2023年04月29日 (土) | 編集 |
絶望の息吹が聞こえる。
「ヤクザと家族 The Family」の藤井道人監督によるオリジナル作品は、とある架空の村を舞台とした寓話劇。
かつてゴミ処理場建設を巡り住民たちが対立し、殺人事件まで起こった村で、犯人の息子として生きる若者の物語だ。
横浜流星演じる片山優は、亡き父親が命がけで反対したゴミ処理場で働いている。
人殺しの息子として人々に後ろ指さされ、ギャンブルで借金地獄にハマった母親を実質的に人質に取られ、村を出る事も出来ない。
そんな主人公の閉塞し切った日常が、黒木華演じる幼馴染の美咲の帰郷で動き出す。
村はゴミ処理場を先進的な環境施設としてメディアに売り出しているが、新たにスタッフとなった美咲は、優を施設の広報担当にして、セカンドチャンスを生かせる村の象徴としようとする。
藤井作品の中でも特に戯画的な作りとなっていて、寓意が非常にストレート。
主人公の優をはじめとした登場人物のキャラクター造形はエキセントリックで、役割がとても分かりやすい。
物語の序盤、悲惨な境遇で懸命に生きる主人公は、感情移入を誘う共感キャラ。
イケメンの優を前面に立てて、環境保全の先進施設としてゴミ処理場をPRするという美咲の作戦は成功し、彼の人生は一気に好転する。
美咲と交際をはじめ、人殺しの息子から逆境に耐えて頑張る青年にイメチェンした優に、村人たちの態度も手のひら返し。
メディアに大きく取り上げられたことによって、村の経済まで再生する。
しかし、全てに裏があるのである。
村を支配する名家の出身である村長は反社組織と結託し、夜になるとゴミ処理場に違法な産廃を密かに受け入れていて、広報担当者になる前の優もその犯罪に加担している。
やがて、村の秘密と優の過去を巡って中盤にある事件が起こると、優は徐々に非共感キャラになってゆく。
とっくに破綻しているのに、裏で取り繕うことで延命している村の運命と、主人公の人生をシンクロさせてくる構造だ。
いや彼だけでなく、村の住人全員一蓮托生だな。
この村は薪能が名物で、能の演目「邯鄲(かんたん)」が全体のモチーフとなっている。
中国の蜀の時代、盧生という若者が宿の女将に勧められ「邯鄲の枕」という不思議な枕で眠る。
皇帝の勅使を名乗る男に起こされた盧生は、帝位を譲られ50年もの栄華な人生を送るが、不意に全てが消える。
目覚めてみたら、そこは元の宿屋で全ては夢であったというストーリーだ。
薪能が披露される祭りは一大イベントで、能の面(おもて)を付けた村人たちが、一斉に会場へ向かい、優も美咲も子供の頃から能を習っている設定。
ゴミ処理場の地面に奇妙な穴が空いていて、そこから聞こえる「シュー」っという不思議な音を優だけが聞くシーンがある。
この音は面を付けた彼自身の呼吸音であることが、終盤に示唆される。
村も優も、現実の破綻を覆い隠すために、面を被って能を演じている。
だがそれは、邯鄲の枕で眠っている盧生と同じ、やがて覚めてしまう泡沫の夢に過ぎないのだ。
この村の権威を象徴する人物で、一言も言葉を発せず終始能面のような強張った表情を見せる木野花とか、戯画化はやり過ぎギリギリ。
こうしたスタイルは、芝居が下手だと目も当てられないが、藤井演出は演者に絶大な信頼を寄せ、横浜流星と黒木華をはじめ、力のある演技陣もきっちり応えている。
日本の田舎のダークサイドを、作家性たっぷりにカリカチュアした力作である。
今回は、邯鄲の枕で見る夢のような話なので、王紋酒造の「夢 純米酒」をチョイス。
王紋酒造は、1790年に市島秀松によって市島酒造として今の新潟県新発田市に創業。
1979年には初の女性1級酒蔵技能士が誕生し、長年女人禁制とされていた日本酒造りの世界では先駆者としての役割を果たしてきた。
「夢」はほのかな米の香りと、下越の酒らしいスッキリ辛口の味わいが特徴。
クセはなく、あらゆる食材とマッチングがよろしい。
常温か冷に向くが、ぬる燗でも美味しい。
記事が気に入ったらクリックしてね
「ヤクザと家族 The Family」の藤井道人監督によるオリジナル作品は、とある架空の村を舞台とした寓話劇。
かつてゴミ処理場建設を巡り住民たちが対立し、殺人事件まで起こった村で、犯人の息子として生きる若者の物語だ。
横浜流星演じる片山優は、亡き父親が命がけで反対したゴミ処理場で働いている。
人殺しの息子として人々に後ろ指さされ、ギャンブルで借金地獄にハマった母親を実質的に人質に取られ、村を出る事も出来ない。
そんな主人公の閉塞し切った日常が、黒木華演じる幼馴染の美咲の帰郷で動き出す。
村はゴミ処理場を先進的な環境施設としてメディアに売り出しているが、新たにスタッフとなった美咲は、優を施設の広報担当にして、セカンドチャンスを生かせる村の象徴としようとする。
藤井作品の中でも特に戯画的な作りとなっていて、寓意が非常にストレート。
主人公の優をはじめとした登場人物のキャラクター造形はエキセントリックで、役割がとても分かりやすい。
物語の序盤、悲惨な境遇で懸命に生きる主人公は、感情移入を誘う共感キャラ。
イケメンの優を前面に立てて、環境保全の先進施設としてゴミ処理場をPRするという美咲の作戦は成功し、彼の人生は一気に好転する。
美咲と交際をはじめ、人殺しの息子から逆境に耐えて頑張る青年にイメチェンした優に、村人たちの態度も手のひら返し。
メディアに大きく取り上げられたことによって、村の経済まで再生する。
しかし、全てに裏があるのである。
村を支配する名家の出身である村長は反社組織と結託し、夜になるとゴミ処理場に違法な産廃を密かに受け入れていて、広報担当者になる前の優もその犯罪に加担している。
やがて、村の秘密と優の過去を巡って中盤にある事件が起こると、優は徐々に非共感キャラになってゆく。
とっくに破綻しているのに、裏で取り繕うことで延命している村の運命と、主人公の人生をシンクロさせてくる構造だ。
いや彼だけでなく、村の住人全員一蓮托生だな。
この村は薪能が名物で、能の演目「邯鄲(かんたん)」が全体のモチーフとなっている。
中国の蜀の時代、盧生という若者が宿の女将に勧められ「邯鄲の枕」という不思議な枕で眠る。
皇帝の勅使を名乗る男に起こされた盧生は、帝位を譲られ50年もの栄華な人生を送るが、不意に全てが消える。
目覚めてみたら、そこは元の宿屋で全ては夢であったというストーリーだ。
薪能が披露される祭りは一大イベントで、能の面(おもて)を付けた村人たちが、一斉に会場へ向かい、優も美咲も子供の頃から能を習っている設定。
ゴミ処理場の地面に奇妙な穴が空いていて、そこから聞こえる「シュー」っという不思議な音を優だけが聞くシーンがある。
この音は面を付けた彼自身の呼吸音であることが、終盤に示唆される。
村も優も、現実の破綻を覆い隠すために、面を被って能を演じている。
だがそれは、邯鄲の枕で眠っている盧生と同じ、やがて覚めてしまう泡沫の夢に過ぎないのだ。
この村の権威を象徴する人物で、一言も言葉を発せず終始能面のような強張った表情を見せる木野花とか、戯画化はやり過ぎギリギリ。
こうしたスタイルは、芝居が下手だと目も当てられないが、藤井演出は演者に絶大な信頼を寄せ、横浜流星と黒木華をはじめ、力のある演技陣もきっちり応えている。
日本の田舎のダークサイドを、作家性たっぷりにカリカチュアした力作である。
今回は、邯鄲の枕で見る夢のような話なので、王紋酒造の「夢 純米酒」をチョイス。
王紋酒造は、1790年に市島秀松によって市島酒造として今の新潟県新発田市に創業。
1979年には初の女性1級酒蔵技能士が誕生し、長年女人禁制とされていた日本酒造りの世界では先駆者としての役割を果たしてきた。
「夢」はほのかな米の香りと、下越の酒らしいスッキリ辛口の味わいが特徴。
クセはなく、あらゆる食材とマッチングがよろしい。
常温か冷に向くが、ぬる燗でも美味しい。

記事が気に入ったらクリックしてね
スポンサーサイト
2023年04月26日 (水) | 編集 |
世界は優しくないけれど。
うう、メルヘンなタイトルに騙された・・・こんなしんどい内容だったとは。
共感力が強すぎるがゆえ、社会との距離感が掴めず、生きづらさを抱えた若者たちを描いた大前粟生の同名小説を、これが長編デビュー作となる金子由里奈監督が映画化した作品。
細田佳央太が演じる主人公の七森剛志は、友だちして好きと、恋愛として好きの違いが理解出来ず、社会が押し付ける男らしさや女らしさという定義にも疑問を感じている。
そんな迷える若者が、京都の大学に進学し、駒井蓮演じる同期の麦戸ちゃんと友だちになり、ぬいぐるみサークル、通称ぬいサーに入会する。
実はこのサークルは、ぬいぐるみを作るのではなく、喋るサークルなのだ。
部員たちは、部屋を埋め尽くすぬいぐるみから贔屓の子を選び、想いを打ち明ける。
誰かがぬいぐるみと喋っている時は、他の部員はヘッドホンをつけ、会話の内容を聞かないのがルール。
会話の内容は日頃の悩みだったり、恋愛だったり、社会問題についてだったり様々だ。
もっとも恋愛や男らしさ女らしさといったジェンダーの問題を含むと言っても、そこだけにフォーカスしている訳ではない。
七森もフツーに女の子との恋愛に憧れを持っているし、実際に作中で“彼女“も出来る。
しかしそれは、純粋な“好き“からではなく、サークルの人たちが当たり前に楽しんでいる恋愛というものを自分も経験してみたくなったから。
異性を好きになったことの無い七森には、恋愛のはじめ方が分からないのだ。
本作が描いているのは、ジェンダーよりもっと広い人間同士の繋がりであり、他者への共感。
もしかしたら、七森は恋愛関連の脳のシナプスの接続が遅れているだけで、そのうち恋が出来るかも知れないし、最初から恋愛シナプスが無い人なのかも知れない。
だが、世の中には大学生にもなったのなら、恋して当たり前、好きな人が出来ないのはおかしいという同調圧力がある。
自分の気持ちに可能な限り素直にいようとする七森も、その誘惑には抗えない。
ぬいサーの部員たちの中でも、七森と麦戸ちゃんは似たもの同士。
二人は特に感受性が豊かで、他人の痛みを自分のことのように感じてしまうほど共感力が強い。
知らない誰かの身に起ことに悩みを深め、苦しい心のうちを誰かに話すと、その人も傷付けてしまうのではないかと恐れ、ぬいぐるみにだけ本心を吐露する。
そんな性格だから、初めての一人暮らしで誰にも相談できずにどんどん追い詰められて、うつ状態になってしまう。
皆が社会の様々な不文律を「理不尽だ」と思いながら、鬱憤を押し殺すことで成立している社会は、見て見ぬふりの出来ない優しすぎる人には生きづらい。
新谷ゆづみ演じるもう一人の同期生で七森の“彼女“となる白城が、普通の人の視点を代弁。
彼女はリアリストで感情移入しやすいのだけど、七森と麦戸ちゃんを見ているとこっちが間違ってるような気分になる。
普通に考えれば優しい人が壊れない世界が理想、しかし現実は違う。
これは、ガラスのように繊細な心を持つ二人が、大切な人と居場所を見つけ、少しずつ現実の世界に適応できる道筋を見つけるまでの、優しくも厳しい物語。
映画が終わった時、七森と麦戸ちゃんの物語は、観客の大いなる共感に包まれるだろう。
金子由里奈監督は、原作の要素を殆ど落とすことなく再構成し、丁寧な演出でキャラクターたちに息を吹き込み、素晴らしいデビュー作を放った。
駒井蓮が素晴らしいのは知ってるけど、細田佳央太もボーっとしたキャラがフィット。
原作読んだ印象だと、もう少しだけ七森が精神的に成長すると、麦戸ちゃんとは恋愛相手としても上手く行きそうな気がする。
優しい人には、幸せになってもらいたい。
今回は個性を生かせる世界をイメージして、虹の様な層を持つカクテル、「エンジェルズ・デイライト」をチョイス。
グラスにグレナデン・シロップ、パルフェ・タムール、ホワイト・キュラソー、生クリームの順番で、15mlづつ静かに重ねてゆく。
スプーンの背をグラスに沿わせて、そこから注ぐようにすれば崩れにくい。
それぞれの比重の違いが、層を作り出すカラフルで不思議なカクテル。
複数の味が溶け合う感覚も楽しい。
記事が気に入ったらクリックしてね
うう、メルヘンなタイトルに騙された・・・こんなしんどい内容だったとは。
共感力が強すぎるがゆえ、社会との距離感が掴めず、生きづらさを抱えた若者たちを描いた大前粟生の同名小説を、これが長編デビュー作となる金子由里奈監督が映画化した作品。
細田佳央太が演じる主人公の七森剛志は、友だちして好きと、恋愛として好きの違いが理解出来ず、社会が押し付ける男らしさや女らしさという定義にも疑問を感じている。
そんな迷える若者が、京都の大学に進学し、駒井蓮演じる同期の麦戸ちゃんと友だちになり、ぬいぐるみサークル、通称ぬいサーに入会する。
実はこのサークルは、ぬいぐるみを作るのではなく、喋るサークルなのだ。
部員たちは、部屋を埋め尽くすぬいぐるみから贔屓の子を選び、想いを打ち明ける。
誰かがぬいぐるみと喋っている時は、他の部員はヘッドホンをつけ、会話の内容を聞かないのがルール。
会話の内容は日頃の悩みだったり、恋愛だったり、社会問題についてだったり様々だ。
もっとも恋愛や男らしさ女らしさといったジェンダーの問題を含むと言っても、そこだけにフォーカスしている訳ではない。
七森もフツーに女の子との恋愛に憧れを持っているし、実際に作中で“彼女“も出来る。
しかしそれは、純粋な“好き“からではなく、サークルの人たちが当たり前に楽しんでいる恋愛というものを自分も経験してみたくなったから。
異性を好きになったことの無い七森には、恋愛のはじめ方が分からないのだ。
本作が描いているのは、ジェンダーよりもっと広い人間同士の繋がりであり、他者への共感。
もしかしたら、七森は恋愛関連の脳のシナプスの接続が遅れているだけで、そのうち恋が出来るかも知れないし、最初から恋愛シナプスが無い人なのかも知れない。
だが、世の中には大学生にもなったのなら、恋して当たり前、好きな人が出来ないのはおかしいという同調圧力がある。
自分の気持ちに可能な限り素直にいようとする七森も、その誘惑には抗えない。
ぬいサーの部員たちの中でも、七森と麦戸ちゃんは似たもの同士。
二人は特に感受性が豊かで、他人の痛みを自分のことのように感じてしまうほど共感力が強い。
知らない誰かの身に起ことに悩みを深め、苦しい心のうちを誰かに話すと、その人も傷付けてしまうのではないかと恐れ、ぬいぐるみにだけ本心を吐露する。
そんな性格だから、初めての一人暮らしで誰にも相談できずにどんどん追い詰められて、うつ状態になってしまう。
皆が社会の様々な不文律を「理不尽だ」と思いながら、鬱憤を押し殺すことで成立している社会は、見て見ぬふりの出来ない優しすぎる人には生きづらい。
新谷ゆづみ演じるもう一人の同期生で七森の“彼女“となる白城が、普通の人の視点を代弁。
彼女はリアリストで感情移入しやすいのだけど、七森と麦戸ちゃんを見ているとこっちが間違ってるような気分になる。
普通に考えれば優しい人が壊れない世界が理想、しかし現実は違う。
これは、ガラスのように繊細な心を持つ二人が、大切な人と居場所を見つけ、少しずつ現実の世界に適応できる道筋を見つけるまでの、優しくも厳しい物語。
映画が終わった時、七森と麦戸ちゃんの物語は、観客の大いなる共感に包まれるだろう。
金子由里奈監督は、原作の要素を殆ど落とすことなく再構成し、丁寧な演出でキャラクターたちに息を吹き込み、素晴らしいデビュー作を放った。
駒井蓮が素晴らしいのは知ってるけど、細田佳央太もボーっとしたキャラがフィット。
原作読んだ印象だと、もう少しだけ七森が精神的に成長すると、麦戸ちゃんとは恋愛相手としても上手く行きそうな気がする。
優しい人には、幸せになってもらいたい。
今回は個性を生かせる世界をイメージして、虹の様な層を持つカクテル、「エンジェルズ・デイライト」をチョイス。
グラスにグレナデン・シロップ、パルフェ・タムール、ホワイト・キュラソー、生クリームの順番で、15mlづつ静かに重ねてゆく。
スプーンの背をグラスに沿わせて、そこから注ぐようにすれば崩れにくい。
それぞれの比重の違いが、層を作り出すカラフルで不思議なカクテル。
複数の味が溶け合う感覚も楽しい。

記事が気に入ったらクリックしてね
2023年04月21日 (金) | 編集 |
本当の闇はどこにあるのか。
イランの聖地マシュハドで、2000年~2001年に娼婦ばかり16人が殺された連続殺人事件をベースに、「ボーダー 二つの世界」で脚光を浴びた、イラン出身のアリ・アッバシ監督が描いたクライムスリラー。
事件の捜査も裁判もすでに終わっているので、犯人探しのミステリ映画ではない。
アヴァンタイトルで一件の殺人が描かれた後、 ザーラ・アミール・エブラヒミが演じる事件を追う女性ジャーナリストのラヒミと、メフディ・バジェスタニ演じる犯人のサイード、双方の視点が交互に描かれてゆく。
サイードのキャラクターは実際の事件を起こしたサイード・ハナエイに基づいているが、ジャーナリストのラヒミは架空のキャラクター。
アッバシは同じ事件をモチーフとしたドキュメンタリー映画「و عنکبوت آمد(そして蜘蛛が来た)」で、ハナエイにインタビューしたジャーナリストからラヒミのキャラクターを着想したという。
彼女の客観的な視点が入ることで、殺人事件そのものだけでなく、事件が起こった背景や事件に対する社会の反応など、複合的な要素から本当の闇が浮かび上がってくる。
ジャーナリストのラヒミ(ザーラ・アミール・エブラヒミ)は、娼婦ばかりを狙う連続殺人事件を取材するために宗教都市マシュハドにやって来る。
犯人はこの街に住む彼女の旧知ジャーナリスト、シャリフィ(アラシュ・アシュティアニ)に犯行声明の電話をかけていた。
ラヒミはシャリフィと共に警察を取材するが、被害者が娼婦だけで一部の市民は犯人を英雄視していることもあり、彼らの腰は重い。
“蜘蛛殺し“と呼ばれる連続殺人犯の正体は退役軍人のサイード(メフディ・バジェスタニ)で、妻と三人の子を持つ平凡な男。
だが、彼は英雄として死にたいという願望を隠せず、聖地を汚す娼婦をターゲットとした殺人を繰り返していた。
死体だけが増えてゆき、警察は一向に手掛かりは掴めない。
そんなある日、ラヒミが話を聞こうとした娼婦が殺され、彼女は犯人を突き止めるために、ある危険な作戦を考える・・・・
重苦しい映画である。
前作の「ボーダー 二つの世界」も、本来自分が属していない世界で生き方に葛藤を抱えた主人公の物語だったが、本作では聡明な女性ジャーナリスト、ラヒミが物語の入り口となり、私たちの知らないもう一つの世界が描かれる。
舞台となるのは、イラン北東部にある聖地マシュハド。
首都テヘランに次ぐイラン第二の大都市には、イスラム教シーア派のイマーム・レザーの聖廟があり、シーア派の巡礼地ともなっていて、その風土は極めて保守的。
だがそんな土地にも、貧困から体を売らなければ生きていけない女性たちがいる。
長編デビュー作の「マザーズ」、「ボーダー 二つの世界」に続いて、アッバシと三度目のタッグを組む撮影監督ナディーム・カールセンは、光と闇のコントラストでこの街を捉える。
眩い光に満ちた広場や住宅地があるかと思えば、荒れた路地に足を踏み入れれば、街灯すらほとんどない暗闇が広がっている。
売春は違法だが、客に気づいてもらえないと商売にならない。
だから多くの娼婦たちは目立つスカーフを着けて光と闇の境界に立っているが、暗闇には狡猾な蜘蛛が巣を張っていて、彼女らが闇に迷い込むのを待っている。
シリアルキラーのサイードは、イラン・イラク戦争の帰還兵で、妻と息子、二人の娘と共に暮らす子煩悩な父親だ。
しかし信心深いサイードには強い英雄願望があり、本当は戦争で殉教者として死にたかったと思っている。
そして彼は神の兵士となり、聖地を汚す夜の街に立つ娼婦たちを殺し始めるのである。
最初の事件は2000年の8月7日で、殺された女性には幼い娘がいた。
これが映画の冒頭で描かれた殺人だろう。
それから5日の間に3人を殺害し、しばらく鳴りを潜めるものの、翌2001年の1月に殺人を再開し8月までに13人を殺している。
終盤に描かれる裁判のシークエンスでは、神が彼の仕事を認めたので、殺人は正義であり街の浄化だと主張する。
どこまで事実かは分からないが、本作のサイードはしばし幻覚を見ていて、現実と区別がついておらず、それゆえに自分の主張も心の底から信じているように描写されるので、もしかしたらPTSDを発症していたのかも知れない。
一方のラヒミは、自立した女性で、やり手のジャーナリスト。
宗教国家という特殊な権威主義体制にあっても、判事や警察といった体勢側に対して歯に絹を着せない追求をする。
そんな彼女にも、テヘランで上司にセクハラを受けていて、告発したら上司ではなく彼女がクビになったという過去がある。
ラヒミを演じて、イラン人女優として初のカンヌ国際映画祭女優賞を受賞したザーラ・アミール・エブラヒミは、元恋人に悪意あるリベンジポルノを流失させられた事件でイラン芸能界を追放され、以降フランスでの亡命生活を余儀なくされている。
現在はBBCのプロデューサーとしても活躍するエブラヒミは、当初裏方として本作に参加していたが、最終的に自分がラヒミ役を演じることとなった。
映画の人物像に彼女の実際の経験を盛り込むことで、非常にリアリティのあるキャラクターとなっており、エブラヒミのキャスティングが本作の成功要因の一つなのは間違いないだろう。
イラン国外の観客にも感情移入しやすい、ラヒミの目を通して事件を追うことで、単なる殺人だけでなく事件を取り巻く社会全体の問題が明らかになってくるのである。
超保守的な街では娼婦の存在をよく思わない人たちも多く、市民たちはサイードが捕まった後も英雄視している。
裁判所の前にはサイード釈放を要求するデモ隊が押し寄せ、彼を死刑にしないために支援者たちが金を集め、殺された娼婦の遺族を説得する。
イランでは遺族が賠償金を受け入れると、死刑が減免されるという驚くべき制度があるのだ。
シリアルキラーを救うためのノイジーな活動を、社会のマジョリティが繰り広げる一方で、不浄なものとされた殺された娼婦の遺族たちの声は外には出てこない。
また女性が女性の味方とも限らない。
サイードの妻は、夫の行為を正しいこととして子供たちに伝えるし、街の“まとも“な女性たちも娼婦を蔑視しているのだろう。
各方面へのラヒミの取材で見えてくるものが、彼女自身の過去と組み合わせられ、イランに蔓延するミソジニーの問題、神権政治が支配する社会への疑念が浮かび上がってくる構造になっている。
裁判が終わり、マシュハドを離れるラヒミが、バスの中で再生するサイードの息子へのインタビュービデオが、この問題の根深さを雄弁に物語る。
これらの問題はイスラム世界独特の部分もあるが、マジョリティから見て異端の存在に対するヘイト、セックスワーカーに対する嫌悪と差別などは日本でもある話で、決して対岸の火事ではない。
異国を鏡に「では自分たちの社会は?」と問いかけてくるのである。
本作は非常に高い評価を得たが、製作国は全て欧州でロケ地もヨルダン。
イランでの撮影を試みたものの許可されず、完成した映画と関わったイラン人関係者に対してもイラン政府は脅迫的な非難声明を繰り返している。
今ではフランスの市民権を持つエブラヒミも、カンヌでの受賞以来200件もの脅迫を受けたというから、闇はとことん深い。
ただ同じ題材のイラン映画「Killer Spider」も存在しているので、この事件を取り上げるのがダメということではない様だ。
両作を観比べるとイラン政府的には何が気に入らないのか理解できるのかも知れない。
今回は、蜘蛛つながりで「グリーン・スパイダー」をチョイス。
ウォッカ45mlとクレーム・ドミント・グリーン15mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
エメラルドのような緑が美しいスイートなカクテルだが、アルコール度数は35°もあるので、いつの間にか蜘蛛の巣にかからない様に注意が必要。
記事が気に入ったらクリックしてね
イランの聖地マシュハドで、2000年~2001年に娼婦ばかり16人が殺された連続殺人事件をベースに、「ボーダー 二つの世界」で脚光を浴びた、イラン出身のアリ・アッバシ監督が描いたクライムスリラー。
事件の捜査も裁判もすでに終わっているので、犯人探しのミステリ映画ではない。
アヴァンタイトルで一件の殺人が描かれた後、 ザーラ・アミール・エブラヒミが演じる事件を追う女性ジャーナリストのラヒミと、メフディ・バジェスタニ演じる犯人のサイード、双方の視点が交互に描かれてゆく。
サイードのキャラクターは実際の事件を起こしたサイード・ハナエイに基づいているが、ジャーナリストのラヒミは架空のキャラクター。
アッバシは同じ事件をモチーフとしたドキュメンタリー映画「و عنکبوت آمد(そして蜘蛛が来た)」で、ハナエイにインタビューしたジャーナリストからラヒミのキャラクターを着想したという。
彼女の客観的な視点が入ることで、殺人事件そのものだけでなく、事件が起こった背景や事件に対する社会の反応など、複合的な要素から本当の闇が浮かび上がってくる。
ジャーナリストのラヒミ(ザーラ・アミール・エブラヒミ)は、娼婦ばかりを狙う連続殺人事件を取材するために宗教都市マシュハドにやって来る。
犯人はこの街に住む彼女の旧知ジャーナリスト、シャリフィ(アラシュ・アシュティアニ)に犯行声明の電話をかけていた。
ラヒミはシャリフィと共に警察を取材するが、被害者が娼婦だけで一部の市民は犯人を英雄視していることもあり、彼らの腰は重い。
“蜘蛛殺し“と呼ばれる連続殺人犯の正体は退役軍人のサイード(メフディ・バジェスタニ)で、妻と三人の子を持つ平凡な男。
だが、彼は英雄として死にたいという願望を隠せず、聖地を汚す娼婦をターゲットとした殺人を繰り返していた。
死体だけが増えてゆき、警察は一向に手掛かりは掴めない。
そんなある日、ラヒミが話を聞こうとした娼婦が殺され、彼女は犯人を突き止めるために、ある危険な作戦を考える・・・・
重苦しい映画である。
前作の「ボーダー 二つの世界」も、本来自分が属していない世界で生き方に葛藤を抱えた主人公の物語だったが、本作では聡明な女性ジャーナリスト、ラヒミが物語の入り口となり、私たちの知らないもう一つの世界が描かれる。
舞台となるのは、イラン北東部にある聖地マシュハド。
首都テヘランに次ぐイラン第二の大都市には、イスラム教シーア派のイマーム・レザーの聖廟があり、シーア派の巡礼地ともなっていて、その風土は極めて保守的。
だがそんな土地にも、貧困から体を売らなければ生きていけない女性たちがいる。
長編デビュー作の「マザーズ」、「ボーダー 二つの世界」に続いて、アッバシと三度目のタッグを組む撮影監督ナディーム・カールセンは、光と闇のコントラストでこの街を捉える。
眩い光に満ちた広場や住宅地があるかと思えば、荒れた路地に足を踏み入れれば、街灯すらほとんどない暗闇が広がっている。
売春は違法だが、客に気づいてもらえないと商売にならない。
だから多くの娼婦たちは目立つスカーフを着けて光と闇の境界に立っているが、暗闇には狡猾な蜘蛛が巣を張っていて、彼女らが闇に迷い込むのを待っている。
シリアルキラーのサイードは、イラン・イラク戦争の帰還兵で、妻と息子、二人の娘と共に暮らす子煩悩な父親だ。
しかし信心深いサイードには強い英雄願望があり、本当は戦争で殉教者として死にたかったと思っている。
そして彼は神の兵士となり、聖地を汚す夜の街に立つ娼婦たちを殺し始めるのである。
最初の事件は2000年の8月7日で、殺された女性には幼い娘がいた。
これが映画の冒頭で描かれた殺人だろう。
それから5日の間に3人を殺害し、しばらく鳴りを潜めるものの、翌2001年の1月に殺人を再開し8月までに13人を殺している。
終盤に描かれる裁判のシークエンスでは、神が彼の仕事を認めたので、殺人は正義であり街の浄化だと主張する。
どこまで事実かは分からないが、本作のサイードはしばし幻覚を見ていて、現実と区別がついておらず、それゆえに自分の主張も心の底から信じているように描写されるので、もしかしたらPTSDを発症していたのかも知れない。
一方のラヒミは、自立した女性で、やり手のジャーナリスト。
宗教国家という特殊な権威主義体制にあっても、判事や警察といった体勢側に対して歯に絹を着せない追求をする。
そんな彼女にも、テヘランで上司にセクハラを受けていて、告発したら上司ではなく彼女がクビになったという過去がある。
ラヒミを演じて、イラン人女優として初のカンヌ国際映画祭女優賞を受賞したザーラ・アミール・エブラヒミは、元恋人に悪意あるリベンジポルノを流失させられた事件でイラン芸能界を追放され、以降フランスでの亡命生活を余儀なくされている。
現在はBBCのプロデューサーとしても活躍するエブラヒミは、当初裏方として本作に参加していたが、最終的に自分がラヒミ役を演じることとなった。
映画の人物像に彼女の実際の経験を盛り込むことで、非常にリアリティのあるキャラクターとなっており、エブラヒミのキャスティングが本作の成功要因の一つなのは間違いないだろう。
イラン国外の観客にも感情移入しやすい、ラヒミの目を通して事件を追うことで、単なる殺人だけでなく事件を取り巻く社会全体の問題が明らかになってくるのである。
超保守的な街では娼婦の存在をよく思わない人たちも多く、市民たちはサイードが捕まった後も英雄視している。
裁判所の前にはサイード釈放を要求するデモ隊が押し寄せ、彼を死刑にしないために支援者たちが金を集め、殺された娼婦の遺族を説得する。
イランでは遺族が賠償金を受け入れると、死刑が減免されるという驚くべき制度があるのだ。
シリアルキラーを救うためのノイジーな活動を、社会のマジョリティが繰り広げる一方で、不浄なものとされた殺された娼婦の遺族たちの声は外には出てこない。
また女性が女性の味方とも限らない。
サイードの妻は、夫の行為を正しいこととして子供たちに伝えるし、街の“まとも“な女性たちも娼婦を蔑視しているのだろう。
各方面へのラヒミの取材で見えてくるものが、彼女自身の過去と組み合わせられ、イランに蔓延するミソジニーの問題、神権政治が支配する社会への疑念が浮かび上がってくる構造になっている。
裁判が終わり、マシュハドを離れるラヒミが、バスの中で再生するサイードの息子へのインタビュービデオが、この問題の根深さを雄弁に物語る。
これらの問題はイスラム世界独特の部分もあるが、マジョリティから見て異端の存在に対するヘイト、セックスワーカーに対する嫌悪と差別などは日本でもある話で、決して対岸の火事ではない。
異国を鏡に「では自分たちの社会は?」と問いかけてくるのである。
本作は非常に高い評価を得たが、製作国は全て欧州でロケ地もヨルダン。
イランでの撮影を試みたものの許可されず、完成した映画と関わったイラン人関係者に対してもイラン政府は脅迫的な非難声明を繰り返している。
今ではフランスの市民権を持つエブラヒミも、カンヌでの受賞以来200件もの脅迫を受けたというから、闇はとことん深い。
ただ同じ題材のイラン映画「Killer Spider」も存在しているので、この事件を取り上げるのがダメということではない様だ。
両作を観比べるとイラン政府的には何が気に入らないのか理解できるのかも知れない。
今回は、蜘蛛つながりで「グリーン・スパイダー」をチョイス。
ウォッカ45mlとクレーム・ドミント・グリーン15mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
エメラルドのような緑が美しいスイートなカクテルだが、アルコール度数は35°もあるので、いつの間にか蜘蛛の巣にかからない様に注意が必要。

記事が気に入ったらクリックしてね
2023年04月16日 (日) | 編集 |
この世界は、終るべきなのか。
紀里谷和明監督による、鮮やかな傑作である。
天涯孤独の高校生が、突然政府機関から「夢で見た内容を教えて欲しい」と依頼される。
政府の特別な部署が管理している、この世の始まりから終わりまでが記されたアカシックレコードのような不思議な本によると、世界はニ週間後に終末の時を迎え、彼女が見る夢だけがそれを阻止する力があるらしい。
一見すると新海誠っぽい世界観なのだが、当初ありがちなセカイ系に見えた物語はまるで違うところに向かってゆく。
原作・監督・脚本は、本作が「最後の作品」になると語っている紀里谷和明。
岩井俊二作品で知られる撮影監督の神戸千木が、素晴らしいフレームワークを見せる。
主人公の志門ハナに「さがす」の伊東蒼、彼女を警護する政府の男に毎熊克哉、ハナの夢からメッセージを読み解く謎めいた老婆を夏木マリが演じる。
この世界は救うに値するのか?まだ救えるのか?という葛藤は、観客の想像力を軽々と超えて、話のスタート時点では予想もつかなかった、驚くべき所に着地するのだ。
※核心部分に触れています。
2030年3月。
両親を早くに事故で失い、祖母と暮らしていた高校三年生のハナ(伊藤蒼)は、祖母の死で天涯孤独の身となり、学校にも居場所がない。
生きる希望を失っていたある夜、彼女の家を江崎省吾(毎熊克哉)と佐伯玲子(朝比奈彩)と名乗る政府機関の者たちが訪れ、ハナに「夢で見た内容を教えて欲しい」と依頼する。
訳が分からないハナだったが、その夜不思議な夢を見る。
夢の中で侍に追われたハナは、侍に親を殺されたユキ(増田光桜)という少女に助けられ、洞窟に住む老婆(夏木マリ)と引き合わせられる。
老婆はハナとユキに祠に届ける手紙を託し、二人は洞窟を脱出するが、直後に老婆は殺される。
目覚めて、夢を見たことを江崎に告げると、彼は寂れた商店街の地下にある洞窟へとハナを連れてゆく。
そこには夢の老婆とそっくりな女性がいて、ハナに不思議な本を見せる。
それはこれから起こることが書かれている本で、本によると二週間後に世界は終わり、止めることができるのは、唯一ハナの見る夢だという・・・・
偶然にも本作の前に、M・ナイト・シャマラン監督の「ノック 終末の訪問者」を観た。
同じように世界の終りをモチーフとした作品だが、ベクトルは真逆。
「ノック」はキリスト教圏からたまに出てくる決定論に基づいた作品で、ゲイの夫婦と娘がバカンスを過ごす山小屋に、武器を持った4人の男女がやって来て、もうすぐ世界は終わるので、お前ら3人の誰かが生贄になって、終末を阻止しろと言われる。
この映画の世界は神的な存在のオーダーの産物ゆえ、人間がどう抗おうが神の決定を覆したければ、結局創造物が身を捧げるしかないという、いわゆる身も蓋もない話である。
対して本作には、神のような上位存在は無い。
老婆の持つ本には、世界の終りが記されているが、それは過去から現在までの人間の行いの結果としての終末。
人間が殺し合い、傷つけ合い、世界を汚していった結果、終わりは突然やって来る。
誰のせいでもなく、自分達が終末をもたらすのである。
逆に言えば、人間の行いの結果だから、ほんのちょっとしたことで回避できるかもしれない。
そのヒントは今を形作っている過去にあるのかもしれないので、夢の世界で過去と繋がる特殊能力のあるハナに白羽の矢が立つ。
どうやら、彼女の家系の女性には代々この能力があり、政府に協力してきたことが作中で明かされる。
いきなり世界の運命という重すぎる荷を背負わされたハナは、それ以前から元々世界に絶望している。
両親は事故で亡くなり、唯一の肉親だった祖母も逝った。
稼がなければいけないのでバイトに明け暮れ、学校では不良の脅迫のターゲットとなり、夢だった進学も諦めざるを得なくなる。
唯一自然でいられるのは、幼馴染のタケルといる時くらい。
自分にはとことん冷たい世界を救うために、それでもハナは彼女なりに力を尽くす。
夢の中で願いを叶えるために、ユキと共に手紙を携えて祠を目指し、二人を阻止しようとする謎の侍に追われる。
危険な冒険によって彼女がもたらす情報は、本の内容を書き換え少しだけ未来を変える。
だが、人間は本質的に変わらないのだ。
ハナの存在が「占いで首相を動かす女子高生」として世間に知られると、世界は彼女を助けるのではなく、異端の者として攻撃をはじめる。
さらに夢が現実へと侵食を始め、世界は終末に向かってどんどんと加速して、ハナの周りの世界も壊れはじめる。
絶望が覆い尽くす終盤の描写は、原作版「デビルマン」を思わせる。
祠に手紙を届けることができた時、この世の地獄を見てきたユキが願ったことは何か。
この映画の過去=夢の世界は、おそらく無限に積層された記憶のイメージだろう。
ずっと昔から人間が積み重ねてきた、罪の記憶の集大成として今がある。
紀里谷監督は、子供の頃からこの世界に絶望して来たと言う。
彼が創造したハナは、それでもなんとか世界のために頑張ろうとするが、ついに力尽きる。
セカイ系と言われる多くの作品では、主人公の周りのごく狭い人間関係が世界の運命を左右する。
しかし本作では、終末を回避するためのハナの必死の努力は、人類の集合的無意識が積層された世界によって跳ね返されてしまう。
ハナのセカイは、世界を救えないのだ。
この世界は誰かのせいではなく、人類全員の行いの結果として終わる。
これはセカイ系の様でいて実は逆であり、ハナの絶望の感情は終末とシンクロしているが、運命を変えることは出来ないのである。
これはおそらく、芸術の道に生きる作者の素直な心情だろう。
利己的な人間の世では争いは絶えず、何もしなければ瓦解に向かう世界を、芸術という美しいものが繋ぎ止めている。
多くの芸術家は、それぞれの手段で人間の持つ善性を発信することで、世界に少しずつ影響を与えているが、それだけで世界を救うことは出来るのか。
人間の社会には美しさと邪悪さが拮抗していて、いつか邪悪さが勝ってしまうかもしれない。
世界の終わりは人間の善性の敗北であり、全ての人に潜む邪悪さへの切実な恐れを描いたのが本作ではないだろうか。
北村一輝が演じるハナを付け狙う不死の男は、人間の中の根源的な悪のメタファーだろう。
そして絶望が世界を覆い尽くし、それでもなおある方法で提示される希望がユニーク。
はたして「それが本当に希望なのか?」という問いを含めて、本作の持つ世界観を特徴づけている。
10代の少女を主人公とした優れたジュブナイルであり、同時に非常に日本的なハードSFの傑作だ。
出ずっぱりでハナを熱演する伊藤蒼が素晴らしく、あと夏木マリが完全に湯婆婆(笑
夢からはじまる物語には「ドリーム」をチョイス。
ブランデー40ml、オレンジ・キュラソー20ml、ぺルノ1dashを、氷と共にシェイクしてグラスに注ぐ。
ブランデーの甘味とオレンジの風味が組み合わさり、ぺルノがアクセントとなってコクのある味わいを引き立てる。
名前の通りナイトキャップとしても好まれており、甘口のカクテルを楽しんでいるうちに、いつの間にか夢に誘われる。
記事が気に入ったらクリックしてね
紀里谷和明監督による、鮮やかな傑作である。
天涯孤独の高校生が、突然政府機関から「夢で見た内容を教えて欲しい」と依頼される。
政府の特別な部署が管理している、この世の始まりから終わりまでが記されたアカシックレコードのような不思議な本によると、世界はニ週間後に終末の時を迎え、彼女が見る夢だけがそれを阻止する力があるらしい。
一見すると新海誠っぽい世界観なのだが、当初ありがちなセカイ系に見えた物語はまるで違うところに向かってゆく。
原作・監督・脚本は、本作が「最後の作品」になると語っている紀里谷和明。
岩井俊二作品で知られる撮影監督の神戸千木が、素晴らしいフレームワークを見せる。
主人公の志門ハナに「さがす」の伊東蒼、彼女を警護する政府の男に毎熊克哉、ハナの夢からメッセージを読み解く謎めいた老婆を夏木マリが演じる。
この世界は救うに値するのか?まだ救えるのか?という葛藤は、観客の想像力を軽々と超えて、話のスタート時点では予想もつかなかった、驚くべき所に着地するのだ。
※核心部分に触れています。
2030年3月。
両親を早くに事故で失い、祖母と暮らしていた高校三年生のハナ(伊藤蒼)は、祖母の死で天涯孤独の身となり、学校にも居場所がない。
生きる希望を失っていたある夜、彼女の家を江崎省吾(毎熊克哉)と佐伯玲子(朝比奈彩)と名乗る政府機関の者たちが訪れ、ハナに「夢で見た内容を教えて欲しい」と依頼する。
訳が分からないハナだったが、その夜不思議な夢を見る。
夢の中で侍に追われたハナは、侍に親を殺されたユキ(増田光桜)という少女に助けられ、洞窟に住む老婆(夏木マリ)と引き合わせられる。
老婆はハナとユキに祠に届ける手紙を託し、二人は洞窟を脱出するが、直後に老婆は殺される。
目覚めて、夢を見たことを江崎に告げると、彼は寂れた商店街の地下にある洞窟へとハナを連れてゆく。
そこには夢の老婆とそっくりな女性がいて、ハナに不思議な本を見せる。
それはこれから起こることが書かれている本で、本によると二週間後に世界は終わり、止めることができるのは、唯一ハナの見る夢だという・・・・
偶然にも本作の前に、M・ナイト・シャマラン監督の「ノック 終末の訪問者」を観た。
同じように世界の終りをモチーフとした作品だが、ベクトルは真逆。
「ノック」はキリスト教圏からたまに出てくる決定論に基づいた作品で、ゲイの夫婦と娘がバカンスを過ごす山小屋に、武器を持った4人の男女がやって来て、もうすぐ世界は終わるので、お前ら3人の誰かが生贄になって、終末を阻止しろと言われる。
この映画の世界は神的な存在のオーダーの産物ゆえ、人間がどう抗おうが神の決定を覆したければ、結局創造物が身を捧げるしかないという、いわゆる身も蓋もない話である。
対して本作には、神のような上位存在は無い。
老婆の持つ本には、世界の終りが記されているが、それは過去から現在までの人間の行いの結果としての終末。
人間が殺し合い、傷つけ合い、世界を汚していった結果、終わりは突然やって来る。
誰のせいでもなく、自分達が終末をもたらすのである。
逆に言えば、人間の行いの結果だから、ほんのちょっとしたことで回避できるかもしれない。
そのヒントは今を形作っている過去にあるのかもしれないので、夢の世界で過去と繋がる特殊能力のあるハナに白羽の矢が立つ。
どうやら、彼女の家系の女性には代々この能力があり、政府に協力してきたことが作中で明かされる。
いきなり世界の運命という重すぎる荷を背負わされたハナは、それ以前から元々世界に絶望している。
両親は事故で亡くなり、唯一の肉親だった祖母も逝った。
稼がなければいけないのでバイトに明け暮れ、学校では不良の脅迫のターゲットとなり、夢だった進学も諦めざるを得なくなる。
唯一自然でいられるのは、幼馴染のタケルといる時くらい。
自分にはとことん冷たい世界を救うために、それでもハナは彼女なりに力を尽くす。
夢の中で願いを叶えるために、ユキと共に手紙を携えて祠を目指し、二人を阻止しようとする謎の侍に追われる。
危険な冒険によって彼女がもたらす情報は、本の内容を書き換え少しだけ未来を変える。
だが、人間は本質的に変わらないのだ。
ハナの存在が「占いで首相を動かす女子高生」として世間に知られると、世界は彼女を助けるのではなく、異端の者として攻撃をはじめる。
さらに夢が現実へと侵食を始め、世界は終末に向かってどんどんと加速して、ハナの周りの世界も壊れはじめる。
絶望が覆い尽くす終盤の描写は、原作版「デビルマン」を思わせる。
祠に手紙を届けることができた時、この世の地獄を見てきたユキが願ったことは何か。
この映画の過去=夢の世界は、おそらく無限に積層された記憶のイメージだろう。
ずっと昔から人間が積み重ねてきた、罪の記憶の集大成として今がある。
紀里谷監督は、子供の頃からこの世界に絶望して来たと言う。
彼が創造したハナは、それでもなんとか世界のために頑張ろうとするが、ついに力尽きる。
セカイ系と言われる多くの作品では、主人公の周りのごく狭い人間関係が世界の運命を左右する。
しかし本作では、終末を回避するためのハナの必死の努力は、人類の集合的無意識が積層された世界によって跳ね返されてしまう。
ハナのセカイは、世界を救えないのだ。
この世界は誰かのせいではなく、人類全員の行いの結果として終わる。
これはセカイ系の様でいて実は逆であり、ハナの絶望の感情は終末とシンクロしているが、運命を変えることは出来ないのである。
これはおそらく、芸術の道に生きる作者の素直な心情だろう。
利己的な人間の世では争いは絶えず、何もしなければ瓦解に向かう世界を、芸術という美しいものが繋ぎ止めている。
多くの芸術家は、それぞれの手段で人間の持つ善性を発信することで、世界に少しずつ影響を与えているが、それだけで世界を救うことは出来るのか。
人間の社会には美しさと邪悪さが拮抗していて、いつか邪悪さが勝ってしまうかもしれない。
世界の終わりは人間の善性の敗北であり、全ての人に潜む邪悪さへの切実な恐れを描いたのが本作ではないだろうか。
北村一輝が演じるハナを付け狙う不死の男は、人間の中の根源的な悪のメタファーだろう。
そして絶望が世界を覆い尽くし、それでもなおある方法で提示される希望がユニーク。
はたして「それが本当に希望なのか?」という問いを含めて、本作の持つ世界観を特徴づけている。
10代の少女を主人公とした優れたジュブナイルであり、同時に非常に日本的なハードSFの傑作だ。
出ずっぱりでハナを熱演する伊藤蒼が素晴らしく、あと夏木マリが完全に湯婆婆(笑
夢からはじまる物語には「ドリーム」をチョイス。
ブランデー40ml、オレンジ・キュラソー20ml、ぺルノ1dashを、氷と共にシェイクしてグラスに注ぐ。
ブランデーの甘味とオレンジの風味が組み合わさり、ぺルノがアクセントとなってコクのある味わいを引き立てる。
名前の通りナイトキャップとしても好まれており、甘口のカクテルを楽しんでいるうちに、いつの間にか夢に誘われる。

記事が気に入ったらクリックしてね
2023年04月13日 (木) | 編集 |
殺し殺され、斬り斬られ。
昭和の文豪、池波正太郎が創造した、金で庶民の恨みを晴らす江戸のダークヒーロー、仕掛人・藤枝梅安の活躍を描く第二弾。
前作のラストから直接続く物語で、上方への旅の途中に相方の彦次郎が見かけた侍が、燻り続ける過去の因縁に火をつける。
その男は、かつて彦次郎の妻子を死に追いやった、絶対に殺さなければならない仇だった。
ところが男を追跡している途中、今度は梅安を妻の仇と狙うもう一人の侍と鉢合わせしてしまうのだ。
豊川悦司の梅安、片岡愛之助の彦次郎と対決するのは、椎名桔平演じる井坂惣市と佐藤浩一が演じる井上半十郎。
共に剣豪であり、針と吹き矢が武器の梅安と彦次郎とはいわば非対称戦となる。
今回も現在の葛藤は全て過去の因縁が原因と言う話だが、彦次郎の仇は井坂惣市で梅安は井上半十郎の仇と、前作に比べると人間関係が割とシンプル。
回想シーンの多様は変わらないものの、おかげで必要最小限にとどめられている。
なにしろフィーチャーされるのが「梅安と彦次郎はなぜ仕掛人になったのか」という話なので、ある程度過去の説明が必要なのは致し方あるまい。
彦次郎はささやかな幸せを奪われ、妻子を救えなかった罪悪感と井坂に対する恨みから、人であることを捨てる。
モテ男の梅安は夫のある女を愛し、彼女の願いに応じて殺したことで、もうまともな医者には戻れないと悟る。
前作以上に因果応報な物語で、金で人を殺す仕掛人の業が強調され、悲壮感漂う作り。
今日相手を屠ったとしても、明日の運命は誰にも分からず、やがていつかは自分の番がやってくる。
仕掛人として、刹那的人生を送る梅安の覚悟と迷いがじっくりと描写され、菅野美穂演じるおもんの役割もこちらではしっかり大きくなった。
闇の中にフワッと光が浮かぶ、葛飾応為の浮世絵を思わせる映像は、相変わらずダークでカッコいい。
吉澤祥子による凝った作り込みの美術も含めて、視覚的な没入感も強い。
前半は上方を舞台としたアウェー戦、後半は江戸に戻ってのホーム戦。
特に後半は外連味を極力抑え、今ここにある平和を強調し、迫り来る刺客との戦いに備える時間がじっくりと描かれる。
高畑淳子が演じる梅安の世話係、おせきのほっこりしたキャラクターが心に沁みる。
椎名桔平や佐藤浩一ら新キャストも重量級の存在感で、悲しみを背負った男たちの情念のぶつかり合いは、観応え十分だ。
これぞ大人の、ザ・時代劇。
ちょっと残念だったのは、前作で江戸版「きのう何食べた?」的BL風味だった、梅安と彦次郎の食事シーンが少なかったこと。
梅安が食べてた江戸のTKGは美味そうだったけど。
あと今回のリブート池波ワールドはマーベル形式なので、エンドクレジットで席を立ってはいけません。
来年の「鬼平犯科帳」は決まっているが、この画を見せられるとその次には「アベンジャーズ」的に「鬼平vs梅安」を期待してしまう。
前作では江戸の酒を合わせたので、今回は上方の酒を。
京都洛中唯一の老舗酒蔵、佐々木酒造の「聚楽第 純米吟醸」をチョイス。
聚楽第とは豊臣秀吉が京都に築いた豪華絢爛な城郭邸宅で、現存はしないものの桃山文化を代表する建築物。
吟醸香は軽やかで、やや辛口でフルーティな味わい。
芳醇でありながら、すっきりと楽しめる酒だ。
記事が気に入ったらクリックしてね
昭和の文豪、池波正太郎が創造した、金で庶民の恨みを晴らす江戸のダークヒーロー、仕掛人・藤枝梅安の活躍を描く第二弾。
前作のラストから直接続く物語で、上方への旅の途中に相方の彦次郎が見かけた侍が、燻り続ける過去の因縁に火をつける。
その男は、かつて彦次郎の妻子を死に追いやった、絶対に殺さなければならない仇だった。
ところが男を追跡している途中、今度は梅安を妻の仇と狙うもう一人の侍と鉢合わせしてしまうのだ。
豊川悦司の梅安、片岡愛之助の彦次郎と対決するのは、椎名桔平演じる井坂惣市と佐藤浩一が演じる井上半十郎。
共に剣豪であり、針と吹き矢が武器の梅安と彦次郎とはいわば非対称戦となる。
今回も現在の葛藤は全て過去の因縁が原因と言う話だが、彦次郎の仇は井坂惣市で梅安は井上半十郎の仇と、前作に比べると人間関係が割とシンプル。
回想シーンの多様は変わらないものの、おかげで必要最小限にとどめられている。
なにしろフィーチャーされるのが「梅安と彦次郎はなぜ仕掛人になったのか」という話なので、ある程度過去の説明が必要なのは致し方あるまい。
彦次郎はささやかな幸せを奪われ、妻子を救えなかった罪悪感と井坂に対する恨みから、人であることを捨てる。
モテ男の梅安は夫のある女を愛し、彼女の願いに応じて殺したことで、もうまともな医者には戻れないと悟る。
前作以上に因果応報な物語で、金で人を殺す仕掛人の業が強調され、悲壮感漂う作り。
今日相手を屠ったとしても、明日の運命は誰にも分からず、やがていつかは自分の番がやってくる。
仕掛人として、刹那的人生を送る梅安の覚悟と迷いがじっくりと描写され、菅野美穂演じるおもんの役割もこちらではしっかり大きくなった。
闇の中にフワッと光が浮かぶ、葛飾応為の浮世絵を思わせる映像は、相変わらずダークでカッコいい。
吉澤祥子による凝った作り込みの美術も含めて、視覚的な没入感も強い。
前半は上方を舞台としたアウェー戦、後半は江戸に戻ってのホーム戦。
特に後半は外連味を極力抑え、今ここにある平和を強調し、迫り来る刺客との戦いに備える時間がじっくりと描かれる。
高畑淳子が演じる梅安の世話係、おせきのほっこりしたキャラクターが心に沁みる。
椎名桔平や佐藤浩一ら新キャストも重量級の存在感で、悲しみを背負った男たちの情念のぶつかり合いは、観応え十分だ。
これぞ大人の、ザ・時代劇。
ちょっと残念だったのは、前作で江戸版「きのう何食べた?」的BL風味だった、梅安と彦次郎の食事シーンが少なかったこと。
梅安が食べてた江戸のTKGは美味そうだったけど。
あと今回のリブート池波ワールドはマーベル形式なので、エンドクレジットで席を立ってはいけません。
来年の「鬼平犯科帳」は決まっているが、この画を見せられるとその次には「アベンジャーズ」的に「鬼平vs梅安」を期待してしまう。
前作では江戸の酒を合わせたので、今回は上方の酒を。
京都洛中唯一の老舗酒蔵、佐々木酒造の「聚楽第 純米吟醸」をチョイス。
聚楽第とは豊臣秀吉が京都に築いた豪華絢爛な城郭邸宅で、現存はしないものの桃山文化を代表する建築物。
吟醸香は軽やかで、やや辛口でフルーティな味わい。
芳醇でありながら、すっきりと楽しめる酒だ。

記事が気に入ったらクリックしてね
2023年04月10日 (月) | 編集 |
人生の最後に感じたいこと。
「ザ・ホエール」はダーレン・アロノフスキー監督が、サミュエル・D・ハンターによる2012年の同名舞台劇を原作に、自分の死期を悟った男の人生最後の5日間を描く物語だ。
ボーイフレンドの死で心と体のバランスを崩し、歩くことすらままならないほどに激太りしてしまった主人公は、8年前に別れたきりの一人娘と再会し、死ぬ前に絆を取り戻そうとする。
ブレンダン・フレイザーが、巨体の主人公チャーリーを一世一代の大熱演で魅せ、本年度アカデミー賞で見事に主演男優賞を受賞した。
彼に寄り添う看護師のリズを「ダウンサイズ」のホン・チャウ、娘のエリーをセイディー・シンク、宣教師のトーマスをタイ・シンプキンズ、元妻のメアリーをサマンサ・モートンが演じる。
死を目の前にしても、ピーターはなぜ頑なに治療を拒むのか。
ここに描かれるのは、深い悲しみを背負った男の贖罪と救済の物語である。
大学のオンライン授業の講師として、エッセイの書き方を教えているチャーリー(ブレンダン・フレイザー)は、ボーイフレンドのアランを亡くして以来、鬱状態で過食を続けた結果、体重230キロを超える巨体となってしまった。
ある日、心不全の発作を起こしたチャーリーは、たまたま家を訪ねてきた新興宗教の宣教師だというトーマス(タイ・シンプキンス)に救われる。
アランの妹で看護師のリズ(ホン・チャウ)から、このままだと1週間も生きられないと言われてもなお、病院へ行くことを拒否し続けていた。
死期が近いことを悟った彼は、アランと暮らすために8年前に家庭を捨ててから、ずっと会えていなかった娘エリー(セイディー・シンク)を呼び寄せる。
8歳で別れたエリーはすっかり成長していたが、周囲とのコミュニケーションに問題を抱えた、怒れるティーンエイジャーになっていた。
エッセイの授業で落第寸前だというエリーに、チャーリーは添削を申し出て、彼女は家に通ってくるようになるのだが、一向に心を開こうとしなかった・・・・・
「レスラー」「ブラック・スワン」に続く、ダーレン・アロノフスキーが描く人生どん底の人シリーズ最新作。
もちろん、本当にシリーズで作っている訳ではないが、どの作品もコンセプトと方法論はよく似ている。
心臓に爆弾を抱えたプロレスラーに、自分をブレイクスルーできないバレリーナと来て、本作では過食の結果太り続け、立ち上がることも容易でない余命わずかの男。
どの映画も人生が行き詰まった人物が主人公で、演者の人生がキャラクターに投影されてシンクロ効果を出す。
80年代に人気を博した後、長く低迷していたミッキー・ロークを、落ちぶれたロートルレスラーに、役者として殻を破れない状況が続いていたナタリー・ポートマンを、優等生なバレエしか踊れない中途半端なプリマバレリーナにキャスティングしたのは、その狙いのあざとさゆえに賛否両論となったが、主役の二人にとっては代表作となった。
本作のブレンダン・フレイザーも、「ハムラプトラ」シリーズなどでゼロ年代の人気者だった。
しかし、私生活のトラブルや近親者の死、そして自らが受けたセクシャルハラスメントなどが原因となって鬱状態に陥り、ハリウッドの表舞台から長らく遠ざかっていた。
5年間に渡って出演作が途切れ、その後少しずつ仕事を再開し、ついに完全復活を遂げたのが本作である。
冒頭、オンライン授業の画面が映し出されるが、中央の講師の欄だけがカメラ非表示のまま。
チャーリーは、自分の姿を人に見せることを嫌っている。
家に入れるのは基本的に全ての事情を知るリズだけで、玄関に面した窓はブラインドを下ろし、ピザのディリバリーを頼んでも、現金の受け渡しはポストから。
配達員が去ったのを確認して、そっと扉を開けて受け取る。
唯一外界に開かれ得ているのが裏側の窓で、チャーリーはそこで鳥に餌をやっている。
カメラは基本このアパートの玄関先までしか出ず、閉ざされた密室に人々がやって来ては出てゆくを繰り返すという非常に演劇的な構造。
主人公があまり動けないので、目線のドラマであり、視線を誘導する演出が秀逸だ。
登場人物も、一瞬だけ映るピザの配達員や、オンライン授業の生徒を含めなければ5人だけだが、総じて少々キャラ立ちし過ぎているというか、皆それぞれ演劇的にディフォルメされた人物像なので、世界観に慣れるまではややとっつき難く感じる。
チャーリーが心臓の発作を起こした時、たまたま鍵が開いていたため、外にいた宣教師を名乗る若者、トーマスに救われる。
ところが救急車を呼ぶことは頑なに拒否し、チャーリーはなぜかトーマスにエッセイの原稿を渡し、読むように言うのである。
それはメルヴィルの「白鯨」について書かれたもので、彼は「いい文章だから死ぬ前に聞きたい」と言う。
タイトルの「ザ・ホエール」は、この「白鯨」と自らがクジラのように巨大になってしまったピーター自身の直接的な比喩。
「白鯨」では、モビー・ディックと呼ばれる巨大なクジラに、片足を食いちぎられたエイハブ船長が、生涯をかけてクジラを追い続ける。
本作ではピーターが、クジラのようになってしまった自らの肉体と闘い続けている。
またエッセイの中では「白鯨」の登場人物たちが、自分の悲しい物語を読者に明かすのを先送りしていると書かれた部分があり、それもチャーリー自身の状況に重なるように思える。
では、その道のスペシャリストである主人公が、死の時に聞きたいと語るエッセイの作者は誰なのか。
そして、引きこもり生活とはいえ、チャーリーはまともに仕事をしているのにも関わらず、なぜお金がなくて病院には行けないと治療を拒否しているのか。
閉ざされた世界に娘のエリーが登場すると、物語は少しずつ動き出し、彼の心の内側が見えてくる。
チャーリーのアパートには、彼の体と身の回りのケアをしているリズ、神の御心によってチャーリーを救済したいというトーマス、自分を捨てた父を悪鬼のように嫌っているエリーの3人が入れ替わり立ち替わり訪ねてくる。
彼らの関係は、トーマスが信仰するニーライフという新興教会をハブとして、複雑に入り組んでいる。
ボーイフレンドのアランはかつてニューライフの宣教師で、チャーリーとの恋によって教団を追われ、そのことが死の一因になったからである。
信仰に対する執着と疑念は、原作者のハンター自身の青春期の体験をベースとしているそうで、彼は厳格なキリスト教系の学校に通わされた結果、鬱病を発症し、過食症を経験したという。
本作はいわば、ハンターが自らの人生を振り返り、もしあの時自分をさらに追い詰めてしまっていたら?というリアルな視点を持っているのである。
チャーリーは、過食を止めることができず、最悪の事態に陥ってしまっているのだが、物語のところどころに、アランと出会う前の幸せな3人家族だった頃のビジョンが挿入される。
彼にとっては贖罪の記憶であり、たった一つの心残りがエリーなのだ。
16歳になったエリーは、両親の離婚によって生じた人間不信を引きずっていて、周囲の人々とのトラブルを引き起こしている。
元妻のメアリーに至っては、娘を「邪悪」とまで言う。
実際、彼女の行動は本当に悪意からでは?という描写もあり、客観的には判断が付かない。
しかし皆が問題視する娘を、チャーリーは徹底的に信じ抜くのだ。
それは彼女の存在だけが、この世界にチャーリーが残し得た唯一のものだからだ。
治療を拒むのも、彼女の将来のためにお金を残すため。
そして、彼が死ぬ時に聴きたいと語っていたエッセイの作者こそ、エリーなのである。
今、彼女がどんな問題を抱えていたとしても、あの文章を書ける人間が、邪悪な訳はないと言うことを彼は確信している。
クライマックスなどは、ぶっちゃけ全く客観性のない究極の自己満足なのだが、もはや彼にはそう信じて自分を許すほかないのだ。
悲劇的な物語ではあるが、後味は妙に爽快。
アロノフスキーの人生どん底の人シリーズでは、どの作品も物語のラストで主人公が“飛ぶ”。
それは死への旅立ちかもしれないが、同時に主人公自身による、自らの“救済”なのである。
神に人は救えないし、他人にも救えない。
最後の最後で後悔の念を克服し自分を救えるのは、結局自分だけ。
不条理な人間の業と愛が充満する、密室劇の傑作だ。
基本的には悲劇だが、最後の最後で救いを見出す本作には、ビタースイートなカクテル「カンパリオレンジ」をチョイス。
氷を入れたタンブラーにカンパリ50mlを注ぎ、オレンジジュースを適量加えてステア、最後にスライスしたオレンジを一片飾って完成。
オレンジの甘味と酸味、カンパリの苦味が複雑な味わいを作り上げる、代表的なビター系ロングカクテル。
標準レシピだと結構苦味が強いが、オレンジジュースの比率を増やすと飲みやすくなる。
記事が気に入ったらクリックしてね
「ザ・ホエール」はダーレン・アロノフスキー監督が、サミュエル・D・ハンターによる2012年の同名舞台劇を原作に、自分の死期を悟った男の人生最後の5日間を描く物語だ。
ボーイフレンドの死で心と体のバランスを崩し、歩くことすらままならないほどに激太りしてしまった主人公は、8年前に別れたきりの一人娘と再会し、死ぬ前に絆を取り戻そうとする。
ブレンダン・フレイザーが、巨体の主人公チャーリーを一世一代の大熱演で魅せ、本年度アカデミー賞で見事に主演男優賞を受賞した。
彼に寄り添う看護師のリズを「ダウンサイズ」のホン・チャウ、娘のエリーをセイディー・シンク、宣教師のトーマスをタイ・シンプキンズ、元妻のメアリーをサマンサ・モートンが演じる。
死を目の前にしても、ピーターはなぜ頑なに治療を拒むのか。
ここに描かれるのは、深い悲しみを背負った男の贖罪と救済の物語である。
大学のオンライン授業の講師として、エッセイの書き方を教えているチャーリー(ブレンダン・フレイザー)は、ボーイフレンドのアランを亡くして以来、鬱状態で過食を続けた結果、体重230キロを超える巨体となってしまった。
ある日、心不全の発作を起こしたチャーリーは、たまたま家を訪ねてきた新興宗教の宣教師だというトーマス(タイ・シンプキンス)に救われる。
アランの妹で看護師のリズ(ホン・チャウ)から、このままだと1週間も生きられないと言われてもなお、病院へ行くことを拒否し続けていた。
死期が近いことを悟った彼は、アランと暮らすために8年前に家庭を捨ててから、ずっと会えていなかった娘エリー(セイディー・シンク)を呼び寄せる。
8歳で別れたエリーはすっかり成長していたが、周囲とのコミュニケーションに問題を抱えた、怒れるティーンエイジャーになっていた。
エッセイの授業で落第寸前だというエリーに、チャーリーは添削を申し出て、彼女は家に通ってくるようになるのだが、一向に心を開こうとしなかった・・・・・
「レスラー」「ブラック・スワン」に続く、ダーレン・アロノフスキーが描く人生どん底の人シリーズ最新作。
もちろん、本当にシリーズで作っている訳ではないが、どの作品もコンセプトと方法論はよく似ている。
心臓に爆弾を抱えたプロレスラーに、自分をブレイクスルーできないバレリーナと来て、本作では過食の結果太り続け、立ち上がることも容易でない余命わずかの男。
どの映画も人生が行き詰まった人物が主人公で、演者の人生がキャラクターに投影されてシンクロ効果を出す。
80年代に人気を博した後、長く低迷していたミッキー・ロークを、落ちぶれたロートルレスラーに、役者として殻を破れない状況が続いていたナタリー・ポートマンを、優等生なバレエしか踊れない中途半端なプリマバレリーナにキャスティングしたのは、その狙いのあざとさゆえに賛否両論となったが、主役の二人にとっては代表作となった。
本作のブレンダン・フレイザーも、「ハムラプトラ」シリーズなどでゼロ年代の人気者だった。
しかし、私生活のトラブルや近親者の死、そして自らが受けたセクシャルハラスメントなどが原因となって鬱状態に陥り、ハリウッドの表舞台から長らく遠ざかっていた。
5年間に渡って出演作が途切れ、その後少しずつ仕事を再開し、ついに完全復活を遂げたのが本作である。
冒頭、オンライン授業の画面が映し出されるが、中央の講師の欄だけがカメラ非表示のまま。
チャーリーは、自分の姿を人に見せることを嫌っている。
家に入れるのは基本的に全ての事情を知るリズだけで、玄関に面した窓はブラインドを下ろし、ピザのディリバリーを頼んでも、現金の受け渡しはポストから。
配達員が去ったのを確認して、そっと扉を開けて受け取る。
唯一外界に開かれ得ているのが裏側の窓で、チャーリーはそこで鳥に餌をやっている。
カメラは基本このアパートの玄関先までしか出ず、閉ざされた密室に人々がやって来ては出てゆくを繰り返すという非常に演劇的な構造。
主人公があまり動けないので、目線のドラマであり、視線を誘導する演出が秀逸だ。
登場人物も、一瞬だけ映るピザの配達員や、オンライン授業の生徒を含めなければ5人だけだが、総じて少々キャラ立ちし過ぎているというか、皆それぞれ演劇的にディフォルメされた人物像なので、世界観に慣れるまではややとっつき難く感じる。
チャーリーが心臓の発作を起こした時、たまたま鍵が開いていたため、外にいた宣教師を名乗る若者、トーマスに救われる。
ところが救急車を呼ぶことは頑なに拒否し、チャーリーはなぜかトーマスにエッセイの原稿を渡し、読むように言うのである。
それはメルヴィルの「白鯨」について書かれたもので、彼は「いい文章だから死ぬ前に聞きたい」と言う。
タイトルの「ザ・ホエール」は、この「白鯨」と自らがクジラのように巨大になってしまったピーター自身の直接的な比喩。
「白鯨」では、モビー・ディックと呼ばれる巨大なクジラに、片足を食いちぎられたエイハブ船長が、生涯をかけてクジラを追い続ける。
本作ではピーターが、クジラのようになってしまった自らの肉体と闘い続けている。
またエッセイの中では「白鯨」の登場人物たちが、自分の悲しい物語を読者に明かすのを先送りしていると書かれた部分があり、それもチャーリー自身の状況に重なるように思える。
では、その道のスペシャリストである主人公が、死の時に聞きたいと語るエッセイの作者は誰なのか。
そして、引きこもり生活とはいえ、チャーリーはまともに仕事をしているのにも関わらず、なぜお金がなくて病院には行けないと治療を拒否しているのか。
閉ざされた世界に娘のエリーが登場すると、物語は少しずつ動き出し、彼の心の内側が見えてくる。
チャーリーのアパートには、彼の体と身の回りのケアをしているリズ、神の御心によってチャーリーを救済したいというトーマス、自分を捨てた父を悪鬼のように嫌っているエリーの3人が入れ替わり立ち替わり訪ねてくる。
彼らの関係は、トーマスが信仰するニーライフという新興教会をハブとして、複雑に入り組んでいる。
ボーイフレンドのアランはかつてニューライフの宣教師で、チャーリーとの恋によって教団を追われ、そのことが死の一因になったからである。
信仰に対する執着と疑念は、原作者のハンター自身の青春期の体験をベースとしているそうで、彼は厳格なキリスト教系の学校に通わされた結果、鬱病を発症し、過食症を経験したという。
本作はいわば、ハンターが自らの人生を振り返り、もしあの時自分をさらに追い詰めてしまっていたら?というリアルな視点を持っているのである。
チャーリーは、過食を止めることができず、最悪の事態に陥ってしまっているのだが、物語のところどころに、アランと出会う前の幸せな3人家族だった頃のビジョンが挿入される。
彼にとっては贖罪の記憶であり、たった一つの心残りがエリーなのだ。
16歳になったエリーは、両親の離婚によって生じた人間不信を引きずっていて、周囲の人々とのトラブルを引き起こしている。
元妻のメアリーに至っては、娘を「邪悪」とまで言う。
実際、彼女の行動は本当に悪意からでは?という描写もあり、客観的には判断が付かない。
しかし皆が問題視する娘を、チャーリーは徹底的に信じ抜くのだ。
それは彼女の存在だけが、この世界にチャーリーが残し得た唯一のものだからだ。
治療を拒むのも、彼女の将来のためにお金を残すため。
そして、彼が死ぬ時に聴きたいと語っていたエッセイの作者こそ、エリーなのである。
今、彼女がどんな問題を抱えていたとしても、あの文章を書ける人間が、邪悪な訳はないと言うことを彼は確信している。
クライマックスなどは、ぶっちゃけ全く客観性のない究極の自己満足なのだが、もはや彼にはそう信じて自分を許すほかないのだ。
悲劇的な物語ではあるが、後味は妙に爽快。
アロノフスキーの人生どん底の人シリーズでは、どの作品も物語のラストで主人公が“飛ぶ”。
それは死への旅立ちかもしれないが、同時に主人公自身による、自らの“救済”なのである。
神に人は救えないし、他人にも救えない。
最後の最後で後悔の念を克服し自分を救えるのは、結局自分だけ。
不条理な人間の業と愛が充満する、密室劇の傑作だ。
基本的には悲劇だが、最後の最後で救いを見出す本作には、ビタースイートなカクテル「カンパリオレンジ」をチョイス。
氷を入れたタンブラーにカンパリ50mlを注ぎ、オレンジジュースを適量加えてステア、最後にスライスしたオレンジを一片飾って完成。
オレンジの甘味と酸味、カンパリの苦味が複雑な味わいを作り上げる、代表的なビター系ロングカクテル。
標準レシピだと結構苦味が強いが、オレンジジュースの比率を増やすと飲みやすくなる。

記事が気に入ったらクリックしてね
2023年04月06日 (木) | 編集 |
生きることの意味とは?
巨匠 黒澤明の代表作の一つ「生きる」を、ノーベル賞作家のカズオ・イシグロが新たに脚色し、1950年代のイギリスを舞台にリメイクした作品。
真面目一徹の公務員人生を送ってきた男が末期癌を宣告され、空虚な自分の人生を死ぬ前に意味あるものにするためにはどうしたらいいのかと迷う。
オリジナルで志村喬が演じた主人公の渡邊は、名優ビル・ナイが演じるウィリアムズとなり、本年度アカデミー主演男優賞にノミネートされた。
彼に転機をもたらす女性マーガレットにエイミー・ルー・ウッド、新人の部下ピーターをアレックス・シャープが演じる。
監督は南アフリカ出身の俊英、オリバー・ハーナマス。
20世紀の名作を、なぜ今リメイクしたのか?
その答えをしっかりと出した、素晴らしいリメイクとなっている。
市役所の市民課に配属された新人のピーター(アレックス・シャープ)は、通勤途中で課長を務めるウィリアムズ(ビル・ナイ)と出会う。
ウィリアムズは真面目一徹で厳格な人物だが、市役所ではいわゆるお役所仕事が蔓延していた。
陳情に来る市民は各課をたらい回しされていたが、誰も改善しようとしないのを見てピーターは呆れる。
その日、仕事を早退し病院に向かったウィリアムズは、末期の癌であることを告知される。
彼は自分の人生を空虚なものと感じ、死ぬまでに人生の喜びを知ろうと職場を無断欠勤し、劇作家のサザーランド(トム・バーク)に導かれるまま夜の街へ。
しかし、それは空虚さを実感させるだけだった。
朝になり、ウィリアムズは部下のマーガレットと偶然出会う。
彼女は市役所を退職し、カフェに転職しようとしていた。
奔放で青春を謳歌するマーガレットの生命力に惹かれたウイリアムズは、彼女との対話からヒントをもらい、ある計画を実行しようとする・・・
スタンダードの画面に映し出される50年代の英国の風景に、クラッシックな書体のタイトル。
時代設定もオリジナルが公開された翌年の1953年で、作品のファーストルックはまるでオリジナルと同じ時代に作られた姉妹編のようだ。
もっともオープニングが終わると、映像自体は1.48:1という変則的なアスペクト比を持つ、モダンなものとなる。
プロットはオリジナルとほとんど変わらないが、現在の観客からしたらちょっと回りくどくて冗長に感じるだろうなと言う部分を、脚色の工夫でコンパクト化し143分から102分へと、なんと40分以上も短くなっている。
一番大きな改変は、日守新一が演じた市民課職員の木村を大幅に若返らせて、新人の部下のピーターとしたことと、小田切みきが演じたとよ改め、マーガレットの役割が変わっていることだ。
オリジナルでは、ナレーションを使って説明していた主人公の渡邊の人となりや、お役所仕事のまだるっこさを、本作では観客の目となるピーターを通して体験させることで、説明を感じさせずに効率的に描写。
渡邊が癌告知を受けるシーンも、オリジナルでは待合室で他の患者に、癌の時は医者はストレートに告知せず、他の病気だと言うと語らせて、実際に医者が同じ反応をすることで、自分が末期癌であることを悟らせる。
さらにその後、医者たちの間で今の患者の余命はどれくらいかと、渡邊がいない状態で説明させるという念の入り用。
対して本作では、医者からあっさりと「あなたは癌です」と告知される。
まあこの辺は日本とイギリスの習慣の違いも大きいとは思うが、描写時間で言えば半分以下になっている。
その後は、最愛の息子との思い出の走馬灯、自分とは対照的に享楽的な人生を送っている作家(こちらでは劇作家)に導かれて海辺のリゾートタウンで夜の街の体験と、オリジナルの「ゴンドラの唄」に対応するスコットランド民謡の「ナナカマドの木」の披露と、時間的にはコンパクトになっているものの、流れとしてはほぼ同じ。
カズオ・イシグロの脚色が独自性を発揮してくるのが、元の街に戻ったものの出勤する気持ちになれないウィリアムズが、マーガレットと再会してからの展開だ。
オリジナルの志村喬は、告知を受けると絶望を募らせて怯えた小動物みたいになってしまい、生命力溢れるとよにストーカーの様に何日も付き纏い、とよから「気持ち悪い」と言われてしまう。
彼が末期癌であることを告白すると、玩具会社で働くとよは工場で作っている飛び跳ねるウサギのおもちゃを見せ、「あなたも何か作ってみたら」と助言し、自分の立場で作れるものを考えた渡邊は、生きた証としての公園建設に邁進することになる。
本作のマーガレットは、カフェのウェイトレスなので、物作りのヒントを出す訳ではなく、彼女との会話の中でウィリアムズ自身が気づきを得るのである。
ちなみにカズオ・イシグロには、「もし渡邊役が笠智衆だったら?」と言う疑問がずっとあったようで、笠智衆とよく似た枯れた魅力を持つ、ビル・ナイの存在が本作の企画の発端だったそうだ。
とよは助言を与えるシーンで渡邊と別れた後は一切登場しないが、マーガレットはウィリアムズの葬儀に出席するだけでなく、そこで再会したピーターとデートする様になる。
ピーターは冒頭部分で観客と一体化して物語に入る目となり、終盤では市役所職員でただ一人、ウィリアムズからオリジナルには登場しない「遺書」を受け取る重要なキャラクターだ。
オリジナルでピーターに当たる木村は、渡邊を慕い彼の死後も変わらぬお役所仕事に憤り、完成した公園で遊ぶ子供たちを寂しげに見守る姿が印象的だったが、ここまで大きな役ではなかった。
遺書の中でウィリアムズは、公園は永遠の物ではなく「使われなくなったり、立て替えられることもあるだろう」と言いうのだ。
ここに、リメイク版に込められた新たなテーマが浮き彫りになる。
黒澤明の「生きる」は淡々と仕事をこなすだけの人生を送ってきた男が、突然の余命宣告を受け、絶望の虚無感の中でそれでも生きる意味を見出す物語だった。
対して70年後に作られた本作は、オリジナルに最大限のリスペクトを捧げつつ、未来へのポジティブな視点を加えたリメイクになっている。
残された人生をかけて作り上げた公園は大切なものだが、形あるものは必ずいつかは崩れる。
では変わらないもの、永遠に価値を保ち続けるものは何かというと、それは「心の継承」である。
ピーターという若者に想いを託し、いつかピーターが次なる者に伝えてゆくことで、ウィリアムズが公園作りにかけた想いは永遠となり得る。
この視点を象徴的に表現したのが、ウィリアムズとマーガレットのちょっとしたデート(?)の最中に、彼がクレーンゲームでキャッチするウサギのおもちゃだ。
これは「生きる」の作中でとよが作り、渡邊の葬儀のシーンで彼の遺品の中にあるウサギと同じ物だろう。
当時の日本では「Made in Occupied Japan(占領下の日本製)」のおもちゃが、戦後復興を支える大きな輸出産業となっていた。
とよは「このおもちゃを作っていると、世界中の子供たちと繋がっているように感じる」と語る。
クレーンゲームのウサギを見て、私は「ああ、これはとよの工場で作られて、はるばる異国まで来たんだな」と思った。
もしかすると、オリジナルの1952年から年代設定を1年ずらしたのは、日本からのオモチャがイギリスへ運ばれる時間なのかもしれない。
カズオ・イシグロは11歳の時に「生きる」と出会ったそうで、このウサギのおもちゃは、黒澤がトルストイからインスパイアを受け、物語の中でウィリアムズからピーターへと想いが受け継がれていったように、70年前の日本から現在のイギリスへと継承された創作の連鎖の象徴なのである。
有名なブランコのシーンは、こちらでは口ずさむ唄を「ナナカマドの木」に替えて再現されているが、オリジナルよりもウィリアムズの意図がはっきりしている分、受け取る感慨も若干異なる。
「生きる LIVING」は、オリジナルの大枠とテーマを維持しながら、現在の映画として見た場合の問題点を潰し、単なる英語版にとどまらない独自の視点を持たせており、これは卓越した脚色の勝利。
もちろんウィリアムズを淡々と演じる英国の笠智衆、ビル・ナイと、継承者となる若い二人を演じたエイミー・ルー・ウッドとアレックス・シャープは素晴らしい。
優れた物語を奇を衒わずに誠実に描写したオリバー・ヘルマナスの演出、ジェイミー・D・ラムゼイの撮影、ヘレン・スコットの美術、サンディ・パウエルの衣装など、テリング面も全てがハイクオリティ。
オリジナルは偉大な映画だが、ストーリーとテリング両方の進化によって、21世紀の現在にリメイクする場合、すでに最適解とは言えない。
最高の素材を手にしたクリエターたちが、想いを受け継ぎながら手を入れ見事な結果を出した。
黒澤映画のリメイクは、「荒野の七人」「荒野の用心棒」など、エンターテイメント性に優れた作品が多かったが、本作は過去に作られたあらゆる黒澤映画のリメイクでベストと言える。
スコットランド出身の主人公の物語には、やはりスコッチウィスキーが相応しい。
スコッチの定番の一つ「ラガヴーリン 16年」をチョイス。
オークカスクの中で16年熟成された、高品質のシングルモルト。
最大の特徴は、塩の染み込んだピートの効いたアイラモルトの独特の香り。
好きな人は病み付きになるが、正露丸のにおいとか、病院のにおいとか感じる人もいるようで、結構好みが別れると思う。
個人的にはこの香りは好きなので、「ナナカマドの木」を聴きながらストレートでちびちびやりたい。
記事が気に入ったらクリックしてね
巨匠 黒澤明の代表作の一つ「生きる」を、ノーベル賞作家のカズオ・イシグロが新たに脚色し、1950年代のイギリスを舞台にリメイクした作品。
真面目一徹の公務員人生を送ってきた男が末期癌を宣告され、空虚な自分の人生を死ぬ前に意味あるものにするためにはどうしたらいいのかと迷う。
オリジナルで志村喬が演じた主人公の渡邊は、名優ビル・ナイが演じるウィリアムズとなり、本年度アカデミー主演男優賞にノミネートされた。
彼に転機をもたらす女性マーガレットにエイミー・ルー・ウッド、新人の部下ピーターをアレックス・シャープが演じる。
監督は南アフリカ出身の俊英、オリバー・ハーナマス。
20世紀の名作を、なぜ今リメイクしたのか?
その答えをしっかりと出した、素晴らしいリメイクとなっている。
市役所の市民課に配属された新人のピーター(アレックス・シャープ)は、通勤途中で課長を務めるウィリアムズ(ビル・ナイ)と出会う。
ウィリアムズは真面目一徹で厳格な人物だが、市役所ではいわゆるお役所仕事が蔓延していた。
陳情に来る市民は各課をたらい回しされていたが、誰も改善しようとしないのを見てピーターは呆れる。
その日、仕事を早退し病院に向かったウィリアムズは、末期の癌であることを告知される。
彼は自分の人生を空虚なものと感じ、死ぬまでに人生の喜びを知ろうと職場を無断欠勤し、劇作家のサザーランド(トム・バーク)に導かれるまま夜の街へ。
しかし、それは空虚さを実感させるだけだった。
朝になり、ウィリアムズは部下のマーガレットと偶然出会う。
彼女は市役所を退職し、カフェに転職しようとしていた。
奔放で青春を謳歌するマーガレットの生命力に惹かれたウイリアムズは、彼女との対話からヒントをもらい、ある計画を実行しようとする・・・
スタンダードの画面に映し出される50年代の英国の風景に、クラッシックな書体のタイトル。
時代設定もオリジナルが公開された翌年の1953年で、作品のファーストルックはまるでオリジナルと同じ時代に作られた姉妹編のようだ。
もっともオープニングが終わると、映像自体は1.48:1という変則的なアスペクト比を持つ、モダンなものとなる。
プロットはオリジナルとほとんど変わらないが、現在の観客からしたらちょっと回りくどくて冗長に感じるだろうなと言う部分を、脚色の工夫でコンパクト化し143分から102分へと、なんと40分以上も短くなっている。
一番大きな改変は、日守新一が演じた市民課職員の木村を大幅に若返らせて、新人の部下のピーターとしたことと、小田切みきが演じたとよ改め、マーガレットの役割が変わっていることだ。
オリジナルでは、ナレーションを使って説明していた主人公の渡邊の人となりや、お役所仕事のまだるっこさを、本作では観客の目となるピーターを通して体験させることで、説明を感じさせずに効率的に描写。
渡邊が癌告知を受けるシーンも、オリジナルでは待合室で他の患者に、癌の時は医者はストレートに告知せず、他の病気だと言うと語らせて、実際に医者が同じ反応をすることで、自分が末期癌であることを悟らせる。
さらにその後、医者たちの間で今の患者の余命はどれくらいかと、渡邊がいない状態で説明させるという念の入り用。
対して本作では、医者からあっさりと「あなたは癌です」と告知される。
まあこの辺は日本とイギリスの習慣の違いも大きいとは思うが、描写時間で言えば半分以下になっている。
その後は、最愛の息子との思い出の走馬灯、自分とは対照的に享楽的な人生を送っている作家(こちらでは劇作家)に導かれて海辺のリゾートタウンで夜の街の体験と、オリジナルの「ゴンドラの唄」に対応するスコットランド民謡の「ナナカマドの木」の披露と、時間的にはコンパクトになっているものの、流れとしてはほぼ同じ。
カズオ・イシグロの脚色が独自性を発揮してくるのが、元の街に戻ったものの出勤する気持ちになれないウィリアムズが、マーガレットと再会してからの展開だ。
オリジナルの志村喬は、告知を受けると絶望を募らせて怯えた小動物みたいになってしまい、生命力溢れるとよにストーカーの様に何日も付き纏い、とよから「気持ち悪い」と言われてしまう。
彼が末期癌であることを告白すると、玩具会社で働くとよは工場で作っている飛び跳ねるウサギのおもちゃを見せ、「あなたも何か作ってみたら」と助言し、自分の立場で作れるものを考えた渡邊は、生きた証としての公園建設に邁進することになる。
本作のマーガレットは、カフェのウェイトレスなので、物作りのヒントを出す訳ではなく、彼女との会話の中でウィリアムズ自身が気づきを得るのである。
ちなみにカズオ・イシグロには、「もし渡邊役が笠智衆だったら?」と言う疑問がずっとあったようで、笠智衆とよく似た枯れた魅力を持つ、ビル・ナイの存在が本作の企画の発端だったそうだ。
とよは助言を与えるシーンで渡邊と別れた後は一切登場しないが、マーガレットはウィリアムズの葬儀に出席するだけでなく、そこで再会したピーターとデートする様になる。
ピーターは冒頭部分で観客と一体化して物語に入る目となり、終盤では市役所職員でただ一人、ウィリアムズからオリジナルには登場しない「遺書」を受け取る重要なキャラクターだ。
オリジナルでピーターに当たる木村は、渡邊を慕い彼の死後も変わらぬお役所仕事に憤り、完成した公園で遊ぶ子供たちを寂しげに見守る姿が印象的だったが、ここまで大きな役ではなかった。
遺書の中でウィリアムズは、公園は永遠の物ではなく「使われなくなったり、立て替えられることもあるだろう」と言いうのだ。
ここに、リメイク版に込められた新たなテーマが浮き彫りになる。
黒澤明の「生きる」は淡々と仕事をこなすだけの人生を送ってきた男が、突然の余命宣告を受け、絶望の虚無感の中でそれでも生きる意味を見出す物語だった。
対して70年後に作られた本作は、オリジナルに最大限のリスペクトを捧げつつ、未来へのポジティブな視点を加えたリメイクになっている。
残された人生をかけて作り上げた公園は大切なものだが、形あるものは必ずいつかは崩れる。
では変わらないもの、永遠に価値を保ち続けるものは何かというと、それは「心の継承」である。
ピーターという若者に想いを託し、いつかピーターが次なる者に伝えてゆくことで、ウィリアムズが公園作りにかけた想いは永遠となり得る。
この視点を象徴的に表現したのが、ウィリアムズとマーガレットのちょっとしたデート(?)の最中に、彼がクレーンゲームでキャッチするウサギのおもちゃだ。
これは「生きる」の作中でとよが作り、渡邊の葬儀のシーンで彼の遺品の中にあるウサギと同じ物だろう。
当時の日本では「Made in Occupied Japan(占領下の日本製)」のおもちゃが、戦後復興を支える大きな輸出産業となっていた。
とよは「このおもちゃを作っていると、世界中の子供たちと繋がっているように感じる」と語る。
クレーンゲームのウサギを見て、私は「ああ、これはとよの工場で作られて、はるばる異国まで来たんだな」と思った。
もしかすると、オリジナルの1952年から年代設定を1年ずらしたのは、日本からのオモチャがイギリスへ運ばれる時間なのかもしれない。
カズオ・イシグロは11歳の時に「生きる」と出会ったそうで、このウサギのおもちゃは、黒澤がトルストイからインスパイアを受け、物語の中でウィリアムズからピーターへと想いが受け継がれていったように、70年前の日本から現在のイギリスへと継承された創作の連鎖の象徴なのである。
有名なブランコのシーンは、こちらでは口ずさむ唄を「ナナカマドの木」に替えて再現されているが、オリジナルよりもウィリアムズの意図がはっきりしている分、受け取る感慨も若干異なる。
「生きる LIVING」は、オリジナルの大枠とテーマを維持しながら、現在の映画として見た場合の問題点を潰し、単なる英語版にとどまらない独自の視点を持たせており、これは卓越した脚色の勝利。
もちろんウィリアムズを淡々と演じる英国の笠智衆、ビル・ナイと、継承者となる若い二人を演じたエイミー・ルー・ウッドとアレックス・シャープは素晴らしい。
優れた物語を奇を衒わずに誠実に描写したオリバー・ヘルマナスの演出、ジェイミー・D・ラムゼイの撮影、ヘレン・スコットの美術、サンディ・パウエルの衣装など、テリング面も全てがハイクオリティ。
オリジナルは偉大な映画だが、ストーリーとテリング両方の進化によって、21世紀の現在にリメイクする場合、すでに最適解とは言えない。
最高の素材を手にしたクリエターたちが、想いを受け継ぎながら手を入れ見事な結果を出した。
黒澤映画のリメイクは、「荒野の七人」「荒野の用心棒」など、エンターテイメント性に優れた作品が多かったが、本作は過去に作られたあらゆる黒澤映画のリメイクでベストと言える。
スコットランド出身の主人公の物語には、やはりスコッチウィスキーが相応しい。
スコッチの定番の一つ「ラガヴーリン 16年」をチョイス。
オークカスクの中で16年熟成された、高品質のシングルモルト。
最大の特徴は、塩の染み込んだピートの効いたアイラモルトの独特の香り。
好きな人は病み付きになるが、正露丸のにおいとか、病院のにおいとか感じる人もいるようで、結構好みが別れると思う。
個人的にはこの香りは好きなので、「ナナカマドの木」を聴きながらストレートでちびちびやりたい。

記事が気に入ったらクリックしてね
2023年04月04日 (火) | 編集 |
ダンジョンは、人生だ!
来年誕生から50周年を迎える、名作RPG「ダンジョン&ドラゴンズ」の映画版リブート作。
前回は2000年に映画化され(邦題は「ダンジョン&ドラゴン」)3本が作られたが、ぶっちゃけ酷い出来だった。
今回も同じだったらどうしよう?と思っていたら、本国からは絶賛の声が聞こえてきて、実際観たらそれはお見事な快作で驚いた。
それぞれの“ロール”はクリス・パイン演じる吟遊詩人の泥棒エドガン、ミシェル・ロドリゲスの蛮族の女戦士ホルガ、レゲ=ジャン・ペイジの聖騎士ゼンク、ジャスティス・スミスのボンクラ魔法使いサイモン、ソフィア・リリスのキュートなドルイドのドリック。
5人がチームを組み、悪辣な詐欺師のフォージに奪われたエドガンの娘を奪還し、人々を魔術で支配しようとする悪の魔法使い集団、レッドウィザードの一員であるソフィーナの野望を挫く。
監督・脚本を務めるのは、「スパイダーマン ホームカミング」の共同脚本家として知られる、ジョナサン・ゴールドスタインとジョン・フランシス・デイリー。
まずは刑務所に収監中のエドガンとホルガの脱走から始まり、映画の前半1時間は旅の仲間集め。
後半1時間がダンジョンの冒険とアクションという定番の展開だが、旅の仲間が全員キャラ立ちしていて、非常にテンポがいい。
彼らは皆、それぞれに克服すべき問題を抱えている。
エドガンは、自分の過ちで妻を死なせてしまい、今は娘を奪われている。
ホルガはホビットみたいな小人族の男(演じるは何と、ブラッドリー・クーパー)と駆け落ちした結果、種族を追われてしまった。
ゼンクはレッド・ウィザードの陰謀によって、故郷と種族を滅ぼされた。
サイモンは魔法使いの名家に生まれながら、自分に自信を持てず、力を十分に発揮できない。
天涯孤独なドリックは森のエルフに育てられたが、森はフォージに破壊されようとしている。
冒険の中に彼らが問題に向き合い、克服する過程が組み込まれており、それによってバラエティ豊かな物語が展開するのと同時に、そのまま役割ごとの見せ場となっている。
これは、ゲームの映画化のお手本と言っていい。
過去にも何度も言っているが、私はファンタジー映画は、観客に「その世界に行きたい!」と思わせれば半分勝ったようなものだと思っている。
本作の世界も良い意味でテーマパークがそのまま広がったみたいで、登場する種族・生物も多様でワクワクする。
出番はちょっとだけだったが、ネコ獣人の親子なんてとてもかわいい。
自然の化身で他の生物に変身できるドリックがチームのスパイとなり、ハエ、ネズミ、ヘビ、タカ、シカとシームレスに変身しながらの追いかけっことか、映像的な未見性も豊富。
敵か味方か分からなかったゼンクを、感情移入を誘う脚本手法「SAVE THE CAT」まんまのパターンで登場させたり、獲物の知能に反応するモンスターに旅の仲間が無視されて凹んだり、終始トンチの効いた描写と細かなギャグのつるべ打ちで進むスタイルも、テレビのシットコムでキャリアを積んだ作者二人の特質を感じさせる。
凝ったテーマパークで遊び倒しているような、本能的に「楽し〜!」と思える映画なのである。
おそらく、続編ありきの企画だと思うが、本作だけできっちり完結しているのもいい。
エンドクレジット途中にも映像あり。
しかし吹替えならともかく、字幕版にも全くイメージの合わない日本語主題歌入れるのはやめて欲しかった。
大人の事情とは思うけど、世界観壊れちゃうでしょ。
今回はドラゴンの出てくる映画なので、ジンベースのカクテル「グリーン・ドラゴン」をチョイス。
ドライジン35ml、クレーム・ド・ミント15ml、キュンメル5ml、レモンジュース5mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ポイントはキュンメルで、この風味がアクセント。
エメラルドのような美しいグリーンも目に楽しく、スッキリと飲める一杯だ。
記事が気に入ったらクリックしてね
来年誕生から50周年を迎える、名作RPG「ダンジョン&ドラゴンズ」の映画版リブート作。
前回は2000年に映画化され(邦題は「ダンジョン&ドラゴン」)3本が作られたが、ぶっちゃけ酷い出来だった。
今回も同じだったらどうしよう?と思っていたら、本国からは絶賛の声が聞こえてきて、実際観たらそれはお見事な快作で驚いた。
それぞれの“ロール”はクリス・パイン演じる吟遊詩人の泥棒エドガン、ミシェル・ロドリゲスの蛮族の女戦士ホルガ、レゲ=ジャン・ペイジの聖騎士ゼンク、ジャスティス・スミスのボンクラ魔法使いサイモン、ソフィア・リリスのキュートなドルイドのドリック。
5人がチームを組み、悪辣な詐欺師のフォージに奪われたエドガンの娘を奪還し、人々を魔術で支配しようとする悪の魔法使い集団、レッドウィザードの一員であるソフィーナの野望を挫く。
監督・脚本を務めるのは、「スパイダーマン ホームカミング」の共同脚本家として知られる、ジョナサン・ゴールドスタインとジョン・フランシス・デイリー。
まずは刑務所に収監中のエドガンとホルガの脱走から始まり、映画の前半1時間は旅の仲間集め。
後半1時間がダンジョンの冒険とアクションという定番の展開だが、旅の仲間が全員キャラ立ちしていて、非常にテンポがいい。
彼らは皆、それぞれに克服すべき問題を抱えている。
エドガンは、自分の過ちで妻を死なせてしまい、今は娘を奪われている。
ホルガはホビットみたいな小人族の男(演じるは何と、ブラッドリー・クーパー)と駆け落ちした結果、種族を追われてしまった。
ゼンクはレッド・ウィザードの陰謀によって、故郷と種族を滅ぼされた。
サイモンは魔法使いの名家に生まれながら、自分に自信を持てず、力を十分に発揮できない。
天涯孤独なドリックは森のエルフに育てられたが、森はフォージに破壊されようとしている。
冒険の中に彼らが問題に向き合い、克服する過程が組み込まれており、それによってバラエティ豊かな物語が展開するのと同時に、そのまま役割ごとの見せ場となっている。
これは、ゲームの映画化のお手本と言っていい。
過去にも何度も言っているが、私はファンタジー映画は、観客に「その世界に行きたい!」と思わせれば半分勝ったようなものだと思っている。
本作の世界も良い意味でテーマパークがそのまま広がったみたいで、登場する種族・生物も多様でワクワクする。
出番はちょっとだけだったが、ネコ獣人の親子なんてとてもかわいい。
自然の化身で他の生物に変身できるドリックがチームのスパイとなり、ハエ、ネズミ、ヘビ、タカ、シカとシームレスに変身しながらの追いかけっことか、映像的な未見性も豊富。
敵か味方か分からなかったゼンクを、感情移入を誘う脚本手法「SAVE THE CAT」まんまのパターンで登場させたり、獲物の知能に反応するモンスターに旅の仲間が無視されて凹んだり、終始トンチの効いた描写と細かなギャグのつるべ打ちで進むスタイルも、テレビのシットコムでキャリアを積んだ作者二人の特質を感じさせる。
凝ったテーマパークで遊び倒しているような、本能的に「楽し〜!」と思える映画なのである。
おそらく、続編ありきの企画だと思うが、本作だけできっちり完結しているのもいい。
エンドクレジット途中にも映像あり。
しかし吹替えならともかく、字幕版にも全くイメージの合わない日本語主題歌入れるのはやめて欲しかった。
大人の事情とは思うけど、世界観壊れちゃうでしょ。
今回はドラゴンの出てくる映画なので、ジンベースのカクテル「グリーン・ドラゴン」をチョイス。
ドライジン35ml、クレーム・ド・ミント15ml、キュンメル5ml、レモンジュース5mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
ポイントはキュンメルで、この風味がアクセント。
エメラルドのような美しいグリーンも目に楽しく、スッキリと飲める一杯だ。

記事が気に入ったらクリックしてね
2023年04月02日 (日) | 編集 |
宇宙はボクらの手の中に。
90年代初頭の円谷プロの特撮ドラマ「電光超人グリッドマン」をリメイクし、2018年に放送された「SSSS.GRIDMAN」と、21年の姉妹編「SSSS.DYNAZENON」をマルチバースの世界でクロスオーバーさせた劇場版。
テレビ版最終回の数ヶ月後、記憶を失った主人公の裕太が、ヒロインの六花に告白しようとするが、なぜか怪獣が出現し裕太は再びグリッドマンと一体化して戦う。
グリッドマンは、世界のバランスが壊れようとしていると告げる。
そこから色んなキャラクターがマルチバースの並行世界から現れ、カオス状態に。
そんな中で都立ツツジ台高校では学園祭が迫り、裕太は無事に告れるのか?という話(違うw)。
アニメーション制作はテレビ版から引き続きTRIGGERが手掛け、雨宮哲監督はじめ主要なスタッフ・キャストも続投している。
アレクシスを封印し、アカネが本来の世界に帰還して数ヶ月。
二年生に進級した響裕太(広瀬裕也)は、グリッドマンとして戦っていた頃の記憶を失っていたが、数ヶ月後の学園祭までに宝多六花(宮本侑芽)に告白しようと決める。
六花と内海(斉藤壮馬)は、学園祭のクラス演劇でグリッドマンの物語を上演しようとシナリオを書いていた。
そんな時、突然街に怪獣が出現する。
裕太は新世紀中学生たちの助けを借りながらジャンクにたどり着き、自らの意思でアクセルフラッシュを行いグリッドマンと一体化する。
しかし、記憶を失ったことで一からのやり直しとなり、なかなか上手く戦うことが出来ない。
グリッドマンが窮地に陥った時、ダイナレックスが出現し、両者が協力して怪獣を倒す。
新世紀中学生たちは、マルチバースの並行世界が重なり始めており、このまま進むとビッグクランチが起こり、全ての世界が消滅するという仮説を立てる。
時を同じくして、麻中蓬(榎木淳弥) 、南夢芽(若山詩音)、山中暦(梅原裕一郎)、飛鳥川ちせ(安済知佳)が街に現れる・・・・
ほぼ「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」な話だったが、むっちゃ面白い!
「エブエブ」とは愛を告げる対象が違うのと、世界を壊そうとしてる者も異なるが、虚構と現実に関するメタ的な世界観も含めて、印象はかなり近い。
テレビ版の「SSSS.GRIDMAN」の企画は、雨宮哲が「ウルトラシリーズ」のアニメーション化を考えたことからスタートしたという。
円谷プロからの答えは、「ウルトラシリーズ」は無理だが、「グリッドマン」ならOK。
オリジナルの特撮ドラマ「電光超人グリッドマン」の放送は1993年で、ウィンドウズ95のブームでパソコンが爆発的に普及する前。
まだ一般的にはインターネットの概念も知られていない時代に、電脳世界を舞台に現実世界を破壊しようとする怪獣とヒーローの戦いを描くという異色作だった。
この作品をリメイクした「SSSS.GRIDMAN」では、舞台となるツツジ台そのものが現実世界の一人の少女、アカネによって創造された世界という設定。
街を蹂躙する怪獣もまた彼女の創造物で、外部世界の存在であるアレクシスによって実体化。
最後にはアカネ自身もアレクシスによって取り込まれ怪獣化してしまうが、グリッドマンに救出され、現実(実写)世界に帰還する。
本作では新たに出現した謎の敵の陰謀によって、グリッドマン自身が宇宙となり、その揺らぎによって彼の中でマルチバースが重なりはじめる。
ぶっちゃけ理屈の部分は「エブエブ」以上に複雑怪奇で、一度聞いただけでは理解しきれない。
とりあえず、アカネのいる現実世界と裕太たちのいる電脳世界があって、そこにもいくつもの並行宇宙がある。
また本来肉体を持たないハイパーワールドのエネルギー体であるグリッドマンは、ミクロであると同時にマクロでもあり、宇宙と一体化することも可能。
そうすると、グリッドマンの中でマルチバースが混じり合い、ビックバンの逆転現象であるビッグクランチが起こり、マルチバースもグリッドマンも消滅してしまう。
と、こんな理解で大体は合っているだろうか。
なので本作における裕太の使命は、平行宇宙から来た「DYNAZENON」組と協力し、グリッドマンとしてツツジ台を襲う怪獣と戦いながら、謎の敵を探し当てグリッドマン自身を救うこと。
それが、彼自身の最大の目標である、六花への告白を遂げることにも繋がるという訳。
新世紀中学生たちだけでなく、蓬や夢芽たち「DYNAZENON」組も六花の家にわちゃわちゃと合宿しながら、学校ではいつ終わるとも知れない学園祭の準備が進む。
六花に告りたいという、裕太のごく小さな、しかし真剣な願望をバックボーンとした物語は、不安定な世界のエントロピーを増大させながら進行する。
この辺りの、混沌とした世界観は押井守の「うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー」風味。
人間が信じることで虚構と現実が混じり合ってゆくと言うのは、「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」にも通じる概念だ。
そういえば、音楽も同じ鷺巣詩郎によるものだし。
アニメーションによる“特撮アクション”は相変わらず素晴らしい。
一発目のグリッドマン+ダイナレックスVSディモルガン戦からはじまって、無限に増殖するノワールドグマ戦、強力な光線技を持つドムギラン戦。
ヒーローサイドにも次々に援軍が現れ、合体変形を繰り返す総力戦は怒涛の展開。
ちょっと目まぐるし過ぎて、置いてかれそうになってしまうが、まさにTRIGGER印のスペクタクルアクションであり、シリーズの集大成として胸アツにしてお腹いっぱいだ。
とても面白い映画なのだが、「SSSS.GRIDMAN」と「SSSS.DYNAZENON」との完全なクロスオーバーかつ続き物なので、両方をちゃんと観て覚えていないと、次々に登場する膨大なキャラクターに「これ誰?あれ誰?」状態になってしまうだろう。
その意味で万人向きとは言えないが、非常に挑戦的な快作であることは確かだ。
ところで、「エブエブ」や「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」などのハリウッドのマルチバースものだと、並行宇宙の中にアニメーションの世界があるのがお約束。
もし本作に更なる続編があるのなら、オリジナルの特撮ドラマ「電光超人グリッドマン」もマルチバースの一つとして取り込んでもいいのでは。
アカネのいる実写世界を全体のハブとして、特撮ヒーローとアニメーションのヒーローがクロスして戦う。
もう少しすると、スパイダーマンがこれをやっちゃいそうな気がするので、もし企画の中にあるなら、早いもん勝ちだと思う。
TRIGGERさん、円谷プロさん、どうですかね?
今回は、円谷プロとコラボした日本酒、「人気一 純米総攻撃」をチョイス。
メフィラス星人とガッツ星人とメトロン星人が作ったと言う設定で、実際に手がけるのは島県二本松市の人気酒造。
円谷英二は福島の人で、これは円谷プロと人気酒造がコラボした怪獣酒シリーズの一つ。
売り上げの一部は、3.11で被災した子どもたちのための「ウルトラマン基金」に寄贈される仕組みになっている。
昭和特撮風味のラベルも楽しく、中身は美味しい純米酒だ。
記事が気に入ったらクリックしてね
90年代初頭の円谷プロの特撮ドラマ「電光超人グリッドマン」をリメイクし、2018年に放送された「SSSS.GRIDMAN」と、21年の姉妹編「SSSS.DYNAZENON」をマルチバースの世界でクロスオーバーさせた劇場版。
テレビ版最終回の数ヶ月後、記憶を失った主人公の裕太が、ヒロインの六花に告白しようとするが、なぜか怪獣が出現し裕太は再びグリッドマンと一体化して戦う。
グリッドマンは、世界のバランスが壊れようとしていると告げる。
そこから色んなキャラクターがマルチバースの並行世界から現れ、カオス状態に。
そんな中で都立ツツジ台高校では学園祭が迫り、裕太は無事に告れるのか?という話(違うw)。
アニメーション制作はテレビ版から引き続きTRIGGERが手掛け、雨宮哲監督はじめ主要なスタッフ・キャストも続投している。
アレクシスを封印し、アカネが本来の世界に帰還して数ヶ月。
二年生に進級した響裕太(広瀬裕也)は、グリッドマンとして戦っていた頃の記憶を失っていたが、数ヶ月後の学園祭までに宝多六花(宮本侑芽)に告白しようと決める。
六花と内海(斉藤壮馬)は、学園祭のクラス演劇でグリッドマンの物語を上演しようとシナリオを書いていた。
そんな時、突然街に怪獣が出現する。
裕太は新世紀中学生たちの助けを借りながらジャンクにたどり着き、自らの意思でアクセルフラッシュを行いグリッドマンと一体化する。
しかし、記憶を失ったことで一からのやり直しとなり、なかなか上手く戦うことが出来ない。
グリッドマンが窮地に陥った時、ダイナレックスが出現し、両者が協力して怪獣を倒す。
新世紀中学生たちは、マルチバースの並行世界が重なり始めており、このまま進むとビッグクランチが起こり、全ての世界が消滅するという仮説を立てる。
時を同じくして、麻中蓬(榎木淳弥) 、南夢芽(若山詩音)、山中暦(梅原裕一郎)、飛鳥川ちせ(安済知佳)が街に現れる・・・・
ほぼ「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」な話だったが、むっちゃ面白い!
「エブエブ」とは愛を告げる対象が違うのと、世界を壊そうとしてる者も異なるが、虚構と現実に関するメタ的な世界観も含めて、印象はかなり近い。
テレビ版の「SSSS.GRIDMAN」の企画は、雨宮哲が「ウルトラシリーズ」のアニメーション化を考えたことからスタートしたという。
円谷プロからの答えは、「ウルトラシリーズ」は無理だが、「グリッドマン」ならOK。
オリジナルの特撮ドラマ「電光超人グリッドマン」の放送は1993年で、ウィンドウズ95のブームでパソコンが爆発的に普及する前。
まだ一般的にはインターネットの概念も知られていない時代に、電脳世界を舞台に現実世界を破壊しようとする怪獣とヒーローの戦いを描くという異色作だった。
この作品をリメイクした「SSSS.GRIDMAN」では、舞台となるツツジ台そのものが現実世界の一人の少女、アカネによって創造された世界という設定。
街を蹂躙する怪獣もまた彼女の創造物で、外部世界の存在であるアレクシスによって実体化。
最後にはアカネ自身もアレクシスによって取り込まれ怪獣化してしまうが、グリッドマンに救出され、現実(実写)世界に帰還する。
本作では新たに出現した謎の敵の陰謀によって、グリッドマン自身が宇宙となり、その揺らぎによって彼の中でマルチバースが重なりはじめる。
ぶっちゃけ理屈の部分は「エブエブ」以上に複雑怪奇で、一度聞いただけでは理解しきれない。
とりあえず、アカネのいる現実世界と裕太たちのいる電脳世界があって、そこにもいくつもの並行宇宙がある。
また本来肉体を持たないハイパーワールドのエネルギー体であるグリッドマンは、ミクロであると同時にマクロでもあり、宇宙と一体化することも可能。
そうすると、グリッドマンの中でマルチバースが混じり合い、ビックバンの逆転現象であるビッグクランチが起こり、マルチバースもグリッドマンも消滅してしまう。
と、こんな理解で大体は合っているだろうか。
なので本作における裕太の使命は、平行宇宙から来た「DYNAZENON」組と協力し、グリッドマンとしてツツジ台を襲う怪獣と戦いながら、謎の敵を探し当てグリッドマン自身を救うこと。
それが、彼自身の最大の目標である、六花への告白を遂げることにも繋がるという訳。
新世紀中学生たちだけでなく、蓬や夢芽たち「DYNAZENON」組も六花の家にわちゃわちゃと合宿しながら、学校ではいつ終わるとも知れない学園祭の準備が進む。
六花に告りたいという、裕太のごく小さな、しかし真剣な願望をバックボーンとした物語は、不安定な世界のエントロピーを増大させながら進行する。
この辺りの、混沌とした世界観は押井守の「うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー」風味。
人間が信じることで虚構と現実が混じり合ってゆくと言うのは、「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」にも通じる概念だ。
そういえば、音楽も同じ鷺巣詩郎によるものだし。
アニメーションによる“特撮アクション”は相変わらず素晴らしい。
一発目のグリッドマン+ダイナレックスVSディモルガン戦からはじまって、無限に増殖するノワールドグマ戦、強力な光線技を持つドムギラン戦。
ヒーローサイドにも次々に援軍が現れ、合体変形を繰り返す総力戦は怒涛の展開。
ちょっと目まぐるし過ぎて、置いてかれそうになってしまうが、まさにTRIGGER印のスペクタクルアクションであり、シリーズの集大成として胸アツにしてお腹いっぱいだ。
とても面白い映画なのだが、「SSSS.GRIDMAN」と「SSSS.DYNAZENON」との完全なクロスオーバーかつ続き物なので、両方をちゃんと観て覚えていないと、次々に登場する膨大なキャラクターに「これ誰?あれ誰?」状態になってしまうだろう。
その意味で万人向きとは言えないが、非常に挑戦的な快作であることは確かだ。
ところで、「エブエブ」や「ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス」などのハリウッドのマルチバースものだと、並行宇宙の中にアニメーションの世界があるのがお約束。
もし本作に更なる続編があるのなら、オリジナルの特撮ドラマ「電光超人グリッドマン」もマルチバースの一つとして取り込んでもいいのでは。
アカネのいる実写世界を全体のハブとして、特撮ヒーローとアニメーションのヒーローがクロスして戦う。
もう少しすると、スパイダーマンがこれをやっちゃいそうな気がするので、もし企画の中にあるなら、早いもん勝ちだと思う。
TRIGGERさん、円谷プロさん、どうですかね?
今回は、円谷プロとコラボした日本酒、「人気一 純米総攻撃」をチョイス。
メフィラス星人とガッツ星人とメトロン星人が作ったと言う設定で、実際に手がけるのは島県二本松市の人気酒造。
円谷英二は福島の人で、これは円谷プロと人気酒造がコラボした怪獣酒シリーズの一つ。
売り上げの一部は、3.11で被災した子どもたちのための「ウルトラマン基金」に寄贈される仕組みになっている。
昭和特撮風味のラベルも楽しく、中身は美味しい純米酒だ。

記事が気に入ったらクリックしてね
| ホーム |