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2021年09月27日 (月) | 編集 |
大平原の風が、少女を呼ぶ。
西武開拓史にその名を残す傑物、カラミティ“疫病神”・ジェーンの少女時代を描く物語。
男の子と喧嘩ばかりしていた勝ち気な開拓民の少女マーサ・ジェーン・カナリーは、いかにしてフロンティアのレジェンドとなったのか。
輪郭線が存在せず、色の組み合わせで構成されるカラフルなアニメーションで、まだ何者でもない少女の冒険を描くというコンセプトは、レミ・シャイエ監督の前作「ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん」からそのまま地続き。
極北と荒野と舞台は真逆だが、共に時代は19世紀で物語の基本構造もよく似ている。
頼りになる犬と、友になる男の子がいるのも共通だ。
インディアン戦争の時代、プロの斥候として、また射撃の名手としても知られたカラミティだが、本作はリアルな人物を描写したものとはちょっと違う。
彼女の人生は謎が多く、自叙伝でも盛ってる部分が多くあると言われる。
カラミティやワイルド・ビル・ヒコック、バッファロー・ビルといった当時の著名な開拓者たちは、アメリカ最初の“アベンジャーズ”みたいなもので、自分の冒険をいろいろ脚色して語るセルフ吟遊詩人でもあった。
自らの語った物語や、後年作られたメディアによって人物像が作られていったのである。
カラミティも、晩年にバッファロー・ビルが主催したワイルドウエストショーに自ら出演し、後年には多くのエンターテイメントで描かれた。
セシル・B・デミル監督の「平原児」では、恋愛体質のカラミティをジーン・アーサーが艶っぽく演じ、ドリス・デイ主演のミュージカル「カラミティ・ジェーン」には、口が悪くて喧嘩っ早い陽気なカラミティが登場する。
史実のカラミティは、11歳だった1866年に家族と共にミズーリからモンタナ、最終的にはユタへと移り住み、このワイルドな旅の過程で、自然の中で生き抜き、後にプロの斥候というキャリアに繋がる多くのスキルを身につけたとされる。
映画は目的地をオレゴンに変更し、幌馬車隊の一員として旅するカラミティに何が起こったのかを、史実をベースに想像力を駆使して脚色してゆく。
幌馬車隊は保守的な旅団長のアブラハムに率いられ、性によって求められる役割と振る舞いが厳格に決められている。
女性は馬に乗ることや、家畜を扱うことはせず、炊事や洗濯、育児、薪拾いなどをこなす。
しかし自尊心が強く、なんでも自分でやってみたいカラミティは、そんな現状に満足せず、父のロバートが怪我をしたことを切っ掛けに、ズボンをはき馬に乗り、馬車を操るようになる。
当然、幌馬車隊では異端児で、アブラハムを筆頭によく思わない者も多い。
そして、ある事件をきっかけに、カラミティは一人で四ヶ月に及ぶ大冒険に旅立ち、危機また危機の連続を幸運な出会いと自分の才覚で乗り切ってゆくのである。
パイオニアとして道を切り開く、ワクワクするエピソードの数々は、82分しかないとは信じられないくらいてんこ盛り。
幌馬車の旅から始まる物語は、荒野から大森林、開拓者の街、金鉱の洞窟、騎兵隊駐屯地と次々に舞台を移し、西部劇へのオマージュたっぷりにコミカルなアクションを見せてくれる。
色の組み合わせによって表現される世界も、とても美しい。
アメリカを旅すると、本当に絵具をぶち撒けたんじゃないかというカラフルな風景を多く目にするのだが、アリゾナは赤、コロラドは白と、土地によってキーカラーが変わるのが面白いのだ。
本作の手法はこのランドスケープの表現にぴったりで、スコープサイズの画面は全てのカットが絵画のように決め込まれていて、動いていなくても十分に鑑賞に値する。
フロンティアウーマンとして、自らを成長させたカラミティに、周りの見方も変わってゆく。
ここが本作のキモで、理解のない頭カチカチのオヤジ共を強引にねじ伏せるのではなく、カラミティの成長を見た彼ら自身の意識が変化する、いや変化せざるを得ないのである。
男だとか女だとかという属性ではなく、大西部の過酷な自然を生き抜くために必要な、頼りになる斥候、仲間として彼らはカラミティを歓迎する。
カラミティもまた、自らのジェンダーを否定しない。
彼女がズボンをはくのは単に自然の中で動きやすく、馬に乗りやすいからで、実際大人になったカラミティがスカートをはいている写真も複数残されている。
女性解放を描く作品は、対立を軸に描きがちだが、主人公だけでなく皆が学んで変化してゆくという、この作品のスタンスはとても重要。
レミ・シャイエは、過去のどの作品とも違う、新たなカラミティ像を作り上げた。
自由で勇敢な少女との大冒険は、前作以上の楽しさに満ちている。
今回は、アメリカを代表するスピリット、バーボンウィスキーの「フォアローゼス プラチナ」をチョイス。
この映画の時代から少し後、1888年に創業した老舗銘柄。
クリーミーな舌触りと、芳醇な香りに複雑な風味、長く後を引く余韻はストレートかロックで楽しみたい。
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西武開拓史にその名を残す傑物、カラミティ“疫病神”・ジェーンの少女時代を描く物語。
男の子と喧嘩ばかりしていた勝ち気な開拓民の少女マーサ・ジェーン・カナリーは、いかにしてフロンティアのレジェンドとなったのか。
輪郭線が存在せず、色の組み合わせで構成されるカラフルなアニメーションで、まだ何者でもない少女の冒険を描くというコンセプトは、レミ・シャイエ監督の前作「ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん」からそのまま地続き。
極北と荒野と舞台は真逆だが、共に時代は19世紀で物語の基本構造もよく似ている。
頼りになる犬と、友になる男の子がいるのも共通だ。
インディアン戦争の時代、プロの斥候として、また射撃の名手としても知られたカラミティだが、本作はリアルな人物を描写したものとはちょっと違う。
彼女の人生は謎が多く、自叙伝でも盛ってる部分が多くあると言われる。
カラミティやワイルド・ビル・ヒコック、バッファロー・ビルといった当時の著名な開拓者たちは、アメリカ最初の“アベンジャーズ”みたいなもので、自分の冒険をいろいろ脚色して語るセルフ吟遊詩人でもあった。
自らの語った物語や、後年作られたメディアによって人物像が作られていったのである。
カラミティも、晩年にバッファロー・ビルが主催したワイルドウエストショーに自ら出演し、後年には多くのエンターテイメントで描かれた。
セシル・B・デミル監督の「平原児」では、恋愛体質のカラミティをジーン・アーサーが艶っぽく演じ、ドリス・デイ主演のミュージカル「カラミティ・ジェーン」には、口が悪くて喧嘩っ早い陽気なカラミティが登場する。
史実のカラミティは、11歳だった1866年に家族と共にミズーリからモンタナ、最終的にはユタへと移り住み、このワイルドな旅の過程で、自然の中で生き抜き、後にプロの斥候というキャリアに繋がる多くのスキルを身につけたとされる。
映画は目的地をオレゴンに変更し、幌馬車隊の一員として旅するカラミティに何が起こったのかを、史実をベースに想像力を駆使して脚色してゆく。
幌馬車隊は保守的な旅団長のアブラハムに率いられ、性によって求められる役割と振る舞いが厳格に決められている。
女性は馬に乗ることや、家畜を扱うことはせず、炊事や洗濯、育児、薪拾いなどをこなす。
しかし自尊心が強く、なんでも自分でやってみたいカラミティは、そんな現状に満足せず、父のロバートが怪我をしたことを切っ掛けに、ズボンをはき馬に乗り、馬車を操るようになる。
当然、幌馬車隊では異端児で、アブラハムを筆頭によく思わない者も多い。
そして、ある事件をきっかけに、カラミティは一人で四ヶ月に及ぶ大冒険に旅立ち、危機また危機の連続を幸運な出会いと自分の才覚で乗り切ってゆくのである。
パイオニアとして道を切り開く、ワクワクするエピソードの数々は、82分しかないとは信じられないくらいてんこ盛り。
幌馬車の旅から始まる物語は、荒野から大森林、開拓者の街、金鉱の洞窟、騎兵隊駐屯地と次々に舞台を移し、西部劇へのオマージュたっぷりにコミカルなアクションを見せてくれる。
色の組み合わせによって表現される世界も、とても美しい。
アメリカを旅すると、本当に絵具をぶち撒けたんじゃないかというカラフルな風景を多く目にするのだが、アリゾナは赤、コロラドは白と、土地によってキーカラーが変わるのが面白いのだ。
本作の手法はこのランドスケープの表現にぴったりで、スコープサイズの画面は全てのカットが絵画のように決め込まれていて、動いていなくても十分に鑑賞に値する。
フロンティアウーマンとして、自らを成長させたカラミティに、周りの見方も変わってゆく。
ここが本作のキモで、理解のない頭カチカチのオヤジ共を強引にねじ伏せるのではなく、カラミティの成長を見た彼ら自身の意識が変化する、いや変化せざるを得ないのである。
男だとか女だとかという属性ではなく、大西部の過酷な自然を生き抜くために必要な、頼りになる斥候、仲間として彼らはカラミティを歓迎する。
カラミティもまた、自らのジェンダーを否定しない。
彼女がズボンをはくのは単に自然の中で動きやすく、馬に乗りやすいからで、実際大人になったカラミティがスカートをはいている写真も複数残されている。
女性解放を描く作品は、対立を軸に描きがちだが、主人公だけでなく皆が学んで変化してゆくという、この作品のスタンスはとても重要。
レミ・シャイエは、過去のどの作品とも違う、新たなカラミティ像を作り上げた。
自由で勇敢な少女との大冒険は、前作以上の楽しさに満ちている。
今回は、アメリカを代表するスピリット、バーボンウィスキーの「フォアローゼス プラチナ」をチョイス。
この映画の時代から少し後、1888年に創業した老舗銘柄。
クリーミーな舌触りと、芳醇な香りに複雑な風味、長く後を引く余韻はストレートかロックで楽しみたい。

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2021年09月23日 (木) | 編集 |
その時、スレブレニツァで何が起こっていたのか。
作品の密度と熱量に圧倒される。
1990年代、旧ユーゴスラビア連邦崩壊の結果勃発した、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争末期。
第二次世界大戦以降の欧州で起こった、最悪の大量虐殺事件として知られる「スレブレニツァの虐殺」を一人の現地の女性の視点で描いた作品だ。
主人公は、停戦監視のために展開していた国連保護軍の基地で、通訳として働くアイダ。
イスラム教徒のボシュニャク人勢力と、分離独立を主張するセルビア人勢力が血で血を洗う紛争を繰り広げる中、スレブレニツァは国連から安全地帯として指定されていたが、停戦は守られず街には強力な武力を持つセルビア人勢力が侵攻。
国連軍基地には攻撃から逃れた3万人のボシュニャク人市民が保護を求めて押しかけるが、小さな基地は早々に満杯となり、大半はいつ攻撃されるとも知れない無防備な基地外に留め置かれた。
カオスの戦場で、ボシュニャク人でありながら国連軍の職員でもあるアイダが、家族を救おうと奮闘する顛末が描かれてゆく。
2007年に発表した長編第1作「サラエボの花」で、ベルリン国際映画祭の最高賞、金熊賞に輝いたヤスミラ・ジュバニッチ監督の大労作だ。
1995年7月。
ボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァ近郊の国連保護軍基地で、通訳として働くアイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)は、基地に押し寄せる無数の難民たちの姿に驚愕する。
セルビア人勢力のスルプスカ共和国軍が、スレブレニツァに侵攻。
虐殺を恐れた多くの市民が、国連軍に助けを求めて来たのだ。
その数、実に3万人。
わずかな数の兵士しかいない基地に、とても入りきれる数でなかったが、アイダは難民の中に家族の姿を見つけ、夫と二人の息子をなんとか基地内に迎え入れることに成功。
スルプスカのムラディッチ将軍(ボリス・イサコビッチ)との交渉の結果、難民たちは国連軍の保護のもと後方に移送されることになるが、国連軍が計画を立てる前にムラディッチはバス隊を仕立て、基地の外にいる難民を勝手に移送しはじめる。
国連軍のカレマンス大佐(ヨハン・ヘルデンベルグ)が抗議するも、頼みの綱のNATO軍は動かず、圧倒的多数のセルビア人勢力に包囲された国連軍にもはや打つ手は無い。
ムラディッチのバスに乗ったら、確実に殺される。
アイダは、家族を救うために、なりふり構わない行動に出るのだが・・・
かつてのイスラム帝国とキリスト教世界が、侵入と奪還を繰り返して来たバルカン半島は、様々な民族宗教が入り乱れ、一度民族主義に火がついたら止められない“欧州の火薬庫”と呼ばれて来た。
第一次世界大戦は、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、セルビア民族主義者に暗殺されたことをきっかけに始まり、全世界を巻き込む空前の大戦争となった。
第二次世界大戦後は、チトー大統領のカリスマ性によって、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国として統一を維持するが、彼の死後は東欧民主化の余波を受けて連邦が崩壊。
北部のスロべニア、クロアチアは内戦の結果早々に離脱するも、泥沼の紛争に陥ったのがユーゴスラビアの中央に位置し、三つの民族がそれぞれの主張を掲げたボスニア・ヘルツェゴビナだ。
イスラム教徒のボシュニャク人が主導する政府に対して、正教徒のセルビア人たちは旧ユーゴスラビア軍の装備を奪取し、スルプスカ共和国の分離独立を宣言、カソリックのクロアチア人も反旗を翻し、自分たちの領土を確保するための三つ巴の内戦に陥る。
本作の舞台となるスレブレニツァは、もともと各民族が混在するボスニア政府の支配地だったが、徐々にボシュニャク人の難民が流入し、周囲をセルビア人勢力に包囲され孤立していった。
1993年には国連がスレブレニツァを安全地帯に指定し、国連保護軍が展開するも、停戦監視が主任務で戦闘を想定した部隊ではない。
旧ユーゴスラビアは軍事大国だったので、わずか数百人の軽武装の国連軍では、そもそも相手にならないのである。
本作の劇中でも基地司令官のオランダ軍大佐が、NATOに空爆を要請して聞き入れられない描写があるが、国連が本格的な装備を持った和平履行部隊を組織し本格介入するのは、虐殺事件が起こった後のことなのだ。
もっとも、規模の大きさは別として、民間人虐殺はセルビア人だけが行なったのではない。
本作はあくまでもスレブレニツァで起こった事件を、その場に居合わせたアイダの視点で描いたものだが、事件に至る紛争の間それぞれの陣営が敵対するエスニックグループを民族浄化した。
ボシュニャク人に虐殺されたセルビア人も少なくなく、お互いに対する積み重なった怨みが事態をエスカレートさせたのもまた事実。
作中でも「セルビア人を殺した奴らは許さない」という台詞もある。
これは四半世紀前に起こった、忘れてはならない歴史を描いた物語だが、偶然にも強烈な現在性を持つこととなった。
何しろ、この映画に描かれる光景は、つい先日アフガニスタンで起きていたこととそっくりなのである。
アフガニスタンもまた多民族国家で、タリバンは多数派のパシュトゥーン人主体。
欧米の軍に協力したりして、迫害を恐れている人たちは、多くが非パシュトゥーンの少数民族だという。
迫りくるタリバンから逃れるため、無数の市民がカブールの空港に押しかけるが、飛行機に乗れるのは限られた人たちだけというのも、本作のシチュエーションと共通する。
アイダはボシュニャク人だが国連軍の職員でもあるので、彼女は国連軍と共に撤退するリストに載っているが、夫と二人の息子は載っていない。
脱出を希望する全員を助けられないのは明白で、スレブレニツァの状況はアフガニスタンよりもさらに厳しい。
カブール空港には各国の航空機が続々と到着し、協力者とその家族を救い上げていった一方で、こちらは国連軍とその関係者と認定された者しか脱出できないのである。
誰を助けて、誰を見捨てるか。
民族浄化の連鎖を見て来たアイダは、セルビア人勢力が用意したバスに乗せられたら最後、夫や息子たちが二度と戻らないことを知っている。
ここからアイダはなりふりかまわない行動に出て、強引に家族をリストに入れるよう画策するのだが、現実は甘くない。
圧倒的多数のセルビア人勢力の中で、孤立した国連軍の無力さもショッキングだ。
セルビア人勢力にボシュニャク人を勝手に移送され、基地と目と鼻の先で虐殺されているのが分かっているのに何も出来ない。
自分たちを送り込んだ国連もNATOも、全てを現場に押しつけ沈黙したまま。
中立地帯のはずの国連軍基地に、セルビア人の兵士が我がもの顔で押し入り、ボシュニャク人たちを連れ去ってゆく。
殺されると分かっているのに彼らを止めることが出来ず、咽び泣く国連軍の若い兵士の姿が心に刺さる。
どこまで事実に添っているのかは不明だが、最後には基地司令官まで自室に引きこもり、職場放棄してしまうのには唖然とした。
まあ実際のところ、彼に出来ることは何もなかったのだろうけど。
この事件の後、1998年に起こったコソボ紛争では、NATOが大規模な軍事介入を行い、一連の旧ユーゴスラビアを巡る紛争はようやく終結に向かうことになる。
軍事介入の是非はともかく、やはり官僚組織は一度ことが起こらないと動かないもののようだ。
ボスニア・ヘルツェゴビナでの紛争は、事件の半年後にデイトン合意が結ばれたことによって終わり、セルビア人主導のスルプスカ共和国とボシュニャク人・クロアチア人主導のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の共存体制が築かれる。
映画の最終章では、戦後スレブレニツァに戻って来たアイダの姿が描かれる。
紛争が始まる前は教師だったという彼女は、小学校の教師として復帰するのだが、戦後のスレブレニツァが位置するのはスルプスカ共和国内である。
多民族都市だったスレブレニツァには、アイダのように戻って来たボシュニャク人もいれば、セルビア人もいる。
平和になったからといって、全てのわだかまりが解消するはずもない。
小学校で開かれた子供たちの発表会には、かつて殺し合った敵同士が今は生徒の親として同席している。
顔の表情を手のひらで隠す、生徒たちのパフォーマンスが象徴的。
発表会を見守るアイダの、笑っているとも怒っているとも、全ての感情を押し殺したような表情が、全てを物語る。
いつまで経っても繰り返される、人類の罪と罰。
映画は基本的に、妻であり母であったアイダの経験だけに絞って分かりやすく描かれているが、この映画をきっかけとしてもっと歴史を知ってほしいという意図は明確だ。
今、観るべき傑作である。
今回はバルカン半島の蒸留酒「ラキヤ」をチョイス。
様々な果実を発酵させて作られる伝統的な酒で、昔は自家製が普通だったという。
バルカン半島のキリスト教徒は、儀式で使うワインの代用にすることもあるとか。
非常に強い酒なので、ショットグラスでクイっと飲むのが普通だが、ウォッカなどと同じように冷凍庫でキンキンに冷やしてもなかなか美味しい。
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作品の密度と熱量に圧倒される。
1990年代、旧ユーゴスラビア連邦崩壊の結果勃発した、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争末期。
第二次世界大戦以降の欧州で起こった、最悪の大量虐殺事件として知られる「スレブレニツァの虐殺」を一人の現地の女性の視点で描いた作品だ。
主人公は、停戦監視のために展開していた国連保護軍の基地で、通訳として働くアイダ。
イスラム教徒のボシュニャク人勢力と、分離独立を主張するセルビア人勢力が血で血を洗う紛争を繰り広げる中、スレブレニツァは国連から安全地帯として指定されていたが、停戦は守られず街には強力な武力を持つセルビア人勢力が侵攻。
国連軍基地には攻撃から逃れた3万人のボシュニャク人市民が保護を求めて押しかけるが、小さな基地は早々に満杯となり、大半はいつ攻撃されるとも知れない無防備な基地外に留め置かれた。
カオスの戦場で、ボシュニャク人でありながら国連軍の職員でもあるアイダが、家族を救おうと奮闘する顛末が描かれてゆく。
2007年に発表した長編第1作「サラエボの花」で、ベルリン国際映画祭の最高賞、金熊賞に輝いたヤスミラ・ジュバニッチ監督の大労作だ。
1995年7月。
ボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァ近郊の国連保護軍基地で、通訳として働くアイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)は、基地に押し寄せる無数の難民たちの姿に驚愕する。
セルビア人勢力のスルプスカ共和国軍が、スレブレニツァに侵攻。
虐殺を恐れた多くの市民が、国連軍に助けを求めて来たのだ。
その数、実に3万人。
わずかな数の兵士しかいない基地に、とても入りきれる数でなかったが、アイダは難民の中に家族の姿を見つけ、夫と二人の息子をなんとか基地内に迎え入れることに成功。
スルプスカのムラディッチ将軍(ボリス・イサコビッチ)との交渉の結果、難民たちは国連軍の保護のもと後方に移送されることになるが、国連軍が計画を立てる前にムラディッチはバス隊を仕立て、基地の外にいる難民を勝手に移送しはじめる。
国連軍のカレマンス大佐(ヨハン・ヘルデンベルグ)が抗議するも、頼みの綱のNATO軍は動かず、圧倒的多数のセルビア人勢力に包囲された国連軍にもはや打つ手は無い。
ムラディッチのバスに乗ったら、確実に殺される。
アイダは、家族を救うために、なりふり構わない行動に出るのだが・・・
かつてのイスラム帝国とキリスト教世界が、侵入と奪還を繰り返して来たバルカン半島は、様々な民族宗教が入り乱れ、一度民族主義に火がついたら止められない“欧州の火薬庫”と呼ばれて来た。
第一次世界大戦は、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、セルビア民族主義者に暗殺されたことをきっかけに始まり、全世界を巻き込む空前の大戦争となった。
第二次世界大戦後は、チトー大統領のカリスマ性によって、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国として統一を維持するが、彼の死後は東欧民主化の余波を受けて連邦が崩壊。
北部のスロべニア、クロアチアは内戦の結果早々に離脱するも、泥沼の紛争に陥ったのがユーゴスラビアの中央に位置し、三つの民族がそれぞれの主張を掲げたボスニア・ヘルツェゴビナだ。
イスラム教徒のボシュニャク人が主導する政府に対して、正教徒のセルビア人たちは旧ユーゴスラビア軍の装備を奪取し、スルプスカ共和国の分離独立を宣言、カソリックのクロアチア人も反旗を翻し、自分たちの領土を確保するための三つ巴の内戦に陥る。
本作の舞台となるスレブレニツァは、もともと各民族が混在するボスニア政府の支配地だったが、徐々にボシュニャク人の難民が流入し、周囲をセルビア人勢力に包囲され孤立していった。
1993年には国連がスレブレニツァを安全地帯に指定し、国連保護軍が展開するも、停戦監視が主任務で戦闘を想定した部隊ではない。
旧ユーゴスラビアは軍事大国だったので、わずか数百人の軽武装の国連軍では、そもそも相手にならないのである。
本作の劇中でも基地司令官のオランダ軍大佐が、NATOに空爆を要請して聞き入れられない描写があるが、国連が本格的な装備を持った和平履行部隊を組織し本格介入するのは、虐殺事件が起こった後のことなのだ。
もっとも、規模の大きさは別として、民間人虐殺はセルビア人だけが行なったのではない。
本作はあくまでもスレブレニツァで起こった事件を、その場に居合わせたアイダの視点で描いたものだが、事件に至る紛争の間それぞれの陣営が敵対するエスニックグループを民族浄化した。
ボシュニャク人に虐殺されたセルビア人も少なくなく、お互いに対する積み重なった怨みが事態をエスカレートさせたのもまた事実。
作中でも「セルビア人を殺した奴らは許さない」という台詞もある。
これは四半世紀前に起こった、忘れてはならない歴史を描いた物語だが、偶然にも強烈な現在性を持つこととなった。
何しろ、この映画に描かれる光景は、つい先日アフガニスタンで起きていたこととそっくりなのである。
アフガニスタンもまた多民族国家で、タリバンは多数派のパシュトゥーン人主体。
欧米の軍に協力したりして、迫害を恐れている人たちは、多くが非パシュトゥーンの少数民族だという。
迫りくるタリバンから逃れるため、無数の市民がカブールの空港に押しかけるが、飛行機に乗れるのは限られた人たちだけというのも、本作のシチュエーションと共通する。
アイダはボシュニャク人だが国連軍の職員でもあるので、彼女は国連軍と共に撤退するリストに載っているが、夫と二人の息子は載っていない。
脱出を希望する全員を助けられないのは明白で、スレブレニツァの状況はアフガニスタンよりもさらに厳しい。
カブール空港には各国の航空機が続々と到着し、協力者とその家族を救い上げていった一方で、こちらは国連軍とその関係者と認定された者しか脱出できないのである。
誰を助けて、誰を見捨てるか。
民族浄化の連鎖を見て来たアイダは、セルビア人勢力が用意したバスに乗せられたら最後、夫や息子たちが二度と戻らないことを知っている。
ここからアイダはなりふりかまわない行動に出て、強引に家族をリストに入れるよう画策するのだが、現実は甘くない。
圧倒的多数のセルビア人勢力の中で、孤立した国連軍の無力さもショッキングだ。
セルビア人勢力にボシュニャク人を勝手に移送され、基地と目と鼻の先で虐殺されているのが分かっているのに何も出来ない。
自分たちを送り込んだ国連もNATOも、全てを現場に押しつけ沈黙したまま。
中立地帯のはずの国連軍基地に、セルビア人の兵士が我がもの顔で押し入り、ボシュニャク人たちを連れ去ってゆく。
殺されると分かっているのに彼らを止めることが出来ず、咽び泣く国連軍の若い兵士の姿が心に刺さる。
どこまで事実に添っているのかは不明だが、最後には基地司令官まで自室に引きこもり、職場放棄してしまうのには唖然とした。
まあ実際のところ、彼に出来ることは何もなかったのだろうけど。
この事件の後、1998年に起こったコソボ紛争では、NATOが大規模な軍事介入を行い、一連の旧ユーゴスラビアを巡る紛争はようやく終結に向かうことになる。
軍事介入の是非はともかく、やはり官僚組織は一度ことが起こらないと動かないもののようだ。
ボスニア・ヘルツェゴビナでの紛争は、事件の半年後にデイトン合意が結ばれたことによって終わり、セルビア人主導のスルプスカ共和国とボシュニャク人・クロアチア人主導のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の共存体制が築かれる。
映画の最終章では、戦後スレブレニツァに戻って来たアイダの姿が描かれる。
紛争が始まる前は教師だったという彼女は、小学校の教師として復帰するのだが、戦後のスレブレニツァが位置するのはスルプスカ共和国内である。
多民族都市だったスレブレニツァには、アイダのように戻って来たボシュニャク人もいれば、セルビア人もいる。
平和になったからといって、全てのわだかまりが解消するはずもない。
小学校で開かれた子供たちの発表会には、かつて殺し合った敵同士が今は生徒の親として同席している。
顔の表情を手のひらで隠す、生徒たちのパフォーマンスが象徴的。
発表会を見守るアイダの、笑っているとも怒っているとも、全ての感情を押し殺したような表情が、全てを物語る。
いつまで経っても繰り返される、人類の罪と罰。
映画は基本的に、妻であり母であったアイダの経験だけに絞って分かりやすく描かれているが、この映画をきっかけとしてもっと歴史を知ってほしいという意図は明確だ。
今、観るべき傑作である。
今回はバルカン半島の蒸留酒「ラキヤ」をチョイス。
様々な果実を発酵させて作られる伝統的な酒で、昔は自家製が普通だったという。
バルカン半島のキリスト教徒は、儀式で使うワインの代用にすることもあるとか。
非常に強い酒なので、ショットグラスでクイっと飲むのが普通だが、ウォッカなどと同じように冷凍庫でキンキンに冷やしてもなかなか美味しい。

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2021年09月18日 (土) | 編集 |
映画は、人を救えるのか?
福島県南相馬市に実在するレトロな映画館、“朝日座”を舞台に、本当の意味で人生の拠り所となるのは何か?を描くタナダユキ監督のオリジナル脚本による秀作。
解体されてスーパー銭湯になることが決まっている古い映画館に、ある日突然高畑充希演じる謎の女が押しかけて来て、映画館再生を宣言する。
いったい彼女は何者なのか、なぜ何の縁もゆかりもない映画館を閉じさせまいとするのか。
もともと福島中央テレビの、開局50周年記念として企画された作品。
昨年の10月に、竹原ピストル演じる自殺志願の映画監督の再生を描く、同名の50分のスペシャルドラマが放送され、映画はその前日譚というユニークな二部構成だ。
ドラマ版では謎の人のままの高畑充希のキャラクターも、映画の方でじっくりと描かれているので、時系列通り映画→ドラマの順番の方が観やすいと思う。
朝日座の支配人役で落語家の柳家喬太郎が出演していて、ムッチャ口の悪い高畑充希との軽妙な掛け合いが楽しい。
主人公のメンターとなる、高校の先生役の大久保佳代子が素晴らしい。
小さな映画館・朝日座は、100年近くにわたり南相馬の映画文化を支えてきた。
だが震災にも台風にも耐えてきた映画館も、先の見えないコロナ禍で行き詰まり、支配人の森田保造(柳家喬太郎)は閉館を決意する。
保造が一斗缶で古いフィルムを燃やしていると、突然現れた若い女(高畑充希)が水をかけて消火しフィルムを救い出す。
“茂木莉子”と名乗る女は、東京の映画配給会社で働いていたが、ある人に頼まれて朝日座を再建するためにやって来たと話す。
しかし保造はすでに朝日座の売却と解体を決めてしまっていて、来月には映画館は解体され、その跡地にはスーパー銭湯が建つのだという。
自称茂木莉子は、朝日座を存続させるために、魅力的なラインナップを組むと同時に、借金を返すためのクラウドファンディングをスタート。
実は、彼女には高校時代の恩師の田中茉莉子(大久保佳代子)と交わした、ある約束があった・・・
映画は自称茂木莉子が朝日座を存続させようと奮闘する現在と、彼女は一体何者でなぜここにやって来たのか、過去の人生を並行して描いてゆく。
ことの発端は10年前に起こった東日本大震災で、彼女の本名は「浜野あさひ」という。
福島第一原発の周りから、人も物も去ってゆく中で、父親が除染作業員たちを運ぶタクシー会社を設立し、いわゆる震災成金となったことから家族がバラバラに。
震災をきっかけに、絶対的な拠り所として信じていた家族が、あっけなく崩壊するのを見た彼女は人生に絶望していたのだが、そんな時に出会ったのが型破りな茉莉子先生。
教員になる前は、映画配給会社に務めていたという茉莉子先生に感化されて、自らも映画好きとなったあさひは、その後も先生との交流を深め、まるで先生の人生を追うように映画の世界に。
この経験が、あさひの中で壊れてしまった“家族”という幻想と、それにかわり得るコミュニティの中心としての映画館のイメージを作り上げるのである。
二部作の全体を貫いているのが、価値観の衝突だ。
朝日座を解体して、リハビリ施設付きのスーパー銭湯を作ろうとしている会社の社長は、映画館を存続させても何も変わらないが、スーパー銭湯は過疎の町に雇用を生むという。
雇用が生まれれば、故郷を出て行ってしまった若者たちも戻ってくるかもしれない。
だがそれはあさひの目には、“血の繋がった家族”という簡単に壊れてしまう幻想に、人々がすがっているように見えてしまうのである。
彼女は自分と茉莉子先生のような、赤の他人同士でも築き上げられる新しいコミュニティの方が、街の未来のためには良いのではないかと考える。
ぶっちゃけ、どちらも正論である。
田舎には雇用が必要だし、それは潰れかけた映画館からは生まれない。
雇用が生まれれば、もしかしたら実際帰ってくる人もいるかもしれない。
一方で、映画には確かに人々を惹きつける力があるし、血の繋がりに頼らないコミュニティは、これからの日本社会に必要なものだろう。
そして、映画版では映画館とスーパー銭湯の間で揺れ動いた葛藤が、ドラマ版では対照的なスタンスの二人の映画監督の間で問われる。
竹原ピストル演じる川島健二は、純朴な映画青年像をまんま具現化したようなキャラクターで、撮りたくもないキラキラ青春映画で監督デビューするも、大コケさせてしまい、批評もズタボロ。
かつてのあさひと同じように、人生に絶望して南相馬を訪れた。
ところが、成り行きで新しい映画を作れることになるものの、いざ自由にやっていいとなったら、何を撮ったらいいのかさっぱり分からない。
彼のアンチテーゼとして登場するのが、南相馬のドキュメンタリーを撮ろうとしていうる炎上監督の藤田慎二だ。
みるからにチャラいこの男は、何よりも有名になりたい、儲けたいという欲望が露骨。
しかし、震災と原発事故という未曾有の経験をした南相馬を、自分が世界に紹介しなければという情熱は本物だ。
真摯だが撮りたいものが見つからない監督と、俗物だが明確に撮りたいものがある監督。
そのものの在り方として、より相応しいのは何方なのか。
たぶんそれは、時代や場所、シチュエーションによって変化するものだと思う。
ある視点から見て間違っていても、別の視点からは正しいことなんて幾らでもある。
だから映画もドラマも、物語の帰結する先をゼロサムゲームにはしないのだ。
うまい具合に全員がウィンウィンという結末は、上手く行き過ぎでは?と思わなくもない。
だがこれはタイトル通り、息をするように嘘をつく、嘘つきどもの物語であり、嘘という虚構の中に真実を描くのが映画である。
彼らの嘘には、ちゃんと背景があるのだ。
その象徴となるのが、まさに朝日座。
実は現実の朝日座は、常設映画館としては30年近く前に閉館している。
にもかかわらず、その建物は解体されることなく地元の人々に守られ、不定期の映画上映やコミュニティイベントの場として活用されているという。
常設映画館としての存続という映画的な嘘の中に、新しいコミュニティーの中核としての映画館という真実があることが、本作に絶対的な説得力を付与する。
あさひのメンターとして、彼女の人生に大きな影響を与えた茉莉子先生は、最初に映画の投影法を解説してこんな話をする。
映画が動いて見えるのは人の目の残像現象で、残像現象を起こすには映像と映像の間に暗闇が必要、つまり映画を観ている時間の半分は、ただ暗闇を眺めている。
先生は「半分暗闇みながら、感動したり笑ったりしてるって、だから映画好きって根暗が多いのかもね。でもなんかいいよね」と話す。
この話が原体験となって、やがてあさひは朝日座再建へと邁進するのだが、映し出される虚構の光の半分の、見えない暗闇に隠された真実にスポットを当てたのは寓話としてまことに秀逸。
そしてどんな駄作でもたったワンカット“凄い画”があれば、凡百の“普通”の映画よりも記憶に残る。
これもまた真実である。
南相馬では地元の酒米「夢の香」を使った「御本陣」という地酒を町を上げて盛り上げようとしているのだが、今のところ地元以外ではふるさと納税でしか買えず、私もまだ飲んだことがない。
今回は同じ今回は被災地の宮城県から一ノ蔵の純米吟醸「蔵の華」をチョイス。
同名の酒造好適米「蔵の華」100%で仕込まれ、その名のとおりふくよかな吟醸香が広がる。
少し冷やして飲むと、まろやかでフルーティな純米吟醸らしい味わいを楽しめる。
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福島県南相馬市に実在するレトロな映画館、“朝日座”を舞台に、本当の意味で人生の拠り所となるのは何か?を描くタナダユキ監督のオリジナル脚本による秀作。
解体されてスーパー銭湯になることが決まっている古い映画館に、ある日突然高畑充希演じる謎の女が押しかけて来て、映画館再生を宣言する。
いったい彼女は何者なのか、なぜ何の縁もゆかりもない映画館を閉じさせまいとするのか。
もともと福島中央テレビの、開局50周年記念として企画された作品。
昨年の10月に、竹原ピストル演じる自殺志願の映画監督の再生を描く、同名の50分のスペシャルドラマが放送され、映画はその前日譚というユニークな二部構成だ。
ドラマ版では謎の人のままの高畑充希のキャラクターも、映画の方でじっくりと描かれているので、時系列通り映画→ドラマの順番の方が観やすいと思う。
朝日座の支配人役で落語家の柳家喬太郎が出演していて、ムッチャ口の悪い高畑充希との軽妙な掛け合いが楽しい。
主人公のメンターとなる、高校の先生役の大久保佳代子が素晴らしい。
小さな映画館・朝日座は、100年近くにわたり南相馬の映画文化を支えてきた。
だが震災にも台風にも耐えてきた映画館も、先の見えないコロナ禍で行き詰まり、支配人の森田保造(柳家喬太郎)は閉館を決意する。
保造が一斗缶で古いフィルムを燃やしていると、突然現れた若い女(高畑充希)が水をかけて消火しフィルムを救い出す。
“茂木莉子”と名乗る女は、東京の映画配給会社で働いていたが、ある人に頼まれて朝日座を再建するためにやって来たと話す。
しかし保造はすでに朝日座の売却と解体を決めてしまっていて、来月には映画館は解体され、その跡地にはスーパー銭湯が建つのだという。
自称茂木莉子は、朝日座を存続させるために、魅力的なラインナップを組むと同時に、借金を返すためのクラウドファンディングをスタート。
実は、彼女には高校時代の恩師の田中茉莉子(大久保佳代子)と交わした、ある約束があった・・・
映画は自称茂木莉子が朝日座を存続させようと奮闘する現在と、彼女は一体何者でなぜここにやって来たのか、過去の人生を並行して描いてゆく。
ことの発端は10年前に起こった東日本大震災で、彼女の本名は「浜野あさひ」という。
福島第一原発の周りから、人も物も去ってゆく中で、父親が除染作業員たちを運ぶタクシー会社を設立し、いわゆる震災成金となったことから家族がバラバラに。
震災をきっかけに、絶対的な拠り所として信じていた家族が、あっけなく崩壊するのを見た彼女は人生に絶望していたのだが、そんな時に出会ったのが型破りな茉莉子先生。
教員になる前は、映画配給会社に務めていたという茉莉子先生に感化されて、自らも映画好きとなったあさひは、その後も先生との交流を深め、まるで先生の人生を追うように映画の世界に。
この経験が、あさひの中で壊れてしまった“家族”という幻想と、それにかわり得るコミュニティの中心としての映画館のイメージを作り上げるのである。
二部作の全体を貫いているのが、価値観の衝突だ。
朝日座を解体して、リハビリ施設付きのスーパー銭湯を作ろうとしている会社の社長は、映画館を存続させても何も変わらないが、スーパー銭湯は過疎の町に雇用を生むという。
雇用が生まれれば、故郷を出て行ってしまった若者たちも戻ってくるかもしれない。
だがそれはあさひの目には、“血の繋がった家族”という簡単に壊れてしまう幻想に、人々がすがっているように見えてしまうのである。
彼女は自分と茉莉子先生のような、赤の他人同士でも築き上げられる新しいコミュニティの方が、街の未来のためには良いのではないかと考える。
ぶっちゃけ、どちらも正論である。
田舎には雇用が必要だし、それは潰れかけた映画館からは生まれない。
雇用が生まれれば、もしかしたら実際帰ってくる人もいるかもしれない。
一方で、映画には確かに人々を惹きつける力があるし、血の繋がりに頼らないコミュニティは、これからの日本社会に必要なものだろう。
そして、映画版では映画館とスーパー銭湯の間で揺れ動いた葛藤が、ドラマ版では対照的なスタンスの二人の映画監督の間で問われる。
竹原ピストル演じる川島健二は、純朴な映画青年像をまんま具現化したようなキャラクターで、撮りたくもないキラキラ青春映画で監督デビューするも、大コケさせてしまい、批評もズタボロ。
かつてのあさひと同じように、人生に絶望して南相馬を訪れた。
ところが、成り行きで新しい映画を作れることになるものの、いざ自由にやっていいとなったら、何を撮ったらいいのかさっぱり分からない。
彼のアンチテーゼとして登場するのが、南相馬のドキュメンタリーを撮ろうとしていうる炎上監督の藤田慎二だ。
みるからにチャラいこの男は、何よりも有名になりたい、儲けたいという欲望が露骨。
しかし、震災と原発事故という未曾有の経験をした南相馬を、自分が世界に紹介しなければという情熱は本物だ。
真摯だが撮りたいものが見つからない監督と、俗物だが明確に撮りたいものがある監督。
そのものの在り方として、より相応しいのは何方なのか。
たぶんそれは、時代や場所、シチュエーションによって変化するものだと思う。
ある視点から見て間違っていても、別の視点からは正しいことなんて幾らでもある。
だから映画もドラマも、物語の帰結する先をゼロサムゲームにはしないのだ。
うまい具合に全員がウィンウィンという結末は、上手く行き過ぎでは?と思わなくもない。
だがこれはタイトル通り、息をするように嘘をつく、嘘つきどもの物語であり、嘘という虚構の中に真実を描くのが映画である。
彼らの嘘には、ちゃんと背景があるのだ。
その象徴となるのが、まさに朝日座。
実は現実の朝日座は、常設映画館としては30年近く前に閉館している。
にもかかわらず、その建物は解体されることなく地元の人々に守られ、不定期の映画上映やコミュニティイベントの場として活用されているという。
常設映画館としての存続という映画的な嘘の中に、新しいコミュニティーの中核としての映画館という真実があることが、本作に絶対的な説得力を付与する。
あさひのメンターとして、彼女の人生に大きな影響を与えた茉莉子先生は、最初に映画の投影法を解説してこんな話をする。
映画が動いて見えるのは人の目の残像現象で、残像現象を起こすには映像と映像の間に暗闇が必要、つまり映画を観ている時間の半分は、ただ暗闇を眺めている。
先生は「半分暗闇みながら、感動したり笑ったりしてるって、だから映画好きって根暗が多いのかもね。でもなんかいいよね」と話す。
この話が原体験となって、やがてあさひは朝日座再建へと邁進するのだが、映し出される虚構の光の半分の、見えない暗闇に隠された真実にスポットを当てたのは寓話としてまことに秀逸。
そしてどんな駄作でもたったワンカット“凄い画”があれば、凡百の“普通”の映画よりも記憶に残る。
これもまた真実である。
南相馬では地元の酒米「夢の香」を使った「御本陣」という地酒を町を上げて盛り上げようとしているのだが、今のところ地元以外ではふるさと納税でしか買えず、私もまだ飲んだことがない。
今回は同じ今回は被災地の宮城県から一ノ蔵の純米吟醸「蔵の華」をチョイス。
同名の酒造好適米「蔵の華」100%で仕込まれ、その名のとおりふくよかな吟醸香が広がる。
少し冷やして飲むと、まろやかでフルーティな純米吟醸らしい味わいを楽しめる。

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2021年09月14日 (火) | 編集 |
死にたがりたちの大狂宴。
ヤクザもののテグは、唯一の家族である姉と姪を何者かに殺され、報復として敵対組織のボスを襲撃すると、済州島に渡って身を隠す。
島でのテグの隠れ家は銃器密売をしているクトの家で、彼は難病で余命幾ばくもない姪のジェヨンと共に暮らしている。
同じ家で過ごすうちに、テグとジェヨンは反発しながらも距離を縮めてゆくのだが、彼らの知らないところで、ある陰謀が動き出す。
「新き世界」「V.I.P. 修羅の獣たち」などの燻銀の韓流ノワールで知られる、パク・フンジョン監督による、刹那的な滅びの詩。
ヤクザもののテグをオム・テグ、ヒロインのジェヨンをチョン・ヨビンが演じ、鮮烈な印象を残す。
舞台となる済州島の自然豊かで美しい風景と、そこで起こる血で血を洗うバイオレンスのコントラストは、90年代の北野武、特に「ソナチネ」を彷彿とさせる。
抗争の最中に主人公のヤクザが南国の島に隠れ、そこでファムファタールと出会って、破滅に向かって突き進むという基本プロットはほぼ共通する。
主人公が、自分の知らないうちに上部組織の陰謀に巻き込まれ、捨て駒となっている点も同じだ。
もちろん、オマージュは捧げても、独自性も強い。
物語的には新しい要素はなく、むしろどこかで見たようなシチュエーションの連続なのに、全体を通して観ると、紛うことなきパク・フンジョン印の作家映画に仕上がっている。
本作の最大の特徴は、登場人物たちの関係が、まるで悪意ある神が導いたかのように、重なりあっていること。
例えば、テグの姉は不治の病を患っていて、済州で出会うジェヨンも病名は明かされないものの、極めて生存率の低い病に冒されている。
またテグが可愛がっている幼い姪は、抗争に巻き込まれてる形で母と共に殺されるが、ジェヨンは子供の頃に叔父のクトの仕事の巻き添えで家族を失っている。
本作は登場人物たちが、お互いの中に自分の心の傷を見る構造になっているのである。
テグとジェヨン、そしてクトは、同じ悲しみの鎖で縛られた運命共同体。
彼らを含め、この映画の登場人物全員が死の香りに取り憑かれた人たちで、物語が帰結する先は最初から一つしか見えない。
陰謀を巡らす悪は、何処までもゲスに。
自ら死に突き進む男女は、束の間の邂逅にその瞬間の意味を見出す。
アウトローでありながらも、生真面目なテグに対し、もう自分は死ぬものと覚悟を決めているジェヨンの方が、ぶっ飛んだ性格なのが面白い。
「ソナチネ」のヒロインは受動的な待つ女だったが、戦闘ヒロインものの快作「The Witch/魔女」をモノにしたパク・フンジョンは、もはや恐れるものが何も無いジェヨンを、寝起きに銃をぶっ放し、自分からグイグイ行動する能動的キャラクターに造形する。
対照的な性格だが、似た願望を抱えるテグとジェヨンの掛け合いと、質・量とも充実のアクションが組み合わされ、物語が進んでゆくのである。
規制の厳しい日本から見たら、羨ましくなるど迫力のカーチェイスに、リアリティと映画的なダイナミズムを両立させた見事なガンファイト。
キャラの濃い全員悪人たちが織りなす、因果応報の殺し合いのドラマは見応え十分だ。
伏線通りではあったけど、クライマックスをある人物に委ねるのは、見事な割り切り。
めちゃめちゃカッコよくて、しびれまくった。
ハッピーエンド、バッドエンドに割り切れない、この作家ならではの詩情を感じさせるラストには、ベストラストショット賞をあげたくなる。
今回は済州島の焼酎、「ハンラサン(漢拏山)」をチョイス。
漢拏山は、楕円形の済州島の中央にそびえる火山で、この山の地下の岩盤を通って濾過された地下水で作られている、まろやかな焼酎。
映画の中で印象的なのが、この焼酎と最後の晩餐的に出てくるムルフェ(水刺身)だ。
済州島と釜山の近くの浦項の郷土料理で、名前の通りコチジャンベースの冷たいスープに、白身魚やイカの刺身、キュウリやナシ、ネギなどの野菜をたっぷり入れたもの。
冷やし中華的に食べられている夏の風物詩で、私も釜山でいただいたことがあるが、なかなか美味しかった。
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ヤクザもののテグは、唯一の家族である姉と姪を何者かに殺され、報復として敵対組織のボスを襲撃すると、済州島に渡って身を隠す。
島でのテグの隠れ家は銃器密売をしているクトの家で、彼は難病で余命幾ばくもない姪のジェヨンと共に暮らしている。
同じ家で過ごすうちに、テグとジェヨンは反発しながらも距離を縮めてゆくのだが、彼らの知らないところで、ある陰謀が動き出す。
「新き世界」「V.I.P. 修羅の獣たち」などの燻銀の韓流ノワールで知られる、パク・フンジョン監督による、刹那的な滅びの詩。
ヤクザもののテグをオム・テグ、ヒロインのジェヨンをチョン・ヨビンが演じ、鮮烈な印象を残す。
舞台となる済州島の自然豊かで美しい風景と、そこで起こる血で血を洗うバイオレンスのコントラストは、90年代の北野武、特に「ソナチネ」を彷彿とさせる。
抗争の最中に主人公のヤクザが南国の島に隠れ、そこでファムファタールと出会って、破滅に向かって突き進むという基本プロットはほぼ共通する。
主人公が、自分の知らないうちに上部組織の陰謀に巻き込まれ、捨て駒となっている点も同じだ。
もちろん、オマージュは捧げても、独自性も強い。
物語的には新しい要素はなく、むしろどこかで見たようなシチュエーションの連続なのに、全体を通して観ると、紛うことなきパク・フンジョン印の作家映画に仕上がっている。
本作の最大の特徴は、登場人物たちの関係が、まるで悪意ある神が導いたかのように、重なりあっていること。
例えば、テグの姉は不治の病を患っていて、済州で出会うジェヨンも病名は明かされないものの、極めて生存率の低い病に冒されている。
またテグが可愛がっている幼い姪は、抗争に巻き込まれてる形で母と共に殺されるが、ジェヨンは子供の頃に叔父のクトの仕事の巻き添えで家族を失っている。
本作は登場人物たちが、お互いの中に自分の心の傷を見る構造になっているのである。
テグとジェヨン、そしてクトは、同じ悲しみの鎖で縛られた運命共同体。
彼らを含め、この映画の登場人物全員が死の香りに取り憑かれた人たちで、物語が帰結する先は最初から一つしか見えない。
陰謀を巡らす悪は、何処までもゲスに。
自ら死に突き進む男女は、束の間の邂逅にその瞬間の意味を見出す。
アウトローでありながらも、生真面目なテグに対し、もう自分は死ぬものと覚悟を決めているジェヨンの方が、ぶっ飛んだ性格なのが面白い。
「ソナチネ」のヒロインは受動的な待つ女だったが、戦闘ヒロインものの快作「The Witch/魔女」をモノにしたパク・フンジョンは、もはや恐れるものが何も無いジェヨンを、寝起きに銃をぶっ放し、自分からグイグイ行動する能動的キャラクターに造形する。
対照的な性格だが、似た願望を抱えるテグとジェヨンの掛け合いと、質・量とも充実のアクションが組み合わされ、物語が進んでゆくのである。
規制の厳しい日本から見たら、羨ましくなるど迫力のカーチェイスに、リアリティと映画的なダイナミズムを両立させた見事なガンファイト。
キャラの濃い全員悪人たちが織りなす、因果応報の殺し合いのドラマは見応え十分だ。
伏線通りではあったけど、クライマックスをある人物に委ねるのは、見事な割り切り。
めちゃめちゃカッコよくて、しびれまくった。
ハッピーエンド、バッドエンドに割り切れない、この作家ならではの詩情を感じさせるラストには、ベストラストショット賞をあげたくなる。
今回は済州島の焼酎、「ハンラサン(漢拏山)」をチョイス。
漢拏山は、楕円形の済州島の中央にそびえる火山で、この山の地下の岩盤を通って濾過された地下水で作られている、まろやかな焼酎。
映画の中で印象的なのが、この焼酎と最後の晩餐的に出てくるムルフェ(水刺身)だ。
済州島と釜山の近くの浦項の郷土料理で、名前の通りコチジャンベースの冷たいスープに、白身魚やイカの刺身、キュウリやナシ、ネギなどの野菜をたっぷり入れたもの。
冷やし中華的に食べられている夏の風物詩で、私も釜山でいただいたことがあるが、なかなか美味しかった。

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2021年09月09日 (木) | 編集 |
人生の新章に乾杯!
「偽りなき者」のトマス・ヴィンターベア監督が、同作に主演したマッツ・ミケルセンと再タッグを組み、本年度アカデミー賞の国際長編映画賞を受賞した話題作。
ホントかウソか分からないが、人間の血中アルコール濃度は0.05パーセントがベストらしい。
仕事の効率は良くなり、プライベートも上手くいく。
それを知ったマッツ演じるマーティンら四人の冴えない中年教師たちが、飲み続けることで血中アルコール濃度を0.05に保つ“実験”を始める。
冒頭で彼らの生徒たちが、ビール1ケースを全て飲み干しながら、走って湖を一周するというとんでもないレースをやっている。
一見すると高校生なのだが、オフィシャルに酒飲んでるということは大学生?と戸惑ったが、デンマークでは16歳からお酒飲んでいいらしい。
寒い国でアルコールが欠かせないとは言っても、何という呑んべえ天国!
実験に参加する四人に共通するのは、いわゆるミドルエイジクライシスだ。
義務的に仕事をこなしているだけで、かつてのような情熱は失われている。
家庭でも家族が遠く感じ、会話が殆どない。
自分の人生が、どこへ向かおうとしているのか分からない。
歴史教師のマーティンは、何を教えたいのかも不明瞭だから授業が支離滅裂となり、生徒からもダメ出しされている。
そんな人生どん詰まりの状態が、何か変わるのではないか?というほのかな期待を抱いて、彼らは飲み始めるのだ。
血中アルコール濃度が0.05という状態は、いわゆるほろ酔い。
もちろん人によって差はあるだろうが、一般的に気が大きくなって饒舌になり、気分は高揚する。
酔っ払うプロセスで、一番楽しい時間だ。
授業を面白くするアイディアも湧き出てきて、やる気の無い不人気教師だったのが、0.05パワーで生徒たちに大ウケ。
夫婦仲も一時的に良くなり、家族の距離も縮まって感じられるようになる。
面白いのは生徒の飲酒に寛容なのに、学校は校内への酒の持ち込みには厳しくて、マーティンたちも決して飲酒運転はしないこと。
この辺りはやっぱり教育者だけあって、一線は引いてますということだろう。
しかし、0.05で効果があったのだから、今度は0.1パーセントにしたらどうだろう、やがては制限を無くしたらどうなるか・・・。
設定は完全に「ハングオーバー」系なんだけど、こちらの登場人物は人生に疲れ切ったおっさんたちだ。
ぶっ倒れるまで飲んでみても、若者と違って簡単には回復せず、ほろ酔い気分の時は良好だった家族仲にも再び亀裂が入ってしまう。
ずっと飲み続けている訳だから、アルコール中毒の症状も出て来る。
そして遂に、ある悲劇が起こってしまうのだ。
ユーモラスではあるが、どちらかと言うとミドルエイジクライシスからの、ほろ苦い人生の悲哀と小さな希望の物語。
お酒は基本的に楽しいものだけど、飲み方次第で毒にも薬にもなり、それ自体には人生を変える力はない。
映画の冒頭、デンマークの哲学者セーレン・キルケゴールの、「青春とは?夢である」「愛とは?夢の中のものである」という言葉が引用される。
この言葉の意味を反芻しながら映画を観ていると、終盤にもキルケゴールに言及がある。
冒頭と終盤の二回のキルケゴール、この間に何が変化したのかがこの作品の核心だ。
希望に満ちた青春も愛の熱情も、老いと共に失われてゆき、その先には絶望が横たわっている。
絶望を打ち消すには、己が弱さを認め、自分自身の問題から逃げずに向き合わねばならない。
序盤のうちは「この酔っ払いのおっさんたちの話がオスカー?」と思ったが、終わってみるとなかなかディープで納得の仕上がりだった。
アルコールの力をちょっと借りて、人生の新章に向かうマッツの、キレッキレのダンスがカッコ良すぎる。
色んな種類の酒が出てくる作品だが、ここはやっぱり祝祭のイメージでシャンパン。
モエ・エ・シャンドンの定番中の定番、「アンペリアル」をチョイス。
フルーティで爽やかな口当たりで、きめ細かな泡の余韻が長く残る。
辛口でバランスのいい一本だ。
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「偽りなき者」のトマス・ヴィンターベア監督が、同作に主演したマッツ・ミケルセンと再タッグを組み、本年度アカデミー賞の国際長編映画賞を受賞した話題作。
ホントかウソか分からないが、人間の血中アルコール濃度は0.05パーセントがベストらしい。
仕事の効率は良くなり、プライベートも上手くいく。
それを知ったマッツ演じるマーティンら四人の冴えない中年教師たちが、飲み続けることで血中アルコール濃度を0.05に保つ“実験”を始める。
冒頭で彼らの生徒たちが、ビール1ケースを全て飲み干しながら、走って湖を一周するというとんでもないレースをやっている。
一見すると高校生なのだが、オフィシャルに酒飲んでるということは大学生?と戸惑ったが、デンマークでは16歳からお酒飲んでいいらしい。
寒い国でアルコールが欠かせないとは言っても、何という呑んべえ天国!
実験に参加する四人に共通するのは、いわゆるミドルエイジクライシスだ。
義務的に仕事をこなしているだけで、かつてのような情熱は失われている。
家庭でも家族が遠く感じ、会話が殆どない。
自分の人生が、どこへ向かおうとしているのか分からない。
歴史教師のマーティンは、何を教えたいのかも不明瞭だから授業が支離滅裂となり、生徒からもダメ出しされている。
そんな人生どん詰まりの状態が、何か変わるのではないか?というほのかな期待を抱いて、彼らは飲み始めるのだ。
血中アルコール濃度が0.05という状態は、いわゆるほろ酔い。
もちろん人によって差はあるだろうが、一般的に気が大きくなって饒舌になり、気分は高揚する。
酔っ払うプロセスで、一番楽しい時間だ。
授業を面白くするアイディアも湧き出てきて、やる気の無い不人気教師だったのが、0.05パワーで生徒たちに大ウケ。
夫婦仲も一時的に良くなり、家族の距離も縮まって感じられるようになる。
面白いのは生徒の飲酒に寛容なのに、学校は校内への酒の持ち込みには厳しくて、マーティンたちも決して飲酒運転はしないこと。
この辺りはやっぱり教育者だけあって、一線は引いてますということだろう。
しかし、0.05で効果があったのだから、今度は0.1パーセントにしたらどうだろう、やがては制限を無くしたらどうなるか・・・。
設定は完全に「ハングオーバー」系なんだけど、こちらの登場人物は人生に疲れ切ったおっさんたちだ。
ぶっ倒れるまで飲んでみても、若者と違って簡単には回復せず、ほろ酔い気分の時は良好だった家族仲にも再び亀裂が入ってしまう。
ずっと飲み続けている訳だから、アルコール中毒の症状も出て来る。
そして遂に、ある悲劇が起こってしまうのだ。
ユーモラスではあるが、どちらかと言うとミドルエイジクライシスからの、ほろ苦い人生の悲哀と小さな希望の物語。
お酒は基本的に楽しいものだけど、飲み方次第で毒にも薬にもなり、それ自体には人生を変える力はない。
映画の冒頭、デンマークの哲学者セーレン・キルケゴールの、「青春とは?夢である」「愛とは?夢の中のものである」という言葉が引用される。
この言葉の意味を反芻しながら映画を観ていると、終盤にもキルケゴールに言及がある。
冒頭と終盤の二回のキルケゴール、この間に何が変化したのかがこの作品の核心だ。
希望に満ちた青春も愛の熱情も、老いと共に失われてゆき、その先には絶望が横たわっている。
絶望を打ち消すには、己が弱さを認め、自分自身の問題から逃げずに向き合わねばならない。
序盤のうちは「この酔っ払いのおっさんたちの話がオスカー?」と思ったが、終わってみるとなかなかディープで納得の仕上がりだった。
アルコールの力をちょっと借りて、人生の新章に向かうマッツの、キレッキレのダンスがカッコ良すぎる。
色んな種類の酒が出てくる作品だが、ここはやっぱり祝祭のイメージでシャンパン。
モエ・エ・シャンドンの定番中の定番、「アンペリアル」をチョイス。
フルーティで爽やかな口当たりで、きめ細かな泡の余韻が長く残る。
辛口でバランスのいい一本だ。

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2021年09月05日 (日) | 編集 |
オヤジを超えて、世界を救う。
2年ぶりにスクリーンに帰ってきた、“マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)”の、新時代を告げるフェイズ4第二弾。
第一弾の「ブラック・ウィドウ」は、時系列的にはフェイズ3初期の話だから、実質的にはこの作品がフェイズ4の幕開けだ。
様々な慣例を打ち破ってきたMCUらしく、今回の主人公はシム・リウが演じる初のアジア系スーパーヒーロー、シャン・チー。
悪の軍団“テン・リングス"を率い、シャン・チーの前に立ちはだかる実の父シュウ・ウェンウーを名優トニー・レオン、母イン・リーをファラ・チャン、メンターとなるイン・ナンをミシェル・ヨーが演じる。
中国武侠映画の影響が色濃いが、他にも漫画やゲームなど様々なアジア発のサブカルチャーの要素がミックスされたユニークな世界観を持つ作品だ。
ブリー・ラーソンが主演した「ショート・ターム」を手がけ、高い評価を得た日系アメリカ人のデスティン・ダニエル・クレットンが監督と共同脚本を務める。
※核心部分に触れています。
アベンジャーズがサノスを倒し、50パーセントの命を取り戻した後の世界。
サンフランシスコのホテルで駐車場係をしているショーン(シム・リウ)は、友人のケイティ(オークワフィナ)とバスに乗っていたところを、武装した謎の男たちに襲われ、何とか撃退したものの母の形見の翡翠のペンダントを奪われてしまう。
同じペンダントを持つ妹のシャーリン(メンガー・チャン)が次に襲われると確信したショーンは、ケイティと共に彼女の住むマカオへ。
その機中で、ショーンは自分たちを狙っているのが、秘密組織“テン・リングス”を率いる実の父のウェンウー(トニー・レオン)だということ、そして自分の本名がシャン・チーで、幼い頃から暗殺者としての訓練を受けてきたことを告白。
マカオでシャーリンと再会したものの、テン・リングスの急襲を受け、兄妹とケイティは本部へ連行される。
実は兄妹の持つペンダントには、亡き母イン・リー(ファラ・チャン)の出生地である秘密境ター・ローへの地図が隠されていたのだ。
ウェンウーは、死んだはずの母がター・ローの洞窟に囚われているので、どんな犠牲をはらっても救出すると言うのだが・・・
冒頭、魔法によって隠されているという伝説のター・ローを探すウェンウーが、秘密境の守護者だったイン・リーと手合わせしながら恋に落ちる描写が、ミシェル・ヨーの代表作の一つ「グリーン・デスティニー」を彷彿とさせる、絵巻物の様に美しく優雅なワイヤーアクションで表現される。
ここで中華圏武侠映画への深いリスペクトを感じさせると、映画は今は世界化された様々なアジア的な要素を取り込んで来るのだ。
本作は言わば、「グリーン・デスティニー」ミーツ「ドラゴンボール」ミーツ「ポケモン」ミーツ「エヴァンゲリオン」ミーツ怪獣映画に東アジアの昔ばなし。
これら全てをごちゃ混ぜにした様な、カオスな世界観を持つ。
まさかアメコミ映画で、懐かしの“龍の子太郎”のビジュアルを見るとは思っていなかったよ。
全体の印象を端的に言えば、一昔前のツイ・ハークを思わせる極めてファンタジー色の強い武侠映画で、ぶっちゃけ観てる間これがマーベル作品なのも、ハリウッド映画なのもほとんど忘れてた。
しかし元々科学者も、魔法使いも、神さまさえも同じ世界にいる、何でもありのMCU。
最終的には、これ全部受け止められちゃうんだから凄い。
主人公のシャン・チーは、悪の秘密組織“テン・リングス”を率いるウェンウーによって最強の暗殺者として育てられた。
テン・リングスは組織の名であるのと同時に、ウェンウーに不老不死をもたらし、無敵の力を与える出処不明の10個のリングのこと。
このリングの正体に関しては今後の展開がありそうだが、おそらく日本人ならウェンウーに強烈な既視感を覚えるだろう。
何しろこの男、碇ゲンドウにそっくりなのである。
秘密組織のボスで、未成年の息子に無理やり大人の仕事をさせようとする。
冷酷非情だが、唯一の弱みは熱烈に愛しちゃってる妻の存在で、結婚していた時はまともだったのに、彼女を喪った後は人が変わってしまい再びダークサイドに。
亡き妻を我が手に取り戻すためなら、引き換えに世界そのものだって差し出しかねないのも丸かぶりである。
ウェンウーがシャン・チーに“最初の仕事”をさせようとするのが、碇シンジと同じ14歳というあたりも、もしかするとオマージュかもだ。
当然中国のシンジくん、もといシャン・チーも強引なこじらせオヤジに反発し、10年間も家出中。
名前をショーンに変えて、全米最大の中華コミュニティのあるサンフランシスコで暮らしている。
だがウェンウーが、イン・リーの故郷である秘密境ター・ローに封印された魔物に惑わされ、彼女が生きていると信じ込んでター・ローを攻めようとするに至って、ついに妹のシャーリンと共に、オヤジとの対決を決意する。
そう、これは中国版の碇ゲンドウと大人になったシンジくんの、テン・リングスという神性の継承を巡る親殺しの神話であり、ある種の貴種流離譚なのである。
ハリウッド映画の例に漏れず、MCUも家族の物語が多いが、本作は厳格な家長制度がベースになっているのがいかにも儒教圏の東アジア的。
一方で、まだ何者でもない中途半端な若者が、大いなる力の責任に目覚めると言う点では、アメコミ映画の王道だ。
シャン・チー役のシム・リウは、功夫のポーズも決まっていてカッコいい。
この役に抜擢された時はネットで誹謗中傷が酷かったらしいが、やはり実際の映像の持つ説得力は抜群。
坂の街サンフランシスコの地形を生かしたカーアクション&バスの中での見事な格闘戦から、マカオの高層ビルの足場を使った、高所恐怖症には失神もののアクロバットアクション。
ここまでは完全なマーシャルアーツ映画で、MCU色は限りなく薄い。
そして後半ガラッと世界観が変わり、竹林の迷路に隠されたター・ローで、スーパーサイヤ人と化した親子対決からの、よもやの大怪獣出現まで見せ場のオンパレード。
予告編ではほとんど見せていなかった、後半の世界観チェンジはスムーズとは言い難いが、ポケモンもどきの幻獣がたくさん住んでいるター・ローは舞台としては魅力的だ。
このファンタジーワールドで、オヤジに続いて大怪獣とかめはめ波で戦うという、普通の人間じゃ絶対無理というシチュエーションを乗り越えて、ついにマーベルのスーパーヒーロー、シャン・チーが誕生するのである。
スタント・コーディネーター兼第二班監督として、これらの素晴らしいアクションを手掛けたのは、非アジア人として最初にジャッキー・チェンのスタントチームのメンバーとなったブラッド・アレン。
残念なことに、彼は今年8月に48歳の若さで急逝し、本作と公開を控えている「キングズマン:ファースト・エージェント」が遺作となってしまった。
訳あり家族の複雑な相関関係が物語を動かしてゆくのもこの映画の魅力的な要素で、シャン・チーと友達以上になりそうな、オークワフィナとは陽性カップルのコンビネーション。
対して、日陰者として育てられたメンガー・チャン演じるシャーリンとは、コスチュームデザインからも太陽と月のような対照性を形作る。
MCUの出来る妹キャラといえば、本作と家族構成の似た「ブラックパンサー」のお兄ちゃん想いのシュリちゃんだが、こっちの妹はなかなか一筋縄ではいかなそうで、宣言通り帰ってくるのが楽しみだ。
そして、大ベテランの風格を見せつける、トニー・レオンとミシェル・ヨー。
最近はすっかりメンター役が板についたヨーはともかく、これほど激しく動きまくるレオンを観たのは久しぶりで、立ち姿からにじみ出るオーラは圧巻。
先日公開された「モータル・コンバット」では、脇役のはずの真田広之がスターパワーで完全に主役を喰ってしまっていた。
さすがに本作ではそんなバランスの悪さは無いが、アクションするトニー・レオンだけでも十分観る価値がある。
それにしても、小さな良作だった「ショート・ターム」で主演を努めたブリー・ラーソンがキャプテン・マーベルになり、デスティン・ダニエル・クレットン監督も本作でMCUに進出。
若い才能にはどんどんチャンスを与えるところが、今も昔もハリウッドの強味だ。
そして監督も役者の大半もアジア系で、台詞も半分くらいは中国語。
こんなエンタメ大作がハリウッドで作られるとは、MCUが始まったゼロ年代後半頃には想像もできなかった。
アメリカ人の字幕嫌悪も、だいぶ改善したということなのだろうか。
世界が凄い勢いで変化していることを、実感させられる映画でもある。
今回は、アジアンテイストなアメコミ映画ということで「ドラゴン・レディ」をチョイス。
ホワイト・ラム45ml、オレンジ・ジュース60ml、グレナデン・シロップ10ml、キュラソー適量をステアしてグラスに注ぎ、スライスしたオレンジを添える。
名前は辛口そうだが、実際には甘口で飲みやすいカクテル。
ドラゴン・レディとは、元々男を支配するような神秘的な魅力のあるアジア人女性を指す言葉で、まさに本作のイン姉妹やシャーリンにピッタリ。
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2年ぶりにスクリーンに帰ってきた、“マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)”の、新時代を告げるフェイズ4第二弾。
第一弾の「ブラック・ウィドウ」は、時系列的にはフェイズ3初期の話だから、実質的にはこの作品がフェイズ4の幕開けだ。
様々な慣例を打ち破ってきたMCUらしく、今回の主人公はシム・リウが演じる初のアジア系スーパーヒーロー、シャン・チー。
悪の軍団“テン・リングス"を率い、シャン・チーの前に立ちはだかる実の父シュウ・ウェンウーを名優トニー・レオン、母イン・リーをファラ・チャン、メンターとなるイン・ナンをミシェル・ヨーが演じる。
中国武侠映画の影響が色濃いが、他にも漫画やゲームなど様々なアジア発のサブカルチャーの要素がミックスされたユニークな世界観を持つ作品だ。
ブリー・ラーソンが主演した「ショート・ターム」を手がけ、高い評価を得た日系アメリカ人のデスティン・ダニエル・クレットンが監督と共同脚本を務める。
※核心部分に触れています。
アベンジャーズがサノスを倒し、50パーセントの命を取り戻した後の世界。
サンフランシスコのホテルで駐車場係をしているショーン(シム・リウ)は、友人のケイティ(オークワフィナ)とバスに乗っていたところを、武装した謎の男たちに襲われ、何とか撃退したものの母の形見の翡翠のペンダントを奪われてしまう。
同じペンダントを持つ妹のシャーリン(メンガー・チャン)が次に襲われると確信したショーンは、ケイティと共に彼女の住むマカオへ。
その機中で、ショーンは自分たちを狙っているのが、秘密組織“テン・リングス”を率いる実の父のウェンウー(トニー・レオン)だということ、そして自分の本名がシャン・チーで、幼い頃から暗殺者としての訓練を受けてきたことを告白。
マカオでシャーリンと再会したものの、テン・リングスの急襲を受け、兄妹とケイティは本部へ連行される。
実は兄妹の持つペンダントには、亡き母イン・リー(ファラ・チャン)の出生地である秘密境ター・ローへの地図が隠されていたのだ。
ウェンウーは、死んだはずの母がター・ローの洞窟に囚われているので、どんな犠牲をはらっても救出すると言うのだが・・・
冒頭、魔法によって隠されているという伝説のター・ローを探すウェンウーが、秘密境の守護者だったイン・リーと手合わせしながら恋に落ちる描写が、ミシェル・ヨーの代表作の一つ「グリーン・デスティニー」を彷彿とさせる、絵巻物の様に美しく優雅なワイヤーアクションで表現される。
ここで中華圏武侠映画への深いリスペクトを感じさせると、映画は今は世界化された様々なアジア的な要素を取り込んで来るのだ。
本作は言わば、「グリーン・デスティニー」ミーツ「ドラゴンボール」ミーツ「ポケモン」ミーツ「エヴァンゲリオン」ミーツ怪獣映画に東アジアの昔ばなし。
これら全てをごちゃ混ぜにした様な、カオスな世界観を持つ。
まさかアメコミ映画で、懐かしの“龍の子太郎”のビジュアルを見るとは思っていなかったよ。
全体の印象を端的に言えば、一昔前のツイ・ハークを思わせる極めてファンタジー色の強い武侠映画で、ぶっちゃけ観てる間これがマーベル作品なのも、ハリウッド映画なのもほとんど忘れてた。
しかし元々科学者も、魔法使いも、神さまさえも同じ世界にいる、何でもありのMCU。
最終的には、これ全部受け止められちゃうんだから凄い。
主人公のシャン・チーは、悪の秘密組織“テン・リングス”を率いるウェンウーによって最強の暗殺者として育てられた。
テン・リングスは組織の名であるのと同時に、ウェンウーに不老不死をもたらし、無敵の力を与える出処不明の10個のリングのこと。
このリングの正体に関しては今後の展開がありそうだが、おそらく日本人ならウェンウーに強烈な既視感を覚えるだろう。
何しろこの男、碇ゲンドウにそっくりなのである。
秘密組織のボスで、未成年の息子に無理やり大人の仕事をさせようとする。
冷酷非情だが、唯一の弱みは熱烈に愛しちゃってる妻の存在で、結婚していた時はまともだったのに、彼女を喪った後は人が変わってしまい再びダークサイドに。
亡き妻を我が手に取り戻すためなら、引き換えに世界そのものだって差し出しかねないのも丸かぶりである。
ウェンウーがシャン・チーに“最初の仕事”をさせようとするのが、碇シンジと同じ14歳というあたりも、もしかするとオマージュかもだ。
当然中国のシンジくん、もといシャン・チーも強引なこじらせオヤジに反発し、10年間も家出中。
名前をショーンに変えて、全米最大の中華コミュニティのあるサンフランシスコで暮らしている。
だがウェンウーが、イン・リーの故郷である秘密境ター・ローに封印された魔物に惑わされ、彼女が生きていると信じ込んでター・ローを攻めようとするに至って、ついに妹のシャーリンと共に、オヤジとの対決を決意する。
そう、これは中国版の碇ゲンドウと大人になったシンジくんの、テン・リングスという神性の継承を巡る親殺しの神話であり、ある種の貴種流離譚なのである。
ハリウッド映画の例に漏れず、MCUも家族の物語が多いが、本作は厳格な家長制度がベースになっているのがいかにも儒教圏の東アジア的。
一方で、まだ何者でもない中途半端な若者が、大いなる力の責任に目覚めると言う点では、アメコミ映画の王道だ。
シャン・チー役のシム・リウは、功夫のポーズも決まっていてカッコいい。
この役に抜擢された時はネットで誹謗中傷が酷かったらしいが、やはり実際の映像の持つ説得力は抜群。
坂の街サンフランシスコの地形を生かしたカーアクション&バスの中での見事な格闘戦から、マカオの高層ビルの足場を使った、高所恐怖症には失神もののアクロバットアクション。
ここまでは完全なマーシャルアーツ映画で、MCU色は限りなく薄い。
そして後半ガラッと世界観が変わり、竹林の迷路に隠されたター・ローで、スーパーサイヤ人と化した親子対決からの、よもやの大怪獣出現まで見せ場のオンパレード。
予告編ではほとんど見せていなかった、後半の世界観チェンジはスムーズとは言い難いが、ポケモンもどきの幻獣がたくさん住んでいるター・ローは舞台としては魅力的だ。
このファンタジーワールドで、オヤジに続いて大怪獣とかめはめ波で戦うという、普通の人間じゃ絶対無理というシチュエーションを乗り越えて、ついにマーベルのスーパーヒーロー、シャン・チーが誕生するのである。
スタント・コーディネーター兼第二班監督として、これらの素晴らしいアクションを手掛けたのは、非アジア人として最初にジャッキー・チェンのスタントチームのメンバーとなったブラッド・アレン。
残念なことに、彼は今年8月に48歳の若さで急逝し、本作と公開を控えている「キングズマン:ファースト・エージェント」が遺作となってしまった。
訳あり家族の複雑な相関関係が物語を動かしてゆくのもこの映画の魅力的な要素で、シャン・チーと友達以上になりそうな、オークワフィナとは陽性カップルのコンビネーション。
対して、日陰者として育てられたメンガー・チャン演じるシャーリンとは、コスチュームデザインからも太陽と月のような対照性を形作る。
MCUの出来る妹キャラといえば、本作と家族構成の似た「ブラックパンサー」のお兄ちゃん想いのシュリちゃんだが、こっちの妹はなかなか一筋縄ではいかなそうで、宣言通り帰ってくるのが楽しみだ。
そして、大ベテランの風格を見せつける、トニー・レオンとミシェル・ヨー。
最近はすっかりメンター役が板についたヨーはともかく、これほど激しく動きまくるレオンを観たのは久しぶりで、立ち姿からにじみ出るオーラは圧巻。
先日公開された「モータル・コンバット」では、脇役のはずの真田広之がスターパワーで完全に主役を喰ってしまっていた。
さすがに本作ではそんなバランスの悪さは無いが、アクションするトニー・レオンだけでも十分観る価値がある。
それにしても、小さな良作だった「ショート・ターム」で主演を努めたブリー・ラーソンがキャプテン・マーベルになり、デスティン・ダニエル・クレットン監督も本作でMCUに進出。
若い才能にはどんどんチャンスを与えるところが、今も昔もハリウッドの強味だ。
そして監督も役者の大半もアジア系で、台詞も半分くらいは中国語。
こんなエンタメ大作がハリウッドで作られるとは、MCUが始まったゼロ年代後半頃には想像もできなかった。
アメリカ人の字幕嫌悪も、だいぶ改善したということなのだろうか。
世界が凄い勢いで変化していることを、実感させられる映画でもある。
今回は、アジアンテイストなアメコミ映画ということで「ドラゴン・レディ」をチョイス。
ホワイト・ラム45ml、オレンジ・ジュース60ml、グレナデン・シロップ10ml、キュラソー適量をステアしてグラスに注ぎ、スライスしたオレンジを添える。
名前は辛口そうだが、実際には甘口で飲みやすいカクテル。
ドラゴン・レディとは、元々男を支配するような神秘的な魅力のあるアジア人女性を指す言葉で、まさに本作のイン姉妹やシャーリンにピッタリ。

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2021年09月01日 (水) | 編集 |
ほんとうは、わかってあげる。
スクリーンから夏の海風が吹き抜ける。
沖田修一監督と言えば、近年では「モリのいる場所」など高齢者を主人公とした作品が多かったが、これは2013年の「横道世之介」以来となるピュアな青春映画だ。
原作は、田島列島の同名漫画。
上白石萌歌演じる高二の水泳少女・美波が、幼い頃に両親が離婚して以来、ずっと会っていなかった父親を訪ねることを、ふと思い立つ。
どうやら父親には、人の頭の中が見える特殊能力があり、新興宗教の教祖さまになったらしい。
彼女の冒険を後押しする、ちょっと気になる男の子・門司くんに細田佳央太。
怪しい教祖さまを豊川悦司、美波を見守る母親の由起を斉藤由貴が好演する。
黒沢清作品で知られる撮影監督の芹澤明子が、匂い立つ様な真夏の青春の情景を活写し、素晴らしい。
高校二年の朔田美波(上白石萌歌)は、アニオタで水泳部員。
夏休みを控えたある日、自分も推している「魔法佐官少女バッファローKOTEKO」のファンだという書道部の門司昭平(細田佳央太)と出会い、意気投合。
代々書道家の彼の家に遊びに行った時、とある宗教団体から依頼されたお札が目に入る。
それは幼い頃に両親が離婚して以来、音信不通だった父親が、美波の16歳の誕生日に贈ってきたものと同じだった。
美波は探偵をしている門司家のトランスジェンダーの姉、明大(千葉雄大)に父の捜索を依頼する。
するとしばらくして明大が現在の父の居所を探し当てる。
父の藁谷友充(豊川悦司)は、なんとお札の新興宗教「光りの匣」の教祖で、今はなぜか教団を休んで田舎の整体院に居候しているという。
美波は、水泳部の合宿に行くとアリバイを作り、父に会いに行くことにするのだが・・・
全編、沖田監督らしいチルなムードに満ちている。
冒頭、いきなりアニメーション映画が始まり、一瞬間違ったスクリーンに入った?と焦るが、テアトル新宿には1スクリーンしかないのだった。
主人公の美波がアニオタで、大ファンという設定の架空のアニメ番組「魔法佐官少女バッファローKOTEKO」を、菊池カツヤ監督以下ガチな陣容で制作し、説得力抜群。
今どきの深夜アニメ以上の映像クオリティに、オープニングとエンディング曲まで作ってるのだ。
しかもこの番組が生き別れ親子の再会という、本作の展開を示唆する内容。
沖田監督と言えば長回しだが、学園ものではお約束、屋上で出会った美波と門司くんが、KOTEKOの名台詞をモノマネしながら、階段を一気に降りてくるシーンで一気に二人の世界が出来上がる。
そしてKOTEKOが、美波と門司くんのみならず、ずっと会っていなかった友充との仲も取り持つんだな。
よく出来たアニメは、一級のコミュニケーションツールなのだ。
美波が遠い記憶の中にいる友充と会いたいと思った気持ちは、別に現状に問題があるからではない。
母の由紀は再婚し、古館寛治演じるアニオタの新しい父親とは趣味も共通で上手くやっているし、歳の離れた異父弟のことも可愛がっている。
ただ、ジクソーパズルのだだ一つのピースが欠けている様に、心のどこかに小さな穴が空いているのだ。
門司くんの家で偶然お札を見た時、彼女はその穴の正体に気付いたのだろう。
本当の父親ってどんな人なんだろう?なぜいなくなったのだろう?自分とは似ているのだろうか?
そして新興宗教の教祖という、普通でない経歴が明らかになると、今度はさらにその人物に対する興味が湧き上がってくる。
ただし、ここには“生き別れの親娘の再会”というシチュエーションから想像する様な、深刻さは全くない。
これは人間の喜怒哀楽全てを、飄々とした世界観にフワッと受け止める沖田監督の作家性であり、それは真剣になればなるほど笑ってしまうという、美波のキャラクター設定にも生きている。
水泳の大会に出場した彼女は、ずっと笑顔で泳いでいる。
普通ならライバルを打ち負かすために、必死の形相になるはずだが、彼女の“緊張”はどこまでも陽性なのである。
出場する種目が、水泳競技の中で唯一観客から表情が見える背泳ぎなのも、笑顔を見せるために計算されたものだろう。
また、演じる上白石萌歌にとっても、これは撮影当時19歳であった、彼女自身の青春の煌めきだ。
友充と再会した時の戸惑いと安堵、お互いの中に血の繋がった家族を感じ、意外と早く馴染んでゆく自然な感情の流れの表現。
そして門司くんとの同好の士の友情が、だんだんと恋に変わってゆき、「スキ」が爆発しそうで感情を抑えられない屋上のクライマックス。
このシーンの美波の真剣度マックスの泣き笑いは、本作の白眉だ。
ひと夏の青春のイニシエイションを通し、大人の階段を上がる等身大の少女をリアリティたっぷりに演じ、間違いなく上白石萌歌の代表作となった。
彼女や門司くんと絡む、大人たちのキャラクターもいい。
義理の父親として、適度な距離感と親近感を感じさせる古舘寛治に、子供を尊重しつつ優しく見守る斉藤由貴演じる母の由紀。
性アイデンティティゆえに、実家に暮らせない猫探し探偵の門司くんの姉。
そして彼女によって美波と引き合わせられる、怪しさ満点の超能力教祖さま友充。
彼もまた、”ギフト”を与えられたものゆえの葛藤を抱えている。
本作の中で繰り返し語られるのが、「教えられたことは教えられるけど、教えられてないことは教えられない」ということ。
例えば水泳や書道のように、代々受け継がれてきたものと違って、超能力の類は誰からも教えられてない。
だから教えることができず、証明することもできない。
能力が発揮できるうちは、教祖として崇められるが、力が衰えてしまえばもはや用済み。
特別であるがゆえに友充は孤独なのだが、教祖としてではなく、普通に娘として振る舞ってくれる美波に救われる。
本作は「子供はわかってあげない」というタイトルだけど、大人目線でも子供目線でも、ゆっくりとわかり合ってゆく話。
主人公の成長物語としても、家族の再生の物語としても、キュンな初恋物語としても、とてもよく出来てる。
スクリーンから匂い立つような夏の香りが心地よく、沖田監督らしいユーモアもツボに入り、138分の長尺も気にならない。
しかし最近のトヨエツは、そろそろ”怪優”と呼びたくなって来たな。
今回は、舞台となる伊豆の地酒、富士高砂酒造の「高砂 純米吟醸」をチョイス。
静岡産の酒造好適米「誉富士」を、静岡酵母と富士山の伏流水で仕込んだ逸品。
スッキリとしたやや辛口で、華やかな香り。
この季節は冷で、海のものと合わせたい。
教祖さまと門司くんと、楽しく飲んでみたくなる。

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