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2023年06月27日 (火) | 編集 |
あなたが壊れてしまう前に。
観ていて胸が痛くなる映画だ。
映画界のセクシャル&パワーハラスメントをモチーフに、業界で働く一人の女性の一日を描く物語。
ジュリア・ガーナー演じる主人公のジェーンは、プロデューサー志望の優秀な女性で、五週間前に大手映画会社で制作部のジュニアアシスタントの職を得たばかり。
もっとも制作部と言っても、一番下っ端の彼女の仕事はほぼ雑用。
あちこちに電話して会長のスケジュールを調整し、航空券やホテルも予約。
シナリオをプリントアウトし、会議があれば飲料水や食べ物を用意して、終われば散らかった部屋の片付け。
ランチは先輩の分も買い出しに出て、自分の机で急いで食べる。
会社に関係者が子連れで来れば、ベビーシッターの代わりをすることも。
夜明け前から会社に来て、誰よりも遅く帰る日々は、離れて暮らす父の誕生日すら忘れてしまうくらいの忙しさだ。
そんなジェーンに、ある試練が訪れる。
彼女のオフィスを、突然若い女性が訪ねてくる。
シエナと名乗る女性は、どうやら会長が雇った新しいアシスタントらしいのだが、アイダホの田舎出身で業界の経験が無い彼女を、会社はなぜか高級ホテルに宿泊させる。
彼女をホテルに送り届けたジェーンは、会長が直後にそのホテルに向かったことを知り、疑念を募らせるのだ。
ドキュメンタリストのキティ・グリーン監督は、業界に蔓延する女性蔑視に絶望し、映画界を離れようとすら思っていたそうだが、ワインスタイン事件に触発されて本作を企画。
業界で働く多くの女性たちへの取材を元に、脚本を構成している。
本作のストーリー自体はフィクションだが、描かれていることの大半は実際に起こっていたことだ。
映画の前半約45分は業務に没頭するジェーンの日常を淡々と描き、シエナが現れた後の後半45分で彼女の良心が揺れる様を描く。
ジェーンは何も知らないシエナが、会長の性暴力の餌食になってしまうのではと心配し、ある行動に出る。
前半から理不尽な理由で会長から叱りつけられたり、何かにつけて謝罪文を提出させられたり、会社が典型的なトップダウン型の組織でハラスメント体質なのが描かれている。
そんな職場で働いているうちに、同僚や上司たちも感覚が麻痺してしまっているのだ。
キャリアの浅いジェーンだけが、正しいことをしようとするものの、彼女が投げ込んだ石は、小さな波紋を作っただけで組織の支配の構造によってかき消されてしまう。
でも、気付いてしまったジェーンの心の中には、大きな棘が刺さったまま。
彼女は具体的なハラスメント行為を見ていないゆえに、逆に多くの事例が思い浮かぶ。
実際のワインスタイン事件を描いた「SHE SAID シー・セッド その名を暴け」でも密室のホテルは様々なハラスメントの舞台となっていた。
一度も画面に姿を見せず物語を支配する会長は、ワインスタインをはじめとする業界の“権力”のメタファーだ。
ジェーンはポーカーフェイスで感情をあまり見せないが、会社の人事部に会長の行為を告発するくだりで、自分たちがいる業界のリアルを思い知らされ、初めて激しく動揺する。
彼女はこれから幾つもの棘を抱えて業界で生きてゆくのか、 それとも疲れ切って心が折れてしまうのか。
権力というのは相対的なものだから、どんな立場の人間でもハラスメントの加害者となる可能性はある。
自分ではそんなことはしてないと思っていても、相手の立場から見たら?観た者にそんな自戒の念を抱かせる、丁寧に作り込まれた力作である。
今回は「痛撃」の意味を持つカクテル「スティンガー」をチョイス。
ブランデー45ml、ペパーミント・ホワイト15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
コクのあるブランデーと清涼なペパーミント・ホワイトの香りが、独特の複雑な味わいを作り出す。
どんな個性のブランデーをベースとするかで、味はけっこう変化する。
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観ていて胸が痛くなる映画だ。
映画界のセクシャル&パワーハラスメントをモチーフに、業界で働く一人の女性の一日を描く物語。
ジュリア・ガーナー演じる主人公のジェーンは、プロデューサー志望の優秀な女性で、五週間前に大手映画会社で制作部のジュニアアシスタントの職を得たばかり。
もっとも制作部と言っても、一番下っ端の彼女の仕事はほぼ雑用。
あちこちに電話して会長のスケジュールを調整し、航空券やホテルも予約。
シナリオをプリントアウトし、会議があれば飲料水や食べ物を用意して、終われば散らかった部屋の片付け。
ランチは先輩の分も買い出しに出て、自分の机で急いで食べる。
会社に関係者が子連れで来れば、ベビーシッターの代わりをすることも。
夜明け前から会社に来て、誰よりも遅く帰る日々は、離れて暮らす父の誕生日すら忘れてしまうくらいの忙しさだ。
そんなジェーンに、ある試練が訪れる。
彼女のオフィスを、突然若い女性が訪ねてくる。
シエナと名乗る女性は、どうやら会長が雇った新しいアシスタントらしいのだが、アイダホの田舎出身で業界の経験が無い彼女を、会社はなぜか高級ホテルに宿泊させる。
彼女をホテルに送り届けたジェーンは、会長が直後にそのホテルに向かったことを知り、疑念を募らせるのだ。
ドキュメンタリストのキティ・グリーン監督は、業界に蔓延する女性蔑視に絶望し、映画界を離れようとすら思っていたそうだが、ワインスタイン事件に触発されて本作を企画。
業界で働く多くの女性たちへの取材を元に、脚本を構成している。
本作のストーリー自体はフィクションだが、描かれていることの大半は実際に起こっていたことだ。
映画の前半約45分は業務に没頭するジェーンの日常を淡々と描き、シエナが現れた後の後半45分で彼女の良心が揺れる様を描く。
ジェーンは何も知らないシエナが、会長の性暴力の餌食になってしまうのではと心配し、ある行動に出る。
前半から理不尽な理由で会長から叱りつけられたり、何かにつけて謝罪文を提出させられたり、会社が典型的なトップダウン型の組織でハラスメント体質なのが描かれている。
そんな職場で働いているうちに、同僚や上司たちも感覚が麻痺してしまっているのだ。
キャリアの浅いジェーンだけが、正しいことをしようとするものの、彼女が投げ込んだ石は、小さな波紋を作っただけで組織の支配の構造によってかき消されてしまう。
でも、気付いてしまったジェーンの心の中には、大きな棘が刺さったまま。
彼女は具体的なハラスメント行為を見ていないゆえに、逆に多くの事例が思い浮かぶ。
実際のワインスタイン事件を描いた「SHE SAID シー・セッド その名を暴け」でも密室のホテルは様々なハラスメントの舞台となっていた。
一度も画面に姿を見せず物語を支配する会長は、ワインスタインをはじめとする業界の“権力”のメタファーだ。
ジェーンはポーカーフェイスで感情をあまり見せないが、会社の人事部に会長の行為を告発するくだりで、自分たちがいる業界のリアルを思い知らされ、初めて激しく動揺する。
彼女はこれから幾つもの棘を抱えて業界で生きてゆくのか、 それとも疲れ切って心が折れてしまうのか。
権力というのは相対的なものだから、どんな立場の人間でもハラスメントの加害者となる可能性はある。
自分ではそんなことはしてないと思っていても、相手の立場から見たら?観た者にそんな自戒の念を抱かせる、丁寧に作り込まれた力作である。
今回は「痛撃」の意味を持つカクテル「スティンガー」をチョイス。
ブランデー45ml、ペパーミント・ホワイト15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
コクのあるブランデーと清涼なペパーミント・ホワイトの香りが、独特の複雑な味わいを作り出す。
どんな個性のブランデーをベースとするかで、味はけっこう変化する。

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2023年06月22日 (木) | 編集 |
宿命を乗り越えろ!
ピーター・パーカーの遺志を継ぎ、街の平和を守るご近所ヒーロー、スパイダーマンとなったマイルズ・モラレスの活躍を描くアニメーション映画シリーズ第二弾。
前作から16ヶ月後、マイルズはピーター・パーカーにかわる“親愛なる隣人“として、すっかり街に定着しているが、両親とは葛藤を抱えたまま。
そんなある日、突然マイルズの前にポータルが開き、二度と会えないと思っていたグウェン・ステイシーが現れ、マルチバースを巡る冒険がはじまる。
プロデューサーでもあるフィル・ロードとクリストファー・ミラーが脚本を担当し(デイブ・キャラハムと共同)、監督はホアキン・ドス・サントス、ケンプ・パワーズ、ジャスティン・K・トンプソンにバトンタッチ。
主人公マイルズにシャメイク・ムーアー、グウェンにヘイリー・スタインフェルド、マイルズの前に立ちはだかるスパイダーソサエティのリーダー、ミゲル・オハラをオスカー・アイザックが演じる。
※核心部分に触れています。
アース1610のニューヨークに住むマイルズ・モラレス(シャメイク・ムーアー)は、この街唯一のスパイダーマンとして活躍中だが、自分の正体を両親には明かせないでいる。
ある日モラレスは、身体中に穴が空いたヴィラン、スポット(ジェイソン・シュワルツマン)と遭遇し、小競り合いを繰り広げるが取り逃してしまう。
元アルケマックスの技術者だったというスポットは、自分がアース42から運んだクモによってマイルズがスパイダーマンになり、そしてマイルズがアルケマックスの加速器破壊したことで自分がヴィランになったという因果を教える。
そんな時、マイルズの実家の部屋にポータルが開き、アース65のスパイダーウーマンであるグウェン・ステイシー(ヘイリー・スタインフェルド)が現れる。
マイルズとグウェンは束の間の再会を喜び合うが、実はグウェンはスポットを捕獲するために、アース1610に派遣されていた。
二人はスポットを追って、アース50101のムンバッタンへ向かい、スポットから街の人々を救うが、ここでマイルズがある行動をとったことで、ムンバッタンの世界は崩壊しはじめる。
マイルズはマルチバースのスパイダーマンたちが集うスパイダーソサエティの本部があるアース928に召喚され、リーダーのミゲル・オハラ(オスカー・アイザック)から、全てのスパイダーマンに共通する悲しい宿命を告げられる・・・・
冒頭のグウェンのエピソードから、ヒーローの孤独を徹底的にフィーチャー。
リザードとなってしまった親友のピーター・パーカーを、彼と知らずに殺してしまったグウェンは、以降友だちを作ることが出来ず、警察官の父はパーカーの殺人犯として娘と知らずにスパイダーウーマンを追っている。
映画は、ここからシリーズを通してのテーマである「大いなる力と責任」から、「大切な一人を助けるか、世界全体を救うか」というトロッコ問題へと進行する。
しかし本作は、過去のスパイダーマンが散々やり尽くしてきた、このテーマに対して疑念を突きつけるのだ。
スパイダーソサエティに召喚されたマイルズに、リーダーのミゲルがマルチバースのスパイダーマンたちの絡まり合った人生の糸を見せる。
ミゲルは、全てのスパイダーマンの人生には、避けることの出来ない“カノン(基準)イベント”が存在するという。
それは、“大切な誰か”の喪失と引き換えに、世界を救う選択をすることで、その時に大切な誰かの方を救ってしまうと、世界は崩壊に向かうという。
マイルズもすでにピーター・パーカーとアーロン叔父さんを喪う形でカノンイベントを経験しているのだが、まもなく訪れるもう一つのカノンイベントとして父の死を予告される。
だが、他のスパイダーマンたちがカノンイベントを宿命として受け入れる中、マイルズは「なぜどちらかを選ばなけれならないのか?」と抗うのである。
この構造からも分かるように、本作はマルチバースの枠組みを使い、メタ的な視点でコミックヒーロー論、ストーリー論をやった作品だ。
カノンイベントは、いわばスパイダーマン話型とも言うべきお約束。
物語の中の人たちにとっては無意識に行なっていることで、誰も疑問に思わない。
しかし、マイルズは自分の属するアース1610ではなく、アース42のクモに噛まれたことで力を得た、本来ならスパイダーマンになるはずのなかったイレギュラーな新参者。
彼はスパイダーマンの世界でずっと繰り返されてきた、“当たり前の犠牲”は本当に必要なことなのか?と言う疑念を投げかける。
実写版を含む過去作でも見てきたカノンイベントをずらっと並べられ、それをマイルズ以外があっさり受け入れちゃってるのは、なるほど確かに不気味な光景である。
この疑念は実は受け手にも向けられていて、本作で頑なに「常識」を守ろうとするスパイダーマンたちは、「スパイダーマンはこうあるべきだ」という現実世界のファンと重なり合う。
そしてそれは、黒人のスパイダーマン誕生に反発した、ピーター・パーカー原理主義者も当てはまるのである。
要するにこれは、保守的なコミックファン、スパイダーマンファンに対する作り手からの挑戦状。
俺たちはいい加減新しいスパイダーマンやりたいけど、いいよな?と言う話。
そう捉えると、グウェンの怒れるロックンローラー設定や、彼女を助けるジミヘンみたいな反骨のスパイダーマン、スパイダーパンクの存在にも意味を持たせてある。
本作は来年公開予定の第三部「ビヨンド・ザ・スパイダーバース」へのブリッジ作品で、単体では完結していないのだけど、誰もが当たり前だと思っているその世界のお約束を俎上に上げ、虚構の外と内をクロスさせた視点を持った作品は、アメコミ映画のジャンルでは過去には無かったのではないか。
この構造は、脚本を担当したフィル・ロードとクリストファー・ミラーの代表作である「LEGO ムービー」に近い物だ(そういえば本作のマルチバースにはLEGO世界もあった)。
MCUがジャンル標準にしてしまった、エンドクレジット後のおまけ映像をあえてなくしているのも、同じ文脈だろう。
ユニークなストーリーに加えて「スパイダーマン:スパイダーバース」で衝撃的だった、コミックがそのまま動き出したかのようなビジュアルは、さらにブラッシュアップされ二作目でも未見性の塊。
前作の段階では違う世界からやって来たスパイダーマンたちが、コミック調だったり、マンガ調だったり、白黒だったりテイストの差が面白かったが、今回はマルチバースを巡る話なので、世界観にまでタッチの差が広げられているのが凄い。
コンピューターアニメーションは世界初の長編作品である「トイストーリー」のスタイルが、長らく絶対的な基準になっていたが、ここに来てこのシリーズの2Dコミック調のルックが大きな影響を与えはじめている。
本作に比べたらやや控え目ではあるが、例えばドリームワークス・アニメーションの「バッドガイズ」や「長ぐつをはいたネコと9つの命」は、「スパイダーバース」がなければ異なるルックになっていただろう。
フレームレートをあえて落としたポップな絵が、とにかく気持ちのいいリズムでグリグリと動きまくる。
アニメーションは、最終的にはビジュアルデザインとキャラクターのアクションだという、表現技法の根源的な魅力を突き詰めた作りだ。
またミゲルがマイルズに過去のカノンイベントを見せるシーンで、アンドリュー・ガーフィールドとトビー・マグワイアが登場したり、スポットが「ヴェノム」の友達でコンビニ店主のチェンのところに顔を出したり、「スパイダーマン:ホームカミング」のアーロン・デイヴィスがプラウラーとしてスパイダーソサエティに捕まっていたり、実写版とのリンクも増えているのも今後双方をクロスさせる布石か。
そういえば「ホームカミング」の時に、デイヴィスは「近所に住む甥」に言及していたので、これが実写世界のマイルズなのかも知れない。
はたして、スパイダーソサエティに反旗を翻したチーム・マイルズの冒険はどこに行き着くのか、「ビヨンド・ザ・スパイダーバース」が待ちきれない。
一年後と言わず、もうちょっと早く公開してくれないものか。
前回は「ホワイト・スパイダー」をチョイスしたので、今回もクモ繋がりで「スパイダー・キッス」を。
ブランデー25ml、コーヒー・リキュール25ml、生クリーム25mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
コニャックの深いコクと、コーヒー・リキュールの甘味と渋みを、生クリームが優しくまろやかにまとめ上げる。
アルコール度はそれなり高いが、甘口で飲みやすい人気のデザートカクテルだ。
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ピーター・パーカーの遺志を継ぎ、街の平和を守るご近所ヒーロー、スパイダーマンとなったマイルズ・モラレスの活躍を描くアニメーション映画シリーズ第二弾。
前作から16ヶ月後、マイルズはピーター・パーカーにかわる“親愛なる隣人“として、すっかり街に定着しているが、両親とは葛藤を抱えたまま。
そんなある日、突然マイルズの前にポータルが開き、二度と会えないと思っていたグウェン・ステイシーが現れ、マルチバースを巡る冒険がはじまる。
プロデューサーでもあるフィル・ロードとクリストファー・ミラーが脚本を担当し(デイブ・キャラハムと共同)、監督はホアキン・ドス・サントス、ケンプ・パワーズ、ジャスティン・K・トンプソンにバトンタッチ。
主人公マイルズにシャメイク・ムーアー、グウェンにヘイリー・スタインフェルド、マイルズの前に立ちはだかるスパイダーソサエティのリーダー、ミゲル・オハラをオスカー・アイザックが演じる。
※核心部分に触れています。
アース1610のニューヨークに住むマイルズ・モラレス(シャメイク・ムーアー)は、この街唯一のスパイダーマンとして活躍中だが、自分の正体を両親には明かせないでいる。
ある日モラレスは、身体中に穴が空いたヴィラン、スポット(ジェイソン・シュワルツマン)と遭遇し、小競り合いを繰り広げるが取り逃してしまう。
元アルケマックスの技術者だったというスポットは、自分がアース42から運んだクモによってマイルズがスパイダーマンになり、そしてマイルズがアルケマックスの加速器破壊したことで自分がヴィランになったという因果を教える。
そんな時、マイルズの実家の部屋にポータルが開き、アース65のスパイダーウーマンであるグウェン・ステイシー(ヘイリー・スタインフェルド)が現れる。
マイルズとグウェンは束の間の再会を喜び合うが、実はグウェンはスポットを捕獲するために、アース1610に派遣されていた。
二人はスポットを追って、アース50101のムンバッタンへ向かい、スポットから街の人々を救うが、ここでマイルズがある行動をとったことで、ムンバッタンの世界は崩壊しはじめる。
マイルズはマルチバースのスパイダーマンたちが集うスパイダーソサエティの本部があるアース928に召喚され、リーダーのミゲル・オハラ(オスカー・アイザック)から、全てのスパイダーマンに共通する悲しい宿命を告げられる・・・・
冒頭のグウェンのエピソードから、ヒーローの孤独を徹底的にフィーチャー。
リザードとなってしまった親友のピーター・パーカーを、彼と知らずに殺してしまったグウェンは、以降友だちを作ることが出来ず、警察官の父はパーカーの殺人犯として娘と知らずにスパイダーウーマンを追っている。
映画は、ここからシリーズを通してのテーマである「大いなる力と責任」から、「大切な一人を助けるか、世界全体を救うか」というトロッコ問題へと進行する。
しかし本作は、過去のスパイダーマンが散々やり尽くしてきた、このテーマに対して疑念を突きつけるのだ。
スパイダーソサエティに召喚されたマイルズに、リーダーのミゲルがマルチバースのスパイダーマンたちの絡まり合った人生の糸を見せる。
ミゲルは、全てのスパイダーマンの人生には、避けることの出来ない“カノン(基準)イベント”が存在するという。
それは、“大切な誰か”の喪失と引き換えに、世界を救う選択をすることで、その時に大切な誰かの方を救ってしまうと、世界は崩壊に向かうという。
マイルズもすでにピーター・パーカーとアーロン叔父さんを喪う形でカノンイベントを経験しているのだが、まもなく訪れるもう一つのカノンイベントとして父の死を予告される。
だが、他のスパイダーマンたちがカノンイベントを宿命として受け入れる中、マイルズは「なぜどちらかを選ばなけれならないのか?」と抗うのである。
この構造からも分かるように、本作はマルチバースの枠組みを使い、メタ的な視点でコミックヒーロー論、ストーリー論をやった作品だ。
カノンイベントは、いわばスパイダーマン話型とも言うべきお約束。
物語の中の人たちにとっては無意識に行なっていることで、誰も疑問に思わない。
しかし、マイルズは自分の属するアース1610ではなく、アース42のクモに噛まれたことで力を得た、本来ならスパイダーマンになるはずのなかったイレギュラーな新参者。
彼はスパイダーマンの世界でずっと繰り返されてきた、“当たり前の犠牲”は本当に必要なことなのか?と言う疑念を投げかける。
実写版を含む過去作でも見てきたカノンイベントをずらっと並べられ、それをマイルズ以外があっさり受け入れちゃってるのは、なるほど確かに不気味な光景である。
この疑念は実は受け手にも向けられていて、本作で頑なに「常識」を守ろうとするスパイダーマンたちは、「スパイダーマンはこうあるべきだ」という現実世界のファンと重なり合う。
そしてそれは、黒人のスパイダーマン誕生に反発した、ピーター・パーカー原理主義者も当てはまるのである。
要するにこれは、保守的なコミックファン、スパイダーマンファンに対する作り手からの挑戦状。
俺たちはいい加減新しいスパイダーマンやりたいけど、いいよな?と言う話。
そう捉えると、グウェンの怒れるロックンローラー設定や、彼女を助けるジミヘンみたいな反骨のスパイダーマン、スパイダーパンクの存在にも意味を持たせてある。
本作は来年公開予定の第三部「ビヨンド・ザ・スパイダーバース」へのブリッジ作品で、単体では完結していないのだけど、誰もが当たり前だと思っているその世界のお約束を俎上に上げ、虚構の外と内をクロスさせた視点を持った作品は、アメコミ映画のジャンルでは過去には無かったのではないか。
この構造は、脚本を担当したフィル・ロードとクリストファー・ミラーの代表作である「LEGO ムービー」に近い物だ(そういえば本作のマルチバースにはLEGO世界もあった)。
MCUがジャンル標準にしてしまった、エンドクレジット後のおまけ映像をあえてなくしているのも、同じ文脈だろう。
ユニークなストーリーに加えて「スパイダーマン:スパイダーバース」で衝撃的だった、コミックがそのまま動き出したかのようなビジュアルは、さらにブラッシュアップされ二作目でも未見性の塊。
前作の段階では違う世界からやって来たスパイダーマンたちが、コミック調だったり、マンガ調だったり、白黒だったりテイストの差が面白かったが、今回はマルチバースを巡る話なので、世界観にまでタッチの差が広げられているのが凄い。
コンピューターアニメーションは世界初の長編作品である「トイストーリー」のスタイルが、長らく絶対的な基準になっていたが、ここに来てこのシリーズの2Dコミック調のルックが大きな影響を与えはじめている。
本作に比べたらやや控え目ではあるが、例えばドリームワークス・アニメーションの「バッドガイズ」や「長ぐつをはいたネコと9つの命」は、「スパイダーバース」がなければ異なるルックになっていただろう。
フレームレートをあえて落としたポップな絵が、とにかく気持ちのいいリズムでグリグリと動きまくる。
アニメーションは、最終的にはビジュアルデザインとキャラクターのアクションだという、表現技法の根源的な魅力を突き詰めた作りだ。
またミゲルがマイルズに過去のカノンイベントを見せるシーンで、アンドリュー・ガーフィールドとトビー・マグワイアが登場したり、スポットが「ヴェノム」の友達でコンビニ店主のチェンのところに顔を出したり、「スパイダーマン:ホームカミング」のアーロン・デイヴィスがプラウラーとしてスパイダーソサエティに捕まっていたり、実写版とのリンクも増えているのも今後双方をクロスさせる布石か。
そういえば「ホームカミング」の時に、デイヴィスは「近所に住む甥」に言及していたので、これが実写世界のマイルズなのかも知れない。
はたして、スパイダーソサエティに反旗を翻したチーム・マイルズの冒険はどこに行き着くのか、「ビヨンド・ザ・スパイダーバース」が待ちきれない。
一年後と言わず、もうちょっと早く公開してくれないものか。
前回は「ホワイト・スパイダー」をチョイスしたので、今回もクモ繋がりで「スパイダー・キッス」を。
ブランデー25ml、コーヒー・リキュール25ml、生クリーム25mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
コニャックの深いコクと、コーヒー・リキュールの甘味と渋みを、生クリームが優しくまろやかにまとめ上げる。
アルコール度はそれなり高いが、甘口で飲みやすい人気のデザートカクテルだ。

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2023年06月19日 (月) | 編集 |
バック・トゥ・ザ・フューチャー!
DCエクステンデッド・ユニバース(DCEU)のスーパーヒーロー大集合映画「ジャスティス・リーグ」で初登場した、超高速のスピードスター、フラッシュを主人公としたタイムリープSFアクション。
光速を超えるほどの速度に達したフラッシュは、自分が時間を遡る能力を持ったことを知る。
ところが、幼い頃に亡くした最愛の母を救うために、フラッシュがちょっと過去をいじったところ、バタフライ効果によって世界に破滅の危機が迫る。
「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY」のクリスティーナ・ホドソンが脚本を担当し、監督は「IT/イット」二部作を大成功させたアンディ・ムスキエティが務める。
タイトルロールのフラッシュを演じるのは、最近は色々お騒がせなエズラ・ミラー。
DCEUが発足する以前の作品からの客演も含めて、フラッシュの単体映画と言うより、DCコミックの歴史を網羅した作品であり、「ジャスティス・リーグ:ザック・スナイダーカット」と並ぶDCEUのベストだ。
※ ラストに触れています。
セントラルシティに住む法医学捜査官バリー・アレン(エズラ・ミラー)は、ジャスティス・リーグのメンバーでメタヒューマン、フラッシュとしてとしても活動中。
ある日、超高速で移動中に自分が時間の流れと切り離され、過去に行けることに気付く。
リーグのリーダーのバットマンことブルース・ウェイン(ベン・アフレック)からは、危険なので過去に干渉するなと警告されるが、バリーにはどうしても変えたい過去があった。
それは彼がまだ幼かった頃、母親が何者かに殺され犯人として父親が逮捕された事件。
バリーは父の無実を信じていて、冤罪を晴らすために捜査官になったのだ。
直接母に干渉せずに、事件を無かったことにする方法を思いついたバリーは、警告を無視して事件当日の過去を訪れ、母を救うことに成功する。
ところが、現代に戻る途中で何者かの妨害を受けて、2013年の世界に放り出されてしまう。
それはバリーが能力を得た日であり、ゾット将軍の地球侵略が始まった日だった。
バリーは若き日のもう一人の自分と共に、バットマンの助けを得ようとウェイン邸を訪れるのだが・・・・
冒頭の崩壊する病院からの赤ちゃん軍団の救出劇から、情報量いっぱい過ぎてお腹いっぱい。
時間SF+マルチバースと言うある意味何でもありの設定だが、バタフライエフェクトによる未来の破綻という物語の骨子は案外オーソドックスだ。
日本では奇しくも同じマルチバースをモチーフとしたマーベルヒーロー「スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース」と同日公開となったが、愛する一人を救うか、それとも世界を救うかというあたりまで重なっているのが面白い。
ただし、両作の物語のベクトルは正反対だ。
本作でフラッシュは、母を死なせないために、ほんの僅かに過去を変える。
もっとも、死んだはずの人が生きているのだから色々変わって来て、未来へ帰る途中でフラッシュが迷い込んだ2013年の世界は、彼の知る世界線とは全く違ったものになっている。
母は生きているものの、ティーンエイジャーの自分はおバカ全開で、おまけにゾッド将軍の地球侵略まで始まってしまう。
サイボーグやアクアマン、ワンダーウーマンは存在せず、スーパーマンは既に死んで、代わりにいとこのスーパーガールことカーラ・ゾー=エルが、ロシアならぬソ連の施設に監禁されている。
手に負えないので助力を得ようと師匠格のバットマンを訪ねてみると、これまた自分の知るバットマンは全くの別人だったというわけ。
予告編で分かっていたけど、21世紀になってマイケル・キートン演じる初代バットマンと再会できるとは感慨深い。
まあこれらの変化が母を助けた時点から生まれたとは考えにくいので、さらに以前から枝分かれした別の世界線ということなのだろうけど。
本作の特徴の一つが、DCEU作品としては珍しく、小ネタが散りばめられていることで、それはDC関連に限らない。
特に時間SFの金字塔「バック・トゥ・ザ・フューチャー」先輩へのオマージュは強く感じさせる。
ちなみに本作の企画開発段階では、ロバート・ゼメキスも監督のオファーを受けていたというから、その辺のリスペクトも入っているのかも知れない。
ユニークなのが、タイムトラベルのビジュアルで、フラッシュが超高速で走ると彼の周りに円筒形の立体ゾートロープのような形で過去が映し出されれる。
本作における過去とは即ち「映画」ということだろうが、これは見たことの無い表現だ。
終盤でフラッシュがマルチバースの真実に気付くシークエンスになると、交わることの無かったマルチバースとして、ジョージ・リーヴスが演じたドラマのスーパーマンから、クリストファー・リーヴのスーパーマン、ヘレン・スレイターのスーパーガールも。
さらに初代フラッシュのジェイ・ギャリックまでモノクロで一瞬だけ登場。
中でも驚かされたのが、ティム・バートン監督で企画されていた、ニコラス・ケイジ版のスーパーマンだ。
まさか没になった企画まで拾い上げてくるとは思わなかったが、マーティ・マクフライ役がエリック・ストルツの世界線ならばこれもアリか。
しかも過去のテスト映像からCGを起こしたのかと思ったら、わざわざニコラス・ケイジを呼んで撮影しているというから力の入り方が凄い。
フラッシュが未来へ帰るのを邪魔した人物が、フラッシュの老いたバージョンであるダークフラッシュだと明らかになり、この世界がいわゆる因果のループによって最初から滅びることが決まっている閉じた世界線(つまり絶対に救えない)というのは、スーパーヒーロー映画としてどうなんだ?と思わないでも無いが、ある意味新しい解釈ではある。
そりゃ無数にある世界線の中には、何をどうやっても滅びるものもあるかも知れないよなと、半ば強引に思わされる。
愛する者も世界も救えないという現実に向き合うフラッシュが、最後に生前の母と顔を合わせるシーンは「ドラえもん」の名エピソード「おばあちゃんの思い出」を思い出してドラ泣き。
過去でなく現在を変えるために、フラッシュがある工夫をしたことによって、ジョージ・クルーニーのブルース・ウェイン登場に至るまで、DCコミックの歴史をメタ的にアーカイブしたお祭り映画と考えると、現時点での集大成として相応しい出来栄え。
ジャスティス・リーグの面々も、律儀にカメオ出演しているし(サイボーグだけなぜか出てこないけど)。
エンディングも複数のバージョンがあったようで、どれを採用するかもこの一年ばかりの間にDCEUの体制が一新され、企画が中止になったり、新しい企画が立ち上がったり、フランチャイズ全体の未来をどうするかによって左右されたという。
結果的にクルーニーの登場は一番のサプライズであり、作り手にとっては最良のフリーハンドでもあった訳で、DCEUは現実もマルチバース並みなのだ。
それにしても、エズラ・ミラーはやはりいい役者だと思う。
コミュ障気味でナイーブな現在のバリー・アレンと、両親を失わず天真爛漫に育ったティーン版、さらにはダークフラッシュと呼ばれる老いたバージョンまで、見事に演じ分けているのだから。
フラッシュの能力を持ったばかりのティーン版が、興奮して声が裏返っちゃうあたり可愛過ぎるだろう。
彼が奇行に走るきっかけとなったのが、両親の離婚というあたりも役柄に被る。
メンタルのケアをしっかりやって、健康になってフラッシュ役に戻って来てもらいたいものだ。
今回は主人公と同じ名前のカクテル「フラッシュ」をチョイス。
コアントロー20ml、キルシュワッサー40ml、ベネディクティン20ml、マラスキーノ10mlを氷と共にミキシンググラスで混ぜる。
冷やしたグラスに注いで完成。
黎明期のフランスの映画監督、ジェルメーヌ・デュラックの発案と言われる。
涼しげな見た目だが、結構コクがあり飲みごたえを感じられる一杯だ。
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DCエクステンデッド・ユニバース(DCEU)のスーパーヒーロー大集合映画「ジャスティス・リーグ」で初登場した、超高速のスピードスター、フラッシュを主人公としたタイムリープSFアクション。
光速を超えるほどの速度に達したフラッシュは、自分が時間を遡る能力を持ったことを知る。
ところが、幼い頃に亡くした最愛の母を救うために、フラッシュがちょっと過去をいじったところ、バタフライ効果によって世界に破滅の危機が迫る。
「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY」のクリスティーナ・ホドソンが脚本を担当し、監督は「IT/イット」二部作を大成功させたアンディ・ムスキエティが務める。
タイトルロールのフラッシュを演じるのは、最近は色々お騒がせなエズラ・ミラー。
DCEUが発足する以前の作品からの客演も含めて、フラッシュの単体映画と言うより、DCコミックの歴史を網羅した作品であり、「ジャスティス・リーグ:ザック・スナイダーカット」と並ぶDCEUのベストだ。
※ ラストに触れています。
セントラルシティに住む法医学捜査官バリー・アレン(エズラ・ミラー)は、ジャスティス・リーグのメンバーでメタヒューマン、フラッシュとしてとしても活動中。
ある日、超高速で移動中に自分が時間の流れと切り離され、過去に行けることに気付く。
リーグのリーダーのバットマンことブルース・ウェイン(ベン・アフレック)からは、危険なので過去に干渉するなと警告されるが、バリーにはどうしても変えたい過去があった。
それは彼がまだ幼かった頃、母親が何者かに殺され犯人として父親が逮捕された事件。
バリーは父の無実を信じていて、冤罪を晴らすために捜査官になったのだ。
直接母に干渉せずに、事件を無かったことにする方法を思いついたバリーは、警告を無視して事件当日の過去を訪れ、母を救うことに成功する。
ところが、現代に戻る途中で何者かの妨害を受けて、2013年の世界に放り出されてしまう。
それはバリーが能力を得た日であり、ゾット将軍の地球侵略が始まった日だった。
バリーは若き日のもう一人の自分と共に、バットマンの助けを得ようとウェイン邸を訪れるのだが・・・・
冒頭の崩壊する病院からの赤ちゃん軍団の救出劇から、情報量いっぱい過ぎてお腹いっぱい。
時間SF+マルチバースと言うある意味何でもありの設定だが、バタフライエフェクトによる未来の破綻という物語の骨子は案外オーソドックスだ。
日本では奇しくも同じマルチバースをモチーフとしたマーベルヒーロー「スパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバース」と同日公開となったが、愛する一人を救うか、それとも世界を救うかというあたりまで重なっているのが面白い。
ただし、両作の物語のベクトルは正反対だ。
本作でフラッシュは、母を死なせないために、ほんの僅かに過去を変える。
もっとも、死んだはずの人が生きているのだから色々変わって来て、未来へ帰る途中でフラッシュが迷い込んだ2013年の世界は、彼の知る世界線とは全く違ったものになっている。
母は生きているものの、ティーンエイジャーの自分はおバカ全開で、おまけにゾッド将軍の地球侵略まで始まってしまう。
サイボーグやアクアマン、ワンダーウーマンは存在せず、スーパーマンは既に死んで、代わりにいとこのスーパーガールことカーラ・ゾー=エルが、ロシアならぬソ連の施設に監禁されている。
手に負えないので助力を得ようと師匠格のバットマンを訪ねてみると、これまた自分の知るバットマンは全くの別人だったというわけ。
予告編で分かっていたけど、21世紀になってマイケル・キートン演じる初代バットマンと再会できるとは感慨深い。
まあこれらの変化が母を助けた時点から生まれたとは考えにくいので、さらに以前から枝分かれした別の世界線ということなのだろうけど。
本作の特徴の一つが、DCEU作品としては珍しく、小ネタが散りばめられていることで、それはDC関連に限らない。
特に時間SFの金字塔「バック・トゥ・ザ・フューチャー」先輩へのオマージュは強く感じさせる。
ちなみに本作の企画開発段階では、ロバート・ゼメキスも監督のオファーを受けていたというから、その辺のリスペクトも入っているのかも知れない。
ユニークなのが、タイムトラベルのビジュアルで、フラッシュが超高速で走ると彼の周りに円筒形の立体ゾートロープのような形で過去が映し出されれる。
本作における過去とは即ち「映画」ということだろうが、これは見たことの無い表現だ。
終盤でフラッシュがマルチバースの真実に気付くシークエンスになると、交わることの無かったマルチバースとして、ジョージ・リーヴスが演じたドラマのスーパーマンから、クリストファー・リーヴのスーパーマン、ヘレン・スレイターのスーパーガールも。
さらに初代フラッシュのジェイ・ギャリックまでモノクロで一瞬だけ登場。
中でも驚かされたのが、ティム・バートン監督で企画されていた、ニコラス・ケイジ版のスーパーマンだ。
まさか没になった企画まで拾い上げてくるとは思わなかったが、マーティ・マクフライ役がエリック・ストルツの世界線ならばこれもアリか。
しかも過去のテスト映像からCGを起こしたのかと思ったら、わざわざニコラス・ケイジを呼んで撮影しているというから力の入り方が凄い。
フラッシュが未来へ帰るのを邪魔した人物が、フラッシュの老いたバージョンであるダークフラッシュだと明らかになり、この世界がいわゆる因果のループによって最初から滅びることが決まっている閉じた世界線(つまり絶対に救えない)というのは、スーパーヒーロー映画としてどうなんだ?と思わないでも無いが、ある意味新しい解釈ではある。
そりゃ無数にある世界線の中には、何をどうやっても滅びるものもあるかも知れないよなと、半ば強引に思わされる。
愛する者も世界も救えないという現実に向き合うフラッシュが、最後に生前の母と顔を合わせるシーンは「ドラえもん」の名エピソード「おばあちゃんの思い出」を思い出してドラ泣き。
過去でなく現在を変えるために、フラッシュがある工夫をしたことによって、ジョージ・クルーニーのブルース・ウェイン登場に至るまで、DCコミックの歴史をメタ的にアーカイブしたお祭り映画と考えると、現時点での集大成として相応しい出来栄え。
ジャスティス・リーグの面々も、律儀にカメオ出演しているし(サイボーグだけなぜか出てこないけど)。
エンディングも複数のバージョンがあったようで、どれを採用するかもこの一年ばかりの間にDCEUの体制が一新され、企画が中止になったり、新しい企画が立ち上がったり、フランチャイズ全体の未来をどうするかによって左右されたという。
結果的にクルーニーの登場は一番のサプライズであり、作り手にとっては最良のフリーハンドでもあった訳で、DCEUは現実もマルチバース並みなのだ。
それにしても、エズラ・ミラーはやはりいい役者だと思う。
コミュ障気味でナイーブな現在のバリー・アレンと、両親を失わず天真爛漫に育ったティーン版、さらにはダークフラッシュと呼ばれる老いたバージョンまで、見事に演じ分けているのだから。
フラッシュの能力を持ったばかりのティーン版が、興奮して声が裏返っちゃうあたり可愛過ぎるだろう。
彼が奇行に走るきっかけとなったのが、両親の離婚というあたりも役柄に被る。
メンタルのケアをしっかりやって、健康になってフラッシュ役に戻って来てもらいたいものだ。
今回は主人公と同じ名前のカクテル「フラッシュ」をチョイス。
コアントロー20ml、キルシュワッサー40ml、ベネディクティン20ml、マラスキーノ10mlを氷と共にミキシンググラスで混ぜる。
冷やしたグラスに注いで完成。
黎明期のフランスの映画監督、ジェルメーヌ・デュラックの発案と言われる。
涼しげな見た目だが、結構コクがあり飲みごたえを感じられる一杯だ。

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2023年06月17日 (土) | 編集 |
未知の世界へ!
ディズニーの名作アニメーション映画の、実写化シリーズ最新作。
今回は1989年に公開されたジョン・マスカー、ロン・クレメンツ監督の「リトル・マーメイド」を、「ライフ・オブ・パイ」のデヴィッド・マギーが新たに脚色し、ミュージカルの名手ロブ・マーシャル監督が手堅く仕上げた。
オリジナルは83分という駆け足の展開だったが、本作では135分の尺が取られ、プロットを大幅に拡充。
「パート・オブ・ユア・ワールド」「アンダー・ザ・シー」と言ったお馴染みの名曲に加えて、オリジナルを手掛けたアラン・メンケンが復帰し、リン=マニュエル・ミランダと組んで新たに三つの新曲を披露している。
人種変更が物議を醸したアリエル役はハリー・ベリーが演じ、相手役のエリック王子にジョナ・ハウアー=キング。
トリトン王をハビエル・バルデム、アリエルの声を奪う海の魔女アースラをメリッサ・マッカーシーが怪演しているが、アニメーション版キャラクターの再現度ではこの人が一番かもしれない(笑
16歳のアリエル(ハリー・ベリー)は、海の王国アトランティカを統べるトリトン王(ハビエル・バルデム)の末娘。
アリエルの母親が人間に殺された後、王は娘たちに海上に行くことを禁じたが、アリエルは未知の世界への憧れを募らせ、沈没船から集めた様々な人間界のグッズをコレクションしている。
ある嵐の夜、海辺の王国の船が難破し、アリエルは瀕死のエリック王子(ジョナ・ハウアー=キング)を助け、岸に送り届ける。
エリックは母親のセリーナ女王(ノーマ・ドゥメズウェニ)から再びの航海を禁じられるが、自分を助けてくれた女性の歌声の記憶を頼りに、彼女を探し始める。
一方、ますます地上への想いを募らせたアリエルは、海の魔女アスーラ(メリッサ・マッカーシー)から声と引き換えに3日間人間になれるという取引を持ちかけられる。
3日目の日が落ちるまでにエリックと真実の愛のキスをすれば、声は返されずっと人間でいられるが、もしキスできなければ人魚に戻され永遠にアスーラに支配される。
取引を決意したアリエルは、人間の姿となって王宮へとやってくるのだが、アスーラの悪巧みによってキスの条件を忘れさせられていた・・・
オリジナルの「リトルマーメイド」は、ディズニーの低迷期だった80年代の終わりに起死回生の大ヒットとなり、「美女と野獣」「アラジン」へと続くディズニー・ルネッサンス期の嚆矢となった作品。
そのリメイクということで大きな期待を寄せられたのだが、作品の内容よりもその成り立ちが物議を醸したという点で特異な作品かもしれない。
アニメーション版のアリエルは赤毛で白い肌の少女に設定されているが、実写化にあたってキャスティングされたのは、アフリカ系のハリー・ベリーだったことから、オリジナルのファンが反発しSNS上で「#NotMyAriel(私のアリエルじゃない)」と言う批判が吹き荒れたことは記憶に新しい。
アマゾンプライムの配信ドラマ「ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪」で、プエルトリコ人俳優のイスマエル・クルス・コルドバがエルフの戦士を演じた時も同じような反発があったが、基本的に私は人間ですらない人魚やエルフの人種を論じること自体がナンセンスだと思っている。
だが本作の企画性を考えると、これは結構センシティブな問題を含んでいるのも確か。
ディズニーの実写シリーズは、現在の価値観ではやや古くなったアニメーション版を、モダンにブラッシュアップすることで成功してきた。
ここで重要なファクターが、アニメーションとビジュアルを可能な限り変えないこと。
なぜなら子供の頃から親しんだキャラクターは、ノスタルジーと結び付いているからである。
本作をアニメーション版とは違った「新しいもの」として、受け止めることの出来る観客にはありだろう。
しかしアニメーションとはデザインであり、キャラクタービジュアルは特に作品イメージと結びついていることから、赤毛の白人の少女でないアリエルは、観客によっては大切な思い出であるオリジナルの紛い物と感じられてしまうのも理解できるのだ。
例えば、主人公の名前がアリエルではなく、トリトン王の別の娘という設定なら、ここまで大きな騒ぎにはならなかっただろう。
仕上がりは素晴らしいものゆえに、作品の成り立ちの部分でケチがついてしまったのは残念だ。
実写版のポイントは、重層的な対称性。
基本プロットはオリジナルに忠実だが、現代に合わせたテーマを実現するために、ディテールを大幅に複雑化させている。
「シンデレラ」や「美女と野獣」もそうだったが、膨らませるポイントは主人公のプリンセスではなく王子側。
ディズニープリンセスものの王子は、もともと刺身のつまの様なもので、オリジナルでは記号に過ぎないキャラクターだった。
それではアクティブで自立した主人公のパートナーとしては逆に釣り合わないので、キャラクターを掘り下げて女性側と可能な限り同格化しているのである。
本作ではエリック王子をアリエルと同じ様に、未知の世界に憧れを抱いている若者に設定。
過保護な親によって、過度に束縛されているのも同じ。
アリエルとトリトン王、エリックとセリーナ女王をそれぞれに、親離れ子離れができない似た者同士にしているのがポイントだ。
ハリー・ベリーの歌声はまさに神がかった美しさで、最初のミュージカルシークエンスで思わず鳥肌が立った。
彼女の起用はオーディションの結果であって、ほんとかどうかは分からないが、最初からアフリカ系をキャスティングする意図はかったそう。
しかし後付けであるにしろ、デヴィッド・マギーの巧みな脚色は、アリエルがアフリカ系である意味を盛り込んでる。
明示はされないものの、白人と黒人が対等に暮らすセリーナの王国は少なくともヨーロッパのイメージではない。
エリックがアリエルに南米諸国の話をしたり、住民たちが使っている楽器からも、おそらくカリブ海辺りの島国の設定だろう。
この映画の世界では人種間の葛藤は無く、現実世界の人種分断が人間と海に生きるマーピープルの対立に置き換えられているのである。
そこで、二つの世界を結ぶカップルの対称性が重要となる。
大人たちは決して分かり合えないと言うけれど、出会ってみたらどっちも抱えている悩みは同じ!私たちの世界はもっと可能性があるんだ!もう邪魔をしないで解放してくれ!という訳だ。
肌の色の異なる人たちが平等に暮らし、若者たちの熱意が更なる属性の違いをも乗り越えてゆく、この映画のファンタジーは現実を映し出すメタファーとなっていて、アレンジを効かせた脚色は見事だ。
ちなみにオリジナルではエリックが歌うシーンは無かったが、今回は冒険への憧れを歌い上げた「まだ見ぬ世界へ」というソロ歌唱の見せ場がプラスされていて、カップル同格化を補強。
また皆んな大好きオークワフィナ演じるカツオドリのスカットルにも「スカットル・スクープ!!」という、ラッパーの彼女の特質を生かしたラップ調の楽曲が加わっている。
ミュージカルシークエンスはそれぞれにビジュアル的にも工夫が凝らされていて、特にアニメーション版でも愉快だった「アンダー・ザ・シー」は、カラフルな海の生物が大挙出演して圧巻の仕上がり。
こうして見ると、海の生物の色と形は本当にユニークで、自然は素晴らしいデザイナーなんだな。
実写版「リトルマーメイド」は、伝説的なアニメーション映画のリメイクとして捉えると、どうしても違和感がある向きもあるだろうが、枝分かれした進化形だと思えば、十分に楽しめる作品になっていると思う。
ところで、アリエルの6人のお姉ちゃんが皆んな肌の色が違うんだが、トリトン王には7人のワイフがいたのだろうか。
それはそれで物議を醸しそうだが。
それこそ「人間じゃないから」という声もありそうだが、人魚の文化や婚姻に関する考え方などは明らかに人間を模しているので、そこだけ「人間じゃないから」で逃げるのは都合良すぎるだろう。
あと、生物たちが殆どカリカチュアされないリアルな形状になったことで、ちょっとした違和感のある描写も。
カモメ改めシロカツオドリのスカットルが、魚を丸飲みした直後にフランダーと親しげに会話するんだが「キミ今魚喰ったよね、フランダー捕食対象だよね・・」と思ってしまった(笑
今回は、ディズニーブルーが美しいカクテル「ブルーラグーン」をチョイス。
ウォッカ30ml、ブルー・キュラソー10ml、レモン・ジュース20mlをシェイクして、氷を入れたシャンパングラスに注ぐ。
スライスしたレモン、オレンジ、チェリーを飾って完成。
辛口のウォッカが、ブルーキュラソーのほのかな甘味を引き締め、レモンの酸味がバランスよくまとめる。
目でも舌でも清涼感を味わえる一杯だ。
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ディズニーの名作アニメーション映画の、実写化シリーズ最新作。
今回は1989年に公開されたジョン・マスカー、ロン・クレメンツ監督の「リトル・マーメイド」を、「ライフ・オブ・パイ」のデヴィッド・マギーが新たに脚色し、ミュージカルの名手ロブ・マーシャル監督が手堅く仕上げた。
オリジナルは83分という駆け足の展開だったが、本作では135分の尺が取られ、プロットを大幅に拡充。
「パート・オブ・ユア・ワールド」「アンダー・ザ・シー」と言ったお馴染みの名曲に加えて、オリジナルを手掛けたアラン・メンケンが復帰し、リン=マニュエル・ミランダと組んで新たに三つの新曲を披露している。
人種変更が物議を醸したアリエル役はハリー・ベリーが演じ、相手役のエリック王子にジョナ・ハウアー=キング。
トリトン王をハビエル・バルデム、アリエルの声を奪う海の魔女アースラをメリッサ・マッカーシーが怪演しているが、アニメーション版キャラクターの再現度ではこの人が一番かもしれない(笑
16歳のアリエル(ハリー・ベリー)は、海の王国アトランティカを統べるトリトン王(ハビエル・バルデム)の末娘。
アリエルの母親が人間に殺された後、王は娘たちに海上に行くことを禁じたが、アリエルは未知の世界への憧れを募らせ、沈没船から集めた様々な人間界のグッズをコレクションしている。
ある嵐の夜、海辺の王国の船が難破し、アリエルは瀕死のエリック王子(ジョナ・ハウアー=キング)を助け、岸に送り届ける。
エリックは母親のセリーナ女王(ノーマ・ドゥメズウェニ)から再びの航海を禁じられるが、自分を助けてくれた女性の歌声の記憶を頼りに、彼女を探し始める。
一方、ますます地上への想いを募らせたアリエルは、海の魔女アスーラ(メリッサ・マッカーシー)から声と引き換えに3日間人間になれるという取引を持ちかけられる。
3日目の日が落ちるまでにエリックと真実の愛のキスをすれば、声は返されずっと人間でいられるが、もしキスできなければ人魚に戻され永遠にアスーラに支配される。
取引を決意したアリエルは、人間の姿となって王宮へとやってくるのだが、アスーラの悪巧みによってキスの条件を忘れさせられていた・・・
オリジナルの「リトルマーメイド」は、ディズニーの低迷期だった80年代の終わりに起死回生の大ヒットとなり、「美女と野獣」「アラジン」へと続くディズニー・ルネッサンス期の嚆矢となった作品。
そのリメイクということで大きな期待を寄せられたのだが、作品の内容よりもその成り立ちが物議を醸したという点で特異な作品かもしれない。
アニメーション版のアリエルは赤毛で白い肌の少女に設定されているが、実写化にあたってキャスティングされたのは、アフリカ系のハリー・ベリーだったことから、オリジナルのファンが反発しSNS上で「#NotMyAriel(私のアリエルじゃない)」と言う批判が吹き荒れたことは記憶に新しい。
アマゾンプライムの配信ドラマ「ロード・オブ・ザ・リング:力の指輪」で、プエルトリコ人俳優のイスマエル・クルス・コルドバがエルフの戦士を演じた時も同じような反発があったが、基本的に私は人間ですらない人魚やエルフの人種を論じること自体がナンセンスだと思っている。
だが本作の企画性を考えると、これは結構センシティブな問題を含んでいるのも確か。
ディズニーの実写シリーズは、現在の価値観ではやや古くなったアニメーション版を、モダンにブラッシュアップすることで成功してきた。
ここで重要なファクターが、アニメーションとビジュアルを可能な限り変えないこと。
なぜなら子供の頃から親しんだキャラクターは、ノスタルジーと結び付いているからである。
本作をアニメーション版とは違った「新しいもの」として、受け止めることの出来る観客にはありだろう。
しかしアニメーションとはデザインであり、キャラクタービジュアルは特に作品イメージと結びついていることから、赤毛の白人の少女でないアリエルは、観客によっては大切な思い出であるオリジナルの紛い物と感じられてしまうのも理解できるのだ。
例えば、主人公の名前がアリエルではなく、トリトン王の別の娘という設定なら、ここまで大きな騒ぎにはならなかっただろう。
仕上がりは素晴らしいものゆえに、作品の成り立ちの部分でケチがついてしまったのは残念だ。
実写版のポイントは、重層的な対称性。
基本プロットはオリジナルに忠実だが、現代に合わせたテーマを実現するために、ディテールを大幅に複雑化させている。
「シンデレラ」や「美女と野獣」もそうだったが、膨らませるポイントは主人公のプリンセスではなく王子側。
ディズニープリンセスものの王子は、もともと刺身のつまの様なもので、オリジナルでは記号に過ぎないキャラクターだった。
それではアクティブで自立した主人公のパートナーとしては逆に釣り合わないので、キャラクターを掘り下げて女性側と可能な限り同格化しているのである。
本作ではエリック王子をアリエルと同じ様に、未知の世界に憧れを抱いている若者に設定。
過保護な親によって、過度に束縛されているのも同じ。
アリエルとトリトン王、エリックとセリーナ女王をそれぞれに、親離れ子離れができない似た者同士にしているのがポイントだ。
ハリー・ベリーの歌声はまさに神がかった美しさで、最初のミュージカルシークエンスで思わず鳥肌が立った。
彼女の起用はオーディションの結果であって、ほんとかどうかは分からないが、最初からアフリカ系をキャスティングする意図はかったそう。
しかし後付けであるにしろ、デヴィッド・マギーの巧みな脚色は、アリエルがアフリカ系である意味を盛り込んでる。
明示はされないものの、白人と黒人が対等に暮らすセリーナの王国は少なくともヨーロッパのイメージではない。
エリックがアリエルに南米諸国の話をしたり、住民たちが使っている楽器からも、おそらくカリブ海辺りの島国の設定だろう。
この映画の世界では人種間の葛藤は無く、現実世界の人種分断が人間と海に生きるマーピープルの対立に置き換えられているのである。
そこで、二つの世界を結ぶカップルの対称性が重要となる。
大人たちは決して分かり合えないと言うけれど、出会ってみたらどっちも抱えている悩みは同じ!私たちの世界はもっと可能性があるんだ!もう邪魔をしないで解放してくれ!という訳だ。
肌の色の異なる人たちが平等に暮らし、若者たちの熱意が更なる属性の違いをも乗り越えてゆく、この映画のファンタジーは現実を映し出すメタファーとなっていて、アレンジを効かせた脚色は見事だ。
ちなみにオリジナルではエリックが歌うシーンは無かったが、今回は冒険への憧れを歌い上げた「まだ見ぬ世界へ」というソロ歌唱の見せ場がプラスされていて、カップル同格化を補強。
また皆んな大好きオークワフィナ演じるカツオドリのスカットルにも「スカットル・スクープ!!」という、ラッパーの彼女の特質を生かしたラップ調の楽曲が加わっている。
ミュージカルシークエンスはそれぞれにビジュアル的にも工夫が凝らされていて、特にアニメーション版でも愉快だった「アンダー・ザ・シー」は、カラフルな海の生物が大挙出演して圧巻の仕上がり。
こうして見ると、海の生物の色と形は本当にユニークで、自然は素晴らしいデザイナーなんだな。
実写版「リトルマーメイド」は、伝説的なアニメーション映画のリメイクとして捉えると、どうしても違和感がある向きもあるだろうが、枝分かれした進化形だと思えば、十分に楽しめる作品になっていると思う。
ところで、アリエルの6人のお姉ちゃんが皆んな肌の色が違うんだが、トリトン王には7人のワイフがいたのだろうか。
それはそれで物議を醸しそうだが。
それこそ「人間じゃないから」という声もありそうだが、人魚の文化や婚姻に関する考え方などは明らかに人間を模しているので、そこだけ「人間じゃないから」で逃げるのは都合良すぎるだろう。
あと、生物たちが殆どカリカチュアされないリアルな形状になったことで、ちょっとした違和感のある描写も。
カモメ改めシロカツオドリのスカットルが、魚を丸飲みした直後にフランダーと親しげに会話するんだが「キミ今魚喰ったよね、フランダー捕食対象だよね・・」と思ってしまった(笑
今回は、ディズニーブルーが美しいカクテル「ブルーラグーン」をチョイス。
ウォッカ30ml、ブルー・キュラソー10ml、レモン・ジュース20mlをシェイクして、氷を入れたシャンパングラスに注ぐ。
スライスしたレモン、オレンジ、チェリーを飾って完成。
辛口のウォッカが、ブルーキュラソーのほのかな甘味を引き締め、レモンの酸味がバランスよくまとめる。
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2023年06月11日 (日) | 編集 |
天使VS悪魔。
デイミアン・レオーネ監督による悪魔のピエロ、アート・ザ・クラウンの凶行を描く「テリファー」シリーズ第二作。
今回は天使の羽を持つバトルヒロインが、不死身の殺人ピエロと戦う。
自主制作体制で作られた前作は、バジェットわずか3万5千ドルの低予算映画だったが、容赦ないゴア描写が話題となりカルト化。
知名度が上がったことによって、以前は失敗したクラウドファンドでの資金調達にも成功し、前作の10倍近いバジェット(それでも3千万円程度らしい)を組めたそうで、だいぶスケールアップし、殺しのシチュエーションもバラエティ豊かになった。
それと共に、予言されたコスプレ戦士というヒロインの設定も含め、厨二病全開のぶっ飛び具合はターボがかかって加速。
一応、スラッシャーホラーのスタンダード話形に収まっていた前作とは完全に別物で、ぶっちゃけはるかに面白い。
何気にレオーネ監督は、「残酷だけど話が無いよね」という前作の世評が気になっていたようで、本作ではかなり凝ったプロットを構築している。
主人公のシエナ・ショーは、陰キャの弟ジョナサンと共に、自殺した父のクリエイティブな才能を受け継いでいる。
彼女はハロウィンに向けて、父の創造したキャラクターである天使の羽をまとった戦士ののコスプレ衣装を自作しているところ。
ところがある夜、前作の事件以降行方不明となっているアート・ザ・クラウンが、人々を惨殺する夢をみる。
それ以来、彼女の身の回りにアートの影が付き纏うようになるのだが、実は父親はシエナがアートと戦うことを予言していて、亡くなる前に彼女に一振の“刀“を残しているのだ。
殺人ピエロのアートを、短編時代から繰り返し登場させていることからも分かるように、レオーネ監督はキャラクターに強い拘りを持つようで、天使の羽を持つ女戦士がアートと戦うというコンセプトも2008年には発想していて、今回は10年越しの企画復活だったそう。
凝った背景設定と共に、アートも完全に超常の存在となり、全編にわたって「ボクの好きなもの詰め込みました」感が充満。
なにせこの映画、この種の作品としては異例の138分もあるのだ。
序盤の不条理極まるシエナの夢のシークエンスは、「エルム街の悪夢」を思わせるシュールさ。
遊園地のお化け屋敷が舞台となる後半は、トビー・フーパー監督の「ファンハウス 惨劇の館」オマージュか。
あのお化け屋敷結構凝っていて、実際にあったら行ってみたいぞ。
終盤の展開は、ご都合主義だらけで物語の整合性なんて全く無視なのだけど、物語全体が作者の厨二病っぽい童心の表現だと思えばなんとなく許せてしまう。
前作で話題を呼んだ人体破壊も、相変わらず嬉々としてやってる。
「全米が吐いた⁉︎」がキャッチコピーになってるが、ゴア描写のボリュームはたっぷりでも、さほどリアルには作ってないので、普通にホラー耐性があれば問題無いだろう。
むしろ作者がこの映画作るのを、心底楽しんでるのが伝わってくる。
エンドクレジット途中に、長めの映像あり。
本作の“ラスト・ガール“となったシエナ・ショーは、すでにアナウンスされている「テリファー3」で再びアートと戦いを繰り広げるそう。
演じるローレン・ラヴェラは元々スタント畑の人らしく、激しい立ち回りができるのも魅力だ。
次回作も期待!
今回は「ナイトメア」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、デュボネ30ml、チェリー・ブランデー15ml、オレンジジュース15mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぎ、マラスキーノチェリーを飾って完成。
デュボネとチェリー・ブランデーの甘みと、オレンジの酸味が好バランス。
飲みやすいがアルコール度数の高いカクテルで、二杯、三杯とあけるうちに悪夢に落ちる。
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デイミアン・レオーネ監督による悪魔のピエロ、アート・ザ・クラウンの凶行を描く「テリファー」シリーズ第二作。
今回は天使の羽を持つバトルヒロインが、不死身の殺人ピエロと戦う。
自主制作体制で作られた前作は、バジェットわずか3万5千ドルの低予算映画だったが、容赦ないゴア描写が話題となりカルト化。
知名度が上がったことによって、以前は失敗したクラウドファンドでの資金調達にも成功し、前作の10倍近いバジェット(それでも3千万円程度らしい)を組めたそうで、だいぶスケールアップし、殺しのシチュエーションもバラエティ豊かになった。
それと共に、予言されたコスプレ戦士というヒロインの設定も含め、厨二病全開のぶっ飛び具合はターボがかかって加速。
一応、スラッシャーホラーのスタンダード話形に収まっていた前作とは完全に別物で、ぶっちゃけはるかに面白い。
何気にレオーネ監督は、「残酷だけど話が無いよね」という前作の世評が気になっていたようで、本作ではかなり凝ったプロットを構築している。
主人公のシエナ・ショーは、陰キャの弟ジョナサンと共に、自殺した父のクリエイティブな才能を受け継いでいる。
彼女はハロウィンに向けて、父の創造したキャラクターである天使の羽をまとった戦士ののコスプレ衣装を自作しているところ。
ところがある夜、前作の事件以降行方不明となっているアート・ザ・クラウンが、人々を惨殺する夢をみる。
それ以来、彼女の身の回りにアートの影が付き纏うようになるのだが、実は父親はシエナがアートと戦うことを予言していて、亡くなる前に彼女に一振の“刀“を残しているのだ。
殺人ピエロのアートを、短編時代から繰り返し登場させていることからも分かるように、レオーネ監督はキャラクターに強い拘りを持つようで、天使の羽を持つ女戦士がアートと戦うというコンセプトも2008年には発想していて、今回は10年越しの企画復活だったそう。
凝った背景設定と共に、アートも完全に超常の存在となり、全編にわたって「ボクの好きなもの詰め込みました」感が充満。
なにせこの映画、この種の作品としては異例の138分もあるのだ。
序盤の不条理極まるシエナの夢のシークエンスは、「エルム街の悪夢」を思わせるシュールさ。
遊園地のお化け屋敷が舞台となる後半は、トビー・フーパー監督の「ファンハウス 惨劇の館」オマージュか。
あのお化け屋敷結構凝っていて、実際にあったら行ってみたいぞ。
終盤の展開は、ご都合主義だらけで物語の整合性なんて全く無視なのだけど、物語全体が作者の厨二病っぽい童心の表現だと思えばなんとなく許せてしまう。
前作で話題を呼んだ人体破壊も、相変わらず嬉々としてやってる。
「全米が吐いた⁉︎」がキャッチコピーになってるが、ゴア描写のボリュームはたっぷりでも、さほどリアルには作ってないので、普通にホラー耐性があれば問題無いだろう。
むしろ作者がこの映画作るのを、心底楽しんでるのが伝わってくる。
エンドクレジット途中に、長めの映像あり。
本作の“ラスト・ガール“となったシエナ・ショーは、すでにアナウンスされている「テリファー3」で再びアートと戦いを繰り広げるそう。
演じるローレン・ラヴェラは元々スタント畑の人らしく、激しい立ち回りができるのも魅力だ。
次回作も期待!
今回は「ナイトメア」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、デュボネ30ml、チェリー・ブランデー15ml、オレンジジュース15mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぎ、マラスキーノチェリーを飾って完成。
デュボネとチェリー・ブランデーの甘みと、オレンジの酸味が好バランス。
飲みやすいがアルコール度数の高いカクテルで、二杯、三杯とあけるうちに悪夢に落ちる。

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2023年06月09日 (金) | 編集 |
女たちの決断。
カナダの作家、ミリアム・トウズによる実話にインスパイアされた同名小説を、サラ・ポーリーが監督・脚本を務め映画化したハードな群像劇。
非道な性暴力が蔓延するキリスト教の一派、メノナイトの村。
男たちの殆どが、逮捕された仲間の保釈を請求するため村を留守にした二日間に、女たちが一堂に会し、絶望的な暴力を前に自分たちは今度どうするべきか投票を行う。
選択肢は三つ。
「何もしない」「男たちと戦う」「村を出てゆく」
結果「戦う」と「出てゆく」が同数となり、選択を託された代表者たちによる会議が開かれる。
議論の中心となるのは、クレア・フォイとルーニー・マーラーが演じる対照的なキャラクター。
幼い娘を暴行され、怒り心頭で「戦う」を主張するサロメと、レイプの結果妊娠し「出てゆく」を選択するべきだと言うオーナだ。
この二人を軸として、女たちは意見をぶつけ合い、時には感情的になりながらも、徐々に結論に近づいてゆく。
映画では北アメリカの架空の土地が舞台となっているが、ベースとなった実際の事件は南米ボリビアのメノナイトのコミュニティで起こった。
2005年から2009年にかけて、村の男たちが家畜用鎮静剤を家の中に噴霧し、意識を失わせた後に女たちをレイプした。
暴行の痕跡だけで記憶が無いために、被害者にも何が起こったのか分からず、当初は悪魔や幽霊の仕業とされ、予期せぬ妊娠をした者も多くいた。
被害者の数は151人に上り、逮捕された11人の男たちには長期の懲役刑が課せられたという。
舞台となるのが、メノナイトの村という特殊性が物語のキモ。
19世紀そのものの生活様式で知られるアーミッシュは、メノナイトの分派。
メノナイトの場合、アーミッシュほど戒律は厳しくなく、コミュニティによってはかなり現代的なところもあるのだが、映画の村は電気や自動車も拒否し、ほとんどアーミッシュのような生活を送っている。
そのため、映画がはじまってしばらくは、観客も100年くらい前の話なのかと錯覚している。
ところが中盤で"Daydream Believer"をスピーカーから響かせて、外界から国勢調査の車が現れ、この前時代的な物語が展開されているのが、現代であることに驚愕する仕掛け。
女性の就学を認めていないために女たちは皆文盲で、誰も外の世界に出たことが無いゆえ、自分たちがいかに虐げられた環境にいるのかも知らない。
ただ男たちの行為が、徹底的な非暴力と平和主義を掲げる信仰に反しているのは間違いなく、人間としての尊厳を奪われたまま、目を瞑る訳にはいかないのだ。
アメリカ映画で「議論」を描いた作品は今年「対峙」という秀作があったが、本作も時間と共に白熱する激論から目が離せない。
小さなコミュニティとは言っても事情は様々で、彼女たちも決して一枚岩ではない。
村を出てしまっては天国に行けない、男たちを許すべきだという意見もあれば、地獄に堕ちたとしても男たちを殺すという過激な主張も。
しかし、オーナの母であるアガタが、聖書の「ピリピ人への手紙」を引用する形で、平和主義という信仰の原点を思い出させる。
暴力に暴力で対抗するのではなく、勇気を持って出て行くことで、信仰を裏切らずに自分たちを守れると言うのだ。
復讐心にとりつかれ納得いかない者も、やがて説得され矛を収める。
多岐に渡る意見が出て、やがて集団として一つの未来を描き出すのは、まさに民主主義の原点だ。
村の男たちは、愛想を尽かされて捨てられた訳だが、男で唯一村に残り会議の書記を務めた、ベン・ウィショーのはみ出し者の教師が希望となる。
女性を尊重できる男になるか、暴力で支配しようとする男になるか、全ては教育次第。
彼女たちの置かれた環境はかなり特殊だが、結局のところ男たちが価値観を変えられるかにかかっているのは、普遍的な事実だろう。
沈んだ心を映し出したかのように、極端に彩度を落とし、光と影を強調した映像が印象的。
静かに力強く真理を描く、大変な力作である。
今回は、歌詞と物語がシンクロし、エンディングテーマにもなっている"Daydream Believer"から、「デイドリーム・マティーニ」をチョイス。
シトラスウォッカ90ml、オレンジジュース30ml、トリプルセック15ml、シロップ1dashを氷を入れたミキシンググラスでステアし、冷やしたグラスに注ぐ。
甘味と酸味がバランスし、柑橘類の香りが清涼さを際立たせる。
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カナダの作家、ミリアム・トウズによる実話にインスパイアされた同名小説を、サラ・ポーリーが監督・脚本を務め映画化したハードな群像劇。
非道な性暴力が蔓延するキリスト教の一派、メノナイトの村。
男たちの殆どが、逮捕された仲間の保釈を請求するため村を留守にした二日間に、女たちが一堂に会し、絶望的な暴力を前に自分たちは今度どうするべきか投票を行う。
選択肢は三つ。
「何もしない」「男たちと戦う」「村を出てゆく」
結果「戦う」と「出てゆく」が同数となり、選択を託された代表者たちによる会議が開かれる。
議論の中心となるのは、クレア・フォイとルーニー・マーラーが演じる対照的なキャラクター。
幼い娘を暴行され、怒り心頭で「戦う」を主張するサロメと、レイプの結果妊娠し「出てゆく」を選択するべきだと言うオーナだ。
この二人を軸として、女たちは意見をぶつけ合い、時には感情的になりながらも、徐々に結論に近づいてゆく。
映画では北アメリカの架空の土地が舞台となっているが、ベースとなった実際の事件は南米ボリビアのメノナイトのコミュニティで起こった。
2005年から2009年にかけて、村の男たちが家畜用鎮静剤を家の中に噴霧し、意識を失わせた後に女たちをレイプした。
暴行の痕跡だけで記憶が無いために、被害者にも何が起こったのか分からず、当初は悪魔や幽霊の仕業とされ、予期せぬ妊娠をした者も多くいた。
被害者の数は151人に上り、逮捕された11人の男たちには長期の懲役刑が課せられたという。
舞台となるのが、メノナイトの村という特殊性が物語のキモ。
19世紀そのものの生活様式で知られるアーミッシュは、メノナイトの分派。
メノナイトの場合、アーミッシュほど戒律は厳しくなく、コミュニティによってはかなり現代的なところもあるのだが、映画の村は電気や自動車も拒否し、ほとんどアーミッシュのような生活を送っている。
そのため、映画がはじまってしばらくは、観客も100年くらい前の話なのかと錯覚している。
ところが中盤で"Daydream Believer"をスピーカーから響かせて、外界から国勢調査の車が現れ、この前時代的な物語が展開されているのが、現代であることに驚愕する仕掛け。
女性の就学を認めていないために女たちは皆文盲で、誰も外の世界に出たことが無いゆえ、自分たちがいかに虐げられた環境にいるのかも知らない。
ただ男たちの行為が、徹底的な非暴力と平和主義を掲げる信仰に反しているのは間違いなく、人間としての尊厳を奪われたまま、目を瞑る訳にはいかないのだ。
アメリカ映画で「議論」を描いた作品は今年「対峙」という秀作があったが、本作も時間と共に白熱する激論から目が離せない。
小さなコミュニティとは言っても事情は様々で、彼女たちも決して一枚岩ではない。
村を出てしまっては天国に行けない、男たちを許すべきだという意見もあれば、地獄に堕ちたとしても男たちを殺すという過激な主張も。
しかし、オーナの母であるアガタが、聖書の「ピリピ人への手紙」を引用する形で、平和主義という信仰の原点を思い出させる。
暴力に暴力で対抗するのではなく、勇気を持って出て行くことで、信仰を裏切らずに自分たちを守れると言うのだ。
復讐心にとりつかれ納得いかない者も、やがて説得され矛を収める。
多岐に渡る意見が出て、やがて集団として一つの未来を描き出すのは、まさに民主主義の原点だ。
村の男たちは、愛想を尽かされて捨てられた訳だが、男で唯一村に残り会議の書記を務めた、ベン・ウィショーのはみ出し者の教師が希望となる。
女性を尊重できる男になるか、暴力で支配しようとする男になるか、全ては教育次第。
彼女たちの置かれた環境はかなり特殊だが、結局のところ男たちが価値観を変えられるかにかかっているのは、普遍的な事実だろう。
沈んだ心を映し出したかのように、極端に彩度を落とし、光と影を強調した映像が印象的。
静かに力強く真理を描く、大変な力作である。
今回は、歌詞と物語がシンクロし、エンディングテーマにもなっている"Daydream Believer"から、「デイドリーム・マティーニ」をチョイス。
シトラスウォッカ90ml、オレンジジュース30ml、トリプルセック15ml、シロップ1dashを氷を入れたミキシンググラスでステアし、冷やしたグラスに注ぐ。
甘味と酸味がバランスし、柑橘類の香りが清涼さを際立たせる。

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2023年06月07日 (水) | 編集 |
怪物だーれだ。
湖のある街の小学校で起こった、生徒と教師のトラブル。
最初は単純な教師の暴力行為と思われたが、真っ向から食い違う証言に事態は次第に混迷を深めてゆく。
はたして嘘をついているのはどちらなのか?子供たちの言う「怪物」とは誰のことなのか?
是枝裕和が監督を務め、「花束みたいな恋をした」の坂元裕二がオリジナル脚本を手掛けたウェルメイドな心理劇。
発端となる生徒の母親に安藤サクラ、暴力を振るったと疑われる教師に永山瑛太。
キーパーソンとなる二人の子供を黒川想矢と柊木陽太が演じる。
第76回カンヌ国際映画祭で、脚本賞とLGBTQを扱った作品に与えられるクイア・パルム賞に輝いた話題作であり、「万引き家族」と並ぶ是枝裕和のキャリアベストだ。
三月に死去した坂本龍一にとっては、これが映画音楽家としての遺作となる。
※核心部分に触れています。
麦野早織(安藤サクラ)は、一人息子で小学5年生の湊(黒川想矢)と共に、大きな湖のある山間の街に住んでいる。
夫はすでに亡く、クリーニング店に勤めながら、子育てに奮闘するシングルマザーだ。
しかし、ある日を境に湊の様子がおかしくなる。
問い詰めると、担任の保利(永山瑛太)に暴力を振るわれていると言う。
早織は学校に抗議に行くが、校長の伏見(田中裕子)はのらりくらりと事務的な対応に終始し、ようやく現れた保利の言葉も要領を得ない。
一方で保利は、湊がクラスメイトの星川依里(柊木陽太)をいじめているのではないかと疑っていて依里の家を訪ねる。
ところが、現れた父親の清高(中村獅童)は息子のことを「あれはね、化け物ですよ。頭の中に、人間じゃなくて豚の脳が入ってるの」と言い放つ。
学校の暴力事件はマスコミに報じられ、保利は教職を追われるが、何が真実なのかは藪の中。
そんな時、台風が接近する嵐の夜に、湊と依里が突然いなくなる・・・
カンヌで最高賞に当たるパルム・ドールを獲得した「万引き家族」以降、是枝裕和はフランスと韓国を舞台に「真実」と「ベイビー・ブローカー」という映画を撮った。
この二本は共に家族をモチーフに、非常に是枝色の強い作品になっていたが、正直なところ人物や物語の掘り下げが浅く、彼の作品としては印象が薄かった。
その原因の一つが、自分で脚本を手掛けていることだと思う。
フランスはもとより、隣国の韓国でも国民性や文化はだいぶ違う。
もちろん綿密な取材は行っているのだろうが、異文化を舞台に外国人が一から物語を作るのは難しい。
いかに是枝裕和をもってしても、表層的なものになってしまった感は否めない。
現地の脚本家を入れてチームを組んだら、結果は違ったものになったかも知れないが、彼は自分のスタイルを変えようとはしなかった。
ところが、5年ぶりで日本で撮った本作は、坂元裕二の書き下ろしである。
是枝裕和が自分で脚本を書かないのは、荻田芳久が脚色を担当したデビュー作、「幻の光」以来のことなのだ。
これは大きな賭けだったと思う。
坂元裕二の作品は、全ての要素が緻密な計算のもとに構成されていて、曖昧さが微塵も無い。
モザイク画のように、一欠片の色が違っていても違和感を感じさせてしまう様な繊細さが特徴だ。
対して、ドキュメンタリスト出身の是枝裕和は、臨機応変に枠を動かす。
子供をキャスティングすれば本名と役名を同じにし、脚本を渡さずに即興性の強い半ドキュメンタリー的な演出でナチュラルさを引き出す。
いわば真逆の個性で、二人がコラボすると聞いた時は、恐ろしく食い合わせが悪いのでは?と思った。
結果的にこの心配は杞憂に終わり、どこまでも坂元裕二的な物語でありながら、終わってみたら是枝裕和の完全な作家映画という、超一流の仕事人同士の理想的なマリアージュとなっている。
ちなみに今回は、子供たちにも事前に脚本を渡し、大人と同じ対応をとったそうだ。
坂本裕二の脚本は、小学校で起こった暴力事件の顛末を三つの視点で描く、いわゆる羅生門ケースの構成となっていて、各パートがおおよそ40分。
最初の視点の主は、安藤サクラ演じる母親の早織だ。
夫を事故で亡くし、女手一つで思春期の息子を育てるシングルマザー。
息子の湊とは仲が良いが、ある日を境にして湊の様子が変わる。
突然髪を自分で切る。夜遅くまで出歩く。車から飛び降りるという奇行に、早織が何があったのかと問い詰めると、自分の頭には豚の脳が入っていると教師の保利から暴言を浴びせられ、暴力を振るわれたと告白する。
当然、早織は学校に抗議に出向くが、この時点で観客は、子供のことを考え、ひたむきな早織にどっぷり感情移入している。
事務的な言動に終始する校長や言動が要領を得ない保利も含め、教師たちはおしなべて不誠実に映る。
だがしかし、保利の視点で語られる物語が始まると、印象は一変する。
学校に赴任して来たばかりの保利は、生徒一人ひとりに寄り添おうとしている誠実な教師。
ある日、教室で湊が訳もなく暴れているのを止めようとして、小さな怪我を負わせてしまう。
それ以来、保利の中で湊は要注意の生徒となり、いくつかの出来事が重なって、学級内でいじめが起きているのではないかと疑う様になる。
いじめているのは湊で、被害に遭っているのは男子生徒の中では体が小さく、女子とばかり話しをしている中性的な雰囲気の依里だ。
そんな時に、自分が暴力を振るったとして、突然湊の母親が学校に怒鳴り込んで来たのだから、保利にとっては青天の霹靂。
事態を丸く治めるために、校長や上司たちからやってないことをやったと言わされるのだから、要領を得ないのもやむを得ないのである。
この様に、事実関係の認識が異なる噛み合わない大人視点の後に、本当に何が起こったていたのか、湊と依里、二人の子供視点の物語が全てを解き明かす。
浮かび上がるのは、切なくて小さな嘘。
湊と依里は、お互いにほのかな恋心を芽生えさせているのである。
ここへ来て、それまでの大人視点で語られた物語で、大人たちがいかに二人にプレッシャーを与えていたのかも明らかになる。
不倫旅行中に事故にあった夫に対し、意地にも似た複雑な想いを抱える早織は、湊が結婚して家庭を持つまで頑張ると言う。
保利は、体育の授業で無意識に男らしさを男子生徒に求める。
依里の父親に至っては、ストレートに息子の性的指向を否定し、虐待する。
大人たちの言動は自分では全く悪意のないものだが、自らの中に芽生えた衝動に戸惑い、どうしていいのか分からない子供たちにとっては、自分がまるでこの世界の異物になったようなネガティブな感情を抱かせる。
男の子に恋をする自分たちは、豚の脳を持つ怪物で、それは決して人に知られてはならない、そんな切実な考えが嘘を生む。
本作における「本当の怪物」とは、誰もが気付かずに持っている加害性のことだろう。
人は目の前にある事実を知らない、あるいは気付かない場合、真実は一つだと思い込み、早織や保利のように無意識の加害を行なってしまう。
依里の父親のように、分かっていても自分の信じたいように世界を見て加害する者もいる。
そして隠された加害性は、一般的に差別や迫害を受ける側も例外では無い。
自分たちの関係を守ろうとした湊は、結果的に保利をスケープゴートにし、依里は父親が通い詰めるキャバクラに放火して燃やした。
人間の心の認識と現実にギャップがある場合、それを取り繕おうとして、隙間に怪物が生まれるのである。
たとえどんなに親しい間柄であっても、親子であったとしても、人は心のうち全てを外には明かさないし、明かせない。
坂元裕二がカンヌ脚本賞を受賞した後に語った、「たった一人の孤独な人のために書いた」という言葉が、グッっと来る所以である。
人間が現実世界と精神世界、双方に生きている生物である限り、絶対的な真実といいうのは存在しない。
普通の子供とは逆の存在であることを示唆する鏡文字や、まるで怪物の咆哮の様に聞こえる管楽器の音など、物語を紐解くヒントは散りばめられいるが、それらも含めて曖昧性を持たせてある。
物議を醸してる叙情的なラストも含めて、本作があらゆる部分で多面的な解釈を出来るように、あえて作られているのは明らかだ。
湊と依里の秘密基地が、露骨に「銀河鉄道の夜」を思い起こさせる廃列車だったり、かなり意地の悪い設定なのだが、物語のラストは子供たち自身の台詞にもあるように、生まれ変わった世界線だったり、死後の世界というわけでは無いと思う。
実は脚本を読むと、何が起こったのかはもう少し明確に書かれているのだが、是枝裕和はここにもあえて曖昧さを含ませているのだ。
二人が走ってゆく廃線路の先の鉄橋には、以前のシーンでは立ち入り禁止の柵が設置されていたが、ラストでは無くなっている。
私的には、湊と依里が自分たちの心と現実との間にはギャップがあることを受け入れて、未来に向けて歩み出した心象風景を描いたものだと解釈したい。
観る者によって、または観る度に印象が変わる、ロールシャッハテストの様な作りは、「TAR ター」を思わせる部分もある。
内容的には全く異なるものの、あの映画も噛み合わない心と現実をモチーフにした優れた作品だった。
音響が凝っているのも共通しているが、本作では背景でさりげなく流れている消防車のサイレン、スピーカーから流れる役所のアナウンス、そして管楽器の音といった音響設計が、三つのパートの時系列を揃える役割を持っているのも面白い。
いずれにしても、演出、脚本、撮影、美術、音楽と画面の隅々まで超一流の仕事を堪能出来る素晴らしい作品だ。
どこまでもナチュラルな子供たちの描き方は、さすがの是枝節。
今回は、ロケ地となった諏訪からほど近い、長野県上伊那郡の小野酒造の地酒「夜明け前 純米吟醸生一本 」をチョイス。
島崎藤村の同名小説から命名された銘柄だが、蔵元は藤村の長男・島崎楠雄と「この名を使う以上は、命に代えても本物を追求する精神を忘れない」という約束を交わしたという。
上品な吟醸香がふわりと鼻腔に広がる、まろやかな酒。
ザ・スタンダード純米吟醸酒とでも言うべき仕上がりで、クセのない味わいはつけ合わせる料理を選ばず。
冷からぬる燗まで、どんな飲み方をしても美味しくいただける。
「夜明け前」銘柄を代表する一本だ。
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湖のある街の小学校で起こった、生徒と教師のトラブル。
最初は単純な教師の暴力行為と思われたが、真っ向から食い違う証言に事態は次第に混迷を深めてゆく。
はたして嘘をついているのはどちらなのか?子供たちの言う「怪物」とは誰のことなのか?
是枝裕和が監督を務め、「花束みたいな恋をした」の坂元裕二がオリジナル脚本を手掛けたウェルメイドな心理劇。
発端となる生徒の母親に安藤サクラ、暴力を振るったと疑われる教師に永山瑛太。
キーパーソンとなる二人の子供を黒川想矢と柊木陽太が演じる。
第76回カンヌ国際映画祭で、脚本賞とLGBTQを扱った作品に与えられるクイア・パルム賞に輝いた話題作であり、「万引き家族」と並ぶ是枝裕和のキャリアベストだ。
三月に死去した坂本龍一にとっては、これが映画音楽家としての遺作となる。
※核心部分に触れています。
麦野早織(安藤サクラ)は、一人息子で小学5年生の湊(黒川想矢)と共に、大きな湖のある山間の街に住んでいる。
夫はすでに亡く、クリーニング店に勤めながら、子育てに奮闘するシングルマザーだ。
しかし、ある日を境に湊の様子がおかしくなる。
問い詰めると、担任の保利(永山瑛太)に暴力を振るわれていると言う。
早織は学校に抗議に行くが、校長の伏見(田中裕子)はのらりくらりと事務的な対応に終始し、ようやく現れた保利の言葉も要領を得ない。
一方で保利は、湊がクラスメイトの星川依里(柊木陽太)をいじめているのではないかと疑っていて依里の家を訪ねる。
ところが、現れた父親の清高(中村獅童)は息子のことを「あれはね、化け物ですよ。頭の中に、人間じゃなくて豚の脳が入ってるの」と言い放つ。
学校の暴力事件はマスコミに報じられ、保利は教職を追われるが、何が真実なのかは藪の中。
そんな時、台風が接近する嵐の夜に、湊と依里が突然いなくなる・・・
カンヌで最高賞に当たるパルム・ドールを獲得した「万引き家族」以降、是枝裕和はフランスと韓国を舞台に「真実」と「ベイビー・ブローカー」という映画を撮った。
この二本は共に家族をモチーフに、非常に是枝色の強い作品になっていたが、正直なところ人物や物語の掘り下げが浅く、彼の作品としては印象が薄かった。
その原因の一つが、自分で脚本を手掛けていることだと思う。
フランスはもとより、隣国の韓国でも国民性や文化はだいぶ違う。
もちろん綿密な取材は行っているのだろうが、異文化を舞台に外国人が一から物語を作るのは難しい。
いかに是枝裕和をもってしても、表層的なものになってしまった感は否めない。
現地の脚本家を入れてチームを組んだら、結果は違ったものになったかも知れないが、彼は自分のスタイルを変えようとはしなかった。
ところが、5年ぶりで日本で撮った本作は、坂元裕二の書き下ろしである。
是枝裕和が自分で脚本を書かないのは、荻田芳久が脚色を担当したデビュー作、「幻の光」以来のことなのだ。
これは大きな賭けだったと思う。
坂元裕二の作品は、全ての要素が緻密な計算のもとに構成されていて、曖昧さが微塵も無い。
モザイク画のように、一欠片の色が違っていても違和感を感じさせてしまう様な繊細さが特徴だ。
対して、ドキュメンタリスト出身の是枝裕和は、臨機応変に枠を動かす。
子供をキャスティングすれば本名と役名を同じにし、脚本を渡さずに即興性の強い半ドキュメンタリー的な演出でナチュラルさを引き出す。
いわば真逆の個性で、二人がコラボすると聞いた時は、恐ろしく食い合わせが悪いのでは?と思った。
結果的にこの心配は杞憂に終わり、どこまでも坂元裕二的な物語でありながら、終わってみたら是枝裕和の完全な作家映画という、超一流の仕事人同士の理想的なマリアージュとなっている。
ちなみに今回は、子供たちにも事前に脚本を渡し、大人と同じ対応をとったそうだ。
坂本裕二の脚本は、小学校で起こった暴力事件の顛末を三つの視点で描く、いわゆる羅生門ケースの構成となっていて、各パートがおおよそ40分。
最初の視点の主は、安藤サクラ演じる母親の早織だ。
夫を事故で亡くし、女手一つで思春期の息子を育てるシングルマザー。
息子の湊とは仲が良いが、ある日を境にして湊の様子が変わる。
突然髪を自分で切る。夜遅くまで出歩く。車から飛び降りるという奇行に、早織が何があったのかと問い詰めると、自分の頭には豚の脳が入っていると教師の保利から暴言を浴びせられ、暴力を振るわれたと告白する。
当然、早織は学校に抗議に出向くが、この時点で観客は、子供のことを考え、ひたむきな早織にどっぷり感情移入している。
事務的な言動に終始する校長や言動が要領を得ない保利も含め、教師たちはおしなべて不誠実に映る。
だがしかし、保利の視点で語られる物語が始まると、印象は一変する。
学校に赴任して来たばかりの保利は、生徒一人ひとりに寄り添おうとしている誠実な教師。
ある日、教室で湊が訳もなく暴れているのを止めようとして、小さな怪我を負わせてしまう。
それ以来、保利の中で湊は要注意の生徒となり、いくつかの出来事が重なって、学級内でいじめが起きているのではないかと疑う様になる。
いじめているのは湊で、被害に遭っているのは男子生徒の中では体が小さく、女子とばかり話しをしている中性的な雰囲気の依里だ。
そんな時に、自分が暴力を振るったとして、突然湊の母親が学校に怒鳴り込んで来たのだから、保利にとっては青天の霹靂。
事態を丸く治めるために、校長や上司たちからやってないことをやったと言わされるのだから、要領を得ないのもやむを得ないのである。
この様に、事実関係の認識が異なる噛み合わない大人視点の後に、本当に何が起こったていたのか、湊と依里、二人の子供視点の物語が全てを解き明かす。
浮かび上がるのは、切なくて小さな嘘。
湊と依里は、お互いにほのかな恋心を芽生えさせているのである。
ここへ来て、それまでの大人視点で語られた物語で、大人たちがいかに二人にプレッシャーを与えていたのかも明らかになる。
不倫旅行中に事故にあった夫に対し、意地にも似た複雑な想いを抱える早織は、湊が結婚して家庭を持つまで頑張ると言う。
保利は、体育の授業で無意識に男らしさを男子生徒に求める。
依里の父親に至っては、ストレートに息子の性的指向を否定し、虐待する。
大人たちの言動は自分では全く悪意のないものだが、自らの中に芽生えた衝動に戸惑い、どうしていいのか分からない子供たちにとっては、自分がまるでこの世界の異物になったようなネガティブな感情を抱かせる。
男の子に恋をする自分たちは、豚の脳を持つ怪物で、それは決して人に知られてはならない、そんな切実な考えが嘘を生む。
本作における「本当の怪物」とは、誰もが気付かずに持っている加害性のことだろう。
人は目の前にある事実を知らない、あるいは気付かない場合、真実は一つだと思い込み、早織や保利のように無意識の加害を行なってしまう。
依里の父親のように、分かっていても自分の信じたいように世界を見て加害する者もいる。
そして隠された加害性は、一般的に差別や迫害を受ける側も例外では無い。
自分たちの関係を守ろうとした湊は、結果的に保利をスケープゴートにし、依里は父親が通い詰めるキャバクラに放火して燃やした。
人間の心の認識と現実にギャップがある場合、それを取り繕おうとして、隙間に怪物が生まれるのである。
たとえどんなに親しい間柄であっても、親子であったとしても、人は心のうち全てを外には明かさないし、明かせない。
坂元裕二がカンヌ脚本賞を受賞した後に語った、「たった一人の孤独な人のために書いた」という言葉が、グッっと来る所以である。
人間が現実世界と精神世界、双方に生きている生物である限り、絶対的な真実といいうのは存在しない。
普通の子供とは逆の存在であることを示唆する鏡文字や、まるで怪物の咆哮の様に聞こえる管楽器の音など、物語を紐解くヒントは散りばめられいるが、それらも含めて曖昧性を持たせてある。
物議を醸してる叙情的なラストも含めて、本作があらゆる部分で多面的な解釈を出来るように、あえて作られているのは明らかだ。
湊と依里の秘密基地が、露骨に「銀河鉄道の夜」を思い起こさせる廃列車だったり、かなり意地の悪い設定なのだが、物語のラストは子供たち自身の台詞にもあるように、生まれ変わった世界線だったり、死後の世界というわけでは無いと思う。
実は脚本を読むと、何が起こったのかはもう少し明確に書かれているのだが、是枝裕和はここにもあえて曖昧さを含ませているのだ。
二人が走ってゆく廃線路の先の鉄橋には、以前のシーンでは立ち入り禁止の柵が設置されていたが、ラストでは無くなっている。
私的には、湊と依里が自分たちの心と現実との間にはギャップがあることを受け入れて、未来に向けて歩み出した心象風景を描いたものだと解釈したい。
観る者によって、または観る度に印象が変わる、ロールシャッハテストの様な作りは、「TAR ター」を思わせる部分もある。
内容的には全く異なるものの、あの映画も噛み合わない心と現実をモチーフにした優れた作品だった。
音響が凝っているのも共通しているが、本作では背景でさりげなく流れている消防車のサイレン、スピーカーから流れる役所のアナウンス、そして管楽器の音といった音響設計が、三つのパートの時系列を揃える役割を持っているのも面白い。
いずれにしても、演出、脚本、撮影、美術、音楽と画面の隅々まで超一流の仕事を堪能出来る素晴らしい作品だ。
どこまでもナチュラルな子供たちの描き方は、さすがの是枝節。
今回は、ロケ地となった諏訪からほど近い、長野県上伊那郡の小野酒造の地酒「夜明け前 純米吟醸生一本 」をチョイス。
島崎藤村の同名小説から命名された銘柄だが、蔵元は藤村の長男・島崎楠雄と「この名を使う以上は、命に代えても本物を追求する精神を忘れない」という約束を交わしたという。
上品な吟醸香がふわりと鼻腔に広がる、まろやかな酒。
ザ・スタンダード純米吟醸酒とでも言うべき仕上がりで、クセのない味わいはつけ合わせる料理を選ばず。
冷からぬる燗まで、どんな飲み方をしても美味しくいただける。
「夜明け前」銘柄を代表する一本だ。

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2023年06月03日 (土) | 編集 |
絶望の向こうにあるもの。
3.11から始まる、シニカルなブラックコメディ。
震災直後の放射能パニック下で失踪した夫が、長い歳月が過ぎた後に、末期癌を患って突然帰ってくる。
筒井真理子演じる主人公の依子は、夫不在の間に「緑命会」と言う新興宗教にのめり込んでいて、自分を捨てた夫に対するどす黒い感情と、善行を積まなければならないという教えの板挟みになってしまうのだ。
監督・脚本は、「川っぺりムコリッタ」が記憶に新しい荻上直子。
前作でも人間の秘められた二面性が印象的だったが、今回はダークサイドのカリカチュアが全開だ。
主人公の須藤依子を筒井真理子が怪演し、夫の修を光石研、息子の拓哉を磯村勇斗が演じる。
※核心部分に触れています。
冒頭で福島第一原発の事故後、放射能パニックに陥った首都圏での水の買い占め騒動が描かれ、ガーディニングが趣味だった修は、収穫しても食べられないであろう野菜を見て、ホースの水を出しっぱなしにしたままいなくなる。
現在の依子が信仰する「緑命会」の収入源は、怪しげな命の水の販売で、彼女の家は水のボトルで溢れかえっている。
依子が一人で住む庭は、修の失踪後に存在しない水を愛でる、立派な枯山水に作り変えられていて、タイトル通り全編にわたって水が重要なモチーフとなる。
物語の途中で、故・安倍晋三元首相が2013年の国際オリンピック委員会総会で、福島原発の安全性を保障した演説の一節「the situation is under control.」がテレビから聞こえてくる。
本作の年代は明示されないが、3.11からは10年程度は経っているはずなので、おそらく生放送ではないのだろう。
この言葉通り、依子の日常は一見すると「アンダーコントロール」状態にある。
夫は出て行き、一人息子の拓哉は遠く九州で就職。
半年前に義父も亡くなったので、広い家に一人ぼっち。
彼女の生活は「緑命会」の信仰が中心となっていて、日夜水晶玉に祈りを捧げ、休日には勉強会に出かけ、変なダンスを踊る。
ところが、長らく静かだった枯山水の水面に、夫の突然の帰還という小石が投げ込まれ、波紋が立つ。
これを皮切りにして、危うい均衡のもとに成り立っていた依子の平穏な日常は崩れてゆく。
働いているスーパーには、柄本明演じる値引きジジイがしょっちゅうやって来て、商品が傷んでいるから半額にしろと強要し、拒むと怒鳴りつけられる。
久しぶりに息子が帰ってきたと思ったら、連れて来た恋人の珠美はかなり気の強い聴覚障害者。
いつの間にか、彼女の枯山水には幾つもの石が投げ込まれ波紋だらけになっている。
「緑命会」の教えでは、善行を積まねば魂のステージは上がらないことになっているが、夫をタダで助けるのは癪に触るし、ジジイには反論したいし、障害者の珠美には息子と別れてもらいたい。
どんなに取り繕っても、依子はとことん分かりやすい俗物なのである。
3.11は色々な意味で日本社会にどこにも持って生きようのない閉塞をもたらしたが、ある意味で依子はその象徴みたいな人物だ。
様々な柵によってがんじがらめになっている主人公と、波紋の要因たる家族との会食シーンは、笑っていいんだか、いけないんだか。
問題を押し殺し、平静を装って何年も生きて来たが、出現した複数の波紋が共鳴しあい、結果的に彼女が本来抱えていた問題は全て可視化され、修の癌に効くと、高額な水をお勧めされたことで、心の拠り所だった「緑命会」対する信頼も危うくなる。
依子にとって救いとなるのが、木野花が演じるスーパーの同僚の水木の存在。
ひょんなことから水木と仲良くなり、初めて隠されていた他人の裏側を見たことで、依子自身も本心と向き合う覚悟が出来る。
自由の象徴であるフラメンコの手拍子が効果的に使われており、クライマックスで主人公の自我の解放を後押しする。
なるほど、人間て素晴らしいけどめんどくさい。
もはやロハス系なんて言葉では語れない、映画作家荻上直子の円熟を感じさせる一本だ。
今回は、人間の表と裏の物語なので、白と黒のカクテル「ブラック・ベルベット」をチョイス。
スタウトビールとキンキンに冷やした辛口のシャンパン、もしくはスパークリング・ワインを、1:1の割合で静かにゴブレットに注ぐと、スタウトの黒と明るいシャンパンがグラディエーションを形作り、さらに上には白い泡というモノトーンのカクテルが出来上がる。
スタウトの濃厚さとシャンパンの爽快さが混じり合い、二つの発泡性の酒が作り出す泡はベルベットの様にきめ細かい。
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3.11から始まる、シニカルなブラックコメディ。
震災直後の放射能パニック下で失踪した夫が、長い歳月が過ぎた後に、末期癌を患って突然帰ってくる。
筒井真理子演じる主人公の依子は、夫不在の間に「緑命会」と言う新興宗教にのめり込んでいて、自分を捨てた夫に対するどす黒い感情と、善行を積まなければならないという教えの板挟みになってしまうのだ。
監督・脚本は、「川っぺりムコリッタ」が記憶に新しい荻上直子。
前作でも人間の秘められた二面性が印象的だったが、今回はダークサイドのカリカチュアが全開だ。
主人公の須藤依子を筒井真理子が怪演し、夫の修を光石研、息子の拓哉を磯村勇斗が演じる。
※核心部分に触れています。
冒頭で福島第一原発の事故後、放射能パニックに陥った首都圏での水の買い占め騒動が描かれ、ガーディニングが趣味だった修は、収穫しても食べられないであろう野菜を見て、ホースの水を出しっぱなしにしたままいなくなる。
現在の依子が信仰する「緑命会」の収入源は、怪しげな命の水の販売で、彼女の家は水のボトルで溢れかえっている。
依子が一人で住む庭は、修の失踪後に存在しない水を愛でる、立派な枯山水に作り変えられていて、タイトル通り全編にわたって水が重要なモチーフとなる。
物語の途中で、故・安倍晋三元首相が2013年の国際オリンピック委員会総会で、福島原発の安全性を保障した演説の一節「the situation is under control.」がテレビから聞こえてくる。
本作の年代は明示されないが、3.11からは10年程度は経っているはずなので、おそらく生放送ではないのだろう。
この言葉通り、依子の日常は一見すると「アンダーコントロール」状態にある。
夫は出て行き、一人息子の拓哉は遠く九州で就職。
半年前に義父も亡くなったので、広い家に一人ぼっち。
彼女の生活は「緑命会」の信仰が中心となっていて、日夜水晶玉に祈りを捧げ、休日には勉強会に出かけ、変なダンスを踊る。
ところが、長らく静かだった枯山水の水面に、夫の突然の帰還という小石が投げ込まれ、波紋が立つ。
これを皮切りにして、危うい均衡のもとに成り立っていた依子の平穏な日常は崩れてゆく。
働いているスーパーには、柄本明演じる値引きジジイがしょっちゅうやって来て、商品が傷んでいるから半額にしろと強要し、拒むと怒鳴りつけられる。
久しぶりに息子が帰ってきたと思ったら、連れて来た恋人の珠美はかなり気の強い聴覚障害者。
いつの間にか、彼女の枯山水には幾つもの石が投げ込まれ波紋だらけになっている。
「緑命会」の教えでは、善行を積まねば魂のステージは上がらないことになっているが、夫をタダで助けるのは癪に触るし、ジジイには反論したいし、障害者の珠美には息子と別れてもらいたい。
どんなに取り繕っても、依子はとことん分かりやすい俗物なのである。
3.11は色々な意味で日本社会にどこにも持って生きようのない閉塞をもたらしたが、ある意味で依子はその象徴みたいな人物だ。
様々な柵によってがんじがらめになっている主人公と、波紋の要因たる家族との会食シーンは、笑っていいんだか、いけないんだか。
問題を押し殺し、平静を装って何年も生きて来たが、出現した複数の波紋が共鳴しあい、結果的に彼女が本来抱えていた問題は全て可視化され、修の癌に効くと、高額な水をお勧めされたことで、心の拠り所だった「緑命会」対する信頼も危うくなる。
依子にとって救いとなるのが、木野花が演じるスーパーの同僚の水木の存在。
ひょんなことから水木と仲良くなり、初めて隠されていた他人の裏側を見たことで、依子自身も本心と向き合う覚悟が出来る。
自由の象徴であるフラメンコの手拍子が効果的に使われており、クライマックスで主人公の自我の解放を後押しする。
なるほど、人間て素晴らしいけどめんどくさい。
もはやロハス系なんて言葉では語れない、映画作家荻上直子の円熟を感じさせる一本だ。
今回は、人間の表と裏の物語なので、白と黒のカクテル「ブラック・ベルベット」をチョイス。
スタウトビールとキンキンに冷やした辛口のシャンパン、もしくはスパークリング・ワインを、1:1の割合で静かにゴブレットに注ぐと、スタウトの黒と明るいシャンパンがグラディエーションを形作り、さらに上には白い泡というモノトーンのカクテルが出来上がる。
スタウトの濃厚さとシャンパンの爽快さが混じり合い、二つの発泡性の酒が作り出す泡はベルベットの様にきめ細かい。

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