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2021年11月27日 (土) | 編集 |
青春の、タイムリミット。
12年以上に渡ってブロードウェイで連続上演され、96年のトニー賞では10部門を受賞し、クリス・コロンバス監督によって映画化もされた、90年代のミュージカルシーンを代表する名作「RENT」。
これは「RENT」の生みの親であり、若くして亡くなった作曲家にして劇作家、ジョナサン・ラーソンの物語だ。
ラーソンが1992年に発表した自伝的作品、「tick, tick…BOOM!」をベースに、映画オリジナルの解釈を交えて描かれている。
舞台となるのは、「RENT」からさかのぼること6年、AIDSが猛威を振るう1990年のニューヨーク。
30歳の誕生日を目前に、青春の終わりにおびえながら、勝負を賭けた新作ミュージカルの生みの苦しみを味わっている、29歳のラーソンが主人公だ。
アンドリュー・ガーフィールドが、愛嬌たっぷりに苦悩する天才を好演。
今年映画化されたミュージカル「イン・ザ・ハイツ」の作者であり、ディズニー映画「モアナと伝説の海」では音楽を手掛けた、現在のブロードウェイを代表する才人、リン=マニュエル・ミランダが大先輩へのリスペクトを胸に、見事な長編映画監督デビューを飾った。
1990年のニューヨーク。
ブロードウェイでの成功を夢見るミュージカル作家の卵、ジョナサン・ラーソン(アンドリュー・ガーフィールド)は焦っていた。
間もなく30歳の誕生日なのに芽が出ず、ダイナーのバイトで食いつなぐ毎日。
俳優志望だった友人のマイケル(ロビン・デ・ヘス)は、自分の才能に見切りをつけ転職し、ガールフレンドのスーザン(アレクサンドラ・シップ)も、ダンサーの夢を諦めて指導者に転職しようとしている。
ラーソンには、迫りくる30歳の誕生日が、チック、チックと動く時限爆弾の秒針、才能を否定されるタイムリミットのように思えるのだ。
新作ミュージカル「Superbia」の、業界関係者を招いたワークショップが最後のチャンス。
もしワークショップが好評なら、ブロードウェイで本番の舞台をやってほしいというオファーが来るかもしれない。
だが、焦りすぎたラーソンは、スランプに陥ってしまい、どうしても新しい曲が書けなくなってしまう・・・・
青春の輝きと痛みを、鮮烈に描き出した傑作だ。
本作は、1990年の「Superbia」の制作中にスランプに苦しむラーソン、1992年に上演された「tick, tick…BOOM!」の舞台上からその時を振り返る後年のラーソン、そしてラーソンの死後に彼の思い出をガールフレンドのスーザンが振り返るという、三つの視点が混在する特異な構造になっている。
この三層構造が、「tick, tick…BOOM!」というタイトルにラーソンが元々込めた意味にプラスして、映画ならではの新しい解釈を与え、過去の過ぎ去った青春に対する切ないノスタルジーを掻き立てる。
何かのジャンルで成功を夢見る者は、無意識のうちにモデルケースを設定し、それに自分を当てはめようとする。
ラーソンの成功モデルは、27歳の若さで「ウェストサイド物語」の作詞を手掛け、その後もブロードウェイで数々の名作を生み出したスティーヴン・ソンドハイム。
本日、2021年11月27日に91歳での死去が伝えられた、20世紀ミュージカルの巨人だ。
あこがれのソンドハイムに、ラーソンは以前に参加したワークショップで曲を絶賛された過去があり、そのことがミュージカルの道を諦められない要因の一つとなっている。
そして多くの若者と同じく、ラーソンもまた成功者となるに相応しい年齢に囚われている。
ソンドハイムは27歳だったが、自分はもう29歳になるのに、ブロードウェイの舞台は遠いまま。
彼の頭の中には、チック、チックと時を刻む時限爆弾があって、30歳になったら「ブーン!」と爆発してしまうという強迫観念にとりつかれているのだ。
30歳は、青春の終わりで大人の始まり。
周りの仲間たちの動向も、彼の焦りを加速させる。
ブロードウェイの役者を目指し、ラーソンと共にニューヨークに出て来て、ルームシェアしていた同郷の幼馴染のマイケルは、夢を諦めて広告業界に就職、そこで才能を開花させる。
いまだ安アパートに暮らし、ダイナーのバイトに明け暮れているラーソンとは対照的に、アッパーイーストサイドの専属駐車係のいる高級コンドミニアムに暮らす高給取りになっている。
友人のリッチな暮らしを当たりにし、彼に臨時の仕事を世話してもらう自分との現実の格差に、ラーソンの中で「成功って?」という疑問がわいてくる。
またブロードウェイで一流のダンサーになることを目標にしていたガールフレンドのスーザンも、成功を目前にしてケガを負ってしまい、夢は儚く散る。
彼女はマサチューセッツ州バークシャーにある名門ダンス学校、ジェイコブズ・ピローから指導者になる誘いを受けていて、ラーソンにも一緒に行ってほしいと願っている。
バークシャーでも演劇活動はできるが、当然ブロードウェイは遠くなる。
彼らの転身と、その先にある経済的成功が、ラーソンにますますプレッシャーをかける。
長年打ち込んでいた企画が、ブロードウェイに行けるかどうかを決めるワークショップが始まると言うのに、スランプに陥って曲が書けない。
しかも、よせばいいのに題材はミュージカルとしては異色のSF。
この企画、ラーソンは当初ジョージ・オーウェルの「1984」をロック・ミュージカル化しようとしていたらしく、オーウェルの版権管理事務所から許可がおりなかったため、オリジナルを作りはじめたという経緯がある。
ワークショップの開催にたどり着くまで、かかった時間は実に8年!
いやーさすがに時間かけすぎじゃないの?と思うが、これで失敗したらもう後がないという焦りは理解できる。
23歳から29歳まで、ダイナーでバイトしながら、青春の大半を費やした、彼にとっては勝負を賭けた超大作なのである。
このワークショップというのは、舞台装置などはなく、最小限のバンドと役者だけで、作品を披露するリハーサルのようなもの。
ここで認められれば、プロデューサーがついて、舞台化へと動き出す。
しかし、「Superbia」は絶賛されたものの、題材の特殊性もあって声はかからず。
また何年も、先の見えない挑戦を余儀なくされるのかと思ったラーソンは、ミュージカルの道を諦めようとするのだが、その時にまた引き留めるのが、ソンドハイムなのである。
「Superbia」のワークショップを見たソンドハイムは、ラーソンの仕事を絶賛する。
そして長年ブロードウェイの仕事をしてきたエージェントの助言を受け入れ、“自分の知っていること”を描いた新作を発表する。
それが、この「tick, tick…BOOM!」という訳だが、この時期ラーソンは妄想ではなく現実にタイムリミットを抱えた人たち、生きたくても生きられない人たちが他にいることを知るのである。
HIVウィルスが引き起こすAIDSは、当時は死の病だった。
この翌年の1991年に、NBAのスーパースターだったマジック・ジョンソンがHIVポジティブを発表したことから、人々の意識が大きく変わってゆくのだが、初期の患者にはドラッグ中毒者と同性愛者が多かったことから、不道徳者の病とも言われ、罹患した者が差別されるなど偏見が大きかった。
ごく近しい人々がAIDSに倒れてゆくことで、ラーソンの意識も変わってゆく。
映画は、AIDSの時代を舞台に、ラーソンが自分にタイムリミットなど無いと気付くまでを、テンポ良く描いてゆく。
「RENT」の最大の特徴である多様性は、この時期のラーソンの経験から導き出されたものだろう。
くしくも1996年1月25日、「RENT」のオフ・ブロードウェイ・プレビュー公演初日の未明に、ジョナサン・ラーソンは大動脈解離で亡くなった。
ラーソンは死後にトニー賞、ピューリッツァー賞に輝いたほか、商業的にも大成功を収めることになるが、彼自身はその光景を見ることができなかった。
でも彼は、努力し続けてたから、ギリギリ間に合ったとも言えるだろう。
本作で披露される素晴らしい楽曲の数々を見ても、本当に天才だったのだと思う。
30年前のちょっと痛いラーソンの葛藤を、誰にも予測できない本当のタイムリミットがあったことを知っている現在から俯瞰することで、切なくも輝かしい一つの青春の物語が浮かび上がる。
本作を監督したリン=マニュエル・ミランダは、1980年ニューヨーク生まれ。
彼もラーソンと同様、戯曲も書けば作詞作曲に演出もこなし、自分で出演もしちゃうミュージカルの申し子だが、プエルトリコ系のミランダにとって、多感な10代の時期に初演された「RENT」が、クリエイティビティに大きな影響を与えていることは想像に難くない。
彼の代表作の一つの「イン・ザ・ハイツ」などは、まさに現在の「RENT」的な多様性の視点に満ちている。
ソンドハイムの作品が、ラーソンに影響を与え、今度はミランダが受け継いでゆく。
創作が連鎖するごとに、豊かになってゆくことを実感できる、本当に幸福な映画である。
ブロードウェイが舞台の本作には、ウォッカベースのカクテル「ビッグ・アップル」をチョイス。
氷で満たしたタンブラーに、ウォッカ45ml、アップル・ジュース適量を加え、軽くステアする。
カットしたリンゴを飾って完成。
非常にシンプルな味わいゆえに、万人に愛されるカクテルは、世界中の人を惹きつけるニューヨークに相応しい。
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12年以上に渡ってブロードウェイで連続上演され、96年のトニー賞では10部門を受賞し、クリス・コロンバス監督によって映画化もされた、90年代のミュージカルシーンを代表する名作「RENT」。
これは「RENT」の生みの親であり、若くして亡くなった作曲家にして劇作家、ジョナサン・ラーソンの物語だ。
ラーソンが1992年に発表した自伝的作品、「tick, tick…BOOM!」をベースに、映画オリジナルの解釈を交えて描かれている。
舞台となるのは、「RENT」からさかのぼること6年、AIDSが猛威を振るう1990年のニューヨーク。
30歳の誕生日を目前に、青春の終わりにおびえながら、勝負を賭けた新作ミュージカルの生みの苦しみを味わっている、29歳のラーソンが主人公だ。
アンドリュー・ガーフィールドが、愛嬌たっぷりに苦悩する天才を好演。
今年映画化されたミュージカル「イン・ザ・ハイツ」の作者であり、ディズニー映画「モアナと伝説の海」では音楽を手掛けた、現在のブロードウェイを代表する才人、リン=マニュエル・ミランダが大先輩へのリスペクトを胸に、見事な長編映画監督デビューを飾った。
1990年のニューヨーク。
ブロードウェイでの成功を夢見るミュージカル作家の卵、ジョナサン・ラーソン(アンドリュー・ガーフィールド)は焦っていた。
間もなく30歳の誕生日なのに芽が出ず、ダイナーのバイトで食いつなぐ毎日。
俳優志望だった友人のマイケル(ロビン・デ・ヘス)は、自分の才能に見切りをつけ転職し、ガールフレンドのスーザン(アレクサンドラ・シップ)も、ダンサーの夢を諦めて指導者に転職しようとしている。
ラーソンには、迫りくる30歳の誕生日が、チック、チックと動く時限爆弾の秒針、才能を否定されるタイムリミットのように思えるのだ。
新作ミュージカル「Superbia」の、業界関係者を招いたワークショップが最後のチャンス。
もしワークショップが好評なら、ブロードウェイで本番の舞台をやってほしいというオファーが来るかもしれない。
だが、焦りすぎたラーソンは、スランプに陥ってしまい、どうしても新しい曲が書けなくなってしまう・・・・
青春の輝きと痛みを、鮮烈に描き出した傑作だ。
本作は、1990年の「Superbia」の制作中にスランプに苦しむラーソン、1992年に上演された「tick, tick…BOOM!」の舞台上からその時を振り返る後年のラーソン、そしてラーソンの死後に彼の思い出をガールフレンドのスーザンが振り返るという、三つの視点が混在する特異な構造になっている。
この三層構造が、「tick, tick…BOOM!」というタイトルにラーソンが元々込めた意味にプラスして、映画ならではの新しい解釈を与え、過去の過ぎ去った青春に対する切ないノスタルジーを掻き立てる。
何かのジャンルで成功を夢見る者は、無意識のうちにモデルケースを設定し、それに自分を当てはめようとする。
ラーソンの成功モデルは、27歳の若さで「ウェストサイド物語」の作詞を手掛け、その後もブロードウェイで数々の名作を生み出したスティーヴン・ソンドハイム。
本日、2021年11月27日に91歳での死去が伝えられた、20世紀ミュージカルの巨人だ。
あこがれのソンドハイムに、ラーソンは以前に参加したワークショップで曲を絶賛された過去があり、そのことがミュージカルの道を諦められない要因の一つとなっている。
そして多くの若者と同じく、ラーソンもまた成功者となるに相応しい年齢に囚われている。
ソンドハイムは27歳だったが、自分はもう29歳になるのに、ブロードウェイの舞台は遠いまま。
彼の頭の中には、チック、チックと時を刻む時限爆弾があって、30歳になったら「ブーン!」と爆発してしまうという強迫観念にとりつかれているのだ。
30歳は、青春の終わりで大人の始まり。
周りの仲間たちの動向も、彼の焦りを加速させる。
ブロードウェイの役者を目指し、ラーソンと共にニューヨークに出て来て、ルームシェアしていた同郷の幼馴染のマイケルは、夢を諦めて広告業界に就職、そこで才能を開花させる。
いまだ安アパートに暮らし、ダイナーのバイトに明け暮れているラーソンとは対照的に、アッパーイーストサイドの専属駐車係のいる高級コンドミニアムに暮らす高給取りになっている。
友人のリッチな暮らしを当たりにし、彼に臨時の仕事を世話してもらう自分との現実の格差に、ラーソンの中で「成功って?」という疑問がわいてくる。
またブロードウェイで一流のダンサーになることを目標にしていたガールフレンドのスーザンも、成功を目前にしてケガを負ってしまい、夢は儚く散る。
彼女はマサチューセッツ州バークシャーにある名門ダンス学校、ジェイコブズ・ピローから指導者になる誘いを受けていて、ラーソンにも一緒に行ってほしいと願っている。
バークシャーでも演劇活動はできるが、当然ブロードウェイは遠くなる。
彼らの転身と、その先にある経済的成功が、ラーソンにますますプレッシャーをかける。
長年打ち込んでいた企画が、ブロードウェイに行けるかどうかを決めるワークショップが始まると言うのに、スランプに陥って曲が書けない。
しかも、よせばいいのに題材はミュージカルとしては異色のSF。
この企画、ラーソンは当初ジョージ・オーウェルの「1984」をロック・ミュージカル化しようとしていたらしく、オーウェルの版権管理事務所から許可がおりなかったため、オリジナルを作りはじめたという経緯がある。
ワークショップの開催にたどり着くまで、かかった時間は実に8年!
いやーさすがに時間かけすぎじゃないの?と思うが、これで失敗したらもう後がないという焦りは理解できる。
23歳から29歳まで、ダイナーでバイトしながら、青春の大半を費やした、彼にとっては勝負を賭けた超大作なのである。
このワークショップというのは、舞台装置などはなく、最小限のバンドと役者だけで、作品を披露するリハーサルのようなもの。
ここで認められれば、プロデューサーがついて、舞台化へと動き出す。
しかし、「Superbia」は絶賛されたものの、題材の特殊性もあって声はかからず。
また何年も、先の見えない挑戦を余儀なくされるのかと思ったラーソンは、ミュージカルの道を諦めようとするのだが、その時にまた引き留めるのが、ソンドハイムなのである。
「Superbia」のワークショップを見たソンドハイムは、ラーソンの仕事を絶賛する。
そして長年ブロードウェイの仕事をしてきたエージェントの助言を受け入れ、“自分の知っていること”を描いた新作を発表する。
それが、この「tick, tick…BOOM!」という訳だが、この時期ラーソンは妄想ではなく現実にタイムリミットを抱えた人たち、生きたくても生きられない人たちが他にいることを知るのである。
HIVウィルスが引き起こすAIDSは、当時は死の病だった。
この翌年の1991年に、NBAのスーパースターだったマジック・ジョンソンがHIVポジティブを発表したことから、人々の意識が大きく変わってゆくのだが、初期の患者にはドラッグ中毒者と同性愛者が多かったことから、不道徳者の病とも言われ、罹患した者が差別されるなど偏見が大きかった。
ごく近しい人々がAIDSに倒れてゆくことで、ラーソンの意識も変わってゆく。
映画は、AIDSの時代を舞台に、ラーソンが自分にタイムリミットなど無いと気付くまでを、テンポ良く描いてゆく。
「RENT」の最大の特徴である多様性は、この時期のラーソンの経験から導き出されたものだろう。
くしくも1996年1月25日、「RENT」のオフ・ブロードウェイ・プレビュー公演初日の未明に、ジョナサン・ラーソンは大動脈解離で亡くなった。
ラーソンは死後にトニー賞、ピューリッツァー賞に輝いたほか、商業的にも大成功を収めることになるが、彼自身はその光景を見ることができなかった。
でも彼は、努力し続けてたから、ギリギリ間に合ったとも言えるだろう。
本作で披露される素晴らしい楽曲の数々を見ても、本当に天才だったのだと思う。
30年前のちょっと痛いラーソンの葛藤を、誰にも予測できない本当のタイムリミットがあったことを知っている現在から俯瞰することで、切なくも輝かしい一つの青春の物語が浮かび上がる。
本作を監督したリン=マニュエル・ミランダは、1980年ニューヨーク生まれ。
彼もラーソンと同様、戯曲も書けば作詞作曲に演出もこなし、自分で出演もしちゃうミュージカルの申し子だが、プエルトリコ系のミランダにとって、多感な10代の時期に初演された「RENT」が、クリエイティビティに大きな影響を与えていることは想像に難くない。
彼の代表作の一つの「イン・ザ・ハイツ」などは、まさに現在の「RENT」的な多様性の視点に満ちている。
ソンドハイムの作品が、ラーソンに影響を与え、今度はミランダが受け継いでゆく。
創作が連鎖するごとに、豊かになってゆくことを実感できる、本当に幸福な映画である。
ブロードウェイが舞台の本作には、ウォッカベースのカクテル「ビッグ・アップル」をチョイス。
氷で満たしたタンブラーに、ウォッカ45ml、アップル・ジュース適量を加え、軽くステアする。
カットしたリンゴを飾って完成。
非常にシンプルな味わいゆえに、万人に愛されるカクテルは、世界中の人を惹きつけるニューヨークに相応しい。

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2021年11月22日 (月) | 編集 |
苦しくても、辛くても、生きてゆく。
インターネットで出会った三人の高校生、友也、あおい、涼。
夏に花火をすると現れるという、都市伝説の“サマーゴースト“を探しに出かけた彼らは、「佐藤絢音」と名乗る若い女の幽霊と出会う。
「君の肝臓を食べたい」などの小説の装画で知られ、タムラコータロー版「ジョゼと虎と仲間たち」ではコンセプトデザインを担当したloundrawが、自らのイラストを基にアニメーション映画化した作品。
僅か40分の短編だが、充実した映画的時間を味わえる、素晴らしい仕上がりだ。
今回は本名の安達寛高名義の乙一の脚本、これが劇場用映画初監督となるloundrawの演出も極めてハイレベル。
幽霊に出会えるのは、死に惹かれる者だけ。
それぞれに葛藤を抱えた三人の若者は、幽霊の絢音と出会ったことで、生と死の境に足を踏み入れ、ひと夏の冒険で生きることの意味に向き合ってゆく。
ストーリー進行はテンポ良く、三人それぞれの幽霊に会いたい理由を描き出す。
厳格な母に支配された友也は、好きな絵の道を否定され、生きる意味を見失っている。
凄惨ないじめにあっているあおいは、死という救いの誘惑に、抗えられなくなっている。
そしてバスケに打ち込んできた涼は、突然自分の命が残り少ないことを知らされる。
立場は違えど、彼らは皆現在の生に苦悩し、その裏側としての死がどういうものかを知りたがっているのだ。
三人の前に現れた佐藤絢音の幽霊は、いわば彼らのアンチテーゼ。
死にたくないのに不慮の死を遂げた彼女は、自分の体がどこにあるのかも分からず、ただ目的もなく彷徨っている存在。
だから彼女は、友也に自分の体探しを手伝って欲しいと言う。
やがて彼女の願いに応えることに、生の意味を見出した友也の青春の熱は、あおいや涼にも広がってゆく。
彼らは“死”を探すことによって、生の意味を知るのである。
本作は制作もloundrawの設立したFLAT STUDIOが担当しているが、この人のイラスト作品や過去のアニメーション作品から感じるのが、光と影の独特な捉え方。
光の使い方は新海誠に通じるものがあるが、ユニークなのは影の方だ。
多くの作品では、キャラクターが逆光気味に描かれていて、光は射し込んでいても、その表情は影の中。
本作でもマジックアワーの儚げな光が印象的に使われ、キャラクターは影になっている描写が多い。
見えているものはほんのわずかで、暗い部分にこそ核心がある。
これは、光と影の芸術である、映画そのもののあり方にも通じる。
イラスト作品も単なる絵というよりも、作者の頭の中にあるカメラのレンズで捉えられていて、おそらく彼にとって、イラストという表現は限りなく映画に近いもので、静止画からアニメーションへの展開は必然だったのかも知れない。
これは、三人三様の葛藤を抱えた高校生+幽霊のリリカルな青春映画であり、アニメーション表現を生かした詩的な幻想映画でもある。
青春の輝きと痛みを併せ持つ、高校生たちのキャラクターもいいが、特筆すべきは川栄李奈がVCを務める、妙に人間臭い“サマーゴースト”だ。
聞かれてもないのに、自分からフルネームを名乗る幽霊って初めて見たかも。
この上映時間で幽玄を感じさせる、作品の密度の濃さは素晴らしい。
おそらく、loundrawという名前は今後のアニメーションシーンにおいて、大きな存在感を持つことになるだろう。
その大きな一歩となる、小さな宝石の様な秀作だ。
マジックアワーの美しい映画だったので、同じ日没後の薄明の時間帯を指す「トワイライト・ゾーン」をチョイス。
ホワイト・ラム30ml、グレープフルーツ・ジュース30ml、アプリコット・ブランデー1tsp、クレーム・ド・カシス1/2tspを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
柑橘系の酸味が効いて、サッパリとした甘味のカクテル。
この時間帯を日本では逢魔時と呼び、怪異に出会いやすくなると言い伝えられているので、”サマーゴースト”がこの時間に現れるのもまことに正しい。
スピルバーグがプロデュースした映画版「トワイライト・ゾーン/超次元の体験」が日本公開された1984年に、日本バーテンダー協会のカクテル・コンペで優勝した作品だ。
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インターネットで出会った三人の高校生、友也、あおい、涼。
夏に花火をすると現れるという、都市伝説の“サマーゴースト“を探しに出かけた彼らは、「佐藤絢音」と名乗る若い女の幽霊と出会う。
「君の肝臓を食べたい」などの小説の装画で知られ、タムラコータロー版「ジョゼと虎と仲間たち」ではコンセプトデザインを担当したloundrawが、自らのイラストを基にアニメーション映画化した作品。
僅か40分の短編だが、充実した映画的時間を味わえる、素晴らしい仕上がりだ。
今回は本名の安達寛高名義の乙一の脚本、これが劇場用映画初監督となるloundrawの演出も極めてハイレベル。
幽霊に出会えるのは、死に惹かれる者だけ。
それぞれに葛藤を抱えた三人の若者は、幽霊の絢音と出会ったことで、生と死の境に足を踏み入れ、ひと夏の冒険で生きることの意味に向き合ってゆく。
ストーリー進行はテンポ良く、三人それぞれの幽霊に会いたい理由を描き出す。
厳格な母に支配された友也は、好きな絵の道を否定され、生きる意味を見失っている。
凄惨ないじめにあっているあおいは、死という救いの誘惑に、抗えられなくなっている。
そしてバスケに打ち込んできた涼は、突然自分の命が残り少ないことを知らされる。
立場は違えど、彼らは皆現在の生に苦悩し、その裏側としての死がどういうものかを知りたがっているのだ。
三人の前に現れた佐藤絢音の幽霊は、いわば彼らのアンチテーゼ。
死にたくないのに不慮の死を遂げた彼女は、自分の体がどこにあるのかも分からず、ただ目的もなく彷徨っている存在。
だから彼女は、友也に自分の体探しを手伝って欲しいと言う。
やがて彼女の願いに応えることに、生の意味を見出した友也の青春の熱は、あおいや涼にも広がってゆく。
彼らは“死”を探すことによって、生の意味を知るのである。
本作は制作もloundrawの設立したFLAT STUDIOが担当しているが、この人のイラスト作品や過去のアニメーション作品から感じるのが、光と影の独特な捉え方。
光の使い方は新海誠に通じるものがあるが、ユニークなのは影の方だ。
多くの作品では、キャラクターが逆光気味に描かれていて、光は射し込んでいても、その表情は影の中。
本作でもマジックアワーの儚げな光が印象的に使われ、キャラクターは影になっている描写が多い。
見えているものはほんのわずかで、暗い部分にこそ核心がある。
これは、光と影の芸術である、映画そのもののあり方にも通じる。
イラスト作品も単なる絵というよりも、作者の頭の中にあるカメラのレンズで捉えられていて、おそらく彼にとって、イラストという表現は限りなく映画に近いもので、静止画からアニメーションへの展開は必然だったのかも知れない。
これは、三人三様の葛藤を抱えた高校生+幽霊のリリカルな青春映画であり、アニメーション表現を生かした詩的な幻想映画でもある。
青春の輝きと痛みを併せ持つ、高校生たちのキャラクターもいいが、特筆すべきは川栄李奈がVCを務める、妙に人間臭い“サマーゴースト”だ。
聞かれてもないのに、自分からフルネームを名乗る幽霊って初めて見たかも。
この上映時間で幽玄を感じさせる、作品の密度の濃さは素晴らしい。
おそらく、loundrawという名前は今後のアニメーションシーンにおいて、大きな存在感を持つことになるだろう。
その大きな一歩となる、小さな宝石の様な秀作だ。
マジックアワーの美しい映画だったので、同じ日没後の薄明の時間帯を指す「トワイライト・ゾーン」をチョイス。
ホワイト・ラム30ml、グレープフルーツ・ジュース30ml、アプリコット・ブランデー1tsp、クレーム・ド・カシス1/2tspを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
柑橘系の酸味が効いて、サッパリとした甘味のカクテル。
この時間帯を日本では逢魔時と呼び、怪異に出会いやすくなると言い伝えられているので、”サマーゴースト”がこの時間に現れるのもまことに正しい。
スピルバーグがプロデュースした映画版「トワイライト・ゾーン/超次元の体験」が日本公開された1984年に、日本バーテンダー協会のカクテル・コンペで優勝した作品だ。

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2021年11月18日 (木) | 編集 |
彼の心に住んでいるのは、誰?
カンヌ国際映画祭の最高賞、パルム・ドールを受賞した「ピアノ・レッスン」などで知られる名匠ジェーン・カンピオン、12年ぶりの新作は、さすがの仕上がりだ。
20世紀前半のモンタナ州を舞台に、傲慢な牧場主と彼の周りの人々の関係を描いた、重厚な人間ドラマ。
屋敷で同居を始めた弟の妻に対して、冷酷な仕打ちを繰り返す、彼の閉ざされた心に宿っている情念の炎の正体は何か?
牧場主のフィル・バーバンクに、「モーリタニアン 黒塗りの記録」のベネディクト・カンバーバッチ。
彼に目の敵にされる弟の妻ローズを、キルスティン・ダンスト、彼女の連れ子のピーターを、コディ・スミット=マクフィーが演じる。
トーマス・サヴェージが、1967年に発表した同名原作をカンピオンが脚色し、第78回ベネツィア国際映画祭で、監督賞に当たる銀獅子賞を受賞した話題作だ。
1925年。
モンタナ州の牧場主であるフィル・バーバンク(ベネディクト・カンバーバッチ)と弟のジョージ(ジェシー・プレモンス)は、放牧の旅の途中、旅館の女将を務める未亡人、ローズ・ゴードン(キルスティン・ダンスト)と出会う。
穏やかな性格のジョージは、優しいローズに惹かれてゆき、すぐに二人は結婚。
ローズの一人息子ピーター(コディ・スミット=マクフィー)は、大学で医学を学ぶために家を出て、ローズはジョージとフィルの住む牧場の屋敷へと引っ越して来る。
しかしローズが金目当てで弟と結婚したと思っているフィルは、彼女のことを決して認めず、冷たく突き放す。
度重なる嫌がらせにストレスを募らせたローズは、アルコールに溺れるようになり、そのことがフィルを余計に苛立たせる。
夏になり、ピーターが帰省する頃には、ローズの健康状態は悪化していた。
そんなある日、林の奥にあるフィルの憩いの場所に、偶然入り込んだピーターは、フィルの心に隠された、ある秘密を知ってしまう・・・・
ベネディクト・カンバーバッチが繊細に演じるフィル・バーバンクは、ミソジニーの塊の様なマッチョイズムの信奉者として描かれる。
フィルは、放牧の途中でローズが経営する旅館で食事をするのだが、その時にテーブルに飾られていたペーパークラフトの花を作ったのがピーターだと知ると、途端に見下した態度をとる。
大人の男は、そんな女々しいものを作るべきでないという理屈だ。
ローズがジョージと結婚し、屋敷に同居するようになると、フィルの態度は余計に頑なになる。
彼女が来客を楽しませるためにピアノの練習をしていると、同じタイミングでバンジョーを弾き、リズムをわざと崩す。
練習が満足に出来なかったので、知事夫妻を招いたディナーの席で、ピアノを弾けないという屈辱をローズに与える。
それでいて、彼女がストレスからアルコールに走ると、今度はそれも気に入らない。
どうもこの男にとって、ローズが屋敷にいること自体が我慢ならない様なのだ。
なぜそれほどに、フィルは彼女を嫌うのか。
物語の後半になって、大学で医学を学んでいたピーターが帰って来ると、フィルの心の中の鬱屈した闇の正体が、ピーターを触媒として徐々に浮かび上がって来くる。
フィルが何かにつけて口にするのが、ブロンコ・ヘンリーという男の思い出だ。
兄弟が牧場の仕事を始めた20世紀初頭、二人に全てのノウハウを教えてくれた人物で、フィルにとってはカウボーイの理想像。
しかし、それだけでは無いのである。
牧場に近い林の奥に、フィルは秘密の場所を持っている。
偶然にもその場所に入り込んでしまったピーターは、マッチョな肉体を誇示するブロンコの裸の写真を見つけ、“B.H”のイニシャルの入ったハンカチの匂いを嗅ぎながら、自慰するフィルの姿を見てしまう。
女性を遠ざけ、マッチョイズムを誇示するフィルの態度の裏側には、誰にも明かせず、どこにも持って行きようのない、“タブー”という名の暗い情念の炎が燻っていたのだ。
ピーターの視線に気付いたフィルは、彼を追い返すが、このことがあってから、二人の関係が変わってくる。
急にピーターに親切になり、馬の乗り方を教え、彼のために投げ縄用の縄を作り出す。
共に出かけ、他人には話さない様な、父親の自殺の話もする。
フィルとピーターの年齢差が、ブロンコとフィルが出会った頃の年齢を、逆転させた関係なのがポイント。
おそらくフィルは、ピーターの中にブロンコに憧れるかつての自分を見ていたのだろう。
しかし、自分を忌み嫌うフィルが、ピーターに過度に接近することは、ローズにとっては不安でしかない。
繊細な息子の人格を変えられてしまうのではないかと恐れ、ますます精神のバランスを崩した彼女とフィルの関係は、ある事件によって決定的に悪化する。
そしてピーターは、決意を固める。
大学で学んだ知識を生かし、それまでに入念に準備を進めていたことを実行するのだ。
物語が進行する1920年代は、大恐慌の直前で、人類の歴史を変えた二つの世界大戦の戦間期。
アメリカでは女性参政権が憲法に明記され、血と鉄と銃が作った開拓時代は過去となり、多くの伝統的な思想が時代遅れとなっていった時代だ。
平原に生きるカウボーイの生活も大きな変化に晒されていて、本作でも馬と馬車に変わる自動車が象徴的に使われている。
そんな過渡期の時代に、フィルは心の奥底にある秘めたる愛によって、ブロンコが体現していた旧時代の価値観に雁字搦めにされているのだ。
「パワー・オブ・ザ・ドッグ」という、本作のタイトルがキーである。
これは、旧約聖書の詩篇22章20節「私を魂の剣から、私の命を犬の力から救い出してください」からの引用。
ここで言う「犬の力」とは、人間を苦しめる悪の力の象徴と定義される。
ピーターは、心の闇の原点である「犬の力」にずっと囚われている、哀れな存在であるフィルを「救済」することを決めるのである。
ブロンコへの秘密の感情を知られた後、フィルはピーターとの関係に救いを見出していたのかもしれない。
だが、一方のピーターは全然違うことを考えている。
なぜならフィルの内面や過去など、彼にとっては「知ったことじゃない」からだ。
ウサギへの扱いなどを見ても、ピーターには多少サイコパス的な傾向が見られるのも、フィルに興味は持っても共感性は見せない理由かもしれない。
はたしてピーターが導き出した結末は、聖書の言葉通りの「救済」なのか、それとも母を虐げた男に対する、息子による「懲罰」なのか。
この物語はたぶんに偶然の要素によって進行してゆくのだが、ピーターがいつ決意したのかによって、解釈がかなり変わって来る。
私は、フィルがローズのことを、ピーターにとっての「障害物」だと話した時だと思った。
まことに恐ろしきは、見えない人の心なり。
本作は、Netflixで12月1日から配信されることが決まっているが、撮影監督のアリ・ウェグナーによる2.39 : 1のアスペクト比を持つ美しい映像は、明らかに大スクリーンを意識したもの。
ニュージーランドのむせ返る様な緑が印象的だった「ピアノ・レッスン」に対し、こちらはモンタナの荒涼とした茶色の大地がもう一つの主役と言っていい。
ゆったりとしたテンポで展開する重厚な文芸大作は、テレビモニターではなく、是非劇場の暗闇で味わっていただきたい。
カクテルには花言葉の様なカクテル言葉があるのだが、今回は「私を覚えていて」を意味する「バイオレット・フィズ」をチョイス。
クレーム・ド・バイオレット(パルフェ・タムール)45ml、レモン・ジュース20ml、砂糖1tspをシェイクし、氷を入れたグラスに注ぎ、最後にソーダを満たして完成。
レモンの酸味が効いた、パープルの美しいカクテルだ。
フィルはブロンコのことをずっと覚えていた訳だが、フィルのことは誰の心に残るのだろう。

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2021年11月14日 (日) | 編集 |
その悪夢は、実体化する。
現在最高のホラー・マイスター、ジェームズ・ワン監督による、2016年の「死霊館 エンフィールド事件」以来となる待望の新作ホラー。
しかも過去の作品とは、だいぶムードが違う新境地に挑んでいる。
舞台は現在のシアトル。
アナベル・ウォーリス演じる妊娠中の女性、マディソンが見た恐ろしくリアルな殺人の悪夢。
しかしそれはただの夢で終わらず、次々と現実化する。
彼女の夢に付き纏う、異形の連続殺人鬼”ガブリエル”は何者か。
まあこのガブリエルの正体に関しては、冒頭に描かれる93年の病院のシーンで、「悪性腫瘍を取り除く」と言ってるので、奇形嚢腫から生まれた「ブラックジャック」のピノコみたいな存在だと、早々に想像はつく。
タイトルの「マリグナント」も「悪性」という意味だし。
問題は、取り除かれたはずの意志を持った腫瘍が、20年以上たった今になって、なぜ、どうやって暴れ出したのかという点。
ピノコは、ブラックジャックによって子供の姿の仮の器を与えられて生き延びたが、こちらでも誰かが腫瘍を持ち出して、肉体を作ったのか?それとも幽霊?インシディアスに出てきた悪魔みたいに、霊的だけど肉体を持つ?などいろいろ想像してたのだが、終盤明かされるその正体は、想像の斜め上をゆくものだった。
アレがドーンと出現するシーンとか、もうビックリして唖然としてしまったが、ギャグとホラーのちょうど境界。
いやー、ジェームズ・ワン心底楽しんどるだろ。
冒頭の病院ショットから、妙に画が作り物っぽく安っぽいが、これは狙い。
この映画、全体が80年代に一世を風靡した、エンパイアピクチャーズあたりのラインナップにありそうな、懐かしいムードに満ちているのだ。
殺人鬼のオリジンを巡るミステリはアルジェントの「フェノミナ」、双生児の片割れの大暴れはヘネンロッターの「バスケット・ケース」、地下世界に蠢くクリーチャーはダグラス・チークが撮った「チャド」を思わせる。
シアトルが1889年の大火の後に上底された街で、今の街の地下に破棄された旧市街があるのは知らなかった。
調べてみると、あの地下廻りツアーも本当にあるみたいなので、いつか行ってみたい。
夢の連続殺人から、ガブリエルが正体を現した後の大虐殺まで、「R18+」も納得、ゴア描写も全く容赦無しだ。
まあこの手の映画の一番の顧客であろう、ホラーマニアのティーンが見られないのは、ちょっと残念だけど。
出世作の「ソウ」では、デスゲーム映画のブームを作った。
正統派オカルトは、「死霊館」と「インシディアス」で散々やった。
「ワイルド・スピード SKY MISSION」と「アクアマン」の大ヒットで、ホラーだけじゃないのも十分に証明できた。
ジェームズ・ワンは、このタイミングで、昔好きだった作品の悪ノリ再現的なものを、一度は作ってみたかったんだろうなあ。
妙に能天気な終幕まで、ひと昔の映画っぽい緩さ。
血の繋がりを超えるのはいいけどさ、州兵まで呼ばれちゃって、あんた今それどころじゃないだろ(笑
はたして21世紀の現在に、このテイストがどのくらい支持されるのかは分からないが、80年代オマージュが効きまくった、愛すべきモンスターホラーだ。
B級ジャンル映画好きには、たまらない。
悪夢の後には良い夢を、と言うことで「ドリーム」をチョイス。
ブランデー40ml、オレンジキュラソー20ml、ペルノ1dashを氷と一緒にシェイクし、グラスに注ぐ。
ブランデーのコクとオレンジキュラソーの甘味のバランスも良く、高いアルコール度数のおかげで、一杯で名前の通り夢に誘われる。
ナイトキャップにおすすめ。
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現在最高のホラー・マイスター、ジェームズ・ワン監督による、2016年の「死霊館 エンフィールド事件」以来となる待望の新作ホラー。
しかも過去の作品とは、だいぶムードが違う新境地に挑んでいる。
舞台は現在のシアトル。
アナベル・ウォーリス演じる妊娠中の女性、マディソンが見た恐ろしくリアルな殺人の悪夢。
しかしそれはただの夢で終わらず、次々と現実化する。
彼女の夢に付き纏う、異形の連続殺人鬼”ガブリエル”は何者か。
まあこのガブリエルの正体に関しては、冒頭に描かれる93年の病院のシーンで、「悪性腫瘍を取り除く」と言ってるので、奇形嚢腫から生まれた「ブラックジャック」のピノコみたいな存在だと、早々に想像はつく。
タイトルの「マリグナント」も「悪性」という意味だし。
問題は、取り除かれたはずの意志を持った腫瘍が、20年以上たった今になって、なぜ、どうやって暴れ出したのかという点。
ピノコは、ブラックジャックによって子供の姿の仮の器を与えられて生き延びたが、こちらでも誰かが腫瘍を持ち出して、肉体を作ったのか?それとも幽霊?インシディアスに出てきた悪魔みたいに、霊的だけど肉体を持つ?などいろいろ想像してたのだが、終盤明かされるその正体は、想像の斜め上をゆくものだった。
アレがドーンと出現するシーンとか、もうビックリして唖然としてしまったが、ギャグとホラーのちょうど境界。
いやー、ジェームズ・ワン心底楽しんどるだろ。
冒頭の病院ショットから、妙に画が作り物っぽく安っぽいが、これは狙い。
この映画、全体が80年代に一世を風靡した、エンパイアピクチャーズあたりのラインナップにありそうな、懐かしいムードに満ちているのだ。
殺人鬼のオリジンを巡るミステリはアルジェントの「フェノミナ」、双生児の片割れの大暴れはヘネンロッターの「バスケット・ケース」、地下世界に蠢くクリーチャーはダグラス・チークが撮った「チャド」を思わせる。
シアトルが1889年の大火の後に上底された街で、今の街の地下に破棄された旧市街があるのは知らなかった。
調べてみると、あの地下廻りツアーも本当にあるみたいなので、いつか行ってみたい。
夢の連続殺人から、ガブリエルが正体を現した後の大虐殺まで、「R18+」も納得、ゴア描写も全く容赦無しだ。
まあこの手の映画の一番の顧客であろう、ホラーマニアのティーンが見られないのは、ちょっと残念だけど。
出世作の「ソウ」では、デスゲーム映画のブームを作った。
正統派オカルトは、「死霊館」と「インシディアス」で散々やった。
「ワイルド・スピード SKY MISSION」と「アクアマン」の大ヒットで、ホラーだけじゃないのも十分に証明できた。
ジェームズ・ワンは、このタイミングで、昔好きだった作品の悪ノリ再現的なものを、一度は作ってみたかったんだろうなあ。
妙に能天気な終幕まで、ひと昔の映画っぽい緩さ。
血の繋がりを超えるのはいいけどさ、州兵まで呼ばれちゃって、あんた今それどころじゃないだろ(笑
はたして21世紀の現在に、このテイストがどのくらい支持されるのかは分からないが、80年代オマージュが効きまくった、愛すべきモンスターホラーだ。
B級ジャンル映画好きには、たまらない。
悪夢の後には良い夢を、と言うことで「ドリーム」をチョイス。
ブランデー40ml、オレンジキュラソー20ml、ペルノ1dashを氷と一緒にシェイクし、グラスに注ぐ。
ブランデーのコクとオレンジキュラソーの甘味のバランスも良く、高いアルコール度数のおかげで、一杯で名前の通り夢に誘われる。
ナイトキャップにおすすめ。

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2021年11月13日 (土) | 編集 |
その時、グァンタナモで何が起っていたのか。
9.11の首謀者の一人とされ、何の司法手続きも無いまま、長期間キューバのグァンタナモ基地に作られたキャンプに抑留されたモーリタニア人、モハメドゥ・オールド・サラヒの実話。
彼は2001年11月、9.11の二ヶ月後にモーリタニアの自宅から警察に連行され、そのまま消息不明に。
3年以上が過ぎた2005年になって、ようやくグァンタナモにいることが判明し、彼を釈放させようとする弁護士と、何が何でも死刑にしようとする政府の闘いが始まる。
モハメドゥ本人による手記を映画化したのは、「ラスト・キング・オブ・スコットランド」などで知られるケヴィン・マクドナルド監督。
渦中の人であるモハメドゥをタハール・ラヒムが演じ、彼を挟んでジョディ・フォスター演じる弁護士のナンシー・ホランダーと、ベネディクト・カンバーバッチの海兵隊検事のスチュアート・カウチ中佐が火花を散らす。
ニューメキシコ州アルバカーキーの人権派弁護士、ナンシー・ホランダー(ジョディ・フォスター)の元に、2005年の2月にある案件が持ち込まれる。
9.11の同時多発テロへの関与を疑われた、モハメドゥ・オールド・サラヒ(タハール・ラヒム)という男が、司法手続きが行われないまま、3年以上グァンタナモに抑留されているという。
助手のテリー・ダンカン(シャイリーン・ウッドリー)を伴い、グァンタナモでモハメドゥと会ったナンシーは、彼の弁護を引き受ける。
ナンシーは政府に供述調書の開示を要求するも、送られてきた書類は大半が黒塗り。
業を煮やした彼女は、拘束されてから起こったことを、手記にする様にモハメドゥに要請するのだが彼は全てを書くことを頑なに拒む。
同じ頃、海兵隊検事のスチュアート・カウチ中佐(ベネディクト・カンバーバッチ)は、上司からモハメドゥの起訴を依頼される。
友人を9.11で亡くしていたカウチ中佐は、モハメドゥを死刑にすべく準備を進めるが、収容所で行われた尋問のすべてを記したMFRという核心的名な書類を入手できないでいた。
実はグァンタナモには、ナンシーもカウチ中佐も知らない、底無しの闇が隠されていた・・・・
モハメドゥ・オールド・サラヒは、1970年にアフリカ西岸のモーリタニアに生まれた。
優秀な若者で、奨学金を受け取りドイツの大学に留学し、電気工学の学位を取得している。
彼に疑いがかかったのは、留学後の1991年にアフガニスタンに渡り、アルカイダから戦闘訓練を受けたことがあること。
ドイツに住んでいた時に、9.11のもう一人の関係者と接触していること、さらにヴィン・ラディンから電話を受けたことがあること。
これらの状況証拠から、米当局はモハメドゥを、9.11に関わったテロリストたちを集めた中核メンバー、”リクルーター”だと認定し、3年に渡り尋問を繰り返していたのだ。
彼の弁護を担当するのが、ジョディ・フォスターが白髪の戦闘モードで演じる人権派弁護士のナンシー・ホランダーと、シャイリーン・ウッドリーが演じる助手のテリー・ダンカン。
モハメドゥに言わせれば、彼がアフガニスタンで訓練を受けた頃は、アルカイダはソ連と戦うためにアメリカが支援していた組織で、いわば味方同士。
ドイツで接触した人物も、同郷人だから頼まれて一晩泊めただけで、単に面識があるだけ。
ヴィン・ラディンからの電話も、かけてきたのは彼の親戚で、本人とは話してない。
要するに米当局は点と点を無理やり結び付けて、ありもしない“小説”を描いているというのだ。
だが弁護しようにも、政府は殆ど黒塗りで内容が分からない供述調書を渡してくるだけなので、ナンシーはモハメドゥが米当局に拘束されてからの顛末を、本人に手記として書かせる。
映画はこの手記に基づく2001年から2005年までの過去と、ナンシーが奔走する現在を平行に描いてゆくのだが、グァンタナモでの3年間で他人を信じられなくなったモハメドゥは、なかなか核心部分を書こうとしない。
面白いのは情報にアクセス出来ないのは弁護側だけではなく、起訴を担当する海兵隊検事のカウチ中佐も同様なこと。
グァンタナモの尋問記録は、それ自体が機密。
しかもCIAや軍をはじめ、色々な機関が入れ替わり立ち替わり尋問してるので、調書はぐちゃぐちゃで整合性が取れておらず、このままでは起訴出来ない。
中佐は調書になる前の全てを記録したMFR(Memorandum for the Record)という書類を手に入れようとするが、機密の壁に阻まれてなかなか辿り着けない。
検察、弁護側双方が、まるで真実を把握できないまま、裁判に向けての準備だけが進んでいという異常な状況だ。
二人がそれぞれのやり方で闇を払い、何重もの機密の壁の奥に隠されたグァンタナモの核心に、徐々に近付いてゆくプロセスは非常にスリリングで面白い。
そしてある時点で、ナンシーはモハメドゥが意を決して書いた手記によって、カウチ中佐はようやく閲覧を許されたMFRによって、グァンタナモで本当に何が起こっていたのか、“真実”を知ってしまう。
ブッシュ政権のラムズフェルド国防長官は、グァンタナモに集められた数千人の囚人たちに対し、”特殊尋問”という名の拷問を許した。
モハメドゥは一度自供しているのだが、その証言は凍える様な部屋に放置する、爆音を流し続け睡眠を奪う、水責めで呼吸できなくする、母親を他の囚人に強姦させると脅す、その他口にするのもおぞましい数々の拷問を受けて、肉体と精神をとことん追い込まれた状況で出てきたものだったのだ。
グァンタナモ基地は、1903年以来アメリカが租借しているキューバの地。
米国外にあるがゆえに、このキャンプはアメリカの司法が及ばない。
こんなところに、収容キャンプを作ったのは、看守や尋問官を法の支配から遠ざけることで、彼らの人権感覚を麻痺させ、非人道的な行為をさせるためではないのか、とナンシーは問う。
これでナンシーのすべきことは明確になったが、逆にジレンマに陥ったのが、カウチ中佐だ。
グァンタナモに法の支配が及ばないとしても、実際に裁判が行われるのはアメリカである。
客観的な証拠が無く、拷問で無理矢理導き出した自供に、証拠能力など認められないのは法律家として当然理解している。
しかし、政府や軍の上層部、いやアメリカ社会全体が、9.11を引き起こした“犯人”が死刑台に上がるのを待ち望んでいる。
9.11で亡くした友人の遺族に対し、仇討ちを宣言した責任もある。
カウチ中佐は、公判を維持できないのを承知でモハメドゥを起訴するか、それとも全国民に裏切り者と蔑まれる覚悟で起訴しないか、究極の選択を迫られるのである。
社会が集団ヒステリー状態の中、司法はどうあるべきなのか。
この映画に登場する、静かな情熱を燃やす法律家たちの振る舞いは、法治国家に住む全ての人間にとって示唆に富む。
司法がギリギリで踏み止まった一方で、怒れる民心に迎合し、政治的に利用したブッシュ政権はもちろん、その後も違法状態を正さなかったオバマ政権も同様の責任がある。
アメリカの大統領は、なぜ弁護士出身者が多いのか、なぜ三権分立と法の支配が民主社会を維持する上で非常に重要なのか、この映画を観ると理解できる。
ここに描かれていることは、対テロ戦争下のアメリカという、一見特殊な状況で起こった事件のように思えるが、例えば日本の入管施設にも、司法手続きが行われないまま、非人道的な状況で長期間収容されている人たちがいる。
個人が心身の自由を奪われるのだから、普通の刑事事件なら当然裁判所の令状が必要になるが、なぜか入管の収容では不要とされているのだ。
仮放免の申請を許可する、許可しないの裁量権も入管にあり、未来の見えない状況は、収容者に多大な肉体的、精神的なストレスを与える。
今年3月に、名古屋入管でスリランカ人女性が死亡した事件は記憶に新しく、過去にも自殺者や、ハンストの末の餓死者も出ている。
本作にも長期の抑留に耐えかねて自殺する、マルセイユという男のエピソードが出てくるが、入管の収容者にしてみれば、同じ心境だろう。
現在の日本の入管制度は、明らかな法の欠陥がある。
入管の問題には個人的にもちょっと関わったことがあり、彼らがいかに不誠実な組織か思い知らされた。
モハメドゥやマルセイユに起こったことは、単なる対岸の火事ではないこと。
この日本にも、早急に正すべき制度があることは、しっかりと認識しておきたい。
今回はグァンタナモに皮肉を込めて、「キューバ・リブレ」をチョイス。
タンブラーにライム1/2を絞り、クラッシュドアイスを入れ、ラム45mlを注ぎ入れた後でコーラで満たし、ライムを一切れ飾って完成。
このカクテルが生まれたのは、19世紀末のキューバ独立戦争の時。
独立派支援のためにキューバに駐留していたアメリカの将校が、コカ・コーラとキューバのラムをミックスし、独立派の愛言葉だった「ビバ・キューバ・リブレ(キューバの自由万歳)」から名付けたという。
戦争の結果、キューバはスペインの支配を脱して独立を果たすが、今度はアメリカの影響がどんどん強まり、グァンタナモ租借に繋がって行くのだから、歴史は本当にシニカルだ。
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9.11の首謀者の一人とされ、何の司法手続きも無いまま、長期間キューバのグァンタナモ基地に作られたキャンプに抑留されたモーリタニア人、モハメドゥ・オールド・サラヒの実話。
彼は2001年11月、9.11の二ヶ月後にモーリタニアの自宅から警察に連行され、そのまま消息不明に。
3年以上が過ぎた2005年になって、ようやくグァンタナモにいることが判明し、彼を釈放させようとする弁護士と、何が何でも死刑にしようとする政府の闘いが始まる。
モハメドゥ本人による手記を映画化したのは、「ラスト・キング・オブ・スコットランド」などで知られるケヴィン・マクドナルド監督。
渦中の人であるモハメドゥをタハール・ラヒムが演じ、彼を挟んでジョディ・フォスター演じる弁護士のナンシー・ホランダーと、ベネディクト・カンバーバッチの海兵隊検事のスチュアート・カウチ中佐が火花を散らす。
ニューメキシコ州アルバカーキーの人権派弁護士、ナンシー・ホランダー(ジョディ・フォスター)の元に、2005年の2月にある案件が持ち込まれる。
9.11の同時多発テロへの関与を疑われた、モハメドゥ・オールド・サラヒ(タハール・ラヒム)という男が、司法手続きが行われないまま、3年以上グァンタナモに抑留されているという。
助手のテリー・ダンカン(シャイリーン・ウッドリー)を伴い、グァンタナモでモハメドゥと会ったナンシーは、彼の弁護を引き受ける。
ナンシーは政府に供述調書の開示を要求するも、送られてきた書類は大半が黒塗り。
業を煮やした彼女は、拘束されてから起こったことを、手記にする様にモハメドゥに要請するのだが彼は全てを書くことを頑なに拒む。
同じ頃、海兵隊検事のスチュアート・カウチ中佐(ベネディクト・カンバーバッチ)は、上司からモハメドゥの起訴を依頼される。
友人を9.11で亡くしていたカウチ中佐は、モハメドゥを死刑にすべく準備を進めるが、収容所で行われた尋問のすべてを記したMFRという核心的名な書類を入手できないでいた。
実はグァンタナモには、ナンシーもカウチ中佐も知らない、底無しの闇が隠されていた・・・・
モハメドゥ・オールド・サラヒは、1970年にアフリカ西岸のモーリタニアに生まれた。
優秀な若者で、奨学金を受け取りドイツの大学に留学し、電気工学の学位を取得している。
彼に疑いがかかったのは、留学後の1991年にアフガニスタンに渡り、アルカイダから戦闘訓練を受けたことがあること。
ドイツに住んでいた時に、9.11のもう一人の関係者と接触していること、さらにヴィン・ラディンから電話を受けたことがあること。
これらの状況証拠から、米当局はモハメドゥを、9.11に関わったテロリストたちを集めた中核メンバー、”リクルーター”だと認定し、3年に渡り尋問を繰り返していたのだ。
彼の弁護を担当するのが、ジョディ・フォスターが白髪の戦闘モードで演じる人権派弁護士のナンシー・ホランダーと、シャイリーン・ウッドリーが演じる助手のテリー・ダンカン。
モハメドゥに言わせれば、彼がアフガニスタンで訓練を受けた頃は、アルカイダはソ連と戦うためにアメリカが支援していた組織で、いわば味方同士。
ドイツで接触した人物も、同郷人だから頼まれて一晩泊めただけで、単に面識があるだけ。
ヴィン・ラディンからの電話も、かけてきたのは彼の親戚で、本人とは話してない。
要するに米当局は点と点を無理やり結び付けて、ありもしない“小説”を描いているというのだ。
だが弁護しようにも、政府は殆ど黒塗りで内容が分からない供述調書を渡してくるだけなので、ナンシーはモハメドゥが米当局に拘束されてからの顛末を、本人に手記として書かせる。
映画はこの手記に基づく2001年から2005年までの過去と、ナンシーが奔走する現在を平行に描いてゆくのだが、グァンタナモでの3年間で他人を信じられなくなったモハメドゥは、なかなか核心部分を書こうとしない。
面白いのは情報にアクセス出来ないのは弁護側だけではなく、起訴を担当する海兵隊検事のカウチ中佐も同様なこと。
グァンタナモの尋問記録は、それ自体が機密。
しかもCIAや軍をはじめ、色々な機関が入れ替わり立ち替わり尋問してるので、調書はぐちゃぐちゃで整合性が取れておらず、このままでは起訴出来ない。
中佐は調書になる前の全てを記録したMFR(Memorandum for the Record)という書類を手に入れようとするが、機密の壁に阻まれてなかなか辿り着けない。
検察、弁護側双方が、まるで真実を把握できないまま、裁判に向けての準備だけが進んでいという異常な状況だ。
二人がそれぞれのやり方で闇を払い、何重もの機密の壁の奥に隠されたグァンタナモの核心に、徐々に近付いてゆくプロセスは非常にスリリングで面白い。
そしてある時点で、ナンシーはモハメドゥが意を決して書いた手記によって、カウチ中佐はようやく閲覧を許されたMFRによって、グァンタナモで本当に何が起こっていたのか、“真実”を知ってしまう。
ブッシュ政権のラムズフェルド国防長官は、グァンタナモに集められた数千人の囚人たちに対し、”特殊尋問”という名の拷問を許した。
モハメドゥは一度自供しているのだが、その証言は凍える様な部屋に放置する、爆音を流し続け睡眠を奪う、水責めで呼吸できなくする、母親を他の囚人に強姦させると脅す、その他口にするのもおぞましい数々の拷問を受けて、肉体と精神をとことん追い込まれた状況で出てきたものだったのだ。
グァンタナモ基地は、1903年以来アメリカが租借しているキューバの地。
米国外にあるがゆえに、このキャンプはアメリカの司法が及ばない。
こんなところに、収容キャンプを作ったのは、看守や尋問官を法の支配から遠ざけることで、彼らの人権感覚を麻痺させ、非人道的な行為をさせるためではないのか、とナンシーは問う。
これでナンシーのすべきことは明確になったが、逆にジレンマに陥ったのが、カウチ中佐だ。
グァンタナモに法の支配が及ばないとしても、実際に裁判が行われるのはアメリカである。
客観的な証拠が無く、拷問で無理矢理導き出した自供に、証拠能力など認められないのは法律家として当然理解している。
しかし、政府や軍の上層部、いやアメリカ社会全体が、9.11を引き起こした“犯人”が死刑台に上がるのを待ち望んでいる。
9.11で亡くした友人の遺族に対し、仇討ちを宣言した責任もある。
カウチ中佐は、公判を維持できないのを承知でモハメドゥを起訴するか、それとも全国民に裏切り者と蔑まれる覚悟で起訴しないか、究極の選択を迫られるのである。
社会が集団ヒステリー状態の中、司法はどうあるべきなのか。
この映画に登場する、静かな情熱を燃やす法律家たちの振る舞いは、法治国家に住む全ての人間にとって示唆に富む。
司法がギリギリで踏み止まった一方で、怒れる民心に迎合し、政治的に利用したブッシュ政権はもちろん、その後も違法状態を正さなかったオバマ政権も同様の責任がある。
アメリカの大統領は、なぜ弁護士出身者が多いのか、なぜ三権分立と法の支配が民主社会を維持する上で非常に重要なのか、この映画を観ると理解できる。
ここに描かれていることは、対テロ戦争下のアメリカという、一見特殊な状況で起こった事件のように思えるが、例えば日本の入管施設にも、司法手続きが行われないまま、非人道的な状況で長期間収容されている人たちがいる。
個人が心身の自由を奪われるのだから、普通の刑事事件なら当然裁判所の令状が必要になるが、なぜか入管の収容では不要とされているのだ。
仮放免の申請を許可する、許可しないの裁量権も入管にあり、未来の見えない状況は、収容者に多大な肉体的、精神的なストレスを与える。
今年3月に、名古屋入管でスリランカ人女性が死亡した事件は記憶に新しく、過去にも自殺者や、ハンストの末の餓死者も出ている。
本作にも長期の抑留に耐えかねて自殺する、マルセイユという男のエピソードが出てくるが、入管の収容者にしてみれば、同じ心境だろう。
現在の日本の入管制度は、明らかな法の欠陥がある。
入管の問題には個人的にもちょっと関わったことがあり、彼らがいかに不誠実な組織か思い知らされた。
モハメドゥやマルセイユに起こったことは、単なる対岸の火事ではないこと。
この日本にも、早急に正すべき制度があることは、しっかりと認識しておきたい。
今回はグァンタナモに皮肉を込めて、「キューバ・リブレ」をチョイス。
タンブラーにライム1/2を絞り、クラッシュドアイスを入れ、ラム45mlを注ぎ入れた後でコーラで満たし、ライムを一切れ飾って完成。
このカクテルが生まれたのは、19世紀末のキューバ独立戦争の時。
独立派支援のためにキューバに駐留していたアメリカの将校が、コカ・コーラとキューバのラムをミックスし、独立派の愛言葉だった「ビバ・キューバ・リブレ(キューバの自由万歳)」から名付けたという。
戦争の結果、キューバはスペインの支配を脱して独立を果たすが、今度はアメリカの影響がどんどん強まり、グァンタナモ租借に繋がって行くのだから、歴史は本当にシニカルだ。

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2021年11月10日 (水) | 編集 |
彼らは英雄か、死神か。
7000年の間、人知れず人類を見守ってきた10人の不死者、“エターナルズ”を描く、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)最新作。
エターナルズは人類の神話では神様や英雄たちになってるのだが、実は太陽系を創ったボス神の駒に過ぎず、与えられた任務以外は人類に干渉できないという縛りがある。
つまり本作は、ヒーローがヴィランをやっつけて終わりという映画じゃないし、そもそも善悪の話でもない。
自由意志を持たない中途半端なヒーローというのは、今までのMCUが描いてきたヒーロー像とは真逆の存在で、実際過去作品との繋がりもほとんどなく、相当な異色作として仕上がっている。
「ノマドランド」でオスカーに輝いたクロエ・ジャオが、監督と共同脚本を兼務し、MCU最初のアカデミー賞監督となった。
ジェンマ・チェンが主人公のポジションのエターナル、セルシを演じ、サルマ・ハエック、アンジェリーナ・ジョリー、リチャード・マッデンらが出演。
韓国系アメリカ人のマ・ドンソク兄貴が、米国名のドン・リー名義でハリウッドへの初の逆上陸を果たしている。
※以下、核心部分に触れています。
知的生物を捕食するディヴィアンツを根絶するため、天体の創造主アリシェム(デビッド・ケイ)の命によって、7000年前に地球に降り立った“エターナルズ”は、リーダーのエイジャック(サルマ・ハエック)に率いられ500年前に目的を達成。
しかし帰還の命令は来ず、10人はそれぞれ人間社会に紛れて生活している。
ロンドンに暮らすセルシ(ジェンマ・チャン)は、物質を別の物質に変換できるエターナルだが、人間の恋人デイン(キット・ハリントン)と付き合っている。
全世界規模の地震が起こった夜、絶滅させたはずのディヴィアンツが現れ、セルシと少女の姿をしたエターナル、スプライト(リア・マクヒュー)を襲う。
飛行能力を持つイカリス(リチャード・マッデン)に助けられた二人は、アメリカに住むエイジャックを尋ねるが、彼女は既にディヴィアンツに殺されていた。
エイジャックからリーダーを受け継いだセルシは、事態を把握すためにアリシェムにコンタクトするが、そこで驚くべき話を聞かされる・・・・
なるほど、コレはマーベルの皮を被った、クロエ・ジャオのバリバリの作家映画。
もちろんMCUらしさはあるんだけど、作品の香りとしてはむしろ「DUNE /デューン 砂の惑星」などの方が近い。
アリシェムによって、古代の地球に送り込まれたエターナルズは10人。
まずは治癒能力を持つリーダーのエイジャック、物質を他の物質に変換することができるセルシ、飛行能力を持ちと目からビームを放つイカリス、手と指から大小のカメハメ波を放つキンゴ、超高速で移動できるマッカリ、他人の心を操れるドルイグ、様々な武器を使う戦士セナ、怪力のギルガメッシュ、人類の進歩を影から支援する発明家のファストス、変身能力がありリアルな幻影を投射できるスプライト。
彼らの任務は人類を見守り、知的生物を捕食する異形の怪物ディヴィアンツを絶滅させること。
当初は信奉するアリシェムの計画をチームとして忠実に実行し、500年前に完遂するも、何故かアリシェムからの帰還命令は来ず、チームを解散した彼らは地球各地で暮らしている。
幾多の戦争も、宇宙の50%の生命を賭けたサノスとアベンジャーズの戦いも、アリシェムの命令に無かったので干渉しなかった。
エターナルズが、自分の意思ではなく、他者の命令によってしか動けないというのが、本作のポイントだ。
過去にMCUに登場したヒーローたちは、その能力や立場に応じて葛藤こそしたが、全員が自らの決意で行動し、自由意志を奪われた者は、例えばキャプテンに救われる前のウィンターソルジャーや、ドレイコフの奴隷だったウィドウたちの様に、ヴィランの立場に置かれていた。
ところが、誰よりも人間くさくキャラクター造形されているエターナルズの面々は、何故かアリシェムの計画なるものに従うだけなのである。
その意味が明らかになるのは、物語も中盤に差し掛かる頃。
アリシェムの本当の計画とは、太陽系を作り、そこに育てた人類の精神エネルギーによって、地球を卵として、自らの同族であるセレスティアルズを誕生させること。
全長が数百キロ、数千キロもあるセレスティアルズが、大地を割って現れるのだから、当然地球の生物は絶滅してしまう。
エターナルズは、アリシェムの計画の“バグ”である、ディヴィアンツを駆除するために作られたある種のアンドロイドで、地球にやって来る以前も、同じサイクルを無数に繰り返し、その都度記憶を消されていたのだ。
今までのMCUで描かれたことが、全ては神様の手のひらで起こっていたことで、ぶっちゃけ人類に最初から生殺与奪の権はなかったという、劇的な世界観のパラダイムシフト。
これでは確かに、他の作品と安直に絡ませる訳にはいかないわな。
エターナルズが不死なのは、初めから生きていないからで、人類の守護者だと思っていたのが、実は滅びをもたらす死神だった。
初めて自分たちが何者かを知らされた彼らは、ここからどう行動するのか葛藤しはじめる。
命令のくびきを断ち切り、自由意志に目覚め、計画を止めるために動き出す者、どこまでもアリシェムを信じ、セレスティアルズの誕生と地球滅亡を受け入れる者。
果たして人類は、救うに値する存在なのか。
いく当てのない心の迷宮に入り込んだエターナルズの苦悩が、「ノマドランド」「ザ・ライダー」など閉塞の中での放浪を描いてきたクロエ・ジャオの作家性にピタリとハマる。
あるエターナルが、人類の存続に疑念を抱いたきっかけが、人類の犯した最大の愚行、広島への原爆投下だったというシーンがあるが、これには驚いた。
世界的な影響力を持つMCUが、原爆投下を不可避の事態ではなく、明確に”人類の罪”と定義したのは画期的なことだと思う。
ほとんどのエターナルが、最終的に人類を護り、セレスティアルズの誕生を阻止することを決める中、最後までアリシェムの忠実な信奉者であり、本作のヴィラン的なポジションとなるのが、最強のエターナルであるイカリスだ。
自由意志が無いうちから人間と関わり、徐々に影響を受けて自分たちの中での多様性を確立していた他のエターナルズと異なり、彼は信奉する価値観の原理主義者として描かれる。
権威に服従し、命令を重視し、変化を拒絶するイカリスは、他者の考えに依存することで脳味噌が硬直してしまい、時代に適応できない保守的な人間のメタファーだ。
彼の中では多様性は忌むべきもので、世界は決定論に基づいていて、未来を変えることなど出来ないし、出来てはいけないのだ。
アリシェムの計画とは違ってしまった未来に、彼の居場所はない。
神話のイカロスは、蝋で固めた翼で空を飛び、太陽に近づき過ぎたことで蝋が溶けて墜落死する。
本来、人類の傲慢さを諫める話の主人公として知られるキャラクターを、自由意志を否定する創造主の傲慢さを象徴するキャラクターとしたのは、ジャオ節が冴え渡るシニカルなアイディア。
また本作のエターナルズとアリシェムとの関係は、一神教の宗教が、古代のアニミズムの神々を吸収、否定してきた歴史を感じさせるのも面白い。
宗教的保守派は、多様性の宇宙にとって障害物とも取れる解釈で、これが本作が賛否両論となっている一因だろう。
そのイカリスが飛び回るアクション描写はボリュームたっぷりだが、本作の場合はエターナルズという人類の社会のミニチュアの中で起こる、内輪揉めの話なので、なかなか終わってスッキリとはいかない。
古代のメソポタミアから、オーストラリアの荒野、マヤの神殿がそびえるジャングルなど、人類史と荘厳な自然の中、ゆったりとしたテンポで展開する悩める神々の神話は、例えば「シャン・チー/テン・リングスの伝説」などの陽性のマーベル活劇とは対照的で、なるほど「コレジャナイ」と思う人がいるのもよく分かる。
耳慣れないカタカナの固有名詞が矢継ぎ早に出て来るのも、MCUというよりは「DUNE /デューン 砂の惑星」っぽく、この種の叙事詩的なSFに馴染みがないと、入りにくい作品なのは確かだろう。
いずれにしても、最初聞いた時には、一体どうなることやらと思ったクロエ・ジャオの強烈な作家性とMCUの出会いは、新しい可能性と共に、MCUの多様性の更なる広がりを感じさせるのに十分なものだ。
今回はオマケも過去作との繋がりは無かったが、エンドクレジット後のアレを見ると、MCUは「アベンジャーズ」継承の正統派ヒーロー路線と、神話・伝説をモチーフとしたこちらの路線に別れてゆくのかも知れないな。
悠久の歴史を生きてきたエターナルズには、300年以上の歴史を持つ「ザ・マッカラン 18年」をチョイス。
シェリー樽で最低18年の間熟成されたスコッチは、複雑なアフターテイストを楽しめる。
マッカランは10年や12年ものの熟成度合いでも十分に美味しいが、18年あたりから味わいが格段に深みを増す。
値段もこの辺りからグッと上がるので、簡単に買える物じゃないけど、一本持っていて自分の中でイベントがある時などに、チビチビやるのもいいものだ。
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7000年の間、人知れず人類を見守ってきた10人の不死者、“エターナルズ”を描く、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)最新作。
エターナルズは人類の神話では神様や英雄たちになってるのだが、実は太陽系を創ったボス神の駒に過ぎず、与えられた任務以外は人類に干渉できないという縛りがある。
つまり本作は、ヒーローがヴィランをやっつけて終わりという映画じゃないし、そもそも善悪の話でもない。
自由意志を持たない中途半端なヒーローというのは、今までのMCUが描いてきたヒーロー像とは真逆の存在で、実際過去作品との繋がりもほとんどなく、相当な異色作として仕上がっている。
「ノマドランド」でオスカーに輝いたクロエ・ジャオが、監督と共同脚本を兼務し、MCU最初のアカデミー賞監督となった。
ジェンマ・チェンが主人公のポジションのエターナル、セルシを演じ、サルマ・ハエック、アンジェリーナ・ジョリー、リチャード・マッデンらが出演。
韓国系アメリカ人のマ・ドンソク兄貴が、米国名のドン・リー名義でハリウッドへの初の逆上陸を果たしている。
※以下、核心部分に触れています。
知的生物を捕食するディヴィアンツを根絶するため、天体の創造主アリシェム(デビッド・ケイ)の命によって、7000年前に地球に降り立った“エターナルズ”は、リーダーのエイジャック(サルマ・ハエック)に率いられ500年前に目的を達成。
しかし帰還の命令は来ず、10人はそれぞれ人間社会に紛れて生活している。
ロンドンに暮らすセルシ(ジェンマ・チャン)は、物質を別の物質に変換できるエターナルだが、人間の恋人デイン(キット・ハリントン)と付き合っている。
全世界規模の地震が起こった夜、絶滅させたはずのディヴィアンツが現れ、セルシと少女の姿をしたエターナル、スプライト(リア・マクヒュー)を襲う。
飛行能力を持つイカリス(リチャード・マッデン)に助けられた二人は、アメリカに住むエイジャックを尋ねるが、彼女は既にディヴィアンツに殺されていた。
エイジャックからリーダーを受け継いだセルシは、事態を把握すためにアリシェムにコンタクトするが、そこで驚くべき話を聞かされる・・・・
なるほど、コレはマーベルの皮を被った、クロエ・ジャオのバリバリの作家映画。
もちろんMCUらしさはあるんだけど、作品の香りとしてはむしろ「DUNE /デューン 砂の惑星」などの方が近い。
アリシェムによって、古代の地球に送り込まれたエターナルズは10人。
まずは治癒能力を持つリーダーのエイジャック、物質を他の物質に変換することができるセルシ、飛行能力を持ちと目からビームを放つイカリス、手と指から大小のカメハメ波を放つキンゴ、超高速で移動できるマッカリ、他人の心を操れるドルイグ、様々な武器を使う戦士セナ、怪力のギルガメッシュ、人類の進歩を影から支援する発明家のファストス、変身能力がありリアルな幻影を投射できるスプライト。
彼らの任務は人類を見守り、知的生物を捕食する異形の怪物ディヴィアンツを絶滅させること。
当初は信奉するアリシェムの計画をチームとして忠実に実行し、500年前に完遂するも、何故かアリシェムからの帰還命令は来ず、チームを解散した彼らは地球各地で暮らしている。
幾多の戦争も、宇宙の50%の生命を賭けたサノスとアベンジャーズの戦いも、アリシェムの命令に無かったので干渉しなかった。
エターナルズが、自分の意思ではなく、他者の命令によってしか動けないというのが、本作のポイントだ。
過去にMCUに登場したヒーローたちは、その能力や立場に応じて葛藤こそしたが、全員が自らの決意で行動し、自由意志を奪われた者は、例えばキャプテンに救われる前のウィンターソルジャーや、ドレイコフの奴隷だったウィドウたちの様に、ヴィランの立場に置かれていた。
ところが、誰よりも人間くさくキャラクター造形されているエターナルズの面々は、何故かアリシェムの計画なるものに従うだけなのである。
その意味が明らかになるのは、物語も中盤に差し掛かる頃。
アリシェムの本当の計画とは、太陽系を作り、そこに育てた人類の精神エネルギーによって、地球を卵として、自らの同族であるセレスティアルズを誕生させること。
全長が数百キロ、数千キロもあるセレスティアルズが、大地を割って現れるのだから、当然地球の生物は絶滅してしまう。
エターナルズは、アリシェムの計画の“バグ”である、ディヴィアンツを駆除するために作られたある種のアンドロイドで、地球にやって来る以前も、同じサイクルを無数に繰り返し、その都度記憶を消されていたのだ。
今までのMCUで描かれたことが、全ては神様の手のひらで起こっていたことで、ぶっちゃけ人類に最初から生殺与奪の権はなかったという、劇的な世界観のパラダイムシフト。
これでは確かに、他の作品と安直に絡ませる訳にはいかないわな。
エターナルズが不死なのは、初めから生きていないからで、人類の守護者だと思っていたのが、実は滅びをもたらす死神だった。
初めて自分たちが何者かを知らされた彼らは、ここからどう行動するのか葛藤しはじめる。
命令のくびきを断ち切り、自由意志に目覚め、計画を止めるために動き出す者、どこまでもアリシェムを信じ、セレスティアルズの誕生と地球滅亡を受け入れる者。
果たして人類は、救うに値する存在なのか。
いく当てのない心の迷宮に入り込んだエターナルズの苦悩が、「ノマドランド」「ザ・ライダー」など閉塞の中での放浪を描いてきたクロエ・ジャオの作家性にピタリとハマる。
あるエターナルが、人類の存続に疑念を抱いたきっかけが、人類の犯した最大の愚行、広島への原爆投下だったというシーンがあるが、これには驚いた。
世界的な影響力を持つMCUが、原爆投下を不可避の事態ではなく、明確に”人類の罪”と定義したのは画期的なことだと思う。
ほとんどのエターナルが、最終的に人類を護り、セレスティアルズの誕生を阻止することを決める中、最後までアリシェムの忠実な信奉者であり、本作のヴィラン的なポジションとなるのが、最強のエターナルであるイカリスだ。
自由意志が無いうちから人間と関わり、徐々に影響を受けて自分たちの中での多様性を確立していた他のエターナルズと異なり、彼は信奉する価値観の原理主義者として描かれる。
権威に服従し、命令を重視し、変化を拒絶するイカリスは、他者の考えに依存することで脳味噌が硬直してしまい、時代に適応できない保守的な人間のメタファーだ。
彼の中では多様性は忌むべきもので、世界は決定論に基づいていて、未来を変えることなど出来ないし、出来てはいけないのだ。
アリシェムの計画とは違ってしまった未来に、彼の居場所はない。
神話のイカロスは、蝋で固めた翼で空を飛び、太陽に近づき過ぎたことで蝋が溶けて墜落死する。
本来、人類の傲慢さを諫める話の主人公として知られるキャラクターを、自由意志を否定する創造主の傲慢さを象徴するキャラクターとしたのは、ジャオ節が冴え渡るシニカルなアイディア。
また本作のエターナルズとアリシェムとの関係は、一神教の宗教が、古代のアニミズムの神々を吸収、否定してきた歴史を感じさせるのも面白い。
宗教的保守派は、多様性の宇宙にとって障害物とも取れる解釈で、これが本作が賛否両論となっている一因だろう。
そのイカリスが飛び回るアクション描写はボリュームたっぷりだが、本作の場合はエターナルズという人類の社会のミニチュアの中で起こる、内輪揉めの話なので、なかなか終わってスッキリとはいかない。
古代のメソポタミアから、オーストラリアの荒野、マヤの神殿がそびえるジャングルなど、人類史と荘厳な自然の中、ゆったりとしたテンポで展開する悩める神々の神話は、例えば「シャン・チー/テン・リングスの伝説」などの陽性のマーベル活劇とは対照的で、なるほど「コレジャナイ」と思う人がいるのもよく分かる。
耳慣れないカタカナの固有名詞が矢継ぎ早に出て来るのも、MCUというよりは「DUNE /デューン 砂の惑星」っぽく、この種の叙事詩的なSFに馴染みがないと、入りにくい作品なのは確かだろう。
いずれにしても、最初聞いた時には、一体どうなることやらと思ったクロエ・ジャオの強烈な作家性とMCUの出会いは、新しい可能性と共に、MCUの多様性の更なる広がりを感じさせるのに十分なものだ。
今回はオマケも過去作との繋がりは無かったが、エンドクレジット後のアレを見ると、MCUは「アベンジャーズ」継承の正統派ヒーロー路線と、神話・伝説をモチーフとしたこちらの路線に別れてゆくのかも知れないな。
悠久の歴史を生きてきたエターナルズには、300年以上の歴史を持つ「ザ・マッカラン 18年」をチョイス。
シェリー樽で最低18年の間熟成されたスコッチは、複雑なアフターテイストを楽しめる。
マッカランは10年や12年ものの熟成度合いでも十分に美味しいが、18年あたりから味わいが格段に深みを増す。
値段もこの辺りからグッと上がるので、簡単に買える物じゃないけど、一本持っていて自分の中でイベントがある時などに、チビチビやるのもいいものだ。

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2021年11月05日 (金) | 編集 |
恐怖の象徴は、いかにして誕生するのか。
2018年版に発表され、高い評価を受けたデヴィッド・ゴードン・グリーン監督版の続編。
過激な戦闘婆ちゃんと化した、ローリー・ストロードとの40年ぶりの対決で、地下室に閉じ込められ、焼け死んだと思われたマイケル・マイヤーズが、消防士相手に殺戮の限りを尽くして復活。
長年、78年の大量殺人事件の記憶に苦しめられて来たハドンフィールドの住民たちは、今度こそ怨み重なるマイケルを抹殺しようと、当時の関係者を中心に自警団を結成し、マイケル狩りをはじめる。
前回に引き続き、ジャミー・リー・カーティスがローリーを熱演。
マイケル役は、こちらも78年のオリジナルキャストであり、「ミリィ/ 少年は空を飛んだ」などの監督としても知られるニック・キャッスルが、ジェームズ・ジュード・コートニーとのダブルで演じる。
今回描かれるのは、“事件”から“伝説”へのシフト。
前作はジョン・カーペンターによる第一作から直接繋がる続編で、個人的には結構好きなリック・ローゼンタール監督の「ハロウィンⅡ」以降のシリーズは、無かったことになっている。
まあ散々シリーズやリメイクを観てきた観客としては、ちょっと戸惑いを感じるものの、この映画の世界では、街の人々のトラウマとなった事件以降、マイケルは精神病院に収容されてきた。
時系列的には前作に描かれた“現在”まで、彼は殺人を犯しておらず、まだ都市伝説の“ブギーマン”ではないのである。
しかし、マイケルが起こした事件のエピソードは尾鰭がついて広がり、人々の中で増幅している。
そこへ40年ぶりにマイケルが帰還し、前回以上の凄惨な連続殺人が起こったことで、街はパニックに陥る。
犠牲者が担ぎ込まれた病院は集まってきた市民で溢れ返り、彼らは口々に「マイケルを殺せ!」とシュプレヒコールをあげる。
一度理性を失った大衆は、ある意味一人の殺人鬼よりも恐ろしい。
街の人たちの大半は、マイケル・マイヤーズの名は知っているものの、面識のあるものは僅かで、今の彼がどんな姿をしているのかも知らない。
盲目のまま暴走する彼らは、姿なき怪物を殺そうとして、自らが怪物になってしまっていることに気付かないのだ。
人々がどんどん狂ってゆく間にも、マイケルは冷静沈着に殺人を重ねてゆく。
そして、マイケルを恐れる大衆の集合的無意識は、やがてハロウィンの都市伝説と結びつき、マイケル自身を絶対に殺すことが出来ない不死身の怪物“ブギーマン”へと進化させる。
デヴィッド・ゴードン・グリーンは、この後に「Halloween Ends」を撮って三部作とする構想だそうだが、78年のオリジナルを第一作と捉えれば、マイケルという一人の殺人者が、純粋な悪であり、恐怖の象徴としてのブギーマンになるまでを描く三部作として、体裁は既に整っている。
前作までの40年間の時間は、世代を重ね伝説化するまでのカウントダウン。
21世紀の現在から、20世紀の過去作をメタ的に捉えるという点で、「キャンディマン」と同じベクトルを持った作品だが、人種差別をモチーフとしたあの作品よりも、より包括的な恐怖の時代として現在を捉えているのが興味深い。
ある意味どちらの作品も、人々が分断され集団ヒステリーに陥った、トランプの時代の残滓なのかも知れない。
トランプ信奉者も、ブギーマンみたいに何度でも復活しそうだし。
来年の公開予定がアナウンスされている「Halloween Ends」がどの様な結論を導き出すのか、今から非常に楽しみだ。
悪夢の様な一夜を描く物語には、「ナイトメア」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、デュボネ30ml、チェリー・ブランデー15ml、オレンジジュース15mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
マラスキーノチェリーを飾って完成。
名前は怖いが飲みやすいカクテルで、デュボネの香味とチェリー・ブランデーの甘み、オレンジの酸味が好バランス。
これならブギーマンも酔い潰れるかも知れない。
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2018年版に発表され、高い評価を受けたデヴィッド・ゴードン・グリーン監督版の続編。
過激な戦闘婆ちゃんと化した、ローリー・ストロードとの40年ぶりの対決で、地下室に閉じ込められ、焼け死んだと思われたマイケル・マイヤーズが、消防士相手に殺戮の限りを尽くして復活。
長年、78年の大量殺人事件の記憶に苦しめられて来たハドンフィールドの住民たちは、今度こそ怨み重なるマイケルを抹殺しようと、当時の関係者を中心に自警団を結成し、マイケル狩りをはじめる。
前回に引き続き、ジャミー・リー・カーティスがローリーを熱演。
マイケル役は、こちらも78年のオリジナルキャストであり、「ミリィ/ 少年は空を飛んだ」などの監督としても知られるニック・キャッスルが、ジェームズ・ジュード・コートニーとのダブルで演じる。
今回描かれるのは、“事件”から“伝説”へのシフト。
前作はジョン・カーペンターによる第一作から直接繋がる続編で、個人的には結構好きなリック・ローゼンタール監督の「ハロウィンⅡ」以降のシリーズは、無かったことになっている。
まあ散々シリーズやリメイクを観てきた観客としては、ちょっと戸惑いを感じるものの、この映画の世界では、街の人々のトラウマとなった事件以降、マイケルは精神病院に収容されてきた。
時系列的には前作に描かれた“現在”まで、彼は殺人を犯しておらず、まだ都市伝説の“ブギーマン”ではないのである。
しかし、マイケルが起こした事件のエピソードは尾鰭がついて広がり、人々の中で増幅している。
そこへ40年ぶりにマイケルが帰還し、前回以上の凄惨な連続殺人が起こったことで、街はパニックに陥る。
犠牲者が担ぎ込まれた病院は集まってきた市民で溢れ返り、彼らは口々に「マイケルを殺せ!」とシュプレヒコールをあげる。
一度理性を失った大衆は、ある意味一人の殺人鬼よりも恐ろしい。
街の人たちの大半は、マイケル・マイヤーズの名は知っているものの、面識のあるものは僅かで、今の彼がどんな姿をしているのかも知らない。
盲目のまま暴走する彼らは、姿なき怪物を殺そうとして、自らが怪物になってしまっていることに気付かないのだ。
人々がどんどん狂ってゆく間にも、マイケルは冷静沈着に殺人を重ねてゆく。
そして、マイケルを恐れる大衆の集合的無意識は、やがてハロウィンの都市伝説と結びつき、マイケル自身を絶対に殺すことが出来ない不死身の怪物“ブギーマン”へと進化させる。
デヴィッド・ゴードン・グリーンは、この後に「Halloween Ends」を撮って三部作とする構想だそうだが、78年のオリジナルを第一作と捉えれば、マイケルという一人の殺人者が、純粋な悪であり、恐怖の象徴としてのブギーマンになるまでを描く三部作として、体裁は既に整っている。
前作までの40年間の時間は、世代を重ね伝説化するまでのカウントダウン。
21世紀の現在から、20世紀の過去作をメタ的に捉えるという点で、「キャンディマン」と同じベクトルを持った作品だが、人種差別をモチーフとしたあの作品よりも、より包括的な恐怖の時代として現在を捉えているのが興味深い。
ある意味どちらの作品も、人々が分断され集団ヒステリーに陥った、トランプの時代の残滓なのかも知れない。
トランプ信奉者も、ブギーマンみたいに何度でも復活しそうだし。
来年の公開予定がアナウンスされている「Halloween Ends」がどの様な結論を導き出すのか、今から非常に楽しみだ。
悪夢の様な一夜を描く物語には、「ナイトメア」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、デュボネ30ml、チェリー・ブランデー15ml、オレンジジュース15mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
マラスキーノチェリーを飾って完成。
名前は怖いが飲みやすいカクテルで、デュボネの香味とチェリー・ブランデーの甘み、オレンジの酸味が好バランス。
これならブギーマンも酔い潰れるかも知れない。

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