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酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。ネット配信オンリーの作品は★5つが満点。
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ショートレビュー「孤狼の血 LEVEL2・・・・・評価額1650円」
2021年08月28日 (土) | 編集 |
虎狼vs狂狼。

広島県の架空の都市、呉原市を舞台に、東映がかつて標榜した「不良性感度」全開で描いた「虎狼の血」シリーズ第二弾。
主演の松坂桃李はじめ、監督の白石和彌、脚本の池上純哉ら主要スタッフが続投する盤石の布陣。
県警本部vs所轄警察署vs地元ヤクザvsよそ者ヤクザによる四つ巴のコンゲームの末、呉原の地元ヤクザ尾谷組と広島の五十子会の抗争は、会長の五十子正平の死によって終結。
役所広司が怪演した暴対スペシャリストにして汚職刑事・大上も殺され、彼の遺志を継いだ松坂桃李演じる若き刑事・日岡によって、呉原の裏社会は取り仕切られ、各勢力は利権を分かち合い一応の平和が続いている。
日岡は村上虹郎演じるチンピラのチンタを、スパイとして潜り込ませることで、五十子会主戦派の動きを封じ、抗争の再開を防いでるのだ。
しかし三年後、五十子正平に心酔する最狂ヤクザ、上林が刑務所から戻ってくる。
冷酷な殺しを重ね、瞬く間に五十子会を掌握した上林を、なぜか広島県警は逮捕することができず、平和の均等者としての日岡は徐々に追い込まれてゆく。
※核心部分に触れています。

これは鈴木亮平に尽きる。
彼の演じる暗い情念に突き動かされた“狂狼”上林が、“狐狼”のポジションを受け継いだ日岡に牙を剥く。
日本映画史に残ると言っても過言ではない、最狂最悪の悪漢
自分の気分を損ねた者は、ヤクザだろうがカタギだろうが誰彼構わず殺しちゃうのだが、幼少期のトラウマから、相手の目を潰して拷問するという残虐な手口。
やってることはもはやヤクザの範疇を超えて、オープンな猟奇快楽殺人者だ。
ヤクザ同士の利権を調整し、自分も含めて全員を儲けさせることで、ウィンウィンの関係を作り街の平和を守ってきた日岡にとって、裏社会の常識が全く通用しない上林は未知の異物。
金儲けはどうでも良く、ひたすら他者を支配することにしか興味がない。
しかもただ無茶苦茶するだけでなく、頭も切れるのだから始末が悪い。
捜査が滞る中、チンタを使って上林を陥れようとコンゲームを仕掛ける日岡は、思わぬ逆襲にあって絶体絶命のピンチに陥る。

そして物語の進行と共にこの二頭の狼の戦いを包み込むように、巨悪の陰謀の全貌が明らかになってくる。
この終盤の展開は、ちょっと読めなかった。
まあ前作以上に元ネタの「県警対組織暴力」の影響が色濃く、オマージュ描写もバンバン入れて来てるから、予想通りといえばそうなんだけど、まさかあの虫も殺せなそうな人がキーパーソンとは完全に騙された。
さすが公安、ある意味ヤクザより悪辣でコワイ。
あんなことやられたら、人間不信になるわ。
もっとも、いくら弱みを握られているからと言っても、たかが日岡一人を潰すために、県警本部がスパイ映画もどきの仕掛けを作るほど必死になるか?とか色々ツッコミたくなる部分もあり、プロットのディテールは結構甘く、暴対法施行直前の話という時代性も、前作ほどは追求されていない。
しかし、昭和面をした男たちによる、容赦のないバイオレンス活劇は、ちょっとした欠点などものともしない迫力に満ちている。
いい意味で、プログラムピクチュア化が進んだとでも言おうか。
例によって役者のキャラが立ちまくってるが、TVドラマで見せる温和でいかにもいい人そうな鈴木亮平の、瞳の奥のダークサイドを見出した時点で、この映画の勝利は決まったと言っていいだろう。
本作は柚月裕子の原作シリーズにはないオリジナルストーリーだそうだが、はたして「LEVEL3」はあるのだろうか。

今回は、呉原のモデルとなった呉の地酒、三宅本店の「千福 上撰吟松」をチョイス。
ダークダックスが歌った「千福一杯いかがです~」のCMでも知られた西日本の大手酒造で、普段飲みできるラインナップが揃う。
上撰吟松はやや辛口で、なめらかな口当たり。
旨味と酸味のバランスもよく、端麗な喉ごしのオールマイティーな一本。
ヤクザ映画というと焼肉だが、濃厚なタレのカルビで一杯やりたい。

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ドライブ・マイ・カー・・・・・評価額1750円
2021年08月24日 (火) | 編集 |
妻の本当の心は、どこにあったのか。

実に味わい深い作品だ。
原作は村上春樹の短編集「女のいない男たち」に収められた、50ページほどの小説。
主人公の俳優と女性の専属ドライバーとの関係を軸に、秘密を抱えたまま逝った妻に対する想いを描いたコンパクトな物語。
そのまま映画化すれば、丁寧に描写したとしても1時間程度に纏められそうな内容だが、濱口竜介監督はなんと179分の大長編として仕上げた。
映画は原作の骨格を生かしながらも、新たなシチュエーションを加えて登場人物の内面をぐっと掘り下げる。
一本の演劇制作を通して、人間たちの言葉とその裏側にあるものの関係が、徐々に明らかになってゆく構造だ。
主人公の俳優兼演出家の家福悠介を西島秀俊が演じ、彼の妻の音を霧島れいか、ドライバーの渡利みさきを三浦透子、若い俳優の高槻に岡田将生。
本年度カンヌ国際映画祭で、日本映画初となる脚本賞をはじめ、四冠に輝いた話題作だ。
※核心部分に触れています。

一つの劇を多言語で上演する、独特のスタイルで知られる舞台俳優兼演出家の家福悠介(西島秀俊)は、脚本家である妻の音(霧島れいか)と幸せな日々を過ごしていた。
だが音は、悠介に不倫の秘密を語らぬまま、突然帰らぬ人となる。
2年後、悠介は演劇祭でチェーホフの「ワーニャ伯父さん」の演出を担当することになり、愛車のサーブ900で開催地の広島に向かう。
現地では、サーブのハンドルを演劇祭側が用意した寡黙な専属ドライバーの渡利みさき(三浦透子)に委ね、亡き音が録音した「ワーニャ伯父さん」の台詞に耳を傾ける。
国際色豊かな出演者たちの中で、ワーニャ役にはかつて音の不倫相手だった高槻(岡田将生)を選んだ。
1ヶ月半が予定されている舞台稽古は順調に進むが、高槻の出演が不可能となる事件が起こり、上演危機に陥る。
自らワーニャを演じるのか悩んだ家福は、みさきと共にサーブである場所を目指すのだが・・・・


原作小説では、主人公の家福悠介が緑内障の診断を受けたことで、所属事務所から運転を禁じられ、再検査の結果が出るまでの約束でみさきが雇われる。
二人で過ごす車中の時間が触媒となって、家福が亡くなった音との思い出を改めて見つめ直す。
悠介とみさきの関係が軸となるのは映画も変わらないが、こちらでは悠介が参加する演劇祭の内規として、演出家には専属ドライバーがつく設定。
広島で開かれる演劇祭は、キャスティングと稽古が1ヶ月半、その後二週間が上演期間で、会場から1時間離れた瀬戸内海を望む仮の住まいから、毎日車で通う必要がある。
北海道の原野で育ち、中学生の頃から水商売に出る母の送り迎えで毎日往復2時間も運転し、眠る母を起さないために、どんな悪い道でも滑らかに走れるという、まるで藤原豆腐店のようなエピソードを持つみさきを紹介された時、悠介は彼女が運転することを頑なに拒む。

悠介の愛車は、原作だと黄色のサーブ900コンバーチブル。
しかし映画では、同一車種の赤のクーペに変わっている。
バブル期の80年代には、広告業界の人間を中心にちょっとしたブームとなったお洒落車だが、メーカーが消滅してしまった今となっては、かなりのロートルだ。
映画ではこの愛車が、悠介の閉ざされた心の象徴として機能しているのである。
基本運転するのは自分で、ハンドルを委ねたのは亡き妻だけ。
妻が秘密を抱えたまま亡くなった後も、この車には彼女と暮らした時間の残滓が感じられる。
永遠に解消しない葛藤を閉じ込めた空間だから、なるほど屋根はあった方が相応しい。
色が赤なのも、心=心臓を意識したのかと思っていたが、関係者のインタビューを読むと、そこまで凝った意図はなかったようだ。
通勤の車内では、生前の音が録音した「ワーニャ伯父さん」の台詞が流れ、結果としてサーブのドライバーとなったみさきは、図らずも彼の心の中に入り込むのである。

もう一つの小説との大きな相違点が、悠介が演出する「ワーニャ伯父さん」の位置付けだ。
原作では、彼の出演している舞台として一行触れられているだけだが、こちらではほぼ全編が演劇祭で上演する「ワーニャ伯父さん」の制作プロセスとなっている。
悠介の演出スタイルは、非常に独特だ。
同じ舞台に母語が異なる出演者が立ち、そのまま自分の言語で芝居するのである。
日本語、タガログ語、韓国語、北京語、さらに手話まで。
当然観客には何言ってるのか分からないので、台詞は背後のスクリーンに字幕で表示される形式だ。
このスタイルを実現するには、全ての出演者が全員の台詞を「音」で覚えて、なおかつ台詞の持つ意味を考察する必要があり、そうでないと単に個人の芝居を組み合わせたものになってしまう。
だから稽古序盤は、延々と続く読み合わせ。
当初は演出意図を理解していない出演者たちは苛立ちを見せるが、徐々に核心を掴むと演者として輝きはじめる。
悠介の舞台には、相互理解と相互不通が同時に存在しているのである。
舞台の制作過程を丁寧に描写することで、家福の持つ演出哲学と言葉でコミュニケーションすることの難しさを伝え、徐々に劇の登場人物の葛藤が現実とシンクロしてくる仕組み。

この舞台制作と、みさきとの通勤時間、普段東京で暮らす悠介にとって二つの非日常が、音への割り切れない想いを呼び覚ます。
生前の音と悠介は非常に幸せな生活を送っていた。
そのことは間違い無いのだが、なぜか音は密かに他の男たちと不倫を重ねていたのだ。
悠介はそれを知りながら黙っていたのだが、音は「今夜話がある」という意味深な言葉を残したまま逝ってしまった。
彼女は何を話すつもりだったのか、何が彼女を不倫に駆り立てたのか。
亡き妻との蟠りを抱えた夫が、本当の意味で妻の死を受け入れ、再生への道を歩み出すという物語は、西川美和監督の「永い言い訳」を彷彿とさせる部分もある。
違いは、やっぱり男性監督だから夫キャラクターの扱いが優しいことか。
本当の妻が知りたくて、かつての不倫相手である高槻とも、演出家と役者というよりも奇妙な共犯者のような関係を築くのだが、高槻の愛車がサーブと同じスウェーデンのボルボ。
しかも民族資本で無くなってからの、新しい車種というあたりも皮肉っぽい。
そして、この高槻が大いにやらかしたことで、舞台は上演中止の危機に陥る。
悠介はチェーホフについて、彼の戯曲では本当の自分を曝け出すことになるから恐ろしいと語り、自ら演じることを避けているのだが、これはおそらく音が亡くなってからだろう。
チェーホフを演じることで、音を不倫に走らせた自分の内面が見えてしまうからだ。

自ら出演して舞台を救うべきか悩んだ悠介は、みさきと共に彼女が生まれ育った北海道を目指すグランド・ツーリングに出る。
およそ1700キロ以上を走る旅の過程で、今まで語られなかったみさきの秘密も明らかになる。
彼女が北海道を出て広島にやってきた訳は、母が死んだからなのだが、実家が土砂崩れでつぶれ、みさきは半壊した家から這い出したが、母は出られなかった。
その後、家が完全に倒壊するまで、みさきは母を助けることをせずただ見ていたという。
生きていれば誰もが何かを背負い、時にそれは大きな罪の意識を作りだす。
悠介は脚本家であった音が、セックスの後に物語を作り出すことから、それが彼女が不倫をする要因では無いのかと考えている。
音の心には自分には計り知れない領域があり、自分でない誰かとのセックスが、創造の力を与えるのではと。
しかし、みさきはそんな訳の分からない部分も含めてシンプルに人間であり、受け止めるしかないと訴える。
愛した妻とは何者だったのか、自分は妻を本当に理解していたのか、という問いに囚われていた悠介は、みさきの過去を訪ねるグランド・ツーリングを通し、自分の中にいる音と向き合い、ついに全てを受け入れるのである。
ここでの悠介とみさきの心境は、まさに「ワーニャ伯父さん」のラストのソーニャの台詞そのものなので、ぜひ劇場で虚構と現実の融合を味わって欲しい。

演劇、クルマ、旅、いくつものシチュエーションが、極めてロジカルに整然と組み合わされて、浮かび上がるのは人間の持つミステリアスな多面性と、言葉(音)の含む意味を理解することの難しさ
観ている観客の頭の中で、バラバラだったパズルが少しずつ完成してゆく様な、心地よい疲労と共に物語を読み解くカタルシスを感じさせてくれる充実の3時間。
これだけの長尺でも、無駄なカットは一つも無い。
序盤以降は画面に登場せずに、言葉だけで最後まで映画を支配する音役の霧島れいかと、朴訥なみさきを演じる三浦透子が素晴らしい。
ガワはお洒落な村上春樹でも、終わってみると丁寧に丁寧に人間の心の機微を描き、伝える、濱口監督らしい作品だ。
人間とは、なんとも面倒くさく複雑で、愛しいものだなぁ。

今回は、赤いサーブにひっかけて赤いカクテル「パリジャン」をチョイス。
舞台は広島だけど(笑
ドライ・ジン30ml、ドライ・ベルモット20ml、クレーム・ド・カシス10mlをステアして、グラスに注ぐ。
クレーム・ド・カシスとドライ・ベルモットの濃厚な色と香りが、清涼なジンと溶け合ってハーモニーを奏でる。
やや甘めでアペリティフして人気の高い、美しいルビー色のショートカクテル。

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ショートレビュー「ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結・・・・・評価額1650円」
2021年08月20日 (金) | 編集 |
ヴィランだってヒーローになりたい!

DCエクステンデッド・ユニバース(DCEU)のスーパーヴィラン軍団、通称“スーサイド・スクワッド”の活躍を描く第二弾。
2016年に公開された前作は、デヴィッド・エアーの生真面目な作家性が題材と合わず、イマイチ盛り上がらないまま終わってしまったが、今回はノリノリ。
ジェームズ・ガンはぶっ飛んだ悪役たちと相性バッチリで、凄く面白い。
ヴィランズも、マーゴット・ロビー演じるハーレイ・クインとキャプテン・ブーメラン以外は総入れ替えとなり、総勢14人ものキャラクターが登場する。
もっとも、さすがに多すぎるので、“自殺部隊”の名の通り序盤でどんどん死んでゆき、本筋で残るのは半分の七人。
ハーレイの他、スーパーマンを病院送りにしたブラッドスポートに、ネズミ使いのラットキャッチャー2、平和のためにはどんな犠牲も厭わないピースメイカー、全てを破壊する水玉を放つポルカドットマン、陸の人喰いザメのシャークキングことナナウエ、そして彼らを率いるリック・フラッグ大佐。
目立ってるのはハーレイだが、物語の軸となるのはイドリス・エルバのブラッドスポート。
彼ら七人でアウトロー版「七人の侍」という訳だ。

もともとジェームズ・ガンは、あのトロマでキャリアをスタートさせた人で、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」でメジャー街道に躍り出るまでは、散々B級ホラー映画を作ってきた人。
2011年の「スーパー!」でも、人知れず悪人を血祭りにあげる自称ヒーローのヤバイおっさんを描き、このジャンルとの親和性は元から高い。
冒頭登場するキャラクターから、悪ノリ上等とばかりに、とにかくフラグを外しまくるので、敵味方どこで誰が死んじゃうのか全く読めない。
スクワッドを監視する司令部の連中も、誰が死ぬか掛けしてるし(笑
R指定をいいことに、スプラッタ描写もやりたい放題で、ヒーロー映画だと勘違いして観に来て、ホラー耐性が無いと大変かも。
クライマックスで出て来る、極彩色のパイラ人みたいな、ヒトデ怪獣も気持ち悪くていい。
トンがったキャラ同士の掛け合いも可笑しく、いわば刺激強い版の「GOTG」の趣だ。
トロマ流の悪趣味さの是非はともかく、やっぱアメコミ映画はこのくらい荒唐無稽で不真面目な方が面白い。

ディッド・エアー版では、ヴィランズがいい人すぎてヴィランに見えないのが一番の難点だったが、こちらは人を食べちゃうわ、見境なしに殺しちゃうわ、全く容赦なし。
それでいて「子ども殺し」を、絶対の禁忌にしたのも分かりやすい。
人殺したちが仕方なくヒーローの真似ごとしてるけど、とりあえずヴィランなりの矜恃はあり、きっちり一線は引いているのだ。
そしてここでも、他人に対する想像力と共感力が問題となる。
実はこの映画、日本では同日公開となった「フリー・ガイ」と共通するテーマを持つ。
この二作は、どちらもモブキャラ(自分とは関係ない人々)はどうでもいいと考える人物が、真の悪役として設定されている。
「フリー・ガイ」では、他人に一切の共感を示さない、タイカ・ワイティティ演じるゲーム会社のCEO。
本作では、ヴィオラ・デイビスが演じる政府高官のアマンダ・ウォーラーだ。
彼女はヴィランズをいつ殺しても構わない使い捨ての駒としか思っておらず、また自らの作戦で現地の人々に被害が出たとしてもどうでもいいと切って捨てる。
どちらも彼女にとっては、“モブキャラ”に過ぎないのだ。
「フリー・ガイ」のライアン・レイノルズが、自らの意思でゲームの世界を救おうとするのと同じく、命令を聞くだけの駒であったヴィランズが、ウォーラーに反旗を翻して「七人の侍」のようにモブキャラの街を守り、結果的に世界を救っちゃうのは痛快だ。
この手の人には人望が無く、それが最後に因果応報のブーメランとして返って来るのも共通なのが面白い。

しかし、最近まで作品的にも興行的にもライバルMCUに大きく水を開けられていたDCEUだが、ユニバースとしてのトンマナが合ってないのは相変わらずなものの、ここに来て個々の作品のクオリティ的には大幅に向上している。
とりあえず、抜群の安定感を持つジャウム・コレット=セラによるスーパーヴィラン映画、「ブラックアダム」が楽しみだ。

今回は海外のカクテルサイトで紹介されている、その名も「スーサイド・スクワット」をチョイス。
グラスの縁をシロップに浸し、サンディング・シュガーを付着させて縁取ったら氷で満たす。
ブルー・キュラソー60ml、ピーチ・シュナップス30ml、ラム15ml、ウォッカ15ml、グレナデン・シロップ1tspを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
最後にジンジャー・エール90mlを加えて、軽くステアして完成。
毒々しいグレープジュースみたいな見た目だが、ヴィランズのカクテルらしく相当に強いので注意。

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フリー・ガイ・・・・・評価額1750円
2021年08月17日 (火) | 編集 |
モブキャラだって冒険したい!

夏休みエンターテイメントの真打登場。
自分がゲームの世界のモブキャラだと知った主人公が、役をやらされるのではなく、自分の人生を生きようと奮闘する。
監督は「ナイト ミュージアム」シリーズ、「リアル・スティール」のショーン・レヴィ。
「デッド・プール」のライアン・レイノルズが、どこから見ても平凡でいい人のゲームキャラ、その名も”ガイ”を演じ、彼を冒険に誘うゲーム開発者にしてプレイヤーのミリーにジョディ・カマー、憎たらしい悪役を、自作の「ジョジョ・ラビット」でヒットラーを演じたタイカ・ワイティティが演じる。
レイノルズは本作を“今の時代の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」”と呼んでいるそうで、その真意が鑑賞してようやく分かった。
もちろん名作タイムトラベルSFとは全く違った内容なのだが、驚くべき未見性が生み出すワクワク感と楽しさは確かに共通するものがある。
レヴィのキャリアベストであるのはもちろん、あらゆる観客層を包み込む間口の広さと、考えさせられるテーマ的な深さを併せ持つ傑作だ。

「フリーシティ」はスナミ社が発売したアクションゲーム。
この世界に住む平凡な銀行員のガイ(ライアン・レイノルズ)は、毎日同じルーティンをこなす。
朝起きて、コーヒーを買い、職場に出勤しては1日に何度も銀行強盗に遭う。
ある日、ふと思い立ったガイが強盗に反撃してみると撃退できてしまい、ついでに強盗のサングラスを奪ってかけてみたところ、街中に奇妙なアイテムやミッションの指令が映し出される。
モロトフ(ジョディ・カマー)と名乗るイケてる美女と出会ったガイは、ミッションをクリアしてレベル100を越えればデートしてあげると言われ、ポイント稼ぎに邁進。
瞬く間にレベルを上げてゆく、モブキャラ風の謎のプレイヤーは現実世界でも話題となる。
スナミのプログラマーのキーズ(ジョー・キーリー)は、彼の正体が自我を持ったAIだと気付き、かつての相方だったミリーに伝える。
実はミリーはモロトフのプレイヤーで、スナミのアントワン(タイカ・ワイティティ)に開発中だったゲームを盗用され、その証拠を探して「フリーシティ」をプレイしていたのだ。
アントワンは「フリーシティ」を続編に切り替えようとしていて、そうなれば今の世界は消える。
自分がゲームのモブキャラだとモロトフから聞かされたガイは、自分の人生を生きるため彼女に協力することを決意するのだが・・・


ゲームキャラの生き様に、泣かされるとは思ってなかった。
本作のような現実と虚構のメタ構造を持つ作品は、昔から小説、漫画、映画と無数にあるが、ルーティンをこなすだけのモブキャラで、ごく普通の人というキャラクター設定からして、「LEGOムービー」の影響を受けたのは間違いないだろう。
だが本作のポイントは、物語をゲームの世界と現実世界のツートラックとしたこと。
まるで「GTA」のパチモンみたいな「フリーシティ」の世界では、サングラスをかけた人たちがヒーロー、あるいはヴィラン。
つまり現実世界からのプレイヤーで、他の人たちは全て同じルーティンを繰り返すことをプログラミングされたAIで、もちろん自分がゲームキャラだとは思ってない。
同じ毎日を繰り返すことに嫌気がさしたガイが、日常に反旗を翻し強盗のサングラスを奪い取ったことが切っ掛けとなり、新たな人生を歩み出す物語と、現実世界で人生を賭けた仕事を奪われたミリーが、それを取り戻そうと奮闘する話が、巧みにミックスされながらお互いに影響し合う。
ガイが独自の行動を始めた時点では、誰も彼が世界で初めて自我を持ったAIだとは思ってない。
もともとミリーとキーズが開発していたのは、「フリーライフ」と呼ばれる、ゲーム内でAIのキャラクターが成長してゆくのを、参加したプレイヤーが観察するという地味なゲーム。
キーズは、ガイがプレイヤーに操られているのでは無く、自分で思考しているAIだと看破し、「フリーシティ」が「フリーライフ」の盗用だと確信する。

ところが、アントワンは「フリーシティ」を、互換性が無くてより刺激の強い「フリーシティ2」にバージョンアップすることを計画していて、そうなればガイの世界は消滅し、盗用の証拠も永遠に消されてしまう。
モロトフとしてフリーシティに潜入しているミリーに、自分が現実の存在では無く、虚構の世界のAIだと聞かされたガイはショックを受けるが、この街に暮らす多くの仲間のためにヒーローとして戦うことを決意する。
証拠を探すミリーと、自分の存在する世界を守りたいガイの利害は一致し、タイムリミットが迫る中、多くのモブキャラたちに現実世界のキーズも加わり、生き残るための総力戦を繰り広げる。
ゴールは、「フリーシティ」の世界のどこかに隠されている、「フリーライフ」の世界を見つけること。
全世界の人々が見ることの出来るオンライゲームゆえ、画面に「フリーライフ」が現れてた瞬間、アントワンの犯罪は証明される。
クライマックスは、制作途中に“20世紀FOX”がディズニー傘下の“20世紀スタジオ”となったことで、ちょっとしたクロスオーバーが実現。
まさに夏休みのお祭り映画として、実に楽しい展開となっている。

しかし、この映画が単純なエンターテイメントを超えて、本当に記憶すべき名作となり得ているのは、“モブキャラ”=“自分とは関係ないと思っている人たち”にも、それぞれの尊重すべき人生があるという事実を分かりやすく、しかし実感を持って描いたことにある。
行動する謎のモブキャラ、ガイはやがて世界中のプレイヤーの人気になってゆくのだが、彼らが口にするのが「今までモブキャラのことんなんて、考えたこと無かった」と言う台詞。
関係ないから、今までゲームの中で好き勝手に殺したり、奪ったりしていたが、もしモブキャラに人としての自我があったとしたら、それがAIだとしても同じことが出来るだろうか。
二重世界の設定をうまく使って、「この世界に“モブキャラ”はいない。みな一生懸命にそれぞれの人生を生きている。さあ、想像力を広げよう!」というメッセージが自然に入ってくる。
昔アメリカに引っ越した時、エレベーターで乗り合わせた他人に、「Hey」と一言挨拶するのが不思議だったが、ある時その理由が「襲われないため」と聞いて驚いた。
挨拶をして言葉を交わすことで、その相手は人格を持った一人の人間となり、襲ってもいいモブキャラじゃなくなるのだと。

今回は「ゲームの中の人が、自我を持っていたら?」という話だが、これは現実世界でも同じ話だ。
遠い国の戦争や災害に無関心なの人も、同じ社会に暮らすホームレスや生活保護世帯の命を軽視する発言をする人も、人の人生を思いやる想像力が欠落している
タイカ・ワイティティが怪演するアントワンはまさにこのタイプで、AIはもちろん、他人のことは自社の社員やユーザーでもどうでもよく、自分がいくら儲かるか意外に何も興味がない。
だからこそ、彼は本作の悪役に相応しいのだ。
いらない人生なんて無い、人生を取り戻せ!というストレートなテーマがショーン・レヴィの陽性のタッチとピタリとハマり、極めて完成度の高い夏休み娯楽大作となった。
面白いのは、何も刺激的なことは起こらず、ただその世界で生活し、観察するだけという「フリーライフ」の設定が、コロナ禍で大ヒットした「どうぶつの森」を彷彿とさせる点。
任天堂は、他人との関わり合い無しでは生きてゆけない、本質的な人間の心理を見抜いているのかも知れない。

今回は、「フリーライフ」の世界で飲みたいリゾートなカクテル、「ブルー・ハワイ」をチョイスホワイト・ラム30ml、ブルー・キュラソー15m、パイナップル・ジュース30ml、レモン・ジュース15mlをシェイクし、氷を入れた大きめのグラスに注ぐ。
カットしたフルーツ類を飾って完成。
様々なレシピが存在するが、大体の要素は同じ。
名前の通り、南国の海を思わせる涼しげな青いカクテル。
ラムの甘い香りに、フルーツの酸味が聞いて、スッキリした飲み心地だ。
レモン・ジュースをココナッツ・ミルクに替えると、一字違いの「ブルー・ハワイアン」になる。

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映画 太陽の子・・・・・評価額1650円
2021年08月14日 (土) | 編集 |
“ギフト”をもたらすのは、神なのか、悪魔なのか。

日本人にもほとんど知られていない、第二次世界大戦中の日本の核開発を描いた異色の作品。
昨年の8月15日に放送された、NHKのスペシャルドラマの劇場編集版だ。
本年度の大河ドラマ「青天を衝け」のチーフ演出を務める黒崎博が、史実をベースとしたオリジナル脚本を執筆し、監督を兼務。
米国のプロダクションとの共同制作により、「愛を読むひと」で知られる音楽のニコ・ミューリーをはじめ、多くの外国人スタッフが参加している。
主人公の京都帝国大学の学生・石村修を柳楽優弥が好演。
弟の裕之に三浦春馬、母親のフミを田中裕子、幼馴染の世津を有村架純が演じる。
TVドラマ版とは編集が大幅に異なり、実質似て非なる別の作品になっているので、ドラマを観た人でも新鮮に鑑賞できるだろう。

昭和20年初夏。
京都帝国大学で、物理学を専攻する石村修(柳楽優弥)は、海軍の核開発を担う荒勝研究室の一員として、実験材料となるウランの確保に奔走していた。
戦局は日増しに悪化し、輸入の止まったウランを手に入れるのは容易ではなく、高純度のウラン235の精製に使う遠心分離機の開発は遅々として進まない。
そんな時、幼馴染の朝倉世津(有村架純)が、体の不自由な父の清三(山本晋也)と共に家の離れに転がり込んできた。
航空兵となっていた弟の裕之(三浦春馬)も、肺を患い療養のために一時帰宅。
子供の頃からお互いをよく知る三人は、束の間の青春を謳歌する。
修と裕之は目の前のことしか見えていないが、世津は戦争が終わったら教師となって子供たちを教えたいと夢を語る。
やがて、裕之は部隊へ帰隊し、修の研究漬けの日々が戻ってくる。
徐々にではあるが、開発も進み出したある日、修は広島に米軍の新型爆弾が落とされたことを知る。
それは、日本の科学者たちが熾烈な開発競争に敗れた瞬間だった・・・・


本作の企画は、広島の図書館を訪れた黒崎博が、核開発に参加していた京都帝国大学の若い研究者の日記を目にし、そこに綴られていた等身大の若者らしい言葉に興味を抱いたことからスタートしたと言う。
アインシュタインが、有名な「E = mc2」の等式を発表したのは1907年。
Eはエネルギー、mは質量、cは光速度で、要するに物質が光に近い速度で運動すると、そこから巨大なエネルギーを取り出せると言うものだ。
これを人工的に起こすのが核分裂で、取り出したエネルギーを動力として使えば原発となり、兵器として利用するのが核爆弾。
大戦当時は戦争のルールを覆すゲームチェンジャーとして、各国が核爆弾の開発を急いでいた。
日本の場合、進行していた開発計画は二つ。
理化学研究所の仁科芳雄の研究室を中心とした陸軍の「二号研究」と、京都帝国大学の荒勝文策の研究室による海軍の「F研究」で、本作が描くのは後者。
国の運命をかけた研究でも、仲の悪い陸軍と海軍の主導権争いで、研究が二本立てになってしまうのが、いかにも縦割りの日本らしい。

冒頭、イッセー尾形演じる陶芸窯の主人が、膨大な数の骨壺を焼いているシーンから物語は幕を開ける。
TVドラマ版の冒頭とラストにあった現在の広島のシーンはカットされ、主人公の修が貴重なウランを求めて、ウランを釉薬として使う陶芸窯を訪ねるところから始まるのだ。
この短いシーンは、情報量が非常に多い。
1945年の初夏には、すでに陶芸窯の仕事が釉薬を必要とする日用品ではなく、戦争犠牲者の骨壺作りになっているくらい、戦局が悪化していること。
爆弾を作るには、数トンの量が必要なウランを確保できず、研究生がわずか数キロを求めて彷徨っていること。
当時の日本の社会と研究者が置かれている状況が、爆弾と同じ炎を使う窯で象徴的に描き出される。

これらのことからも分かる様に、劇場版はTVドラマ版より、科学者としての主人公の心情に寄り添った視点から描かれている。
物語の中で、科学者が兵器を作ることの倫理的な意味を問われた荒勝教授は、「自分たちは兵器を作ってるんじゃない。未来を作っているんだ」と答える。
これが詭弁であることは、おそらく荒勝自身も分かっているだろう。
しかし彼らには他に選択肢が無いのだ。
もちろん学生である修には、関わらない決断をすることもできたはずだが、彼は核の炎が未来の世界に何をもたらすのかを頭では理解しながらも、その悪魔的な魅力に取り憑かれてしまっている。
彼は、核分裂の光が美しい、もっと見たいと語る。
明日が確実にあるものとは限らない、戦争の時代。
航空兵となった弟の裕之は出撃の時を待ち、世津の家は街の防火帯を作るために取り壊された。
皆生き延びるために精一杯の中、修だけは別の世界を見ているのだ。
この瞳の奥に情念の狂気を宿した主人公は、「風立ちぬ」の堀越二郎を彷彿とさせる。

だが、修が追い求めたものの闇は、あまりにも深すぎた。
実際に原爆が使われた広島の地に立ったことで、修は核の正体を見せ付けられるのである。
広島に続いて長崎に原爆が投下されたことで、人々は次は今まで空襲がなかった京都だと噂する。
ここで修は、母のフミと世津に疎開を進め、自分は研究者の仕事して京都が破壊されるその瞬間を見たいと言うが、フミは研究者の母の責任として、京都を離れないと言う。
ドラマ版だと主人公の葛藤は、あえて途中で終わらせているが、劇場版はその先を描く。
爆発を見るために登った比叡山で、修は大きな握り飯を食べる。
それは、特攻隊員として先に散った裕之の、最後の旅路にフミが持たせたのと同じもの。
食糧難の時代、米をふんだんに使った握り飯が、今生の別れの覚悟を意味するのは明らかだ。
自分が今しようとしていることは、科学者としては正しいかもしれないが、人間として間違っていることにようやく気づいた修は、憑物が落ちた様な顔をしている。
そして映画は、再び広島へと向かう修を、ある人物の“声”と対話させ、大きなジレンマを抱きながらも、一応の結論を導き出すのである。

果たして科学は人類にとって、神の福音なのか、悪魔の呪いなのか。
複雑に矛盾した柳楽優弥と、死を覚悟しながらも少年のような笑顔を浮かべる三浦春馬、地に足をつけ未来を見据える有村架純。
若者たち三者三様の青春の情景が、痛ましくも瑞々しい。
観応えある秀作である。

本作は日本酒を飲み交わす描写が印象的だが、洛中唯一の老舗酒蔵、佐々木酒造の「聚楽第 純米吟醸」をチョイス。
端麗やや辛口で、軽やかな吟醸香のフルーティな味わい。
スッキリした喉ごしを、冷で楽しみたい。
銘柄の聚楽第とは豊臣秀吉が京都に築いた豪華絢爛な城郭風の大邸宅で、現存はしないものの桃山文化を代表する建築物。

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ワイルド・スピード/ジェットブレイク・・・・・評価額1650円
2021年08月12日 (木) | 編集 |
最後の祭りがはじまった!

21世紀を代表するカーアクション映画となった「ワイルド・スピード」シリーズ、4年ぶりの第9弾。
本来ならば前作の「ICE BREAK」が最終三部作の第一部となる予定だったが、監督にシリーズ3作目の「X3 TOKYO DRIFT」から「EURO MISSION」までの4作を手がけ、シリーズのカラーを作り上げたジャスティン・リンが復帰。
またレギュラー脚本家のクリス・モーガンが外れ、リンとダニエル・ケーシーが共同で脚本を担当するなど、仕切り直しの三部作再起動となった。
死んだはずだったハンが再登場する他、シリーズ20年の間にとんでもない豪華キャストになっていた面々も次々と登場。
毎回ぶっ飛んだアイディアが飛び出すアクションも、アガる見せ場のつるべ打ち。
昨年公開予定だった大作映画の例に漏れず、一年遅れでの公開となったが、これだけ楽しませてくれれば、待たされた甲斐があったというもの。
※核心部分に触れています。

サイファー(シャーリーズ・セロン)との戦いから5年。
ドム(ヴィン・ディーゼル)は亡くなったエレナとの息子ブライアンとレティ(ミッシェル・ロドリゲス)と共に静かな生活を送っている。
そんなある日、ローマン(タイリーズ・ギブソン)たちファミリーがドムの隠れ家を訪ね、ミスター・ノーバディ(カート・ラッセル)からの救援要請を伝える。
彼は非常に危険な装置である「アリエス」を運んでいる最中、何者かの襲撃を受けモンテキントへ墜落。
息子との平穏な生活を望むドムは躊躇するが、ノーバディの動画に写っていたあるものに気づき、再び危険なミッションに足を踏み入れることを決意する。
モンテキントの墜落現場にノーバディの姿はなく、積荷の「アリエス」の回収に成功したものの、軍隊の襲撃を受け地雷原を突破し国境へと直走る。
しかし、あと少しというところで、突然現れた何者かに横取りされてしまう。
それは、30年前に起こった悲劇によって袂を分かった、ドムの弟のジェイコブ(ジョン・シナ)だった。
ジェイコブは某国の元首の息子をスポンサーに、サイファーと手を組んでいたのだった・・・・


いつの頃からか、ドムと仲間たちの合言葉だけじゃなく、この「ワイスピ」世界を象徴する言葉になった“ファミリー”だが、今回はシリーズのオリジン、一作目の設定を受けついだトレット家のファミリードラマだ。
悪役となって、ドムの前に立ちはだかる不肖の弟ジェイコブとの、30年に渡る知られざる因縁。
1989年に、ストックカーレーサーだった父、ジャック・トレットがレース中の事故で死んだことが切っ掛けとなり、元々不仲だった兄弟の亀裂は決定的に。
ジャックのライバルだったレーサーを、レンチで殴ったドムは刑務所入り。
後のアウトロー人生の、最初の一歩を歩み出す。
そして、ジェイコブが父の事故の原因をわざと作ったことを知ったドムは、弟をストリートレースで負かすことで制裁を加え、縁を切ったのだ。
本当の意味でお互いをの本音を知らないがゆえ、生まれてしまったファミリーの確執が、物語のバックボーンとなる。
「世界を破滅させる兵器」なんていう、散々使い古されたアイテムは、ぶっちゃけどうでもいい。
この物語は、ずっと日陰者の人生を送り、何者かに成れなかった弟が、兄を見返したいという承認欲求に突き動かされ、「兄ちゃん、俺を見ろ!」とケンカを売ったのがコトの始まり。
だから、今回の主役は弟ジェイコブと言えるかも知れない。

文字通りの“ファミリー”を軸に据えた作劇を含め、三作ぶり復帰のジャスティン・リンは、やっぱ「ワイスピたるもの」のスタイルを作り上げた人だけあって、抜群の安定感だ。
もう登場することはないのだと思っていた妹ミアを「家族の問題だから」と上手い理由をつけて復帰させ、同時にデッカートに殺されたはずのハンをこれまた強引な理由で生き返らせて、見事にシリーズを離れる前の陣容に戻してしまった。
物語のコアをトレット家の兄弟喧嘩とすることで、物語にギュッとした塊感を出し、世界各地に展開するミッションの見せ場でスケール感を演出する。
このシリーズは、アクションのビジュアルは強烈なんだけど、観てからしばらく経つと物語のディテールを忘れちゃうのだが、それは主人公たるドムに、ミッションの解決以外の葛藤があまり描かれていなかったから。
だが、今回は実質的な主人公をジェイコブとしたことで、ドムにも大きな葛藤が生まれ、人間ドラマとしては一番印象に残る。
また前作であまりにもあんまりな扱いだったエレナへ、ドムをはじめファミリーが想いを語るのも、自分が創造したキャラクターへの作者の愛が感じられて好印象。
物語の完結に向けて、登場人物全員のキャラクター力を、最大限引き出そうという強い意図を感じさせる。

もちろん「ワイスピ」といえばカーアクションな訳で、今までも毎回「どうやったらこんなことを思い付くの?」って度肝を抜くアクションを見せてくれた。
今回、アクションの未見性を作り出すのは、超強力な磁石だ。
もともと作中では、ジェイコブ側がセキュリテイを無効化するEMP兵器的な使い方をしているのだが、これをドムたちがぶん取って、敵の車を吸いつけたり、街中の車やバイクを敵にぶつけたりやりたい放題。
ティザー予告を観た時、車がいきなり横倒しになって滑っていく描写に驚き、何がどうなったらあんな動きをするのか不思議だったが、なるほど磁石!
そもそもこれほど強力な磁石を車に積んだら、自分の方がトラックやらビルの鉄骨やらににくっ付いて動けなくなりそうな気もするが、その辺はあくまでも映画。
もう一つ、過去に巨大輸送機を撃墜したり、潜水艦と戦ったり、もはやカーアクションの範疇を大幅に超える展開に「もう次は宇宙しかないよね?」と言われていたが、ついに本当に宇宙に行ってしまった(笑
無重力空間でも、どつき合いで解決するのがいかにも「ワイスピ」らしい。
ちょっと面白かったのが、ローマンとデズのコンビが、「無茶ばっかりやってるのに、いくらなんでもオレたち死なな過ぎじゃね?」と突然メタ構造の可能性を語りはじめること。
おいおい、まさか最終作で「LEGO ムービー」的な方向に行くんじゃないだろうな(笑
まあ、それはそれで面白そうだけど。

それにしても第1作の時点では、単なるはみ出し者のストリートレーサーだったはずのファミリーは、もう完全にMI6やIMFの向こうを張る民間スパイ組織だ。
多少はCIAあたりが助けている様だが、あのとんでもない資金力と行動力の源はどこから出てくるのか。
もしかしたら、ドムは株でもやって大儲けしているのか。
ハンは復帰したが、因縁のハゲともう一人のハゲは今回出てこないのかと思ってたら、なるほどこう来るか。
とりあえず、最終三部作の残り2本に向けて役者が揃った
キャラクターの魅力はますます高まっているし、どこまで祭りを盛りげてくれるのだろう。
2023年に公開が予定されている「FF10」がすごく楽しみだ。
そしてラストカットの、ブルーのR34GT-Rに胸熱。
この世界で、“彼”は生きているのだなあ。

本作には、もちろん「コロナ エキストラ」だ。
やっぱり夏のLAに一番似合うビールだろう。
昔はライムを一切れビンに突っ込むのが定番だったが、最近はリサイクルし難いのでやっちゃダメらしいので、かわりにシュッとひと搾り。
ライムの香りを効かせたコロナは、本当に気持ちのいい夏の清涼剤だ。

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ショートレビュー「映画クレヨンしんちゃん 謎メキ!花の天カス学園・・・・・評価額1700円」
2021年08月08日 (日) | 編集 |
友情は、大人になっても変わらない?

10年代以降の「クレヨンしんちゃん」シリーズのベスト。
監督、脚本は2018年の「爆盛!カンフーボーイズ ~拉麺大乱~」以来となる、高橋渉とうえのきみこのコンビ。
全寮制のエリート養成学校、「私立天下統一カスカベ学園」通称・天カス学園の小学校に、しんのすけたちかすかべ防衛隊が一週間の体験入学。
そこは一見すると文武両道、多彩な生徒たちが自分の得意な分野で活躍できるユートピア。
しかし実際は、教育AI「オツムン」が付与するエリートポイントなるモノに、全員が支配されている明るいディストピアだ。
多様性は見せかけだけで、ここでは誰もがポイントを稼いでエリートになるために必死。
常識と効率が追求され、ポイントが高い生徒ほど待遇が良くなり、低いとどん底の学園生活が待っている。
これはキッズムービーの荒唐無稽な描写では無い。
実際これそっくりのソーシャルクレジットという制度が、中国で始まっている。
だから「クレしん」の世界でも、ベースに妙に生々しいリアリティがあるのだ。

そんなエリート学園に、生徒をおバカにしてしまう吸血鬼ならぬ吸ケツ鬼が出没し、かすかべ防衛隊が謎に挑む。
学園の一角にある怪しげな時計塔で、優秀な生徒たちが何者かによってケツを噛まれ、なぜか正気を失ってしまうのだ。
そして新たな犠牲者となったのが、かすかべ防衛隊一の秀才、風間くんだ。
元々天カス学園の体験入学も、風間くんが申し込んだことで、人一倍エリートになりたがっていたのも風間くん。
吸ケツ鬼の正体は何者なのか?なぜ噛まれるとおバカになってしまうのか?
風間くんの書き残した「33」のダイング(?)メッセージの謎に、「かすかべ探偵倶楽部」を結成したしんのすけたちと、落ちこぼれ生徒会長の阿月チシオが挑む。
意外と言っては失礼ながら、ミステリの部分もミスリードが巧みでよく出来ている。
誰も彼も怪しく見えてくるし、吸ケツ鬼の動機の部分は相当強引ながらも、うまいこと騙された。

エリート至上主義の学園と、人をおバカにする吸ケツ鬼、この二つの要素が巧みに組み合わされ、一つの価値観に支配された偽りのユートピアでは無い、本当の多様性の持つ価値が導き出されるという仕組み。
泣かせるのは、コトの発端である風間くんのエリートになりたがる動機だ。
風間くんが自分だけでなく、かすかべ防衛隊のみんなにもエリートになって欲しくて、フリーダムすぎて学園のシステムと馴染めないしんのすけたちと衝突していたのは、実は小学校に入ってもみんなと別れたくなかったからだったのだ。
でも、いつまで一緒にいられるかなんて誰も分からないし、一緒にいなければ友達じゃないということもない。
まだ5年しか人生を知らないからこその、風間くんとしんのすけの幼くて熱い想いが激突するクライマックスは、「クレヨンしんちゃん」史上ベストな「モーレツ!オトナ帝国の逆襲」の“未来を取り戻す戦い”をちょっと彷彿とさせる。

本作は、子供たちの友情物語に、オトナなテーマを内包させた傑作だと思う。
しかし、永遠の5歳児に寄り添ったオトナ視点のミニマムさゆえに、やはり原恵一時代の最後の二作は超えられていない。
あれはあれで、「クレヨンしんちゃん」を小さなお友だちから奪って、大きなお友だちのものにしてしまったと言う批判はあったが、世知辛いオトナ視点がしんのすけたちのピュアな世界と対比され、物語をグッとディープにしていた。
もちろん本作もイヤーベストに顔を出すくらいのポテンシャルは十分にあるのだが、たとえば20年代を代表する作品たり得るのか、と考えるとちょっと弱いと思う。
キッズムービーとしては文句なしで、無い物ねだりなのは分かっているけど、大きなお友だちの生きずらさみたいなものを生かした「クレヨンしんちゃん」を、いつかまた観たい。

クレヨンしんちゃんはメキシコに引っ越したことがあるが、今回はテキーラとはちみつを使ったカクテル「エル・ドラード」をチョイス。
テキーラ45ml、レモンジュース30ml、はちみつ3tspをシェイクして、氷を入れたグラスに注ぐ。
最後にカットしたオレンジ一切れを沈めて完成。
テキーラの強い風味を、レモンの酸味とはちみつのやさしい甘みで、優しくまとめあげている。
暑い季節にも合う、清涼感のある一杯だ。

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白蛇:縁起・・・・・評価額1650円
2021年08月05日 (木) | 編集 |
千年先でも愛してる。

唐の末期、蛇狩りたちの村に住む若者・許宣は、不思議な力を持つ美女・白を助けて冒険の旅に出る。
日本でもクリーンヒットとなった「羅小黒戦記~ぼくが選ぶ未来~」に続いて、チームジョイが紹介する中国アニメーション映画第二弾。
こちらも2年前に在日中国人向けに字幕版で限定公開されたものを、改めてクオリティの高い吹替え版を制作して正式公開。
おなじみ「白蛇伝」を、中国の新興アニメーションスタジオの追光動画とワーナーブラザーズが、中米合作でCGアニメーション化した作品だ。
とは言っても、よく知られた民話そのまんまではなく、元の話に繋がるビギニング的な作りになっており、かなり現代的なアレンジを効かせている。
脚本は大毛、監督は黄家康と趙霽が務める。

世の中が乱れていた晩唐の頃。
国師(柴田秀勝)の命令によって、人々が蛇を大量に捕獲していた。
蛇狩の村に住む許宣(佐久間大介)は、ある時滝のそばに倒れていた不思議な力を持つ美女・白(三森すずこ)を助ける。
実は彼女は白蛇の化身で、国師を暗殺しようとするも失敗し、記憶を失っていたのだ。
白の持っていた宝具の簪に、宝青坊の刻印があったことから、二人は彼女の記憶を取り戻すための旅に出て、すぐに恋におちる。
だが、白が人間の宣と共にいる所を見た蛇族は、彼女が裏切ったと勘違いし、刺客として妹の青(佐倉綾音)を送り込んでくる。
国師の部下の道士(石川界人)も白を狙い、姉妹との間に戦いが起こる。
一方、宝青坊の主(悠木碧)を尋ねた宣は、白とずっと一緒にいるために自分を妖怪にして欲しいと願う。
その頃、集められた蛇たちの精気を吸収した国師は、恐ろしい魔力を身につけ、蛇族との最終決戦に出ようとしてた・・・・


追光動画のCEOを務めるギャリー・ワン(王微)は 、名門ジョンズ・ホプキンス大学で学び、米国でキャリアをスタートさせると、32歳の若さでYouTubeよりも早く動画サイトTudouを設立。
小説家兼劇作家としても活動し、2013年に追光動画を設立すると、経営者としてだけでなく会社の最初の映画「ガーディアン・ブラザーズ -小門神-」では監督・脚本もこなしたスーパーマンだ。
彼だけでなく、現在の中国のアニメーション業界には、欧米や日本で映像教育を受け、国際感覚を持った才能豊かなスタッフが山ほどいる。
近年中国のアニメーションが怒涛の勢いで優れた作品を送り出し、その多くが本作のように極めて中国的でありながら、一方でハリウッド的なテイストを持っているのも、単に中米合作だからという訳でもないのだろう。

本作の原作は、中国の四大民間説話の一つ「白蛇伝」だ。
我が国でも古くから親しまれ、円谷英二が特技監督を務めた豊田四郎監督の「白夫人の妖恋」や、日本最初の長編カラーアニメーション映画となった東映動画の「白蛇伝」は、映画史的にも重要な作品である。
南宋の時代、西湖の辺りに住む青年・許宣は白蛇の化身・白娘子と恋におちる。
一度は別れたものの白娘子は諦めず、蘇州にまで追ってきて許宣と暮らし始めるのだが、最後は法海和尚の法力によって小間使いの青青と共に正体を暴かれ、封じられる。
大体はこんな話だが、民話なので色々なバリエーションがあり、後日修行で法力を身に付けた許宣が二人を解放する版もある。
本作は誰もが知る「白蛇伝」の物語ではなく、原作から500年前の晩唐の時代を舞台としているのが最大の特徴。
これは白と宣の恋があまりにも運命的なため、彼らの前世でも何かがあったのでは?というところからの発想だという。
また原作では白娘子が拾った青魚の化身だった青青が、本作では白の妹の青に変わっている。

落ち着いた印象のヒロインに、勝気な性格の妹がいるのは、「アナと雪の女王」を彷彿とさせ、蛇狩の村にあって蛇を狩らない宣のキャラクターは、どこか「ヒックとドラゴン」のヒックを思わせる。
感情移入しやすいキャラクターを作り、作品世界に入りやすくするのはハリウッド脚本術のセオリー通り。
道士、国師、蛇母の三段階の敵役は徹底的に冷酷で利己的に、一方でホッコリさせるコミックリリーフとして宣の愛犬のハラマキを配置。
余談だがハラマキは原語では肚兜(どぅどう)なので、イメージとしては金太郎の前掛けに近い。
物語の変数を作り出すトリックスターは、ツンデレの中国版阿修羅男爵こと宝青坊の主の化け狐ちゃん。
中国古典を題材としながら、キャラクター造形や物語の構造は、ディズニーやドリームワークスといった米国産アニメーションをベンチマークして極めてモダンだ。

墨絵アニメーションの伝統を感じさせる冒頭から、蛇狩の村の仙境のような世界観。
傘を持って空を飛ぶ描写は、「となりのトトロ」へのオマージュか。
二人が恋におちる川の舟旅は、山水画のような情景で唄をやりとりするロマンチックさ。
遊び心の詰まったおもちゃ箱のような宝青坊のビジュアルに、インディ・ジョーンズ的な迷宮からの脱出劇もあれば、巨大化した白と双頭の大蛇となった蛇母が戦う迫力満点のクライマックスは、もはや怪獣映画だ。
これだけ盛り盛りに盛ってもバランスが崩壊しないのは、全ての要素が大なり小なり中国の民話伝説には含まれていて、作品の世界観に吸収出来ているのと、物語の軸となるラブストーリーがしっかりしているからだろう。
中国四千年のカルチャーキャパシティ、恐るべしだ。
墨で描かれた古の世界に、想像力でカラフルな色をつけたような美術はとても魅力的で、キャラクターデザインもハリウッド映画調ではあるのだが、東洋人の顔を魅力的に見せる造形センスはやはり異なる。
3DCGの映像デザインとして、中国アニメーションはもはやハリウッドと双璧と言っていい。

上々の仕上がりの冒険ファンタジーの、ごく短い序盤の間に主人公カップルのキャラクターを立て、二人が恋に落ちる筋立てを説得力のあるものにしているのは大したものだ。
中国ではまだまだアニメーション映画=子供向けという認識が強く、上映時間を95分前後にすることを求められるそうで、いろいろ切り詰めた中で最もコンパクトにキャラクターの感情を進められるのが恋の唄という訳か。
二人の恋の顛末は、「タイタニック」が大きな影響を与えているように見えるが、やっぱり宣を朴訥で情の深いキャラクターにしたのが効いていて、時空を超える真実の愛に涙。
これだけピュアなラブストーリーにしておいて、500年後の結末が原作通り封じられたままだとあまりにも不憫なので、ハッピーエンドの東映動画版につながるということにしておこう。
ちなみに中国では、今年7月23日に続編「白蛇2:青蛇劫起」が公開中。
脚本の大毛と、監督の黄家康は続投。
予告を観ると、法海和尚と戦った青が現在にタイムスリップする?
本作の共同監督の趙霽が撮った「ナタ転生」みたいなノリなのかもしれないが、同じスタジオの作品だし、もしかするとクロスオーバーもありかも。
“中国民話ユニバース”とか、ムッチャ面白そうだ。
個人的には、宝青坊の化け狐ちゃんを主人公にした、スピンオフのTVシリーズとか見てみたい。
作った宝具がいろいろ問題起こして、それを狐ちゃんがツンデレな対応で解決してゆくとか、いくらでも作れそう。

今回は「白」つながりで、白酒「江小白」をチョイス。
白酒といえば、貴州茅台酒などの高級酒が有名で、ビジネスシーンの贈答品や接待の席に出され、年配の男性に好まれるイメージ。
対して江小白は、新しイメージ戦略を駆使し、白酒に縁の無かった若者たちの間で人気沸騰。
この辺りも、近年の中国アニメーションに通じるものがある。
今は蒸留酒でも、比較的アルコール度数が低く、フルーティでクセのないまろやかさが好まれるのは、万国共通なのかもしれない。

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サイダーのように言葉が湧き上がる・・・・・評価額1650円
2021年08月01日 (日) | 編集 |
声で、伝えるということ。

スマホの取り違えで出会った、コミュニケーションが苦手な俳句少年チェリーと、コンプレックスをひた隠すマスク少女のスマイルが、とある老人の思い出が詰まった、50年前のレコードの捜索を手伝うことに。
夏休みを共に過ごすうちに、二人の距離は急速に詰まってゆく。
地方のショッピングモールを舞台に、ポップなビジュアルで描かれる、まさに湧き上がる真夏のサイダーのような、フレッシュなボーイ・ミーツ・ガール・ムービー
音楽レーベル「フライングドッグ」の設立10周年記念作品で、TVアニメーション版「四月は君の嘘」などで知られるイシグロキョウヘイが本作で長編映画監督デビューを飾った。
総作画監督とキャラクターデザインを務めるのは、監督の妻でもある愛敬由紀子。
主人公のチェリーを八代目市川染五郎、スマイルを杉咲花が演じ、潘めぐみや花江夏樹、山寺宏一らが脇を固める。

俳句作りが趣味の高校生チェリー(市川染五郎)は、人との会話が苦手で、話しかけられないようにいつも大きなヘッドホンをつけている。
彼はぎっくり腰の母の代わりに、ショッピングモールにあるデイケアセンター「陽だまり」でバイトをしているのだが、ひょんなことから、モールに来ていたスマイル(杉咲花)とスマホを取り違えてしまう。
スマイルはカワイイを探す動画チャンネル、「キュリオ・ライブ」で人気のインフルエンサーだが、出っ歯がコンプレックスで矯正中。
矯正具の付いた前歯を隠すために、いつもマスクをしている。
共に思春期のコンプレックスを抱えた二人は親しくなり、スマイルもデイケアセンターでバイトを始める。
そんな時、利用者のフジヤマ(山寺宏一)が、亡き妻のレコードをずっと探し続けていることを知った二人は、彼を手伝うことにするのだが・・・・


まずはアニメーションならではの斬新なビジュアルが、未見性を演出する。
リーニュクレールの技法のアーティストたち、特にわたせせいぞうのイラストを彷彿とさせる、ポップでカラフルな美術はインパクト大だ。
舞台となる架空の地方都市「小田市」には、イオンモールっぽい巨大なショッピングモールがあり、市民たちの生活の中心となっている。
モールの周辺の一面の田んぼに、遠くに山並みが見える風景は、スカーン!と空が抜けている。
この広い空を心象のキャンバスに、刻々と色合いを変える雲の表情で画面の奥行きとメリハリを表現して秀逸。
どこでもなく、どこでもあり得る、いわば現代日本の原風景だ。

これは主人公のチェリーが、言葉を声にして想いを伝えることの大切さに気付く物語で、彼は趣味が俳句作りのくせに人前で話すのが苦手でコミュ症気味。
音楽を聴いているわけでもないのに、人から話しかけられないために、いつも大きなヘッドホンをつけている。
自分の心の情景は俳句として言語化するのに、それを他人に伝える気はない。
だから基本俳句を作っても作りっぱなし。
代わって友人の日本とメキシコとのミックスの少年、ビーバーが彼の俳句を見たまま街の至るところにタギングしている。
ただし日本語は「話せるが書けない」ので、結構漢字の間違いがある。
移民のビーバーは、無意識に言葉を伝えることの重要性を認識しているのだ。
一方のスマイルは、人気動画配信者でインフルエンサーなのに、リスみたいな出っ歯が自分の理想とする容姿と相容れずコンプレックスに。
モールの歯科医で矯正中だが、絶対に矯正具をつけた歯を見られたくなくて、いつもマスクで顔を覆っている。
外界を拒絶するチェリーのヘッドホンとスマイルのマスクが、それぞれの思春期の悩みと自信の無さを可視化する。

作劇にも工夫が凝らされている。
若い二人の葛藤が、50年前の恋人たちの想いに触れて解消してゆく仕掛け。
物語の序盤で、俳句の先生に皆の前で自作の句を詠むよう指示されたチェリーは、俳句は文字の芸術だから、わざわざ声にして読まなくてもいいと言う。
この時点でのチェリーは、人生で人と繋がることの本当の意味を知らないのである。
フジヤマがいつも持っている空のレコードジャケットには、「YAMAZAKURA」というタイトルが。
これはシンガーソングライターだったフジヤマの亡き妻のレコードで、ショッピングモールが出来る以前、レコードのプレス工場があったこの場所で、フジヤマ自身が作ったもの。
いつの間にか、中身だけがなくなってしまった。
「もう一度、愛する妻の声を聞きたい」
チェリーとスマイルは、フジヤマの願いを叶えるべく、消えたレコードのことを調べはじめるのだが、この探索が若い二人の葛藤に触れて徐々に影響してゆく。

登場人物の周りに配された、俳句に動画配信、タギング、そしてレコードと全て「想いを伝える」ことリンクしている。
山桜は葉(歯)と花(鼻)が同時に出ることから、「出っ歯」を意味する俗称でもあり、ジャケットの写真に残るフジヤマの妻はスマイルと同じような出っ歯。
だけど彼女はそのことをコンプレックスに思ったりはせず、自らのレコードのタイトルにしていて、愛した夫はずっとそのレコードを探し続けている。
スマイルが昭和の同世代少女に心を動かされている時、チェリーもまた迷っている。
言葉だけでは足りない、声にしなければ伝わらないこともあるということに、スマイルとの淡い恋を通してようやく気付くのだ。

そしてついに探し当てた「YAMAZAKURA」の中身、劇中歌を歌うのは大貫妙子!
そう、本作は70年代後半から80年代にかけて流行した、シティポップへの大いなるオマージュ。
レコードの制作年代の設定はなぜか半世紀ちょっと前と少しズレているが、シティポップと「ハートカクテル」との同時代性を考えると、わたせせいぞう風の絵柄も合点がいく。
そしてこの頃こそ、日本人の生活スタイルが大きく変わり、モータリゼーションの発達と共に郊外が開発され、巨大なショッピングモールがいくつも作られるようになった時代。
音楽レーベルの記念映画だけあって、物語は日本のポップシーンの歴史を紐解きながら、俳句や歌といった作品を声にして伝えることの大切さを描き出してゆく。
たとえ歌詞を知っていても、歌になって初めて思い出となるように、タギングで見たことのある俳句も、作者が想いをこめて詠んでこそ、気持ちとなって突き刺さるのである。
クライマックスは夏祭りに花火大会と、まさにザ・ニッポンの夏!
コロナ禍でどこにもいけない夏休みに観るのに、これほど相応しい映画もあるまい。
映画館は安全だし、ファーストデートムービーにはピッタリだ。

今回は、真夏の青空のようなサイダーを使ったカクテル「ブルーキュラソー&サイダー」をチョイス。
氷を入れたタンブラーにブルーキュラソーを45ml注ぎ、サイダーで満たして軽くステア。
最後にスライスしたライムを添えて完成。
スッキリとした甘口のカクテルは、初恋の味。

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