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2022年09月30日 (金) | 編集 |
「48分間」の向こうに見えるもの。
「彼らが本気で編むときは、」の荻上直子監督が、2019年に発表した自作小説を、セルフ映画化した作品。
本来は昨年公開予定だったが、コロナ禍で一年延期され、満を持しての公開となった。
松山ケンイチ演じる訳アリの男、山田たけしが北陸の田舎町にあるイカの塩辛工場に職を得て、社長から紹介された古い平家建てのアパート「ハイツ ムコリッタ」に引っ越してくる。
しがらみのない土地で、誰ともかかわらず孤独に生きてゆくはずだったのだが、突然「風呂を貸してくれ」と言ってくる図々しい隣人と知り合ってしまったのをきっかけに、アパートに住む奇妙な人々との交流が始まる。
そんな頃、山田の元に役所から連絡が入る。
彼の父が富山で孤独死したので、遺骨を引き取ってくれと言うのだ。
子供の頃に両親が離婚し、ずっと音信不通だった父の突然の訃報に、山田は戸惑い素直に向き合うことが出来ない。
ムロツヨシが異常に馴れ馴れしい隣人の島田幸三を演じ、大家の南詩織に満島ひかり、一見宗教の人っぽい怪しい墓石売りの溝口健一に吉岡秀隆。
彼ら一癖も二癖もある役者たちが、また素晴らしいのだ。
山田を含むハイツ ムコリッタの面々に共通するのが、それぞれに違った形で人生を変えるほどの大きな喪失を抱えていること。
タイトルのムコリッタは、アパートの名前であるのと同時に、元々は時間の単位を表す仏教用語「牟呼栗多」のこと。
一番短い単位が一瞬を表す「刹那(せつな)」で1/75秒。
二番目の「怛刹那(たせつな)」が120刹那で、次に「臘縛(ろうばく)」の60怛刹那、30臘縛で1牟呼栗多となるので、だいたい48分。
さらに30牟呼栗多で1日を表す1昼夜となる。
仏教では一番短い刹那の中にも、生き死にが存在し、全ての時間はこれを繰り返しているという。
ハイツ ムコリッタに住む人々は、それぞれに生と死の時間であるムコリッタにあって、喪失の意味を知る。
世の中の無情だけを感じながら生きてきて、他人との間だけでなく、肉親との間にも壁を作ってきた山田も、父の死と自分の生が交わる経験を得て、人生の新しいステージに踏み出す決意をする。
そして生きることの象徴として描かれるのが、繰り返し描かれる食事のシーンだ。
アパートの広い敷地には、島田が家庭菜園を作っていて、そこで取れる野菜の数々と、山田が炊き上げる白米、そして彼が職場から持ってくるイカの塩辛の美味そうなことといったら。
以前から書いているが、私は作中に出てくるご飯が食べたくなるほど美味しそうに見える映画は、名作率が高いと思ってる。
荻上監督の映画の「食」は、命あるものを喜びと共にいただき、自らの血と肉とすることへ感謝を描き、いい意味で生々しい。
本作の「食」に匹敵するのは、近年では「リトル・フォレスト」4部作くらいではないか。
驚くべきは撮影監督の安藤広樹の仕事で、CM畑の人なので映画はあまりやっていないようだが、フレーミングといい、光と影の捉え方といい、本作の映像的な魅力をグッと高めているのは間違いない。
生と死の循環の延長線上に描かれるシュールな葬式と、パスカルズの音楽がとてもいい。
私の考えでは若くして認められた映画作家の多くは、次の段階として本当に作りたいものと成功体験との間で迷い、作風がぼんやりとしてくるのだが、ある時期を乗り切ると急に作品の輪郭がクッキリして来る。
荻上監督の場合は、前作の「彼らが本気で編むときは、」がターニングポイントだったと思う。
独特の空気感や持ち味はそのままだが、以前のような触ったら溶けちゃいそうな曖昧さは無くなり、観ていて円熟という言葉がよぎるようになった。
その分、扱う題材もロハス系なんて言葉が似合わないくらいに重めになってきたと思うが、ドラマ性も深みを増し観応えは十分だ。
今回は富山の地酒、立山酒造の「銀嶺立山 純米大吟醸 雨晴」をチョイス。
精米歩合が大幅に高まったこともあり、芳醇さとコクが一段と高まった。
喉ごしは穏やかで、食中酒として料理を選ばない。
イカの塩辛をつまみに、ハイツ ムコリッタの面々と一杯やりたい。
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「彼らが本気で編むときは、」の荻上直子監督が、2019年に発表した自作小説を、セルフ映画化した作品。
本来は昨年公開予定だったが、コロナ禍で一年延期され、満を持しての公開となった。
松山ケンイチ演じる訳アリの男、山田たけしが北陸の田舎町にあるイカの塩辛工場に職を得て、社長から紹介された古い平家建てのアパート「ハイツ ムコリッタ」に引っ越してくる。
しがらみのない土地で、誰ともかかわらず孤独に生きてゆくはずだったのだが、突然「風呂を貸してくれ」と言ってくる図々しい隣人と知り合ってしまったのをきっかけに、アパートに住む奇妙な人々との交流が始まる。
そんな頃、山田の元に役所から連絡が入る。
彼の父が富山で孤独死したので、遺骨を引き取ってくれと言うのだ。
子供の頃に両親が離婚し、ずっと音信不通だった父の突然の訃報に、山田は戸惑い素直に向き合うことが出来ない。
ムロツヨシが異常に馴れ馴れしい隣人の島田幸三を演じ、大家の南詩織に満島ひかり、一見宗教の人っぽい怪しい墓石売りの溝口健一に吉岡秀隆。
彼ら一癖も二癖もある役者たちが、また素晴らしいのだ。
山田を含むハイツ ムコリッタの面々に共通するのが、それぞれに違った形で人生を変えるほどの大きな喪失を抱えていること。
タイトルのムコリッタは、アパートの名前であるのと同時に、元々は時間の単位を表す仏教用語「牟呼栗多」のこと。
一番短い単位が一瞬を表す「刹那(せつな)」で1/75秒。
二番目の「怛刹那(たせつな)」が120刹那で、次に「臘縛(ろうばく)」の60怛刹那、30臘縛で1牟呼栗多となるので、だいたい48分。
さらに30牟呼栗多で1日を表す1昼夜となる。
仏教では一番短い刹那の中にも、生き死にが存在し、全ての時間はこれを繰り返しているという。
ハイツ ムコリッタに住む人々は、それぞれに生と死の時間であるムコリッタにあって、喪失の意味を知る。
世の中の無情だけを感じながら生きてきて、他人との間だけでなく、肉親との間にも壁を作ってきた山田も、父の死と自分の生が交わる経験を得て、人生の新しいステージに踏み出す決意をする。
そして生きることの象徴として描かれるのが、繰り返し描かれる食事のシーンだ。
アパートの広い敷地には、島田が家庭菜園を作っていて、そこで取れる野菜の数々と、山田が炊き上げる白米、そして彼が職場から持ってくるイカの塩辛の美味そうなことといったら。
以前から書いているが、私は作中に出てくるご飯が食べたくなるほど美味しそうに見える映画は、名作率が高いと思ってる。
荻上監督の映画の「食」は、命あるものを喜びと共にいただき、自らの血と肉とすることへ感謝を描き、いい意味で生々しい。
本作の「食」に匹敵するのは、近年では「リトル・フォレスト」4部作くらいではないか。
驚くべきは撮影監督の安藤広樹の仕事で、CM畑の人なので映画はあまりやっていないようだが、フレーミングといい、光と影の捉え方といい、本作の映像的な魅力をグッと高めているのは間違いない。
生と死の循環の延長線上に描かれるシュールな葬式と、パスカルズの音楽がとてもいい。
私の考えでは若くして認められた映画作家の多くは、次の段階として本当に作りたいものと成功体験との間で迷い、作風がぼんやりとしてくるのだが、ある時期を乗り切ると急に作品の輪郭がクッキリして来る。
荻上監督の場合は、前作の「彼らが本気で編むときは、」がターニングポイントだったと思う。
独特の空気感や持ち味はそのままだが、以前のような触ったら溶けちゃいそうな曖昧さは無くなり、観ていて円熟という言葉がよぎるようになった。
その分、扱う題材もロハス系なんて言葉が似合わないくらいに重めになってきたと思うが、ドラマ性も深みを増し観応えは十分だ。
今回は富山の地酒、立山酒造の「銀嶺立山 純米大吟醸 雨晴」をチョイス。
精米歩合が大幅に高まったこともあり、芳醇さとコクが一段と高まった。
喉ごしは穏やかで、食中酒として料理を選ばない。
イカの塩辛をつまみに、ハイツ ムコリッタの面々と一杯やりたい。

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2022年09月24日 (土) | 編集 |
おばあちゃんの森が、会わせてくれたのは。
原題は「Petite maman(小さいママ)」。
亡きおばあちゃんが住んでいた森の家を整理するため、両親と共にやってきた8歳の少女ネリーは、周囲の森を探索中に8歳の頃の“ママ”に出会う。
「燃ゆる女の肖像」のセリーヌ・シアマが綴るジャック・フィニイ的物語は、いわばフランス版の「思い出のマーニー」だ。
SFであり、おとぎ話であり、ある種の幽霊譚でもある本作の上映時間は、僅かに73分。
しかしロジカルに構成された物語の密度は森の緑と同様に濃く、前作に続いてシアマとタッグを組んだ撮影監督のクレール・マトンによる映像は、決め込まれた見惚れるようなショットが連続する。
主人公のネリーと同い年のママを、ジョセフィーヌとガブリエルのサンス姉妹が演じているのだが、そっくり過ぎてガブリエルの方がヘアバンドしてる時以外は識別不可能。
8歳のネリー(ジョセフィーヌ・サンス)は、大好きだったおばあちゃんを亡くしたばかり。
残された遺品を整理するために、ネリーは両親と共に森に囲まれたおばあちゃんの家を訪れる。
悲しみに暮れるママ(ニナ・ミュリス)は、思い出の詰まった家に留まることができず、夜中のうちに出て行ってしまい、父(ステファン・バルペンヌ)とネリーが残って整理を続けることに。
ママが子供の頃に作ったという小屋を探しに行ったネリーは、森の中で小屋を作っている少女(ガブリエル・サンス)と出会い、手伝うことに。
少女に招かれて彼女の家に行くと、そこはおばあちゃんの家とそっくりだった。
家の中の様子も全く同じで、ネリーはママと同じマリオンと言う名の同い年の少女が、子供時代のママであることを確信する。
家には、まだ若く元気だった頃のおばあちゃん(マルゴ・アバスカル)の姿もあった。
ネリーは何度もマリオンと会い、女優になる夢を持っていたことなど、ママの知らなかった一面を知る。
森を去る時が近付いたある日、ネリーは自分が未来からきた娘だと、マリオンに打ち明けるのだが・・・
映画の冒頭でネリーは、介護施設の老人のクロスワードパズルを手伝っている。
そしておもむろに「さようなら」と告げて部屋を出てゆき、その隣の部屋の住人にも同じように「さようなら」を告げるのだ。
次の部屋に入ると、ママがベットを片付けており、ネリーのおばあちゃんはすでに亡くなっていて、彼女が施設に来ることは、もう無いのだということが示唆される。
この短いシーンだけで、頭が良く優しく親切で、おばあちゃんを含む入居者たちと良好な関係を作っていたネリーのキャラクターが分かる。
母娘はパパと共に森に囲まれた祖母の家に向かうのだが、ネリーとママとの間に会話はほとんどなく、常に悲しげな表情を浮かべていたママは、ふいに家から出て行ってしまい戻らない。
二人の間には、心の距離が出来ているのだ。
前作の「燃ゆる女の肖像」では、結婚を控えた名家の令嬢・エロイーズの肖像を描くために、孤島の邸宅に画家のマリアンヌがやってくる。
やがてエロイーズの厳格な母親は用事ができて不在となり、館に残されたのはエロイーズとマリアンヌ、メイドのソフィーの三人の若い女性だけ。
全ての女性にとって、自由が特別な権利だった18世紀という時代に、彼女たちは抑圧された精神を解放し、エロイーズとマリアンヌは人生で最初で最後の真剣な恋に落ちてゆく。
本作でもママが突然退場し、残されたパパは一人で家の片付けに追われ忙しい。
ネリーは、勝手気ままに行動する権利と時間を得るのである。
孤島と森というロケーションの違いはあるが、どちらも主人公にとっての非日常を作り出すための舞台装置であり、支配のくびきを逃れた主人公は変化の時を迎える。
ママが子供の頃に作ったという小屋を探しに出かけたネリーは、大きな枝を運ぶ少女を手伝うのだが、彼女が作っていたのものこそ小屋。
少女が名乗ったマリオンという名前は、ママと同じ。
マリオンに誘われて彼女の家に行ってみると、そこはおばあちゃんの家そのもので、死んだはずのおばあちゃんの姿もある。
ここにきて、ネリーは自分が過去に来ているのだと確信するのである。
しかし目の前にいるのは、自分とよく似た同い年の子供で、大人のママとはだいぶ違う。
面白いのは、この超常現象を少女たちがあっさりと受け入れてしまうこと。
ネリーだけでなく、のちに事実を打ち明けられたマリオンも、未来の娘の語る突飛な話を抵抗なく信じる。
時間旅行の不思議よりも、今そこにいる友だちの方が重要だということか。
登場人物は基本的に三世代の家族だけで、舞台となるのも時代の異なる家と森のみ。
すぐに仲良くなった二人は、小屋作りをはじめ、誕生日を祝ったり、二人芝居を作ったり、短い間にさまざまな交流をする。
ミニマムで不思議な世界観の中、二人の少女は母と娘、大人と子供といった属性から解き放たれ、ネリーとマリオンという固有名詞で相手を理解してゆく。
もっと幼い子供にとって、ママはママという絶対的母性。
でも8歳という年齢になったネリーは、もう少し客観的にママを見ていて、マリオンと出会ったことで、一人の人間としてのママのベースにあるものをより深く知る機会を得る。
この奇跡の時間を通して、ネリーはママが女優になりたいという夢を持っていたことや、予定されている手術を受けるのを怖がっていることを知り、マリオンも自分が23歳でネリーを産み、31歳でママを亡くすことを知る。
ネリーにとってのおばあちゃんは、マリオンから見たら最愛のママ。
同じ歳で出会ったことで、二人の少女は新しい視点を得て、互いに共感を深め成長する。
一族の女性が、代々ネリーとマリオンと言う名前を受け継いでいる設定も、三世代の女性たちの血の連環という意味をより強調する。
セリーヌ・シアマはジブリ映画が好きだそうだが、家族愛と友情が表裏一体となった物語は、海外のメディアも指摘しているように、「思い出のマーニー」の影響が明らかだ。
また、マリオンが手術を受けるのを怖がっている設定は、「借りぐらしのアリエッティ」で、神木隆之介が演じた翔を思わせる。
この現象が本当に時間旅行なのか、それとも狐狸妖怪的な怪異なのかは明らかにされないが、個人的には亡くなったおばあちゃんが、愛する娘と孫を心配して起こした奇跡と思いたい。
別れが迫った終盤で、ネリーとマリオンは湖にゴムボートで漕ぎ出し、中央に聳えるピラミッドのようなシュールな構造物にたどり着き、その頂上へと登る。
映像と音楽が一体となった圧巻のモーメントに、世界は彼女たちのものとして確かに存在している。
この短いシーンを頂点とした、クレール・マトンによる色彩、空間デザインは本当に素晴らしい。
血を受け継いだ三世代の女性たちの、ちょっと不思議な喪失と絆、そしてアイデンティティの目覚めの物語。
子供時代の宝物を収めた宝石箱のような、どこまでもピュアで美しい映画だ。
ネリーに大人用ベッド奪われて、子供用ベッドで体を丸めて寝る、控えめなお父さんがカワイイ。
今回は、同じ顔をした二人の天使ちゃんのイメージで「エンジェル・フェイス」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、カルバドス15ml、アプリコット・ブランデー15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ノルマンディー地方の名産品として知られるリンゴのブランデー、カルヴァドスとアプリコット・ブランデーという甘めのお酒を、清涼なドライ・ジンがスッキリとまとめ上げる。
優しい味わいの飲みやすいカクテルだが、度数は結構強いので注意。
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原題は「Petite maman(小さいママ)」。
亡きおばあちゃんが住んでいた森の家を整理するため、両親と共にやってきた8歳の少女ネリーは、周囲の森を探索中に8歳の頃の“ママ”に出会う。
「燃ゆる女の肖像」のセリーヌ・シアマが綴るジャック・フィニイ的物語は、いわばフランス版の「思い出のマーニー」だ。
SFであり、おとぎ話であり、ある種の幽霊譚でもある本作の上映時間は、僅かに73分。
しかしロジカルに構成された物語の密度は森の緑と同様に濃く、前作に続いてシアマとタッグを組んだ撮影監督のクレール・マトンによる映像は、決め込まれた見惚れるようなショットが連続する。
主人公のネリーと同い年のママを、ジョセフィーヌとガブリエルのサンス姉妹が演じているのだが、そっくり過ぎてガブリエルの方がヘアバンドしてる時以外は識別不可能。
8歳のネリー(ジョセフィーヌ・サンス)は、大好きだったおばあちゃんを亡くしたばかり。
残された遺品を整理するために、ネリーは両親と共に森に囲まれたおばあちゃんの家を訪れる。
悲しみに暮れるママ(ニナ・ミュリス)は、思い出の詰まった家に留まることができず、夜中のうちに出て行ってしまい、父(ステファン・バルペンヌ)とネリーが残って整理を続けることに。
ママが子供の頃に作ったという小屋を探しに行ったネリーは、森の中で小屋を作っている少女(ガブリエル・サンス)と出会い、手伝うことに。
少女に招かれて彼女の家に行くと、そこはおばあちゃんの家とそっくりだった。
家の中の様子も全く同じで、ネリーはママと同じマリオンと言う名の同い年の少女が、子供時代のママであることを確信する。
家には、まだ若く元気だった頃のおばあちゃん(マルゴ・アバスカル)の姿もあった。
ネリーは何度もマリオンと会い、女優になる夢を持っていたことなど、ママの知らなかった一面を知る。
森を去る時が近付いたある日、ネリーは自分が未来からきた娘だと、マリオンに打ち明けるのだが・・・
映画の冒頭でネリーは、介護施設の老人のクロスワードパズルを手伝っている。
そしておもむろに「さようなら」と告げて部屋を出てゆき、その隣の部屋の住人にも同じように「さようなら」を告げるのだ。
次の部屋に入ると、ママがベットを片付けており、ネリーのおばあちゃんはすでに亡くなっていて、彼女が施設に来ることは、もう無いのだということが示唆される。
この短いシーンだけで、頭が良く優しく親切で、おばあちゃんを含む入居者たちと良好な関係を作っていたネリーのキャラクターが分かる。
母娘はパパと共に森に囲まれた祖母の家に向かうのだが、ネリーとママとの間に会話はほとんどなく、常に悲しげな表情を浮かべていたママは、ふいに家から出て行ってしまい戻らない。
二人の間には、心の距離が出来ているのだ。
前作の「燃ゆる女の肖像」では、結婚を控えた名家の令嬢・エロイーズの肖像を描くために、孤島の邸宅に画家のマリアンヌがやってくる。
やがてエロイーズの厳格な母親は用事ができて不在となり、館に残されたのはエロイーズとマリアンヌ、メイドのソフィーの三人の若い女性だけ。
全ての女性にとって、自由が特別な権利だった18世紀という時代に、彼女たちは抑圧された精神を解放し、エロイーズとマリアンヌは人生で最初で最後の真剣な恋に落ちてゆく。
本作でもママが突然退場し、残されたパパは一人で家の片付けに追われ忙しい。
ネリーは、勝手気ままに行動する権利と時間を得るのである。
孤島と森というロケーションの違いはあるが、どちらも主人公にとっての非日常を作り出すための舞台装置であり、支配のくびきを逃れた主人公は変化の時を迎える。
ママが子供の頃に作ったという小屋を探しに出かけたネリーは、大きな枝を運ぶ少女を手伝うのだが、彼女が作っていたのものこそ小屋。
少女が名乗ったマリオンという名前は、ママと同じ。
マリオンに誘われて彼女の家に行ってみると、そこはおばあちゃんの家そのもので、死んだはずのおばあちゃんの姿もある。
ここにきて、ネリーは自分が過去に来ているのだと確信するのである。
しかし目の前にいるのは、自分とよく似た同い年の子供で、大人のママとはだいぶ違う。
面白いのは、この超常現象を少女たちがあっさりと受け入れてしまうこと。
ネリーだけでなく、のちに事実を打ち明けられたマリオンも、未来の娘の語る突飛な話を抵抗なく信じる。
時間旅行の不思議よりも、今そこにいる友だちの方が重要だということか。
登場人物は基本的に三世代の家族だけで、舞台となるのも時代の異なる家と森のみ。
すぐに仲良くなった二人は、小屋作りをはじめ、誕生日を祝ったり、二人芝居を作ったり、短い間にさまざまな交流をする。
ミニマムで不思議な世界観の中、二人の少女は母と娘、大人と子供といった属性から解き放たれ、ネリーとマリオンという固有名詞で相手を理解してゆく。
もっと幼い子供にとって、ママはママという絶対的母性。
でも8歳という年齢になったネリーは、もう少し客観的にママを見ていて、マリオンと出会ったことで、一人の人間としてのママのベースにあるものをより深く知る機会を得る。
この奇跡の時間を通して、ネリーはママが女優になりたいという夢を持っていたことや、予定されている手術を受けるのを怖がっていることを知り、マリオンも自分が23歳でネリーを産み、31歳でママを亡くすことを知る。
ネリーにとってのおばあちゃんは、マリオンから見たら最愛のママ。
同じ歳で出会ったことで、二人の少女は新しい視点を得て、互いに共感を深め成長する。
一族の女性が、代々ネリーとマリオンと言う名前を受け継いでいる設定も、三世代の女性たちの血の連環という意味をより強調する。
セリーヌ・シアマはジブリ映画が好きだそうだが、家族愛と友情が表裏一体となった物語は、海外のメディアも指摘しているように、「思い出のマーニー」の影響が明らかだ。
また、マリオンが手術を受けるのを怖がっている設定は、「借りぐらしのアリエッティ」で、神木隆之介が演じた翔を思わせる。
この現象が本当に時間旅行なのか、それとも狐狸妖怪的な怪異なのかは明らかにされないが、個人的には亡くなったおばあちゃんが、愛する娘と孫を心配して起こした奇跡と思いたい。
別れが迫った終盤で、ネリーとマリオンは湖にゴムボートで漕ぎ出し、中央に聳えるピラミッドのようなシュールな構造物にたどり着き、その頂上へと登る。
映像と音楽が一体となった圧巻のモーメントに、世界は彼女たちのものとして確かに存在している。
この短いシーンを頂点とした、クレール・マトンによる色彩、空間デザインは本当に素晴らしい。
血を受け継いだ三世代の女性たちの、ちょっと不思議な喪失と絆、そしてアイデンティティの目覚めの物語。
子供時代の宝物を収めた宝石箱のような、どこまでもピュアで美しい映画だ。
ネリーに大人用ベッド奪われて、子供用ベッドで体を丸めて寝る、控えめなお父さんがカワイイ。
今回は、同じ顔をした二人の天使ちゃんのイメージで「エンジェル・フェイス」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、カルバドス15ml、アプリコット・ブランデー15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ノルマンディー地方の名産品として知られるリンゴのブランデー、カルヴァドスとアプリコット・ブランデーという甘めのお酒を、清涼なドライ・ジンがスッキリとまとめ上げる。
優しい味わいの飲みやすいカクテルだが、度数は結構強いので注意。

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2022年09月19日 (月) | 編集 |
記憶と赦しと。
プロデューサーとして「君の名は。」をはじめとした数々のヒット作を手掛け、脚本家、作家としても活動する才人・川村元気の長編監督デビュー作は、親子の愛と記憶をめぐる大変な野心作だ。
彼の小説作品は、過去に「世界から猫が消えたなら」と「億男」が映画化されているが、いずれも原作者という立場以上には作品に関わっていない。
だが本作の原作は、自分の母が認知症になったことをきっかけに執筆されたそうで、極めてパーソナルな作品ゆえに、他人に任せると言う選択肢はなかったのかも知れない。
主人公の葛西泉と認知症を発症する母の百合子を、菅田将暉と原田美枝子が演じているのだが、映画の冒頭で描かれる百合子の不可解な映像が、本作が一筋縄ではいかない作品であることを強烈に示唆する。
アンソニー・ポプキンズに、二度目のアカデミー主演男優賞をもたらした「ファーザー」と同じように、本作もまた認知症患者の見ている世界を主観的に描いているのだ。
百合子の症状は進行し、彼女は徐々に記憶を失ってゆくが、泉が母の荷物を整理している時に、四半世紀前の日記を見つけたことから、今度は母子の間にぽっかり空いた、空白の1年の出来事が蘇ってくる。
百合子の主観を含む現在のシーンは、原則的に1シーン1カットで描かれているが、これは現在の現実性、リアルタイム性を強める工夫だろう。
一方、日記に描かれた過去は、一度文章として描かれた「物語」であるから、普通の映画の様にカットが割られている。
また現在の人物が思い出す過去の記憶は、フラッシュバックとして極端に短く断片化されている。
人間の認知と、記憶という不可思議なものを、映像で可視化する試みは、単に「ファーザー」の模倣に留まらず、非常に面白い効果を上げていると思う。
映画のはじまりで、観客は認知症の百合子をいわゆる「信頼できない語り部」だと捉え、若い泉を「信頼できる語り部」だと考える。
実際、劇中で泉は「母さんは忘れてゆくけど、俺は全部覚えている」とぼやくのだ。
だが、本当にそうだろうか。
現在進行形の「今」なら、確かにそうかもしれない。
理論整然とした泉目線の「今」に対して、百合子の見ている「今」は、現実と記憶がごっちゃに入り混じり、虚実の判断もつかない。
しかし、過去はどうか。
私たちも、さっき食べたランチは思い出せても、3日前に誰と何を食べたのか、一週間前はどうだったのか、記憶の中の過去は急速に色褪せてゆく。
劇中で重要なキーワードになるのが、「半分の花火」という言葉だ。
百合子は「半分の花火を見たい」と言うのだが、かつて二人で見たはずのそれを、泉は覚えていないのだ。
「今」でなくなった瞬間に、現実は記憶というファンタジーとなり、記憶の世界では、誰もが「信頼出来ない語り部」であることから逃れられない。
物語の終盤まで、泉はある意味過去に囚われ、百合子との間にわだかまりを抱えている。
いや、長澤まさみが演じる泉の妻の言葉によれば、「元々変な親子だった」のだろうが、おそらく漠然としたイメージだったものが、日記を見つけてしまったことによって、物語として生々しく蘇る。
息子にしてみれば、男に走って自分を捨てたという母の過去は、ぶっちゃけ嫌悪でしかないだろう。
人間が生きていれば、膨大な過去が積み上がり、私たちはその中のごく一部を記憶として心に留める。
だが、それは所詮主観的で曖昧なものに過ぎないのである。
「半分の花火」の本当の意味を思い出した瞬間に、泉にとってようやく過去が本当の意味で過去となり、赦しの心が訪れたのかも知れない。
それにしても、社員監督の仕事とは言え、これほどトリッキーで挑戦的な作品が、保守本流の東宝から出てくるとは。
驚きの力作である。
今回は、主要なロケーション先となった長野県の土屋酒造の「茜さす 純米大吟醸」をチョイス。
佐久酒の会が手がける、農薬無散布栽培の酒米・美山錦を使用し、上質の部分のみで醸される純米大吟醸。
絹のように滑らかな舌触りと、豊かな吟醸香を楽しめる。
米本来の持つ甘味、旨味を味わって、ちょっとした辛味が残る上品な一杯だ。
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プロデューサーとして「君の名は。」をはじめとした数々のヒット作を手掛け、脚本家、作家としても活動する才人・川村元気の長編監督デビュー作は、親子の愛と記憶をめぐる大変な野心作だ。
彼の小説作品は、過去に「世界から猫が消えたなら」と「億男」が映画化されているが、いずれも原作者という立場以上には作品に関わっていない。
だが本作の原作は、自分の母が認知症になったことをきっかけに執筆されたそうで、極めてパーソナルな作品ゆえに、他人に任せると言う選択肢はなかったのかも知れない。
主人公の葛西泉と認知症を発症する母の百合子を、菅田将暉と原田美枝子が演じているのだが、映画の冒頭で描かれる百合子の不可解な映像が、本作が一筋縄ではいかない作品であることを強烈に示唆する。
アンソニー・ポプキンズに、二度目のアカデミー主演男優賞をもたらした「ファーザー」と同じように、本作もまた認知症患者の見ている世界を主観的に描いているのだ。
百合子の症状は進行し、彼女は徐々に記憶を失ってゆくが、泉が母の荷物を整理している時に、四半世紀前の日記を見つけたことから、今度は母子の間にぽっかり空いた、空白の1年の出来事が蘇ってくる。
百合子の主観を含む現在のシーンは、原則的に1シーン1カットで描かれているが、これは現在の現実性、リアルタイム性を強める工夫だろう。
一方、日記に描かれた過去は、一度文章として描かれた「物語」であるから、普通の映画の様にカットが割られている。
また現在の人物が思い出す過去の記憶は、フラッシュバックとして極端に短く断片化されている。
人間の認知と、記憶という不可思議なものを、映像で可視化する試みは、単に「ファーザー」の模倣に留まらず、非常に面白い効果を上げていると思う。
映画のはじまりで、観客は認知症の百合子をいわゆる「信頼できない語り部」だと捉え、若い泉を「信頼できる語り部」だと考える。
実際、劇中で泉は「母さんは忘れてゆくけど、俺は全部覚えている」とぼやくのだ。
だが、本当にそうだろうか。
現在進行形の「今」なら、確かにそうかもしれない。
理論整然とした泉目線の「今」に対して、百合子の見ている「今」は、現実と記憶がごっちゃに入り混じり、虚実の判断もつかない。
しかし、過去はどうか。
私たちも、さっき食べたランチは思い出せても、3日前に誰と何を食べたのか、一週間前はどうだったのか、記憶の中の過去は急速に色褪せてゆく。
劇中で重要なキーワードになるのが、「半分の花火」という言葉だ。
百合子は「半分の花火を見たい」と言うのだが、かつて二人で見たはずのそれを、泉は覚えていないのだ。
「今」でなくなった瞬間に、現実は記憶というファンタジーとなり、記憶の世界では、誰もが「信頼出来ない語り部」であることから逃れられない。
物語の終盤まで、泉はある意味過去に囚われ、百合子との間にわだかまりを抱えている。
いや、長澤まさみが演じる泉の妻の言葉によれば、「元々変な親子だった」のだろうが、おそらく漠然としたイメージだったものが、日記を見つけてしまったことによって、物語として生々しく蘇る。
息子にしてみれば、男に走って自分を捨てたという母の過去は、ぶっちゃけ嫌悪でしかないだろう。
人間が生きていれば、膨大な過去が積み上がり、私たちはその中のごく一部を記憶として心に留める。
だが、それは所詮主観的で曖昧なものに過ぎないのである。
「半分の花火」の本当の意味を思い出した瞬間に、泉にとってようやく過去が本当の意味で過去となり、赦しの心が訪れたのかも知れない。
それにしても、社員監督の仕事とは言え、これほどトリッキーで挑戦的な作品が、保守本流の東宝から出てくるとは。
驚きの力作である。
今回は、主要なロケーション先となった長野県の土屋酒造の「茜さす 純米大吟醸」をチョイス。
佐久酒の会が手がける、農薬無散布栽培の酒米・美山錦を使用し、上質の部分のみで醸される純米大吟醸。
絹のように滑らかな舌触りと、豊かな吟醸香を楽しめる。
米本来の持つ甘味、旨味を味わって、ちょっとした辛味が残る上品な一杯だ。

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2022年09月14日 (水) | 編集 |
トンネルの先に待つものは?
ある年の夏、その中では欲しいものが何でも手に入るという、都市伝説の不思議なトンネルを見つけた高校生男女の物語。
ただし、トンネルの中では外界の数千分の一の速度でしか、時間が経過しない。
そのため、人呼んで「ウラシマトンネル」に入った者は、「今」を失ってしまうのだ。
八目迷の同名ライトノベルを、「デジモン」シリーズの完結編「デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆」の田口智久監督が映画化した作品。
前作は、高校生編の「tri.」6部作の低迷を吹き飛ばすくらい素晴らしかったが、脚本を兼務した今作もなかなかの仕上がりだ。
アニメーション制作をCLAPが担当し、トンネルを見つける塔野カオルと花城あんずを、オーディションで選ばれた鈴鹿央士と飯豊まりえが好演している。
主人公の二人には、どうしても欲しいものがある。
カオルは、妹のカレンを事故で亡くしており、その後母親が家を出て行き、酒に溺れて酔っては自分を責める父親と二人暮らし。
彼は妹の事故が自分のせいで起こったと感じており、カレンを取り戻せば、再び幸せな家族を取り戻せると信じているのだ。
一方のあんずは、売れない漫画家だった祖父に影響を受けて漫画を描いているのだが、柊生金に困っていた祖父を知る両親に、強硬に反対されている。
彼女は祖父の血を受け継いでいる自分にも才能は無いと思い込んでいて、この世に名を残せるだけの圧倒的な才能を欲しているのである。
一人は永遠に失ってしまったもの、一人は今は持っていないもの。
しかしウラシマトンネルは、あまりにも謎めいているため、二人はまず「共同戦線」を組んでトンネルのことを調べ始める。
トンネルの中と外ではどれだけ時間の流れが違うのか、中と外で連絡は取り合えるのか、一体どこまで続いているのか、はたして本当に「欲しいもの」を得られるのか。
前半の展開は、トンネルの秘密を探るミステリタッチ。
ウラシマトンネルに入ると、中の108秒で外では3日が経過する。
仮に24時間トンネルを進むと、その時点で6年半の歳月が経ってしまう。
文字通りの浦島太郎だ。
そして、一夏の共同作業の間に、共に孤独を抱えたカオルとあんずは惹かれ合うようになる。
目の前の「今」を犠牲にしてまで、手に入れる必要のあるものなど、本当にあるのか?と言う渇望と葛藤が、ピュアなラブストーリーと絡み合う。
やがてある事情から、カオルとあんずの運命は分かれて行くのである。
最初はやむなく共闘している男女が、いつの間にか運命の恋人同士となるも、異なる時間によって分かたれる展開は、「君の名は。」を思わせる。
あの映画では二人の時間は最初からずれていたが、こちらではキャラクターの意思によって、人生が枝分かれして行くのだ。
そして、過去への執着に囚われていたカオルは、トンネルが見せてくれる世界によって、心の奥底で本当に必要としているものが何かに気付くのである。
原作で描かれるウラシマトンネルは、見た目はごく普通の廃トンネルらしいが、映画では森の中の岩に開いた三角形の洞窟で、内側には光る葉をつけた紅葉の様な奇妙な並木が果てしなく続いていると言う、幻想的なビジュアルデザインを採用し、傘と向日葵の様な、映像作品ならではの視覚的な象徴性も工夫されている。
CLAPによる映像的なクオリティも高く、ジュブナイルファンタジーとして上々の仕上がりだ。
しかし13年の歳の差、ほんとに上手くいくのか?劇場で配っていた続編冊子「さよならのあと、いつもの入り口へ」では、まずまずよろしくやってたみたいだけど。
今回は、一夏の物語なので夏のカクテル「ブルー・ハワイ」をチョイス。
ブルー・キュラソー20ml、ドライ・ラム30ml、パイナップル・ジュース30ml、レモン・ジュース15mlをシェイクして、クラッシュド・アイスを入れたグラスに注ぐ。
最後にカットしたパイナップルを飾って、ストローを2本さして完成。
鮮やかなブルーは目にも楽しく、ラムの優しく甘い香りとフルーツの酸味は初恋の味。
2本のストローで、大切なあの人とシェアしたい?
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ある年の夏、その中では欲しいものが何でも手に入るという、都市伝説の不思議なトンネルを見つけた高校生男女の物語。
ただし、トンネルの中では外界の数千分の一の速度でしか、時間が経過しない。
そのため、人呼んで「ウラシマトンネル」に入った者は、「今」を失ってしまうのだ。
八目迷の同名ライトノベルを、「デジモン」シリーズの完結編「デジモンアドベンチャー LAST EVOLUTION 絆」の田口智久監督が映画化した作品。
前作は、高校生編の「tri.」6部作の低迷を吹き飛ばすくらい素晴らしかったが、脚本を兼務した今作もなかなかの仕上がりだ。
アニメーション制作をCLAPが担当し、トンネルを見つける塔野カオルと花城あんずを、オーディションで選ばれた鈴鹿央士と飯豊まりえが好演している。
主人公の二人には、どうしても欲しいものがある。
カオルは、妹のカレンを事故で亡くしており、その後母親が家を出て行き、酒に溺れて酔っては自分を責める父親と二人暮らし。
彼は妹の事故が自分のせいで起こったと感じており、カレンを取り戻せば、再び幸せな家族を取り戻せると信じているのだ。
一方のあんずは、売れない漫画家だった祖父に影響を受けて漫画を描いているのだが、柊生金に困っていた祖父を知る両親に、強硬に反対されている。
彼女は祖父の血を受け継いでいる自分にも才能は無いと思い込んでいて、この世に名を残せるだけの圧倒的な才能を欲しているのである。
一人は永遠に失ってしまったもの、一人は今は持っていないもの。
しかしウラシマトンネルは、あまりにも謎めいているため、二人はまず「共同戦線」を組んでトンネルのことを調べ始める。
トンネルの中と外ではどれだけ時間の流れが違うのか、中と外で連絡は取り合えるのか、一体どこまで続いているのか、はたして本当に「欲しいもの」を得られるのか。
前半の展開は、トンネルの秘密を探るミステリタッチ。
ウラシマトンネルに入ると、中の108秒で外では3日が経過する。
仮に24時間トンネルを進むと、その時点で6年半の歳月が経ってしまう。
文字通りの浦島太郎だ。
そして、一夏の共同作業の間に、共に孤独を抱えたカオルとあんずは惹かれ合うようになる。
目の前の「今」を犠牲にしてまで、手に入れる必要のあるものなど、本当にあるのか?と言う渇望と葛藤が、ピュアなラブストーリーと絡み合う。
やがてある事情から、カオルとあんずの運命は分かれて行くのである。
最初はやむなく共闘している男女が、いつの間にか運命の恋人同士となるも、異なる時間によって分かたれる展開は、「君の名は。」を思わせる。
あの映画では二人の時間は最初からずれていたが、こちらではキャラクターの意思によって、人生が枝分かれして行くのだ。
そして、過去への執着に囚われていたカオルは、トンネルが見せてくれる世界によって、心の奥底で本当に必要としているものが何かに気付くのである。
原作で描かれるウラシマトンネルは、見た目はごく普通の廃トンネルらしいが、映画では森の中の岩に開いた三角形の洞窟で、内側には光る葉をつけた紅葉の様な奇妙な並木が果てしなく続いていると言う、幻想的なビジュアルデザインを採用し、傘と向日葵の様な、映像作品ならではの視覚的な象徴性も工夫されている。
CLAPによる映像的なクオリティも高く、ジュブナイルファンタジーとして上々の仕上がりだ。
しかし13年の歳の差、ほんとに上手くいくのか?劇場で配っていた続編冊子「さよならのあと、いつもの入り口へ」では、まずまずよろしくやってたみたいだけど。
今回は、一夏の物語なので夏のカクテル「ブルー・ハワイ」をチョイス。
ブルー・キュラソー20ml、ドライ・ラム30ml、パイナップル・ジュース30ml、レモン・ジュース15mlをシェイクして、クラッシュド・アイスを入れたグラスに注ぐ。
最後にカットしたパイナップルを飾って、ストローを2本さして完成。
鮮やかなブルーは目にも楽しく、ラムの優しく甘い香りとフルーツの酸味は初恋の味。
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2022年09月10日 (土) | 編集 |
スクリーンから「好き!」があふれ出す。
のんさん演じるお魚が大好きなミー坊が、夢を叶えてお魚博士になるまでの物語。
現実のお魚博士、さかなクンの「さかなクンの一魚一会 ~まいにち夢中な人生!~」を原作に、「子供はわかってあげない」の沖田修一監督が、大胆な解釈で映像化した作品だ。
寝ても覚めてもお魚のことしか考えていない主人公が、様々な人との邂逅しながら夢への試行錯誤を繰り返し、やがて誰もが知る人気者になってゆく。
普通の子供とは違った人生を歩んでゆくミー坊を、暖かく見守る母親のミチコを井川遥、幼馴染のヤンキー少年ヒヨを柳楽優弥、同じく幼馴染のモモコを夏帆が演じる。
好きなことを貫き通すミー坊のかけがえのない毎日を、ユーモアたっぷりに描いた、ファンタジックな物語だ。
ミー坊(西村瑞季/のん)は千葉県に暮らす小学生。
お魚が大好きで、毎週のようにお母さん(井川遥)に連れられて水族館に通い、閉館までお魚を見て過ごす。
一日中お魚のことばかり考えているミー坊を、お父さん(三宅弘城)は他の子と違うと心配するが、お母さんはこの子はこのままでいいと見守ってくれる。
高校生になったミー坊は、なぜかヤンキーたちと仲が良く、一緒に釣りに行ったり喧嘩に付き合ったり楽しい日々を過ごしている。
たまたま飼育したカブトガニの人工孵化に成功し、新聞に載ったこともあり、将来お魚博士になりたいという夢を抱くように。
母に背中を押されたミー坊は、高校卒業後に一人暮らしを始めるが、水族館を皮切りにいろいろなお魚に関係する仕事を転々とするも、なかなかしっくり来ない。
そんなある日、小学生の頃にクラスメイトだったモモコ(夏帆)が、一人娘を連れてミー坊のところに転がり込んでくるのだが・・・・
冒頭ドーンと「男か女かは、どっちでもいい」と宣言文(?)が出る。
一応、みんな大好きさかなクンの自伝の映画化なんだが、主人公は最後までミー坊のままで、さかなクンとは呼ばれない。
ミー坊の役は幼少期が西村瑞季、高校生以降がのんさんと女性が演じているのだが、設定上は男性。
これは「さかなクンの性自認が女性ってこと?」と予告編観た時から不思議だったのだが、お魚のことしか頭にないミー坊というキャラクターにとって、性別は文字通り「どっちでもいい」ということらしい。
劇中のミー坊はなんとなく不定性っぽかったけど、ボーイッシュなのんさんはハマり役だ。
原作者のさかなクンも、あのまんまの姿で出てくる。
ハイテンションな街のお魚博士(ギョギョおじさん)として登場し、小学生時代のミー坊と友だちになるのだが、お魚の話に夢中になってミー坊を深夜まで家に止め置いたことで警察に通報され、いきなり退場。
確かに、どうやって生活しているのか不明な、異様にキャラ立ちした不思議な大人は、昭和の頃は各街にいて小学生の都市伝説になっていったものだが、原作者を変質者扱いするとか大胆すぎだろう(笑
以降、ミー坊がさかなクンの人生をテイクオーバーし、虚実を入り混じらせながら辿ってゆくという、フィクションが現実を塗り替えてゆくような特異な構造で、端的に言って非常に奇妙、いやアヴァンギャルドな映画である。
後にトレードマークになるハコフグの帽子も、消えたギョギョおじさんから受け継いだものと言う設定だ。
現実のさかなクンは専門学校卒で、アルバイトしながら魚のイラストレーターとして活動、やがてTVで人気を博し、遂には大学から名誉博士号を授与され、ホンモノのお魚博士になった。
実際、生物の研究者として名を残した人には、都市にあるアカデミックな機関ではなく、在野で実績を残した人が多い。
動物記のシートンも、昆虫記のファーブルも、粘菌研究で知られる南方熊楠も、みな好きが高じて研究をはじめ、生物がたくさんいる自然の多い土地で暮らしていた。
さかなクンも、漁師町である館山に住んでいるという。
彼らに共通するのが今でこそ偉人として知られているが、当時は周りから「奇人・変人」扱いされていたことだ。
一つのことだけを徹底的に追求する人生、つまり軸の部分が変化しない人生は、それだけ「普通」の人には難しいのである。
まあ南方熊楠なんかは、喧嘩するとところ構わずゲロを吐きまくるという、本当の奇人だったみたいだけど。
さかなクン改め、ミー坊も「好きこそ物の上手なれ」という諺を、そのままキャラクターにしたような狂言回し的人物で、基本変化しない。
いや、変化しようとする描写もあるのだが、結局変化させてもらえないのだ。
映画の物語は、たぶんトータルで25年間くらいの時間を描いているのだが、他のキャラクターは歳月と共に大きく変わってゆく。
小学生の頃に仲の良かったモモコは、大人になるとあまり男運が良く無い感じで、娘と共にミー坊の家に転がり込んでくる。
高校の頃にヤンキーだったヒヨは、東京の名門大学に進学しTV局に勤めるサラリーマンとなって立派に自立。
小学生の頃は四人家族だったミー坊の家も、高校生になる頃には井川遥演じる母親と二人きり。
両親は離婚し、弟は父親が引き取っているのだろうなと言うことは、何となく示唆されるが、特に説明は無い。
人生とは本来移ろいゆくもので、人もまた歳月と共に変わってゆく。
唯一、ミー坊以外は。
さかなクンの座右の銘は、「一期一会」をもじった「一魚一会」だそう。
本作のミー坊は、まるで「フォレスト・ガンプ」のように一期一会を繰り返しながら、お魚まみれの人生を歩み続け、人生のどこかでミー坊と出会った人は、その「好き」を追求するブレないキャラクターに魅了されてしまうのだ。
変化してゆく周りの人々の方がミー坊に影響を受けて、変わらないでいて欲しい、そのままのキャラクターで成功してほしいと願っている構図。
家族や友人にとってのミー坊は、いわば純粋すぎて手の届かない憧れであり、世知辛い人生を照らしてくれる太陽なんだな。
変化しないキャラクターの主人公を、変化する周りと相対化して進行する辺りは、なるほど同じ作り手の「横道世之介」とよく似ている。
観ているうちに観客も「幼馴染のミー坊」の感覚になって、いつの間にか「変わらないで!ミー坊!」と願っている自分に気付くのである。
しかし、素晴らしい作品なのは間違いないが、どうしても共同脚本の前田司郎が起こした性暴力事件のことがよぎって、心底楽しめたと言えないのも事実。
こんな優しい物語を作る人が、なぜあんな酷いことをしてしまったのか。
仲間と作った作品に、自分で泥を塗る恥ずべき行為に他ならないだろう。
告発に対して、きちんと向き合ってほしい。
今回は、お魚をますます美味しく感じさせる旭川の地酒、高砂酒造の「国士無双 純米大吟醸」をチョイス。
戊辰戦争に敗れ、会津藩から移り住んだ、小檜山鉄三郎が明治時代に創業した伝統ある蔵。
典型的な淡麗辛口、雑味のない喉ごしスッキリとした北国の酒。
豊かな吟醸香に、米の深い旨みが引き立ち、酒の肴も進む。
美味しいお寿司と共にいただきたい。
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のんさん演じるお魚が大好きなミー坊が、夢を叶えてお魚博士になるまでの物語。
現実のお魚博士、さかなクンの「さかなクンの一魚一会 ~まいにち夢中な人生!~」を原作に、「子供はわかってあげない」の沖田修一監督が、大胆な解釈で映像化した作品だ。
寝ても覚めてもお魚のことしか考えていない主人公が、様々な人との邂逅しながら夢への試行錯誤を繰り返し、やがて誰もが知る人気者になってゆく。
普通の子供とは違った人生を歩んでゆくミー坊を、暖かく見守る母親のミチコを井川遥、幼馴染のヤンキー少年ヒヨを柳楽優弥、同じく幼馴染のモモコを夏帆が演じる。
好きなことを貫き通すミー坊のかけがえのない毎日を、ユーモアたっぷりに描いた、ファンタジックな物語だ。
ミー坊(西村瑞季/のん)は千葉県に暮らす小学生。
お魚が大好きで、毎週のようにお母さん(井川遥)に連れられて水族館に通い、閉館までお魚を見て過ごす。
一日中お魚のことばかり考えているミー坊を、お父さん(三宅弘城)は他の子と違うと心配するが、お母さんはこの子はこのままでいいと見守ってくれる。
高校生になったミー坊は、なぜかヤンキーたちと仲が良く、一緒に釣りに行ったり喧嘩に付き合ったり楽しい日々を過ごしている。
たまたま飼育したカブトガニの人工孵化に成功し、新聞に載ったこともあり、将来お魚博士になりたいという夢を抱くように。
母に背中を押されたミー坊は、高校卒業後に一人暮らしを始めるが、水族館を皮切りにいろいろなお魚に関係する仕事を転々とするも、なかなかしっくり来ない。
そんなある日、小学生の頃にクラスメイトだったモモコ(夏帆)が、一人娘を連れてミー坊のところに転がり込んでくるのだが・・・・
冒頭ドーンと「男か女かは、どっちでもいい」と宣言文(?)が出る。
一応、みんな大好きさかなクンの自伝の映画化なんだが、主人公は最後までミー坊のままで、さかなクンとは呼ばれない。
ミー坊の役は幼少期が西村瑞季、高校生以降がのんさんと女性が演じているのだが、設定上は男性。
これは「さかなクンの性自認が女性ってこと?」と予告編観た時から不思議だったのだが、お魚のことしか頭にないミー坊というキャラクターにとって、性別は文字通り「どっちでもいい」ということらしい。
劇中のミー坊はなんとなく不定性っぽかったけど、ボーイッシュなのんさんはハマり役だ。
原作者のさかなクンも、あのまんまの姿で出てくる。
ハイテンションな街のお魚博士(ギョギョおじさん)として登場し、小学生時代のミー坊と友だちになるのだが、お魚の話に夢中になってミー坊を深夜まで家に止め置いたことで警察に通報され、いきなり退場。
確かに、どうやって生活しているのか不明な、異様にキャラ立ちした不思議な大人は、昭和の頃は各街にいて小学生の都市伝説になっていったものだが、原作者を変質者扱いするとか大胆すぎだろう(笑
以降、ミー坊がさかなクンの人生をテイクオーバーし、虚実を入り混じらせながら辿ってゆくという、フィクションが現実を塗り替えてゆくような特異な構造で、端的に言って非常に奇妙、いやアヴァンギャルドな映画である。
後にトレードマークになるハコフグの帽子も、消えたギョギョおじさんから受け継いだものと言う設定だ。
現実のさかなクンは専門学校卒で、アルバイトしながら魚のイラストレーターとして活動、やがてTVで人気を博し、遂には大学から名誉博士号を授与され、ホンモノのお魚博士になった。
実際、生物の研究者として名を残した人には、都市にあるアカデミックな機関ではなく、在野で実績を残した人が多い。
動物記のシートンも、昆虫記のファーブルも、粘菌研究で知られる南方熊楠も、みな好きが高じて研究をはじめ、生物がたくさんいる自然の多い土地で暮らしていた。
さかなクンも、漁師町である館山に住んでいるという。
彼らに共通するのが今でこそ偉人として知られているが、当時は周りから「奇人・変人」扱いされていたことだ。
一つのことだけを徹底的に追求する人生、つまり軸の部分が変化しない人生は、それだけ「普通」の人には難しいのである。
まあ南方熊楠なんかは、喧嘩するとところ構わずゲロを吐きまくるという、本当の奇人だったみたいだけど。
さかなクン改め、ミー坊も「好きこそ物の上手なれ」という諺を、そのままキャラクターにしたような狂言回し的人物で、基本変化しない。
いや、変化しようとする描写もあるのだが、結局変化させてもらえないのだ。
映画の物語は、たぶんトータルで25年間くらいの時間を描いているのだが、他のキャラクターは歳月と共に大きく変わってゆく。
小学生の頃に仲の良かったモモコは、大人になるとあまり男運が良く無い感じで、娘と共にミー坊の家に転がり込んでくる。
高校の頃にヤンキーだったヒヨは、東京の名門大学に進学しTV局に勤めるサラリーマンとなって立派に自立。
小学生の頃は四人家族だったミー坊の家も、高校生になる頃には井川遥演じる母親と二人きり。
両親は離婚し、弟は父親が引き取っているのだろうなと言うことは、何となく示唆されるが、特に説明は無い。
人生とは本来移ろいゆくもので、人もまた歳月と共に変わってゆく。
唯一、ミー坊以外は。
さかなクンの座右の銘は、「一期一会」をもじった「一魚一会」だそう。
本作のミー坊は、まるで「フォレスト・ガンプ」のように一期一会を繰り返しながら、お魚まみれの人生を歩み続け、人生のどこかでミー坊と出会った人は、その「好き」を追求するブレないキャラクターに魅了されてしまうのだ。
変化してゆく周りの人々の方がミー坊に影響を受けて、変わらないでいて欲しい、そのままのキャラクターで成功してほしいと願っている構図。
家族や友人にとってのミー坊は、いわば純粋すぎて手の届かない憧れであり、世知辛い人生を照らしてくれる太陽なんだな。
変化しないキャラクターの主人公を、変化する周りと相対化して進行する辺りは、なるほど同じ作り手の「横道世之介」とよく似ている。
観ているうちに観客も「幼馴染のミー坊」の感覚になって、いつの間にか「変わらないで!ミー坊!」と願っている自分に気付くのである。
しかし、素晴らしい作品なのは間違いないが、どうしても共同脚本の前田司郎が起こした性暴力事件のことがよぎって、心底楽しめたと言えないのも事実。
こんな優しい物語を作る人が、なぜあんな酷いことをしてしまったのか。
仲間と作った作品に、自分で泥を塗る恥ずべき行為に他ならないだろう。
告発に対して、きちんと向き合ってほしい。
今回は、お魚をますます美味しく感じさせる旭川の地酒、高砂酒造の「国士無双 純米大吟醸」をチョイス。
戊辰戦争に敗れ、会津藩から移り住んだ、小檜山鉄三郎が明治時代に創業した伝統ある蔵。
典型的な淡麗辛口、雑味のない喉ごしスッキリとした北国の酒。
豊かな吟醸香に、米の深い旨みが引き立ち、酒の肴も進む。
美味しいお寿司と共にいただきたい。

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2022年09月07日 (水) | 編集 |
結婚とは・・・・。
不思議な手触りが印象的だった「心と体と」のイルディコー・エニェディの最新作は、1920年代のヨーロッパを舞台に、ハイス・ナバーとレア・セドゥが演じるある夫婦を描く物語。
年上の男と若い女性の、変則的なラブストーリーであると言う点は前作と共通。
169分もある大長編だが、例によって一筋縄ではいかない話で、ミステリアスな夫婦関係を巡る駆け引きは先を読ませず、なかなかに観応えがある。
物語の発端は、地中海のマルタに一隻の貨物船が入港したこと。
ベテラン船長のヤコブは、長年の不摂生から胃を痛め、船のコックから「結婚は健康に良い」と聞かされる。
すると彼は、カフェで友人と会っている時に、「次に入ってきた女と結婚する」と宣言。
レア・セドゥ演じるリジーに求婚し、そのまま結婚してしまうのだ。
お互いを全く知らぬうちに、突然始まる結婚生活。
しかもヤコブは一度航海に出ると、数ヶ月は戻らない。
最初のうちは亭主元気で留守がいい状態で上手くいってったが、ヤコブが船乗りを引退して陸に上がると問題発生。
交友関係が派手で、夜な夜な友人たちと会食する彼女が、デダンと名乗る若い遊び人の男と関係があるのじゃないかと気が気じゃない。
リジーもヤコブを愛してるんだか、愛してないんだか、浮気してるんだかしてないんだか、ずっと小悪魔的で思わせぶりな態度に終始する。
もともとお一人様生活でなんの問題も無かったのに、結婚なんて柄にもないことをしたヤコブは、だんだんと精神的に追い込まれてゆく。
彼の目線で描かれるリジーは正体不明の謎生物で、なんとか関係を維持しようと抗えば抗うほどダメージを負う。
海の上では危機管理バッチリのベテラン船長も、結婚生活の舵取りはビギナーそのもの。
しかも結婚のきっかけとなったコックに、彼の結婚生活のことを聞いてみると、イスラム教徒のコックには三人の妻がいて、彼の留守中は母親によって三人とも家に閉じ込められているという。
つまりコックにとっての妻とは、都合のいい時だけ使えさせる便利な家政婦のような存在。
ヤコブは、文化も生活も違いすぎて、全然参考にならない男の助言を受けて、衝動的に結婚したことを今更ながら知ることになる。
ギクシャクする夫婦仲を深めようと、物語の序盤と終盤、ヤコブは二度自分の航海にリジーを同行させようと試みるのだが、結局二度とも彼女は現れない。
一度だけ、移り住んだハンブルグの川で、ヤコブの操縦する借り物の小舟にリジーが乗るシーンがあるが、この船に乗る乗らないの描写は象徴的だ。
リジーは最初からヤコブと同じ船には乗っておらず、二人の接点は小舟の小旅行程度なのである。
どう見ても合わないのに、なぜそこまでして一緒に?と他人から見たら思ってしまうが、中年期までずっとお一人様で生きてきた海の男にとって、結婚は未知の領域。
一度経験してみたらすっかり魅了されるが、彼女の心はなかなか自分のものにならない。
初めて経験する困難に翻弄され、どう継続したらしいのかも、どう終わらせたらいいのかも分からないのだ。
完全に男性目線の物語で、古典小説を読んでいるような感覚になるが、物型の着地点は男性が自分の未熟さを認め、深い後悔の念を抱く話でむしろ現代的。
もしかしたらリジーとの間に授かっていたかも知れない、空想の息子に語りかける形で描かれる、ビターすぎる寓話劇だ。
今回は苦味を楽しむカクテル「カンパリオレンジ」をチョイス。
カンパリは、イタリアのバーテンダー、ガスパーレ・カンパーリが開発したリキュールで、独特の苦味が特徴だ。
氷を入れたタンブラーにカンパリ50mlを注ぎ、オレンジジュースを適量加えてステアする。
最後にスライスしたオレンジを一片飾って完成。
甘味と酸味、苦味が絶妙なトリニティを形作る、代表的なビター系ロングカクテル。
苦味が苦手な人は、カンパリを減らしてオレンジジュースを増やすと良いだろう。
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不思議な手触りが印象的だった「心と体と」のイルディコー・エニェディの最新作は、1920年代のヨーロッパを舞台に、ハイス・ナバーとレア・セドゥが演じるある夫婦を描く物語。
年上の男と若い女性の、変則的なラブストーリーであると言う点は前作と共通。
169分もある大長編だが、例によって一筋縄ではいかない話で、ミステリアスな夫婦関係を巡る駆け引きは先を読ませず、なかなかに観応えがある。
物語の発端は、地中海のマルタに一隻の貨物船が入港したこと。
ベテラン船長のヤコブは、長年の不摂生から胃を痛め、船のコックから「結婚は健康に良い」と聞かされる。
すると彼は、カフェで友人と会っている時に、「次に入ってきた女と結婚する」と宣言。
レア・セドゥ演じるリジーに求婚し、そのまま結婚してしまうのだ。
お互いを全く知らぬうちに、突然始まる結婚生活。
しかもヤコブは一度航海に出ると、数ヶ月は戻らない。
最初のうちは亭主元気で留守がいい状態で上手くいってったが、ヤコブが船乗りを引退して陸に上がると問題発生。
交友関係が派手で、夜な夜な友人たちと会食する彼女が、デダンと名乗る若い遊び人の男と関係があるのじゃないかと気が気じゃない。
リジーもヤコブを愛してるんだか、愛してないんだか、浮気してるんだかしてないんだか、ずっと小悪魔的で思わせぶりな態度に終始する。
もともとお一人様生活でなんの問題も無かったのに、結婚なんて柄にもないことをしたヤコブは、だんだんと精神的に追い込まれてゆく。
彼の目線で描かれるリジーは正体不明の謎生物で、なんとか関係を維持しようと抗えば抗うほどダメージを負う。
海の上では危機管理バッチリのベテラン船長も、結婚生活の舵取りはビギナーそのもの。
しかも結婚のきっかけとなったコックに、彼の結婚生活のことを聞いてみると、イスラム教徒のコックには三人の妻がいて、彼の留守中は母親によって三人とも家に閉じ込められているという。
つまりコックにとっての妻とは、都合のいい時だけ使えさせる便利な家政婦のような存在。
ヤコブは、文化も生活も違いすぎて、全然参考にならない男の助言を受けて、衝動的に結婚したことを今更ながら知ることになる。
ギクシャクする夫婦仲を深めようと、物語の序盤と終盤、ヤコブは二度自分の航海にリジーを同行させようと試みるのだが、結局二度とも彼女は現れない。
一度だけ、移り住んだハンブルグの川で、ヤコブの操縦する借り物の小舟にリジーが乗るシーンがあるが、この船に乗る乗らないの描写は象徴的だ。
リジーは最初からヤコブと同じ船には乗っておらず、二人の接点は小舟の小旅行程度なのである。
どう見ても合わないのに、なぜそこまでして一緒に?と他人から見たら思ってしまうが、中年期までずっとお一人様で生きてきた海の男にとって、結婚は未知の領域。
一度経験してみたらすっかり魅了されるが、彼女の心はなかなか自分のものにならない。
初めて経験する困難に翻弄され、どう継続したらしいのかも、どう終わらせたらいいのかも分からないのだ。
完全に男性目線の物語で、古典小説を読んでいるような感覚になるが、物型の着地点は男性が自分の未熟さを認め、深い後悔の念を抱く話でむしろ現代的。
もしかしたらリジーとの間に授かっていたかも知れない、空想の息子に語りかける形で描かれる、ビターすぎる寓話劇だ。
今回は苦味を楽しむカクテル「カンパリオレンジ」をチョイス。
カンパリは、イタリアのバーテンダー、ガスパーレ・カンパーリが開発したリキュールで、独特の苦味が特徴だ。
氷を入れたタンブラーにカンパリ50mlを注ぎ、オレンジジュースを適量加えてステアする。
最後にスライスしたオレンジを一片飾って完成。
甘味と酸味、苦味が絶妙なトリニティを形作る、代表的なビター系ロングカクテル。
苦味が苦手な人は、カンパリを減らしてオレンジジュースを増やすと良いだろう。

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2022年09月03日 (土) | 編集 |
誰も「運命」からは降りられない。
日本で予期せぬ事件に巻き込まれた、世界一運の悪い殺し屋ことコードネーム”レディバグ(てんとう虫)”の災難を描く、ブラッディーなアクション・コメディ。
彼は東京から京都へ向かう弾丸列車(ブレット・トレイン)から、あるブリーフケースを盗み出す任務のために乗車する。
しかしなぜか列車には、彼と因縁のある殺し屋の集団が乗り合わせているのだ。
伊坂幸太郎の「マリアビートル」を、「フィアー・ストリート Part 2: 1978」のザック・オルケヴィッチが脚色。
監督は、「デッドプール2」のデヴィッド・リーチ。
主人公のてんとう虫をブラッド・ピットが演じ、ジョーイ・キング、アーロン・テイラー=ジョンソン、ブライアン・タイリー・ヘンリー、真田広之らが豪華なアンサンブルキャストを構成する。
何かと運の悪い殺し屋、てんとう虫(ブラッド・ピット)に与えられた任務は、東京発のブレット・トレインに乗り込み、ブリーフケースひとつを盗むこと。
それは、ごく簡単な任務のはずだった。
しかしそのケースは、日本の裏組織を支配するホワイト・デスの息子を、誘拐組織から奪還した殺し屋コンビ、レモン(ブライアン・タイリー・ヘンリー)とみかん(アーロン・テイラー=ジョンソン)が回収した身代金だった。
てんとう虫は持ち主を知らずに盗み出すが、殺し屋コンビは大慌てで車内を探しはじめる。
途中駅から乗車してきたウルフ(ベニート・A・マルティネス・オカシオ)という見知らぬ殺し屋に襲われたのを皮切りに、てんとう虫はなぜか次々に殺し屋たちに狙われる。
日本人の殺し屋キムラ(アンドリュー・小路)、毒を操る殺し屋ホーネット(ザジー・ビーツ)、そして正体不明の謎の女プリンス(ジョーイ・キング)。
誰もが降りる機会を失ったまま、列車はホワイト・デスが待つ、京都へ向かって突っ走る・・・
富士山が、名古屋と米原の間にある世界線(笑
新幹線ならぬ、ブレット・トレイン「ゆかり号」に、なぜか世界中から集まった殺し屋たちが乗り合わせる。
伊坂幸太郎の原作は未読だが、なるほどこれはデヴィッド・リーチが生みの親の一人である「ジョン・ウィック」的世界観を、細長い列車という密室に閉じ込めた構造。
お互い因縁のある濃い~キャラの殺し屋たちが一ヶ所に集まってるんだから、そりゃ事件が起こらない訳がない。
日本が舞台だが、コロナ禍で制作された本作、実際の撮影は全てアメリカで行われ、日本ユニットが撮影した実景を合成して作られている。
車内で殺し屋たちが暴れ回るって設定からして、「新幹線」の商標使用許諾は取れなかったのだろうが、あくまでもこれは別の世界線のブレット・トレイン。
デザインも微妙に違い、東京ー京都の間に何駅にも止まる、「こだま」に近い設定だ。
ポップで変な日本は、この作品の場合確信犯だが、エキゾチシズム優先で過去に散々描かれてきたフジヤマ、ゲイシャ、ニンジャ的な描写とは一線を画する。
最近でも「G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ」なんかはモロ旧路線だったが、本作の世界観はいわば日本アニメに出てるちょっとダークな虚構の日本を翻案し、実写化した様なイメージといえば分かりやすいだろうか。
「攻殻機動隊」の未来都市を思わせるネオンやLEDによる強烈な色彩は、デヴィッド・リーチがプロデュースした「ケイト」で描かれた東京とも共通するイメージなので、おそらくリーチの中で描きたい日本は、現実ではなくアニメの中の日本なのだろう。
作品のベクトルは思いっきり違うが、ジョーダン・ピールも「NOPE ノープ」の中で嬉々としてアニメオマージュをやっていたし、ゆるキャラなんかも含めて、日本製サブカルチャーのアメリカへのディープな浸透とリスペクトを感じる。
ブレット・トレインには、何人もの殺し屋が異なる思惑で乗り合わせている。
てんとう虫は、ブリーフケースを盗むイージーな仕事のため。
レモンとみかんは、ホワイト・デスの息子と身代金を京都に送還するため。
ウルフは、最愛の妻の仇をを殺すため。
ホーネットは、密かにブリーフケースを狙うため。
キムラは、プリンスに人質に取られた息子を救うため。
そして抜群の演技力で彼らを翻弄し殺し合いへと導く、トリックスターのプリンスは、秘められた野望のため。
特筆すべきは、それぞれのキャラクターの背景をきちっと描きこんでいること。
その人物が何者で、どういうバックグラウンドを持ち、なぜ列車に乗り込んだのか。
彼らの過去がいちいち面白く、物語に深度を与えているのである。
中でも「機関車トーマス」大好きなレモンは、何かにつけてトーマスのキャラクターを引用するのだが、これがまた上手いこと伏線として機能している。
唯一、物語上のキムラの位置付けがやや中途半端に感じたのだが、後から調べたら原作小説の主人公はてんとう虫ではなく、このキムラの方だった。
原作は未読なので、ハッキリとは言えないが、てんとう虫を主役にしたことで、キムラのポジションが曖昧になってしまったのかも知れない。
では彼らを乗せたブレット・トレインは何の象徴なのか。
これはもう「運命」だろう。
人生は一期一会を繰り返し、それぞれが複雑に絡み合っている。
全員の運命がこの一点に集まり、「降りられない」旅となり、終着点で待ち構えるのは避けられない死=ホワイト・デスだ。
陰謀と勘違いと疑心暗鬼が、作用と反作用のピタゴラスイッチの様になってキャラクターを動かし、騙し合いと殺し合いの結果、ある者は運命に負けて死に、ある者は運命に打ち勝って、新しい道を歩み出す。
血の量は多めではあるものの、タッチが陽性なんでそっちの耐性がなくても大丈夫だろう。
公共の列車の中というアクション映画には不向きな舞台を、逆転の発想で面白いシチュエーションにしてるのもいい。
関係の無い乗客のいる前では大っぴらには動けず、死体を生きてる様に見せかけたり、日本の列車は静かだというステロタイプを逆手にとって、「Quiet Car」なる車両をでっち上げ、てんとう虫とレモンがおばさんに怒られながら、静かに激しく笑顔でバトルするシーンなどはかなり可笑しい。
てんとう虫が平和に任務を終えたいので、拳銃を使わないという設定も、アクションのギミックを生み出すのに繋がっている。
キャラクターが多く相関図が複雑で、時系列があっちこっち飛ぶ構成ゆえ、ストーリーテリングはスムーズとは言い難いが、なかなかに未見性のある、ユニークな活劇に仕上がっているのではないか。
本作を観ようと思っている人は、「ザ・ロストシティ」と「デッドプール2」を観ておくと、キャラ絡みの小ネタでさらに笑えるだろう。
今回は、その名も「ジャパニーズ」というカクテルをチョイス。
コニャック60ml、ライム・ジュース15ml、オルジェー・シロップ15ml、アンゴスチュラ・アロマティック・ビターズ1dashを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
最後にレモンまたはライムのピールを飾って完成。
バーテンダーの神様、ジェリー・トーマスが1862年に著書の"How to Mix Drinks or The Bon-Vivant's Companion”でレシピを発表。
日本ではあまり知られていないが、160年の歴史をもつ伝統的なカクテルだ。
ベースのコニャックの甘味に、酸味と苦味が複雑に絡み合い、香りもいい。
1860年にアメリカを訪れ、大きな反響を呼んだ万延元年遣米使節団のサムライたちにインスパイアされたと言われている。
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日本で予期せぬ事件に巻き込まれた、世界一運の悪い殺し屋ことコードネーム”レディバグ(てんとう虫)”の災難を描く、ブラッディーなアクション・コメディ。
彼は東京から京都へ向かう弾丸列車(ブレット・トレイン)から、あるブリーフケースを盗み出す任務のために乗車する。
しかしなぜか列車には、彼と因縁のある殺し屋の集団が乗り合わせているのだ。
伊坂幸太郎の「マリアビートル」を、「フィアー・ストリート Part 2: 1978」のザック・オルケヴィッチが脚色。
監督は、「デッドプール2」のデヴィッド・リーチ。
主人公のてんとう虫をブラッド・ピットが演じ、ジョーイ・キング、アーロン・テイラー=ジョンソン、ブライアン・タイリー・ヘンリー、真田広之らが豪華なアンサンブルキャストを構成する。
何かと運の悪い殺し屋、てんとう虫(ブラッド・ピット)に与えられた任務は、東京発のブレット・トレインに乗り込み、ブリーフケースひとつを盗むこと。
それは、ごく簡単な任務のはずだった。
しかしそのケースは、日本の裏組織を支配するホワイト・デスの息子を、誘拐組織から奪還した殺し屋コンビ、レモン(ブライアン・タイリー・ヘンリー)とみかん(アーロン・テイラー=ジョンソン)が回収した身代金だった。
てんとう虫は持ち主を知らずに盗み出すが、殺し屋コンビは大慌てで車内を探しはじめる。
途中駅から乗車してきたウルフ(ベニート・A・マルティネス・オカシオ)という見知らぬ殺し屋に襲われたのを皮切りに、てんとう虫はなぜか次々に殺し屋たちに狙われる。
日本人の殺し屋キムラ(アンドリュー・小路)、毒を操る殺し屋ホーネット(ザジー・ビーツ)、そして正体不明の謎の女プリンス(ジョーイ・キング)。
誰もが降りる機会を失ったまま、列車はホワイト・デスが待つ、京都へ向かって突っ走る・・・
富士山が、名古屋と米原の間にある世界線(笑
新幹線ならぬ、ブレット・トレイン「ゆかり号」に、なぜか世界中から集まった殺し屋たちが乗り合わせる。
伊坂幸太郎の原作は未読だが、なるほどこれはデヴィッド・リーチが生みの親の一人である「ジョン・ウィック」的世界観を、細長い列車という密室に閉じ込めた構造。
お互い因縁のある濃い~キャラの殺し屋たちが一ヶ所に集まってるんだから、そりゃ事件が起こらない訳がない。
日本が舞台だが、コロナ禍で制作された本作、実際の撮影は全てアメリカで行われ、日本ユニットが撮影した実景を合成して作られている。
車内で殺し屋たちが暴れ回るって設定からして、「新幹線」の商標使用許諾は取れなかったのだろうが、あくまでもこれは別の世界線のブレット・トレイン。
デザインも微妙に違い、東京ー京都の間に何駅にも止まる、「こだま」に近い設定だ。
ポップで変な日本は、この作品の場合確信犯だが、エキゾチシズム優先で過去に散々描かれてきたフジヤマ、ゲイシャ、ニンジャ的な描写とは一線を画する。
最近でも「G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ」なんかはモロ旧路線だったが、本作の世界観はいわば日本アニメに出てるちょっとダークな虚構の日本を翻案し、実写化した様なイメージといえば分かりやすいだろうか。
「攻殻機動隊」の未来都市を思わせるネオンやLEDによる強烈な色彩は、デヴィッド・リーチがプロデュースした「ケイト」で描かれた東京とも共通するイメージなので、おそらくリーチの中で描きたい日本は、現実ではなくアニメの中の日本なのだろう。
作品のベクトルは思いっきり違うが、ジョーダン・ピールも「NOPE ノープ」の中で嬉々としてアニメオマージュをやっていたし、ゆるキャラなんかも含めて、日本製サブカルチャーのアメリカへのディープな浸透とリスペクトを感じる。
ブレット・トレインには、何人もの殺し屋が異なる思惑で乗り合わせている。
てんとう虫は、ブリーフケースを盗むイージーな仕事のため。
レモンとみかんは、ホワイト・デスの息子と身代金を京都に送還するため。
ウルフは、最愛の妻の仇をを殺すため。
ホーネットは、密かにブリーフケースを狙うため。
キムラは、プリンスに人質に取られた息子を救うため。
そして抜群の演技力で彼らを翻弄し殺し合いへと導く、トリックスターのプリンスは、秘められた野望のため。
特筆すべきは、それぞれのキャラクターの背景をきちっと描きこんでいること。
その人物が何者で、どういうバックグラウンドを持ち、なぜ列車に乗り込んだのか。
彼らの過去がいちいち面白く、物語に深度を与えているのである。
中でも「機関車トーマス」大好きなレモンは、何かにつけてトーマスのキャラクターを引用するのだが、これがまた上手いこと伏線として機能している。
唯一、物語上のキムラの位置付けがやや中途半端に感じたのだが、後から調べたら原作小説の主人公はてんとう虫ではなく、このキムラの方だった。
原作は未読なので、ハッキリとは言えないが、てんとう虫を主役にしたことで、キムラのポジションが曖昧になってしまったのかも知れない。
では彼らを乗せたブレット・トレインは何の象徴なのか。
これはもう「運命」だろう。
人生は一期一会を繰り返し、それぞれが複雑に絡み合っている。
全員の運命がこの一点に集まり、「降りられない」旅となり、終着点で待ち構えるのは避けられない死=ホワイト・デスだ。
陰謀と勘違いと疑心暗鬼が、作用と反作用のピタゴラスイッチの様になってキャラクターを動かし、騙し合いと殺し合いの結果、ある者は運命に負けて死に、ある者は運命に打ち勝って、新しい道を歩み出す。
血の量は多めではあるものの、タッチが陽性なんでそっちの耐性がなくても大丈夫だろう。
公共の列車の中というアクション映画には不向きな舞台を、逆転の発想で面白いシチュエーションにしてるのもいい。
関係の無い乗客のいる前では大っぴらには動けず、死体を生きてる様に見せかけたり、日本の列車は静かだというステロタイプを逆手にとって、「Quiet Car」なる車両をでっち上げ、てんとう虫とレモンがおばさんに怒られながら、静かに激しく笑顔でバトルするシーンなどはかなり可笑しい。
てんとう虫が平和に任務を終えたいので、拳銃を使わないという設定も、アクションのギミックを生み出すのに繋がっている。
キャラクターが多く相関図が複雑で、時系列があっちこっち飛ぶ構成ゆえ、ストーリーテリングはスムーズとは言い難いが、なかなかに未見性のある、ユニークな活劇に仕上がっているのではないか。
本作を観ようと思っている人は、「ザ・ロストシティ」と「デッドプール2」を観ておくと、キャラ絡みの小ネタでさらに笑えるだろう。
今回は、その名も「ジャパニーズ」というカクテルをチョイス。
コニャック60ml、ライム・ジュース15ml、オルジェー・シロップ15ml、アンゴスチュラ・アロマティック・ビターズ1dashを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
最後にレモンまたはライムのピールを飾って完成。
バーテンダーの神様、ジェリー・トーマスが1862年に著書の"How to Mix Drinks or The Bon-Vivant's Companion”でレシピを発表。
日本ではあまり知られていないが、160年の歴史をもつ伝統的なカクテルだ。
ベースのコニャックの甘味に、酸味と苦味が複雑に絡み合い、香りもいい。
1860年にアメリカを訪れ、大きな反響を呼んだ万延元年遣米使節団のサムライたちにインスパイアされたと言われている。

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