演し、撮影しているのは南アフリカの映像制作者クレイグ・フォスター。
彼はカラハリ砂漠に住む狩猟民族、サン人の生活に密着した作品をはじめ、多くのネイチャーシーンを撮影してきた。
しかし、危険を伴う現場の連続に、いつしか心身ともに疲れ切って、機材を見るのも嫌になってしまったのだという。
過酷な現場を離れた彼は、幼いころに過ごした岬の先の海中に広がる、ケルプの森に潜って過ごすようになる。

ケルプは巨大な昆布で、海底から海面まで数十メートルの高さに林立し、広大な藻場にはたくさんの海の生き物たちが暮らしている。
その景色は、さながら地球ではない別の惑星のよう。
2010年のある日、クレイグは、体に無数の貝殻を纏った奇妙な若いタコと出会う。
タコが貝殻のドレスを着て擬態している?
ファーストコンタクトでお互いに興味を持った一人と一匹は、それからタコの一生にあたる一年近い時間を共にすることになる。
ちなみにクレイグは最初からタコを「彼女」と呼んでいるのだが、タコの雌雄なんてどうやって分かるの?と思ったら、オスのタコは足の一本が交接器になっていて、先っぽには吸盤がないんだとか。
なるほど、これならヒヨコより見分けやすそうだ。

憑かれたように彼女に惹かれてゆくクレイグは、更なるタコの知識を求め、文献を調べまくり、毎日のように海底の岩の下にある彼女の巣に向かい、観察する。
びっくりするのは、クレイグがタンクを使わない素潜りだけで彼女に会いに行っていること。
どんだけ肺活量あるのだろう。
その有様は、もはやタコに恋しちゃったストーカーのよう。
もっとも、彼女の方もまんざらではないようで、足しげく通ってくるクレイグには警戒を解き、ボディータッチも許してくれる。
タコの知能が霊長類並なのは知っていたけど、実際にあんな風にコミュニケーションとれるとは驚きだ。
やがて、戦略的な狩りから魚との遊びまで、アメイジングな生態を見せる彼女に対する興味は、ケルプの森に広がる海の生態系全体への深い理解へつながってゆく。

そして海の命に癒されたことが、クレイグ自身の問題を抱えた人生にも大きな変化をもたらす。
映像制作者としての撮影意欲が戻り、人と人との関係の大切さにも改めて気づく。
彼の息子が海に興味をもったことで、共に潜るようになり、パパは張り切ってみるみるうちに元気を取り戻してゆくのだ。
おそらく、映画の企画が決まったのもこの頃だろう。
彼女と初めて出会った時は、一人で潜っていたはずなのだが、本作には第三者視点でクレイグを捉えたショットが多用されている。
監督としてピッパ・エアリックとジェームズ・リードが入り、撮影監督として水中カメラマンのロジャー・ホロックスが参加したことで、クレイグ自身の映像とホロックスの撮った映像が、うまく組み合わされて使われているのだ。

そしてクレイグのタコへの思い入れは、この頃にはもはや観察対象というか、ほぼ恋愛対象なのだが、一応餌をあげたり敵から守ったりといった、自然の法則に反することはしないと一線を引いている。
しかし彼女の暮らすケルプの森は、危険がいっぱい。
特にタコにとって最大の脅威が捕食者のタテスジトラザメで、彼女も幾度となく危機に陥る。
感情移入し過ぎて、タコがケガをすると涙ぐんじゃったり、まるで人間の彼女のことを語っているみたいに聞こえるのだけど、確かにあそこまで懐かれると動物も人間も絆は変わらないのはよく分かる。
一人と一匹が出会って一年が経過したころ、そろそろ寿命を迎えようとしている彼女が突然クレイグの胸に飛び込んできて、気持ちよさそうに撫でられているシーンは、まるでメルヘンな異種ラブストーリーを観ているようだった。

疲れ切ったおじさんの自分探しの海中散歩が、偶然の小さな出会いからはじまって、壮大な命のサイクルを描き出す展開は感動的。
映画全体がクレイグの語る”過ぎ去った過去“であることが、本作にいっそうの哀愁をもたらしている。
たった一年の短い生涯だから、全ての一瞬が愛おしい。
タコが新しい命を生み出すのと引き換えに、波乱万丈の一生を終えた数か月後、同じケルプの森で彼女の子と思しき小さなタコと出会う奇跡。
クレイグの彼女への真摯な愛が、無数の命を育むケルプの森の保全活動という、大きな流れにつながってゆくのも素晴らしい。
それにしても海の生き物って、なんと美しく神秘的なのだろう。

今回は、青い海に生きたタコの彼女に捧げる「ブルー・レディ」を。
ブルー・キュラソー30ml、ドライ・ジン15ml、レモン・ジュース15mlに卵白1個分を加え、しっかりシェイクしてグラスに注ぐ。
ブルー・キュラソーの甘味とジンの清涼感、レモン・ジュースの酸味、卵白が優しくまとめ上げてゆく。
パステルブルーの見た目も涼しげなカクテルで、これからの暑くなってゆく季節にピッタリの一杯だ。

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るろうに剣心 最終章 The Beginning・・・・・評価額1750円
2021年06月08日 (火) | 編集 |
伝説が、誕生する。

2011年に第一作が公開された「るろうに剣心」シリーズの、これが本当の完結編。
舞台は一気に10数年時代をさかのぼり、討幕派、佐幕派などの勢力が激しくぶつかり合う動乱の京都。
明治の新時代に展開する、前作までのド派手なスウォードアクションとは違い、最後の侍の時代を描く本格時代劇だ。
これはまだ剣心が「不殺の誓い」を立てる前の物語なので、彼が振るうのは逆刃刀ではない。
人斬り抜刀斎の字通り、人を斬って、斬って、斬りまくる。
血の雨を降らせ、多くの人を殺めた抜刀斎は、いかにして心優しいるろうにとなったのか。
前作までの四作が、ヴィランたちの怒りが作り出した盛大に燃え盛る紅蓮の炎だとすれば、本作は青白く静かに燃える剣心の情念の炎だ。
タイトルロールを演じる佐藤健以外、前作までと共通するキャストは剣心とは腐れ縁の斎藤一を演じる江口洋介くらいで、4月に公開された「The Final」では回想シーンのみ登場の有村架純が、ファムファタールの雪代巴を演じる。
監督・脚本はもちろん大友啓史が務め、見事にシリーズ有終の美を飾った。

1864年、討幕派の志士たちと彼らを取り締まる新撰組が、抗争を繰り広げる幕末の京都。
緋村剣心(佐藤健)は、新しい時代を求め、長州藩の奇兵隊に入隊。
その抜刀術を見込まれて、桂小五郎(高橋一生)のもと最強の暗殺者として暗躍し、佐幕派からは“人斬り抜刀斎”として恐れられていた。
しかし幕府の役人を暗殺する任務を遂行した時、思わぬ反撃に遭い一太刀浴び、頬に傷をつけられる。
しばらく経ったある夜、剣心は雪代巴(有村架純)と名乗る若い女を助けるが、彼女に人斬りを目撃されてしまう。
自分の正体を明かされぬため、剣心は彼女をそばに置くことにするが、その後討幕派が新選組の術中にはまり、池田屋で一網打尽にされ、両者が武力衝突する禁門の変が起こったことで、長州藩は京都を一時撤退。
剣心は小五郎が用意した農家へと身を隠し、巴と結婚する。
食物を育て収穫する平穏な生活の中で、剣心は初めて幸せを感じ、あらためて人を斬ることの意味を考える。
ところがある日、巴が忽然と姿を消す。
実は二人が出会ったのは偶然ではなく、巴には剣心の知らぬ秘密があった・・・・


極端に彩度の低い、ダークな色調で描かれる本作は、過去四作とは別物だ。
剣心も「おろ」とか言わないし、ユーモアの要素も全くない。
幕末の京都を舞台に、討幕派、佐幕派、尊王派、攘夷派などの勢力が入り乱れ血で血を洗う抗争を繰り広げるハードな世界観は、「るろうに剣心」シリーズよりも、大友監督のNHKディレクター時代の代表作「龍馬伝」の裏バージョンと言った方がしっくりくる。
また「るろうに剣心」といえばアクションだが、本作は全五作の中で、もっともドラマシーンが長く、アクションは相対的に少ない。
ガトリング砲などの派手な飛び道具も出てこないし、漫画チックなルックスと常人離れした技を持つ剣客もいない。
本作は、過去にシリーズの特色となっていた要素を、あらかた排除しているのである。
それはなぜか?

前作までに描かれていた明治時代の大人剣心は、「不殺の誓い」を軸に既に生き方を決めている人で、彼に降りかかる問題は常に人斬りだった過去からやってくる。
第一作の偽抜刀斎こと鵜堂刃衛も、第二作、三作の長州藩の二代目暗殺者だった志々雄真実も、「The Final」の復讐に燃える雪代縁も、皆何らかの過去の因縁をもって剣心に挑む。 
要するに、今までは積極的に葛藤し、物語を動かしていたのはヴィランの方で、剣心自身は葛藤要因を持っていない、狂言回しに近いキャラクターなのだ。
彼の葛藤は、例えば「薫が誘拐された」などの状況によってのみもたらされるので、常に誰かが事件を引き起こし、巻き込まれた剣心が仕方なく対処するの繰り返し。
主人公が根源的な葛藤要因を持っていないことが、世間の「るろ剣は、アクションはいいけどドラマが弱い」という評価にも繋がっていたのだが、前作まではアクションの舞台を作り出すことが優先されていたので、これでも成立していたのだ。

対して、人斬り抜刀斎がいかにしてるろうに剣心となったのかを描く本作では、まだ十代の若き剣心が人を殺すことの意味に苦悩し、ディープに葛藤する。
そもそもなぜ自分は人を斬っているのか?平和のための暴力は本当に存在するのか?命を奪った人たちに正義はなかったのか?
最終作に至って、彼は初めて本当の意味で主人公になったのだ。

冒頭の対馬藩邸襲撃や、新撰組の沖田総司との一対一の戦い、クライマックスの闇乃武との決戦など、アクションの見せ場は豊富にあるものの、物語の大半は剣心と彼の罪を象徴する雪代巴との絡みで占められているのはこのためだ。
許嫁だった清里明良を剣心に斬殺された巴は、剣心の心の合わせ鏡であるのと同時に、彼の内面を揺さぶり葛藤させ、成長という化学変化を引き起こすファムファタールだ。
自らも大き過ぎる葛藤を抱えた巴を、儚げに演じた有村架純が素晴らしい。
この薄幸のキャラクターは、原作ではなんと「新世紀エヴァンゲリオン」の綾波レイがモデルになっているそうで、言われてみれば納得。
剣心も巴も、ある意味心に仮面をかぶっていて本心をなかなか明かさない設定だが、ここまで主人公カップルの表情が変わらない映画は珍しい。
その分、内面の苦悩を想像しやすくなっているのだけど。

クライマックスで剣心を守るために自ら斬られた巴が、持っていた短刀で彼の頬に二つ目の傷をつけて「ごめんなさい、あなた」と言い残して事切れる描写は、その後彼女の日記で剣心を「二人目のあなた」と呼んでいることから、「一人目のあなた」である清里明良と、二人の「あなた」の間で揺れ動く巴の女心を端的に表現して秀逸。
おそらくあの言葉は、剣心に対する「裏切ってごめんなさい」と、明良に対する「仇を愛してしまってごめんなさい」の二つの意味を含んでいるのだろう。
人斬り人生の意味に苦悩する剣心と、復讐のために彼に近づいた巴、共に複雑な葛藤を抱えた二人の魂が共鳴し、悲恋の結果彼女の犠牲と引き換えに負の連鎖は終わり、ついに剣心は生き方を決める。
そして鳥羽伏見の戦いの終結と共に、人斬り抜刀斎は消え、不殺の誓いを立てた、るろうに剣心が誕生するのである。

本作は色々振り切った作りで、シリーズものの完結編としては相当に異色だが、私はこのダークな情念の物語を全体のベストと推したい。
派手さを優先した大エンターテインメントから一転、ドラマの完成度はシリーズの中でも抜きん出ていて、「るろうに剣心」の一作としてだけではなく、時代劇映画の秀作として記憶されるべき作品だと思う。
唯一欠点を挙げるとすれば、相変わらずの回想の多用だろう。
このシリーズはやたらと回想が多いのだが、本作は最後なだけに過去の全作からの引用が目立ち、もし回想を禁じ手としたならばだいぶ短くなるはずだ。 
しかし、あえて「The Beginning」を最後に持ってきたからこそ、回想が生きている部分があるのも事実。
過去の作品の様々なシーンが、本作という歴史の延長線上にあったことを知るのが、シリーズものならではの、ある種のカタルシスに繋がっているのである。
本作を観てからだと、例えば「The Final」のラストで薫の手をとる描写に込められた、剣心の想いの強さががよりハッキリと感じられる。
故に、全作鑑賞済みが前提の作りなのは、致し方なかろう。
それにしても一番印象に残るのは、二次元の綾波レイにも負けない、有村架純の超絶な可憐さよ
この映画は、彼女だけで何度でもおかわりできるわ。

今回は舞台となる京都、と言っても日本海に面した京丹後の地酒、木下酒造の「玉川 山廃純米 雄町 無濾過生原酒」をチョイス。
ドキュメンタリー映画「カンパイ!世界が恋する日本酒」にも登場した英国出身の杜氏、フィリップ・パーカーが手掛けた新時代の酒だ。
彼は英語教師として来日して日本酒に魅せられ、酒蔵に努めて南部杜氏の資格をとり、ついに木下酒造の杜氏となった。
米の濃厚な旨味と酸味、無濾過生原酒らしい野趣溢れる一本。
これからの季節は、冷で飲むのがお勧めだ。

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アメリカン・ユートピア・・・・・評価額1750円
2021年06月05日 (土) | 編集 |
より良き世界を求めて。

元トーキング・ヘッズのフロントマン、デヴィッド・バーンが2018年に発表した同名アルバムを元に、ブロードウェイで上演したコンサートショウを、スパイク・リーがドキュメンタリー映画化した作品。
バーンのドキュメンタリーというと、トーキング・ヘッズ時代の85年に、ロサンゼルスで行われたライブを、ジョナサン・デミがフィルムに収めた「ストップ・メイキング・センス」が有名。
「意味を考えるな!」と訴えたあの作品同様に、また皮肉っぽいタイトルだなと思ったが、映画を観て驚いた。
これは本当に、まだ見ぬユートピアを求めるバーンの、いやアメリカの遠大な旅を描いた骨太の作品だった。

ブロードウェイの老舗劇場、ハドソンシアターに設えられた舞台は、恐ろしくシンプルだ。
明るいグレーに塗られた床の両サイドとバックの三方を、すだれ状に加工された金属チェーンのカーテンが取り巻いているだけ。
そこにまずバーンが登場し、次いで二人のダンサー、そしてギタリストとベーシストと、すだれを通ってどんどんパフォーマーが増えてゆく。
その数、バーンを含めて12人。
彼らの持つ楽器は、アナログはもちろんデジタルまでもがすべてケーブルレスとなっていて、目まぐるしくポジションを入れ替えながら、トーキング・ヘッズ時代の楽曲を含む計21曲を披露する盛り沢山。

冒頭、アルバム曲の"Here"のところで、バーンは脳の話をする。
人間の脳のニューロンは、赤ん坊のころが一番密接に絡み合っていて、成長するにつれて不必要となる部分が失われてゆくのだという。
ここから、怒涛のパフォーマンスラッシュと共に、楽曲のチョイスに重要なメッセージを含ませてくるのだ。
選挙人登録への呼びかけと、二つのバージョンの"Everybody's Coming to My House”では、好悪相半ばする人間同士の関係を。
ジャネール・モネイのBLMプロテストソング、"Hell You Talmbout"では、警察の理不尽な暴力に倒れた黒人たちの名前のリストが呼び上げられる。
ちなみにこの曲の時だけ、勢い余って映像が劇場から飛び出してしまうのは、いかにもスパイク・リー。

自らも幼いころにスコットランドから移民したバーンは、今こそアメリカ社会の失われたニューロンを取り戻そうと叫ぶ。
この世界は、人間と人間の繋がりで出来ている。
人々が一番関心があるのは他の人のこと。
だから、舞台からは人間と必要不可欠な楽器以外は排除する。
性別も国籍も人種も異なる、バーンと11人のパフォーマーは、全員裸足で舞台と同系色の明るいグレーの衣装を着ているのだが、この色は照明によって、青っぽくも、赤っぽくも、何色にも変化してゆく。
人間しかいない舞台の上で、表現される本当の多様性
そして、”We're on a road to paradise. Here we go, here we go.(ぼくたちは楽園へと向かう道の途中。さあ行こう、さあ行こう)”と歌う"Road to Nowhere"である。
途中から、なるほど本作はより良き世界を探す、内なる旅の物語なのだと気付いたので、〆はこの曲だろうなと予想していたが、まさにピッタリ。

このショウの初演はアルバム発売と同時の2018年3月から11月。
タイトルの、上下逆さまになった「ユートピア」が示す様に、当時はバーンの中でも分断を煽るトランプ政権への皮肉が先行していたのだろう。
だが、スパイク・リーが撮影したのは2019年の10月からコロナ禍によってブロードウェイの劇場が閉鎖された20年2月まで上演されていた改良版だ。
おそらく、撮影されたのは劇場が閉まる直前だろう。
昨年の大統領選挙直前の10月にリリースされた本作では、「絶望しているヒマはない」とばかりにエネルギッシュに希望を歌い上げる。

トーキング・ヘッズが活躍していた時代も、人種や階層での分断はあったが、その構造はシンプルで何が問題かも皆分かっていた。
それ故にあの頃は、「意味を考えるな!」でも許されたが、今はこのままだと本当に社会がバラバラになってしまう。
だから楽曲のテーマを、分かりやすくショウのストーリーに組み込んで語る。
奇妙でセンスはいいけど、理屈っぽくて近寄りがたいという人も多かったデヴィッド・バーンが、ここまで観客に歩み寄っているのには正直驚かされた。
強い問題意識を持ち、知的でユーモラスでラブリーで、しかも動ける!
御年69歳のバーンは、この映画の撮影時でも67歳くらいだろう。
中断しているハドソンシアターでの公演は、今年の9月から再開されるという。
数え70の古希にして、ノリノリでダンスしながら未来への希望を歌うバーン爺ちゃんが、カッコ良すぎて泣けてしまう。

今回は、ブロードウェイのある街、「ニューヨーク」の名を持つカクテルをチョイス。
ライまたはバーボンウィスキー45ml、ライムジュース15ml、グレナデン・シロップ1/2tsp、砂糖1tspをシェイクしてグラスに注ぎ、オレンジピールを絞りかけて完成。
ウィスキーの濃厚なコクを、清涼なライムが程よく中和し、甘酸っぱくてほろ苦い後味。
まさにバーンのような、成熟した大人に似合うカクテルだ。

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トゥルーノース・・・・・評価額1750円
2021年06月02日 (水) | 編集 |
絶対に、諦めない。

悪名高い北朝鮮の政治犯強制収容所の実態を、3DCGアニメーションで描く大労作。
物語の軸となるのは、50年代から80年代まで続いた帰還事業によって北朝鮮へ戻った元在日朝鮮人の家族だが、多くの脱北者からの聞き取り調査した内容をもとに構成された、観応えたっぷりのドキュメンタリーアニメーションだ。
在日一世の父と三世の母のもと、横浜に生まれ育ち、ドキュメンタリー映画「happy - しあわせを探すあなたへ」のプロデュースの他、出版や教育など多方面で活躍する清水ハン栄治が、監督・脚本・製作を兼務し、見事なデビューを飾った。
それまでの平穏な生活が突然終わり、自分が何の罪を犯したのかも分からないまま強制収容所へと送られ、生殺与奪の権を奪われる。
明日をも知れぬ極限状態の中で、変わってゆくもの、変わらないもの。
これは今も強制収容所の中で苦しんでいる、実在する人々の物語
あえて英語劇として作られているのも、世界に彼らの声を届けるため。
もちろん堅苦しい映画ではなく、事実に裏打ちされたストーリーは非常にスリリングかつ面白く、グイグイ引き込まれる。
今、観るべき傑作である。

北朝鮮帰還事業で、日本から帰国したパク一家は、長く平壌で幸せに暮らしてきた。
ところがある時、父が突然失踪し一家は当局によって家宅捜索を受け、母のユリと幼いヨハン(ジョエル・サットン)とミヒの兄妹はトラックで何処かへと連行される。
着いた先は、冷酷なハン所長と看守達が支配する政治犯強制収容所。
自分たちの罪状も知らされぬまま、過酷な強制労働の日々が始まる。
ある日、心優しいユリは、看守にレイプされ妊娠した母を理不尽に処刑され、孤児となったインス(マイケル・ササキ)を一家に迎え入れる。
絶望的な状況の中、育ってゆく三人の子供たち。
成長したヨハンは、生き抜くために囚人たちの中でも、特別な監視任務を与えられたグループに入り、人の心を失ってゆく。
そして彼の行動が思わぬ事態に繋がり、ユリが亡くなる。
ヨハンは絶望に打ちひしがれるが、今度は妹のミヒにも予期せぬ危機が迫り、追い詰められたヨハンとインスは、ある決断をするのだが・・・


日本から北朝鮮に帰還した元在日朝鮮人の一家が、善意から他の帰国者を助けようとして、反逆罪の嫌疑をかけられ、死の強制収容所へ送られる。
清水監督がこの映画を企画したのは、10年以上前だという。
自らの民族的なルーツである朝鮮半島の北側で、一体何が起こっているのか。
この映画自体はフィクションだが、実際に北の政治犯強制収容所にいた四人を含む、三十人もの脱北者に取材し、彼らの証言を元にストーリーが制作されている。
私は本作を二度鑑賞したが、初めて観た時は今時珍しいポリポリした90年代風のCG表現に驚いた。
だがこれは、目を覆うような強制収容所の凄惨な実態を、リアルに描写し過ぎないための工夫
世界の不可視の場所、もしくはもう破壊されてしまった場所で起こったことを、カリカチュアされたアニメーションで描く試みは、例えばポルポト時代のカンボジアの強制収容所を描いた「FUNAN フナン」や、1982年のイスラエル軍によるレバノン侵攻を描いた「戦場でワルツを」などがあるが、時として生身の人間よりも雄弁に語れることがある。
過去ではなく現在進行形のモチーフを描く本作も、アニメーションだからこそ、より幅広い観客に普遍的に受け取られることを狙ったものだろう。

外の人間が誰も見たことのない、北朝鮮の政治犯強制収容所というモチーフにリアリティを持たせるため、本作はいろいろな工夫をしている。
物語は、実在する世界的に有名な非営利団体による講演会、TEDの会場からはじまる。
一人のアジア人男性が登壇し、今は脱北して自由となった彼の一家に、過去十数年の間に起こった事実として、本作の物語を語りはじめるのである。
物語の視点となるのが、パク家の長男であるヨハンだ。
幼くして強制収容所に送られ、過酷な労働に駆り出されてきたヨハンは、絶望が支配する世界の中で善悪の間を揺れ動く。
一つの街ほどの規模がある強制収容所には、ナチスの絶滅収容所のゾンダーコマンドのように、囚人たちの中でも特別な地位を与えられた集団がいる。
彼らは看守の手足となって他の囚人を監視、統率することで、食糧や労働などで一定の便宜を図ってもらえるのだ。
ヨハンは母と妹を楽させるために、彼らの仲間となるのだが、やがて因果応報がもたらす負のスパイラルに巻き込まれ、より大きなものを失ってしまう。

一言で政治犯といっても、その背景は様々。
パク一家のように、かつての帰還事業で日本から帰国し、当局に目をつけられた元在日朝鮮人もいれば、日本から誘拐されてきて用済みとなった拉致被害者も。
信教の自由のない北朝鮮では、信心すらも弾圧の対象だ。
本作でもこっそりと十字を切っただけで、拷問が繰り返され、二度と戻って来られないと、強制収容所の中でも恐れられている「完全統制区域」に送られてしまう老婆が出てくる。
密告が奨励され、家族の誰かが罪に問われれば、連座制によって一家が丸ごと強制収容所送りになることも珍しくないので、主人公一家のようにそもそも自分が何の罪に問われているのか知らない囚人もいる。
要するに、あらゆる自由が否定される北朝鮮の体制から、ほんの少しでもはみ出した者は、誰でも政治犯として迫害される可能性があるのだ。
映画は、様々な理由で囚われた人々を主人公一家の周りに配し、金氏王朝体制のデタラメな理不尽さを強調する。

多くの人物が登場するが、囚人側だけでなく体制側のキャラクターの描き方も面白い。
これも脱北者の証言によるものだそうだが、看守たちは基本的に朝鮮人民軍の所属の若い軍人で、強制収容所に配属されて初めてその実態を知り、衝撃を受ける者が殆どだという。
着任した時は皆ごく普通の人間。
だが、暴力による支配が日常となると、だんだんと悪辣になって囚人たちを虐待する者と、罪悪感に苛まれ葛藤する者に分かれてゆくのだそうだ。
本作の登場人物でいえば、囚人たちに対し一切の慈悲の心を見せないハン所長は前者で、当初はミヒに恋心を抱いていた看守のリーは、結局間違いを犯したとはいえ元は後者だったのだろう。
人間が人間として扱われない、強制収容所という異常な環境は、囚人だけでなく、体制側の人間の心をも壊してしまうのである。

実際に十二万人もいるとされる、北朝鮮の政治犯。
これは、極めて普遍性のある人間の物語で、今この瞬間も強制収容所の中で現実に苦しんでいる人たちがいる。
清水監督が語っていたことで非常に印象的だったのが、本作の歴史的な意味について。
いつか北朝鮮が世界に開かれる時、かつてナチスの絶命収容所で敗戦間際に虐殺が起こったように、“証拠隠滅”して強制収容所を無かったことにさせないための、抑止力としての映画だという。
サラッと語っていたが、この言葉は重い。
こんな発想で作られた作品は、過去になかったと思う。
本作を劇場に観に行く方は、是非ポスターにも目を止めて欲しい。
両サイドを壁に囲まれた空間に立つヨハンが、太陽を見つめている後ろ姿を描いた物だが、横にすると北朝鮮国旗が浮かび上がるという、なかなか凝ったデザイン。
しかも本来の国旗では「共産主義に向かう未来」を表すとされる赤い星が、本作では希望の象徴として描かれている鳥に置き換わっている。
本当に、本作が囚われている十二万人にとって希望の鳥になればいいと思う。
少なくとも、この映画を観た人たちはもう無関心ではいられない。
決して大きな映画ではないが、世界の多くの人に観てもらいたい作品だ。

北朝鮮も焼酎文化圏で旨い酒もあると聞くが、そもそも手に入らないし、入ったとしても金王朝を儲けさせたくないので、今回は「グリーンピース」をチョイス。
この場合は、“豆”ではなくて“平和”の方。
メロン・リキュール(ミドリ)30ml、ブルー・キュラソー20ml、パイナップル・ジュース15ml、レモン・ジュース1tsp、生クリーム15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
美しい緑色のカクテルで、フルーティー&スィートな素材を生クリームがまとめあげる。
レモンとパイナップルの酸味が、いい感じに余韻として残る。

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