2022年07月03日 (日) | 編集 |
誰が、キング・オブ・ロックンロールを殺したのか?
2013年に公開された「華麗なるギャツビー」以来となるバズ・ラーマンの最新作は、史上最も売れたソロアーティスト、エルヴィス・プレスリーの伝記映画だ。
とは言っても、音楽史を描くストレートな物語ではない。
若き日のエルヴィスを見出し、彼の終生のマネージャーとなった男、トム・パーカー“大佐”をストーリーテラーとして、二人の関係を軸として展開する。
端的に言えば、狡猾な鵜飼に捕まってしまった鵜が、自由を求めて抗う物語である。
怪しげなプロモーターは、いかにして稀代の天才を支配し、搾取したのか。
悪役は珍しいトム・ハンクスが、嬉々としてパーカー大佐を怪演し、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」でマンソン・ファミリーの一人、テックスを演じたオースチン・バトラーが、タイトルロールに大抜擢された。
9年ぶりの長編も、ラーマン節は健在。
冒頭から、めくるめく映像と音楽が津波のごとく押し寄せ、観応え聴き応え十分な159分だ。
1950年代、プロモーターのトム・パーカー大佐(トム・ハンクス)は、あるイベントで一人の若い歌手と出会う。
彼の名はエルヴィス・プレスリー(オースチン・バトラー)。
父親のヴァーノン(リチャード・ロクスバーグ)が服役し実家が困窮したことで、黒人地区で幼少期を過ごした。
その頃の体験から、彼の音楽は白人のカントリーと、黒人音楽のR&B、ゴスペルを併せ持った特徴を持っていた。
独特のダンスとエネルギッシュな歌に熱狂する女性たちを見た大佐は、マネージメント契約を結ぶと、全米を回ってエルヴィスを売り出す。
新しい音楽“ロックンロール”は瞬く間に絶大な人気を博すが、南部の州では白人のエルヴィスが黒人音楽のスタイルで歌うことが問題視される。
故郷メンフィスのラスウッド・パークスタジアムのステージに立ったエルヴィスだったが、会場は警察によって監視され、大佐もエルヴィスの逮捕を恐れていつものパフォーマンスを行わないように指示するのだが・・・・・
私的バズ・ラーマンのベスト。
これはドルビーシネマで観るべき案件だったかな。
エルヴィス・プレスリーが亡くなったのは、私が小学生の頃だったので、リアルタイムでは彼の活躍した時代は知らない。
もちろん膨大な楽曲は聴いているし、映画も代表的な物は観た。
だがジョン・レノンと不仲だったとか、ベトナム戦争に賛成していたとか、晩年はずーっとラスベガスのホテルでディナーショーやってたとか、どちらかと言えば保守的な古い歌手というイメージだった。
昔メンフィスに行った時、やっぱこの町の名所と言えばということで、旧エルヴィス邸のグレイスランドも訪ねてみたけど、家そのものは典型的な南部の成金という感じだったのを覚えてる。
だがこの映画は、本当のエルヴィスがどんな人物で、なぜ保守的なイメージになってしまったのか、その人生の裏側を描く。
映画の視点は、基本的に剛腕マネージャーのパーカー大佐に置かれている。
エルヴィスの死から20年後の90年代のラスベガス、死の床にある大佐が、走馬灯の様にエルヴィスとの激動の人生を振り返る構造。
カントリー歌手の興行を取り仕切っていた50年代のある日、新人歌手のエルヴィスのステージを見て、即金の匂いを嗅ぎつけ契約。
公民権運動以前の当時の南部は、白人と黒人は厳格に分たれ、同じ街に住んでいても生活圏も異なり文化も違う。
しかし、エルヴィスは父の服役で実家が困窮し、家賃の安い黒人地区で育ったのである。
壁の穴から覗き見たダンスクラブで演奏されているR&Bの官能、そして教会で聞いたゴスペルによる陶酔体験。
これらのブラックカルチャーが、エルヴィスの独特の音楽性を形作り、誰も聴いたことの無い新しい音楽、ロックンロールの誕生に繋がる。
映画の前半は、新時代のスターとして台頭するエルヴィスが、黒人音楽がバックグラウンドにあるが故に、人種分離を叫ぶ白人保守派の標的にされる。
80年代頃の日本でも「ロックは不良の音楽」的な言説は残っていて、一部の保守的な人からは目の敵にされていたが、その根源がロックンロールの文化的ルーツと人種問題だったとは、なるほど物事は深読みしないと分からないものだ。
つまりあの頃ロックを吊し上げていた大人たちは、間接的にレイシストの主張を代弁していたことになる。
ブラックカルチャーを白人が取り込むことは、今ではネットの正義の戦士たちによって、文化の盗用と糾弾されそうだが、当時は逆の立場から排斥の対象になっていたのは興味深い。
幼少期に黒人地区で育った話や、大人になってからの黒人音楽界との関係も、断片的には知っていたが、こうして一本に繋がると非常に新鮮。
キング牧師やロバート・ケネディ暗殺に大きなショックを受けていたのも、正直なところエルヴィスのイメージからは意外で、いくつかの彼の楽曲の意味が自分の中で変わった。
後半は、いよいよ大佐による支配と搾取の構図が明確になり、エルヴィスの自由を求める葛藤が高まってゆく。
これは有名な話だが、パーカー大佐は実はアメリカ人ではなく、本名はアンドレアス・コルネリス・ファン・カウクというオランダからの密入国者。
それゆえに、彼は国籍もパスポートも持っていない。
エルヴィスが他のアーティストたちのように、世界ツアーを行わなかったのも、自称パーカー大佐が一度海外へ出ると、再入国できなくなるからだと言われている。
世界への夢を奪ったどころか、ギャンブル狂でカジノに莫大な借金があった大佐は、可能な限り自分のそばにエルヴィスを縛り付けておくために、ラスベガスのホテルと長期契約を結ばせてしまうのだ。
そう、30歳後半からのエルヴィスが音楽シーンのメインストリームから外れ、カジノのディナーショー歌手へと変貌してしまったのは、大佐の意向だったのである。
しかもホテルの名前が“インターナショナル”というのだから、もはやブラックジョーク。
人たらしのキャラクターを、トム・ハンクスが実に邪悪に演じていて素晴らしいのだが、エルヴィスもただ言いなりになっていたわけではない。
大佐はビジネスマンであって、音楽センスは全く無いのをいいことに、クリスマスのファミリーTV番組の企画を、勝手にロックショーへと魔改造。
本作の見どころは、再現された数々のコンサートシーンだが、ロバート・ケネディへの追悼の意味を込めた、この番組のパフォーマンスは圧巻で、オリジナルを観たくなった。
またカジノでのディナーショーでも、新しいアイディアをどんどん盛り込んで、ゴージャスな一大エンタメに仕上げてしまうなど、やはりこの人はとてつもない才人だったのだなと思わせる。
しかし、結局どこまで行っても、エルヴィスは狡猾な大佐の“鵜”であることからは脱せないのである。
大佐は一族ごとがんじがらめにしていて、エルヴィスは家族を人質に取られ、彼に従わざるを得ない。
何度も独立できそうになっても、あの手この手の大佐の策略によって、すぐに搾取の構造に戻ってしまう展開に胸が痛くなる。
「ボヘミアン・ラプソディー」の大ヒットで、20世紀の偉大なミュージシャンの伝記映画が相次いで作られる様になったが、「あの栄光の裏では」的な作りになるのは本作を含めて共通。
しかし本作は、バズ・ラーマンならではのド派手な映像表現と、緻密に再現された圧巻のステージパフォーマンスと言ったテリングの未見性だけでなく、スーパースターとマネージャーの奇妙な依存関係を軸とした、不条理な人間ドラマとしても目新しく引き込まれる。
どんなジャンルでも、新しいものを生み出した人間は叩かれる。
エルヴィスは最初は社会の偏見と闘い、やがて世間に認められると、パーカー大佐という自らに巣食う怪物との闘いによって疲弊してゆく。
全ての経歴がでっち上げの大佐という虚構の男に、ラーマンの前作「華麗なるギャツビー」の主人公が重なる。
あちらは虚構の男ギャツビーが、現実の愛を切なく求める話だったが、こちらの虚構は肥大化する欲望によって愛に満ちた優しい男、エルヴィスを食い尽くしてしまう。
実にアメリカ的な寓話で、観終わってもずっと余韻が尾を引く。
今回は、ラスベガスのある「ネバダ」の名を持つカクテルを。
ホワイト・ラム40ml、ライム・ジュース10ml、グレープフルーツ・ジュース10ml、砂糖1tsp、アンゴスチュラ・ビターズ1dashをシェイクして、グラスに注ぐ。
ネバダは砂漠地帯のために乾燥が激しく、この環境で喉を潤すために考案された一杯。
柑橘のフレッシュな酸味とラムの相性がよく、飲みやすいカクテルだ。
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2013年に公開された「華麗なるギャツビー」以来となるバズ・ラーマンの最新作は、史上最も売れたソロアーティスト、エルヴィス・プレスリーの伝記映画だ。
とは言っても、音楽史を描くストレートな物語ではない。
若き日のエルヴィスを見出し、彼の終生のマネージャーとなった男、トム・パーカー“大佐”をストーリーテラーとして、二人の関係を軸として展開する。
端的に言えば、狡猾な鵜飼に捕まってしまった鵜が、自由を求めて抗う物語である。
怪しげなプロモーターは、いかにして稀代の天才を支配し、搾取したのか。
悪役は珍しいトム・ハンクスが、嬉々としてパーカー大佐を怪演し、「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」でマンソン・ファミリーの一人、テックスを演じたオースチン・バトラーが、タイトルロールに大抜擢された。
9年ぶりの長編も、ラーマン節は健在。
冒頭から、めくるめく映像と音楽が津波のごとく押し寄せ、観応え聴き応え十分な159分だ。
1950年代、プロモーターのトム・パーカー大佐(トム・ハンクス)は、あるイベントで一人の若い歌手と出会う。
彼の名はエルヴィス・プレスリー(オースチン・バトラー)。
父親のヴァーノン(リチャード・ロクスバーグ)が服役し実家が困窮したことで、黒人地区で幼少期を過ごした。
その頃の体験から、彼の音楽は白人のカントリーと、黒人音楽のR&B、ゴスペルを併せ持った特徴を持っていた。
独特のダンスとエネルギッシュな歌に熱狂する女性たちを見た大佐は、マネージメント契約を結ぶと、全米を回ってエルヴィスを売り出す。
新しい音楽“ロックンロール”は瞬く間に絶大な人気を博すが、南部の州では白人のエルヴィスが黒人音楽のスタイルで歌うことが問題視される。
故郷メンフィスのラスウッド・パークスタジアムのステージに立ったエルヴィスだったが、会場は警察によって監視され、大佐もエルヴィスの逮捕を恐れていつものパフォーマンスを行わないように指示するのだが・・・・・
私的バズ・ラーマンのベスト。
これはドルビーシネマで観るべき案件だったかな。
エルヴィス・プレスリーが亡くなったのは、私が小学生の頃だったので、リアルタイムでは彼の活躍した時代は知らない。
もちろん膨大な楽曲は聴いているし、映画も代表的な物は観た。
だがジョン・レノンと不仲だったとか、ベトナム戦争に賛成していたとか、晩年はずーっとラスベガスのホテルでディナーショーやってたとか、どちらかと言えば保守的な古い歌手というイメージだった。
昔メンフィスに行った時、やっぱこの町の名所と言えばということで、旧エルヴィス邸のグレイスランドも訪ねてみたけど、家そのものは典型的な南部の成金という感じだったのを覚えてる。
だがこの映画は、本当のエルヴィスがどんな人物で、なぜ保守的なイメージになってしまったのか、その人生の裏側を描く。
映画の視点は、基本的に剛腕マネージャーのパーカー大佐に置かれている。
エルヴィスの死から20年後の90年代のラスベガス、死の床にある大佐が、走馬灯の様にエルヴィスとの激動の人生を振り返る構造。
カントリー歌手の興行を取り仕切っていた50年代のある日、新人歌手のエルヴィスのステージを見て、即金の匂いを嗅ぎつけ契約。
公民権運動以前の当時の南部は、白人と黒人は厳格に分たれ、同じ街に住んでいても生活圏も異なり文化も違う。
しかし、エルヴィスは父の服役で実家が困窮し、家賃の安い黒人地区で育ったのである。
壁の穴から覗き見たダンスクラブで演奏されているR&Bの官能、そして教会で聞いたゴスペルによる陶酔体験。
これらのブラックカルチャーが、エルヴィスの独特の音楽性を形作り、誰も聴いたことの無い新しい音楽、ロックンロールの誕生に繋がる。
映画の前半は、新時代のスターとして台頭するエルヴィスが、黒人音楽がバックグラウンドにあるが故に、人種分離を叫ぶ白人保守派の標的にされる。
80年代頃の日本でも「ロックは不良の音楽」的な言説は残っていて、一部の保守的な人からは目の敵にされていたが、その根源がロックンロールの文化的ルーツと人種問題だったとは、なるほど物事は深読みしないと分からないものだ。
つまりあの頃ロックを吊し上げていた大人たちは、間接的にレイシストの主張を代弁していたことになる。
ブラックカルチャーを白人が取り込むことは、今ではネットの正義の戦士たちによって、文化の盗用と糾弾されそうだが、当時は逆の立場から排斥の対象になっていたのは興味深い。
幼少期に黒人地区で育った話や、大人になってからの黒人音楽界との関係も、断片的には知っていたが、こうして一本に繋がると非常に新鮮。
キング牧師やロバート・ケネディ暗殺に大きなショックを受けていたのも、正直なところエルヴィスのイメージからは意外で、いくつかの彼の楽曲の意味が自分の中で変わった。
後半は、いよいよ大佐による支配と搾取の構図が明確になり、エルヴィスの自由を求める葛藤が高まってゆく。
これは有名な話だが、パーカー大佐は実はアメリカ人ではなく、本名はアンドレアス・コルネリス・ファン・カウクというオランダからの密入国者。
それゆえに、彼は国籍もパスポートも持っていない。
エルヴィスが他のアーティストたちのように、世界ツアーを行わなかったのも、自称パーカー大佐が一度海外へ出ると、再入国できなくなるからだと言われている。
世界への夢を奪ったどころか、ギャンブル狂でカジノに莫大な借金があった大佐は、可能な限り自分のそばにエルヴィスを縛り付けておくために、ラスベガスのホテルと長期契約を結ばせてしまうのだ。
そう、30歳後半からのエルヴィスが音楽シーンのメインストリームから外れ、カジノのディナーショー歌手へと変貌してしまったのは、大佐の意向だったのである。
しかもホテルの名前が“インターナショナル”というのだから、もはやブラックジョーク。
人たらしのキャラクターを、トム・ハンクスが実に邪悪に演じていて素晴らしいのだが、エルヴィスもただ言いなりになっていたわけではない。
大佐はビジネスマンであって、音楽センスは全く無いのをいいことに、クリスマスのファミリーTV番組の企画を、勝手にロックショーへと魔改造。
本作の見どころは、再現された数々のコンサートシーンだが、ロバート・ケネディへの追悼の意味を込めた、この番組のパフォーマンスは圧巻で、オリジナルを観たくなった。
またカジノでのディナーショーでも、新しいアイディアをどんどん盛り込んで、ゴージャスな一大エンタメに仕上げてしまうなど、やはりこの人はとてつもない才人だったのだなと思わせる。
しかし、結局どこまで行っても、エルヴィスは狡猾な大佐の“鵜”であることからは脱せないのである。
大佐は一族ごとがんじがらめにしていて、エルヴィスは家族を人質に取られ、彼に従わざるを得ない。
何度も独立できそうになっても、あの手この手の大佐の策略によって、すぐに搾取の構造に戻ってしまう展開に胸が痛くなる。
「ボヘミアン・ラプソディー」の大ヒットで、20世紀の偉大なミュージシャンの伝記映画が相次いで作られる様になったが、「あの栄光の裏では」的な作りになるのは本作を含めて共通。
しかし本作は、バズ・ラーマンならではのド派手な映像表現と、緻密に再現された圧巻のステージパフォーマンスと言ったテリングの未見性だけでなく、スーパースターとマネージャーの奇妙な依存関係を軸とした、不条理な人間ドラマとしても目新しく引き込まれる。
どんなジャンルでも、新しいものを生み出した人間は叩かれる。
エルヴィスは最初は社会の偏見と闘い、やがて世間に認められると、パーカー大佐という自らに巣食う怪物との闘いによって疲弊してゆく。
全ての経歴がでっち上げの大佐という虚構の男に、ラーマンの前作「華麗なるギャツビー」の主人公が重なる。
あちらは虚構の男ギャツビーが、現実の愛を切なく求める話だったが、こちらの虚構は肥大化する欲望によって愛に満ちた優しい男、エルヴィスを食い尽くしてしまう。
実にアメリカ的な寓話で、観終わってもずっと余韻が尾を引く。
今回は、ラスベガスのある「ネバダ」の名を持つカクテルを。
ホワイト・ラム40ml、ライム・ジュース10ml、グレープフルーツ・ジュース10ml、砂糖1tsp、アンゴスチュラ・ビターズ1dashをシェイクして、グラスに注ぐ。
ネバダは砂漠地帯のために乾燥が激しく、この環境で喉を潤すために考案された一杯。
柑橘のフレッシュな酸味とラムの相性がよく、飲みやすいカクテルだ。

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