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※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
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2023年03月30日 (木) | 編集 |
理想の父親の姿とは。
認知症患者の視点で世界を描いた傑作、「ファーザー」のフロリアン・ゼレールが描く、もう一つの親子の物語。
ヒュー・ジャックマン演じる敏腕弁護士のピーターは、ニューヨークで妻のベスと生まれたばかりの息子を育てている。
仕事も順調でキャリアアップに繋がるオファーも受けており、人生は順風満帆。
そんな時、別れた妻のケイトから、17歳の息子ニコラスの異変を知らされる。
ニコラスはもう1ヶ月も学校に行っておらず、ケイトとは会話がほとんど成立しないので原因も分からない。
でも、彼の中で確実に何かが起こっている。
ピーターは一時的にニコラスを引き取り、父親として彼を心の闇から救い出そうと奮闘する。
本作は「ファーザー」の前日譚として書かれたゼレールの戯曲、「Le Fils(息子)」を原作としており、撮影監督のベン・スミサードや編集のヨルゴス・ランプリノスらスタッフの多くも続投。
ただピーターの父を演じるアンソニー・ホプキンスの役名は、どちらの映画でも“アンソニー”ではあるのだが、二人が同一人物なのかは明示されない。
このことからも分かるように、タイトルの「The Son 息子」には二重の意味がある。
ピーターはアンソニーにとっては息子だが、ニコラスにとってはたった一人の父なのだ。
家庭を顧みない厳格で傲慢なアンソニーの元で育ったピーターは、わだかまりを引きずる父を反面教師として理想の父親として振る舞おうとする。
オファーされていた選挙参謀の仕事も断り、息子の理解者として寄り添おうとすることで、自分はアンソニーとは違うと示そうとするのだ。
だが彼の決意は、意欲とは裏腹に空回りし続ける。
ニューヨークに引き取って、しばらくは上手くいっているように見える。
ニコラスは何も語らないが、異変の原因が元の学校で起こった何かだと考えたピーターは、学校を変われば元に戻ると思っている。
実際、新しい学校に通いだしたニコラスは、徐々に“普通”を取り戻している様に見える。
だが全ては虚像なのである。
思春期の心に巣食う闇は、想像以上に深く手強い。
実はニコラスは新しい学校には行っておらず、ベッドのマットレスの下にはナイフを隠して、自傷行為を繰り返している。
ついに彼は、医師から「急性うつ病」という病名を診断される。
本作が切ないのは、誰も悪くないこと。
登場人物の全員が、良かれと思って出来ることを全てやる。
でも、どうしても上手く行かない。
愛は人と人の繋がりの上で、とても重要な感情だが、愛で全ては救えない。
中盤に作劇用語でいう「チェーホフの銃」が、まんまの形で出てくる。
物語の中で登場させた要素は、必ず使わなければならないという原則だが、ほとんどの人は銃の存在が明かされた時点で、最悪の結末を想像したはず。
しかも本作が憎いのは、終盤にあるユニークな工夫をした上で落とすこと。
私はあそこで心底ホッとしたので、ますますキツく感じた。
親子と言っても所詮は他人で、心のうちは分からない。
自分の理想を追求しても、そもそも求めているものが皆違う。
主演のヒュー・ジャックマンが素晴らしく、とてもいい映画なのだが、同時にひどくやるせない話でもあり、心を容赦なく抉ってくるのから、観るなら精神状態がいい時にするべき。
本作を「ファーザー」の前日譚と捉えると、傲慢に開き直った20世紀の父親が、数年後には死ぬまで出られない心の迷宮に落ちるのも皮肉だ。
ところで、本作の原作「Le Fils(息子)」は、ゼレールの戯曲シリーズ「家族三部作」の最終章。
第二部に当たるのが「ファーザー」の原作「Le Père(父)」で、第一部の「La Mère(母)」のみ未映画化。
映画は第三部として「マザー」をやるのだろうか?
今回は、ビターな映画に合わせて、甘酸っぱくほろ苦いカクテル「ニューヨーク」をチョイス。
ライまたはバーボンウィスキー45ml、ライムジュース15ml、グレナデン・シロップ1/2tsp、砂糖1tspをシェイクしてグラスに注ぎ、オレンジピールを絞りかけて完成。
ウィスキーのコクとライムの酸味がバランスし、グレナデン・シロップと砂糖のほのかな甘味がアクセント。
成熟した大人のためのカクテルだ。
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認知症患者の視点で世界を描いた傑作、「ファーザー」のフロリアン・ゼレールが描く、もう一つの親子の物語。
ヒュー・ジャックマン演じる敏腕弁護士のピーターは、ニューヨークで妻のベスと生まれたばかりの息子を育てている。
仕事も順調でキャリアアップに繋がるオファーも受けており、人生は順風満帆。
そんな時、別れた妻のケイトから、17歳の息子ニコラスの異変を知らされる。
ニコラスはもう1ヶ月も学校に行っておらず、ケイトとは会話がほとんど成立しないので原因も分からない。
でも、彼の中で確実に何かが起こっている。
ピーターは一時的にニコラスを引き取り、父親として彼を心の闇から救い出そうと奮闘する。
本作は「ファーザー」の前日譚として書かれたゼレールの戯曲、「Le Fils(息子)」を原作としており、撮影監督のベン・スミサードや編集のヨルゴス・ランプリノスらスタッフの多くも続投。
ただピーターの父を演じるアンソニー・ホプキンスの役名は、どちらの映画でも“アンソニー”ではあるのだが、二人が同一人物なのかは明示されない。
このことからも分かるように、タイトルの「The Son 息子」には二重の意味がある。
ピーターはアンソニーにとっては息子だが、ニコラスにとってはたった一人の父なのだ。
家庭を顧みない厳格で傲慢なアンソニーの元で育ったピーターは、わだかまりを引きずる父を反面教師として理想の父親として振る舞おうとする。
オファーされていた選挙参謀の仕事も断り、息子の理解者として寄り添おうとすることで、自分はアンソニーとは違うと示そうとするのだ。
だが彼の決意は、意欲とは裏腹に空回りし続ける。
ニューヨークに引き取って、しばらくは上手くいっているように見える。
ニコラスは何も語らないが、異変の原因が元の学校で起こった何かだと考えたピーターは、学校を変われば元に戻ると思っている。
実際、新しい学校に通いだしたニコラスは、徐々に“普通”を取り戻している様に見える。
だが全ては虚像なのである。
思春期の心に巣食う闇は、想像以上に深く手強い。
実はニコラスは新しい学校には行っておらず、ベッドのマットレスの下にはナイフを隠して、自傷行為を繰り返している。
ついに彼は、医師から「急性うつ病」という病名を診断される。
本作が切ないのは、誰も悪くないこと。
登場人物の全員が、良かれと思って出来ることを全てやる。
でも、どうしても上手く行かない。
愛は人と人の繋がりの上で、とても重要な感情だが、愛で全ては救えない。
中盤に作劇用語でいう「チェーホフの銃」が、まんまの形で出てくる。
物語の中で登場させた要素は、必ず使わなければならないという原則だが、ほとんどの人は銃の存在が明かされた時点で、最悪の結末を想像したはず。
しかも本作が憎いのは、終盤にあるユニークな工夫をした上で落とすこと。
私はあそこで心底ホッとしたので、ますますキツく感じた。
親子と言っても所詮は他人で、心のうちは分からない。
自分の理想を追求しても、そもそも求めているものが皆違う。
主演のヒュー・ジャックマンが素晴らしく、とてもいい映画なのだが、同時にひどくやるせない話でもあり、心を容赦なく抉ってくるのから、観るなら精神状態がいい時にするべき。
本作を「ファーザー」の前日譚と捉えると、傲慢に開き直った20世紀の父親が、数年後には死ぬまで出られない心の迷宮に落ちるのも皮肉だ。
ところで、本作の原作「Le Fils(息子)」は、ゼレールの戯曲シリーズ「家族三部作」の最終章。
第二部に当たるのが「ファーザー」の原作「Le Père(父)」で、第一部の「La Mère(母)」のみ未映画化。
映画は第三部として「マザー」をやるのだろうか?
今回は、ビターな映画に合わせて、甘酸っぱくほろ苦いカクテル「ニューヨーク」をチョイス。
ライまたはバーボンウィスキー45ml、ライムジュース15ml、グレナデン・シロップ1/2tsp、砂糖1tspをシェイクしてグラスに注ぎ、オレンジピールを絞りかけて完成。
ウィスキーのコクとライムの酸味がバランスし、グレナデン・シロップと砂糖のほのかな甘味がアクセント。
成熟した大人のためのカクテルだ。

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2023年03月30日 (木) | 編集 |
殺しの腕は一流、生活力は三流。
髙石あかりと伊澤彩織とが演じる、ちさととまひろの殺し屋コンビ、第二弾。
広がり続ける阪元裕吾監督の殺し屋ワールドが、遂にシネコンに進出だ。
予算感も過去の作品よりも多少多そうではあるが、あくまでも前作を踏まえた正常進化版。
二年前の「ベイビーわるきゅーれ」では、高校を卒業した二人が、自立した大人になることを所属する殺し屋協会から迫られていた。
ところが本作では、ジムの会費を数年間も滞納し、保険のプラン切り替えも怠って借金まみれとなり、日々の生活にも困るようになるなど、相変わらず生活力が全く無い(笑
おまけに銀行強盗をぶっ倒してしまい、殺し屋業を謹慎させられてしまう。
そんな二人のポジションを、丞威と濱田龍臣の新人の“バイト”殺し屋兄弟が狙う。
なんでも殺し屋の世界でも、殺し屋協会に入ってる正規の殺し屋の他に、下請けや孫請けの“バイト”が存在していて、正規職になるのが非正規の夢らしい。
大人としてはダメダメだけど、まひろとちさとは一応正規職。
殺し屋の世界も格差社会なのが世知辛い。
このシリーズも含めて、阪元裕吾の殺し屋ワールドは、基本「ジョン・ウィック」の下町版。
合法的では無いのだろうが、殺し屋の社会が存在して、そのシステムの中で色々な役割を持つ人たちが動いている。
一般人は基本モブなので、映画に出てくるのは殺し屋ソサエティの関係者だけで、殺し屋の間のみで話が動く。
だから本作はアクション映画であるのと同時に、殺し屋の世界を現実のメタファーとしたお仕事コメディでもあるんだな。
正規のポジションを狙うバイト兄弟も、この種の映画にありがちな頭のネジが飛んでる人ではなく、バイト殺し屋である以外はごく普通の若者なのがいい。
正規職になれないと片思いの彼女に告れないとか、悩みがリアル過ぎる(笑
だからこそ主役の二人も兄弟をIFの自分として見て、敵ながら感情移入してしまうのだ。
謹慎中でも稼がないと借金返せないので、ちさととまひろも働くが、その労働の悪戦苦闘が笑いを生む。
二人の着ぐるみショーのコントも相当可笑しかったが、殺し現場の清掃人の田坂のキャラとかも美味しいすぎるだろ。
本格的なアクションシークエンスは、終盤に絞るスタイルは前作同様。
今回は敵が二人だけなこともあり、相対的にアクションの割合は減ってるのだが、その分ために溜めたクライマックスは大いに盛り上がる。
髙石あかりの銃器アクションが、ガンカタみたいでレベルは超高度ながら、ボリューム少な目なのはちょっと残念だが、伊澤彩織の格闘アクションは前作以上にキレキレだ。
対戦相手のバイト兄を演じる丞威も空手の達人だそうで、なるほどパンチ一発をとっても重みを感じさせる。
また兄弟との二対二の対決だからこそ、お互いの絆の強さも試され、普段は仲良くど突き合うちさととまひろの距離感も、ここへ来て百合風味を感じさせるほどぐっと近くなるのがいい。
それにしても、殺し屋ワールドのシネコン進出は感慨深いものがある。
第三弾があるなら、そろそろ国岡シリーズなど、他の作品とのクロスオーバーも期待したいところ。
エンドクレジットのロール速度が倍速?って速さなんだが、その後に映像があるからなのね。
マーベル映画とか、クレジット後に映像があるのが確実なハリウッド映画も、この方式を採用してほしい。
今回は、「エンジェル・フェイス」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、カルバドス15ml、アプリコット・ブランデー15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
リンゴのブランデー、カルヴァドスとアプリコット・ブランデーという甘めのお酒を、ドライ・ジンがスッキリとまとめ上げる。
可愛らしい名前だが、実はこれは1920年代に活動したギャングのボス、エイブ・カミンスキーのニックネームで、彼に因んで名付けられたと言う説がある。
優しい味わいで飲みやすく、女性に人気のカクテルだが、度数は結構強いのだ。
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髙石あかりと伊澤彩織とが演じる、ちさととまひろの殺し屋コンビ、第二弾。
広がり続ける阪元裕吾監督の殺し屋ワールドが、遂にシネコンに進出だ。
予算感も過去の作品よりも多少多そうではあるが、あくまでも前作を踏まえた正常進化版。
二年前の「ベイビーわるきゅーれ」では、高校を卒業した二人が、自立した大人になることを所属する殺し屋協会から迫られていた。
ところが本作では、ジムの会費を数年間も滞納し、保険のプラン切り替えも怠って借金まみれとなり、日々の生活にも困るようになるなど、相変わらず生活力が全く無い(笑
おまけに銀行強盗をぶっ倒してしまい、殺し屋業を謹慎させられてしまう。
そんな二人のポジションを、丞威と濱田龍臣の新人の“バイト”殺し屋兄弟が狙う。
なんでも殺し屋の世界でも、殺し屋協会に入ってる正規の殺し屋の他に、下請けや孫請けの“バイト”が存在していて、正規職になるのが非正規の夢らしい。
大人としてはダメダメだけど、まひろとちさとは一応正規職。
殺し屋の世界も格差社会なのが世知辛い。
このシリーズも含めて、阪元裕吾の殺し屋ワールドは、基本「ジョン・ウィック」の下町版。
合法的では無いのだろうが、殺し屋の社会が存在して、そのシステムの中で色々な役割を持つ人たちが動いている。
一般人は基本モブなので、映画に出てくるのは殺し屋ソサエティの関係者だけで、殺し屋の間のみで話が動く。
だから本作はアクション映画であるのと同時に、殺し屋の世界を現実のメタファーとしたお仕事コメディでもあるんだな。
正規のポジションを狙うバイト兄弟も、この種の映画にありがちな頭のネジが飛んでる人ではなく、バイト殺し屋である以外はごく普通の若者なのがいい。
正規職になれないと片思いの彼女に告れないとか、悩みがリアル過ぎる(笑
だからこそ主役の二人も兄弟をIFの自分として見て、敵ながら感情移入してしまうのだ。
謹慎中でも稼がないと借金返せないので、ちさととまひろも働くが、その労働の悪戦苦闘が笑いを生む。
二人の着ぐるみショーのコントも相当可笑しかったが、殺し現場の清掃人の田坂のキャラとかも美味しいすぎるだろ。
本格的なアクションシークエンスは、終盤に絞るスタイルは前作同様。
今回は敵が二人だけなこともあり、相対的にアクションの割合は減ってるのだが、その分ために溜めたクライマックスは大いに盛り上がる。
髙石あかりの銃器アクションが、ガンカタみたいでレベルは超高度ながら、ボリューム少な目なのはちょっと残念だが、伊澤彩織の格闘アクションは前作以上にキレキレだ。
対戦相手のバイト兄を演じる丞威も空手の達人だそうで、なるほどパンチ一発をとっても重みを感じさせる。
また兄弟との二対二の対決だからこそ、お互いの絆の強さも試され、普段は仲良くど突き合うちさととまひろの距離感も、ここへ来て百合風味を感じさせるほどぐっと近くなるのがいい。
それにしても、殺し屋ワールドのシネコン進出は感慨深いものがある。
第三弾があるなら、そろそろ国岡シリーズなど、他の作品とのクロスオーバーも期待したいところ。
エンドクレジットのロール速度が倍速?って速さなんだが、その後に映像があるからなのね。
マーベル映画とか、クレジット後に映像があるのが確実なハリウッド映画も、この方式を採用してほしい。
今回は、「エンジェル・フェイス」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、カルバドス15ml、アプリコット・ブランデー15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
リンゴのブランデー、カルヴァドスとアプリコット・ブランデーという甘めのお酒を、ドライ・ジンがスッキリとまとめ上げる。
可愛らしい名前だが、実はこれは1920年代に活動したギャングのボス、エイブ・カミンスキーのニックネームで、彼に因んで名付けられたと言う説がある。
優しい味わいで飲みやすく、女性に人気のカクテルだが、度数は結構強いのだ。

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2023年03月25日 (土) | 編集 |
冒険魂を取り戻せ!
ゼロ年代に大ヒットした「シュレック」シリーズから、人気キャラクターの「長ぐつをはいたネコ」ことプスを主人公としたスピンオフ、11年ぶりの長編第二作。
無鉄砲な冒険快楽主義者のプスが、ネコの9つの命のうち既に8つを失ったことに気付く。
ビビって一度は引退するものの、もう一度命を全部取り戻すべく、全ての願いを叶えると言う、伝説の“願い星”の争奪戦に身を投じる。
プスと元カノのキティは、引き続きアントニオ・バンデラスとサルマ・ハエックが演じ、二人とチームとなるワンコにはハービー・ギレン。
他にもオリビア・コールマンやフローレンス・ピュー、レイ・ウィンストンら豪華な布陣が脇を固める。
監督は、長年ドリームワークスアニメーションで、ストーリーアーティストとして活躍したジョエル・クロフォードが務める。
前作を軽々と超える快作であり、ハリウッドには珍しいネコ愛全開のネコ派映画である。
イヌも可愛いけど。
幾多の冒険を生き抜いてきたプス(アントニオ・バンデラス)は、巨大なモンスターと戦った時に8度目の死を経験する。
目が覚めると、彼は医者から残された命が一つしかないことを告げられる。
プスは賞金稼ぎのオオカミ(ヴァグネル・モウラ)と戦い、敗北したことで死を恐れるようになり、マントとブーツを脱ぎ捨てて、医者に紹介されたママ・ルナの家でペットになることに。
平凡で退屈な日々を送っていたある日、ママ・ルナの家をゴルティ(フローレンス・ピュー)と三匹の熊の一味が襲撃し、プスはネコのふりをしているセラピードッグ志望のワンコ(ハーベイ・ギーエン)と逃げ出す。
どんな願いも叶えるという、“願い星”への宝の地図の存在を知ったプスは、元カノのキティ(サルマ・ハエック)とワンコと即席のチームを組み、悪漢“ビッグ”ジャック・ホーナー(ジョン・ムレイニー)から地図を奪う。
願い星で9つの命を取り戻そうとするプスと、彼らを追うゴルティ一味、ジャック・ホーナーの間で三つ巴の争奪戦が始まった・・・・
モチーフになっているネコの9つの命というのは、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の作中にも引用されているほどで、その謂れは一説には古代エジプトまで遡るという。
時に無謀な挑戦してクリアしちゃうからだとか、気まぐれにあちこちに出没するからだとか、理由はたくさんあるのだろうが、この故事をそのまんまの意味にとらえたアイディアが秀逸。
命を無くすことを軽く考え、冒険の旅を楽しんでいたプスは、命が残り一つしか残ってないことを知り、自分よりも強いオオカミと出会ったことで、途端に“死”がリアルなものとなって怖気付く。
引退して平和で退屈な余生を送ることを決めるも、願い星の地図を“ビッグ”ジャック・ホーナーから奪うため、プスを使おうとするゴルティたちの襲撃を受けて結局流浪の旅に逆戻り。
ここからは願い星への地図を巡って、プスとキティとワンコの「長ぐつをはいたネコ」チーム、ゴルティと熊ファミリーの「三匹の熊」チーム、“ビッグ”ジャック・ホーナーの「ちびっこジャック・ホーナー」チームの三つ巴の争奪戦。
なるほど、前作からして西部劇オマージュ&パロディが満載だったが、本作は物語のベースとなっているのが、セルジオ・レオーネの「続・夕陽のガンマン」なんだな。
もちろん役割は大きく変わっているのだけど、三つの物語のチームがそれぞれ“the Good, the Bad and the Ugly”にあたるという訳。
願い星への宝の地図争奪戦を軸に、キャラクターが本来属する物語の持つテーマが、改めてクローズアップされる構図。
主人公のプスは渋ーい声のバンデラスを起用しているくらいだから、多分ネコとしては中年なのだろうが、中身は完全に厨二病。
虚栄心と承認欲求の塊の様なキャラクターで、カッコいい自分のことが大好き。
家庭を持つと何かが変わってしまうのではと恐れ、過去にキティとの結婚式もすっぽかした。
そんなプスが人生に突然現れた“本当の死”に怯え、無茶な行動をできなくなったことで、過剰な自己愛から脱し、チームプレイを通して他人を愛し愛されることで生まれる、“信頼”という新しい価値観に目覚めてゆく。
大人だってきっかけと努力があれば変われるという、ミドルエイジの成長物語として非常に良く出来ている。
他の物語チームも、それぞれに葛藤を抱えている。
オリジナルの童話「三匹の熊」では、熊の家族の留守宅に入り込んだ少女ゴルティが、スープの熱さや椅子の硬さで「ちょうどいい」を見つけてゆくが、熊たちが帰宅したことに驚いて逃げて行ってしまう。
本作ではゴルティは孤児で、そのまま熊の家族の養女になっている設定だが、彼女自身は熊と人間が家族であることに違和感を感じている。
では、「ちょうどいい家族とは?」というのがゴルティの持つテーマ。
一方、サディスティックな悪漢“ビッグ”ジャック・ホーナーは、マザーグースの「ちびっこジャック・ホーナー」のパロディキャラクター。
「ちびっこジャック・ホーナーが 隅っこのところで クリスマスのパイを食べる 親指をパイに突き立てて 中からプラムを引っ張り出して 僕はなんていい子だって叫んだ」というごく短い詩は様々な解釈がされてきたが、一説には教会が国王への賄賂をパイに入れて送り、その中の一つから賄賂をネコババした男を描いた詩とも言われる。
本作のホーナーも強欲すぎる男として描かれ、目的のためには自分以外のあらゆるもの犠牲にするという、キッズムービーのヴィランとは思えないくらいのワル。
この救いようのないキャラクターには、どんな因果応報が訪れるのか?も本作のポイントだ。
ビジュアル的に面白いのが、見る者によって地図のルートが変わるというアイデア。
願い星を求めていない純真なワンコが見ると、誰でも行けるような簡単な道になるが、欲望をギラギラさせた他のキャラクターが見ると、その欲望を反映した難路となってしまう。
これで一本しかないルートが無限に増やせることになり、見せ場のバラエティを豊富にしている。
アクションの描写になると、キャラクターのモーションのコマ数を落とし、手描きアニメ調の質感になるのは同じドリームワークスの「バッドガイズ」でも見られたが、おそらくどちらも「スパイダーマン:スパイダーバース」の影響だろう。
昔のカートゥーン風味もあり、ドタバタ系のアクションにはフィットした手法だと思う。
また、キャラ立ちしまくった新キャラクターが続々登場する本作の中でも、執拗にプスを追い詰めるオオカミのキャラクターは一段抜けている。
願い星の争奪戦とは関係なく、プスの最後に残った9つ目の命を奪おうとするオオカミは、彼にとってはまさに迫り来る“死”そのものであり、克服しなければならない存在。
三つのチームが願い星に辿り着き、キャラクターぞれぞれの葛藤に決着をつけつつ、シリーズ屈指の最恐ヴィランと復活したプスとの対決は、大いに盛り上がるザ・クライマックスだ。
先日のアカデミー賞では、本作は「ギレルモ・デル・トロのピノッキオ」に敗れたが、こちらが受賞していても全くおかしくないくらい出来が良い。
さらなる続編を期待したくなるし、ラストシーンを見るとその可能性はありそう。
上映回数すぐ減りそうだから、なる早で吹替え版も観てみよう。
今回は前作でもチョイスした、「カルーアミルク」を。
カルーア40mlと牛乳80mlを、氷を入れたタンブラーに注いでステアし、最後にミントの葉を添える。
カルーアとミルクの分量はあくまでも好み。
甘くビターなコーヒーリキュールと牛乳のコンビネーションは、マイルドでとても飲みやすい。
因みにプスがミルク好きという設定は、西部劇のキャラクターが、酒場でミルクを注文してバカにされるという定番描写のパロディだが、1939年に作られたジョージ・マーシャル監督の「砂塵」で、ジェームズ・スチュワートが演じたトム・ディストリーJr.が元祖。
無法の西部で拳銃を持たず、酒場ではミルクを頼むトムは、周りからは軟弱者と思われているが、実は凄腕のガンマンなのだ。
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ゼロ年代に大ヒットした「シュレック」シリーズから、人気キャラクターの「長ぐつをはいたネコ」ことプスを主人公としたスピンオフ、11年ぶりの長編第二作。
無鉄砲な冒険快楽主義者のプスが、ネコの9つの命のうち既に8つを失ったことに気付く。
ビビって一度は引退するものの、もう一度命を全部取り戻すべく、全ての願いを叶えると言う、伝説の“願い星”の争奪戦に身を投じる。
プスと元カノのキティは、引き続きアントニオ・バンデラスとサルマ・ハエックが演じ、二人とチームとなるワンコにはハービー・ギレン。
他にもオリビア・コールマンやフローレンス・ピュー、レイ・ウィンストンら豪華な布陣が脇を固める。
監督は、長年ドリームワークスアニメーションで、ストーリーアーティストとして活躍したジョエル・クロフォードが務める。
前作を軽々と超える快作であり、ハリウッドには珍しいネコ愛全開のネコ派映画である。
イヌも可愛いけど。
幾多の冒険を生き抜いてきたプス(アントニオ・バンデラス)は、巨大なモンスターと戦った時に8度目の死を経験する。
目が覚めると、彼は医者から残された命が一つしかないことを告げられる。
プスは賞金稼ぎのオオカミ(ヴァグネル・モウラ)と戦い、敗北したことで死を恐れるようになり、マントとブーツを脱ぎ捨てて、医者に紹介されたママ・ルナの家でペットになることに。
平凡で退屈な日々を送っていたある日、ママ・ルナの家をゴルティ(フローレンス・ピュー)と三匹の熊の一味が襲撃し、プスはネコのふりをしているセラピードッグ志望のワンコ(ハーベイ・ギーエン)と逃げ出す。
どんな願いも叶えるという、“願い星”への宝の地図の存在を知ったプスは、元カノのキティ(サルマ・ハエック)とワンコと即席のチームを組み、悪漢“ビッグ”ジャック・ホーナー(ジョン・ムレイニー)から地図を奪う。
願い星で9つの命を取り戻そうとするプスと、彼らを追うゴルティ一味、ジャック・ホーナーの間で三つ巴の争奪戦が始まった・・・・
モチーフになっているネコの9つの命というのは、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の作中にも引用されているほどで、その謂れは一説には古代エジプトまで遡るという。
時に無謀な挑戦してクリアしちゃうからだとか、気まぐれにあちこちに出没するからだとか、理由はたくさんあるのだろうが、この故事をそのまんまの意味にとらえたアイディアが秀逸。
命を無くすことを軽く考え、冒険の旅を楽しんでいたプスは、命が残り一つしか残ってないことを知り、自分よりも強いオオカミと出会ったことで、途端に“死”がリアルなものとなって怖気付く。
引退して平和で退屈な余生を送ることを決めるも、願い星の地図を“ビッグ”ジャック・ホーナーから奪うため、プスを使おうとするゴルティたちの襲撃を受けて結局流浪の旅に逆戻り。
ここからは願い星への地図を巡って、プスとキティとワンコの「長ぐつをはいたネコ」チーム、ゴルティと熊ファミリーの「三匹の熊」チーム、“ビッグ”ジャック・ホーナーの「ちびっこジャック・ホーナー」チームの三つ巴の争奪戦。
なるほど、前作からして西部劇オマージュ&パロディが満載だったが、本作は物語のベースとなっているのが、セルジオ・レオーネの「続・夕陽のガンマン」なんだな。
もちろん役割は大きく変わっているのだけど、三つの物語のチームがそれぞれ“the Good, the Bad and the Ugly”にあたるという訳。
願い星への宝の地図争奪戦を軸に、キャラクターが本来属する物語の持つテーマが、改めてクローズアップされる構図。
主人公のプスは渋ーい声のバンデラスを起用しているくらいだから、多分ネコとしては中年なのだろうが、中身は完全に厨二病。
虚栄心と承認欲求の塊の様なキャラクターで、カッコいい自分のことが大好き。
家庭を持つと何かが変わってしまうのではと恐れ、過去にキティとの結婚式もすっぽかした。
そんなプスが人生に突然現れた“本当の死”に怯え、無茶な行動をできなくなったことで、過剰な自己愛から脱し、チームプレイを通して他人を愛し愛されることで生まれる、“信頼”という新しい価値観に目覚めてゆく。
大人だってきっかけと努力があれば変われるという、ミドルエイジの成長物語として非常に良く出来ている。
他の物語チームも、それぞれに葛藤を抱えている。
オリジナルの童話「三匹の熊」では、熊の家族の留守宅に入り込んだ少女ゴルティが、スープの熱さや椅子の硬さで「ちょうどいい」を見つけてゆくが、熊たちが帰宅したことに驚いて逃げて行ってしまう。
本作ではゴルティは孤児で、そのまま熊の家族の養女になっている設定だが、彼女自身は熊と人間が家族であることに違和感を感じている。
では、「ちょうどいい家族とは?」というのがゴルティの持つテーマ。
一方、サディスティックな悪漢“ビッグ”ジャック・ホーナーは、マザーグースの「ちびっこジャック・ホーナー」のパロディキャラクター。
「ちびっこジャック・ホーナーが 隅っこのところで クリスマスのパイを食べる 親指をパイに突き立てて 中からプラムを引っ張り出して 僕はなんていい子だって叫んだ」というごく短い詩は様々な解釈がされてきたが、一説には教会が国王への賄賂をパイに入れて送り、その中の一つから賄賂をネコババした男を描いた詩とも言われる。
本作のホーナーも強欲すぎる男として描かれ、目的のためには自分以外のあらゆるもの犠牲にするという、キッズムービーのヴィランとは思えないくらいのワル。
この救いようのないキャラクターには、どんな因果応報が訪れるのか?も本作のポイントだ。
ビジュアル的に面白いのが、見る者によって地図のルートが変わるというアイデア。
願い星を求めていない純真なワンコが見ると、誰でも行けるような簡単な道になるが、欲望をギラギラさせた他のキャラクターが見ると、その欲望を反映した難路となってしまう。
これで一本しかないルートが無限に増やせることになり、見せ場のバラエティを豊富にしている。
アクションの描写になると、キャラクターのモーションのコマ数を落とし、手描きアニメ調の質感になるのは同じドリームワークスの「バッドガイズ」でも見られたが、おそらくどちらも「スパイダーマン:スパイダーバース」の影響だろう。
昔のカートゥーン風味もあり、ドタバタ系のアクションにはフィットした手法だと思う。
また、キャラ立ちしまくった新キャラクターが続々登場する本作の中でも、執拗にプスを追い詰めるオオカミのキャラクターは一段抜けている。
願い星の争奪戦とは関係なく、プスの最後に残った9つ目の命を奪おうとするオオカミは、彼にとってはまさに迫り来る“死”そのものであり、克服しなければならない存在。
三つのチームが願い星に辿り着き、キャラクターぞれぞれの葛藤に決着をつけつつ、シリーズ屈指の最恐ヴィランと復活したプスとの対決は、大いに盛り上がるザ・クライマックスだ。
先日のアカデミー賞では、本作は「ギレルモ・デル・トロのピノッキオ」に敗れたが、こちらが受賞していても全くおかしくないくらい出来が良い。
さらなる続編を期待したくなるし、ラストシーンを見るとその可能性はありそう。
上映回数すぐ減りそうだから、なる早で吹替え版も観てみよう。
今回は前作でもチョイスした、「カルーアミルク」を。
カルーア40mlと牛乳80mlを、氷を入れたタンブラーに注いでステアし、最後にミントの葉を添える。
カルーアとミルクの分量はあくまでも好み。
甘くビターなコーヒーリキュールと牛乳のコンビネーションは、マイルドでとても飲みやすい。
因みにプスがミルク好きという設定は、西部劇のキャラクターが、酒場でミルクを注文してバカにされるという定番描写のパロディだが、1939年に作られたジョージ・マーシャル監督の「砂塵」で、ジェームズ・スチュワートが演じたトム・ディストリーJr.が元祖。
無法の西部で拳銃を持たず、酒場ではミルクを頼むトムは、周りからは軟弱者と思われているが、実は凄腕のガンマンなのだ。

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2023年03月19日 (日) | 編集 |
昭和meets令和。
2016年の「シン・ゴジラ」に端を発する、庵野秀明の「シン」シリーズ第四弾。
今回は誰もが知る昭和のヒーロー、石ノ森章太郎原作の初代仮面ライダーをリメイクした、「シン・仮面ライダー」だ。
前作の「シン・ウルトラマン」では盟友の樋口真嗣がメガホンを取ったが、本作ではシリーズ最高の興行収入102億超えを達成した「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」以来、庵野秀明自身が監督・脚本を務める。
超オタク監督らしく、オリジナルTVシリーズと原作漫画への過剰なほどのリスペクトとオマージュたっぷり。
限りなくファンメイド・ムービーに近い、大怪作となった。
オリジナルでは藤岡弘と佐々木剛が演じた、仮面ライダー1号・本郷猛と仮面ライダー2号・一文字隼人に池松壮亮と柄本佑。
そしてヒロインの緑川ルリ子を、浜辺美波が演じる。
※核心部分に触れています。
本郷猛(池松壮亮)と緑川ルリ子(浜辺美波)は、人類救済を掲げる非合法組織SHOCKERを脱走して彼らに反旗を翻す。
しかし、裏切り者を許さないショッカー上級構成員の昆虫合成型オーグメント、クモオーグ(VC.大森南朋)は、脱走を主導したルリ子の父、緑川弘(塚本晋也)を殺害しルリ子を奪還する。
直後に本郷猛は、桁外れの身体能力を持つバッタオーグの能力を覚醒。
クモオーグを倒しルリ子を救い出した本郷は、“仮面ライダー”を名乗る。
隠れ家にたどり着いた二人の元を、政府の男(竹野内豊)と情報機関の男(斎藤工)が訪れ、SHOCKER殲滅のため協力関係となることを持ちかける。
二人は次なる敵としてSHOCKER生化学主幹研究者、コウモリオーグ(手塚とおる)と戦う。
一方、ルリ子の兄である緑川イチロー(森山未來)は、本郷猛を倒すために彼と同じ能力を持つバッタオーグ2号として、一文字隼人(柄本佑)を送り込んで来る・・・・
冒頭、いきなりSHOCKERを脱走した本郷とルリ子が、クモオーグ率いる追撃隊とバトルを繰り広げる。
拘りが無いのか、狙ってやってるのか(たぶん後者だと思うが)、割と安めのカメラ使ってるし、相変わらず映像の仕上げはノイジーで荒い。
それもあって、作品のルックはオリジナルのテレビシリーズに近く見える。
世界観やリアリティラインも昭和ライダーに寄せているので、一連の「シン」の中でも一番昭和のB級プログラムピクチュアっぽくなっている。
なにしろ小屋ごと爆破されているのに、中にあったはずのサイクロン号は埃ひとつ被っていないし、アクションが始まると都合のいい場所にポンポンとロケーションが飛ぶ。
物語の展開も、基本的には単純だ。
怪人改め、SHOCKER上級構成員の昆虫合成型オーグメントと戦って倒しては、隠れ家で休息するの繰り返しだが、これも毎回同じパターンを繰り返す、オリジナルを踏襲しているのだろう。
全体的には「シン・ウルトラマン」と同じく、テレビ版を5〜6話繋げたような構成になっている。
もちろん、週一回30分のテレビ番組と2時間の映画では方法論が違うので、工夫はしているのだが、なるべくオリジナルをリスペクトしたリメイクにしたいというのは伝わってくる。
つまり本作は、テレビの昭和ライダーをベースとして、石ノ森章太郎の原作漫画を庵野秀が再解釈したハイブリッド版。
その意味で、古きと新しきがミックスされた「シン」の名に相応しいものになっている。
基本的なプロットは、テレビシリーズに漫画版を組み合わせたものだが、後半に行くに従って漫画版の要素が強くなる。
テレビシリーズでは、ある日突然ライダー1号が出なくなって、ライダー2号が登場したのだが、これは主演の藤岡弘が、撮影中の事故で負傷したことによる苦肉の策だった。
一応、1号は海外に戦いに行ったことになっていたが、子供心に「え?そんなんあり?」と思ったのを思い出す。
漫画版では、本郷を倒すために作られた一文字が、頭を撃たれたことによって洗脳が解け、偽ライダーの集団に殺された本郷の遺志を継いでライダー2号となる。
本作の終盤のプロットは、漫画版の流れを再構成したものだが、陰キャの本郷と陽キャの一文字という、テレビシリーズでの両者のコントラストも踏襲されている。
また漫画版では本郷の脳だけが救われてカプセルの中で保存され、2号のヘルメットと繋がっているが、本作では本郷の意識が2号のヘルメットの中に保存されている設定。
ヘルメットは映像で遺言を残せたり、かなりアイアンマンの影響が見られるのが可笑しい。
ルックは昭和ライダーにかなり近いと書いたが、デザイン、ギミック的にはさすがアニメーション監督の作品だけあって、極めて高度にブラッシュアップされている。
何よりもライダーベルトへの吸気から変身のフォーメーションは、素晴らしい仕上がり。
マーベルみたいに、何もないところからガチャガチャとスーツが出てきちゃうのは、この世界観には合わないだろうがが、普通のヘルメットが多段階変形してあの形になるのは素直に「おおっ!」と思った。
ライダースーツもあくまでも防護服で、着っぱなしにしてると臭うなど、地に足をつけた土くさいヒーローものとしてアリだと思う。
特筆すべきはサイクロン号のデザインで、スチルで見た時はフーンという感じだったが、これが動くと無茶苦茶かっこいいのである。
予告編段階で物議を醸したLED怪人、もといオーグも本作の設定上はフィットしている。
ところでハチオーグの西野七瀬は素顔のシーンも多くてなかなかキュートだったが、サソリオーグの長澤まさみは本人的にはアレでいいのか?(笑
まあ、ゲスト出演的な枠だったんだろうけど。
しかし「仮面ライダー」から「シン・仮面ライダー」への変化の中で、最も作家性が出ているのがSHOCKERのNERV化だろう。
オリジナルでは世界征服し、人類の自由意志を奪って奴隷化しようとする悪の組織だったが、本作ではマッドサイエンティストが作り出したAIによって、人類の究極の幸せを追求する組織となっている。
なにせネーミングも「Sustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling(持続可能な幸福を目指す愛の秘密結社)」なのだ(笑
要するにこれは、人類補完計画シーズン2。
「シン・エヴァ」で既に結論が出てる話なので描き込みも浅いし、ぶっちゃけ「他に悪のモチーフ思いつかないの?」と思ってしまったが、まあこの作家らしいと言えばそうかもしれない。
オリジナルではただのお嬢様だった緑川ルリ子も、SHOCKERのNERV化に伴い、緑川博士によって人工子宮で作られた生体電算機で、目から脳へ情報をインストール出来るという設定。
「私は用意周到なの」が口癖のツンデレなルリ子様は、アスカと綾波を足して2で割って、ミサトさんのスパイスをかけたような2.5次元キャラクターだった。
演者の浜辺美波が持ってる資質もあるんだろうが、ここまで漫画っぽいキャラクターを実写で実現してしまうのも、いかにもなところだ。
もっとも、本作を観ると「シン・ゴジラ」の怪獣を3.11のメタファーとするというアイディアが、いかに秀逸だったのかと改めて思う。
震災から5年、まだ日本人全ての記憶に新しかった、完全なる恐怖と絶望が怪獣の姿で帰ってくる。
我々=日本=現実はあの時失敗したが、「本来はこうあるべきだった、こう出来たはずだった」という理想形を、ゴジラという虚構との対立を通して見せてくれるのが「シン・ゴジラ」であり、だからこそあんなにマニアックな映画が大ヒット作となり得たのだ。
庵野秀明自身がゴジラにあまり興味がなかったからこそ出来た改変だろうが、以降の「シン」シリーズはベースとなる世界観が圧倒的に狭い。
庵野秀明の個人的心象映画である「シン・エヴァ」はともかく、「シン・ウルトラマン」や本作は、社会的なベースがほぼ無いために、良くも悪くもオタクの自己満足感が強くなり訴求できる層が狭い。
可能な限りオリジナルをリスペクトするスタイルも、昭和ライダーのドンピシャ世代としては馴染み深いが、ある意味「シン・ウルトラマン」以上にファンメイドムービー的でもあり、この作家への好き嫌いは強烈に出そうな気がする。
個人的にはB級っぽい部分も含めて十分楽しんだが、これを勧められる人は限定されると思う。
ビジュアル的にも素晴らしい部分がある一方、例えば偽ライダー軍団とのトンネル内の戦いなどは、暗すぎる上にカットを細かく割りすぎて何が起こっているのかよく分からず。
同じことは、イチローが変身したボスキャラの仮面ライダー0号との戦いにも言え、全体に暗いシーンになると、演出的な不得手が目立ってしまうのは残念なポイント。
ところでAIであるSHOCKERの現実世界での端末として、ロボット刑事Kが出てきたのには驚いた。
ついでにKの前の型のJなんて、モロにキカイダーっぽいデザインじゃないか。
そういえば、本作のボスキャラのイチローというのも、キカイダー01の人間態の名前だし。
もしかすると東映(もしくは庵野秀明)は、石ノ森ユニバースを考えてるのか?
石ノ森章太郎は単独でユニバースを作れるほどキャラクターを残しているし、彼の作品を「シン◯◯」としてユニバース化するのは案外面白いんじゃないだろうか。
日本でやろうとすると、資金が問題になりそうだが。
さて、実際に次の「シン」は何になるんだろう。
今回は、石ノ森章太郎の出生地に近い宮城県石巻の地酒、平孝酒造の「日高見 芳醇辛口純米吟醸 弥助」をチョイス。
弥助とは花柳界で寿司を指す言葉だが、源平合戦で落ち延びた平維盛がなぜか寿司屋に逃げ込み、咄嗟に弥助という偽名を名乗ったという故事に因むとか。
なるほど、確かに純米吟醸酒としては辛口で魚介類との相性がよく、寿司や刺身に合わせると盃が進むだろう。
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2016年の「シン・ゴジラ」に端を発する、庵野秀明の「シン」シリーズ第四弾。
今回は誰もが知る昭和のヒーロー、石ノ森章太郎原作の初代仮面ライダーをリメイクした、「シン・仮面ライダー」だ。
前作の「シン・ウルトラマン」では盟友の樋口真嗣がメガホンを取ったが、本作ではシリーズ最高の興行収入102億超えを達成した「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」以来、庵野秀明自身が監督・脚本を務める。
超オタク監督らしく、オリジナルTVシリーズと原作漫画への過剰なほどのリスペクトとオマージュたっぷり。
限りなくファンメイド・ムービーに近い、大怪作となった。
オリジナルでは藤岡弘と佐々木剛が演じた、仮面ライダー1号・本郷猛と仮面ライダー2号・一文字隼人に池松壮亮と柄本佑。
そしてヒロインの緑川ルリ子を、浜辺美波が演じる。
※核心部分に触れています。
本郷猛(池松壮亮)と緑川ルリ子(浜辺美波)は、人類救済を掲げる非合法組織SHOCKERを脱走して彼らに反旗を翻す。
しかし、裏切り者を許さないショッカー上級構成員の昆虫合成型オーグメント、クモオーグ(VC.大森南朋)は、脱走を主導したルリ子の父、緑川弘(塚本晋也)を殺害しルリ子を奪還する。
直後に本郷猛は、桁外れの身体能力を持つバッタオーグの能力を覚醒。
クモオーグを倒しルリ子を救い出した本郷は、“仮面ライダー”を名乗る。
隠れ家にたどり着いた二人の元を、政府の男(竹野内豊)と情報機関の男(斎藤工)が訪れ、SHOCKER殲滅のため協力関係となることを持ちかける。
二人は次なる敵としてSHOCKER生化学主幹研究者、コウモリオーグ(手塚とおる)と戦う。
一方、ルリ子の兄である緑川イチロー(森山未來)は、本郷猛を倒すために彼と同じ能力を持つバッタオーグ2号として、一文字隼人(柄本佑)を送り込んで来る・・・・
冒頭、いきなりSHOCKERを脱走した本郷とルリ子が、クモオーグ率いる追撃隊とバトルを繰り広げる。
拘りが無いのか、狙ってやってるのか(たぶん後者だと思うが)、割と安めのカメラ使ってるし、相変わらず映像の仕上げはノイジーで荒い。
それもあって、作品のルックはオリジナルのテレビシリーズに近く見える。
世界観やリアリティラインも昭和ライダーに寄せているので、一連の「シン」の中でも一番昭和のB級プログラムピクチュアっぽくなっている。
なにしろ小屋ごと爆破されているのに、中にあったはずのサイクロン号は埃ひとつ被っていないし、アクションが始まると都合のいい場所にポンポンとロケーションが飛ぶ。
物語の展開も、基本的には単純だ。
怪人改め、SHOCKER上級構成員の昆虫合成型オーグメントと戦って倒しては、隠れ家で休息するの繰り返しだが、これも毎回同じパターンを繰り返す、オリジナルを踏襲しているのだろう。
全体的には「シン・ウルトラマン」と同じく、テレビ版を5〜6話繋げたような構成になっている。
もちろん、週一回30分のテレビ番組と2時間の映画では方法論が違うので、工夫はしているのだが、なるべくオリジナルをリスペクトしたリメイクにしたいというのは伝わってくる。
つまり本作は、テレビの昭和ライダーをベースとして、石ノ森章太郎の原作漫画を庵野秀が再解釈したハイブリッド版。
その意味で、古きと新しきがミックスされた「シン」の名に相応しいものになっている。
基本的なプロットは、テレビシリーズに漫画版を組み合わせたものだが、後半に行くに従って漫画版の要素が強くなる。
テレビシリーズでは、ある日突然ライダー1号が出なくなって、ライダー2号が登場したのだが、これは主演の藤岡弘が、撮影中の事故で負傷したことによる苦肉の策だった。
一応、1号は海外に戦いに行ったことになっていたが、子供心に「え?そんなんあり?」と思ったのを思い出す。
漫画版では、本郷を倒すために作られた一文字が、頭を撃たれたことによって洗脳が解け、偽ライダーの集団に殺された本郷の遺志を継いでライダー2号となる。
本作の終盤のプロットは、漫画版の流れを再構成したものだが、陰キャの本郷と陽キャの一文字という、テレビシリーズでの両者のコントラストも踏襲されている。
また漫画版では本郷の脳だけが救われてカプセルの中で保存され、2号のヘルメットと繋がっているが、本作では本郷の意識が2号のヘルメットの中に保存されている設定。
ヘルメットは映像で遺言を残せたり、かなりアイアンマンの影響が見られるのが可笑しい。
ルックは昭和ライダーにかなり近いと書いたが、デザイン、ギミック的にはさすがアニメーション監督の作品だけあって、極めて高度にブラッシュアップされている。
何よりもライダーベルトへの吸気から変身のフォーメーションは、素晴らしい仕上がり。
マーベルみたいに、何もないところからガチャガチャとスーツが出てきちゃうのは、この世界観には合わないだろうがが、普通のヘルメットが多段階変形してあの形になるのは素直に「おおっ!」と思った。
ライダースーツもあくまでも防護服で、着っぱなしにしてると臭うなど、地に足をつけた土くさいヒーローものとしてアリだと思う。
特筆すべきはサイクロン号のデザインで、スチルで見た時はフーンという感じだったが、これが動くと無茶苦茶かっこいいのである。
予告編段階で物議を醸したLED怪人、もといオーグも本作の設定上はフィットしている。
ところでハチオーグの西野七瀬は素顔のシーンも多くてなかなかキュートだったが、サソリオーグの長澤まさみは本人的にはアレでいいのか?(笑
まあ、ゲスト出演的な枠だったんだろうけど。
しかし「仮面ライダー」から「シン・仮面ライダー」への変化の中で、最も作家性が出ているのがSHOCKERのNERV化だろう。
オリジナルでは世界征服し、人類の自由意志を奪って奴隷化しようとする悪の組織だったが、本作ではマッドサイエンティストが作り出したAIによって、人類の究極の幸せを追求する組織となっている。
なにせネーミングも「Sustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling(持続可能な幸福を目指す愛の秘密結社)」なのだ(笑
要するにこれは、人類補完計画シーズン2。
「シン・エヴァ」で既に結論が出てる話なので描き込みも浅いし、ぶっちゃけ「他に悪のモチーフ思いつかないの?」と思ってしまったが、まあこの作家らしいと言えばそうかもしれない。
オリジナルではただのお嬢様だった緑川ルリ子も、SHOCKERのNERV化に伴い、緑川博士によって人工子宮で作られた生体電算機で、目から脳へ情報をインストール出来るという設定。
「私は用意周到なの」が口癖のツンデレなルリ子様は、アスカと綾波を足して2で割って、ミサトさんのスパイスをかけたような2.5次元キャラクターだった。
演者の浜辺美波が持ってる資質もあるんだろうが、ここまで漫画っぽいキャラクターを実写で実現してしまうのも、いかにもなところだ。
もっとも、本作を観ると「シン・ゴジラ」の怪獣を3.11のメタファーとするというアイディアが、いかに秀逸だったのかと改めて思う。
震災から5年、まだ日本人全ての記憶に新しかった、完全なる恐怖と絶望が怪獣の姿で帰ってくる。
我々=日本=現実はあの時失敗したが、「本来はこうあるべきだった、こう出来たはずだった」という理想形を、ゴジラという虚構との対立を通して見せてくれるのが「シン・ゴジラ」であり、だからこそあんなにマニアックな映画が大ヒット作となり得たのだ。
庵野秀明自身がゴジラにあまり興味がなかったからこそ出来た改変だろうが、以降の「シン」シリーズはベースとなる世界観が圧倒的に狭い。
庵野秀明の個人的心象映画である「シン・エヴァ」はともかく、「シン・ウルトラマン」や本作は、社会的なベースがほぼ無いために、良くも悪くもオタクの自己満足感が強くなり訴求できる層が狭い。
可能な限りオリジナルをリスペクトするスタイルも、昭和ライダーのドンピシャ世代としては馴染み深いが、ある意味「シン・ウルトラマン」以上にファンメイドムービー的でもあり、この作家への好き嫌いは強烈に出そうな気がする。
個人的にはB級っぽい部分も含めて十分楽しんだが、これを勧められる人は限定されると思う。
ビジュアル的にも素晴らしい部分がある一方、例えば偽ライダー軍団とのトンネル内の戦いなどは、暗すぎる上にカットを細かく割りすぎて何が起こっているのかよく分からず。
同じことは、イチローが変身したボスキャラの仮面ライダー0号との戦いにも言え、全体に暗いシーンになると、演出的な不得手が目立ってしまうのは残念なポイント。
ところでAIであるSHOCKERの現実世界での端末として、ロボット刑事Kが出てきたのには驚いた。
ついでにKの前の型のJなんて、モロにキカイダーっぽいデザインじゃないか。
そういえば、本作のボスキャラのイチローというのも、キカイダー01の人間態の名前だし。
もしかすると東映(もしくは庵野秀明)は、石ノ森ユニバースを考えてるのか?
石ノ森章太郎は単独でユニバースを作れるほどキャラクターを残しているし、彼の作品を「シン◯◯」としてユニバース化するのは案外面白いんじゃないだろうか。
日本でやろうとすると、資金が問題になりそうだが。
さて、実際に次の「シン」は何になるんだろう。
今回は、石ノ森章太郎の出生地に近い宮城県石巻の地酒、平孝酒造の「日高見 芳醇辛口純米吟醸 弥助」をチョイス。
弥助とは花柳界で寿司を指す言葉だが、源平合戦で落ち延びた平維盛がなぜか寿司屋に逃げ込み、咄嗟に弥助という偽名を名乗ったという故事に因むとか。
なるほど、確かに純米吟醸酒としては辛口で魚介類との相性がよく、寿司や刺身に合わせると盃が進むだろう。

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2023年03月16日 (木) | 編集 |
同じ星の人は、きっといる。
昨年、オリジナル脚本による味わい深い会話劇の傑作「窓辺にて」を作り出し、演出家として脂の乗った円熟期を迎えている今泉力哉。
安田弘之の同名漫画を原作とした本作も、素晴らしい仕上がりだ。
有村架純演じる主人公は、海辺の街にある「のこのこ弁当」で働く“ちひろ”さん。
彼女には、ほとんど執着心が無い。
もちろん食欲や性欲みたいな生物として当たり前の欲求は普通にあり、心と体が満たされることは楽しむ。
しかしこの世の全ては移ろいゆく儚いものだという、まるで仙人のような世界観を持っている。
ちひろさんにとっては恋愛も仕事も、家族すら人生を通り過ぎてゆく存在。
今の自分に対しても執着が無いので、元風俗嬢という過去も隠さない。
そんな彼女の周りには、様々な問題を抱えた人たちが集まってくるのだが、ちひろさんは彼・彼女らにあくまでも人として出来ることだけする。
ホームレスのおじさんには(たぶんちょっと臭かったのだろう)お風呂をすすめて、悩みを抱えた高校生には静かな居場所を紹介し、ひとり親でお腹を空かせた子供にはご飯を。
決してズカズカと心の中に踏み込みようなことはせず、人々はちひろさんとの緩い交流を通して、ほんの少しだけ変わってゆく。
この作家らしいゆったりとした時間の流れの中で、やがて少しずつ彼女自身の問題が見えてくる。
彼女はなぜ、こんな変わった人格になったのか。
“ちひろ”という名前も風俗嬢の時の源氏名で、現在の時系列で彼女が本名で交流するのはたった一人しかいないのだ。
彼女が働いていた風俗店で、あるお客さんが「僕たちは皆、人間っていう箱に入った宇宙人なんだ」という話をする。
誰もが同じ地球人だと思えば、「なぜ分かり合えないんだ」という気持ちが出てくるが、最初から皆別の星の人だと考えれば、「ああ、分からなくて当然だよね」という気持ちになる。
でも、この世界のどこかには、同じ星の人がいるかも知れない。
空っぽの箱に見えるちひろさんの奥底には、本名の彼女がひっそりと存在しているが、響き合う同じ星の人にはまだ出会えていないのだ。
だからちひろさんは人と出会った時、ある程度相手を分かる努力をするけど、一定以上は遠慮して相手との違いを尊重して距離を取る。
普通の感覚だとちょっと寂しい人生な気もするが、彼女にとってはそれが心地いい関係なのだろう。
本作を観ていて、流浪のちひろさんのキャラクターが、なんとなく寅さんに重なった。
寅さんの場合は人恋しくて、人を求めて、でもそれが叶わなくてという切なさがあったが、彼女はまだそこまで人に対して心を許せていない。
それでも、彼女自身もほんのちょっとずつ変わっていっている。
これは過去に色々あって、虚構の名前に隠れている本当の彼女が、人生の気づきをもらう物語。
ある登場人物が、ちひろさんに「あなたなら、どこにいても孤独を手放さずにいられる」という言葉を送る。
何かの結果として残念な孤独になってしまうのではなく、彼女は自分の能動的選択として幸せな孤独を選んでいる。
これを尊重できる人はなかなかいないだろうけど、まあいつかはちひろさんも同じ星の人にも出会えるだろう。
たまに出てくるネコがとてもかわいい。
前作に引き続き、素晴らしい傑作となった。
今回はロケ地となった焼津の地酒で1830年創業の老舗、磯自慢酒造の「磯自慢 特別純米 雄町53% 」をチョイス。
名前の通り雄町米を大吟醸並みの53%精米した純米酒。
フルーティーで自然な香りがフワッと立ち上がり、お米の旨味が喉に染み込む。
クセはなく、コクもありながらキレもいい、磯の食材にピッタリの辛口の酒だ。
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昨年、オリジナル脚本による味わい深い会話劇の傑作「窓辺にて」を作り出し、演出家として脂の乗った円熟期を迎えている今泉力哉。
安田弘之の同名漫画を原作とした本作も、素晴らしい仕上がりだ。
有村架純演じる主人公は、海辺の街にある「のこのこ弁当」で働く“ちひろ”さん。
彼女には、ほとんど執着心が無い。
もちろん食欲や性欲みたいな生物として当たり前の欲求は普通にあり、心と体が満たされることは楽しむ。
しかしこの世の全ては移ろいゆく儚いものだという、まるで仙人のような世界観を持っている。
ちひろさんにとっては恋愛も仕事も、家族すら人生を通り過ぎてゆく存在。
今の自分に対しても執着が無いので、元風俗嬢という過去も隠さない。
そんな彼女の周りには、様々な問題を抱えた人たちが集まってくるのだが、ちひろさんは彼・彼女らにあくまでも人として出来ることだけする。
ホームレスのおじさんには(たぶんちょっと臭かったのだろう)お風呂をすすめて、悩みを抱えた高校生には静かな居場所を紹介し、ひとり親でお腹を空かせた子供にはご飯を。
決してズカズカと心の中に踏み込みようなことはせず、人々はちひろさんとの緩い交流を通して、ほんの少しだけ変わってゆく。
この作家らしいゆったりとした時間の流れの中で、やがて少しずつ彼女自身の問題が見えてくる。
彼女はなぜ、こんな変わった人格になったのか。
“ちひろ”という名前も風俗嬢の時の源氏名で、現在の時系列で彼女が本名で交流するのはたった一人しかいないのだ。
彼女が働いていた風俗店で、あるお客さんが「僕たちは皆、人間っていう箱に入った宇宙人なんだ」という話をする。
誰もが同じ地球人だと思えば、「なぜ分かり合えないんだ」という気持ちが出てくるが、最初から皆別の星の人だと考えれば、「ああ、分からなくて当然だよね」という気持ちになる。
でも、この世界のどこかには、同じ星の人がいるかも知れない。
空っぽの箱に見えるちひろさんの奥底には、本名の彼女がひっそりと存在しているが、響き合う同じ星の人にはまだ出会えていないのだ。
だからちひろさんは人と出会った時、ある程度相手を分かる努力をするけど、一定以上は遠慮して相手との違いを尊重して距離を取る。
普通の感覚だとちょっと寂しい人生な気もするが、彼女にとってはそれが心地いい関係なのだろう。
本作を観ていて、流浪のちひろさんのキャラクターが、なんとなく寅さんに重なった。
寅さんの場合は人恋しくて、人を求めて、でもそれが叶わなくてという切なさがあったが、彼女はまだそこまで人に対して心を許せていない。
それでも、彼女自身もほんのちょっとずつ変わっていっている。
これは過去に色々あって、虚構の名前に隠れている本当の彼女が、人生の気づきをもらう物語。
ある登場人物が、ちひろさんに「あなたなら、どこにいても孤独を手放さずにいられる」という言葉を送る。
何かの結果として残念な孤独になってしまうのではなく、彼女は自分の能動的選択として幸せな孤独を選んでいる。
これを尊重できる人はなかなかいないだろうけど、まあいつかはちひろさんも同じ星の人にも出会えるだろう。
たまに出てくるネコがとてもかわいい。
前作に引き続き、素晴らしい傑作となった。
今回はロケ地となった焼津の地酒で1830年創業の老舗、磯自慢酒造の「磯自慢 特別純米 雄町53% 」をチョイス。
名前の通り雄町米を大吟醸並みの53%精米した純米酒。
フルーティーで自然な香りがフワッと立ち上がり、お米の旨味が喉に染み込む。
クセはなく、コクもありながらキレもいい、磯の食材にピッタリの辛口の酒だ。

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2023年03月11日 (土) | 編集 |
宇宙は可能性で満ちている。
冴えないコインランドリー経営者のミッシェル・ヨーとキー・ホイ・クァンの移民夫婦が、突然マルチバースの戦いに巻き込まれるSFアクションコメディ。
何でもありのマルチバースという器に、あらゆる要素をぶちこんだシュール極まりない闇鍋映画だが、なぜか全世界で大ヒット。
あれよあれよという間にA24配給作品としては初の1億ドルの大台を突破し、アカデミー賞にもノミネートされてしまった。
オリジナル脚本からこの怪作を作り上げたのは、ダニエル・ラドクリフ演じる喋る死体がマルチに活躍する「スイス・アーミー・マン」で注目を集めた、ダニエル・クワンとダニエル・シャイナート。
彼らダニエルズと共に、「アベンジャーズ/エンドゲーム」のアンソニーとジョーのルッソ兄弟がプロデュース参加している。
※核心部分に触れています。
エヴリン(ミシェル・ヨー)とウェイモンド(キー・ホイ・クワン)は20年前に駆け落ちし、アメリカにやって来た中国系移民の夫婦。
経営するコインランドリー店は赤字続きで、中国から来たボケた父親ゴン(ジェームズ・ホン)の扱いに悩み、“彼女”のいる娘ジョイ(ステファニー・スー)とは何かとぶつかり合い、ウェイモンドは優しいが頼りにならず。
国税庁からは監査を受けている最中で、厳しい調査官のディアドラ(ジェイミー・リー・カーティス)によって店は差押られる寸前。
そんなある日、領収書の束を抱えて国税庁を訪れた時、突然ウェイモンドが「私は別の宇宙、アルファバースから来た」と言い出す。
混乱するエヴリンに、「全宇宙を破壊しようとするジョブ・トゥパキ倒せるのは君だけだ」と告げ、平行宇宙に無数に存在する他の自分から、さまざまなスキルを習得する方法を教える。
訳の分からないままマルチバースの戦いに巻き込まれたエヴリンは、平行宇宙からカンフーマスターのスキルを手に入れるのだが、ジョブ・トゥパキとして姿を現したのはなんと娘のジョイだった・・・
明らかにアナル・プラグと思しき物体が、「仕事で表彰されたトロフィー」としてジェイミー・リー・カーティスの机に飾ってあった時点で嫌な予感がしていたが、まさかこんなことになるとは。
仕組みとしてはよく分からないけど、マルチバースを行き来するには、普段やらない様なすごく変なことしなければならない。
トロフィーをアナルに刺すとか(笑
すると、その行為がトリガーとなって平行宇宙の自分とリンクし、スキルなんかを使えちゃう。
どこからその発想が出てくる?というぶっ飛び具合は、ダニエルズの前作「スイス・アーミー・マン」同様。
あの映画では主人公のポール・ダノが、見つけた死体のオナラ噴射で遭難した孤島から脱出、迷い込んだ森で喋る死体を万能ツールにしてサバイバル。
ダニエル・ラドクリフ演じる死体は、水筒にも、斧にも、果てはライフル替わりにもなる万能っぷりで、スイス・アーミー・ナイフの人間、もとい死体版。
作品世界全てが主人公の比喩的心象世界なのは、容易に想像できるので、あとはラドクリフが怪演する死体を含め、作中で起こる奇怪な出来事に笑い、それが何を意味するかの読み解きの興味が全てだ。
主人公のエヴリンは、日常生活で様々な問題を抱えていて、それをリセットするために非日常の世界で自分と向き合うという構図は、今回も変わらない。
本作におけるマルチバースは、「スイス・アーミー・マン」の死体と同じく、彼女を非日常に誘う舞台装置。
中国で駆け落ちして、アメリカにやって来てから20年。
仕事には行き詰まり、レズビアンの娘とは喧嘩ばかりで、夫のウェイモンドは離婚請求を準備している。
生活に追われて、自分以外のことに目を向ける余裕のないエヴリンは、唯一の拠り所である家族が崩壊寸前であることにも気付いていない。
そんな彼女が、突如としてマルチバースを駆け巡り、この宇宙の自分とは違った人生を送っている何人もの自分にアクセスしスキルを習得。
カンフーマスターのスキルをもらって格闘術の達人になると、迫り来る無数の刺客とも戦える。
しかも敵のボス、ジョブ・トゥパキは自分の娘のジョイなのである。
マルチバースの戦いの裏側にあるのは、アイデンティティの迷い、異文化に生きる移民としての苦難、夫婦のほろ苦い衝突、母娘の価値観のすれ違い。
このカオスが、エヴリン自身の混乱のメタファーであることは明らかだ。
科学者だったアルファバースのエヴリンが、図らずも生み出してしまったジョブ・トゥパキは、マルチバースの全てを行き来でき、あらゆる物質に変更を加えらえる超越的な存在。
文字通り全知全能となった彼女は、ブラックホールのような特異点「エブリシング・ベーグル」を作り、全ての宇宙を破壊しようとしている。
理由は「何もかもどうでもいい」から。
全ての可能性を一身で経験できる彼女にとっては、もはやそれ以上は存在せず、マルチバースは完全な虚無の世界。
ちなみにエブリシング・ベーグルというメニューはアメリカのベーグル屋に実際にあり、普通はその店にある全てのトッピングを一つのベーグルに詰め込んだもの。
好きな人もいるのだろうが、当然ながら色んな味が混じり合った、なんとも形容し難いものがほとんど。
「これ、別々に食べた方が美味しくない?」というエブリシング・ベーグルを、いわばマルチバースのメルティングポットに見立てたのが面白い。
ジョブ・トゥパキの計画を阻止するために、並行宇宙の自分にアクセスしたエヴリンも、他の人生を生きている自分を断片的に経験する。
まるでミシェル・ヨー自身の様に、カンフー映画のスターとして成功している人生では、ウオン・カーウァイの「花様年華」のパロディみたいな話が語られる。
またシェフとして生きている別の人生では、ピクサー映画の「レミーのおいしいレストラン」の様に、アライグマとの二人羽織で成功しているライバルシェフとの関係が描かれる。
これら作者の映画的記憶と結び付いた遊び心あるマルチバースは、すべてエヴリンの選択の結果生まれた宇宙。
彼女が諦めてきたこと、通らなかった道も、全ては一つの選択として多様性の宇宙を形作っているという世界観で、ジョブ・トゥパキの虚無の宇宙とは真逆である。
闇堕ちした娘との戦いを通して、エヴリンにとって今生きているたった一つの宇宙の価値はますます強固になり、彼女はジョブ・トゥパキの虚無からジョイを奪還することを決意する。
地球に生命が発現せず、自分たちが石ころになっている世界でも、彼女は諦めずどこまでも娘を追ってゆく。
そして遂に「あなた以外は、何もかもどうでもいい」と言って、エヴリンはジョイを抱きしめるのだ。
全宇宙を救うはずのマクロな話が、主人公と娘のミクロな関係に収束するのだが、一切尻すぼみ感がないのが素晴らしい。
ある意味、マルチバースの扱いに迷いまくっているマーベルスタジオに対する模範回答。
なんでコレとコレをくっ付けた?が2時間続く、目眩く謎映画は未見性の塊だし、そろそろMCUにも新しい血が必要な気もするので、ダニエルズがマーベルに呼ばれる選択の宇宙がもあってもいいかも。
また本作がミシェル・ヨーの集大成であることは間違いないが、もう一人の象徴的な人物がウェイモンドを演じたキー・ホイ・クァンだ。
クァンといえば80年代に「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」や「グーニーズ」で子役として人気を博したが、当時はアジア系俳優にはチャンスも少なく、表舞台から遠ざかり裏方の仕事をしていた。
しかし2021年に俳優復帰、本作でいきなりゴールデングローブ賞を掻っさらい、オスカー候補になってしまった。
もし、彼が復帰の道を選択しなかったら?と考えるとここにももう一つの並行宇宙が見えてくるではないか。
しかしこんなガチャガチャした映画なのに、「アカデミー賞最有力」が嘘じゃないのが凄いな。
実現したら本当に映画の歴史を変えてしまうではないか。
この長ーいタイトルのまま公開したのも、相当に攻めている。
普通は邦題つけたくなるよなあ・・・。
フリーダムな内容同様、画面のアスペクト比も自由自在に変化するが、必然的に一部シーンは額縁上映になるので、大きめのスクリーンでかかっているうちに鑑賞するのがオススメだ。
今回は、アジア系の話なので「ドラゴン・レディ」をチョイス。
ドラゴン・レディとは、元々神秘的な魅力のあるアジア人女性を指す言葉で、ミシェル・ヨー姐さんにピッタリ。
ホワイト・ラム45ml、オレンジ・ジュース60ml、グレナデン・シロップ10ml、キュラソー適量をステアしてグラスに注ぎ、スライスしたオレンジを添える。
名前はむっちゃ強そうだが、実際には甘口で飲みやすいカクテルだ。
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冴えないコインランドリー経営者のミッシェル・ヨーとキー・ホイ・クァンの移民夫婦が、突然マルチバースの戦いに巻き込まれるSFアクションコメディ。
何でもありのマルチバースという器に、あらゆる要素をぶちこんだシュール極まりない闇鍋映画だが、なぜか全世界で大ヒット。
あれよあれよという間にA24配給作品としては初の1億ドルの大台を突破し、アカデミー賞にもノミネートされてしまった。
オリジナル脚本からこの怪作を作り上げたのは、ダニエル・ラドクリフ演じる喋る死体がマルチに活躍する「スイス・アーミー・マン」で注目を集めた、ダニエル・クワンとダニエル・シャイナート。
彼らダニエルズと共に、「アベンジャーズ/エンドゲーム」のアンソニーとジョーのルッソ兄弟がプロデュース参加している。
※核心部分に触れています。
エヴリン(ミシェル・ヨー)とウェイモンド(キー・ホイ・クワン)は20年前に駆け落ちし、アメリカにやって来た中国系移民の夫婦。
経営するコインランドリー店は赤字続きで、中国から来たボケた父親ゴン(ジェームズ・ホン)の扱いに悩み、“彼女”のいる娘ジョイ(ステファニー・スー)とは何かとぶつかり合い、ウェイモンドは優しいが頼りにならず。
国税庁からは監査を受けている最中で、厳しい調査官のディアドラ(ジェイミー・リー・カーティス)によって店は差押られる寸前。
そんなある日、領収書の束を抱えて国税庁を訪れた時、突然ウェイモンドが「私は別の宇宙、アルファバースから来た」と言い出す。
混乱するエヴリンに、「全宇宙を破壊しようとするジョブ・トゥパキ倒せるのは君だけだ」と告げ、平行宇宙に無数に存在する他の自分から、さまざまなスキルを習得する方法を教える。
訳の分からないままマルチバースの戦いに巻き込まれたエヴリンは、平行宇宙からカンフーマスターのスキルを手に入れるのだが、ジョブ・トゥパキとして姿を現したのはなんと娘のジョイだった・・・
明らかにアナル・プラグと思しき物体が、「仕事で表彰されたトロフィー」としてジェイミー・リー・カーティスの机に飾ってあった時点で嫌な予感がしていたが、まさかこんなことになるとは。
仕組みとしてはよく分からないけど、マルチバースを行き来するには、普段やらない様なすごく変なことしなければならない。
トロフィーをアナルに刺すとか(笑
すると、その行為がトリガーとなって平行宇宙の自分とリンクし、スキルなんかを使えちゃう。
どこからその発想が出てくる?というぶっ飛び具合は、ダニエルズの前作「スイス・アーミー・マン」同様。
あの映画では主人公のポール・ダノが、見つけた死体のオナラ噴射で遭難した孤島から脱出、迷い込んだ森で喋る死体を万能ツールにしてサバイバル。
ダニエル・ラドクリフ演じる死体は、水筒にも、斧にも、果てはライフル替わりにもなる万能っぷりで、スイス・アーミー・ナイフの人間、もとい死体版。
作品世界全てが主人公の比喩的心象世界なのは、容易に想像できるので、あとはラドクリフが怪演する死体を含め、作中で起こる奇怪な出来事に笑い、それが何を意味するかの読み解きの興味が全てだ。
主人公のエヴリンは、日常生活で様々な問題を抱えていて、それをリセットするために非日常の世界で自分と向き合うという構図は、今回も変わらない。
本作におけるマルチバースは、「スイス・アーミー・マン」の死体と同じく、彼女を非日常に誘う舞台装置。
中国で駆け落ちして、アメリカにやって来てから20年。
仕事には行き詰まり、レズビアンの娘とは喧嘩ばかりで、夫のウェイモンドは離婚請求を準備している。
生活に追われて、自分以外のことに目を向ける余裕のないエヴリンは、唯一の拠り所である家族が崩壊寸前であることにも気付いていない。
そんな彼女が、突如としてマルチバースを駆け巡り、この宇宙の自分とは違った人生を送っている何人もの自分にアクセスしスキルを習得。
カンフーマスターのスキルをもらって格闘術の達人になると、迫り来る無数の刺客とも戦える。
しかも敵のボス、ジョブ・トゥパキは自分の娘のジョイなのである。
マルチバースの戦いの裏側にあるのは、アイデンティティの迷い、異文化に生きる移民としての苦難、夫婦のほろ苦い衝突、母娘の価値観のすれ違い。
このカオスが、エヴリン自身の混乱のメタファーであることは明らかだ。
科学者だったアルファバースのエヴリンが、図らずも生み出してしまったジョブ・トゥパキは、マルチバースの全てを行き来でき、あらゆる物質に変更を加えらえる超越的な存在。
文字通り全知全能となった彼女は、ブラックホールのような特異点「エブリシング・ベーグル」を作り、全ての宇宙を破壊しようとしている。
理由は「何もかもどうでもいい」から。
全ての可能性を一身で経験できる彼女にとっては、もはやそれ以上は存在せず、マルチバースは完全な虚無の世界。
ちなみにエブリシング・ベーグルというメニューはアメリカのベーグル屋に実際にあり、普通はその店にある全てのトッピングを一つのベーグルに詰め込んだもの。
好きな人もいるのだろうが、当然ながら色んな味が混じり合った、なんとも形容し難いものがほとんど。
「これ、別々に食べた方が美味しくない?」というエブリシング・ベーグルを、いわばマルチバースのメルティングポットに見立てたのが面白い。
ジョブ・トゥパキの計画を阻止するために、並行宇宙の自分にアクセスしたエヴリンも、他の人生を生きている自分を断片的に経験する。
まるでミシェル・ヨー自身の様に、カンフー映画のスターとして成功している人生では、ウオン・カーウァイの「花様年華」のパロディみたいな話が語られる。
またシェフとして生きている別の人生では、ピクサー映画の「レミーのおいしいレストラン」の様に、アライグマとの二人羽織で成功しているライバルシェフとの関係が描かれる。
これら作者の映画的記憶と結び付いた遊び心あるマルチバースは、すべてエヴリンの選択の結果生まれた宇宙。
彼女が諦めてきたこと、通らなかった道も、全ては一つの選択として多様性の宇宙を形作っているという世界観で、ジョブ・トゥパキの虚無の宇宙とは真逆である。
闇堕ちした娘との戦いを通して、エヴリンにとって今生きているたった一つの宇宙の価値はますます強固になり、彼女はジョブ・トゥパキの虚無からジョイを奪還することを決意する。
地球に生命が発現せず、自分たちが石ころになっている世界でも、彼女は諦めずどこまでも娘を追ってゆく。
そして遂に「あなた以外は、何もかもどうでもいい」と言って、エヴリンはジョイを抱きしめるのだ。
全宇宙を救うはずのマクロな話が、主人公と娘のミクロな関係に収束するのだが、一切尻すぼみ感がないのが素晴らしい。
ある意味、マルチバースの扱いに迷いまくっているマーベルスタジオに対する模範回答。
なんでコレとコレをくっ付けた?が2時間続く、目眩く謎映画は未見性の塊だし、そろそろMCUにも新しい血が必要な気もするので、ダニエルズがマーベルに呼ばれる選択の宇宙がもあってもいいかも。
また本作がミシェル・ヨーの集大成であることは間違いないが、もう一人の象徴的な人物がウェイモンドを演じたキー・ホイ・クァンだ。
クァンといえば80年代に「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」や「グーニーズ」で子役として人気を博したが、当時はアジア系俳優にはチャンスも少なく、表舞台から遠ざかり裏方の仕事をしていた。
しかし2021年に俳優復帰、本作でいきなりゴールデングローブ賞を掻っさらい、オスカー候補になってしまった。
もし、彼が復帰の道を選択しなかったら?と考えるとここにももう一つの並行宇宙が見えてくるではないか。
しかしこんなガチャガチャした映画なのに、「アカデミー賞最有力」が嘘じゃないのが凄いな。
実現したら本当に映画の歴史を変えてしまうではないか。
この長ーいタイトルのまま公開したのも、相当に攻めている。
普通は邦題つけたくなるよなあ・・・。
フリーダムな内容同様、画面のアスペクト比も自由自在に変化するが、必然的に一部シーンは額縁上映になるので、大きめのスクリーンでかかっているうちに鑑賞するのがオススメだ。
今回は、アジア系の話なので「ドラゴン・レディ」をチョイス。
ドラゴン・レディとは、元々神秘的な魅力のあるアジア人女性を指す言葉で、ミシェル・ヨー姐さんにピッタリ。
ホワイト・ラム45ml、オレンジ・ジュース60ml、グレナデン・シロップ10ml、キュラソー適量をステアしてグラスに注ぎ、スライスしたオレンジを添える。
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2023年03月06日 (月) | 編集 |
スピルバーグの作り方。
作った作品の総興行収入が100億ドルを超え、三度のアカデミー賞に輝いた、歴史上最も成功した映画監督、スティーヴン・スピルバーグが自らの少年時代をモチーフとして描く自伝的作品。
5歳の時に映画と出会い、たちまち魅了されると父の8ミリカメラを使い、妹たちを役者にして自分の映画を撮り始める。
ピアニストの母と、コンピューターエンジニアリングの先駆者だった父、芸術と科学が出会う家庭で、映画の子はその才能を開花させてゆく。
しかし映画は、盤石に見えた家族に生じた小さな亀裂をも、写し取ってしまうのだ。
ミッシェル・ウイリアムズとポール・ダノが両親を演じ、スピルバーグの分身であるサミー役にはガブリエル・ラベル。
共同脚本のトニー・クシュナー、撮影監督のヤヌス・カミンスキー、音楽のジョン・ウィリアムズら、スピルバーグ組が結集。
これは70代の老年期を迎えたスピルバーグが、今の自分を形作っている“ファミリー”の面々、特に亡き両親に溢れんばかりの愛を捧げ、スピルバーグ家改めフェイブルマン家の人々を描くラブレターだ。
1952年1月10日、ニュージャージー州ハドン。
5歳のサミー・フェイブルマン(ガブリエル・ラベル/マテオ・ゾリアン・フランシス・デフォード)は、母のミッツィ(ミシェル・ウィリアムズ)と父のバート(ポール・ダノ)に連れられて、人生で初めての「映画」を観に来ていた。
セシル・B・デミル監督の「地上最大のショウ」の列車の衝突シーンに驚いたサミーは、父にねだって電気で動く列車のオモチャを買い、それを衝突させる遊びにのめり込んでゆく。
ある時、ミッツィがバートの8ミリカメラでそれを撮影したことで、サミーは初めて自分だけの映画を手に入れる。
やがて、コンピューターエンジニアのバートが親友のベニー(セス・ローゲン)と共にRCAからGEに転職し、一家はアリゾナ州へ移り住む。
ボーイスカウトに入ったサミーは映画作りに夢中になり、ジョン・フォードの「リバティ・バランスを撃った男」に触発された西武劇を、次は数十人ものエキストラを動員した本格的な戦争映画と次々と作品を作り出す。
しかし、バートがミッツィの反対を押し切って、カリフォルニアのIBMに転職を決めた夏、一家とベニーでキャンプに行った時の映像を編集していた時、サミーはあることに気付いてしまう・・・
映画監督が自分の幼少期、あるいは青春期を語る。
古くは「フェリーニのアマルコルド」、最近ではケネス・ブラナーの撮った「ベルファスト」まで、数々の秀作の隊列に、ついにスピルバーグが加わった。
しかも本作には、過去の類似作とは決定的に違うことがある。
多くの作品では、主人公はごく普通の生活を送っていて、日常の中で起こる小さな葛藤が、その後の作家性を形作っているのがなんとなく分かる。
しかしこの人は、子供の頃から8ミリカメラを使いこなしていたという、文字通りの映画の申し子なのだ。
彼の人生は映画作家としての成長と不可分で、まさに「映画監督スティーヴン・スピルバーグが出来るまで」の物語となっている。
5歳で「地上最大のショウ」のミニチュアの列車の衝突シーンに魅了され、映画と出会う。
列車のオモチャを衝突させる遊びを通じて、現実でないものも現実にしてしまう映画の魔法を知る。
物語の前半は父の転職で引っ越したアリゾナで、ボーイスカウト仲間と8ミリ映画作りに邁進し、着々とスキルを上げてゆくサミー少年が生き生きと描かれる。
サミーが表現するにあたって何かを掴んでゆく描写が、後にスピルバーグが作る数々の映画に反映されていて、それが観客との共有体験になっているのがなんとも素敵だ。
高校生の頃に作ろうとしている戦争映画の絵コンテが出てくるのだが、スピルバーグは絵が下手で有名。
小道具のコンテは画風がそのまんまなので、多分本人が描いているんじゃないだろうか。
まあ細かい描写を含めて、スピルバーグ映画のファンほど楽しめるのは間違いないだろう。
物語の中盤までは既に伝説化され、よく知られたエピソードも多いのだが、お母さんの秘密を知ってしまうあたりから、少しずつ両親絡みのエピソードが増えてゆく。
この映画の企画を、スピルバーグが初めて立ち上げたのは20年以上前のことだという。
当時はペニー・マーシャル監督、トム・ハンクス主演の「ビッグ」の脚本家でもある、スピルバーグの妹アン(本作ではジュリア・バターズが演じた眼鏡っ子のレジー)が「I’ll Be Home」というタイトルで脚本を執筆。
だが映画を観た方ならお分かりだろうが、かなりセンシティブな内容を含むために、両親を傷つけてしまうのではないか?と悩んだスピルバーグは企画をお蔵入りさせた。
その後、母のリアが2017年に97歳で亡くなり、父のアーノルドも2020年に103歳という大往生を遂げた。
ちょうどコロナ禍のロックダウンが始まり、今本当に語りたい物語は何か?と自問自答したことで、再び企画が動いだす。
スピルバーグも70代となって、いろいろ思うところもあったのだろう。
彼は餅は餅屋で滅多に脚本を書かない人(脚本でクレジットされるのは「A.I.」以来21年ぶり)だが、盟友のトニー・クシュナーと組んで自らの物語を紡ぎ出す。
登場人物の名前を変えたのは、ほぼ実話だがフィクションの要素もあるということで、ドイツ語で寓話の意味を持つ「fable」から「Fabelman」としたそうだ。
本作の中で、サミーにとってユニークな助言をするのが、ジャド・ハーシュ演じるボリス伯父さん。
サーカスのライオン使いで、映画界でも活動しているという変わり者で、親戚の中でもちょっと怖がられているのだが、彼がアーティストとしての心得を教えてくれる。
芸術と家族、どちらも大切なものだが、いずれ心の中で引き裂かれる。
もしサミーが芸術家としての道を選ぶのなら、覚悟が必要だと。
映画との出会いとなった「地上最大のショウ」がサーカスの話だし、この人のことは聞いたことが無かったのでメタファー的なキャラクターかと思っていたら、ちゃんとモデルがいるらしい。
とことんユニークな家系なんだな。
しかしボリスの預言通り、サミーは映画を撮ったことで、家族の亀裂に気付いてしまうのだ。
家族旅行の編集をしていたサミーは、背景に映るミッツィとベニーのただならぬ親密さに心を乱される。
人は態度を取り繕うが、フィルムは嘘をつかない。
やがてごく小さかった亀裂は顕在化し、両親の離婚に繋がってしまう。
思春期真っ只中のサミーは、大きなショックを受ける。
もし自分が映画を撮っていなかったら?気付いたことをミッツイに告げなかったら?もしかすると亀裂は隠れたままで、最愛の両親の別離はなかったのではないか。
悩める少年の家族に対する想いと、映画を撮りたいという情熱がバッティングし、終盤はカリフォルニアを舞台とする高校最終学年編。
ジレンマに陥り映画作りは一旦封印するも、ここでは反ユダヤ主義のイジメという新たな問題に見舞われる。
もっとも、ギークのくせにすぐに彼女が出来たり、割とリア充だったりするので「ちょっと盛ってない?」と思ってしまった(笑
結局映画からは逃れられず、 高校のイベントの記録映画を撮ることになるが、プロムの日の上映会で、サミーをイジメていたジョックの生徒が彼の“演出”に打ちのめされるあたり、なかなか深い。
映画は撮り方、見せ方によっては、残酷な武器となるのだ。
そして映画界入り前後のエピローグでは、ある超大物監督(演じるはなんとデヴィッド・リンチ!)との出会いが描かれる。
彼とのごく短い会話でも、かつてボリスから聞かされた芸術家の業とも言うべき覚悟の話が出るが、いきなり「監督として覚えておかなければいけないこと」を助言される。
これは完全に実話だそうだが、この直後に描かれるスピルバーグ一流の遊び心溢れるラストカットに注目してほしい。
70代を迎えた映画監督の自伝というと、終活的な匂いを感じ取る向きも多いだろうが、これはむしろ「物語は終わらない!」という力強い宣言だ。
両親が亡くなった年齢を見ても、どうやらスピルバーグ家は長寿の家系らしく、これからもまだまだ楽しませてくれるだろう。
しかし天才が花開くには、やっぱり家庭環境はとても重要だなと感じた。
お父さんの科学的思考と、好きなものに対するギークな集中力。
お母さんの芸術的才能と、子供の自由な感受性に対する寛容、どちらが欠けても、サミーはこれほど早く才能を開花させることは出来なかっただろう。
その意味で、やっぱり彼は二人の作品なのだな。
一人の天才の原点としての映画との出会いから始まる物語は、最終的に人生と家族に関する、ミニマムだが普遍的な一代記となり、大いなる共感に包まれるのである。
今回は、スピルバーグとも長年の親交があるコッポラのワイナリーが作る、その名も「シャルドネ "ディレクターズ カット" ルシアン リバー ヴァレー」をチョイス。
すっきりとした喉越しの、辛口の白。
フルーティー&スパイシーな香りが広がり、とても飲みやすい。
映画好きにはコッポラのプロダクション名にもなっている、ゾートロープをモチーフとしたボトルデザインもたまらない。
聞くところによると、コッポラは新作の「Megalopolis」の制作費を捻出するために、ワイナリーの権利をほとんど売ってしまったようだが、大丈夫なんだろうか。
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作った作品の総興行収入が100億ドルを超え、三度のアカデミー賞に輝いた、歴史上最も成功した映画監督、スティーヴン・スピルバーグが自らの少年時代をモチーフとして描く自伝的作品。
5歳の時に映画と出会い、たちまち魅了されると父の8ミリカメラを使い、妹たちを役者にして自分の映画を撮り始める。
ピアニストの母と、コンピューターエンジニアリングの先駆者だった父、芸術と科学が出会う家庭で、映画の子はその才能を開花させてゆく。
しかし映画は、盤石に見えた家族に生じた小さな亀裂をも、写し取ってしまうのだ。
ミッシェル・ウイリアムズとポール・ダノが両親を演じ、スピルバーグの分身であるサミー役にはガブリエル・ラベル。
共同脚本のトニー・クシュナー、撮影監督のヤヌス・カミンスキー、音楽のジョン・ウィリアムズら、スピルバーグ組が結集。
これは70代の老年期を迎えたスピルバーグが、今の自分を形作っている“ファミリー”の面々、特に亡き両親に溢れんばかりの愛を捧げ、スピルバーグ家改めフェイブルマン家の人々を描くラブレターだ。
1952年1月10日、ニュージャージー州ハドン。
5歳のサミー・フェイブルマン(ガブリエル・ラベル/マテオ・ゾリアン・フランシス・デフォード)は、母のミッツィ(ミシェル・ウィリアムズ)と父のバート(ポール・ダノ)に連れられて、人生で初めての「映画」を観に来ていた。
セシル・B・デミル監督の「地上最大のショウ」の列車の衝突シーンに驚いたサミーは、父にねだって電気で動く列車のオモチャを買い、それを衝突させる遊びにのめり込んでゆく。
ある時、ミッツィがバートの8ミリカメラでそれを撮影したことで、サミーは初めて自分だけの映画を手に入れる。
やがて、コンピューターエンジニアのバートが親友のベニー(セス・ローゲン)と共にRCAからGEに転職し、一家はアリゾナ州へ移り住む。
ボーイスカウトに入ったサミーは映画作りに夢中になり、ジョン・フォードの「リバティ・バランスを撃った男」に触発された西武劇を、次は数十人ものエキストラを動員した本格的な戦争映画と次々と作品を作り出す。
しかし、バートがミッツィの反対を押し切って、カリフォルニアのIBMに転職を決めた夏、一家とベニーでキャンプに行った時の映像を編集していた時、サミーはあることに気付いてしまう・・・
映画監督が自分の幼少期、あるいは青春期を語る。
古くは「フェリーニのアマルコルド」、最近ではケネス・ブラナーの撮った「ベルファスト」まで、数々の秀作の隊列に、ついにスピルバーグが加わった。
しかも本作には、過去の類似作とは決定的に違うことがある。
多くの作品では、主人公はごく普通の生活を送っていて、日常の中で起こる小さな葛藤が、その後の作家性を形作っているのがなんとなく分かる。
しかしこの人は、子供の頃から8ミリカメラを使いこなしていたという、文字通りの映画の申し子なのだ。
彼の人生は映画作家としての成長と不可分で、まさに「映画監督スティーヴン・スピルバーグが出来るまで」の物語となっている。
5歳で「地上最大のショウ」のミニチュアの列車の衝突シーンに魅了され、映画と出会う。
列車のオモチャを衝突させる遊びを通じて、現実でないものも現実にしてしまう映画の魔法を知る。
物語の前半は父の転職で引っ越したアリゾナで、ボーイスカウト仲間と8ミリ映画作りに邁進し、着々とスキルを上げてゆくサミー少年が生き生きと描かれる。
サミーが表現するにあたって何かを掴んでゆく描写が、後にスピルバーグが作る数々の映画に反映されていて、それが観客との共有体験になっているのがなんとも素敵だ。
高校生の頃に作ろうとしている戦争映画の絵コンテが出てくるのだが、スピルバーグは絵が下手で有名。
小道具のコンテは画風がそのまんまなので、多分本人が描いているんじゃないだろうか。
まあ細かい描写を含めて、スピルバーグ映画のファンほど楽しめるのは間違いないだろう。
物語の中盤までは既に伝説化され、よく知られたエピソードも多いのだが、お母さんの秘密を知ってしまうあたりから、少しずつ両親絡みのエピソードが増えてゆく。
この映画の企画を、スピルバーグが初めて立ち上げたのは20年以上前のことだという。
当時はペニー・マーシャル監督、トム・ハンクス主演の「ビッグ」の脚本家でもある、スピルバーグの妹アン(本作ではジュリア・バターズが演じた眼鏡っ子のレジー)が「I’ll Be Home」というタイトルで脚本を執筆。
だが映画を観た方ならお分かりだろうが、かなりセンシティブな内容を含むために、両親を傷つけてしまうのではないか?と悩んだスピルバーグは企画をお蔵入りさせた。
その後、母のリアが2017年に97歳で亡くなり、父のアーノルドも2020年に103歳という大往生を遂げた。
ちょうどコロナ禍のロックダウンが始まり、今本当に語りたい物語は何か?と自問自答したことで、再び企画が動いだす。
スピルバーグも70代となって、いろいろ思うところもあったのだろう。
彼は餅は餅屋で滅多に脚本を書かない人(脚本でクレジットされるのは「A.I.」以来21年ぶり)だが、盟友のトニー・クシュナーと組んで自らの物語を紡ぎ出す。
登場人物の名前を変えたのは、ほぼ実話だがフィクションの要素もあるということで、ドイツ語で寓話の意味を持つ「fable」から「Fabelman」としたそうだ。
本作の中で、サミーにとってユニークな助言をするのが、ジャド・ハーシュ演じるボリス伯父さん。
サーカスのライオン使いで、映画界でも活動しているという変わり者で、親戚の中でもちょっと怖がられているのだが、彼がアーティストとしての心得を教えてくれる。
芸術と家族、どちらも大切なものだが、いずれ心の中で引き裂かれる。
もしサミーが芸術家としての道を選ぶのなら、覚悟が必要だと。
映画との出会いとなった「地上最大のショウ」がサーカスの話だし、この人のことは聞いたことが無かったのでメタファー的なキャラクターかと思っていたら、ちゃんとモデルがいるらしい。
とことんユニークな家系なんだな。
しかしボリスの預言通り、サミーは映画を撮ったことで、家族の亀裂に気付いてしまうのだ。
家族旅行の編集をしていたサミーは、背景に映るミッツィとベニーのただならぬ親密さに心を乱される。
人は態度を取り繕うが、フィルムは嘘をつかない。
やがてごく小さかった亀裂は顕在化し、両親の離婚に繋がってしまう。
思春期真っ只中のサミーは、大きなショックを受ける。
もし自分が映画を撮っていなかったら?気付いたことをミッツイに告げなかったら?もしかすると亀裂は隠れたままで、最愛の両親の別離はなかったのではないか。
悩める少年の家族に対する想いと、映画を撮りたいという情熱がバッティングし、終盤はカリフォルニアを舞台とする高校最終学年編。
ジレンマに陥り映画作りは一旦封印するも、ここでは反ユダヤ主義のイジメという新たな問題に見舞われる。
もっとも、ギークのくせにすぐに彼女が出来たり、割とリア充だったりするので「ちょっと盛ってない?」と思ってしまった(笑
結局映画からは逃れられず、 高校のイベントの記録映画を撮ることになるが、プロムの日の上映会で、サミーをイジメていたジョックの生徒が彼の“演出”に打ちのめされるあたり、なかなか深い。
映画は撮り方、見せ方によっては、残酷な武器となるのだ。
そして映画界入り前後のエピローグでは、ある超大物監督(演じるはなんとデヴィッド・リンチ!)との出会いが描かれる。
彼とのごく短い会話でも、かつてボリスから聞かされた芸術家の業とも言うべき覚悟の話が出るが、いきなり「監督として覚えておかなければいけないこと」を助言される。
これは完全に実話だそうだが、この直後に描かれるスピルバーグ一流の遊び心溢れるラストカットに注目してほしい。
70代を迎えた映画監督の自伝というと、終活的な匂いを感じ取る向きも多いだろうが、これはむしろ「物語は終わらない!」という力強い宣言だ。
両親が亡くなった年齢を見ても、どうやらスピルバーグ家は長寿の家系らしく、これからもまだまだ楽しませてくれるだろう。
しかし天才が花開くには、やっぱり家庭環境はとても重要だなと感じた。
お父さんの科学的思考と、好きなものに対するギークな集中力。
お母さんの芸術的才能と、子供の自由な感受性に対する寛容、どちらが欠けても、サミーはこれほど早く才能を開花させることは出来なかっただろう。
その意味で、やっぱり彼は二人の作品なのだな。
一人の天才の原点としての映画との出会いから始まる物語は、最終的に人生と家族に関する、ミニマムだが普遍的な一代記となり、大いなる共感に包まれるのである。
今回は、スピルバーグとも長年の親交があるコッポラのワイナリーが作る、その名も「シャルドネ "ディレクターズ カット" ルシアン リバー ヴァレー」をチョイス。
すっきりとした喉越しの、辛口の白。
フルーティー&スパイシーな香りが広がり、とても飲みやすい。
映画好きにはコッポラのプロダクション名にもなっている、ゾートロープをモチーフとしたボトルデザインもたまらない。
聞くところによると、コッポラは新作の「Megalopolis」の制作費を捻出するために、ワイナリーの権利をほとんど売ってしまったようだが、大丈夫なんだろうか。

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2023年03月02日 (木) | 編集 |
少女たちよ、大人への道を走り出せ!
期待を上まわる素晴らしい仕上がりだ。
とある田舎町の高校を舞台に、卒業式の前日と当日を描く二日間の物語。
錚々たる若手スターを多数輩出し、2010年代を代表する青春映画の伝説となった、「桐島、部活やめるってよ」で知られる朝井リョウの連作短編小説を、短編映画「カランコエの花」が高く評価された俊英・中川駿がメガホンを取って映画化。
「桐島」同様の学園群像劇だが、本作では七本の短編から登場人物を絞り込み一本に脚色、卒業を控えた高校三年生の女生徒四人が軸となる。
軽音楽部の部長で卒業コンサートを仕切る神田杏子は、中学からの同級生でなぜか歌わなくなってしまった森崎に想いを寄せている。
心理学の道を志し東京の大学に進学するバスケ部の後藤由貴は、地元に残る彼氏の寺田との関係が気まずい感じに。
クラスに馴染めず、友達がいない作田詩織にとっては、ほのかな憧れを抱く坂口先生が管理人を務める図書室が学内唯一の憩いの場。
卒業生代表として答辞を読む予定の山城まなみは、そのためにある辛い記憶に向き合うことになる。
異なる想いを抱え込んだまま伝えられない、彼女たちの葛藤は側から見たら小さくて、でもそれぞれの中ではとても重要。
中学からの6年間、ずっと森崎を見守ってきた杏子は、なぜかメタル版コールデンボンバーみたいな当てぶりバンドをやってる彼に再び歌って欲しくて、でも今さら「好き」が言い出せない。
自分の夢のために東京行きを決意した由貴は、別れに別れになることに納得できていない寺田に、どう接していいのか分からない。
坂口先生に学校での居場所をもらった詩織は、彼に対する好意はあるが、それがどんなものなのか自分でもよく分かっていない。
そしてまなみは、一番想いを伝えたい人にもう会うことが出来ないのである。
彼女らが問題に向き合う二日間の学園は、何かが終わりを迎える節目感に満ちている。
人生で一度しか経験できない輝かしい時間はもうほとんど残されていないのに、次に進む準備はまだ出来ていない。
田舎町なんて、この時期までは学校がほとんど世界の全てで、生徒たちは外の世界を知らない。
大人になるのは不安。
もう少しだけ、大人でもなく子供でもない曖昧な時間に浸っていたい、だから「卒業なんてなければいいのに!」という叶わぬ叫びが虚しく響く。
彼女らの代で校舎が解体される設定も、移ろいゆく世界観をより強める。
四者四様の葛藤が深まり「今」が「過去」になってゆく過程で、隠れていた大きな傷が浮かび上がってくる。
四人の中で一番重い問題を抱えた、まなみ役の河合優実が凄みすら感じさせる見事な名演。
杏子役の小宮山莉渚、由貴役の小野莉奈、詩織役の中井友望もまるで当て書きされたかの様に役柄にピタリとハマる。
四人の少女は、ちゃんと自分の問題に向き合い、高校生の自分を卒業することができたが、彼女たちだけでなく、サブのキャラクターも総じて好印象で、特に由貴の親友役の坂口千晴と軽音部の後輩役の田畑志真がクッキリとした爪痕を残した。
青春のキラキラを強調するのではなく、心の中の静かで激しい葛藤を丁寧に掬い取った中川監督の演出が光る。
ちょっとだけ残念に思ったのが、杏子が歌わせたがっていた森崎のアカペラ。
森崎を演じた佐藤緋美のキャラ自体は良かったが、今の高校生を「ダニー・ボーイ」で沸かせられるとは思えないのだが。
他にも脚色の過程で抜け落ちてしまった部分はあるが、朝井リョウの映画化では「桐島」にも勝るとも劣らない仕上がり。
リリカルでノスタルジック、痛くて切ない令和の青春映画の傑作だ。
甘酸っぱい青春で胸いっぱいなので、今回は「アプリコット・クーラー」をチョイス。
アプリコット・ブランデー45ml、レモン・ジュース20ml、グレナデン・シロップ1tspを、シェイクしてグラスに注ぎ、冷やしたソーダで満たす。
フルーティで喉越しスッキリ、アルコール度も低いのでお酒に弱い人でも飲みやすい。
四人の中では、杏子とか結構強そうになりそうな予感。
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期待を上まわる素晴らしい仕上がりだ。
とある田舎町の高校を舞台に、卒業式の前日と当日を描く二日間の物語。
錚々たる若手スターを多数輩出し、2010年代を代表する青春映画の伝説となった、「桐島、部活やめるってよ」で知られる朝井リョウの連作短編小説を、短編映画「カランコエの花」が高く評価された俊英・中川駿がメガホンを取って映画化。
「桐島」同様の学園群像劇だが、本作では七本の短編から登場人物を絞り込み一本に脚色、卒業を控えた高校三年生の女生徒四人が軸となる。
軽音楽部の部長で卒業コンサートを仕切る神田杏子は、中学からの同級生でなぜか歌わなくなってしまった森崎に想いを寄せている。
心理学の道を志し東京の大学に進学するバスケ部の後藤由貴は、地元に残る彼氏の寺田との関係が気まずい感じに。
クラスに馴染めず、友達がいない作田詩織にとっては、ほのかな憧れを抱く坂口先生が管理人を務める図書室が学内唯一の憩いの場。
卒業生代表として答辞を読む予定の山城まなみは、そのためにある辛い記憶に向き合うことになる。
異なる想いを抱え込んだまま伝えられない、彼女たちの葛藤は側から見たら小さくて、でもそれぞれの中ではとても重要。
中学からの6年間、ずっと森崎を見守ってきた杏子は、なぜかメタル版コールデンボンバーみたいな当てぶりバンドをやってる彼に再び歌って欲しくて、でも今さら「好き」が言い出せない。
自分の夢のために東京行きを決意した由貴は、別れに別れになることに納得できていない寺田に、どう接していいのか分からない。
坂口先生に学校での居場所をもらった詩織は、彼に対する好意はあるが、それがどんなものなのか自分でもよく分かっていない。
そしてまなみは、一番想いを伝えたい人にもう会うことが出来ないのである。
彼女らが問題に向き合う二日間の学園は、何かが終わりを迎える節目感に満ちている。
人生で一度しか経験できない輝かしい時間はもうほとんど残されていないのに、次に進む準備はまだ出来ていない。
田舎町なんて、この時期までは学校がほとんど世界の全てで、生徒たちは外の世界を知らない。
大人になるのは不安。
もう少しだけ、大人でもなく子供でもない曖昧な時間に浸っていたい、だから「卒業なんてなければいいのに!」という叶わぬ叫びが虚しく響く。
彼女らの代で校舎が解体される設定も、移ろいゆく世界観をより強める。
四者四様の葛藤が深まり「今」が「過去」になってゆく過程で、隠れていた大きな傷が浮かび上がってくる。
四人の中で一番重い問題を抱えた、まなみ役の河合優実が凄みすら感じさせる見事な名演。
杏子役の小宮山莉渚、由貴役の小野莉奈、詩織役の中井友望もまるで当て書きされたかの様に役柄にピタリとハマる。
四人の少女は、ちゃんと自分の問題に向き合い、高校生の自分を卒業することができたが、彼女たちだけでなく、サブのキャラクターも総じて好印象で、特に由貴の親友役の坂口千晴と軽音部の後輩役の田畑志真がクッキリとした爪痕を残した。
青春のキラキラを強調するのではなく、心の中の静かで激しい葛藤を丁寧に掬い取った中川監督の演出が光る。
ちょっとだけ残念に思ったのが、杏子が歌わせたがっていた森崎のアカペラ。
森崎を演じた佐藤緋美のキャラ自体は良かったが、今の高校生を「ダニー・ボーイ」で沸かせられるとは思えないのだが。
他にも脚色の過程で抜け落ちてしまった部分はあるが、朝井リョウの映画化では「桐島」にも勝るとも劣らない仕上がり。
リリカルでノスタルジック、痛くて切ない令和の青春映画の傑作だ。
甘酸っぱい青春で胸いっぱいなので、今回は「アプリコット・クーラー」をチョイス。
アプリコット・ブランデー45ml、レモン・ジュース20ml、グレナデン・シロップ1tspを、シェイクしてグラスに注ぎ、冷やしたソーダで満たす。
フルーティで喉越しスッキリ、アルコール度も低いのでお酒に弱い人でも飲みやすい。
四人の中では、杏子とか結構強そうになりそうな予感。

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