2022年12月30日 (金) | 編集 |
コロナ禍の3年目は、延期となっていた作品もほとんど公開され、100億越えの作品が4本も生まれるなど、興行街は賑わいを取り戻しつつある様に見える。
一方で、配信シフトが進んだことによる弊害もくっきりしてきた。
端的に言えば、配信のみの作品はどんなにメジャーなプラットフォームでも、一般的な知名度を獲得することが出来ず、人々の記憶から消えるのが早い。
いわば「映画の使い捨て」が加速したことは、紛れもない事実だろう。
世間に目を移せば、ウクライナの戦争や安倍晋三元首相の殺害など、暴力によって何かを変えようとする力が顕在化した年でもあり、この恐怖の時代に呼ばれたような作品も多かった。
それでは、今年の“忘れられない映画たち”をブログでの紹介順に。
選出基準はただ一つ、“今の時点でより心に残っているもの”だ。
「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」ジョン・ワッツ監督による、青春スパイディ三部作の一応の完結編。大人の階段を駆け登ったピーター・パーカーの、二度と引き返せない決断は切なくて尊い。旧スパイダーマン三部作の生みの親、サム・ライミが「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」を手がけたのも面白い縁だ。
「コーダ あいのうた」聾唖の漁師一家に生まれた、ただ一人の健聴者の少女が、家族愛と歌手への夢の間で葛藤する。フランス映画のリメイクだが、オリジナルの欠点を一掃した脚色が素晴らしく、アカデミー作品賞、脚色賞の受賞も納得だ。
「さがす」突然の父の失踪から始まるミステリアスな人間ドラマ。これが長編二作目となる片山慎三監督は格段の進化を見せる。凝りに凝ったストーリーテリングは遥かに洗練され、全く先を読ませないどころか、師匠のポン・ジュノも真っ青な予想だにしない所に着地するのだ。
「ウェスト・サイド・ストーリー」スティーヴン・スピルバーグ、劇場用長編映画32本目にして手がける初のミュージカル。半世紀以上前に作られた伝説的作品を、現代アメリカの深刻な社会分断の問題と重ね合わせ、躍動感あふれるモダンなミュージカル活劇へと生まれ変わらせた。
「余命10年」二十歳の時に余命10年を宣告された女性が、同窓会で再会した元同級生と人生最後の恋をする。物語の主人公と同じ病によって亡くなった、原作者の小坂流加の人生に最大限のリスペクトを捧げた作品で、「生きるとは?」を体現する小松菜奈が素晴らしい。
「ウエディング・ハイ」大九明子+バカリズムの、壮大なる結婚披露宴あるあるコント。映画賞とかでは無視されがちなコメディ作品だが、トリッキーな脚本の構造とクセの強いキャラクターの複合効果で大爆笑。今の世界には、こんなバカバカしい笑いが必要だ。
「ベルファスト」ケネス・ブラナーが、北アイルランドで過ごした、自らの子供時代をモチーフに作り上げた自伝的作品。その後30年続く民族紛争が始まった時代を背景に、故郷に留まるか否かの決断を迫られているある家族の物語は、現在の世界に鋭く刺さる。
「マイスモールランド」幼い頃から日本で育ったクルド人難民の少女が、突然在留資格を失ったことから、自らのアイデンティティと居場所の問題に葛藤する姿を描く、ハードな青春ドラマ。本作の川和田恵真監督と同じく、是枝裕和門下生の早川千絵監督の「PLAN 75」もそうだが、日本映画離れしたグローバルかつドメスティックな視点を持つ傑作だ。
「ハケンアニメ!」アニメーション制作という、どう考えても地味なモチーフを、一大お仕事エンターテインメントに昇華した驚きの作品。吉岡里帆と江本祐、中村倫也と尾野真千子のバディモノとしても傑出した一本だ。クリエイターの葛藤を描く本作に対し、それが刺さった側を描く「メタモルフォーゼの縁側」という本作と対になる様な秀作もあった。
「トップガン マーヴェリック」36年ぶりに帰ってきたマーヴェリックの物語は、トム・クルーズをはじめとする演者たちの人生を取り込み、あらゆる点で前作を遥に上回る傑作となった。まさにコロナ延期組のラスボスにして真打、西のムービー・オブ・ザ・イヤーだ。
「犬王」室町時代、大衆に絶大な人気を誇りながら、詳しい記録がほとんど現存しない謎の猿楽師・犬王をモチーフに、イマジネーションの爆弾が炸裂する、狂乱のロックミュージカル。唯一無二、まさに湯浅政明にしか作れない、外連味たっぷりオンリーワンの音楽活劇だ。
「東京オリンピック SIDE:A/SIDE:B」 2021年に無観客で開催された東京オリンピックとは、一体何だったのか。難題を課された河瀬直美は、あらゆる要素が混然と存在しながらも、全体を通すと「人間」と「時代」のイメージが浮かび上がるモザイク画のように仕上げている。
「神は見返りを求める」岸井ゆきの演じるポンコツYouTuberに、恩を仇で返された神のように優しい男、ムロツヨシがキレる。吉田恵輔監督の特徴とも言える、ダサくカッコ悪い人間たち。誰でも発信者になり得る時代が生んだ哀しきバトルで、21世紀ならではの寓話的な狂騒劇だ。
「エルヴィス」エルヴィス・プレスリーの生涯を、彼のマネージャーだったトム・パーカー“大佐”をストーリーテラーとして描いた作品。キング・オブ・ロックンロールを殺したのは誰なのか。これはバズ・ラーマンが独特の情感たっぷりに描く、エルヴィスの自由への葛藤の物語だ。
「モガディシュ 脱出までの14日間」ソマリア内戦の混乱で通信手段を断たれ、戦場の真っ只中で共闘した韓国と北朝鮮大使館員の物語。彼らは国の面子のために死ぬか、命のために協力し合うかの二者択一を迫られるのである。「キングメイカー 大統領を作った男」もそうだが、韓国映画はお固い素材を柔らかく見せるセンスが素晴らしい。
「呪詛」台湾発の、とてつもなく怖しいモキュメンタリーホラー。主人公と娘を呪う謎の神、大黒仏母の正体は何か。スリリングに展開する物語は、モキュメンタリーという形式を生かし、驚くべき形でこちらを巻き込んでくる。タイの「女神の継承」共に、土着のアニミズム宗教をモチーフにしたアジアンホラーの真骨頂を味わえる。
「13人の命」記憶に新しい、タイの洞窟でのサッカー少年団遭難事件と救出までの顛末を、ロン・ハワードがドラマチックに描いた一本。不可能を可能にした作戦は、まさに国籍や組織を超えたチーム人類が成し遂げた偉業。同じ事件を描いたドキュメンタリー「THE RESCUE 奇跡を起こした者たち/ザ・レスキュー タイ洞窟救出の奇跡」と合わせて観るとより感慨深い。
「セイント・フランシス」34歳お一人様、人生に迷いまくっている主人公が、一夏の体験を通して大きく成長する。主演のケリー・オサリバンが自らの経験に基づき脚本を執筆、監督は私生活のパートナーでもあるアレックス・トンプソンという自主制作的な愛すべき小品。
「NOPE ノープ」映画撮影用の馬を飼育している牧場上空に現れたのは、動かない雲に擬態した巨大な飛行物体。これは異様で恐ろしく、ユーモラスで新しい。「映画とは俗っぽい見せ物である」という事実を、これほどまでにストレートに表現した作品もあるまい。
「さかなのこ」のんさん演じるお魚が大好きなミー坊が、人気者のお魚博士になるまでの物語。さかなクンの自伝の映画化だが、劇中に本人も出て来るし、主人公は最後までさかなクンとは呼ばれない。現実とフィクションが、双方向で繋がったようなメタ的な構造が面白い。
「秘密の森の、その向こう」亡き祖母が住んでいた森の家を整理するため、両親と共にやってきた8歳の少女が、周囲の森を探索中に8歳の頃の“ママ”に出会う。セリーヌ・シアマが共感力抜群に綴る血を受け継いだ三世代の女たちによる、ジャック・フィニイ的な喪失と絆の物語。
「川っぺりムコリッタ」北陸のボロアパートに引っ越してきた訳アリの松山ケンイチと、アパートに暮らす人々の物語。登場人物のほとんどが、人生を変えるほど大きな喪失を経験しているのが特徴で、彼らはそれぞれに、生と死の間にあるムコリッタ(牟呼栗多)で喪失の意味を見る。
「RRR」英国支配下のインドで、それぞれの大義を掲げ悪辣な総督と戦う二人の男。友情・筋肉・アクション・筋肉・ダンス・筋肉な筋肉至上主義の映画で、劇場の温度設定が50度くらいになってるんじゃない?てくらいめちゃくちゃ熱い。娯楽映画全部入りの3時間だ。
「窓辺にて」妻に浮気されても、なぜか怒りの感情が湧いてこない稲垣吾郎演じるフリーライターの主人公が、玉城ティナの女子高生作家に気に入られて振り回される。味わい深い会話劇の傑作で、今泉力哉の現時点での到達点。城定秀夫とコラボした「愛なのに」と「猫は逃げた」の「L/R15」二部作もユニークだった。
「西部戦線異状なし」過去に米国で二度映像化された戦争文学の傑作、本国ドイツでの初めての映画化は、大胆なアプローチで過去作品とは異なる形で戦争の虚無を描き出す。100年前の戦争の物語だが、現在進行形のウクライナ戦争と驚くほどの相似を形作るのが恐ろしい。
「ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー」MCUフェイズ4のラストを飾る、喪失と継承、再生を描く傑作だ。ライアン・クーグラーは、アメコミアクション映画とは思えない、ゆったりとしたリズムで物語を綴り、大切な人を失った人々の心の内をじっくりと描いてゆく。
「すずめの戸締り」セカイ系オタクの血が暴走気味だった前作から、キッチリ“国民的映画監督”路線に戻してきた。描かれるのは「天気の子」で描かれた、二人だけの「セカイ」から、多くの人々が関わり合う現実の「世界」へのシフト。映画作家、新海誠の着実な進化がここにある。
「グリーン・ナイト」14世紀に書かれた読み人知らずの叙事詩をベースに、デヴィッド・ロウリーがムーディーに描き出す、異色の貴種流離譚。スコセッシの某作からインスパイアされたと思しき脚色が秀逸で、円卓の騎士ガウェイン卿の若き日を描く、個性の塊の様な技ありの一本だ。
「ギレルモ・デル・トロのピノッキオ」ゼペット爺さんは第一次世界大戦で息子を亡くし、ピノッキオを作ったのはファシストの時代というデル・トロ流の再解釈。「ナイトメア・アリー」も戦争の時代が背景だったし、彼の映画の恐怖の源泉は人間性が失われる時代そのものなのだろう。本作は、いわばもう一つの「パンズ・ラビリンス」だ。
「THE FIRST SLAM DUNK」90年代を代表するジャンプ漫画の傑作を、原作者の井上雄彦自らが映画化した作品。伝説の山王戦をベースに自分の作った物語を大胆に脚色し、オリジナルを知るものにとっても強烈な映画体験となった。今年のエンタメ映画の、東のムービー・オブ・ザ・イヤーだ。
「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」パンドラの冒険の第二章は、密林から南国の海へ。“スカイ・ピープル”の性懲りも無い再侵攻から始まって、あっという間に過ぎてゆく怒涛の192分。続編を前提とした作りで、本作だけでは完結していないが、これはこれで十分に面白い。
「ケイコ 目を澄ませて」岸井ゆきのが演じるのは、聾唖のプロボクサー。主人公はほとんど心の内を見せないが、三宅唱は岸井ゆきのが繊細に表現するケイコの表情や、日常の中でのさりげない所作の変化を掬い取ってゆく。ラストシーンの表情は、ベストアクトでありベストショットだ。
以上、32本プラスα。
洋画では、こちらもウクライナ戦争を思わせるジョー・ライトの「シラノ」、ジュリア・デュクルノーのぶっ飛んだダークスリラー「TITANE チタン」、「クレイマー、クレイマー」の現在版「カモン カモン」、アンドロイドの死をめぐる寓話「アフター・ヤン」などが素晴らしかった。
邦画では、のんさんの鮮烈な監督デビュー作「Ribbon」や、沖縄現代史をモチーフとした時間SF「ミラクルシティコザ」、味わい深い夏の日の記憶を描く「サバカン SABAKAN」、ジュリー健在を示した「土を喰らう十二ヶ月」、アイデンティティを巡るミステリ「ある男」などがくっきりと爪痕を残した。
邦画アニメーションでは、音楽映画としても聴き応えたっぷりの「ONE PIECE FILM RED」、原恵一が本領発揮した「かがみの孤城」が気を吐いた。
洋画アニメーションでは、アフガニスタンからの脱出者を描く「FLEE フリー」、現在から戦争の時代を俯瞰した「アンネ・フランクと旅する日記」などのドキュメンタリー的なアニメーションが印象深い。
今年の映画MVPは、やはり爪痕を残しまくった岸井ゆきのだろう。
それでは皆さん、よいお年をお迎えください。
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一方で、配信シフトが進んだことによる弊害もくっきりしてきた。
端的に言えば、配信のみの作品はどんなにメジャーなプラットフォームでも、一般的な知名度を獲得することが出来ず、人々の記憶から消えるのが早い。
いわば「映画の使い捨て」が加速したことは、紛れもない事実だろう。
世間に目を移せば、ウクライナの戦争や安倍晋三元首相の殺害など、暴力によって何かを変えようとする力が顕在化した年でもあり、この恐怖の時代に呼ばれたような作品も多かった。
それでは、今年の“忘れられない映画たち”をブログでの紹介順に。
選出基準はただ一つ、“今の時点でより心に残っているもの”だ。
「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」ジョン・ワッツ監督による、青春スパイディ三部作の一応の完結編。大人の階段を駆け登ったピーター・パーカーの、二度と引き返せない決断は切なくて尊い。旧スパイダーマン三部作の生みの親、サム・ライミが「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」を手がけたのも面白い縁だ。
「コーダ あいのうた」聾唖の漁師一家に生まれた、ただ一人の健聴者の少女が、家族愛と歌手への夢の間で葛藤する。フランス映画のリメイクだが、オリジナルの欠点を一掃した脚色が素晴らしく、アカデミー作品賞、脚色賞の受賞も納得だ。
「さがす」突然の父の失踪から始まるミステリアスな人間ドラマ。これが長編二作目となる片山慎三監督は格段の進化を見せる。凝りに凝ったストーリーテリングは遥かに洗練され、全く先を読ませないどころか、師匠のポン・ジュノも真っ青な予想だにしない所に着地するのだ。
「ウェスト・サイド・ストーリー」スティーヴン・スピルバーグ、劇場用長編映画32本目にして手がける初のミュージカル。半世紀以上前に作られた伝説的作品を、現代アメリカの深刻な社会分断の問題と重ね合わせ、躍動感あふれるモダンなミュージカル活劇へと生まれ変わらせた。
「余命10年」二十歳の時に余命10年を宣告された女性が、同窓会で再会した元同級生と人生最後の恋をする。物語の主人公と同じ病によって亡くなった、原作者の小坂流加の人生に最大限のリスペクトを捧げた作品で、「生きるとは?」を体現する小松菜奈が素晴らしい。
「ウエディング・ハイ」大九明子+バカリズムの、壮大なる結婚披露宴あるあるコント。映画賞とかでは無視されがちなコメディ作品だが、トリッキーな脚本の構造とクセの強いキャラクターの複合効果で大爆笑。今の世界には、こんなバカバカしい笑いが必要だ。
「ベルファスト」ケネス・ブラナーが、北アイルランドで過ごした、自らの子供時代をモチーフに作り上げた自伝的作品。その後30年続く民族紛争が始まった時代を背景に、故郷に留まるか否かの決断を迫られているある家族の物語は、現在の世界に鋭く刺さる。
「マイスモールランド」幼い頃から日本で育ったクルド人難民の少女が、突然在留資格を失ったことから、自らのアイデンティティと居場所の問題に葛藤する姿を描く、ハードな青春ドラマ。本作の川和田恵真監督と同じく、是枝裕和門下生の早川千絵監督の「PLAN 75」もそうだが、日本映画離れしたグローバルかつドメスティックな視点を持つ傑作だ。
「ハケンアニメ!」アニメーション制作という、どう考えても地味なモチーフを、一大お仕事エンターテインメントに昇華した驚きの作品。吉岡里帆と江本祐、中村倫也と尾野真千子のバディモノとしても傑出した一本だ。クリエイターの葛藤を描く本作に対し、それが刺さった側を描く「メタモルフォーゼの縁側」という本作と対になる様な秀作もあった。
「トップガン マーヴェリック」36年ぶりに帰ってきたマーヴェリックの物語は、トム・クルーズをはじめとする演者たちの人生を取り込み、あらゆる点で前作を遥に上回る傑作となった。まさにコロナ延期組のラスボスにして真打、西のムービー・オブ・ザ・イヤーだ。
「犬王」室町時代、大衆に絶大な人気を誇りながら、詳しい記録がほとんど現存しない謎の猿楽師・犬王をモチーフに、イマジネーションの爆弾が炸裂する、狂乱のロックミュージカル。唯一無二、まさに湯浅政明にしか作れない、外連味たっぷりオンリーワンの音楽活劇だ。
「東京オリンピック SIDE:A/SIDE:B」 2021年に無観客で開催された東京オリンピックとは、一体何だったのか。難題を課された河瀬直美は、あらゆる要素が混然と存在しながらも、全体を通すと「人間」と「時代」のイメージが浮かび上がるモザイク画のように仕上げている。
「神は見返りを求める」岸井ゆきの演じるポンコツYouTuberに、恩を仇で返された神のように優しい男、ムロツヨシがキレる。吉田恵輔監督の特徴とも言える、ダサくカッコ悪い人間たち。誰でも発信者になり得る時代が生んだ哀しきバトルで、21世紀ならではの寓話的な狂騒劇だ。
「エルヴィス」エルヴィス・プレスリーの生涯を、彼のマネージャーだったトム・パーカー“大佐”をストーリーテラーとして描いた作品。キング・オブ・ロックンロールを殺したのは誰なのか。これはバズ・ラーマンが独特の情感たっぷりに描く、エルヴィスの自由への葛藤の物語だ。
「モガディシュ 脱出までの14日間」ソマリア内戦の混乱で通信手段を断たれ、戦場の真っ只中で共闘した韓国と北朝鮮大使館員の物語。彼らは国の面子のために死ぬか、命のために協力し合うかの二者択一を迫られるのである。「キングメイカー 大統領を作った男」もそうだが、韓国映画はお固い素材を柔らかく見せるセンスが素晴らしい。
「呪詛」台湾発の、とてつもなく怖しいモキュメンタリーホラー。主人公と娘を呪う謎の神、大黒仏母の正体は何か。スリリングに展開する物語は、モキュメンタリーという形式を生かし、驚くべき形でこちらを巻き込んでくる。タイの「女神の継承」共に、土着のアニミズム宗教をモチーフにしたアジアンホラーの真骨頂を味わえる。
「13人の命」記憶に新しい、タイの洞窟でのサッカー少年団遭難事件と救出までの顛末を、ロン・ハワードがドラマチックに描いた一本。不可能を可能にした作戦は、まさに国籍や組織を超えたチーム人類が成し遂げた偉業。同じ事件を描いたドキュメンタリー「THE RESCUE 奇跡を起こした者たち/ザ・レスキュー タイ洞窟救出の奇跡」と合わせて観るとより感慨深い。
「セイント・フランシス」34歳お一人様、人生に迷いまくっている主人公が、一夏の体験を通して大きく成長する。主演のケリー・オサリバンが自らの経験に基づき脚本を執筆、監督は私生活のパートナーでもあるアレックス・トンプソンという自主制作的な愛すべき小品。
「NOPE ノープ」映画撮影用の馬を飼育している牧場上空に現れたのは、動かない雲に擬態した巨大な飛行物体。これは異様で恐ろしく、ユーモラスで新しい。「映画とは俗っぽい見せ物である」という事実を、これほどまでにストレートに表現した作品もあるまい。
「さかなのこ」のんさん演じるお魚が大好きなミー坊が、人気者のお魚博士になるまでの物語。さかなクンの自伝の映画化だが、劇中に本人も出て来るし、主人公は最後までさかなクンとは呼ばれない。現実とフィクションが、双方向で繋がったようなメタ的な構造が面白い。
「秘密の森の、その向こう」亡き祖母が住んでいた森の家を整理するため、両親と共にやってきた8歳の少女が、周囲の森を探索中に8歳の頃の“ママ”に出会う。セリーヌ・シアマが共感力抜群に綴る血を受け継いだ三世代の女たちによる、ジャック・フィニイ的な喪失と絆の物語。
「川っぺりムコリッタ」北陸のボロアパートに引っ越してきた訳アリの松山ケンイチと、アパートに暮らす人々の物語。登場人物のほとんどが、人生を変えるほど大きな喪失を経験しているのが特徴で、彼らはそれぞれに、生と死の間にあるムコリッタ(牟呼栗多)で喪失の意味を見る。
「RRR」英国支配下のインドで、それぞれの大義を掲げ悪辣な総督と戦う二人の男。友情・筋肉・アクション・筋肉・ダンス・筋肉な筋肉至上主義の映画で、劇場の温度設定が50度くらいになってるんじゃない?てくらいめちゃくちゃ熱い。娯楽映画全部入りの3時間だ。
「窓辺にて」妻に浮気されても、なぜか怒りの感情が湧いてこない稲垣吾郎演じるフリーライターの主人公が、玉城ティナの女子高生作家に気に入られて振り回される。味わい深い会話劇の傑作で、今泉力哉の現時点での到達点。城定秀夫とコラボした「愛なのに」と「猫は逃げた」の「L/R15」二部作もユニークだった。
「西部戦線異状なし」過去に米国で二度映像化された戦争文学の傑作、本国ドイツでの初めての映画化は、大胆なアプローチで過去作品とは異なる形で戦争の虚無を描き出す。100年前の戦争の物語だが、現在進行形のウクライナ戦争と驚くほどの相似を形作るのが恐ろしい。
「ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバー」MCUフェイズ4のラストを飾る、喪失と継承、再生を描く傑作だ。ライアン・クーグラーは、アメコミアクション映画とは思えない、ゆったりとしたリズムで物語を綴り、大切な人を失った人々の心の内をじっくりと描いてゆく。
「すずめの戸締り」セカイ系オタクの血が暴走気味だった前作から、キッチリ“国民的映画監督”路線に戻してきた。描かれるのは「天気の子」で描かれた、二人だけの「セカイ」から、多くの人々が関わり合う現実の「世界」へのシフト。映画作家、新海誠の着実な進化がここにある。
「グリーン・ナイト」14世紀に書かれた読み人知らずの叙事詩をベースに、デヴィッド・ロウリーがムーディーに描き出す、異色の貴種流離譚。スコセッシの某作からインスパイアされたと思しき脚色が秀逸で、円卓の騎士ガウェイン卿の若き日を描く、個性の塊の様な技ありの一本だ。
「ギレルモ・デル・トロのピノッキオ」ゼペット爺さんは第一次世界大戦で息子を亡くし、ピノッキオを作ったのはファシストの時代というデル・トロ流の再解釈。「ナイトメア・アリー」も戦争の時代が背景だったし、彼の映画の恐怖の源泉は人間性が失われる時代そのものなのだろう。本作は、いわばもう一つの「パンズ・ラビリンス」だ。
「THE FIRST SLAM DUNK」90年代を代表するジャンプ漫画の傑作を、原作者の井上雄彦自らが映画化した作品。伝説の山王戦をベースに自分の作った物語を大胆に脚色し、オリジナルを知るものにとっても強烈な映画体験となった。今年のエンタメ映画の、東のムービー・オブ・ザ・イヤーだ。
「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」パンドラの冒険の第二章は、密林から南国の海へ。“スカイ・ピープル”の性懲りも無い再侵攻から始まって、あっという間に過ぎてゆく怒涛の192分。続編を前提とした作りで、本作だけでは完結していないが、これはこれで十分に面白い。
「ケイコ 目を澄ませて」岸井ゆきのが演じるのは、聾唖のプロボクサー。主人公はほとんど心の内を見せないが、三宅唱は岸井ゆきのが繊細に表現するケイコの表情や、日常の中でのさりげない所作の変化を掬い取ってゆく。ラストシーンの表情は、ベストアクトでありベストショットだ。
以上、32本プラスα。
洋画では、こちらもウクライナ戦争を思わせるジョー・ライトの「シラノ」、ジュリア・デュクルノーのぶっ飛んだダークスリラー「TITANE チタン」、「クレイマー、クレイマー」の現在版「カモン カモン」、アンドロイドの死をめぐる寓話「アフター・ヤン」などが素晴らしかった。
邦画では、のんさんの鮮烈な監督デビュー作「Ribbon」や、沖縄現代史をモチーフとした時間SF「ミラクルシティコザ」、味わい深い夏の日の記憶を描く「サバカン SABAKAN」、ジュリー健在を示した「土を喰らう十二ヶ月」、アイデンティティを巡るミステリ「ある男」などがくっきりと爪痕を残した。
邦画アニメーションでは、音楽映画としても聴き応えたっぷりの「ONE PIECE FILM RED」、原恵一が本領発揮した「かがみの孤城」が気を吐いた。
洋画アニメーションでは、アフガニスタンからの脱出者を描く「FLEE フリー」、現在から戦争の時代を俯瞰した「アンネ・フランクと旅する日記」などのドキュメンタリー的なアニメーションが印象深い。
今年の映画MVPは、やはり爪痕を残しまくった岸井ゆきのだろう。
それでは皆さん、よいお年をお迎えください。

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2022年12月27日 (火) | 編集 |
願いの鍵が開けるのは?
「ハケンアニメ!」の辻村深月による本屋大賞受賞のミリオンセラー小説を、原恵一監督がアニメーション映画化した作品。
オオカミ様と名乗る謎めいた少女によって、鏡の向こうにある異世界の孤城に召喚された七人の中学生の物語だ。
彼らが一年のうちに、城のどこかに隠された願いの鍵を見つけ出せば、オオカミ様が願いを一つだけ叶えてくれる。
ただし城へ滞在できるのは朝の9時から17時までで、誰かがルールを破ると、同じ日に城にいた全員が連帯責任で本物のオオカミに食われるという。
シチェーションだけ見るとデスゲームものっぽいが、こちらは生きるための異世界。
原恵一監督は前作の「バースデー・ワンダーランド」がキャリアワーストの出来だったので、異世界ファンタジーとは相性が悪いのではと思ったが、本作はあくまでも現実世界がベース。
現実の問題を解消するための装置としての異世界なので、彼のフィルモグラフィの中では「カラフル」に連なる系譜と言っていいだろう。
中三のアキとスバル、中二のマサムネとフウカ、中一のこころとリオンにウレシノ、七人に共通するのは全員が同じ中学に在籍し、それぞれの理由で居場所を失い、学校にも行ってないこと。
このうち、リオンだけが中学の学区は同じだが、ハワイにサッカー留学中で、特に大きな問題を持っていないように見えることがポイント。
文庫版で上下二巻になる文量を、2時間の映画にまとめているので、さすがに七人の事情全てを描き切れてはいない。
物語の軸となるのは、當真あみがVCを務める一年生のこころだ。
彼女はクラスの女王様的な同級生に嫌われたことで孤立し、学校に通えなくなる。
フリースクールに行ってみたものの、前向きにはなれず引きこもる日々を送っていたある日、部屋の姿見が光り輝くゲートとなって、城へとやって来る。
他のメンバーの事情は、なんとなく示唆されるものの、物語の中盤までは不登校の理由が明示されるのはこころだけだ。
内面に見えない葛藤を抱えた中学生たちは、気まぐれに城に集い、ある時は真面目に鍵を探し、ある時はお茶会を楽しみ、ある時は遅れている勉強に取り組む。
彼らにとっての城は、いわば大人のいないフリースクール。
ここに来ることが、それぞれの問題を解決するためのセラピーのようなものなのだ。
とは言っても説教臭くはなく、異世界での出会いを通して、少年少女たちの葛藤が自然に顕在化してくる仕組み。
実際、アニメーションというフォーマットで、ここまでリアルに不登校の問題に向き合った作品をはじめて観た。
出会った当初は、こころを含めて皆心の内を隠している。
しかしやがて、なんとなく察するようになり、徐々に心を開いてゆくのだ。
不登校なんて、何がきっかけになるか分からない。
教師や親に相談できない時、同じ境遇の誰かと話すことができて「私だけじゃなかったんだ」と思えれば、どんなに気が楽だろう。
たぶん、実際に問題を抱えている同世代の子供たちは、この映画を観て七人の仲間となったような安堵感を覚えるのではないか。
こころたちにとって、城は成長し共感力を培ってゆくステージだが、映画の観客にとっても同じ意味を持つのである。
これこそが、物語の持つ力。
そして、一年のタイムリミットが終わる時、全ての秘密が明かされるクライマックスは圧巻。
実は召喚された七人には、ある秘密がある。
これは小説であればサプライズになるところだが、映像テリングでは隠し通すことが難しく、割とすぐに分かってしまう。
まあこれは、表現の特質状致し方ないだろう。
それぞれの今が抱え込んでいる負の感情を、一気に未来を生きるエネルギーに変換する手際はさすがである。
そもそもオオカミ様がなぜこんなことを出来るのかとか、なぜこの七人でなければならないのかとか、世界観の仕組みの部分には疑問が残るが、ぶっちゃけその辺は割とどうでもいい。
原恵一らしい、しっかり地に足が着いたファンタジー。
これは同じ境遇にある子供たちはもちろん、大人が観ても元気をもらえる。
そして、キーパーソンとなるオオカミ様を演じた芦田愛菜は、やっぱり上手いなあ。
今回は城つながりで「オールド・キャッスル」をチョイス。
スコッチ・ウイスキー20ml、ジンジャーワイン20ml、メロン・リキュール10ml、ライム・ジュース10mlをシェイクし、グラスに注ぐ。
最後にライムを一片飾って完成。
ジンジャーワインの独特の風味が、ほどよく甘く複雑な味わいを作り上げている。 1987年に、秋田治郎氏がコンテストのために考案した、日本生まれのカクテルだ。
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「ハケンアニメ!」の辻村深月による本屋大賞受賞のミリオンセラー小説を、原恵一監督がアニメーション映画化した作品。
オオカミ様と名乗る謎めいた少女によって、鏡の向こうにある異世界の孤城に召喚された七人の中学生の物語だ。
彼らが一年のうちに、城のどこかに隠された願いの鍵を見つけ出せば、オオカミ様が願いを一つだけ叶えてくれる。
ただし城へ滞在できるのは朝の9時から17時までで、誰かがルールを破ると、同じ日に城にいた全員が連帯責任で本物のオオカミに食われるという。
シチェーションだけ見るとデスゲームものっぽいが、こちらは生きるための異世界。
原恵一監督は前作の「バースデー・ワンダーランド」がキャリアワーストの出来だったので、異世界ファンタジーとは相性が悪いのではと思ったが、本作はあくまでも現実世界がベース。
現実の問題を解消するための装置としての異世界なので、彼のフィルモグラフィの中では「カラフル」に連なる系譜と言っていいだろう。
中三のアキとスバル、中二のマサムネとフウカ、中一のこころとリオンにウレシノ、七人に共通するのは全員が同じ中学に在籍し、それぞれの理由で居場所を失い、学校にも行ってないこと。
このうち、リオンだけが中学の学区は同じだが、ハワイにサッカー留学中で、特に大きな問題を持っていないように見えることがポイント。
文庫版で上下二巻になる文量を、2時間の映画にまとめているので、さすがに七人の事情全てを描き切れてはいない。
物語の軸となるのは、當真あみがVCを務める一年生のこころだ。
彼女はクラスの女王様的な同級生に嫌われたことで孤立し、学校に通えなくなる。
フリースクールに行ってみたものの、前向きにはなれず引きこもる日々を送っていたある日、部屋の姿見が光り輝くゲートとなって、城へとやって来る。
他のメンバーの事情は、なんとなく示唆されるものの、物語の中盤までは不登校の理由が明示されるのはこころだけだ。
内面に見えない葛藤を抱えた中学生たちは、気まぐれに城に集い、ある時は真面目に鍵を探し、ある時はお茶会を楽しみ、ある時は遅れている勉強に取り組む。
彼らにとっての城は、いわば大人のいないフリースクール。
ここに来ることが、それぞれの問題を解決するためのセラピーのようなものなのだ。
とは言っても説教臭くはなく、異世界での出会いを通して、少年少女たちの葛藤が自然に顕在化してくる仕組み。
実際、アニメーションというフォーマットで、ここまでリアルに不登校の問題に向き合った作品をはじめて観た。
出会った当初は、こころを含めて皆心の内を隠している。
しかしやがて、なんとなく察するようになり、徐々に心を開いてゆくのだ。
不登校なんて、何がきっかけになるか分からない。
教師や親に相談できない時、同じ境遇の誰かと話すことができて「私だけじゃなかったんだ」と思えれば、どんなに気が楽だろう。
たぶん、実際に問題を抱えている同世代の子供たちは、この映画を観て七人の仲間となったような安堵感を覚えるのではないか。
こころたちにとって、城は成長し共感力を培ってゆくステージだが、映画の観客にとっても同じ意味を持つのである。
これこそが、物語の持つ力。
そして、一年のタイムリミットが終わる時、全ての秘密が明かされるクライマックスは圧巻。
実は召喚された七人には、ある秘密がある。
これは小説であればサプライズになるところだが、映像テリングでは隠し通すことが難しく、割とすぐに分かってしまう。
まあこれは、表現の特質状致し方ないだろう。
それぞれの今が抱え込んでいる負の感情を、一気に未来を生きるエネルギーに変換する手際はさすがである。
そもそもオオカミ様がなぜこんなことを出来るのかとか、なぜこの七人でなければならないのかとか、世界観の仕組みの部分には疑問が残るが、ぶっちゃけその辺は割とどうでもいい。
原恵一らしい、しっかり地に足が着いたファンタジー。
これは同じ境遇にある子供たちはもちろん、大人が観ても元気をもらえる。
そして、キーパーソンとなるオオカミ様を演じた芦田愛菜は、やっぱり上手いなあ。
今回は城つながりで「オールド・キャッスル」をチョイス。
スコッチ・ウイスキー20ml、ジンジャーワイン20ml、メロン・リキュール10ml、ライム・ジュース10mlをシェイクし、グラスに注ぐ。
最後にライムを一片飾って完成。
ジンジャーワインの独特の風味が、ほどよく甘く複雑な味わいを作り上げている。 1987年に、秋田治郎氏がコンテストのために考案した、日本生まれのカクテルだ。

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2022年12月22日 (木) | 編集 |
パンドラの冒険、再び。
映画史上最大のヒット作となった「アバター」からはや13年。
ジェームズ・キャメロンが満を持して作り上げた「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」では、肉体的にも衛星パンドラの先住民族ナヴィの一員となった、元海兵隊員ジェイク・サリーのその後の人生が描かれる。
現実世界と同じく、物語の中でも10年以上が経過し、オマティカヤ族の族長となったジェイクはネイティリと結ばれ、四人の子の父親に。
しかし、前作で敗北を喫した地球人類“スカイ・ピープル“が性懲りも無くパンドラに再度侵攻、ナヴィとの戦争がはじまる。
監督・脚本はもちろんジェームズ・キャメロン。
今回はほぼアバター姿のみだが、サム・ワーシントンがジェイクを演じ、ネイティリ役のゾーイ・サルダナ、新たな体を得たクオリッチ大佐役のスティーヴン・ラングらも続投。
前作で死亡したグレース博士役のシガニー・ウィーバーも、彼女のアバターが“処女懐妊”して生まれた娘、キリ役で再登板している。
※核心部分に触れています。
アルファ・ケンタウリ星系に位置する、惑星ポリフェマスの衛星パンドラ。
元海兵隊員のジェイク・サリー(サム・ワーシントン)は、この星の先住民ナヴィの肉体を得て、オマティカヤ族のネイティリ(ゾーイ・サルダナ)と結ばれる。
二人の間には、ネテヤム(ジェイミー・フラッターズ)とロアク(ブリテン・ダルトン)という二人の息子、娘のトゥク(トリニティ・ジョリー・ブロス)、そしてグレース博士のアバターが生んだ養女のキリ(シガニー・ウィーバー)という四人の子がいる。
しかし10数年後、“スカイ・ピープル“が再びパンドラにやってきて、森を守るオマティカヤ族との戦争がはじまる。
その頃、ジェイクによって殺されたクオリッチ大佐(スティーヴン・ラング)の記憶と、ナヴィの肉体を持つアバターが覚醒し、ジェイクへの復讐心に燃える。
クオリッチの目的が自分とその家族だと確信したジェイクは、オマティカヤ族に類が及ばないように族長の座から身をひき、家族六人で流浪の旅に出る。
やがて一家は、海のナヴィであるメトカイナ族の村に身を寄せるのだが、そこにも執拗にジェイクを追うクオリッチの魔の手が迫っていた・・・・
13年前の「アバター」第一作は、デジタル映像技術の分水嶺となった作品で、まさに映像革命と言える映画史のエポックだった。
細部まで作り込まれたパンドラの世界は、実際にその星に行ってロケして来たかのごとくで、飛び出しではなく奥行きと広がりを重視した3D設計も、その後の立体映像制作のお手本となった。
その実在感の凄さは、当時のブログで「一番お手軽な宇宙旅行」と書いたくらいだ。
今回、その映像はどこまで進化しているのか。
最初はIMAXレーザー・HFR・3D版で鑑賞し、その後通常スクリーンの2D版を観た。
通常の映画のフレームレートは一秒間に24フレームだが、それを倍の48フレームで上映するHFRは、10年前に「ホビット 思いがけない冒険」で初めて体験したのだが、その時の印象は正直微妙だった。
一気に情報量が倍になるHFRの映像は、極めてクリアで臨場感たっぷりではあるものの、逆に明る過ぎ、見え過ぎで、妙に安っぽく感じてしまったのだ。
ところが、本作を鑑賞して驚いた。
ひと目見て、「ホビット」では顕著だった違和感が低減しており、情報量がそのままより滑らかで、奥深い映像の質に繋がっている。
若干悪目立ちする部分も残るものの、やはり技術というのは着実に進化するのだなと実感。
この様に高度になった映像技術を使って、たぶんキャメロンは映像版の「中つ国」を作ろうとしているのだと思う。
J・R・R・トールキンが「ホビット」で創造した中つ国は、その後「指輪物語」をはじめ、彼の多くの小説の舞台となり、世界観やキャラクターは小説、映画、ゲームなど膨大なフォロワーによって一つのフォーマットとして生かされ続けている。
本作のパンドラ、もしかすると今後の続編では周りの惑星まで含めて、生命が連環する一つの宇宙を作り上げる。
そして、他のクリエイターによって、その世界観が受け継がれて、創作の連鎖が広がってゆく。
おそらく、これこそがキャメロンの最終目標なのだろう。
もっとも、たとえ2Dの通常スクリーンで鑑賞したとしても、面白さがスポイルされることはないのはさすが。
世界観が先行する作品ゆえに、物語は逆に定番通りだ。
前作はアメリカ史の400年に及ぶインディアン戦争を、宇宙に置き換えたものだったが、本作も基本構造を踏襲。
映画のファースト10(シナリオの最初の10ページ)は、ジェイクの家族紹介を兼ねるプロローグとなっており、きっちり10分。
その後の第一幕では、ナヴィのゲリラ活動の掃討を狙うスカイ・ピープルが、クオリッチ大佐をアバターの肉体で再生させ、彼の部隊に追われたジェイク一家が森から海へと逃げ延びる。
そう、今度は密林のナヴィの世界から、ポリネシアの民族を思わせる海のナヴィの世界に、戦いの舞台が広がってゆくのである。
森のナヴィは青い人々だったが、海のナヴィは緑に近い体色で、水中で活動しやすいように手の幅がオールの様に広く、尻尾も鰭状に進化している。
新たな舞台を得た第二幕では、ジェイクの家族が海の生活に順応する描写と、クオリッチがナヴィの肉体に順応する様子が交互に描かれる。
ナヴィと共に育ったクオリッチの息子、スパイダーの存在が変数となり、ジェイクとクオリッチという二人の父親を鏡像として描く意図は明らかだ。
本作ではもう一つ、トゥルクンと呼ばれる鯨に似た巨大な海洋生物の存在がキーとなる。
トゥルクンは人類やナヴィ以上の知的な生物で、海のナヴィとは魂の絆を結んでいる。
ところがトゥルクンの脳から取れる分泌液に非常に高値が付くことから、前作の希少鉱石アンオブタニウムと同様に、スカイ・ピープルのパンドラ侵略の一因となるのだ。
クオリッチ率いる捕鯨船(?)のトゥルクン狩りからはじまる、後半の長大なバトルシークエンスは、明らかに反捕鯨のメッセージ性を帯びている。
キャメロンは海洋冒険家でもあり、2012年には一人乗りの潜水艇ディープシーチャレンジャーを操縦し、マリアナ海溝のチャレンジャー海淵に挑み、人類として二度目の到達者となった。
熱心な環境問題の活動家として知られており、人類の傲慢さを表現する象徴として捕鯨をモチーフにするのは理解できるが、日本人としてはちょっと居心地が悪い。
全長が90メートルにもなるトゥルクンを巻き込んだ、海のナヴィvsスカイ・ピープルの大バトルは圧巻の迫力だけど。
ジェイクとクオリッチの鏡像化が物語の横軸だとすれば、ジェイクとネイティリの親としての葛藤が縦軸となっており、子供たちとの関係が物語の推進力となっている。
まあ親の言いつけを子供が守らないで、危機に陥るという展開を何度も使い過ぎでは?と思わなくもないが、結果的に二人の息子、特に優秀な兄のネテヤムと比べられてコンプレックスを抱えている弟のロアクの心象に重きが置かれ、途中でジェイクと主人公が入れ替わりそうになる。
ナウシカ的な特殊能力を持つ謎多き少女、キリが次回作で最重要キャラクターになるもの確実だろうし、物語の中で徐々に世代交代が起こりそうだ。
とは言え、今回はまだ親世代が主役。
ネテヤムを殺され、復讐の鬼となるネイティリが強過ぎて、一人でアバター海兵隊全員を殺す勢いで、ジェイクも形なし。
クライマックスは「タイタニック」を思わせる沈みゆく捕鯨船からの脱出劇と、まさにジェームズ・キャメロン全部入りの豪華フルコースだ。
怒涛の展開の中で、ジェイクとネイティリがそれぞれロアクとキリに助けられ、親が成長した子供たちを信頼することを学ぶというあたりまで、全く奇を衒った部分がない正攻法の仕上がりである。
端的に言って、インパクトという点では、本作は前作を超えていないと思う。
続編を前提としたブリッジ的な作りになっており、本作だけでは解決してない要素も多い。
だが異世界を体感する冒険譚としては十分にワクワクして楽しめるし、何よりも192分という前作を大幅に上回る超長尺を飽きさせないのは、それだけで凄いことだ。
キャメロンは、シリーズが五部作になり、既に四作目まで撮影が終わっていることを明かしている。
最初この構想を聞いた時は、ちょっと大風呂敷を広げすぎでは?と思ったが、日本では絶好調の「THE FIRST SLAM DUNK」と「すずめの戸締まり」の後塵を拝したものの、世界的な興行結果を観ると、とりあえず一安心。
今度は13年も待つ必要はなく、次回作は2年後の2024年には公開されるというので、楽しみに待ちたい。
子供たちも育ってきたし、次あたりでジェイクの物語は終わりのような気がするが、果たして?
しかし、さすがに3時間超えの作品には、インターミッションを設けてほしいよ。
私は、消化に水分を多く必要とする炭水化物を直前に食べて、準備万端だったので大丈夫だったが、今回トイレに立つ人が非常に多かったもの。
今回は水の星パンドラのイメージで、「ブルーラグーン」をチョイス。
ウォッカ30ml、ブルーキュラソー10ml、レモンジュース20mlをシェイクし、氷を入れたグラスに注ぐ。
カットしたオレンジ、レモン、それにチェリーを飾って完成。
1960年に、パリのハリーズ・ニューヨーク・バーの2代目オーナー・バーテンダー、アンディ・マッケホルンによって考案された。
海外ではレモネードを使うのが一般的で、ジンを使ったバリエーションもある。
文字通りに海のリゾートを思わせる、目にも涼しげな美しいカクテルだ。
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映画史上最大のヒット作となった「アバター」からはや13年。
ジェームズ・キャメロンが満を持して作り上げた「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」では、肉体的にも衛星パンドラの先住民族ナヴィの一員となった、元海兵隊員ジェイク・サリーのその後の人生が描かれる。
現実世界と同じく、物語の中でも10年以上が経過し、オマティカヤ族の族長となったジェイクはネイティリと結ばれ、四人の子の父親に。
しかし、前作で敗北を喫した地球人類“スカイ・ピープル“が性懲りも無くパンドラに再度侵攻、ナヴィとの戦争がはじまる。
監督・脚本はもちろんジェームズ・キャメロン。
今回はほぼアバター姿のみだが、サム・ワーシントンがジェイクを演じ、ネイティリ役のゾーイ・サルダナ、新たな体を得たクオリッチ大佐役のスティーヴン・ラングらも続投。
前作で死亡したグレース博士役のシガニー・ウィーバーも、彼女のアバターが“処女懐妊”して生まれた娘、キリ役で再登板している。
※核心部分に触れています。
アルファ・ケンタウリ星系に位置する、惑星ポリフェマスの衛星パンドラ。
元海兵隊員のジェイク・サリー(サム・ワーシントン)は、この星の先住民ナヴィの肉体を得て、オマティカヤ族のネイティリ(ゾーイ・サルダナ)と結ばれる。
二人の間には、ネテヤム(ジェイミー・フラッターズ)とロアク(ブリテン・ダルトン)という二人の息子、娘のトゥク(トリニティ・ジョリー・ブロス)、そしてグレース博士のアバターが生んだ養女のキリ(シガニー・ウィーバー)という四人の子がいる。
しかし10数年後、“スカイ・ピープル“が再びパンドラにやってきて、森を守るオマティカヤ族との戦争がはじまる。
その頃、ジェイクによって殺されたクオリッチ大佐(スティーヴン・ラング)の記憶と、ナヴィの肉体を持つアバターが覚醒し、ジェイクへの復讐心に燃える。
クオリッチの目的が自分とその家族だと確信したジェイクは、オマティカヤ族に類が及ばないように族長の座から身をひき、家族六人で流浪の旅に出る。
やがて一家は、海のナヴィであるメトカイナ族の村に身を寄せるのだが、そこにも執拗にジェイクを追うクオリッチの魔の手が迫っていた・・・・
13年前の「アバター」第一作は、デジタル映像技術の分水嶺となった作品で、まさに映像革命と言える映画史のエポックだった。
細部まで作り込まれたパンドラの世界は、実際にその星に行ってロケして来たかのごとくで、飛び出しではなく奥行きと広がりを重視した3D設計も、その後の立体映像制作のお手本となった。
その実在感の凄さは、当時のブログで「一番お手軽な宇宙旅行」と書いたくらいだ。
今回、その映像はどこまで進化しているのか。
最初はIMAXレーザー・HFR・3D版で鑑賞し、その後通常スクリーンの2D版を観た。
通常の映画のフレームレートは一秒間に24フレームだが、それを倍の48フレームで上映するHFRは、10年前に「ホビット 思いがけない冒険」で初めて体験したのだが、その時の印象は正直微妙だった。
一気に情報量が倍になるHFRの映像は、極めてクリアで臨場感たっぷりではあるものの、逆に明る過ぎ、見え過ぎで、妙に安っぽく感じてしまったのだ。
ところが、本作を鑑賞して驚いた。
ひと目見て、「ホビット」では顕著だった違和感が低減しており、情報量がそのままより滑らかで、奥深い映像の質に繋がっている。
若干悪目立ちする部分も残るものの、やはり技術というのは着実に進化するのだなと実感。
この様に高度になった映像技術を使って、たぶんキャメロンは映像版の「中つ国」を作ろうとしているのだと思う。
J・R・R・トールキンが「ホビット」で創造した中つ国は、その後「指輪物語」をはじめ、彼の多くの小説の舞台となり、世界観やキャラクターは小説、映画、ゲームなど膨大なフォロワーによって一つのフォーマットとして生かされ続けている。
本作のパンドラ、もしかすると今後の続編では周りの惑星まで含めて、生命が連環する一つの宇宙を作り上げる。
そして、他のクリエイターによって、その世界観が受け継がれて、創作の連鎖が広がってゆく。
おそらく、これこそがキャメロンの最終目標なのだろう。
もっとも、たとえ2Dの通常スクリーンで鑑賞したとしても、面白さがスポイルされることはないのはさすが。
世界観が先行する作品ゆえに、物語は逆に定番通りだ。
前作はアメリカ史の400年に及ぶインディアン戦争を、宇宙に置き換えたものだったが、本作も基本構造を踏襲。
映画のファースト10(シナリオの最初の10ページ)は、ジェイクの家族紹介を兼ねるプロローグとなっており、きっちり10分。
その後の第一幕では、ナヴィのゲリラ活動の掃討を狙うスカイ・ピープルが、クオリッチ大佐をアバターの肉体で再生させ、彼の部隊に追われたジェイク一家が森から海へと逃げ延びる。
そう、今度は密林のナヴィの世界から、ポリネシアの民族を思わせる海のナヴィの世界に、戦いの舞台が広がってゆくのである。
森のナヴィは青い人々だったが、海のナヴィは緑に近い体色で、水中で活動しやすいように手の幅がオールの様に広く、尻尾も鰭状に進化している。
新たな舞台を得た第二幕では、ジェイクの家族が海の生活に順応する描写と、クオリッチがナヴィの肉体に順応する様子が交互に描かれる。
ナヴィと共に育ったクオリッチの息子、スパイダーの存在が変数となり、ジェイクとクオリッチという二人の父親を鏡像として描く意図は明らかだ。
本作ではもう一つ、トゥルクンと呼ばれる鯨に似た巨大な海洋生物の存在がキーとなる。
トゥルクンは人類やナヴィ以上の知的な生物で、海のナヴィとは魂の絆を結んでいる。
ところがトゥルクンの脳から取れる分泌液に非常に高値が付くことから、前作の希少鉱石アンオブタニウムと同様に、スカイ・ピープルのパンドラ侵略の一因となるのだ。
クオリッチ率いる捕鯨船(?)のトゥルクン狩りからはじまる、後半の長大なバトルシークエンスは、明らかに反捕鯨のメッセージ性を帯びている。
キャメロンは海洋冒険家でもあり、2012年には一人乗りの潜水艇ディープシーチャレンジャーを操縦し、マリアナ海溝のチャレンジャー海淵に挑み、人類として二度目の到達者となった。
熱心な環境問題の活動家として知られており、人類の傲慢さを表現する象徴として捕鯨をモチーフにするのは理解できるが、日本人としてはちょっと居心地が悪い。
全長が90メートルにもなるトゥルクンを巻き込んだ、海のナヴィvsスカイ・ピープルの大バトルは圧巻の迫力だけど。
ジェイクとクオリッチの鏡像化が物語の横軸だとすれば、ジェイクとネイティリの親としての葛藤が縦軸となっており、子供たちとの関係が物語の推進力となっている。
まあ親の言いつけを子供が守らないで、危機に陥るという展開を何度も使い過ぎでは?と思わなくもないが、結果的に二人の息子、特に優秀な兄のネテヤムと比べられてコンプレックスを抱えている弟のロアクの心象に重きが置かれ、途中でジェイクと主人公が入れ替わりそうになる。
ナウシカ的な特殊能力を持つ謎多き少女、キリが次回作で最重要キャラクターになるもの確実だろうし、物語の中で徐々に世代交代が起こりそうだ。
とは言え、今回はまだ親世代が主役。
ネテヤムを殺され、復讐の鬼となるネイティリが強過ぎて、一人でアバター海兵隊全員を殺す勢いで、ジェイクも形なし。
クライマックスは「タイタニック」を思わせる沈みゆく捕鯨船からの脱出劇と、まさにジェームズ・キャメロン全部入りの豪華フルコースだ。
怒涛の展開の中で、ジェイクとネイティリがそれぞれロアクとキリに助けられ、親が成長した子供たちを信頼することを学ぶというあたりまで、全く奇を衒った部分がない正攻法の仕上がりである。
端的に言って、インパクトという点では、本作は前作を超えていないと思う。
続編を前提としたブリッジ的な作りになっており、本作だけでは解決してない要素も多い。
だが異世界を体感する冒険譚としては十分にワクワクして楽しめるし、何よりも192分という前作を大幅に上回る超長尺を飽きさせないのは、それだけで凄いことだ。
キャメロンは、シリーズが五部作になり、既に四作目まで撮影が終わっていることを明かしている。
最初この構想を聞いた時は、ちょっと大風呂敷を広げすぎでは?と思ったが、日本では絶好調の「THE FIRST SLAM DUNK」と「すずめの戸締まり」の後塵を拝したものの、世界的な興行結果を観ると、とりあえず一安心。
今度は13年も待つ必要はなく、次回作は2年後の2024年には公開されるというので、楽しみに待ちたい。
子供たちも育ってきたし、次あたりでジェイクの物語は終わりのような気がするが、果たして?
しかし、さすがに3時間超えの作品には、インターミッションを設けてほしいよ。
私は、消化に水分を多く必要とする炭水化物を直前に食べて、準備万端だったので大丈夫だったが、今回トイレに立つ人が非常に多かったもの。
今回は水の星パンドラのイメージで、「ブルーラグーン」をチョイス。
ウォッカ30ml、ブルーキュラソー10ml、レモンジュース20mlをシェイクし、氷を入れたグラスに注ぐ。
カットしたオレンジ、レモン、それにチェリーを飾って完成。
1960年に、パリのハリーズ・ニューヨーク・バーの2代目オーナー・バーテンダー、アンディ・マッケホルンによって考案された。
海外ではレモネードを使うのが一般的で、ジンを使ったバリエーションもある。
文字通りに海のリゾートを思わせる、目にも涼しげな美しいカクテルだ。

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2022年12月17日 (土) | 編集 |
闘うのはこわい、けど諦めたくない。
今年各方面に爪痕を残しまくった、岸井ゆきのの決定版。
間違いなくキャリアベストだ。
彼女が演じるのは、生まれつき耳の聞こえないプロボクサー、ケイコ。
実在の元プロボクサー、小笠原恵子の自伝「負けないで!」を原案に、「きみの鳥はうたえる」やNetflix版「呪怨:呪いの家」の三宅唱が、監督・脚本を兼務して映画化した作品。
16ミリフィルムの荒い画面に、劇伴を排した音響設計など、独創的なスタイルで作られた異色のボクシング映画だ。
いや、正確に言えばボクシングをモチーフにボクサーを描いた映画で、試合のシーンはあるが、分かりやすいカタルシスなどは無縁。
そこで見せる映画ではないのだ。
聴覚障害は、ボクサーにとっては大きなハンデとなる。
セコンドの指示もゴングの音も聞こえないので、注意してないとラウンドが終わったことも分からない。
ケイコは最初に所属したジムでは、障害を理由に試合に出してもらえず、三浦友和が会長を務める現在のジムに移籍してきた。
本作は実録ものではないが、モデルとなった小笠原恵子も同様の体験をしたそうだ。
かわりにケイコは目がいい。
耳ではなく、目を澄ますことで彼女には多くのものが見えてくる。
プロテストに合格し、一試合目はすでに勝利済み。
二試合目に勝った後、会長に「一度、お休みしたいです」と書いたメモを渡せないまま、ジムが閉鎖されることになってしまう。
耳の障害がなかったとしても、ケイコは非常に寡黙な人で、ほとんど感情を表に出さない。
三宅唱の演出も説明要素を極力排除して、半分ドキュメンタリーのように展開するので、彼女の本心は想像するしかない。
ボクサーはルーティンを大切にするというが、彼女の毎日もほぼ判で押したように同じだ。
ロードワークをこなしたらホテルの清掃係として勤務し、終わったらジムで練習。
ダンスのようなフットワーク、トレーナーとのリズミカルなミット打ち、打撃の重さを感じさせるサンドバッグ。
ずっと仏頂面だが目つきはファイターの眼力、実際にケイコに夜道で会ったらビビるかもしれない。
三試合目をやるのか迷っている時、聾学校の同級生(?)らしい三人の女子会のシーンがある。
珍しくケイコが笑顔を見せるのだが、三人の手話のやりとりに字幕はつかない。
たぶん、手相の話をしていた?と思って後から脚本を読んでみると、なるほど「手相の性格が柔かくなってる」と友人に指摘されていた。
このシーンの前に、ケイコと同居している健常者の弟との会話で、姉の心を押し測ろうとする弟に「勝手に人の心を読まなで」と彼女は告げる。
聴覚障害という属性からケイコを理解しようとするスタンスを、本作は観客に疎外感を抱かせたとしても徹底的に拒否するのだ。
かわりに三宅唱は、岸井ゆきのが繊細に表現するケイコの表情や、日常の中でのさりげない所作の変化を掬い取ってゆく。
ケイコにとってボクシングとはなんなのか、辞めたいのか辞めたくないのか。
これも彼女のルーティンなのだが、日々の練習内容をずっとノートにつけている。
1日に何キロ走ったのか、何ラウンドシャドウをしたのか、ミットを打ったのか、ロープをしたのか、そしてその日の心境。
ジムの会長が倒れ、その妻の仙道敦子がケイコのノートを読むシークエンスが本作の精神的なクライマックスで、ここで一気にキャラクターが広がってゆくのが、ストーリーテリングのカタルシス。
劇伴の存在しない本作は、同時に音の映画でもあり、ジムに響く様々な音、縄跳びの音、ミットの音、ベンチプレスの音、その他様々な日常音が、丁寧につけられている。
これらの音は当然ケイコには聞こえないのだが、彼女の心の中にはいろいろな雑音が入り乱れ、葛藤していることを間接的にあらわしていて秀逸。
手痛い敗北を喫した後の、ある偶然の出会いの後にケイコが見せるラストシーンの表情は、言葉ではなんとも形容し難いもので、ベストアクトでありベストショットだ。
縄跳びの音が、彼女が選んだ明日を示唆するエンディングまで、どこまでもシンプルに、しかしディープにケイコというキャラクターを描き切った傑作だ。
下町が舞台となる本作には、下町の酒「ホッピー割り」をチョイス。
1948年にビールの代用品として発売されたホッピーは、東京を中心に関東圏で広まった。
ホッピービバレッジは、ビアジョッキと甲種焼酎、ホッピーをキンキンに冷やし、ジョッキに焼酎1に対してホッピーを5の割合で注ぎいれる“三冷”を公式に推奨している。
実は低糖質でプリン体がゼロなので、減量中でも飲めるかも?
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今年各方面に爪痕を残しまくった、岸井ゆきのの決定版。
間違いなくキャリアベストだ。
彼女が演じるのは、生まれつき耳の聞こえないプロボクサー、ケイコ。
実在の元プロボクサー、小笠原恵子の自伝「負けないで!」を原案に、「きみの鳥はうたえる」やNetflix版「呪怨:呪いの家」の三宅唱が、監督・脚本を兼務して映画化した作品。
16ミリフィルムの荒い画面に、劇伴を排した音響設計など、独創的なスタイルで作られた異色のボクシング映画だ。
いや、正確に言えばボクシングをモチーフにボクサーを描いた映画で、試合のシーンはあるが、分かりやすいカタルシスなどは無縁。
そこで見せる映画ではないのだ。
聴覚障害は、ボクサーにとっては大きなハンデとなる。
セコンドの指示もゴングの音も聞こえないので、注意してないとラウンドが終わったことも分からない。
ケイコは最初に所属したジムでは、障害を理由に試合に出してもらえず、三浦友和が会長を務める現在のジムに移籍してきた。
本作は実録ものではないが、モデルとなった小笠原恵子も同様の体験をしたそうだ。
かわりにケイコは目がいい。
耳ではなく、目を澄ますことで彼女には多くのものが見えてくる。
プロテストに合格し、一試合目はすでに勝利済み。
二試合目に勝った後、会長に「一度、お休みしたいです」と書いたメモを渡せないまま、ジムが閉鎖されることになってしまう。
耳の障害がなかったとしても、ケイコは非常に寡黙な人で、ほとんど感情を表に出さない。
三宅唱の演出も説明要素を極力排除して、半分ドキュメンタリーのように展開するので、彼女の本心は想像するしかない。
ボクサーはルーティンを大切にするというが、彼女の毎日もほぼ判で押したように同じだ。
ロードワークをこなしたらホテルの清掃係として勤務し、終わったらジムで練習。
ダンスのようなフットワーク、トレーナーとのリズミカルなミット打ち、打撃の重さを感じさせるサンドバッグ。
ずっと仏頂面だが目つきはファイターの眼力、実際にケイコに夜道で会ったらビビるかもしれない。
三試合目をやるのか迷っている時、聾学校の同級生(?)らしい三人の女子会のシーンがある。
珍しくケイコが笑顔を見せるのだが、三人の手話のやりとりに字幕はつかない。
たぶん、手相の話をしていた?と思って後から脚本を読んでみると、なるほど「手相の性格が柔かくなってる」と友人に指摘されていた。
このシーンの前に、ケイコと同居している健常者の弟との会話で、姉の心を押し測ろうとする弟に「勝手に人の心を読まなで」と彼女は告げる。
聴覚障害という属性からケイコを理解しようとするスタンスを、本作は観客に疎外感を抱かせたとしても徹底的に拒否するのだ。
かわりに三宅唱は、岸井ゆきのが繊細に表現するケイコの表情や、日常の中でのさりげない所作の変化を掬い取ってゆく。
ケイコにとってボクシングとはなんなのか、辞めたいのか辞めたくないのか。
これも彼女のルーティンなのだが、日々の練習内容をずっとノートにつけている。
1日に何キロ走ったのか、何ラウンドシャドウをしたのか、ミットを打ったのか、ロープをしたのか、そしてその日の心境。
ジムの会長が倒れ、その妻の仙道敦子がケイコのノートを読むシークエンスが本作の精神的なクライマックスで、ここで一気にキャラクターが広がってゆくのが、ストーリーテリングのカタルシス。
劇伴の存在しない本作は、同時に音の映画でもあり、ジムに響く様々な音、縄跳びの音、ミットの音、ベンチプレスの音、その他様々な日常音が、丁寧につけられている。
これらの音は当然ケイコには聞こえないのだが、彼女の心の中にはいろいろな雑音が入り乱れ、葛藤していることを間接的にあらわしていて秀逸。
手痛い敗北を喫した後の、ある偶然の出会いの後にケイコが見せるラストシーンの表情は、言葉ではなんとも形容し難いもので、ベストアクトでありベストショットだ。
縄跳びの音が、彼女が選んだ明日を示唆するエンディングまで、どこまでもシンプルに、しかしディープにケイコというキャラクターを描き切った傑作だ。
下町が舞台となる本作には、下町の酒「ホッピー割り」をチョイス。
1948年にビールの代用品として発売されたホッピーは、東京を中心に関東圏で広まった。
ホッピービバレッジは、ビアジョッキと甲種焼酎、ホッピーをキンキンに冷やし、ジョッキに焼酎1に対してホッピーを5の割合で注ぎいれる“三冷”を公式に推奨している。
実は低糖質でプリン体がゼロなので、減量中でも飲めるかも?

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2022年12月14日 (水) | 編集 |
女性だけに起こる「事件」
本年度のノーベル文学賞を受賞したフランスの作家、アニー・エルノーが自らの体験を綴った小説「L'evenement(事件)」を、ジャーナリストで「フレンチ・コネクション 史上最強の麻薬戦争」などの脚本家でもある、オドレイ・ディワンがメガホンをとって映画化した作品。
第78回ヴェネチア国際映画祭で、最高賞となる金獅子賞を受賞した話題作は、中絶が犯罪とされていた1963年のフランスを舞台に、予期せぬ妊娠に戸惑う女子学生アンヌの、12週間に及ぶ闘いの物語だ。
主人公のアンヌは、アングレーム大学で文学を学ぶ優秀な学生。
愛情深いが学歴がなく、飲食店を経営して懸命に働く両親に育てられた彼女は、教師の資格をとって両親とは別の人生を歩みたいと思っている。
将来を決める試験が迫る頃、彼女は自分が妊娠していることに気付く。
しかしフランスで妊娠中絶が合法化されるのは、1975年にヴェイユ法という中絶のルールを制定した法律が定められた以降のこと。
60年代はまだ違法とされていて、「流産」なら問題無いが「中絶」なら刑務所行き。
誰も助けてくれる者がいない中で、彼女はわざと流産するために、あらゆることを試す。
しかしどれも上手くいかず、少しずつお腹も大きくなってくる。
現在の日本では22週未満(6ヶ月)まで中絶手術を受けることができるが、入院を伴わない手術ができるのは12週までに限られる。
アンヌは迫りくるタイムリミットに焦り、勉強も手につかない。
成績は急降下し、試験を受けられるかどうかも怪しくなってくる。
サブプロットは存在せず、カメラはほぼアンヌの半径2メートル以内に張り付いて離れない。
狭いスタンダードサイズの画面も、閉塞感と焦燥感をより強調する。
本作とビジュアル演出のスタイルが極めて似た作品に、アウシュビッツ絶滅収容所で、ユダヤ人でありながら収容所の労役を担うゾンダーコマンドとして生きる主人公を追った、ネメシュ・ラースロー監督の「サウルの息子」がある。
おそらく本作にも強い影響を与えていると思うが、どちらも演出は徹底的に観客に主人公と自己同一化させようとするので、臨場感が凄まじい。
「サウルの息子」の場合は被写界深度を極端に浅くし、地獄のような背景をぼかしていたが、本作では事件が起こっているのは本人自身。
自分の膣に金属の棒を突っ込んで流産しようとする、相当にイタタな描写もあり、ホラー耐性がないと厳しい作品かも知れない。
結局、思わぬところから救いの手が差し伸べられて、彼女はエンジェルメーカーと呼ばれる裏の業者で中絶処置を受けるのだが、ここでもそう簡単にことは運ばず、彼女は危うく命を落としかけるのだ。
医師を含む男性側の不理解も含め、自分の身に起こったことに「自己決定権が無い」という状況がどれほど恐ろしいことか、実感させられる。
中絶だけでなく、人生の選択肢が今よりも遥かに少なかった時代には、「妊娠」は望まない人にとっては「主婦になる病」でもあったのだ。
先日のアメリカの中間選挙で、中絶禁止が重要な争点となったように、権利というものはいつ覆されるか分からない。
日本にも「堕胎罪」は依然として存在するし、本作でアンヌがやったような医師によらない自己流の中絶は違法。
この問題は、決して過去のものではないのだ。
出ずっぱりで主人公を演じるアナマリア・バルトロメイが素晴らしいのだが、なんと「ヴィオレッタ」で主人公を演じた少女だった。
私、日本での試写の時に本人に会ってるじゃん。
ずいぶん大きくなったが、あれもう11年前の作品なのね。
色んな選択肢がある社会であることが、一番大事。
ビターな映画には、ビターなカクテル「カンパリオレンジ」をチョイス。
氷を入れたタンブラーにカンパリ50mlを注ぎ、オレンジジュースを適量加えてステア、最後にスライスしたオレンジを一片飾って完成。
オレンジの甘味と酸味、カンパリの苦味が絶妙にバランスを形作る、ビター系ロングカクテル。
苦味が苦手な人は、オレンジジュースの比率を増やすと飲みやすくなる。
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本年度のノーベル文学賞を受賞したフランスの作家、アニー・エルノーが自らの体験を綴った小説「L'evenement(事件)」を、ジャーナリストで「フレンチ・コネクション 史上最強の麻薬戦争」などの脚本家でもある、オドレイ・ディワンがメガホンをとって映画化した作品。
第78回ヴェネチア国際映画祭で、最高賞となる金獅子賞を受賞した話題作は、中絶が犯罪とされていた1963年のフランスを舞台に、予期せぬ妊娠に戸惑う女子学生アンヌの、12週間に及ぶ闘いの物語だ。
主人公のアンヌは、アングレーム大学で文学を学ぶ優秀な学生。
愛情深いが学歴がなく、飲食店を経営して懸命に働く両親に育てられた彼女は、教師の資格をとって両親とは別の人生を歩みたいと思っている。
将来を決める試験が迫る頃、彼女は自分が妊娠していることに気付く。
しかしフランスで妊娠中絶が合法化されるのは、1975年にヴェイユ法という中絶のルールを制定した法律が定められた以降のこと。
60年代はまだ違法とされていて、「流産」なら問題無いが「中絶」なら刑務所行き。
誰も助けてくれる者がいない中で、彼女はわざと流産するために、あらゆることを試す。
しかしどれも上手くいかず、少しずつお腹も大きくなってくる。
現在の日本では22週未満(6ヶ月)まで中絶手術を受けることができるが、入院を伴わない手術ができるのは12週までに限られる。
アンヌは迫りくるタイムリミットに焦り、勉強も手につかない。
成績は急降下し、試験を受けられるかどうかも怪しくなってくる。
サブプロットは存在せず、カメラはほぼアンヌの半径2メートル以内に張り付いて離れない。
狭いスタンダードサイズの画面も、閉塞感と焦燥感をより強調する。
本作とビジュアル演出のスタイルが極めて似た作品に、アウシュビッツ絶滅収容所で、ユダヤ人でありながら収容所の労役を担うゾンダーコマンドとして生きる主人公を追った、ネメシュ・ラースロー監督の「サウルの息子」がある。
おそらく本作にも強い影響を与えていると思うが、どちらも演出は徹底的に観客に主人公と自己同一化させようとするので、臨場感が凄まじい。
「サウルの息子」の場合は被写界深度を極端に浅くし、地獄のような背景をぼかしていたが、本作では事件が起こっているのは本人自身。
自分の膣に金属の棒を突っ込んで流産しようとする、相当にイタタな描写もあり、ホラー耐性がないと厳しい作品かも知れない。
結局、思わぬところから救いの手が差し伸べられて、彼女はエンジェルメーカーと呼ばれる裏の業者で中絶処置を受けるのだが、ここでもそう簡単にことは運ばず、彼女は危うく命を落としかけるのだ。
医師を含む男性側の不理解も含め、自分の身に起こったことに「自己決定権が無い」という状況がどれほど恐ろしいことか、実感させられる。
中絶だけでなく、人生の選択肢が今よりも遥かに少なかった時代には、「妊娠」は望まない人にとっては「主婦になる病」でもあったのだ。
先日のアメリカの中間選挙で、中絶禁止が重要な争点となったように、権利というものはいつ覆されるか分からない。
日本にも「堕胎罪」は依然として存在するし、本作でアンヌがやったような医師によらない自己流の中絶は違法。
この問題は、決して過去のものではないのだ。
出ずっぱりで主人公を演じるアナマリア・バルトロメイが素晴らしいのだが、なんと「ヴィオレッタ」で主人公を演じた少女だった。
私、日本での試写の時に本人に会ってるじゃん。
ずいぶん大きくなったが、あれもう11年前の作品なのね。
色んな選択肢がある社会であることが、一番大事。
ビターな映画には、ビターなカクテル「カンパリオレンジ」をチョイス。
氷を入れたタンブラーにカンパリ50mlを注ぎ、オレンジジュースを適量加えてステア、最後にスライスしたオレンジを一片飾って完成。
オレンジの甘味と酸味、カンパリの苦味が絶妙にバランスを形作る、ビター系ロングカクテル。
苦味が苦手な人は、オレンジジュースの比率を増やすと飲みやすくなる。

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2022年12月10日 (土) | 編集 |
これは井上雄彦の「シン SLAM DUNK」だ!
90年代を代表するジャンプ漫画の傑作「SLAM DUNK」を、連載終了後四半世紀を経て原作者の井上雄彦自らが監督・脚本を担当し、新たに「THE FIRST SLAM DUNK」として蘇らせた作品。
公開まで作品内容がほとんど明かされず、さまざま憶測が飛び交っていたが、結果としてはやはりメインとなるのは伝説の山王工業戦。
全編がクライマックスにして全編がドラマチックな独特の作劇で、ラスト30分は本当に魂が震え、鳥肌が立つ。
以前のTV版からはヴォイスキャストも一新され、湘北高校バスケ部の面々は宮城リョータ役に仲村宗悟、桜木花道役に木村昴、三井寿役に笠間淳、流川楓役に神尾晋一郎、赤木剛憲役に三宅健太が起用された。
TV版も手がけた東映アニメーションと、ダンデライオンアニメーションスタジオがハイクオリティの映像制作を担当。
「トップガン マーヴェリック」が、今年のエンタメ映画の西の横綱ならば、こちらは東の横綱と呼ぶべき傑作だ。
※核心部分に触れています。
インターハイ二回戦、桜木花道(木村昴)ら湘北高校バスケ部が対戦するのは、高校バスケ界最強を誇る秋田県代表・山王工業高校。
圧倒的に格上の相手だが、2年のポイントガード、宮城リョータ(仲村宗悟)は特別な感慨を持って試合に挑んでいた。
沖縄で育ったリョータの兄のソータは、ミニバスケットボールの名選手で、いつかインターハイに出て常勝の山王を倒すことが目標だった。
しかしソータはその夢を叶えることなく、海の事故で亡くなってしまう。
リョータは常に優秀だった兄と比べられ、神奈川に引っ越した後は所属チームもなく、バスケから離れたこともあった。
そんな挫折を乗り越えて、ついに兄が立てなかった大舞台に上がったのだ。
試合は湘北の善戦もあり、一進一退の展開が続くが、山王に流れが傾き一気に20点も差をつけられてしまうのだが・・・・
線画で描かれるキャラクターに徐々に色がつき、湘北高校バスケ部のレギュラー五人が次々に現れ横並びになって歩いて来る。
ルックスも個性的でアウトロー然とした彼らを迎え撃つのは、いかにも強そうな王者・山王工業の面々。
このセンス・オブ・ワンダーの塊のようなキャラ紹介で、すでにテンション爆上がり。
しかし、ここから始まる物語は、こちらの予想を軽々と超えて来るのだ。
知ってる話のはずなのに、なんでこんなに未見性があって燃えるのか?
本作の勝因は、主人公を原作の桜木花道から宮城リョータに変更し、試合以外のストーリーを再構築したことだろう。
花道は下心からバスケ部に入り、ど素人のくせに才能を開花させ、たった四ヶ月でインターハイの舞台に立った天才肌。
脳みそが筋肉で出来てるような、典型的なジャンプ漫画の主人公だ。
しかしそれゆえにアクション=試合での存在感は抜群だが、人間ドラマの主人公としては弱い。
自作を知り尽くした井上雄彦は、そんなことは当然承知していただろう。
ここでは花道を試合を盛り上げる面白さ担当の狂言回し的ポジションに置き、物語をリードする主人公は、相対的に地味なキャラクターのリョータとした。
山王戦の熱闘と並行して、リョータがこの試合にたどり着くまでの過去が丁寧に描かれることで、試合そのものにも新しい意味が与えられている。
新たに描かれるのは、沖縄で生まれ育ったリョータとその家族の、喪失と再生の歴史。
リョータは9歳の時に、3歳年上で自分にバスケットボールの面白さを教えてくれた兄のソータを海の事故で失う。
その前に父も亡くなっていたので、リョータは9歳にして、一家でただ一人の男になってしまうのだ。
以降、リョータは常に優秀な選手だった亡き兄と比べられ、肩身の狭い思いをしてきた。
やがて母と妹と本土に引っ越すも、周囲になかなか馴染めず、やっとできた居場所が湘北のバスケ部だったのである。
生前のソータの目標が、いつかインターハイに出て山王を倒すことだったので、リョータはソータの死後8年目にして、兄が立つはずだった舞台にまで這い上がってきたのだ。
そもそも原作に、本作で描かれたようなリョータの過去のエピソードなんてあったっけ?と思ったが、これは原作の連載終了後に掲載された、「ピアス」という読み切り作品の設定を膨らませたものらしい。
残念ながら単行本にはなっていないようだが、リョータのトレードマークであるピアスにまつわる物語と共に、兄を亡くしたエピソードが語られているそうだ。
映画では、ソータの死後、お互いを想うがゆえにわだかまりを抱えていた、リョータと母との関係が重点的に描かれていて、インターハイへの旅立ち前に母に送った手紙の内容が、彼の変化への大きな契機となる。
物語の軸となるのはリョータだが、彼以外の湘北のレギュラー陣、それに対戦相手の山王の主力選手にも、試合でのテーマが与えられ、必要最小限だがそれぞれのキャラクターが抱える問題が描かれている。
そして両校の試合展開に、各人の「問題・葛藤・解決」の三幕の心情変化が効率的に組み込まれており、彼らの「解決」がドラマチックな試合の転機となる仕組み。
リョータと花道以外にも、湘北のレギュラー全員にカッコいい見せ場がある、ニクイ構造になっている。
一部で物議を醸したそうだが、CGで試合を描いたのも正解だと思う。
無音、スローモーションなどのテクニックを駆使したクライマックスは、まさに映像・音響設計のお手本のような仕上がり。
これ全部手描きでやったら、バジェットがとんでもないことになっただろうし、きちっとCGであることを生かした映像になっている。
原作者が映画化まで手がけた作品で、ここまでのインパクトを残したのって、もしかすると「AKIRA」以来ではないだろうか。
以前、ベテランのアニメーション監督と話した時、漫画家が映像化まで手がける時の問題点が、頭の中にあるイメージが止め画なので、絵コンテのカメラワークが現実的でないのと、秒数を正確に出せないことだと聞いた。
彼は何人かの漫画家と組んだことがあるそうだが、ほとんどのケースで絵コンテ作り直しになったそうだ。
しかし本作の場合は、作者の頭の中に秒以下まで計算された完璧な映像があるのが明らかだ。
井上雄彦、まことに恐るべき才能である。
そしてタイトルに「FIRST」が入ってる意味も、終わってみると完璧に理解できる。
公開前はこれが「FIRST」なら、原作に描かれなかった続編があるのか?などと言われていたが、そういう意味ではなかった。
本作は宮城リョータが喪失に向き合い、心の穴を埋めるまでの物語で、さらにその先の一歩「SECOND STEP」を踏み出す物語でもあることが、物語の最後で明らかになるのである。
ラストカットまで、めちゃくちゃカッコいいぞ。
本作は、「友情・努力・勝利」というジャンプ漫画の方程式をきっちり守りながら、その奥にあるディープな人間ドラマを描ききったことで生まれた傑作だ。
2022年を代表する一本になるのは、間違いなかろう。
エンドクレジット後にも映像あり。
ちなみに、原作もTV版も知っていた方が深く楽しめるのは確かだろうが、親切な作りなので全く知らなくても問題は無いと思う。
今回は、本作の舞台のモデルとなった湘南の地ビール、茅ヶ崎の熊沢酒造の「湘南ビール ピルスナー」をチョイス。
定番の下面発酵ビールは、豊かなホップ感と爽やかな香り、モルトの甘みが楽しめる。
喉越し爽快で飲みやすく、バランスの良いビールだ。
こちらの蔵元では、季節商品をはじめユニークなビールをたくさん作っている。
ラベルも個性的で、湘南の海を見ながらラッパ飲みしたくなる。
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90年代を代表するジャンプ漫画の傑作「SLAM DUNK」を、連載終了後四半世紀を経て原作者の井上雄彦自らが監督・脚本を担当し、新たに「THE FIRST SLAM DUNK」として蘇らせた作品。
公開まで作品内容がほとんど明かされず、さまざま憶測が飛び交っていたが、結果としてはやはりメインとなるのは伝説の山王工業戦。
全編がクライマックスにして全編がドラマチックな独特の作劇で、ラスト30分は本当に魂が震え、鳥肌が立つ。
以前のTV版からはヴォイスキャストも一新され、湘北高校バスケ部の面々は宮城リョータ役に仲村宗悟、桜木花道役に木村昴、三井寿役に笠間淳、流川楓役に神尾晋一郎、赤木剛憲役に三宅健太が起用された。
TV版も手がけた東映アニメーションと、ダンデライオンアニメーションスタジオがハイクオリティの映像制作を担当。
「トップガン マーヴェリック」が、今年のエンタメ映画の西の横綱ならば、こちらは東の横綱と呼ぶべき傑作だ。
※核心部分に触れています。
インターハイ二回戦、桜木花道(木村昴)ら湘北高校バスケ部が対戦するのは、高校バスケ界最強を誇る秋田県代表・山王工業高校。
圧倒的に格上の相手だが、2年のポイントガード、宮城リョータ(仲村宗悟)は特別な感慨を持って試合に挑んでいた。
沖縄で育ったリョータの兄のソータは、ミニバスケットボールの名選手で、いつかインターハイに出て常勝の山王を倒すことが目標だった。
しかしソータはその夢を叶えることなく、海の事故で亡くなってしまう。
リョータは常に優秀だった兄と比べられ、神奈川に引っ越した後は所属チームもなく、バスケから離れたこともあった。
そんな挫折を乗り越えて、ついに兄が立てなかった大舞台に上がったのだ。
試合は湘北の善戦もあり、一進一退の展開が続くが、山王に流れが傾き一気に20点も差をつけられてしまうのだが・・・・
線画で描かれるキャラクターに徐々に色がつき、湘北高校バスケ部のレギュラー五人が次々に現れ横並びになって歩いて来る。
ルックスも個性的でアウトロー然とした彼らを迎え撃つのは、いかにも強そうな王者・山王工業の面々。
このセンス・オブ・ワンダーの塊のようなキャラ紹介で、すでにテンション爆上がり。
しかし、ここから始まる物語は、こちらの予想を軽々と超えて来るのだ。
知ってる話のはずなのに、なんでこんなに未見性があって燃えるのか?
本作の勝因は、主人公を原作の桜木花道から宮城リョータに変更し、試合以外のストーリーを再構築したことだろう。
花道は下心からバスケ部に入り、ど素人のくせに才能を開花させ、たった四ヶ月でインターハイの舞台に立った天才肌。
脳みそが筋肉で出来てるような、典型的なジャンプ漫画の主人公だ。
しかしそれゆえにアクション=試合での存在感は抜群だが、人間ドラマの主人公としては弱い。
自作を知り尽くした井上雄彦は、そんなことは当然承知していただろう。
ここでは花道を試合を盛り上げる面白さ担当の狂言回し的ポジションに置き、物語をリードする主人公は、相対的に地味なキャラクターのリョータとした。
山王戦の熱闘と並行して、リョータがこの試合にたどり着くまでの過去が丁寧に描かれることで、試合そのものにも新しい意味が与えられている。
新たに描かれるのは、沖縄で生まれ育ったリョータとその家族の、喪失と再生の歴史。
リョータは9歳の時に、3歳年上で自分にバスケットボールの面白さを教えてくれた兄のソータを海の事故で失う。
その前に父も亡くなっていたので、リョータは9歳にして、一家でただ一人の男になってしまうのだ。
以降、リョータは常に優秀な選手だった亡き兄と比べられ、肩身の狭い思いをしてきた。
やがて母と妹と本土に引っ越すも、周囲になかなか馴染めず、やっとできた居場所が湘北のバスケ部だったのである。
生前のソータの目標が、いつかインターハイに出て山王を倒すことだったので、リョータはソータの死後8年目にして、兄が立つはずだった舞台にまで這い上がってきたのだ。
そもそも原作に、本作で描かれたようなリョータの過去のエピソードなんてあったっけ?と思ったが、これは原作の連載終了後に掲載された、「ピアス」という読み切り作品の設定を膨らませたものらしい。
残念ながら単行本にはなっていないようだが、リョータのトレードマークであるピアスにまつわる物語と共に、兄を亡くしたエピソードが語られているそうだ。
映画では、ソータの死後、お互いを想うがゆえにわだかまりを抱えていた、リョータと母との関係が重点的に描かれていて、インターハイへの旅立ち前に母に送った手紙の内容が、彼の変化への大きな契機となる。
物語の軸となるのはリョータだが、彼以外の湘北のレギュラー陣、それに対戦相手の山王の主力選手にも、試合でのテーマが与えられ、必要最小限だがそれぞれのキャラクターが抱える問題が描かれている。
そして両校の試合展開に、各人の「問題・葛藤・解決」の三幕の心情変化が効率的に組み込まれており、彼らの「解決」がドラマチックな試合の転機となる仕組み。
リョータと花道以外にも、湘北のレギュラー全員にカッコいい見せ場がある、ニクイ構造になっている。
一部で物議を醸したそうだが、CGで試合を描いたのも正解だと思う。
無音、スローモーションなどのテクニックを駆使したクライマックスは、まさに映像・音響設計のお手本のような仕上がり。
これ全部手描きでやったら、バジェットがとんでもないことになっただろうし、きちっとCGであることを生かした映像になっている。
原作者が映画化まで手がけた作品で、ここまでのインパクトを残したのって、もしかすると「AKIRA」以来ではないだろうか。
以前、ベテランのアニメーション監督と話した時、漫画家が映像化まで手がける時の問題点が、頭の中にあるイメージが止め画なので、絵コンテのカメラワークが現実的でないのと、秒数を正確に出せないことだと聞いた。
彼は何人かの漫画家と組んだことがあるそうだが、ほとんどのケースで絵コンテ作り直しになったそうだ。
しかし本作の場合は、作者の頭の中に秒以下まで計算された完璧な映像があるのが明らかだ。
井上雄彦、まことに恐るべき才能である。
そしてタイトルに「FIRST」が入ってる意味も、終わってみると完璧に理解できる。
公開前はこれが「FIRST」なら、原作に描かれなかった続編があるのか?などと言われていたが、そういう意味ではなかった。
本作は宮城リョータが喪失に向き合い、心の穴を埋めるまでの物語で、さらにその先の一歩「SECOND STEP」を踏み出す物語でもあることが、物語の最後で明らかになるのである。
ラストカットまで、めちゃくちゃカッコいいぞ。
本作は、「友情・努力・勝利」というジャンプ漫画の方程式をきっちり守りながら、その奥にあるディープな人間ドラマを描ききったことで生まれた傑作だ。
2022年を代表する一本になるのは、間違いなかろう。
エンドクレジット後にも映像あり。
ちなみに、原作もTV版も知っていた方が深く楽しめるのは確かだろうが、親切な作りなので全く知らなくても問題は無いと思う。
今回は、本作の舞台のモデルとなった湘南の地ビール、茅ヶ崎の熊沢酒造の「湘南ビール ピルスナー」をチョイス。
定番の下面発酵ビールは、豊かなホップ感と爽やかな香り、モルトの甘みが楽しめる。
喉越し爽快で飲みやすく、バランスの良いビールだ。
こちらの蔵元では、季節商品をはじめユニークなビールをたくさん作っている。
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2022年12月05日 (月) | 編集 |
ピノッキオも、ありのままで。
ディズニーの古典アニメーション版をはじめ、過去に幾度となく映像化されたカルロ・コッローディの児童文学の古典、「ピノッキオの冒険」を原作に、ギレルモ・デル・トロが監督・脚本を担当し、ストップモーション技法でミュージカルアニメーション化した作品。
当時「パンズ・ラビリンス」の成功で勢いに乗っていたデル・トロの次回作として、2008年に企画が発表されるも、製作費がなかなか集まらずに中断、Netflixが手を上げ苦節14年の歳月を経てついに完成した大労作だ。
カートゥーン・ネットワークで放送された、「オーバー・ザ・ガーデンウォール」のクリエイターとして知られるパトリック・マクヘイルが共同脚本、「ファンタスティック Mr.FOX」のアニメーション・ディレクター、マーク・グスタフソンが共同監督を務める。
ゼペット爺さんをデイビッド・ブラッドリー、ピノッキオをグレゴリー・マンが演じ、二人の脇を「美女と野獣」で美声を聴かせたユアン・マクレガー、ティルダ・スウィントン、クリストフ・ヴァルツ、ケイト・ブランシェットなど、錚々たるスター軍団が固める。
※ラストに触れています。
ゼペット(デビッド・ブラッドリー)は腕のいい木工職人で、一人息子のカルロ(グレゴリー・マン)と一緒に、北イタリアの山間の街で暮らしている。
世界を巻き込んだ戦争の砲火も、田舎街までは聞こえてこない。
ところがある日、爆撃機が捨てた爆弾が街の教会を直撃し、カルロが亡くなってしまう。
悲しみに暮れるゼペットは無気力な生活を送り、十数年後に酒に酔った勢いで一体の人形、ピノッキオ(グレゴリー・マン)を作り上げる。
その夜、妖精(ティルダ・スウィントン)が現れて人形に命を与え、木のうろに住み着いてたコオロギのセバスチャン・J・クリケット(ユアン・マクレガー)をピノッキオに良心を教える係に任命する。
突然動き出したピノッキオを見たゼペットは驚くが、カルロが使っていた教科書を彼に与え、学校に行かせることに。
しかし、生きている人形に興味を惹かれたカーニバルの主催者、ヴォルペ伯爵(クリストフ・ヴァルツ)がピノッキオを誘惑し、一座に参加させるのだが・・・・
たまに似たようなコンセプトの映画が集中的に公開されることがあるが、一年ちょっとの間にマッティオ・ガローネ版「ほんとうのピノッキオ」、ロバート・ゼメキス版「ピノキオ」、次いで本作と、三本も「ピノッキオの冒険」を原作とする映画を観た。
主に特殊メイクでピノッキオを表現し、不気味極まりないおしゃべりコオロギをはじめ、ホラーテイストのクリーチャーが続々出てくる作家性全開のガローネ版、1940年に公開されたディズニーのアニメーション版をベースに、実写とCGの組み合わせでアップデートしたゼメキス版、それぞれにストーリーにもテリングにも特徴があって面白い。
しかし個人的には、ストップモーションで作られた本作が一番しっくり来た。
脚色のアレンジは三本の中でも最も激しいのだが、原作が内包していた普遍的なスピリットを、一番モダンな形で実現していたと思う。
コッローディの原作が発表されたのは、200年近く前の1832年。
その後、演劇や映画、テレビなどで人気の作品となったが、最も有名なのがディズニーのアニメーション版だろう。
実際、本作もこの作品の影響を強く受けていて、原作のゼペットはしゃべる丸太から人形を作る設定だが、こちらではただの木の人形が妖精の魔法で命を持つなど、ディズニー版の設定を踏襲している。
さらにデル・トロは、19世紀に書かれた物語の舞台を20世紀に移した上で、さまざまな脚色を加えている。
ゼペットはただ人形を作った訳ではなく、ピノッキオは亡くなった息子の代わりだというのは、ゼメキス版でも同じ解釈をしていたが、こちらでは息子の死の理由に第一次世界大戦を持ってきた。
彼らが住んでいた街は、軍事目標でもないし、人口密集地でもないのだが、それ故に基地に帰る爆撃機が余った爆弾を捨てるのにちょうどいい場所で、運悪く爆弾の落ちた教会にいた息子のカルロが犠牲になってしまう。
カルロが亡くなった時に持っていた松ぼっくりを墓のそばに植え、十数年後に育った木を使って作ったのがピノッキオというわけ。
しかしカルロが亡くなった後のゼペットは、自暴自棄になりずっと飲んだくれていて、ピノッキオも酔っ払って作ったから造形がかなり雑。
とても人間の男の子になりそうもない形をしている。
劇中では正確な年代は明示されないが、カルロの死が第一次世界大戦中で、ピノッキオを作ったのがムッソリーニのファシスト党がイタリアを支配し、まだ第二次世界大戦が起こる前の時代だからたぶん1930年代。
本作は基本的なプロットラインも、ディズニーのアニメーション版に沿っているが、原作にも出てくる狡猾な狐と猫は登場せず、代わりに猿のスパザチュラ(演じるのはなんとケイト・ブランシェット!)というキャラクターがいて、ヴォルペ伯爵にいじめられながら、依存して生きている。
スパザチュラは非常に複雑なキャラクターとして造形されていて、ヴォルペに対してはサディスティックな支配に対する恐怖と、依存心の間で揺れていて、ピノッキオに対してはご主人様のナンバーワンを取られてたという嫉妬心と、自分と同じように搾取されているという同情心の間の葛藤がある。
人間社会から見たら、異端の存在であるピノッキオや、スパザチュラといった存在に、ディープな共感を示すのはいかにもデル・トロらしい。
コッローディの原作は、人間になりたいピノッキオが冒険を通して、「そもそも人間とはなんぞや?」という疑問にぶつかってゆく物語だ。
それゆえに、本作では戦争が次なる戦争を生み出しつつある時代背景が生きてくる。
原作では一人だけの妖精は、生を司る妖精と死を司る妖精の二つのキャラクターに分かれ、それぞれにピノキオに命の意味を問う。
カーニバルを脱出したピノッキオが、友達のキャンドルウィックと共に向かう、おもちゃの国のエピソードは、イタリア軍の少年兵訓練所に置き換えらている。
原作ではおもちゃの国に行った少年たちは、ロバに変身してしまうが、家畜として使役されるロバと、命令に従うだけの少年兵は本質的に同じ奴隷というシニカルさ。
当たり前の人間性が否定される時代に、ピノッキオの見せる思いやりや優しさの気持ちが浮かび上がる。
例によって中盤までのピノッキオは、かなりのおバカさんなのだが、成長するのが彼だけでなく、父としてのゼペットも同様なのも特徴だ。
本作のゼペットはカルロを失って飲んだくれ、ピノッキオが命を持っても、彼のことを聡明だったカルロと比べてしまい、なかなか受け入れられない未熟な父親として描かれる。
人間はいくつになっても成長できるし、成長しなければならないことを体現するキャラクターだ。
物語を通し、ピノッキオだけでなく、全てのキャラクターが何らかの成長を遂げて、導き出す本作のソリューションは、人形の雑な造形でも示唆されていたように、ピノッキオは木の人形のまま人生を過ごすというもの。
本当の人間性は人間の体ではなく心に宿るという、ゼメキス版がやりかけて思いとどまった、「ありのままで」をこちらがやってくるとは驚いた。
だがキャラクター設定を変えたことで、最終的に一緒に暮らすこととなるピノッキオ、ゼペット、クリケットそしてスパザチュラ、種も属性も異なる疑似家族の「命の時間の差」という新たな要素も加わり、より味わい深い物語となった。
ストップモーションアニメーションとしてのクオリティもすこぶる高く、なるほどこれは「パンズ・ラビリンス」の延長線上にある、ギレルモ・デル・トロの持ち味がいかんなく発揮された傑作である。
今回は舞台となる北イタリアのワイン、「モンテ チェリアーニ ソアーヴェ」をチョイス。
アントニオ・カスタニェーディが、1989年に現在のワイナリーを買い取り、創業したテヌータ・サンアントニオによる、フルボディの辛口の白。
最初の五年間は出荷せずに、研究に打ち込んだという。
ガルガネーガ種100%で作るこちらの一本は、複雑で濃密な果実味を楽しめて、喉越しもすっきりしていて飲みやすい。
結構味の濃い海鮮や、お肉などとも相性が良さそう。
CPが良いのもうれしいポイント。
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ディズニーの古典アニメーション版をはじめ、過去に幾度となく映像化されたカルロ・コッローディの児童文学の古典、「ピノッキオの冒険」を原作に、ギレルモ・デル・トロが監督・脚本を担当し、ストップモーション技法でミュージカルアニメーション化した作品。
当時「パンズ・ラビリンス」の成功で勢いに乗っていたデル・トロの次回作として、2008年に企画が発表されるも、製作費がなかなか集まらずに中断、Netflixが手を上げ苦節14年の歳月を経てついに完成した大労作だ。
カートゥーン・ネットワークで放送された、「オーバー・ザ・ガーデンウォール」のクリエイターとして知られるパトリック・マクヘイルが共同脚本、「ファンタスティック Mr.FOX」のアニメーション・ディレクター、マーク・グスタフソンが共同監督を務める。
ゼペット爺さんをデイビッド・ブラッドリー、ピノッキオをグレゴリー・マンが演じ、二人の脇を「美女と野獣」で美声を聴かせたユアン・マクレガー、ティルダ・スウィントン、クリストフ・ヴァルツ、ケイト・ブランシェットなど、錚々たるスター軍団が固める。
※ラストに触れています。
ゼペット(デビッド・ブラッドリー)は腕のいい木工職人で、一人息子のカルロ(グレゴリー・マン)と一緒に、北イタリアの山間の街で暮らしている。
世界を巻き込んだ戦争の砲火も、田舎街までは聞こえてこない。
ところがある日、爆撃機が捨てた爆弾が街の教会を直撃し、カルロが亡くなってしまう。
悲しみに暮れるゼペットは無気力な生活を送り、十数年後に酒に酔った勢いで一体の人形、ピノッキオ(グレゴリー・マン)を作り上げる。
その夜、妖精(ティルダ・スウィントン)が現れて人形に命を与え、木のうろに住み着いてたコオロギのセバスチャン・J・クリケット(ユアン・マクレガー)をピノッキオに良心を教える係に任命する。
突然動き出したピノッキオを見たゼペットは驚くが、カルロが使っていた教科書を彼に与え、学校に行かせることに。
しかし、生きている人形に興味を惹かれたカーニバルの主催者、ヴォルペ伯爵(クリストフ・ヴァルツ)がピノッキオを誘惑し、一座に参加させるのだが・・・・
たまに似たようなコンセプトの映画が集中的に公開されることがあるが、一年ちょっとの間にマッティオ・ガローネ版「ほんとうのピノッキオ」、ロバート・ゼメキス版「ピノキオ」、次いで本作と、三本も「ピノッキオの冒険」を原作とする映画を観た。
主に特殊メイクでピノッキオを表現し、不気味極まりないおしゃべりコオロギをはじめ、ホラーテイストのクリーチャーが続々出てくる作家性全開のガローネ版、1940年に公開されたディズニーのアニメーション版をベースに、実写とCGの組み合わせでアップデートしたゼメキス版、それぞれにストーリーにもテリングにも特徴があって面白い。
しかし個人的には、ストップモーションで作られた本作が一番しっくり来た。
脚色のアレンジは三本の中でも最も激しいのだが、原作が内包していた普遍的なスピリットを、一番モダンな形で実現していたと思う。
コッローディの原作が発表されたのは、200年近く前の1832年。
その後、演劇や映画、テレビなどで人気の作品となったが、最も有名なのがディズニーのアニメーション版だろう。
実際、本作もこの作品の影響を強く受けていて、原作のゼペットはしゃべる丸太から人形を作る設定だが、こちらではただの木の人形が妖精の魔法で命を持つなど、ディズニー版の設定を踏襲している。
さらにデル・トロは、19世紀に書かれた物語の舞台を20世紀に移した上で、さまざまな脚色を加えている。
ゼペットはただ人形を作った訳ではなく、ピノッキオは亡くなった息子の代わりだというのは、ゼメキス版でも同じ解釈をしていたが、こちらでは息子の死の理由に第一次世界大戦を持ってきた。
彼らが住んでいた街は、軍事目標でもないし、人口密集地でもないのだが、それ故に基地に帰る爆撃機が余った爆弾を捨てるのにちょうどいい場所で、運悪く爆弾の落ちた教会にいた息子のカルロが犠牲になってしまう。
カルロが亡くなった時に持っていた松ぼっくりを墓のそばに植え、十数年後に育った木を使って作ったのがピノッキオというわけ。
しかしカルロが亡くなった後のゼペットは、自暴自棄になりずっと飲んだくれていて、ピノッキオも酔っ払って作ったから造形がかなり雑。
とても人間の男の子になりそうもない形をしている。
劇中では正確な年代は明示されないが、カルロの死が第一次世界大戦中で、ピノッキオを作ったのがムッソリーニのファシスト党がイタリアを支配し、まだ第二次世界大戦が起こる前の時代だからたぶん1930年代。
本作は基本的なプロットラインも、ディズニーのアニメーション版に沿っているが、原作にも出てくる狡猾な狐と猫は登場せず、代わりに猿のスパザチュラ(演じるのはなんとケイト・ブランシェット!)というキャラクターがいて、ヴォルペ伯爵にいじめられながら、依存して生きている。
スパザチュラは非常に複雑なキャラクターとして造形されていて、ヴォルペに対してはサディスティックな支配に対する恐怖と、依存心の間で揺れていて、ピノッキオに対してはご主人様のナンバーワンを取られてたという嫉妬心と、自分と同じように搾取されているという同情心の間の葛藤がある。
人間社会から見たら、異端の存在であるピノッキオや、スパザチュラといった存在に、ディープな共感を示すのはいかにもデル・トロらしい。
コッローディの原作は、人間になりたいピノッキオが冒険を通して、「そもそも人間とはなんぞや?」という疑問にぶつかってゆく物語だ。
それゆえに、本作では戦争が次なる戦争を生み出しつつある時代背景が生きてくる。
原作では一人だけの妖精は、生を司る妖精と死を司る妖精の二つのキャラクターに分かれ、それぞれにピノキオに命の意味を問う。
カーニバルを脱出したピノッキオが、友達のキャンドルウィックと共に向かう、おもちゃの国のエピソードは、イタリア軍の少年兵訓練所に置き換えらている。
原作ではおもちゃの国に行った少年たちは、ロバに変身してしまうが、家畜として使役されるロバと、命令に従うだけの少年兵は本質的に同じ奴隷というシニカルさ。
当たり前の人間性が否定される時代に、ピノッキオの見せる思いやりや優しさの気持ちが浮かび上がる。
例によって中盤までのピノッキオは、かなりのおバカさんなのだが、成長するのが彼だけでなく、父としてのゼペットも同様なのも特徴だ。
本作のゼペットはカルロを失って飲んだくれ、ピノッキオが命を持っても、彼のことを聡明だったカルロと比べてしまい、なかなか受け入れられない未熟な父親として描かれる。
人間はいくつになっても成長できるし、成長しなければならないことを体現するキャラクターだ。
物語を通し、ピノッキオだけでなく、全てのキャラクターが何らかの成長を遂げて、導き出す本作のソリューションは、人形の雑な造形でも示唆されていたように、ピノッキオは木の人形のまま人生を過ごすというもの。
本当の人間性は人間の体ではなく心に宿るという、ゼメキス版がやりかけて思いとどまった、「ありのままで」をこちらがやってくるとは驚いた。
だがキャラクター設定を変えたことで、最終的に一緒に暮らすこととなるピノッキオ、ゼペット、クリケットそしてスパザチュラ、種も属性も異なる疑似家族の「命の時間の差」という新たな要素も加わり、より味わい深い物語となった。
ストップモーションアニメーションとしてのクオリティもすこぶる高く、なるほどこれは「パンズ・ラビリンス」の延長線上にある、ギレルモ・デル・トロの持ち味がいかんなく発揮された傑作である。
今回は舞台となる北イタリアのワイン、「モンテ チェリアーニ ソアーヴェ」をチョイス。
アントニオ・カスタニェーディが、1989年に現在のワイナリーを買い取り、創業したテヌータ・サンアントニオによる、フルボディの辛口の白。
最初の五年間は出荷せずに、研究に打ち込んだという。
ガルガネーガ種100%で作るこちらの一本は、複雑で濃密な果実味を楽しめて、喉越しもすっきりしていて飲みやすい。
結構味の濃い海鮮や、お肉などとも相性が良さそう。
CPが良いのもうれしいポイント。

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2022年12月01日 (木) | 編集 |
待ち受けるのは、避けられぬ死か。
冒頭からダークなムードが充満する、異色のファンタジーアドベンチャー。
原作は14世紀の英国で書かれた読み人知らずの叙事詩「サー・ガウェインと緑の騎士」で、J・R・R・トールキンが現代語訳したことでも知られる。
アーサー王の甥で、円卓の騎士の一人としても馴染み深い、ガウェイン卿の若き日の冒険を描いた物語だ。
クリスマスの日、王の宴に突然現れた謎めいた緑の騎士の、理不尽な挑発に乗ってしまった若きガウェインが、自らの誇りと名誉のために死地に赴く。
「スラムドッグ$ミリオネア」のデーヴ・パテルがガウェインを演じ、アリシア・ヴィキャンディル、ジョエル・エドガートンらが共演。
監督・脚本は、「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー」のデヴィッド・ロウリー。
ゴージャスな映像美に彩られた、神話的貴種流離譚だ。
※核心部分に触れています。
アーサー王(ショーン・ハリス)の甥であるガウェイン(デーヴ・パテル)は、正式な騎士になれないまま、娼婦のエセル(アリシア・ヴィキャンデル)の所で飲んだくれる日々を送っていた。
ある年のクリスマス、円卓の騎士が集う王の宴に、片手に戦斧、片手にヒイラギの枝を持った緑の騎士(ラルフ・アイネソン)が現れ、「私を斬ってみろ」と挑発する。
彼を斬った者には、トロフィーとして戦斧を与えるが、一年後に今度は緑の騎士から一太刀を受けねばならないと言う。
挑発に乗ったガウェインは一撃で緑の騎士の首を斬り落とすが、緑の騎士は自分の首を拾い上げ、ガウェインに「次のクリスマスの日に緑の礼拝堂で待っている」と言い残して去ってゆく。
月日が経ちクリスマスが迫る頃、ガウェインは約束を果たすべく、緑の礼拝堂を探す旅に出る。
ところが道中、追い剥ぎに遭い全てを奪われてしまい、迷い込んだ古い屋敷で出会ったウニフレッド(エリン・ケリーマン)という女の幽霊の願いを叶えた結果、戦斧を取り戻す。
やがてガウェインはある城にたどり着き、城主(ジョエル・エドガートン)から緑の礼拝堂はすぐ近くだと聞かされる。
城主の厚意を受け逗留することになったガウェインだが、奥方はなぜかエセルそっくりで、ガウェインを誘惑してくるのだが・・・・
アーサー王関連のエピソードやキャラクターは、日本でもゲームやライトノベルの影響ですっかりお馴染みとなった感があるが、本作は原作となった叙事詩を巧みに脚色。
古典的、神話的な風格を保ちつつも、現代的なアレンジを効かせている。
まず主人公のキャラクター造形が面白い。
デーヴ・パテルが演じるガウェインは、なかなか正式な騎士に任命されず、飲んだくれて娼婦のエセルの所に入り浸り、怠惰な日々を送っている。
ついでに王の妹である母には頭が上がらないという、典型的なマザコンのダメ男。
ガウェイン卿といえばアーサー王の腹心で、円卓の騎士の中でも武勇に優れた誠実な男のイメージだが、この作品では真逆。
まだ我々の知るガウェインにはなってない、未熟で迷いを抱えた青年として描かれる。
そんなダメ男のガウェインが、よせばいいのに緑の騎士の挑発に乗っちゃったことで、運命が動き出す。
一年後に返しの一太刀を受けると言ったって、殺しちゃえば関係ないじゃん?とばかりに騎士を斬首するのだが、相手は平然と首を拾い、次のクリスマスの再会を約束して帰ってしまう。
引っ込みがつかなくなり、自らの勇気を示すために冒険の旅に出たものの、ボンボンなので人を信じ過ぎ、あっさり追い剥ぎに捕まって全てを奪われ、全身を縛られて森に放り出されるのだが、ここでカメラがぐるっと周囲を一回転。
すると、ガウェインが白骨死体になっちゃってるのだが、もう一回転してくると、そうならないように必死に足掻いてる。
ここは彼にとって最初の死の洗礼であるのと同時に、「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー」を連想させる、ロウリー流のブラックユーモア。
原作の叙事詩では、冒険の全てがガウェインを試するために、魔女で王の妹であるモーガン・ル・フェイ(母設定ではない)によって仕組まれた試練ということになっていて、緑の騎士の正体は途中で逗留する城の城主で、魔法で不死となっているベルティラック・ド・オートデザートだということが明かされる。
本作では緑の騎士は超常の存在となっているほか、7世紀のウェールズの聖女、ウニフレッドの幽霊と出会うエピソードや、巨人の行進を目撃するエピソードなど、原作に無い話も加えられているが大筋はほぼ変わらず。
騎士として生きる者の戒めに繋がる寓意的要素が、全体に組み込まれている。
最大の脚色ポイントは、ガウェインが緑の礼拝堂で騎士と再会した後、打首を受ける描写だ。
緑の騎士は、原作では三度戦斧を振り下ろそうとする。
一度目はガウェインが怯んで失敗、二度目は騎士が途中で止め、これが仕組まれた試練であることを告白。
ガウェインが怒って斬首するように命じると、騎士は戦斧を振り下ろすが、わずかな傷を付けただけで冒険は終わる。
ところが本作のガウェインはずっと怯んだままで、遂にはその場から逃げ出すのだ。
本作は、おそらくマーティン・スコセッシがキリストを描いた「最後の誘惑」から強くインスパイアされていて、この終盤部分がそっくり。
キリストはゴルゴダの丘で十字架にかけられる直前に、「神よ、神よ、なぜ我をお見捨てになるのですか!」と疑問を口にしながら、その直後になぜか「すべては成し遂げられた」と満足して死んでしまうが、「最後の誘惑」はこの二つの言葉の間に、驚くべき解釈を加えている。
キリストが神に問い掛けた時、彼の前に天使と名乗る少女が現れ、「神はあなたを試されただけよ」と彼を十字架から解放し、生き延びたキリストはマグダラのマリアと愛し合う。
彼女が天に召されると今度はラザロのマリアと共に暮らし、子供を作って世俗的な人生を送るのである。
そしてエルサレム滅亡の日、死の床にあるキリストの元に、弟子たちが姿を現し「なぜ十字架を逃げた?新しい秩序となるべき人が国を滅ぼした」と断罪されるのだ。
そして弟子のユダは「あの天使の正体は悪魔だ!」と告げる。
真実を知ったキリストが神に謝罪すると、彼の意識はゴルゴダの丘の十字架に戻り、ここで初めて「全ては成し遂げられた」と呟くのである。
本作では、緑の騎士から逃げたガウェインはキャメロットに戻り、やがて老いて死にゆくアーサーから王位を継承する。
エセルとの間には男の子が生まれるが、ガウェインは赤ん坊だけ奪って彼女を非情に捨て、着飾った貴族の女性と結婚する。
だが栄光は長く続かず、戦争で息子を失い、統率力の無い王からは人々の心も離れ、家族にも去られて、遂には敵軍に攻め込まれ、結局斬首される。
自分の悲惨な人生と死の瞬間を見たガウェインの意識は、ここで緑の礼拝堂に引き戻され、これが幻視した未来であることを知る。
今、騎士としての勇気も誇りも示せない自分に、未来など無いと悟ったガウェインは、ようやく運命を受け入れるのだ。
冒険の間、彼が心に抱いていた恐怖の象徴としての緑の騎士の姿は、未成熟な自分自身の心を反映したものに他ならない。
まあ「最後の誘惑」と違って、実際にガウェインが打首になることはなく、全ては彼の心を試すための試練だったというのは踏襲されている。
実際、原作通りに作ると現在の劇映画としてはキャラクターの変化に今ひとつ説得力がないし、何よりドラマ的な盛り上りに欠けるので、これはうまい手だと思う。
スコセッシにインスパイアされているのは確実だが、模倣ではなくきちんとした本歌取りになってる。
しかし、この構造を踏襲するには、ある程度の尺が必要で、今まで全ての作品が実質90分程度のデヴィッド・ロウリーでも、初の2時間超えとなったのは致し方なかろう。
むしろこれだけの内容を、130分という長すぎない尺にまとめたのは大したものだと思う。
エンドクレジットの最後にも映像があるのだが、あれはガウェインが幻視した未来とは別の人生を歩んだ結果ということだろう。
淡々と進行するアートな作風からも、予算が潤沢とは思えないのだが、ルネッサンス以前の宗教画を思わせるビジュアルは非常にムーディーでスタイリッシュ。
劇中で言及される通り、緑の色は人間の欲望が作り出す全てを包み込む、圧倒的な自然のエネルギーそのものであり、本作のキーカラーとして効果的に使われている。
撮影監督のアンドリュー・ドロズ・パレルモはじめ、プロダクションデザインのジェイド・ヒーリー、コスチュームデザインのマウゴシャ・トゥルジャンスカら、ビジュアル系のスタッフの素晴らしい仕事が光る。
個性の塊のような、デヴィッド・ロウリー技ありの一本だ。
緑の騎士は、造形からも強く植物の属性を感じさせる。
今回は「照葉樹林」という、日本生まれの緑のカクテルをチョイス。
グリーンティーリキュール45ml、ウーロン茶適量を氷を入れたタンブラーに注ぎ、軽くステアする。
優しい味わいで、お茶の風味がグリーンティーリキュールを引き立て、とても美味しい。
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冒頭からダークなムードが充満する、異色のファンタジーアドベンチャー。
原作は14世紀の英国で書かれた読み人知らずの叙事詩「サー・ガウェインと緑の騎士」で、J・R・R・トールキンが現代語訳したことでも知られる。
アーサー王の甥で、円卓の騎士の一人としても馴染み深い、ガウェイン卿の若き日の冒険を描いた物語だ。
クリスマスの日、王の宴に突然現れた謎めいた緑の騎士の、理不尽な挑発に乗ってしまった若きガウェインが、自らの誇りと名誉のために死地に赴く。
「スラムドッグ$ミリオネア」のデーヴ・パテルがガウェインを演じ、アリシア・ヴィキャンディル、ジョエル・エドガートンらが共演。
監督・脚本は、「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー」のデヴィッド・ロウリー。
ゴージャスな映像美に彩られた、神話的貴種流離譚だ。
※核心部分に触れています。
アーサー王(ショーン・ハリス)の甥であるガウェイン(デーヴ・パテル)は、正式な騎士になれないまま、娼婦のエセル(アリシア・ヴィキャンデル)の所で飲んだくれる日々を送っていた。
ある年のクリスマス、円卓の騎士が集う王の宴に、片手に戦斧、片手にヒイラギの枝を持った緑の騎士(ラルフ・アイネソン)が現れ、「私を斬ってみろ」と挑発する。
彼を斬った者には、トロフィーとして戦斧を与えるが、一年後に今度は緑の騎士から一太刀を受けねばならないと言う。
挑発に乗ったガウェインは一撃で緑の騎士の首を斬り落とすが、緑の騎士は自分の首を拾い上げ、ガウェインに「次のクリスマスの日に緑の礼拝堂で待っている」と言い残して去ってゆく。
月日が経ちクリスマスが迫る頃、ガウェインは約束を果たすべく、緑の礼拝堂を探す旅に出る。
ところが道中、追い剥ぎに遭い全てを奪われてしまい、迷い込んだ古い屋敷で出会ったウニフレッド(エリン・ケリーマン)という女の幽霊の願いを叶えた結果、戦斧を取り戻す。
やがてガウェインはある城にたどり着き、城主(ジョエル・エドガートン)から緑の礼拝堂はすぐ近くだと聞かされる。
城主の厚意を受け逗留することになったガウェインだが、奥方はなぜかエセルそっくりで、ガウェインを誘惑してくるのだが・・・・
アーサー王関連のエピソードやキャラクターは、日本でもゲームやライトノベルの影響ですっかりお馴染みとなった感があるが、本作は原作となった叙事詩を巧みに脚色。
古典的、神話的な風格を保ちつつも、現代的なアレンジを効かせている。
まず主人公のキャラクター造形が面白い。
デーヴ・パテルが演じるガウェインは、なかなか正式な騎士に任命されず、飲んだくれて娼婦のエセルの所に入り浸り、怠惰な日々を送っている。
ついでに王の妹である母には頭が上がらないという、典型的なマザコンのダメ男。
ガウェイン卿といえばアーサー王の腹心で、円卓の騎士の中でも武勇に優れた誠実な男のイメージだが、この作品では真逆。
まだ我々の知るガウェインにはなってない、未熟で迷いを抱えた青年として描かれる。
そんなダメ男のガウェインが、よせばいいのに緑の騎士の挑発に乗っちゃったことで、運命が動き出す。
一年後に返しの一太刀を受けると言ったって、殺しちゃえば関係ないじゃん?とばかりに騎士を斬首するのだが、相手は平然と首を拾い、次のクリスマスの再会を約束して帰ってしまう。
引っ込みがつかなくなり、自らの勇気を示すために冒険の旅に出たものの、ボンボンなので人を信じ過ぎ、あっさり追い剥ぎに捕まって全てを奪われ、全身を縛られて森に放り出されるのだが、ここでカメラがぐるっと周囲を一回転。
すると、ガウェインが白骨死体になっちゃってるのだが、もう一回転してくると、そうならないように必死に足掻いてる。
ここは彼にとって最初の死の洗礼であるのと同時に、「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー」を連想させる、ロウリー流のブラックユーモア。
原作の叙事詩では、冒険の全てがガウェインを試するために、魔女で王の妹であるモーガン・ル・フェイ(母設定ではない)によって仕組まれた試練ということになっていて、緑の騎士の正体は途中で逗留する城の城主で、魔法で不死となっているベルティラック・ド・オートデザートだということが明かされる。
本作では緑の騎士は超常の存在となっているほか、7世紀のウェールズの聖女、ウニフレッドの幽霊と出会うエピソードや、巨人の行進を目撃するエピソードなど、原作に無い話も加えられているが大筋はほぼ変わらず。
騎士として生きる者の戒めに繋がる寓意的要素が、全体に組み込まれている。
最大の脚色ポイントは、ガウェインが緑の礼拝堂で騎士と再会した後、打首を受ける描写だ。
緑の騎士は、原作では三度戦斧を振り下ろそうとする。
一度目はガウェインが怯んで失敗、二度目は騎士が途中で止め、これが仕組まれた試練であることを告白。
ガウェインが怒って斬首するように命じると、騎士は戦斧を振り下ろすが、わずかな傷を付けただけで冒険は終わる。
ところが本作のガウェインはずっと怯んだままで、遂にはその場から逃げ出すのだ。
本作は、おそらくマーティン・スコセッシがキリストを描いた「最後の誘惑」から強くインスパイアされていて、この終盤部分がそっくり。
キリストはゴルゴダの丘で十字架にかけられる直前に、「神よ、神よ、なぜ我をお見捨てになるのですか!」と疑問を口にしながら、その直後になぜか「すべては成し遂げられた」と満足して死んでしまうが、「最後の誘惑」はこの二つの言葉の間に、驚くべき解釈を加えている。
キリストが神に問い掛けた時、彼の前に天使と名乗る少女が現れ、「神はあなたを試されただけよ」と彼を十字架から解放し、生き延びたキリストはマグダラのマリアと愛し合う。
彼女が天に召されると今度はラザロのマリアと共に暮らし、子供を作って世俗的な人生を送るのである。
そしてエルサレム滅亡の日、死の床にあるキリストの元に、弟子たちが姿を現し「なぜ十字架を逃げた?新しい秩序となるべき人が国を滅ぼした」と断罪されるのだ。
そして弟子のユダは「あの天使の正体は悪魔だ!」と告げる。
真実を知ったキリストが神に謝罪すると、彼の意識はゴルゴダの丘の十字架に戻り、ここで初めて「全ては成し遂げられた」と呟くのである。
本作では、緑の騎士から逃げたガウェインはキャメロットに戻り、やがて老いて死にゆくアーサーから王位を継承する。
エセルとの間には男の子が生まれるが、ガウェインは赤ん坊だけ奪って彼女を非情に捨て、着飾った貴族の女性と結婚する。
だが栄光は長く続かず、戦争で息子を失い、統率力の無い王からは人々の心も離れ、家族にも去られて、遂には敵軍に攻め込まれ、結局斬首される。
自分の悲惨な人生と死の瞬間を見たガウェインの意識は、ここで緑の礼拝堂に引き戻され、これが幻視した未来であることを知る。
今、騎士としての勇気も誇りも示せない自分に、未来など無いと悟ったガウェインは、ようやく運命を受け入れるのだ。
冒険の間、彼が心に抱いていた恐怖の象徴としての緑の騎士の姿は、未成熟な自分自身の心を反映したものに他ならない。
まあ「最後の誘惑」と違って、実際にガウェインが打首になることはなく、全ては彼の心を試すための試練だったというのは踏襲されている。
実際、原作通りに作ると現在の劇映画としてはキャラクターの変化に今ひとつ説得力がないし、何よりドラマ的な盛り上りに欠けるので、これはうまい手だと思う。
スコセッシにインスパイアされているのは確実だが、模倣ではなくきちんとした本歌取りになってる。
しかし、この構造を踏襲するには、ある程度の尺が必要で、今まで全ての作品が実質90分程度のデヴィッド・ロウリーでも、初の2時間超えとなったのは致し方なかろう。
むしろこれだけの内容を、130分という長すぎない尺にまとめたのは大したものだと思う。
エンドクレジットの最後にも映像があるのだが、あれはガウェインが幻視した未来とは別の人生を歩んだ結果ということだろう。
淡々と進行するアートな作風からも、予算が潤沢とは思えないのだが、ルネッサンス以前の宗教画を思わせるビジュアルは非常にムーディーでスタイリッシュ。
劇中で言及される通り、緑の色は人間の欲望が作り出す全てを包み込む、圧倒的な自然のエネルギーそのものであり、本作のキーカラーとして効果的に使われている。
撮影監督のアンドリュー・ドロズ・パレルモはじめ、プロダクションデザインのジェイド・ヒーリー、コスチュームデザインのマウゴシャ・トゥルジャンスカら、ビジュアル系のスタッフの素晴らしい仕事が光る。
個性の塊のような、デヴィッド・ロウリー技ありの一本だ。
緑の騎士は、造形からも強く植物の属性を感じさせる。
今回は「照葉樹林」という、日本生まれの緑のカクテルをチョイス。
グリーンティーリキュール45ml、ウーロン茶適量を氷を入れたタンブラーに注ぎ、軽くステアする。
優しい味わいで、お茶の風味がグリーンティーリキュールを引き立て、とても美味しい。

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