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2021年06月28日 (月) | 編集 |
彼女は永遠の生の先に、何を見たのか。
人類で初めて不老不死の体を得た女性の、17歳から135歳までを描く一代記。
必滅の存在である人間が、死する運命から解放された時、一体何が起こるのか。
原作は、2011年の傑作短編「紙の動物園」で、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、世界幻想文学大賞の三冠を制し、大ベストセラーとなった「三体」シリーズの英訳でも知られる、米国の人気作家 ケン・リュウ。
彼の短編集「もののあはれ」の一編「円弧(アーク)」を、「蜜蜂と遠雷」の石川慶が監督と脚本を兼務して映画化した作品だ。
ケン・リュウの作品が長編映画化されるのはこれが初めて。
本人もエグゼクティブ・プロデューサーとして名を連ね、いわば原作者のお墨付きの映画化だ。
見た目はずっと30歳のまま、心だけが歳を重ねると言う極めて難しい設定の主人公、リナを芳根京子が演じ、彼女のメンターとなるエマに寺島しのぶ。
老化を止めるテクノロジーを開発する天才科学者の天音を、岡田将生が演じる。
大いなる流れに身を委ね、静かに、ディープに命の円弧を考察する、深淵なる127分だ。
※核心部分に触れています。
17歳で産んだばかりの我が子と別れ、孤独な放浪生活を続けていたリナ(芳根京子)は、19歳の時にエマ(寺島しのぶ)と出会い、遺体を生きていた時の姿のまま保存する施術を行うプラスティネーションの仕事を得る。
遺体の、最も生き生きした瞬間を見出すことに才覚を発揮したリナは、やがてプラスティネーションの第一人者となってゆく。
一方、エマの弟で天才的な科学者の天音(岡田将生)は、プラスティネーションの技術を発展、応用し、人間の肉体から老化という現象を取り去る研究に打ち込んでいた。
やがて天音と愛し合うようになったリナは、30歳の時に不老不死となる処置を受け、人類で初めて死から解放された存在となる。
そして不老不死が当たり前となった89歳の時、リナは有限の命を全うする道を選んだ人々の最期を見とる施設を運営していた。
そんなある日、施設に末期癌患者の芙美(風吹ジュン)が入居してくる。
彼女の夫の利仁(小林薫)は、あえて不老不死の処置を受けなかったと言うのだが、彼にはある秘密があった・・・・
ケン・リュウの小説が長編映画となるのは今回が初めてだが、是枝裕和監督がフランスで撮った「真実」の劇中映画として、「母の記憶に」という作品が取り上げられたことがある。
地球で暮らす娘のもとに、7年に一回母が訪ねてくる。
不治の病に冒され余命2年を宣告された母は、超高速で飛行する宇宙船に登場することで時間の流れが遅くなる、ウラシマ効果によって娘の人生の時間に寄り添おうとする。
母の姿はずっと変わらないまま、やがて娘は母の年齢を追い越して年老いてゆく。
このように、ケン・リュウの作品ではしばしば時間と生命というモチーフが取り上げられる。
彼の作品の大きな特徴が、宇宙に大きな時空の流れが存在していて、登場人物は時に小さく抗ってみせるものの、流れそのものを止めることはできず、波間にたゆたうような死生観を持っていることだ。
これは映画「メッセージ」の原作「あなたの人生の物語」で知られる、同じく中国系の人気作家テッド・チャンの作品にも見られる傾向なので、東アジアの情緒と言えるのかもしれない。
映画の冒頭で、産んだばかりの我が子を捨てたリナは、その2年後にグァダニーノ版「サスペリア」みたいなアングラなダンスのステージに姿を現す。
肉体言語であるダンスは、まさに命の象徴だ。
このステージでプラスティネーションの名手エマに才能を見出され、彼女は遺体の時間を永遠に止め、保存する仕事につくことになる。
プラスティネーションは、死への抗いだとエマは言う。
誰しも死にたくないが、死は避けられない。
死する運命の人間の、せめてもの抵抗が、まるで生きているように遺体を保存するプラスティネーション。
時を止められた遺体、あるいはその一部は、芸術の域にまで高められた生の痕跡として表現され、忌むべきものとしては描かれていない。
だが、プラスティネーション技術は不老不死の登場によって意味を失う。
死は克服され、もはや抗う対象ではなくなるのである。
古今東西、人類究極の夢である不老不死をモチーフにした作品は数多いが、私には本作が一番リアルに感じられた。
もしこの夢が実現したとして、歴史上の数々のテクノロジーと同じように、最初は倫理的な抵抗と分断が起こるだろう。
続いて格差による経済的分断、最後は身体要件などによる技術的な分断。
本作でも、不老不死の時代を開いた天音が、遺伝子異常による細胞の癌化によってあっけなく死んでしまう描写がある。
だが、過去の例を見てもいずれ過渡期の問題は克服される。
全ての人類が歳を取らないことを選択できるようになった時、私たちの世界には何が起こるのだろうか。
過去に不老不死の技術を扱った作品の多くが、それをネガティブなものとして描いてきた。
私の世代では、機械の体によって不老不死を得る「銀河鉄道999」のインパクトが大きかったが、あの作品では明確に永遠の命を否定し、限りある命だからこそ生命は輝けると説いた。
また手塚治虫の「火の鳥 未来編」では、核戦争で人類が滅亡し、生き残った主人公が火の鳥によって死ねない体にされてしまう。
いつか再び、地上に知的生命が生まれるまで見守れというのだ。
たった一人、話し相手もおらず、永遠の孤独に耐える。
ここでは、はもはや永遠の命は呪いである。
高畑勲の遺作となった「かぐや姫の物語」では、不老不死が約束されているが、永遠に何の変化もない月の世界の人であるかぐや姫が、有限の命にあふれ、人々が四苦八苦する地上に憧れやって来る。
不老不死となるということは、宇宙の時空の流れから切り離されることを意味する。
個人的には、その先にあるのはゆっくりとした静かな滅びであると思うが、本作はその世界をディストピアとしては描かないのだ。
命に対する感覚は、世代によって変わってゆくだろう。
生まれた時から不老不死が当たり前の世代と、その前の世代では当然死に対する受け止め方も異なり、死生観も違ったものになってゆくはず。
限りある命しか知らない私たちにとって、それがディストピアに思えたとしても、未来の子供たちにとっては無限にあらゆるチャレンジが可能なユートピアかもしれない。
リナが不老不死の処置を受けた時の記者会見で、「死があるからこそ、人生に意味があるのでは?」と質問する記者が出てくるが、不老不死が当たり前になった時代に生まれたリナの娘は、死が生に意味を与えるというのは「昔の人の神話」だと言う。
たぶん、彼女の中では本当にそうなのだろう。
でも死する運命の私たちは、この物語を前に考えざるを得ない。
始まりだけあって終わりのない人生にとって、死の持つ意味とは何だろう。
プロットは、ケン・リュウの原作に基本的には忠実。
しかし石川慶は脚色で幾つかの要素を加えることで世界観を広げ、思考の材料を増やしている。
例えば小説では可能とされていた若返り技術は無くなり、不老不死の処置を受けるには技術的に年齢制限があること、技術の普及に伴う出生率の極端な低下などの設定は、シミュレーションとしてのリアリティを高めている。
天音の死後、リナが運営している死にゆく者のための施設“天音の家”のエピソードは、より死の意味を掘り下げることにつながっているし、小林薫演じる生き別れだった彼女の息子に末期癌の妻を見取らせたことで、人生の二つの選択のコントラストが際立つ。
リナの人生で、息子に再会する89歳から90歳の部分はモノクロの映像となっているのだが、ここは彼女自身の心の時間が止まっていたと言うことだろう。
人間の世界は不合理で、有限の世界に生まれたリナは、結局無限の使い方を学べなかった。
若き日のプラスティネーション同様に、遠大な時空間の流れの中で、少しだけ抗っただけ。
映画を観た私は、永遠に生きるチャンスを与えられた最初の人間、そしてそれを諦めた最初の人間となったリナに深く感情移入したが、答えは観客の数だけある。
生命の時間は必ず円弧(アーク)なのか、それとも無限に未来に続く直線もあり得るのか。
日本映画ではなかなか出会えないであろう、難役に挑んだ芳根京子が素晴らしい。
彼女の代表作になるのは、間違いないだろう。
今回は本作の撮影地の一つ、香川県小豆島の唯一の酒蔵、森國酒造の「ふわふわ。 純米吟醸」をチョイス。
花のような軽やかな吟醸香に、喉越しさわやか、後味スッキリの辛口の吟醸酒。
瀬戸内の海の幸はもちろん、お肉との相性も抜群だ。
雲が浮かぶラベルは、ゆったりとした島時間を表しているという。
森國の酒は「ふわふわ」の他にも「びびび。」や「うとうと。」など、島時間を擬音化したユニークなネーミングとお洒落なラベルが特徴。
さすが島全体に美術作品が点在する、アートの島の酒蔵だ。
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人類で初めて不老不死の体を得た女性の、17歳から135歳までを描く一代記。
必滅の存在である人間が、死する運命から解放された時、一体何が起こるのか。
原作は、2011年の傑作短編「紙の動物園」で、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、世界幻想文学大賞の三冠を制し、大ベストセラーとなった「三体」シリーズの英訳でも知られる、米国の人気作家 ケン・リュウ。
彼の短編集「もののあはれ」の一編「円弧(アーク)」を、「蜜蜂と遠雷」の石川慶が監督と脚本を兼務して映画化した作品だ。
ケン・リュウの作品が長編映画化されるのはこれが初めて。
本人もエグゼクティブ・プロデューサーとして名を連ね、いわば原作者のお墨付きの映画化だ。
見た目はずっと30歳のまま、心だけが歳を重ねると言う極めて難しい設定の主人公、リナを芳根京子が演じ、彼女のメンターとなるエマに寺島しのぶ。
老化を止めるテクノロジーを開発する天才科学者の天音を、岡田将生が演じる。
大いなる流れに身を委ね、静かに、ディープに命の円弧を考察する、深淵なる127分だ。
※核心部分に触れています。
17歳で産んだばかりの我が子と別れ、孤独な放浪生活を続けていたリナ(芳根京子)は、19歳の時にエマ(寺島しのぶ)と出会い、遺体を生きていた時の姿のまま保存する施術を行うプラスティネーションの仕事を得る。
遺体の、最も生き生きした瞬間を見出すことに才覚を発揮したリナは、やがてプラスティネーションの第一人者となってゆく。
一方、エマの弟で天才的な科学者の天音(岡田将生)は、プラスティネーションの技術を発展、応用し、人間の肉体から老化という現象を取り去る研究に打ち込んでいた。
やがて天音と愛し合うようになったリナは、30歳の時に不老不死となる処置を受け、人類で初めて死から解放された存在となる。
そして不老不死が当たり前となった89歳の時、リナは有限の命を全うする道を選んだ人々の最期を見とる施設を運営していた。
そんなある日、施設に末期癌患者の芙美(風吹ジュン)が入居してくる。
彼女の夫の利仁(小林薫)は、あえて不老不死の処置を受けなかったと言うのだが、彼にはある秘密があった・・・・
ケン・リュウの小説が長編映画となるのは今回が初めてだが、是枝裕和監督がフランスで撮った「真実」の劇中映画として、「母の記憶に」という作品が取り上げられたことがある。
地球で暮らす娘のもとに、7年に一回母が訪ねてくる。
不治の病に冒され余命2年を宣告された母は、超高速で飛行する宇宙船に登場することで時間の流れが遅くなる、ウラシマ効果によって娘の人生の時間に寄り添おうとする。
母の姿はずっと変わらないまま、やがて娘は母の年齢を追い越して年老いてゆく。
このように、ケン・リュウの作品ではしばしば時間と生命というモチーフが取り上げられる。
彼の作品の大きな特徴が、宇宙に大きな時空の流れが存在していて、登場人物は時に小さく抗ってみせるものの、流れそのものを止めることはできず、波間にたゆたうような死生観を持っていることだ。
これは映画「メッセージ」の原作「あなたの人生の物語」で知られる、同じく中国系の人気作家テッド・チャンの作品にも見られる傾向なので、東アジアの情緒と言えるのかもしれない。
映画の冒頭で、産んだばかりの我が子を捨てたリナは、その2年後にグァダニーノ版「サスペリア」みたいなアングラなダンスのステージに姿を現す。
肉体言語であるダンスは、まさに命の象徴だ。
このステージでプラスティネーションの名手エマに才能を見出され、彼女は遺体の時間を永遠に止め、保存する仕事につくことになる。
プラスティネーションは、死への抗いだとエマは言う。
誰しも死にたくないが、死は避けられない。
死する運命の人間の、せめてもの抵抗が、まるで生きているように遺体を保存するプラスティネーション。
時を止められた遺体、あるいはその一部は、芸術の域にまで高められた生の痕跡として表現され、忌むべきものとしては描かれていない。
だが、プラスティネーション技術は不老不死の登場によって意味を失う。
死は克服され、もはや抗う対象ではなくなるのである。
古今東西、人類究極の夢である不老不死をモチーフにした作品は数多いが、私には本作が一番リアルに感じられた。
もしこの夢が実現したとして、歴史上の数々のテクノロジーと同じように、最初は倫理的な抵抗と分断が起こるだろう。
続いて格差による経済的分断、最後は身体要件などによる技術的な分断。
本作でも、不老不死の時代を開いた天音が、遺伝子異常による細胞の癌化によってあっけなく死んでしまう描写がある。
だが、過去の例を見てもいずれ過渡期の問題は克服される。
全ての人類が歳を取らないことを選択できるようになった時、私たちの世界には何が起こるのだろうか。
過去に不老不死の技術を扱った作品の多くが、それをネガティブなものとして描いてきた。
私の世代では、機械の体によって不老不死を得る「銀河鉄道999」のインパクトが大きかったが、あの作品では明確に永遠の命を否定し、限りある命だからこそ生命は輝けると説いた。
また手塚治虫の「火の鳥 未来編」では、核戦争で人類が滅亡し、生き残った主人公が火の鳥によって死ねない体にされてしまう。
いつか再び、地上に知的生命が生まれるまで見守れというのだ。
たった一人、話し相手もおらず、永遠の孤独に耐える。
ここでは、はもはや永遠の命は呪いである。
高畑勲の遺作となった「かぐや姫の物語」では、不老不死が約束されているが、永遠に何の変化もない月の世界の人であるかぐや姫が、有限の命にあふれ、人々が四苦八苦する地上に憧れやって来る。
不老不死となるということは、宇宙の時空の流れから切り離されることを意味する。
個人的には、その先にあるのはゆっくりとした静かな滅びであると思うが、本作はその世界をディストピアとしては描かないのだ。
命に対する感覚は、世代によって変わってゆくだろう。
生まれた時から不老不死が当たり前の世代と、その前の世代では当然死に対する受け止め方も異なり、死生観も違ったものになってゆくはず。
限りある命しか知らない私たちにとって、それがディストピアに思えたとしても、未来の子供たちにとっては無限にあらゆるチャレンジが可能なユートピアかもしれない。
リナが不老不死の処置を受けた時の記者会見で、「死があるからこそ、人生に意味があるのでは?」と質問する記者が出てくるが、不老不死が当たり前になった時代に生まれたリナの娘は、死が生に意味を与えるというのは「昔の人の神話」だと言う。
たぶん、彼女の中では本当にそうなのだろう。
でも死する運命の私たちは、この物語を前に考えざるを得ない。
始まりだけあって終わりのない人生にとって、死の持つ意味とは何だろう。
プロットは、ケン・リュウの原作に基本的には忠実。
しかし石川慶は脚色で幾つかの要素を加えることで世界観を広げ、思考の材料を増やしている。
例えば小説では可能とされていた若返り技術は無くなり、不老不死の処置を受けるには技術的に年齢制限があること、技術の普及に伴う出生率の極端な低下などの設定は、シミュレーションとしてのリアリティを高めている。
天音の死後、リナが運営している死にゆく者のための施設“天音の家”のエピソードは、より死の意味を掘り下げることにつながっているし、小林薫演じる生き別れだった彼女の息子に末期癌の妻を見取らせたことで、人生の二つの選択のコントラストが際立つ。
リナの人生で、息子に再会する89歳から90歳の部分はモノクロの映像となっているのだが、ここは彼女自身の心の時間が止まっていたと言うことだろう。
人間の世界は不合理で、有限の世界に生まれたリナは、結局無限の使い方を学べなかった。
若き日のプラスティネーション同様に、遠大な時空間の流れの中で、少しだけ抗っただけ。
映画を観た私は、永遠に生きるチャンスを与えられた最初の人間、そしてそれを諦めた最初の人間となったリナに深く感情移入したが、答えは観客の数だけある。
生命の時間は必ず円弧(アーク)なのか、それとも無限に未来に続く直線もあり得るのか。
日本映画ではなかなか出会えないであろう、難役に挑んだ芳根京子が素晴らしい。
彼女の代表作になるのは、間違いないだろう。
今回は本作の撮影地の一つ、香川県小豆島の唯一の酒蔵、森國酒造の「ふわふわ。 純米吟醸」をチョイス。
花のような軽やかな吟醸香に、喉越しさわやか、後味スッキリの辛口の吟醸酒。
瀬戸内の海の幸はもちろん、お肉との相性も抜群だ。
雲が浮かぶラベルは、ゆったりとした島時間を表しているという。
森國の酒は「ふわふわ」の他にも「びびび。」や「うとうと。」など、島時間を擬音化したユニークなネーミングとお洒落なラベルが特徴。
さすが島全体に美術作品が点在する、アートの島の酒蔵だ。

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