2022年12月01日 (木) | 編集 |
待ち受けるのは、避けられぬ死か。
冒頭からダークなムードが充満する、異色のファンタジーアドベンチャー。
原作は14世紀の英国で書かれた読み人知らずの叙事詩「サー・ガウェインと緑の騎士」で、J・R・R・トールキンが現代語訳したことでも知られる。
アーサー王の甥で、円卓の騎士の一人としても馴染み深い、ガウェイン卿の若き日の冒険を描いた物語だ。
クリスマスの日、王の宴に突然現れた謎めいた緑の騎士の、理不尽な挑発に乗ってしまった若きガウェインが、自らの誇りと名誉のために死地に赴く。
「スラムドッグ$ミリオネア」のデーヴ・パテルがガウェインを演じ、アリシア・ヴィキャンディル、ジョエル・エドガートンらが共演。
監督・脚本は、「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー」のデヴィッド・ロウリー。
ゴージャスな映像美に彩られた、神話的貴種流離譚だ。
※核心部分に触れています。
アーサー王(ショーン・ハリス)の甥であるガウェイン(デーヴ・パテル)は、正式な騎士になれないまま、娼婦のエセル(アリシア・ヴィキャンデル)の所で飲んだくれる日々を送っていた。
ある年のクリスマス、円卓の騎士が集う王の宴に、片手に戦斧、片手にヒイラギの枝を持った緑の騎士(ラルフ・アイネソン)が現れ、「私を斬ってみろ」と挑発する。
彼を斬った者には、トロフィーとして戦斧を与えるが、一年後に今度は緑の騎士から一太刀を受けねばならないと言う。
挑発に乗ったガウェインは一撃で緑の騎士の首を斬り落とすが、緑の騎士は自分の首を拾い上げ、ガウェインに「次のクリスマスの日に緑の礼拝堂で待っている」と言い残して去ってゆく。
月日が経ちクリスマスが迫る頃、ガウェインは約束を果たすべく、緑の礼拝堂を探す旅に出る。
ところが道中、追い剥ぎに遭い全てを奪われてしまい、迷い込んだ古い屋敷で出会ったウニフレッド(エリン・ケリーマン)という女の幽霊の願いを叶えた結果、戦斧を取り戻す。
やがてガウェインはある城にたどり着き、城主(ジョエル・エドガートン)から緑の礼拝堂はすぐ近くだと聞かされる。
城主の厚意を受け逗留することになったガウェインだが、奥方はなぜかエセルそっくりで、ガウェインを誘惑してくるのだが・・・・
アーサー王関連のエピソードやキャラクターは、日本でもゲームやライトノベルの影響ですっかりお馴染みとなった感があるが、本作は原作となった叙事詩を巧みに脚色。
古典的、神話的な風格を保ちつつも、現代的なアレンジを効かせている。
まず主人公のキャラクター造形が面白い。
デーヴ・パテルが演じるガウェインは、なかなか正式な騎士に任命されず、飲んだくれて娼婦のエセルの所に入り浸り、怠惰な日々を送っている。
ついでに王の妹である母には頭が上がらないという、典型的なマザコンのダメ男。
ガウェイン卿といえばアーサー王の腹心で、円卓の騎士の中でも武勇に優れた誠実な男のイメージだが、この作品では真逆。
まだ我々の知るガウェインにはなってない、未熟で迷いを抱えた青年として描かれる。
そんなダメ男のガウェインが、よせばいいのに緑の騎士の挑発に乗っちゃったことで、運命が動き出す。
一年後に返しの一太刀を受けると言ったって、殺しちゃえば関係ないじゃん?とばかりに騎士を斬首するのだが、相手は平然と首を拾い、次のクリスマスの再会を約束して帰ってしまう。
引っ込みがつかなくなり、自らの勇気を示すために冒険の旅に出たものの、ボンボンなので人を信じ過ぎ、あっさり追い剥ぎに捕まって全てを奪われ、全身を縛られて森に放り出されるのだが、ここでカメラがぐるっと周囲を一回転。
すると、ガウェインが白骨死体になっちゃってるのだが、もう一回転してくると、そうならないように必死に足掻いてる。
ここは彼にとって最初の死の洗礼であるのと同時に、「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー」を連想させる、ロウリー流のブラックユーモア。
原作の叙事詩では、冒険の全てがガウェインを試するために、魔女で王の妹であるモーガン・ル・フェイ(母設定ではない)によって仕組まれた試練ということになっていて、緑の騎士の正体は途中で逗留する城の城主で、魔法で不死となっているベルティラック・ド・オートデザートだということが明かされる。
本作では緑の騎士は超常の存在となっているほか、7世紀のウェールズの聖女、ウニフレッドの幽霊と出会うエピソードや、巨人の行進を目撃するエピソードなど、原作に無い話も加えられているが大筋はほぼ変わらず。
騎士として生きる者の戒めに繋がる寓意的要素が、全体に組み込まれている。
最大の脚色ポイントは、ガウェインが緑の礼拝堂で騎士と再会した後、打首を受ける描写だ。
緑の騎士は、原作では三度戦斧を振り下ろそうとする。
一度目はガウェインが怯んで失敗、二度目は騎士が途中で止め、これが仕組まれた試練であることを告白。
ガウェインが怒って斬首するように命じると、騎士は戦斧を振り下ろすが、わずかな傷を付けただけで冒険は終わる。
ところが本作のガウェインはずっと怯んだままで、遂にはその場から逃げ出すのだ。
本作は、おそらくマーティン・スコセッシがキリストを描いた「最後の誘惑」から強くインスパイアされていて、この終盤部分がそっくり。
キリストはゴルゴダの丘で十字架にかけられる直前に、「神よ、神よ、なぜ我をお見捨てになるのですか!」と疑問を口にしながら、その直後になぜか「すべては成し遂げられた」と満足して死んでしまうが、「最後の誘惑」はこの二つの言葉の間に、驚くべき解釈を加えている。
キリストが神に問い掛けた時、彼の前に天使と名乗る少女が現れ、「神はあなたを試されただけよ」と彼を十字架から解放し、生き延びたキリストはマグダラのマリアと愛し合う。
彼女が天に召されると今度はラザロのマリアと共に暮らし、子供を作って世俗的な人生を送るのである。
そしてエルサレム滅亡の日、死の床にあるキリストの元に、弟子たちが姿を現し「なぜ十字架を逃げた?新しい秩序となるべき人が国を滅ぼした」と断罪されるのだ。
そして弟子のユダは「あの天使の正体は悪魔だ!」と告げる。
真実を知ったキリストが神に謝罪すると、彼の意識はゴルゴダの丘の十字架に戻り、ここで初めて「全ては成し遂げられた」と呟くのである。
本作では、緑の騎士から逃げたガウェインはキャメロットに戻り、やがて老いて死にゆくアーサーから王位を継承する。
エセルとの間には男の子が生まれるが、ガウェインは赤ん坊だけ奪って彼女を非情に捨て、着飾った貴族の女性と結婚する。
だが栄光は長く続かず、戦争で息子を失い、統率力の無い王からは人々の心も離れ、家族にも去られて、遂には敵軍に攻め込まれ、結局斬首される。
自分の悲惨な人生と死の瞬間を見たガウェインの意識は、ここで緑の礼拝堂に引き戻され、これが幻視した未来であることを知る。
今、騎士としての勇気も誇りも示せない自分に、未来など無いと悟ったガウェインは、ようやく運命を受け入れるのだ。
冒険の間、彼が心に抱いていた恐怖の象徴としての緑の騎士の姿は、未成熟な自分自身の心を反映したものに他ならない。
まあ「最後の誘惑」と違って、実際にガウェインが打首になることはなく、全ては彼の心を試すための試練だったというのは踏襲されている。
実際、原作通りに作ると現在の劇映画としてはキャラクターの変化に今ひとつ説得力がないし、何よりドラマ的な盛り上りに欠けるので、これはうまい手だと思う。
スコセッシにインスパイアされているのは確実だが、模倣ではなくきちんとした本歌取りになってる。
しかし、この構造を踏襲するには、ある程度の尺が必要で、今まで全ての作品が実質90分程度のデヴィッド・ロウリーでも、初の2時間超えとなったのは致し方なかろう。
むしろこれだけの内容を、130分という長すぎない尺にまとめたのは大したものだと思う。
エンドクレジットの最後にも映像があるのだが、あれはガウェインが幻視した未来とは別の人生を歩んだ結果ということだろう。
淡々と進行するアートな作風からも、予算が潤沢とは思えないのだが、ルネッサンス以前の宗教画を思わせるビジュアルは非常にムーディーでスタイリッシュ。
劇中で言及される通り、緑の色は人間の欲望が作り出す全てを包み込む、圧倒的な自然のエネルギーそのものであり、本作のキーカラーとして効果的に使われている。
撮影監督のアンドリュー・ドロズ・パレルモはじめ、プロダクションデザインのジェイド・ヒーリー、コスチュームデザインのマウゴシャ・トゥルジャンスカら、ビジュアル系のスタッフの素晴らしい仕事が光る。
個性の塊のような、デヴィッド・ロウリー技ありの一本だ。
緑の騎士は、造形からも強く植物の属性を感じさせる。
今回は「照葉樹林」という、日本生まれの緑のカクテルをチョイス。
グリーンティーリキュール45ml、ウーロン茶適量を氷を入れたタンブラーに注ぎ、軽くステアする。
優しい味わいで、お茶の風味がグリーンティーリキュールを引き立て、とても美味しい。
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冒頭からダークなムードが充満する、異色のファンタジーアドベンチャー。
原作は14世紀の英国で書かれた読み人知らずの叙事詩「サー・ガウェインと緑の騎士」で、J・R・R・トールキンが現代語訳したことでも知られる。
アーサー王の甥で、円卓の騎士の一人としても馴染み深い、ガウェイン卿の若き日の冒険を描いた物語だ。
クリスマスの日、王の宴に突然現れた謎めいた緑の騎士の、理不尽な挑発に乗ってしまった若きガウェインが、自らの誇りと名誉のために死地に赴く。
「スラムドッグ$ミリオネア」のデーヴ・パテルがガウェインを演じ、アリシア・ヴィキャンディル、ジョエル・エドガートンらが共演。
監督・脚本は、「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー」のデヴィッド・ロウリー。
ゴージャスな映像美に彩られた、神話的貴種流離譚だ。
※核心部分に触れています。
アーサー王(ショーン・ハリス)の甥であるガウェイン(デーヴ・パテル)は、正式な騎士になれないまま、娼婦のエセル(アリシア・ヴィキャンデル)の所で飲んだくれる日々を送っていた。
ある年のクリスマス、円卓の騎士が集う王の宴に、片手に戦斧、片手にヒイラギの枝を持った緑の騎士(ラルフ・アイネソン)が現れ、「私を斬ってみろ」と挑発する。
彼を斬った者には、トロフィーとして戦斧を与えるが、一年後に今度は緑の騎士から一太刀を受けねばならないと言う。
挑発に乗ったガウェインは一撃で緑の騎士の首を斬り落とすが、緑の騎士は自分の首を拾い上げ、ガウェインに「次のクリスマスの日に緑の礼拝堂で待っている」と言い残して去ってゆく。
月日が経ちクリスマスが迫る頃、ガウェインは約束を果たすべく、緑の礼拝堂を探す旅に出る。
ところが道中、追い剥ぎに遭い全てを奪われてしまい、迷い込んだ古い屋敷で出会ったウニフレッド(エリン・ケリーマン)という女の幽霊の願いを叶えた結果、戦斧を取り戻す。
やがてガウェインはある城にたどり着き、城主(ジョエル・エドガートン)から緑の礼拝堂はすぐ近くだと聞かされる。
城主の厚意を受け逗留することになったガウェインだが、奥方はなぜかエセルそっくりで、ガウェインを誘惑してくるのだが・・・・
アーサー王関連のエピソードやキャラクターは、日本でもゲームやライトノベルの影響ですっかりお馴染みとなった感があるが、本作は原作となった叙事詩を巧みに脚色。
古典的、神話的な風格を保ちつつも、現代的なアレンジを効かせている。
まず主人公のキャラクター造形が面白い。
デーヴ・パテルが演じるガウェインは、なかなか正式な騎士に任命されず、飲んだくれて娼婦のエセルの所に入り浸り、怠惰な日々を送っている。
ついでに王の妹である母には頭が上がらないという、典型的なマザコンのダメ男。
ガウェイン卿といえばアーサー王の腹心で、円卓の騎士の中でも武勇に優れた誠実な男のイメージだが、この作品では真逆。
まだ我々の知るガウェインにはなってない、未熟で迷いを抱えた青年として描かれる。
そんなダメ男のガウェインが、よせばいいのに緑の騎士の挑発に乗っちゃったことで、運命が動き出す。
一年後に返しの一太刀を受けると言ったって、殺しちゃえば関係ないじゃん?とばかりに騎士を斬首するのだが、相手は平然と首を拾い、次のクリスマスの再会を約束して帰ってしまう。
引っ込みがつかなくなり、自らの勇気を示すために冒険の旅に出たものの、ボンボンなので人を信じ過ぎ、あっさり追い剥ぎに捕まって全てを奪われ、全身を縛られて森に放り出されるのだが、ここでカメラがぐるっと周囲を一回転。
すると、ガウェインが白骨死体になっちゃってるのだが、もう一回転してくると、そうならないように必死に足掻いてる。
ここは彼にとって最初の死の洗礼であるのと同時に、「A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー」を連想させる、ロウリー流のブラックユーモア。
原作の叙事詩では、冒険の全てがガウェインを試するために、魔女で王の妹であるモーガン・ル・フェイ(母設定ではない)によって仕組まれた試練ということになっていて、緑の騎士の正体は途中で逗留する城の城主で、魔法で不死となっているベルティラック・ド・オートデザートだということが明かされる。
本作では緑の騎士は超常の存在となっているほか、7世紀のウェールズの聖女、ウニフレッドの幽霊と出会うエピソードや、巨人の行進を目撃するエピソードなど、原作に無い話も加えられているが大筋はほぼ変わらず。
騎士として生きる者の戒めに繋がる寓意的要素が、全体に組み込まれている。
最大の脚色ポイントは、ガウェインが緑の礼拝堂で騎士と再会した後、打首を受ける描写だ。
緑の騎士は、原作では三度戦斧を振り下ろそうとする。
一度目はガウェインが怯んで失敗、二度目は騎士が途中で止め、これが仕組まれた試練であることを告白。
ガウェインが怒って斬首するように命じると、騎士は戦斧を振り下ろすが、わずかな傷を付けただけで冒険は終わる。
ところが本作のガウェインはずっと怯んだままで、遂にはその場から逃げ出すのだ。
本作は、おそらくマーティン・スコセッシがキリストを描いた「最後の誘惑」から強くインスパイアされていて、この終盤部分がそっくり。
キリストはゴルゴダの丘で十字架にかけられる直前に、「神よ、神よ、なぜ我をお見捨てになるのですか!」と疑問を口にしながら、その直後になぜか「すべては成し遂げられた」と満足して死んでしまうが、「最後の誘惑」はこの二つの言葉の間に、驚くべき解釈を加えている。
キリストが神に問い掛けた時、彼の前に天使と名乗る少女が現れ、「神はあなたを試されただけよ」と彼を十字架から解放し、生き延びたキリストはマグダラのマリアと愛し合う。
彼女が天に召されると今度はラザロのマリアと共に暮らし、子供を作って世俗的な人生を送るのである。
そしてエルサレム滅亡の日、死の床にあるキリストの元に、弟子たちが姿を現し「なぜ十字架を逃げた?新しい秩序となるべき人が国を滅ぼした」と断罪されるのだ。
そして弟子のユダは「あの天使の正体は悪魔だ!」と告げる。
真実を知ったキリストが神に謝罪すると、彼の意識はゴルゴダの丘の十字架に戻り、ここで初めて「全ては成し遂げられた」と呟くのである。
本作では、緑の騎士から逃げたガウェインはキャメロットに戻り、やがて老いて死にゆくアーサーから王位を継承する。
エセルとの間には男の子が生まれるが、ガウェインは赤ん坊だけ奪って彼女を非情に捨て、着飾った貴族の女性と結婚する。
だが栄光は長く続かず、戦争で息子を失い、統率力の無い王からは人々の心も離れ、家族にも去られて、遂には敵軍に攻め込まれ、結局斬首される。
自分の悲惨な人生と死の瞬間を見たガウェインの意識は、ここで緑の礼拝堂に引き戻され、これが幻視した未来であることを知る。
今、騎士としての勇気も誇りも示せない自分に、未来など無いと悟ったガウェインは、ようやく運命を受け入れるのだ。
冒険の間、彼が心に抱いていた恐怖の象徴としての緑の騎士の姿は、未成熟な自分自身の心を反映したものに他ならない。
まあ「最後の誘惑」と違って、実際にガウェインが打首になることはなく、全ては彼の心を試すための試練だったというのは踏襲されている。
実際、原作通りに作ると現在の劇映画としてはキャラクターの変化に今ひとつ説得力がないし、何よりドラマ的な盛り上りに欠けるので、これはうまい手だと思う。
スコセッシにインスパイアされているのは確実だが、模倣ではなくきちんとした本歌取りになってる。
しかし、この構造を踏襲するには、ある程度の尺が必要で、今まで全ての作品が実質90分程度のデヴィッド・ロウリーでも、初の2時間超えとなったのは致し方なかろう。
むしろこれだけの内容を、130分という長すぎない尺にまとめたのは大したものだと思う。
エンドクレジットの最後にも映像があるのだが、あれはガウェインが幻視した未来とは別の人生を歩んだ結果ということだろう。
淡々と進行するアートな作風からも、予算が潤沢とは思えないのだが、ルネッサンス以前の宗教画を思わせるビジュアルは非常にムーディーでスタイリッシュ。
劇中で言及される通り、緑の色は人間の欲望が作り出す全てを包み込む、圧倒的な自然のエネルギーそのものであり、本作のキーカラーとして効果的に使われている。
撮影監督のアンドリュー・ドロズ・パレルモはじめ、プロダクションデザインのジェイド・ヒーリー、コスチュームデザインのマウゴシャ・トゥルジャンスカら、ビジュアル系のスタッフの素晴らしい仕事が光る。
個性の塊のような、デヴィッド・ロウリー技ありの一本だ。
緑の騎士は、造形からも強く植物の属性を感じさせる。
今回は「照葉樹林」という、日本生まれの緑のカクテルをチョイス。
グリーンティーリキュール45ml、ウーロン茶適量を氷を入れたタンブラーに注ぎ、軽くステアする。
優しい味わいで、お茶の風味がグリーンティーリキュールを引き立て、とても美味しい。

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