■ お知らせ
※基本的にネタバレありです。ご注意ください。
※当ブログはリンクフリーです。内容の無断転載はお断りいたします。
※ブログ環境の相性によっては、TB・コメントのお返事が出来ない事があります。ご了承ください
※エロ・グロ・出会い系のTB及びコメントは、削除の上直ちにブログ管理会社に通報させていただきます。 また記事と無関係な物や当方が不適切と判断したTB・コメントも削除いたします。
■TITLE INDEX
※タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
■ ツイッターアカウント※基本的にネタバレありです。ご注意ください。
※当ブログはリンクフリーです。内容の無断転載はお断りいたします。
※ブログ環境の相性によっては、TB・コメントのお返事が出来ない事があります。ご了承ください
※エロ・グロ・出会い系のTB及びコメントは、削除の上直ちにブログ管理会社に通報させていただきます。 また記事と無関係な物や当方が不適切と判断したTB・コメントも削除いたします。
■TITLE INDEX
※タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
※noraneko285ツイッターでつぶやいた全作品をアーカイブしています。


2023年01月27日 (金) | 編集 |
ダメ人間の逃避行。
2018年に上演された同名演劇を原作に、作者の三浦大輔と主演の藤ヶ谷太輔が再タッグを組んで映画化した作品。
「そして僕は途方に暮れる」といえば、昭和世代には大澤誉志幸が1984年にリリースした名曲だが、本作でも再アレンジした上で、テーマ曲として使われている。
藤ヶ谷太輔演じる主人公の裕一は、とにかく面倒臭いことから逃げる。
いい歳して定職にも付かず、恋人の前田敦子のヒモ状態なのに、浮気していることを責められアパートから逃走。
同郷の友人の中尾明慶を頼るも、怠惰過ぎる生活態度を咎められて逃走。
今度はバイト先の先輩のアパートに転がり込むも、ここでもトラブルを起こして逃走。
ついには東京で泊めてくれる者がいなくなり、仕方なく母親が一人で暮らす北海道は苫小牧へと逃げ帰ることになる。
故郷に戻ったはいいものの、母親は母親でヤバい問題を抱えていて、そこはもう裕一にとって安住の地ではない。
そして追い詰められたダメ男の前に、豊川悦司演じる父親の浩二が姿を表す。
かつて家族を捨て、今はほぼ世捨て人だという浩二に、抗えない血の繋がりを感じた裕一は、もっとダメ人間な父をメンターに、スマホの電源を切り、それまでの人生のあらゆる関係を断つ生活をはじめる。
しかし、誰とも関わらないと決めても、そう簡単にはいかない。
田舎町なんて、歩いているだけで周りは知った顔だらけ。
世捨て人のはずの父だって、借金している知り合いに会わないよう、逃げ回っているのが現実だ。
ずっと誰かに頼って生きてきて、めんどくさいことから顔を背けてきた裕一も、その生き方の究極形と言える、浩二の人生を見て覚悟を決めざるを得なくなる。
本作中で特徴的なのが、逃げる裕一が振り返るカット。
自分の過去から逃げても、どこかで気になって、振り返ってしまう。
とことんダメなんだけど、どこか人たらしのところがあって、憎まれ役になりきれない裕一役の藤ヶ谷太輔がいい。
やってることを考えれば普通に非共感キャラなんだが、確かに人とちゃんと向き合うってめんど臭い時もあるし、共感できる部分もあるよね?って匙加減が絶妙。
また豊川悦司の浩二のキャラクターは、彼が「ラストレター」で演じた阿藤に被るのが可笑しいが、もはやこの役者でなければ演じられないと思わされる怪演。
キャストは舞台からの続投組と、映画で新たにキャスティングされた者に別れるが、皆それぞれに最初から当て書きされたかの様に、ピタッとハマっている。
あらゆる問題から逃げ続けるダメ人間の、遅すぎる成長寓話としても面白いが、それだけでは終わらせない。
今までは他人と真剣な関係を築かなかったので、なあなあで許されて来たのだろうが、いざ変わろう決意した時点で、自分がしてきたことの代償を払わねばならない。
なるほど、劇中でなんとなく示唆されているものの、こう落とすとは読めなかった。
裕一ほどでないにしろ、一度くらいは対人関係で問題を抱えて、逃げたことは誰でもあるはず。
逃げながら振り返る藤ヶ谷太輔が、「だってしょうがないじゃん!お前ならどうするんだよ?」と問いかけてくる。
トンチの聞いた展開で、現実逃避した先にある、因果応報のシニカルな捻りも見事だ。
今回は苫小牧からも程近い栗山町の地酒、小林酒造の「北の誉 純米大吟醸」をチョイス。
北海道の酒米、「彗星」を精米歩合45%まで磨き上げた大吟醸。
飲み口は軽やかで、スッと喉に旨みが広がる。
大吟醸としては香りはさほどでもないが、しっかりとした造りでキレがあり、とても飲みやすい。
記事が気に入ったらクリックしてね
2018年に上演された同名演劇を原作に、作者の三浦大輔と主演の藤ヶ谷太輔が再タッグを組んで映画化した作品。
「そして僕は途方に暮れる」といえば、昭和世代には大澤誉志幸が1984年にリリースした名曲だが、本作でも再アレンジした上で、テーマ曲として使われている。
藤ヶ谷太輔演じる主人公の裕一は、とにかく面倒臭いことから逃げる。
いい歳して定職にも付かず、恋人の前田敦子のヒモ状態なのに、浮気していることを責められアパートから逃走。
同郷の友人の中尾明慶を頼るも、怠惰過ぎる生活態度を咎められて逃走。
今度はバイト先の先輩のアパートに転がり込むも、ここでもトラブルを起こして逃走。
ついには東京で泊めてくれる者がいなくなり、仕方なく母親が一人で暮らす北海道は苫小牧へと逃げ帰ることになる。
故郷に戻ったはいいものの、母親は母親でヤバい問題を抱えていて、そこはもう裕一にとって安住の地ではない。
そして追い詰められたダメ男の前に、豊川悦司演じる父親の浩二が姿を表す。
かつて家族を捨て、今はほぼ世捨て人だという浩二に、抗えない血の繋がりを感じた裕一は、もっとダメ人間な父をメンターに、スマホの電源を切り、それまでの人生のあらゆる関係を断つ生活をはじめる。
しかし、誰とも関わらないと決めても、そう簡単にはいかない。
田舎町なんて、歩いているだけで周りは知った顔だらけ。
世捨て人のはずの父だって、借金している知り合いに会わないよう、逃げ回っているのが現実だ。
ずっと誰かに頼って生きてきて、めんどくさいことから顔を背けてきた裕一も、その生き方の究極形と言える、浩二の人生を見て覚悟を決めざるを得なくなる。
本作中で特徴的なのが、逃げる裕一が振り返るカット。
自分の過去から逃げても、どこかで気になって、振り返ってしまう。
とことんダメなんだけど、どこか人たらしのところがあって、憎まれ役になりきれない裕一役の藤ヶ谷太輔がいい。
やってることを考えれば普通に非共感キャラなんだが、確かに人とちゃんと向き合うってめんど臭い時もあるし、共感できる部分もあるよね?って匙加減が絶妙。
また豊川悦司の浩二のキャラクターは、彼が「ラストレター」で演じた阿藤に被るのが可笑しいが、もはやこの役者でなければ演じられないと思わされる怪演。
キャストは舞台からの続投組と、映画で新たにキャスティングされた者に別れるが、皆それぞれに最初から当て書きされたかの様に、ピタッとハマっている。
あらゆる問題から逃げ続けるダメ人間の、遅すぎる成長寓話としても面白いが、それだけでは終わらせない。
今までは他人と真剣な関係を築かなかったので、なあなあで許されて来たのだろうが、いざ変わろう決意した時点で、自分がしてきたことの代償を払わねばならない。
なるほど、劇中でなんとなく示唆されているものの、こう落とすとは読めなかった。
裕一ほどでないにしろ、一度くらいは対人関係で問題を抱えて、逃げたことは誰でもあるはず。
逃げながら振り返る藤ヶ谷太輔が、「だってしょうがないじゃん!お前ならどうするんだよ?」と問いかけてくる。
トンチの聞いた展開で、現実逃避した先にある、因果応報のシニカルな捻りも見事だ。
今回は苫小牧からも程近い栗山町の地酒、小林酒造の「北の誉 純米大吟醸」をチョイス。
北海道の酒米、「彗星」を精米歩合45%まで磨き上げた大吟醸。
飲み口は軽やかで、スッと喉に旨みが広がる。
大吟醸としては香りはさほどでもないが、しっかりとした造りでキレがあり、とても飲みやすい。

記事が気に入ったらクリックしてね
スポンサーサイト


2023年01月23日 (月) | 編集 |
ヴァルハラが待っている。
ロバート・エガース監督は、自身初となるメジャー大作で、濃い作家性を保ったまま見事な傑作をものにした。
10世紀初頭のアイスランドの、荒涼とした風景の中で展開するのは、父王を叔父に殺された王子アムレートの神話的貴種流離譚。
シェイクスピアの「ハムレット」のモデルとなった、ヴァイキングの伝説の英雄が、残酷な運命に導かれながら戦士の本懐を遂げるまでの物語だ。
主人公のアムレートにアレクサンダー・スカルスガルド、彼のファムファタールとなるスラブの魔術師・白樺の森のオルガにアニャ・テイラー=ジョイ、父のオーヴァンディル王にイーサン・ホーク、母のグートルン王妃にニコール・キッドマン、仇となる叔父フィヨルニルにクリス・バング、道化ヘイミルにウィレム・デフォーという燻銀のオールスターキャスト。
本作にも預言者役で出演しているビョークの、作詞家としても知られるアイスランドの詩人ショーンが、エガースと共同で脚本を執筆した。
西暦895年。
オーヴァンディル王(イーサン・ホーク)は海外遠征から領地に戻り、王妃のグートルン(ニコール・キッドマン)、息子のアムレート(オスカー・ノヴァク/アレクサンダー・スカルスガルド)と再会する。
しかし王は弟のフィヨルニル(クリス・バング)による裏切りによって命を落とし、グートルンは連れ去られた。
命からがらボートで島を脱出したアムレートは、復讐と母の救出を誓う。
長い歳月が経ち、大人になったアムレートは、ヴァイキングの集団の戦士“ビョルンウルフ”としてロシアの地で略奪を繰り返していた。
ある村を襲撃した時、アムレートは不思議な預言者(ビョーク)と出会い、「フィヨルニルへの復讐はオーディンの意志であり、雌狐の尾を辿るように」と告げられる。
フィヨルニルはノルウェー王に攻められて領地を失い、新天地アイスランドへ移り住んでいる。
アムレートは魔術師を名乗る女、オルガ(アニャ・テイラー=ジョイ)と共にアイスランドへ向かう奴隷船に潜り込み、奴隷としてフィヨルニルに買われることに成功するのだが・・・・
本作の企画は、スウェーデン生まれで、元々ヴァイキングの物語を作りたいと考えていたアレクサンダー・スカルスガルドと、ヴァイキング文化に強い興味を抱いていたロバート・エガースが出会ったことからはじまったという。
物語のベースとなっているのは、シェイクスピアにインスピレーションを与えたことで知られる中世デンマークの歴史家、サクソ・グラマティクスの残したアムレートの伝説で、これにヴァイキング時代の北欧の神話集である「エッダ」をはじめ、アイスランドに伝わるエギルのサガ、グレティルのサガ、エイルのサガ、叙事詩「ベオウルフ」に登場するデンマーク王フロールフ・クラキの伝説などを組み合わせて構成されている。
高い評価を受けたエガースの過去二作の製作費は、デビュー作の「ウィッチ」が400万ドル。
孤島の灯台で展開する不条理劇、「ライトハウス」でも1100万ドル程度で、アメリカ映画としては低予算作品だったが、初のメジャー作品となった本作では7000万ドル以上という潤沢な資金を手にし、非常にリッチな画作りがなされている。
古代スカンジナビアのシャーマニズムを専門とする、考古学者のニール・プライスをコンサルタントして雇い、この時代のヴァイキング文化を徹底的にリサーチし、アニミズム的な宗教、生活文化を考証に基づいて緻密に再現。
クレイグ・レイスロップの美術、リンダ・ミューアが担当した衣装、激しい戦闘描写に至るまでリアリティたっぷりだ。
当時浸透しつつあったキリスト教への、ヴァイキングの敵愾心なども興味深く表現されている。
またエガースと、全ての作品でコンビを組んでいる撮影監督のジュリアン・ブラシュケによる映像は、とにかくダーク。
映画の序盤、アムレートの故郷の島と、青年期を過ごすロシアは森に覆われた世界。
そこは弱肉強食の法則が支配し、力無きものは容赦無く殺される。
スラブの村を攻める時、敵から放たれた槍をアムレートがキャッチして、投げ返して見事に命中させる描写は、「古事記」でアメノワカヒコを殺した「返し矢」を思わせるが、これもニャールのサガからの引用(カッコいいので採用したらしい)だというから、世界中に似たような話があるのだろう。
攻め落とした村は、奴隷として売れそうな者だけ残し、邪魔になる子供たちは皆殺し。
この時代、命の価値は空気よりも軽いのだ。
映画に登場した陰鬱なる森という点では、エマニュエル・ルベツキが撮影監督を務めた「レヴェナント:蘇りし者」と双璧だろう。
そんな恐ろしい世界だから、フィヨルニルの宮廷クーデターの後、幼くして島を脱出したアムレートは、ただ生きるのに必死。
ヴァイキングの海賊集団に拾われ、戦士ビョルンウルフを名乗り、人であることを捨て殺戮に明け暮れているうちに、自ら立てたはずの復讐の誓いを忘れている。
しかし、村を攻め落とした時、ビョーク演じる謎の預言者が姿を現し、復讐の完遂をオーディンの命令として告げられる。
神託を受け入れたアムレートの行動は、一切の迷いが無くなる。
己が運命を悟った復讐者が向かうのが、極北の島アイスランド。
ゴツゴツした岩に覆われた荒涼たる世界は、いかにも地の果てという感じで、神話的なムードが流れている。
ここでアムレートは、オルガを味方とし、少しずつ復讐を遂げる準備をしてゆく。
死者の眠る塚で魔法の剣ドラウグルを手に入れ、ホッケーの原型のような残酷なゲームに参加し、自分が死んだと思っているフィヨルニルの信頼を得る。
そして、キリスト教徒を装い、夜毎に血なまぐさいテロを起こすことで、敵を精神的に追い込んでゆくのである。
流浪の王子、宿敵となる叔父、天命を伝える預言者、地獄から声を伝える道化、そして主人公をヴァルハラへと導くファムファタール。
これは実に神話的であり、実にシェイクスピア的な物語でもある。
超自然的な描写も多く、どこまでが現実でどこからが精神世界なのか、境界が分からない不思議なムードはエガースらしい。
物語的には中盤までは割とストレートな復讐譚なのだが、終盤になって母のグートルンとの再会によって、宮廷クーデターの真相と価値観の逆転が起こる構造。
そして苦悩の旅の遂に、アムレートは自らの人生の意味を悟るのだ。
なぜ彼は復讐を遂げなければならないのか、それによって一体何が守られるのか、オーディンの神託の本当の意味とは。
時代が時代ゆえ、人も動物もやたらと簡単に死ぬし、血もいっぱいでる。
命の価値が限りなく軽い世界だからこそ、ヴァイキングは死に意味を求め、ヴァルハラの神話を生み出したのかも知れない。
生と死が表裏一体で人々が神話と共に生きていた時代、戦いで死んでヴァルキリーと共にヴァルハラへと向かうのは、彼らの死生観では紛れもない“現実”だったのだろう。
同じ歴史劇の英雄でも、例えば「バーフバリ」二部作が燃えたぎる真っ赤な炎だとすれば、これは静かに燃える青白い情念の炎。
血なまぐさく、壮大で陰鬱な神話であり、最後までスクリーに目が釘付けとなる。
ロバート・エガースの次回作は、ドイツ表現主義の傑作として知られる、F・W・ムルナウの「吸血鬼ノスフェラトゥ」のリメイクだとか。
まあ「ウィッチ」の頃からそれっぽかったし、「ライトハウス」はそのものズバリだった。
果たして異才エガースは、21世紀にどの様に表現主義を再解釈するのか、非常に楽しみである。
今回は、劇中でも成人の儀式で使われる蜂蜜のお酒ミードの、「ベーレンメット」をチョイス。
こちらはドイツ製で、甘すぎない優しい味わい。
人類のアルコール文化は、木のウロなどに溜まった蜂蜜が、雨水などと共に自然発酵して出来たものから始まったとも言われる。
古代の人々にとっては、飲むと酔っ払うミードは、言わば神と通じる手段だったのかも知れない。
記事が気に入ったらクリックしてね
ロバート・エガース監督は、自身初となるメジャー大作で、濃い作家性を保ったまま見事な傑作をものにした。
10世紀初頭のアイスランドの、荒涼とした風景の中で展開するのは、父王を叔父に殺された王子アムレートの神話的貴種流離譚。
シェイクスピアの「ハムレット」のモデルとなった、ヴァイキングの伝説の英雄が、残酷な運命に導かれながら戦士の本懐を遂げるまでの物語だ。
主人公のアムレートにアレクサンダー・スカルスガルド、彼のファムファタールとなるスラブの魔術師・白樺の森のオルガにアニャ・テイラー=ジョイ、父のオーヴァンディル王にイーサン・ホーク、母のグートルン王妃にニコール・キッドマン、仇となる叔父フィヨルニルにクリス・バング、道化ヘイミルにウィレム・デフォーという燻銀のオールスターキャスト。
本作にも預言者役で出演しているビョークの、作詞家としても知られるアイスランドの詩人ショーンが、エガースと共同で脚本を執筆した。
西暦895年。
オーヴァンディル王(イーサン・ホーク)は海外遠征から領地に戻り、王妃のグートルン(ニコール・キッドマン)、息子のアムレート(オスカー・ノヴァク/アレクサンダー・スカルスガルド)と再会する。
しかし王は弟のフィヨルニル(クリス・バング)による裏切りによって命を落とし、グートルンは連れ去られた。
命からがらボートで島を脱出したアムレートは、復讐と母の救出を誓う。
長い歳月が経ち、大人になったアムレートは、ヴァイキングの集団の戦士“ビョルンウルフ”としてロシアの地で略奪を繰り返していた。
ある村を襲撃した時、アムレートは不思議な預言者(ビョーク)と出会い、「フィヨルニルへの復讐はオーディンの意志であり、雌狐の尾を辿るように」と告げられる。
フィヨルニルはノルウェー王に攻められて領地を失い、新天地アイスランドへ移り住んでいる。
アムレートは魔術師を名乗る女、オルガ(アニャ・テイラー=ジョイ)と共にアイスランドへ向かう奴隷船に潜り込み、奴隷としてフィヨルニルに買われることに成功するのだが・・・・
本作の企画は、スウェーデン生まれで、元々ヴァイキングの物語を作りたいと考えていたアレクサンダー・スカルスガルドと、ヴァイキング文化に強い興味を抱いていたロバート・エガースが出会ったことからはじまったという。
物語のベースとなっているのは、シェイクスピアにインスピレーションを与えたことで知られる中世デンマークの歴史家、サクソ・グラマティクスの残したアムレートの伝説で、これにヴァイキング時代の北欧の神話集である「エッダ」をはじめ、アイスランドに伝わるエギルのサガ、グレティルのサガ、エイルのサガ、叙事詩「ベオウルフ」に登場するデンマーク王フロールフ・クラキの伝説などを組み合わせて構成されている。
高い評価を受けたエガースの過去二作の製作費は、デビュー作の「ウィッチ」が400万ドル。
孤島の灯台で展開する不条理劇、「ライトハウス」でも1100万ドル程度で、アメリカ映画としては低予算作品だったが、初のメジャー作品となった本作では7000万ドル以上という潤沢な資金を手にし、非常にリッチな画作りがなされている。
古代スカンジナビアのシャーマニズムを専門とする、考古学者のニール・プライスをコンサルタントして雇い、この時代のヴァイキング文化を徹底的にリサーチし、アニミズム的な宗教、生活文化を考証に基づいて緻密に再現。
クレイグ・レイスロップの美術、リンダ・ミューアが担当した衣装、激しい戦闘描写に至るまでリアリティたっぷりだ。
当時浸透しつつあったキリスト教への、ヴァイキングの敵愾心なども興味深く表現されている。
またエガースと、全ての作品でコンビを組んでいる撮影監督のジュリアン・ブラシュケによる映像は、とにかくダーク。
映画の序盤、アムレートの故郷の島と、青年期を過ごすロシアは森に覆われた世界。
そこは弱肉強食の法則が支配し、力無きものは容赦無く殺される。
スラブの村を攻める時、敵から放たれた槍をアムレートがキャッチして、投げ返して見事に命中させる描写は、「古事記」でアメノワカヒコを殺した「返し矢」を思わせるが、これもニャールのサガからの引用(カッコいいので採用したらしい)だというから、世界中に似たような話があるのだろう。
攻め落とした村は、奴隷として売れそうな者だけ残し、邪魔になる子供たちは皆殺し。
この時代、命の価値は空気よりも軽いのだ。
映画に登場した陰鬱なる森という点では、エマニュエル・ルベツキが撮影監督を務めた「レヴェナント:蘇りし者」と双璧だろう。
そんな恐ろしい世界だから、フィヨルニルの宮廷クーデターの後、幼くして島を脱出したアムレートは、ただ生きるのに必死。
ヴァイキングの海賊集団に拾われ、戦士ビョルンウルフを名乗り、人であることを捨て殺戮に明け暮れているうちに、自ら立てたはずの復讐の誓いを忘れている。
しかし、村を攻め落とした時、ビョーク演じる謎の預言者が姿を現し、復讐の完遂をオーディンの命令として告げられる。
神託を受け入れたアムレートの行動は、一切の迷いが無くなる。
己が運命を悟った復讐者が向かうのが、極北の島アイスランド。
ゴツゴツした岩に覆われた荒涼たる世界は、いかにも地の果てという感じで、神話的なムードが流れている。
ここでアムレートは、オルガを味方とし、少しずつ復讐を遂げる準備をしてゆく。
死者の眠る塚で魔法の剣ドラウグルを手に入れ、ホッケーの原型のような残酷なゲームに参加し、自分が死んだと思っているフィヨルニルの信頼を得る。
そして、キリスト教徒を装い、夜毎に血なまぐさいテロを起こすことで、敵を精神的に追い込んでゆくのである。
流浪の王子、宿敵となる叔父、天命を伝える預言者、地獄から声を伝える道化、そして主人公をヴァルハラへと導くファムファタール。
これは実に神話的であり、実にシェイクスピア的な物語でもある。
超自然的な描写も多く、どこまでが現実でどこからが精神世界なのか、境界が分からない不思議なムードはエガースらしい。
物語的には中盤までは割とストレートな復讐譚なのだが、終盤になって母のグートルンとの再会によって、宮廷クーデターの真相と価値観の逆転が起こる構造。
そして苦悩の旅の遂に、アムレートは自らの人生の意味を悟るのだ。
なぜ彼は復讐を遂げなければならないのか、それによって一体何が守られるのか、オーディンの神託の本当の意味とは。
時代が時代ゆえ、人も動物もやたらと簡単に死ぬし、血もいっぱいでる。
命の価値が限りなく軽い世界だからこそ、ヴァイキングは死に意味を求め、ヴァルハラの神話を生み出したのかも知れない。
生と死が表裏一体で人々が神話と共に生きていた時代、戦いで死んでヴァルキリーと共にヴァルハラへと向かうのは、彼らの死生観では紛れもない“現実”だったのだろう。
同じ歴史劇の英雄でも、例えば「バーフバリ」二部作が燃えたぎる真っ赤な炎だとすれば、これは静かに燃える青白い情念の炎。
血なまぐさく、壮大で陰鬱な神話であり、最後までスクリーに目が釘付けとなる。
ロバート・エガースの次回作は、ドイツ表現主義の傑作として知られる、F・W・ムルナウの「吸血鬼ノスフェラトゥ」のリメイクだとか。
まあ「ウィッチ」の頃からそれっぽかったし、「ライトハウス」はそのものズバリだった。
果たして異才エガースは、21世紀にどの様に表現主義を再解釈するのか、非常に楽しみである。
今回は、劇中でも成人の儀式で使われる蜂蜜のお酒ミードの、「ベーレンメット」をチョイス。
こちらはドイツ製で、甘すぎない優しい味わい。
人類のアルコール文化は、木のウロなどに溜まった蜂蜜が、雨水などと共に自然発酵して出来たものから始まったとも言われる。
古代の人々にとっては、飲むと酔っ払うミードは、言わば神と通じる手段だったのかも知れない。

記事が気に入ったらクリックしてね


2023年01月19日 (木) | 編集 |
性犯罪者を守る、本当の悪とは。
20年以上に渡りハリウッドに君臨した大プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインの性暴力事件をリポートした、ニューヨーク・タイムズ誌の二人の調査報道記者、ジョディ・カンターとミーガン・トゥーイーの闘いを描く、ルポルタージュサスペンス。
この記事が出たことによって、ワインスタインは失脚し、後に逮捕・収監され、触発された多くの女性たちが沈黙を破って理不尽な性暴力被害を訴えたことで、世界的に#MeToo扇風が吹き荒れるきっかけとなった。
カンターとトゥーイーが、記事をもとに2019年に上梓した「その名を暴け―#MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い―(She Said: Breaking the Sexual Harassment Story That Helped Ignite a Movement)」を、レベッカ・レンキーウィッツがドラマチックに脚色。
「アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイド」のマリア・シュラーダーがメガホンを取り、見事なハリウッドデビューを果たした。
ゾーイ・カザンがカンターを、キャリー・マリガンがトゥーイーを好演し、バディものとしても出色の仕上がりだ。
2017年、ニューヨーク・タイムズの記者ジョディ・カンター(ゾーイ・カザン)は女優のローズ・マッゴーワンが、ハーヴェイ・ワインスタインから性暴行を受けたという情報を入手。
マッゴーワンは事実を認めたが、キャリアへの影響を恐れて、記事に名前を出すことは拒否される。
カンターは産休明けのミーガン・トゥーイー(キャリー・マリガン)と組んで、ワインスタインの過去を調査しはじめる。
すると彼の創業したミラマックス社でアシスタントだったという女性にたどり着くが、彼女は示談時にNDA(秘密保持契約)を結ばされていることから証言はできないと言う。
他にも次々にワインスタインに暴行された女性が見つかるが、彼女たちの多くは示談に応じており、証言すれば訴えられると声を上げられずにいた。
問題の本質が加害者を守り、被害者を黙らせるシステムにあると気づいた二人は、それでも少しずつ事件の核心に近づいてゆく・・・・
調査報道をモチーフにした作品は、アメリカ映画の定番のひとつ。
古くは、ウォーターゲート事件をスクープしたワシントン・ポストの二人の記者を描いた「大統領の陰謀」、最近でもボストン・グローブ誌のチームがカソリック聖職者の性犯罪を暴いた「スポットライト 世紀のスクープ」、国防総省がひた隠しにしてきた秘密文書の開示をめぐる「ペンダゴン・ペーパーズ 最高機密文書」などが記憶に新しい。
これら調査報道ものの秀作群に、新たに名を連ねたのが本作である。
ニューヨーク・タイムズの二人の女性記者は、「大統領の陰謀」でロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンが演じた名バディを思わせるが、どちらも先輩記者がユダヤ人という共通点も。
フットワークが軽く行動的なカンターに、思慮深く聞き上手なトゥーイーというキャラクターの違いも、コントラストとして効いている。
ワインスタインの犯罪が明るみに出る一年と少し前、FOXニュースとFOXテレビジョンのCEO、ロジャー・エイルズと同局の人気司会者のビル・オライリーが、部下の女性たちからセクハラで告発され、失脚するという事件が起きた。
この顛末も「スキャンダル」として映画化されているのだが、どちらの映画も物語の発端をトランプの大統領選挙にしているのが面白い。
「スキャンダル」ではシャーリーズ・セロン演じるFOXニュースのキャスター、メーガン・ケリーがトランプの天敵で、繰り返し疑惑を追及するが、結局彼はヒラリー・クリントンを破り大統領に。
本作ではトゥーイーがトランプのセクハラ事件を追っていて、疑惑があるにも関わら当選してしまったことにショックを受ける。
妊娠していた彼女は、それも一因となって産後鬱を発症してしまうのだ。
性犯罪者として捕まってもおかしくない男が、なぜか合衆国の最高権力者になってしまう。
トランプの時代の到来が、コンサバティブ、リベラルの垣根を超えて、女性たちに強烈な危機感を抱かせたことは想像に難くない。
トランプを追い詰めることは出来なかった。
だからこそ、記者たちは「次は必ず」という強い意識に突き動かされているのである。
しかしこの種の調査報道のターゲットは権力者だから、本丸にはそう簡単に近づくことは出来ず、少しずつ証拠を集めなければならない。
ワインスタインの調査で大きな壁となるのは、NDA(non-disclosure agreement) と呼ばれる秘密保持契約だ。
一度この契約を結んでしまうと、事実関係を証言することは契約違反となり、相手から訴えられる可能性が出てくる。
暴行した女性への口止め料の条件として、ワインスタイン側がこの契約を結ばせていたことが、調査を難しくしてしまうのだ。
被害の内容と被害者の実名を同時に公表できなければ、罪を認めさせることは出来ないので、二人はなるべく多方面から証拠を集めるのと同時に、実名を出せる告発者を必死に探す。
しかし相手は、各界に独自の情報網を持つメディア・タイクーンだ。
いかにして、相手に悟らないうちに外堀を埋めてしまうか。
調査の舞台は東海岸から西海岸へ、やがてイギリス、香港まで。
ワインスタインの悪行はアメリカに留まらないので、記者もまた国境を越える。
終始淡々と進んでゆく証拠集めのプロセスは、優れたスパイ小説を読んでいるようで、地道な作業だが決して飽きさせることは無い。
なかなか近付いてこない核心に、カンターとトゥーイーの焦燥感も高まってゆくが、二人は共に既婚者で、幼い子供を抱える母親でもあり、彼女らを支える家族との描写に強いモチベーションの動機が垣間見える。
責任ある大人として、また娘たちの母として、自分たちの子供の世代に、被害者と同じ思いをさせるわけにはいかないのである。
秘密保持契約つきの示談に、それを認めてしまっている法律、さらに業界の隠蔽体質と、独裁者の存在を許す会社組織。
告発したくても、それが出来ない、性犯罪者を守り被害者に沈黙を強いる、社会と業界のシステムこそが本当の悪。
さらに、女性が女性の味方とは限らないアイロニー。
ろくに調べもせずに性暴力の訴えを棄却した女性検事が、しれっとワインスタイン側のスタッフに入っていたのは問題の根深さを示唆している。
この事件の報道は当時つぶさに見ていたが、記事の上では単なる記号に過ぎない名前の数々が、映画になると血の通ったキャラクターになり、より深く感情移入。
最初に実名を出すことを決断し、本作にも本人役で出演しているアシュレー・ジャッド、癌手術を控えながら、未来のために実名の公表に踏み切った初期の被害者、ローラ・マッデンの勇気には、大きな拍手を贈りたい。
同時にワインスタインのクズっぷりも、より醜悪に感じられる。
マリア・シュラーダーは、静かな流れがやがて世界を揺るがす激流となってゆくプロセスを、冷静に、しかしエネルギッシュに描く。
これはある意味、共感力を原動力にした21世紀版「大統領の陰謀」だ。
暴かれたのは、トランプの大統領当選という時代の揺り戻し現象によって顕在化した、根深いミソジニーと時代遅れのマッチョイズム。
今も世界中のSNSで告発が相次ぐのだから、決して終わった話ではない。
一方、日本に目を移すと、本来なら大事件のはずの伊藤詩織さんの告発が、大手メディアではほとんど報じられないなど、調査報道の力は明らかに弱い。
この種の調査報道を描いた作品が、邦画ではほとんど見られないのは、それ自体が日本の問題を浮き彫りにしていると思うのは私だけではあるまい。
今回は、勇気ある女性たちに「ホワイトレディ」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、ホワイト・キュラソー15ml、レモン・ジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ホワイトキュラソーとレモンジュースの柑橘系のフレッシュな華やかさと、ジンの辛口な味わいが、口の中で好バランス。
雪のような半透明なホワイトが美しい、エレガントなカクテルだ。
記事が気に入ったらクリックしてね
20年以上に渡りハリウッドに君臨した大プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインの性暴力事件をリポートした、ニューヨーク・タイムズ誌の二人の調査報道記者、ジョディ・カンターとミーガン・トゥーイーの闘いを描く、ルポルタージュサスペンス。
この記事が出たことによって、ワインスタインは失脚し、後に逮捕・収監され、触発された多くの女性たちが沈黙を破って理不尽な性暴力被害を訴えたことで、世界的に#MeToo扇風が吹き荒れるきっかけとなった。
カンターとトゥーイーが、記事をもとに2019年に上梓した「その名を暴け―#MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い―(She Said: Breaking the Sexual Harassment Story That Helped Ignite a Movement)」を、レベッカ・レンキーウィッツがドラマチックに脚色。
「アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイド」のマリア・シュラーダーがメガホンを取り、見事なハリウッドデビューを果たした。
ゾーイ・カザンがカンターを、キャリー・マリガンがトゥーイーを好演し、バディものとしても出色の仕上がりだ。
2017年、ニューヨーク・タイムズの記者ジョディ・カンター(ゾーイ・カザン)は女優のローズ・マッゴーワンが、ハーヴェイ・ワインスタインから性暴行を受けたという情報を入手。
マッゴーワンは事実を認めたが、キャリアへの影響を恐れて、記事に名前を出すことは拒否される。
カンターは産休明けのミーガン・トゥーイー(キャリー・マリガン)と組んで、ワインスタインの過去を調査しはじめる。
すると彼の創業したミラマックス社でアシスタントだったという女性にたどり着くが、彼女は示談時にNDA(秘密保持契約)を結ばされていることから証言はできないと言う。
他にも次々にワインスタインに暴行された女性が見つかるが、彼女たちの多くは示談に応じており、証言すれば訴えられると声を上げられずにいた。
問題の本質が加害者を守り、被害者を黙らせるシステムにあると気づいた二人は、それでも少しずつ事件の核心に近づいてゆく・・・・
調査報道をモチーフにした作品は、アメリカ映画の定番のひとつ。
古くは、ウォーターゲート事件をスクープしたワシントン・ポストの二人の記者を描いた「大統領の陰謀」、最近でもボストン・グローブ誌のチームがカソリック聖職者の性犯罪を暴いた「スポットライト 世紀のスクープ」、国防総省がひた隠しにしてきた秘密文書の開示をめぐる「ペンダゴン・ペーパーズ 最高機密文書」などが記憶に新しい。
これら調査報道ものの秀作群に、新たに名を連ねたのが本作である。
ニューヨーク・タイムズの二人の女性記者は、「大統領の陰謀」でロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンが演じた名バディを思わせるが、どちらも先輩記者がユダヤ人という共通点も。
フットワークが軽く行動的なカンターに、思慮深く聞き上手なトゥーイーというキャラクターの違いも、コントラストとして効いている。
ワインスタインの犯罪が明るみに出る一年と少し前、FOXニュースとFOXテレビジョンのCEO、ロジャー・エイルズと同局の人気司会者のビル・オライリーが、部下の女性たちからセクハラで告発され、失脚するという事件が起きた。
この顛末も「スキャンダル」として映画化されているのだが、どちらの映画も物語の発端をトランプの大統領選挙にしているのが面白い。
「スキャンダル」ではシャーリーズ・セロン演じるFOXニュースのキャスター、メーガン・ケリーがトランプの天敵で、繰り返し疑惑を追及するが、結局彼はヒラリー・クリントンを破り大統領に。
本作ではトゥーイーがトランプのセクハラ事件を追っていて、疑惑があるにも関わら当選してしまったことにショックを受ける。
妊娠していた彼女は、それも一因となって産後鬱を発症してしまうのだ。
性犯罪者として捕まってもおかしくない男が、なぜか合衆国の最高権力者になってしまう。
トランプの時代の到来が、コンサバティブ、リベラルの垣根を超えて、女性たちに強烈な危機感を抱かせたことは想像に難くない。
トランプを追い詰めることは出来なかった。
だからこそ、記者たちは「次は必ず」という強い意識に突き動かされているのである。
しかしこの種の調査報道のターゲットは権力者だから、本丸にはそう簡単に近づくことは出来ず、少しずつ証拠を集めなければならない。
ワインスタインの調査で大きな壁となるのは、NDA(non-disclosure agreement) と呼ばれる秘密保持契約だ。
一度この契約を結んでしまうと、事実関係を証言することは契約違反となり、相手から訴えられる可能性が出てくる。
暴行した女性への口止め料の条件として、ワインスタイン側がこの契約を結ばせていたことが、調査を難しくしてしまうのだ。
被害の内容と被害者の実名を同時に公表できなければ、罪を認めさせることは出来ないので、二人はなるべく多方面から証拠を集めるのと同時に、実名を出せる告発者を必死に探す。
しかし相手は、各界に独自の情報網を持つメディア・タイクーンだ。
いかにして、相手に悟らないうちに外堀を埋めてしまうか。
調査の舞台は東海岸から西海岸へ、やがてイギリス、香港まで。
ワインスタインの悪行はアメリカに留まらないので、記者もまた国境を越える。
終始淡々と進んでゆく証拠集めのプロセスは、優れたスパイ小説を読んでいるようで、地道な作業だが決して飽きさせることは無い。
なかなか近付いてこない核心に、カンターとトゥーイーの焦燥感も高まってゆくが、二人は共に既婚者で、幼い子供を抱える母親でもあり、彼女らを支える家族との描写に強いモチベーションの動機が垣間見える。
責任ある大人として、また娘たちの母として、自分たちの子供の世代に、被害者と同じ思いをさせるわけにはいかないのである。
秘密保持契約つきの示談に、それを認めてしまっている法律、さらに業界の隠蔽体質と、独裁者の存在を許す会社組織。
告発したくても、それが出来ない、性犯罪者を守り被害者に沈黙を強いる、社会と業界のシステムこそが本当の悪。
さらに、女性が女性の味方とは限らないアイロニー。
ろくに調べもせずに性暴力の訴えを棄却した女性検事が、しれっとワインスタイン側のスタッフに入っていたのは問題の根深さを示唆している。
この事件の報道は当時つぶさに見ていたが、記事の上では単なる記号に過ぎない名前の数々が、映画になると血の通ったキャラクターになり、より深く感情移入。
最初に実名を出すことを決断し、本作にも本人役で出演しているアシュレー・ジャッド、癌手術を控えながら、未来のために実名の公表に踏み切った初期の被害者、ローラ・マッデンの勇気には、大きな拍手を贈りたい。
同時にワインスタインのクズっぷりも、より醜悪に感じられる。
マリア・シュラーダーは、静かな流れがやがて世界を揺るがす激流となってゆくプロセスを、冷静に、しかしエネルギッシュに描く。
これはある意味、共感力を原動力にした21世紀版「大統領の陰謀」だ。
暴かれたのは、トランプの大統領当選という時代の揺り戻し現象によって顕在化した、根深いミソジニーと時代遅れのマッチョイズム。
今も世界中のSNSで告発が相次ぐのだから、決して終わった話ではない。
一方、日本に目を移すと、本来なら大事件のはずの伊藤詩織さんの告発が、大手メディアではほとんど報じられないなど、調査報道の力は明らかに弱い。
この種の調査報道を描いた作品が、邦画ではほとんど見られないのは、それ自体が日本の問題を浮き彫りにしていると思うのは私だけではあるまい。
今回は、勇気ある女性たちに「ホワイトレディ」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、ホワイト・キュラソー15ml、レモン・ジュース15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ホワイトキュラソーとレモンジュースの柑橘系のフレッシュな華やかさと、ジンの辛口な味わいが、口の中で好バランス。
雪のような半透明なホワイトが美しい、エレガントなカクテルだ。

記事が気に入ったらクリックしてね


2023年01月15日 (日) | 編集 |
音楽が映画を支配する。
あまたの名曲を世に送り出し、2020年7月に亡くなった映画音楽の伝説的な”マエストロ” エンニオ・モリコーネの人生を、「ニュー・シネマ・パラダイス」のジュセッペ・トルナトーレ監督がまとめ上げたドキュメンタリー。
デビュー作を除く全ての作品でモリコーネと組んだ、愛弟子からの素晴らしいラブレターだ。
イタリアはローマに、モリコーネが生まれたのは1928年。
この世代の映画音楽の作曲家としては、本作にも登場するジョン・ウィリアムズと双璧だろう。
しかしボストン・ポップス・オーケストラの元常任指揮者でもあり、ルーカス、スピルバーグらのブロックバスター作品で、オーケストラをベースとした正統派映画音楽を提供してきたウィリアムズの仕事に比べると、モリコーネの作品は相当にトリッキーだ。
最初の一音でモリコーネと分かる強烈な個性、他の誰にも似ていない独特の音楽はなぜ生まれたのか?
映画は、モリコーネの幼少期から晩年までの人生を時系列に沿って追いながら、彼の音楽の秘密を紐解いてゆく。
モリコーネの父親はプロのトランペット奏者で、息子にも同じ職についてほしいと思っていたようだ。
実際、若い頃はトランペット奏者としても活動したこともあり、腕前はかなりのもの。
だが息子は演奏職人としての仕事に飽き足らず、サンタ・チェチーリア音楽院で作曲家のゴッフレード・ペトラッシに師事し、曲作りの全てを学ぶ。
もしモリコーネが父親の言い付け通り、素直にトランペット奏者になっていたら、映画史は確実に変わっていただろう。
やがてRCAに所属し、ラジオやテレビの歌謡曲の編曲者として頭角を表す。
彼の編曲は特徴的で、イントロの段階でインパクトのある音を仕込む。
ここを聞いただけで、リスナーは「あっ、あの曲だ」と分かるという訳だ。
やがて映画音楽の世界へと足を踏み入れると、運命的な出会いが待っている。
実は小学校の同級生だったというセルジオ・レオーネとの再会は、モリコーネにイタリアを代表する人気作曲家としての未来を開く。
ここまでの彼のキャリアから、対位法、実験性、即興性といった彼の独特の音楽性のキーワードが見えてくる。
複数の旋律を組み合わせる対位法の重要性は、例えばブライアン・デ・パルマと組んだ「アンタッチャブル」の、伝説的なシカゴ駅のシークエンスなどで遺憾無く発揮されている。
また既存の枠組みに拘らない現代音楽の実験性と、元々演奏家であったことからくる即興性は、足し算ではなく掛け算の効果を生み出しているのが分かる。
ギターや口笛を使った「夕陽のガンマン」や、さまざまな効果音がそのまま音楽である「ウエスタン」の冒頭シークエンスなどのアプローチを見ると、モリコーネは出来上がった映像に音をつけるだけの単なる劇伴作者ではなく、音と映像を融合する重要な“演出”を行っているのだ。
実際に、映画が撮影されるずっと以前から音楽が先行する場合もあったというから、映画音楽の作曲家としてはかなりユニークな存在だったのは確かだろう。
そして、映画史を彩った数々の名曲の誕生秘話。
黛敏郎が音楽を担当し、アカデミー賞にノミネートされたことで知られているジョン・ヒューストン監督の「天地創造」は、最初モリコーネにオファーが来てテスト版を作ったものの、RCAと専属契約していたために参加出来なかった話や、キューブリックからの「時計仕掛けのオレンジ」へのオファーに、セルジオ・レオーネがちょっとした意地悪をした結果、受けられなかったことなど、全く知らなかった。
モリコーネほどのキャリアがあっても、キューブリックとの仕事を逃したのは悔しいのだなあ。
そして、彼の代表曲と言ってもいい「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の「デボラのテーマ」が、本当はゼフィレッリの「エンドレス・ラブ」のために書かれた曲だったというのは驚いた。
ゼフィレッリが既存の曲を使おうとしたために降りたらしいのだが、結果的に曲がより相応しい作品と出会ったというべきか。
「デボラのテーマ」に心酔したレオーネが、撮影現場で曲を流しながら撮影している映像も初めて見るものだった。
サントラ付きの撮影なんて前代未聞なれど、確かにその場にいた全てのスタッフ、キャストは一発で完成時のムードを把握できるだろう。
ここまで来ると、音楽が映画全体の基軸になっていると言ってもいい特殊なケースだが、アカデミックな音楽教育を受けているのに、自らは俗なものとされている映画音楽で名声を得ているというコンプレックスが、この作品によって解消されたというのも面白い。
確かに「デボラのテーマ」は、誰もが認めざるを得ないほど、深みを持った楽曲であることは間違いないだろう。
こういったモリコーネ自らの口から語られる逸話の数々は、まるで映画史の裏側を覗き見るようで、ワクワクが止まらない。
本作を観ると、劇中で引用される作品をまた鑑賞したくなる。
「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「ウエスタン」「1900年」「天国の日々」「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」「ミッション」「アンタッチャブル」「ニュー・シネマ・パラダイス」etc.
ハリウッド大作からB級プログラムピクチュア、はては日本の大河ドラマまで、レオーネの残した仕事は膨大で、本作に出てくるのはそのほんの一部。
なにせ手がけた作品は500本以上にもなるそうだから、未鑑賞の作品も多いのだが、引用される断片だけで、映像と音楽がブワーっと脳裏に蘇ってくるのだ。
レオーネ亡き後、生涯の盟友となったジュセッペ・トルナトーレは、モリコーネを多面的に観察し、複雑な人物像にアプローチしながらも、愛に溢れた人生のクロニクルとして仕上げた。
共にペトラッシの元で学んだ同門であり、60年半ばから10年間にわたってレオーネの楽曲のオーケストラの指揮と共同編曲を担当し、その後袂を分かったブルーノ・ニコライに一切触れていないなど、若干の物足りなさもあるものの、157分はあっという間に過ぎてゆく。
まあニコライに関しては、大のマスコミ嫌いでほとんど資料が残されていないのだろうけど、やはり二人の間には何らかの確執があったのかも知れない。
何はともあれ、映画ファンには必見の作品である。
たくさんの名曲と忘れえぬ思い出をありがとう、マエストロ。
今回は、モリコーネの音楽のようなフルボディのイタリアワイン、「ドン ルイジ リセルヴァ」の2016年をチョイス。
モリーゼ州の名門、ディ・マーヨ・ノランテがモンテプルチャーノで作られるこちらは、タンニンの渋味とフルーティーな甘味が好バランス。
なめらかな喉越しで、複雑なアロマがエレガントな後味を醸し出す。
最近、検疫の関係で輸入が停止されているのが残念だが、イタリア産のハムやサラミと合わせると絶品だ。
記事が気に入ったらクリックしてね
あまたの名曲を世に送り出し、2020年7月に亡くなった映画音楽の伝説的な”マエストロ” エンニオ・モリコーネの人生を、「ニュー・シネマ・パラダイス」のジュセッペ・トルナトーレ監督がまとめ上げたドキュメンタリー。
デビュー作を除く全ての作品でモリコーネと組んだ、愛弟子からの素晴らしいラブレターだ。
イタリアはローマに、モリコーネが生まれたのは1928年。
この世代の映画音楽の作曲家としては、本作にも登場するジョン・ウィリアムズと双璧だろう。
しかしボストン・ポップス・オーケストラの元常任指揮者でもあり、ルーカス、スピルバーグらのブロックバスター作品で、オーケストラをベースとした正統派映画音楽を提供してきたウィリアムズの仕事に比べると、モリコーネの作品は相当にトリッキーだ。
最初の一音でモリコーネと分かる強烈な個性、他の誰にも似ていない独特の音楽はなぜ生まれたのか?
映画は、モリコーネの幼少期から晩年までの人生を時系列に沿って追いながら、彼の音楽の秘密を紐解いてゆく。
モリコーネの父親はプロのトランペット奏者で、息子にも同じ職についてほしいと思っていたようだ。
実際、若い頃はトランペット奏者としても活動したこともあり、腕前はかなりのもの。
だが息子は演奏職人としての仕事に飽き足らず、サンタ・チェチーリア音楽院で作曲家のゴッフレード・ペトラッシに師事し、曲作りの全てを学ぶ。
もしモリコーネが父親の言い付け通り、素直にトランペット奏者になっていたら、映画史は確実に変わっていただろう。
やがてRCAに所属し、ラジオやテレビの歌謡曲の編曲者として頭角を表す。
彼の編曲は特徴的で、イントロの段階でインパクトのある音を仕込む。
ここを聞いただけで、リスナーは「あっ、あの曲だ」と分かるという訳だ。
やがて映画音楽の世界へと足を踏み入れると、運命的な出会いが待っている。
実は小学校の同級生だったというセルジオ・レオーネとの再会は、モリコーネにイタリアを代表する人気作曲家としての未来を開く。
ここまでの彼のキャリアから、対位法、実験性、即興性といった彼の独特の音楽性のキーワードが見えてくる。
複数の旋律を組み合わせる対位法の重要性は、例えばブライアン・デ・パルマと組んだ「アンタッチャブル」の、伝説的なシカゴ駅のシークエンスなどで遺憾無く発揮されている。
また既存の枠組みに拘らない現代音楽の実験性と、元々演奏家であったことからくる即興性は、足し算ではなく掛け算の効果を生み出しているのが分かる。
ギターや口笛を使った「夕陽のガンマン」や、さまざまな効果音がそのまま音楽である「ウエスタン」の冒頭シークエンスなどのアプローチを見ると、モリコーネは出来上がった映像に音をつけるだけの単なる劇伴作者ではなく、音と映像を融合する重要な“演出”を行っているのだ。
実際に、映画が撮影されるずっと以前から音楽が先行する場合もあったというから、映画音楽の作曲家としてはかなりユニークな存在だったのは確かだろう。
そして、映画史を彩った数々の名曲の誕生秘話。
黛敏郎が音楽を担当し、アカデミー賞にノミネートされたことで知られているジョン・ヒューストン監督の「天地創造」は、最初モリコーネにオファーが来てテスト版を作ったものの、RCAと専属契約していたために参加出来なかった話や、キューブリックからの「時計仕掛けのオレンジ」へのオファーに、セルジオ・レオーネがちょっとした意地悪をした結果、受けられなかったことなど、全く知らなかった。
モリコーネほどのキャリアがあっても、キューブリックとの仕事を逃したのは悔しいのだなあ。
そして、彼の代表曲と言ってもいい「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の「デボラのテーマ」が、本当はゼフィレッリの「エンドレス・ラブ」のために書かれた曲だったというのは驚いた。
ゼフィレッリが既存の曲を使おうとしたために降りたらしいのだが、結果的に曲がより相応しい作品と出会ったというべきか。
「デボラのテーマ」に心酔したレオーネが、撮影現場で曲を流しながら撮影している映像も初めて見るものだった。
サントラ付きの撮影なんて前代未聞なれど、確かにその場にいた全てのスタッフ、キャストは一発で完成時のムードを把握できるだろう。
ここまで来ると、音楽が映画全体の基軸になっていると言ってもいい特殊なケースだが、アカデミックな音楽教育を受けているのに、自らは俗なものとされている映画音楽で名声を得ているというコンプレックスが、この作品によって解消されたというのも面白い。
確かに「デボラのテーマ」は、誰もが認めざるを得ないほど、深みを持った楽曲であることは間違いないだろう。
こういったモリコーネ自らの口から語られる逸話の数々は、まるで映画史の裏側を覗き見るようで、ワクワクが止まらない。
本作を観ると、劇中で引用される作品をまた鑑賞したくなる。
「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「ウエスタン」「1900年」「天国の日々」「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」「ミッション」「アンタッチャブル」「ニュー・シネマ・パラダイス」etc.
ハリウッド大作からB級プログラムピクチュア、はては日本の大河ドラマまで、レオーネの残した仕事は膨大で、本作に出てくるのはそのほんの一部。
なにせ手がけた作品は500本以上にもなるそうだから、未鑑賞の作品も多いのだが、引用される断片だけで、映像と音楽がブワーっと脳裏に蘇ってくるのだ。
レオーネ亡き後、生涯の盟友となったジュセッペ・トルナトーレは、モリコーネを多面的に観察し、複雑な人物像にアプローチしながらも、愛に溢れた人生のクロニクルとして仕上げた。
共にペトラッシの元で学んだ同門であり、60年半ばから10年間にわたってレオーネの楽曲のオーケストラの指揮と共同編曲を担当し、その後袂を分かったブルーノ・ニコライに一切触れていないなど、若干の物足りなさもあるものの、157分はあっという間に過ぎてゆく。
まあニコライに関しては、大のマスコミ嫌いでほとんど資料が残されていないのだろうけど、やはり二人の間には何らかの確執があったのかも知れない。
何はともあれ、映画ファンには必見の作品である。
たくさんの名曲と忘れえぬ思い出をありがとう、マエストロ。
今回は、モリコーネの音楽のようなフルボディのイタリアワイン、「ドン ルイジ リセルヴァ」の2016年をチョイス。
モリーゼ州の名門、ディ・マーヨ・ノランテがモンテプルチャーノで作られるこちらは、タンニンの渋味とフルーティーな甘味が好バランス。
なめらかな喉越しで、複雑なアロマがエレガントな後味を醸し出す。
最近、検疫の関係で輸入が停止されているのが残念だが、イタリア産のハムやサラミと合わせると絶品だ。

記事が気に入ったらクリックしてね


2023年01月12日 (木) | 編集 |
いばらを抜けた先に見えるのは?
一人の男と二人の女、ちょっと不思議な三角関係が作り出す、ウェルメイドな心理ドラマ。
2004年の香港映画「ビヨンド・アワ・ケン」を、「愛なのに」の城定秀夫がリメイクした作品だ。
20年近く時間が経っているので、おそらくかなり脚色されているのだろうと思うが、残念ながらオリジナルは未鑑賞。
松本穂香が演じるのは、独り言が声に出てしまう図書館員の富田桃。
彼女は一年間付き合ったカメラマンの健太朗に、突然振られてしまう。
やがて桃は玉城ティナが演じる健太郎の今カノ、真島莉子を訪ね、こう切り出す。
「リベンジポルノって知ってますか?」と。
信用していた健太郎に、危険な写真を取られてしまった桃は、なぜか莉子と共闘し、彼のPCからデータを消去しようとするのである。
恋愛の顛末を描いた話ではあるものの、厳密に言えばこれはラブストーリーでは無い。
映画の前半は、なんとか健太郎の家に忍び込んで、データを消去しようとするプチ ミッション・インポッシブル。
ここまでは割と軽いコメディタッチで展開するのだが、物語が後半に差し掛かるころ、時系列の紐解きと共に、映画はその装いをガラッと変えてくる。
桃と莉子は、本当に元カノと今カノなのか。
健太郎の部屋と桃の部屋に、同じ希少本「Woman's sadness」があるのはなぜか。
二人が健太郎と付き合っていたのは、いつからいつまでなのか。
不誠実な男とその罪をめぐる物語は、いつの間にか同じ痛みを持つ二人の女の関係性、シスターフッドの要素が前面に出てくる。
そして本作のタイトルの由来であり、桃が朗読する民話の「ねむり姫(いばら姫)」と、健太郎のおばあちゃんがガラクタから作っているある物の存在が、本作を女性同士の共感の寓話としてより強く印象付ける。
複雑に絡みあった、恋のいばらの森の向こうに見えてくるのは一体何か。
最初に提示される物語の構図から、観客が思い描くであろう予想を、片っ端からひっくり返してゆくプロセスは見事。
羽毛が舞う「ねむり姫」っぽいビジュアルのファーストカットから、こう繋がるとは思わなかった。
おっとりした分かりやすい陰キャの松本穂香と、キレッキレのダンスを踊る玉城ティナのコンビネーションが絶妙にいい。
一見すると対照的ながら、内面に感じている痛みは共通。
この相関図なら、相手の男のキャラクターが重要になるが、渡邊圭祐が演じる健太郎は、爽やかなルックスになかなかの中身クズっぷりで、寓話の悪役には相応しい。
終盤、普段はモデルの撮影をしている健太郎が、服のみを撮影しているシーンがあるのだが、結局彼は相手の中身を見てないことを示唆して秀逸。
他の男性キャラクターでは、桃の元々カレの中島歩が「愛なのに」の“セックスの下手な婚約者“を思わせる気持ち悪いキャラクターでかなり可笑しい。
わずかな登場時間だが、美味しいところをさらって行く。
ところで本作を観て、ずいぶん昔の話を思い出した。
私の女友だちが既婚のチャラ男と不倫してたんだけど、どう言う訳だかいつの間にか相手の男の奥さんと仲良くなってた(笑
そんで共通の敵となった男を、二人でやり込めて土下座させていたっけ。
こう言う対立から共感へと向かう関係性って、男性同士ではあんまり想像出来ない。
女心はややこしく、ちょっとコワイ。
今回は、「ねむり姫」から「スリーピング・ビューティー」をチョイス。
ヒプノティック90mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
次にキンキーピンク・リキュール60ml、ウォッカ60ml、レモンライム・ソーダ30mlを氷と共にシェイクし、青いヒプノテックの層を壊さないように、静かに注ぎ入れる。
ヒプノティックは数種類のトロピカルフルーツと、ウォッカ、コニャックをブレンドして作られるリキュール。
キンキーピンクが入手できない時は、類似のピンク系リキュールでも可。
ディズニープリンセスのドレスを思わせる、ピンクからブルーへのグラデーションが美しい、甘酸っぱいファンタジックなカクテルだ。
記事が気に入ったらクリックしてね
一人の男と二人の女、ちょっと不思議な三角関係が作り出す、ウェルメイドな心理ドラマ。
2004年の香港映画「ビヨンド・アワ・ケン」を、「愛なのに」の城定秀夫がリメイクした作品だ。
20年近く時間が経っているので、おそらくかなり脚色されているのだろうと思うが、残念ながらオリジナルは未鑑賞。
松本穂香が演じるのは、独り言が声に出てしまう図書館員の富田桃。
彼女は一年間付き合ったカメラマンの健太朗に、突然振られてしまう。
やがて桃は玉城ティナが演じる健太郎の今カノ、真島莉子を訪ね、こう切り出す。
「リベンジポルノって知ってますか?」と。
信用していた健太郎に、危険な写真を取られてしまった桃は、なぜか莉子と共闘し、彼のPCからデータを消去しようとするのである。
恋愛の顛末を描いた話ではあるものの、厳密に言えばこれはラブストーリーでは無い。
映画の前半は、なんとか健太郎の家に忍び込んで、データを消去しようとするプチ ミッション・インポッシブル。
ここまでは割と軽いコメディタッチで展開するのだが、物語が後半に差し掛かるころ、時系列の紐解きと共に、映画はその装いをガラッと変えてくる。
桃と莉子は、本当に元カノと今カノなのか。
健太郎の部屋と桃の部屋に、同じ希少本「Woman's sadness」があるのはなぜか。
二人が健太郎と付き合っていたのは、いつからいつまでなのか。
不誠実な男とその罪をめぐる物語は、いつの間にか同じ痛みを持つ二人の女の関係性、シスターフッドの要素が前面に出てくる。
そして本作のタイトルの由来であり、桃が朗読する民話の「ねむり姫(いばら姫)」と、健太郎のおばあちゃんがガラクタから作っているある物の存在が、本作を女性同士の共感の寓話としてより強く印象付ける。
複雑に絡みあった、恋のいばらの森の向こうに見えてくるのは一体何か。
最初に提示される物語の構図から、観客が思い描くであろう予想を、片っ端からひっくり返してゆくプロセスは見事。
羽毛が舞う「ねむり姫」っぽいビジュアルのファーストカットから、こう繋がるとは思わなかった。
おっとりした分かりやすい陰キャの松本穂香と、キレッキレのダンスを踊る玉城ティナのコンビネーションが絶妙にいい。
一見すると対照的ながら、内面に感じている痛みは共通。
この相関図なら、相手の男のキャラクターが重要になるが、渡邊圭祐が演じる健太郎は、爽やかなルックスになかなかの中身クズっぷりで、寓話の悪役には相応しい。
終盤、普段はモデルの撮影をしている健太郎が、服のみを撮影しているシーンがあるのだが、結局彼は相手の中身を見てないことを示唆して秀逸。
他の男性キャラクターでは、桃の元々カレの中島歩が「愛なのに」の“セックスの下手な婚約者“を思わせる気持ち悪いキャラクターでかなり可笑しい。
わずかな登場時間だが、美味しいところをさらって行く。
ところで本作を観て、ずいぶん昔の話を思い出した。
私の女友だちが既婚のチャラ男と不倫してたんだけど、どう言う訳だかいつの間にか相手の男の奥さんと仲良くなってた(笑
そんで共通の敵となった男を、二人でやり込めて土下座させていたっけ。
こう言う対立から共感へと向かう関係性って、男性同士ではあんまり想像出来ない。
女心はややこしく、ちょっとコワイ。
今回は、「ねむり姫」から「スリーピング・ビューティー」をチョイス。
ヒプノティック90mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
次にキンキーピンク・リキュール60ml、ウォッカ60ml、レモンライム・ソーダ30mlを氷と共にシェイクし、青いヒプノテックの層を壊さないように、静かに注ぎ入れる。
ヒプノティックは数種類のトロピカルフルーツと、ウォッカ、コニャックをブレンドして作られるリキュール。
キンキーピンクが入手できない時は、類似のピンク系リキュールでも可。
ディズニープリンセスのドレスを思わせる、ピンクからブルーへのグラデーションが美しい、甘酸っぱいファンタジックなカクテルだ。

記事が気に入ったらクリックしてね


2023年01月07日 (土) | 編集 |
運命に、抗え。
バカンス客で混み合う、韓国仁川国際空港発ハワイ・ホノルル行きのボーイング777に、致死性のウィルスが撒かれる。
スケールの大きな航空パニック映画で、いわば懐かしの「エアポート・シリーズ」ミーツ「カサンドラ・クロス」だ。
イム・シワン演じる自殺願望の化学者が持ち込んだのは、感染すると皮膚に水疱ができ、やがて血管が破裂して死にいたるウィルス。
機内で感染が広がる中、正体不明のウィルスに汚染された旅客機には、どこからも着陸許可が降りないまま燃料は徐々に減ってゆき墜落の時が迫る。
韓国大統領選の陰で蠢く検事たちを描いた、「ザ・キング」のハン・ジェリムが監督とオリジナル脚本を手がけ、演じるは機上のイ・ビョンホン、事件の背景を追う刑事ソン・ガンホ、対策を統括する国交大臣チョン・ドヨンという重厚な布陣。
航空パニック映画と言っても、ハリウッド作品のように物理的な墜落の危機で盛り上げるのは最小限にとどめている。
もちろん、映像的なクオリティは極めて高い。
機長がウィルスで死亡しきりもみ状態になったり、成田に強行着陸しようとして自衛隊のF-2戦闘機のインターセプトを受けたりするシークエンスは、非常にスリリングで良くできているのだが、主眼はあくまでもリアリティたっぷりの人間ドラマだ。
軸となる三人のうち、トラウマを抱えた元パイロット役のイ・ビョンホンは、機内で今そこにある危機に対処しながら、自らの過去と向き合う。
妻が事件の起きた旅客機に搭乗しているソン・ガンホ刑事は、燃料が尽きるまでに正体不明のウィルスの出どころと治療法を探す役割。
そしてチョン・ドヨンが貫禄たっぷりに演じる国交大臣は、未曾有の事態に対応する全てをまとめ上げ、いざという時に責任を負う。
重量級のキャストによる、それぞれのポジションにいるからこそ出来る闘いが重層的に動き、誰もがリアルタイムで繋がる現代のネット環境が、機上の乗客たちに希望と絶望をもたらす。
韓国特有の激しいデモ文化や、航路にあたる日米両国の政治的反応なども、効果的な変数として上手くプロットに組み込まれている。
そして、未知のウィルスに汚染されているとしても、墜落の危機にある同胞を見捨てるのか否かという選択に、セウォル号の転覆事故の影響が見て取れるのが興味深い。
沈みゆく船から責任ある大人たちが先に脱出し、見捨てられた乗客の高校生ら299人もの死者を出した悲劇。
Netflixのドラマ「今、私たちの学校は」などでも、ゾンビパニックをセウォル号に見立てていたが、結果的に朴槿恵大統領の弾劾にまで繋がったあの事件は、韓国人の心に忘れえぬ傷を残したのだろう。
セウォル号が韓国人にとっての3.11であり9.11だと考えると、旅客機の着陸に反対と賛成の二つのデモ隊は、「シン・ゴジラ」で国会に押し寄せ「ゴジラを殺せ」と「ゴジラを守れ」と真逆のシュプレヒコールをあげるデモ隊と同じような意味なのかも知れない。
わずか十数時間にあらゆることが起こるので、冷静に考えると色々ツッコミどころも多いものの、社会性を背景に織り込みつつ、空と陸に別れた現場のシチュエーション変化で、グイグイ引っ張る骨太のエンターテインメント大作。
完全なハッピーエンドで落とさず、ある人物に取り返しのつかない大きな傷を残すのも、リアリティ重視を裏付ける。
この種のたっぷりお金のかかったスペクタクルな現代劇は、すっかり日本では作られなくなったけど、お隣では成立するのが素直に羨ましい。
本作のバジェットは260億ウォンだが、日本の実写映画ではお金のかかっている「キングダム」でも直接製作費は大体10億円だそうだから、だいぶ水を開けられてしまった。
ぶっちゃけ、企画力の差が大き過ぎるが、懐かしの大傑作「新幹線大爆破」みたいなの、また日本でも作れないものか。
ところで、旅客機がウィルスに汚染される設定の元祖であろう、「パニック・イン・SST /デス・フライト」という1977年に作られた知る人ぞ知るTV映画があるのだが、乗客が自分たちがどうするべきなのか決を採ったりする描写があり、本作もインスパイアされているのかも知れない。
今回は空を思わせるブルーのボトルでお馴染みの「スカイ・ウォッカ」をチョイス。
カリフォルニアはサンフランシスコのスカイスピリッツが製造するウォッカで、蒸留と濾過を繰り返し不純物をほとんど含まない。
カクテルベースとして使われるが、そのまま飲んでも美味しい。
私のおすすめは冷凍庫でシャーベット状になるまでキンキンに冷やし、水割りにすること。
まさしく、青空のようにクリアな味わいだ。
記事が気に入ったらクリックしてね
バカンス客で混み合う、韓国仁川国際空港発ハワイ・ホノルル行きのボーイング777に、致死性のウィルスが撒かれる。
スケールの大きな航空パニック映画で、いわば懐かしの「エアポート・シリーズ」ミーツ「カサンドラ・クロス」だ。
イム・シワン演じる自殺願望の化学者が持ち込んだのは、感染すると皮膚に水疱ができ、やがて血管が破裂して死にいたるウィルス。
機内で感染が広がる中、正体不明のウィルスに汚染された旅客機には、どこからも着陸許可が降りないまま燃料は徐々に減ってゆき墜落の時が迫る。
韓国大統領選の陰で蠢く検事たちを描いた、「ザ・キング」のハン・ジェリムが監督とオリジナル脚本を手がけ、演じるは機上のイ・ビョンホン、事件の背景を追う刑事ソン・ガンホ、対策を統括する国交大臣チョン・ドヨンという重厚な布陣。
航空パニック映画と言っても、ハリウッド作品のように物理的な墜落の危機で盛り上げるのは最小限にとどめている。
もちろん、映像的なクオリティは極めて高い。
機長がウィルスで死亡しきりもみ状態になったり、成田に強行着陸しようとして自衛隊のF-2戦闘機のインターセプトを受けたりするシークエンスは、非常にスリリングで良くできているのだが、主眼はあくまでもリアリティたっぷりの人間ドラマだ。
軸となる三人のうち、トラウマを抱えた元パイロット役のイ・ビョンホンは、機内で今そこにある危機に対処しながら、自らの過去と向き合う。
妻が事件の起きた旅客機に搭乗しているソン・ガンホ刑事は、燃料が尽きるまでに正体不明のウィルスの出どころと治療法を探す役割。
そしてチョン・ドヨンが貫禄たっぷりに演じる国交大臣は、未曾有の事態に対応する全てをまとめ上げ、いざという時に責任を負う。
重量級のキャストによる、それぞれのポジションにいるからこそ出来る闘いが重層的に動き、誰もがリアルタイムで繋がる現代のネット環境が、機上の乗客たちに希望と絶望をもたらす。
韓国特有の激しいデモ文化や、航路にあたる日米両国の政治的反応なども、効果的な変数として上手くプロットに組み込まれている。
そして、未知のウィルスに汚染されているとしても、墜落の危機にある同胞を見捨てるのか否かという選択に、セウォル号の転覆事故の影響が見て取れるのが興味深い。
沈みゆく船から責任ある大人たちが先に脱出し、見捨てられた乗客の高校生ら299人もの死者を出した悲劇。
Netflixのドラマ「今、私たちの学校は」などでも、ゾンビパニックをセウォル号に見立てていたが、結果的に朴槿恵大統領の弾劾にまで繋がったあの事件は、韓国人の心に忘れえぬ傷を残したのだろう。
セウォル号が韓国人にとっての3.11であり9.11だと考えると、旅客機の着陸に反対と賛成の二つのデモ隊は、「シン・ゴジラ」で国会に押し寄せ「ゴジラを殺せ」と「ゴジラを守れ」と真逆のシュプレヒコールをあげるデモ隊と同じような意味なのかも知れない。
わずか十数時間にあらゆることが起こるので、冷静に考えると色々ツッコミどころも多いものの、社会性を背景に織り込みつつ、空と陸に別れた現場のシチュエーション変化で、グイグイ引っ張る骨太のエンターテインメント大作。
完全なハッピーエンドで落とさず、ある人物に取り返しのつかない大きな傷を残すのも、リアリティ重視を裏付ける。
この種のたっぷりお金のかかったスペクタクルな現代劇は、すっかり日本では作られなくなったけど、お隣では成立するのが素直に羨ましい。
本作のバジェットは260億ウォンだが、日本の実写映画ではお金のかかっている「キングダム」でも直接製作費は大体10億円だそうだから、だいぶ水を開けられてしまった。
ぶっちゃけ、企画力の差が大き過ぎるが、懐かしの大傑作「新幹線大爆破」みたいなの、また日本でも作れないものか。
ところで、旅客機がウィルスに汚染される設定の元祖であろう、「パニック・イン・SST /デス・フライト」という1977年に作られた知る人ぞ知るTV映画があるのだが、乗客が自分たちがどうするべきなのか決を採ったりする描写があり、本作もインスパイアされているのかも知れない。
今回は空を思わせるブルーのボトルでお馴染みの「スカイ・ウォッカ」をチョイス。
カリフォルニアはサンフランシスコのスカイスピリッツが製造するウォッカで、蒸留と濾過を繰り返し不純物をほとんど含まない。
カクテルベースとして使われるが、そのまま飲んでも美味しい。
私のおすすめは冷凍庫でシャーベット状になるまでキンキンに冷やし、水割りにすること。
まさしく、青空のようにクリアな味わいだ。

記事が気に入ったらクリックしてね
| ホーム |