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2021年07月28日 (水) | 編集 |
守ることで、生きていた。
これほど瑞々しくも痛々しい、ボーイ・ミーツ・ガール映画が他にあるだろうか。
「ソウルメイト/七月と安生」のデレク・ツァン監督と主演のチョウ・ドンユイが、再びのタッグを組んだ作品。
中国で240億円を超える興業記録を叩き出し、本年度アカデミー賞では国際長編映画賞にノミネートされた話題作だ。
本作でチョウ・ドンユイが演じるのは、熾烈な受験戦争で知られる中国で、進学校に通う高校生チェン・ニェン。
母子家庭で、母親は彼女の学費を稼ごうと怪しげな仕事に手を出し、借金取りに追われている。
受験に打ち勝って、北京の名門校へと進学することだけが、親子にとって貧困から抜け出す唯一の希望なのだ。
ところが、受験まで間もない時期になって、いじめを苦にして投身自殺したクラスメイトの遺体に、チェンが上着をかけてあげたことをきっかけに、彼女自身が次なるいじめのターゲットになってしまう。
※核心部分に触れています。
そんなある日、チェンはひょんなことからイー・ヤンチェンシー演じる喧嘩に明け暮れるチンピラ青年、シャオベイと出会い、共に孤独を抱えた二人の淡い初恋がはじまる。
チェンの母親の噂が学校に広まり、いじめがますます激しさを増すと、シャオベイは密かにチェンの背後にボディーガードのように寄り添い、いじめから彼女を守るようになるのだ。
冒頭とラストに、中国のいじめ問題の啓蒙みたいな字幕が出てくる。
確かにいじめの描写は凄惨でリアルだが、啓蒙はあくまで副次的なもの。
やりたいのは若くして生きづらさを抱え、ここではない何処かへと旅立つことを願い、ピュアにお互いを思う二人のファーストラブストーリーだ。
しかし僅かに光が差したと思わせた後、シャオベイが彼女を守り切れなかった瞬間を狙い、悪意が最大限に増幅する。
金持ちのクラスメイトが主導するイジメは歯止めを失い、集団での暴行、髪を切り、裸にして写真を撮るまでにエスカレート。
そして遂に、取り返しのつかない悲劇が起きてしまう。
デレク・ツァン監督は前作の「ソウルメイト」も素晴らしい仕上がりだった。
13歳の時に出会った二人の少女、暖かい家庭で育った優等生の七月と、訳あり家庭の自由人、安生の物語。
対照的な二人はなぜか無二の親友となり、やがてお互いの人生を複雑に交錯させてゆく。
共に同じ男を愛し、七月は堅実に地元に留まり、安生は街を出て世界を放浪。
時に反発し合い、時に求め合い、邂逅を繰り返す二人の時間はいつしか20代後半に。
しかし、七月が書いたウェブ小説という設定で語られる物語には、驚くべき秘密が隠されているのだ。
虚実が入り混じる展開は、全く読めなかった。
対して、本作では「ソウルメイト」のような捻った作劇の妙は見られないが、最悪の状況の中でお互いを思う若い二人の、狂おしいまでの愛と罪の葛藤で魅せる。
孤独と絶望に支配されたチェンとシャオベイにとって、お互いの存在こそが希望。
表情豊かとは言えない二人の内面を、ツァンは実に映画的なショット、サウンドの演出を駆使して描写してゆく。
ニコラス・ジェスネール監督の知る人ぞ知る名作「白い家の少女」を思わせるテイストもあるが、ツァンのノスタルジックでウェットなタッチは、もうちょい身近なデジャヴが。
「ソウルメイト」のエンドクレジットに岩井俊二の名前があったのだが、たしかにあの映画も本作も、二人のキャラクターの関係性などは「Love Letter」や「花とアリス」など岩井映画の強い影響を感じさせる。
虚実の混濁という点も然り。
冒頭の字幕に続いて、小学校で英語を教えるチェンの姿が映し出され、いじめられているであろう一人の少女を気に掛ける。
そして映画のラストでは、チェンがその少女に寄り添い、二人の後からは変わらずシャオベイが歩いてついて来る。
冒頭シーンだけだと意味づけが分からなかったが、これは運命の巡り合わせによって奪われてしまった「if」の未来。
2011年に逮捕されたチェンの刑期は4年とのことだから、2015年に教壇に立っていることはあり得ない。
釈放されたとしても、教職につくことはできないだろう。
この光景が永遠に訪れない夢であることが、本作の後味をよりほろ苦く、切ないものとしているのである。
今回は映画に合わせてビターテイストが印象的な「オールド・ファッションド」をチョイス。
オールド・ファッション・グラスに角砂糖を一個入れ、アンゴスチュラ・ビターズ2dashを振りかけ、氷を加えた上でライ・ウィスキー45mlを注ぎ入れる。
最後にカットしたオレンジを飾って完成。
19世紀半ばに、ケンタッキーのバーテンダーが考案したと言われる。
角砂糖が徐々に溶けて、甘味と共にビターなテイストが加わって来て、さらにオレンジの酸味でも味変を楽しめる粋な一杯だ。
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これほど瑞々しくも痛々しい、ボーイ・ミーツ・ガール映画が他にあるだろうか。
「ソウルメイト/七月と安生」のデレク・ツァン監督と主演のチョウ・ドンユイが、再びのタッグを組んだ作品。
中国で240億円を超える興業記録を叩き出し、本年度アカデミー賞では国際長編映画賞にノミネートされた話題作だ。
本作でチョウ・ドンユイが演じるのは、熾烈な受験戦争で知られる中国で、進学校に通う高校生チェン・ニェン。
母子家庭で、母親は彼女の学費を稼ごうと怪しげな仕事に手を出し、借金取りに追われている。
受験に打ち勝って、北京の名門校へと進学することだけが、親子にとって貧困から抜け出す唯一の希望なのだ。
ところが、受験まで間もない時期になって、いじめを苦にして投身自殺したクラスメイトの遺体に、チェンが上着をかけてあげたことをきっかけに、彼女自身が次なるいじめのターゲットになってしまう。
※核心部分に触れています。
そんなある日、チェンはひょんなことからイー・ヤンチェンシー演じる喧嘩に明け暮れるチンピラ青年、シャオベイと出会い、共に孤独を抱えた二人の淡い初恋がはじまる。
チェンの母親の噂が学校に広まり、いじめがますます激しさを増すと、シャオベイは密かにチェンの背後にボディーガードのように寄り添い、いじめから彼女を守るようになるのだ。
冒頭とラストに、中国のいじめ問題の啓蒙みたいな字幕が出てくる。
確かにいじめの描写は凄惨でリアルだが、啓蒙はあくまで副次的なもの。
やりたいのは若くして生きづらさを抱え、ここではない何処かへと旅立つことを願い、ピュアにお互いを思う二人のファーストラブストーリーだ。
しかし僅かに光が差したと思わせた後、シャオベイが彼女を守り切れなかった瞬間を狙い、悪意が最大限に増幅する。
金持ちのクラスメイトが主導するイジメは歯止めを失い、集団での暴行、髪を切り、裸にして写真を撮るまでにエスカレート。
そして遂に、取り返しのつかない悲劇が起きてしまう。
デレク・ツァン監督は前作の「ソウルメイト」も素晴らしい仕上がりだった。
13歳の時に出会った二人の少女、暖かい家庭で育った優等生の七月と、訳あり家庭の自由人、安生の物語。
対照的な二人はなぜか無二の親友となり、やがてお互いの人生を複雑に交錯させてゆく。
共に同じ男を愛し、七月は堅実に地元に留まり、安生は街を出て世界を放浪。
時に反発し合い、時に求め合い、邂逅を繰り返す二人の時間はいつしか20代後半に。
しかし、七月が書いたウェブ小説という設定で語られる物語には、驚くべき秘密が隠されているのだ。
虚実が入り混じる展開は、全く読めなかった。
対して、本作では「ソウルメイト」のような捻った作劇の妙は見られないが、最悪の状況の中でお互いを思う若い二人の、狂おしいまでの愛と罪の葛藤で魅せる。
孤独と絶望に支配されたチェンとシャオベイにとって、お互いの存在こそが希望。
表情豊かとは言えない二人の内面を、ツァンは実に映画的なショット、サウンドの演出を駆使して描写してゆく。
ニコラス・ジェスネール監督の知る人ぞ知る名作「白い家の少女」を思わせるテイストもあるが、ツァンのノスタルジックでウェットなタッチは、もうちょい身近なデジャヴが。
「ソウルメイト」のエンドクレジットに岩井俊二の名前があったのだが、たしかにあの映画も本作も、二人のキャラクターの関係性などは「Love Letter」や「花とアリス」など岩井映画の強い影響を感じさせる。
虚実の混濁という点も然り。
冒頭の字幕に続いて、小学校で英語を教えるチェンの姿が映し出され、いじめられているであろう一人の少女を気に掛ける。
そして映画のラストでは、チェンがその少女に寄り添い、二人の後からは変わらずシャオベイが歩いてついて来る。
冒頭シーンだけだと意味づけが分からなかったが、これは運命の巡り合わせによって奪われてしまった「if」の未来。
2011年に逮捕されたチェンの刑期は4年とのことだから、2015年に教壇に立っていることはあり得ない。
釈放されたとしても、教職につくことはできないだろう。
この光景が永遠に訪れない夢であることが、本作の後味をよりほろ苦く、切ないものとしているのである。
今回は映画に合わせてビターテイストが印象的な「オールド・ファッションド」をチョイス。
オールド・ファッション・グラスに角砂糖を一個入れ、アンゴスチュラ・ビターズ2dashを振りかけ、氷を加えた上でライ・ウィスキー45mlを注ぎ入れる。
最後にカットしたオレンジを飾って完成。
19世紀半ばに、ケンタッキーのバーテンダーが考案したと言われる。
角砂糖が徐々に溶けて、甘味と共にビターなテイストが加わって来て、さらにオレンジの酸味でも味変を楽しめる粋な一杯だ。

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2021年07月23日 (金) | 編集 |
怪異に、魅入られる。
長編デビュー作の「ウィッチ」で注目されたロバート・エガース監督の二作目は、兄のマックス・エガースとの共同脚本による、絶海の孤島にある灯台を舞台とした暗喩劇だ。
霧の立ち込める孤島に、二人の男がやって来る。
彼らは四週間の任期の間、この灯台で勤務しながら、様々な仕事をこなすのだ。
年輩の男はウィレム・デフォーが怪演する、ベテラン灯台守のトーマス・ウェイク。
若い方はロバート・パティンソン演じる、新人のイーフレイム・ウィンズロー。
粗野なウェイクは、彼の聖域である灯室に絶対にウィンズローを入れようとしない。
雑用ばかり押し付けられるウィンズローは、反発を深めてゆくものの、やがて四週間も過ぎようとしていたある夜、島に大嵐がやって来る。
その夜を境に、島はカオスへと陥ってゆくのである。
来るはずの迎えは来ず、酒で渇きを癒す二人を幻想と狂気が支配してゆく。
※核心部分に触れいてます。
エドガー・アラン・ポーの未完の短編小説をベースとした本作は、エガース兄弟のイマジネーションにより、アメリカの海洋怪奇譚の集大成的作品となった。
これはポーであり、メルヴィルであり、ラブクラフト。
死者の魂たるカモメの群れを従え、怪しい光を放つ灯台は、男根の様にそそり立ち禍々しく精液滴らせる一つ目のクトゥルフだ。
1932年に映画芸術科学アカデミーが、スタンダードサイズを定める以前に使われていた、1:1.19という真四角に近いサイズで切り取られたモノクロ映像は、むせ返る様な湿気と泥水にまみれた島での生活を描写してゆく。
四週間がとうに過ぎ、もはやどれだけ時間が経ったのかも分からない。
酒も底をつき、ついにはテレビン油を飲んでまで酔っぱらおうとする二人が、混沌に堕ちてゆくにつれて、映画の世界そのものも虚実が混濁して一体化してゆく。
パティンソンのキャラクターは、イーフレイム・ウィンズローは偽名で、実はトーマス・ハワードが本名だと明かす。
木こりの仕事をしていた時に、上司だったウィンズローを殺し、新しい人生を求めて森から海へとやって来た。
つまり彼は罪人である。
そして怪異は常に罪人を、何が起こっても不思議ではない日常の亀裂、魔境へと誘い込む。
この映画の二人の登場人物の名は共にトーマスで、おそらく二人は同一人物だろう。
酔っ払ってない序盤は知的な側面を見せるハワードに対し、彼自身の中にある罪人の獣性が粗野なウェイク。
親切なネタバラシは無いものの、二人が同一人物なのを示唆するディテールは多く、つまりはデヴィッド・フィンチャーの「ファイトクラブ」の様な関係だと思って良いと思う。
前記したアメリカ海洋怪奇譚の系譜の他、ギリシャ神話や北欧神話の海の物語の影響も色濃い。
邪神クトゥルフに魅入られたウェイクから光を奪おうとするハワードは、人類に文明の炎をもたらしたプロメテウスの比喩か。
さらにモノクロ画面に濃淡を生かしたドイツ表現主義の様な演出も、これが心象的世界であることを強調する。
「カリガリ博士」の主人公が実は狂人で、全ては彼の見ている妄想であった様に、この物語だって本当に灯台で展開しているのか分からない。
劇中にも言及があるが、ウィンズローを殺したハワードは、故郷のメイン州の森の中を彷徨っているだけなのかもしれない。
極めて狭いアスペクト比から、必然的にクローズアップが多用され、世代の違う名優二人の長台詞の応酬は、怪奇映画のムード満点。
エガース監督の前作「ウィッチ」では、ニューイングランドの人里離れた森に暮らす信心深い入植者一家に、スルリと怪異が忍び寄る。
赤ん坊が消え、次々起こる負の連鎖の奇妙さに、厳格な信仰者である父は、年頃の愛娘が魔女なのではないかと疑念を抱く。
黒山羊、使い魔の野ウサギ、赤いケープの女など、散りばめられた断片が、登場人物も観客も惑わせてゆくのだが、エガースはこういったヒントの埋め込み方が実にうまい。
この映画に、明確な「解」は無い。
ただ怪異に惑わされ、不安の迷宮にたゆたう、悪夢の様な109分だ。
本作では登場人物がジンを飲みまくっていたので、ジンベースのカクテル「ノックアウト」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、ドライ・ベルモット20ml、ペルノ10ml、ペパーミント・ホワイト1tspをステアしグラスに注ぎ、マラスキーノ・チェリーを一つ沈めて完成。
1927年のボクシングのヘビー級防衛戦で、ジャック・デンプシーを倒したジーン・タニーの祝勝会で発案された。
ベルモットとペルノとペパーミントという香草トリオを、ドライ・ジンが受け止めてまとめあげる。
映画はひたすらダークだったが、こちらは香り豊かで華やかだ。
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長編デビュー作の「ウィッチ」で注目されたロバート・エガース監督の二作目は、兄のマックス・エガースとの共同脚本による、絶海の孤島にある灯台を舞台とした暗喩劇だ。
霧の立ち込める孤島に、二人の男がやって来る。
彼らは四週間の任期の間、この灯台で勤務しながら、様々な仕事をこなすのだ。
年輩の男はウィレム・デフォーが怪演する、ベテラン灯台守のトーマス・ウェイク。
若い方はロバート・パティンソン演じる、新人のイーフレイム・ウィンズロー。
粗野なウェイクは、彼の聖域である灯室に絶対にウィンズローを入れようとしない。
雑用ばかり押し付けられるウィンズローは、反発を深めてゆくものの、やがて四週間も過ぎようとしていたある夜、島に大嵐がやって来る。
その夜を境に、島はカオスへと陥ってゆくのである。
来るはずの迎えは来ず、酒で渇きを癒す二人を幻想と狂気が支配してゆく。
※核心部分に触れいてます。
エドガー・アラン・ポーの未完の短編小説をベースとした本作は、エガース兄弟のイマジネーションにより、アメリカの海洋怪奇譚の集大成的作品となった。
これはポーであり、メルヴィルであり、ラブクラフト。
死者の魂たるカモメの群れを従え、怪しい光を放つ灯台は、男根の様にそそり立ち禍々しく精液滴らせる一つ目のクトゥルフだ。
1932年に映画芸術科学アカデミーが、スタンダードサイズを定める以前に使われていた、1:1.19という真四角に近いサイズで切り取られたモノクロ映像は、むせ返る様な湿気と泥水にまみれた島での生活を描写してゆく。
四週間がとうに過ぎ、もはやどれだけ時間が経ったのかも分からない。
酒も底をつき、ついにはテレビン油を飲んでまで酔っぱらおうとする二人が、混沌に堕ちてゆくにつれて、映画の世界そのものも虚実が混濁して一体化してゆく。
パティンソンのキャラクターは、イーフレイム・ウィンズローは偽名で、実はトーマス・ハワードが本名だと明かす。
木こりの仕事をしていた時に、上司だったウィンズローを殺し、新しい人生を求めて森から海へとやって来た。
つまり彼は罪人である。
そして怪異は常に罪人を、何が起こっても不思議ではない日常の亀裂、魔境へと誘い込む。
この映画の二人の登場人物の名は共にトーマスで、おそらく二人は同一人物だろう。
酔っ払ってない序盤は知的な側面を見せるハワードに対し、彼自身の中にある罪人の獣性が粗野なウェイク。
親切なネタバラシは無いものの、二人が同一人物なのを示唆するディテールは多く、つまりはデヴィッド・フィンチャーの「ファイトクラブ」の様な関係だと思って良いと思う。
前記したアメリカ海洋怪奇譚の系譜の他、ギリシャ神話や北欧神話の海の物語の影響も色濃い。
邪神クトゥルフに魅入られたウェイクから光を奪おうとするハワードは、人類に文明の炎をもたらしたプロメテウスの比喩か。
さらにモノクロ画面に濃淡を生かしたドイツ表現主義の様な演出も、これが心象的世界であることを強調する。
「カリガリ博士」の主人公が実は狂人で、全ては彼の見ている妄想であった様に、この物語だって本当に灯台で展開しているのか分からない。
劇中にも言及があるが、ウィンズローを殺したハワードは、故郷のメイン州の森の中を彷徨っているだけなのかもしれない。
極めて狭いアスペクト比から、必然的にクローズアップが多用され、世代の違う名優二人の長台詞の応酬は、怪奇映画のムード満点。
エガース監督の前作「ウィッチ」では、ニューイングランドの人里離れた森に暮らす信心深い入植者一家に、スルリと怪異が忍び寄る。
赤ん坊が消え、次々起こる負の連鎖の奇妙さに、厳格な信仰者である父は、年頃の愛娘が魔女なのではないかと疑念を抱く。
黒山羊、使い魔の野ウサギ、赤いケープの女など、散りばめられた断片が、登場人物も観客も惑わせてゆくのだが、エガースはこういったヒントの埋め込み方が実にうまい。
この映画に、明確な「解」は無い。
ただ怪異に惑わされ、不安の迷宮にたゆたう、悪夢の様な109分だ。
本作では登場人物がジンを飲みまくっていたので、ジンベースのカクテル「ノックアウト」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、ドライ・ベルモット20ml、ペルノ10ml、ペパーミント・ホワイト1tspをステアしグラスに注ぎ、マラスキーノ・チェリーを一つ沈めて完成。
1927年のボクシングのヘビー級防衛戦で、ジャック・デンプシーを倒したジーン・タニーの祝勝会で発案された。
ベルモットとペルノとペパーミントという香草トリオを、ドライ・ジンが受け止めてまとめあげる。
映画はひたすらダークだったが、こちらは香り豊かで華やかだ。

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2021年07月18日 (日) | 編集 |
あなたは、いったい誰?
驚くべき未見性を持った傑作だ。
米国アカデミー賞にノミネートされた「未来のミライ」など、家族をモチーフとした作品を作り続けてきた細田守監督の最新作は、世界50億の人々が利用する仮想世界「U」と、高知県の田舎町という二重世界を舞台とした物語。
母を亡くした孤独な少女すずが、ひょんなことから「U」の世界を魅了する歌姫「ベル」となり、人々に忌み嫌われる謎めいた存在である「竜」の正体を探し、魂を救おうとする。
原作・監督・脚本はもちろん細田守。
音楽が重要な要素となっている本作で、主人公のすずを演じるのはシンガーソングライターの中村佳穂。
「U」の世界のキャラクターデザインに、「アナと雪の女王」「ベイマックス」などのディズニー作品のJIn Kim、プロダクションデザインに架空都市の設計で知られる英国人建築家のEric Wongが起用されるなど、海外アーティストとの異色のコラボレーションも見ものだ。
※核心部分に触れています。
緑豊かな高知県の田舎に住む内藤すず(中村佳穂)は、17歳の高校生。
幼い頃から母と共に歌うことが大好きだったが、6歳の時に母が事故で亡くなったショックで人前で歌うことが出来なくなってしまった。
誰に聞かせるでもなく、一人で曲を作ることだけが楽しみだったある日、友人のヒロちゃん(幾田りら)に誘われて、世界50億の人々が利用する巨大な仮想世界「U」に参加することに。
自動生成される「As」と呼ばれるアバターに、「ベル」というハンドルネームをつけたすずは、仮想世界でなら自然に歌うことが出来た。
謎のディーバの歌声は瞬く間に「U」の世界を席巻し、スターとなったベルは数億人が集まるライブを開催することになる。
だが、会場には「竜」(佐藤健)と呼ばれる謎の存在が現れ、彼を追う者たちとの戦闘でライブはメチャクチャになってしまう。
竜の正体は何者なのか。
世界中で噂が飛び交う中、興味を持ったすずも、ヒロちゃんと共に彼の正体を探り始めるのだが・・・
仮想世界「U」のインフォメーションから始まるオープニングのビジュアルイメージは、12年前のヒット作「サマーウォーズ」とそっくりだ。
実際「U」の世界は「サマーウォーズ」の「OZ」とよく似ているが、ハンドルネームとパスワードでログインしていた「OZ」に対して、「U」はイヤホン型のディバイスを装着することによって、生体情報を読み取り仮想世界に体感的にログイン出来るという違いがある。
また「As」と呼ばれるアバターも、本人の容姿や関心事などを元に自動生成される仕組み。
もしかすると、「OZ」が進化して「U」となった設定なのかも知れない。
クジラも相変わらず飛んでるし。
もっとも「サマーウォーズ」の原点たる「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」から数えると、細田監督がインターネットをモチーフとするのは今回が三回目。
本作の予告編を初めて観た時、あまりにも「サマーウォーズ」ライクな世界観に、「ネタ切れか?」と心配になったのだが、実際には仮想世界と現実世界を行き来する以上の共通点はなく、物語としては全くの別物だった。
今回の主人公は、全てに自信がない17歳の高校生のすず。
すずが6歳の時に、彼女の母は増水した川に取り残された少女を救おうとして事故死。
歌うことが大好きだったすずは、このことに大きなショックを受けて、以来人前で歌うことが出来なくなってしまう。
最愛の母の喪失以来、大好きだったものと距離を置いてしまうのは、つい最近公開された「いとみち」とも共通する。
殻を作って閉じこもるすずは、幼なじみで初恋の人のしのぶくんとも素直に話せなくなってしまっているのだが、唯一の友だちと言える毒舌ギークなヒロちゃんの勧めで、「U」の世界に足を踏み入れる。
リアルだけど、現実とは違うもう一つの世界で、彼女は「ベル」というAsを作る。
なぜかすずが憧れる学園一の美女ルカちゃんとよく似ていて、すずのトレードマークであるそばかすのあるベルは、その透きとおった歌声によって一躍「U」の世界のディーバとなるのだ。
この辺りは、「U」の様な仮想世界ではなくても、SNS初のヒット曲が数多く生まれている現実からも、リアリティは十分。
現実でも仮想でも、すずの感じている世界は円形で、どちらも中心になる人物がいる。
高校での中心は華やかなルカちゃんで、冴えない自分がいるのは円の端っこ。
ところが「U」の世界では、ルカちゃんに似た自分が中心となってしまうのだ。
少しの罪悪感と場違い感に苛まれながらも、すずは仮想世界のベルとして自分を開放してゆく。
しかし、スターとなったベルがライブを行おうとしていた時、「龍」と呼ばれる謎のAsが現れ、「U」の秩序を守る自称正義の自警団と戦いライブをめちゃくちゃにしてしまう。
ここからがこの映画の本題だ。
日本語では龍と呼ばれいてるが、文字表記は「Beast」。
ベルとビースト、そうこの映画はディズニーアニメーション版の「美女と野獣」に、熱烈なオマージュを捧げた作品であり、Jin Kimの起用もこのためだろう。
ベルと竜のキャラクターと音楽劇というだけでなく、屋敷の召使にあたるキャラクターや、仮想世界の正義を語るガストンっぽい奴もいる。
また二人が出会ってからの基本プロットに、伝説的なボールルームでのダンスシーンまで踏襲しているのだから、これはガチだ。
実は数年前に「美女と野獣」がTV放送された時、細田監督が猛烈な勢いで絶賛ツイートを連発していて、よっぽど好きなんだなあと思った記憶があるのだが、当時すでにこの映画を構想していたのかも知れない。
ディズニー版「美女と野獣」の最大の特徴が、それ以前の版とはキャラクターの役割が逆なこと。
見た目の印象だけで野獣を怖がるベルを、知的で親切な野獣が啓蒙するのではなく、魔女の呪いで野獣に姿を変えられ、すっかりひねくれてしまった王子を、聡明で地に足をつけたベルが救い出す物語となっている。
本作もまた、竜の正体に興味を持ったすずが、傷付いた彼を救おうと奮闘する。
ただ、この動機の部分はちょっと弱く、なぜすずが自分のライブを壊してしまった竜にこだわるのか?という疑問は最後まで残る。
本作は細田監督が自分で脚本を担当して三作目にあたるが、いまだに構成は不得手と見えて、娯楽映画としての観やすさ、流れのスムーズさは、やはりかつてコンビを組んでいた奥寺佐渡子には及ばない。
一方で、映画作家として描きたいことはより純化されていて、いわば夏休み娯楽大作の仮面をつけたゴリゴリの作家映画となっている。
当然アンバランスな部分もあるので、この作品の作家性に共鳴できるかどうかが、評価の分かれ目になるだろう。
私は、細田守は基本的に私小説作家だと思っている。
結婚し家族が増えたら、大家族の物語である「サマーウォーズ」を、子供が欲しいと思ったら「おおかみこどもの雨と雪」を、実際に子育てが始まると「バケモノの子」を、二番目の子供が出来たら「未来のミライ」を。
完全に自分の人生をベースとして、リンクする形で物語を作っている。
そして「未来のミライ」で、家族のクロニクルという究極系をやった後になる本作では、一度喪失という形で家族を解体し、その上で見つめ直しているのである。
だから軸足はあくまでも現実。
竜の正体を探すすずの挑戦は、やがて過酷な現実を生きる子供たちに行き着く。
支え合う大家族の物語だった「サマーウォーズ」では、主たる合戦が行われるのは仮想世界。
対してこの作品では仮想世界は、現実を救うための助けにはなるが、あくまでも副次的な装置に過ぎない。
AIのラブマシーンを倒すのは、仮想世界でなければ出来ないが、本当はDVに苦しむ子供である竜を救うのは現実でしかあり得ない。
そのために、現実世界の竜の居場所を探すすずは、彼の信頼を得るために華麗に着飾ったベルの仮面を脱ぎ捨て、本当の自分の姿を「U」の世界に晒すのである。
ディズニーが連発する「ありのままで」に対するアンサーとも思えるすずの行動は、彼女がずっと理解できなかった母の行動ともシンクロする様に描かれている。
自分の子供を不幸にしてまで、自らの命をかけて他人の子を救った母の様に、すずもまた勇気を振り絞って50億人の前にコンプレックスだらけの自分をさらけ出し、素顔のまま大好きな歌を歌い、現実では自分よりずっと強い大人の男と対決して子供たちを救うのだ。
本作には日本の政財界にも影響力を持つ様な大家族は出てこないが、朴訥な父だけでなく、亡き母の合唱団の友人たちも、親戚のおばちゃんのノリですずを見守っているし、幼なじみのしのぶくんもずっとすずのことを気にかけている。
この拡張家族とも言うべき共同体、たぶんこれがこれが今の細田監督にとっての、家族のあるべき姿なんだと思う。
そして、文字通りに卵の殻を破ったすずの成長は、世界観の変化をももたらす。
円の中心にいるはずだったルカちゃんも、ごく普通の悩みを抱えた同世代で、すずの世界は閉じられた円から、どこにも中心のない”可能性”という名の無限のフィールドと変化するのである。
もちろんアニメーション作家細田守は、感情移入を誘う物語だけでなく、作り上げるデザイン性抜群の世界でも魅せる。
現実のアナログ、「U」のデジタルのミックスビジュアルは圧巻で、技術的には今日の日本で作り得る、最高レベルの作品と言っていいだろう。
また本作は「美女と野獣」を受け継ぐ音楽映画でもあり、音楽性は極めて高く、中村佳穂の歌う楽曲の数々は心を打つ。
声優は初挑戦だそうで、演技としては上手いとは言えないが、朴訥な不器用さがすずのキャラクターにぴったり。
「龍」を演じるのは佐藤健だが、この大きな傷を抱えたキャラクターへのキャスティングは、やはり「るろうに剣心」での好演があってのことではなかろうか。
物語を通して、すずは理想の自分と現実の自分の折り合いをつけ、母に近づく大人の階段を一歩上がる。
そして傷ついた「竜」もまた、彼女に力強く背中を押されて、運命に抗う決意をする。
物語の中で全てに決着がつくわけではないが、現在進行形の青春の物語はこれで良かったと思う。
「おおかみこどもの雨と雪」でも印象的だった、雨上がりの空に立ち上がる、積乱雲の瑞々しさと言ったらもう。
梅雨明けの日に観るのに、これほど相応しい作品があるだろうか。
今回は、舞台となる高知の地酒「酔鯨 純米吟醸 吟麗」をチョイス。
「U」でもクジラ飛んでことだし。
やや辛口のスッキリしたキレ重視。
酸味や苦味など「味の五味」を引き出し、味わいの幅を広げることを目標としたと言う。
純米吟醸としては香りは控えめだが、重くなく非常に飲みやすい。
高知の美味い肴と一緒に、グイグイといきたくなる。
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驚くべき未見性を持った傑作だ。
米国アカデミー賞にノミネートされた「未来のミライ」など、家族をモチーフとした作品を作り続けてきた細田守監督の最新作は、世界50億の人々が利用する仮想世界「U」と、高知県の田舎町という二重世界を舞台とした物語。
母を亡くした孤独な少女すずが、ひょんなことから「U」の世界を魅了する歌姫「ベル」となり、人々に忌み嫌われる謎めいた存在である「竜」の正体を探し、魂を救おうとする。
原作・監督・脚本はもちろん細田守。
音楽が重要な要素となっている本作で、主人公のすずを演じるのはシンガーソングライターの中村佳穂。
「U」の世界のキャラクターデザインに、「アナと雪の女王」「ベイマックス」などのディズニー作品のJIn Kim、プロダクションデザインに架空都市の設計で知られる英国人建築家のEric Wongが起用されるなど、海外アーティストとの異色のコラボレーションも見ものだ。
※核心部分に触れています。
緑豊かな高知県の田舎に住む内藤すず(中村佳穂)は、17歳の高校生。
幼い頃から母と共に歌うことが大好きだったが、6歳の時に母が事故で亡くなったショックで人前で歌うことが出来なくなってしまった。
誰に聞かせるでもなく、一人で曲を作ることだけが楽しみだったある日、友人のヒロちゃん(幾田りら)に誘われて、世界50億の人々が利用する巨大な仮想世界「U」に参加することに。
自動生成される「As」と呼ばれるアバターに、「ベル」というハンドルネームをつけたすずは、仮想世界でなら自然に歌うことが出来た。
謎のディーバの歌声は瞬く間に「U」の世界を席巻し、スターとなったベルは数億人が集まるライブを開催することになる。
だが、会場には「竜」(佐藤健)と呼ばれる謎の存在が現れ、彼を追う者たちとの戦闘でライブはメチャクチャになってしまう。
竜の正体は何者なのか。
世界中で噂が飛び交う中、興味を持ったすずも、ヒロちゃんと共に彼の正体を探り始めるのだが・・・
仮想世界「U」のインフォメーションから始まるオープニングのビジュアルイメージは、12年前のヒット作「サマーウォーズ」とそっくりだ。
実際「U」の世界は「サマーウォーズ」の「OZ」とよく似ているが、ハンドルネームとパスワードでログインしていた「OZ」に対して、「U」はイヤホン型のディバイスを装着することによって、生体情報を読み取り仮想世界に体感的にログイン出来るという違いがある。
また「As」と呼ばれるアバターも、本人の容姿や関心事などを元に自動生成される仕組み。
もしかすると、「OZ」が進化して「U」となった設定なのかも知れない。
クジラも相変わらず飛んでるし。
もっとも「サマーウォーズ」の原点たる「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」から数えると、細田監督がインターネットをモチーフとするのは今回が三回目。
本作の予告編を初めて観た時、あまりにも「サマーウォーズ」ライクな世界観に、「ネタ切れか?」と心配になったのだが、実際には仮想世界と現実世界を行き来する以上の共通点はなく、物語としては全くの別物だった。
今回の主人公は、全てに自信がない17歳の高校生のすず。
すずが6歳の時に、彼女の母は増水した川に取り残された少女を救おうとして事故死。
歌うことが大好きだったすずは、このことに大きなショックを受けて、以来人前で歌うことが出来なくなってしまう。
最愛の母の喪失以来、大好きだったものと距離を置いてしまうのは、つい最近公開された「いとみち」とも共通する。
殻を作って閉じこもるすずは、幼なじみで初恋の人のしのぶくんとも素直に話せなくなってしまっているのだが、唯一の友だちと言える毒舌ギークなヒロちゃんの勧めで、「U」の世界に足を踏み入れる。
リアルだけど、現実とは違うもう一つの世界で、彼女は「ベル」というAsを作る。
なぜかすずが憧れる学園一の美女ルカちゃんとよく似ていて、すずのトレードマークであるそばかすのあるベルは、その透きとおった歌声によって一躍「U」の世界のディーバとなるのだ。
この辺りは、「U」の様な仮想世界ではなくても、SNS初のヒット曲が数多く生まれている現実からも、リアリティは十分。
現実でも仮想でも、すずの感じている世界は円形で、どちらも中心になる人物がいる。
高校での中心は華やかなルカちゃんで、冴えない自分がいるのは円の端っこ。
ところが「U」の世界では、ルカちゃんに似た自分が中心となってしまうのだ。
少しの罪悪感と場違い感に苛まれながらも、すずは仮想世界のベルとして自分を開放してゆく。
しかし、スターとなったベルがライブを行おうとしていた時、「龍」と呼ばれる謎のAsが現れ、「U」の秩序を守る自称正義の自警団と戦いライブをめちゃくちゃにしてしまう。
ここからがこの映画の本題だ。
日本語では龍と呼ばれいてるが、文字表記は「Beast」。
ベルとビースト、そうこの映画はディズニーアニメーション版の「美女と野獣」に、熱烈なオマージュを捧げた作品であり、Jin Kimの起用もこのためだろう。
ベルと竜のキャラクターと音楽劇というだけでなく、屋敷の召使にあたるキャラクターや、仮想世界の正義を語るガストンっぽい奴もいる。
また二人が出会ってからの基本プロットに、伝説的なボールルームでのダンスシーンまで踏襲しているのだから、これはガチだ。
実は数年前に「美女と野獣」がTV放送された時、細田監督が猛烈な勢いで絶賛ツイートを連発していて、よっぽど好きなんだなあと思った記憶があるのだが、当時すでにこの映画を構想していたのかも知れない。
ディズニー版「美女と野獣」の最大の特徴が、それ以前の版とはキャラクターの役割が逆なこと。
見た目の印象だけで野獣を怖がるベルを、知的で親切な野獣が啓蒙するのではなく、魔女の呪いで野獣に姿を変えられ、すっかりひねくれてしまった王子を、聡明で地に足をつけたベルが救い出す物語となっている。
本作もまた、竜の正体に興味を持ったすずが、傷付いた彼を救おうと奮闘する。
ただ、この動機の部分はちょっと弱く、なぜすずが自分のライブを壊してしまった竜にこだわるのか?という疑問は最後まで残る。
本作は細田監督が自分で脚本を担当して三作目にあたるが、いまだに構成は不得手と見えて、娯楽映画としての観やすさ、流れのスムーズさは、やはりかつてコンビを組んでいた奥寺佐渡子には及ばない。
一方で、映画作家として描きたいことはより純化されていて、いわば夏休み娯楽大作の仮面をつけたゴリゴリの作家映画となっている。
当然アンバランスな部分もあるので、この作品の作家性に共鳴できるかどうかが、評価の分かれ目になるだろう。
私は、細田守は基本的に私小説作家だと思っている。
結婚し家族が増えたら、大家族の物語である「サマーウォーズ」を、子供が欲しいと思ったら「おおかみこどもの雨と雪」を、実際に子育てが始まると「バケモノの子」を、二番目の子供が出来たら「未来のミライ」を。
完全に自分の人生をベースとして、リンクする形で物語を作っている。
そして「未来のミライ」で、家族のクロニクルという究極系をやった後になる本作では、一度喪失という形で家族を解体し、その上で見つめ直しているのである。
だから軸足はあくまでも現実。
竜の正体を探すすずの挑戦は、やがて過酷な現実を生きる子供たちに行き着く。
支え合う大家族の物語だった「サマーウォーズ」では、主たる合戦が行われるのは仮想世界。
対してこの作品では仮想世界は、現実を救うための助けにはなるが、あくまでも副次的な装置に過ぎない。
AIのラブマシーンを倒すのは、仮想世界でなければ出来ないが、本当はDVに苦しむ子供である竜を救うのは現実でしかあり得ない。
そのために、現実世界の竜の居場所を探すすずは、彼の信頼を得るために華麗に着飾ったベルの仮面を脱ぎ捨て、本当の自分の姿を「U」の世界に晒すのである。
ディズニーが連発する「ありのままで」に対するアンサーとも思えるすずの行動は、彼女がずっと理解できなかった母の行動ともシンクロする様に描かれている。
自分の子供を不幸にしてまで、自らの命をかけて他人の子を救った母の様に、すずもまた勇気を振り絞って50億人の前にコンプレックスだらけの自分をさらけ出し、素顔のまま大好きな歌を歌い、現実では自分よりずっと強い大人の男と対決して子供たちを救うのだ。
本作には日本の政財界にも影響力を持つ様な大家族は出てこないが、朴訥な父だけでなく、亡き母の合唱団の友人たちも、親戚のおばちゃんのノリですずを見守っているし、幼なじみのしのぶくんもずっとすずのことを気にかけている。
この拡張家族とも言うべき共同体、たぶんこれがこれが今の細田監督にとっての、家族のあるべき姿なんだと思う。
そして、文字通りに卵の殻を破ったすずの成長は、世界観の変化をももたらす。
円の中心にいるはずだったルカちゃんも、ごく普通の悩みを抱えた同世代で、すずの世界は閉じられた円から、どこにも中心のない”可能性”という名の無限のフィールドと変化するのである。
もちろんアニメーション作家細田守は、感情移入を誘う物語だけでなく、作り上げるデザイン性抜群の世界でも魅せる。
現実のアナログ、「U」のデジタルのミックスビジュアルは圧巻で、技術的には今日の日本で作り得る、最高レベルの作品と言っていいだろう。
また本作は「美女と野獣」を受け継ぐ音楽映画でもあり、音楽性は極めて高く、中村佳穂の歌う楽曲の数々は心を打つ。
声優は初挑戦だそうで、演技としては上手いとは言えないが、朴訥な不器用さがすずのキャラクターにぴったり。
「龍」を演じるのは佐藤健だが、この大きな傷を抱えたキャラクターへのキャスティングは、やはり「るろうに剣心」での好演があってのことではなかろうか。
物語を通して、すずは理想の自分と現実の自分の折り合いをつけ、母に近づく大人の階段を一歩上がる。
そして傷ついた「竜」もまた、彼女に力強く背中を押されて、運命に抗う決意をする。
物語の中で全てに決着がつくわけではないが、現在進行形の青春の物語はこれで良かったと思う。
「おおかみこどもの雨と雪」でも印象的だった、雨上がりの空に立ち上がる、積乱雲の瑞々しさと言ったらもう。
梅雨明けの日に観るのに、これほど相応しい作品があるだろうか。
今回は、舞台となる高知の地酒「酔鯨 純米吟醸 吟麗」をチョイス。
「U」でもクジラ飛んでことだし。
やや辛口のスッキリしたキレ重視。
酸味や苦味など「味の五味」を引き出し、味わいの幅を広げることを目標としたと言う。
純米吟醸としては香りは控えめだが、重くなく非常に飲みやすい。
高知の美味い肴と一緒に、グイグイといきたくなる。

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2021年07月16日 (金) | 編集 |
これで終わりと思った?
7年前に起こったある事件によって未来を閉ざされた、元医大生の壮絶な復讐劇。
俳優、小説家、劇作家などマルチな活躍を続けるエメラルド・フェネルが、監督・脚本・プロデューサーを兼務して作り上げた監督デビュー作。
そして一発目にして、本年度アカデミー脚本賞をかっさらってしまった。
主人公はカフェで働くカサンドラ(キャシー)で、彼女は元々医大に通う優秀な学生だったのだが、同じ学校に通っていた幼なじみのニーナが、同級生に無理やり酒を飲まされレイプされるという事件が発生。
周囲の助けを受けられなかったニーナは、絶望のあまり自殺してしまい、この出来事にショックを受けたキャシーも医大を中退し、三十路の今も実家暮らし。
しかし、彼女にはルーティンにしている秘密がある。
夜な夜なクラブに通っては、泥酔したフリをして下心のある男に自分をお持ち帰りさせ、二人きりになったところで、“お仕置き”を加えるのだ。
まるで死んだ親友の代わりに男たちを懲らしめる、レイプ・リベンジものの様な設定だが、本作は特定ジャンルには当てはまらない。
実際に彼女がどんな制裁を加えているのかも描かれないし、ジャンル映画の色が付かない寸止めの描写が多い。
もちろん、基本は性暴力によって負った心の傷とどう折り合いをつけるかの物語であって、出てくる男たちは揃いも揃ってクズばかり。
そしてさらにキツイのが、女が女の味方とは限らないところだ。
映画は、キャシーの孤独な復讐を通して、7年前に何が起こったのか、なぜニーナは死を選ばなければならなかったのかを描いてゆく。
ちなみに彼女が唯一“許し”を与えるキーパーソンに、ある大物俳優が出てくるのだが、なぜかノンクレジットなので驚いた。
前記した”お仕置き”の描写もそうだが、本作の最大の特徴はスクリーンに映し出されている情報が少ないこと。
いや、実際の画面はリッチなのだが、あえて曖昧にされている部分が多いのだ。
そもそも、タイトルの「Promising Young Woman」とは誰のことなのか?
自殺したニーナが非常に優秀な医学生だったことは語られるが、キャシーも子供の頃から医師を志していて、二人とも将来を嘱望されていたことは変わらない。
キャシーと、直接的には一度も画面に登場しないニーナの関係は、本当に友情だけだったのか?
ハートのペンダントは何のシンボルだったのか?
そして事件によって医大を中退した彼女の、心の状態はどうだったのか?
これらの曖昧性は、キャシーが典型的な“信頼の置けない語り部”に造形されているがゆえ。
シーンによって、全く別の人物に見えるキャリー・マリガンが凄い。
ポーカーフェイスでキャシーの内面をあまり見せず、観客の想像の余地によって物語の印象を七変化させる。
上記した多くの疑問をどう解釈するかによって、本作は見えてくるものが全く違ってくる、心理分析に使われるロールシャッハテストの様な作品なのである。
物語が大きく動き出すきっかけとなるのが、キャシーがかつての同級生のライアンと再会し、恋をすることだが、結果的に彼の存在が全ての登場人物を破滅へと導く。
もし彼女の心が不安定な状態にあったとしたら、久々に抱いた希望が真の絶望へと転じた時、心が決定的に壊れてしまったのかもしれない。
個人的には、7年前にニーナが死んだ時に彼女と恋仲にあったキャシーの心も半分死に、ライアンに裏切られたことによって、二人はキャシーの中で完全に一体となって究極の選択をしたのだと思う。
それ故に「Promising Young Woman」は単数系なのだろう。
もちろんこれも謎多き物語の一つの解釈に過ぎず、本作は観方によって残酷な悲劇であり、シニカルな喜劇であり、ミステリアスなスリラーでもあり、そして切ない愛の物語ともなる。
ジャンルレスで極めて独創性の高い作品だが、ビビットな衣装と美術、キメキメのフレーミングに外連味たっぷりの音楽の使い方など、狙い過ぎて悪趣味になるギリギリのテリングは、どこかレフンを思わせる部分も。
ただし彼の作品の様なバイオレンス要素は皆無であり、ひたすら作劇の面白さ、物語のカタルシスを堪能できる作品だ。
とりあえずこれは啓蒙として、これから大学や専門学校に進学する若いのに、男女問わず見せとくべきだな。
7年間の悪夢を描く本作には、ビターなカクテル「ナイトメア・オブ・レッド」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、カンパリ30ml、パイナップル・ジュース30ml、オレンジ・ビターズ2dashを氷で満たしたグラスに注ぎ、ステアする。
ドライ・ジンの清涼感とパイナップルのすっきりした甘さと、カンパリとビターズの苦みのコラボレーション。
ビタービタースウィートな後味は、まさにこの映画の印象そのものだ。
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7年前に起こったある事件によって未来を閉ざされた、元医大生の壮絶な復讐劇。
俳優、小説家、劇作家などマルチな活躍を続けるエメラルド・フェネルが、監督・脚本・プロデューサーを兼務して作り上げた監督デビュー作。
そして一発目にして、本年度アカデミー脚本賞をかっさらってしまった。
主人公はカフェで働くカサンドラ(キャシー)で、彼女は元々医大に通う優秀な学生だったのだが、同じ学校に通っていた幼なじみのニーナが、同級生に無理やり酒を飲まされレイプされるという事件が発生。
周囲の助けを受けられなかったニーナは、絶望のあまり自殺してしまい、この出来事にショックを受けたキャシーも医大を中退し、三十路の今も実家暮らし。
しかし、彼女にはルーティンにしている秘密がある。
夜な夜なクラブに通っては、泥酔したフリをして下心のある男に自分をお持ち帰りさせ、二人きりになったところで、“お仕置き”を加えるのだ。
まるで死んだ親友の代わりに男たちを懲らしめる、レイプ・リベンジものの様な設定だが、本作は特定ジャンルには当てはまらない。
実際に彼女がどんな制裁を加えているのかも描かれないし、ジャンル映画の色が付かない寸止めの描写が多い。
もちろん、基本は性暴力によって負った心の傷とどう折り合いをつけるかの物語であって、出てくる男たちは揃いも揃ってクズばかり。
そしてさらにキツイのが、女が女の味方とは限らないところだ。
映画は、キャシーの孤独な復讐を通して、7年前に何が起こったのか、なぜニーナは死を選ばなければならなかったのかを描いてゆく。
ちなみに彼女が唯一“許し”を与えるキーパーソンに、ある大物俳優が出てくるのだが、なぜかノンクレジットなので驚いた。
前記した”お仕置き”の描写もそうだが、本作の最大の特徴はスクリーンに映し出されている情報が少ないこと。
いや、実際の画面はリッチなのだが、あえて曖昧にされている部分が多いのだ。
そもそも、タイトルの「Promising Young Woman」とは誰のことなのか?
自殺したニーナが非常に優秀な医学生だったことは語られるが、キャシーも子供の頃から医師を志していて、二人とも将来を嘱望されていたことは変わらない。
キャシーと、直接的には一度も画面に登場しないニーナの関係は、本当に友情だけだったのか?
ハートのペンダントは何のシンボルだったのか?
そして事件によって医大を中退した彼女の、心の状態はどうだったのか?
これらの曖昧性は、キャシーが典型的な“信頼の置けない語り部”に造形されているがゆえ。
シーンによって、全く別の人物に見えるキャリー・マリガンが凄い。
ポーカーフェイスでキャシーの内面をあまり見せず、観客の想像の余地によって物語の印象を七変化させる。
上記した多くの疑問をどう解釈するかによって、本作は見えてくるものが全く違ってくる、心理分析に使われるロールシャッハテストの様な作品なのである。
物語が大きく動き出すきっかけとなるのが、キャシーがかつての同級生のライアンと再会し、恋をすることだが、結果的に彼の存在が全ての登場人物を破滅へと導く。
もし彼女の心が不安定な状態にあったとしたら、久々に抱いた希望が真の絶望へと転じた時、心が決定的に壊れてしまったのかもしれない。
個人的には、7年前にニーナが死んだ時に彼女と恋仲にあったキャシーの心も半分死に、ライアンに裏切られたことによって、二人はキャシーの中で完全に一体となって究極の選択をしたのだと思う。
それ故に「Promising Young Woman」は単数系なのだろう。
もちろんこれも謎多き物語の一つの解釈に過ぎず、本作は観方によって残酷な悲劇であり、シニカルな喜劇であり、ミステリアスなスリラーでもあり、そして切ない愛の物語ともなる。
ジャンルレスで極めて独創性の高い作品だが、ビビットな衣装と美術、キメキメのフレーミングに外連味たっぷりの音楽の使い方など、狙い過ぎて悪趣味になるギリギリのテリングは、どこかレフンを思わせる部分も。
ただし彼の作品の様なバイオレンス要素は皆無であり、ひたすら作劇の面白さ、物語のカタルシスを堪能できる作品だ。
とりあえずこれは啓蒙として、これから大学や専門学校に進学する若いのに、男女問わず見せとくべきだな。
7年間の悪夢を描く本作には、ビターなカクテル「ナイトメア・オブ・レッド」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、カンパリ30ml、パイナップル・ジュース30ml、オレンジ・ビターズ2dashを氷で満たしたグラスに注ぎ、ステアする。
ドライ・ジンの清涼感とパイナップルのすっきりした甘さと、カンパリとビターズの苦みのコラボレーション。
ビタービタースウィートな後味は、まさにこの映画の印象そのものだ。

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2021年07月14日 (水) | 編集 |
絶対に、救い出す。
「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」から2年。
コロナ禍による度重なる公開延期を乗り越えて、ついにMCUがスクリーンに帰ってきた。
フェイズ4の最初を飾るのは2010年の「アイアンマン2」で初登場した、ロシア出身の最強スパイ、ブラック・ウィドウことナターシャ・ロマノフが主人公の単体作品だ。
ナターシャ自身は「アベンジャーズ /エンドゲーム」で、サノスによって失われた全宇宙の50%の命を取り戻すため、自らを犠牲にしているので、本作は彼女がなぜあの決断に至ったのかを描く前日譚となっている。
今回は他のアベンジャーズメンバーは登場せず、完全に彼女だけの物語。
メガホンを取ったのは、「さよなら、アドルフ」などで知られる、オーストラリア出身のケイト・ショートランド。
ナターシャを演じるのは、もちろんスカーレット・ヨハンソン。
フローレンス・ピュー、レイチェル・ワイズ、デヴィッド・ハーバーらが脇を固める。
※核心部分に触れています。
スーパーヒーローを国連の管理下に置く、ソコヴィア議定書への対応を巡り、アベンジャーズ は二つに分裂。
議定書を拒否したキャプテン・アメリカは逃亡し、ホークアイは引退を表明。
ブラック・ウィドウことナターシャ・ロマノフ(スカーレット・ヨハンソン)は、一度は議定書に賛成したものの、当局の追跡を逃れノルウェーの奥地に身を隠した。
そんな彼女の前に、20年前に生き別れた“妹”エレーナ(フローレンス・ピュー)が姿をあらわす。
二人は90年代の少女時代に、アメリカで3年間偽装家族として共に暮らした仲。
エレーナは、自分たちを訓練したスパイ組織“レッドルーム”の支配者ドレイコフ(レイ・ウィンストン)が生きていると告げる。
ドレイコフは数年前にナターシャが暗殺したはずだったが、密かに生き延び、今も世界中で少女を拉致しては洗脳し、使い捨ての暗殺マシーン“ウィドウ”として利用していると言うのだ。
二人はドレイコフの所在を突き止めるために、かつての“両親”だったレッド・ガーディアンことアレクセイ(デヴィッド・ハーバー)とメリーナ(レイチェル・ワイズ)を訪ねるのだが・・・・
冒頭のロゴアニメーションで、早くもウルっとなった。
本当に久しぶりのMCU。
90年代のオハイオに端を発する物語はサスペンスフルに展開しつつ、ナターシャ・ロマノフの心の軌道を描き、「エンドゲーム 」というジクソーパズルの、空白だった最後のピースを埋めてゆく。
時系列的には「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」の直後で、「アベンジャーズ/インフィニティウォー」の少し前。
実の親の顔を知らず、スパイを養成する非情な組織に育てられ、任務に不要と子宮すら奪われて子供も持てない。
これは天涯孤独の暗殺者だったナターシャと、彼女の二つの“家族”に関する物語だ。
彼女にとって一つ目の家族”は、ソコヴィア議定書を巡り二つに割れたアベンジャーズ。
そして二つ目は、少女時代90年代に3年間を共に過ごしたスパイ組織の偽装家族。
例え偽りの家族だったとしても、それは彼女にとって初めてできた仮初の家。
ずっと自分の居場所を探してきた、ナターシャが求める原風景なのである。
そして本作では、自分を捨てたと思っていた実母が、奪われた娘を探し続けドレイコフに殺されていたことを知り、彼女の中で家族のイメージが決定的に変わる。
血縁でも、そうでなかったとしても、大切な人たちだと思えればそれが家族。
物語を通して、改めて現在の家族であるアベンジャーズを、このままにはしておけないという決意が固まってくるのだ。
ケイト・ショートランド監督の出世作となった「さよなら、アドルフ」の主人公は、ナチス幹部の家に生まれた14歳の軍国少女 ローレだ。
1945年の敗戦によって両親は拘束され、彼女は幼い幼い妹・弟たちを連れて、遠く離れた祖母の住む街を目指して旅に出る。
長く過酷な旅の途中で彼女が目にするのは、教えられていたことが全て嘘だった、愛する両親が恐るべき戦争犯罪の加担者だったという冷酷な現実。
ローレは、14歳にして童心を捨てざるを得なくなる。
偽りの世界に育った少女が、現実を知り世界に直面するという物語は、本作とも共通する。
また、前作の「ベルリン・シンドローム」では、旅行中のバックパッカーの女性 クレアが、一見温和で親切そうに見えながら、内面に凶悪な嗜虐性を秘めた男によって監禁される。
これもまた、残酷な男が若い女性たちの自由を奪っているという本作の設定に通じる。
今回ナターシャに課せられたミッションに目を移すと、本作が#MeTooムーブメントの流れを汲む作品なのは明らかだ。
悪のスパイ組織”レッドルーム”の支配者ドレイコフは、世界中から少女たちを拉致し、スパイの素質を持つ者だけを訓練し、あとは殺してしまう。
成長した少女たちは、化学的に洗脳されて意志を奪われ、命令をこなすだけの殺人マシーン“ウィドウ”として酷使され、不要となれば容赦なく殺される。
ドレイコフの邪悪さを象徴するのが、レッドルーム最強の“タスクマスター”だ。
タスクマスターの正体はドレイコフの実の娘(演じるのはオルガ・キュリレンコ!)で、ナターシャが彼を暗殺しようとした時、巻き添えとなり重傷を負い、対戦する相手の動きを完コピするサイボーグ兵士として再生される。
自分そっくりの動きをするタスクマスターは、ナターシャにとって言わば過去の罪そのものであり、彼女は何としてもレッドルームで人生を丸ごと搾取されている悲しき女性たちを、ドレイコフの魔の手から解放しなければならないのだ。
過去のMCUに登場したヴィランたちの中でも、ここまで徹底的な卑劣漢で、1ミリも同情出来ないキャラクターはいなかった。
神出鬼没なレッドルームを探し当て、ミッションを完遂するために結集するのが、かつての偽装家族。
頭脳派のニセ母メリーナと、「キャプテン・アメリカと死闘を繰り広げた
」らしい元ソ連の超人兵士レッド・ガーディアンことニセ父のアレクセイ。
そしてナターシャを過去の因縁に引き戻す、ニセ妹のエレーナ。
人間一緒に暮らせば情が移ると言うが、ニセモノだったはずの四人の家族が、それぞれのドレイコフへの恨みもあって徐々に結束するプロセスはコミカルなタッチ。
特にエレーナ役のフローレンス・ピューがすごく良くて、姉妹の掛け合いが女子会っぽくてむっちゃかわいい。
ブラックウィドウが登場する時の決めポーズをネタにするとこなんて、ちょいメタ的な面白さもあって爆笑した。
ナターシャはアベンジャーズとは言っても、超人的な特殊能力は持たないから、映画全体の作りもスパイ映画風。
全体のノリ的には「ミッション:インポッシブル」シリーズとか、陽性な時の「007」シリーズに近い。
実際、ジェームズ・ボンドへのオマージュ描写もある。
まあクライマックスの空中戦は、さすがに過去のMCU作品の積み重ねがあっての描写だと思うが、生身の人間としてのギリギリのリアリティラインを守りつつ、ダイナミックなアクションで十二分に魅せる。
そして罪を犯した分、誰かを助けることが、人生のファーストプライオリティという、クールビューティな仮面の奥に隠されたナターシャの行動原理の核心を垣間見て涙。
例によってエンドクレジットの後におまけの映像があり、原作通りにある人物がブラック・ウィドウの名を継承することが示唆される。
アメコミのヒーローは歌舞伎の名跡みたいなもので、どんどん受け継がれてゆくのが常なので、今後のMCUでもこの方式で代替わりしてゆくのだろう。
次の注目は、「ワカンダ・フォーエバー」だな。
ストーリーよし、キャラクターよし、アクションよし、三拍子揃った痛快な娯楽大作だ。
今回は、珍しく白いスーツのブラックウィドウが見られるので、「ホワイトレディ」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、ホワイト・キュラソー15ml、レモン・ジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
半透明のホワイトが美しい。
ホワイト・キュラソーとレモンの風味を、ジンの辛口な味わいが自然にまとめ上げる。
ナターシャのようなエレガントなカクテルだ。
ところで、コロナ禍の配信シフトを巡るディズニーと全興連との確執によって、本作は都心部で圧倒的な動員力を持つTOHOシネマズ とSMTでの上映がゼロ。
日本最大の興行街である新宿では、EJアニメシアターで1日一回しか上映されていなという異常事態となってしまった。
このままだと、日本では同時配信のディズニー作品が主要劇場にかからず、ディズニーも全興連も観客も、全員がlose-loseの状況が続くことになってしまう。
配信か劇場かという映画の形が変化しつつあることが背景にあるので、簡単にはいかないだろうが、ポストコロナの正常化の時代も近いことだし、なんとか手打ちしてもらいたいものだ。
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「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」から2年。
コロナ禍による度重なる公開延期を乗り越えて、ついにMCUがスクリーンに帰ってきた。
フェイズ4の最初を飾るのは2010年の「アイアンマン2」で初登場した、ロシア出身の最強スパイ、ブラック・ウィドウことナターシャ・ロマノフが主人公の単体作品だ。
ナターシャ自身は「アベンジャーズ /エンドゲーム」で、サノスによって失われた全宇宙の50%の命を取り戻すため、自らを犠牲にしているので、本作は彼女がなぜあの決断に至ったのかを描く前日譚となっている。
今回は他のアベンジャーズメンバーは登場せず、完全に彼女だけの物語。
メガホンを取ったのは、「さよなら、アドルフ」などで知られる、オーストラリア出身のケイト・ショートランド。
ナターシャを演じるのは、もちろんスカーレット・ヨハンソン。
フローレンス・ピュー、レイチェル・ワイズ、デヴィッド・ハーバーらが脇を固める。
※核心部分に触れています。
スーパーヒーローを国連の管理下に置く、ソコヴィア議定書への対応を巡り、アベンジャーズ は二つに分裂。
議定書を拒否したキャプテン・アメリカは逃亡し、ホークアイは引退を表明。
ブラック・ウィドウことナターシャ・ロマノフ(スカーレット・ヨハンソン)は、一度は議定書に賛成したものの、当局の追跡を逃れノルウェーの奥地に身を隠した。
そんな彼女の前に、20年前に生き別れた“妹”エレーナ(フローレンス・ピュー)が姿をあらわす。
二人は90年代の少女時代に、アメリカで3年間偽装家族として共に暮らした仲。
エレーナは、自分たちを訓練したスパイ組織“レッドルーム”の支配者ドレイコフ(レイ・ウィンストン)が生きていると告げる。
ドレイコフは数年前にナターシャが暗殺したはずだったが、密かに生き延び、今も世界中で少女を拉致しては洗脳し、使い捨ての暗殺マシーン“ウィドウ”として利用していると言うのだ。
二人はドレイコフの所在を突き止めるために、かつての“両親”だったレッド・ガーディアンことアレクセイ(デヴィッド・ハーバー)とメリーナ(レイチェル・ワイズ)を訪ねるのだが・・・・
冒頭のロゴアニメーションで、早くもウルっとなった。
本当に久しぶりのMCU。
90年代のオハイオに端を発する物語はサスペンスフルに展開しつつ、ナターシャ・ロマノフの心の軌道を描き、「エンドゲーム 」というジクソーパズルの、空白だった最後のピースを埋めてゆく。
時系列的には「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」の直後で、「アベンジャーズ/インフィニティウォー」の少し前。
実の親の顔を知らず、スパイを養成する非情な組織に育てられ、任務に不要と子宮すら奪われて子供も持てない。
これは天涯孤独の暗殺者だったナターシャと、彼女の二つの“家族”に関する物語だ。
彼女にとって一つ目の家族”は、ソコヴィア議定書を巡り二つに割れたアベンジャーズ。
そして二つ目は、少女時代90年代に3年間を共に過ごしたスパイ組織の偽装家族。
例え偽りの家族だったとしても、それは彼女にとって初めてできた仮初の家。
ずっと自分の居場所を探してきた、ナターシャが求める原風景なのである。
そして本作では、自分を捨てたと思っていた実母が、奪われた娘を探し続けドレイコフに殺されていたことを知り、彼女の中で家族のイメージが決定的に変わる。
血縁でも、そうでなかったとしても、大切な人たちだと思えればそれが家族。
物語を通して、改めて現在の家族であるアベンジャーズを、このままにはしておけないという決意が固まってくるのだ。
ケイト・ショートランド監督の出世作となった「さよなら、アドルフ」の主人公は、ナチス幹部の家に生まれた14歳の軍国少女 ローレだ。
1945年の敗戦によって両親は拘束され、彼女は幼い幼い妹・弟たちを連れて、遠く離れた祖母の住む街を目指して旅に出る。
長く過酷な旅の途中で彼女が目にするのは、教えられていたことが全て嘘だった、愛する両親が恐るべき戦争犯罪の加担者だったという冷酷な現実。
ローレは、14歳にして童心を捨てざるを得なくなる。
偽りの世界に育った少女が、現実を知り世界に直面するという物語は、本作とも共通する。
また、前作の「ベルリン・シンドローム」では、旅行中のバックパッカーの女性 クレアが、一見温和で親切そうに見えながら、内面に凶悪な嗜虐性を秘めた男によって監禁される。
これもまた、残酷な男が若い女性たちの自由を奪っているという本作の設定に通じる。
今回ナターシャに課せられたミッションに目を移すと、本作が#MeTooムーブメントの流れを汲む作品なのは明らかだ。
悪のスパイ組織”レッドルーム”の支配者ドレイコフは、世界中から少女たちを拉致し、スパイの素質を持つ者だけを訓練し、あとは殺してしまう。
成長した少女たちは、化学的に洗脳されて意志を奪われ、命令をこなすだけの殺人マシーン“ウィドウ”として酷使され、不要となれば容赦なく殺される。
ドレイコフの邪悪さを象徴するのが、レッドルーム最強の“タスクマスター”だ。
タスクマスターの正体はドレイコフの実の娘(演じるのはオルガ・キュリレンコ!)で、ナターシャが彼を暗殺しようとした時、巻き添えとなり重傷を負い、対戦する相手の動きを完コピするサイボーグ兵士として再生される。
自分そっくりの動きをするタスクマスターは、ナターシャにとって言わば過去の罪そのものであり、彼女は何としてもレッドルームで人生を丸ごと搾取されている悲しき女性たちを、ドレイコフの魔の手から解放しなければならないのだ。
過去のMCUに登場したヴィランたちの中でも、ここまで徹底的な卑劣漢で、1ミリも同情出来ないキャラクターはいなかった。
神出鬼没なレッドルームを探し当て、ミッションを完遂するために結集するのが、かつての偽装家族。
頭脳派のニセ母メリーナと、「キャプテン・アメリカと死闘を繰り広げた
」らしい元ソ連の超人兵士レッド・ガーディアンことニセ父のアレクセイ。
そしてナターシャを過去の因縁に引き戻す、ニセ妹のエレーナ。
人間一緒に暮らせば情が移ると言うが、ニセモノだったはずの四人の家族が、それぞれのドレイコフへの恨みもあって徐々に結束するプロセスはコミカルなタッチ。
特にエレーナ役のフローレンス・ピューがすごく良くて、姉妹の掛け合いが女子会っぽくてむっちゃかわいい。
ブラックウィドウが登場する時の決めポーズをネタにするとこなんて、ちょいメタ的な面白さもあって爆笑した。
ナターシャはアベンジャーズとは言っても、超人的な特殊能力は持たないから、映画全体の作りもスパイ映画風。
全体のノリ的には「ミッション:インポッシブル」シリーズとか、陽性な時の「007」シリーズに近い。
実際、ジェームズ・ボンドへのオマージュ描写もある。
まあクライマックスの空中戦は、さすがに過去のMCU作品の積み重ねがあっての描写だと思うが、生身の人間としてのギリギリのリアリティラインを守りつつ、ダイナミックなアクションで十二分に魅せる。
そして罪を犯した分、誰かを助けることが、人生のファーストプライオリティという、クールビューティな仮面の奥に隠されたナターシャの行動原理の核心を垣間見て涙。
例によってエンドクレジットの後におまけの映像があり、原作通りにある人物がブラック・ウィドウの名を継承することが示唆される。
アメコミのヒーローは歌舞伎の名跡みたいなもので、どんどん受け継がれてゆくのが常なので、今後のMCUでもこの方式で代替わりしてゆくのだろう。
次の注目は、「ワカンダ・フォーエバー」だな。
ストーリーよし、キャラクターよし、アクションよし、三拍子揃った痛快な娯楽大作だ。
今回は、珍しく白いスーツのブラックウィドウが見られるので、「ホワイトレディ」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、ホワイト・キュラソー15ml、レモン・ジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
半透明のホワイトが美しい。
ホワイト・キュラソーとレモンの風味を、ジンの辛口な味わいが自然にまとめ上げる。
ナターシャのようなエレガントなカクテルだ。
ところで、コロナ禍の配信シフトを巡るディズニーと全興連との確執によって、本作は都心部で圧倒的な動員力を持つTOHOシネマズ とSMTでの上映がゼロ。
日本最大の興行街である新宿では、EJアニメシアターで1日一回しか上映されていなという異常事態となってしまった。
このままだと、日本では同時配信のディズニー作品が主要劇場にかからず、ディズニーも全興連も観客も、全員がlose-loseの状況が続くことになってしまう。
配信か劇場かという映画の形が変化しつつあることが背景にあるので、簡単にはいかないだろうが、ポストコロナの正常化の時代も近いことだし、なんとか手打ちしてもらいたいものだ。

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2021年07月11日 (日) | 編集 |
未来のために戦う。
AmazonプライムのSFアクション大作。
2022年のある日、人類の前に突然未来からの使者が現れる。
そう遠くない未来、人類はエイリアンとの戦争に敗れ存亡の危機にあり、現代から未来へ援軍を送り、共に戦って欲しいと言う。
クリス・プラット演じる、イラク戦争の帰還兵ダン・フォレスターは、未来へと派兵される一人に選ばれ、未知の敵が跋扈する過酷な戦場へと足を踏み入れることになる。
名優J・K・シモンズやイヴォンヌ・ストラホフスキーらが脇を固め、監督は「レゴバットマン ザ・ムービー」のクリス・マッケイが務める。
本来なら昨年のクリスマス映画として封切られる予定だったのが、コロナ禍によって配信スルーとなってしまった一本。
つまりは、TV鑑賞が勿体ないガチのSF大作だ。
※核心部分に触れています。
2022年のワールドカップ・カタール大会決勝。
イラク戦争の帰還兵で生物教師のダン・フォレスター(クリス・プラット)が、自宅のパーティで試合を楽しんでいると、突如としてピッチの上にワームホールが出現。
現れた未来人たちは、世界に向かってこう告げる。
今から30年後、人類はホワイトスパイクと呼ばれる謎のエイリアンに侵略され、生存者は50万人まで激減し、滅亡寸前だと言うのだ。
反転攻勢への唯一の希望は、まだ十分な人口がいるこの時代から、未来への援軍を送ること。
たった30年先の運命を知らされた各国政府は、徴兵制による派兵を決定する。
未来への派兵期間は1週間だが、無事帰還できる可能性はわずか30%にすぎない。
たとえ派兵されなくても、自分が7年後に死ぬ運命だと知らされたダンは、まだ幼い娘の未来を救うため、再び戦いに身を投じることを決意する。
圧倒的な数のホワイトスパイクが跋扈する絶望的な戦場で、ダンは”大佐”と呼ばれるある女性と出会うのだが・・・
典型的な侵略SFのフォーマットに、時間SFの要素を掛け合わせることで、なかなかユニークな世界観が生まれた。
「レゴバットマン」の印象の強いクリス・マッケイ監督だから、てっきりコメディタッチなのかと思いきや、思いのほかシリアスだ。
過去からの援軍といっても、送られるのは精鋭の軍隊ではない。
徴兵されるのは、基本的に40歳以上の中高年の市民たち。
彼らは2051年の時点で、たとえ戦争に行かなくても死んでいる人たちで、タイムパラドクスを作り出さないために、未来の世界には影響を与えないことが徴兵の条件なのだ。
敵となるホワイトスパイクは、鋼のような硬質の体を持ち、弱点となるのは喉と腹だけ。
肉弾戦では絶対に勝てず、二本の触手からはデカイ針のような弾丸を放つので、通常の防弾チョッキも無意味だから、軍服もいらない。
つまりは弾薬をばら撒くような戦い方でしか殺せないので、銃さえ撃てれば素人でも良いという訳だ。
元軍人のダンは、イラク戦争で実戦経験があったため、右も左も分からない状況で、突然指揮官に指名され、バラバラの素人部隊を率いる羽目になる。
映画の前半は、無数のホワイトスパイクが支配する街からのスリリングな脱出劇。
街は航空部隊によって爆撃されることが決まっているので、まさに前門の狼後門の虎状態。
ホワイトスパイクから逃げながら、爆弾を避けなければならない。
そして、中盤になるとダンは皆から“大佐”と呼ばれているある女性と出会うのだが、ここからが物語の核心だ。
実は彼女こそ、ダンが2022年に残してきた愛娘のミューリ。
非常に頭の良かった彼女は、優れた科学者となり、ホワイトスパイクの研究を進めている。
アリのような真社会性を持つホワイトスパイクは、女王であるメスを殺すことができれば、その巣は丸ごと壊滅する。
ミューリはダンと共に、ホワイトスパイクの巣からメスを捕獲し、メスを殺すことの出来る毒物を精製しようとするのである。
だが、彼女は毒物を完成させることには成功したものの、時すでに遅し。
世界中に散らばったホワイトスパイクを殲滅させるほどの兵力は既になく、過去へ帰るダンに毒を託し、自らは犠牲となる。
2051年から過去へメッセンジャーを送った世界線では人類は滅亡し、あえてパラドックスを作り出すことで、もう一つの世界線に希望を託したのだ。
面白いのは、これが世代を超えた家族の確執の物語となっていること。
J・K・シモンズ演じるダンの父、ジェームズはベトナム帰還兵で、戦後PTSDを患い家族を捨てた。
家族愛の強いダンは、そんな父の心が理解できず、ずっと憎んできたのだ。
ところが大人になったミューリは、そんなダンが未来から帰還した後に、やはり家族を捨てたと言う。
その時はそんなはずはないと考えるダンだったが、目の前でミューリを亡くした今となっては、彼女が言ったことの意味が分かる。
未来でみすみす死なせてしまった娘の成長を、これから見守ることなどできるだろうか。
本作がアクションや時間のギミックだけでなく、人間ドラマとしても一定の魅力を放っているのが、この三世代にわたる不通によるすれ違いを、物語のバックボーンに仕込んでいるが故だ。
ダンが自分の人生を取り戻し、娘に新たな重荷を背負わせないためには、数十年後に起こる戦争に勝つのでは遅すぎ、戦争そのものを起こらなくするしかないのである。
序盤は「ターミネーター」的時間SF、次いで「スターシップ・トルーパーズ」「オール・ユー・ニード・イズ・キル」を思わせる、ホワイトスパイクの大群とのバトルアクション。
そしてダンがジレンマに陥る終盤は、世界観がガラッと変わり、そもそもホワイトスパイクは、いつどこから現れたのか?彼らは本当に宇宙から来たのか?というミステリをもとに、「遊星からの物体X」を思わせる雪と氷の世界のホラー的冒険譚だ。
事態のブレイクスルーのきっかけとなる火山オタクの少年、グッジョブ。
ああいうギークなキャラクターが鍵を握るのが、いかにもハリウッド映画っぽくていい。
本作のヒントになったであろう、過去の名作たちにオマージュを捧げつつ、疎遠だった父を巻き込み、人類の危機をミニマムな家族の危機へと収束させ、不通が解消されるドラマとして昇華する。
前半の怒涛の物量戦に比べると、現代に戻っての終盤の展開は若干のスケールダウンは感じさせるものの、物語としてキチッと落とすべきところに落としている。
まさかこの手の映画で、最後ちょっと泣かされるとは思ってもみなかった。
しかし、劇場のスクリーン映えしそうなスペクタクルな見せ場の数々を見ちゃうと、配信オンリーが勿体ない。
Amazonプライムとしては過去最大のヒットになっているらしく、米国では最初の4日間で241万世帯が視聴し、世界的にも記録的な視聴数を獲得したらしい。
でもやっぱ、この手の映画は大スクリーンで観たかったなあ。
今回は、エイリアンを殺す毒から「スゥイート・ポイズン」をチョイス。
ライト・ラム30ml、ココナッツ・ラム60ml、ブルー・キュラソーを氷と共にシェイクし、冷やしたグラスに注ぎ、適量のパイナップル・ジュースで満たす。
最後にパイナップルの切れ端を飾って完成。
ゴシック小説の世界をモチーフにした、ニューヨークの人気レストラン、“Jekyll and Hyde Club”で生まれたカクテル。
名前の通り結構毒々しいカラーだが、甘めでスッキリした飲みやすい一杯だ。
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AmazonプライムのSFアクション大作。
2022年のある日、人類の前に突然未来からの使者が現れる。
そう遠くない未来、人類はエイリアンとの戦争に敗れ存亡の危機にあり、現代から未来へ援軍を送り、共に戦って欲しいと言う。
クリス・プラット演じる、イラク戦争の帰還兵ダン・フォレスターは、未来へと派兵される一人に選ばれ、未知の敵が跋扈する過酷な戦場へと足を踏み入れることになる。
名優J・K・シモンズやイヴォンヌ・ストラホフスキーらが脇を固め、監督は「レゴバットマン ザ・ムービー」のクリス・マッケイが務める。
本来なら昨年のクリスマス映画として封切られる予定だったのが、コロナ禍によって配信スルーとなってしまった一本。
つまりは、TV鑑賞が勿体ないガチのSF大作だ。
※核心部分に触れています。
2022年のワールドカップ・カタール大会決勝。
イラク戦争の帰還兵で生物教師のダン・フォレスター(クリス・プラット)が、自宅のパーティで試合を楽しんでいると、突如としてピッチの上にワームホールが出現。
現れた未来人たちは、世界に向かってこう告げる。
今から30年後、人類はホワイトスパイクと呼ばれる謎のエイリアンに侵略され、生存者は50万人まで激減し、滅亡寸前だと言うのだ。
反転攻勢への唯一の希望は、まだ十分な人口がいるこの時代から、未来への援軍を送ること。
たった30年先の運命を知らされた各国政府は、徴兵制による派兵を決定する。
未来への派兵期間は1週間だが、無事帰還できる可能性はわずか30%にすぎない。
たとえ派兵されなくても、自分が7年後に死ぬ運命だと知らされたダンは、まだ幼い娘の未来を救うため、再び戦いに身を投じることを決意する。
圧倒的な数のホワイトスパイクが跋扈する絶望的な戦場で、ダンは”大佐”と呼ばれるある女性と出会うのだが・・・
典型的な侵略SFのフォーマットに、時間SFの要素を掛け合わせることで、なかなかユニークな世界観が生まれた。
「レゴバットマン」の印象の強いクリス・マッケイ監督だから、てっきりコメディタッチなのかと思いきや、思いのほかシリアスだ。
過去からの援軍といっても、送られるのは精鋭の軍隊ではない。
徴兵されるのは、基本的に40歳以上の中高年の市民たち。
彼らは2051年の時点で、たとえ戦争に行かなくても死んでいる人たちで、タイムパラドクスを作り出さないために、未来の世界には影響を与えないことが徴兵の条件なのだ。
敵となるホワイトスパイクは、鋼のような硬質の体を持ち、弱点となるのは喉と腹だけ。
肉弾戦では絶対に勝てず、二本の触手からはデカイ針のような弾丸を放つので、通常の防弾チョッキも無意味だから、軍服もいらない。
つまりは弾薬をばら撒くような戦い方でしか殺せないので、銃さえ撃てれば素人でも良いという訳だ。
元軍人のダンは、イラク戦争で実戦経験があったため、右も左も分からない状況で、突然指揮官に指名され、バラバラの素人部隊を率いる羽目になる。
映画の前半は、無数のホワイトスパイクが支配する街からのスリリングな脱出劇。
街は航空部隊によって爆撃されることが決まっているので、まさに前門の狼後門の虎状態。
ホワイトスパイクから逃げながら、爆弾を避けなければならない。
そして、中盤になるとダンは皆から“大佐”と呼ばれているある女性と出会うのだが、ここからが物語の核心だ。
実は彼女こそ、ダンが2022年に残してきた愛娘のミューリ。
非常に頭の良かった彼女は、優れた科学者となり、ホワイトスパイクの研究を進めている。
アリのような真社会性を持つホワイトスパイクは、女王であるメスを殺すことができれば、その巣は丸ごと壊滅する。
ミューリはダンと共に、ホワイトスパイクの巣からメスを捕獲し、メスを殺すことの出来る毒物を精製しようとするのである。
だが、彼女は毒物を完成させることには成功したものの、時すでに遅し。
世界中に散らばったホワイトスパイクを殲滅させるほどの兵力は既になく、過去へ帰るダンに毒を託し、自らは犠牲となる。
2051年から過去へメッセンジャーを送った世界線では人類は滅亡し、あえてパラドックスを作り出すことで、もう一つの世界線に希望を託したのだ。
面白いのは、これが世代を超えた家族の確執の物語となっていること。
J・K・シモンズ演じるダンの父、ジェームズはベトナム帰還兵で、戦後PTSDを患い家族を捨てた。
家族愛の強いダンは、そんな父の心が理解できず、ずっと憎んできたのだ。
ところが大人になったミューリは、そんなダンが未来から帰還した後に、やはり家族を捨てたと言う。
その時はそんなはずはないと考えるダンだったが、目の前でミューリを亡くした今となっては、彼女が言ったことの意味が分かる。
未来でみすみす死なせてしまった娘の成長を、これから見守ることなどできるだろうか。
本作がアクションや時間のギミックだけでなく、人間ドラマとしても一定の魅力を放っているのが、この三世代にわたる不通によるすれ違いを、物語のバックボーンに仕込んでいるが故だ。
ダンが自分の人生を取り戻し、娘に新たな重荷を背負わせないためには、数十年後に起こる戦争に勝つのでは遅すぎ、戦争そのものを起こらなくするしかないのである。
序盤は「ターミネーター」的時間SF、次いで「スターシップ・トルーパーズ」「オール・ユー・ニード・イズ・キル」を思わせる、ホワイトスパイクの大群とのバトルアクション。
そしてダンがジレンマに陥る終盤は、世界観がガラッと変わり、そもそもホワイトスパイクは、いつどこから現れたのか?彼らは本当に宇宙から来たのか?というミステリをもとに、「遊星からの物体X」を思わせる雪と氷の世界のホラー的冒険譚だ。
事態のブレイクスルーのきっかけとなる火山オタクの少年、グッジョブ。
ああいうギークなキャラクターが鍵を握るのが、いかにもハリウッド映画っぽくていい。
本作のヒントになったであろう、過去の名作たちにオマージュを捧げつつ、疎遠だった父を巻き込み、人類の危機をミニマムな家族の危機へと収束させ、不通が解消されるドラマとして昇華する。
前半の怒涛の物量戦に比べると、現代に戻っての終盤の展開は若干のスケールダウンは感じさせるものの、物語としてキチッと落とすべきところに落としている。
まさかこの手の映画で、最後ちょっと泣かされるとは思ってもみなかった。
しかし、劇場のスクリーン映えしそうなスペクタクルな見せ場の数々を見ちゃうと、配信オンリーが勿体ない。
Amazonプライムとしては過去最大のヒットになっているらしく、米国では最初の4日間で241万世帯が視聴し、世界的にも記録的な視聴数を獲得したらしい。
でもやっぱ、この手の映画は大スクリーンで観たかったなあ。
今回は、エイリアンを殺す毒から「スゥイート・ポイズン」をチョイス。
ライト・ラム30ml、ココナッツ・ラム60ml、ブルー・キュラソーを氷と共にシェイクし、冷やしたグラスに注ぎ、適量のパイナップル・ジュースで満たす。
最後にパイナップルの切れ端を飾って完成。
ゴシック小説の世界をモチーフにした、ニューヨークの人気レストラン、“Jekyll and Hyde Club”で生まれたカクテル。
名前の通り結構毒々しいカラーだが、甘めでスッキリした飲みやすい一杯だ。

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2021年07月07日 (水) | 編集 |
怪獣無双。
2014年の「GODZILLA ゴジラ」から始まった、レジェンダリー・ピクチャーズが仕掛ける、怪獣クロスオーバー企画“モンスターバース”のクライマックス。
人類には危害を加えないはずの怪獣王ゴジラが、突如としてフロリダを襲撃。
ゴジラに対抗するために、人類は地球の中心にある空洞から、未知のエネルギーを取り出そうとする。
そのために、元々祖先が空洞から現れたとされるキングコングを、水先案内として利用しようとするのだ。
「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」と「キングコング:髑髏島の巨神」、それぞれからの直接の続編であり、ゴジラ映画としては日米通算36作目、キングコングはこれが9作目。
日米を代表する両雄にとっては、1962年の「キングコング対ゴジラ」以来59年ぶりの共演となった。
監督は「サプライズ」やNetflix版「Death Note デスノート」のアダム・ヴィンガード。
出演はアレクサンダー・スカルスガルド、レベッカ・ホール、「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」から続投のミリー・ボビー・ブラウン、カイル・チャンドラーのほか、亡くなった芹沢博士の息子として小栗旬も登場。
なかなかに重厚なキャストが揃っているのだが、今回人間たちは完全に引き立て役だ。
※核心部分に触れています。
太平洋の髑髏島。
ここでは1976年以来、モナークによってコングの保護と観察が続けられていた。
アイリーン・アンドリュース博士(レベッカ・ホール)は、養女のジア(ケイリー・ホトル)と共に島に暮らし、コングとコミュニケーションを取る研究を続けている。
そんな時、再び現れたゴジラが、フロリダにあるエイペックス・サイバネティクス社の工場を襲う。
人間には敵対しないはずのゴジラの豹変に驚いたマディソン・ラッセル(ミリー・ボビー・ブラウン)は、エイペックス社に“潜入”して働いていると言う触れ込みの、ネット放送の配信者バーニー・ヘイズ(ブライアン・タイリー・ヘンリー)を探し当て、破壊された工場に忍び込む。
キングギドラの首のニューロンネットワークを利用し、密かに対ゴジラ決戦兵器の開発を進めているエイペックス社は、未知の巨大なエネルギーを伝説の地底空洞から取り出そうとしていた。
エイペックスの依頼を受けた地球空洞説の研究者、ネイサン・リンド博士(アレクサンダー・スカルスガルド)は、安全に空洞に到達するまで、空洞をルーツとするコングに水先案内人になってもらうおうと、アイリーンを説得。
南極にある入り口の洞窟まで、海路でコングを運ぶことになる。
しかし、ゴジラの活動領域を避けたはずが、突如として巨大な背鰭が船団に襲い掛かり、史上最大の怪獣同士の戦いがはじまってしまう・・・・・
いやー、まるで少年漫画のような圧倒的な熱量を持つ日米ライバル対決。
作られる前はゴジラとコングの大きすぎる体格差をどうするのかと思っていたら、「キングコング:髑髏島の巨神」の段階で31メートルだった若きコングは、半世紀の間に大きく成長して身長103メートルと120メートルのゴジラに肉薄。
放射能火炎という飛び道具を持つゴジラに対して、終盤ゴジラの背鰭でできた戦斧(バトルアックス)を持たせることで、だいぶ不利は解消している。
物語的には、太古の“神々”である怪獣を利用しようとする人間は、必ず報いを受けるという辺りは前作と同じ。
いやむしろ、人間ドラマはますます薄まっていて、ぶっちゃけ人間キャラクターは誰一人として印象に残らない。
エイペックスの陰謀とか、ゴジラを倒すために未知のエネルギーを探すとか、いろいろ設定はされているのだけど、全てはゴジラとコングを決戦のリングへと誘導するための装置に過ぎない。
それさえ果たせれば、あとはどうでもいいと言うスタンスは、本作の悪役にあたるエイペックス社の社長、社長の娘、あと対ゴジラ決戦兵器として登場する、メカゴジラの開発者にしてパイロットである芹沢蓮の最期が、揃ってテキトーなのにも見て取れる。
ちなみに日本ではメカゴジラの存在がひた隠しにされていたが、割と早々に出てくるし、物語上も特にサプライズな見せ方ではない。
要は、全てがクライマックスの両雄プラス1の対決に向かって収束してゆくのだが、これはこれでいいと思う。
最近、西武園ゆうえんちに新設されたアトラクション「ゴジラ・ザ・ライド」に乗ってきたのだが、実は本作の印象は限りなくこのライドに近い。
「ゴジラ・ザ・ライド」では、ゴジラとキングギドラの戦いに巻き込まれた人々が、パラシュートを使って飛行も可能な特殊装甲車で脱出するという設定。
これはおそらく「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」のクライマックス、四大怪獣が激突する中を人間たちが逃げ回るシチュエーションを、そのままライドにするというアイディアを具現化したものだろう。
そう考えると、本作に登場するエイペックスの地底探検船ヒーブは、まんま「ゴジラ・ザ・ライド」の特殊装甲車。
ゴジラとコング、そしてメカゴジラの戦いに、視点をなるべく近づけるための手段なのがよく分かる。
本作の持つベクトルは、まるでライドの様な臨場感あふれる、新たな感覚の怪獣映画を作りたいという点で一貫している。
第一作のギャレス・エドワーズのような生真面目さは無く、「キングコング:髑髏島の巨神」のジョーダン・ヴォート=ロバーツのような暗喩劇としても面白さも無く、「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」のマイケル・ドハティのような、東宝怪獣に対する暑苦しいくらいのリスペクトと愛も無い。
一応、コングがゴジラの口に木の棒(バトルアックス)を突っ込んで放射能火炎を止める、コングをヘリ(オリジナルは気球)で空輸するなど、「キングコング対ゴジラ」へのオマージュ描写はあるものの、割とあっさり。
「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」では、効果的に使われていた日本版音楽が全くかからないことからも、アダム・ヴィンガードはそれほどの怪獣オタクじゃ無いのだろう。
ジュール・ヴェルヌ的な地底空洞への冒険もライドとしての魅力を高めることに繋がっているが、空洞にゴジラのエネルギー源があるという設定によって、前作まではまだ微かに残っていた、核の惨禍によって生まれた怪獣という、ゴジラ本来のアイデンティティはますます希薄化した。
アイデンティティが揺らいでいるのは、ゴジラだけではない。
髑髏島の守護神であったコングは、実は地底空洞にルーツを持ち、手話で人間の言葉を話すほどの知的生物であることが明らかとなる。
また地底には古のコング族(?)のものと思われる巨大な遺跡が存在し、彼らの祖先が自分よりも強いゴジラと戦うために、ゴジラの背鰭で作ったと思しきバトルアックスまで残っていたので、これはもう怪獣というよりも、文字通りの”タイタン”先史文明の巨人であろう。
まあ怪獣同士で話すという描写は東宝ゴジラでもあるのだが、少なくとも彼らは人間と言語でコミュニケーションはしなかった。
世界観という点では、いろいろぶれている作品ではあるのだが、一方で本作をライドの延長線上だと割り切れば、これほど楽しい映画もない。
海上と香港の二回戦は、両雄の怪獣王としての誇りを賭けた魂の戦い。
そしてコング善戦もやはりゴジラには勝てないのか!と思わせておいて悪の真打メカゴジラ登場。
オリジナルよりもメカメカしい外観は、ゴジラとコング両方を相手にしても余裕の、いい感じの禍々しさ。
そして敵対からの共闘という、少年漫画でお馴染みの胸アツの展開。
パイロットがさっさと死んじゃって、暴走するエヴァンゲリオンのような破壊のための機械の神との、赤と青の熱線の空中戦に、どつき合いの肉弾戦。
二大怪獣に加えて、魂を持たない第三の怪獣も現れた三つ巴のクライマックスは、質量共に怒涛の勢いだ。
コングのバトルアックスであんなことができちゃうのは反則の気もするが、ゴジラが放射能火炎吐く時は背鰭が光るから、まあなんとなくジェネレーター的な機能があるんだろうなと理屈は通る。
一年以上続くコロナ禍によって、配信シフトが進んだ中で、本作が久々の大ヒットとなり、欧米の映画館の救世主となり得たのも、ライドはTVで観ても意味がないから。
映画本来の見せ物としての魅力を最大化し、少なくとも大スクリーン、できればIMAX、4DXと言った劇場ならではの鑑賞スタイルを追求したことが支持を受けたのだろう。
実際私は初日にIMAX3Dで鑑賞し、後に4DX3Dでおかわりしたのだが、むちゃくちゃ楽しかった。
たとえ家で楽に観られたとしても、相応しい作品があれば人々は劇場に来るのだということを、配信と劇場で迷うスタジオに示したことでも本作の持つ意味は大きい。
一時はこれで打ち切りの噂もあった、モンスターバースの継続が決定したのもまことに喜ばしい。
東宝とレジェンダリーとの契約は今回で一旦切れるので、次は噂どおり地底空洞を舞台にした、「Son of Kong」だろうか?
怪獣の頂上決戦を描く本作には、「KING OF BEER」のコピーでお馴染み、アンハイザー・ブッシュの看板銘柄の「バドワイザー」をチョイス。
1876年以来、140年の歴史を誇るアメリカン・ビールの代表格。
スポーツ観戦のお供の定番だが、その要因が水の様に薄くなかなか酔えないので、長時間の観戦にピッタリなこと。
熱血の怪獣プロレスの熱を覚ますのにもちょうどいい。
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2014年の「GODZILLA ゴジラ」から始まった、レジェンダリー・ピクチャーズが仕掛ける、怪獣クロスオーバー企画“モンスターバース”のクライマックス。
人類には危害を加えないはずの怪獣王ゴジラが、突如としてフロリダを襲撃。
ゴジラに対抗するために、人類は地球の中心にある空洞から、未知のエネルギーを取り出そうとする。
そのために、元々祖先が空洞から現れたとされるキングコングを、水先案内として利用しようとするのだ。
「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」と「キングコング:髑髏島の巨神」、それぞれからの直接の続編であり、ゴジラ映画としては日米通算36作目、キングコングはこれが9作目。
日米を代表する両雄にとっては、1962年の「キングコング対ゴジラ」以来59年ぶりの共演となった。
監督は「サプライズ」やNetflix版「Death Note デスノート」のアダム・ヴィンガード。
出演はアレクサンダー・スカルスガルド、レベッカ・ホール、「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」から続投のミリー・ボビー・ブラウン、カイル・チャンドラーのほか、亡くなった芹沢博士の息子として小栗旬も登場。
なかなかに重厚なキャストが揃っているのだが、今回人間たちは完全に引き立て役だ。
※核心部分に触れています。
太平洋の髑髏島。
ここでは1976年以来、モナークによってコングの保護と観察が続けられていた。
アイリーン・アンドリュース博士(レベッカ・ホール)は、養女のジア(ケイリー・ホトル)と共に島に暮らし、コングとコミュニケーションを取る研究を続けている。
そんな時、再び現れたゴジラが、フロリダにあるエイペックス・サイバネティクス社の工場を襲う。
人間には敵対しないはずのゴジラの豹変に驚いたマディソン・ラッセル(ミリー・ボビー・ブラウン)は、エイペックス社に“潜入”して働いていると言う触れ込みの、ネット放送の配信者バーニー・ヘイズ(ブライアン・タイリー・ヘンリー)を探し当て、破壊された工場に忍び込む。
キングギドラの首のニューロンネットワークを利用し、密かに対ゴジラ決戦兵器の開発を進めているエイペックス社は、未知の巨大なエネルギーを伝説の地底空洞から取り出そうとしていた。
エイペックスの依頼を受けた地球空洞説の研究者、ネイサン・リンド博士(アレクサンダー・スカルスガルド)は、安全に空洞に到達するまで、空洞をルーツとするコングに水先案内人になってもらうおうと、アイリーンを説得。
南極にある入り口の洞窟まで、海路でコングを運ぶことになる。
しかし、ゴジラの活動領域を避けたはずが、突如として巨大な背鰭が船団に襲い掛かり、史上最大の怪獣同士の戦いがはじまってしまう・・・・・
いやー、まるで少年漫画のような圧倒的な熱量を持つ日米ライバル対決。
作られる前はゴジラとコングの大きすぎる体格差をどうするのかと思っていたら、「キングコング:髑髏島の巨神」の段階で31メートルだった若きコングは、半世紀の間に大きく成長して身長103メートルと120メートルのゴジラに肉薄。
放射能火炎という飛び道具を持つゴジラに対して、終盤ゴジラの背鰭でできた戦斧(バトルアックス)を持たせることで、だいぶ不利は解消している。
物語的には、太古の“神々”である怪獣を利用しようとする人間は、必ず報いを受けるという辺りは前作と同じ。
いやむしろ、人間ドラマはますます薄まっていて、ぶっちゃけ人間キャラクターは誰一人として印象に残らない。
エイペックスの陰謀とか、ゴジラを倒すために未知のエネルギーを探すとか、いろいろ設定はされているのだけど、全てはゴジラとコングを決戦のリングへと誘導するための装置に過ぎない。
それさえ果たせれば、あとはどうでもいいと言うスタンスは、本作の悪役にあたるエイペックス社の社長、社長の娘、あと対ゴジラ決戦兵器として登場する、メカゴジラの開発者にしてパイロットである芹沢蓮の最期が、揃ってテキトーなのにも見て取れる。
ちなみに日本ではメカゴジラの存在がひた隠しにされていたが、割と早々に出てくるし、物語上も特にサプライズな見せ方ではない。
要は、全てがクライマックスの両雄プラス1の対決に向かって収束してゆくのだが、これはこれでいいと思う。
最近、西武園ゆうえんちに新設されたアトラクション「ゴジラ・ザ・ライド」に乗ってきたのだが、実は本作の印象は限りなくこのライドに近い。
「ゴジラ・ザ・ライド」では、ゴジラとキングギドラの戦いに巻き込まれた人々が、パラシュートを使って飛行も可能な特殊装甲車で脱出するという設定。
これはおそらく「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」のクライマックス、四大怪獣が激突する中を人間たちが逃げ回るシチュエーションを、そのままライドにするというアイディアを具現化したものだろう。
そう考えると、本作に登場するエイペックスの地底探検船ヒーブは、まんま「ゴジラ・ザ・ライド」の特殊装甲車。
ゴジラとコング、そしてメカゴジラの戦いに、視点をなるべく近づけるための手段なのがよく分かる。
本作の持つベクトルは、まるでライドの様な臨場感あふれる、新たな感覚の怪獣映画を作りたいという点で一貫している。
第一作のギャレス・エドワーズのような生真面目さは無く、「キングコング:髑髏島の巨神」のジョーダン・ヴォート=ロバーツのような暗喩劇としても面白さも無く、「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」のマイケル・ドハティのような、東宝怪獣に対する暑苦しいくらいのリスペクトと愛も無い。
一応、コングがゴジラの口に木の棒(バトルアックス)を突っ込んで放射能火炎を止める、コングをヘリ(オリジナルは気球)で空輸するなど、「キングコング対ゴジラ」へのオマージュ描写はあるものの、割とあっさり。
「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」では、効果的に使われていた日本版音楽が全くかからないことからも、アダム・ヴィンガードはそれほどの怪獣オタクじゃ無いのだろう。
ジュール・ヴェルヌ的な地底空洞への冒険もライドとしての魅力を高めることに繋がっているが、空洞にゴジラのエネルギー源があるという設定によって、前作まではまだ微かに残っていた、核の惨禍によって生まれた怪獣という、ゴジラ本来のアイデンティティはますます希薄化した。
アイデンティティが揺らいでいるのは、ゴジラだけではない。
髑髏島の守護神であったコングは、実は地底空洞にルーツを持ち、手話で人間の言葉を話すほどの知的生物であることが明らかとなる。
また地底には古のコング族(?)のものと思われる巨大な遺跡が存在し、彼らの祖先が自分よりも強いゴジラと戦うために、ゴジラの背鰭で作ったと思しきバトルアックスまで残っていたので、これはもう怪獣というよりも、文字通りの”タイタン”先史文明の巨人であろう。
まあ怪獣同士で話すという描写は東宝ゴジラでもあるのだが、少なくとも彼らは人間と言語でコミュニケーションはしなかった。
世界観という点では、いろいろぶれている作品ではあるのだが、一方で本作をライドの延長線上だと割り切れば、これほど楽しい映画もない。
海上と香港の二回戦は、両雄の怪獣王としての誇りを賭けた魂の戦い。
そしてコング善戦もやはりゴジラには勝てないのか!と思わせておいて悪の真打メカゴジラ登場。
オリジナルよりもメカメカしい外観は、ゴジラとコング両方を相手にしても余裕の、いい感じの禍々しさ。
そして敵対からの共闘という、少年漫画でお馴染みの胸アツの展開。
パイロットがさっさと死んじゃって、暴走するエヴァンゲリオンのような破壊のための機械の神との、赤と青の熱線の空中戦に、どつき合いの肉弾戦。
二大怪獣に加えて、魂を持たない第三の怪獣も現れた三つ巴のクライマックスは、質量共に怒涛の勢いだ。
コングのバトルアックスであんなことができちゃうのは反則の気もするが、ゴジラが放射能火炎吐く時は背鰭が光るから、まあなんとなくジェネレーター的な機能があるんだろうなと理屈は通る。
一年以上続くコロナ禍によって、配信シフトが進んだ中で、本作が久々の大ヒットとなり、欧米の映画館の救世主となり得たのも、ライドはTVで観ても意味がないから。
映画本来の見せ物としての魅力を最大化し、少なくとも大スクリーン、できればIMAX、4DXと言った劇場ならではの鑑賞スタイルを追求したことが支持を受けたのだろう。
実際私は初日にIMAX3Dで鑑賞し、後に4DX3Dでおかわりしたのだが、むちゃくちゃ楽しかった。
たとえ家で楽に観られたとしても、相応しい作品があれば人々は劇場に来るのだということを、配信と劇場で迷うスタジオに示したことでも本作の持つ意味は大きい。
一時はこれで打ち切りの噂もあった、モンスターバースの継続が決定したのもまことに喜ばしい。
東宝とレジェンダリーとの契約は今回で一旦切れるので、次は噂どおり地底空洞を舞台にした、「Son of Kong」だろうか?
怪獣の頂上決戦を描く本作には、「KING OF BEER」のコピーでお馴染み、アンハイザー・ブッシュの看板銘柄の「バドワイザー」をチョイス。
1876年以来、140年の歴史を誇るアメリカン・ビールの代表格。
スポーツ観戦のお供の定番だが、その要因が水の様に薄くなかなか酔えないので、長時間の観戦にピッタリなこと。
熱血の怪獣プロレスの熱を覚ますのにもちょうどいい。

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2021年07月05日 (月) | 編集 |
メイド喫茶×津軽三味線⁉︎
これは気持ちの良い映画。
横浜聡子監督の久しぶりの新作映画は、駒井蓮が好演する津軽の女子高校生“いと”の成長物語。
津軽訛りが強く、内気で友だちもいない彼女は、東京出身で民俗学者のお父ちゃんと、三味線の名手だった亡き母方のばあちゃんと、弘前市郊外の板柳に三人暮らし。
いとの唯一の特技は、一族に受け継がれてきた津軽三味線だが、演奏している時の表情や格好がコンプレックスで、最近はあまり弾いていない。
そんな彼女が、かわいい制服に憧れて、青森市内の小さなメイド喫茶でバイトを始めたことから、物語が動き出す。
原作は越谷オサムの同名小説。
ちなみにタイトルであり、主人公の名前の由来となっている「いとみち」とは、三味線の奏者の爪にできる溝、糸の通り道のことなんだとか。
なんだか雅だ。
メイド喫茶と津軽三味線という、本来ならまず結びつかない別次元の物を組み合わせた結果、未見性のあるユニークな青春映画が生まれた。
メイド喫茶の同僚は、自称永遠の22歳のシングルマザーに、東京進出を計画中の漫画家の卵。
それにIターン組で、コーヒーをこよなく愛する店長。
メイド喫茶は、いとにとって家の外に初めて見つけた、自分の居場所。
同時に、それぞれに生き辛さを抱えた同僚たちにとっても、ありのままの自分を受け入れてくれる大切な場所だ。
だがある事件によって、そこが奪われそうになった時、彼女は自分のアイデンティティとも言える津軽三味線に活路を見出す。
洋楽器のような明確な楽譜がなく、基本耳コピで伝承されてきたものだから、奏者によって奏でる音にも色がある。
ばあちゃんにはばあちゃんの、亡きお母ちゃんにはお母ちゃんの、いとにはいとにしか出せない音の色。
冒頭の高校の授業で、青森が何度も飢餓に苦しめられてきた歴史が紹介され、中盤では戦時中に市街の9割を焼き尽くし、多くの犠牲者を出した青森空襲の記憶も語られる。
もともと寒冷で、世界有数の豪雪地帯。
決してイージーな土地ではない、津軽で生まれて弾き継がれてきた三味線は、言わばこの土地に暮らす人々の魂の音色だ。
クライマックスのメイド喫茶でのライブで、ついに自分を解放したいとのパフォーマンスは、実にカッコいいのである。
理解ある親を演じてるくせに、メイド喫茶に偏見を持つ豊川悦司のお父ちゃんとの確執や、クラスで初めてできた“親友”とのサブストーリーも、いい感じに絡んでくる。
映画の始まりの時点でごく小さかった彼女の世界は、多くの人と関わり、新しい経験を積んだことで大きく広がった。
物語を通して、16歳のいとは確実に成長するが、まだ何者にもならない。
メイド喫茶だって、この先どうなるかは分からない。
ただ、可能性だけが広がっているのだ。
いとは標準語が苦手で津軽弁しか喋れない設定なので、台詞の1/3くらいは何言ってるのかさっぱり分からないけど、ニュアンスは伝わるので無問題。
しかし、これ演技でやるって駒井蓮スゲーなと思ったら、実は彼女は津軽出身のネイティブスピーカーらしい。
いや三味線のパフォーマンスも含めて、十分に素晴らしいんだけど。
横浜聡子監督と、メイド喫茶の怪しげなオーナーを演じる小坂大魔王も青森の生まれ。
作り手の郷土愛はいっぱい詰まっているが、ありがちなご当地映画と違うのは、方言も三味線もごく普通の日常の中にある物というスタンス。
一本芯の通った、パワフルな青春ストーリーだ。
今回は青森市の西田酒造店の「田酒 純米酒 古城錦70」をチョイス。
その名の通り、田んぼの米だけを使う純米酒にこだわりを持つ蔵。
古城錦70は、一時は廃れた青森産酒米の古城錦を復活させて作られ、とても美味。
フルーティーなお米の甘味と、スーッと広がる旨み。
軽快で雑味のない、爽やかな純米酒。
これからの季節は、冷でいただきたい。
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これは気持ちの良い映画。
横浜聡子監督の久しぶりの新作映画は、駒井蓮が好演する津軽の女子高校生“いと”の成長物語。
津軽訛りが強く、内気で友だちもいない彼女は、東京出身で民俗学者のお父ちゃんと、三味線の名手だった亡き母方のばあちゃんと、弘前市郊外の板柳に三人暮らし。
いとの唯一の特技は、一族に受け継がれてきた津軽三味線だが、演奏している時の表情や格好がコンプレックスで、最近はあまり弾いていない。
そんな彼女が、かわいい制服に憧れて、青森市内の小さなメイド喫茶でバイトを始めたことから、物語が動き出す。
原作は越谷オサムの同名小説。
ちなみにタイトルであり、主人公の名前の由来となっている「いとみち」とは、三味線の奏者の爪にできる溝、糸の通り道のことなんだとか。
なんだか雅だ。
メイド喫茶と津軽三味線という、本来ならまず結びつかない別次元の物を組み合わせた結果、未見性のあるユニークな青春映画が生まれた。
メイド喫茶の同僚は、自称永遠の22歳のシングルマザーに、東京進出を計画中の漫画家の卵。
それにIターン組で、コーヒーをこよなく愛する店長。
メイド喫茶は、いとにとって家の外に初めて見つけた、自分の居場所。
同時に、それぞれに生き辛さを抱えた同僚たちにとっても、ありのままの自分を受け入れてくれる大切な場所だ。
だがある事件によって、そこが奪われそうになった時、彼女は自分のアイデンティティとも言える津軽三味線に活路を見出す。
洋楽器のような明確な楽譜がなく、基本耳コピで伝承されてきたものだから、奏者によって奏でる音にも色がある。
ばあちゃんにはばあちゃんの、亡きお母ちゃんにはお母ちゃんの、いとにはいとにしか出せない音の色。
冒頭の高校の授業で、青森が何度も飢餓に苦しめられてきた歴史が紹介され、中盤では戦時中に市街の9割を焼き尽くし、多くの犠牲者を出した青森空襲の記憶も語られる。
もともと寒冷で、世界有数の豪雪地帯。
決してイージーな土地ではない、津軽で生まれて弾き継がれてきた三味線は、言わばこの土地に暮らす人々の魂の音色だ。
クライマックスのメイド喫茶でのライブで、ついに自分を解放したいとのパフォーマンスは、実にカッコいいのである。
理解ある親を演じてるくせに、メイド喫茶に偏見を持つ豊川悦司のお父ちゃんとの確執や、クラスで初めてできた“親友”とのサブストーリーも、いい感じに絡んでくる。
映画の始まりの時点でごく小さかった彼女の世界は、多くの人と関わり、新しい経験を積んだことで大きく広がった。
物語を通して、16歳のいとは確実に成長するが、まだ何者にもならない。
メイド喫茶だって、この先どうなるかは分からない。
ただ、可能性だけが広がっているのだ。
いとは標準語が苦手で津軽弁しか喋れない設定なので、台詞の1/3くらいは何言ってるのかさっぱり分からないけど、ニュアンスは伝わるので無問題。
しかし、これ演技でやるって駒井蓮スゲーなと思ったら、実は彼女は津軽出身のネイティブスピーカーらしい。
いや三味線のパフォーマンスも含めて、十分に素晴らしいんだけど。
横浜聡子監督と、メイド喫茶の怪しげなオーナーを演じる小坂大魔王も青森の生まれ。
作り手の郷土愛はいっぱい詰まっているが、ありがちなご当地映画と違うのは、方言も三味線もごく普通の日常の中にある物というスタンス。
一本芯の通った、パワフルな青春ストーリーだ。
今回は青森市の西田酒造店の「田酒 純米酒 古城錦70」をチョイス。
その名の通り、田んぼの米だけを使う純米酒にこだわりを持つ蔵。
古城錦70は、一時は廃れた青森産酒米の古城錦を復活させて作られ、とても美味。
フルーティーなお米の甘味と、スーッと広がる旨み。
軽快で雑味のない、爽やかな純米酒。
これからの季節は、冷でいただきたい。

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2021年07月03日 (土) | 編集 |
ワンテンポのすれ違い。
台湾のチェン・ユーシュン監督による、素敵にファンタジックなラブストーリー。
郵便局に勤めるシャオチーは、なんでもワンテンポ早いアラサー女性。
子供の頃から競争すればフライング、ダンスも一人だけ先走り、記念写真を撮るとシャッターのタイミングで必ず目を閉じてしまう。
人生の全てが他人とズレてしまい、アラサーとなった今も、パッとしない毎日を過ごしている。
しかし、たまたま出会ったイケメンマッチョと、七夕のバレンタインにデートするはずが、なぜか目を覚ますとその翌日。
肝心の1日が消えちゃった。
ちょっとややこしいが、台湾では旧暦の七夕=情人節=バレンタインデーなんだな。
冬のバレンタインデーよりも、むしろこっちのサマーバレンタインの方が盛り上げるとか。
※核心部分に触れています。
一体、晴れの日のシャオチーに、何が起こったのか?
全く記憶がないのだが、体は砂だらけで真っ赤に日焼けしている。
街の写真館には、自分がどこかの海岸でポーズを撮っている写真が飾られている。
彼女は、消えた1日に何があったのか、答えを探し始める。
不思議現象を紐解くキーパーソンが、シャオチーとは逆に全てのテンポが遅い、バスの運転手のグアタイ。
人生の時間は早過ぎてもダメ、遅過ぎてもダメで、彼もまた満たされない人生を送っている。
実は二人の間には、せっかちな彼女がすっかり忘れてしまった過去の因縁がある。
シャオチーが初恋の人であるグアタイは、偶然彼女と再会すると、報われないと知りつつも人知れず見守っているんだな。
面白いのは、恋のすれ違いを生きている時間の違いで表したこと。
1秒早い、1秒遅い、そのままでは永遠に交わらない間の悪い二人に、七夕に浮かれた牽牛と織姫が奇跡のお裾分け。
映画の前半はシャオチーの視点で描かれ、消えた1日の謎を探っているうちに、記憶の彼方に忘れられた大切な思い出にたどり着く。
彼女にとって重要なヒントをくれるのがヤモリの精霊(?)なのが面白い。
家を守ってくれるのは日本と同じでも、「家の見回りをして、人間が失くした物を拾って管理している」というのは台湾オリジナルの伝承なんだろうか。
そして、映画の後半は同じ時系列をグアタイの視点で描き、グアタイが本当はいつシャオチーに気付いたのか、七夕の日に何が起こったのかのネタばらし編。
消えた1日の謎は、まさかこう来るとは思わなかったよ。
文字通りに「時は金なり」に例えているのだが、せっかちに人生を生き急いでいる人にとっては、時間を前借りしているようなもので、逆に全てが遅い人には時間の利息が溜まっているというのは、なんとなく納得だ。
20年分の利息が引き出されたのが、七夕の日の奇跡という訳だろう。
シャオチーの失踪したお父さんの話が、ここで生きてくるとは。
手紙に貯金と象徴的なモチーフになるものが、彼女の職場である郵便局絡みなのもセンス良い。
主人公カップルを演じた、リー・ペイユーとリウ・グアンティンが素敵。
リー・ペイユーは俳優としてだけでなく、テレビの司会やタレントとしても有名な才人なんだとか。
ずっと初恋を貫いてきたグアタイはちょいストーカー入ってるが、「このままじゃ変態になっちゃう」自覚があるからギリセーフ(笑
いつだって、初恋を巡る物語は尊いのだ。
不器用な人生を送っている人たちのための、時間と記憶に関するほっこりするファンタジー。
ライトなテイストの作品に合わせ、台湾啤酒の作るフルーツビール「マンゴービール」をチョイス。
ベースとなった金牌台灣啤酒が軽めのラガービールなので、こちらはビール風味のフルーツカクテルと言う感じ。
ジュース感覚で飲めるから、ビールが苦手な人でも大丈夫だろう。
台湾では各銘柄がパインやライチなど、多種多様なフレーバーのビールを作っていて、南国気分で楽しめる。
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台湾のチェン・ユーシュン監督による、素敵にファンタジックなラブストーリー。
郵便局に勤めるシャオチーは、なんでもワンテンポ早いアラサー女性。
子供の頃から競争すればフライング、ダンスも一人だけ先走り、記念写真を撮るとシャッターのタイミングで必ず目を閉じてしまう。
人生の全てが他人とズレてしまい、アラサーとなった今も、パッとしない毎日を過ごしている。
しかし、たまたま出会ったイケメンマッチョと、七夕のバレンタインにデートするはずが、なぜか目を覚ますとその翌日。
肝心の1日が消えちゃった。
ちょっとややこしいが、台湾では旧暦の七夕=情人節=バレンタインデーなんだな。
冬のバレンタインデーよりも、むしろこっちのサマーバレンタインの方が盛り上げるとか。
※核心部分に触れています。
一体、晴れの日のシャオチーに、何が起こったのか?
全く記憶がないのだが、体は砂だらけで真っ赤に日焼けしている。
街の写真館には、自分がどこかの海岸でポーズを撮っている写真が飾られている。
彼女は、消えた1日に何があったのか、答えを探し始める。
不思議現象を紐解くキーパーソンが、シャオチーとは逆に全てのテンポが遅い、バスの運転手のグアタイ。
人生の時間は早過ぎてもダメ、遅過ぎてもダメで、彼もまた満たされない人生を送っている。
実は二人の間には、せっかちな彼女がすっかり忘れてしまった過去の因縁がある。
シャオチーが初恋の人であるグアタイは、偶然彼女と再会すると、報われないと知りつつも人知れず見守っているんだな。
面白いのは、恋のすれ違いを生きている時間の違いで表したこと。
1秒早い、1秒遅い、そのままでは永遠に交わらない間の悪い二人に、七夕に浮かれた牽牛と織姫が奇跡のお裾分け。
映画の前半はシャオチーの視点で描かれ、消えた1日の謎を探っているうちに、記憶の彼方に忘れられた大切な思い出にたどり着く。
彼女にとって重要なヒントをくれるのがヤモリの精霊(?)なのが面白い。
家を守ってくれるのは日本と同じでも、「家の見回りをして、人間が失くした物を拾って管理している」というのは台湾オリジナルの伝承なんだろうか。
そして、映画の後半は同じ時系列をグアタイの視点で描き、グアタイが本当はいつシャオチーに気付いたのか、七夕の日に何が起こったのかのネタばらし編。
消えた1日の謎は、まさかこう来るとは思わなかったよ。
文字通りに「時は金なり」に例えているのだが、せっかちに人生を生き急いでいる人にとっては、時間を前借りしているようなもので、逆に全てが遅い人には時間の利息が溜まっているというのは、なんとなく納得だ。
20年分の利息が引き出されたのが、七夕の日の奇跡という訳だろう。
シャオチーの失踪したお父さんの話が、ここで生きてくるとは。
手紙に貯金と象徴的なモチーフになるものが、彼女の職場である郵便局絡みなのもセンス良い。
主人公カップルを演じた、リー・ペイユーとリウ・グアンティンが素敵。
リー・ペイユーは俳優としてだけでなく、テレビの司会やタレントとしても有名な才人なんだとか。
ずっと初恋を貫いてきたグアタイはちょいストーカー入ってるが、「このままじゃ変態になっちゃう」自覚があるからギリセーフ(笑
いつだって、初恋を巡る物語は尊いのだ。
不器用な人生を送っている人たちのための、時間と記憶に関するほっこりするファンタジー。
ライトなテイストの作品に合わせ、台湾啤酒の作るフルーツビール「マンゴービール」をチョイス。
ベースとなった金牌台灣啤酒が軽めのラガービールなので、こちらはビール風味のフルーツカクテルと言う感じ。
ジュース感覚で飲めるから、ビールが苦手な人でも大丈夫だろう。
台湾では各銘柄がパインやライチなど、多種多様なフレーバーのビールを作っていて、南国気分で楽しめる。

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2021年07月01日 (木) | 編集 |
バック・トゥ・ザ・パスト。
期待通りによく出来ていて、非常に面白かった。
巨匠ロバート・A・ハインラインが、1956年に発表した時間SFの古典中の古典、「夏への扉」を山崎賢人主演で実写映画化した作品。
日本でも長年に渡って愛され、特に福島正実訳のハヤカワ文庫版は、キーパーソン(?)となるネコのピートことペトロニウスの後ろ姿を描いた、中西信行の印象的な表紙イラストも相まって人気が高い。
世界中に多くのフォロワーを生んだ名作だが、意外にも長編映画化されるのはこれが初めてだと言う。
原作小説を「浅田家!」の菅野友恵が脚色し、三木孝浩が監督を務める。
主人公のダン改め高倉宗一郎を山崎賢人、ヒロインのリッキイに当たる松下璃子を清原果耶が演じる。
1995年の東京。
ロボット工学者として活躍する高倉宗一郎(山崎賢人)は、愛猫のピート(ペトロニウス)と一人と一匹暮らし。
開発している新型ロボットがマスコミに注目され、ちょっとした時の人となっている。
尊敬する科学者だった亡き父の想いを受け継いだ新技術、プラズマ蓄電池の開発も大詰め。
共に早くに両親を亡くした幼なじみの璃子(清原果耶)が、毎日のようにやって来て、世話を焼いてくれているが、彼女はもうすぐ寄宿制の学校に入るために引っ越しが決まっている。
そんな時、宗一郎は信頼していたビジネスパートナーの松下和人(眞島秀和)と恋人の白石鈴(夏菜)に裏切られ、全てを失った上に、コールドスリープ装置に入れられてしまう。
宗一郎が目覚めたのは30年後、2025年の東京だった。
自分が眠っている間に、璃子が死んでいたことを知った宗一郎は、ケアロボットのピート(藤木直人)の助けを借り過去に何があったのか調べ始めるのだが、自分と同姓同名の人物が、30年前の同じ時期に暗躍していたことを知る。
ある仮説を思いついた宗一郎は、鍵を握る物理学者の遠井博士(田口トモロヲ)を尋ねるのだが・・・・
小説の1970年と2000年のロサンゼルスという舞台設定は、1995年と2025年の東京に移されているが、元々定評のあるストーリーだけに、基本プロットは原作に非常に忠実。
もちろん70年近く前の異国の小説だけに、細かいところは色々変わっているものの、大枠はほとんどそのままだ。
プロット上の最大の違いは、未来の世界の案内役として、藤木直人演じるなぜかネコと同じピートという名前のヒューマノイドロボットが出てくること。
このロボットと主人公の宗一郎にバディを組ませたのは、いいアイデアだった。
回路に問題があるらしく、時にはっちゃけた言動をするピートを狂言回し的に活用することで、ボリュームのある物語を効率的に前に進めることが出来ている。
小説のサットン夫妻に当たる、佐藤夫妻と出会うあたりに若干の駆け足感は残るが、十分に許容範囲内。
文学を映像化する時に問題となるリアリティラインの差も、脚色で丁寧に潰されている。
小説のダンの行動は、けっこう行き当たりばったり感があるのだが、映画ではそれぞれのシチュエーションの“動機”を描写することで、さほど気にならないレベルに補正。
まあその分、若干説明的な要素が増えてしまっているが、これは致し方あるまい。
またリッキイの描写は小説の段階で明らかに不足していて、疎遠だった彼女が最終的にコールドスリープしてまで、なぜ恋人としてずっと年上のダンを選ぶのかイマイチよく分からなかった。
これも共に両親を亡くした悲しみの中、二人が支え合って生きてきた設定を加えて関係性を強化し、さらに小説では彼女が21歳でコールドスリープする部分を、宗一郎と同じ27歳に変更。
眠りにつくまでに、璃子もロボット工学者として十分なキャリアを積む設定にモダナイズされている。
この辺りは、原作のままだと現在では主人公が光源氏みたいなロリコンオヤジと思われてしまうので、必然の改変だろう。
登場の時点から、璃子が宗一郎に抱いている恋心は自然に表現されていて、数多くの青春恋愛映画を作ってきた三木孝浩監督の面目躍如。
時空を超えたラブストーリーとしての説得力は、原作よりもむしろ強まっている。
ところで、小説の“現在”である1970年は、ハインラインが執筆した50年代から見たら近未来だが、映画の“現在”となる1995年は、2021年の今から見たら過去である。
むしろ映画の“未来”である、2025年の方が近い。
映画に描かれる1995年はほとんど現実と変わらないが、コールドスリープ技術が実用化されている、ほんの少しだけズレた世界だ。
実際には2025年になっても、あんな完璧なヒューマノイドロボットが完成しているとは思えず、いっそ小説と同じく2025年の近未来を“現在”に、2055年を“未来”にした方がしっくりくるようにも思うが、あえて過去を起点としたことは、どんな意味があるのだろうか。
おそらくこれは、“明るい未来観”を保つためだろうと思う。
もちろん例外はあるが、原作が書かれた50年代には未来は明るいものだった。
だが、80年代頃から環境問題などがクローズアップされ、徐々に人類は能天気な希望にあふれた未来に疑念を抱くようになる。
またテクノロジーの発達により、不確定要素が多くなりすぎて、未来を予測すること自体が難しくなってきた。
100年、200年先の未来なら完全に空想でもいい。
だが、例えば2025年を起点として、2055年のユートピアを描いたとしても、説得力を持たせることが出来るだろうか。
この映画が“現在”と設定した1995年は、阪神大震災、オウム真理教の地下鉄サリン事件が起こり、まさに未来が暗雲に閉ざされた年だった。
このダークな時代を舞台に、未来を明るく書き換える冒険を描くと言うアイディアは、なかなか面白い。
さらに、映画オリジナルの脚色で、ロボットのピートと言うオーパーツを過去に送り込むことで、2025年のロボット工学の発展にも、一定の説得力が生まれている。
卵が先か、鶏が先かの問題は残るけど。
原作は、時間SF映画の金字塔「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のアイディアの元になった話だから、オマージュもチラホラ。
田口トモロヲ演じるタイムマシン博士が、どこからどう見てもドクのパロディなのが可笑しい。
そして過去へ戻っての冒険の部分は、デイテールの脚色はあるものの、ほとんど小説のまま。
と言うか、ここからの筋立てはこの話のハイライトなので、余計な改変を加える必要はないだろう。
よく知られた物語だし、驚くべき要素は無いが、三木孝浩のウェットなストーリーテリングの感性との相性も良く、「夏への扉」の正攻法の映画化としては至極納得できる仕上がりだ。
今となっては時間ロジックの部分はちょっと古い印象もあるのだが、SFが売れない今の日本にあって、SF映画の分かりやすい入門編としても優れた作品だと思う。
ところで、ある意味主役のネコのピートは、ハヤカワ文庫の表紙の印象が強くて、もうちょっとシュッとしたイメージだったのだが、映画に出てきたのは完全に「俺、つしま」だった(笑
パスタとベーコンという、美味しそうな名前の二匹の俳優ネコが交代で演じているらしいが、これはこれでモコモコですごく可愛い。
ネコ映画としてもポイント高し。
今回は、夏への扉が開いた今こそ飲みたい、涼しさMAXなカクテル「モヒート」をチョイス。
大きめのタンブラーにイエルパブエナ(キューバミント)千切って入れ、ライムジュース30ml、砂糖2tspを加え、バースプーンなどで軽く潰す。
ラム40mlと適量なソーダを加え、氷と追加のミントを投入して完成。
モヒートはキューバ発祥のカクテルで、その名はスペイン語の「mojar(濡れる)」に由来する。
タンブラーの表面が結露で濡れるためとも言われるが、材料はキンキンに冷やしておいた方が美味しい。
料理にも使えるイエルパブエナは育てやすく、どんどん葉をつけるので観葉植物としてもオススメ。
ミントの香りがスーッと喉に抜け、まさに清涼感の塊のような夏のカクテルだ。
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期待通りによく出来ていて、非常に面白かった。
巨匠ロバート・A・ハインラインが、1956年に発表した時間SFの古典中の古典、「夏への扉」を山崎賢人主演で実写映画化した作品。
日本でも長年に渡って愛され、特に福島正実訳のハヤカワ文庫版は、キーパーソン(?)となるネコのピートことペトロニウスの後ろ姿を描いた、中西信行の印象的な表紙イラストも相まって人気が高い。
世界中に多くのフォロワーを生んだ名作だが、意外にも長編映画化されるのはこれが初めてだと言う。
原作小説を「浅田家!」の菅野友恵が脚色し、三木孝浩が監督を務める。
主人公のダン改め高倉宗一郎を山崎賢人、ヒロインのリッキイに当たる松下璃子を清原果耶が演じる。
1995年の東京。
ロボット工学者として活躍する高倉宗一郎(山崎賢人)は、愛猫のピート(ペトロニウス)と一人と一匹暮らし。
開発している新型ロボットがマスコミに注目され、ちょっとした時の人となっている。
尊敬する科学者だった亡き父の想いを受け継いだ新技術、プラズマ蓄電池の開発も大詰め。
共に早くに両親を亡くした幼なじみの璃子(清原果耶)が、毎日のようにやって来て、世話を焼いてくれているが、彼女はもうすぐ寄宿制の学校に入るために引っ越しが決まっている。
そんな時、宗一郎は信頼していたビジネスパートナーの松下和人(眞島秀和)と恋人の白石鈴(夏菜)に裏切られ、全てを失った上に、コールドスリープ装置に入れられてしまう。
宗一郎が目覚めたのは30年後、2025年の東京だった。
自分が眠っている間に、璃子が死んでいたことを知った宗一郎は、ケアロボットのピート(藤木直人)の助けを借り過去に何があったのか調べ始めるのだが、自分と同姓同名の人物が、30年前の同じ時期に暗躍していたことを知る。
ある仮説を思いついた宗一郎は、鍵を握る物理学者の遠井博士(田口トモロヲ)を尋ねるのだが・・・・
小説の1970年と2000年のロサンゼルスという舞台設定は、1995年と2025年の東京に移されているが、元々定評のあるストーリーだけに、基本プロットは原作に非常に忠実。
もちろん70年近く前の異国の小説だけに、細かいところは色々変わっているものの、大枠はほとんどそのままだ。
プロット上の最大の違いは、未来の世界の案内役として、藤木直人演じるなぜかネコと同じピートという名前のヒューマノイドロボットが出てくること。
このロボットと主人公の宗一郎にバディを組ませたのは、いいアイデアだった。
回路に問題があるらしく、時にはっちゃけた言動をするピートを狂言回し的に活用することで、ボリュームのある物語を効率的に前に進めることが出来ている。
小説のサットン夫妻に当たる、佐藤夫妻と出会うあたりに若干の駆け足感は残るが、十分に許容範囲内。
文学を映像化する時に問題となるリアリティラインの差も、脚色で丁寧に潰されている。
小説のダンの行動は、けっこう行き当たりばったり感があるのだが、映画ではそれぞれのシチュエーションの“動機”を描写することで、さほど気にならないレベルに補正。
まあその分、若干説明的な要素が増えてしまっているが、これは致し方あるまい。
またリッキイの描写は小説の段階で明らかに不足していて、疎遠だった彼女が最終的にコールドスリープしてまで、なぜ恋人としてずっと年上のダンを選ぶのかイマイチよく分からなかった。
これも共に両親を亡くした悲しみの中、二人が支え合って生きてきた設定を加えて関係性を強化し、さらに小説では彼女が21歳でコールドスリープする部分を、宗一郎と同じ27歳に変更。
眠りにつくまでに、璃子もロボット工学者として十分なキャリアを積む設定にモダナイズされている。
この辺りは、原作のままだと現在では主人公が光源氏みたいなロリコンオヤジと思われてしまうので、必然の改変だろう。
登場の時点から、璃子が宗一郎に抱いている恋心は自然に表現されていて、数多くの青春恋愛映画を作ってきた三木孝浩監督の面目躍如。
時空を超えたラブストーリーとしての説得力は、原作よりもむしろ強まっている。
ところで、小説の“現在”である1970年は、ハインラインが執筆した50年代から見たら近未来だが、映画の“現在”となる1995年は、2021年の今から見たら過去である。
むしろ映画の“未来”である、2025年の方が近い。
映画に描かれる1995年はほとんど現実と変わらないが、コールドスリープ技術が実用化されている、ほんの少しだけズレた世界だ。
実際には2025年になっても、あんな完璧なヒューマノイドロボットが完成しているとは思えず、いっそ小説と同じく2025年の近未来を“現在”に、2055年を“未来”にした方がしっくりくるようにも思うが、あえて過去を起点としたことは、どんな意味があるのだろうか。
おそらくこれは、“明るい未来観”を保つためだろうと思う。
もちろん例外はあるが、原作が書かれた50年代には未来は明るいものだった。
だが、80年代頃から環境問題などがクローズアップされ、徐々に人類は能天気な希望にあふれた未来に疑念を抱くようになる。
またテクノロジーの発達により、不確定要素が多くなりすぎて、未来を予測すること自体が難しくなってきた。
100年、200年先の未来なら完全に空想でもいい。
だが、例えば2025年を起点として、2055年のユートピアを描いたとしても、説得力を持たせることが出来るだろうか。
この映画が“現在”と設定した1995年は、阪神大震災、オウム真理教の地下鉄サリン事件が起こり、まさに未来が暗雲に閉ざされた年だった。
このダークな時代を舞台に、未来を明るく書き換える冒険を描くと言うアイディアは、なかなか面白い。
さらに、映画オリジナルの脚色で、ロボットのピートと言うオーパーツを過去に送り込むことで、2025年のロボット工学の発展にも、一定の説得力が生まれている。
卵が先か、鶏が先かの問題は残るけど。
原作は、時間SF映画の金字塔「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のアイディアの元になった話だから、オマージュもチラホラ。
田口トモロヲ演じるタイムマシン博士が、どこからどう見てもドクのパロディなのが可笑しい。
そして過去へ戻っての冒険の部分は、デイテールの脚色はあるものの、ほとんど小説のまま。
と言うか、ここからの筋立てはこの話のハイライトなので、余計な改変を加える必要はないだろう。
よく知られた物語だし、驚くべき要素は無いが、三木孝浩のウェットなストーリーテリングの感性との相性も良く、「夏への扉」の正攻法の映画化としては至極納得できる仕上がりだ。
今となっては時間ロジックの部分はちょっと古い印象もあるのだが、SFが売れない今の日本にあって、SF映画の分かりやすい入門編としても優れた作品だと思う。
ところで、ある意味主役のネコのピートは、ハヤカワ文庫の表紙の印象が強くて、もうちょっとシュッとしたイメージだったのだが、映画に出てきたのは完全に「俺、つしま」だった(笑
パスタとベーコンという、美味しそうな名前の二匹の俳優ネコが交代で演じているらしいが、これはこれでモコモコですごく可愛い。
ネコ映画としてもポイント高し。
今回は、夏への扉が開いた今こそ飲みたい、涼しさMAXなカクテル「モヒート」をチョイス。
大きめのタンブラーにイエルパブエナ(キューバミント)千切って入れ、ライムジュース30ml、砂糖2tspを加え、バースプーンなどで軽く潰す。
ラム40mlと適量なソーダを加え、氷と追加のミントを投入して完成。
モヒートはキューバ発祥のカクテルで、その名はスペイン語の「mojar(濡れる)」に由来する。
タンブラーの表面が結露で濡れるためとも言われるが、材料はキンキンに冷やしておいた方が美味しい。
料理にも使えるイエルパブエナは育てやすく、どんどん葉をつけるので観葉植物としてもオススメ。
ミントの香りがスーッと喉に抜け、まさに清涼感の塊のような夏のカクテルだ。

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