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2023年05月29日 (月) | 編集 |
黒い絵に隠された秘密を解け!
荒木飛呂彦原作の大ベストセラー「ジョジョの奇妙な冒険」から生まれたスピンオフ、「岸辺露伴は動かない」シリーズ。
人間を本にして、その記憶を予読むことが出来るスタンド「ヘブンズ・ドア」の使い手、人気漫画家の岸辺露伴を主人公としたシリーズは、2020年から2022年にかけて8話がNHKでドラマ化され好評を博したが、本作は満を持しての映画版。
監督の渡辺一貴、脚本の小林靖子ほかメインスタッフは続投。
岸辺露伴はもちろん高橋一生が演じ、飯豊まりえ演じる編集者の泉京香との迷コンビも健在だ。
※核心部分に触れています。
本作の原作「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」は、ルーヴル美術館がルーヴルをモチーフにした、オリジナルのバンデシネ(コミック)を制作するプロジェクトの中で生まれたという。
フランスは日本の漫画のヨーロッパ最大の輸出市場で、ルーヴル側が日本からの参加を熱望し、荒木飛呂彦が応じたことから実現したというから、これはメタ構造を持ったスピンオフのスピンオフなのだ。
今回、露伴が挑むのはルーヴル美術館に所蔵されているという、250年前に山村仁左衛門という日本人絵師が描いた「この世で最も黒く、邪悪な絵」である「月下」の謎。
この絵は露伴が10代の頃の、初恋の記憶と密接に結びついている。
原作は120ページほどの中編なので、ボリューム的には1時間のドラマでも描けるのでは?と思ったのだが、脚色で謎解きと背景の要素を大幅に膨らませ、ミステリアに展開する。
終わってみれば、なかなかに充実した「映画」になっているのだからさすがだ。
「ジョジョの奇妙な冒険」は三池崇史監督でも実写映画化されているが、コスプレショー然としたビジュアルは賛否両論だった。
逆に本作は「ジョジョ」色を薄めて、スピンオフだけの世界観にしたのが大正解だ。
スタンドという超常の力は抑えているものの、漫画的にエキセントリックなのは露伴先生だけ。
ルックスもキャラクターを特徴付けるのはギザギザのヘアバンドの一点のみで、過度に漫画に似せようとしてコスプレショー化することを防いでいる。
特筆すべきは原作シリーズでは一回しか出てこない泉京香を、露伴のバディとしてレギュラー化した隻眼。
飯豊まりえ演じる京香は、あらゆる点で露伴とは対照的な天然癒し系で、基本この二人の掛け合いで物語が展開するので、全体に心地よいリズムが出た。
小林靖子による脚色は、原作プロットの骨子をキープしながら、フランス人画家ルグランが描いたもう一枚の黒い絵「ノワール(黒)」のエピソードを加え、そこから10代の頃の露伴に黒い絵の存在を教えた不思議な女性、奈々瀬との思い出に誘い、なぜ「ノワール」が日本にあるのかを巡るミステリから、ルーヴルへと持って行く。
そして「月下」に秘められた力が明らかになった後で、どの様な経緯で世界で一番黒く、邪悪な絵が誕生したのか、奈々瀬は本当は何者なのかを「ヘブンズ・ドア」が解き明かす。
このエピソードのウェットさも相まって、全体のムードは荒木飛呂彦というよりは、江戸川乱歩や横溝正史ら昭和の怪奇ミステリのような味わいとなっている。
「月下」に使われている本当の黒は、全ての光を吸収するために見ることが出来ない。
逆に絵を見ようとした者の過去の後悔や罪の意識、大昔の血縁者の罪までをも映し出し、呪いとして襲ってくる。
見てはいけないと言われると、どうしても見たくなってしまうもので、この絵はずっと人の血を吸い続けて来たのである。
露伴は「血脈からは逃れられない」と語るが、自分が預かり知らない血族の行為が巡り巡って主人公に災難をもたらすのは他の「ジョジョ」シリーズでも見られる。
絵の呪いを止める役割に露伴が選ばれた理由を含めて、この作者らしい世界観なのだろう。
「ノワール」を露伴から盗んだ男や、ルーヴルで山村仁左衛門を調べた研究者が、本物の「月下」を見ていないのに呪いを発動しちゃったのはなぜ?とか、幾つか疑問はあるが、いずれにしても作り手のセンスの良さが光り、漫画の実写化として十分成功した作品だと思う。
久しぶりにドラマ版を再度観たくなったが、映画公開記念に地上波再放送しないのだろうか。
今回は、後半の舞台となるルーヴルから、「パリジャン」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、ドライ・ベルモット20ml、クレーム・ド・カシス10mlをステアして、グラスに注ぐ。
美しいルビー色のカクテルで、クレーム・ド・カシスとドライ・ベルモットの濃厚な色と香理を、清涼なジンがまとめ上げる。
アペリティフとしても人気の、やや甘めのカクテルだ。
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荒木飛呂彦原作の大ベストセラー「ジョジョの奇妙な冒険」から生まれたスピンオフ、「岸辺露伴は動かない」シリーズ。
人間を本にして、その記憶を予読むことが出来るスタンド「ヘブンズ・ドア」の使い手、人気漫画家の岸辺露伴を主人公としたシリーズは、2020年から2022年にかけて8話がNHKでドラマ化され好評を博したが、本作は満を持しての映画版。
監督の渡辺一貴、脚本の小林靖子ほかメインスタッフは続投。
岸辺露伴はもちろん高橋一生が演じ、飯豊まりえ演じる編集者の泉京香との迷コンビも健在だ。
※核心部分に触れています。
本作の原作「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」は、ルーヴル美術館がルーヴルをモチーフにした、オリジナルのバンデシネ(コミック)を制作するプロジェクトの中で生まれたという。
フランスは日本の漫画のヨーロッパ最大の輸出市場で、ルーヴル側が日本からの参加を熱望し、荒木飛呂彦が応じたことから実現したというから、これはメタ構造を持ったスピンオフのスピンオフなのだ。
今回、露伴が挑むのはルーヴル美術館に所蔵されているという、250年前に山村仁左衛門という日本人絵師が描いた「この世で最も黒く、邪悪な絵」である「月下」の謎。
この絵は露伴が10代の頃の、初恋の記憶と密接に結びついている。
原作は120ページほどの中編なので、ボリューム的には1時間のドラマでも描けるのでは?と思ったのだが、脚色で謎解きと背景の要素を大幅に膨らませ、ミステリアに展開する。
終わってみれば、なかなかに充実した「映画」になっているのだからさすがだ。
「ジョジョの奇妙な冒険」は三池崇史監督でも実写映画化されているが、コスプレショー然としたビジュアルは賛否両論だった。
逆に本作は「ジョジョ」色を薄めて、スピンオフだけの世界観にしたのが大正解だ。
スタンドという超常の力は抑えているものの、漫画的にエキセントリックなのは露伴先生だけ。
ルックスもキャラクターを特徴付けるのはギザギザのヘアバンドの一点のみで、過度に漫画に似せようとしてコスプレショー化することを防いでいる。
特筆すべきは原作シリーズでは一回しか出てこない泉京香を、露伴のバディとしてレギュラー化した隻眼。
飯豊まりえ演じる京香は、あらゆる点で露伴とは対照的な天然癒し系で、基本この二人の掛け合いで物語が展開するので、全体に心地よいリズムが出た。
小林靖子による脚色は、原作プロットの骨子をキープしながら、フランス人画家ルグランが描いたもう一枚の黒い絵「ノワール(黒)」のエピソードを加え、そこから10代の頃の露伴に黒い絵の存在を教えた不思議な女性、奈々瀬との思い出に誘い、なぜ「ノワール」が日本にあるのかを巡るミステリから、ルーヴルへと持って行く。
そして「月下」に秘められた力が明らかになった後で、どの様な経緯で世界で一番黒く、邪悪な絵が誕生したのか、奈々瀬は本当は何者なのかを「ヘブンズ・ドア」が解き明かす。
このエピソードのウェットさも相まって、全体のムードは荒木飛呂彦というよりは、江戸川乱歩や横溝正史ら昭和の怪奇ミステリのような味わいとなっている。
「月下」に使われている本当の黒は、全ての光を吸収するために見ることが出来ない。
逆に絵を見ようとした者の過去の後悔や罪の意識、大昔の血縁者の罪までをも映し出し、呪いとして襲ってくる。
見てはいけないと言われると、どうしても見たくなってしまうもので、この絵はずっと人の血を吸い続けて来たのである。
露伴は「血脈からは逃れられない」と語るが、自分が預かり知らない血族の行為が巡り巡って主人公に災難をもたらすのは他の「ジョジョ」シリーズでも見られる。
絵の呪いを止める役割に露伴が選ばれた理由を含めて、この作者らしい世界観なのだろう。
「ノワール」を露伴から盗んだ男や、ルーヴルで山村仁左衛門を調べた研究者が、本物の「月下」を見ていないのに呪いを発動しちゃったのはなぜ?とか、幾つか疑問はあるが、いずれにしても作り手のセンスの良さが光り、漫画の実写化として十分成功した作品だと思う。
久しぶりにドラマ版を再度観たくなったが、映画公開記念に地上波再放送しないのだろうか。
今回は、後半の舞台となるルーヴルから、「パリジャン」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、ドライ・ベルモット20ml、クレーム・ド・カシス10mlをステアして、グラスに注ぐ。
美しいルビー色のカクテルで、クレーム・ド・カシスとドライ・ベルモットの濃厚な色と香理を、清涼なジンがまとめ上げる。
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2023年05月24日 (水) | 編集 |
憎しみの行き着く先は。
これは強烈だ。
92分間ワンショットで描かれる、異色の人種差別ホラー。
主人公のエミリーは、街の白人女性たちと「アーリア人の団結をめざす娘たち」なる白人至上主義のグループを立ち上げる。
序盤の30分は、教会で開かれる和気あいあいとした最初の会合。
しかし帰り道、エミリーと因縁のあるアジア系の姉妹と口論になったことから、事態が急激に動き出す。
悪戯半分に姉妹に嫌がらせをしようとした女たちは、破滅への一本道にはまり込んでしまうのだ。
人種差別をモチーフにしたホラーは、同じブラムハウスの「ゲット・アウト」が記憶に新しいが、トリッキーさが持ち味のジョーダン・ピールに対し、こちらはどストレート。
監督とオリジナル脚本を手掛けたのは、これが長編デビュー作となるベス・デ・アラウージョ。
まさに分断の時代が生んだ、怪/快作だ。
※核心部分に触れています。
幼稚園で教諭を務めるエミリー(ステファニー・エステス)は、白人至上主義を掲げる「アーリア人の団結をめざす娘たち」という団体を設立、教会で開かれる一回目の会合に向かっていた。
メンバーはエミリーの他に元受刑者のレスリー(オリビア・ルカルディ)、グロッサリーストアのオーナーのキム(ダナ・ミリキャン)、小売店従業員のマージョリー(エレノア・ピエンタ)ら6人の女性たち。
彼女たちは自己紹介しながら、移民やユダヤ人、有色人種、フェミニストらへの不満を語り、機関誌を発行して、白人が優越しているという思想を「優しく、静かに」広めてゆくという方針を決める。
団体の目的を知った教会の神父は場所の提供を拒絶し、エミリーは体面を保つために、自宅での二次会を提案し、レスリー、キム、マージョリーが応じる。
ところが、ワインを調達しに寄ったキムの店で、アジア系の姉妹のアン(メリッサ・パウロ)とリリー(シシー・リー)と口論になり、エミリーたちは姉妹に嫌がらせする計画を立てるのだが・・・・
冒頭、トイレで妊娠検査薬を使うエミリーが映し出され、望んでいた妊娠が叶わなかったことが示唆される。
カメラはイライラを抱えたままトイレから出たエミリーを追い、その目線の先にいる有色人種の清掃作業員に移り、次いで駐車場で一人で迎えを待つ少年へと撮影対象を移してゆく。
定まらない被写体に自然と不穏な空気が醸し出され、エミリーが少年に対してある言葉をかけることで、彼女がレイシストであることが描写される。
その後、エミリーは立ち上げたグループの女子会チックな会合にパイを持ち込むのだが、その表面にはナチスの鉤十字の形の切り込みが入っている。
中国系アメリカ人とブラジル出身の父のもとに生まれたベス・デ・アラウージョ監督は、この映画でエミリーたちがヘイトの眼差しを向けるマイノリティの女性だ。
彼女はこの映画の企画を、コロナ禍に起こったある事件から着想したという。
2020年の5月、ニューヨークのセントラルパークで、バードウォッチングをしていた黒人男性が、犬のリードを外して走らせている白人女性と出会う。
その場所はリードを外すことが禁じられていたので、男性がリードをつけるように頼んだところ、女性は拒否し911に黒人に脅迫されていると通報したのだ。
男性がことの一部始終を録画していたことから、女性の嘘はあっという間にバレ、虚偽通報の罪で起訴されることになった。
この事件は、ブラック・ライブズ・マター(BLM)運動が吹き荒れるきっかけとなった、ジョージ・フロイド氏殺害と同じ日に起こったことで、ヘイト犯罪の象徴として日本でも繰り返し報道されたので、覚えている人も多いだろう。
どちらの事件も思いっきり撮影されているのに、なぜ当事者は嘘が通ると思っているのか、当時は不思議だったが、この映画を見るとさもありなんと思う。
加害者は自分のしてることを、罪だと認識していない。
身も蓋もない言い方をするが、要は論理的思考が出来ないくらい馬鹿なのである。
この手のヘイトをする人たちの思考回路は、基本的に「自分が不幸なのは誰かのせいで、自分は悪くない」なのだ。
グループの初会合のシーンが、そのことを分かりやすく伝えている。
自己紹介では、マージョリーが南米からの移民の同僚に昇進の機会を奪われた話をする。
彼女の上司は、同僚の方がリーダーシップが優れていたから昇進させた、と至極真っ当な理由を述べたという。
だが彼女たちは、白人の方が人種的に優れているのだから、有色人種に負けることなどあり得ないと信じているのだ。
普段は思っていても、周りの目を気にして口に出せない本音トークで意気高揚。
そして、破滅へ繋がる事件が起こる。
キムの店でエミリーたちはアンとリリーの姉妹と口論になるのだが、実はエミリーの弟はアンに対するレイプ犯罪で収監中。
エミリーの被害妄想的なヘイト思想には、弟の事件も関係していることが明らかになる。
自分の弟が穢らわしい有色人種をレイプするなど、あってはならないのである。
姉妹は立ち去るが、レイシストたちは収まらない。
悪いことに、グループの中で一番若いレスリーがアジテーター気質で、他のメンバーに復讐を焚き付ける。
人間は集団になると、過激な意見に押し流されやすくなる。
彼女らの戦略は「優しく(ソフト)、静かに(クワイエット)」思想を広めるはずが、ここで一気にタガが外れて暴走しはじめるのだ。
共に小さな町の住人で、姉妹の住所もわかっている。
留守宅に入り込んで、嫌がらせで荒らしてやろうという計画そのものが浅はかだが、行ってみると自分たちより劣る人種の姉妹が、実際にはずっと良い暮らしをしていることに再激昂。
白人至上主義団体を作ろうって時点で分かっちゃいるが、全員がかなりのお馬鹿さんなので、状況判断が全く出来ない。
案の定、姉妹が帰宅してしまい、引っ込みがつかなくなった女たちは、最低最悪の行動に出てしまうのである。
この時点で、静かにマウントを取り合っていたグループの中でも、徐々に亀裂が生じる。
マージョリーと子供のいるキムは離脱したがり、エミリーは予期せぬ事態に混乱する。
そんなグループの中で、犯罪歴のあるレスリーがいつの間にかリーダーのポジションになっていて、後先かまわず強引に突っ走る。
シチュエーションは違えど、トランプ落選で議会に突撃して逮捕された連中も、こういうメンタル状態だったんだろうなあと思う。
目先の行動の結果、近い未来に自分がどうなるかまで頭が回らない。
正しいことをしているのだから、自分たちが暴徒として捕まるわけがないと、何の根拠もない思い込みで動いてしまう。
登場人物が愚かすぎるがゆえ、映画の物語が終わった後のことも全て想像できる。
どう考えても、今さら状況をリカバリーすることなど不可能で、地獄に通じる未来しか残されていないのだが、本人たちは最後まで分かっていない。
映画撮影のデジタル移行後、全編ワンショットを売りにする作品は増えたが、技法を生かし切るのは簡単ではなく、とりあえずやってみただけの作品がほとんど。
だがこれは92分間、彼女たちの一人になったかの様な凄まじい臨場感だ。
本作の撮影地は、ベス・デ・アラウージョ監督の地元サンフランシスコに近いインバネスだが、作中での舞台はワイオミングだということが示唆される。
なるほど、リベラルな北カリフォルニアではなく、過去には比較的リベラルな風土だったが、20世紀後半から急速に保守化が進み、白人比率の高いワイオミングを選んだのも、物語の背景的に上手いところを狙ってると思う。
実にアメリカ的な寓話ではあるのだが、エミリーたちのメンタルは日本のネトウヨや陰謀論者にも通じる話。
自分の都合のいいように物事を解釈し、自分の不幸を他人のせいにしてはいけないと、肝に銘じたい。
今回は、刺激が強過ぎる映画に、”魚雷”の名を持つ刺激的なビールを。
シエラネバダ・ブリューイングが2009年より醸造している定番銘柄、「トルピード エクストラIPA」をチョイス。
口当たりは軽やかでクリーミーだが、次いでガツンとくる攻撃的なホップ感。
フレーバーは複雑だが、一度飲んだら忘れられにない、強烈な印象をもたらすIPAらしい一杯だ。
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これは強烈だ。
92分間ワンショットで描かれる、異色の人種差別ホラー。
主人公のエミリーは、街の白人女性たちと「アーリア人の団結をめざす娘たち」なる白人至上主義のグループを立ち上げる。
序盤の30分は、教会で開かれる和気あいあいとした最初の会合。
しかし帰り道、エミリーと因縁のあるアジア系の姉妹と口論になったことから、事態が急激に動き出す。
悪戯半分に姉妹に嫌がらせをしようとした女たちは、破滅への一本道にはまり込んでしまうのだ。
人種差別をモチーフにしたホラーは、同じブラムハウスの「ゲット・アウト」が記憶に新しいが、トリッキーさが持ち味のジョーダン・ピールに対し、こちらはどストレート。
監督とオリジナル脚本を手掛けたのは、これが長編デビュー作となるベス・デ・アラウージョ。
まさに分断の時代が生んだ、怪/快作だ。
※核心部分に触れています。
幼稚園で教諭を務めるエミリー(ステファニー・エステス)は、白人至上主義を掲げる「アーリア人の団結をめざす娘たち」という団体を設立、教会で開かれる一回目の会合に向かっていた。
メンバーはエミリーの他に元受刑者のレスリー(オリビア・ルカルディ)、グロッサリーストアのオーナーのキム(ダナ・ミリキャン)、小売店従業員のマージョリー(エレノア・ピエンタ)ら6人の女性たち。
彼女たちは自己紹介しながら、移民やユダヤ人、有色人種、フェミニストらへの不満を語り、機関誌を発行して、白人が優越しているという思想を「優しく、静かに」広めてゆくという方針を決める。
団体の目的を知った教会の神父は場所の提供を拒絶し、エミリーは体面を保つために、自宅での二次会を提案し、レスリー、キム、マージョリーが応じる。
ところが、ワインを調達しに寄ったキムの店で、アジア系の姉妹のアン(メリッサ・パウロ)とリリー(シシー・リー)と口論になり、エミリーたちは姉妹に嫌がらせする計画を立てるのだが・・・・
冒頭、トイレで妊娠検査薬を使うエミリーが映し出され、望んでいた妊娠が叶わなかったことが示唆される。
カメラはイライラを抱えたままトイレから出たエミリーを追い、その目線の先にいる有色人種の清掃作業員に移り、次いで駐車場で一人で迎えを待つ少年へと撮影対象を移してゆく。
定まらない被写体に自然と不穏な空気が醸し出され、エミリーが少年に対してある言葉をかけることで、彼女がレイシストであることが描写される。
その後、エミリーは立ち上げたグループの女子会チックな会合にパイを持ち込むのだが、その表面にはナチスの鉤十字の形の切り込みが入っている。
中国系アメリカ人とブラジル出身の父のもとに生まれたベス・デ・アラウージョ監督は、この映画でエミリーたちがヘイトの眼差しを向けるマイノリティの女性だ。
彼女はこの映画の企画を、コロナ禍に起こったある事件から着想したという。
2020年の5月、ニューヨークのセントラルパークで、バードウォッチングをしていた黒人男性が、犬のリードを外して走らせている白人女性と出会う。
その場所はリードを外すことが禁じられていたので、男性がリードをつけるように頼んだところ、女性は拒否し911に黒人に脅迫されていると通報したのだ。
男性がことの一部始終を録画していたことから、女性の嘘はあっという間にバレ、虚偽通報の罪で起訴されることになった。
この事件は、ブラック・ライブズ・マター(BLM)運動が吹き荒れるきっかけとなった、ジョージ・フロイド氏殺害と同じ日に起こったことで、ヘイト犯罪の象徴として日本でも繰り返し報道されたので、覚えている人も多いだろう。
どちらの事件も思いっきり撮影されているのに、なぜ当事者は嘘が通ると思っているのか、当時は不思議だったが、この映画を見るとさもありなんと思う。
加害者は自分のしてることを、罪だと認識していない。
身も蓋もない言い方をするが、要は論理的思考が出来ないくらい馬鹿なのである。
この手のヘイトをする人たちの思考回路は、基本的に「自分が不幸なのは誰かのせいで、自分は悪くない」なのだ。
グループの初会合のシーンが、そのことを分かりやすく伝えている。
自己紹介では、マージョリーが南米からの移民の同僚に昇進の機会を奪われた話をする。
彼女の上司は、同僚の方がリーダーシップが優れていたから昇進させた、と至極真っ当な理由を述べたという。
だが彼女たちは、白人の方が人種的に優れているのだから、有色人種に負けることなどあり得ないと信じているのだ。
普段は思っていても、周りの目を気にして口に出せない本音トークで意気高揚。
そして、破滅へ繋がる事件が起こる。
キムの店でエミリーたちはアンとリリーの姉妹と口論になるのだが、実はエミリーの弟はアンに対するレイプ犯罪で収監中。
エミリーの被害妄想的なヘイト思想には、弟の事件も関係していることが明らかになる。
自分の弟が穢らわしい有色人種をレイプするなど、あってはならないのである。
姉妹は立ち去るが、レイシストたちは収まらない。
悪いことに、グループの中で一番若いレスリーがアジテーター気質で、他のメンバーに復讐を焚き付ける。
人間は集団になると、過激な意見に押し流されやすくなる。
彼女らの戦略は「優しく(ソフト)、静かに(クワイエット)」思想を広めるはずが、ここで一気にタガが外れて暴走しはじめるのだ。
共に小さな町の住人で、姉妹の住所もわかっている。
留守宅に入り込んで、嫌がらせで荒らしてやろうという計画そのものが浅はかだが、行ってみると自分たちより劣る人種の姉妹が、実際にはずっと良い暮らしをしていることに再激昂。
白人至上主義団体を作ろうって時点で分かっちゃいるが、全員がかなりのお馬鹿さんなので、状況判断が全く出来ない。
案の定、姉妹が帰宅してしまい、引っ込みがつかなくなった女たちは、最低最悪の行動に出てしまうのである。
この時点で、静かにマウントを取り合っていたグループの中でも、徐々に亀裂が生じる。
マージョリーと子供のいるキムは離脱したがり、エミリーは予期せぬ事態に混乱する。
そんなグループの中で、犯罪歴のあるレスリーがいつの間にかリーダーのポジションになっていて、後先かまわず強引に突っ走る。
シチュエーションは違えど、トランプ落選で議会に突撃して逮捕された連中も、こういうメンタル状態だったんだろうなあと思う。
目先の行動の結果、近い未来に自分がどうなるかまで頭が回らない。
正しいことをしているのだから、自分たちが暴徒として捕まるわけがないと、何の根拠もない思い込みで動いてしまう。
登場人物が愚かすぎるがゆえ、映画の物語が終わった後のことも全て想像できる。
どう考えても、今さら状況をリカバリーすることなど不可能で、地獄に通じる未来しか残されていないのだが、本人たちは最後まで分かっていない。
映画撮影のデジタル移行後、全編ワンショットを売りにする作品は増えたが、技法を生かし切るのは簡単ではなく、とりあえずやってみただけの作品がほとんど。
だがこれは92分間、彼女たちの一人になったかの様な凄まじい臨場感だ。
本作の撮影地は、ベス・デ・アラウージョ監督の地元サンフランシスコに近いインバネスだが、作中での舞台はワイオミングだということが示唆される。
なるほど、リベラルな北カリフォルニアではなく、過去には比較的リベラルな風土だったが、20世紀後半から急速に保守化が進み、白人比率の高いワイオミングを選んだのも、物語の背景的に上手いところを狙ってると思う。
実にアメリカ的な寓話ではあるのだが、エミリーたちのメンタルは日本のネトウヨや陰謀論者にも通じる話。
自分の都合のいいように物事を解釈し、自分の不幸を他人のせいにしてはいけないと、肝に銘じたい。
今回は、刺激が強過ぎる映画に、”魚雷”の名を持つ刺激的なビールを。
シエラネバダ・ブリューイングが2009年より醸造している定番銘柄、「トルピード エクストラIPA」をチョイス。
口当たりは軽やかでクリーミーだが、次いでガツンとくる攻撃的なホップ感。
フレーバーは複雑だが、一度飲んだら忘れられにない、強烈な印象をもたらすIPAらしい一杯だ。

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2023年05月18日 (木) | 編集 |
破滅は、彼女に何をもたらしたのか?
異才 トッド・フィールド16年ぶりの新作は、天賦の才に恵まれたオーケストラ指揮者リディア・ターの転落を描く物語。
名門ベルリン・フィルハーモニー初の女性常任指揮者となったリディアは、就任以来の大仕事となるマーラーの交響曲第5番のライブ録音に向けて準備を進めている。
同棲婚の相手はフィルのコンサートマスターで、二人の間には子供もいて順風満帆な人生。
ところが彼女の日常と名声が、ある出来事をきっかけとして、砂上の楼閣の様に崩れてゆく。
タイトルロールのリディア・ターを演じるのは、やはり破滅型のキャラクターを演じた「ブルージャスミン」で、アカデミー主演女優賞に輝いたケイト・ブランシェット。
彼女の“妻”シャロンを「あの日のように抱きしめて」のニーナ・ホス、キーパーソンとなる助手のフランチェスカを「燃ゆる女の肖像」のノエミ・メルランが演じる。
一見すると実話かと思わされるくらいに、徹底的に作り込まれた設定と凝った作劇。
膨大な情報がさりげなく詰め込まれ、一度観ただけで全てを把握するのはほぼ不可能。
なるほど、評判通り一筋縄ではいかない大怪作である。
※核心部分に触れています。
ベルリン・フィル常任指揮者のリディア・ター(ケイト・ブランシェット)は、作曲の才能にも優れ、数々の賞に輝くクラッシック音楽界の寵児。
ニューヨークで開かれたイベントに出席した後、すぐにベルリンに戻り、今度はマーラーの交響曲第5番のライブ録音の準備を進める。
そんな多忙を極める彼女を支えるのが、フィルのコンサートマスターでもある妻のシャロン(ニーナ・ホス)と、アシスタントのフランチェスカ(ノエミ・メルラン)。
リディアは、欠員の出ていたチェロ奏者のオーディションで、ロシア人のオルガ(ソフィー・カウアー)を仮採用するが、彼女にエルガーのチェロ協奏曲のソリストのポジションを与えたことで、シャロンはリディアがオルガに惹かれていることに気づく。
そんな時、かつてリディアが設立した財団のフェローだったクリスタが自殺し、彼女の両親がリディアを告発する事件が起こる。
そしてジュリアード音楽院で授業を持つリディアが、アカハラを行っているように編集された動画が拡散され、オーケストラ内にも徐々に動揺が広がる。
リディアは自分でも気付かないうちに、スキャンダルの網に絡め取られてゆくのだが・・・・
この映画には、一度観ただけでは捉えきれない多くの情報が盛り込まれていて、一見関係のない情報が実は密接に結びついている。
私は初日に鑑賞し、その3日後にもう一度鑑賞したが、一回目の時には流してしまった点と点が繋がり、だいぶ作品解像度が上がったと思う。
72dpiが200dpiくらいにはなったと思うが、これを350dpiに持っていくのは更に複数回の鑑賞が必要だと思うので、現時点で言語化できる範囲でレビューしてみたい。
本作を鑑賞する前は、成功した女性指揮者がパワハラで破滅する物語だと聞いていたのだが、これは思いっきりミスリードだ。
いや、確かにリディアが恣意的に人事権を行使している様に見えなくもないのだが、あくまでもそう解釈することも可能というレベル。
少なくとも画面上では、彼女はハラスメントを行っていない。
例えば、副指揮者のセバスチャンの解任に関しては、ニューヨークで投資家兼アマチュア指揮者のエリオット・カプランと会話した時に、すでにその話が出ている。
マーラーの5番のリハーサルでの出来事はダメ押しであって、セバスチャンが副指揮者としては力不足なのはリディア以外にも認識されていたこと。
後任にフランチェスカを選ばなかったのは、オーケストラの一部でリディアが彼女を贔屓しているという声があったからで、むしろ公平性に気を遣っていることが分かる。
フランチェスカにとっては、失望する結果となったが、あちらを立てればこちらが立たずは組織運営にはつきものの話。
オルガの選抜に関しては、確かに彼女を気に入ってはいるのだろうが、それが性的なものかは想像でしかなく、彼女の実力は他のメンバーも認めている。
ジュリアードで、バッハは女性蔑視の白人男性だと揶揄した男子学生に対して、音楽家が音楽とどう向き合うべきなのかと諭したシーンは、言葉はキツ過ぎるが内容としては当たり前の話だ。
ただし、クリスタの件に関しては過去に何らかの問題があったのは事実だろう。
冒頭のイベント会場で、後ろ姿が描写されるだけのクリスタ(彼女と明示されてはいない)は、以降一度も画面に登場しないが、影のようにリディアのキャリアにつきまとう。
フランチェスカとクリスタは、リディアが優れた女性指揮者を育成するため設立した財団のフェローで、過去にペルーの民族音楽を研究するリディアのフィールドワークに同行していた。
映画の冒頭に長めのオープニングクレジットがあるのだが、この時流れている音声がこのフィールドワーク時のものだろう。
具体的には描かれないものの、そこで三人の間に何かが起こり、クリスタは精神を病んでゆく。
オープニングクレジットに続くイベントで、リディアを賞賛する紹介文をフランチェスカが暗記していることから、この紹介文を書いたのは彼女。
フランチェスカは、副指揮者の地位を得るためにリディアに師事しているが、有能なアシスタントを演じていても、リディアを信頼してはいないのは彼女のプライベートを写したチャット画面からも想像できる。
この画面の撮影者は、フランチェスカしか有り得ないし、チャットの相手もリディアを知っていて、辛辣な言葉を投げかけているので、おそらくクリスタ。
ヴィタ・サックヴィル=ウェストの小説「Challenge」を、リディアに送ったのもクリスタだろう。
両性愛者だったサックヴィル=ウエストが、家族を捨てて恋人のヴァイオレット・ケッペル=トレフューシスと駆け落ちした時期に書いた小説なので、クリスタとリディアの間には何らかの色恋沙汰があったのかも知れない。
本の最初のページに、迷路のような奇妙なイラストが描き込まれていて、それ見たリディアは突然怒って破り捨てる。
この“迷路“は、三人がフィールドワークを行ったシピボ・コニボ族の伝統紋様なのだが、最初に本作を鑑賞して、海外のレビューを巡っていた時にRedditで見つけたのが主人公のター(TAR)とは、ギリシャ神話のミノタウロス(Minotaur)の暗喩ではないかと言う指摘。
王妃パーシパエーと海神ポセイドンの牡牛が姦通して生まれた牛頭の獣人で、あまりの暴虐ぶりに迷宮に封じられ、9年毎に7人の少年と7人の少女を喰らう怪物。
なるほど、クリスタが迷路の紋様という共通の記憶を使って、リディアをミノタウロスに喩えたなら腑に落ちる。
このイラストは、のちに聴覚過敏に陥ったリディアが、就寝中にメトロノームが動いているのに気付く(おそらくは妄想)シーンにも登場している。
またオルガを探して、廃墟のようなアパートの地下を彷徨うシーンは、まさに迷宮のイメージだ。
物語の序盤では、リディアは全く迷っていない。
冒頭のイベントで、司会者から「人々は、指揮者は人間メトロノームみたいなものと思っている」と言われたリディアは、そのことを否定せずに、「時間こそ(音楽の)解釈の重要な要素だ」と語る。
指揮者は、メトロノームのような一定のリズムを作ることもできるし、時計の針を止めるか、進めるかを決定する存在。
音楽における時の支配者であり、彼女の世界も完璧にコントロールされている。
ところが、クリスタによって、リディアの人生が徐々に狂ってゆくと、彼女を取り巻く“音“も思い通りにならなくなる。
公園で聞こえる女性の悲鳴、仕事中にどこからか聞こえてくるチャイムの音、前記した就寝中に聞こえるメトロノームの音、冷蔵庫の微細な機械音など、味方のはずの音が彼女の人生をかき乱し、心を削ってゆく。
SNSで尾鰭がついたスキャンダルは、リディアから仕事を奪い、それがますます精神的に彼女を追い詰める悪循環に陥る。
重要なターニングポイントが、ベルリンを追われたリディアが、ニューヨークのスタテン島にある実家を訪れるシーンだ。
彼女はストレージの中の膨大なビデオテープを見つけ出すのだがこれは、冒頭のイベントで師弟関係にあると語ったレナード・バーンスタインのコンサートを納めたテープ。
彼が音楽の本質と喜びを語る姿を見て、リディアはその言葉を噛み締め涙を流すのだが、直後に帰宅した弟トニーとの会話で、初めて彼女の本名がヨーロッパ風の“リディア”ではなく、いかにもアメリカ的な“リンダ”であることが明かされる。
私はこのシーンをみて、二十世紀を代表するフォトジャーナリスト、ロバート・キャパのことを思い出した。
ハンガリー出身の売れない写真家だったフリードマン・エンドレは、恋人のゲルダ・タローと共に偉大なアメリカ人戦場カメラマン、ロバート・キャパなる架空の人物を作り出し、その人生を生きた。
もしかすると、キャパと同様に彼女の輝かしい経歴もかなりの部分が詐称で、バーンスタインはビデオで見ただけなのかも知れない。
リディアの年齢を、演じるケイト・ブランシェットと同じと仮定すると、バーンスタインの死去時にはまだ21歳。
少なくともプロの音楽家として、リディアが直接彼から薫陶を受けたとは考え難いからだ。
人生の岐路にさしかかった姉に、トニーは「自分がどこから来て、どこへ行くのかも分かってないようだけど」と言葉を投げかける。
人生の迷宮に彷徨うリディアは、最終的に東南アジアのある国で、イベントの指揮者としての仕事を得る。
劇中で国名は明示されないが、脚本にはフィリピンの記載があり、かつて“マーロン・ブランドの映画”が撮影され、持ち込まれたワニが逃げ出し川で繁殖しているというエピソードが出てくる。
ブランドの映画でフィリピンで撮影されたのは「地獄の黙示録」だけであり、この映画もまた主人公がジャングルという緑の迷宮で彷徨う物語だった。
そしてリディアの仕事というのが、コスプレイヤーたちが集う、ビデオゲームの「モンスターハンター」のイベントコンサートなのである。
指揮台に立った彼女には、大きなヘッドセットが渡される。
ここでのリディアは、すでに時の支配者ではない。
ヘッドセットからはスクリーンに映し出される映像と、音楽を同期させるためのメトロノームの様な信号が送られているはずで、音楽の時間は彼女の預かり知らないところであらかじめ決められているのだ。
だがしかし、指揮者としての喜びを奪い取られ、屈辱的な仕事をしているはずの彼女は、妙に突き抜けた表情を見せているのである。
浮かび上がって見えて来るのは、音楽性を巡る長い旅。
リディアが演奏しようとして果たせなかったマーラーの交響曲第5番も、様々なトラブルを抱えウィーン・フィルを追われるように辞任したマーラーが、その後に書き上げた代表作。
見事な経歴を持つ名門オーケストラの指揮者として、全てをコントロールすることで完璧な人生を生きて来たリディアは、音楽家として本当に幸せだったのか。
鎧を全て剥ぎ取られ、何者でもない素の自分になった時、ようやく彼女はバーンスタインの語った音楽の理想に立てたのかも知れない。
第二の人生の初仕事が、“怪物“を狩るゲーム音楽であり、彼女が指揮するのが「新世界への旅たち」のシーンというのも意味深だ。
はたして本作は、全てを持っていた女性がキャンセル・カルチャーによって、全てを失うまでを描いた悲劇なのか。
それとも、理想化された自分によってガチガチに固められていた女性が、音楽家としての自由を取り戻すまでの物語なのか。
ちなみに、ラストが「モンスターハンター」のイベント会場だというのも、画面の中では説明がなく、エンドクレジットでようやく分かる。
映画を観ただけでは得られない情報は他にも多々あり、なかなかに挑戦的でイケズな作りである。
今回はうまみたっぷりのドイツビール、フランチスカーナーの「ヴァイスビア」をチョイス。
大麦の他に小麦50%ほど利用し伝統的な上面発酵製法で作られる、バイエルンを代表するヴァイスビア。
フルーティーで柑橘系を感じさせる香り、ホップ感は弱く苦みが少ないので、ビールが苦手な人でも飲める。
軽やかな味わいの一杯だ。
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異才 トッド・フィールド16年ぶりの新作は、天賦の才に恵まれたオーケストラ指揮者リディア・ターの転落を描く物語。
名門ベルリン・フィルハーモニー初の女性常任指揮者となったリディアは、就任以来の大仕事となるマーラーの交響曲第5番のライブ録音に向けて準備を進めている。
同棲婚の相手はフィルのコンサートマスターで、二人の間には子供もいて順風満帆な人生。
ところが彼女の日常と名声が、ある出来事をきっかけとして、砂上の楼閣の様に崩れてゆく。
タイトルロールのリディア・ターを演じるのは、やはり破滅型のキャラクターを演じた「ブルージャスミン」で、アカデミー主演女優賞に輝いたケイト・ブランシェット。
彼女の“妻”シャロンを「あの日のように抱きしめて」のニーナ・ホス、キーパーソンとなる助手のフランチェスカを「燃ゆる女の肖像」のノエミ・メルランが演じる。
一見すると実話かと思わされるくらいに、徹底的に作り込まれた設定と凝った作劇。
膨大な情報がさりげなく詰め込まれ、一度観ただけで全てを把握するのはほぼ不可能。
なるほど、評判通り一筋縄ではいかない大怪作である。
※核心部分に触れています。
ベルリン・フィル常任指揮者のリディア・ター(ケイト・ブランシェット)は、作曲の才能にも優れ、数々の賞に輝くクラッシック音楽界の寵児。
ニューヨークで開かれたイベントに出席した後、すぐにベルリンに戻り、今度はマーラーの交響曲第5番のライブ録音の準備を進める。
そんな多忙を極める彼女を支えるのが、フィルのコンサートマスターでもある妻のシャロン(ニーナ・ホス)と、アシスタントのフランチェスカ(ノエミ・メルラン)。
リディアは、欠員の出ていたチェロ奏者のオーディションで、ロシア人のオルガ(ソフィー・カウアー)を仮採用するが、彼女にエルガーのチェロ協奏曲のソリストのポジションを与えたことで、シャロンはリディアがオルガに惹かれていることに気づく。
そんな時、かつてリディアが設立した財団のフェローだったクリスタが自殺し、彼女の両親がリディアを告発する事件が起こる。
そしてジュリアード音楽院で授業を持つリディアが、アカハラを行っているように編集された動画が拡散され、オーケストラ内にも徐々に動揺が広がる。
リディアは自分でも気付かないうちに、スキャンダルの網に絡め取られてゆくのだが・・・・
この映画には、一度観ただけでは捉えきれない多くの情報が盛り込まれていて、一見関係のない情報が実は密接に結びついている。
私は初日に鑑賞し、その3日後にもう一度鑑賞したが、一回目の時には流してしまった点と点が繋がり、だいぶ作品解像度が上がったと思う。
72dpiが200dpiくらいにはなったと思うが、これを350dpiに持っていくのは更に複数回の鑑賞が必要だと思うので、現時点で言語化できる範囲でレビューしてみたい。
本作を鑑賞する前は、成功した女性指揮者がパワハラで破滅する物語だと聞いていたのだが、これは思いっきりミスリードだ。
いや、確かにリディアが恣意的に人事権を行使している様に見えなくもないのだが、あくまでもそう解釈することも可能というレベル。
少なくとも画面上では、彼女はハラスメントを行っていない。
例えば、副指揮者のセバスチャンの解任に関しては、ニューヨークで投資家兼アマチュア指揮者のエリオット・カプランと会話した時に、すでにその話が出ている。
マーラーの5番のリハーサルでの出来事はダメ押しであって、セバスチャンが副指揮者としては力不足なのはリディア以外にも認識されていたこと。
後任にフランチェスカを選ばなかったのは、オーケストラの一部でリディアが彼女を贔屓しているという声があったからで、むしろ公平性に気を遣っていることが分かる。
フランチェスカにとっては、失望する結果となったが、あちらを立てればこちらが立たずは組織運営にはつきものの話。
オルガの選抜に関しては、確かに彼女を気に入ってはいるのだろうが、それが性的なものかは想像でしかなく、彼女の実力は他のメンバーも認めている。
ジュリアードで、バッハは女性蔑視の白人男性だと揶揄した男子学生に対して、音楽家が音楽とどう向き合うべきなのかと諭したシーンは、言葉はキツ過ぎるが内容としては当たり前の話だ。
ただし、クリスタの件に関しては過去に何らかの問題があったのは事実だろう。
冒頭のイベント会場で、後ろ姿が描写されるだけのクリスタ(彼女と明示されてはいない)は、以降一度も画面に登場しないが、影のようにリディアのキャリアにつきまとう。
フランチェスカとクリスタは、リディアが優れた女性指揮者を育成するため設立した財団のフェローで、過去にペルーの民族音楽を研究するリディアのフィールドワークに同行していた。
映画の冒頭に長めのオープニングクレジットがあるのだが、この時流れている音声がこのフィールドワーク時のものだろう。
具体的には描かれないものの、そこで三人の間に何かが起こり、クリスタは精神を病んでゆく。
オープニングクレジットに続くイベントで、リディアを賞賛する紹介文をフランチェスカが暗記していることから、この紹介文を書いたのは彼女。
フランチェスカは、副指揮者の地位を得るためにリディアに師事しているが、有能なアシスタントを演じていても、リディアを信頼してはいないのは彼女のプライベートを写したチャット画面からも想像できる。
この画面の撮影者は、フランチェスカしか有り得ないし、チャットの相手もリディアを知っていて、辛辣な言葉を投げかけているので、おそらくクリスタ。
ヴィタ・サックヴィル=ウェストの小説「Challenge」を、リディアに送ったのもクリスタだろう。
両性愛者だったサックヴィル=ウエストが、家族を捨てて恋人のヴァイオレット・ケッペル=トレフューシスと駆け落ちした時期に書いた小説なので、クリスタとリディアの間には何らかの色恋沙汰があったのかも知れない。
本の最初のページに、迷路のような奇妙なイラストが描き込まれていて、それ見たリディアは突然怒って破り捨てる。
この“迷路“は、三人がフィールドワークを行ったシピボ・コニボ族の伝統紋様なのだが、最初に本作を鑑賞して、海外のレビューを巡っていた時にRedditで見つけたのが主人公のター(TAR)とは、ギリシャ神話のミノタウロス(Minotaur)の暗喩ではないかと言う指摘。
王妃パーシパエーと海神ポセイドンの牡牛が姦通して生まれた牛頭の獣人で、あまりの暴虐ぶりに迷宮に封じられ、9年毎に7人の少年と7人の少女を喰らう怪物。
なるほど、クリスタが迷路の紋様という共通の記憶を使って、リディアをミノタウロスに喩えたなら腑に落ちる。
このイラストは、のちに聴覚過敏に陥ったリディアが、就寝中にメトロノームが動いているのに気付く(おそらくは妄想)シーンにも登場している。
またオルガを探して、廃墟のようなアパートの地下を彷徨うシーンは、まさに迷宮のイメージだ。
物語の序盤では、リディアは全く迷っていない。
冒頭のイベントで、司会者から「人々は、指揮者は人間メトロノームみたいなものと思っている」と言われたリディアは、そのことを否定せずに、「時間こそ(音楽の)解釈の重要な要素だ」と語る。
指揮者は、メトロノームのような一定のリズムを作ることもできるし、時計の針を止めるか、進めるかを決定する存在。
音楽における時の支配者であり、彼女の世界も完璧にコントロールされている。
ところが、クリスタによって、リディアの人生が徐々に狂ってゆくと、彼女を取り巻く“音“も思い通りにならなくなる。
公園で聞こえる女性の悲鳴、仕事中にどこからか聞こえてくるチャイムの音、前記した就寝中に聞こえるメトロノームの音、冷蔵庫の微細な機械音など、味方のはずの音が彼女の人生をかき乱し、心を削ってゆく。
SNSで尾鰭がついたスキャンダルは、リディアから仕事を奪い、それがますます精神的に彼女を追い詰める悪循環に陥る。
重要なターニングポイントが、ベルリンを追われたリディアが、ニューヨークのスタテン島にある実家を訪れるシーンだ。
彼女はストレージの中の膨大なビデオテープを見つけ出すのだがこれは、冒頭のイベントで師弟関係にあると語ったレナード・バーンスタインのコンサートを納めたテープ。
彼が音楽の本質と喜びを語る姿を見て、リディアはその言葉を噛み締め涙を流すのだが、直後に帰宅した弟トニーとの会話で、初めて彼女の本名がヨーロッパ風の“リディア”ではなく、いかにもアメリカ的な“リンダ”であることが明かされる。
私はこのシーンをみて、二十世紀を代表するフォトジャーナリスト、ロバート・キャパのことを思い出した。
ハンガリー出身の売れない写真家だったフリードマン・エンドレは、恋人のゲルダ・タローと共に偉大なアメリカ人戦場カメラマン、ロバート・キャパなる架空の人物を作り出し、その人生を生きた。
もしかすると、キャパと同様に彼女の輝かしい経歴もかなりの部分が詐称で、バーンスタインはビデオで見ただけなのかも知れない。
リディアの年齢を、演じるケイト・ブランシェットと同じと仮定すると、バーンスタインの死去時にはまだ21歳。
少なくともプロの音楽家として、リディアが直接彼から薫陶を受けたとは考え難いからだ。
人生の岐路にさしかかった姉に、トニーは「自分がどこから来て、どこへ行くのかも分かってないようだけど」と言葉を投げかける。
人生の迷宮に彷徨うリディアは、最終的に東南アジアのある国で、イベントの指揮者としての仕事を得る。
劇中で国名は明示されないが、脚本にはフィリピンの記載があり、かつて“マーロン・ブランドの映画”が撮影され、持ち込まれたワニが逃げ出し川で繁殖しているというエピソードが出てくる。
ブランドの映画でフィリピンで撮影されたのは「地獄の黙示録」だけであり、この映画もまた主人公がジャングルという緑の迷宮で彷徨う物語だった。
そしてリディアの仕事というのが、コスプレイヤーたちが集う、ビデオゲームの「モンスターハンター」のイベントコンサートなのである。
指揮台に立った彼女には、大きなヘッドセットが渡される。
ここでのリディアは、すでに時の支配者ではない。
ヘッドセットからはスクリーンに映し出される映像と、音楽を同期させるためのメトロノームの様な信号が送られているはずで、音楽の時間は彼女の預かり知らないところであらかじめ決められているのだ。
だがしかし、指揮者としての喜びを奪い取られ、屈辱的な仕事をしているはずの彼女は、妙に突き抜けた表情を見せているのである。
浮かび上がって見えて来るのは、音楽性を巡る長い旅。
リディアが演奏しようとして果たせなかったマーラーの交響曲第5番も、様々なトラブルを抱えウィーン・フィルを追われるように辞任したマーラーが、その後に書き上げた代表作。
見事な経歴を持つ名門オーケストラの指揮者として、全てをコントロールすることで完璧な人生を生きて来たリディアは、音楽家として本当に幸せだったのか。
鎧を全て剥ぎ取られ、何者でもない素の自分になった時、ようやく彼女はバーンスタインの語った音楽の理想に立てたのかも知れない。
第二の人生の初仕事が、“怪物“を狩るゲーム音楽であり、彼女が指揮するのが「新世界への旅たち」のシーンというのも意味深だ。
はたして本作は、全てを持っていた女性がキャンセル・カルチャーによって、全てを失うまでを描いた悲劇なのか。
それとも、理想化された自分によってガチガチに固められていた女性が、音楽家としての自由を取り戻すまでの物語なのか。
ちなみに、ラストが「モンスターハンター」のイベント会場だというのも、画面の中では説明がなく、エンドクレジットでようやく分かる。
映画を観ただけでは得られない情報は他にも多々あり、なかなかに挑戦的でイケズな作りである。
今回はうまみたっぷりのドイツビール、フランチスカーナーの「ヴァイスビア」をチョイス。
大麦の他に小麦50%ほど利用し伝統的な上面発酵製法で作られる、バイエルンを代表するヴァイスビア。
フルーティーで柑橘系を感じさせる香り、ホップ感は弱く苦みが少ないので、ビールが苦手な人でも飲める。
軽やかな味わいの一杯だ。

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2023年05月12日 (金) | 編集 |
曲者たち、それぞれの旅立ち。
マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の“ローリングストーンズ”こと、銀河のはみ出し者軍団「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の活躍を描く三部作完結編。
2014年の初登場以来、主に地球を舞台としたアベンジャーズ系の作品ともユーモア担当としてコラボしながら続いてきたが、シリーズの生みの親であるジェームズ・ガン監督の、ライバルDCエクステンデッド・ユニバース(DCEU)への移籍と共に、一応の幕引きに。
相変わらずクセの強い、アンチヒーローたちによるお笑いスペースオペラは、シリーズの大団円に相応しい圧巻の盛り上がりを見せる。
ガーディアンズのメンバー他主要キャスト、ジェームズ・ガン監督以下主要スタッフもほぼ続投。
前作の「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス」でスター・ロードのオリジンを探す旅は終わったので、今回フィーチャーされるのは暴れアライグマのロケットの過去だ。
チュク・イウジ演じるマッドサイエンティストのハイ・エボリューショナリーが、ある意味サノスよりもえげつないヴィランとして、ガーディアンズの前に立ちはだかる。
※核心部分に触れています。
サノスを倒してガモーラ(ゾーイ・サルダナ)が生き返ったものの、自分とのロマンチックな記憶が失われたことにスター・ロードことピーター・クイル(クリス・プラット)はショックを受け、自暴自棄に。
そんな時、ノーウェアがソヴリン人の戦士アダム・ウォーロック(ウィル・ポールター)に襲撃され、ロケット(V.C.ブラッドリー・クーパー)が重傷を負ってしまう。
ロケットの体には治療を拒むキルスイッチが仕込まれており、解除しないと助からない。
解除コードがオルゴ・コープ社のテクノロジーであることを知ったガーディアンズは、オルゴ・コープの本社に潜入して盗み出すが、すでにコードは削除されていた。
コードを持っているのが幹部のティールであることが分かり、ガーディアンズは彼がいるカウンターアースへと向かう。
地球そっくりのカウンターアースは、オルゴ・コープを率いるハイ・エボリューショナリー(チュク・イウジ)が創造した世界で、彼は完璧な生物による完璧な社会を作ることを目論んでいた。
ハイ・エボリューショナリーは理想郷を作るために、動物を強制的に進化させる残酷な実験を繰り返していて、ロケットも彼の“作品“の一つだったのだ・・・
ジェームズ・ガンは外さないとは思っていたが、見事な三部作の大団円は、「アベンジャーズ/エンドゲーム」「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」と並ぶ、MCUのベスト。
アベンジャーズ系に客演する時以外、ほぼ独立したシリーズだったが、今回もキッチリ「GotG」の世界だけで完結する。
全員が訳ありで、何らかの傷を抱えるガーディアンズの面々が、仲間を救う冒険の果てに、新たな旅立ちを迎える物語。
キャラクターの役割的にはロケットが主人公で、見た目アライグマの彼が、いつどこで人間以上の知的生物になったのか、本当の出自が明かされる。
北米産のアライグマの子供が、イカれたマッドサイエンティストに魔改造されて、創造主以上の知性を持つ。
共に囚われていた動物の仲間と共に、いつか自由な世界に開放されると信じていたが、全てを裏切られて脱走するも、彼の体には言わば創造主の刻印として、キルスイッチが埋め込まれているのだ。
ここで登場する本作のヴィラン、ハイ・エボリューショナリーがえぐい。
ナルシストで残酷な創造主は、完璧な理想社会を作り上げるという欲求に取り憑かれている。
そのために必要なのが、完璧な住人というわけで、動物をベースに魔改造を繰り返しているのである。
いわばH•G・ウェルズの「モロー博士の島」の主人公の、宇宙版みたいな人物だ。
しかも欠陥があると、創造した世界ごと全てを滅ぼしちゃう。
MCUの最凶ヴィランといえばサノスだが、宇宙の生命の半分を消すという彼の企みは、宇宙は人口過剰でこのままだと滅びるからという、彼なりの信念と正義があった。
対してこちらは、神様気取りの男の単なるワガママなのでむしろタチが悪い。
ロケットも途中段階の欠陥品のはずだったのだが、なぜかその知性はハイ・エボリューショナリーをも超えている。
ワガママな創造主には、創造物が自分よりも上であるという事実が許せないので、かつて自分が作ったソヴリン人のアダム・ウォーロックを使って殺害、脳だけを回収しようとする。
端的に言えば悲しい過去を持つロケットが、創造主のくびきを逃れ真の自由を獲得する物語なんだが、ロケット自身は大怪我をして動けないので、終盤までは昏睡状態の彼の過去を紐解きつつガーディアンズの面々が頑張る構造。
その過程で、それぞれのキャラクターの抱えていた問題も少しずつ解消し、新たなステップへの旅立ちの準備を終える。
近しい人たちを亡くし過ぎて、今の関係に執着するクイルは、過去と向き合う覚悟を固める。
常に誰かに依存して生きてきたマンティスは、自らの足で歩み出す決意をする。
中でも、かつて家族を殺されたドラッグスが、ネビュラから彼の“本当の役割“を示唆されるのはずっとシリーズを追ってきたファンにとっても感涙もの。
もちろん彼らだけじゃなく、全てのキャラクターが立ちまくっている。
アベンジャーズみたいな全員主役級じゃないからこそ、欠点のある推したちのカッコいいことったら。
特に大きな変化をするのが、本作の主人公たるロケットで、それにはこのシリーズのもう一つの主役でもある「音楽」が紐づけられている。
前作でヨンドゥが手に入れ、クイルに渡ったZuneが重要なキーアイテム。
元々ロケットは、ガーディアンズの中でも音楽に興味を見せないキャラクターだったが、その理由も本作で明らかに。
幼い頃のロケットが、カウンターアースを見渡すハイ・エボリューショナリーの部屋で、はじめて音楽に触れるシーンがある。
その時にハイ・エボリューショナリーは、流れている音楽の内容を「ありのままの自分ではなく、あるべき姿であれ」と説明する。
これは今なおロケットを苦しめる創造主の思想そのもので、つまり彼にとって音楽とはトラウマであって、決して楽しいものではないのである。
そして自らの過去との戦いを経て、クイルからZuneを受け継いだロケットは、ノーウェアのスピーカーからフローレンス・アンド・ザ・マシーンの「Dog Days Are Over」を流し、「ありのままで」を絵に描いたような、多種多様な住人たちと共に楽しそうに踊る。
ここでの音楽は、彼にとってもはや過去の呪縛ではないのだ。
ガーディアンズの活躍によって、ロケット同様に偽りの創造主から解放されたヒューマノイドの子供たちと実験用の動物たちが、ノーウェアに逃れるのはノアの方舟のイメージか。
さっきまで戦ってた敵が、セカンドチャンスを与えられて、すぐに仲間になっちゃうと言うジャンプ漫画的な展開も、いい意味で胸アツな浪花節がウリのシリーズならでは。
感情の盛り上げにやっぱり登場人物の喪失を持ってくるあたりは、相変わらずベタだなと思うが、キャラクター揃い踏みの一気呵成なクライマックスに向けて、最高のきっかけになっていることは間違いない。
敵を倒してスカッと終わりだけじゃなくて、じんわりと噛み締めたいウェットな部分も含めて、ジェームズ・ガンは「GotG」の創造主として、見事に大人も子供も楽しめる最高のスペースオペラに仕上げている。
トロマ出身のホラー者らしいグロ趣味は、若干苦手な人もいるかも知れないが。
しかし結構な要素を、昨年末からディズニー+で配信されている「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー ホリデー・スペシャル」から引っ張って来てるので、可能ならこれを観ておいた方がいいだろう。
ケビン・ベーコンのエイリアン・アブダクションのネタとか、ホリディースペシャル観てないと絶対に分かんない(笑
今回は、ホップ感あふれる刺激的なビール「ストーンIPA」をチョイス。
アメリカンクラフトビールの聖地、カリフォルニア州のサンディエゴに1996年の創業した代表的なIPA銘柄。
IPAとはインディアンペールエールの略で、元々はイギリスからインドに長期間かけて輸送するためにホップを大量に使用したビールのこと。
三種類のホップが作り出す、IPAの名に恥じぬ強烈なホップ感と共に、フルーティーで複雑なアロマが広がってゆく。
ガーディアンズに相応しい、クールな味わいの一本だ。
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マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)の“ローリングストーンズ”こと、銀河のはみ出し者軍団「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」の活躍を描く三部作完結編。
2014年の初登場以来、主に地球を舞台としたアベンジャーズ系の作品ともユーモア担当としてコラボしながら続いてきたが、シリーズの生みの親であるジェームズ・ガン監督の、ライバルDCエクステンデッド・ユニバース(DCEU)への移籍と共に、一応の幕引きに。
相変わらずクセの強い、アンチヒーローたちによるお笑いスペースオペラは、シリーズの大団円に相応しい圧巻の盛り上がりを見せる。
ガーディアンズのメンバー他主要キャスト、ジェームズ・ガン監督以下主要スタッフもほぼ続投。
前作の「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス」でスター・ロードのオリジンを探す旅は終わったので、今回フィーチャーされるのは暴れアライグマのロケットの過去だ。
チュク・イウジ演じるマッドサイエンティストのハイ・エボリューショナリーが、ある意味サノスよりもえげつないヴィランとして、ガーディアンズの前に立ちはだかる。
※核心部分に触れています。
サノスを倒してガモーラ(ゾーイ・サルダナ)が生き返ったものの、自分とのロマンチックな記憶が失われたことにスター・ロードことピーター・クイル(クリス・プラット)はショックを受け、自暴自棄に。
そんな時、ノーウェアがソヴリン人の戦士アダム・ウォーロック(ウィル・ポールター)に襲撃され、ロケット(V.C.ブラッドリー・クーパー)が重傷を負ってしまう。
ロケットの体には治療を拒むキルスイッチが仕込まれており、解除しないと助からない。
解除コードがオルゴ・コープ社のテクノロジーであることを知ったガーディアンズは、オルゴ・コープの本社に潜入して盗み出すが、すでにコードは削除されていた。
コードを持っているのが幹部のティールであることが分かり、ガーディアンズは彼がいるカウンターアースへと向かう。
地球そっくりのカウンターアースは、オルゴ・コープを率いるハイ・エボリューショナリー(チュク・イウジ)が創造した世界で、彼は完璧な生物による完璧な社会を作ることを目論んでいた。
ハイ・エボリューショナリーは理想郷を作るために、動物を強制的に進化させる残酷な実験を繰り返していて、ロケットも彼の“作品“の一つだったのだ・・・
ジェームズ・ガンは外さないとは思っていたが、見事な三部作の大団円は、「アベンジャーズ/エンドゲーム」「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」と並ぶ、MCUのベスト。
アベンジャーズ系に客演する時以外、ほぼ独立したシリーズだったが、今回もキッチリ「GotG」の世界だけで完結する。
全員が訳ありで、何らかの傷を抱えるガーディアンズの面々が、仲間を救う冒険の果てに、新たな旅立ちを迎える物語。
キャラクターの役割的にはロケットが主人公で、見た目アライグマの彼が、いつどこで人間以上の知的生物になったのか、本当の出自が明かされる。
北米産のアライグマの子供が、イカれたマッドサイエンティストに魔改造されて、創造主以上の知性を持つ。
共に囚われていた動物の仲間と共に、いつか自由な世界に開放されると信じていたが、全てを裏切られて脱走するも、彼の体には言わば創造主の刻印として、キルスイッチが埋め込まれているのだ。
ここで登場する本作のヴィラン、ハイ・エボリューショナリーがえぐい。
ナルシストで残酷な創造主は、完璧な理想社会を作り上げるという欲求に取り憑かれている。
そのために必要なのが、完璧な住人というわけで、動物をベースに魔改造を繰り返しているのである。
いわばH•G・ウェルズの「モロー博士の島」の主人公の、宇宙版みたいな人物だ。
しかも欠陥があると、創造した世界ごと全てを滅ぼしちゃう。
MCUの最凶ヴィランといえばサノスだが、宇宙の生命の半分を消すという彼の企みは、宇宙は人口過剰でこのままだと滅びるからという、彼なりの信念と正義があった。
対してこちらは、神様気取りの男の単なるワガママなのでむしろタチが悪い。
ロケットも途中段階の欠陥品のはずだったのだが、なぜかその知性はハイ・エボリューショナリーをも超えている。
ワガママな創造主には、創造物が自分よりも上であるという事実が許せないので、かつて自分が作ったソヴリン人のアダム・ウォーロックを使って殺害、脳だけを回収しようとする。
端的に言えば悲しい過去を持つロケットが、創造主のくびきを逃れ真の自由を獲得する物語なんだが、ロケット自身は大怪我をして動けないので、終盤までは昏睡状態の彼の過去を紐解きつつガーディアンズの面々が頑張る構造。
その過程で、それぞれのキャラクターの抱えていた問題も少しずつ解消し、新たなステップへの旅立ちの準備を終える。
近しい人たちを亡くし過ぎて、今の関係に執着するクイルは、過去と向き合う覚悟を固める。
常に誰かに依存して生きてきたマンティスは、自らの足で歩み出す決意をする。
中でも、かつて家族を殺されたドラッグスが、ネビュラから彼の“本当の役割“を示唆されるのはずっとシリーズを追ってきたファンにとっても感涙もの。
もちろん彼らだけじゃなく、全てのキャラクターが立ちまくっている。
アベンジャーズみたいな全員主役級じゃないからこそ、欠点のある推したちのカッコいいことったら。
特に大きな変化をするのが、本作の主人公たるロケットで、それにはこのシリーズのもう一つの主役でもある「音楽」が紐づけられている。
前作でヨンドゥが手に入れ、クイルに渡ったZuneが重要なキーアイテム。
元々ロケットは、ガーディアンズの中でも音楽に興味を見せないキャラクターだったが、その理由も本作で明らかに。
幼い頃のロケットが、カウンターアースを見渡すハイ・エボリューショナリーの部屋で、はじめて音楽に触れるシーンがある。
その時にハイ・エボリューショナリーは、流れている音楽の内容を「ありのままの自分ではなく、あるべき姿であれ」と説明する。
これは今なおロケットを苦しめる創造主の思想そのもので、つまり彼にとって音楽とはトラウマであって、決して楽しいものではないのである。
そして自らの過去との戦いを経て、クイルからZuneを受け継いだロケットは、ノーウェアのスピーカーからフローレンス・アンド・ザ・マシーンの「Dog Days Are Over」を流し、「ありのままで」を絵に描いたような、多種多様な住人たちと共に楽しそうに踊る。
ここでの音楽は、彼にとってもはや過去の呪縛ではないのだ。
ガーディアンズの活躍によって、ロケット同様に偽りの創造主から解放されたヒューマノイドの子供たちと実験用の動物たちが、ノーウェアに逃れるのはノアの方舟のイメージか。
さっきまで戦ってた敵が、セカンドチャンスを与えられて、すぐに仲間になっちゃうと言うジャンプ漫画的な展開も、いい意味で胸アツな浪花節がウリのシリーズならでは。
感情の盛り上げにやっぱり登場人物の喪失を持ってくるあたりは、相変わらずベタだなと思うが、キャラクター揃い踏みの一気呵成なクライマックスに向けて、最高のきっかけになっていることは間違いない。
敵を倒してスカッと終わりだけじゃなくて、じんわりと噛み締めたいウェットな部分も含めて、ジェームズ・ガンは「GotG」の創造主として、見事に大人も子供も楽しめる最高のスペースオペラに仕上げている。
トロマ出身のホラー者らしいグロ趣味は、若干苦手な人もいるかも知れないが。
しかし結構な要素を、昨年末からディズニー+で配信されている「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー ホリデー・スペシャル」から引っ張って来てるので、可能ならこれを観ておいた方がいいだろう。
ケビン・ベーコンのエイリアン・アブダクションのネタとか、ホリディースペシャル観てないと絶対に分かんない(笑
今回は、ホップ感あふれる刺激的なビール「ストーンIPA」をチョイス。
アメリカンクラフトビールの聖地、カリフォルニア州のサンディエゴに1996年の創業した代表的なIPA銘柄。
IPAとはインディアンペールエールの略で、元々はイギリスからインドに長期間かけて輸送するためにホップを大量に使用したビールのこと。
三種類のホップが作り出す、IPAの名に恥じぬ強烈なホップ感と共に、フルーティーで複雑なアロマが広がってゆく。
ガーディアンズに相応しい、クールな味わいの一本だ。

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2023年05月08日 (月) | 編集 |
せかいは、どこまでも続いてる。
阪本順治監督が幕末の江戸を舞台に、社会の最下層で生きる若者たちをオリジナル脚本で描いた異色の時代劇。
激動の時代、厳しい現実に翻弄されながらも、彼らは青春を謳歌し逞しく生きてゆく。
モノクロ・スタンダードという今時珍しいフォーマットで描き出される、墨絵のような世界。
89分とコンパクトな上映時間は全九章に分かれ、各章の〆のカットにだけほんのりと色がつく。
美術監督の原田満生が企画とプロデュース、美術を兼ねているのだが、生活描写はさすが圧巻の作り込みだ。
タイトルロールの貧困層に転落した武家の娘、おきくを黒木華が演じ、彼女の想い人になる下肥(しもごえ)買いの青年、中次に寛一郎、相方の矢亮を池松壮亮が演じる。
安政五年、江戸の寺子屋で読み書きを教えているおきく(黒木華)は、もともと武家の娘だが、父の源兵衛(佐藤浩市)が上役の不義を告発したことで失脚。
屋敷を追われた父と共に、木挽町で長屋暮らしを余儀なくされている。
ある日、雨に降られたおきくは、厠のひさしの下で雨宿りをしていた紙くず拾いの中次(寛一郎)と下肥買いの矢亮(池松壮亮)に出会う。
中次は儲からない紙くず拾いから下肥買いに転職し、おきくの長屋も担当することに。
歳も近く、共に江戸の底辺を生きる三人は、徐々に心を通じ合い親しくなってゆく。
だがある時、源兵衛が刺客によって斬殺され、父を守ろうとしたおきくも喉を切られ、声を失う。
長い療養生活の後に、失意のおきくは長屋に戻って来たが、部屋に引きこもってしまう。
心配した中次は、何かにつけて世話を焼くようになるのだが・・・・
本作の企画は、原田満生が「YOIHI PROJECT」を立ち上げたことからはじまったという。
百年後の地球に残したい「良い日」を、映画という手段で伝えるという啓蒙的プロジェクト。
江戸の循環社会をモチーフにした作品を作りたいということで、2020年に撮影されたのが「第七章 せかいのおきく」だった。
これをパイロット版として出資を募り、次に作られたのが「第六章 そして舟はゆく」で、ここでようやく目処がつき、全体の脚本を書き準備を整えることが出来たというから、長編映画としてはかなり特異な経緯で作られた作品なのが分かる。
また作品の趣旨に沿って、美術や衣装にも古材を使用し、本作の撮影後も再利用可能な状態にしてあるそうで、この映画そのものが循環型の制作体制というユニークな試みをしている。
物語の中で、今まさに刺客たちとの死闘に赴こうとする源兵衛が、長屋の厠に汲み取りに来た中次に「なあ、“せかい”って言葉知ってるか」と問いかける。
学がない中次が知らないと答えると、空を仰いだ源兵衛は、「この空の涯はどこだかわかるか、涯なんてねえんだ。それが“せかい”だ」「惚れた女ができたら云ってやれ、おれは“せかい”で一番おめぇがすきだって」と繋げる。
これは、本作の世界観を象徴する描写だ。
彼らが今いる場所は、江戸の街のヒエラルキーの底の底たる貧乏長屋。
それも不浄の厠である。
だが、そこからでも“せかい”は見えているのだ。
底辺であえぐミニマルな若者たちの長屋暮らしを描きながら、スクリーンの向こうには広大な江戸の街、そのまた向こうには”せかい”を感じさせる独特のスケール感。
おきくたちの物語は、安政五年(1858年)の晩夏にはじまり、三年後の文久元年(1861年)の晩春で終わる。
武士の世界では、この年四月に幕府大老に就任した井伊直弼が日米修好通商条約を締結し、反対派を弾圧した安政の大獄で粛清の嵐が吹き荒れ、安政七年には桜田門外の変が起こり直弼が暗殺される。
十二世紀から続く武士の世が間もなく終わりをつげ、日本が二百年の鎖国を解き、今まさに“せかい”に開かれることになった大変な激動期である。
しかし、どんなに社会が変わろうとも、生物としての人間は変わりようがない。
映画がはじまっていきなり映し出される「序章 江戸のうんこはいずこへ」が示唆するように、本作のバックボーンとなるのが、食って寝て出すという人間の営み。
これだけはお城の将軍さまも長屋の貧困層も、やることは変わらない。
百万人の人口を抱えた大都市・江戸を陰で支えていたのが、下肥買いとも呼ばれた汚穢屋という職業だ。
江戸への人口流入が増えると共に、近郊の農村地帯ではより多くの食料を、効率的に生産する必要が出てくる。
そのためには質の高い肥料が必要となり、江戸中の厠からうんこを買い取り、有機肥料として農村地帯に売っていたのが汚穢屋だ。
江戸から排出される膨大なうんこは船で運ばれ、その栄養で育った野菜は逆コースで江戸へ運ばれ消費され、新たなうんことなって戻ってくるという見事な循環経済。
物語の冒頭で、中次は紙くず拾いをしているが、これもお尻を拭く浅草紙に再生するため捨てられた紙くずを集める仕事なので、人間の根源的な“生産”としてとことんうんこにこだり、ある意味うんこが主役の映画なのだ。
厠に入れは人は平等で、出すものも変わらない。
にもかかわらず、人々の生活を支える汚穢屋は謂れのない差別を受け、武士としてキッチリと筋を通した源兵衛は殺され、親を守ろうとしたおきくは声を失う。
理不尽がまかり通る世間の現実はくそよりくそだが、それでも人間は生きていかねばならない。
困難な時代の貧しい若者たちは、時にささやかな野望を心に、時にほのかな恋心を胸に、お互いに支え合って荒波を渡ってゆく。
しかし振り返って現在の日本を見てみても、ぶっちゃけ状況は大して変わらない。
うんこも売れない世の中で懸命に生きる我々には、苦しみながらも青春を満喫する江戸の若者たちがちょっと羨ましくすら見える。
寛一郎演じる中次のイケメンぷりもいいが、とにかく恋に恋するおきくが可愛すぎる。
ある夜、寺子屋で使う手本を準備していたおきくは「ちゅうぎ(忠義)」と書こうとするが、無意識に仕上がったのは「ちゅうじ」だった。
自分の心の声の発露にしばし呆然として、次の瞬間笑みがこぼれて悶絶するおきくの、なんとキュートなことか。
こんな可愛い黒木華は見たことないぞ。
人間の抱える葛藤など、いつの時代も基本的には同じ。
あー、青春だなぁ、羨ましいなぁ。
燻銀の魅力のある本作には、日本から“せかい”に羽ばたいていった国産ウィスキー、 ニッカウヰスキーの「シングルモルト 余市」をチョイス。
竹鶴政孝が理想の地として選んだ、北海道夜市の蒸留所で作られる定番のシングルモルト。
重厚で複雑な深みのある味わいと、スモーキーな余韻が長く続く。
二世紀前の、爽やかだけどちょっと臭い青春に思いを馳せよう。
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阪本順治監督が幕末の江戸を舞台に、社会の最下層で生きる若者たちをオリジナル脚本で描いた異色の時代劇。
激動の時代、厳しい現実に翻弄されながらも、彼らは青春を謳歌し逞しく生きてゆく。
モノクロ・スタンダードという今時珍しいフォーマットで描き出される、墨絵のような世界。
89分とコンパクトな上映時間は全九章に分かれ、各章の〆のカットにだけほんのりと色がつく。
美術監督の原田満生が企画とプロデュース、美術を兼ねているのだが、生活描写はさすが圧巻の作り込みだ。
タイトルロールの貧困層に転落した武家の娘、おきくを黒木華が演じ、彼女の想い人になる下肥(しもごえ)買いの青年、中次に寛一郎、相方の矢亮を池松壮亮が演じる。
安政五年、江戸の寺子屋で読み書きを教えているおきく(黒木華)は、もともと武家の娘だが、父の源兵衛(佐藤浩市)が上役の不義を告発したことで失脚。
屋敷を追われた父と共に、木挽町で長屋暮らしを余儀なくされている。
ある日、雨に降られたおきくは、厠のひさしの下で雨宿りをしていた紙くず拾いの中次(寛一郎)と下肥買いの矢亮(池松壮亮)に出会う。
中次は儲からない紙くず拾いから下肥買いに転職し、おきくの長屋も担当することに。
歳も近く、共に江戸の底辺を生きる三人は、徐々に心を通じ合い親しくなってゆく。
だがある時、源兵衛が刺客によって斬殺され、父を守ろうとしたおきくも喉を切られ、声を失う。
長い療養生活の後に、失意のおきくは長屋に戻って来たが、部屋に引きこもってしまう。
心配した中次は、何かにつけて世話を焼くようになるのだが・・・・
本作の企画は、原田満生が「YOIHI PROJECT」を立ち上げたことからはじまったという。
百年後の地球に残したい「良い日」を、映画という手段で伝えるという啓蒙的プロジェクト。
江戸の循環社会をモチーフにした作品を作りたいということで、2020年に撮影されたのが「第七章 せかいのおきく」だった。
これをパイロット版として出資を募り、次に作られたのが「第六章 そして舟はゆく」で、ここでようやく目処がつき、全体の脚本を書き準備を整えることが出来たというから、長編映画としてはかなり特異な経緯で作られた作品なのが分かる。
また作品の趣旨に沿って、美術や衣装にも古材を使用し、本作の撮影後も再利用可能な状態にしてあるそうで、この映画そのものが循環型の制作体制というユニークな試みをしている。
物語の中で、今まさに刺客たちとの死闘に赴こうとする源兵衛が、長屋の厠に汲み取りに来た中次に「なあ、“せかい”って言葉知ってるか」と問いかける。
学がない中次が知らないと答えると、空を仰いだ源兵衛は、「この空の涯はどこだかわかるか、涯なんてねえんだ。それが“せかい”だ」「惚れた女ができたら云ってやれ、おれは“せかい”で一番おめぇがすきだって」と繋げる。
これは、本作の世界観を象徴する描写だ。
彼らが今いる場所は、江戸の街のヒエラルキーの底の底たる貧乏長屋。
それも不浄の厠である。
だが、そこからでも“せかい”は見えているのだ。
底辺であえぐミニマルな若者たちの長屋暮らしを描きながら、スクリーンの向こうには広大な江戸の街、そのまた向こうには”せかい”を感じさせる独特のスケール感。
おきくたちの物語は、安政五年(1858年)の晩夏にはじまり、三年後の文久元年(1861年)の晩春で終わる。
武士の世界では、この年四月に幕府大老に就任した井伊直弼が日米修好通商条約を締結し、反対派を弾圧した安政の大獄で粛清の嵐が吹き荒れ、安政七年には桜田門外の変が起こり直弼が暗殺される。
十二世紀から続く武士の世が間もなく終わりをつげ、日本が二百年の鎖国を解き、今まさに“せかい”に開かれることになった大変な激動期である。
しかし、どんなに社会が変わろうとも、生物としての人間は変わりようがない。
映画がはじまっていきなり映し出される「序章 江戸のうんこはいずこへ」が示唆するように、本作のバックボーンとなるのが、食って寝て出すという人間の営み。
これだけはお城の将軍さまも長屋の貧困層も、やることは変わらない。
百万人の人口を抱えた大都市・江戸を陰で支えていたのが、下肥買いとも呼ばれた汚穢屋という職業だ。
江戸への人口流入が増えると共に、近郊の農村地帯ではより多くの食料を、効率的に生産する必要が出てくる。
そのためには質の高い肥料が必要となり、江戸中の厠からうんこを買い取り、有機肥料として農村地帯に売っていたのが汚穢屋だ。
江戸から排出される膨大なうんこは船で運ばれ、その栄養で育った野菜は逆コースで江戸へ運ばれ消費され、新たなうんことなって戻ってくるという見事な循環経済。
物語の冒頭で、中次は紙くず拾いをしているが、これもお尻を拭く浅草紙に再生するため捨てられた紙くずを集める仕事なので、人間の根源的な“生産”としてとことんうんこにこだり、ある意味うんこが主役の映画なのだ。
厠に入れは人は平等で、出すものも変わらない。
にもかかわらず、人々の生活を支える汚穢屋は謂れのない差別を受け、武士としてキッチリと筋を通した源兵衛は殺され、親を守ろうとしたおきくは声を失う。
理不尽がまかり通る世間の現実はくそよりくそだが、それでも人間は生きていかねばならない。
困難な時代の貧しい若者たちは、時にささやかな野望を心に、時にほのかな恋心を胸に、お互いに支え合って荒波を渡ってゆく。
しかし振り返って現在の日本を見てみても、ぶっちゃけ状況は大して変わらない。
うんこも売れない世の中で懸命に生きる我々には、苦しみながらも青春を満喫する江戸の若者たちがちょっと羨ましくすら見える。
寛一郎演じる中次のイケメンぷりもいいが、とにかく恋に恋するおきくが可愛すぎる。
ある夜、寺子屋で使う手本を準備していたおきくは「ちゅうぎ(忠義)」と書こうとするが、無意識に仕上がったのは「ちゅうじ」だった。
自分の心の声の発露にしばし呆然として、次の瞬間笑みがこぼれて悶絶するおきくの、なんとキュートなことか。
こんな可愛い黒木華は見たことないぞ。
人間の抱える葛藤など、いつの時代も基本的には同じ。
あー、青春だなぁ、羨ましいなぁ。
燻銀の魅力のある本作には、日本から“せかい”に羽ばたいていった国産ウィスキー、 ニッカウヰスキーの「シングルモルト 余市」をチョイス。
竹鶴政孝が理想の地として選んだ、北海道夜市の蒸留所で作られる定番のシングルモルト。
重厚で複雑な深みのある味わいと、スモーキーな余韻が長く続く。
二世紀前の、爽やかだけどちょっと臭い青春に思いを馳せよう。

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2023年05月04日 (木) | 編集 |
二人ならば、なんでも出来る!
これこそ、お客さんが観たかったマリオ。
ニューヨーク、ブルックリンで「スーパーマリオブラザーズ」を屋号に活動する配管工兄弟、マリオとルイージの活躍を描くファンタジーアニメーション。
観客は映画館でマリオたちと不思議な世界へと冒険に出て、スーパーマリオにドンキーコング、マリオカートと思い出の任天堂ワールドで遊び尽くす。
監督は「ティーン・タイタンズGOトゥ・ザ・ムービー」のアーロン・ホーバスと、同作の脚本家でもあるマイケル・ジェレニック、原語版ではクリス・プラットやアニャ・テイラー=ジョイらがV.Cを務める。
日本ではGWに合わせた公開となったが、先行公開された国々では「アナと雪の女王2」を破り、アニメーション映画のオープニング興収世界記録を樹立した。
1993年に作られた実写版「スーパーマリオ 魔界帝国の女神」の大失敗以来、実に30年ぶりとなる映画化である。
好きな人には悪いが、ぶっちゃけ前作の時は「こんなのはマリオじゃない」感が先に立って、映画として面白いつまらない以前に拒否反応が(つまらないけど)。
実際この映画以降、任天堂はハリウッドへのライセンス供与に慎重になったという。
あれから長い歳月が流れ、ワーナーと組んだ「名探偵ピカチュウ」が成功を収め、ユニバーサルスタジオにスーパー・ニンテンドー・ワールドが誕生したことで、ユニバーサル・ピクチャーズとの協議が進められ、子会社のイルミネーションとの共同で満を持しての再映画化が決まった。
90年代に幾つか作られたショボいゲーム映画第一世代と、本作やリメイク版「モータルコンバット」が違うのは、作る側も観る側も圧倒的に層が厚くなっていて、共通の”ゲーム的記憶"を持ってることだろう。
ファミコンが日本で発売されたのが、1983年のこと。
アメリカにはアタリショックで業界に激震が走った後の85年に上陸し、「スーパーマリオブラザーズ」がキラーコンテンツとなり、瞬く間に覇権を握る。
だが当時コンピューターゲームは新しい娯楽で、まだ「文化」と言えるほどの蓄積は無かった。
40年後の今ではゲームは映画を遥かに凌駕する規模の産業となり、50代以下でゲームをやったことのない人など皆無だろう。
その記憶の蓄積は「シュガー・ラッシュ」など、映画でゲーム史がオマージュされるほどになった。
もはや「スーパーマリオブラザーズ」のタイトルは、クリエティブ業界の誰もが思い出と共にリスペクトする対象なのだ。
最初のゲームが出てから38年、ざっくり数えても三世代に渡る顧客がいる。
本作も、オリジナルのゲームに忠実に、世界観を壊さないようにどこまでも正攻法で作られている。
批評家受けが悪いのは当然だろう。
人間ドラマは、現実世界で負け犬扱いされているマリオの成長物語として最低限組み込まれているが、類型的だし深みもない。
どこかのスタジオの様に、「政治的に正しい描写」を無理やり突っ込むこともしない。
その分、どこまでもお客様ファーストで、カラフルでワクワクする不思議な世界で、とことん楽しい体験ができるのだ。
本作の作者たちも観に来る人たちも、もうゲームが子供の頃の大切な宝物になってる世代。
あの頃に「ホントにマリオがいたらこんなだろうな」と、頭の中で思い描いた世界がそのまんまここにあるのだから、そりゃあ大ヒットするわ。
最初は原語版にしたかったので通常スクリーンで鑑賞したが、二周目は4DX3Dで。
分かってたけど4DXとの親和性抜群で、マリオカートのシークエンスなんか完全に遊園地のライド感覚で、むっちゃ楽しい。
エンドクレジット後にも、次回作を示唆する映像あり。
今回は、ピーチ姫LOVEのクッパ大王がちょっと可哀想なので「イノセント・ラブ 」をチョイス。
ミルク・リキュール20ml、ホワイト・ラム20ml、ピーチ・リキュール20ml、レモン・リキュール1tspを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
ウェディングドレスの様な純白のカクテルで、ピーチ・リキュールも入ってるし。
クッパの傷心を癒すのにピッタリでしょ(笑
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これこそ、お客さんが観たかったマリオ。
ニューヨーク、ブルックリンで「スーパーマリオブラザーズ」を屋号に活動する配管工兄弟、マリオとルイージの活躍を描くファンタジーアニメーション。
観客は映画館でマリオたちと不思議な世界へと冒険に出て、スーパーマリオにドンキーコング、マリオカートと思い出の任天堂ワールドで遊び尽くす。
監督は「ティーン・タイタンズGOトゥ・ザ・ムービー」のアーロン・ホーバスと、同作の脚本家でもあるマイケル・ジェレニック、原語版ではクリス・プラットやアニャ・テイラー=ジョイらがV.Cを務める。
日本ではGWに合わせた公開となったが、先行公開された国々では「アナと雪の女王2」を破り、アニメーション映画のオープニング興収世界記録を樹立した。
1993年に作られた実写版「スーパーマリオ 魔界帝国の女神」の大失敗以来、実に30年ぶりとなる映画化である。
好きな人には悪いが、ぶっちゃけ前作の時は「こんなのはマリオじゃない」感が先に立って、映画として面白いつまらない以前に拒否反応が(つまらないけど)。
実際この映画以降、任天堂はハリウッドへのライセンス供与に慎重になったという。
あれから長い歳月が流れ、ワーナーと組んだ「名探偵ピカチュウ」が成功を収め、ユニバーサルスタジオにスーパー・ニンテンドー・ワールドが誕生したことで、ユニバーサル・ピクチャーズとの協議が進められ、子会社のイルミネーションとの共同で満を持しての再映画化が決まった。
90年代に幾つか作られたショボいゲーム映画第一世代と、本作やリメイク版「モータルコンバット」が違うのは、作る側も観る側も圧倒的に層が厚くなっていて、共通の”ゲーム的記憶"を持ってることだろう。
ファミコンが日本で発売されたのが、1983年のこと。
アメリカにはアタリショックで業界に激震が走った後の85年に上陸し、「スーパーマリオブラザーズ」がキラーコンテンツとなり、瞬く間に覇権を握る。
だが当時コンピューターゲームは新しい娯楽で、まだ「文化」と言えるほどの蓄積は無かった。
40年後の今ではゲームは映画を遥かに凌駕する規模の産業となり、50代以下でゲームをやったことのない人など皆無だろう。
その記憶の蓄積は「シュガー・ラッシュ」など、映画でゲーム史がオマージュされるほどになった。
もはや「スーパーマリオブラザーズ」のタイトルは、クリエティブ業界の誰もが思い出と共にリスペクトする対象なのだ。
最初のゲームが出てから38年、ざっくり数えても三世代に渡る顧客がいる。
本作も、オリジナルのゲームに忠実に、世界観を壊さないようにどこまでも正攻法で作られている。
批評家受けが悪いのは当然だろう。
人間ドラマは、現実世界で負け犬扱いされているマリオの成長物語として最低限組み込まれているが、類型的だし深みもない。
どこかのスタジオの様に、「政治的に正しい描写」を無理やり突っ込むこともしない。
その分、どこまでもお客様ファーストで、カラフルでワクワクする不思議な世界で、とことん楽しい体験ができるのだ。
本作の作者たちも観に来る人たちも、もうゲームが子供の頃の大切な宝物になってる世代。
あの頃に「ホントにマリオがいたらこんなだろうな」と、頭の中で思い描いた世界がそのまんまここにあるのだから、そりゃあ大ヒットするわ。
最初は原語版にしたかったので通常スクリーンで鑑賞したが、二周目は4DX3Dで。
分かってたけど4DXとの親和性抜群で、マリオカートのシークエンスなんか完全に遊園地のライド感覚で、むっちゃ楽しい。
エンドクレジット後にも、次回作を示唆する映像あり。
今回は、ピーチ姫LOVEのクッパ大王がちょっと可哀想なので「イノセント・ラブ 」をチョイス。
ミルク・リキュール20ml、ホワイト・ラム20ml、ピーチ・リキュール20ml、レモン・リキュール1tspを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
ウェディングドレスの様な純白のカクテルで、ピーチ・リキュールも入ってるし。
クッパの傷心を癒すのにピッタリでしょ(笑

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2023年05月04日 (木) | 編集 |
人生は、どこまでも滑稽だ。
「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」のショーン・ベイカーが、落ちぶれた元ポルノスターの男を主人公に、人生の一発逆転を目指して悪戦苦闘する様を描く。
舞台となるのは2016年のテキサス。
ポルノ界の自称スター男優のマイキーが、故郷のテキサスに住む別居中の妻レクシーの元に転がり込む。
二人は同郷で、一旗あげようと共にハリウッドに向かい、一時は夫婦でポルノスターとして成功するも破局。
今は故郷で母と暮らすレクシーを、ホームレスとなったマイキーが頼ったのだ。
ショーン・ベイカーの映画の主人公は、いつも人生どん詰まりにいて、必死に抗っている。
出世作となった「タンジェリン」では、クリスマスイブの日にトランスジェンダーの娼婦が、恋人の浮気を知った事から物語が始まる。
怒り心頭の彼女は、親友を皮切りに居場所不明の恋人、浮気相手の娼婦、タクシードライバーとその家族を次々にカオスな渦に巻き込み、最悪な1日を過ごすハメになる。
高い評価を得た「フロリダ・プロジェクト」では、家も仕事も失ってモーテルに長期滞在する20歳の母親が、6歳の娘を児童福祉局に奪われないために、ひたすら頑張る。
小銭を稼ぐ努力は焼け石に水なのだが、そのもどかしさが感情移入を誘う。
本作では実際に過去のポルノ出演がスキャンダルとなったことのある、サイモン・レックスがマイキーを好演するが、彼には金も家も仕事もない。
だが貧困に喘いでいるのは、頼った先のレクシーも同じ。
元々別居するくらいギグシャクしているので、簡単には受け入れてもらえない。
ポルノ一筋20年のキャリアでは、一般社会に仕事は見つからず、大麻の密売で細々稼ぎ、妻に”家賃”を支払う。
そんなマイキーの閉塞した人生が、ドーナツ屋でバイトする17歳の少女、その名も“ストロベリー”との出会いで動き出す。
彼女に天性の才能を見出したマイキーは、こともあろうにポルノ業界にスカウトし、売り出そうとするのである。
ついでに自分のカムバックもセットにして(笑
マイキーは、とにかく自分のことしか考えない。
頼るだけ頼って、ヤバくなったら逃げ出すクズ野郎なんだけど、どこか憎めない人たらし。
色々ひどいのだが、やってることが全部滑稽で、ワルになりきれない男なのだ。
感情移入は出来ないけど、マイキーに巻き込まれる周りの人たちも、基本ダメダメだけど人間味のある人たちなので、皆に落とし所が見つかって欲しいと思わせる。
ベイカーの映画にはそれぞれキーカラーがあり、「タンジェリン」ではタイトル通りオレンジで、「フロリダ・プロジェクト」ではパープルだった。
前二作ほど主張してこないが、本作のキーカラーはピンクだろう。
ストロベリーの住むパステルピンクの作り物っぽい家は、いわば「フロリダ・プロジェクト」における、すぐ近くにあるけど手の届かないテーマパークの様なもの。
彼女は本当にマイキーと来てくれるのか、彼の人生を救ってくれる天使なのか、彼自身にも分からない。
でも今のマイキーに出来るのは、妄想を募らせて夢を見ることだけなのだ。
舞台はプアホワイトの街で、時代はトランプ政権誕生前夜の2016年。
テレビのニュースでも大統領選の推移が流れている。
アメリカが進むべき道を見失って、分断された年を背景に、人生の岐路に迷った愛すべきダメ人間たちの、悲喜こもごもの狂想曲。
ある意味、「フロリダ・プロジェクト」の精神的な続編とも言える。
今回はヒロインのストロベリーのイメージで「ピンク・レディ」をチョイス。
ドライ・ジン45ml、グレナデン・シロップ20ml、卵白1/2個をよくシェイクし、グラスに注ぐ。
レモン・ジュース1tspを加えるレシピもある。
グレナデン・シロップの甘みがジンのドライさを包み込み、卵白がまろやかに纏める優しいテイスト。
ちなみに昭和を代表するアイドルデュオ、ピンク・レディはこのカクテルから名前が取られた。
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「フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法」のショーン・ベイカーが、落ちぶれた元ポルノスターの男を主人公に、人生の一発逆転を目指して悪戦苦闘する様を描く。
舞台となるのは2016年のテキサス。
ポルノ界の自称スター男優のマイキーが、故郷のテキサスに住む別居中の妻レクシーの元に転がり込む。
二人は同郷で、一旗あげようと共にハリウッドに向かい、一時は夫婦でポルノスターとして成功するも破局。
今は故郷で母と暮らすレクシーを、ホームレスとなったマイキーが頼ったのだ。
ショーン・ベイカーの映画の主人公は、いつも人生どん詰まりにいて、必死に抗っている。
出世作となった「タンジェリン」では、クリスマスイブの日にトランスジェンダーの娼婦が、恋人の浮気を知った事から物語が始まる。
怒り心頭の彼女は、親友を皮切りに居場所不明の恋人、浮気相手の娼婦、タクシードライバーとその家族を次々にカオスな渦に巻き込み、最悪な1日を過ごすハメになる。
高い評価を得た「フロリダ・プロジェクト」では、家も仕事も失ってモーテルに長期滞在する20歳の母親が、6歳の娘を児童福祉局に奪われないために、ひたすら頑張る。
小銭を稼ぐ努力は焼け石に水なのだが、そのもどかしさが感情移入を誘う。
本作では実際に過去のポルノ出演がスキャンダルとなったことのある、サイモン・レックスがマイキーを好演するが、彼には金も家も仕事もない。
だが貧困に喘いでいるのは、頼った先のレクシーも同じ。
元々別居するくらいギグシャクしているので、簡単には受け入れてもらえない。
ポルノ一筋20年のキャリアでは、一般社会に仕事は見つからず、大麻の密売で細々稼ぎ、妻に”家賃”を支払う。
そんなマイキーの閉塞した人生が、ドーナツ屋でバイトする17歳の少女、その名も“ストロベリー”との出会いで動き出す。
彼女に天性の才能を見出したマイキーは、こともあろうにポルノ業界にスカウトし、売り出そうとするのである。
ついでに自分のカムバックもセットにして(笑
マイキーは、とにかく自分のことしか考えない。
頼るだけ頼って、ヤバくなったら逃げ出すクズ野郎なんだけど、どこか憎めない人たらし。
色々ひどいのだが、やってることが全部滑稽で、ワルになりきれない男なのだ。
感情移入は出来ないけど、マイキーに巻き込まれる周りの人たちも、基本ダメダメだけど人間味のある人たちなので、皆に落とし所が見つかって欲しいと思わせる。
ベイカーの映画にはそれぞれキーカラーがあり、「タンジェリン」ではタイトル通りオレンジで、「フロリダ・プロジェクト」ではパープルだった。
前二作ほど主張してこないが、本作のキーカラーはピンクだろう。
ストロベリーの住むパステルピンクの作り物っぽい家は、いわば「フロリダ・プロジェクト」における、すぐ近くにあるけど手の届かないテーマパークの様なもの。
彼女は本当にマイキーと来てくれるのか、彼の人生を救ってくれる天使なのか、彼自身にも分からない。
でも今のマイキーに出来るのは、妄想を募らせて夢を見ることだけなのだ。
舞台はプアホワイトの街で、時代はトランプ政権誕生前夜の2016年。
テレビのニュースでも大統領選の推移が流れている。
アメリカが進むべき道を見失って、分断された年を背景に、人生の岐路に迷った愛すべきダメ人間たちの、悲喜こもごもの狂想曲。
ある意味、「フロリダ・プロジェクト」の精神的な続編とも言える。
今回はヒロインのストロベリーのイメージで「ピンク・レディ」をチョイス。
ドライ・ジン45ml、グレナデン・シロップ20ml、卵白1/2個をよくシェイクし、グラスに注ぐ。
レモン・ジュース1tspを加えるレシピもある。
グレナデン・シロップの甘みがジンのドライさを包み込み、卵白がまろやかに纏める優しいテイスト。
ちなみに昭和を代表するアイドルデュオ、ピンク・レディはこのカクテルから名前が取られた。

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