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2021 Unforgettable Movies
2021年12月31日 (金) | 編集 |
コロナ禍の2年目も、今日で終わり。
今年も劇場がクローズする時期はあったものの、公開延期となっていた作品もほとんど劇場公開されたし、昨年公開された「鬼滅の刃」は遂に前人未到の興収400億に達した。
新作では「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」も、そのマニアックさと長尺をものともせずに、興収百億を突破し、少なくとも日本の映画館界隈は世界基準だとだいぶマシだったと言えるだろう。
一方で、配信シフトはますます進み、映画の未来形はまだ不確かだ。
それでは、今年の“忘れられない映画たち”をブログでの紹介順に。
選出基準はただ一つ、“今の時点でより心に残っているもの”だ。

「花束みたいな恋をした」ひょんなことから知り合った21歳の同い年カップルの、恋の始まりと終わりを描くリリカルな青春物語。一見バブル期のトレンディドラマのような、美男美女のお洒落な恋愛映画かと見せてかけて、実は若いオタクの青春の行き着く先を描いた、相当にエグい話だ。

「ヤクザと家族 The Family」90年代からはじまって現在まで、三つの時代を描くクロニクル。暴対法の影響で、徐々に滅びてゆくヤクザというモチーフから、21世紀の日本社会の閉塞を象徴的に描き出す。藤井道人監督の、キャリア・ベストの仕上がりと言える傑作だ。

「すばらしき世界」役所広司が演じる、元殺人犯のヤクザ者が長い刑期を終えて出所。すっかり浦島太郎化した男の奮闘を描く。西和美和監督らしい、社会からちょっとはみ出したアウトローの悲哀の物語が、半分くらい「ヤクザと家族 The Family」とかぶるのが面白い。

「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」25年間に作られた過去作の全てをアーカイブ的に内包し、全ての葛藤に決着をつける完結編。庵野秀明の究極の私小説であり、αでありω、極大でありながら極小。星をつぐものの壮大な神話が、超パーソナルな内面の葛藤に帰結するのは、実に日本的だ。

「ノマドランド」不況で家を失い、手製のキャンピングカーに荷物を詰め込んで旅に出た主人公が、各地で一期一会を繰り返しながら、日々を懸命に生きてゆく物語。劇映画でありながら、ドキュメンタリー的手法を盛り込んでいるのが新しい。本作でオスカーをかっさらったクロエ・ジャオ監督は、MCUの超大作「エターナルズ」でも自分のスタイルを貫いた。

「JUNK HEAD」“超大作”と形容したくなるスケール感を持つ、ストップモーションアニメーションの大労作。一つの世界を、ここまで徹底的に作り込んだ作品は久々に観た。本作がデビュー作となる堀貴秀監督が、7年をかけてゼロから全てを作り上げた、驚くべき没入感を持つ傑作だ。

「街の上で」今泉力哉監督が、円熟の技を見せる群像劇。端的に言えば、舞台となる下北沢を大きなフレームとして捉えた、点描画のような作品だ。一つひとつの小さなセカイは混じり合い、弾き合い、一つのユニークな風景となって、いつの間にか下北沢という”世界”の一部となっている。

「マ・レイニーのブラックボトム」うだるような熱波に包まれた1927年のシカゴで、伝説的なブルース歌手、マ・レイニーのレコーディングが行われる。幾つもの不協和音がぶつかり合い、浮かび上がってくるのは、ブルースに隠された哀しい歴史と、100年後の今なお続く差別と絶望への抵抗だ。

「ファーザー」ロンドンに住む老人と、彼を介護する娘の物語。この作品が特徴的なのは、認知症を患う老人の視点で描かれていること。認知症モチーフの作品は無数にあるが、この病気をこれほどディープに、体験的に理解させてくれる作品ははじめて。アンソニー・ホプキンスが圧巻。

「茜色に焼かれる」中学生の息子の視点で描かれる、母さんの生き様の物語。夫を交通事故で亡くしたシングルマザーに、ありとあらゆる理不尽が降りかかる。めっちゃヘビーで痛いけど、目が離せない。石井裕也監督が描き出したのは、コロナ禍の今の時代を映し出した、懸命に生きる庶民の物語だ。

「トゥルーノース」悪名高い北朝鮮の政治犯強制収容所の実態を、3DCGアニメーションで描く大労作。多くの脱北者からの聞き取り調査した内容をもとに構成された、ドキュメンタリーアニメーションだ。これは今も明日をも知れぬ強制収容所の中で苦しんでいる、実在する人々の物語。

「アメリカン・ユートピア」デヴィッド・バーンが2018年に発表した同名アルバムを元に、ブロードウェイで上演したコンサートショウを、スパイク・リーがドキュメンタリー映画化した作品。これは本当に、まだ見ぬユートピアを求めるバーンの、いやアメリカの遠大な旅を描いた骨太の作品だった。

「るろうに剣心 最終章 The Beginning」シリーズ最終作にしてベスト。幕末の動乱期、血の雨を降らせ、多くの人を殺めた抜刀斎は、いかにして心優しいるろうに剣心となったのか。前作までのド派手なスウォードアクションとは違い、最後の侍の時代を描くいぶし銀の本格時代劇だ。

「オクトパスの神秘:海の賢者は語る」ドキュメンタリストのおじさんが出会ったのは、貝殻のドレスをまとった一匹の若いタコ。彼女に魅了されたおじさんは、いつの間にかタコストーカーと化し彼女を追いはじめる。まるでドキュメンタリー版「シェイプ・オブ・ウォーター」の様な、異種純愛ラブストーリー。

「映画大好きポンポさん」映画オタクだが何の実績もない主人公が、天才映画プロデューサーのポンポさんから、いきなり長編映画の監督を任される。映画制作の内幕を巡る喜怒哀楽が、90分の尺に凝縮された傑作。おそらく映画史上はじめて、“編集”というプロセスをフィーチャーした作品だ。

「ジャスティス・リーグ: ザック・スナイダーカット」今年も素晴らしいアメコミ映画がたくさんあったが、「ブラック・ウィドウ」「シャン・チー/テン・リングスの伝説」も、作者の執念ではこの作品にかなわない。愛娘の急逝で「ジャスティス・リーグ」を降板したザック・スナイダーが、作品本来の姿を取り戻した傑作。

「Arc アーク」人気作家ケン・リュウ作品初の映画化。人類で初めて不老不死の体を得た女性の、17歳から135歳までを描くクロニクル。必滅の存在である人間が、死する運命から解放された時、一体何が起こるのか。大いなる流れに身を委ね、静かに、ディープに命の円弧を考察する、深淵なる127分だ。

「ゴジラvsコング」怪獣クロスオーバー企画“モンスターバース”のクライマックスは、どこまでも正しい怪獣プロレス。まるで少年漫画のような圧倒的な熱量を持つ日米ライバル対決に、メカゴジラまで参戦し、怒涛のバトルのてんこ盛りにお腹いっぱい。まるで遊園地のライドの様な、実に楽しい作品だった。

「竜とそばかすの姫」細田守3本目のインターネットモチーフ作品は、「サマーウォーズ」の世界観の延長線上に、「美女と野獣」を独自の解釈でリメイクしたもの。映画作家として描きたいことはより純化されていて、いわば夏休み娯楽大作の仮面をつけたゴリゴリの作家映画となっている。

「少年の君」瑞々しくも痛々しい、ボーイ・ミーツ・ガール映画の傑作。凄惨ないじめの被害者となってしまうチョウ・ドンユイと、ひょんなことから彼女を守るナイトとなる不良少年のチェン・ニェン。最悪の状況の中でお互いを思う若い二人の、狂おしいまでの愛と罪の葛藤で魅せる。

「フリー・ガイ」ゲームの世界のモブキャラに、もし人格があったら?というメタ構造を最大限に利用して、ワクワクするエンターテイメンに仕上げたショーン・レビ監督のアドベンチャー映画。「この世界に“モブキャラ”はいない。さあ、想像力を広げよう!」というメッセージが自然に入ってくる。

「ドライブ・マイ・カー」今年の賞レースを席巻する三時間の大長編。わだかまりを抱えたまま妻に先立たれた舞台演出家が、全てを受け入れるまでの物語が、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」の上演プロセスとして表現されている。濱口竜介監督はオムニバス映画「偶然と想像」も素晴らしい仕上がりだった。

「アイダよ、何処へ?」ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争末期、スレブレニツァで起こった虐殺事件の顛末を、一人の女性の目線で描いたハードな人間ドラマ。どんな残酷な事実があったとしても、戦いが終われば全てを許すことはできるのか?いつまで経っても繰り返される、人類の罪と罰の物語。

「由宇子の天秤」ドキュメンタリー作家の主人公の身にふりかかった、家族が犯した罪。社会正義のために仕事をしている主人公は、我が身を守るためにあっさりと嘘をつく。分かりやすいダブルスタンダードの葛藤から始まって、やがて浮かび上がるのは、決して埋まることのない“真実の空白”だ。

「DUNE/デューン 砂の惑星」フランク・ハーバードの古典SF、27年ぶりの映画化。まだ前後編の前編のみとは言え、ハーバートの原作の映画化としても、ドゥニ・ヴィルヌーヴの作家映画としても、これ以上何を望む?という見事な仕上がり。後編制作にはGOサインが出たそうなので、非常に楽しみ。

「最後の決闘裁判」中世フランスで起こった強姦事件。しかし加害者とされた男は疑惑を否定。被害者の夫は神のみぞ知る真実を証明するために、敗者が死刑となる決闘裁判の決行を王に訴える。関係者の言い分が異なる、典型的ラショウモンケースから浮かび上がるのは、男性中心の歴史の歪さだ。

「アイの歌声を聴かせて」なぜか人を幸せにしたがるアンドロイドの”シオン”に振り回される、高校生の主人公と仲間たち。シオンの隠された目的が明らかになる時、観客は皆涙腺を決壊させるだろう。「イヴの時間」の吉浦康裕が、人とAIの未来を希望的に描いた、爽やかな青春SFファンタジー。

「マリグナント 凶暴な悪夢」現在最高のホラー・マイスター、ジェームズ・ワン監督が、80年代ホラーにオマージュを捧げたグチャグチャドロドロのモンスターホラー。小出しされる恐怖の正体が、遂にその姿を表す瞬間は、脳内で変な声が出た(笑 )いい意味で悪趣味な、懐かしいテイストのジャンル映画だ。

「パワー・オブ・ザ・ドッグ」名匠ジェーン・カンピオン、12年ぶりの新作。100年前のモンタナ州の農場を舞台に、ある秘密を抱えた牧場主の物語が描かれる。二つの世界大戦の戦間期で、様々な価値観が生まれた過渡期の時代。秘められた愛によって、雁字搦めになってしまった男の哀しい寓話だ。

「tick, tick... BOOM!: チック、チック…ブーン!」若くして亡くなったミュージカル作家、ジョナサン・ラーソンの物語を、現代ブロードウェイを代表するリン=マニュエル・ミランダが描く。青春の終わりに怯えるラーソンの葛藤を、現在から俯瞰することで、切なくも輝かしい一つの青春の物語が浮かび上がる。

「ラストナイト・イン・ソーホー」現在のソーホーに引っ越してきた霊媒体質の主人公が、1965年に同じ部屋に住んでいた女性の心とシンクロする。華やかな大都会の影に見えてくるのは、成功を夢見る若い女性たちが、男たちに搾取される恐ろしい時代。エドガー・ライトのキレキレの演出を堪能できる。

「ドント・ルック・アップ」アダム・マッケイ節が冴え渡る、社会風刺SFの怪作。巨大彗星の接近で地球に滅亡の時が半年後に迫る中、人々は危機そっちのけで争い、分断を深めてゆく。彗星は地球温暖化のメタファーで、人々が信じたいものだけを見たトランプの時代が徹底的に戯画化される。
「レイジング・ファイア」アクション全部入りの豪華幕の内弁当。どんな不正も許せないドニー・イェン刑事が、因縁の敵ニコラス・ツェーと戦う。悪と正義は紙一重ではあるが、結局その紙一枚分の矜持を持ち続けられるかどうかで運命が決まる。ベニー・チャン監督の遺作にして最高傑作。

以上、洋邦取り混ぜて33本。
これ以外では、洋画なら「聖なる犯罪者」「ミナリ」「サウンド・オブ・メタル ~聞こえるということ~」「モーリタニアン 黒塗りの記録」などが印象的だった。
相変わらず豊作の日本映画は「あのこは貴族」「いとみち」「騙し絵の牙」「浜の朝日の嘘つきどもと」「BLUE ブルー」「空白」など。
劇場用アニメーションも「サイダーのように言葉が湧き上がる」「漁港の肉子ちゃん」など優れた作品が多かったが、イラストレーターのloundrawが、自主制作体制で作り上げた「サマーゴースト」は注目すべき作品だ。
「MINAMATA ミナマタ」「ONODA 一万夜を越えて」など、外国人監督による日本の話も一昔前には考えられない完成度。
世界的に女性監督の活躍が目立ったのと、今年はやっぱり有村架純イヤーだったな。
さて、コロナ禍は三年目で終わるのか。
それでは皆さん、よいお年をお迎えください。

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ドント・ルック・アップ・・・・・評価★★★★+0.8
2021年12月27日 (月) | 編集 |
人類滅亡はフェイクニュース?

アダム・マッケイ節が冴え渡る、インパクト大の社会風刺SF。
天文学者ランドール・ミンディと、博士過程に在籍する学生、ケイト・ディビアスキーが、未知の巨大彗星を発見。
軌道計算の結果、ほぼ100%の確率で地球に衝突することが判明する。
二人は大統領に対して、彗星の軌道を変えるため対策を取ることを進言するが、真に受けてもらえない。
そこで、あの手この手で人々に真実を知らせようとするも、ことごとく空回り。
彗星衝突による人類絶滅という未曾有の危機を前に、科学的エビデンスに基づいた情報を人々に伝え、危機を回避しようとする科学者たちと、そんなものには全く興味がない権力者との大バトルを描くブラックコメディ。
監督・脚本は、「バイス」のアダム・マッケイ。
主人公の科学者コンビをレオナルド・ディカプリオとジェニファー・ローレンスが演じ、トランプもどきの大統領をメリル・ストリープが怪演。
マッケイらしい、遊び心いっぱいのオールスターキャストも楽しい。

シカゴ大学の博士課程に在籍するケイト・ディビアスキー(ジェニファー・ローレンス)は、すばる天文台の観測データを分析中、地球に接近する彗星を発見し、ディビアスキー彗星と名付けられる。
しかしゼミのランドール・ミンディ博士(レオナルド・ディカプリオ)が軌道計算をした結果、この巨大彗星は地球とのコリジョンコースを進んでいることが分かる。
衝突の日までは、あと6ヶ月と14日しかない。
二人は直ちに当局と連絡を取り、惑星防衛調整局のオグルソープ博士(ロブ・モーガン)と共にオーリアン大統領(メリル・ストリープ)に面会するが、大統領は全く真剣に取り合わない。
業を煮やしたオグルソープのアイディアで、情報をマスコミにリークするものの、こちらも反応は鈍い。
このままでは何もしない間に、地球が滅びてしまう。
焦った二人はSNSでの発信を続けるものの、ある日突然FBIに連行される。
連れて行かれた先はホワイトハウスで、大統領は一転して彗星の危機を認めるというのだが・・・・


恐竜を絶滅させたものを上回る、巨大彗星がたった半年後に地球に衝突する。
この設定だけを聞くと、「アルマゲドン」や「ディープ・インパクト」と言ったスペクタクルなSF大作を思い浮かべるが、この作品は全然そういう方向には行かないのである。
むしろロン・パールマン演じる、脳みそ筋肉男を使って、その手のハリウッド映画を笑い飛ばす。
ここで浮かび上がるのは、正しい情報をきちんと人々に伝え、理解してもらうことの難しさ
人は自分の理解を超える出来事に直面すると、往々にして思考停止に陥り、信じたい情報だけを求めるようになる。
巷に広がる根拠のない陰謀論やフェイクニュースの類と、科学的知見に基づいた情報を一見して差別化することは難しい。

映画の前半は、なんとか彗星との衝突危機を信じてもらうおうと、TVショーに出演したり、SNSで発信したり、悪戦苦闘するランドールとケイトを描く。
後半は一転、自分の政治的な点数稼ぎのために、彗星危機を認めた大統領によって、二人は対策チームに入ることになるのだが、彗星に大量のレアメタルが含まれていることが分かり、状況は一変。
結局、儲け話と自分の支持率しか考えていない大統領と、彼女の周りに蠢く魑魅魍魎の様な人々によって散々振り回される。
虚実入り乱れる情報が飛び交い、彗星の存在すら信じない人たち、それは信じていても、政府の“対策”を盲信して危機を実感しない人たち。
いくつものバイアスによって、人々は分断されてしまうのである。
とは言っても、地球にぶつかるのだから、やがて彗星は地球の近くにやって来る。
彗星が目視出来るようになると、ランドールたちは「現実を見ろ」と“#look up”キャンペーンを始めるが、反対派はそれでも「信じるな」“#don’t look up”と対抗する。

住宅バブルの裏側に潜む矛盾に気付き、リーマンショック で大儲けした男たちを描いた「マネー・ショート 華麗なる大逆転」に、ブッシュ政権の影の大統領と呼ばれた、ディック・チェイニーのダークサイドをコミカルに描いた「バイス」など、アダム・マッケイはドラマ性よりもジャーナリズムとしての映画を撮ってきた。
彼の映画では、キャラクターの内面を掘り下げて、そこに成長や変化を描くことはファーストプライオリティーではない。
前者では、リーマンショックはなぜ起こったのか、拡大し続けけたバブルが弾けるまでの仕組みを、詳細かつ分かりやすく見せてくれた。
後者では、ダメ人間だったチェイニーが、どうやってワシントンで出世街道を駆け上がったのか、なぜ人々は彼の嘘にすっかり騙されてしまったのかを、カリカチュアを効かせて面白おかしく描いた。
マッケイの映画の目的は、アメリカ社会における大きな失敗はなぜ起こったのか、その仕組みを紐解き、未来への警鐘を鳴らすこと。

しかしこの「ドンと・ルック・アップ」は、過去の作品と違って、明確にモデルとなっているケースが無い。
それではこの地球そのものを滅亡させうる、破滅の使者としての彗星は、何をカリカチュアしたものなのか。
これはもちろん、“地球温暖化”だろう。
ドナルド・トランプ前大統領は、地球温暖化に関する報告書をフェイクニュースと言って信じず、温暖化対策の国際的な枠組み、パリ協定からも一方的に離脱。
トランプ任期中、彼の盲信的な支持者と反対勢力の間で、アメリカ社会は決定的に分裂してしまった。
この映画でメリル・ストリープが怪演するオーリアン大統領のキャラクター造形は、行き当たりばったりの行動、科学とエビデンスの軽視、儲け話最優先など、トランプ的特徴が多く見られる。
彼女の盟友となるマーク・ライランスのIT社長は、GAFA各社の経営者たちをミックスしたような人物で、抑揚の無い喋り方と人形のような表情が不気味。
数十年単位で地球を蝕む温暖化という実感し難い静かな脅威を、彗星の衝突という“分かりやすい事件”に置き換えたのが本作と言えるが、ここまで明確な危機であっても、“#don’t look up”な人々の存在に説得力があるのがある意味コワイ。
さすがに、皆ここまでおバカではないと信じたいが、政権末期のトランプ支持者の愚行を見るとさもありなん。
はたして、全員が”#look up“するのは、破滅への道のりのいつの段階なのか。
いまだに進化論を認める人が、ようやく人口の過半数に達したに過ぎないアメリカが、いかにフェイクニュースと陰謀論が入り込みやすい社会か、本当の破滅の瞬間まで、分断は続くのではないのかという危機感が伝わって来る。

一応終盤にフォローはあるが、アメリカ以外の国々がここまで何にもしないとかありえないとか、いくら金持ちでも半年で脱出手段を用意するのは無理とか、真面目に観ると突っ込みどころはいくらでもあるが、これはあくまでもブラックコメディで風刺劇
その辺は、マーベル映画みたいに、クレジット中と後にある二段階のオマケでシニカルなオチをつけるためと割り切っていいだろう。
バラエティ豊かなキャラクターの造形が、ちょっとやり過ぎの部分があったり、モデルケースが無いゆえに、風刺じゃなくなってしまっている部分があるのは気になるが、言いたいことはしっかり言い切った力作だ。
ランドールたちと大統領たち、はたして最後に幸せだったのはどちらなのだろう。

ユーモアたっぷりだが、ビターな物語には「ナイトメア・オブ・レッド」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、カンパリ30ml、パイナップル・ジュース30ml、オレンジ・ビターズ2dashを氷で満たしたグラスに注ぎ、ステアする。
ドライ・ジンの清涼感、パイナップル・ジュースの甘さと、カンパリとビターズの苦みが生み出すビタースウィートな後味。
ディテールは笑えるけど、内容は笑えない、この話にピッタリだ。

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ショートレビュー「The Hand of God・・・・・評価★★★★+0.7」
2021年12月23日 (木) | 編集 |
あゝ、郷愁のナポリよ。

1980年代、当時世界最高のサッカー選手だった、アルゼンチン代表のマラドーナ移籍の噂に揺れるイタリア南部の都市ナポリ。
街では、巨匠フェデリコ・フェリーニが、映画撮影の準備を進めている。
主人公は、フィリッポ・スコッティ演じる高校生のファビエット。
あまり社交的ではなく、親友や恋人もおらず、大学では哲学を専攻したいと思っているが、まだ何者かになった自分を想像できてはいない。
思春期の迷いの真っ只中にいる、ごく平凡な少年だ。
これは「グレート・ビューティー/追憶のローマ」などで知られる、ナポリ出身のパオロ・ソレンティーノ監督の自伝的な物語で、いわばソレンティーノ版「ROMA/ローマ」である。

映画は、ファビエットにとって、憧れのミューズである美しい叔母パトリツィアが、ナポリの守護聖人の聖ジェナーロを名乗る男と、この地方の伝説にある小さな僧の姿をした妖精、モナシエロと出会うという、シュールな描写から始まる。
出会った人にお金をくれるという伝説通り、モナシエロがパトリツィアにお金を渡し、ジェナーロは不妊に悩んでいる彼女に、これで妊娠できると話す。
しかしパトリツィアのバッグにお金が入っているのを見た夫は、彼女が売春したと怒り狂い、暴力を振るうのだ。

この冒頭部分が象徴する様に、本作は時に奇妙で超自然的、時にリアリスティックなシチュエーションが絡み合って進行する。
代々この街に暮らすファビエットの周りには、心を病んだパトリツィア以外にも、ちょっとエキセントリックな人々がたくさん。
俳優志望でオーディションに落ちてばかりの兄に、なぜかトイレに引きこもって出てこない姉。
両親の仲はいいが、父親には愛人がいる。
親戚のジェンティーレ夫人はナポリ一の意地悪で、その息子のジェッピーノは賄賂をもらって羽振りがいい。
上の階のマダムは、自称スーパープッシーの持ち主だ。

思春期の少年の憧れの歳上の女性への想いが、全体の軸となる物語の基本構造は、明らかにフェリーニへのオマージュ。
ファビエットとパトリツィアの関係は、1920年生まれのフェリーニが、自らの少年時代を描いた「フェリーニのアマルコルド」の主人公チッタとグラデスカによく似ている。
決して報われない恋に悶々としているある日、ファビエットの人生を、突然の悲劇が襲う。
平凡な日常を一瞬にして消し去るこの出来事も、実際にソレンティーノの身に起こった事実だそうだが、この時間接的に彼の命を救った者こそ、“神の手”マラドーナなのである。
そして、この事件によって抱えた心の傷と葛藤が、映画作家としての彼の長い道のりの始まりとなるのだ。

劇中で、ファビエットが後にソレンティーノの人生に決定的なチャンスをもたらす、アントニオ・カプアーノと出会うシーンがある。
このエピソード自体は事実かどうか分からないが、カプアーノはナポリを拠点に、舞台、映画、テレビで活躍していた人物で、1998年に監督した「Polvere di Napoli」の共同執筆を当時28歳だったソレンティーノに依頼。
これが彼の脚本家としてのデビュー作となる。
フェリーニはアイドルだが、実際の人生に直接影響を与えたのはカプアーノ。
二人の“師匠”へのリスペクトが溢れ、カプアーノとの会話を通して、ソレンティーノの映画監督としての核心がパワフルに表現されている。

もう一つ興味深いのが、ナポリ人のアイデンティティが物語の背景となっていること。
元々南部イタリアは、19世紀までナポリ王国という独立国だった。
統一後は産業化が進められた北部との経済格差、地域差別に苦しんだ感情が、フォークランド紛争で敗れたイングランド相手に、W杯で伝説の神の手ゴールを決めたおらが町のスター、マラドーナへの判官贔屓に繋がっている。
その神の手によって命を救われたファビエットにとって、マラドーナはまさに世界最強の守護聖人であり、モナシエロの祝福を受けるのも当然。
未来を見据える少年はそれまでの小さな世界を脱し、南でもなく北でもない、永遠の都ローマへと旅立ってゆく。
イタリア文化の粋が詰まった、素晴らしい仕上がりの青春映画だ。

南イタリアはワインどころ。
今回はナポリ近郊のワイナリー、モンテヴェトラーノの赤ワイン「コーレ アリアニコ」をチョイス。
イタリア名産の黒ぶどう、アリアニコ100%で作られた赤は、元々写真家だったシルヴィア・インパラートが、ワイン好きが高じて自分でも作り始めた結果だと言うから驚かされる。
ふくよかなフルボディで、果実味が濃厚。
イタリアワインらしく、CPも十分に高い。

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マトリックス レザレクションズ・・・・・評価額1550円
2021年12月18日 (土) | 編集 |
ラナ・ウォシャウスキーの「シン・マトリックス」

1999年から2003年にかけて、三部作が公開された「マトリックス」シリーズ、18年ぶりの第四作。
シリーズの生みの親である、ザ・ウォシャウスキーズ、今回は姉のラナ単独の作品だが、非常にユニークなことをやっている。
これは確かに、リメイクでも単純な続編でもない。
過去の三部作をアーカイブとしてストーリーに内包し、虚実が入り混じったある種のメタ構造とした上で、その上に新たな物語を構築しているのだ。
20年近く前に一度完結したシリーズを、全て観ていることが前提の作りで、良くも悪くも現在のハリウッド大作としては相当に異色。
バジェットは正式には発表されていないが、おそらく1億ドルから1億5000万ドル程度と、決して安くない額が見積もられていて、よくぞ企画が通ったものだ。
オリジナルシリーズから、キアヌ・リーブスとキャリー=アン・モスは続投しているが、モーフィアス役はローレンス・フィッシュバーンからヤーヤ・アブドゥル=マーティン2世に代替わり。
もっとも、正確には違うモーフィアスなんだけど。
※核心部分に触れています。

トーマス・A・アンダーソン(キアヌ・リーブス)は、サンフランシスコのゲーム会社、デウス・マキナ社に所属する世界的ゲームクリエイターで、かつて「マトリックス」三部作を大ヒットさせた経歴を持つ。
しかし、ゲームに没頭するうちに現実とゲームの世界が区別できなくなり、今ではセラピストから処方される青いピルに頼って精神状態を保っている。
ある日、CEOのスミス(ジョナサン・グロフ)から、親会社のワーナー・ブラザースの圧力で、「マトリックス4」を作らざるを得なくなったことを知らされる。
企画会議が続く中、カフェに出かけたトーマスは、そこでティファニー(キャリー=アン・モス)という女性を見かける。
彼女は、トーマスがマトリックの中で創造したトリニティーに似ていた。
職場に戻ると何者かからの爆破予告が届き、避難する人々でオフィスが混乱する中、トーマスのスマホに「トイレに向かえ」とメッセージが届く。
そこにいたのはモーフィアス(ヤーヤ・アブドゥル=マーティン2世)と名乗る男で、トーマスに「現実に旅立て」と赤いピルを差し出すのだった・・・・


ちょっと他に似たアプローチの映画は思いつかないが、あえて近い作品を考えると、やはり「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」だろう。
共に最初の作品が作られたのは90年代で、過去作品全てをアーカイブ化して取り込んでいるのも、聖書からの引用がやたらと多いのも共通。
そして何よりも、どちらの作品も作者の心象が色濃く反映されている。
第一作の「マトリックス」が公開された当時、ザ・ウォシャウスキーズはラリーとアンディのウォシャウスキー兄弟だった。
その後、二人とも性別適合手術を受けて、ラナとリリーのウォシャウスキー姉妹となるのだが、以前に妹のリリーはNetflixの番組で「マトリックスは、トランスジェンダーであることに関する、隠された寓話だ」と語っている。
肉体と心の性別が一致しなかった二人にとって、人間の心が抜け出せない仮想現実に閉じ込められていると言う設定は、自分たちの心と体の象徴だったのだろう。
同時にネオというキャラクターを登場させることで、マトリックスから現実を変革するストーリーは、カミングアウト出来ない性的マイノリティにとっての、希望を描いたものだった。

自らの傷付きやすい心をフィクションに投影したのも「エヴァンゲリオン」的であるが、結果的に庵野秀明とラナ・ウォシャウスキーが、2021年の最新作に込めた想いはだいぶ違ったものになった様に思える。
庵野秀明が、中断期間はあるとしても、25年間に渡ってずっと「エヴァ」を作り続けていたのに対し、「マトリックス レザレクションズ」は18年ぶりの新作である。
その間、ザ・ウォシャウスキーズは、監督として3本の長編映画を発表しているが、残念ながら大ヒットと言える作品は一つもなく、評価もアカデミー賞四部門で受賞した「マトリックス」一作目には及ばなない。
何を作っても「マトリックス」の人と言われ、彼女たちは自らが作り出した「マトリックス」と言う牢獄に、再び繋がれてしまったのだ。
忠実なファンに囲まれた「シン・エヴァンゲリオン」は、庵野秀明が自分自身の心に決着をつければいい話だったが、ラナ・ウォシャウスキーはそうではない。
彼女は、「マトリックス」にもう一度足を踏み入れ、物語を解体的に完結させなければならなかったのである。

ただ、過去作全てを内包する特殊な構造ゆえに、旧作を観てないとその魅力は半減する。
楽しめるかどうか以前に、たぶん何が何やら意味不明だろう。
旧三部作は「リローデッド」「レボリューションズ」と回を重ねる毎にプロットが混乱してゆき、広げすぎた風呂敷を畳めなくなってしまった。
最後には古代ギリシャ演劇の時代から用いられる、デウス・エクス・マキナ(機械仕掛けの神)を唐突に出現させ、いろいろな要素を曖昧にしたまま、強引に幕を閉じてしまった。
そこで新たに創造された「マトリックス レザレクションズ」では、シリーズの整合性をとるために、現実パートは旧三部作を継承しつつ、新たに作り直されたマトリックスから、物語を仕切り直さねばならなかった。
だから本来一作目でやった、主人公にとってこれが現実か虚構かと言う部分も、設定を捻ってあるぶん、さらにややこしくなってやり直し。
トーマスが、自分がネオであることを認めた後も、トリニティー救出という本作の本筋に入るまでが、やたらと長いのも気になる。
描写としては必要なんだけど、完全に旧作からのファン向けの作品になっているのは、吉と出るか凶と出るか。

アメリカ映画には、数年に一度くらいの割合で、それまでの常識を覆すようなアクション映画が出現するが、第一作の「マトリックス」はまさに未見性の塊だった。
本作ではメタ的なネタにされている、バレットタイムをはじめとしたアクションのアイディアは、それまで誰も見たことのないもので、新鮮な驚きに満ちていた。
本作では、さすがにあの時の様な衝撃は感じないが、見せ場のボリュームとしてはまずまず。
終盤のボットたちとの戦いは、「マトリックス」というよりも、「新感染半島 ファイナル・ステージ」などのゾンビ映画系のテイストだが、一作目をセルフオマージュしたクライマックスは、ネオもトリニティーも歳とってる分だけちょっと痛々しくて、泣けてしまった。
本作の印象を端的に言えば、とてもユニークなアプローチで攻めた作品だが、その結果として非常に歪な映画となっていて、ラナ・ウォシャウスキーが苦悩しながら作り上げた作家映画としては観応えがあるが、反面エンターテイメントしては突き抜けない。
旧三部作のファンには確実に一見の価値があるものの、全く一見さん向けではない。
確実に言えるのは、収集がつかなくなって無理やり終わらせた「レボリューションズ」に比べると、「救世主」とは結局誰のことだったのかを含めて、「ようやく完結した」という感覚はずっと強いということだ。
まあサブタイトルが、「レザレクションズ」と複数形の時点で想像はつくだろうが。

ちなみに本作を観ていて感じたのは、ザ・ウォシャウスキーズは本当は「マトリックス」をゲームで作りたかったのでは?ということだ。
リリーの言うように「マトリックス」がトランスジェンダーの葛藤を反映した世界だとすれば、プレイヤーが男でもアバターの性別が自由になるゲームの方が相応しいだろう。
実際企画段階では、そういうキャラクターもいたそうだし。
実は第一作が作られた頃はちょうどDVDの普及期で、DVD再生に対応したSONYのPlayStation2と「マトリックス」のDVDの発売時期が重なったことで、「マトリックス」がキラーコンテンツとなってPlayStation2がバカ売れした。
おそらくゲーム機のキラーコンテンツがゲームじゃなくて映画だったのは、後にも先にもこの時だけで、自分たちの映画が図らずもSONYを大儲けさせてることに、ラナは思うところがあったのかも知れない。

「マトリックス」と言えば、緑の文字の雨、そして相変わらずの日本かぶれなので、「照葉樹林」という日本生まれの緑のカクテルをチョイス。
グリーンティーリキュール45ml、ウーロン茶適量を氷を入れたタンブラーに注ぎ、軽くステアする。
お茶の文化圏でもある日本から東南アジアにかけて広がる照葉樹林。
グリーンティーリキュールの甘味を、お茶の風味が引き立て、アペリティフにちょうどいい。

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ラストナイト・イン・ソーホー・・・・・評価額1750円
2021年12月14日 (火) | 編集 |
その街には、恐ろしい記憶がある。

ファッションデザイナー志望のエリーがロンドンで見つけたのは、いわゆる訳ありの部屋
その部屋で眠ったエリーは、夢の中で60年代のソーホーに生きる、同世代の女性サンディの記憶を追体験する。
霊媒体質のエリーは、幽霊の記憶かも知れないと思いつつ、60年代のファッションや音楽に憧れていることもあって、華やかなソーホー生活を満喫。
しかし、やがて彼女はネオンの海に隠された、おぞましい事実を知ってしまう。
お洒落で禍々しく、ちょっと悪趣味で、めちゃめちゃ面白い。
エドガー・ライトは、またしても未見性たっぷりの、驚くべき傑作をものにした。
主人公のエロイーズ(エリー)を、「ジョジョ・ラビット」のユダヤ人少女役で注目されたトーマシン・マッケンジー、サンディをアニャ・テイラー=ジョイが演じる。
ダニエル・グレイク版「007」5部作の原型となった「女王陛下の007」で、シリーズ史上だだ一人、ボンドの正式な妻となるテレサを演じたダイアナ・リグが、キーパーソンとなるミズ・コリンズ役で出演し、これが遺作となった。
パク・チャヌク作品で知られる撮影監督のチョン・ジョンフンが、二つの時代のロンドンを活写し、素晴らしい仕事をしている。
※核心部分に触れています。

コーンウォール地方の片田舎、レッドルースに住むエロイーズ“エリー”・ターナー(トーマシン・マッケンジー)は霊媒体質で、7歳の頃に自殺した母の姿を今も見ている。
60年代の音楽とファッションをこよなく愛するエリーは、ロンドン・カレッジ・オブ・ファッションに進学するため上京し、学生寮に入るのだが、パリピだらけの環境に馴染めず、ミズ・コリンズ(ダイアナ・リグ)という年配の女性が所有する家の、屋根裏部屋を借りることにする。
レトロな雰囲気の部屋で眠りにつくと、夢の中でエリーは60年代のソーホーで、歌手を目指すサンディ(アニャ・レイラー=ジョイ)になっている。
エリーと同年代のサンディは、カフェ・ド・パリでジャック(マット・スミス)と名乗る優男と出会うと、彼の手引きでクラブのオーディションを受けて合格。
その未来は希望に満ちているように見えた。
毎日のように夢の中でサンディとなることで、強い影響を受けたエリーはサンディをイメージした服をデザインし、髪も彼女と同じ金髪に染めて、自分とサンディを同一視しはじめる。
しかし、夢の中のサンディは、次第に精気を失ってゆく。
黄金時代の華やかなソーホーは、ショービズ志望の若い女性たちが、男たちに搾取される場所でもあったのだ・・・


「ベイビー・ドライバー」で新境地に達し、一皮剥けたエドガー・ライト、今回もキレキレだ。
古き良き過去の時代への憧れは、たぶん世界中にある。
例えば、本作と似たタイトルの「ミッドナイト・イン・パリ」では、現在の主人公が理想の時代と考えている20年代のパリにタイムスリップしてしまうし、日本の「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズなどは、いわば映像で体験する美化された昭和のテーマパークだ。
しかしノスタルジーの裏側にある、不都合な事実にスポットライトは当たらない。
治安の悪さだったり、様々な差別、社会的な不平等など、現在から見たら考えられないレベルのネガティブな要素は、メディアの中では描写されず、忘れさられている。
多少の揺り戻しはあれど、民主主義を維持してきたほとんどの社会は、数十年、百年という長期的なスパンで見れば、ベターに変化してしている。
100年前には多くの国で女性参政権はなく、アメリカで人種間の平等を定めた公民権法が施行されたのは、たった半世紀前のことなのだ。
イギリスでも日本でも、もしも現在の若者が実際に半世紀前にタイムスリップしたら、そこで見るのは自分の常識が全く通用しない、とんでもないディストピアだろう。

本作の主人公のエリーも、亡き母が愛した60年代のファッションや音楽が大好き。
ロンドンで入居した訳ありの部屋で、サンディの記憶と夢の中でリンクしても、霊媒体質でもともと幽霊の存在が身近だったこともあって、気味悪がるどころか憧れの時代を満喫。
学校では60年代風のデザインを目指し、髪色をブロンドに染め、自分自身の風貌までサンディに似せてゆく。
しかし彼女は、まだ知らないのだ。
半世紀前の華やかなネオンの裏側で、ショービズでの成功を夢見た若い女性たちが、本当はどんな目にあっていたのか
才能と自信に満ち溢れていたサンディは、瞬く間にヒモ化したジャックによって性的に搾取されるようになる。
やがてエリーが、サンディの夢の墓場となったソーホーで、彼女の身に起こった恐ろしい事件を目撃すると、夢が現実を侵食し始める。

二つの世界は境界を失い、幽霊たちがエリーの日常に出没。
この状況に至って、彼女はサンディの迷える霊と自らの人生を救うために、彼女を殺した犯人を探し始めるのだが、ここで彼女が疑いの目を向ける謎の男を演じるのが、なんとテレンス・スタンプ!
フェデリコ・フェリーニが撮った、オムニバス映画「世にも奇妙な物語」の第三話「悪魔の首飾り」でスタンプが演じた、現実と幻想が混濁した世界に生きる俳優の役は素晴らしかったが、その彼が似たような状況に陥ったエリーを惑わせるキャラクターを演じるとは。
ちなみに劇中で「007 サンダーボール作戦」が封切られていることから、時代設定は1965年。
この年にスタンプが主演したのが、好きになった女性を拉致し、地下室に監禁する孤独な犯罪者を演じた傑作「コレクター」だった。
わかっていたけど、やっぱりエドガー・ライトは相当なオタクだな。

半世紀の時代の隔たりを、鏡を使った凝りに凝った演出と、極めて印象的に使われる「Downtown」をはじめ、作者拘りの選曲のポップミュージックが繋いでゆく。
本作において、音楽は基本的に登場人物の心象表現であり、同じ楽曲でも使われるシーンによって意味が異なって来るのも注目すべきポイントだ。
60年代という時代そのものがフィーチャーされ、恐怖のメタファーとなるのは、台湾映画の「返校 言葉が消えた日」を思わせるが、分かりやすく白色テロの恐怖の時代を舞台としたあの作品に対して、こちらは一見すると華やかな紳士の国の、仮面の下にある男たちの醜さが強調されているのが特徴だろう。

物語の展開は全く先を読ませないが、特筆すべきは過去がエリーの現在を侵食し始め、ある時点を境にしてガラッと物語の世界観が変化する過程だ。
今まで見ていた世界がひっくり返るのだが、その先にある感情は恐怖というよりも、残酷な運命に翻弄され、モンスターから身を守るため、別のモンスターとなってしまった者への共感と哀れみ。
彼女がモンスターへ変貌するプロセスは、おそらくカトリーヌ・ドヌーヴ主演の「反撥」(これも65年の作品!)にインスパイアされている。
ブロンドのキャラクターや、床や壁から幽霊が飛び出して来る描写はこの作品へのオマージュだろうが、監督がポランスキーなのが皮肉。
この部分の畳み掛けるような展開は、豊富な映画的記憶に裏打ちされたもので、“円熟”なんていうライトには似つかわしくない言葉を連想してしまった。
エリーが見たのは遠い過去に起こった悲しい物語だが、序盤のタクシー運転手のエピソードなど、#MeeTooの時代である現在への言及にも抜かりはない。
昔も今も、彼女たちは「望んでない」のだ。
お洒落こわいホラーとしても、時代を巡るミステリとしても一級品。
まん丸に目を見開いた、マッケンジーのサイコっぽさも雰囲気を高めている。

ところで、ジェームズ・ディアデン監督が1984年に発表した、「コールド・ルーム」という作品がある。
東ベルリンで暮らす父を訪ねた17歳の少女カーラの心が、戦争中に同じホテルの隠し部屋にユダヤ人青年を匿っていた同世代の女性クリスタの記憶とリンクしてしまう。
やがてカーラは急速にクリスタの影響を受けて、別人の様になってゆく、という物語。
アボリアッツ国際ファンタスティック映画祭で審査員特別賞を受賞し、第一回東京国際ファンタスティック映画祭でも上映された作品で、当時その界隈の映画ファンにはそれなりに話題になった。
設定の酷似っぷりを見ても、本作にも一定の影響を与えていそうだが、残念ながら80年代にビデオが出て以降、国内ではソフト化されておらず、本国でもblu-ray化はされてない模様。
私の記憶ではなかなかにムーディな佳作で、特にマイケル・ナイマンが手掛けた切なげなテーマ曲は今でも口ずさめる。
本作の源流の一つとしても、どこか再販してくれないだろうか。

今回はロンドン・カレッジ・オブ・ファッションのパリピ御用達「イエーガー・マイスター」をチョイス。
イエーガー・マイスターはドイツのリキュールで、甘めで香草の風味が強い。
香草は食欲を刺激するので、アペリティフとしてよく飲まれるそう。
パリピたちも遊びに繰り出す前にショットグラスで飲んでたから、まことに正しい。
しかしあのめっちゃ騒がしい寮は、私でも嫌だな。
幽霊が出ても、一人暮らしがいいや。

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ショートレビュー「悪なき殺人・・・・・評価額1650円」
2021年12月11日 (土) | 編集 |
これは偶然か、それとも黒魔術か。

フランスの高原地帯に位置するロゼール県で、吹雪の夜に一人の女性が失踪する。
映画はこの事件に関係する四人の人物を軸に展開するのだが、やがて舞台はフランスの片田舎から、遠くアフリカのコートジボワールまで広がってゆく。
2019の第32回東京国際映画祭コンペティション部門で、「動物だけが知っている」のタイトルで上映され、観客賞と最優秀女優賞(ナディア・テレスツィエンキービッツ)を受賞した作品だ。
コラン・ニエルの小説「Seules les bêtes」を映画化したのは、「ハリー、見知らぬ友人」でセザール賞監督賞に輝いたドミニク・モル。
ドゥニ・メノーシェやヴァレリア・ブルーニ・テデスキら、フランスを代表する名優が顔を揃える。
※以下ネタバレ注意。

これもまた、同じ物語が複数の視点から語られる、“羅生門ケース”の作品。
富豪の妻・エヴリーヌの失踪を起点に、前後が多少ズレた同じ時系列を、四章構成で描いてゆく。
最初は、高原に放置されたエヴリーヌの車を目撃するアリス
彼女は夫のミシェルと共に、農場を経営しているが、夫婦仲が上手くいっておらず、組合の仕事で接するうちに、山奥の農場に一人で暮らすジョセフと不倫関係陥る。
二番目は、ジョセフ
母を亡くして天涯孤独となった彼は、失踪事件の朝、自宅の敷地内に放置されたエヴリーヌの氷ついた遺体を発見する。
しかしジョセフは、彼女の遺体を隠し、次第に死に魅入られてゆくのである。
三番目は、エヴリーヌ自身だ。
バイセクシャルである彼女は、パリのレストランで働く若いマリオンと恋に落ちるが、彼女を残してロゼール県にある夫の家に戻る。
しかし、エヴリーヌを忘れられないマリオンは、彼女を追ってロゼールまでやって来るのだ。

ここまでの三章は、それぞれの主人公の名前を標題として、エヴリーヌの失踪の前後を描いているが、続く第四章でついに全体像が明らかになる。
舞台は地中海を越えて、アフリカ大陸のコートジボワールへ。
旧フランス植民地ゆえに、フランス語が公用語のこの国では、多くの若者たちが所謂“国際ロマンス詐欺”に手を染めている。
この国に暮らすアルマンという若者が狙いを定めるのが、アリスの夫ミシェル。
アルマンは“アマンディーヌ”なる架空の女性をでっち上るのだが、彼女のビジュアルとして使ったのが、たまたまSNSで見つけたマリオンの写真。
そして更なる偶然が、全く違う場所に住んでいたマリオンとミッシェルを引き合わせてしまったことから、事態が動き出す。

本作の作劇のポイントは、登場人物たちがお互いにどう事件と関わっているのか、知らないということ。
ある人物の思惑が別の人物を予想外に動かし、掛け違えたボタンはドンドンずれてゆく。
遂には、壮大な勘違いから、悲劇が起こってしまう。
詐欺で大儲けを企むアルマンは、怪しげなシャーマンに黒魔術を依頼するのだが、この悪者のくせに妙に賢者面したシャーマンがメンションするのが、“偶然”と”愛”という二つのキーワード。
物語はいくつもの“偶然”が重なって進行し、物語を推進する燃料となるのが、さまざまな形の“愛”というワケ。
しかし、偶然によって作られた都合の良い話は、さらなる偶然によって破られる。
そしてシャーマンによれば、「愛とは与えること」であると言う。
この映画の全ての登場人物は、愛の衝動に突き動かされているが、ほとんど誰もが愛を欲しがっていて、何の打算もなく見返りを求めない無償の愛を注がれているのは、ただ一人しかいない。
偶然が偶然を呼ぶまさに魔術的な物語の結末に、その人物は状況が好転し、その他の人たちは程度の差はあれ揃って酷い目に遭う。

これは人間の心を巡る優れたミステリで、シニカルなブラックコメディであり、鋭い風刺性を持つ寓話
凝りに凝ったロジックに頼った作劇のため、人物描写の深みには欠けるが、映画が始まった時には想像もできなかった地点へ着地する。
地球上の津々浦々までネットが浸透した現在では、実際にこんなこともありえそう?

今回は愛についての寓話でもあるので、“純粋な愛”を意味する「イノセント・ラブ 」をチョイス。
ミルク・リキュール20ml、ホワイト・ラム20ml、ピーチ・リキュール20ml、レモン・リキュール1tspを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
カルピスライクな純白なカクテル。
レモンの仄かな酸味と、ピーチの甘味をミルクがまとめ上げ、優しい味わいだ。

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ヴェノム:レット・ゼア・ビー・カーネイジ・・・・・評価額1600円
2021年12月07日 (火) | 編集 |
あ〜、ニンゲン食べたい。

スパイダーマンの最大のライバル、スーパーヴィランにして時々ヒーローの気まぐれキャラ、“ヴェノム”の活躍を描くシリーズ第二弾。
ひょんなことから、ヴェノムの細胞の一部が凶悪なシリアルキラーに寄生した結果、ヴェノムの最狂の分身“カーネイジ”が出現。
親であるヴェノムの抹殺を目論むカーネイジは、圧倒的な戦闘力で警察を蹂躙し、街を恐怖に陥れる。
ヴェノムの宿主となるエディ・ブロックにはトム・ハーディが続投し、カーネイジの宿主となるシリアルキラー、クレタス・キャサディをウッディ・ハレルソンが演じる。
前作のルーベン・フライシャーに代わってメガホンを取るのは、ゴラムとゴジラとキング・コングの中の人で、「猿の惑星」シリーズでは格調高く主人公のシーザーを演じ、史上最高のモーション・アクターの呼び声も高いアンディ・サーキス。
いわば得意ジャンルでの監督登板で、手堅い演出を見せる。
※核心部分に触れています。

サンフランシスコのジャーナリスト、エディ・ブロック(トム・ハーディ)は、宇宙から来た不定形生物シンビオートの“ヴェノム”に寄生され、シンビオートと人間を融合させようとしていたマッドサイエンティストを倒す。
その後、「人間を食べない」という条件で、ヴェノムの宿主になることを受け入れるが、宇宙人と体を共有するのは大変。
共生に苦労していたある日、死刑執行を控えた凶暴なシリアルキラー、クレタス・キャサディ(ウッディ・ハレルソン)を取材し、手を噛まれてしまう。
するとキャサディに取り込まれたヴェノムの細胞が、死刑執行用の薬剤と反応し、新たなシンビオート、“カーネイジ”が出現する。
カーネイジの宿主となったキャサディは、虐殺の限りを尽くして脱獄すると、超音波能力をもつ恋人フランシス・バリソン(ナオミ・ハリス)を、監禁されていたレイヴンクロフト刑務所から救出。
次にカーネイジが抹殺しようとしているのは、“親”であるヴェノムだった・・・


これはとてもおバカで、とても楽しい。
本家のマーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の作品が軒並み2時間超えになって、クロエ・ジャオに至っては「エターナルズ」を2時間35分の大長編に仕立てる中、これは1時間37分。
長いエンドクレジットとオマケを除けば、実質1時間20分ちょいしかない!
テレビ放送する時も、2時間枠で全然カットする必要がないばかりか、下手すりゃ時間が余ってしまう。
B級感覚のプログラムピクチュアは、やっぱこうでなくちゃ。

話もむっちゃ単純だ。
ウッディ・ハレルソン演じるいかれたシリアルキラーが、取材に来たエディ・ブロックに噛み付いてシンビオート細胞に感染。
死刑執行に使われる薬物が触媒になって覚醒しちゃい、”カーネイジ(大虐殺)”などという恐ろしげな名を名乗り、親殺しの儀式のためにパパヴェノムを殺しにくる
あとは宇宙モンスター同士で戦うだけ、という潔さ。
アンディ・サーキス監督は、さすがこの手のCGコスチューム・プレイのツボを知ってる。
カーネイジVS警察、VSヴェノムのアクションシークエンスは迫力満点だが、何気にコメディとして観ても笑える。
前作も監督が「ゾンビランド」のルーベン・フライシャーだったし、結構小ネタのギャグを盛り込んでいたが、今回はブロックとヴェノムの関係がこなれてきている分、二人羽織漫才の描写がいちいち可笑しい。

本来人間を捕食する種族なのに、「人間は(悪人以外)食べない」と約束させられ、代わりにチョコレートやらチキンやら食わせられて最初からキレ気味。
ついにはど突き合いの大喧嘩(もっぱらど突かれているのはブロックだけど)をして、宇宙人家出(笑
シンビオートの宿主になれる人間は限られていることから、次から次へくっ付く人間を変えて、夜の街を満喫するあたりは完全にコメディモードだ。
しかし、なんだかんだ言いつつ、仲よく共生する一人と一匹は、ますます「寄生獣」の新一とミギーぽくなった。
特に無数の触手的な“手”を生やして、ヴェノムを圧倒するカーネイジとの戦いは、複数の寄生獣が合体したラスボス後藤戦を思わせる。
シンクロ率の高いブロックとヴェノムが、肉体的には圧倒的されながら、エゴが強過ぎてシンクロし切れないキャサディとカーネイジの隙をつくのも、バディものの王道展開。

もともとダメ人間のエディと、人間に寄生しないと生きられないヴェノムという、半端者同士がくっ付いて、やっと一人前という情けなさがベースにある話。
殺人鬼で死刑囚のキャサディと、ヴェノムのコピーに過ぎないカーネイジが、元の二人の関係のネガティブ強化版なのも分かりやすい。
ダメ人間とワガママなペットvs更なるダメ人間ともっとワガママなペットという、究極のダメダメ対決なのも、マーベルでは傍流のスパイダーマン系だからこそだろう。
エンドクレジットを見て驚いたが、これトム・ハーディがストーリーも書いてるんだな。
確かに一人と一匹のキャラクターに対する愛は、とても強く伝わってくる。
ホントにシンビオート飼ってんじゃないの(笑

それにしても、本作のエンディングは何気に情報量がむっちゃ多い。
まずクレジットタイトルの前に、瀕死の状態のパトリック・マリガン刑事が、「monster・・・」と呟くと共に目が青く光っている描写がある。
マリガンは原作シリーズの中で、もう一人のシンビオート”トキシン“となるキャラクターなので、その布石かもしれないが、ブロックやキャサディはシンビオートに寄生されても目は光っていなかったので別の何かなのかも?

そしてミドルクレジットで、ヴェノムがブロックにシンビオートの“800億光年の宇宙の集合意識”を見せようとすると、安ホテルの部屋が突然おしゃれなリゾートとなり、テレビの番組がメロドラマからニュース番組に変わっている。
ここに映し出されるのが、「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」のラストで、スパイダーマンの正体がピーター・パーカーだと暴いたJ・ジョナ・ジェイムソンなのだ。
ヴェノムの世界ではスパイダーマンが存在することは示唆されているが、指パッチンが一切話題に上がらないことからも、アベンジャーズはいない。
つまり別のユニバースでのお話
突然世界が変わる=おそらく「ノー・ウェイ・ホーム」の予告でやっていた、ドクター・ストレンジによるマルチバースの融合の結果、ヴェノムがトム・ホランド版スパイダーマンがいる世界、マーベル・シネマティック・ユニバースに移動してきたと考えていいだろう。
するといよいよ「ノー・ウェイ・ホーム」にサプライズキャラクターとして、ヴェノムが参戦するのか、それともトム・ホランド主演でアナウンスされた新三部作に登場するのか、いろいろ楽しみが尽きない。
まあヴェノムの単体シリーズも続くのだろうけど、このいい意味での軽さとB級感覚はキープして欲しいなあ。

今回は黒いヴェノムと赤いカーネイジの話だったので、照明次第で黒っぽくも赤っぽくも見えるカクテル「キール・ロワイヤル」をチョイス。
フルート型のシャンパングラスに、冷やしたシャンパンまたはスパークリング・ワイン100mlを注ぎ、クレーム・ド・カシス25mlを加えて軽くステアする。
薄暗い照明のバーなどで見ると、グラスの上の方は赤っぽく、下の方は黒っぽくグラデーションがかかって見える。
辛口のシャンパンと、クレーム・ド・カシスの果実味と甘味が程よくバランスし、スッキリとした味わいのカクテルだ。

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ショートレビュー「ミラベルと魔法だらけの家・・・・・評価額1600円」
2021年12月02日 (木) | 編集 |
魔法って、本当に必要?

ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオの、記念すべき60本目の長編作品。
舞台は南米コロンビアの山奥、奇跡によって守られた秘密郷、スペイン語で「魅力」を意味するエンカントと名付けられた村。
映画の年代は明示されていないが、村を作ったのはコロンビアで“暴力の時代”と言われる1940年代から50年代頃に、難民としてやってきた人々の様だから90年代くらいか。
この村の近くで、暴力から逃れてきたマドリガル家の祖父が追手に殺された時、奇跡によって魔法の蝋燭が灯され、外界から隠された秘密郷が生まれた。
マドリガル家は生きている魔法の家に住み、代々家からの”ギフト“として、一人一つの魔法を受け取り、その力によって村を守護している。
そんな村のヒーロー一家で、唯一魔法がもらえなかった15歳の少女ミラベルが、“魔法を使えない意味”を見出すまでの物語だ。

近年のディズニー作品では、最もミュージカルの比重が高い。
そして最もこぢんまりとした、小さな映画だ。
物語が展開するのは、ほとんどがミラベルの家の中。
もっとも魔法の家だから、見た目とは違って部屋の中にジャングルや岩山があったり、結構ロケーションのバラエティには富んでいるけど。
ミラベルは、モアナやラーヤと違って世界を救わないし、本作の共同監督のバイロン・ハワードの前作「ズートピア」ほどの、風刺と社会性も無い。
基本的には魔法を持ったがゆえに、歪んでしまった大家族の再生劇で、物語はマドリガル家が守護している秘密郷の村の外へは広がらない。

大いなる力には、大いなる責任が伴う。
村で唯一魔法を持つマドリガル家のメンバーは、人知れずプレッシャーに晒されていて、それぞれの本音を隠している。
怪力の魔法を授けられたミラベルの姉ルイーザは、実はすごく小心者で心配性。
でも村人には頼りにされているので、そんなそぶりは見せられない。
美しい花を咲かせる魔法を持つもう一人の姉イザベラは、美人で内面も完璧だと思われていて、モテモテ。
しかし内心ではトゲのあるサボテンを咲かせたい、ロックなキャラクターを隠している。
家族は、最初に奇跡を授かったミラベルの祖母によって、ノブレス・オブリージュの理想に雁字搦めにされているのだ。

心に秘めたものを素直に出しましょうというのは、「アナと雪の女王」以来、ディズニーアニメーションのスタンダードだが、このスタンスで家族丸ごとを描いた作品。
家族で唯一魔法を得られず、孤独に苛まれているミラベルこそが、一家を呪縛から解き放つ役割という訳。
音楽を担当するのは「モアナと伝説の海」でディズニー初見参し、「tick, tick... BOOM!: チック、チック…ブーン!」では監督業に進出したリン=マニュエル・ミランダ。
今回もミラベルはじめ、家族それぞれの葛藤がミュージカルナンバーとして表現されて、ラテンのビートが効きまくった、素晴らしい楽曲を聴かせてくれる。
物語のスケールは小さいが、ミュージカル映画としての充実度は極めて高い。
しかし、「ついに白馬のプリンスだけじゃなく、魔法も必要ない!というところに着地するのか、ディズニー攻めてる!」と思ったら、やっぱその辺は要るかもね、という中途半端な結論になったのは、ちょっと腰砕け感があった。
アレだと、ちょっとは本音出せる様になったけど、ノブレス・オブリージュに縛られたままだし、全体の関係性は変わってなくね?

同時上映の「Far from the Tree」は、好き勝手に動き回る子供を心配するアライグマの親心を描き、“親の心子知らず”という諺をまんま表現した様な話。
手描きアニメーション技術を保存するための作品という色彩が強いが、親の過剰な期待と心配が、実は子供を縛ることになってしまっているという構造は、「ミラベルと魔法だらけの家」と共通。
長編と短編で、テーマを合わせているのは面白い。

今回はコロンビアを代表する蒸留所の一つから、「ディクタドール ラム 12年」をチョイス。
コロンビアは蒸留酒大国で、ラムやジンのほか、これまたサトウキビで作られるアグアルディエンという酒が全国的に作られている。
ディクタドール の12年は、元々のカラメルのような甘みに、オーク樽熟成によって独特の苦味が加わって、コクのある複雑な後味が楽しめる。

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