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東京2020オリンピック SIDE:A/SIDE:B・・・・・評価学1650円
2022年06月26日 (日) | 編集 |
そこにいた「人間」と「時代」の記憶。

2021年の夏に開催された、二度目の東京オリンピック「TOKYO2020」は、運悪く未曾有のコロナ禍と重なったことで一年延期され、さらに東京都に緊急事態宣言が発出されたことで、結局無観客開催となった。
史上もっとも物議を醸したオリンピック大会だったのは間違いないだろうが、この大イベントのオフィシャルドキュメンタリー映画を任された河瀬直美は、大会とそれに関わる人間たちをどう捉えたのか。
彼女の制作した映画は「東京2020オリンピック SIDE:A/SIDE:B」と題され、二部作となった。
主に大会に参加したアスリートたちを描いた「SIDE:A」は2022年6月3日に、大会を運営した裏方の人々をフィーチャーした「SIDE:B」は、三週間後の6月24日から公開されている。
鑑賞する前は、類型的なオリンピック礼讃映画になるのではないか?と身構えていたのだが、その危惧は「SIDE:A」冒頭からあっさりと打ち砕かれた。

コロナが、歴史的な大災厄であることが徐々に明らかになってきた2021年の春、桜の咲き誇る東京に降った季節はずれの雪の情景に、切なげな君が代が流れる。
やはりこの人は、映像言語の組み立てが独特で、抜群に上手い。
ここで早くも、本作が河瀬直美のゴリゴリの作家映画であることを予感させるのだ。
おそらく彼女は、競技の内容やメダルの行方には全く興味がない。
描きたいのは、オリンピックの舞台に至るまでの、個人のストーリー
だから主役は輝かしいセレモニーに向かうメダリストではなく、様々な理由で国を追われた難民アスリートや、乳飲み児を抱えた女性アスリート。
前者には大会に出場出来るまでに文字通り命懸けのストーリーがあり、後者にはオリンピックが延期されたことで、出場を諦めた者もいれば、コロナ禍の日本に乳児同伴を求めて闘う者も。
他にも、多くのバックグラウンドを持つアスリートが登場するが、その殆どが最終的には敗者となって去ってゆく。

印象的だったのが、作中何度か語られる「競技は生き方の表現で芸術である」という言葉。
画面から滲み出るアスリートへの共感は、これだったのかと思った。
たぶん作者は、五輪にアスリートの“カンヌ”を見ているのだ。
商業映画デビュー作の「萌の朱雀」でカメラ・ドールを受容して以来、河瀬直美といえばカンヌであり、カンヌによって育てられた作家と言っても過言ではないだろう。
しかし、数々の賞に輝いてはいるが、パルム・ドールには未だ手が届いていない。
最高賞を取れなかったしても、そこに行けるまでの努力の積み重ねが重要。
だからメダルはおまけに過ぎず、参加できるところまで辿り着いた時点で十分賞賛に値する。
これはある意味、メダル至上主義に陥った近代オリンピックへのアンチテーゼだ。
新種目の空手に関して、発祥地の沖縄の老人は「オリンピック競技になると、標準化されて面白くない」 「元からの地域性みたいなものが失われてしまう」と語る。
オリンピックがもたらすグローバリズムは、そのスポーツが本来持っていた歴史や伝統の意味を曖昧にし、三つのメダルの価値のみがクローズアップされる。

作者のスタンスが一番分かりやすいのが、インタビュー映像の人物のトリミングだ。
特に、山下泰裕日本オリンピック委員会会長をはじめとする、男子柔道界の人々の顔は、極端なアップになった上に不自然に切り取られている。
彼らは「やるからには勝たねばならぬ」という勝利至上主義者で、作者は明らかな意図を持ってこのような歪な映像にしていると思われる。
対照的に、スケボーやサーフィンと言った新競技の選手たちの心底スポーツを楽しんでいる様や、競技団体の風通しの良さは爽やかかつ好意的に描写されている。
勝ち負けは二の次で、参加することに意義があるという、オリンピック精神本来の意味を、こちらに見出しているからだろう。

アスリートの生き様、競技への向き合い方を軸とした「SIDE:A」は、オリンピックに集った人々の「人間ドラマ」だった。
それに対して、「SIDE:B」で作者が描こうとしたのは「時代」だ。
コロナ禍での大会延期を決める、おじさんしかいない会議から始まって、本来の開催年の一年前、2019年から大会が開かれた21年まで、見えてくるのはおよそ二年間の時代の情景。
しかしここでの河瀬直美は、目まぐるしく移り変わる事態の傍観者に徹し、「SIDE:A」のように明らかな感情移入の対象は見られない。
開会式にダンサーとして参加した森山未來の「確かなのは人間の感情だけ。それには向き合わないと」という言葉通り、五輪を推進する人と反対する人、正反対の感情が入り乱れるカオスな状況、何が正しくて何が間違っているのかも分からない世界を、淡々と描いてゆく。

もっとも「SIDE:A」とは対照的に、映像に自分の声を多数入れ込むことで、これが河瀬直美の見た時代であると、作者署名としている・・・と思ったのだが、河瀬直美本人は自分の声であることを否定しているらしい。
だが実際に鑑賞すると、明らかに作者の声だと認識されるよう、意図的に入れられていて、ラストでは子供と対話させることで映画全体の〆ともなっている。
この映画は明らかになっていない部分が結構あって、「SIDE:A」で音楽を担当した藤井風がいつの間にかいなくなり、「SIDE:B」ではエンディングテーマも河瀬直美が自ら手がけているが、なぜか歌手名がクレジットされていない。
インタビューの音声は誰か別人を立ていたとしても、少なくともラストの会話は、主題歌の歌詞を含めて彼女自身の綴った言葉であることは間違い無いだろう。

「SIDE:B」をビジュアルから特徴づけるのは、「シン・ゴジラ」的な、極端に短いカットで編集された映像だ。
どうも河瀬直美は、正体不明の巨大生物が現れた状況をシミュレーションした「シン・ゴジラ」を、コロナ禍のオリンピックという、未知の事態に直面した現実の日本と重ね合わせている様なのだ。
時折出てくる白抜きの巨大な字幕も、庵野秀明の「エヴァンゲリオン」シリーズを思わせるが、これの元祖は1965年版の「東京オリンピック」を手掛けた市川崑である。
庵野秀明を間に置いた、二人の作家のオリンピック論としても興味深い。
大会の数年前から前橋で練習していた南スーダン選手団など、取り上げられているアスリートはいるものの、こちらでフィーチャーされるのは主に裏方。
それも総理大臣から現場の人々まで、立場も地位も様々だ。
彼らを描写する膨大な映像は断片化され、単体では意味を持たない描写も多い。
誰かが何かを話していても、話の途中で全く別の映像に行ってしまったりするのだから。

二年間の間にオリンピックの裏で起こっていたことは、あまりにも膨大すぎて、2時間程度の映画で筋立てて語るのは不可能。
なので河瀬直美は、あらゆる要素が混然と存在しながらも、全体を通すと「時代」のイメージが浮かび上がるモザイク画のように仕上げている。
だからこそ、特定の誰かに感情移入する必要はないし、むしろ起こったことをランダム取り込む必要がある。
ここでは、膨大な数のオリンピック関係者、森喜朗やバッハさえも、可能な限り中立的に描写されているのだ。
ただ菅義偉は一応インタビューに答えているが、延期時に首相だった安倍晋三が出てこないのは違和感。
取材を断られたのかも知れないが、映像が存在しないことはないはずだ。
彼の存在が消し去られているのは、オリンピックというカオスから「逃げ出した人」だからなのだろうか。

面白いのは、どんどん状況が変わって時間的に絶対無理って状況でも、現場が頑張って何とかしちゃうこと。
これはオリンピックに限らないと思うが、日本のいろいろな産業の現場にいる人たちは、やっぱり優秀なのだと思う。
逆に言えば、お仕事集団がなんとか形にしてしまうから、ダメダメな上層部がそのままの形で残ってしまう。
第一次大戦中に、イギリス軍兵士の勇猛さと、指揮官の無能さを見たドイツの将軍が「この様な愚鈍な羊たちに率いられた、勇敢なライオンを私は見たたことが無い」という皮肉たっぷりな言葉を残しているが、これはそっくりそのまま現在日本の組織にも当てはまる。

「SIDE:B」で一番インパクトがあったのが、開会式/閉会式の総合演出を辞任した野村萬斎の、超辛辣なダメ出しだ。
ここ彼は「伝統」という言葉を口にする。
伝統とは、長い時間の中でいろいろな物が変化していっても、決して揺るがせてはいけない核心の部分のことだ。
彼はハッキリと「電通」という組織の名を出し、彼らは自分が長く受け継がれてきた歴史の一部を担っていることを理解してないと指摘するのである。
このインタビューを、自身の後任となった電通マンの佐々木宏の就任会見の前に入れたこと。
そして、会見に同席した萬斎の目が明らかな侮蔑の表情を浮かべていることは、「SIDE:B」で唯一の、作者の強い共感と悪意を感じさせた。

本作は、日本で開催されたオリンピックの、オフィシャルドキュメンタリーという国策映画でありながら、宣伝露出が極端に少ない。
公開直前になって、マスコミ主導で河瀬直美のスキャンダルが報じられたりしたこともあって、むしろ開催した側は国民に見せたくないのでは?との声も上がっていたが、ぶっちゃけこの描写で映画の冷遇が決まったんじゃないか?とすら思う。
いずれにせよ、「SIDE:A」は、参加する者たちの喜怒哀楽の人間ドラマとしてオリンピックを描き、「SIDE:B」では混沌の時代の象徴としてオリンピックを捉えた。
二本の映画から見えてきたのは、我々日本人の現在地だ。
人間と時代を描く243分は、観応えたっぷり。
忖度無しの、紛れもない力作である。

今回は、東京オリンピックのゴールドパートナーだった、アサヒビールの定番商品「スーパードライ」をチョイス。
1987年に初登場し、世界的なヒット商品となり、ドライビールのブームを巻き起こした。
高温多湿の日本の夏には、スッキリ辛口で喉越し重視のスーパードライはピッタリで、売れ続けているのも分かる。

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ショートレビュー「メタモルフォーゼの縁側・・・・・評価額1750円」
2022年06月24日 (金) | 編集 |
歳の差、58歳の青春。

BLオタクの女子高校生と、BLにハマった高齢女性が、ひょんなことから“親友”になる。
鶴谷香央理の同名コミックを原作に、「余命10年」が記憶に新しい岡田惠和が脚色、「青くて痛くて脆い」の狩山俊輔が監督を務める。
17歳と75歳の親友を演じるのは、芦田愛菜と宮本信子。
これ私も原作が大好きで、楽しみにしていたのだが、2時間の映画というフォーマットで考えうる最良の仕上がりだ。
取捨選択は当然あるが、作り手も原作をリスペクトしてるのが伝わってくる。
「BL」というモチーフは、「映画」でも「音楽」でも「文学」でも、他のあらゆる「好きなもの」に置き換えることができるので、何か夢中になれるものがある人は、この映画の中にもう一人の自分を見るだろう。

芦田愛菜が素晴らしい好演を見せる佐山うららは、とにかく自分に自信がない。
自信がないから、BL好きであることも知られることが怖くて、持っているコミックも本棚には飾らず、ダンボールに入れて隠している。
彼女にとっては、BLは変わった人の変わった趣味なのだ。
一方、宮本信子が演じる市野井雪は、知らないが故にBLに対する偏見が一切ない。
彼女が初めてのBLコミック「君のことだけ見ていたい」を手に取ったのは、「表紙の絵が綺麗だったから」なのだ。
そして男の子同士のピュアな愛の表現も素直に受け入れ、すっかりハマってしまうのである。
書店員と客という形で出会ったうららと雪は、お互いの趣味を知ると、すっかり意気投合してしまう。

歳は離れていても同好の士。
最初はBLオタクのうららがメンターとなり、雪をオタクの沼へと引き摺り込む。
しかし、二人が親しくなってゆくと、今度は成長途中のうららが、雪の凛とした生き方に影響を受けて、成長を遂げてゆく。
軸となるのはうららと雪だが、うららのよき理解者である幼馴染の河村紡、彼のガールフレンドで米国留学を目指している橋本英莉、そして主役の二人のキューピッドとなるBL漫画家のコメダ先生など、周りに配されたキャラクターとの関係性も素敵だ。
劇中で雪が「君のことだけ見ていたい」を評して、「出てくる人が皆んなあったかい」と言うのだが、そのセリフがそのままこの映画にも当てはまる。

二人を引き合わせる「君のことだけ見ていたい」と、雪の言葉に触発されたうららが初めて描く同人漫画「遠くから来た人」がストーリー、テリングの両方で、現実のドラマとシンクロしてゆく辺りは、実に映画的で見事なアレンジ。
「君のことだけ見ていたい」は実際にBL漫画を手がけるじゃのめが、「遠くから来た人」は原作者の鶴谷香央理が描いている。
虚構と現実は対立するものではなく、現実を生きるには虚構が必要でお互いに影響を与え合う。
だから「好きなもの」があること、その「好き」を共有して語り合える友がいるのは素晴らしいことなのである。
「ハケンアニメ!」が創作者を描いた傑作だとすれば、これは創作が刺さった側を描く傑作だ。

そして本作を成功させた大きなファクターが、うららと雪に芦田愛菜と宮本信子を選んだキャスティングの妙だろう。
本来なら出会うはずのない二人が、創作を媒介として友人同士となり、雪の家の縁側でそれぞれが変化、成長して、人生の新たなステージへと歩んでゆく。
芦田愛菜は本作の中で、何度もスクリーンを走り抜ける。
未来へと全力疾走する走り姿の美しさは、本作の白眉と言っていい。
10代の彼女の代表作となるだろう。

今回は、青春のイメージで爽やかなカクテル「ブルーキュラソー&サイダー」をチョイス。
氷を入れたタンブラーにブルーキュラソーを45ml注ぎ、サイダーで満たして軽くステアする。
スライスしたライムを一片添えて完成。
甘口のすっきりとしたライトなカクテルで、ライムの仄かな酸っぱさがBLの味?

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PLAN 75・・・・・評価額1700円
2022年06月22日 (水) | 編集 |
あなたなら、選びますか?

75歳以上の高齢者が、生き死にを自分で決められる制度「PLAN 75」が出来た世界。
生きることに疲れてプランに申し込む孤独な高齢女性、プランの申込と広報を担当する公務員、そして最終的にプランを実行する施設で働く外国人女性を軸とした群像劇だ。
⾹港のオムニバス映画「⼗年」を元に、⽇本、タイ、台湾で、各国の新鋭映像作家が独⾃の⽬線で10年後の社会を描く国際プロジェクトの日本編、「⼗年 Ten Years Japan」の一作として作られた短編をベースとしている。
本作も日本、フランス、フィリピンの共同製作で、オリジナルの作者である早川千絵が監督と脚本を努める。
物語の中心となる三人を、倍賞千恵子、磯村優斗、ステファニー・アリアンが演じ、たかお鷹、河合優実らが脇を固める。
日本社会のリアリティたっぷり、本年度カンヌ国際映画祭で、新人監督賞に当たるカメラ・ドールを受賞した話題作だ。
※核心部分に触れています。

世代間の断絶が深まり、老人たちが若者に襲撃される事件が頻発。
国会は75歳以上の高齢者を対象に、死ぬ権利を保障し、支援する法案を可決し、「PLAN 75」として施行される。
ホテルの客室清掃員として働く角谷ミチ(倍賞智恵子)は78歳。
職を失ったことをきっかけに、生きることに悩み、プランに申請する。
ミチは申請者をサポートするコールセンターに勤める成宮璃子(河合優実)と繰り返し電話で話すうちに、他人とは思えなくなってゆく。
市役所でプランの申請窓口を担当している岡部ヒロム(磯村優斗)は、ある日申請に訪れた男を見て驚く。
それは20年も音信不通の、叔父の幸夫(たかお鷹)だった。
一方、故郷に残してきた娘の手術代を貯めるため、高齢者のケア施設で働くマリアは、給料のいい新しい職場を紹介される。
それは、プランを申請した人たちが、人生の最後を迎える施設だった・・・・

日本には、古くから姥捨伝説がある。
深沢七郎の「楢山節考」は映画化もされ、広く世間に知られるようになったが、実際に飢饉などの時に口減らしのため、働けなくなった老人を山に遺棄したというケースは各地であった様だ。
本作の設定は、いわば姥捨の風習が現代に甦ったものだが、本作はそれをディストピアとしては描かない。
映画は、PLAN 75そのものを積極的に肯定も否定もしないのだ。
もしこんな制度があったら?という徹底的なシミュレーション。
短編版の主人公は、若い公務員だった。
彼は仕事として“死”を勧めながら、75歳になった認知症の義母を安楽死させることに葛藤を募らせる。
長編化したことで、軸となるエピソードが三つに分かれ、それぞれが別の視点から死を制度化した社会を眺める構造となった。
キャラクター同士での感情移入はあるが、客観性の強い描き方はドキュメンタリーに近い。
その分、観客は「あなたはどう考える?」とずっと問われている感覚になる。

高齢者施設を襲撃した若者が、老人排斥を訴えて銃で自殺するというショッキングな幕開け。
世論に押された国会は、75歳以上の高齢者に死ぬ権利を認めるPLAN 75を施行し、積極的に広報しはじめる。
注目すべきは、これが貧困と格差と関連づけられて描かれていることだ。
貧困が進むと人々が結婚しなくなり、子供が産まれなくなる。
すると社会の高齢化が急速に進み、社会保障費が増大し、税金が高齢者に使われる。
機会を奪われた、若者の不満が高まるという訳。
すでに日本社会に見られる構図で、現実との違いはPLAN 75があるか無いか程度だ。

しかし、実際にPLAN 75がターゲットとするのは、金の無い高齢者なのである。
本作でプランに申し込むミチと幸夫は、どちらも独り身で古びたアパートに暮らしている。
幸夫は過去には土木の仕事をしていたようだが、現在は無職の様子で、ミチはホテルの清掃員の仕事をしているものの、物語の途中で解雇される。
身寄りもなく、金もなく、住む家も賃貸で、何かあれば路上生活になってしまう身の上。
そんな貧しく孤独な老境に、はたして生きる価値があるのか、幸せと言えるのか
プランに申し込むと、死ぬまでの一時金としてお金がもらえる設定だが、その額が10万円というあたりも妙なリアリティ。
死後の処理も、骨をまとめて合葬すればタダらしい。
一人者の高齢者、どうせ誰も墓参りになど来ないということか。

PLAN 75を必要とするのは、人生やり切ったのでもういいという人たちではなく、人生を諦めざるを得ないほど追い込まれた人たちなのである。
逆に成功した人生を送り、家族にも恵まれて悠々自適の人生を送っている高齢者にとって、わざわざ自殺する理由は無い。
「決めるのはあくまで自分」と、一見選択肢がある様に見せかけて、社会と繋がりを絶たれた者たちには、もはや生きる術がないあたりが実に日本的。
「生きるって素晴らしい」などと言う建前論ではなく、善悪の話でもない。
人間社会の複雑さを前提に、社会の倫理がどう壊れたら、これが受け入れられるようになるのか。
法のあり方や、観客の倫理感にも切り込んでくる。

実際に死を選ぶ高齢者だけでなく、こうした制度を作ってしまった社会では、全ての人がなんらかの余波を受け、壊れてゆく。
それを象徴するのが、作中の三人の若者だ。
公務員の岡部ヒロムは、仕事としてPLAN 75を推し進めている。
自分のやっていることが、実質的には自殺幇助なのは分かっているが、PLAN 75という耳触りのいい言葉に変えることで、心に蓋をしているのである。
しかし叔父という身内が目の前に現れ、プランに申し込んでしまったことで、蓋が外れてしまう。

コールセンターで働く成宮璃子の場合、ルールを破ってミチとオフラインで会ったことから、予期せぬ葛藤を抱える。
彼女の仕事は、プランに申し込んだ高齢者と電話で定期連絡し、親身に話し相手になること。
つまり知らない誰かを、じわじわと死に追いやる仕事なのだが、当初はそのことに無自覚。
だがミチと実際に会ってしまったことで、自分が話している相手は顔の無い誰かではなく、それぞれの人生を必死に生きてきた人間なのだという、当たり前の事実に気づいてしまう。
そして自殺を決意した人が、心変わりしないように仕向ける仕事のおぞましさに、震えるしかないのである。

実際にプランを実行する施設で働くマリアは、さらに生々しい現実を見る。
彼女がここで行っているのは、高齢者の遺体から所持品を回収し、貴金属などを分別すること。
この描写に、ナチスの絶滅収容所で殺されたユダヤ人の持っていた財産を集める、ホロコースト映画の描写を連想した人も多いだろう。
自殺と処刑の違いはあれど、社会が個人を死に追いやると言う意味では、同じことである。

恐ろしいのは、現実の日本が映画の世界に向かっているのでは?という予感が拭えないことだ。
私が75歳になる頃には、実際にこんな制度が出来ていても驚きはない。
実にところ、一人者で貧乏老人に向かって一直線の私なんかは、もしかしたらプランを選ぶかも?と思ってしまった。
そうなったら「10万円の一時金で何をしよう?」とか考えてしまうのだ。
現代の「楢山節考」をどう捉えるかは、観客一人ひとり違うと思う。
物語の中で、現実の死を目の当たりにした若者たちが葛藤を募らせ、一度はプランを選んだミチが選択を変えたことは僅かな希望。
実際の高齢者には、おすすめはしない。
近い将来に老後を迎える中年層、そして若者たちに向けた映画であり、この未来を迎えないために、今観ておくべき力作である。

今回は、山口県の代表的な地酒、旭酒造の「獺祭 純米大吟醸45」をチョイス。
45は酒米の精米歩合のこと。
獺祭の大吟醸としては入門編で、コスパも高いが、十分にフルーティでスッキリと美味しく仕上がっている。
旭酒造といえば、酒の製造部門に入社する大卒新入社員の初任給を、一気に9万円アップの30万円としたことで話題になった。
現代日本の問題の根源は、突き詰めれば企業は儲かっても国民が貧乏になってしまったことだ。
労働に対してきちんとした対価を払い、余暇を保障し、様々なハラスメントは徹底的に排除する、こんな意識の企業が増えればまだまだ希望はある。

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ショートレビュー「はい、泳げません・・・・・評価額1700円」
2022年06月19日 (日) | 編集 |
人生は、ゴールの見えない遠泳だ。

予告編の印象からライトなコメディだと思っていたのだが、こんな悲しくて辛い話だとは。
長谷川博己が好演する哲学者の小鳥遊(たかなし)雄司が、綾瀬はるか演じる薄原静香コーチの水泳教室に通い始める。
生まれながらの水恐怖症のカナヅチで、プールに入ることすら出来ない男が、42歳にして泳げるようになりたいと思ったのはなぜか。
その訳が、徐々に明らかになってくる。
これは過去のある記憶のピースを失ったことによって、そこから一歩も進めなくなってしまった男の再生劇だ。
原作は、高橋秀実が2005年に発表した同名エッセイ。
俳優、脚本家としても活動する渡辺謙作が監督と脚色を務める。

映画の冒頭で、小鳥遊は麻生久美子が演じる妻の美弥子とカフェのテラスで談義中。
水への恐怖を語る夫を、妻は馬鹿にして笑い飛ばそうとする。
彼は美弥子が納豆を食べられないことと同じだと指摘すると、突然通行人のカップルが、美弥子を羽交締めにして顔に納豆をぶちまけるのだ。
このエキセントリックな描写一つで、「こりゃ変な映画だ、一筋縄ではいかないぞ」と覚悟を決める。
すると映画は突然、5年後の“現在”へと飛ぶのである。
現在では小鳥遊は美弥子と離婚し、一人暮らし。
冒頭のやり取りの後、夫婦は水の事故でひとり息子を亡くし、泳げない小鳥遊は助けようとして溺れ、頭を岩にぶつけて事故の記憶そのものを失ってしまったのだ。

人生の欠落した1ピース。
大きすぎる喪失にも、記憶がないのでまともに向き合えず、子供を亡くしたという残酷な事実と、救えなかったという恐怖だけが彼を過去に押し留める。
しかし、小鳥遊の人生に訪れた新たな出会いが、彼を二度失う訳にはいかないという決意と共に、彼を水泳教室へと向かわせる。
水泳の上達は、人生の歩みに似ている。
実は自分も大きな傷を抱えている、薄原コーチのユニークで丁寧な指導が、小鳥遊の心の中にある凍りついた塊を、少しずつ溶かしてゆく。
ハードな人間ドラマだが、主人公と薄原コーチや生徒のおばちゃん軍団との軽妙なやりとり、スプリットスクリーンなどを駆使した虚構性の強いトリッキーなテリングで、可能な限りドヨーンと落ち込むのを避けている。

序盤は「泳げない人」と「泳げる人」と、対照的なコントラストを見せる小鳥遊と薄原コーチも、物語が進むにつれて徐々に関係性が変わってゆく。
交通事故の記憶に苦しみ、水の外では日常生活を送れないほどの、深刻なトラウマを負っている薄原コーチが、徐々にメンターから小鳥遊の鏡像になってくるのである。
同時に、過去の喪失を象徴する元妻の美弥子に代わって、阿部淳子演じる奈美恵が彼の未来としクローズアップされてくるのだ。
水泳の練習プロセスを、心のリハビリに合わせた組み立ても含めて、相当にロジカルで高度なことをやっている脚本である。
一度失ってしまった過去は、決して元に戻らない。
でも生きている者は、全てを胸に前を向いて歩いてゆくしかない。
日々の生活の中で、少しずつ、少しずつ、傷は癒してゆけるのだから。
予告編の印象とは全く違った作品だけど、仕上がりは素晴らしい。
Little Glee Monsterの歌うエンディングテーマ、「生きなくちゃ」がやんわりと心に沁みる。

ところで作品中の現在が2015年で、小鳥遊の息子が事故にあったのが2010年と、共に過去設定なのは何でだろう?
劇中に3.11と思しき地震が起こり、思い出のレゴが壊れてしまう描写があるが、あの程度なら過去設定にする必要性を感じない。
原作がエッセイだから実話なのかと思ったが、本の出版は2005年だし、物語はオリジナルらしいし。
何か特別な意図があるのだろうか。

今回は、水の中でこそ生き生きする薄原コーチのイメージで「ブルー・レディ」を。
ブルー・キュラソー30ml、ドライ・ジン15ml、レモン・ジュース15mlに卵白1個分を加え、しっかりシェイクしてグラスに注ぐ。
ブルー・キュラソーの甘味とジンの清涼感、レモン・ジュースの酸味を、卵白がまろやかにまとめ上げる。
パステルブルーの見た目も美しく、目と舌で味わえるカクテルだ。

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ショートレビュー「ALIVEHOON アライブフーン・・・・・評価額1650円」
2022年06月16日 (木) | 編集 |
頭文字“G”

野村周平演じるeスポーツの日本チャンピオンが、リアルなドリフト競技のチームからドライバーとしてスカウトされる。
21世紀ならではの筋立てに、“ドリキン”土屋圭市が監修に加わりリアリティを与え、「SHINOBI」の下山天監督がメガホンを取った。
主人公の大羽紘一は幼い頃からゲームだけが生きがいの、コミュ障気味の孤独なギーク
リサイクル工場で働いているが、同僚とも関係を築けずに孤立している。
そんな彼のことを、吉川愛が演じるチームのメカニック、武藤夏美が聞きつけ実車テストを持ちかける。
彼女の父の陣内孝則はかつてのチャンピオンだが、もう何年も勝てておらず、昨シーズンの事故で怪我をして走れない。
代わりのドライバー探しにも苦労しており、チームは解散の危機にあるというワケ。
秘めたる才能を持つ孤独な男が、潰れかけたチームの救世主となり、現実の居場所を見つけるストーリーなんだが、熱血スポ根ものの王道の展開だ。

ドリフトはモータースポーツでは珍しい、日本発祥の比較的新しい競技だ。
元々ラリーやジムカーナなどで、急速に向きを帰るため、タイヤをスライドさせるテクニック。
時にはクルマが真横を向いて飛んでくる派手さが注目され、やがていかに見せるのかというパフォーマンスとなり、90年代の日本で次第に競技スポーツとして発展していった。
日本の頂点を決めるD1 GRAND PRIXは2000年に始まり、すでに20年以上の歴史を誇る。
海外でも映画「ワイルド・スピード」シリーズとの相乗効果による、日本製スポーツカーのブームと相まってブレイクし、今では世界中で様々な大会が開かれている。
もちろん、ドリフト走行自体は過去のカーアクション映画で散々描かれていて、邦画では「ドリフト」なんて公道レースの映画もあったが、競技スポーツとしてのドリフトを中心的なモチーフとした作品は、私の知る限り初めてだ。

ゲームのチャンピオンが、現実の競技でも勝てるの?という漫画チックな物語ではあるが、完全に荒唐無稽とは言い切れない。
当然、ゲームでは実車と違ってキツイGもなければ、お尻の感覚を使ってタイヤの動きを感じ取るなんてことも出来ない。
しかし、今のゲームはシミュレーターとしてかなり優れていて、F-1レーサーはゲームでコースを覚えるというし、劇中でも言及があるが実際にゲーマー出身の実車ドライバーもいる。
まあ大羽みたいに、乗っていきなり才能開花させるのは無理ゲーな気もするが、こんな奴もいるかも?というギリギリのリアリティを保っているのがポイント。
登場するキャラクターも、頑固一徹なその道のベテランに、いけすかないイケメンのライバル、紅一点の女性メカニックと徹底的に類型的だが、これはこれで良い。
予測不能なのはドリフト競技の局面だから、人間ドラマはある程度、それぞれの役割が決まった予定調和でいい。
それでも、主人公の葛藤はドリフトと同じく、どっちに転ぶか分からなくしたのは上手い。
物語の冒頭から抱えている自分の居場所の問題から、後半は生き方の選択の自由へという展開は、実に今風なものだ。

特筆すべきは、やはりビジュアル。
ドローンやアクションカメラを駆使したドリフト映像は、中継映像では不可能なヨリを実現していて、手に汗握る。
絶対これ、カメラ壊れてるよね~ってショットも複数。
その分、シチュエーションごとに画質もバラバラ。
iPhone映像を混ぜ込んだ「シン・ウルトラマン」の場合、画質の違いがちょっとした違和感につながってしまっていたが、本作の場合は不統一の荒い映像が逆に異様な迫力を生み出してる。
また普通のレースと違って、単走、もしくは1対1のタイマンであるというドリフト競技の特性が、より漫画チックな対立局面を生み出し、撮影のしやすさ(=同時に大量のクルマを走らせる必要が無い)も大きな利点。
ハリウッド映画のように潤沢な予算のない日本映画で、競技の特性を生かした上で、これだけ未見性のある映像を作り出した作り手には、拍手を贈りたい。
邦画のモータースポーツ映画で、トップクラスの仕上がりだ。

今回は、福島県のエビスサーキットが重要な舞台になるので、えびす繋がりで「エビスビール」をチョイス。
明治20年に創業した日本麦酒醸造會社をルーツに、130年以上の歴史を持つ。
当初はドイツ人の技術指導によって作られたドルトムンダースタイル、日本で唯一ビールの銘柄から命名された地名としても知られている。
ドリフト競技も、いつかエビスビールのような長い歴史を持つのだろうな。 

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FLEE フリー・・・・・評価額1700円
2022年06月11日 (土) | 編集 |
人間にとって、故郷とは?

現在のコペンハーゲンで、アフガニスタン難民の男性アミル・ナワビが、友人の映画監督ヨナス・ポヘール・ラスムセンに語った20年前の“FLEE=逃亡”の記憶。
彼は公には内戦で全ての家族を殺されて、10代の頃にただ一人デンマークへ辿り着いたことになっている。
時は流れ、アミルは研究者として成功し、アメリカのプリンストン大学からも招待を受けていて、愛する男性のキャスパーとは結婚の話も出ている。
しかし彼には、今までずっと言えずにいた本当の自分史があったのだ。
日本のクルド難民を描いた「マイスモールランド」の川和田恵真監督は、法の庇護を受けられない彼らの安全のため、実際の難民をキャスティングすることを断念したそうだが、本作は同様の理由でアニメーションで描かれるドキュメンタリー。
そのために、本作は本年度アカデミー賞で、史上初めて国際長編映画賞、長編ドキュメンタリー賞、長編アニメーション賞の3部門同時ノミネートを果たすことになった。

アニメーション手法で描かれるドキュメンタリーは、過去にも数多く作られている。
アメリカのアニメーションの父と呼ばれる、ウィンザー・マッケイが1918年に制作した「ルシタニア号の沈没」は、1915年にドイツ軍のUボートによって沈められた客船ルシタニア号の運命を、リアルに再現した戦争キャンペーン用のドキュメンタリー映画だった。
近年でも、アリ・フォルマン監督が、自身の戦争体験を映画化した「戦場でワルツを」や、カナダの天才アニメーション作家ライアン・ラーキンを描き、2005年のアカデミー短編アニメーション賞を受賞したクリス・ライアン監督の「ライアン」なども記憶に新しい。
また、実在の脱北者からの聞き取りをもとに構成され、北朝鮮の強制収容所の実態を鮮烈に描写した「トゥルーノース」なども、ドキュメンタリー的アニメーションと言っていいだろう。

思うに、アニメーション手法で史実を描いた場合、実写なら凄惨になり過ぎてしまうビジュアルを抑え、なおかつ肉体を持った知らない誰かよりも、観客が感情移入しやすい傾向があると思う。
2020年の作品ながら、まるで90年代のようなローポリゴンのCGで作られた「トゥルーノース」などは、実際にそう言った効果を狙った映像設計だった。
本作の場合は、ラスムセン監督がアミルに行ったインタビュー音声がベースとなっており、主役は映像ではなく、本人の声である。
温かみのある手描きアニメーションは、シンプルで作画枚数も少なく、動き過ぎていないがゆえに、観客がスッと声の導きに入りやすい。
本人の記憶が曖昧な部分では、あえて抽象的なアニメーション表現も用いられている他、実写の記録映像の使い方も効果的で、これが確かに実際に起こったことなのだというリアリティを高めてくる。

アミルの自分語りの始まりは、80年代前半の幼少期
アフガニスタンでは、1973年に王政が倒され、共和政に移行するも国は安定せず、1978年には共産主義体制のアフガニスタン民主共和国が成立。
アミルの父親は、この政権によって何処かへと連行され、行方不明となっている。
職業がパイロット(?)だったことからも、おそらくは王政時代のエリートで、立派な家には母と二人の姉、兄とアミルが残され、歳の離れた長兄は、徴兵を逃れてスウェーデンへと移民している。
共産主義政権に反発するムジャヒディンとの抗争が激化し、1979年には政権の要請を受けたソ連軍がアフガニスタンに侵攻。
泥沼の戦争が繰り広げられているのだが、アミルたちの暮らす首都カブールは平穏そのものだ。
自分でもちょっと変わった子だったと語る彼は、姉の服を着て街を飛び回り、ジャン=クロード・ヴァン・ダムのポスターに恋をする。
だが、風変わりではあるが、どこにでもある平和な少年時代は、10代のある時あっけなく崩れ去る。
ソ連がアフガニスタンから手を引き、後ろ盾を失った共産主義政権はムジャヒディンとの戦いに敗北し、カブールも1992年に陥落する。
アミルの一家が国を脱出したのは、この直前だったようだ。

多感な10代で戦乱を逃れ、難民となって家族と共に出国するも、そこからが真の苦難
敵は戦争だけでは無いのだ。
観光ビザでソ連崩壊後の混乱したロシアに入国し、スウェーデンで働く長兄の助けでモスクワに住む家を確保するも、ロシアでは難民と認められず、就労ビザもないので不法滞在者扱い
なんとか長兄が生活の基盤を整えているスウェーデンに行こうにも、その手段がないのだ。
ここからアミルたちが闘う相手は、難民を食い物にする密航業者や腐敗した警察、硬直した社会システム。
彼らにとって、命の危機はどこにもある。
しかも内戦の結果、タリバンが支配するようになった母国で、ゲイのアミルが生きることは不可能。
だからアフガニスタンに送還されることだけは、絶対に避けなければならないのである。
それにしても、最初に彼らを受け入れたロシアが、今のプーチン政権では同性愛を大罪とし、ウクライナで難民を量産しているのはアイロニーだ。

やがてアミルは、ロシアを脱出し北欧のデンマークにたどり着くのだが、ここで彼は難民と認められるために、アイデンティティを奪われるのである。
密航業者の助言に従って、ロシアの偽造パスポートを破り捨て、自分は家族を殺され、一人でここまで来たと嘘をつく。
本当のことを言えば、ロシアに送還され、下手をすればそのままアフガンに戻されてしまうからだ。
以来20年以上、デンマークで社会的地位を手に入れてもなお、排斥される恐怖から、彼は本当の過去を誰にも話せないままだったのだ。
「君にとって、故郷とは?」というラスムセン監督の問いに、アミルは「ずっと居てもいい場所」と答える。
人生の殆どを、過去から逃れることに費やしてきた彼は、愛する人と本当の故郷を手に入れるために、ついに事実と向き合うことを決めたのである。

アミルの語る人生は、極めてパーソナルなものだが、同時に人間が異郷で生きていかなければならなくなった時、直面する普遍的な問題をはらんでいる。
彼ら家族がアフガニスタンを出国した状況を見れば、どう考えても戦争難民なのだが、本当のことを言えば認められないという矛盾。
彼と同じように、どうにもならない人生に葛藤している難民は、今この国にもいるし、世界中にいるのだ。
子供の時代の生活描写は余りにも普通ゆえに、この世に絶対に変わらない日常などない、戦争や災害、さまざまな理由で誰でも難民になり得るという事実を突き付けてくる。
苦難の人生を歩んだアミルにとって、幸運だったのが、バラバラになっても常にお互いを思いやる、素敵な家族に恵まれたことだろう。
彼がゲイであることを告白するところなんて、よっぽどリベラルな家庭でも、なかなかあの反応は出てこないと思う。
本作を鑑賞して思うところのある人には、是非「マイスモールランド」とあわせて鑑賞することをお勧めする。
上映館はかなり縮小してしまったが、難民にとって本当の苦難とは何か?をリアリティたっぷりに追体験できるだろう。

今回は、アミルの安住の故郷となった、デンマークビールの代表的銘柄「カールスバーグ」をチョイス。
典型的な、辛口のピルスナー・ラガー。
風味も豊かな日本人好みの味で、国内ではサントリーがライセンス生産している。
おかげで輸入ビールに比べて、お値段も手ごろ。
美味しいビールをいつでも楽しめる、平和の大切さを噛み締める作品であった。

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ショートレビュー「ニューオーダー・・・・・評価額1650円」
2022年06月07日 (火) | 編集 |
“死者だけが戦争の終わりを見た”

ターミナルケア専門の看護師を描いた「或る終焉」で知られるメキシコの異才、ミシェル・フランコによる、パワフルな寓話劇だ。
舞台は現在のメキシコ。
ネイアン・ゴンザレス・ノルビンドが演じる主人公マリアンは、高級住宅街にある豪邸で、自分の結婚パーティーを盛大に開いている新婦。
一方、街では不穏な動きが続いている。
貧富の格差が限界を超え、政府に抗議するデモ隊は暴徒となる。
やがて彼らは富裕層に対する敵意と共に、パーティー会場にも雪崩れ込んでくる。
本来なら主人を守るはずの警備員は暴徒の側に立ち、略奪と殺戮が起こり、人生最良の日の華やかな宴は、瞬く間に血まみれの戦場と化す。
だが、マリアンにとって、この事件は地獄巡りの始まりに過ぎないのだ。

暴力には暴力を。
鎮圧に乗り出した軍は、同時に政権を奪取。
社会の歪みが極限に達し、既存の秩序が崩れ去ると、新しい秩序=“ニューオーダー”が築かれるが、それが以前の秩序よりマシとは限らない。
暴徒たちはほとんどが殺されるも、暴走する軍の一部はどさくさに紛れて、富裕層の誘拐ビジネスに手を染める。
暴力をさらに強大な暴力で押さえ込むと、そこに現れるのは本当の弱肉強食。
理性と共に法の支配は失われ、命の価値は限りなく低くなり、人間がもはや人間ではいられない、極限のディストピアだ。

全編を通してお金の話が出てくる。
結婚式には客たちがご祝儀を持ってくるが、マリアンはその金を仕舞い込む母に「パパが政府に贈った賄賂の1パーセントくらいじゃないの」と言う。
宴の最中には元使用人の男性が、妻の手術費用20万ペソ(約140万円)を借りにくる。
そして、誘拐されたマリアンの身代金として提示されるのは、1000万ペソ。
生き死にを分ける金額の50倍の差が、住む世界の違いを分かりやすく描き出す。
だが新しい支配者にとって何より重要なのは、自らの権威なのである。
富裕層だろうが、貧民だろうが、権威を毀損する可能性のある者は容赦なく切り捨てる。
それが例え、偽りの権威だとしてもだ。
今世界で起こっていることを考えれば、これは決して絵空事とは言えないだろう。
劇中でマリアンが着ている、高級そうな衣装は鮮やかな赤。
それに対して、本作のコンセプトカラーであり、暴徒たちが撒き散らす抗議のペンキは青緑。
この色は赤の反対色であり、人間がジャングルの獣に戻る瞬間を象徴的に表している。

しかし、暴力の連鎖がもたらす世界を描きたいのは分かるのだが、問題の根本は格差をもたらした社会構造のはず。
この部分には、ほとんど触れられていないことは引っかかる。
また基本マリアンをはじめとした白人富裕層に視点が置かれているため、怒れる大衆を体現するキャラクターがおらず、彼らが記号化してしまっている。
私は本作から「時計じかけのオレンジ」「ジョーカー」を連想したのだが、どちらの作品の主人公も暴力衝動に駆られる側だった。
対して本作のマリアンは、中盤以降自分から動くことが出来なくなるので、存在が弱くなってしまう。
一応、彼女を匿う使用人の親子が、後半部分の感情移入キャラクターになっているが、富裕層に同情的な立ち位置なので、今ひとつ中途半端に感じる。
ともあれ、格差が拡大し続ける私たちの社会の行く末に、リアリティたっぷりに警鐘を鳴らす力作であることは間違いない。
ただ、いっさいの救いも容赦も無い話なので、かなり観客を選ぶ。
イヤーな気分になる映画に対する、それなりの耐性は必要だろう。

今回は、本作のコンセプトカラーと同じ緑のカクテル「グリーンハット」をチョイス。
氷を入れたタンブラーに、ドライ・ジン25ml、クレーム・ド・ミントグリーン25ml、ソーダ適量を注ぎ、軽くステアする。
清涼な夏向けのカクテルで、辛口のジンとミントが涼しげな風を運んでくる。

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犬王・・・・・評価額1700円
2022年06月01日 (水) | 編集 |
死者たちの声を聞け!

室町時代、将軍足利義満の庇護を受け、大衆に絶大な人気を誇りながら、詳しい記録がほとんど現存しない猿楽師・犬王。
謎めいた時代のスターと、彼のバディとなる琵琶法師の物語を軸に描かれる、忘れられた者たちの声を今に届ける狂乱のロック・ミュージカルだ。
山田尚子監督の「平家物語」と同じ、古川日出男の「平家物語 犬王の巻」を原作とし、監督に湯浅政明、脚本に「罪の声」の野木亜紀子、さらにキャラクター原案は松本大洋、音楽に大友良英という錚々たるオールスターズ。
犬王の声はロックバンド女王蜂のボーカリスト、アヴちゃんがパワフルに演じ、バディとなる琵琶法師の友魚を森山未來が好演する。
唯一無二、まさに湯浅政明にしか作れない、外連味たっぷりオンリーワンの音楽活劇だ。
※核心部分に触れています。

平家が滅びてから凡そ200年後。
壇ノ浦古戦場近くの漁村に住む友魚(森山未來)は、海底で探し当てた天叢雲剣に呪われ、父を失い自らは失明する。
平家の物語を語る琵琶法師に拾われた友魚は、彼らの仲間となり、友一の名をもらう。
同じ頃、猿楽の家元に生まれながら、極度の奇形のために名も付けられず、誰からも相手にされぬ異形の子(アヴちゃん)は、京の街で人を脅して憂さ晴らしをしていた。
ある夜、友一は異形の子と出会うが、見えないので怖がらず、なぜか意気投合。
異形の子は怨霊が見え、ある時彼が平家の怨霊の声を聴くと、体の奇形の一部が治る。
怨霊の声を伝えることが自らの使命と考えた二人は、協力して新たな平家の物語を語り始める。
友一は友有と改名し演奏、異形の子は犬王と名乗り舞う。
彼らの斬新なパフォーマンスは、たちまち京の人々の心を掴むのだが・・・・


私は不勉強でこの人物を知らなかったのだが、道阿弥の名でも知られる犬王は、現在にも伝わる観世座の祖、観阿弥・世阿弥に匹敵する人気があったらしい。
実際に世阿弥は彼のことを高く評価していたらしく、影響も受けているそうだ。
それなのに、なぜか犬王のことを記した資料はほとんど残っておらず、謎の人物なのだという。

物語の軸となるのは、犬王と彼とコンビを組むことになる友魚の絆
時は二つの朝廷が正当性を競っていた南北朝時代。
壇ノ浦近くの村に住んでいた友魚は、足利幕府の役人に依頼され、源平の合戦で海に沈んだ三種の神器の一つ、天叢雲剣を探し当てる。
しかし直接その刀身を見てしまったことで呪いを受け、父は即死し自らは失明してしまうのだ。
やがて厳島神社で琵琶法師の一団と出会った友魚は、盲目で生きる手段として彼らに入門し、しきたりに従って名を“友一”と変え、琵琶法師となる。
琵琶法師は、今では「平家物語」として伝えられる、平家滅亡の歴史を語り伝える者。

一方、犬王には当初名前がない
一流になり切れない猿楽師の父親の虚栄心の犠牲となり、胎児のうちに生贄として捧げられた彼は、人の形をしていない異形の子として生まれてくる。
一つの手は極端に長く、他の三本の手足は短く、顔は大きく歪み、背中には亀のような甲羅。
名も付けられなかった異形の子は、ある時京の都に今も彷徨う、平家の怨霊の声を聞く。
すると、短かった足がピンと伸びるのだ。
この設定で分かる通り、おそらくこのキャラクターは、手塚治虫の傑作「どろろ」の主人公・百鬼丸に強い影響を受けている。
体のパーツを奪われる代わりに、体を歪められ、妖怪を殺す代わりに、怨霊の声を聞いてその物語を語り成仏させると、一箇所ずつ奇形が治ってゆく。
異形の子は、成仏できぬ平家の怨霊の声を聞く者であり、友魚はそれを語り継ぐ者
ひょんなことから出会った二人は、それぞれ“犬王”と“友有”と名乗り、まだ誰にも語られていない平家の物語を大衆に伝えるため、“ロック”と“ミュージカル”を発明してしまうのだ。

ここからはもう、湯浅政明の独断場でイマジネーションが洪水のように押し寄せてくる。
ちゃんと測った訳ではないが、二人が犬王と友有になってからは、体感的には上映時間の半分くらいは二人のパフォーマンスで占められている。
当時の猿楽は、現在の能楽に比べると、遥かにテンポが早かったらしいのだが、それでもエレキギター鳴り響いちゃってるし、舞台装置はほとんどシルクドソレイユだし、踊りの振り付けバレエだし、まさに時代を超えた狂乱のステージ。
観衆も手拍子を打ち鳴らし熱狂し、ほぼ“フェス”である。
特に壇ノ浦を舞台とした、「鯨」のパフォーマンスは圧巻で、こんな破天荒なアニメーション映画は観たことがない。
悩ましいのが、サウンドが激しくなればなるほど、歌詞が聞き取りにくくなり、肝心の語られていない平家の物語が不明瞭になってしまうこと。
ビジュアル的にはちょいダサだが、歌詞字幕が有っても良かったかも知れない。

面白いのが、名前に対する拘りだ。
犬王には最初名がない。
名がないということは友魚と出会うまで、彼のことを呼ぶ人が誰もいなかったということだ。
家族からも見捨てられ、世間からは見えない存在だった彼は、ある意味で死してなお、誰にも知られぬままこの世を漂う怨霊に近い存在だ。
その異形の子が、犬王という名を自ら名乗り、怨霊の持つ記憶を人々に届ける。
もともと漁村の少年だった友魚は、視力を失ったことで琵琶法師となるが、彼らの仲間となるために自らの属性を一部奪われ、友一となる。
琵琶法師は元々平家の物語を語る役割だが、犬王との出会いによって、彼はまだ知られていない物語が無数に存在することを知り、今ここに有る物語を語る“友有”と名を改める。
これは虐げられた者たちが、忘れられた者たちの声を聞き、後の世に届けることでアイデンティティを確立する物語なのである。

しかし、そんな彼らの語る物語は、権力者の都合によってあっさりと封じられてしまう。
「平家物語」には「定本」が定められ、そこに納められている言葉を以外を語ることは禁じられ、逆らえばお上に楯突いた犯罪者として処罰される。
規制を受け入れ、権力にへつらうことを選ぶか、それともあくまでも声なき者たちに寄り添う道を選ぶのか。
それまで言論の自由を謳歌していた犬王と友魚の運命は、ここで分かれるのである。
これは歴史上、世界のあらゆるところで繰り返されてきたイシューで、本作が物語の入り口を現在に設定したこともこれが理由だろう。
本作の二人のように、究極の選択を強いられている人は今もいるし、私たちだってそうならないとは限らないのだ。
文字通りに口を封じられた友有はもちろん、語るべき物語を失った犬王もまた歴史の記憶から消えてゆく。

本作と同じく、サイエンスSARUで制作され、古川日出男訳を原作とする山田尚子版「平家物語」とは、ストーリーそのものは全く繋がらないが、相互補完する様な関係で、両方観るとよりディープに楽しめる。
こちらの特徴は、ひょんなことから平家の有力者、平重盛の屋敷に住むことになった少女“びわ”を主人公に、彼女の視点で全てを描いたこと。
びわには未来を見る特殊な能力があるのだが、彼女は平家滅亡までのおよそ15年間、姿が全く変化しない。
つまりびわは、この世の時間軸から切り離された存在で、15年の間に親しい人たちは病気や戦乱によって次々と死んでゆく。
彼女はこの儚い世界で、時間の縛りをこえ、生と死をつなぐ存在である自分が、人々のために何ができるのだろうとずっと考えている。
重盛や彼の妹で聡明な徳子、幼馴染となる重盛の三人の息子たち、それぞれの生き方に心動かされ、滅びゆく彼らのために祈り、物語として語り継ぐことを決意する。
すると、平家の滅亡と共に、彼女の目の光は失われ、盲目の琵琶法師となるのである。

死んでいった者たちの物語を語り継ぎ、声を届けるのは本作と共通だが、「平家物語」のびわは、平家の頂点の歴史を見てきたインサイダーであって、彼女の語る物語はいわば定本。
平家は巨大な一族だったので、抜け落ちている物語もたくさんあり、200年後にそれを拾ったのが犬王だったら?という発想は非常に面白い。
「平家物語」はNetflixをはじめ、各配信サービスで観ることができるので、是非本作と併せて鑑賞することをお勧めする。
湯浅政明と山田尚子、現在の日本のアニメーションシーンを牽引する二人の天才の仕事は、どちらも作家性が強く、観応えも十分だ。

今回は京丹後の地酒、木下酒造の「玉川 山廃純米無濾過生原酒 白ラベル」をチョイス。
こちらは日本で唯一、英国人のフィリップ・パーカー氏が杜氏を務める蔵で、映画「カンパイ!世界が恋する日本酒」にも登場した。
濃厚豊潤な味わいで、20度のアルコール度数は純米酒としては異例の高さだが、マイルドで飲みやすい。
普通に飲んでも旨いが、ぬる燗にしたり、度数を生かしてオンザロックにしたり、さまざまな味わい方を試してみたくなる懐の深い酒だ。

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