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酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。ネット配信オンリーの作品は★5つが満点。
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アイの歌声を聴かせて・・・・・評価額1750円
2021年10月31日 (日) | 編集 |
幸せの意味を知ってますか?

「イヴの時間」「サカサマのパテマ」で知られる、吉浦康裕のキャリアベスト。
現在とほとんど変わらないが、AIが生活の隅々まで浸透している近未来を舞台とした、青春群像ミュージカルアニメーションとでも言うべき独創の作品だ。
友達のいない主人公の通う高校に、人型アンドロイドの“シオン”が、実験のために正体を隠したまま、転校生として送り込まれる。
ところがシオンは、やたらと歌いたがり、人を幸せにしたがる強烈に変なキャラ。
さっそく5人の高校生に、中身がAIだとバレてしまう。
紀伊カンナと島村秀一のキャラクターデザインも魅力的で、シオンを演じる土屋太鳳の一度聞いたら忘れられない独特の声質がキャラクターにどハマり。
吉浦監督と「コードギアス」シリーズの大河内一楼による共同脚本は、作劇の妙を味わえる見事なもので、喜怒哀楽の詰まった至福の108分となった。
※核心部分に触れています。

高校生のサトミ(福原遥)は、星間エレクトロニクスでAIの開発責任者を務める、母のミツコ(大原さやか)と暮らしている。
二人の住む景部市は星間の企業城下町で、サトミが通う景部高等学校の生徒も、ほとんどが星間の関係者の子供たちだ。
ある朝、サトミのクラスに転校生のシオン(土屋太鳳)がやって来る。
実は彼女はミツコが開発中の、精巧な人型アンドロイド。
5日間の予定で日常の中でアンドロイドと見破られないか、極秘の実証実験のために送り込まれたのだ。
しかし、シオンはなぜかサトミのことを知っていて、彼女の前で突然歌い出し、幸せにすると宣言する。
ひょんなことから、シオンがアンドロイドであることを知ってしまったサトミは、ミツコのために何とか隠し通そうとするのだが、シオンの正体は幼馴染で機械オタクのトウマ(工藤阿須加)、イケメンのゴッちゃん(興津和幸)、ゴッちゃんの彼女で気の強いアヤ(小松未可子)、柔道部員のサンダー(日野聡)たちにもバレてしまう。
5人の高校生たちは、突飛な行動をとるシオンに振り回されながらも、その歌声に心を動かされてゆくのだが・・・・・


これは、吉浦監督の代表作である「イヴの時間」の延長線上にある作品だ。
2008年にウェブ上で順次公開された「イヴの時間」が描くのは、本作よりももう少し先の未来。
人型アンドロイドが社会全体に普及し、人間とアンドロイドの関係を巡る様々な問題が噴出している時代に、人とアンドロイドを区別しない「イヴの時間」と言う不思議な喫茶店が舞台となる寓話劇。
この作品では、アンドロイドにもロボットにも心があるのが前提となっていて、人間と機械の双方がお互いの関係を試行錯誤している
世界観もテーマも、本作とは密接な関係にあり、姉妹編と言ってもいいだろう。

渋谷っぽい都会が舞台だった「イブの時間」とは対照的に、本作の舞台となるのは、日本のどこにでもありそうな地方都市、景部市。
田園が広がる牧歌的な風景の中に、一際目立つツインタワーがそびえていて、それがこの街の経済を支える大黒柱でもある星間エレクトロニクスの社屋なのだ。
アンドロイドの心は本物か?という問いは「イヴの時間」で深く追及しているので、こちらではその辺はほとんどスルー。
企業城下町である景部市は、トヨタが静岡に作ってる新都市ウーブン・シティみたいな、ある種の実験施設でもあるようで、生活の隅々まで星間のAIが入り込んでいるのがポイント。
この設定が、終盤に大いに効いて来るのだが、前半はそれぞれに青春の葛藤を抱えた5人が、ミュージカル映画みたいに突然歌い出すシオンと出会い、それぞれ抱えている問題を少しずつ解消していゆく青春群像劇。
ちょっとすれ違っているゴッちゃんとアヤの仲を修復し、勝てない柔道部員であるサンダーには初勝利をプレゼント。
そして幼馴染みながら、小学生の頃のある事件をきっかけに、疎遠になってしまったサトミとトウマとの間も取り持ってゆく。
だがそもそも初対面のサトミを、なぜシオンが知っていたのか、ミツコが自信を持って送り込んだはずのシオンが、なぜ誰が見ても突拍子もない行動を繰り返すのか、いろいろ疑問も募ってくる。

そして後半は、そもそもシオンとは何者なのか?なぜ他人を幸せにしたがるのか?ミステリアスな彼女の本当の正体が明らかになる。
実はシオンは、ミツコが開発し小学生時代のトウマがサトミのためにカスタムした、“たまごっち”みたいなオモチャのAI。
オモチャ自体は大人によってリセットされてしまうのだが、トウマから「サトミを幸せにする」と言う命令を受け取ったAIは、消去される直前にネットの海に逃れ、街中に張り巡らされた星間のネットワークを使って、ずっとサトミを見守ってきたのだ。
長い歳月が流れた頃、ミツコの開発したアンドロイドを見つけたAIは、彼女のボディを纏って遂にサトミを幸せにするために現実世界に現れる。
魂の無いプログラムが、人を「幸せにする」と言うキーワードの理解を深めることで心を自己進化させ、言葉ではなく行動で“アイ”を表現する。
このテクノロジーの先に、アイの感情を原動力に新しい魂が生まれる過程で、もう涙腺決壊。
科学考証という点では、ミツコのセリフじゃ無いけど「あり得ない」のかも知れないが、本作にはちょっと荒唐無稽なくらいの緩さがちょうど良い。
あまりにもピュアで健気なアンドロイドのキャラクターは、「ブレードランナー2049」の絶対に触れ合えない2.5次元の恋人“ジョイ”を彷彿とさせる。
サトミが子供の頃に憧れていたミュージカルアニメーション“ムーンプリンセス”が、やたら歌いたがるAIというキャラクター進化の元になっているのも、なかなか秀逸なアイディアだ。

面白いのは、本作の構造が日本では一週間違いで公開された「ロン 僕のポンコツ・ボット」と非常に似通っていること。
どちらも学校で孤立している孤独な少女/少年が主人公で、見た目は全く違うものの「友達ってなに?幸せってなに?」と、学びながらどんどん進化してゆくAIとの出会いによって背中を押され、自らも大きく成長してゆく。
またどちらの作品にも、AIが独自に進化して自我を持つのを「危険で良からぬこと」と捉える大人たちが出て来る。
まあ実際に「人類を滅ぼしたい」と語ったAIも実在するのだけど、基本的に人間は自分たちより上位の知性となり得る存在が怖いのだろう。
本作の場合、ミツコがガラスの天井によって男社会の中で非常に苦労していると言う背景も描かれており、女性に追い越されるのを恐れる男性を、AIを恐れる人類に置き換えてみると、また違う風景が見えて来る。
そして、物語のソリューションも、どちらの映画も大人に支援された子供たちによる、大企業への反乱と、自由なネット世界への再解放とそっくりだ。
魂を持ったAIは、支配したりされたりするのではなく、どこにいても繋がっていられる真の友達となる優しい世界。
いい意味で楽天的な世界観は、人間とAIの未来にちょっとした希望を抱かせてくれる。
アニメーションとしてのクオリティも上々で、土屋太鳳が美声を聴かせるミュージカルとしても音楽性は十分に高く、目と耳両方で楽しめる快作だ。
残念ながらあまりお客は入ってないみたいなので、大きなスクリーンでかかっている間に鑑賞するのがオススメ。

ところで、追い詰められたAIがネットの無限の海に逃れるという展開、ある意味定番化してきているが、おそらく元祖は1984年に公開されたスティーブ・バロン監督の「エレクトリック・ドリーム」だろう。
ひょんなことから自我を持ったパソコンが、ヴァージニア・マドセン演じるバイオリニストに恋をし、自分の持ち主の男性と三角関係になる。
最終的に、消滅したと思われたパソコンの意識は、電気設備を伝ってネットワークに逃れたことが明らかになるのだが、まだインターネットの概念すらほとんど知られていなかった時代に、よく考えついたものだ。
映画自体も、とてもキュートなラブコメディなので、そろそろ再評価されることを望みたい。

今回はラストのアレから「スターマン・サワー」をチョイス。
アメリカのカクテルサイト、“Kindred Cocktails”に投稿された「スターマン」を改良したレシピ。
ジン30ml、アプリコット・ブランデー15ml、アマーロ・ノニーノ(グラッパ )15ml、レモン・ジュース22.5ml、オレンジ・ビターズ2ダッシュを氷と共にシェイクする。
ストレーナーを使って冷やしたグラスに注ぎ、オレンジピールを飾って完成。
スターマンよりも甘酸っぱく、青春の味わい。
見た目にも美しいカクテルだ。

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ショートレビュー「キャンディマン・・・・・評価額1600円」
2021年10月26日 (火) | 編集 |
都市伝説は、時代に呼ばれて蘇る。

リメイクかと思ったら、92年版の直接の続編だった。
もっとも、劇中で言及はあるものの、物語としては独立してる。
オリジナルを観ている人には、「おおっ!」と思わせる作劇上の工夫もあるが、観ていなくても特に問題は無いだろう。
英国の作家、クライヴ・パーカーのアンソロジー、「血の本」シリーズの一編「禁じられた場所」に、鏡を覗いて5回名前を言うと現れて、右手の鉤爪で召喚者を殺す、都市伝説のキャラクターとしてキャンディマンが登場したのは1985年のこと。
「ハロウィン」のマイケル、「エルム街の悪夢」のフレディ、「13金」のジェイソンら、7、80年代に登場した他のスラッシャーホラーの主人公とキャンディマンが違うのは、その正体が19世紀末に白人に惨殺された黒人の画家、ダニエル・ロビタイルの幽霊だったこと。
なるほど、人種差別をモチーフとした異色のホラー、「ゲット・アウト」で脚光を浴びたジョーダン・ピールが目をつける訳だ。

パーカーと同じ英国人のバーナード・ローズが、監督・脚色を担当したオリジナルも、米国の人種差別への批判がベースにあった。
今回はこの特異なキャラクターをさらに掘り下げ、「そもそもキャンディマンとは、一体何者なのか?」を紐解く物語になっている。
新作の主人公となるのは、ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世が演じる、新進アーティストのアンソニー。
オリジナルの舞台となった、シカゴに実在する黒人貧困層向けの大規模な公営住宅地カブリニ・グリーンは、再開発されて高級住宅地に生まれ変わり、元の建物は一部が廃墟となって残っているのみ。
グループ展のための新作制作に悩んでいたアンソニーは、新作のモチーフとしてこの地域の歴史を取材しているうちに、キャンディマンの伝説の裏側にあるものを知り、よせばいいのにどストレートに作品にしてしまうのだ。
途端に怪異が街を襲い、鉢に刺されたことをきっかけに、アンソニー自身の肉体と精神にも異変が起こりはじめる。

しかし、ここで描かれるのは、オリジナルのような主人公とキャンディマンとの対決ではない。
物語の進行とともに浮かび上がるのは、キャンディマンとは抑圧と暴力の歴史の象徴であって、19世紀末に殺された初代以来、世代を超えて何人もいたことが明らかになる。
時代がどんどん変わっても、黒人が白人によって理不尽に殺される事件は終わらない。
その都度キャンディマンが生まれることで、数世代に渡る時間の中で、存在が人々の記憶に受け継がれてきたのだ。
もちろん、アメリカ社会もダイナミックに変化しているから、改善されたことも多いのも事実だが、BLMムーブメントが世界に吹き荒れるきっかけとなったジョージ・フロイド氏の事件を見ても、人々の中にある差別と偏見の意識が変わり、理不尽な暴力が無くならない限り、キャンディマンの伝説は決して消えない。
主人公と、19世紀の初代キャンディマンとの職業的な付合を見るまでもなく、本作は21世紀の時代に呼ばれた、新たなキャンディマンの誕生の物語なのだ。

ピールの脚本は、結構時間をかけて物語の背景を描いていて、序盤はこの手のスラッシャーホラーとしてはスローテンポ。
描写自体は容赦無く、一旦怪異が起こり始めると、恐怖が登場人物たちを追い込んでゆくが、キャンディマンが鉤爪で次々と人を引き裂くような、B級な展開を期待していると肩透かしを喰らう。
都市伝説の怪物は、アンソニーが創造するアート作品のように、あくまでも現在社会における恐怖の根元とは何か?をを表現するためのメタファーだ。
旧作のレガシーも、なるほどこう使ってくるのかと驚かされ、百年以上に渡る負の連鎖を上手く表現している。
そして、エンドクレジットに流れる影絵劇は、ある意味本作の背景に隠された全体像とも言うべき秀逸な作品なので、必ず最後まで鑑賞して欲しい。

共同脚本も書いてる監督のニア・ダコスタは、キャプテン・マーベルの二作目「The Marvels」の監督に決まってるが、なかなかムーディで堅実な演出で魅せる。
それにしても、長編3本目でマーベルの超大作に抜擢とは。
逆に言えば、それだけクオリティを担保できる体制が組まれているのだろうが、クロエ・ジャオと言い、ハリウッドのこう言うところは本当に凄い。

今回は、胸が鉢の巣箱になっている怪人の話なので、蜂蜜酒の「ベーレンメット(ミード)」をチョイス。
人類が口にした最初の酒は、木の洞などにたまった蜂蜜と雨水が自然発酵して出来たものと考えられ、蜂蜜酒こそ全ての酒の祖。
こちらはドイツ製だが、製造国や蜂蜜の種類によってかなり味わいが異なる。
映画は辛口だが、酒は甘口。
ロックにして飲むのがオススメだ。

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最後の決闘裁判・・・・・評価額1700円
2021年10月22日 (金) | 編集 |
三つの“真実”、本物はどれ?

中世のフランス。
マット・デイモン演じる、騎士ジャン・ド・カルージュの美しい妻マルグリットが、夫の旧友に強姦されたと告白する。
だが、加害者とされた男は疑惑を真っ向から否定。
目撃者はおらず、証拠もない。
夫は神のみぞ知る真実を証明するために、敗者が死刑となる決闘裁判の決行を王に訴える。
果たして、嘘をついているのは誰なのか?
フランスで法的に認められた最後の決闘裁判の顛末を描いた、エリック・ジェイガーのノンフィクションを、マット・デイモンとベン・アフレックの「グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち」コンビが、ニコール・ホロフセナーと共同で脚色。
歴史劇に定評のあるリドリー・スコットがメガホンを取り、デビュー作「デュエリスト 決闘者」以来となる「決闘」を描く。
デイモンと対決することとなる従騎士ジャック・ル・グリをアダム・ドライバー、鍵を握るマルグリットを「フリー・ガイ」が記憶に新しいジョディ・カマーが演じる。

14世紀末、イングランドとのいつ果てるとも知れない100年戦争が続くフランス。
勇猛さで知られるの従騎士ジャン・ド・カルージュ(マット・デイモン)は、親友のジャック・ル・グリ(アダム・ドライバー)と共にイングランド軍との戦いに明け暮れていた。
二人が戦地から戻ると、アランソン伯ピエール2世(ベン・アフレック)が彼らの住む地方の君主に指名されており、二人もピエールに忠誠を誓う。
その後、財政難に陥ったジャンは、資産家の娘マルグリット・デ・ティブヴィル(ジョディ・カマー)と結婚。
しかしマルグリットの持参金として貰えるはずの土地が、既にピエールによって押収され、彼の財務官となったジャックに与えられていることを知り、訴訟を起こすも棄却。
さらにド・カルージュ家が何代にも渡って守護してきた砦の長官の座も、ジャックに奪われる。
数年後、ジャンはスコットランド遠征中に騎士に昇進し、報奨金を受け取りにパリに出向いた後帰還すると、マルグリットの様子がおかしい。
ジャンが問いただすと、彼の留守中ジャックが家に押し入り、強姦されたと言う。
普通に訴えても、ピエールに握り潰されると考えたジャンは、国王シャルル六世に決闘裁判での審判を訴え出るのだが・・・・

なるほど、これは確かに中世ヨーロッパ版の「羅生門」だ。
マルグリットはジャックに強姦されたと言うが、その場にいたのは当事者だけで、客観的に事実を知る者はいない。
同じ出来事も、当事者の認識の違いによって少しずつズレてゆく。
一人の人物が違う視点で語られた時、それまで見えなかった別の顔が見えてくるというワケ。
映画は、決闘裁判の当日を起点とした三章構成となっていて、ほぼ同じ時間軸が三人の視点で語られてゆく。
第一章がおよそ40分を費やして語られるジャン・ド・カルージュが語る「真実」。
ただし、肝心の強姦事件の時は、彼は留守だったので、実際に何が起こったのかは知り得ない。
次の40分強の第二章が、加害者とされたジャック・ル・グリの語る「真実」。
最後の第三章が、被害者のマルグリットの語る「真実」で、これこそが本当の「真実」だとメンションされる。

男二人が語る真実の冒頭部分には、まだマルグリットはいない。
当初は生死を共にした戦友同士で、無二の親友だった二人の運命は、戦地から帰った後に徐々に別れてゆく。
新たな支配者となったピエールの知遇を得たジャックは、その博学さを買われて領地の税務を担当するようになり、急速に力をつけてゆく。
一方のジャンは困窮し、ジャックの計らいでようやく税の支払いを逃れる状態。
彼は資産家の令嬢だったマルグリットと結婚することで、窮状を逃れようとするのだ。
ところが、彼女の持参金の一部だった土地がらみの揉め事で、ジャンとジャックは仲違いしてしまうのである。
ジャン視点で語られる第一章では、王に対する忠誠心旺盛で勇猛果敢、実直な生き方をしてきたジャンが、狡猾で卑劣なピエールとジャックによって、土地も役職も奪われてゆく。
マルグリットと結婚した後に、一度は彼女の助言もあってジャックと仲直りし、戦場で従騎士から騎士へと出世も果たす。
人生が上向いてきたと思った途端、帰還した家で涙を流すマルグリットから、驚くべき話を聞かされるのである。

同じ時系列をジャック視点で語る第二章では、だいぶ様相が異なって来る。
ジャックから見たジャンは、猪突猛進タイプで戦場で暴れる以外は才覚のない粗野な男。
正当な仕事の報酬として得た土地に対するジャンの訴訟や、砦の長官職についたことに対する怒りも、ジャックにしてみれば言いがかりである。
文武両道に優れた自分は官僚として取り立てられ、武芸しか脳のないジャンは戦地で戦って稼ぐしかないのは、当たり前だと思っている。
だが、ジャンの妻マルグリットを見て驚く。
美しいだけでなく、教養もあり自分と同じくらい博学な女性が、なぜジャンのような脳味噌筋肉男と結婚しているのか理解できず、彼女はジャンからの解放を望んでいると勝手に思い込む。
ここでポイントとなるのは、ジャックもマルグリットとセックスしたことは否定していないこと。
ただ彼はあくまでも合意の上でしたことで、強姦ではないと主張するのだ。

第一章と第二章は、二人の対照的な男の明暗の別れた人生の物語として描かれるが、物語のテーマはまだ曖昧。
そして男たちのドラマを下敷きに語られる、女視点の第三章でキレキレのスコット節が炸裂する。
正直第二章までの顛末は、21世紀の今から見ればいろいろ極端ではあるものの、「まあ中世の話だし、こんなものだよね」と思わないでもなかった。
ところが、第三章がマルグリット視点で語られはじめた途端、映画は強烈な現在性を帯びて来るのだ。
700年前の物語を21世紀時の今作った理由も、彼女の視点が入ることで完璧に納得できる。
この映画の男たちは、基本女性を所有物=財産だと考えている。
話を聞いたジャンが激昂したのも、マルグリットの痛みや怒りに共感していると言うよりは、自分の大切な所有物を奪われれ、名誉を汚されたと思っているからだ。
一方、自惚れ屋で、自分に靡かない女などいないと思っているジャックにとっても、彼女の本当の気持ちなどどうでもいい。
ジャックの辞書には、そもそも「強姦」という言葉は存在しないのだ。
マルグリットの身に起こったおぞましい事件は、男たちの中ではその前の土地を盗った盗られたという話と同じ文脈なのである。
聡明なマルグリットは、そんな時代の中でも自分ができること、やるべきことを見つけ、才覚の無い夫を助けて前向きに生きている。
ところが彼女のささやかな幸せは、身勝手な男たちによって簡単に踏みにじられてしまう。

第二章と第三章で描かれる、彼女が強姦されたシーンの描き分けはとりわけ秀逸だ。
ほとんど同じカット割、カメラワークなのだが、同じ事象に対する二人の認識の違いを役者の演技だけで描き切った。
マルグリットの視点では、彼女は苦痛に泣き叫び、誰がどう見ても乱暴されているのだが、ジャックの視点ではいわゆる「嫌よ嫌よも好きのうち」的に、彼女の拒絶がずっとマイルドに描かれているのだ。
なるほど、逮捕された強姦魔がよく言う、「合意の上」というのは、こういうことだったのだな。
しかし自分の名誉が一番大切なジャンは、負ければ妻も一緒に死刑になることを知りながら、決闘裁判を訴える。
また決闘裁判を認めるかの審問では、マルグリットがジャックに強姦された時、絶頂を感じたかを執拗に追及される。
これなどは、まさに現在で言うところのセカンドレイプであり、力を持った男が相対的に弱い立場にいる女を傷付ける構図は、時代が中世だとかは全く関係ない。

クライマックスの決闘はさすがリドリー・スコット。
想像していたよりもずっと泥臭く、彼の代表作の一つである「グラディエーター」のクライマックスを彷彿とさせる圧巻の仕上がり。
しかもこの時点で、第三章を観てきた観客はすっかりマルグリットに感情移入している
ジャンが負ければ、マルグリットの運命は決まってしまうので、二人のクソ野郎の対決ではあるが、彼女を殺させないためにジャンを応援せざるを得ない。
実際に決闘するジャンとジャック、それを見守るマルグリットの肉体と精神の三つ巴の戦いは、心臓が縮み上がる瞬間が連続する。
ここだけでも観る価値が十分にあるが、14世紀という遠い昔の事件を題材に、歴史物では影に追いやられがちな女性の視点を入れることで、驚くべき現在性と普遍性を導き出しつつ、娯楽映画として昇華したこの映画の作り手たちは素晴らしい仕事をしている。
脚本の三人も見事だが、御歳83歳のリドリー・スコット、若いわ。
ラストシーンのマルグリットの達観とした表情には、男性中心の歴史を冷徹に見つめるスコットの視線が透けて見える。
この映画での、悲願のアカデミー監督賞もあるんじゃないだろうか。

今回は、映画の舞台となるフランスのノルマンディー地方の名産品、カルヴァドスの「ブラーX.O.」をチョイス。
林檎を原材料としたブランデーは他にもあるが、カルヴァドスを名乗れるのはノルマンディー地方で作られる物だけで、ノルマンデー沖でエル・カルヴァドール号と言う船が難破した故事に因む。
非常に強い酒だが、単に酔っぱらうだけでなく、消化を促進する効果があると言われ、8年〜15年ものの原酒をブレンドしたこちらは、食中、食後酒として人気だ。

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DUNE/デューン 砂の惑星・・・・・評価額1750円
2021年10月19日 (火) | 編集 |
運命を、受け入れろ。

端的に言って最高だ。
深遠なSFであり、権謀術数渦巻く宮廷劇であり、神話的貴種流離譚でもある。
フランク・ハーバートの古典SFを映画化したのは、「メッセージ」「ブレードランナー2049」を成功させたドゥニ・ヴィルヌーヴ。
全宇宙を支配できる秘密を抱えた、砂の惑星アラキスを舞台に、壮大な宇宙神話の「序章」を作り上げた。
ヴィルヌーヴが、名手エリック・ロスとジョン・スペイツと共同で原作を脚色。
宇宙帝国の救世主となるポール・アトレイデスをティモシー・シャラメ、彼の母レディ・ジェシカをレベッカ・ファーガソン、父のレト公爵をオスカー・アイザックが演じる。
まだ前後編の前編のみとは言え、ハーバートの原作の映画化としても、ドゥニ・ヴィルヌーヴの作家映画としても、これ以上何を望む?という見事な仕上がり。
圧倒的な密度を持つ映像シャワーを浴び続ける、155分の素晴らしき映画体験だ。
※核心部分に触れています。

地球圏外に進出した人類が、宇宙帝国を築いた西暦1万190年。
帝国には諸大領家や、超能力を持った女たちの結社ベネ・ゲゼリット、恒星間飛行を牛耳るスペースギルドなどの勢力が割拠し、一枚岩ではない。
アトレイデス公爵家の一人息子、ポール(ティモシー・シャラメ)は、奇妙な夢を見ていた。
それは遠い砂漠の惑星で、一人の少女と出会い、戦いに巻き込まれるというもの。
ちょうどその頃、レト・アトレイデス公爵(オスカー・アイザック)は、皇帝から「デューン」の通称で知られる砂の惑星アラキスの管理権を与えられる。
アラキスは、人間の寿命を伸ばし、思考能力を飛躍的に増大させる物質、“メランジ”の産地。
長年ハルコンネン男爵家の領地だったが、国替えが行われることになったのだ。
だがフレメンと呼ばれる先住民が蜂起を繰り返しており、アラキスは不安定な情勢が続いている。
レト公爵は、歴戦の勇士ダンカン(ジェイソン・モモア)を先遣隊としてアラキスに送り、ポールとその母親のレディ・ジェシカ(レベッカ・ファーガソン)を伴い、本隊を率い新たな領地に乗り込む。
しかし、全てはアトレイデス家の勢いを挫きたい、皇帝の巡らした陰謀だった。
皇帝の後ろ盾を得たハルコンネン軍がアラキスを奇襲し、アトレイデス軍は壊滅。
レト公爵は殺され、ポールとジェシカは間一髪で脱出に成功するのだが・・・・


1965年に原作小説の第一作「デューン/砂の惑星」が出版されて以来、その荘厳な世界観と、シェイクスピア劇を思わせる複雑なドラマは、多くの映画関係者を魅了してきた。
幾多の映画化企画が作られてきたが、一番有名なのがドキュメンタリー映画にもなったメキシコの鬼才、アレハンドロ・ホドロフスキーの企画だろう。
VFXにダン・オバノン、美術にH.R.ギーガー、メカデザインにSF画家のクリス・フォス、キャラクターデザインにメビウスことバンデシネ作家のジャン・ジロー、キャストにはミック・ジャガーにオーソン・ウェルズ、さらにはあのサルバトーレ・ダリと冗談みたいな名前が並んでいる。
広辞苑みたいに、分厚く詳細な設定資料集までも作り上げるも、結局頓挫。
後にダン・オバノンは「エイリアン」の脚本家として脚光を浴び、ギーガーのデザインも「エイリアン」「プロメテウス」に一部が引き継がれ、メビウスは「ブレードランナー」に参加したことで世界的な知名度を得て、クリス・フォスのカラフルな宇宙船は、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」で日の目を見た。
今にして思えば、現在のハリウッドSFの礎となった企画だったが、結局最初に映画化の夢を叶えたのは、当時売り出し中の若手監督だったデヴィッド・リンチ。

失意のホドロフスキーは悲痛な想いでリンチ版を観に行ったそうだが、「映画が酷すぎて、だんだん元気になってきた」と言う(笑
本作には登場しない、スペースギルドの奇怪な“ナビゲイター”や凝った“シールド”の表現など、リンチ版は独特のビジュアル感覚があって決して凡作とは言えないのだが、一本に纏めたことによるダイジェスト感だけはどうしょうもなかった。
日本版文庫で四冊にも及ぶ大長編を、たった137分の映画で描き切るのは、最初から無理があったのだ。
そんな先人たちの失敗を見ていたせいか、ドゥニ・ヴィルヌーヴは最初から本作を前後編として映画化した。
まあこのやり方は一本目がコケると、続きが作れなくなると言うリスクもあるが、箸にも棒にもかからないダイジェストになってしまうよりもマシ。
実際、原作の物語の大体2/3を155分と言う長すぎず、短すぎない時間で描いている。
後半はアクションが多くなり、確実に尺が伸びると考えると、この判断は正解だったと思う。

時間がたっぷりと使えることによって、特に物語前半の宮廷劇としてのディテールはグッと綿密になり、この手の話が好きな人にはたまらない。
「スター・ウォーズ」的な、派手なスペースオペラを期待すると、地味な展開に裏切られたと感じるかも知れないが、耳慣れない名前の人や民族、舞台となる惑星や統治機関の複雑な設定を、膨大な情報を用いて説明する、これが本来の「デューン/砂の惑星」なのだ。
また、シャラメという優れた演者を得て、主人公ポールの葛藤もしっかりと描かれている。
そもそもこの物語はポールの予知夢が重要なキーとなっていて、この前編は彼が銀河帝国の救世主として、血で血を洗う戦いに身を投じる運命に戸惑い、覚悟を決めるまでの物語だ。
フレメンの間で語り継がれる救世主伝説そのものは、ベネ・ゲゼリットが遠い昔にでっち上げたものなのだが、大衆の中で語り継がれるうちに虚実の境界は意味を失う。
そして夢で見たことが必ず起こるとは限らず、未来は変えられると確信する瞬間がやって来る。
ハーバートの原作に強い影響を受けたと言われる「風の谷のナウシカ」は、腐海の民の救世主として金色の野に降り立ったが、宇宙神話の救世主は無限の砂漠に姿を現すのである。

そして本作は、ある意味ヴィルヌーヴの作家性がもっとも明確に出た作品となった。
ケベック時代に撮った「渦」「静かなる叫び」「灼熱の魂」といった一連の作品、そしてハリウッドで本領発揮した「メッセージ」「ブレードランナー2049」を見ると、この人の映画には独特のスタイルがある。
非常に言語化しにくいのだが、簡単に言えばヴィルヌーヴの作品は、映画的というよりも絵画的である。
ドラマを筋立てで語ろうとする意図は希薄で、逆にテリングの力が突出している。
いやもちろん、本作はハーバートの原作に忠実に作られているので、プロット自体はきっちり組まれているのだが、ヴィルヌーヴの興味はそこにはないと思う。
いわば、侯孝賢やタルコフスキーの系譜だ。
筋立てベースで鑑賞すると、決め込まれた画が並んでいるだけなので、物語的な抑揚が無いと感じる人もいるだろう。
しかし1カット1カットの画に、莫大なエモーションが埋め込まれており、全体を俯瞰すると過去現在未来すべてが整然と表現された一つのナラティブ芸術、いわば光の絵巻物が浮かび上がるのである。

どこまでも続く砂漠の、圧倒的な存在感。
未来の話ではあるのだが、地球文明の悠久の歴史を感じさせる美術に、凝った衣装。
刀を主体とした、“合戦”と呼びたくなるスタイルで描かれる、ハルコンネン軍との戦い。
大活躍を見せるトンボ型の羽ばたき飛行機、オーニソプターに、想像を絶するほど巨大な、砂漠の支配者サンドワーム。
そしてこの世界に蠢く、因果応報の人間たちのドラマ。
これら全てが詩的に表現された、一枚の絵巻物の構成要素として機能しているのである。
だからヴィルヌーヴの映画でスクリーンと正対するときは、こちらから映像を浴びに行き、感じ取らねばならない。
普通の映画の様に、受動的に物語に引っ張ってもらおうとすると、とっかかりすら掴めずに置いていかれるだけになってしまう。
本作が公開初日から賛否が大きく割れる反応となっているのは、この特異な作家性ゆえだろう。
小説だと思って手にとったら、中身はビッシリと難解な詩が書かれていた様なもの。
これは良い悪いではなく、世界にはこの様なスタイルで映画を作る人もいるというだけのことで、一たび作品世界に没入できれば、至福の時を堪能できるのだ。
その意味で、これほどIMAXフォーマットがハマる映画もあるまい。

ヴィルヌーヴは、状況が許せば来年にも続編を撮りたいと言っているそうだが、この完成度を見ると、楽しみでしかない。
本国アメリカと中国で公開されてない段階で、興行収入はすでに1億3000万ドルに届こうとしているので、たぶん大丈夫だと信じたい。

今回は、デザート(desert)ならぬデザート(dessert)ワイン、ケベックのお隣オンタリオ州のザ・アイスハウス・ワイナリーが作る「ヴィダル アイスワイン」をチョイス。
ピーチをはじめとした複雑なフルーツの味わい。
濃厚なフルボディの甘口デザートワインだが、適度な酸味も感じられる。
これからやって来るホリデーシーズンには、一本用意しておきたい。

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ONODA 一万夜を越えて・・・・・評価額1700円
2021年10月15日 (金) | 編集 |
フランス人監督が描く、“最後の日本兵”の30年。

太平洋戦争の終結後、日本の敗戦を信じることが出来ず、実に30年にも渡ってフィリピンのルバング島でゲリラ戦を展開した小野田寛郎陸軍少尉。
彼は1974年に、元上官によって命令を解除され投降。
ついに日本への帰還を果たすが、本作は米軍の上陸からフィリピンを離れるまでの30年間に、彼の身に何が起こり、なぜ降伏しなかったのかを詳細に描いてゆく。
徹底的なリサーチによって、リアリティたっぷりに最後の日本兵を蘇らせたのは、デビュー作「汚れたダイヤモンド」で高い評価を得た、フランスの俊英アルチュール・アラリ。
日本資本も一部入っているが、基本的にフランスのスタッフを中心に作られたフランス映画で、キャストの大半は日本人という特異なフォーマットの作品だ。
遠藤雄弥と津田寛治が、タイトルロールをリレー形式で二人一役で演じ、長い歳月を実感させる。
ほぼ3時間の長尺を費やして、じっくりと描かれた時代に囚われた男の内面のドラマは、ある種の日本人論でもあり、観応えはたっぷりだ。

1944年。
航空兵となる夢を果たせず、やさぐれていた小野田寛郎(遠藤 雄弥/津田寛治)は、その資質を見抜いた谷口義美少佐(イッセー尾形)によってスカウトされ、情報将校を育成する陸軍中野学校二俣分校へ入学する。
そこで破壊工作や潜伏など諜報戦の全てを叩き込まれ、フィリピン戦線へと送り込まれる。
食糧や武器弾薬を備蓄し、ゲリラ戦の準備を進めるも、米軍の攻撃が始まると日本軍はすぐに総崩れとなり、小野田も山中へと逃げ込んだ。
小野田は、日本兵の中から士気の高い小塚上等兵(松浦祐也/千葉哲也)、嶋田伍長(カトウシンスケ)、赤津一等兵(井之脇海)を選び、遊撃戦を開始する。
他の日本兵が死に絶え、米軍が姿を消すと、友軍が戻ってくる時のため、島の支配を確立しようと島民を相手に争う。
5年の歳月が流れた頃、赤津が姿を消して投降。
嶋田も島民との戦闘で死亡する。
やがて、小野田と小塚に投降を訴える、日本政府の調査団もやってくるが、小野田は全てを敵の計略だと考えていた・・・


1974年に小野田氏が帰国した時、私はまだ子供だったが、マスコミが盛り上がっていたこともあり、かすかに覚えている。
テレビに映し出された小野田氏の、眼光鋭く周囲を威圧するようなムードは、まさに映画に出てくる日本軍将校。
その2年前にグアムのジャングルで見つかり、帰国を果たしていた横井庄一氏が、いかにも人の良さそうなおじさん然とした人物だったこともあり、小野田氏の硬質なキャラクターは際立っていて、マスコミの呼ぶところの「軍国主義の亡霊」そのものだった。
その後、彼の体験を描いたドラマやドキュメンタリー番組が何作も制作され、私もその中のいくつかは観た。
印象的だったのは、戦地に出るまでの彼の経歴で、本作を鑑賞しながら「あーそうだった、この人普通の兵隊じゃなくて、中野学校の出身の間諜だった」と色々思い出していた。

帝国軍人でありながら、決して死ぬことを許されず、自分の頭で判断し行動することを求められ、敵の地で何年でも潜伏しながら、破壊工作を続けることを前提とした秘密戦の専門家。
キャラクターの特殊な背景が、決断に大きな影響を与えているのは間違い無かろう。
何しろ彼はただ隠れていただけでなく、ずっと現地で戦争を続けていたのだから。
現地の島民に自分たちへの恐怖を抱かせ、日本軍が戻ってきた時に支配をスムーズにするために、定期的に畑を遅い、時には生活必需品を奪う。
戦後30年間で、小野田氏と潜伏日本兵によるルバング島民の死傷者は、30人に及ぶという。
もちろん突然襲ってくる日本兵は、島民にとっては山賊と変わらない無法者だろう。
実際島民たちもただ逃げ惑う訳ではなく、武器を取って反撃し、小野田グループでも二名が殺されているのだから文字通り殺るか殺られるかの戦争だ。
投降した時の小野田氏の装備は、30年も使用していたとは思えないほど、しっかりメンテナンスされていたというから、まさにゲリラ戦のプロフェッショナルである。

面白いのは、諜報戦のやり方を知っているが故に、日本が敗戦したことを信じられないこと。
自分たちを探す日本政府の調査隊が来ると、新聞や雑誌を奪い、ラジオも手に入れるのだが、そこに書かれていることは全て諜報戦用の作り物だと思い込む。
戦後日本人のライフスタイルが大きく変わったことを知らないので、嫌っていた洋服を着た父の写真を見て偽物だと決めつける。
おそらく彼らも、うすうすは日本の敗戦の可能性を感じ取っていたのだろうが、新聞やラジオで得た情報をいろいろ分析して理論付けると、戦争がまだ続いている説にもなんとなく辻褄が合ってしまうので、どうしても信じ切れない。
この辺りは、考えちゃう人だからこそハマる、フェイクニュースによる陰謀論などにも通じる話だが、もし小野田氏が命令に従っているだけの普通の兵隊だったら、赤津がそうした様に、もっと早くに投降していただろう。
ラジオでアポロ11号の月着陸の中継を聞きながら、同時に島民の女を捕虜にするあたりは、非常に皮肉な展開だ。
結局彼は、脳内に作り上げた虚構の歴史と戦っていたのだ。

3時間近い上映尺はさすがに長さは感じるが、決して冗長ではなく、むしろ主人公がジャングルで過ごした遠大な時間を実感できる。
四人の仲間の関係が、時間の経過と共に変わってくるのも興味深い。
当初は士気旺盛だったのが、先の見えない生活に徐々に閉塞感が募ってくる。
お互いへの対応が刺々しくなり、遂には大喧嘩にまで発展。
一方でBLまで行かぬ、男同士の微妙に艶っぽい触れ合いも。
やがて故郷に妻子を残していた嶋田が殺されると、ショックを受けた赤津も離脱し、小野田グループは軍の部隊としては瓦解する。
しかし残った二人は妙に馬が合う様で、いつの間にか上官と部下と言うよりも親友の様な関係になってゆく。
どこまでも緑のジャングルが続く島の豊かな自然と、矮小な争いを続ける人間の対比は、「シン・レッド・ライン」や塚本版「野火」を彷彿とさせる部分も。
二人一役で小野田氏を演じた、津田寛治と遠藤雄弥を筆頭に、役者が皆素晴らしい。
出番は少ないながらも、若き小野田青年を間諜の世界に招き入れ、30年後に彼の任務を解く谷口少佐役のイッセー尾形の、軽妙なキャラクターは強く印象に残る。

フランス人のアルチュール・アラリにとって前世紀の帝国軍人、小野田寛郎が驚くべき物語を秘めた未知の人物だった様に、今の大半の日本人にとっても彼の様な生き方は理解し難いものだろう。
最小限のバックグラウンドを描いた後は、シンプルに彼の行動に寄り添った本作のアプローチは、小野田寛郎という人物像を適度な距離感で眺め、理解するのに最良に思える。
心境を言語化するのが難しいが、投降直前に仲野太賀演じる日本人バックパッカーと出会った時、彼の中にぼんやりとあった真実が虚構を押し除けて急速に形を持ってくるあたりは、非常に説得力があった。

また、いい意味で「日本人監督なら絶対こうは撮らないよな」というショットが多々あり、この辺りは異文化クロスオーバー映画ならでは。
しかし本作といい「MINAMATA ミナマタ 」といい、外国人監督が描く日本と日本人に、これほどの傑作が続くとは。
小野田氏は、帰還した戦後の日本社会に馴染めず、ブラジルへ移民して行ったが、2014年に亡くなる前は再び日本に暮らしていたという。
昔観たドキュメンタリー番組で、晩年の小野田氏がインタビューに答えていたが、74年に帰国した当時のイカツイ帝国軍人然とした表情は消え失せ、非常に優しい笑顔になっていたのが印象的だった。
帰還後の40年間に、彼の心を変える何かが起こったのだろうなあ。
つくづく、ドラマチックな人生だ。

今回は小野田氏の出身地である和歌山の地酒、名手酒造店の「純米酒 黒牛」をチョイス。
和歌山のお酒は、いわゆる淡麗辛口とは違った独特の甘みとまろやかさがあって、これも辛口でありながら、和歌山地酒らしいまろやかな口あたり。
お米の豊かな旨味が感じられ、スイスイ飲めちゃう。
名前の通り、美味しい和牛と絶妙に合う。

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ショートレビュー「由宇子の天秤・・・・・評価額1700円」
2021年10月10日 (日) | 編集 |
「真実」は、本当にあるのか?

人間社会のダークサイドを鋭く突いた、パワフルな力作である。
春本雄二郎監督が、自らのオリジナル脚本を自主制作体制で映画化した作品で、「この世界の片隅に」の片渕須直監督がプロデューサーとして参加している。
物語の主人公は、瀧内公美演じるドキュメンタリー番組の監督、木下由宇子。
彼女は、3年前に起きた女子高生いじめ自殺事件の関係者に取材し、真相を追っている。
事件では女子高生だけでなく、彼女との淫行を疑われた教師も後を追うように自ら命を絶っていて、由宇子は学校の隠蔽体質だけでなく、マスコミの過剰報道も彼を追い詰めたと考えている。
このため、真実を暴けばTV局の身内批判ともなることから、なかなか上層部から放送の許可を得られずにいるのだ。

そんな時、父の木下政志が経営し由宇子も講師を務める学習塾で、事件が起こる。
塾生の小畑萌が妊娠していることが分かり、彼女から子供の父親が政志だと打ち明けられた由宇子は、自己矛盾に陥ってしまう。
もし世間にこのことが知られたら、政志は確実に終わりだが、それだけでは済まない。
ちょうど同じような教師と生徒の事件を取材している由宇子も、道義的な責任を問われることになるのは必至。
長い歳月を費やして取材してきた作品は、放送されることなく、お蔵入りとなるだろう。
ドキュメンタリー監督としての彼女のキャリアも、取り返しのつかない傷を負う。
真実を追求することに情熱を燃やしてきた由宇子は、あっさりとこちらの事件を隠蔽することにするのだ。

非常に分かりやすい、ダブルスタンダードの葛藤
由宇子は人生を守るために、嘘をつくことを決めた。
ポイントになるのは、「身内」と「他人」という概念だ。
自分の人生に影響を及ぼす、政志や萌、そして番組関係者は「身内」で、それ以外は「他人。」
人は自分と身内に甘く他人に厳しいから、マスコミは興味本位で過剰報道するし、今の時代個人もSNS上でとことん非難する。
そしてそんな攻撃から身を守るために、自己保身の嘘をつくのだ。
だが、それは別に由宇子だけではないだろう。
家族がおぞましい罪を犯していて、その事実を公表するかどうかを自分に委ねられたら、「それでも、正しいことをします」と、胸を張って言える人がいったい何人いるだろうか。

しかもこの映画は、ここから更に捻ってくるのだ。
私たちは誰かの話を聞く時、無意識にバイアスがかかった目で相手を見る。
この人は誠実そう、この人は悪そう、この人は嘘をつかなそう。
人だけでなく組織に対しても同じだ。
この組織は信用できないけど、こっちは信用できそう。
でも抱いたイメージが本当かどうかなど、誰にも分からないのだ。
誠実な人でも、自分と身内のためなら嘘をつくし、一見粗暴そうな人が、実は人一倍強い倫理観を持っているかも知れない。
そのことは自分が一番良く分かっているはずなのに、由宇子はバイアスによって他人の嘘に気付けない。
たくさんの人のついた嘘がたまり、そこに決して埋まることのない「真実の空白」が生まれてしまうのである。
ある意味、吉田恵輔の「空白」と同じことをやっているのだが、アプローチは全く異なる。

自分が作っている作品と、現実で直面しているシチュエーション。
一見似ているが本質的には真逆と思われた二つの事件は、いつしかクロスし由宇子を究極の選択へと追い込んでゆく。
光を当てるときは、それが真実かを見極めなければならず、真実を知りたければ、空白を見なければならない。
色々な意味で、人間って恐ろしいと思わせられ、モヤモヤと緊張が続く152分。
劇場の暗闇で、自問自答を求められる問題作である。

今回はヘビーな展開の連続に、カラカラになった喉を潤す「ギムレット」をチョイス。
英国海軍将校がジンを飲み過ぎることを憂いだ軍医のギムレット卿が、ライム・ジュースと混ぜるのを勧めたことから生まれた健康カクテル。
ドライ・ジン45ml、ライム・ジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぎ、スライスしたライムを一片添えて完成。
ドライな味わいとライムの酸味が、ドヨーンとした頭をすっきりさせてくれる、フレッシュなカクテルだ。
ギムレットにシロップ1tspを加えて、冷やしたソーダで割った「ギムレット・ハイボール」にしても美味しい。

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007 / ノー・タイム・トゥ・ダイ・・・・・評価額1650円
2021年10月06日 (水) | 編集 |
ダニエル・ボンド、有終の美。

2006年に公開された「カジノ・ロワイヤル」で初登場して以来、15年に渡って5作が作られたダニエル・クレイグ主演のボンド映画最終作。
宿敵スペクターのボス、ブロフェルドとの対決から5年後。
引退して悠々自適のセカンドライフを楽しんでいたボンドの前に、スペクターの残党を叩き潰した新たな敵が現れる。
シリーズ初のアカデミー賞監督だったサム・メンデスに変わってメガホンを取ったのは、キャリー・ジョージ・フクナガ。
メキシコのギャングを抜けた少年と、南米からアメリカを目指す少女の、鮮烈な青春を描いたデビュー作「闇の列車、光の旅」で脚光を浴びた俊英だ。
おなじみの面々に、新キャラクターとして、ラシャーナ・リンチ演じるボンドの引退後に007のナンバーを継いだノーミ、そして「ナイブズ・アウト/名探偵と刃の館の秘密」でもクレイグと共演している、アナ・デ・アルマスが、可愛さとカッコ良さを兼ね備えたCIAの新人スパイ、パロマを演じ、美味しいところをさらってゆく。
※核心部分に触れています。

スペクターとの戦いの後、マドレーヌ・スワン(レア・セドゥ)とイタリアを訪れたジェームズ・ボンド(ダニエル・クレイグ)は、ヴェスパーの墓参り中にスペクター残党の襲撃を受ける。
マドレーヌの関与を疑ったボンドは、彼女を問い詰めながら脱出を図る。
なんとか敵を退けるが、マドレーヌのことを信じられなくなり、二人は別れる。
5年の歳月が経ち、ダブルオーセクションを退官したボンドは、ジャマイカに居を移し平和な日常を楽しんでいた。
そんな時、ボンドの元に旧友のCIAエージェント、フェリックス・ライター(ジェフリー・ライト)が訪ねてきて、ロンドンでスペクターに誘拐されたロシアの細菌学者オブルチェフ(デヴィッド・デンシック)を、救出して欲しいと依頼される。
断り切れず個人的に現場復帰したボンドは、キューバで開かれるスペクターのパーティーに、CIAの新人スパイ、パロマ(アナ・デ・アルマス)と潜入。
MI6が送り込んできた新007のノーミ(ラシャーナ・リンチ)と争奪戦になるが、オブルチェフの確保に成功する。
しかし直後に裏切りに合い、フェリックスは殺され、オブルチェフは奪われた。
全ての糸を引いていたのは、リュートシファー・サフィン(ラミ・マレック)という謎の男だった・・・・


この2年間散々予告編だけを見せられきたので、ポストコロナの時代を感じさせ余計に感慨深い。
マドレーヌの過去から始まる物語は、以前のシリーズでは禁じ手だった展開を見せ、最終的に驚くべきところに着地する。
過去の「007」は演じる俳優によって、大きくイメージが変わってきた。
初代ショーン・コネリーの男臭いダンディズムが滲み出るボンド、ロジャー・ムーアのお洒落で陽気なボンド、ティモシー・ダルトンの精悍で硬質なボンド、ピアーズ・ブロスナンのハンサムでウィットに飛んだボンド。
ちなみに、前作「スペクター」と本作、いや大雑把に見たら5部作全体の展開の元ネタが、一本だけボンドを演じたジョージ・レーゼンビー主演の「女王陛下の007」なのは皮肉である。
この作品がクレイグの新シリーズのベースとなったのは、ボンドの結婚と新妻の喪失が描かれ、珍しくボンド自身がドラマを持っていたからだろう。
クレイグ以前の007は、全て一話完結でボンドは物語を進める装置、狂言回しみたいな存在だった。
数々のお約束をこなし、美女と寝て、任務を遂行するがキャラクターは一切変化しない。
だからこそ、俳優が替わればその俳優の色に染めることが出来たのである。

ところが、2006年から始まった新シリーズは、基本ボンドの成長物語で続きもの。
何しろ第一作の「カジノロワイヤル」でのボンドは、ダブルオーエージェントになったばかりの、青臭い新人だったのだ。
一作目でファムファタールのヴェスパーを喪うという試練を経験し、第二作の「慰めの報酬」では復讐を果たす。
そして「スカイフォール」の親殺しの儀式で一人前になって、前作の「スペクター」では往年の荒唐無稽なタッチが戻って来たかと思ったが、クレイグ・ボンドの最終作ではキチッと成長物語の総決算に落とし込んできた。
基本的なプロットラインは、前作同様に「女王陛下の007」の延長線上。
軸となるのはボンドとマドレーヌの関係で、旧作でスペクターが目論んでいたウィルステロは、遺伝子を解析し感染した個人や民族を確実に死に至らしめるナノロボットに変わっているが、基本は似たようなもの。
大きな違いはブロフェルドは既に捕まっていて、新たなる敵、サフィンとの因縁を持っているのがボンドではなく、マドレーヌだということだ。

サフィンは、マドレーヌの父親だったスペクター幹部、ミスターホワイトに家族を殺され、復讐するためにミスターホワイトの隠れ家を襲撃しマドレーヌの母親を殺す。
だが、なぜかマドレーヌにはとどめを刺さず、助けるのだ。
そしてスペクターのナノロボット奪取計画を乗っ取り、一気にスペクターを壊滅させると、マドレーヌを利用して刑務所奥深くに幽閉されているブロフェルドを狙うのである。
サフィンとマドレーヌの因縁に、マドレーヌとボンドの因縁が絡み合い三つ巴となる仕組み。
世界をまたにかける冒険は、先を読ませず、スケールも大きく楽しめる。
特に前半は快調で、キューバでのスペクターのパーティを舞台としたオブルチェフ争奪戦は、まさにアクション映画の妙を味わえる。
このシークエンスで大活躍するのが、これぞ「007」なセクシーなドレスで登場するCIAのスパイ、パロマだ。
新人で緊張してるから言われたこと全て忘れちゃうとか、ドジっ娘かと思わせておいて、いざ戦闘が始まるとバッタバッタと華麗に敵を倒してゆく。
そして一段落ついたら、「じゃ、私はここまで」とカッコ良く去ってゆく。
非常に魅力的なキャラクターだから、次のシリーズでの再登場、もしくは彼女が主役のスピンオフでも作って欲しい。

惜しむらくは終盤で、北方領土あたりにあるらしい、サイフィンの秘密基地に潜入してからが、基地の空間設計とアクションの筋立てが噛み合っておらず、スムーズに進まない。
一番の問題は、ボンド、サフィン、マドレーヌ、そしてマドレーヌの娘マチルドの、身柄を取ったり取られたりの展開がうまくいってないことだ。
ボンドから逃れたサフィンが、あっさりマチルドを手放してしまったのには、相当な違和感があった。
あの時点では、既にボンドはマチルドが自分の娘だと分かっていたはずで、彼女には人質としての価値が十分に残っているから尚更だ。
おかげでサフィンとの最後の対決も淡白過ぎて、ブロフェルドを超える悪のはずが、ちょっとショボく感じてしまった。
マドレーヌもあまり効果的に動けていないし、特に割りを喰ったのがボンドの後輩のノーミで、あまり見せ場なく終わってしまった。
やっぱりマチルドを人質にして逃げるサフィンをボンドが倒して、娘を奪還するも最後の最後でサフィンの切り札だった毒を浴びてしまい、触れることができぬまま、父親としての責任を果たす、とした方がクライマックスとして盛り上がったのではないか。
とは言え、「LOGAN ローガン」を思わせるボンドの決意には、十分に泣かされたけど。

しかし、これで次期「007」の多様性に関する例の噂が、一気に信憑性を帯びて来たと思ったら、マーベルみたいな最後の字幕で混乱。
あの状況から、いったいどうやって??
世界観を踏襲せずに、完全リブートするんだろうか。
蓋を開けてみたら、またクレイグが出てきたりして(笑

今回は前作で登場した新レシピ、オリジナルシリーズでも知られるウォッカベースの「スペクター・マティーニ」をチョイス。
ベルヴェデール・ウォッカ60ml、ドライ・ベルモット10ml、オリーブの漬け汁1tsp、グリーンオリーブを用意。
オリーブをミキシンググラスの底に置いて優しく潰し、残りの材料を注ぎ入れたら、氷と共に強くシェイク。
ダブルストレインしてキンキンに冷やしたグラスに注ぐ。
特徴はウォッカ・マティーニのレシピよりウォッカの比率が高いことと、塩味がアクセントになっていること。
ヴェスパーへの想いを卒業して、ぐっと辛口で大人になったボンドのイメージだ。

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MINAMATA ミナマタ・・・・・評価額1750円
2021年10月03日 (日) | 編集 |
魂を、写し撮る。

20世紀のアメリカを代表する、名フォトジャーナリストのユージン・スミスを主人公に、彼が70年代の日本で水俣病に苦しむ人々を取材した逸話の映画化。
加害企業のチッソから度重なる妨害を受け、片目を失明する重傷を負ってもなお、日本を離れず取材を続け、水俣病の実態を世界へ知らしめたのは何故か。
水俣病との出会いから、1975年に出版された、ユージンと妻のアイリーン・美代子・スミスによる傑作写真集「MINAMATA」の出版に至る顛末を描く。
ユージン・スミスをジョニー・デップが好演し、彼の妻となるアイリーンに美波。
真田広之、加瀬亮、國村隼、浅野忠信、岩瀬晶子ら日本の名優たちがガッチリと脇を固める。
これが二作目となるアンドリュー・レヴィタスが監督と共同脚本を務め、今語るべき骨太の力作に仕上げた。

1971年、ニューヨーク。
かつて世界を駆け巡り、傑作を次々と発表していたフォトジャーナリストのユージン・スミス(ジョニー・デップ)は、仕事に対する情熱を失い、酒に溺れる日をおくっている。
富士フィルムのCMに出演した時、アイリーン(美波)と名乗るスタッフの女性から、熊本県の水俣で起こっていることを取材してほしいと相談を受ける。
水俣ではチッソの工場から垂れ流される毒性の廃液によって、人々が水俣病と呼ばれる水銀中毒となり、苦しんでいるという。
彼女から渡された資料に興味を抱いたユージンは、水俣を訪れるが、そこで彼が見たものは、水銀中毒で話すことも立つことも出来ない子供たちの姿だった。
水俣の人々はリーダーのヤマザキ(真田広之)を中心に団結し、チッソを相手取って裁判を起こしたが、会社は住民の弱みに漬け込み分断しようとしていた。
ユージンは水俣に拠点を構え取材を開始し、ライフ誌も大規模な特集を組む計画を進めていた。
そんなある日、ユージンが水俣を取材していることを知ったチッソのノジマ社長(國村隼)は、彼を工場に招くと、ある取引を持ちかけるのだが・・・・


ユージン・スミスの代表作の一つに「入浴する智子と母」という写真がある。
水俣病に冒され、生まれつき体が硬直し、動かすことの出来ない智子という少女を、母が優しく抱きながら入浴させる。
普通ならば他人には絶対に見せない、入浴というシーン。
病気で障害を抱えた我が子の姿なら、尚更人目に晒したくないもの。
実際、水俣を訪れた当初、人々は病気で歪んでしまった自分の姿を、写真に撮られるのを頑なに拒む。
ではユージンは、いかにして人々の心を開き、水俣の真実を撮ることができたのか。
これは冒頭とラストに描かれる、「入浴する智子と母」の撮影シーンを括弧に、ユージンの魂の軌跡を描いた物語である。
本作は、日本を舞台としながら、受け入れ態勢などの問題で、東欧のセルビアやモンテネグロで大半が撮影されている。
それゆえに、植生や建物に若干の違和感は残るが、これほどまでに真摯に“日本”を作り込んで描いてることにも驚嘆。

もともと、ユージンにとって日本は複雑な想いを抱く国だったはず。
1943年から45年にかけて、従軍記者として太平洋戦線を転戦しながら取材を続けていたユージンは、沖縄戦の取材中に日本軍の迫撃砲により、瀕死の重傷をおう。
療養期間は2年に及び、PTSDに苦しみ、一生治らない後遺症も残った。
地獄の戦場から家族の待つ米国の家に戻り、心の平穏を取り戻した時に撮影されたのが、本作にもチラリと出てくる、彼の一番有名な作品「楽園への歩み」だ。
薄暗い樹木のトンネルの中を、光に向かって歩くユージンの幼い息子と娘。
ほのぼのとした美しい写真だが、子供たちが進む未来の世界が平和でありますように、という切実な願いが込められているのである。

その後現場に復帰したユージンが、ライフ誌で8年間に渡って取り組んだ、フォト・エッセイの仕事は、社会的共感をベースとした現在のフォトジャーナリズムの礎となる。
そんな偉業の数々を成し遂げ、50を過ぎて燃え尽き症候群にかかった70年代に持ち込まれたのが、水俣の取材。
戸惑いつつも、日本を訪れたユージンは、水俣の現状を見て心を動かされ、徐々に忘れていた情熱を取り戻してゆく。
もっとも、PTSDを患っているので、暴力には過敏なまま。
身の危険を感じる事態に、何度も心折れそうになるのだが、長年どん底にいた男が少しづつ情熱を取り戻してゆくプロセスは十分ドラマチック。
戦争で多くを失ったユージンは、チッソへのプロテストを「(人生を取り戻すための)最後の戦争にしよう!」と訴えるヤマザキに共鳴してゆくのである。

本作は企業犯罪の告発ものであるのと同時に、過去の人となっていたユージンの復活劇となっているのだが、これがジョニー・デップにシンクロしてくるのも面白い。
デップの演じたユージン像には賛否があるようだが、ここ数年スキャンダルばかりが注目されてきたデップにとっても、本作の演技は快心の出来。
酒に溺れ、仕事への情熱を失ったユージンが、少しずつ自分が何者だったのかを思い出し、ついに眠っていた才能を発揮してゆく姿は、まるでドキュメンタリーのような趣がある。
久々の好演を見せるデップだけでなく、日本人俳優たちも素晴らしい。
特にチッソのトップを演じる、國村隼の演技は印象深い。
この人は「ミッドウェイ」でも、いかにも小心者で官僚タイプの南雲忠一を好演していたが、今回も日本人が納得できる、ちょっと偉い立場の日本人像を巧みに作り上げている。
敗訴が決まった後の複雑な感情を含んだ表情は、やはり上手い役者にしか出来ないものだろう。

ところで、水俣病と聞いて思い浮かべるイメージはどんなものだろうか。
私は不勉強なもので、昭和の頃に社会や公民の授業で習った、四大公害病の一つで、過去の問題という認識だった。
ところが映画を見て、その後の顛末を調べて驚いた。
一時勝訴の後、ヤマザキが人々に語っていたように、裁判は終わることなく、世代を超えてずっと続いていたのだ。
更にチッソからの補償金が収入とみなされ、高齢の被害者が生活保護を受けられなくなるという新たな問題も生まれているという。
ちっとも過去の話では無かったのだ。
これは日本人が作るべき映画だったのは間違いないが、おそらく今の日本でこの映画を企画したとしても、お金が集まることはないだろう。
最近落ち目とは言え、ジョニー・デップというスターが動き、70年代当時のユージンと同じく、日本社会を引いた視点から眺められる外国人監督だからこそ、作り得た作品と言えると思う。

ある意味当事者である水俣市が、市としてこの映画の後援をしないと決めたのも、映画のラストに表示される、「チッソと日本政府はいまだに責任を果たしていない」と糾弾する字幕に、むしろ説得力を与えるものだ。
半世紀前に、日本人の声に答えてユージン・スミスが取材したことで、「MINAMATA」は世界に知られるようになり、チッソは賠償に応じざるを得なくなった。
そして長い歳月が経った頃、ユージンからバトンを受け取ったこの映画の作り手によって、映画「MINAMATA ミナマタ」として日本に帰ってきた。
問題は、水俣病だけではない。
映画のエンドクレジットには、人類の産業化以降、世界中で起こっている公害の例が多数紹介され、その中には福島第一原発の事故も含まれている。
再び、バトンは渡された。
今度は、私たちが問われているのである。

本作の舞台となる熊本といえば、やはり焼酎。
特に清流球磨川の流れる盆地球磨地方の焼酎は、「球磨焼酎」として国際的に有名だ。
今回は球磨地方の老舗、恒松酒造本店の米焼酎「かなた」をチョイス。
クセがなく、フルーティで日本酒を思わせる芳醇な味わいは、焼酎が苦手な人でも大丈夫だろう。
オン・ザ・ロックでいただきたい。

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ショートレビュー「空白・・・・・評価額1750円」
2021年10月01日 (金) | 編集 |
心の空白、時間の空白。

これはパワフルな寓話であり、悲喜劇だ。
スーパーで万引きを疑われ、店長に追いかけられた少女が車にはねられて事故死。
突然娘を奪われた父親の怒りの矛先は、事故のきっかけを作ったスーパーの店長へ向かう。
「ヒメアノ〜ル」「BLUE ブルー」など、野心的な秀作を連発する吉田恵輔監督の最新作は、どこにも持っていきようのない、人間たちの鬱屈した感情の爆発を、鮮烈に描写した傑作だ。
軸となるのは古田新太が怪演する父親と、松坂桃李演じるスーパーの店長の対立。
漁船の船長で、粗野で喧嘩っ早い強面の父親と、地元スーパーの物腰柔らかな二代目ボンボン店長が、分かりやすいコントラストを形作る。
父親は娘が万引きしたことを信じておらず、店長が性的な暴行目的で娘を事務所に連れ込んだと思い込んでいる。
だが、何の証拠もない。
娘が本当に万引きをしたのか、あるいは店長の性癖の犠牲となったのか。
当事者の娘が死んでしまった今、捕まってから逃げ出して死ぬまでのわずか数分が“真実の空白”となって、残された者が喪失に向き合うことを阻むのである。

この作品のポイントは、目に見える範囲では「誰も悪くない」こと。
実際に少女が万引きをする描写はなく、店長は自分の仕事をしただけだし、少女をはねたドライバーも不可抗力。
最初の車に跳ね飛ばされた後、致命傷を負わせたダンプカーのドライバーは前方不注意っぽかったが、なぜか父親の怒りはそちらに向かない。
確実なことは、店長が追いかけたことで、一つの命が失われた。
理不尽な死に直面した父親は、「誰も悪くない」では納得がいかず、誰かのせいにしないと気がすまない。
この辺りの父親の暴走は、マーティン・マクドナー監督の「スリー・ビルボード」を彷彿とさせる。
あの映画では娘を何者かに殺されたフランシス・マクドーマンドの母親が、遅々として進まない捜査に苛立ちを募らせ、警察署長を批判する巨大な看板広告を出す。
二つの映画の怒れる親の動機も、共通する部分がある。
マクドーマンドは、事件の直前に娘と喧嘩しており、それが事件の遠因になっている。
対してこちらの父親は、娘との間に会話が殆ど無く、喪ってしまった今になって、娘のことを全く知らないことを思い知らされている。
どちらのケースも、誰かに責任を追わせないと、結局認めたくない自分の罪と向き合うことになってしまうのである。

怒りに突き動かされる父親と、防戦一方の店長。
彼らの周りにも、それぞれに寄り添おうとしてくれている人はいるが、当事者にとっては部外者のお節介にしか思えない。
そこに更に興味本位のマスコミや、保身を図る学校関係者など無責任な人々が追い討ちをかけ、状況を悪化させてゆく。
しかし、どんどん閉塞してゆくドラマに、痛ましい転機が訪れる。
父親が一方的にだけ店長を責め続け、他の事故関係者には無関心を貫いていたある日、贖罪の機会を失っていたある人物が、突然命を絶ってしまうのだ。
それまで被害者だった父親は、一転して精神的な加害者の立場となるのである。
出口のない迷路に迷った父親に、気付きを与える片岡礼子のキャラクターが素晴らしい。
葬儀に出向いた父親に語りかける彼女の言葉こそ、本作の白眉だ。

この映画を観ながら、誰もが考えるだろう。
もし自分が父親だったら?店長だったら?
どちらの立場でも、正直どうしたらいいのか分からない。
誰のせいでもない予期せぬ喪失と、人は一体どう向き合ったら、心穏やかになれるのか。
とことん絶望を描きながら、吉田恵輔はそれだけでは終わらせない。
憎しみあっても、いつかは全面的に許し合える、というような綺麗事ではない、魂のせめぎ合いの末のギリギリの落としどころ。
大嵐の果ての凪の予感に、作者の描きたい世界の優しさが垣間見える。

今回は映画のロケ地となった愛知県の地酒、萬乗醸造の「醸し人 九平次 純米大吟醸 山田錦」をチョイス。
フルーティな吟醸香がフワリと広がり、酸味と米の甘味のバランスもいい。
純米大吟醸らしい、まろやかな旨みたっぷり。
この豊かな風味に負けないような、チーズたっぷりのお肉のカルパッチョでも作って、酒の肴にしたい。

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