2022年03月22日 (火) | 編集 |
親愛なるキティーへ。
第二次世界大戦末期、ナチスの絶滅収容所で命を落としたユダヤ人の少女・アンネ・フランクは、誕生日のプレゼントとしてもらった日記帳に、“キティー”という名前を付け、空想の友達・キティーに宛てた手紙形式で日記を書いていた。
これは有名な「アンネの日記」をそのまま映画化するのではなく、なぜか21世紀の世界に現れたキティーの視点で、アンネの生きた時代と現代を旅するユニークな寓話劇。
監督・脚本は、自らの戦争体験をモチーフにした「戦場でワルツを」や、虚構と現実が境界を失った世界を舞台とした「コングレス未来学会議」で知られるイスラエルの名匠アリ・フォルマン。
絶滅収容所を生き延びた両親のもとに生まれたフォルマンが、美しいアニメーション表現で現在を生きる子供たちに向けて描く、渾身のホロコースト入門だ。
現代のアムステルダム。
戦時中にアンネ・フランク(エミリー・キャリー)が住んでいた隠れ家は、“アンネ・フランクの家”という博物館になっていて、世界中から観光客が見学に訪れる。
今から一年後の嵐の夜、博物館に展示されていた日記帳から彼女の空想の友達・キティー(ルビー・ストークス)が実体化。
キティーはアンネを探すが、彼女の姿はどこにも見えない。
日中、アンネの部屋は大勢の観光客で賑わい、夜には誰もいなくなる。
ある日キティーは、少年が日本人観光客から財布をスリ盗るのを見て、彼を追って外へ。
街にあるたくさんの施設には、アンネの名がつけられてるのに、なぜ彼女自身はどこにもいないのか。
スリの少年、ペーター(ラルフ・プロサー)と親しくなったキティーは、日記をつけなくなった後、アンネに何が起こったのか、ペーターと共に彼女の足跡を追う旅に出る。
一方、博物館では貴重な日記帳が無くなったと大騒ぎになっていて、警察はキティーを窃盗の容疑者として捜査するのだが・・・・
隠れ家が見つかり、フランク一家がナチスの親衛隊に逮捕されたのは1944年8月4日で、日記の最後のページが書かれたのは直前の8月1日。
日記帳がイコール自分自身であるキティーは、アンネの身に何があったのか、その後起こったことを知らない。
映画は、日記に書かれている戦時中のアンネと家族、同居人たちとのエピソードと、アンネを探す現在のキティーの姿を交互に描いてゆく。
アンネ曰くモテモテだった学校生活は、ユダヤ人弾圧が始まると終わりを告げ、用意していた隠れ家で息を潜めて生活する日々が始まる。
狭い隠れ家に、両親と姉マーゴ以外にも、ファン・ペルス家の三人に、歯科医のフリッツら八人が暮らす大所帯。
そんな窮屈な生活の中でも、僅かに見える窓からの風景に心を癒し、ファン・ペルス家の息子・ペーターとの仄かな恋を知る。
映画や小説などの物語を愛したアンネは、想像力の翼を広げ、大ファンだったクラーク・ゲーブルと馬に乗って、ナチスの軍団を打ち負かしたりもする。
アムステルダムの“アンネ・フランクの家”には、20年ほど前に行ったことがあるが、修復された建物に生活感のある隠れ家が再現されていて、ここに八人もの人たちが暮らしていたのかと、非常に印象深かったのを覚えている。
この映画はちょっと設定が複雑で、キティーが博物館のアンネの部屋にいる時は、彼女の姿は誰にも見えない幽霊のような存在だが、博物館から出ると肉体を持って人からも見える様になり、触れることも出来る。
ただし、日記帳とキティーは基本一体で、離れすぎると消えてしまう。
だから彼女が外に出るためには、常に日記帳を持っていなければならないのだ。
アンネを探して街を歩き回るキティーは、いつしか世界一有名な日記帳を盗んだ泥棒と誤解され、警察から追われる羽目になる。
街にはアンネの銅像が建ち、アンネ病院、アンネ劇場などアンネの名が付いた施設が溢れているのに、彼女がどうなったのか、どこにいるのか誰も教えてくれない。
親友の名前だけが目立つ奇妙な世界で、ひょんなことからアンネと恋仲になった少年と同じ名前を持つスリのペーターと出会ったキティーは、日記が途切れた後のアンネの身に何が起こったのか、彼女の足跡を辿る旅に出る。
この先は日記に書かれていないので、旅を導くのは一家でただ一人ホロコーストを生き残り、娘の日記を出版したアンネの父・オットーが残した記録だ。
親衛隊に逮捕されたアンネは、ヴェステルボルク収容所、次いでアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所へ送られる。
そして最期の地となるベルゲン・ベルゼン収容所で、1945年の3月ごろに15歳で亡くなったとされる。
歴史の痕跡を追う旅を通して、キティーはアンネの哀しい運命と共に今の世界を知る。
戦争の時代から来たキティーには、21世紀は昔と違う部分と似た部分があるように見える。
ユダヤ人は、もう傷つけられることはない。
でも嘗てのアンネたちのように、警察に怯えながら隠れて暮らしている人たちもいる。
それは、紛争地からやって来た戦争難民だ。
元々ドイツに暮らしていたアンネも、ナチスの迫害から逃れてオランダにやって来た難民で、今に至るまで国籍や市民権は与えられていない。
時代を超えて繰り返される、人間の変わらぬ業を見たキティーは、ここで自分にしか出来ない、ある行動に出て難民たちを救うことを決意する。
ホロコーストと現在の難民問題を地続きとし、単に過去に起こった悲劇としなかったのは秀逸な視点。
本作はもともと人形アニメーションとして企画されていたそうだが、結果的に親しみやすい伝統的な2Dアニメーションとして制作されたのは良かったと思う。
キャラクターは誰もが好感を持てるように可愛らしくデザインされ、作品そのものも強烈な個性を放っていたフォルマンの過去作と比べると、作家性の主張は比較的弱い。
しかしこれは、アンネの名を知っていても、彼女の「日記」を読んだことの無い子供たちに、歴史に興味を持たせ、本を手に取らせるための啓蒙作品だからこれで良い。
物語のスタートが“今から一年後”とされているのも、未来のどこかでこの作品を鑑賞した時点を“今”とする工夫だろうし、劇中では説明されないキティーが実体化した理由も、難民が増え続ける時代に呼ばれた、ということだろう。
ユダヤ人だろうが、アラブ人だろうが、アフリカ人だろうが、迫害されていい人たちなどいるわけがない。
もし、アンネが今の世界を見たら、どう思うのだろうと。
だから、別人格として現れたとしても、キティーはやはり最期まで人間の善性を信じたアンネの一部で、過去からのメッセージ。
現在の世界で役割を果たしたら、文字の世界へ戻ってゆく。
切ない情感にあふれた、優れた歴史教育映画だ。
書くことが好きだったアンネは、パリで小説家になることを夢見ていた。
彼女の夢は叶わなかったが、今回は「カフェ・ド・パリ」をチョイス。
ドライ・ジン45ml、アニゼット1tsp、生クリーム1tsp、卵白1個を、氷を入れたシェイカーでよくシェイクして、グラスに注ぐ。
辛口のジンとアニスの強い風味を、生クリームと卵白がマイルドにまとめ上げている。
実はパリでなく、ニューヨークで考案されたカクテルだが、名前の印象通り上品な味わいだ。
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第二次世界大戦末期、ナチスの絶滅収容所で命を落としたユダヤ人の少女・アンネ・フランクは、誕生日のプレゼントとしてもらった日記帳に、“キティー”という名前を付け、空想の友達・キティーに宛てた手紙形式で日記を書いていた。
これは有名な「アンネの日記」をそのまま映画化するのではなく、なぜか21世紀の世界に現れたキティーの視点で、アンネの生きた時代と現代を旅するユニークな寓話劇。
監督・脚本は、自らの戦争体験をモチーフにした「戦場でワルツを」や、虚構と現実が境界を失った世界を舞台とした「コングレス未来学会議」で知られるイスラエルの名匠アリ・フォルマン。
絶滅収容所を生き延びた両親のもとに生まれたフォルマンが、美しいアニメーション表現で現在を生きる子供たちに向けて描く、渾身のホロコースト入門だ。
現代のアムステルダム。
戦時中にアンネ・フランク(エミリー・キャリー)が住んでいた隠れ家は、“アンネ・フランクの家”という博物館になっていて、世界中から観光客が見学に訪れる。
今から一年後の嵐の夜、博物館に展示されていた日記帳から彼女の空想の友達・キティー(ルビー・ストークス)が実体化。
キティーはアンネを探すが、彼女の姿はどこにも見えない。
日中、アンネの部屋は大勢の観光客で賑わい、夜には誰もいなくなる。
ある日キティーは、少年が日本人観光客から財布をスリ盗るのを見て、彼を追って外へ。
街にあるたくさんの施設には、アンネの名がつけられてるのに、なぜ彼女自身はどこにもいないのか。
スリの少年、ペーター(ラルフ・プロサー)と親しくなったキティーは、日記をつけなくなった後、アンネに何が起こったのか、ペーターと共に彼女の足跡を追う旅に出る。
一方、博物館では貴重な日記帳が無くなったと大騒ぎになっていて、警察はキティーを窃盗の容疑者として捜査するのだが・・・・
隠れ家が見つかり、フランク一家がナチスの親衛隊に逮捕されたのは1944年8月4日で、日記の最後のページが書かれたのは直前の8月1日。
日記帳がイコール自分自身であるキティーは、アンネの身に何があったのか、その後起こったことを知らない。
映画は、日記に書かれている戦時中のアンネと家族、同居人たちとのエピソードと、アンネを探す現在のキティーの姿を交互に描いてゆく。
アンネ曰くモテモテだった学校生活は、ユダヤ人弾圧が始まると終わりを告げ、用意していた隠れ家で息を潜めて生活する日々が始まる。
狭い隠れ家に、両親と姉マーゴ以外にも、ファン・ペルス家の三人に、歯科医のフリッツら八人が暮らす大所帯。
そんな窮屈な生活の中でも、僅かに見える窓からの風景に心を癒し、ファン・ペルス家の息子・ペーターとの仄かな恋を知る。
映画や小説などの物語を愛したアンネは、想像力の翼を広げ、大ファンだったクラーク・ゲーブルと馬に乗って、ナチスの軍団を打ち負かしたりもする。
アムステルダムの“アンネ・フランクの家”には、20年ほど前に行ったことがあるが、修復された建物に生活感のある隠れ家が再現されていて、ここに八人もの人たちが暮らしていたのかと、非常に印象深かったのを覚えている。
この映画はちょっと設定が複雑で、キティーが博物館のアンネの部屋にいる時は、彼女の姿は誰にも見えない幽霊のような存在だが、博物館から出ると肉体を持って人からも見える様になり、触れることも出来る。
ただし、日記帳とキティーは基本一体で、離れすぎると消えてしまう。
だから彼女が外に出るためには、常に日記帳を持っていなければならないのだ。
アンネを探して街を歩き回るキティーは、いつしか世界一有名な日記帳を盗んだ泥棒と誤解され、警察から追われる羽目になる。
街にはアンネの銅像が建ち、アンネ病院、アンネ劇場などアンネの名が付いた施設が溢れているのに、彼女がどうなったのか、どこにいるのか誰も教えてくれない。
親友の名前だけが目立つ奇妙な世界で、ひょんなことからアンネと恋仲になった少年と同じ名前を持つスリのペーターと出会ったキティーは、日記が途切れた後のアンネの身に何が起こったのか、彼女の足跡を辿る旅に出る。
この先は日記に書かれていないので、旅を導くのは一家でただ一人ホロコーストを生き残り、娘の日記を出版したアンネの父・オットーが残した記録だ。
親衛隊に逮捕されたアンネは、ヴェステルボルク収容所、次いでアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所へ送られる。
そして最期の地となるベルゲン・ベルゼン収容所で、1945年の3月ごろに15歳で亡くなったとされる。
歴史の痕跡を追う旅を通して、キティーはアンネの哀しい運命と共に今の世界を知る。
戦争の時代から来たキティーには、21世紀は昔と違う部分と似た部分があるように見える。
ユダヤ人は、もう傷つけられることはない。
でも嘗てのアンネたちのように、警察に怯えながら隠れて暮らしている人たちもいる。
それは、紛争地からやって来た戦争難民だ。
元々ドイツに暮らしていたアンネも、ナチスの迫害から逃れてオランダにやって来た難民で、今に至るまで国籍や市民権は与えられていない。
時代を超えて繰り返される、人間の変わらぬ業を見たキティーは、ここで自分にしか出来ない、ある行動に出て難民たちを救うことを決意する。
ホロコーストと現在の難民問題を地続きとし、単に過去に起こった悲劇としなかったのは秀逸な視点。
本作はもともと人形アニメーションとして企画されていたそうだが、結果的に親しみやすい伝統的な2Dアニメーションとして制作されたのは良かったと思う。
キャラクターは誰もが好感を持てるように可愛らしくデザインされ、作品そのものも強烈な個性を放っていたフォルマンの過去作と比べると、作家性の主張は比較的弱い。
しかしこれは、アンネの名を知っていても、彼女の「日記」を読んだことの無い子供たちに、歴史に興味を持たせ、本を手に取らせるための啓蒙作品だからこれで良い。
物語のスタートが“今から一年後”とされているのも、未来のどこかでこの作品を鑑賞した時点を“今”とする工夫だろうし、劇中では説明されないキティーが実体化した理由も、難民が増え続ける時代に呼ばれた、ということだろう。
ユダヤ人だろうが、アラブ人だろうが、アフリカ人だろうが、迫害されていい人たちなどいるわけがない。
もし、アンネが今の世界を見たら、どう思うのだろうと。
だから、別人格として現れたとしても、キティーはやはり最期まで人間の善性を信じたアンネの一部で、過去からのメッセージ。
現在の世界で役割を果たしたら、文字の世界へ戻ってゆく。
切ない情感にあふれた、優れた歴史教育映画だ。
書くことが好きだったアンネは、パリで小説家になることを夢見ていた。
彼女の夢は叶わなかったが、今回は「カフェ・ド・パリ」をチョイス。
ドライ・ジン45ml、アニゼット1tsp、生クリーム1tsp、卵白1個を、氷を入れたシェイカーでよくシェイクして、グラスに注ぐ。
辛口のジンとアニスの強い風味を、生クリームと卵白がマイルドにまとめ上げている。
実はパリでなく、ニューヨークで考案されたカクテルだが、名前の印象通り上品な味わいだ。

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