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※タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
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※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
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2022年04月30日 (土) | 編集 |
子供も大人もムズカシイ。
マイク・ミルズの、私小説作家らしい持ち味がうまく出た秀作だ。
主人公は、ホアキン・フェニックス演じる、ニューヨークに暮らすラジオジャーナリストのジョニー。
彼は全米各地で子供たちにインタビューし、現在と未来に対する声を集めている。
ある時、ロサンゼルスに住む妹のヴィヴが、サンフランシスコベイエリアで仕事をしている夫の病気のため、しばらく家を空けることになると聞かされる。
9歳の甥っ子ジェシーを心配したジョニーは、彼の世話をするためにはるばるロサンゼルスにやってくるのだ。
しかし、彼自身は一人者で子育て経験全く無し。
ジェシーともほとんど会ったことがなく、二人の間には最初からビミョーな空気が漂っている。
くるくるヘアのジェシーは、一見してジョニーとよく似ていて、ミニチュアサイズのジョニーなんて言われるのだが、彼はジェシーが何を考えているのがイマイチよく分からないのだ。
中年男が初めての体験に戸惑いながらも、今まで単なる取材対象だった子供との関係を、改めて模索してゆくあたりは、ダスティン・ホフマンが離婚騒動の中で、初めて息子に向き合うダメ親父を演じた、懐かしの「クレイマー、クレイマー」風味。
大人は子供を単純化して見がちだけど、子供は大人と思考回路が違うだけで、心は繊細でとても複雑。
そんな当たり前のことに、初めて気づいてゆく。
やがて、夫の病気が悪化したことでヴィヴのベイエリア滞在が長引き、ジェシーはジョニーに連れられてニューヨーク、次いで南部ニューオーリンズへの取材の旅に同行する。
この映画がユニークなのは、フィクションのドラマと、ドキュメンタリーとしてのインタビューパートが同じ作品の中で自然に混じり合っていることだ。
ジョニーの同僚のロクサーヌを演じるモリー・ウェブスターは、実際にラジオジャーナリストであり、劇中の子供たちへのインタビューシーンに、シナリオは存在しない。
冒頭のデトロイトを含めて三つの都市で集められた子供たちのインタビューと、ホアキンが作中で読んでいる本からの引用が、彼にとって重要な示唆となって物語に厚みを与え、ドビュッシー の「月の光」の優美なメロディーが、実質的な主題曲となって情感が深めてゆく。
名手ロビー・ライアンによる落ち着いたモノクロ映像にも当然意図がある。
この手法により、この映画は新しくも見えるし、古くも見えるエイジレスな作品となった。
テリングの工夫によって、本来“記録”であるはずのインタビューパートが、過去形の時間軸から解き放たれ、現在進行形の物語の一部となるのである。
マイク・ミルズは、「人生はビギナーズ」で父なる者への、前作の「20センチュリー・ウーマン」で母なる者への想いを描いた。
彼の映画ではいつも、ごく近しいと思っていた人物の、意外な別の顔が現れて、主人公は大いに戸惑う。
「人生はビギナーズ」では奥手の青年が、年老いた父から突然ゲイであることをカミングアウトされ、「20センチュリー・ウーマン」では、女手一つで15歳になるまで息子を育ててきた母が、これ以上は育て方が分からないと、息子に近い年齢の若い女性二人に助けを求める。
どちらもミルズ自身の経験に基づいた作品だが、今度は初めて擬似的な父親としての視点から物語を紡いだ。
本作の企画は、彼とパートナーのミランダ・ジュライとの間に、2012年に子供が生まれたことと無関係ではあるまい。
大人の頭では理解不能なジェシーに振り回され、疲れ果てたジョニーは、電話でヴィヴに愚痴るが、ヴィヴはそれが子育てで、決して慣れることはないと語る。
タイトルの「C'mon C’mon」には「こっちに来て」以外にも「大丈夫だよ」とか「ほら」など幾つかの意味がある。
人間はみんな複雑で、たとえ家族でも自分以外の心の奥底までは誰にも分からない。
でもだからこそ少しずつお互いを理解して、歩み寄ってゆくしかない。
キャラクターに寄り添う、優しい視点が印象的だ。
今回はモノクロ映像が印象的な映画なので、白と黒が混じり合う甘いカクテル、「カルーアミルク」をチョイス。
コーヒー・リキュールのカルーア30mlと牛乳90mlを氷を入れたタンブラーに注ぎ、軽くステアする。
コーヒー牛乳のような味わいだが、カルーアのアルコール度数は20%あるので、チューハイ並みの強さ。
お酒と牛乳の組み合わせは古くから多くあり、カルーアの代わりにバーボンと牛乳を合わせると、「カウボーイ」というカクテルになる。
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マイク・ミルズの、私小説作家らしい持ち味がうまく出た秀作だ。
主人公は、ホアキン・フェニックス演じる、ニューヨークに暮らすラジオジャーナリストのジョニー。
彼は全米各地で子供たちにインタビューし、現在と未来に対する声を集めている。
ある時、ロサンゼルスに住む妹のヴィヴが、サンフランシスコベイエリアで仕事をしている夫の病気のため、しばらく家を空けることになると聞かされる。
9歳の甥っ子ジェシーを心配したジョニーは、彼の世話をするためにはるばるロサンゼルスにやってくるのだ。
しかし、彼自身は一人者で子育て経験全く無し。
ジェシーともほとんど会ったことがなく、二人の間には最初からビミョーな空気が漂っている。
くるくるヘアのジェシーは、一見してジョニーとよく似ていて、ミニチュアサイズのジョニーなんて言われるのだが、彼はジェシーが何を考えているのがイマイチよく分からないのだ。
中年男が初めての体験に戸惑いながらも、今まで単なる取材対象だった子供との関係を、改めて模索してゆくあたりは、ダスティン・ホフマンが離婚騒動の中で、初めて息子に向き合うダメ親父を演じた、懐かしの「クレイマー、クレイマー」風味。
大人は子供を単純化して見がちだけど、子供は大人と思考回路が違うだけで、心は繊細でとても複雑。
そんな当たり前のことに、初めて気づいてゆく。
やがて、夫の病気が悪化したことでヴィヴのベイエリア滞在が長引き、ジェシーはジョニーに連れられてニューヨーク、次いで南部ニューオーリンズへの取材の旅に同行する。
この映画がユニークなのは、フィクションのドラマと、ドキュメンタリーとしてのインタビューパートが同じ作品の中で自然に混じり合っていることだ。
ジョニーの同僚のロクサーヌを演じるモリー・ウェブスターは、実際にラジオジャーナリストであり、劇中の子供たちへのインタビューシーンに、シナリオは存在しない。
冒頭のデトロイトを含めて三つの都市で集められた子供たちのインタビューと、ホアキンが作中で読んでいる本からの引用が、彼にとって重要な示唆となって物語に厚みを与え、ドビュッシー の「月の光」の優美なメロディーが、実質的な主題曲となって情感が深めてゆく。
名手ロビー・ライアンによる落ち着いたモノクロ映像にも当然意図がある。
この手法により、この映画は新しくも見えるし、古くも見えるエイジレスな作品となった。
テリングの工夫によって、本来“記録”であるはずのインタビューパートが、過去形の時間軸から解き放たれ、現在進行形の物語の一部となるのである。
マイク・ミルズは、「人生はビギナーズ」で父なる者への、前作の「20センチュリー・ウーマン」で母なる者への想いを描いた。
彼の映画ではいつも、ごく近しいと思っていた人物の、意外な別の顔が現れて、主人公は大いに戸惑う。
「人生はビギナーズ」では奥手の青年が、年老いた父から突然ゲイであることをカミングアウトされ、「20センチュリー・ウーマン」では、女手一つで15歳になるまで息子を育ててきた母が、これ以上は育て方が分からないと、息子に近い年齢の若い女性二人に助けを求める。
どちらもミルズ自身の経験に基づいた作品だが、今度は初めて擬似的な父親としての視点から物語を紡いだ。
本作の企画は、彼とパートナーのミランダ・ジュライとの間に、2012年に子供が生まれたことと無関係ではあるまい。
大人の頭では理解不能なジェシーに振り回され、疲れ果てたジョニーは、電話でヴィヴに愚痴るが、ヴィヴはそれが子育てで、決して慣れることはないと語る。
タイトルの「C'mon C’mon」には「こっちに来て」以外にも「大丈夫だよ」とか「ほら」など幾つかの意味がある。
人間はみんな複雑で、たとえ家族でも自分以外の心の奥底までは誰にも分からない。
でもだからこそ少しずつお互いを理解して、歩み寄ってゆくしかない。
キャラクターに寄り添う、優しい視点が印象的だ。
今回はモノクロ映像が印象的な映画なので、白と黒が混じり合う甘いカクテル、「カルーアミルク」をチョイス。
コーヒー・リキュールのカルーア30mlと牛乳90mlを氷を入れたタンブラーに注ぎ、軽くステアする。
コーヒー牛乳のような味わいだが、カルーアのアルコール度数は20%あるので、チューハイ並みの強さ。
お酒と牛乳の組み合わせは古くから多くあり、カルーアの代わりにバーボンと牛乳を合わせると、「カウボーイ」というカクテルになる。

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2022年04月24日 (日) | 編集 |
その街で、愛は見つかるのか?
「ディーパンの闘い」のジャック・オーディアールが描く、現在のパリに生きる若者たちの群像劇。
入院中の祖母の所有する、パリ13区のアパートに住む台湾系女性のエミリーは、ルームメイトに応募してきた教師のカミーユと出会う。
一方、32歳で大学に復学するノラは、ひょんなことからポルノ女優のアンバーと関わりを持つ。
やがてノラとカミーユは職場の同僚となるのだが、カミーユがヤリチンのプレイボーイで、奇妙な四角関係が生まれる。
原題は「Les Olympiades, Paris 13e」。
つまり、24年にオリンピックが開かれるまでの、パリ13区の今の風景という訳だ。
パリの中心を流れるセーヌ川の左岸、市の南部に位置する13区は、華やかなシャンゼリゼ通りのある1区や、世界遺産のノートルダム大聖堂が鎮座する4区と異なり、20世紀後半に再開発が進み、コンクリートのそっけない巨大団地が立ち並ぶエリア。
アジア系の移民が多いほか、大学街のカルチェ・ラタンに近く、比較的家賃が安いことから若者たちが集まってくる。
私たちがイメージする、史的な建造物が立ち並ぶ花の都パリとは、大きく異なる風景が広がっている街なのである。
実際映画に出てくるのも、アパートに商店街に学校と、ごく普通の都市の風景だが、オーディアールは13区を極めて映画的に描写する。
冒頭の空撮映像に見られる、幾何学的な都市の造形がもたらす映像美は、同一パターンで構成された現代の街だからこその映像美と言えるだろう。
スタイリッシュな映像は、フランスのアーティスト、ローンが手がけたエモーショナルな電子音楽と一体化し、物語にダイナミックな躍動感を作り上げる。
例えば、台湾系のエミリーが、勤務する中華料理店で、突然踊り出すシーンは、人間とカメラと音楽が一体となった本作の白眉と言って良い。
四人の若者のうち、物語の軸となるのもそのエミリーだ。
演じるルーシー・チャンは、実際に生まれも育ちも13区という地元っ子だという。
彼女は高学歴にも関わらず、コールセンターに勤め、そこをクビになるとウェイトレスに。
人との円滑な付き合いが苦手な奔放なキャラクターで、引っ越してきたカミーユとも、すぐにセックスするようになるのだが、恋人にはならない。
カミーユも、多くの女性と関係を重ねているが、誰とも深い仲にはならないのだ。
同じ頃、30代の大学生となったノラは、若い学生たちに馴染めず、ポルノ女優のアンバーそっくりだと噂を流されて、学校に行けなくなる。
彼女は、職場同僚となったカミーユと接近するが、同時に噂の元となったアンバーとネットで繋がり、いつの間にか親友になっているのだ。
体では繋がっても、心はそれを拒否する。
あるいは、現実では繋がれなくても、ネットでは親密になれる。
お互いの関係に問題を抱えた四人は、同じ街の中でくっ付いたり離れたりしつつ葛藤し、やがてそれぞれの愛を見つける。
レイティングは「R18+」だから、性愛の描写もたっぷりで、フランス製のアートなロマンポルノという風合いもある。
ただバッチリ決め込まれたモノクロの映像ゆえ、画的な生々しさは希薄であんまりエロさは感じない。
脚本が69歳のオーディアールと、セリーヌ・シアマ、レア・ミシウスという一回り以上若い女性作家との共作なのだが、三人の女性キャラクターの造形は、シアマの傑作「燃ゆる女の肖像」を思わせる要素も。
オーディアールのストーリーテラーとしての独特な外連味と、女性作家たちによるリアルなキャラクター造形は、魅力的なコラボレーションとなっている。
エミリーはアジア系、カミーユはアフリカ系、ノラとアンバーはヨーロッパ系、ここには世界中から人々が集まる、現在のパリの縮図がある。
多民族国家をまとめ上げるのは愛。
フランスの今を生きいきと描いた、瑞々しい青春グラフィティ。
古希にしてこれを撮るって、オーディアールの若々しい精神に脱帽だ。
今回は、心に渇きを抱えた若者たちの話なので、「モヒート」をチョイス。
カクテルには花言葉のようにカクテル言葉があって、モヒートは「私の渇きを癒して」だとか。
大きめのタンブラーにイエルパブエナ(キューバミント)千切って入れ、ライムジュース30ml、砂糖2tspを加え、バースプーンなどで軽く潰す。
ラム40mlと適量なソーダを加え、氷とミントを追加して完成。
モヒートという名前は、スペイン語の「mojar(濡れる)」に由来し、タンブラーの表面が結露して濡れることからと言われる。
ちなみにイエルパブエナは育てやすく、どんどん葉をつけるので観葉植物としてもオススメ。
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「ディーパンの闘い」のジャック・オーディアールが描く、現在のパリに生きる若者たちの群像劇。
入院中の祖母の所有する、パリ13区のアパートに住む台湾系女性のエミリーは、ルームメイトに応募してきた教師のカミーユと出会う。
一方、32歳で大学に復学するノラは、ひょんなことからポルノ女優のアンバーと関わりを持つ。
やがてノラとカミーユは職場の同僚となるのだが、カミーユがヤリチンのプレイボーイで、奇妙な四角関係が生まれる。
原題は「Les Olympiades, Paris 13e」。
つまり、24年にオリンピックが開かれるまでの、パリ13区の今の風景という訳だ。
パリの中心を流れるセーヌ川の左岸、市の南部に位置する13区は、華やかなシャンゼリゼ通りのある1区や、世界遺産のノートルダム大聖堂が鎮座する4区と異なり、20世紀後半に再開発が進み、コンクリートのそっけない巨大団地が立ち並ぶエリア。
アジア系の移民が多いほか、大学街のカルチェ・ラタンに近く、比較的家賃が安いことから若者たちが集まってくる。
私たちがイメージする、史的な建造物が立ち並ぶ花の都パリとは、大きく異なる風景が広がっている街なのである。
実際映画に出てくるのも、アパートに商店街に学校と、ごく普通の都市の風景だが、オーディアールは13区を極めて映画的に描写する。
冒頭の空撮映像に見られる、幾何学的な都市の造形がもたらす映像美は、同一パターンで構成された現代の街だからこその映像美と言えるだろう。
スタイリッシュな映像は、フランスのアーティスト、ローンが手がけたエモーショナルな電子音楽と一体化し、物語にダイナミックな躍動感を作り上げる。
例えば、台湾系のエミリーが、勤務する中華料理店で、突然踊り出すシーンは、人間とカメラと音楽が一体となった本作の白眉と言って良い。
四人の若者のうち、物語の軸となるのもそのエミリーだ。
演じるルーシー・チャンは、実際に生まれも育ちも13区という地元っ子だという。
彼女は高学歴にも関わらず、コールセンターに勤め、そこをクビになるとウェイトレスに。
人との円滑な付き合いが苦手な奔放なキャラクターで、引っ越してきたカミーユとも、すぐにセックスするようになるのだが、恋人にはならない。
カミーユも、多くの女性と関係を重ねているが、誰とも深い仲にはならないのだ。
同じ頃、30代の大学生となったノラは、若い学生たちに馴染めず、ポルノ女優のアンバーそっくりだと噂を流されて、学校に行けなくなる。
彼女は、職場同僚となったカミーユと接近するが、同時に噂の元となったアンバーとネットで繋がり、いつの間にか親友になっているのだ。
体では繋がっても、心はそれを拒否する。
あるいは、現実では繋がれなくても、ネットでは親密になれる。
お互いの関係に問題を抱えた四人は、同じ街の中でくっ付いたり離れたりしつつ葛藤し、やがてそれぞれの愛を見つける。
レイティングは「R18+」だから、性愛の描写もたっぷりで、フランス製のアートなロマンポルノという風合いもある。
ただバッチリ決め込まれたモノクロの映像ゆえ、画的な生々しさは希薄であんまりエロさは感じない。
脚本が69歳のオーディアールと、セリーヌ・シアマ、レア・ミシウスという一回り以上若い女性作家との共作なのだが、三人の女性キャラクターの造形は、シアマの傑作「燃ゆる女の肖像」を思わせる要素も。
オーディアールのストーリーテラーとしての独特な外連味と、女性作家たちによるリアルなキャラクター造形は、魅力的なコラボレーションとなっている。
エミリーはアジア系、カミーユはアフリカ系、ノラとアンバーはヨーロッパ系、ここには世界中から人々が集まる、現在のパリの縮図がある。
多民族国家をまとめ上げるのは愛。
フランスの今を生きいきと描いた、瑞々しい青春グラフィティ。
古希にしてこれを撮るって、オーディアールの若々しい精神に脱帽だ。
今回は、心に渇きを抱えた若者たちの話なので、「モヒート」をチョイス。
カクテルには花言葉のようにカクテル言葉があって、モヒートは「私の渇きを癒して」だとか。
大きめのタンブラーにイエルパブエナ(キューバミント)千切って入れ、ライムジュース30ml、砂糖2tspを加え、バースプーンなどで軽く潰す。
ラム40mlと適量なソーダを加え、氷とミントを追加して完成。
モヒートという名前は、スペイン語の「mojar(濡れる)」に由来し、タンブラーの表面が結露して濡れることからと言われる。
ちなみにイエルパブエナは育てやすく、どんどん葉をつけるので観葉植物としてもオススメ。

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2022年04月19日 (火) | 編集 |
国家は、信頼するに値するか。
「親愛なる同志たちへ」は、齢84歳となるロシアの巨匠アンドレイ・コンチャロフスキーが、1962年に当時のソ連南部ノボチェルカッスクで起こった、大規模なデモ弾圧事件を描いた実話ベースの作品。
物語の主人公は、共産党とスターリンの信奉者で、党の市政委員を努めるリューダ。
つまり、バリバリの体制側の人間だ。
ところが、彼女の18歳の娘が、デモ隊への発砲騒動の最中行方不明となる。
殺されたのか、治安当局によって連行されたのか、それとも隠れているのかも不明なまま、時間だけが過ぎてゆく。
リューダは、一個人として信じていた体制への忠誠心と、母としての娘への愛の間で引き裂かれてしまうのだ。
ノボチェルカッスクはウクライナに近く、かつてはロシア帝国とたびたび敵対し、最後は赤軍によって滅ぼされたドン・コサック軍の中心都市。
歴史的な経緯から、モスクワとの関係は初めから微妙なところに、食糧難と賃金カットが重なったことで、列車の工場でストが起こり、市民を巻き込んだデモへと発展。
そんな怒れる人々を見ても、リューダは彼らは無知な暴徒であり、全員逮捕すべきと主張する。
だが権力の暴力が自分達にも向けられ、娘が行方不明となってもなお、彼女は共産党しか信じる拠り所がないのだ。
1千万人とも言われる犠牲者を出したスターリンの独裁時代を懐かしみ、「白黒がはっきりしていた良い時代だった」と嘯く。
この人を見ていると、どうしても世界を敵と味方に分け、プーチンを信奉するロシアの保守層を連想する。
そして射殺した市民の死体を隠し、モスクワにとって、都合の悪い事態は無かったことにする、極端な隠蔽体質も完全にデジャヴだ。
自国民にすらこれだから、今は外国になったウクライナに遠慮がある訳がない。
一つの価値観(思想)にどっぷり浸かると、二元論でしか物事を見られなくなり、世界は本当に狭くなってしまうのである。
実は本作を鑑賞した直後に、もう一つロシア絡みで「潜水艦クルスクの生存者たち」という作品を観た。
こちらは2000年8月に、バレンツ海で魚雷の爆発事故を起こし、沈没したロシア海軍の原子力潜水艦クルスクで、最初の爆発を生き残った23人の運命と、事件の顛末を描く物語だ。
時代もシチュエーションも全く違うのだが、両作品には驚くほど共通点が多い。
ロシア海軍の救難潜水艇は、メンテナンスもろくに行われていないポンコツで、何度トライしても救出出来ない。
見かねた英国などが援助を申し出ても、ロシアは頑なに受け入れない。
潜水艦は軍事機密の塊だから・・・と言うより、上層部のメンツのため。
挙句の果てには事故原因は分かってるのに、外国船と衝突したのでNATOのせいとか、誰が聞いても分かる子どもじみた嘘を言い張る。
乗組員には当然家族がいる訳で、水兵の妻たちは、最初こそ海軍の言い分を信じようとするものの、並べられる嘘八百にいつしか「ああ、コイツら助ける気無いな」と気付く。
海底で救助を待ち続ける、生存者たちの絶望感は言わずもがなだ。
非常に印象的に描写されるのが、大人たちの醜態を見守る乗組員の幼い息子の視線。
彼らが少しでも恥の意味を知っていれば、子供にあんな姿は見せられないだろう。
思いっきりロシアの恥部を描く話なので、製作国はフランスだし、監督も「アナザーラウンド」などで知られるデンマークのトマス・ヴィンターベア。
キャストもヨーロッパ中心の英語劇なんだが、話の内容は実におそロシアだ。
「クルスク」が本国では制作されず、「親愛なる同志たち」は制作可能だったのは、ひとえに現在のロシアは旧ソ連とは違う国だという建前があったからだろう。
しかし、おそらく後者も今では作れない映画だと思う。
62年のソ連時代を舞台とした「親愛なる同志たち」と、2000年を舞台とした「クルスク」で描かれるロシア、そして現在進行形の現実の戦争に見える今のロシアは驚くほど同一の社会だ。
恐ろしいまでの人命軽視に、極度の隠蔽体質、自分達にしか通用しない理屈をこね回し、息を吐くように嘘をつく。
実際にそれぞれの時代で起こったことの類似性を考えると、ロシアのお偉いさんの思考回路というのは、全く変わっていなかったのだろう。
というか「クルスク」を観ると、ヨーロッパの人たちも、ずっとそういう目でロシアを観察してたのが伝わってくる。
分かってたのに、どこかで今のロシアは旧ソ連とは違う国だと信じたかったのかもしれない。
ちなみにクスルクの事故は、プーチンが大統領になってすぐに起こったのだが、軍の上層部は正確な情報をなかなか伝えず、結果的に彼は何もせず数日を過ごし、非難されたという。
これも最近聞いたような話で、こんなところまで、全く進歩してないんだな。
二本の映画と現実から見えてくるのは、ある種のロシア論であり、非常に興味深い。
はたして、ユーラシア大陸の巨人は、どこへ向かって歩いているのだろう。
今回は、かつてはロシア皇帝の御用達だったウォッカの「スミノフ」をチョイス。
とは言ってもロシア革命で創業家のスミルノフ家が弾圧され、一族はフランスへと亡命。
現在のスミノフは英国企業の傘下で、日本向けのウォッカは韓国の工場で生産されている。
岸田政権は対ロシア制裁で、ウォッカの禁輸を打ち出したが、これはロシア製ではないので、当然対象外。
心おきなく飲めるが、冷凍庫でシャーベット状になるまで冷やし、適量のソーダで割るのが好き。
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「親愛なる同志たちへ」は、齢84歳となるロシアの巨匠アンドレイ・コンチャロフスキーが、1962年に当時のソ連南部ノボチェルカッスクで起こった、大規模なデモ弾圧事件を描いた実話ベースの作品。
物語の主人公は、共産党とスターリンの信奉者で、党の市政委員を努めるリューダ。
つまり、バリバリの体制側の人間だ。
ところが、彼女の18歳の娘が、デモ隊への発砲騒動の最中行方不明となる。
殺されたのか、治安当局によって連行されたのか、それとも隠れているのかも不明なまま、時間だけが過ぎてゆく。
リューダは、一個人として信じていた体制への忠誠心と、母としての娘への愛の間で引き裂かれてしまうのだ。
ノボチェルカッスクはウクライナに近く、かつてはロシア帝国とたびたび敵対し、最後は赤軍によって滅ぼされたドン・コサック軍の中心都市。
歴史的な経緯から、モスクワとの関係は初めから微妙なところに、食糧難と賃金カットが重なったことで、列車の工場でストが起こり、市民を巻き込んだデモへと発展。
そんな怒れる人々を見ても、リューダは彼らは無知な暴徒であり、全員逮捕すべきと主張する。
だが権力の暴力が自分達にも向けられ、娘が行方不明となってもなお、彼女は共産党しか信じる拠り所がないのだ。
1千万人とも言われる犠牲者を出したスターリンの独裁時代を懐かしみ、「白黒がはっきりしていた良い時代だった」と嘯く。
この人を見ていると、どうしても世界を敵と味方に分け、プーチンを信奉するロシアの保守層を連想する。
そして射殺した市民の死体を隠し、モスクワにとって、都合の悪い事態は無かったことにする、極端な隠蔽体質も完全にデジャヴだ。
自国民にすらこれだから、今は外国になったウクライナに遠慮がある訳がない。
一つの価値観(思想)にどっぷり浸かると、二元論でしか物事を見られなくなり、世界は本当に狭くなってしまうのである。
実は本作を鑑賞した直後に、もう一つロシア絡みで「潜水艦クルスクの生存者たち」という作品を観た。
こちらは2000年8月に、バレンツ海で魚雷の爆発事故を起こし、沈没したロシア海軍の原子力潜水艦クルスクで、最初の爆発を生き残った23人の運命と、事件の顛末を描く物語だ。
時代もシチュエーションも全く違うのだが、両作品には驚くほど共通点が多い。
ロシア海軍の救難潜水艇は、メンテナンスもろくに行われていないポンコツで、何度トライしても救出出来ない。
見かねた英国などが援助を申し出ても、ロシアは頑なに受け入れない。
潜水艦は軍事機密の塊だから・・・と言うより、上層部のメンツのため。
挙句の果てには事故原因は分かってるのに、外国船と衝突したのでNATOのせいとか、誰が聞いても分かる子どもじみた嘘を言い張る。
乗組員には当然家族がいる訳で、水兵の妻たちは、最初こそ海軍の言い分を信じようとするものの、並べられる嘘八百にいつしか「ああ、コイツら助ける気無いな」と気付く。
海底で救助を待ち続ける、生存者たちの絶望感は言わずもがなだ。
非常に印象的に描写されるのが、大人たちの醜態を見守る乗組員の幼い息子の視線。
彼らが少しでも恥の意味を知っていれば、子供にあんな姿は見せられないだろう。
思いっきりロシアの恥部を描く話なので、製作国はフランスだし、監督も「アナザーラウンド」などで知られるデンマークのトマス・ヴィンターベア。
キャストもヨーロッパ中心の英語劇なんだが、話の内容は実におそロシアだ。
「クルスク」が本国では制作されず、「親愛なる同志たち」は制作可能だったのは、ひとえに現在のロシアは旧ソ連とは違う国だという建前があったからだろう。
しかし、おそらく後者も今では作れない映画だと思う。
62年のソ連時代を舞台とした「親愛なる同志たち」と、2000年を舞台とした「クルスク」で描かれるロシア、そして現在進行形の現実の戦争に見える今のロシアは驚くほど同一の社会だ。
恐ろしいまでの人命軽視に、極度の隠蔽体質、自分達にしか通用しない理屈をこね回し、息を吐くように嘘をつく。
実際にそれぞれの時代で起こったことの類似性を考えると、ロシアのお偉いさんの思考回路というのは、全く変わっていなかったのだろう。
というか「クルスク」を観ると、ヨーロッパの人たちも、ずっとそういう目でロシアを観察してたのが伝わってくる。
分かってたのに、どこかで今のロシアは旧ソ連とは違う国だと信じたかったのかもしれない。
ちなみにクスルクの事故は、プーチンが大統領になってすぐに起こったのだが、軍の上層部は正確な情報をなかなか伝えず、結果的に彼は何もせず数日を過ごし、非難されたという。
これも最近聞いたような話で、こんなところまで、全く進歩してないんだな。
二本の映画と現実から見えてくるのは、ある種のロシア論であり、非常に興味深い。
はたして、ユーラシア大陸の巨人は、どこへ向かって歩いているのだろう。
今回は、かつてはロシア皇帝の御用達だったウォッカの「スミノフ」をチョイス。
とは言ってもロシア革命で創業家のスミルノフ家が弾圧され、一族はフランスへと亡命。
現在のスミノフは英国企業の傘下で、日本向けのウォッカは韓国の工場で生産されている。
岸田政権は対ロシア制裁で、ウォッカの禁輸を打ち出したが、これはロシア製ではないので、当然対象外。
心おきなく飲めるが、冷凍庫でシャーベット状になるまで冷やし、適量のソーダで割るのが好き。

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2022年04月14日 (木) | 編集 |
彼は英雄か悪人か。
人間の繊細で複雑な心理を描き出す、イランの異才アスガー・ファルファディの最新作。
この人は「別離」でオスカーを受賞して以降は、「ある過去の行方」や「誰もがそれを知っている」などヨーロッパでも作品を作っているが、やはりイスラム社会のスパイスが効く母国イランを舞台とした話が真骨頂。
今までの作品はごく平凡な市井の人々を描いて来たが、今回はちょっと趣が違う。
アミール・ジャディディが演じる主人公のラヒムは、借金の罪で服役中の囚人なのだ。
休暇をとり一時的に出獄中に、落とし物の金貨を手に入れる。
金貨を返済に充てれば、借金の一部を返すことが出来、示談して出所する目処もつく。
しかし彼は悩んだ末に、金貨を落とし主に返すことを決めるのである。
囚人という“信頼出来ない語り部”を主人公に、真実とは、正義とはという人間社会の葛藤の根源が見えて来る仕掛け。
ちなみにレイフ・ファインズ監督の同一邦題の映画があるが、あちらはシェイクスピアの「コリオレイナス」の映画化なので内容は全く無関係だ。
ラヒム・ソルタニ(アミール・ジャディディ)は借金の罪で投獄され、服役している。
ある時、婚約者のファルコンデ(サハル・ゴルデュースト)が17枚の金貨を拾う。
金貨を換金すれば、借金を返せるかも知れない。
休暇をとって外に出たラヒムは、ファルコンデと共に両替商に持ち込むが、返済に十分な額にはならなかった。
悩んだラヒムは、これも神の意志と考え、金貨を落とし主に返すことを決意する。
その小さな善行は、刑務所幹部の知るところとなり、彼らは刑務所の不祥事から目を反らせるために、ラヒムの行為を大々的にメディアで報じさせる。
世知辛い世の中で、善意の囚人の物語は大きな反響を呼び、一躍時の人となったラヒムは再び休暇を与えられ、チャリティー団体の表彰式に出席し、借金返済のための寄付金も集まり出す。
しかし、ラヒムを信じていない貸主のバーラム(モーセン・タナバンデ)は頑なに示談を拒否。
そもそもこの話自体が、世間の同情を集めるための作り話だという噂がSNSに広まったことから、ラヒムには一転して疑惑の目が向けられる。
刑務所に逆戻りもあり得る事態に、焦ったラヒムは決定的な嘘をついてしまう・・・
イランでは、死刑も金で取り消せるのは知ってたけど、借金返済が滞り貸主が訴えると刑務所行きで、服役中にも“休暇”が取れて一時的に外に出られるのは知らなかった。
つくづく、不思議な法体系の国だ。
ラヒムがバーラムから借りたのは、1億5000万トマン。
1円がだいたい3トマンだから、日本円にしたら5000万円くらいか。
平均年収が日本の1/7程度の国だから、まあ相当にデカい借金を抱えたのは想像出来る。
一度は金貨を使って返そうという誘惑に駆られるが、結局換金しても借金の総額には遠く及ばないことが分かり、ラヒムは落とし主を探して返すことを決意。
落とし主の女性はすぐに見つかり、金貨は無事に返還されるのだが、このことを刑務所の幹部たちが知ってしまったことで、話が大きくなってゆく。
刑務所では囚人が自殺する事件が起こっていて、世間の批判から目をそらせるためにラヒムの善行が利用されるのである。
善意の囚人としてTVが取材し、ラヒムの借金を返済するためのチャリティーイベントも開かれ、雇用先まで紹介される。
全てが好転すると思われたが、借金の貸主のバーラムはラヒムを全く信用してない。
ここがこの作品のポイントで、観客は映画で描かれている物語より以前のラヒムを知らないし、この映画の世界の世間の人はもっと知らないのだ。
だから彼は、初めから“疑惑の人物”なのである。
とりあえず金貨は返したものの、それは本当に善意からの行動だったのか?
もし拾った金貨がもっと多くて、借金を全額返せる額だったとしたら、彼は返しただろうか?
こう考え出すと、どこまでが善意で、どこまでが打算なのか分からなくなってくる。
そもそもこの話自体が、罪を免れるための作り話なのでは?と言う噂が広まり出すと、世間の掌返しは早い。
それまで語られていたことの細かな矛盾が、重箱の隅をつつく様にして浮かび上がってくる。
姉の家の番号でなく、わざわざ刑務所の番号をチラシに書いたのはなぜか?
実際に金貨を拾ったのはファルコンデなのに、TVで自分が拾ったと言ったのは嘘ではないか?
吃音に苦しむ幼い息子を、マスコミに晒すのは同情を集めるための演出ではないか?
ラヒムの視点で物語を知っている観客は、もともとことが世間に知られたのは偶然であって、ラヒムは基本的には善意で行動したと思っているが、世間はそうではない。
彼の言うことが正しいと証明できる唯一の人物は落とし主の女性だが、彼女は音信不通でどこにいるのかも分からない。
そして、事態を打開しようと焦ったラヒムは、ファルコンデを落とし主の女性としてでっち上げるという、決定的な嘘をついてしまうのだ。
ここへ来て、観客にも分からなくなる。
金貨を返したことは事実だが、本当のラヒムはペテン師体質の人間なのかも知れない。
バーラムがあそこまで怒っているのは、過去に人間性を疑わせる様な、相当な不義理を働いたのではないのか。
彼は本当に善意の英雄なのか、偶然手に入れたチャンスを使って、全てをチャラにしようとしてる悪人なのか。
ラヒムが普通の市民ではなく、現実に膨大な額の借金を作った囚人であるという事実が、彼をいわゆる“信頼出来ない語り部”とし、観客を惑わすのである。
SNSがそのまま世論となるのは、もう世界中どこでも同じなのだろうが、日本映画よくある「画面に文字が溢れる」みたいな演出が無いのはよかった。
主人公が直接見聞きする、身の回り半径10メートルの出来事に絞ったおかげで、自分の知らない間に、状況がどんどん悪化しているのがリアルに感じ取れる。
少なくとも映画の物語の中では、誰も悪くない。
確かにラヒムは正しいことをしたが、バーラムの恨みを買うようなことをしたのも多分事実であって、彼の怒りも理解できる。
しかし、やっと好転しそうな人生を守ろうとつい嘘をついて、そのことが更なる疑念を生み、遂にはファルコンデや幼い息子まで、残酷な形で巻き込んでしまうのは、悲劇の連鎖としか言いようがない。
再びどん底に落ちたラヒムが「最後に守ったのは何?」という話は、イラン的であるのと同時に、世界のどこでも説得力たっぷりの普遍的なもの。
人間の社会では、正しい行動が常に報われとは限らないが、少なくとも観客は彼が何者だったのかは知っている。
相変わらず素晴らしい心理劇だが、本作に盗作疑惑が出たことで、ファルハディがラヒムと同じ様に、疑惑の人物化してしまったのは皮肉だ。
こちらの真偽は裁判の結果待ちだが、表に出てきてる事実関係だけ見ると、完全に無関係とは言い切れない感じ。
果たしてイランのSNS上では、訴えた方と訴えられた方、どっちが優勢なのだろう。
本作で主人公に訪れたチャンスは泡沫の夢で終わってしまったが、改めてカクテルの「ドリーム」をチョイス。
ブランデー40ml、オレンジキュラソー20ml、ペルノ1dashを氷と一緒にシェイクし、グラスに注ぐ。
コクのあるブランデーと、オレンジキュラソーの清涼な甘味のハーモニーに、ベルノがアクセントを加える。
その名の通り、ナイトキャップにするといい夢が見られる。
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人間の繊細で複雑な心理を描き出す、イランの異才アスガー・ファルファディの最新作。
この人は「別離」でオスカーを受賞して以降は、「ある過去の行方」や「誰もがそれを知っている」などヨーロッパでも作品を作っているが、やはりイスラム社会のスパイスが効く母国イランを舞台とした話が真骨頂。
今までの作品はごく平凡な市井の人々を描いて来たが、今回はちょっと趣が違う。
アミール・ジャディディが演じる主人公のラヒムは、借金の罪で服役中の囚人なのだ。
休暇をとり一時的に出獄中に、落とし物の金貨を手に入れる。
金貨を返済に充てれば、借金の一部を返すことが出来、示談して出所する目処もつく。
しかし彼は悩んだ末に、金貨を落とし主に返すことを決めるのである。
囚人という“信頼出来ない語り部”を主人公に、真実とは、正義とはという人間社会の葛藤の根源が見えて来る仕掛け。
ちなみにレイフ・ファインズ監督の同一邦題の映画があるが、あちらはシェイクスピアの「コリオレイナス」の映画化なので内容は全く無関係だ。
ラヒム・ソルタニ(アミール・ジャディディ)は借金の罪で投獄され、服役している。
ある時、婚約者のファルコンデ(サハル・ゴルデュースト)が17枚の金貨を拾う。
金貨を換金すれば、借金を返せるかも知れない。
休暇をとって外に出たラヒムは、ファルコンデと共に両替商に持ち込むが、返済に十分な額にはならなかった。
悩んだラヒムは、これも神の意志と考え、金貨を落とし主に返すことを決意する。
その小さな善行は、刑務所幹部の知るところとなり、彼らは刑務所の不祥事から目を反らせるために、ラヒムの行為を大々的にメディアで報じさせる。
世知辛い世の中で、善意の囚人の物語は大きな反響を呼び、一躍時の人となったラヒムは再び休暇を与えられ、チャリティー団体の表彰式に出席し、借金返済のための寄付金も集まり出す。
しかし、ラヒムを信じていない貸主のバーラム(モーセン・タナバンデ)は頑なに示談を拒否。
そもそもこの話自体が、世間の同情を集めるための作り話だという噂がSNSに広まったことから、ラヒムには一転して疑惑の目が向けられる。
刑務所に逆戻りもあり得る事態に、焦ったラヒムは決定的な嘘をついてしまう・・・
イランでは、死刑も金で取り消せるのは知ってたけど、借金返済が滞り貸主が訴えると刑務所行きで、服役中にも“休暇”が取れて一時的に外に出られるのは知らなかった。
つくづく、不思議な法体系の国だ。
ラヒムがバーラムから借りたのは、1億5000万トマン。
1円がだいたい3トマンだから、日本円にしたら5000万円くらいか。
平均年収が日本の1/7程度の国だから、まあ相当にデカい借金を抱えたのは想像出来る。
一度は金貨を使って返そうという誘惑に駆られるが、結局換金しても借金の総額には遠く及ばないことが分かり、ラヒムは落とし主を探して返すことを決意。
落とし主の女性はすぐに見つかり、金貨は無事に返還されるのだが、このことを刑務所の幹部たちが知ってしまったことで、話が大きくなってゆく。
刑務所では囚人が自殺する事件が起こっていて、世間の批判から目をそらせるためにラヒムの善行が利用されるのである。
善意の囚人としてTVが取材し、ラヒムの借金を返済するためのチャリティーイベントも開かれ、雇用先まで紹介される。
全てが好転すると思われたが、借金の貸主のバーラムはラヒムを全く信用してない。
ここがこの作品のポイントで、観客は映画で描かれている物語より以前のラヒムを知らないし、この映画の世界の世間の人はもっと知らないのだ。
だから彼は、初めから“疑惑の人物”なのである。
とりあえず金貨は返したものの、それは本当に善意からの行動だったのか?
もし拾った金貨がもっと多くて、借金を全額返せる額だったとしたら、彼は返しただろうか?
こう考え出すと、どこまでが善意で、どこまでが打算なのか分からなくなってくる。
そもそもこの話自体が、罪を免れるための作り話なのでは?と言う噂が広まり出すと、世間の掌返しは早い。
それまで語られていたことの細かな矛盾が、重箱の隅をつつく様にして浮かび上がってくる。
姉の家の番号でなく、わざわざ刑務所の番号をチラシに書いたのはなぜか?
実際に金貨を拾ったのはファルコンデなのに、TVで自分が拾ったと言ったのは嘘ではないか?
吃音に苦しむ幼い息子を、マスコミに晒すのは同情を集めるための演出ではないか?
ラヒムの視点で物語を知っている観客は、もともとことが世間に知られたのは偶然であって、ラヒムは基本的には善意で行動したと思っているが、世間はそうではない。
彼の言うことが正しいと証明できる唯一の人物は落とし主の女性だが、彼女は音信不通でどこにいるのかも分からない。
そして、事態を打開しようと焦ったラヒムは、ファルコンデを落とし主の女性としてでっち上げるという、決定的な嘘をついてしまうのだ。
ここへ来て、観客にも分からなくなる。
金貨を返したことは事実だが、本当のラヒムはペテン師体質の人間なのかも知れない。
バーラムがあそこまで怒っているのは、過去に人間性を疑わせる様な、相当な不義理を働いたのではないのか。
彼は本当に善意の英雄なのか、偶然手に入れたチャンスを使って、全てをチャラにしようとしてる悪人なのか。
ラヒムが普通の市民ではなく、現実に膨大な額の借金を作った囚人であるという事実が、彼をいわゆる“信頼出来ない語り部”とし、観客を惑わすのである。
SNSがそのまま世論となるのは、もう世界中どこでも同じなのだろうが、日本映画よくある「画面に文字が溢れる」みたいな演出が無いのはよかった。
主人公が直接見聞きする、身の回り半径10メートルの出来事に絞ったおかげで、自分の知らない間に、状況がどんどん悪化しているのがリアルに感じ取れる。
少なくとも映画の物語の中では、誰も悪くない。
確かにラヒムは正しいことをしたが、バーラムの恨みを買うようなことをしたのも多分事実であって、彼の怒りも理解できる。
しかし、やっと好転しそうな人生を守ろうとつい嘘をついて、そのことが更なる疑念を生み、遂にはファルコンデや幼い息子まで、残酷な形で巻き込んでしまうのは、悲劇の連鎖としか言いようがない。
再びどん底に落ちたラヒムが「最後に守ったのは何?」という話は、イラン的であるのと同時に、世界のどこでも説得力たっぷりの普遍的なもの。
人間の社会では、正しい行動が常に報われとは限らないが、少なくとも観客は彼が何者だったのかは知っている。
相変わらず素晴らしい心理劇だが、本作に盗作疑惑が出たことで、ファルハディがラヒムと同じ様に、疑惑の人物化してしまったのは皮肉だ。
こちらの真偽は裁判の結果待ちだが、表に出てきてる事実関係だけ見ると、完全に無関係とは言い切れない感じ。
果たしてイランのSNS上では、訴えた方と訴えられた方、どっちが優勢なのだろう。
本作で主人公に訪れたチャンスは泡沫の夢で終わってしまったが、改めてカクテルの「ドリーム」をチョイス。
ブランデー40ml、オレンジキュラソー20ml、ペルノ1dashを氷と一緒にシェイクし、グラスに注ぐ。
コクのあるブランデーと、オレンジキュラソーの清涼な甘味のハーモニーに、ベルノがアクセントを加える。
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2022年04月10日 (日) | 編集 |
生まれてくるモノは・・・?
これはヤバい、ぶっ飛んでる。
ベジタリアン一家に育った少女が、初めて肉を食べたことから、抑えられないカニバリズム衝動を覚醒させる「RAW〜少女の目覚め〜」で、鮮烈な長編デビューを飾った、ジュリア・デュクルノー監督の第二作。
幼少期に交通事故に遭い、頭蓋骨にチタンのプレートを埋め込まれたアレクシアが主人公。
大人になった彼女は、モーターショーでモデルとして働いているのだが、無機物である車に対して性的な欲情を抱くようになっている。
ある日、勝手に動いて彼女の家にやってきた、ホットなアメ車とセックスして絶頂、“何か”を妊娠する。
膣からはモーターオイルが溢れ出し、お腹も少しづつ大きくなる。
これだけでも相当に変なんだが、アガト・ルセルが怪演するアレクシアは、でっかい鉄箸の様な髪飾りを身に付けていて、これを使って見境無しに人を殺しちゃうシリアルキラーでもあるのだ。
どんだけキャラクターの情報量多いねん。
スタイリッシュな映像と音楽に彩られ、エロスとバイオレンス、高度な芸術性と見せ物趣味的な俗っぽさが混じり合う展開は刺激的。
「RAW」の主人公だったガランス・マリリエール演じる同僚(役名も同じJustine)を衝動的に殺したアレクシアは、家に居合わせた彼女の友人たちも皆殺しにし、成り行きで自宅に放火し自分の両親も殺しちゃう。
しかし同僚の家から唯一逃れた女性に通報され、全国に指名手配される。
追われる身となったアレクシアは、サラシを巻いて胸と腹を押さえつけ、髪を切り鼻を骨折する自傷行為で顔を変え、バンサン・ランドンが演じる消防士のヴィンセントの息子、エイドリアンと偽り、当面の安住の地を手に入れる。
エンドリアンは子供の頃に失踪し、ヴィンセントはずっと彼のことを探し続けていたのだ。
当然喋ると女だとバレちゃうので、偽エイドリアンは一切言葉を発さない設定にして乗り切ろうとする。
だが、お腹の中では“何か”が育ってどんどん大きくなるし、消防隊長のヴィンセントは屈強な老マッチョで簡単には殺せない。
消防隊の見習いとして常に人目のある隊舎で暮らすうちに、なんとなくヴィンセントの正体に疑いを持つ者も出てくる。
孤独なアレクシアには出て行こうにも当ては無く、八方塞がりの状況に追い込まれてゆくのだが、偽りの命を授かった彼女と、偽りの息子を取り戻したヴィンセントの間には、いつの間にか奇妙な絆が生まれている。
有機物と無機物の融合は、デュクルノーも影響を受けていると語るクローネンバーグの「ビデオドローム」をはじめとする一連の作品、塚本晋也の「鉄男」などでも描かれたが、何かを生み出すという行為が中心にあることからも分かるように、やはりデュクルノーの表現は女性性が強い。
主人公がもう少し年少だった「RAW」は、厳格な家庭で純粋培養された少女が、原始的な本能を覚醒させ、自分が命を食らい子を産み育てる一匹の獣であることを、初めて意識する物語だった。
性愛とリンクしたカニバリズム衝動は、本作の殺人衝動にそのまま繋がる。
流された血はモーターオイルの精液となり、死と生を交換する形で新たな生命が生まれて来る。
色々振り切り過ぎて、途中シリアスなのかギャグなのか、一体何を描く物語なのか分からなくなる時間もあるが、最後まで観ると、やはりこれは愛の話なんだなと思う。
男女の愛、親子の愛、擬似的な愛、フェティシズムの愛、色々な愛がメルティングポットの様に混じり合い、最終的に生まれてくるモノを受け止めた、ヴィンセントの表情が印象的。
ところで去年のカンヌは、これがパルムドールで「アネット」が監督賞。
「アネット」もぶっ飛んでるなと思ったが、本作を観てしまうとむしろ大人しく感じてしまう。
ちょっととんがり過ぎじゃないの?審査委員長誰?と思ったらスパイク・リーか・・・なるほど。
今回は、モーターオイルのような黒いカクテル「トロイの木馬」をチョイス。
ギネスビールが公式命名したカクテルで、氷を入れたタンブラーに、よく冷やしたスタウト(ギネス)を半分注ぎ、コーラで満たして完成。
コーラの清涼感で、スタウトのクセはかなり抑えられているので、スタウトが苦手な人でも飲みやすい。
スタウトもコーラも黒なので一見するとスタウト、だが飲んでみると内部にコーラの甘みが隠れていることが、ギリシャ神話の故事を思わせることから名付けられた。
アレクシスの胎内で、育ち続ける“何か”にも通じる話ではないか。
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これはヤバい、ぶっ飛んでる。
ベジタリアン一家に育った少女が、初めて肉を食べたことから、抑えられないカニバリズム衝動を覚醒させる「RAW〜少女の目覚め〜」で、鮮烈な長編デビューを飾った、ジュリア・デュクルノー監督の第二作。
幼少期に交通事故に遭い、頭蓋骨にチタンのプレートを埋め込まれたアレクシアが主人公。
大人になった彼女は、モーターショーでモデルとして働いているのだが、無機物である車に対して性的な欲情を抱くようになっている。
ある日、勝手に動いて彼女の家にやってきた、ホットなアメ車とセックスして絶頂、“何か”を妊娠する。
膣からはモーターオイルが溢れ出し、お腹も少しづつ大きくなる。
これだけでも相当に変なんだが、アガト・ルセルが怪演するアレクシアは、でっかい鉄箸の様な髪飾りを身に付けていて、これを使って見境無しに人を殺しちゃうシリアルキラーでもあるのだ。
どんだけキャラクターの情報量多いねん。
スタイリッシュな映像と音楽に彩られ、エロスとバイオレンス、高度な芸術性と見せ物趣味的な俗っぽさが混じり合う展開は刺激的。
「RAW」の主人公だったガランス・マリリエール演じる同僚(役名も同じJustine)を衝動的に殺したアレクシアは、家に居合わせた彼女の友人たちも皆殺しにし、成り行きで自宅に放火し自分の両親も殺しちゃう。
しかし同僚の家から唯一逃れた女性に通報され、全国に指名手配される。
追われる身となったアレクシアは、サラシを巻いて胸と腹を押さえつけ、髪を切り鼻を骨折する自傷行為で顔を変え、バンサン・ランドンが演じる消防士のヴィンセントの息子、エイドリアンと偽り、当面の安住の地を手に入れる。
エンドリアンは子供の頃に失踪し、ヴィンセントはずっと彼のことを探し続けていたのだ。
当然喋ると女だとバレちゃうので、偽エイドリアンは一切言葉を発さない設定にして乗り切ろうとする。
だが、お腹の中では“何か”が育ってどんどん大きくなるし、消防隊長のヴィンセントは屈強な老マッチョで簡単には殺せない。
消防隊の見習いとして常に人目のある隊舎で暮らすうちに、なんとなくヴィンセントの正体に疑いを持つ者も出てくる。
孤独なアレクシアには出て行こうにも当ては無く、八方塞がりの状況に追い込まれてゆくのだが、偽りの命を授かった彼女と、偽りの息子を取り戻したヴィンセントの間には、いつの間にか奇妙な絆が生まれている。
有機物と無機物の融合は、デュクルノーも影響を受けていると語るクローネンバーグの「ビデオドローム」をはじめとする一連の作品、塚本晋也の「鉄男」などでも描かれたが、何かを生み出すという行為が中心にあることからも分かるように、やはりデュクルノーの表現は女性性が強い。
主人公がもう少し年少だった「RAW」は、厳格な家庭で純粋培養された少女が、原始的な本能を覚醒させ、自分が命を食らい子を産み育てる一匹の獣であることを、初めて意識する物語だった。
性愛とリンクしたカニバリズム衝動は、本作の殺人衝動にそのまま繋がる。
流された血はモーターオイルの精液となり、死と生を交換する形で新たな生命が生まれて来る。
色々振り切り過ぎて、途中シリアスなのかギャグなのか、一体何を描く物語なのか分からなくなる時間もあるが、最後まで観ると、やはりこれは愛の話なんだなと思う。
男女の愛、親子の愛、擬似的な愛、フェティシズムの愛、色々な愛がメルティングポットの様に混じり合い、最終的に生まれてくるモノを受け止めた、ヴィンセントの表情が印象的。
ところで去年のカンヌは、これがパルムドールで「アネット」が監督賞。
「アネット」もぶっ飛んでるなと思ったが、本作を観てしまうとむしろ大人しく感じてしまう。
ちょっととんがり過ぎじゃないの?審査委員長誰?と思ったらスパイク・リーか・・・なるほど。
今回は、モーターオイルのような黒いカクテル「トロイの木馬」をチョイス。
ギネスビールが公式命名したカクテルで、氷を入れたタンブラーに、よく冷やしたスタウト(ギネス)を半分注ぎ、コーラで満たして完成。
コーラの清涼感で、スタウトのクセはかなり抑えられているので、スタウトが苦手な人でも飲みやすい。
スタウトもコーラも黒なので一見するとスタウト、だが飲んでみると内部にコーラの甘みが隠れていることが、ギリシャ神話の故事を思わせることから名付けられた。
アレクシスの胎内で、育ち続ける“何か”にも通じる話ではないか。

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2022年04月07日 (木) | 編集 |
愛と猫は逃げるもの。
今泉力哉と城定秀夫が、お互いの脚本をR15+指定のラブストーリーとして映画化する、ユニークなコラボ企画が「L/R15」だ。
先攻の「L」が今泉脚本、城定演出の「愛なのに」で、後攻の「R」が城定脚本、今泉演出の「猫は逃げた」になる。
一部の登場人物が重なっている他、かわいい白黒ハチワレ猫が両作品に登場して、世界をつなげる役割を果たす。
「愛なのに」では、瀬戸康史演じる古本屋の店主・多田浩司が、突然河合優実の女子高校生・矢野岬からプロポーズされ、戸惑う。
多田には、大学で出会って以来、ずっと好きだった人がいるのだが、彼女は別の男と婚約中。
しかし、男が浮気していたことから、彼女は自分も浮気をすると宣言し、なんとその相手に多田を指名する。
面白いのが、登場人物の背景情報がほとんど描写されないこと。
例えば多田はなぜ古本屋をやっているのか、誰からからどうやって受け継いだのか、それまでどんな人生を送ってきたのか、一方の岬は全く接点がなさそうな多田をどうやって知り、恋に落ちたのか。
通常のラブストーリーでは重要な要素になりそうな部分が、スッポリと抜け落ちているのだ。
大人の登場人物たちは、色々めんどくさい四角関係の中で、用意されたそれぞれの役割を演じ、対照的に、ひたすら真っ直ぐな岬の恋心のピュアさが際立つという寸法。
様々な愛のカタチを描く群像劇でもあり、キャラクターの掛け合いの楽しさに笑いっぱなし。
愛に迷って抱いた葛藤の解決法も、人それぞれ。
当初は31歳と16歳という年齢差に戸惑い、岬の「好きです」アピールを持て余し気味だった多田も、思いっきり打算的な大人の関係を経験した結果、徐々に岬の気持ちを受け入れてゆく。
まあ彼女の場合、もうちょっと大人になると、あっさり夢から覚めそうな気もするが、とりあえず多田の「愛を否定するな!」は、真理であり名言。
全体に、世界観やキャラクターはすごく今泉力哉っぽいのに、全体としては紛うことなき城定秀夫カラーに仕上がっている。
どんなにドロドロの展開でも、中心にはピュアなものがあるというのはいかにも今泉脚本らしいが、城定演出とのマッチングは非常に良く、両者の個性がグッと濃くなった印象。
これも強い作家性を持つ者同士のコラボの面白さか。
ストーリーとテリングを分離すると、ここまで分かりやすいハイブリッドなテイストになるとは思わなかった。
そして二本目の「猫は逃げた」は、愛猫カンタの親権で揉めている、離婚寸前の漫画家と雑誌記者夫婦の話。
山本奈衣瑠が演じる漫画家の町田亜子は、編集者と不倫の仲。
彼女の夫で週刊誌記者の町田広重が、「愛なのに」の多田の同窓生という設定なのだが、彼も彼で同僚とダブル不倫中。
夫婦はお互いに別れることには同意しているものの、なんとなくもろもろ割り切れなくて、猫をダシにして結論をズルズル引き伸ばしている状態で、お互いの新しい相手にはさっさと離婚しろとプレッシャーをかけられてる。
そんなある日、カンタが家に帰ってこなくなる。
一本目の「愛なのに」にも、チラチラ出てきた白黒猫が、こちらではある意味真の主役。
関係者の恋の嵐が静かに吹き荒れる中、その中心にいる物言わぬ狂言回しが猫という訳。
実際には、カンタはある人物の陰謀によって姿を消している訳だが、その人物も結果的に猫によって予測しなかった境地へと導かれる。
ちなみに俳優猫カンタの本名は、オセロというのだそう。
白黒猫だからだろうが、まさにこの二部作を表しているようで面白い。
私的イメージとしては、「愛なのに」が黒で、「猫は逃げた」が白。
なぜなら、作家同士のコラボによって、其々の色がグッと濃くなった「愛なのに」に対して、こちらはむしろ普段よりも作家性が薄色に感じる。
もちろんこれは決してつまらないと言う訳じゃなくて、こちらの方がより軽妙で喉ごしスッキリという意味。
「愛なのに」が濃厚なダークエールのポーターだとすれば、「猫は逃げた」はもうちょっとライトなペールエールなのだ。
両者のベッドシーンを比較してみても、城定演出はよりエロくネチっこく、今泉演出は割と淡白だから、これも両者の個性なのだろう。
画面のアスペクト比も、「愛なのに」はシネスコで「猫は逃げた」はスタンダードな16:9なのもそれぞれらしい。
この映画の猫は愛の象徴で、愛の迷路に迷ってしまった人間たちの導き手。
カンタがいなくなったことによって、登場人物全員が自分と向き合い、それぞれの結論にたどり着く。
自分の本当に大切なものが、本当はどこにあるのか気付かせてくれる、幸せの青い鳥みたいな存在なのだ。
その意味で「愛なのに」の場合には、登場人物の中でただ一人大人のはかりごととは無縁の岬が、「猫は逃げた」のカンタのポジションと言えるかも知れない。
どちらも物語の帰結する先はちょっと出来過ぎの気もするが、ほっこりさせてもらった。
また「猫は逃げた」は、カンタの出番自体はさほど多くないものの、その存在感は猫映画としても一級品だ。
あー、モフモフしたい。
今回は、2000年にブライアン・ベアードとさゆり夫婦によって、沼津に設立されたベアードビールから、ポーターの「黒船ポーター」とペールエールの「わびさび ジャパン ペールエール」の二本をチョイス。
シルキーでビターな正統派ポーターと、日本の夏にぴったりな清涼でドライなペールエールは、どちらも丁寧に作られていて飲み心地よし。
まさにオセロの表と裏のような味わいの違いを、飲み比べてみるのも楽しい。
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今泉力哉と城定秀夫が、お互いの脚本をR15+指定のラブストーリーとして映画化する、ユニークなコラボ企画が「L/R15」だ。
先攻の「L」が今泉脚本、城定演出の「愛なのに」で、後攻の「R」が城定脚本、今泉演出の「猫は逃げた」になる。
一部の登場人物が重なっている他、かわいい白黒ハチワレ猫が両作品に登場して、世界をつなげる役割を果たす。
「愛なのに」では、瀬戸康史演じる古本屋の店主・多田浩司が、突然河合優実の女子高校生・矢野岬からプロポーズされ、戸惑う。
多田には、大学で出会って以来、ずっと好きだった人がいるのだが、彼女は別の男と婚約中。
しかし、男が浮気していたことから、彼女は自分も浮気をすると宣言し、なんとその相手に多田を指名する。
面白いのが、登場人物の背景情報がほとんど描写されないこと。
例えば多田はなぜ古本屋をやっているのか、誰からからどうやって受け継いだのか、それまでどんな人生を送ってきたのか、一方の岬は全く接点がなさそうな多田をどうやって知り、恋に落ちたのか。
通常のラブストーリーでは重要な要素になりそうな部分が、スッポリと抜け落ちているのだ。
大人の登場人物たちは、色々めんどくさい四角関係の中で、用意されたそれぞれの役割を演じ、対照的に、ひたすら真っ直ぐな岬の恋心のピュアさが際立つという寸法。
様々な愛のカタチを描く群像劇でもあり、キャラクターの掛け合いの楽しさに笑いっぱなし。
愛に迷って抱いた葛藤の解決法も、人それぞれ。
当初は31歳と16歳という年齢差に戸惑い、岬の「好きです」アピールを持て余し気味だった多田も、思いっきり打算的な大人の関係を経験した結果、徐々に岬の気持ちを受け入れてゆく。
まあ彼女の場合、もうちょっと大人になると、あっさり夢から覚めそうな気もするが、とりあえず多田の「愛を否定するな!」は、真理であり名言。
全体に、世界観やキャラクターはすごく今泉力哉っぽいのに、全体としては紛うことなき城定秀夫カラーに仕上がっている。
どんなにドロドロの展開でも、中心にはピュアなものがあるというのはいかにも今泉脚本らしいが、城定演出とのマッチングは非常に良く、両者の個性がグッと濃くなった印象。
これも強い作家性を持つ者同士のコラボの面白さか。
ストーリーとテリングを分離すると、ここまで分かりやすいハイブリッドなテイストになるとは思わなかった。
そして二本目の「猫は逃げた」は、愛猫カンタの親権で揉めている、離婚寸前の漫画家と雑誌記者夫婦の話。
山本奈衣瑠が演じる漫画家の町田亜子は、編集者と不倫の仲。
彼女の夫で週刊誌記者の町田広重が、「愛なのに」の多田の同窓生という設定なのだが、彼も彼で同僚とダブル不倫中。
夫婦はお互いに別れることには同意しているものの、なんとなくもろもろ割り切れなくて、猫をダシにして結論をズルズル引き伸ばしている状態で、お互いの新しい相手にはさっさと離婚しろとプレッシャーをかけられてる。
そんなある日、カンタが家に帰ってこなくなる。
一本目の「愛なのに」にも、チラチラ出てきた白黒猫が、こちらではある意味真の主役。
関係者の恋の嵐が静かに吹き荒れる中、その中心にいる物言わぬ狂言回しが猫という訳。
実際には、カンタはある人物の陰謀によって姿を消している訳だが、その人物も結果的に猫によって予測しなかった境地へと導かれる。
ちなみに俳優猫カンタの本名は、オセロというのだそう。
白黒猫だからだろうが、まさにこの二部作を表しているようで面白い。
私的イメージとしては、「愛なのに」が黒で、「猫は逃げた」が白。
なぜなら、作家同士のコラボによって、其々の色がグッと濃くなった「愛なのに」に対して、こちらはむしろ普段よりも作家性が薄色に感じる。
もちろんこれは決してつまらないと言う訳じゃなくて、こちらの方がより軽妙で喉ごしスッキリという意味。
「愛なのに」が濃厚なダークエールのポーターだとすれば、「猫は逃げた」はもうちょっとライトなペールエールなのだ。
両者のベッドシーンを比較してみても、城定演出はよりエロくネチっこく、今泉演出は割と淡白だから、これも両者の個性なのだろう。
画面のアスペクト比も、「愛なのに」はシネスコで「猫は逃げた」はスタンダードな16:9なのもそれぞれらしい。
この映画の猫は愛の象徴で、愛の迷路に迷ってしまった人間たちの導き手。
カンタがいなくなったことによって、登場人物全員が自分と向き合い、それぞれの結論にたどり着く。
自分の本当に大切なものが、本当はどこにあるのか気付かせてくれる、幸せの青い鳥みたいな存在なのだ。
その意味で「愛なのに」の場合には、登場人物の中でただ一人大人のはかりごととは無縁の岬が、「猫は逃げた」のカンタのポジションと言えるかも知れない。
どちらも物語の帰結する先はちょっと出来過ぎの気もするが、ほっこりさせてもらった。
また「猫は逃げた」は、カンタの出番自体はさほど多くないものの、その存在感は猫映画としても一級品だ。
あー、モフモフしたい。
今回は、2000年にブライアン・ベアードとさゆり夫婦によって、沼津に設立されたベアードビールから、ポーターの「黒船ポーター」とペールエールの「わびさび ジャパン ペールエール」の二本をチョイス。
シルキーでビターな正統派ポーターと、日本の夏にぴったりな清涼でドライなペールエールは、どちらも丁寧に作られていて飲み心地よし。
まさにオセロの表と裏のような味わいの違いを、飲み比べてみるのも楽しい。

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2022年04月02日 (土) | 編集 |
壁を越えた先は、心の故郷。
名優、そして名監督としても知られるケネス・ブラナーが、北アイルランドのベルファストで過ごした、自らの子供時代をモチーフに作り上げた自伝的作品。
1960年代末、その後30年続くことになる北アイルランドの民族紛争が始まった時代を背景に、もう安全ではなくなりつつある故郷に、留まるか否かの決断を迫られている、ある家族の物語だ。
ブラナー自身は出演せず、彼の分身ともいうべき主人公の少年・バディをジュード・ヒルが演じる。
一家の面々は、お母さんにカトリーナ・バルフ、お父さんにジェイミー・ドーナン、おばあちゃんにジュディ・ディンチ、おじいちゃんにキアラン・ハインズ。
本年度の米アカデミー賞で、意外にもブラナーにとって初の栄冠となる、脚本賞に輝いた。
モノクロで描写されるノスタルジックな半世紀前のベルファストは、人々の悲喜こもごもが詰まったタイムカプセルだ。
1969年のベルファスト。
9歳の少年・バディ(ジュード・ヒル)は両親と兄の四人家族。
ロンドンで大工の仕事を得ているお父さん(ジェイミー・ドーナン)は、二週間に一回しか家に帰れず、普段はお母さん(カトリーナ・バルフ)が家を切り盛りしている。
祖父母や叔母の一家もすぐ近くに住んでいる、代々のベルファストっ子だ。
子供たちが遊び回る街は一見すると平和そうだが、街は少数派のカソリック住人とプロテスタント過激派の対立が深まり、一触即発の状態にある。
ある日、プロテスタントの過激派が、バディの住む通りのカソリックの家や商店を襲撃。
通りの入り口にはバリケードが築かれ、治安維持のために軍が進駐してくる。
過激派はお父さんを勧誘し、断られると子供たちにも手を伸ばしてくる。
暴力の時代の到来に、お父さんはロンドンへの移住を提案するが、それは一家にとって代々培ってきた全てを捨てて行くことを意味する。
結論が出ないまま時間だけが流れ、翌年のイースターに再び過激派がカソリック住人が経営するスーパーマーケットへの襲撃事件を起こし、バディも巻き込まれてしまう・・・・・
映画監督が、自分の子供時代をモチーフにした映画というのは、もはや一つのジャンルと言ってもいいのかもしれない。
古くは「フェリーニのアマルコルド」、最近では「リアリティのダンス」「ROMA/ローマ」や「The Hand of God」など、数々の作品が映画史を彩ってきた。
思うに、この種の自伝的、私小説的な作品には特徴となる背景要素が二つ。
一つ目は作者にとって故郷となる、土地の記憶。
そしてもう一つの重要な要素は、その時代ならではの社会性だ。
冒頭、カメラはまるで観光PR映画の様に、鮮やかなカラー映像で風光明媚な現在のベルファストの街並みを活写してゆく。
そこに映し出される、大きな「BELFAST」のタイトル。
本作の主役は、作者が愛したこの歴史ある街そのものなのだ。
あるグラフィティが描かれた壁から、カメラがクレーンアップすると画面はモノクロとなり、1969年のベルファストへタイムトラベルする。
故郷への想いは、このカテゴリのほぼ全ての作品に共通するが、社会性の要素は作者の育った時代が混乱期かどうかによって、作品に占めるウェイトは異なる。
例えば制度的革命党一党独裁時代のメキシコを舞台とした「ROMA/ローマ」には、1971年に起こった市内の騒乱の様子が克明に描かれているが、平和な南イタリアのナポリが舞台の「The hand over god」では、南北の経済格差や地域差別もさりげなく盛り込まれているものの、作品の志向はずっとパーソナルだ。
ブラナーが子供時代を送った60年代末のベルファストは、街の歴史に影を落とす混沌の時代に向かっている真っ最中で、社会史と個人史が密接に結びつき、両者はもはや不可分であることがこの作品を特徴付けている。
長くイギリスの支配下にあったアイルランドが独立したのは、1922年のこと。
当初は英国王を元首とする自治領という扱いだったが、第二次世界大戦後の1949年には共和制を宣言し、イギリス連邦からも離脱する。
しかし、独立した時に島の北東部の一部地域は、イギリス領として残ることを選んだ。
住民の多数派が、イギリス領だった時代に、本土のブリテン島から移住してきたプロテスタントだったからだ。
アイルランドとの統合を望むカソリックのアイルランド系住民と、イギリスへの帰属を願うプロテスタント系住民はしばしば衝突したが、燻っていた火種がついに燃え広がったのが、3500人とも言われる犠牲者を出した北アイルランド問題だ。
ことの発端は60年代後半の、カソリックの住民たちによる差別撤廃運動。
これに反発したプロテスタント過激派が、カソリック住民を攻撃し、やがて両者の過激派は準軍事組織と化し、30年に渡って血で血を洗う抗争を繰り広げることになる。
この物語は、抗争が本格化しつつある、1969年から70年にかけてを舞台としているのである。
バディの一家はプロテスタントだが、彼の住む街にはカソリックの家庭や商店も多い。
子供たちが走り回り、プロテスタントもカソリックも関係なく雑談していた街の平和は、序盤に描かれるプロテスタント過激派の突然の襲撃により、崩壊してしまう。
通りの入り口にはバリケードが築かれ、自警団が出入りをチェック。
やがて本土から警備の軍も派遣されて来て、銃を持った軍人たちが街角に立つようになる。
元々攻撃する過激派も、少数派のカソリック住人もご近所同士で、誰もがお互いを知っている狭いコミュニティ。
ロンドンに大工として出稼ぎに出ているお父さんは、過激派の知り合いから立場をハッキリしろと執拗に脅されている。
やがて過激派の影響は、地域の子供たちにも及ぶ。
もはや街は内戦寸前で、誰にとっても平和は存在しない。
一家は全てを捨てて故郷を出てゆくか、憎しみの連鎖が続く街に止まるか、重大な決断を迫られることになる。
過激派からの圧力に耐えかね、職場のあるロンドンへの移住を考えているお父さんの葛藤、夫が不在の間ワンオペで二人の息子を育てるお母さんの苦悩。
幼い主人公に、人生の教訓を教えてくれるおじいちゃんは体調が悪く、達観した目で一家を見守るおばあちゃんももう歳だ。
親戚が残っているとは言え、大切な人が沢山いる故郷から出て行くのは、誰にとっても大きな決断だ。
大好きな映画に目を輝かせ、同級生の女の子への初恋に身悶えるバディもまた、時代の激動と無縁ではいられない。
彼の初恋の相手は、クラスメイトのカソリック家庭の子なのだ。
三世代の家族それぞれが葛藤を抱いていて、全てのシーンで感情が複雑に動き、キャラクター同士の掛け合いによる感情の変化が、綺麗に物語を繋いでゆく。
非常に効率的なストーリーテリングで、これほど情報量が多いにも関わらず、98分というコンパクトな上映時間に納めているのが素晴らしい。
アカデミー脚本賞も、納得の仕上がりだ。
全体が主人公の家がある一つの通りで展開する物語で、空間設計が非常に舞台っぽいのも、元々演劇畑の作者ならでは。
得意ジャンルに、作品をうまく引き込んでいる。
しかしシェイクスピア俳優として知られるブラナーの、映画的記憶として引用される作品が「恐竜100万年」とか「真昼の決闘」とか「チキ・チキ・バンバン」とか、どれもハリウッド資本が入っているが、監督や俳優が欧州人の作品ばかりなのが面白い。
まあ、この人も「マイティ・ソー」でマーベル監督に、「シンデレラ」ではディズニー監督にもなったので、引用される先輩たちの仲間入り。
もしかしたら、今のベルファストで未来のブラナー二世が、彼の映画に目を輝かせているかも知れない。
去りゆく者、残る者にとって、それぞれの故郷への想いがある。
時代が進んでも、住む土地が変わっても、街そのものが無くなる訳じゃ無い。
誰の心にもある人生の土台、それがベルファストなのだ。
今回はもちろん、アイルランドを代表する黒スタウト「ギネス・エクストラ・スタウト」をチョイス。
1759年にアーサー・ギネスがダブリンのセント・ジェームズ・ゲート醸造場を創業。
世界中に移民していったアイルランド人は、移民先にパブを作り、ギネスを広めていった。
日本ではあまり見かけないが、ギネスには缶ビールもあり、こちらにはフローティング・ウィジェットなる小さなプラスチックのボールが封入されていて、これによって缶ビールでも独特のクリーミーな泡を実現しているのだとか。
家でもどうしてもパブの味を再現したくて、発明までしちゃう飲兵衛の執念、恐るべし。
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名優、そして名監督としても知られるケネス・ブラナーが、北アイルランドのベルファストで過ごした、自らの子供時代をモチーフに作り上げた自伝的作品。
1960年代末、その後30年続くことになる北アイルランドの民族紛争が始まった時代を背景に、もう安全ではなくなりつつある故郷に、留まるか否かの決断を迫られている、ある家族の物語だ。
ブラナー自身は出演せず、彼の分身ともいうべき主人公の少年・バディをジュード・ヒルが演じる。
一家の面々は、お母さんにカトリーナ・バルフ、お父さんにジェイミー・ドーナン、おばあちゃんにジュディ・ディンチ、おじいちゃんにキアラン・ハインズ。
本年度の米アカデミー賞で、意外にもブラナーにとって初の栄冠となる、脚本賞に輝いた。
モノクロで描写されるノスタルジックな半世紀前のベルファストは、人々の悲喜こもごもが詰まったタイムカプセルだ。
1969年のベルファスト。
9歳の少年・バディ(ジュード・ヒル)は両親と兄の四人家族。
ロンドンで大工の仕事を得ているお父さん(ジェイミー・ドーナン)は、二週間に一回しか家に帰れず、普段はお母さん(カトリーナ・バルフ)が家を切り盛りしている。
祖父母や叔母の一家もすぐ近くに住んでいる、代々のベルファストっ子だ。
子供たちが遊び回る街は一見すると平和そうだが、街は少数派のカソリック住人とプロテスタント過激派の対立が深まり、一触即発の状態にある。
ある日、プロテスタントの過激派が、バディの住む通りのカソリックの家や商店を襲撃。
通りの入り口にはバリケードが築かれ、治安維持のために軍が進駐してくる。
過激派はお父さんを勧誘し、断られると子供たちにも手を伸ばしてくる。
暴力の時代の到来に、お父さんはロンドンへの移住を提案するが、それは一家にとって代々培ってきた全てを捨てて行くことを意味する。
結論が出ないまま時間だけが流れ、翌年のイースターに再び過激派がカソリック住人が経営するスーパーマーケットへの襲撃事件を起こし、バディも巻き込まれてしまう・・・・・
映画監督が、自分の子供時代をモチーフにした映画というのは、もはや一つのジャンルと言ってもいいのかもしれない。
古くは「フェリーニのアマルコルド」、最近では「リアリティのダンス」「ROMA/ローマ」や「The Hand of God」など、数々の作品が映画史を彩ってきた。
思うに、この種の自伝的、私小説的な作品には特徴となる背景要素が二つ。
一つ目は作者にとって故郷となる、土地の記憶。
そしてもう一つの重要な要素は、その時代ならではの社会性だ。
冒頭、カメラはまるで観光PR映画の様に、鮮やかなカラー映像で風光明媚な現在のベルファストの街並みを活写してゆく。
そこに映し出される、大きな「BELFAST」のタイトル。
本作の主役は、作者が愛したこの歴史ある街そのものなのだ。
あるグラフィティが描かれた壁から、カメラがクレーンアップすると画面はモノクロとなり、1969年のベルファストへタイムトラベルする。
故郷への想いは、このカテゴリのほぼ全ての作品に共通するが、社会性の要素は作者の育った時代が混乱期かどうかによって、作品に占めるウェイトは異なる。
例えば制度的革命党一党独裁時代のメキシコを舞台とした「ROMA/ローマ」には、1971年に起こった市内の騒乱の様子が克明に描かれているが、平和な南イタリアのナポリが舞台の「The hand over god」では、南北の経済格差や地域差別もさりげなく盛り込まれているものの、作品の志向はずっとパーソナルだ。
ブラナーが子供時代を送った60年代末のベルファストは、街の歴史に影を落とす混沌の時代に向かっている真っ最中で、社会史と個人史が密接に結びつき、両者はもはや不可分であることがこの作品を特徴付けている。
長くイギリスの支配下にあったアイルランドが独立したのは、1922年のこと。
当初は英国王を元首とする自治領という扱いだったが、第二次世界大戦後の1949年には共和制を宣言し、イギリス連邦からも離脱する。
しかし、独立した時に島の北東部の一部地域は、イギリス領として残ることを選んだ。
住民の多数派が、イギリス領だった時代に、本土のブリテン島から移住してきたプロテスタントだったからだ。
アイルランドとの統合を望むカソリックのアイルランド系住民と、イギリスへの帰属を願うプロテスタント系住民はしばしば衝突したが、燻っていた火種がついに燃え広がったのが、3500人とも言われる犠牲者を出した北アイルランド問題だ。
ことの発端は60年代後半の、カソリックの住民たちによる差別撤廃運動。
これに反発したプロテスタント過激派が、カソリック住民を攻撃し、やがて両者の過激派は準軍事組織と化し、30年に渡って血で血を洗う抗争を繰り広げることになる。
この物語は、抗争が本格化しつつある、1969年から70年にかけてを舞台としているのである。
バディの一家はプロテスタントだが、彼の住む街にはカソリックの家庭や商店も多い。
子供たちが走り回り、プロテスタントもカソリックも関係なく雑談していた街の平和は、序盤に描かれるプロテスタント過激派の突然の襲撃により、崩壊してしまう。
通りの入り口にはバリケードが築かれ、自警団が出入りをチェック。
やがて本土から警備の軍も派遣されて来て、銃を持った軍人たちが街角に立つようになる。
元々攻撃する過激派も、少数派のカソリック住人もご近所同士で、誰もがお互いを知っている狭いコミュニティ。
ロンドンに大工として出稼ぎに出ているお父さんは、過激派の知り合いから立場をハッキリしろと執拗に脅されている。
やがて過激派の影響は、地域の子供たちにも及ぶ。
もはや街は内戦寸前で、誰にとっても平和は存在しない。
一家は全てを捨てて故郷を出てゆくか、憎しみの連鎖が続く街に止まるか、重大な決断を迫られることになる。
過激派からの圧力に耐えかね、職場のあるロンドンへの移住を考えているお父さんの葛藤、夫が不在の間ワンオペで二人の息子を育てるお母さんの苦悩。
幼い主人公に、人生の教訓を教えてくれるおじいちゃんは体調が悪く、達観した目で一家を見守るおばあちゃんももう歳だ。
親戚が残っているとは言え、大切な人が沢山いる故郷から出て行くのは、誰にとっても大きな決断だ。
大好きな映画に目を輝かせ、同級生の女の子への初恋に身悶えるバディもまた、時代の激動と無縁ではいられない。
彼の初恋の相手は、クラスメイトのカソリック家庭の子なのだ。
三世代の家族それぞれが葛藤を抱いていて、全てのシーンで感情が複雑に動き、キャラクター同士の掛け合いによる感情の変化が、綺麗に物語を繋いでゆく。
非常に効率的なストーリーテリングで、これほど情報量が多いにも関わらず、98分というコンパクトな上映時間に納めているのが素晴らしい。
アカデミー脚本賞も、納得の仕上がりだ。
全体が主人公の家がある一つの通りで展開する物語で、空間設計が非常に舞台っぽいのも、元々演劇畑の作者ならでは。
得意ジャンルに、作品をうまく引き込んでいる。
しかしシェイクスピア俳優として知られるブラナーの、映画的記憶として引用される作品が「恐竜100万年」とか「真昼の決闘」とか「チキ・チキ・バンバン」とか、どれもハリウッド資本が入っているが、監督や俳優が欧州人の作品ばかりなのが面白い。
まあ、この人も「マイティ・ソー」でマーベル監督に、「シンデレラ」ではディズニー監督にもなったので、引用される先輩たちの仲間入り。
もしかしたら、今のベルファストで未来のブラナー二世が、彼の映画に目を輝かせているかも知れない。
去りゆく者、残る者にとって、それぞれの故郷への想いがある。
時代が進んでも、住む土地が変わっても、街そのものが無くなる訳じゃ無い。
誰の心にもある人生の土台、それがベルファストなのだ。
今回はもちろん、アイルランドを代表する黒スタウト「ギネス・エクストラ・スタウト」をチョイス。
1759年にアーサー・ギネスがダブリンのセント・ジェームズ・ゲート醸造場を創業。
世界中に移民していったアイルランド人は、移民先にパブを作り、ギネスを広めていった。
日本ではあまり見かけないが、ギネスには缶ビールもあり、こちらにはフローティング・ウィジェットなる小さなプラスチックのボールが封入されていて、これによって缶ビールでも独特のクリーミーな泡を実現しているのだとか。
家でもどうしてもパブの味を再現したくて、発明までしちゃう飲兵衛の執念、恐るべし。

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