2022年02月27日 (日) | 編集 |
愛は純粋にして不条理。
1897年にパリのポルト・サン・マルタン劇場で初演を迎えて以来、一世紀以上にわたって愛され、世界中で舞台化や映像化された名作戯曲「シラノ・ド・ベルジュナック」を、英国の異才ジョー・ライトが映画化した作品。
本作はオリジナルの戯曲そのままではなく、エリカ・シュミットによって2019年にミュージカル化された舞台をベースとしている。
主人公の騎士にして詩人シラノを、「スリー・ビルボード」などで知られる名バイプレイヤーのピーター・ディンクレイジが演じ、彼の恋敵であり同盟者となるクリスチャンにケルビン・ハリソン・Jr. 、二人から愛を捧げられるロクサーヌを「Swallow/スワロウ」が記憶に新しいヘイリー・ベネットが演じる。
ジョー・ライトらしい外連味は影を潜めているが、適度に現代的になったシラノは、魅力的なミュージカルナンバーと共に、聴きごたえも十分。
そして、後述するある理由によって、図らずも強烈な時事性をも獲得することになった。
パリ、17世紀。
新兵のクリスチャン(ケルビン・ハリソン・Jr.)は、馬車で観劇にやって来たロクサーヌ(ヘイリー・ベネット)の姿を見て一目惚れ。
劇場ではロクサーヌの幼なじみで小人症の騎士シラノ(ピーター・ディンクレイジ)を、貴族のバルバート(ジョシュア・ジェームズ)が侮辱し、決闘になる。
シラノはバルバートを倒すが、ロクサーヌに結婚を迫っている有力者のド・ギーシュ(ベン・メンデルスゾーン)の不興を買い、彼の部下に暗殺されそうになるも返り討ちに。
翌日、シラノはロクサーヌに愛を告白しようとして、ロクサーヌから劇場で見かけたクリスチャンに恋していると打ち明けられ、ショックを受ける。
シラノと同じ連隊に配属されたクリスチャンは、ロクサーヌに手紙を書こうとするも文才がなく、優れた詩人でもあるシラノに助言を求め、結局丸ごと代筆してもらう。
クリスチャンの名で、ロクサーヌに愛の言葉を届けることに複雑な想いを抱えていたシラノだが、ある日クリスチャンが直接彼女と話をすると言い出す・・・・・
17世紀のフランスに実在した人物、シラノ・ド・ベルジュナックをモデルにした、エドモン・ロスタンの同名戯曲の主人公のトレードマークといえば巨大な鼻である。
博学で語彙力豊かな詩人にして稀代の剣豪、正義漢で軍での信頼も厚い、オールマイティなパーフェクトヒューマン、しかし容姿だけがコンプレックスで、愛しのロクサーヌに告白出来ない。
悶々としている間に、ロクサーヌはハンサムだがちょっとおバカなクリスチャンに一目惚れし、シラノはクリスチャンの手紙を代筆する羽目になる。
この特異なキャラクターは、舞台だけでなく多くの映画でも歴代の名優たちに演じられてきた。
ホセ・ファーラーにアカデミー主演男優賞をもたらした1950年のマイケル・ゴードン版、ジェラール・ドバルデューが主演した1990年のジャン=ポール・ラプノー版、中には現在を舞台としたスティーブ・マーティン主演の「愛しのロクサーヌ」や、日本で翻案した三船敏郎主演の「或る剣豪の生涯」なんて作品もある。
これらの全てで、シラノの特徴的な鼻の設定は踏襲されていた。
ところが、本作のシラノは鼻がデカいのではなく小人症で、ロクサーヌと不思議な三角関係となるクリスチャンはアフリカ系。
ずいぶん振り切った脚色だなと思ったが、意外にも物語の展開はロスタンの戯曲に忠実。
本作はエリカ・シュミットによる舞台ミュージカル版を原作としていて、彼女が映画の脚本も手がけている。
そして、シュミットの夫は、本作シラノを演じるピーター・ディンクレイジなのだ。
ディンクレイジは舞台版の主演も務めていたため、脚本は彼のシラノを前提に当て書きされている。
確かに肉体的コンプレックスを持たせるなら、別に鼻でなくても良いわけだ。
むしろ単にデカい鼻を付けていた過去の作品よりも、「私は愛される価値がない」という絶望がより切実に伝わってくる。
リーチが短いから、剣豪設定は無理では?と思ったが、この辺は演出で上手く見せている。
現実のディンクレイジとシュミットの写真を見ていると、まさに本作のシラノとロクサーヌそのもので、悲劇的な映画と幸福な現実が別の世界線に見えてくる。
ちなみに、監督のジョー・ライトとロクサーヌ役のヘイリー・ベネットも、私生活のパートナー同士で、現実ではリア充な作り手たちが、愛の不条理を描いているのも皮肉っぽくて面白い。
クリスチャン(と彼の上官の士官も)がアフリカ系なのは、さすがに17世紀のパリにアフリカ系の士官がいたとは思えないが、ミュージカルという非日常性のクッションがあるゆえ、あまり気にならない。
ジョー・ライトの作品で舞台絡みと言えば、「アンナ・カレーニナ」が印象深い。
原作は広く知られたトルストイの古典小説だが、ライトはサンクトペテルブルグとモスクワの貴族社会に生きる登場人物たちを、物語ごと“劇場”に閉じ込めるという奇策に出た。
なぜ劇場なのかと言えば、当時のロシア貴族はフランスかぶれで、フランス語を話し、フランス風の生活をし、まるで人生を演じているようだったから。
主人公のアンナにとっては、世界は丸ごと劇場だったのである。
歌わないミュージカルのような「アンナ・カレーニナ」は外連味たっぷりだったが、本作は舞台のムードを残しながらもさほどトリッキーなことはして来ない。
だが、テリングは実に映画的だ。
シラノと言えばウィットに富んだ比喩の達人だが、ライトは比喩のモンタージュで魅せる。
例えば愛の官能をパンを焼くプロセスに見立てるシーンや、シラノがド・ギーシュへの怒りを語るのと、クリスチャンの大立ち回りを並行で描くシーンなどは見事で、「ウェスト・サイド・ストーリー」とは別の意味で、舞台版をリスペクトしつつも映画ならではの作品となっている。
スピルバーグのように、カメラが縦横無尽に動き回るスペクタクルな演出はないが、パンフォーカスがあったり、被写界深度を生かしたショットがあったり、画面構成は象徴的で美しい。
ディンクレイジをはじめとする俳優陣も素晴らしい歌声を聞かせてくれて、ここでは音楽も映像もミュージカル表現の一部なのである。
しかし、この作品が強いインパクトを持って、人々の前に現れた理由は他にある。
本作の公開は、多くの国で2022年2月25日。
この前日に、ロシアがウクライナへの侵略を開始し、第二次世界大戦以降のヨーロッパで、最大規模の戦争が始まってしまった。
「シラノ」は情熱的なロマンスを描く作品であるのと同時に、戦争で人生を無茶苦茶にされ、愛する者を奪われる物語でもある。
シラノとクリスチャンの連隊が無謀な突撃に従事させられ、次々と兵士たちが倒れてゆく描写などは、映像的にもリアリスティックなため、どうしても現実の戦場を連想させる。
自分の復讐のために、他人を死地に追いやるド・ギーシュ がプーチンに見えたのは私だけではあるまい。
愛という感情の尊さが、人間を動かす最大の力であるのは普遍。
戦争が愛の対極にある、人間の最大の悪であるいうのも普遍。
神の意志か偶然の悪戯か、現実の戦争とほぼ同時に公開されたことによって、本作は本来意図していなかった強い時事性をも獲得してしまった。
これもまた、時代に呼ばれた作品なのかも知れない。
ところで、バルコニーのシーンは「ウエスト・サイド・ストーリー」とそっくり。
このシーンはどちらの原作にも元からあるし、「ロミオとジュリエット」にもあるから、ロスタンがシェイクスピアの影響を受けたのか。
まあバルコニーって、舞台で生かしやすいシチュエーションではあるけど。
今回は、平和への祈りを込めて「グリーン・ピース」をチョイス。
メロン・リキュール30ml、ブルー・キュラソー20ml、パイナップル・ジュース15ml、レモンジュース1tsp、生クリーム15mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
ターコイズを思わせる美しい青緑。
生クリームが全体をまとめ上げて、優しい口当たりの甘口のカクテルだ。
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1897年にパリのポルト・サン・マルタン劇場で初演を迎えて以来、一世紀以上にわたって愛され、世界中で舞台化や映像化された名作戯曲「シラノ・ド・ベルジュナック」を、英国の異才ジョー・ライトが映画化した作品。
本作はオリジナルの戯曲そのままではなく、エリカ・シュミットによって2019年にミュージカル化された舞台をベースとしている。
主人公の騎士にして詩人シラノを、「スリー・ビルボード」などで知られる名バイプレイヤーのピーター・ディンクレイジが演じ、彼の恋敵であり同盟者となるクリスチャンにケルビン・ハリソン・Jr. 、二人から愛を捧げられるロクサーヌを「Swallow/スワロウ」が記憶に新しいヘイリー・ベネットが演じる。
ジョー・ライトらしい外連味は影を潜めているが、適度に現代的になったシラノは、魅力的なミュージカルナンバーと共に、聴きごたえも十分。
そして、後述するある理由によって、図らずも強烈な時事性をも獲得することになった。
パリ、17世紀。
新兵のクリスチャン(ケルビン・ハリソン・Jr.)は、馬車で観劇にやって来たロクサーヌ(ヘイリー・ベネット)の姿を見て一目惚れ。
劇場ではロクサーヌの幼なじみで小人症の騎士シラノ(ピーター・ディンクレイジ)を、貴族のバルバート(ジョシュア・ジェームズ)が侮辱し、決闘になる。
シラノはバルバートを倒すが、ロクサーヌに結婚を迫っている有力者のド・ギーシュ(ベン・メンデルスゾーン)の不興を買い、彼の部下に暗殺されそうになるも返り討ちに。
翌日、シラノはロクサーヌに愛を告白しようとして、ロクサーヌから劇場で見かけたクリスチャンに恋していると打ち明けられ、ショックを受ける。
シラノと同じ連隊に配属されたクリスチャンは、ロクサーヌに手紙を書こうとするも文才がなく、優れた詩人でもあるシラノに助言を求め、結局丸ごと代筆してもらう。
クリスチャンの名で、ロクサーヌに愛の言葉を届けることに複雑な想いを抱えていたシラノだが、ある日クリスチャンが直接彼女と話をすると言い出す・・・・・
17世紀のフランスに実在した人物、シラノ・ド・ベルジュナックをモデルにした、エドモン・ロスタンの同名戯曲の主人公のトレードマークといえば巨大な鼻である。
博学で語彙力豊かな詩人にして稀代の剣豪、正義漢で軍での信頼も厚い、オールマイティなパーフェクトヒューマン、しかし容姿だけがコンプレックスで、愛しのロクサーヌに告白出来ない。
悶々としている間に、ロクサーヌはハンサムだがちょっとおバカなクリスチャンに一目惚れし、シラノはクリスチャンの手紙を代筆する羽目になる。
この特異なキャラクターは、舞台だけでなく多くの映画でも歴代の名優たちに演じられてきた。
ホセ・ファーラーにアカデミー主演男優賞をもたらした1950年のマイケル・ゴードン版、ジェラール・ドバルデューが主演した1990年のジャン=ポール・ラプノー版、中には現在を舞台としたスティーブ・マーティン主演の「愛しのロクサーヌ」や、日本で翻案した三船敏郎主演の「或る剣豪の生涯」なんて作品もある。
これらの全てで、シラノの特徴的な鼻の設定は踏襲されていた。
ところが、本作のシラノは鼻がデカいのではなく小人症で、ロクサーヌと不思議な三角関係となるクリスチャンはアフリカ系。
ずいぶん振り切った脚色だなと思ったが、意外にも物語の展開はロスタンの戯曲に忠実。
本作はエリカ・シュミットによる舞台ミュージカル版を原作としていて、彼女が映画の脚本も手がけている。
そして、シュミットの夫は、本作シラノを演じるピーター・ディンクレイジなのだ。
ディンクレイジは舞台版の主演も務めていたため、脚本は彼のシラノを前提に当て書きされている。
確かに肉体的コンプレックスを持たせるなら、別に鼻でなくても良いわけだ。
むしろ単にデカい鼻を付けていた過去の作品よりも、「私は愛される価値がない」という絶望がより切実に伝わってくる。
リーチが短いから、剣豪設定は無理では?と思ったが、この辺は演出で上手く見せている。
現実のディンクレイジとシュミットの写真を見ていると、まさに本作のシラノとロクサーヌそのもので、悲劇的な映画と幸福な現実が別の世界線に見えてくる。
ちなみに、監督のジョー・ライトとロクサーヌ役のヘイリー・ベネットも、私生活のパートナー同士で、現実ではリア充な作り手たちが、愛の不条理を描いているのも皮肉っぽくて面白い。
クリスチャン(と彼の上官の士官も)がアフリカ系なのは、さすがに17世紀のパリにアフリカ系の士官がいたとは思えないが、ミュージカルという非日常性のクッションがあるゆえ、あまり気にならない。
ジョー・ライトの作品で舞台絡みと言えば、「アンナ・カレーニナ」が印象深い。
原作は広く知られたトルストイの古典小説だが、ライトはサンクトペテルブルグとモスクワの貴族社会に生きる登場人物たちを、物語ごと“劇場”に閉じ込めるという奇策に出た。
なぜ劇場なのかと言えば、当時のロシア貴族はフランスかぶれで、フランス語を話し、フランス風の生活をし、まるで人生を演じているようだったから。
主人公のアンナにとっては、世界は丸ごと劇場だったのである。
歌わないミュージカルのような「アンナ・カレーニナ」は外連味たっぷりだったが、本作は舞台のムードを残しながらもさほどトリッキーなことはして来ない。
だが、テリングは実に映画的だ。
シラノと言えばウィットに富んだ比喩の達人だが、ライトは比喩のモンタージュで魅せる。
例えば愛の官能をパンを焼くプロセスに見立てるシーンや、シラノがド・ギーシュへの怒りを語るのと、クリスチャンの大立ち回りを並行で描くシーンなどは見事で、「ウェスト・サイド・ストーリー」とは別の意味で、舞台版をリスペクトしつつも映画ならではの作品となっている。
スピルバーグのように、カメラが縦横無尽に動き回るスペクタクルな演出はないが、パンフォーカスがあったり、被写界深度を生かしたショットがあったり、画面構成は象徴的で美しい。
ディンクレイジをはじめとする俳優陣も素晴らしい歌声を聞かせてくれて、ここでは音楽も映像もミュージカル表現の一部なのである。
しかし、この作品が強いインパクトを持って、人々の前に現れた理由は他にある。
本作の公開は、多くの国で2022年2月25日。
この前日に、ロシアがウクライナへの侵略を開始し、第二次世界大戦以降のヨーロッパで、最大規模の戦争が始まってしまった。
「シラノ」は情熱的なロマンスを描く作品であるのと同時に、戦争で人生を無茶苦茶にされ、愛する者を奪われる物語でもある。
シラノとクリスチャンの連隊が無謀な突撃に従事させられ、次々と兵士たちが倒れてゆく描写などは、映像的にもリアリスティックなため、どうしても現実の戦場を連想させる。
自分の復讐のために、他人を死地に追いやるド・ギーシュ がプーチンに見えたのは私だけではあるまい。
愛という感情の尊さが、人間を動かす最大の力であるのは普遍。
戦争が愛の対極にある、人間の最大の悪であるいうのも普遍。
神の意志か偶然の悪戯か、現実の戦争とほぼ同時に公開されたことによって、本作は本来意図していなかった強い時事性をも獲得してしまった。
これもまた、時代に呼ばれた作品なのかも知れない。
ところで、バルコニーのシーンは「ウエスト・サイド・ストーリー」とそっくり。
このシーンはどちらの原作にも元からあるし、「ロミオとジュリエット」にもあるから、ロスタンがシェイクスピアの影響を受けたのか。
まあバルコニーって、舞台で生かしやすいシチュエーションではあるけど。
今回は、平和への祈りを込めて「グリーン・ピース」をチョイス。
メロン・リキュール30ml、ブルー・キュラソー20ml、パイナップル・ジュース15ml、レモンジュース1tsp、生クリーム15mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
ターコイズを思わせる美しい青緑。
生クリームが全体をまとめ上げて、優しい口当たりの甘口のカクテルだ。

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2022年02月20日 (日) | 編集 |
ちょっと、思い出しちゃった日々。
タクシー運転手の伊藤沙莉と舞台の照明スタッフとして働く池松壮亮の、恋の終わりから始まりまでを描く青春ストーリー。
コロナ禍の2021年7月26日を起点に、二人の人生の過去6年間を、一年一日縛りで遡ってゆく。
なるほど、コレは「ナイト・オン・ザ・プラネット」ミーツ「ワン・デイ 23年のラブストーリー」だな。
もともとクリープハイブの尾崎世界観が、ジャームッシュの映画から着想を得て、本作の主題歌にもなっている「ナイトオンザプラネット」を制作。
次に松井大吾監督が、この歌からイメージを広げて映画にしたという。
伊藤沙莉演じる葉と、池松壮亮の照生は、映画の冒頭時点でもう付き合ってない。
7月26日は照生の誕生日で、二人にとっての様々なイベントがあった記念日なのだ。
2021年のこの日、「トイレに行きたい」という客の要望で、葉はある劇場の前でタクシーを停車し、自分もよく知る場内へと足を踏み入れる。
そしてそこで、誰もいないステージで踊る照生を見る。
既に別れた今、偶然起こったこの出来事によって、彼女の中の記憶が触発されてゆく。
物語の中で、特に何か大きな事件が起こる訳ではない。
関係が微妙で将来を見渡せない時期、翌年のプロポーズを予言したラブラブの絶頂期、友情が恋愛に変わった付き合い始め、舞台の出演者と客として出会った馴れ初めなど、カレンダーの7月26日が少しずつまくられてゆく。
6年の間に、ダンサーだった照生は足の怪我で裏方に転向し、このことが二人の関係に少なからず影響したことも示唆される。
「ナイト・オン・ザ・プラネット」は、世界の5つの都市のタクシー運転手を主人公としたオムニバスだが、本作に引用されているのは最初のロサンゼルス編。
ここではウイノナ・ライダー演じるタクシー運転手が、映画のキャスティング・ディレクターをしているジーナ・ローランズを乗せ、なぜか映画に出演しないかと誘われる。
しかし整備士になる夢を持つライダーは、映画スターになるチャンスを断ってしまう。
偶然の出会いと人生の岐路、そして別れを描いたこのエピソードが、一晩を6年に引き伸ばした上で、本作のベースになっているのだ。
関係が一晩になるのか、6年になるのか、それとも一生になるのかは神のみぞ知るだが、人生の物語は一期一会の繰り返しで出来てる。
一つの恋が行き詰まって終わることで、また新しい恋が生まれる。
「今」から振り返れば、美しい思い出も全ては過ぎ去った過去で、偶然の邂逅がきっかけとなって「ちょっと思い出しただけ」という訳。
主役の二人が抜群によくて、誰もが記憶にもある、青春のビタースイートな思い出に重ね合わせて楽しめるだろう。
松井監督は「花束みたいな恋をした」に似てることを気にしてるようだが、過去の恋愛を思い出す話という共通点はあるものの、さほど連想することはなかった。
ただ現在から過去に遡るという設定を知らずに観たので、序盤ちょっと混乱した。
レトロな電動式カレンダーが、時間経過を表すのに使われているのだが、月日と曜日しか表示されないので、前に進んでるんだか遡ってるのだか分からない。
葉の車が新型のジャパンタクシーから旧型のクラウンに変わったところで、やっと構造を理解した。
近くの席にいたカップルのお客さんは、最後まで混乱してたみたいで、「どこが何年なのか分からなかった。分かった?」と聞き合っていた。
言葉によらない映画文法に慣れている人には、画面に映るものや展開で何となく理解できちゃうんだけど、せめて年は表示すべきじゃなかったか。
永瀬正敏のキャラクターが、象徴的な装置にしかなってないとか、首都圏の住人にとっては地理関係が不自然に感じるなど、いくつか気になる部分はあるが、ありがちなほど普遍性の強い題材を、トリッキーなテリングで未見性のある作品に昇華したのはお見事だ。
今回はカクテルの「ビタースイート」をチョイス。
ドライ・ベルモット25mlとスイート・ベルモット25ml、オレンジ・ビターズ1dash、アンゴスチュラ・ビターズ1dashを、氷を入れたミキシンググラスで軽くステアし、グラスに注ぐ。
最後にオレンジピールを一片入れて完成。
仄かなオレンジ色が美しく、名前の通りちょっと痛くて甘酸っぱい、青春の思い出の味。
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タクシー運転手の伊藤沙莉と舞台の照明スタッフとして働く池松壮亮の、恋の終わりから始まりまでを描く青春ストーリー。
コロナ禍の2021年7月26日を起点に、二人の人生の過去6年間を、一年一日縛りで遡ってゆく。
なるほど、コレは「ナイト・オン・ザ・プラネット」ミーツ「ワン・デイ 23年のラブストーリー」だな。
もともとクリープハイブの尾崎世界観が、ジャームッシュの映画から着想を得て、本作の主題歌にもなっている「ナイトオンザプラネット」を制作。
次に松井大吾監督が、この歌からイメージを広げて映画にしたという。
伊藤沙莉演じる葉と、池松壮亮の照生は、映画の冒頭時点でもう付き合ってない。
7月26日は照生の誕生日で、二人にとっての様々なイベントがあった記念日なのだ。
2021年のこの日、「トイレに行きたい」という客の要望で、葉はある劇場の前でタクシーを停車し、自分もよく知る場内へと足を踏み入れる。
そしてそこで、誰もいないステージで踊る照生を見る。
既に別れた今、偶然起こったこの出来事によって、彼女の中の記憶が触発されてゆく。
物語の中で、特に何か大きな事件が起こる訳ではない。
関係が微妙で将来を見渡せない時期、翌年のプロポーズを予言したラブラブの絶頂期、友情が恋愛に変わった付き合い始め、舞台の出演者と客として出会った馴れ初めなど、カレンダーの7月26日が少しずつまくられてゆく。
6年の間に、ダンサーだった照生は足の怪我で裏方に転向し、このことが二人の関係に少なからず影響したことも示唆される。
「ナイト・オン・ザ・プラネット」は、世界の5つの都市のタクシー運転手を主人公としたオムニバスだが、本作に引用されているのは最初のロサンゼルス編。
ここではウイノナ・ライダー演じるタクシー運転手が、映画のキャスティング・ディレクターをしているジーナ・ローランズを乗せ、なぜか映画に出演しないかと誘われる。
しかし整備士になる夢を持つライダーは、映画スターになるチャンスを断ってしまう。
偶然の出会いと人生の岐路、そして別れを描いたこのエピソードが、一晩を6年に引き伸ばした上で、本作のベースになっているのだ。
関係が一晩になるのか、6年になるのか、それとも一生になるのかは神のみぞ知るだが、人生の物語は一期一会の繰り返しで出来てる。
一つの恋が行き詰まって終わることで、また新しい恋が生まれる。
「今」から振り返れば、美しい思い出も全ては過ぎ去った過去で、偶然の邂逅がきっかけとなって「ちょっと思い出しただけ」という訳。
主役の二人が抜群によくて、誰もが記憶にもある、青春のビタースイートな思い出に重ね合わせて楽しめるだろう。
松井監督は「花束みたいな恋をした」に似てることを気にしてるようだが、過去の恋愛を思い出す話という共通点はあるものの、さほど連想することはなかった。
ただ現在から過去に遡るという設定を知らずに観たので、序盤ちょっと混乱した。
レトロな電動式カレンダーが、時間経過を表すのに使われているのだが、月日と曜日しか表示されないので、前に進んでるんだか遡ってるのだか分からない。
葉の車が新型のジャパンタクシーから旧型のクラウンに変わったところで、やっと構造を理解した。
近くの席にいたカップルのお客さんは、最後まで混乱してたみたいで、「どこが何年なのか分からなかった。分かった?」と聞き合っていた。
言葉によらない映画文法に慣れている人には、画面に映るものや展開で何となく理解できちゃうんだけど、せめて年は表示すべきじゃなかったか。
永瀬正敏のキャラクターが、象徴的な装置にしかなってないとか、首都圏の住人にとっては地理関係が不自然に感じるなど、いくつか気になる部分はあるが、ありがちなほど普遍性の強い題材を、トリッキーなテリングで未見性のある作品に昇華したのはお見事だ。
今回はカクテルの「ビタースイート」をチョイス。
ドライ・ベルモット25mlとスイート・ベルモット25ml、オレンジ・ビターズ1dash、アンゴスチュラ・ビターズ1dashを、氷を入れたミキシンググラスで軽くステアし、グラスに注ぐ。
最後にオレンジピールを一片入れて完成。
仄かなオレンジ色が美しく、名前の通りちょっと痛くて甘酸っぱい、青春の思い出の味。

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2022年02月15日 (火) | 編集 |
ロックンロール魂は死なず。
ゴーストタウンのような寂れた風景が広がる、現在の沖縄コザ。
かつてベトナム戦争へ向かう米兵たちを熱狂させた伝説のロックバンド、“インパクト”のボーカリストだったハルが交通事故死する。
しかし彼の幽霊がダメ人間の孫、翔太の前に現れて、体を乗っ取ってしまう。
ハルには、何やらこの世でやり残したことがあるという。
すると、体を奪われた翔太の魂は何故かタイムスリップし、50年前の祖父の体に。
そこは沖縄の日本復帰前の1970年、米軍嘉手納基地の南側に広がる一大繁華街だった時代のコザ。
若きロッカーのハルは、あろうことかヤクザの女マーミーを寝取り、ビッグトラブルになっているのである。
入れ替わりものであり、同時に時間SF。
そう言う意味では某大ヒット作のバリエーションとも言えるのだが、現在と過去のツートラックで描かれる物語は、やがて登場人物の心の奥に秘めたる葛藤、ハルが現世に留まり、翔太が過去へ行かねばならない訳を描き出す。
浮かび上がるのは、戦後沖縄が辿った歴史だ。
沖縄出身の平一紘が監督・脚本を務め、中の人が翔太の若き日のハル(ややこしい)に桐谷健太。
中の人がハルの現在の翔太を演じる津波竜斗をはじめ、沖縄の映画演劇界の人々が結集。
劇中のインパクトと同じ、1970年から活動しているロックバンド“紫”のジョージ紫が特別協力し、同バンドのベーシスト、Chrisが劇伴を担当。
やはり沖縄出身のORANGE RANGEが主題歌を手掛けている。
過去パートの70年が、泥沼化したベトナム戦争真っ只中の時代なのがポイント。
最強の米軍も過去に経験のないゲリラ相手のジャングルの戦いに苦戦し、多くの戦死者を出していた。
沖縄はベトナムに向かう米軍の中継基地としての役割も持っていたので、実際の戦争に向かう前に、この島で脱走する新兵も多かったという。
本作でインパクトの前に現れ、彼らの間で不協和音が響くきっかけとなる米兵ビリーもそんな一人だ。
途中まではゆるーいコメディタッチが続いていたと思ったら、ビリーの登場あたりから突然超シリアスに車線変更。
ハルとマーミーの「ウェスト・サイド・ストーリー」並の壮絶な悲恋劇とか、70年の12月に起こった市民と米兵の大規模な衝突、いわゆる“コザ暴動”などを通じて、登場人物の中にあったそれぞれの個人史があらわになってくる。
まあゴチャゴチャしたプロットではあるのだが、いろいろな要素を詰め込めるだけ詰め込んだ構成が、本作自体を半世紀前のカオスの魔都、コザそのものの様に見せている。
物語上の主人公である翔太にとって、過去への旅は彼自身を成長させるステージだ。
最初は何もできず、何者でも無かった翔太は、1970年の世界で未来へと届けるために、あるものを作りはじめる。
そして死してなお現世に留まるハルは、青春のビターな忘れ物を見つけ、あることを成し遂げようとする。
異なる時間に隔たれた、二人の熱い想いが、インパクトの、そしてコザの復活を告げるロックのパフォーマスとして重なり合うクライマックスのカタルシスは、まさに音楽映画の醍醐味だ。
脈絡と受け継がれてきた、沖縄の痛みと情緒を描きつつ、一方の当事者としての米軍をも物語に取り込み、最終的には現在と未来へのエールとする。
ラストカットとか、むちゃくちゃカッコいい。
彼らは実在するのだ!ロックンロール!
今回はやっぱ泡盛。
沖縄本島の山川酒造の「かねやま泡盛」をチョイス。
八重岳から湧き出る清水で仕込まれた泡盛は、30度と比較的アルコール度数は低く、スッキリした味わいで、どんな飲み方でもOKのスタンダードな万能選手。
個ぬるめのお湯で割ると、まろやかになるのが個人的に好き。
CPも高く、普段使いの庶民の酒だ。
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ゴーストタウンのような寂れた風景が広がる、現在の沖縄コザ。
かつてベトナム戦争へ向かう米兵たちを熱狂させた伝説のロックバンド、“インパクト”のボーカリストだったハルが交通事故死する。
しかし彼の幽霊がダメ人間の孫、翔太の前に現れて、体を乗っ取ってしまう。
ハルには、何やらこの世でやり残したことがあるという。
すると、体を奪われた翔太の魂は何故かタイムスリップし、50年前の祖父の体に。
そこは沖縄の日本復帰前の1970年、米軍嘉手納基地の南側に広がる一大繁華街だった時代のコザ。
若きロッカーのハルは、あろうことかヤクザの女マーミーを寝取り、ビッグトラブルになっているのである。
入れ替わりものであり、同時に時間SF。
そう言う意味では某大ヒット作のバリエーションとも言えるのだが、現在と過去のツートラックで描かれる物語は、やがて登場人物の心の奥に秘めたる葛藤、ハルが現世に留まり、翔太が過去へ行かねばならない訳を描き出す。
浮かび上がるのは、戦後沖縄が辿った歴史だ。
沖縄出身の平一紘が監督・脚本を務め、中の人が翔太の若き日のハル(ややこしい)に桐谷健太。
中の人がハルの現在の翔太を演じる津波竜斗をはじめ、沖縄の映画演劇界の人々が結集。
劇中のインパクトと同じ、1970年から活動しているロックバンド“紫”のジョージ紫が特別協力し、同バンドのベーシスト、Chrisが劇伴を担当。
やはり沖縄出身のORANGE RANGEが主題歌を手掛けている。
過去パートの70年が、泥沼化したベトナム戦争真っ只中の時代なのがポイント。
最強の米軍も過去に経験のないゲリラ相手のジャングルの戦いに苦戦し、多くの戦死者を出していた。
沖縄はベトナムに向かう米軍の中継基地としての役割も持っていたので、実際の戦争に向かう前に、この島で脱走する新兵も多かったという。
本作でインパクトの前に現れ、彼らの間で不協和音が響くきっかけとなる米兵ビリーもそんな一人だ。
途中まではゆるーいコメディタッチが続いていたと思ったら、ビリーの登場あたりから突然超シリアスに車線変更。
ハルとマーミーの「ウェスト・サイド・ストーリー」並の壮絶な悲恋劇とか、70年の12月に起こった市民と米兵の大規模な衝突、いわゆる“コザ暴動”などを通じて、登場人物の中にあったそれぞれの個人史があらわになってくる。
まあゴチャゴチャしたプロットではあるのだが、いろいろな要素を詰め込めるだけ詰め込んだ構成が、本作自体を半世紀前のカオスの魔都、コザそのものの様に見せている。
物語上の主人公である翔太にとって、過去への旅は彼自身を成長させるステージだ。
最初は何もできず、何者でも無かった翔太は、1970年の世界で未来へと届けるために、あるものを作りはじめる。
そして死してなお現世に留まるハルは、青春のビターな忘れ物を見つけ、あることを成し遂げようとする。
異なる時間に隔たれた、二人の熱い想いが、インパクトの、そしてコザの復活を告げるロックのパフォーマスとして重なり合うクライマックスのカタルシスは、まさに音楽映画の醍醐味だ。
脈絡と受け継がれてきた、沖縄の痛みと情緒を描きつつ、一方の当事者としての米軍をも物語に取り込み、最終的には現在と未来へのエールとする。
ラストカットとか、むちゃくちゃカッコいい。
彼らは実在するのだ!ロックンロール!
今回はやっぱ泡盛。
沖縄本島の山川酒造の「かねやま泡盛」をチョイス。
八重岳から湧き出る清水で仕込まれた泡盛は、30度と比較的アルコール度数は低く、スッキリした味わいで、どんな飲み方でもOKのスタンダードな万能選手。
個ぬるめのお湯で割ると、まろやかになるのが個人的に好き。
CPも高く、普段使いの庶民の酒だ。

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2022年02月12日 (土) | 編集 |
愛は、分断を超えられるのか?
古今東西のキャラクターが大集合したお祭り映画「レディ・プレイヤー1」から3年、スティーヴン・スピルバーグ最新作は、ロバート・ワイズが監督し、アカデミー賞10部門に輝いた映画版でも知られる、伝説的なブロードウェー・ミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」の再映画化。
意外にも、スピルバーグにとっては、劇場用長編映画32本目にして初のミュージカル作品だ。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」をモチーフに、それ自体がすでに古典となったアーサー・ローレンツの戯曲を、「リンカーン」のトニー・クシュナーが新たに脚色。
運命の恋人トニーとマリアを、「ベイビー・ドライバー」のアンセル・エルゴートと、3万人以上の候補者の中から選ばれた新星、レイチェル・ゼグラーが瑞々しく演じる。
スピルバーグと撮影監督ヤヌス・カミンスキーの名コンビは、半世紀以上前に作られた物語を、現代アメリカの深刻な社会分断の問題と重ね合わせ、躍動感あふれるモダンなミュージカル活劇へと生まれ変わらせた。
もちろん、作曲レナード・バーンスタイン、歌詞スティーヴン・ソンドハイムによる名曲の数々は、そのまま使われている。
1950年代のニューヨーク。
マンハッタンの西側の区画(ウェスト・サイド)は、再開発のために立ち退きと取り壊しが進んでいる。
この街ではポーランド系移民の若者たちで組織されたジェッツと、プエルトリコ系新移民のシャークスという二つのストリートギャングのグループが抗争を繰り広げていた。
シャークスのリーダーで、ボクサーのベルナルド(デヴィッド・アルヴァレス)の妹マリア(レイチェル・ゼグラー)は、ニューヨークにやって来て初めてのダンスパーティーで、トニー(アンセル・エルゴート)と名乗る青年と出会い、瞬く間に恋に落ちる。
しかしトニーは、リフ(マイク・ファイスト)と共にジェッツを作った元リーダー。
仮釈放中の今は、ヴァレンティナ(リタ・モレノ)の店に住み込みで働いているが、シャークスから目の敵にされている。
周りの目を逃れてデートするトニーとマリアだが、シャークスとジェッツは街の縄張りを賭けた集団決闘へと突き進む。
兄の身を案じたマリアは、トニーに決闘を止めて欲しいと頼むのだが、事態は最悪の方向に進んでしまう・・・・・
多少の設定の変化はあるが、物語の展開も時間配分も、ロバート・ワイズ版の旧作とほとんど同じ。
これは両作が、オリジナルの戯曲に忠実に作られているからだろう。
私が1961年に作られたワイズ版をはじめて観たのは、たぶん80年代の半ばごろだったと思う。
物語自体は「ロミオとジュリエット」を下敷きにした普遍的なもので、面白く観たのだが、正直言って「これがアカデミー賞10部門?」と思ったのも事実。
名作と言われる映画には、普遍性に優れた作品と時事性を優先した作品があって、これはいわば二つのハイブリッド。
普遍性の部分はいつ観ても響くのだが、制作されてから四半世紀後に初鑑賞した当時の私には、アメリカの社会事情を背景とした時事性が伝わらなかったのだ。
「ロミオとジュリエット」のキャピュレット家とモンタギュー家の対立に当たるのが、ポーランド系が中心のジェッツと、プエルトリコ系のシャークスという二つの民族系ストリートギャング。
ポーランド系移民の歴史自体は、16世紀のロアノーク植民地にまで遡るのだが、18世紀末から20世紀初頭にかけて、ポーランドが周辺列強国によって分割され、国が滅亡したことで、新大陸に渡る移民が急増。
彼らはアイルランド系やスコットランド系、イタリア系などと同じく、言わば遅れてきた移民で、成功する者がいた反面、パイの分け前にありつけず、都市のスラムに暮らす者も少なくなかった。
本作に登場するジェッツは、そんな貧困層の末裔なのだ。
一方、アメリカのコモンウェルスのプエルトリコでは、原作が書かれた1950年代にアメリカ本土との関係を巡って騒乱が起こり、こちらも多くの若者たちが新天地を求め本土に渡った。
金の無いプエルトリコ系新移民たちは、賃料の安いスラムに居着くしかなく、元々そこにいたポーランド系などのプアホワイトとの軋轢が生まれる。
ジェッツとシャークの対立の背景には、この様な要因があるのだ。
そして、スピルバーグが半世紀以上前に書かれたこの作品を再映画化した理由も、深刻化したアメリカ社会の分断ゆえだろう。
原作が書かれた当時の分断は、異なるエスニックグループ同士の小競り合い。
だが今では、トランプの時代を経たことによって、エスニックグループの違いだけでなく、それまで隠されてきたあらゆる価値観の違いが社会の分断として噴出、可視化されてしまった。
分断が、普通の人にとってもより身近になったのだ。
スピルバーグは、分断のほとんどは、そもそも意味がないか、誤解と偏見に基いたものだという事実を明確化するために、細かなアレンジを効かせている。
旧作では普通の街だったウエスト・サイドが、再開発のために取り壊されつつある区画にチェンジ。
跡地には高級コンドミニアムが立ち並ぶ計画で、当然ながらそこにスラムの住人の居場所など初めから無い。
つまりジェッツもシャークスも、追い出されることが決まってる街を巡って、無益に争っている。
ジェッツは身寄りも仕事もない若者たちで、白人であるという自尊心以外、何も持ってないプアホワイトである点も強調され、むしろプエルトリコ系の方が、仕事には恵まれているように描かれている。
またドクの店の店主を、旧作のアニータ役でアカデミー賞に輝いた、リタ・モレノ(御歳91歳!)演じるプエルトリコ人の未亡人ヴァレンティナとし、両者の間に立たせる。
白人の夫ドクと結婚し、二つのエスニックグループの架け橋だった彼女が歌う「Somewhere」によって、対立の無意味さがより深く伝わってくる様に進化。
逆に警察が露骨にジェッツ贔屓だったり、旧作にあった単純なエスニックグループの抗争を強調する要素は薄まっている。
悲劇的なラストも、旧作では冒頭に出てきたバスケットコートが舞台だが、こちらは葬列の周りの彼らが命を賭けた“縄張り”のほとんどが瓦礫の山になっていて、不毛さが強く印象付けられる。
痒い部分に手が届く巧みなアレンジによって、本来似たような境遇にいる、底辺の人間同士の無益な争いだという核心部分を明確化したことで、あくまでも純愛を貫いた恋人たちの悲劇性が強まり、半世紀前に書かれた物語が、21世紀のアメリカ社会が抱える分断にダイレクトにリンクするという訳だ。
しかし、ストーリー的な補完以外で、真に圧巻なのは、映像がどれほどのことを語れるかというカメラ演出だ。
どんな映画も、最後はカメラをどう使いこなすかで勝負が決まる。
これは単なるカメラワークや画角の話ではなく、色彩やアクションのタイミングなども含めた総合的なカメラ演出のことで、これに関してはロバート・ワイズじゃなくても、誰もスピルバーグには敵わない。
まるで舞台をそのままカメラで切り取ったかの様な、箱庭的世界観だった旧作と比べると、本作は空間の使い方が遥かにダイナミックだ。
例えば、トニーとマリアが初めて出会う、ダンスパーティーのシーン。
一見してパーティー会場がずっと大きいのだが、その空間を目一杯に使ったジェッツとシャークスのダンス合戦では、色彩設計も見事。
青を中心とした寒色系の衣装で統一されたジェッツと、オレンジなどの暖色系のシャークス。
その群舞の中に一人だけ、真っ白なドレスを着たマリアが浮かび上がるのである。
彼女のドレスが白なのは旧作もそうだったが、ここではそれぞれのカラーに染まった両者の間で、マリアだけが固定観念に縛られていない無垢な存在だということが、最大限強調される。
また旧作と比較して圧倒的に素晴らしいのが、アメリカ社会へのシャークスの男女の認識の違いを歌った「America」のシークエンスの構成だ。
女たちはいろいろ問題はあっても新天地での夢と希望を歌い、対照的に男たちは様々な困難と白人への敵愾心を歌う。
旧作では溜まり場のビルの屋上だけで終わってしまうシークエンスだが、本作ではウェストサイドの街全体を使って、カラフルな衣装を身にまとった女たちが躍動するのだ。
この辺りは、旧作よりもむしろ現在の移民社会を描いた「イン・ザ・ハイツ」を思わせるもので、小さなグループにまとまる傾向のある男たちに対し、女たちの開放性を表現した素晴らしい演出だった。
ダンスの振り付けと、縦横無尽なカメラワークの見事なシンクロっぷりは、まさにスピルバーグ。
彼がミュージカル映画を作るのは本作が初めてだが、ミュージカルシークエンスは1984年の「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」のオープニングで披露している。
当時、カメラとダンスが一体化し、ダイナミックに展開する演出に驚き、いつかスピルバーグのミュージカルを観たいと思っていたが、待つこと38年目にしてようやく叶った。
1961年当時にあっては、ロバート・ワイズ版も十分に説得力のある作品だったのだと思うが、スピルバーグ版は間違いなく2021年という時代に呼ばれた作品だ。
この二本の似て非なる映画は、どっちが良いとかでなく、全く違う時代に必然として生まれた傑作なのである。
世界観がワンカットで分かる、冒頭の長回しからはじまって充実の2時間36分、画面の隅々まで計算され尽くした、巨匠の技をじっくりと堪能させてもらった。
シャークスの故郷、プエルトリコと言えばラム。
今回は「バカルディ 8(エイト)」をチョイス。
世界最大のラム酒のブランド、バカルディのプエルトリコ蒸留所産の上質なラムは、創業者のドン・ファクンド・バカルディのレシピを再現し、アメリカンオーク樽で8年以上熟成した2種類の原酒をブレンド。
コク深く、カクテルベースとしても優れているが、ここは常温のストレートでいただきたい。
少し温めて温燗にしても、香りが立って美味しい。
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古今東西のキャラクターが大集合したお祭り映画「レディ・プレイヤー1」から3年、スティーヴン・スピルバーグ最新作は、ロバート・ワイズが監督し、アカデミー賞10部門に輝いた映画版でも知られる、伝説的なブロードウェー・ミュージカル「ウエスト・サイド・ストーリー」の再映画化。
意外にも、スピルバーグにとっては、劇場用長編映画32本目にして初のミュージカル作品だ。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」をモチーフに、それ自体がすでに古典となったアーサー・ローレンツの戯曲を、「リンカーン」のトニー・クシュナーが新たに脚色。
運命の恋人トニーとマリアを、「ベイビー・ドライバー」のアンセル・エルゴートと、3万人以上の候補者の中から選ばれた新星、レイチェル・ゼグラーが瑞々しく演じる。
スピルバーグと撮影監督ヤヌス・カミンスキーの名コンビは、半世紀以上前に作られた物語を、現代アメリカの深刻な社会分断の問題と重ね合わせ、躍動感あふれるモダンなミュージカル活劇へと生まれ変わらせた。
もちろん、作曲レナード・バーンスタイン、歌詞スティーヴン・ソンドハイムによる名曲の数々は、そのまま使われている。
1950年代のニューヨーク。
マンハッタンの西側の区画(ウェスト・サイド)は、再開発のために立ち退きと取り壊しが進んでいる。
この街ではポーランド系移民の若者たちで組織されたジェッツと、プエルトリコ系新移民のシャークスという二つのストリートギャングのグループが抗争を繰り広げていた。
シャークスのリーダーで、ボクサーのベルナルド(デヴィッド・アルヴァレス)の妹マリア(レイチェル・ゼグラー)は、ニューヨークにやって来て初めてのダンスパーティーで、トニー(アンセル・エルゴート)と名乗る青年と出会い、瞬く間に恋に落ちる。
しかしトニーは、リフ(マイク・ファイスト)と共にジェッツを作った元リーダー。
仮釈放中の今は、ヴァレンティナ(リタ・モレノ)の店に住み込みで働いているが、シャークスから目の敵にされている。
周りの目を逃れてデートするトニーとマリアだが、シャークスとジェッツは街の縄張りを賭けた集団決闘へと突き進む。
兄の身を案じたマリアは、トニーに決闘を止めて欲しいと頼むのだが、事態は最悪の方向に進んでしまう・・・・・
多少の設定の変化はあるが、物語の展開も時間配分も、ロバート・ワイズ版の旧作とほとんど同じ。
これは両作が、オリジナルの戯曲に忠実に作られているからだろう。
私が1961年に作られたワイズ版をはじめて観たのは、たぶん80年代の半ばごろだったと思う。
物語自体は「ロミオとジュリエット」を下敷きにした普遍的なもので、面白く観たのだが、正直言って「これがアカデミー賞10部門?」と思ったのも事実。
名作と言われる映画には、普遍性に優れた作品と時事性を優先した作品があって、これはいわば二つのハイブリッド。
普遍性の部分はいつ観ても響くのだが、制作されてから四半世紀後に初鑑賞した当時の私には、アメリカの社会事情を背景とした時事性が伝わらなかったのだ。
「ロミオとジュリエット」のキャピュレット家とモンタギュー家の対立に当たるのが、ポーランド系が中心のジェッツと、プエルトリコ系のシャークスという二つの民族系ストリートギャング。
ポーランド系移民の歴史自体は、16世紀のロアノーク植民地にまで遡るのだが、18世紀末から20世紀初頭にかけて、ポーランドが周辺列強国によって分割され、国が滅亡したことで、新大陸に渡る移民が急増。
彼らはアイルランド系やスコットランド系、イタリア系などと同じく、言わば遅れてきた移民で、成功する者がいた反面、パイの分け前にありつけず、都市のスラムに暮らす者も少なくなかった。
本作に登場するジェッツは、そんな貧困層の末裔なのだ。
一方、アメリカのコモンウェルスのプエルトリコでは、原作が書かれた1950年代にアメリカ本土との関係を巡って騒乱が起こり、こちらも多くの若者たちが新天地を求め本土に渡った。
金の無いプエルトリコ系新移民たちは、賃料の安いスラムに居着くしかなく、元々そこにいたポーランド系などのプアホワイトとの軋轢が生まれる。
ジェッツとシャークの対立の背景には、この様な要因があるのだ。
そして、スピルバーグが半世紀以上前に書かれたこの作品を再映画化した理由も、深刻化したアメリカ社会の分断ゆえだろう。
原作が書かれた当時の分断は、異なるエスニックグループ同士の小競り合い。
だが今では、トランプの時代を経たことによって、エスニックグループの違いだけでなく、それまで隠されてきたあらゆる価値観の違いが社会の分断として噴出、可視化されてしまった。
分断が、普通の人にとってもより身近になったのだ。
スピルバーグは、分断のほとんどは、そもそも意味がないか、誤解と偏見に基いたものだという事実を明確化するために、細かなアレンジを効かせている。
旧作では普通の街だったウエスト・サイドが、再開発のために取り壊されつつある区画にチェンジ。
跡地には高級コンドミニアムが立ち並ぶ計画で、当然ながらそこにスラムの住人の居場所など初めから無い。
つまりジェッツもシャークスも、追い出されることが決まってる街を巡って、無益に争っている。
ジェッツは身寄りも仕事もない若者たちで、白人であるという自尊心以外、何も持ってないプアホワイトである点も強調され、むしろプエルトリコ系の方が、仕事には恵まれているように描かれている。
またドクの店の店主を、旧作のアニータ役でアカデミー賞に輝いた、リタ・モレノ(御歳91歳!)演じるプエルトリコ人の未亡人ヴァレンティナとし、両者の間に立たせる。
白人の夫ドクと結婚し、二つのエスニックグループの架け橋だった彼女が歌う「Somewhere」によって、対立の無意味さがより深く伝わってくる様に進化。
逆に警察が露骨にジェッツ贔屓だったり、旧作にあった単純なエスニックグループの抗争を強調する要素は薄まっている。
悲劇的なラストも、旧作では冒頭に出てきたバスケットコートが舞台だが、こちらは葬列の周りの彼らが命を賭けた“縄張り”のほとんどが瓦礫の山になっていて、不毛さが強く印象付けられる。
痒い部分に手が届く巧みなアレンジによって、本来似たような境遇にいる、底辺の人間同士の無益な争いだという核心部分を明確化したことで、あくまでも純愛を貫いた恋人たちの悲劇性が強まり、半世紀前に書かれた物語が、21世紀のアメリカ社会が抱える分断にダイレクトにリンクするという訳だ。
しかし、ストーリー的な補完以外で、真に圧巻なのは、映像がどれほどのことを語れるかというカメラ演出だ。
どんな映画も、最後はカメラをどう使いこなすかで勝負が決まる。
これは単なるカメラワークや画角の話ではなく、色彩やアクションのタイミングなども含めた総合的なカメラ演出のことで、これに関してはロバート・ワイズじゃなくても、誰もスピルバーグには敵わない。
まるで舞台をそのままカメラで切り取ったかの様な、箱庭的世界観だった旧作と比べると、本作は空間の使い方が遥かにダイナミックだ。
例えば、トニーとマリアが初めて出会う、ダンスパーティーのシーン。
一見してパーティー会場がずっと大きいのだが、その空間を目一杯に使ったジェッツとシャークスのダンス合戦では、色彩設計も見事。
青を中心とした寒色系の衣装で統一されたジェッツと、オレンジなどの暖色系のシャークス。
その群舞の中に一人だけ、真っ白なドレスを着たマリアが浮かび上がるのである。
彼女のドレスが白なのは旧作もそうだったが、ここではそれぞれのカラーに染まった両者の間で、マリアだけが固定観念に縛られていない無垢な存在だということが、最大限強調される。
また旧作と比較して圧倒的に素晴らしいのが、アメリカ社会へのシャークスの男女の認識の違いを歌った「America」のシークエンスの構成だ。
女たちはいろいろ問題はあっても新天地での夢と希望を歌い、対照的に男たちは様々な困難と白人への敵愾心を歌う。
旧作では溜まり場のビルの屋上だけで終わってしまうシークエンスだが、本作ではウェストサイドの街全体を使って、カラフルな衣装を身にまとった女たちが躍動するのだ。
この辺りは、旧作よりもむしろ現在の移民社会を描いた「イン・ザ・ハイツ」を思わせるもので、小さなグループにまとまる傾向のある男たちに対し、女たちの開放性を表現した素晴らしい演出だった。
ダンスの振り付けと、縦横無尽なカメラワークの見事なシンクロっぷりは、まさにスピルバーグ。
彼がミュージカル映画を作るのは本作が初めてだが、ミュージカルシークエンスは1984年の「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」のオープニングで披露している。
当時、カメラとダンスが一体化し、ダイナミックに展開する演出に驚き、いつかスピルバーグのミュージカルを観たいと思っていたが、待つこと38年目にしてようやく叶った。
1961年当時にあっては、ロバート・ワイズ版も十分に説得力のある作品だったのだと思うが、スピルバーグ版は間違いなく2021年という時代に呼ばれた作品だ。
この二本の似て非なる映画は、どっちが良いとかでなく、全く違う時代に必然として生まれた傑作なのである。
世界観がワンカットで分かる、冒頭の長回しからはじまって充実の2時間36分、画面の隅々まで計算され尽くした、巨匠の技をじっくりと堪能させてもらった。
シャークスの故郷、プエルトリコと言えばラム。
今回は「バカルディ 8(エイト)」をチョイス。
世界最大のラム酒のブランド、バカルディのプエルトリコ蒸留所産の上質なラムは、創業者のドン・ファクンド・バカルディのレシピを再現し、アメリカンオーク樽で8年以上熟成した2種類の原酒をブレンド。
コク深く、カクテルベースとしても優れているが、ここは常温のストレートでいただきたい。
少し温めて温燗にしても、香りが立って美味しい。

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2022年02月08日 (火) | 編集 |
お爺ちゃんは、ヒーローだった!
80年代を代表するブロックバスターの一つ、「ゴーストバスターズ」シリーズの、32年ぶりに作られた正式な続編。
もともとはオリジナルのアイヴァン・ライトマン監督で、「ゴーストバスターズ2」の公開直後から三作目が企画開発されていたそうだが、難航している間にオリジナルキャストの一人、ハロルド・ライミスが死去。
結局、続編企画はキャンセルされ、ポール・フェイグが監督した全員女性の「ゴーストバスターズ」がリブート作品として作られた。
その後、息子のジェイソン・ライトマン監督により、一から再起動されたのが本作だ。
前作からの時間経過を折り込み、主人公をライミスが演じたスペングラー博士の孫娘とし、彼女によってゴーストバスターズが継承される。
祖父同様に、カーリーヘアにメガネがトレードマークの天才科学少女フィービーを、「マリグナント 凶暴な悪夢」のマッケナ・グレイスが演じ、兄のトレヴァーに「IT/イット “それ”が見えたら、終わり。」のフィン・ウルフハード、文字通りにゴースト騒動の“蓋”を開けてしまう教師役にポール・ラッド。
アイヴァン・ライトマンはプロデューサーとして残り、息子ジェイソンと「モンスターハウス」のギル・キーナンが共同脚本を務める。
※核心部分に触れています。
科学大好き少女のフィービー(マッケナ・グレイス)は、母のキャリー(キャリー・クーン)と兄のトレヴァー(フィン・ウルフハード)と共に、オクラホマ州サマービルの亡くなった祖父の農場に引っ越してくる。
サマービルには活断層もなく、シェールガスの採掘も行われていないのに、なぜか数十年もの間、地震が頻発していた。
フィービーは、家の床下に隠された謎の装置を見つけ学校に持っていくが、教師のグルーバーソン先生(ポール・ラッド)は、それは80年台のニューヨークで活躍した“ゴーストバスターズ”が使っていた、ゴーストを捕まえるためのトラップのレプリカだと言う。
フィービーとクラスメイトのポッドキャスト(ローガン・キム)、グルーバーソン先生の3人が、トラップを開くと、突然何かが飛び出し逃げ去った。
その後、フィービーは家の地下に隠された研究室で、様々な装備と制服を見つける。
亡くなった祖父は、ニューヨークを救ったゴーストバスターズの一人、イゴン・スペングラー博士で、トラップから逃げたのは、かつて博士たちが捉えた古代の破壊神ゴーザの魂だった。
博士が命がけで作った封印は破られ、ゴーザの復活が迫る中、フィービーはゴーストバスターズの装備を使って、世界を破滅から救おうとするのだが・・・
親子監督にも色々なタイプがいる。
重厚なスタイルの父に対して、思いっきりライトでガーリーなタッチが対照的な、フランシス・コッポラとソフィア・コッポラ。
父の独特な世界観を追いながらも、独自性を模索している、デヴィッド・クローネンバーグとブランドン・クローネンバーグ。
本作のジェイソン・ライトマンと父アイヴァンは、どちらもコメディのジャンルを得意とする共通点があるが、にぎやかな大作よりの父と、どちらかと言えば小品でドラマよりの息子という違いがある。
顔もそっくりのこの親子、今回は息子ジェイソンが父の代表作に最大限のリスペクトを捧げつつも、77年生まれの彼自身が影響を受けたであろう、80年代サブカルチャーを丸ごとフィーチャーした、ある種のファンメイドムービーとなっているのが特徴。
本作とオリジナルシリーズの一番の違いは、そのスケール感だ。
大都市ニューヨークを舞台とし、怪獣映画の様なスペクタル性を売りにしていたオリジナルに対し、こちらの舞台はオクラホマの田舎町で、世界を破滅に導くゴースト騒動は起こるものの、一般の人々にはほとんど知られることなく、主人公の周りだけで収束する。
かつては賑わいを見せていたが、今は寂れた田舎町、そこに集った出自の異なる少年少女、街の歴史に隠された謎と怪異と言った構成要素は、むしろスティーブン・キングのホラー小説を思わせる。
主人公の兄トレヴァー役に、「IT/イット “それ”が見えたら、終わり。」で注目されたフィン・ウルフハードがキャスティングされているのも、もしかすると狙っているのかもしれない。
また、オリジナルではゴジラ並みの巨体だった、人気キャラクターのマシュマロマンも、こちらでは手のひらサイズに縮小され、大増殖するミニマシュマロマンズとして再登場。
スーパーで暴れ回る彼らの描写が、完全にグレムリンズ風味なんだが、実は「ゴーストバスターズ」とスピルバーグ印、ジョー・ダンテ監督の「グレムリン」は、どちらも1984年の6月8日の同日公開。
日本では同年の冬休み映画で、84年版「ゴジラ」とあわせて、各作品の頭文字を取って「3G決戦」
なんて呼ばれていた。
さらに引っ越してきたフィービーが、やる気のないグルーバーソン先生からサマースクールで見せられるのが、「チャイルドプレイ」とキング原作の「クジョー」なのだから、趣味性が分かりやすい(笑
キングに「ゴーストバスターズ」に「グレムリン」、これらの作品がおそらくジェイソン・ライトマンの脳みそに詰まった映画的記憶なのだろう。
そう言えば、共同脚本のギル・キーナンの代表作「モンスターハウス」は、同じくスピルバーグ印の「ポルターガイスト」に熱いオマージュを捧げた作品だったし、彼は2015年のリメイク版も監督していたりする。
本作が引用している80年代のサブカルチャー作品は、「ゴーストバスターズ」を除いて、郊外や田舎町を舞台とし、少年少女が主導的な役割を果たして怪異と戦うジュブナイル的作品。
結果、どうしてもスケールは小さくなるのだが、怪異をメタファーとして登場人物の葛藤をじっくりと描けるのが利点。
本作の場合、全体の軸となるのが家族の再生劇だからかえって丁度いい。
「ゴーストバスターズ2」の後、スペングラー博士は捕らえた破壊神ゴーザを封じ込めるために、ゴーザの信奉者によって復活の神殿が作られたサマービルにあえて移住。
かつての仲間や家族を巻き込まないために、科学で結界を作り、封印を守るという孤独な生活を送って来た。
博士の亡き後、同じく科学者としての資質を持った孫娘によって、そのスピリットは継承され、愛する人々にも彼の隠された真意が伝わる。
ライミスの死去という事実を元にプロットが構築され、幻となった「ゴーストバスターズ3」を思わせる終盤の展開には思わず胸アツ。
まさかゴーストバスターズに泣かされるとは、思ってもいなかった。
にぎやかだけどしばしば盛りすぎて、とっ散らがり気味だったオリジナルより、焦点を絞った脚本構成は明らかにこちらの方が上手い。
スペングラー博士の姿はオリジナルのアーカイブ映像の他、現在パートにも出てくるが、これはアイヴァン・ライトマンとボブ・ガントンがデジタルメイクアップで演じているという。
スパイダーマンと同じように、新旧ゴーストバスターズが勢揃いするクライマックスは、まさにハロルド・ライミス・メモリアル祭り!
ちなみにゴーザがスラビトザ・ジャバンが演じたオリジナルとそっくりなんだが、なんと今度の中の人はオリヴィア・ワイルドで、完全実体化するシーン以外はエマ・ポートナーがパフォーマンスキャプチャで演じているらしい。
ジェイソン・ライトマン作品の常連、J・K・シモンズや、序盤でスペングラーの友人として出てくるあの人とか、エンドクレジット中のオマケに出てくるあの人とか、オリジナへの愛と遊び心のあるキャスティングも楽しい。
父アイヴァンから息子ジェイソンへ、スペングラー博士からフィービーへ、継承されたゴーストバスターズは、創作の連鎖の最も幸福なサンプルとなった。
しかしこれは正統派の続編として大好きだけど、ポール・フェイグ版も無かったことにはしないでほしいなあ。
主人公が女の子というあたりも含めて、本作にも影響を与えていると思うし、あれはあれで面白かったから、別の世界線ということで。
ちなみにマーベル映画みたいに、エンドクレジット中と後にオマケあり。
今回は、かつてゴーストバスターズが守った街、「ニューヨーク」の名を持つカクテルをチョイス。
ライまたはバーボンウィスキー45ml、ライムジュース15ml、グレナデン・シロップ1/2tsp、砂糖1tspをシェイクしてグラスに注ぎ、オレンジピールを絞りかけて完成。
ウィスキーのコクとライムの酸味がバランスし、グレナデン・シロップと砂糖のほのかな甘味がアクセント。
フィービーたちにはまだだいぶ早い、甘酸っぱくほろ苦い大人の味わいだ。

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2022年02月04日 (金) | 編集 |
彼女を、必要としている人がいる。
仮釈放中の「前科者」の更生を助けるため、彼らの保護観察を担当する新米保護司・阿川佳代の成長を描くTVドラマのザ・ムービー。
原作は、香川まさひとと川島冬二の同名コミック。
「あゝ、荒野」の岸善幸監督と脚本の港岳彦のコンビで、WOWOWOでドラマ化されたが、今回は岸監督が脚本、編集も兼務するオリジナルストーリーだ。
主演の有村架純や、前科者から彼女の親友となるみどりさん役の石橋静香ら、ドラマのレギュラー陣は続投。
ドラマ版を見ている方が理解できる情報量は多いが、一見さんでも問題なく鑑賞できるように作られている。
保護司という仕事は知っていたが、国家公務員なのに完全に無給のボランティアだとは、本作のドラマ版を見るまで知らなかった。
30分一話の二本で一つのエピソードを構成するドラマ版は、基本的に阿川さんと様々な事情を抱えた前科者のキャラクターの対抗で物語が進み、阿川さんはどちらかと言えば受身の狂言回し的存在。
対して映画版は、現在進行形の連続殺人事件を軸とし、群像劇の色彩が強い。
森田剛が好演する、壮絶な過去を持つ殺人犯の工藤誠を保護観察の対象者に迎えて、プロットはグッと複雑&ハードに。
全ての登場人物にとって、現在抱えている葛藤は過去に原因があり、それらの要素が事件の展開と共に明らかになってくる仕掛け。
そしてその中には、阿川さんが保護司となった理由も含まれている。
工藤誠が前科者となった背景は、とことん悲惨だ。
幼い頃にDVオヤジが実母を刺殺、弟と共に児童養護施設に入るも、そこでも職員から虐待を受ける。
仕事に就いても、就職先の先輩に酷い苛めを受け、ついに殺してしまったのだが、元々は真面目な人柄ゆえ、模範囚として仮出所し阿川さんと出会う。
ところが、人生の再出発まであと一歩というところで、復讐心の塊となったある人物と出会ってしまうのだ。
残酷な運命に翻弄される姿は、「もうホントやめてあげて」と思うくらい。
これは哀しい人間の罪と贖罪の物語であり、希望と絶望のドラマで、切ないファースト・ラブストーリーでもある。
工藤の物語と共鳴し合う様に描かれるのが、阿川さんの記憶に深く刻まれた過去の傷。
まだ阿川さんが10代の頃、とある事件に遭遇した彼女は、図らずも恋する人の大切な家族を奪ってしまうのだ。
阿川さんの愛読書である中原中也の詩集に、初恋の人から投げかけられた呪いの言葉。
あれを読んでしまった時、彼女の心にどれほどの衝撃が走っただろうか。
彼女が保護司をしているのは、自らの罪に対する贖罪であり、絶望の縁に立つ前科者に希望を見出させ、新たな被害者を生まないため。
人は生きていれば、それが犯罪に問われなかったとしても、必ず何か罪を犯す。
それを身にしみて知っているからこそ、阿川さんは誰に対しても優しくて厳しいのだ。
みどりさんが「同居人かよ!」と突っ込みたくなるくらい、阿川さんの家に馴染んでるのが可笑しいが、かつて保護観察の対象者だった彼女が、今度は過去の傷に直面した阿川さんに寄り添い、心の支えになるのがホッとする。
人間はお互いの関係が全て。
岸善幸監督は、「あゝ、荒野」に続いて素晴らしい作品に仕上げた。
救える心もあれば、救えない心もある。
丁寧に紡がれた、ぶつかり合う人間たちの、数十年に及ぶ因果応報の物語は観応え十分だ。
牛丼からはじまり、ラーメンで終わる物語には、ごく普通の酒が似合う。
現在日本で一番売れている酒、アサヒビールの「スーパードライ」をチョイス。
てっきり安めの発泡酒あたりに首位を奪われていると思っていたので、意外な気もするが、コロナの自粛生活で、せめて家飲みの酒ぐらいは好きなものを買いたいということか。
1987年に初登場し、日本のみならず世界的なヒット商品となったザ・ニッポンのビール。
スッキリ辛口で喉越し重視のテイストは、高温多湿の日本の夏にピッタリだけど、冬でも美味しい。
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仮釈放中の「前科者」の更生を助けるため、彼らの保護観察を担当する新米保護司・阿川佳代の成長を描くTVドラマのザ・ムービー。
原作は、香川まさひとと川島冬二の同名コミック。
「あゝ、荒野」の岸善幸監督と脚本の港岳彦のコンビで、WOWOWOでドラマ化されたが、今回は岸監督が脚本、編集も兼務するオリジナルストーリーだ。
主演の有村架純や、前科者から彼女の親友となるみどりさん役の石橋静香ら、ドラマのレギュラー陣は続投。
ドラマ版を見ている方が理解できる情報量は多いが、一見さんでも問題なく鑑賞できるように作られている。
保護司という仕事は知っていたが、国家公務員なのに完全に無給のボランティアだとは、本作のドラマ版を見るまで知らなかった。
30分一話の二本で一つのエピソードを構成するドラマ版は、基本的に阿川さんと様々な事情を抱えた前科者のキャラクターの対抗で物語が進み、阿川さんはどちらかと言えば受身の狂言回し的存在。
対して映画版は、現在進行形の連続殺人事件を軸とし、群像劇の色彩が強い。
森田剛が好演する、壮絶な過去を持つ殺人犯の工藤誠を保護観察の対象者に迎えて、プロットはグッと複雑&ハードに。
全ての登場人物にとって、現在抱えている葛藤は過去に原因があり、それらの要素が事件の展開と共に明らかになってくる仕掛け。
そしてその中には、阿川さんが保護司となった理由も含まれている。
工藤誠が前科者となった背景は、とことん悲惨だ。
幼い頃にDVオヤジが実母を刺殺、弟と共に児童養護施設に入るも、そこでも職員から虐待を受ける。
仕事に就いても、就職先の先輩に酷い苛めを受け、ついに殺してしまったのだが、元々は真面目な人柄ゆえ、模範囚として仮出所し阿川さんと出会う。
ところが、人生の再出発まであと一歩というところで、復讐心の塊となったある人物と出会ってしまうのだ。
残酷な運命に翻弄される姿は、「もうホントやめてあげて」と思うくらい。
これは哀しい人間の罪と贖罪の物語であり、希望と絶望のドラマで、切ないファースト・ラブストーリーでもある。
工藤の物語と共鳴し合う様に描かれるのが、阿川さんの記憶に深く刻まれた過去の傷。
まだ阿川さんが10代の頃、とある事件に遭遇した彼女は、図らずも恋する人の大切な家族を奪ってしまうのだ。
阿川さんの愛読書である中原中也の詩集に、初恋の人から投げかけられた呪いの言葉。
あれを読んでしまった時、彼女の心にどれほどの衝撃が走っただろうか。
彼女が保護司をしているのは、自らの罪に対する贖罪であり、絶望の縁に立つ前科者に希望を見出させ、新たな被害者を生まないため。
人は生きていれば、それが犯罪に問われなかったとしても、必ず何か罪を犯す。
それを身にしみて知っているからこそ、阿川さんは誰に対しても優しくて厳しいのだ。
みどりさんが「同居人かよ!」と突っ込みたくなるくらい、阿川さんの家に馴染んでるのが可笑しいが、かつて保護観察の対象者だった彼女が、今度は過去の傷に直面した阿川さんに寄り添い、心の支えになるのがホッとする。
人間はお互いの関係が全て。
岸善幸監督は、「あゝ、荒野」に続いて素晴らしい作品に仕上げた。
救える心もあれば、救えない心もある。
丁寧に紡がれた、ぶつかり合う人間たちの、数十年に及ぶ因果応報の物語は観応え十分だ。
牛丼からはじまり、ラーメンで終わる物語には、ごく普通の酒が似合う。
現在日本で一番売れている酒、アサヒビールの「スーパードライ」をチョイス。
てっきり安めの発泡酒あたりに首位を奪われていると思っていたので、意外な気もするが、コロナの自粛生活で、せめて家飲みの酒ぐらいは好きなものを買いたいということか。
1987年に初登場し、日本のみならず世界的なヒット商品となったザ・ニッポンのビール。
スッキリ辛口で喉越し重視のテイストは、高温多湿の日本の夏にピッタリだけど、冬でも美味しい。

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