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※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
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2021年06月13日 (日) | 編集 |
ようこそ、夢と狂気の王国へ!
めちゃくちゃ面白い。
原作を知らず、「SHIROBAKO」みたいな作品かと、何となく観に行ってぶっ飛んだ。
映画の都ハリウッドならぬニャリウッドで、天才プロデューサーのポンポさんのアシスタントをしている主人公のジーンが、新作映画の監督を任されることになる。
序盤は緩いタッチなのだが、制作が始まると一気に熱量を帯びて狂気モードに。
「幸せは創造の敵」と言い放つポンポさんに導かれ、映画という魔物に挑むジーンの葛藤がディープに描かれる。
杉谷庄吾【人間プラモ】がpixivで発表したウェブ漫画を基に、「魔女っこ姉妹のヨヨとネネ」の平尾隆之が監督・脚本を兼務して映画化。
キャラクターデザインを「ソードアート・オンライン」シリーズの足立慎吾、アニメーション制作を「この世界の片隅に」の製作プロデューサーだった松尾亮一郎が設立したCLAPが担当した。
映画制作の内幕を巡る喜怒哀楽が90分の尺に凝縮された、セルフ・リフレクシブ・フィルムの新たな傑作だ。
敏腕映画プロデューサーのジョエル・ダヴィドヴィッチ・ポンポネット、通称ポンポさん(小原好美)のアシスタントをしているジーン・フィニ(清水尋也)は、観た映画の総てを記憶しているオタク脳の持ち主だ。
映画を撮りたいとは思っていたが、自分には無理だと初めから諦めていた。
ある時、ポンポさんからコルベット監督(坂巻学)の新作映画の15秒スポットの制作を命じられたジーンは、その知識をつぎ込み好評を得ると、すべての予告編制作を任されることに。
“作ること“に手ごたえを感じていたある日、ジーンはポンポさんから自ら執筆した映画「MEISTER」の脚本を渡され、監督に指名される。
主演は、10年間映画に出演していなかった名優マーティン・ブラドッグ(大塚明夫)。
新人女優のナタリー・ウッドワード(大谷凜香)がヒロインに抜擢され、映画はいよいよクランクインの日を迎えるのだが、ジーンはこれが自分の人生を変える大波乱の始まりだとは、まだ知る由もなかった・・・
映画業界を舞台にした映画は数多い。
劇中でも言及されている「ニュー・シネマ・パラダイス」をはじめ、「バートン・フィンク」やアカデミー賞に輝いた「アーティスト」、日本映画では記憶に新しい「カメラを止めるな!」に、まもなく公開となる「キネマの神様」など、アプローチも様々で傑作から怪作まで枚挙にいとまがない。
本作は、実写映画の制作内幕を、あえてアニメーションで描写したのが面白いところ。
舞台となるのはハリウッドを模した映画の街、その名もニャリウッド。
一見するとアメリカっぽいのだが、美術のディテールは日本風でもあり、分かりやすいアニメスタイルのキャラクターデザインとも相まって、世界観は無国籍な印象。
この街でペーターゼンフィルムなる映画プロダクションを率いるポンポさんは、小柄で一見すると子供にも見える年齢不詳。
伝説的な大プロデューサーだった祖父から、映画作りの才能と業界の強力なコネクションを受け継ぎ、生まれた時から映画漬けの日々を送っている。
映画の神に祝福された申し子のような人だが、作る映画はなぜか90分以内のB級映画ばかりという、女ロジャー・コーマンのようなプロデューサーだ。
そしてコーマンの元から多くの若き映画作家たちが育っていったように、この映画ではポンポさんがジーンの内なる才能を“発掘”する。
超アクティブなポンポさんとは対照的に、ジーンは典型的なギークとして描かれている。
学生時代から根暗な映画オタクで、学園ヒエラルキーの頂点たるジョックたちのグループとは対照的な存在。
親しい友人もおらず、現実から逃げて“人生で大切なことは全部映画から学んだ”タイプの人間だ。
だがポンポさんは、そんな満ち足りてないジーンにこそ可能性を見出す。
彼女曰く「クリエイターは全員社会不適合者」(笑
まあ社会不適合者かどうかはともかく、幸せで満ち足りた者からは、何かを作りたい、何かを表現したいという渇望が生まれにくいことは事実だろう。
ジーンが撮影現場に入ると、インディ・ジョーンズ風の帽子を愛用していて、同僚のコルベット監督はハン・ソロ風のチョッキを着ているのも、オマージュと共に映画監督は全員貪欲な冒険者であるということを示唆している。
渇望の重要性は作り手の分身たる映画の主人公にも言えることで、欲しいものを手に入れて人生に満足しているキャラクターは主人公になり得ず、何か問題を抱えているキャラクターほど魅力的になるのと同じことだ。
ジーンは監督に抜擢されたことでコミュ障を脱し、人生で初めて自分の想いを貫き通すための努力をする。
彼は、すべてを失った音楽家という「MEISTER」の主人公に自分を重ね合わせ、内面のドラマを掘り下げてゆくのである。
しかし本作の白眉は、映画撮影の内幕そのものではなく、平尾隆之によって原作から大幅に脚色された後半部分だ。
映画を観てから慌ててpixivに公開される原作読んだのだが、映画版は元のプロットに忠実ながら、本作の展開を地で行く取捨選択と構成の妙があって改めて驚く。
特にユニークなのが、原作ではたった4ページしかないクランクアップ後のポストプロダクション描写、特に編集の楽しさと難しさにスポットを当て、主人公の作家としての進化を描き込んだことだろう。
映画制作のプロセスを一本の木の成長に例えると、企画や脚本などのプリプロダクションは木の根に当たる。
根が土壌に広く、深く張られていないと、どんな木もまともには育たない。
実際の撮影、プロダクションは木の幹の部分だ。
杉のようにまっすぐ堂々たる姿になるのか、盆栽のように曲がりくねった美を見せるのか、強固な根があってこその幹の形には作り手のビジョンが現れる。
だが、ここまでではまだ、最終的にどんな木になるのかは決まっていない。
枝ぶりは?葉は生い茂っているのか?どんな花が咲くのか?どんな実がなるのか?最終的に木の印象を決めるプロセスが、編集を含むポストプロダクションだ。
撮影はやることが決まっているが、編集はいわば答えのないパズルのようなもの。
同じ素材を使っても、組み合わせによって全く違ったものになってしまうのは、本作の劇中でも描かれた通り。
初監督にして編集まで任されたジーンは、映画を撮りながらと編集に大苦闘しながら、二度にわたって映画を“発見”してゆくのである。
めっちゃ楽しいけど、はまり込むと出られなくなる、編集という底知れぬ迷宮を、ここまでフィーチャーした作品は、おそらく映画史上初だろう。
ここで一応ポスプロを生業とする者として、当たり前で身も蓋もない話をすると、ジーン監督は何日も徹夜で編集していたが、徹夜すると作業効率が極端に低下して、正常な判断が出来なくなるのでやらない方がいい。
迷ったら一度グッスリ寝てから、改めて集中して作業した方が、ずっと早く良いものが出来るのは間違いない。
舞台がアメリカっぽく見えても、この辺りはクリエイター環境がブラックな日本ぽいのは、皮肉なんだろうか。
ともあれ、編集でもう一段映画を掘り下げた結果、決定的に足りない要素を見出したジーンは、追加撮影を決意するのだが、追加撮影絡みのエピソードを含む、映画の後半部分そのものが原作ベースだと追加されたシークエンスに当たるメタ構造。
原作者の杉谷庄吾【人間プラモ】は、アニメーション制作会社のプロダクション・グッドブックでデザインなどを担当しているアーティストだとか。
普段から映像制作に接しているからこそこのプロット、このディテールなのだろうが、平尾隆之が現役の映画監督として、原作だけではジーンの作家としての葛藤が足りないと判断したのもよく分かる。
しかし、言うまでもないことだが、一度バラした現場をもう一度作り上げるのは、少なくない予算と時間と労力がかかる。
スポンサーがいる場合は、資金の回収が遅れることにつながるので、当然嫌がられる。
本作のクライマックスはここからで、それまで単に勢いのいい人だったポンポさんが、プロデューサーとしての一面を見せ、映画業界の外まで巻き込んだ今風の仕掛けを作り、それぞれにとっての映画とは?を問いかける。
この映画版オリジナルの重層的な仕掛けによって、物語がグッと深味を持った。
アニメーションならではの、光と動きによる主人公の心象表現のカリカチュアも、ドライブ感があふれていい感じだ。
まあ実際には編集が終わったからといって即完成にはならないし、結構豪快にすっ飛ばされている制作過程もあるのだけど、本作は別にドキュメンタリーじゃないし至上命題の90分に収めるにはこれしかあるまい。
ちょっと気になったのは、ジーンが試写室で観ている「ニュー・シネマ・パラダイス」は、どっちのバージョンなのだろう?ということ。
この映画は最初に公開された123分版と、173分のディレクターズカット版があって、それぞれに印象が全く違ったものになっている。
映画が編集によって、いかに変化するかの教科書のような作品で、本作での言及もそれゆえだと思う。
個人的には123分版が圧倒的に好きなのだが、90分のサクッと観られる尺にこだわっているポンポさんに言わせると、現在の娯楽としては120分でも“優しくない”そうだけど。
そう考えると、追加撮影した挙句に、120分だった映画を240分にしてしまったザック・スナイダーは、めちゃくちゃ優しくない監督だな(笑
今回は、徹夜の連続で何とか映画を仕上げたジーン監督に、「レッド・アイ」をチョイス。
夜通し飲み明かした後の迎え酒として知られるビアカクテルで、寝不足で真っ赤に充血した目がその名の由来。
トマト・ジュースをタンブラーの四割ほどまで注ぎ、ビールを同分量注いで、軽くステアする。
当然ながら、ビールの種類によって味わいが大きく異なる。
印象としてはビール風味のトマト・ジュースという感じで、主役はトマト。
炭酸ののど越しによるスッキリ感に、トマトの酸味が疲れた胃を癒してくれる。
ところで、観ながら何となく「ポンポさん、デミアン・チャゼル好きそう」と思ってたのだが、漫画のキャラクター紹介の好きな映画欄にちゃんと「セッション」があった。
あれは106分あるけど、いいのか?
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めちゃくちゃ面白い。
原作を知らず、「SHIROBAKO」みたいな作品かと、何となく観に行ってぶっ飛んだ。
映画の都ハリウッドならぬニャリウッドで、天才プロデューサーのポンポさんのアシスタントをしている主人公のジーンが、新作映画の監督を任されることになる。
序盤は緩いタッチなのだが、制作が始まると一気に熱量を帯びて狂気モードに。
「幸せは創造の敵」と言い放つポンポさんに導かれ、映画という魔物に挑むジーンの葛藤がディープに描かれる。
杉谷庄吾【人間プラモ】がpixivで発表したウェブ漫画を基に、「魔女っこ姉妹のヨヨとネネ」の平尾隆之が監督・脚本を兼務して映画化。
キャラクターデザインを「ソードアート・オンライン」シリーズの足立慎吾、アニメーション制作を「この世界の片隅に」の製作プロデューサーだった松尾亮一郎が設立したCLAPが担当した。
映画制作の内幕を巡る喜怒哀楽が90分の尺に凝縮された、セルフ・リフレクシブ・フィルムの新たな傑作だ。
敏腕映画プロデューサーのジョエル・ダヴィドヴィッチ・ポンポネット、通称ポンポさん(小原好美)のアシスタントをしているジーン・フィニ(清水尋也)は、観た映画の総てを記憶しているオタク脳の持ち主だ。
映画を撮りたいとは思っていたが、自分には無理だと初めから諦めていた。
ある時、ポンポさんからコルベット監督(坂巻学)の新作映画の15秒スポットの制作を命じられたジーンは、その知識をつぎ込み好評を得ると、すべての予告編制作を任されることに。
“作ること“に手ごたえを感じていたある日、ジーンはポンポさんから自ら執筆した映画「MEISTER」の脚本を渡され、監督に指名される。
主演は、10年間映画に出演していなかった名優マーティン・ブラドッグ(大塚明夫)。
新人女優のナタリー・ウッドワード(大谷凜香)がヒロインに抜擢され、映画はいよいよクランクインの日を迎えるのだが、ジーンはこれが自分の人生を変える大波乱の始まりだとは、まだ知る由もなかった・・・
映画業界を舞台にした映画は数多い。
劇中でも言及されている「ニュー・シネマ・パラダイス」をはじめ、「バートン・フィンク」やアカデミー賞に輝いた「アーティスト」、日本映画では記憶に新しい「カメラを止めるな!」に、まもなく公開となる「キネマの神様」など、アプローチも様々で傑作から怪作まで枚挙にいとまがない。
本作は、実写映画の制作内幕を、あえてアニメーションで描写したのが面白いところ。
舞台となるのはハリウッドを模した映画の街、その名もニャリウッド。
一見するとアメリカっぽいのだが、美術のディテールは日本風でもあり、分かりやすいアニメスタイルのキャラクターデザインとも相まって、世界観は無国籍な印象。
この街でペーターゼンフィルムなる映画プロダクションを率いるポンポさんは、小柄で一見すると子供にも見える年齢不詳。
伝説的な大プロデューサーだった祖父から、映画作りの才能と業界の強力なコネクションを受け継ぎ、生まれた時から映画漬けの日々を送っている。
映画の神に祝福された申し子のような人だが、作る映画はなぜか90分以内のB級映画ばかりという、女ロジャー・コーマンのようなプロデューサーだ。
そしてコーマンの元から多くの若き映画作家たちが育っていったように、この映画ではポンポさんがジーンの内なる才能を“発掘”する。
超アクティブなポンポさんとは対照的に、ジーンは典型的なギークとして描かれている。
学生時代から根暗な映画オタクで、学園ヒエラルキーの頂点たるジョックたちのグループとは対照的な存在。
親しい友人もおらず、現実から逃げて“人生で大切なことは全部映画から学んだ”タイプの人間だ。
だがポンポさんは、そんな満ち足りてないジーンにこそ可能性を見出す。
彼女曰く「クリエイターは全員社会不適合者」(笑
まあ社会不適合者かどうかはともかく、幸せで満ち足りた者からは、何かを作りたい、何かを表現したいという渇望が生まれにくいことは事実だろう。
ジーンが撮影現場に入ると、インディ・ジョーンズ風の帽子を愛用していて、同僚のコルベット監督はハン・ソロ風のチョッキを着ているのも、オマージュと共に映画監督は全員貪欲な冒険者であるということを示唆している。
渇望の重要性は作り手の分身たる映画の主人公にも言えることで、欲しいものを手に入れて人生に満足しているキャラクターは主人公になり得ず、何か問題を抱えているキャラクターほど魅力的になるのと同じことだ。
ジーンは監督に抜擢されたことでコミュ障を脱し、人生で初めて自分の想いを貫き通すための努力をする。
彼は、すべてを失った音楽家という「MEISTER」の主人公に自分を重ね合わせ、内面のドラマを掘り下げてゆくのである。
しかし本作の白眉は、映画撮影の内幕そのものではなく、平尾隆之によって原作から大幅に脚色された後半部分だ。
映画を観てから慌ててpixivに公開される原作読んだのだが、映画版は元のプロットに忠実ながら、本作の展開を地で行く取捨選択と構成の妙があって改めて驚く。
特にユニークなのが、原作ではたった4ページしかないクランクアップ後のポストプロダクション描写、特に編集の楽しさと難しさにスポットを当て、主人公の作家としての進化を描き込んだことだろう。
映画制作のプロセスを一本の木の成長に例えると、企画や脚本などのプリプロダクションは木の根に当たる。
根が土壌に広く、深く張られていないと、どんな木もまともには育たない。
実際の撮影、プロダクションは木の幹の部分だ。
杉のようにまっすぐ堂々たる姿になるのか、盆栽のように曲がりくねった美を見せるのか、強固な根があってこその幹の形には作り手のビジョンが現れる。
だが、ここまでではまだ、最終的にどんな木になるのかは決まっていない。
枝ぶりは?葉は生い茂っているのか?どんな花が咲くのか?どんな実がなるのか?最終的に木の印象を決めるプロセスが、編集を含むポストプロダクションだ。
撮影はやることが決まっているが、編集はいわば答えのないパズルのようなもの。
同じ素材を使っても、組み合わせによって全く違ったものになってしまうのは、本作の劇中でも描かれた通り。
初監督にして編集まで任されたジーンは、映画を撮りながらと編集に大苦闘しながら、二度にわたって映画を“発見”してゆくのである。
めっちゃ楽しいけど、はまり込むと出られなくなる、編集という底知れぬ迷宮を、ここまでフィーチャーした作品は、おそらく映画史上初だろう。
ここで一応ポスプロを生業とする者として、当たり前で身も蓋もない話をすると、ジーン監督は何日も徹夜で編集していたが、徹夜すると作業効率が極端に低下して、正常な判断が出来なくなるのでやらない方がいい。
迷ったら一度グッスリ寝てから、改めて集中して作業した方が、ずっと早く良いものが出来るのは間違いない。
舞台がアメリカっぽく見えても、この辺りはクリエイター環境がブラックな日本ぽいのは、皮肉なんだろうか。
ともあれ、編集でもう一段映画を掘り下げた結果、決定的に足りない要素を見出したジーンは、追加撮影を決意するのだが、追加撮影絡みのエピソードを含む、映画の後半部分そのものが原作ベースだと追加されたシークエンスに当たるメタ構造。
原作者の杉谷庄吾【人間プラモ】は、アニメーション制作会社のプロダクション・グッドブックでデザインなどを担当しているアーティストだとか。
普段から映像制作に接しているからこそこのプロット、このディテールなのだろうが、平尾隆之が現役の映画監督として、原作だけではジーンの作家としての葛藤が足りないと判断したのもよく分かる。
しかし、言うまでもないことだが、一度バラした現場をもう一度作り上げるのは、少なくない予算と時間と労力がかかる。
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本作のクライマックスはここからで、それまで単に勢いのいい人だったポンポさんが、プロデューサーとしての一面を見せ、映画業界の外まで巻き込んだ今風の仕掛けを作り、それぞれにとっての映画とは?を問いかける。
この映画版オリジナルの重層的な仕掛けによって、物語がグッと深味を持った。
アニメーションならではの、光と動きによる主人公の心象表現のカリカチュアも、ドライブ感があふれていい感じだ。
まあ実際には編集が終わったからといって即完成にはならないし、結構豪快にすっ飛ばされている制作過程もあるのだけど、本作は別にドキュメンタリーじゃないし至上命題の90分に収めるにはこれしかあるまい。
ちょっと気になったのは、ジーンが試写室で観ている「ニュー・シネマ・パラダイス」は、どっちのバージョンなのだろう?ということ。
この映画は最初に公開された123分版と、173分のディレクターズカット版があって、それぞれに印象が全く違ったものになっている。
映画が編集によって、いかに変化するかの教科書のような作品で、本作での言及もそれゆえだと思う。
個人的には123分版が圧倒的に好きなのだが、90分のサクッと観られる尺にこだわっているポンポさんに言わせると、現在の娯楽としては120分でも“優しくない”そうだけど。
そう考えると、追加撮影した挙句に、120分だった映画を240分にしてしまったザック・スナイダーは、めちゃくちゃ優しくない監督だな(笑
今回は、徹夜の連続で何とか映画を仕上げたジーン監督に、「レッド・アイ」をチョイス。
夜通し飲み明かした後の迎え酒として知られるビアカクテルで、寝不足で真っ赤に充血した目がその名の由来。
トマト・ジュースをタンブラーの四割ほどまで注ぎ、ビールを同分量注いで、軽くステアする。
当然ながら、ビールの種類によって味わいが大きく異なる。
印象としてはビール風味のトマト・ジュースという感じで、主役はトマト。
炭酸ののど越しによるスッキリ感に、トマトの酸味が疲れた胃を癒してくれる。
ところで、観ながら何となく「ポンポさん、デミアン・チャゼル好きそう」と思ってたのだが、漫画のキャラクター紹介の好きな映画欄にちゃんと「セッション」があった。
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