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※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
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2023年08月29日 (火) | 編集 |
いつか散る時のために。
ボクシング映画にハズレ無しの法則発動。
まあ原作・沢木耕太郎、監督・瀬々敬久、主演・佐藤浩市と横浜流星という面子の段階で「盤石」という言葉しか思い浮かばないのだけど。
佐藤浩市が演じるのは、かつてアメリカにボクサーとして渡り、不公正な判定で挫折した男、広岡仁一。
ホテルマンに転身し、ビジネスで成功した仁一が40年ぶりに帰国する。
そこで彼が出会うのが、横浜流星演じるギラギラとした目をした黒木翔吾だ。
彼も日本タイトル戦で不公正な判定の結果敗れ、ボクサーを引退していた。
偶然にも仁一の技ありのパンチを見た翔吾は弟子入りを志願し、彼の熱気に押し切られる形で、仁一もボクシングの夢に再挑戦することを決める。
刹那的な一瞬に生きる、不器用なまでにストイックで泥臭く、目を離せない男たち。
これは若者の挑戦と成長の物語である一方、人生を燃え尽きさせてもいいと思える、終の居場所を探す老人たちの話でもある。
ボクサー時代の仁一のジム仲間、佐瀬健三役の片岡鶴太郎がいい。
まるで仙人のような風貌で、登場時はくたびれ切って見えるのだが、トレナーとしてリングに帰ってくると途端に輝き出す。
そう言えばこの人、実際にボクシングのプロライセンス持ってるんだった。
デビュー当時は小太りで脂ギッシュな芸人だったのが、ある時期から次第にシャープで筋肉質な体になり、プロライセンスを取ったと聞いて驚いた記憶がある。
その頃から俳優としても急速に評価を高めてきたから、やっぱり何事も挑戦する人は違う。
ともあれ、それぞれの理由で燻っていた老人たちと、若さ溢れる若者たちのボクシングに対する情熱が化学反応を起こし、お互いの人生を変えてゆく展開は、クリント・イーストウッドの作品を思わせる部分も。
立場は違えど、仁一と翔吾の擬似親子的な師弟関係には「グラン・トリノ」を、引退していた爺さんたちの復活劇は「スペース カウボーイ」を思い出した。
人間は幾つになっても、意欲さえあれば成長できるし変われる。
後悔を抱えたままの人生は、若者だろうが老人だろうが精神衛生上よくないのである。
仁一と翔吾は二人とも共感キャラクターに造形されていて、観客の年齢によってどちらにより深く感情移入するかは変わるだろう。
ちなみに横浜流星も、本作のトレーニングを通してプロライセンス取ったそうだ。
対戦相手の窪田正孝と坂東龍汰も、見事にボクサーの体を作ってるし、試合シーン以外の出番は僅かならがら、それぞれの人生で背負っているものの影を感じさせる。
毎度のことながら、こういう肉体と精神の説得力を見せられると役者ってすげーなと思う。
クライマックスのタイトル戦も、ボリュームたっぷり。
原作小説は未読なので、どっちが勝つのか分からず手に汗握った。
終盤にヒロインのポジションに収まる橋本環奈が、珍しく等身大のしっとりした役。
困難な人生を送ってきたであろうキャラクターを、味わい深く演じている。
元々演技力はある人なのだから、こういった系統の映画にももっと出たらいいのに。
エピソードの組み合わせに若干のダイジェスト感は残るものの、瀬々敬久監督はドラマチックに二つの世代が交錯する燻銀の群像劇を見せ切った。
ところでここ10年ばかりの日本映画では、数々のボクシング映画の名作が誕生した。
「100円の恋」「あゝ、荒野」「アンダードッグ」「BLUE ブルー」「ケイコ 目を澄ませて」そして本作。
これらの作品全てでボクシング指導を担当しているのが、本作の出演俳優でもありトレーナー経験の深い松浦慎一郎である。
リアリティたっぷり迫力満点のボクシングシークエンスは、彼がいなければ生まれなかったと考えると、日本映画界はこの人に足を向けては眠れない。
俳優としてはもちろんだが、ぜひ名前を知って欲しい、縁の下の力持ちだ。
桜が印象的な本作には、秋田県横手市の阿桜酒造株式会社の「阿櫻 亀の尾 生原酒」をチョイス。
一時は幻の酒米と呼ばれた「亀の尾」を60%精米し、秋田純米酵母で仕込んだ酒。
貴重な酒米を無駄にしないため、規格外の米を一部使用しているので「純米」と表記することが出来ないのだが、中身は丁寧に作られた「スペシャル普通酒」だ。
まろやかな酸味が特徴で、亀の尾の独特の旨味を堪能できる。
酒の個性が強いので、なるべくシンプルな味わいの肴といただきたい。
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ボクシング映画にハズレ無しの法則発動。
まあ原作・沢木耕太郎、監督・瀬々敬久、主演・佐藤浩市と横浜流星という面子の段階で「盤石」という言葉しか思い浮かばないのだけど。
佐藤浩市が演じるのは、かつてアメリカにボクサーとして渡り、不公正な判定で挫折した男、広岡仁一。
ホテルマンに転身し、ビジネスで成功した仁一が40年ぶりに帰国する。
そこで彼が出会うのが、横浜流星演じるギラギラとした目をした黒木翔吾だ。
彼も日本タイトル戦で不公正な判定の結果敗れ、ボクサーを引退していた。
偶然にも仁一の技ありのパンチを見た翔吾は弟子入りを志願し、彼の熱気に押し切られる形で、仁一もボクシングの夢に再挑戦することを決める。
刹那的な一瞬に生きる、不器用なまでにストイックで泥臭く、目を離せない男たち。
これは若者の挑戦と成長の物語である一方、人生を燃え尽きさせてもいいと思える、終の居場所を探す老人たちの話でもある。
ボクサー時代の仁一のジム仲間、佐瀬健三役の片岡鶴太郎がいい。
まるで仙人のような風貌で、登場時はくたびれ切って見えるのだが、トレナーとしてリングに帰ってくると途端に輝き出す。
そう言えばこの人、実際にボクシングのプロライセンス持ってるんだった。
デビュー当時は小太りで脂ギッシュな芸人だったのが、ある時期から次第にシャープで筋肉質な体になり、プロライセンスを取ったと聞いて驚いた記憶がある。
その頃から俳優としても急速に評価を高めてきたから、やっぱり何事も挑戦する人は違う。
ともあれ、それぞれの理由で燻っていた老人たちと、若さ溢れる若者たちのボクシングに対する情熱が化学反応を起こし、お互いの人生を変えてゆく展開は、クリント・イーストウッドの作品を思わせる部分も。
立場は違えど、仁一と翔吾の擬似親子的な師弟関係には「グラン・トリノ」を、引退していた爺さんたちの復活劇は「スペース カウボーイ」を思い出した。
人間は幾つになっても、意欲さえあれば成長できるし変われる。
後悔を抱えたままの人生は、若者だろうが老人だろうが精神衛生上よくないのである。
仁一と翔吾は二人とも共感キャラクターに造形されていて、観客の年齢によってどちらにより深く感情移入するかは変わるだろう。
ちなみに横浜流星も、本作のトレーニングを通してプロライセンス取ったそうだ。
対戦相手の窪田正孝と坂東龍汰も、見事にボクサーの体を作ってるし、試合シーン以外の出番は僅かならがら、それぞれの人生で背負っているものの影を感じさせる。
毎度のことながら、こういう肉体と精神の説得力を見せられると役者ってすげーなと思う。
クライマックスのタイトル戦も、ボリュームたっぷり。
原作小説は未読なので、どっちが勝つのか分からず手に汗握った。
終盤にヒロインのポジションに収まる橋本環奈が、珍しく等身大のしっとりした役。
困難な人生を送ってきたであろうキャラクターを、味わい深く演じている。
元々演技力はある人なのだから、こういった系統の映画にももっと出たらいいのに。
エピソードの組み合わせに若干のダイジェスト感は残るものの、瀬々敬久監督はドラマチックに二つの世代が交錯する燻銀の群像劇を見せ切った。
ところでここ10年ばかりの日本映画では、数々のボクシング映画の名作が誕生した。
「100円の恋」「あゝ、荒野」「アンダードッグ」「BLUE ブルー」「ケイコ 目を澄ませて」そして本作。
これらの作品全てでボクシング指導を担当しているのが、本作の出演俳優でもありトレーナー経験の深い松浦慎一郎である。
リアリティたっぷり迫力満点のボクシングシークエンスは、彼がいなければ生まれなかったと考えると、日本映画界はこの人に足を向けては眠れない。
俳優としてはもちろんだが、ぜひ名前を知って欲しい、縁の下の力持ちだ。
桜が印象的な本作には、秋田県横手市の阿桜酒造株式会社の「阿櫻 亀の尾 生原酒」をチョイス。
一時は幻の酒米と呼ばれた「亀の尾」を60%精米し、秋田純米酵母で仕込んだ酒。
貴重な酒米を無駄にしないため、規格外の米を一部使用しているので「純米」と表記することが出来ないのだが、中身は丁寧に作られた「スペシャル普通酒」だ。
まろやかな酸味が特徴で、亀の尾の独特の旨味を堪能できる。
酒の個性が強いので、なるべくシンプルな味わいの肴といただきたい。

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2023年08月25日 (金) | 編集 |
森の中の、絶望の家。
これは未見性の塊だ。
チリのクリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ両監督が2018年に発表した、初の長編作品。
世界一南北に細長い国として知られる、チリの中部。
山と森林に覆われた土地に、ドイツ人移民のコミューンがある。
そこは戒律に支配された、孤立した集落。
主人公の少女マリアは、無責任な行いでコミューンに損害を与えた罪で厳しい罰を受け、耐えられずに脱出。
森の中で見つけた一軒の廃屋に逃げ込んだマリアは、そこで見つけた二頭の子豚にペドロとアナという名前をつけて暮らしはじめる。
ところが、森にはマリアを探すオオカミが跋扈し、外に出ることが出来ない。
飢えに襲われた家では、豚たちが異様な姿に変わってゆく。
ピノチェト軍事独裁政権下のチリに実在したカルト教団「コロニア・ディグニダ」をモチーフに、ストップモーション技法で制作されたアニメーション作品で、映画全体が「過去に教団が作った教化のための映画を修復した」と言うパッケージ。
コロニア・ディグニダは、オウム真理教が可愛く思えるほどの常軌を逸した狂信的カルト教団で、エマ・ワトソン主演のスリラー「コロニア」のモデルとしても知られる。
ドイツで性暴行の罪を犯し、チリに逃亡したパウル・シェーファーによって、1961年に設立されたコロニア・ディグニダは、表向きは「助け合って幸せになる」ことを目的としたバブテスト系の移民集落ということになっていたが、実際は高い塀と監視カメラによって守られた、一度入ったら出られない強制収容所だ。
ピノチェト政権時代にはチリ軍と密接な関係を続け、反体制派の人々がここに拉致され、ナチス由来の拷問の末に殺された。
教団自体もヒトラーを崇拝し、シェーファーの個人的な欲望を満たすことを目的としてたために、家族制度が否定され、親から引き離された少年少女の多くが彼から性暴力を受けていた。
当然、耐えられずに逃げ出す者も少数いたが、教団は周りのチリ人とは友好関係を維持していたので、見つかればすぐに通報される。
権力と結託しているのだから、チリ国内ではどこまでも追ってきて、連れ戻される。
本作はそんな逃亡者のたどる残酷な運命を、凝りにこった抽象アニメーションとして描いた作品なのである。
冒頭からカットを割らずに、二次元と三次元がシームレスに繋がり、超常的なホラーイメージが延々と続く。
最初のうちは、脱出できた安堵感。
廃屋だった家はマリアの心に影響されて、彼女の理想の家へと変貌し、ペドロとアナと名付けられた豚は人間の姿となる。
家の外には追手のオオカミがいて、マリアに戻って来るように誘惑するが、彼女は拒否する。
だがやがて食料が無くなり、束の間の幸せは悪夢へと変わってゆく。
飢えたペドロとアナは本性を剥き出しにしてマリアを喰おうとし、恐怖に絶望した彼女は外で待ち構えるオオカミに助けを乞うしかないのである。
ストーリー性は最低限で、まるで変なクスリでも飲まされて、終わらない白日夢を見させられているような感覚。
おそろしく手間のかかった映像は、まさに創造性の津波と言うべきもので、次元の壁を軽々と超えるアニメーション表現は、複雑過ぎてどうやって作っているのか分からない部分も多々ある。
イメージ的にはシュヴァンクマイエルの作品を思わせる要素もあるが、最後まで見るとやはり独自性と未見性が先に立つ。
怒涛の映像を観ているだけでも圧倒されるのだが、これはザックリでいいので、チリの現代史とコロニア・ディグニダに関して予習して行った方がいい。
知らずに観たら気持ち悪いホラーアニメーションだが、背景にあるものを学ぶことで、はるかに恐ろしい作品に感じられるだろう。
一度その一員となった者は、決して逃れられないというカルトの本質を、一見すると童話のような世界で展開させているのも悪意たっぷり。
「ミッドサマー」のアリ・アスター監督が絶賛しているのも、さもありなんだ。
そのアスターがエグゼクティブプロデューサーを務めたのが、クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャの最新作となる14分の短編「骨」だ。
これも1901年に作られた世界最初のストップモーション映画を修復したと言う設定で、少女が執り行う人間の死体の骨を使った儀式が描かれる。
儀式で召喚されるのが、19世紀の政治家ディエゴ・ポルタレスとピノチェト政権のイデオローグだったハイメ・グスマン。
ポルタレスは100年以上に渡るチリの権威主義的な保守政治の基礎を作った人物で、大統領にはあえて就任せずに、独裁的な手法でチリを支配した。
ハイメ・グスマンはピノチェト政権で正式な地位にはつかなかったが、最も緊密な協力者として政権のイデオロギー的な指針となった人物で、1991年に左派ゲリラによって暗殺された。
長きに渡って権威主義が蔓延し、多くの血が流されたチリ政治史の象徴とも言える二人を呼び出すのだから「骨」の意味するところは明らかだ。
レオン&コシーニャ両監督は、フェイク映画の修復版というユニークな共通パッケージで、チリという国の記憶として染みついた、歪んだ政治と宗教のもたらす害悪と恐怖を、変化し続ける悪夢的なアニメーションとして描き出した。
独特の映像は一度観たら決して忘れられない、唯一無二の作家性だ。
ワインどころとしても知られるチリからは、血のような赤を。
ヴィーニャ・コノスルの「コノスル オーガニック カベルネ ソーヴィニヨン カルメネール シラー」をチョイス。
名前が示す通り、三種類の有機栽培葡萄を使ったオーガニックワイン。
除草剤も使わず、ガチョウなどで害虫駆除をおこなっているために、土壌のミネラルが滋味となって溢れ出すフルボディの辛口赤だ。
血の滴るレアステーキといただきたい。
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これは未見性の塊だ。
チリのクリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ両監督が2018年に発表した、初の長編作品。
世界一南北に細長い国として知られる、チリの中部。
山と森林に覆われた土地に、ドイツ人移民のコミューンがある。
そこは戒律に支配された、孤立した集落。
主人公の少女マリアは、無責任な行いでコミューンに損害を与えた罪で厳しい罰を受け、耐えられずに脱出。
森の中で見つけた一軒の廃屋に逃げ込んだマリアは、そこで見つけた二頭の子豚にペドロとアナという名前をつけて暮らしはじめる。
ところが、森にはマリアを探すオオカミが跋扈し、外に出ることが出来ない。
飢えに襲われた家では、豚たちが異様な姿に変わってゆく。
ピノチェト軍事独裁政権下のチリに実在したカルト教団「コロニア・ディグニダ」をモチーフに、ストップモーション技法で制作されたアニメーション作品で、映画全体が「過去に教団が作った教化のための映画を修復した」と言うパッケージ。
コロニア・ディグニダは、オウム真理教が可愛く思えるほどの常軌を逸した狂信的カルト教団で、エマ・ワトソン主演のスリラー「コロニア」のモデルとしても知られる。
ドイツで性暴行の罪を犯し、チリに逃亡したパウル・シェーファーによって、1961年に設立されたコロニア・ディグニダは、表向きは「助け合って幸せになる」ことを目的としたバブテスト系の移民集落ということになっていたが、実際は高い塀と監視カメラによって守られた、一度入ったら出られない強制収容所だ。
ピノチェト政権時代にはチリ軍と密接な関係を続け、反体制派の人々がここに拉致され、ナチス由来の拷問の末に殺された。
教団自体もヒトラーを崇拝し、シェーファーの個人的な欲望を満たすことを目的としてたために、家族制度が否定され、親から引き離された少年少女の多くが彼から性暴力を受けていた。
当然、耐えられずに逃げ出す者も少数いたが、教団は周りのチリ人とは友好関係を維持していたので、見つかればすぐに通報される。
権力と結託しているのだから、チリ国内ではどこまでも追ってきて、連れ戻される。
本作はそんな逃亡者のたどる残酷な運命を、凝りにこった抽象アニメーションとして描いた作品なのである。
冒頭からカットを割らずに、二次元と三次元がシームレスに繋がり、超常的なホラーイメージが延々と続く。
最初のうちは、脱出できた安堵感。
廃屋だった家はマリアの心に影響されて、彼女の理想の家へと変貌し、ペドロとアナと名付けられた豚は人間の姿となる。
家の外には追手のオオカミがいて、マリアに戻って来るように誘惑するが、彼女は拒否する。
だがやがて食料が無くなり、束の間の幸せは悪夢へと変わってゆく。
飢えたペドロとアナは本性を剥き出しにしてマリアを喰おうとし、恐怖に絶望した彼女は外で待ち構えるオオカミに助けを乞うしかないのである。
ストーリー性は最低限で、まるで変なクスリでも飲まされて、終わらない白日夢を見させられているような感覚。
おそろしく手間のかかった映像は、まさに創造性の津波と言うべきもので、次元の壁を軽々と超えるアニメーション表現は、複雑過ぎてどうやって作っているのか分からない部分も多々ある。
イメージ的にはシュヴァンクマイエルの作品を思わせる要素もあるが、最後まで見るとやはり独自性と未見性が先に立つ。
怒涛の映像を観ているだけでも圧倒されるのだが、これはザックリでいいので、チリの現代史とコロニア・ディグニダに関して予習して行った方がいい。
知らずに観たら気持ち悪いホラーアニメーションだが、背景にあるものを学ぶことで、はるかに恐ろしい作品に感じられるだろう。
一度その一員となった者は、決して逃れられないというカルトの本質を、一見すると童話のような世界で展開させているのも悪意たっぷり。
「ミッドサマー」のアリ・アスター監督が絶賛しているのも、さもありなんだ。
そのアスターがエグゼクティブプロデューサーを務めたのが、クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャの最新作となる14分の短編「骨」だ。
これも1901年に作られた世界最初のストップモーション映画を修復したと言う設定で、少女が執り行う人間の死体の骨を使った儀式が描かれる。
儀式で召喚されるのが、19世紀の政治家ディエゴ・ポルタレスとピノチェト政権のイデオローグだったハイメ・グスマン。
ポルタレスは100年以上に渡るチリの権威主義的な保守政治の基礎を作った人物で、大統領にはあえて就任せずに、独裁的な手法でチリを支配した。
ハイメ・グスマンはピノチェト政権で正式な地位にはつかなかったが、最も緊密な協力者として政権のイデオロギー的な指針となった人物で、1991年に左派ゲリラによって暗殺された。
長きに渡って権威主義が蔓延し、多くの血が流されたチリ政治史の象徴とも言える二人を呼び出すのだから「骨」の意味するところは明らかだ。
レオン&コシーニャ両監督は、フェイク映画の修復版というユニークな共通パッケージで、チリという国の記憶として染みついた、歪んだ政治と宗教のもたらす害悪と恐怖を、変化し続ける悪夢的なアニメーションとして描き出した。
独特の映像は一度観たら決して忘れられない、唯一無二の作家性だ。
ワインどころとしても知られるチリからは、血のような赤を。
ヴィーニャ・コノスルの「コノスル オーガニック カベルネ ソーヴィニヨン カルメネール シラー」をチョイス。
名前が示す通り、三種類の有機栽培葡萄を使ったオーガニックワイン。
除草剤も使わず、ガチョウなどで害虫駆除をおこなっているために、土壌のミネラルが滋味となって溢れ出すフルボディの辛口赤だ。
血の滴るレアステーキといただきたい。

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2023年08月21日 (月) | 編集 |
進化の先にある未来とは?
2014年の「マップ・トゥ・ザ・スターズ」以来8年ぶりとなるデヴィッド・クローネンバーグ監督の新作は、退廃的な近未来を舞台に人類の進化を描く物語だ。
自らの体内で未知の臓器を育て、それを摘出するショーを主催するパフォーマンスアーティスト、ソール・テンサーを「イースタン・プロミス」のヴィゴ・モーテンセンが演じ、彼のパートナーとなる元外科医のカプリースにレア・セドゥ。
新たな機能を持つ臓器の出現を監視する「国家臓器登録所」の職員で、テンサーに強い興味を抱くティムリンにクリスティン・スチュワート。
特異な世界観を支えるプロダクション・デザインは、長年クローネンバーグと組んできたキャロル・スピアが担当している。
独特の内臓感覚は相変わらずで、いかがわしさ全開。
過去作のイメージをも内包したセルフトリビュート的作品でもあり、ある意味で現時点での集大成とも言える。
※核心部分に触れています。
人類から「痛み」の感覚と感染症の脅威が失われ、人体と直接交信する機械や家具が当たり前となった近未来。
人々は自らの肉体を切り裂き、造形することを新たな娯楽としている。
ソール・テンサー(ヴィゴ・モーテンセン)は「加速進化症候群」であることを利用し、体の中に新たな臓器を育て、パートナーのカプリース(レア・セドゥ)がそれを摘出するパフォーマンを公開することで、人々から人気を博している。
テンサーとカプリースは、人類の進化を制御することを目的とする「国家臓器登録局」に赴き、今まで摘出した臓器のカタログを贈呈する。
係官の一人、ティムリン(クリスティン・スチュワート)は、彼らショーを見て魅了され「これは第二のセックスね」と語る。
ある夜、ラングと名乗る男が、遺体の公開解剖をしないかとテンサーに持ちかける。
それは殺された彼の息子の遺体で、人類がまだ知らない未知の進化を遂げているという。
実は政府機関のエージェントでもあるテンサーは、密かに刑事と相談した上で、公開解剖を受け入れるのだが・・・
映画は、ショッキングな描写から幕を開ける。
海辺で遊ぶ少年が、母親から「変なものを食べるな」と言われるが、彼は飢えを満たすように自宅のバスルームでプラスチックのゴミ箱を貪り食うのだ。
そして蔑むような目それを見ていた母親は、眠っている少年を殺害するのである。
石や金属などの異物を食べる異食症という精神疾患があるが、少年の行為は違う。
彼はプラスチックを消化できるように進化した存在であり、母親はそんな息子を「化け物」と呼び拒絶するのである。
このオープニングシークエンスを物語の窓口とし、映画はここで起こったことの意味を徐々に見出してゆく。
本作の邦題は、クローネンバーグが1970年に発表した最初期の作品「クライム・オブ・ザ・フューチャー」と一字違いだが、原題は全く同じ。
とは言えリメイクではなく、話は全く違うのだが、世界観のムードはなんとなく共通点がある。
クローネンバーグは、テクノロジーの進化が人類の肉体や心にどのような影響を及ぼすのか?というテーマをずっと追ってきた人で、「コズモポリス」あたりでは、その興味が主に「社会」の方に行っていたが、本作では1999年の「イグジステンズ」以来のSFホラージャンルで「個人」へと回帰。
設定年代は明示されないが、この映画の世界では人類が何らかの突然変異を経験し、痛覚を失い、疫病の存在も無くなっている。
感染症になる可能性が消え、痛みも感じないので、人々は肉体にメスを入れて、さまざまな“造形”を娯楽としている。
また主人公のテンサーは「加速進化症候群」なる新たな疾患にかかっているのだが、彼は体の中に次々と未知の臓器ができるという症状を逆に利用して、摘出手術をショー化することでスターとなっているのだ。
新たな臓器ができても、それがどんなものかは分からないし、基本的に無くてもいい良性の癌のようなものだから、ある程度育ったら摘出する。
しかも手術する前に、なんらかの技術を使って、臓器にタトゥーを入れているのだからぶっ飛んでいる。
しかし、こうして生まれた臓器が、摘出されず世代を超えて定着してしまったらどうなるのか。
既存の人類とは違った器官、違った能力を持つ子供たちが一定数生まれたとしたら、彼らは同じ人類と言えるのか?
そう、冒頭で殺される子供はその第一号なのである。
彼の父親のラングは、人類を人為的に進化させようとする組織の一員で、ある特殊な薬物を含む食品を摂取することで消化器官が変化し、プラスチックなどの廃棄物を食べて生きていけるようになっている。
いかにもクローネンバーグらしい設定だが、政府もこれ以上の人類のイレギュラーな進化を防ぐために、国家臓器登録局を設立して取り締まりに乗り出しているし、テンサーもパフォーマンスアーティストとして活動しながら、警察の秘密エージェントとして業界界隈を探っているので、アヴァンギャルドな活動をしていても、無秩序な進化を肯定している訳ではない。
ラングの能力は、あくまでも後から身につけたものなので、本来この新しい器官は遺伝することはないはずなのだが、なぜか息子は受け継いでしまった。
好むと好まざるかに関わらず、人間の心が変化を受け入れた時点で、全ては始まってしまっているのである。
「ザ・ブルード/怒りのメタファー」の心と肉体の関係、「ヴィデオドローム」や「イグジステンズ」で描かれた肉体と機械の融合の延長線上に、本作の世界観は作られている。
「加速進化症候群」のテンサーは、それ自体が内臓のような見た目の、肉体と直接交信する不気味な機械の助けがなければ、眠ることも食事をすることも出来無い。
テンサーの肉体は無意識の進化を欲していて、物語は結局彼の背中を押すことになる。
人類と機械が一つになり、人間が有機物から無機物へと進化するとしたら、その時人間が食べるのは、やはり無機物なのかも知れない。
変態してゆく人間を見つめる目が以前より達観していて上品なのは、齢八十の年齢ゆえか。
肉体を切り刻む話だから、確かにイタタな描写はあるが、良くも悪くも以前のようなラジカルさは感じられない。
これは熟し切ったメロウな世界で巻き起こる官能的な進化の物語で、ヴィゴ・モーテンセンとレア・セドゥは 特徴的なキャラクターをエレガントに演じ切る。
簡単に言ってしまえば、一度進化がはじまってしまったら、それに抗おうとしても無理だよね?という物語なのだが、飄々とした独特の味わいはやはり唯一無二の作家性で、クローネンバーグの長年のファンにはたまらない。
7、80年代は独自のスタイルを保ったまま、割と娯楽性の高いメジャー系の仕事もしていたが、年齢と共にアートハウス系の原点に戻るタイプの作家なのだろう。
悪夢のような物語には「ナイトメア・オブ・レッド」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、カンパリ30ml、パイナップル・ジュース30ml、オレンジ・ビターズ2dashを氷で満たしたグラスに注ぎ、ステアする。
ドライ・ジンの清涼感とパイナップルの甘さ、カンパリとビターズの苦みが融合した複雑な味わい。
ちょい辛口の大人のアペリティフだ。
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2014年の「マップ・トゥ・ザ・スターズ」以来8年ぶりとなるデヴィッド・クローネンバーグ監督の新作は、退廃的な近未来を舞台に人類の進化を描く物語だ。
自らの体内で未知の臓器を育て、それを摘出するショーを主催するパフォーマンスアーティスト、ソール・テンサーを「イースタン・プロミス」のヴィゴ・モーテンセンが演じ、彼のパートナーとなる元外科医のカプリースにレア・セドゥ。
新たな機能を持つ臓器の出現を監視する「国家臓器登録所」の職員で、テンサーに強い興味を抱くティムリンにクリスティン・スチュワート。
特異な世界観を支えるプロダクション・デザインは、長年クローネンバーグと組んできたキャロル・スピアが担当している。
独特の内臓感覚は相変わらずで、いかがわしさ全開。
過去作のイメージをも内包したセルフトリビュート的作品でもあり、ある意味で現時点での集大成とも言える。
※核心部分に触れています。
人類から「痛み」の感覚と感染症の脅威が失われ、人体と直接交信する機械や家具が当たり前となった近未来。
人々は自らの肉体を切り裂き、造形することを新たな娯楽としている。
ソール・テンサー(ヴィゴ・モーテンセン)は「加速進化症候群」であることを利用し、体の中に新たな臓器を育て、パートナーのカプリース(レア・セドゥ)がそれを摘出するパフォーマンを公開することで、人々から人気を博している。
テンサーとカプリースは、人類の進化を制御することを目的とする「国家臓器登録局」に赴き、今まで摘出した臓器のカタログを贈呈する。
係官の一人、ティムリン(クリスティン・スチュワート)は、彼らショーを見て魅了され「これは第二のセックスね」と語る。
ある夜、ラングと名乗る男が、遺体の公開解剖をしないかとテンサーに持ちかける。
それは殺された彼の息子の遺体で、人類がまだ知らない未知の進化を遂げているという。
実は政府機関のエージェントでもあるテンサーは、密かに刑事と相談した上で、公開解剖を受け入れるのだが・・・
映画は、ショッキングな描写から幕を開ける。
海辺で遊ぶ少年が、母親から「変なものを食べるな」と言われるが、彼は飢えを満たすように自宅のバスルームでプラスチックのゴミ箱を貪り食うのだ。
そして蔑むような目それを見ていた母親は、眠っている少年を殺害するのである。
石や金属などの異物を食べる異食症という精神疾患があるが、少年の行為は違う。
彼はプラスチックを消化できるように進化した存在であり、母親はそんな息子を「化け物」と呼び拒絶するのである。
このオープニングシークエンスを物語の窓口とし、映画はここで起こったことの意味を徐々に見出してゆく。
本作の邦題は、クローネンバーグが1970年に発表した最初期の作品「クライム・オブ・ザ・フューチャー」と一字違いだが、原題は全く同じ。
とは言えリメイクではなく、話は全く違うのだが、世界観のムードはなんとなく共通点がある。
クローネンバーグは、テクノロジーの進化が人類の肉体や心にどのような影響を及ぼすのか?というテーマをずっと追ってきた人で、「コズモポリス」あたりでは、その興味が主に「社会」の方に行っていたが、本作では1999年の「イグジステンズ」以来のSFホラージャンルで「個人」へと回帰。
設定年代は明示されないが、この映画の世界では人類が何らかの突然変異を経験し、痛覚を失い、疫病の存在も無くなっている。
感染症になる可能性が消え、痛みも感じないので、人々は肉体にメスを入れて、さまざまな“造形”を娯楽としている。
また主人公のテンサーは「加速進化症候群」なる新たな疾患にかかっているのだが、彼は体の中に次々と未知の臓器ができるという症状を逆に利用して、摘出手術をショー化することでスターとなっているのだ。
新たな臓器ができても、それがどんなものかは分からないし、基本的に無くてもいい良性の癌のようなものだから、ある程度育ったら摘出する。
しかも手術する前に、なんらかの技術を使って、臓器にタトゥーを入れているのだからぶっ飛んでいる。
しかし、こうして生まれた臓器が、摘出されず世代を超えて定着してしまったらどうなるのか。
既存の人類とは違った器官、違った能力を持つ子供たちが一定数生まれたとしたら、彼らは同じ人類と言えるのか?
そう、冒頭で殺される子供はその第一号なのである。
彼の父親のラングは、人類を人為的に進化させようとする組織の一員で、ある特殊な薬物を含む食品を摂取することで消化器官が変化し、プラスチックなどの廃棄物を食べて生きていけるようになっている。
いかにもクローネンバーグらしい設定だが、政府もこれ以上の人類のイレギュラーな進化を防ぐために、国家臓器登録局を設立して取り締まりに乗り出しているし、テンサーもパフォーマンスアーティストとして活動しながら、警察の秘密エージェントとして業界界隈を探っているので、アヴァンギャルドな活動をしていても、無秩序な進化を肯定している訳ではない。
ラングの能力は、あくまでも後から身につけたものなので、本来この新しい器官は遺伝することはないはずなのだが、なぜか息子は受け継いでしまった。
好むと好まざるかに関わらず、人間の心が変化を受け入れた時点で、全ては始まってしまっているのである。
「ザ・ブルード/怒りのメタファー」の心と肉体の関係、「ヴィデオドローム」や「イグジステンズ」で描かれた肉体と機械の融合の延長線上に、本作の世界観は作られている。
「加速進化症候群」のテンサーは、それ自体が内臓のような見た目の、肉体と直接交信する不気味な機械の助けがなければ、眠ることも食事をすることも出来無い。
テンサーの肉体は無意識の進化を欲していて、物語は結局彼の背中を押すことになる。
人類と機械が一つになり、人間が有機物から無機物へと進化するとしたら、その時人間が食べるのは、やはり無機物なのかも知れない。
変態してゆく人間を見つめる目が以前より達観していて上品なのは、齢八十の年齢ゆえか。
肉体を切り刻む話だから、確かにイタタな描写はあるが、良くも悪くも以前のようなラジカルさは感じられない。
これは熟し切ったメロウな世界で巻き起こる官能的な進化の物語で、ヴィゴ・モーテンセンとレア・セドゥは 特徴的なキャラクターをエレガントに演じ切る。
簡単に言ってしまえば、一度進化がはじまってしまったら、それに抗おうとしても無理だよね?という物語なのだが、飄々とした独特の味わいはやはり唯一無二の作家性で、クローネンバーグの長年のファンにはたまらない。
7、80年代は独自のスタイルを保ったまま、割と娯楽性の高いメジャー系の仕事もしていたが、年齢と共にアートハウス系の原点に戻るタイプの作家なのだろう。
悪夢のような物語には「ナイトメア・オブ・レッド」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、カンパリ30ml、パイナップル・ジュース30ml、オレンジ・ビターズ2dashを氷で満たしたグラスに注ぎ、ステアする。
ドライ・ジンの清涼感とパイナップルの甘さ、カンパリとビターズの苦みが融合した複雑な味わい。
ちょい辛口の大人のアペリティフだ。

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2023年08月17日 (木) | 編集 |
ミンナワタシの世界へ。
人気ダンス&ボーカルグループの「GENERATIONS from EXILE TRIBE」の面々が本人役で登場し、清水崇監督がメガホンを取った納涼ホラー映画。
発端はGENERATIONSの小森隼が、ラジオ局の倉庫で見つけた古いカセットテープ。
「ミンナのウタ」と題されたテープは、リスナーから送られて未開封のまま眠っていたもの。
直後に、小森がパーソナリティーを務める番組に奇妙な電話がかかって来て、彼はその夜のうちに失踪してしまう。
やがて他のメンバーの周りにも、次々と怪異が起こりはじめる。
これは久々にマジでコワイ、Jホラーの快作だ。
清水崇監督作品としても、最初のVシネ版「呪怨」二部作以来の出来栄えと言っていい。
最近だと「村」シリーズや「忌怪島/きかいじま」など、田舎で展開するフォークロア的な世界の作品が多かった清水監督だが、これは久しぶりに都会が舞台の完全オリジナルだ。
GENERATIONSが本人役なのも、なるほど都市伝説っぽく見える効果を生んでいて、意外とアリだと思う。
モキュメンタリー的なフォーマットに、自身の代表作である「呪怨」のセルフオマージュを盛り込み、なかなかユニークな作品なのだが、何より重要なのは話がちゃんと面白いこと。
謎のテープとどこからともなく聞こえる鼻歌から始まって、明らかに奇妙なことが起こりはじめると、マキタスポーツと早見あかり演じる探偵とマネージャーが、GENERATIONSのメンバーと共にテープに秘められた謎を調べてゆく。
ミステリタッチの展開の先に、やがて浮かび上がるのは、30年前に起こったある事件。
少女の歌を聴いた者は、彼女の世界に引き込まれてしまうというのは、去年も似たようなことをやってたヒロインがいたような・・・・。
そもそも、なぜテープにそんな力があるのか?というあたりが明らかになってくる辺りは、むっちゃおぞましくてコワイ。
少女の家に出没する少年の名が「俊雄」だったり、母親の幻が同じセリフを繰り返したりするのは「呪怨」と同じ。
ジワジワくるムードはJホラー特有のものだが、ショック演出も結構効いている。
母親が突然こっちに迫ってくる所とか、マジでビビった。
関口メンディーが消えるシーンの演出は、マリオ・バーヴァの「ザ・ショック」オマージュだと作者も認めているが、なるほどモダンな撮影効果によって本家以上の洗練されたショックシーンになっている。
またこの映画の怪異は音そのものだから、凝った音響演出も聴きどころだ。
エンドクレジット後の映像と音にはゾワワ〜。
しかし、これは清水崇監督にとっても起死回生の一打。
フォークロアものが好きなので、「樹海村」や「牛首村」は結構楽しんだのだが、やはり彼のフィルモグラフィーはどこまで行っても「呪怨」二部作ありきだった。
古きを内包する新しいスタイルで撮った本作は、新たな代表作となったのではないか。
映画で納涼の後は飲み物でも納涼を。
今回は、夏に相応しいフレッシュなカクテル「ブルーキュラソー&サイダー」をチョイス。
氷を入れたタンブラーにブルーキュラソーを45ml注ぎ、サイダーで満たして軽くステアし、最後にスライスしたライムを添えて完成。
すっきりとした甘口のカクテルは、ジメジメとした日本の夏を少しだけ冷やしてくれる。
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人気ダンス&ボーカルグループの「GENERATIONS from EXILE TRIBE」の面々が本人役で登場し、清水崇監督がメガホンを取った納涼ホラー映画。
発端はGENERATIONSの小森隼が、ラジオ局の倉庫で見つけた古いカセットテープ。
「ミンナのウタ」と題されたテープは、リスナーから送られて未開封のまま眠っていたもの。
直後に、小森がパーソナリティーを務める番組に奇妙な電話がかかって来て、彼はその夜のうちに失踪してしまう。
やがて他のメンバーの周りにも、次々と怪異が起こりはじめる。
これは久々にマジでコワイ、Jホラーの快作だ。
清水崇監督作品としても、最初のVシネ版「呪怨」二部作以来の出来栄えと言っていい。
最近だと「村」シリーズや「忌怪島/きかいじま」など、田舎で展開するフォークロア的な世界の作品が多かった清水監督だが、これは久しぶりに都会が舞台の完全オリジナルだ。
GENERATIONSが本人役なのも、なるほど都市伝説っぽく見える効果を生んでいて、意外とアリだと思う。
モキュメンタリー的なフォーマットに、自身の代表作である「呪怨」のセルフオマージュを盛り込み、なかなかユニークな作品なのだが、何より重要なのは話がちゃんと面白いこと。
謎のテープとどこからともなく聞こえる鼻歌から始まって、明らかに奇妙なことが起こりはじめると、マキタスポーツと早見あかり演じる探偵とマネージャーが、GENERATIONSのメンバーと共にテープに秘められた謎を調べてゆく。
ミステリタッチの展開の先に、やがて浮かび上がるのは、30年前に起こったある事件。
少女の歌を聴いた者は、彼女の世界に引き込まれてしまうというのは、去年も似たようなことをやってたヒロインがいたような・・・・。
そもそも、なぜテープにそんな力があるのか?というあたりが明らかになってくる辺りは、むっちゃおぞましくてコワイ。
少女の家に出没する少年の名が「俊雄」だったり、母親の幻が同じセリフを繰り返したりするのは「呪怨」と同じ。
ジワジワくるムードはJホラー特有のものだが、ショック演出も結構効いている。
母親が突然こっちに迫ってくる所とか、マジでビビった。
関口メンディーが消えるシーンの演出は、マリオ・バーヴァの「ザ・ショック」オマージュだと作者も認めているが、なるほどモダンな撮影効果によって本家以上の洗練されたショックシーンになっている。
またこの映画の怪異は音そのものだから、凝った音響演出も聴きどころだ。
エンドクレジット後の映像と音にはゾワワ〜。
しかし、これは清水崇監督にとっても起死回生の一打。
フォークロアものが好きなので、「樹海村」や「牛首村」は結構楽しんだのだが、やはり彼のフィルモグラフィーはどこまで行っても「呪怨」二部作ありきだった。
古きを内包する新しいスタイルで撮った本作は、新たな代表作となったのではないか。
映画で納涼の後は飲み物でも納涼を。
今回は、夏に相応しいフレッシュなカクテル「ブルーキュラソー&サイダー」をチョイス。
氷を入れたタンブラーにブルーキュラソーを45ml注ぎ、サイダーで満たして軽くステアし、最後にスライスしたライムを添えて完成。
すっきりとした甘口のカクテルは、ジメジメとした日本の夏を少しだけ冷やしてくれる。

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2023年08月12日 (土) | 編集 |
バービーの選択。
1959年の発売以来、世界中で大人気のマテル社のファッションドール、「バービー」を主人公とした初の実写映画。
ピンク色の理想郷バービーランドに住む金髪・碧眼の“定番”バービーは、ある日急に「死」について考えるようになり、その時から体に異変が。
つま先立ちの踵は地面に着き、体にはボコボコのセルライトが。
皆から変人扱いされている、変てこバービーに助言を受けた彼女は、自分の身に起こった異変の原因を探るために、ケンと共に人間たちの現実世界へと旅立つことになる。
監督・脚本は「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」のグレタ・ガーウィク。
パートナーのノア・バームバックが共同脚本を務める。
プロデューサーでもあるマーゴット・ロビーがバービーを演じ、ケン役にはライアン・ゴズリング。現実世界でバービーを受け入れる、マテル社の従業員グロリアにアメリカ・フェレーラ、マテル社CEO役にウィル・ファレル。
オモチャのキャラクターを使ったお祭り映画では決してなく、ディープな批評的視点を持った大力作である。
※核心部分に触れています。
全てのバービーが楽しく暮らす、バービーランド。
定番バービー(マーゴット・ロビー)は、今日も完璧な1日を送る。
ビーチに行ってボーイフレンドのケン(ライアン・ゴズリング)と会い、才能豊かな他のバービーたちとお喋りし、夜はガールズナイトのパーティー。
ところが、彼女の頭になぜか「死」という言葉がよぎる。
それ以来、完璧な毎日は終わりを告げ、バービーの体に異変が起きはじめる。
街外れに住む変てこバービー(ケイト・マッキノン)に、現実世界で人形の持ち主に何かが起こったのかも?という助言を受けたバービーは、ケンと共に長い旅をしてロサンゼルスに。
バービーが持ち主を探す間に、ケンは男たちが主役として力を持っている社会に感化され、一足先にバービーランドに帰ってしまう。
現実世界に現れたバービーに驚いた製造元のマテル社のCEO(ウィル・ファレル)は、取締役会を率いてバービーを捕まえようとするが、バービーは持ち主であるグロリア(アメリカ・フェレーラ)と出会い、彼女の娘のサーシャ(アリアナ・グリーンブラッド)も一緒にバービーランドに招待する。
ところが、バービーランドはいつの間にかケンが主役の「ケンダムランド」に名前を変えられ、バービーたちはケンに使えるようになっていた・・・
我が家はバービー人形の日本におけるライバル、というかフォロワーのリカちゃん派だったので、子供の頃はあまりバービーに馴染みがなかった。
後にアメリカに引っ越して、幼い従姉妹のベビーシッターをやった時に、バービーで散々遊ばされたので、ある程度は分かるようになったけど。
でもバービーを全く知らない人でも、心配はご無用。
映画の冒頭で、いきなりバービーの歴史が紐解かれるのだ。
しかも、このシークエンスが「2001年宇宙の旅」のパロディなのである(笑
赤ちゃん人形で遊んでいる少女たちの前に、モノリスよろしく巨大な初代バービーが出現する。
少女たちが今まで遊んでいた赤ちゃん人形を破壊して空に放り投げると、宇宙船ではなく「バービー」のタイトルが現れる。
赤ちゃん人形ばかりの市場にファッションドールが登場した衝撃を、あの映画の人類の進化になぞらえた技ありのオープニング。
本作でバービーたちが暮らすバービーランドは、全てがピンクに彩られた理想郷。
プロダクションデザインのサラ・グリーンウッドと衣装デザインのジャクリーン・デュランは、オモチャの世界に入り込んだような、大人でもワクワクする世界を作り出している。
この街に暮らす女性たちは、肌の色や体型に関わらず皆バービーで、学者や作家、大統領もバービー。
ビーチには人魚のバービーだっている。
バービー以外には、バービーの妊婦の友達ミッジなど、過去にマテル社が発売して廃版になったキャラクターが少数住んでいる。
男たちも全員バービーのボーイフレンドであるケンで、例外はケンの友達であるアランだけ。
バービーランドは女社会なので、社会を回す役割を果たすのは全てバービー。
ケンにはバービーに恋焦がれる以外に役割はなく、バービーとセットで存在する添え物だ。
ところがバービーについて現実世界に行ってみると、そこはバービーランドとは真逆。
社会の中枢にいるのは皆男で、女たちは脇役に甘んじている。
これはずっとバービーに付き従うしか、自己存在の意味を持っていなかったケンにとって衝撃だ。
すっかり現実世界に感化されたケンは、「男社会(patriarchy、厳密には“家父長制”)」の思想をバービーランドに持ち帰り、バービーたちを洗脳してバービーランドを男が主役でマチズモ全開の「ケンダム」に作り替えてしまうのだ。
一方、そんなことになっているとは知らないバービーは、持ち主と思しきサーシャに会いにゆくが、「バービー人形は卒業した、バービーは男社会を助長するファシスト」だと言い放たれる。
ずっと自分が「女の子の憧れ」だと信じていたバービーは大ショック。
しかしサーシャがバービーを卒業した後も、捨てずにずっと手元に置き、大切にして来たのは実は母親のグロリアだったのである。
マテル社の従業員でもある彼女が、理想化されたバービーではなく、死が頭から離れなくて、体にセルライトがある「平凡なバービー」を発案したことで、バービーの体に異変が起こったのだ。
面白いのは、劇中で描かれるマテル社の取締役会が、全員中年男性で女性が一人もいないこと。
誰よりもバービーが好きなグロリアも、実際にバービーを作る仕事はさせてもらえないのだ。
確かにマテル社は女の子の理想をバービー人形という形にし、それが現実を引っ張ってきた歴史がある。
お仕事シリーズのバービーに「宇宙飛行士」が登場したのは1965年で、アメリカ初の女性宇宙飛行士サリー・ライドがスペースシャトルに乗り込んだのは18年後の1983年。
こちらはまだ現実化してないものの、1999年には「大統領」も登場している。
バービーが女の子たちに「何者にでもなれる」という希望を与えたのは確かだろう。
しかし、いつの間にかバービーの世界は過度に理想化され「女の子は虚構で夢喰ってればいい」という本末転倒になっていないか?
サーシャのバービーに対する辛辣な批判、おじさんだらけの取締役会は、そんなマテル社の自戒の念の表れなのかもしれない。
ちなみに現実のマテル社の取締役会には、複数の女性(映画部門のトップも女性)がいるので、これはあくまでも映画の設定。
さてケンに乗っ取られてしまったバービーランドを取り戻すため、帰って来たバービーはグロリアや廃版キャラクターの協力を得てバービーたちの洗脳を解こうとするのだが、この方法がむっちゃシニカル。
グロリアに、現実社会の女に課せられた、ダブルスタンダードの辛さを語らせるのだ。
いわく「痩せろと言われ、痩せたら痩せすぎと言われ。リーダーになれと言われ、なったら威張るなと言われ。綺麗になれと言われ、綺麗になったらモテるなと言われる。」
他にも、現実社会の理不尽を山ほど語るのだが、今まさに「男社会」の中にあるバービーたちは、この言葉で洗脳が解けてしまうのである。
男がウンチクを語るのが大好きなのを逆手にとる作戦とか、バービーの愛を取り合ってお互いに戦わせる作戦とか、いちいち男心が分かってて思わず苦笑い。
しかし、この映画はバービーランドを取り戻すだけでは終わらない。
初めて脇役のポジションを味わった彼女たちは、ケンの切ない想いも知ることとなり、お互いに歩みよる。
バービーたちはそれぞれのアイデンティティを取り戻す一方で、ケンに対しても自分たちの添え物ではなく、独立したアイデンティティを確立することを勧めるのだ。
そう、男社会も女社会も極端ではいけない。
これはバービー人形の世界観を批評的に描きながら、現実と架空の二つの極端な世界が和解に至る物語なのである。
脚本がガーウィグとノア・バームバックの共著なのも納得で、これは女性目線だけでは成立しない。
ファシスト呼ばわりされたことでガッツリ落ち込み、葛藤するバービーの、成長と選択の物語としても観応え十分。
バービーというステロタイプな“型”を風刺的に演じながら、内面の揺れる心を説得力たっぷりに演じたマーゴット・ロビーが素晴らしい。
それぞれに役割があるお仕事系バービーと違って、確固たる目的がない定番バービーは、自らのアイデンティティに悩むのだが、彼女の前に現れるのが、バービー人形の生みの親で、元マテル社長のルース・ハンドラーのゴースト。
今は現実と架空の間に存在するルースに導かれ、バービーはどこに繋がるかはまだ未知数の、自らの物語を生きる決断をする。
女の子も男の子も、何者にもなれる可能性は持っているが、それは別に押し付けられるものではなく、自ら選び取るもの。
一見するとフェミニズムの話に思えて、実はそれだけではなく、フェミニズム、マスキュリズムを包括した幅広い社会のあり方を、笑って泣ける一大エンターテイメントとして描き出した大変な力作だ。
タイトルも、本当は「バービー」よりも「バービー&ケン」が相応しい。
やや台詞に頼った印象は残るが、本作の大きな客層である子供たちに向けて、きちんと論点を理解して欲しいという意図を感じるので、これはこれでいいと思う。
ただ、日本語字幕の言葉のチョイスはちょっとお上品すぎるよ。
これでは、本作の持つ“毒”が伝わらないではないか。
今回は、ピンクの世界の物語なので「ピンク・レディー」をチョイス。
ドライ・ジン45ml、グレナデン・シロップ20ml、レモン・ジュース1tsp、卵白1/2個をよくシェイクして、グラスに注ぐ。
その名の通り、美しいパステルピンクのカクテルで、卵白のソフトな口当たりが辛口のジンとグレナデン・シロップの甘味を優しく包み込み、まとめ上げる。
1912年に初演された、イギリスの同名ミュージカル・コメディーの舞台から名付けられたが、昭和の日本のアイドルデュオの元ネタもこのカクテル。
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1959年の発売以来、世界中で大人気のマテル社のファッションドール、「バービー」を主人公とした初の実写映画。
ピンク色の理想郷バービーランドに住む金髪・碧眼の“定番”バービーは、ある日急に「死」について考えるようになり、その時から体に異変が。
つま先立ちの踵は地面に着き、体にはボコボコのセルライトが。
皆から変人扱いされている、変てこバービーに助言を受けた彼女は、自分の身に起こった異変の原因を探るために、ケンと共に人間たちの現実世界へと旅立つことになる。
監督・脚本は「ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語」のグレタ・ガーウィク。
パートナーのノア・バームバックが共同脚本を務める。
プロデューサーでもあるマーゴット・ロビーがバービーを演じ、ケン役にはライアン・ゴズリング。現実世界でバービーを受け入れる、マテル社の従業員グロリアにアメリカ・フェレーラ、マテル社CEO役にウィル・ファレル。
オモチャのキャラクターを使ったお祭り映画では決してなく、ディープな批評的視点を持った大力作である。
※核心部分に触れています。
全てのバービーが楽しく暮らす、バービーランド。
定番バービー(マーゴット・ロビー)は、今日も完璧な1日を送る。
ビーチに行ってボーイフレンドのケン(ライアン・ゴズリング)と会い、才能豊かな他のバービーたちとお喋りし、夜はガールズナイトのパーティー。
ところが、彼女の頭になぜか「死」という言葉がよぎる。
それ以来、完璧な毎日は終わりを告げ、バービーの体に異変が起きはじめる。
街外れに住む変てこバービー(ケイト・マッキノン)に、現実世界で人形の持ち主に何かが起こったのかも?という助言を受けたバービーは、ケンと共に長い旅をしてロサンゼルスに。
バービーが持ち主を探す間に、ケンは男たちが主役として力を持っている社会に感化され、一足先にバービーランドに帰ってしまう。
現実世界に現れたバービーに驚いた製造元のマテル社のCEO(ウィル・ファレル)は、取締役会を率いてバービーを捕まえようとするが、バービーは持ち主であるグロリア(アメリカ・フェレーラ)と出会い、彼女の娘のサーシャ(アリアナ・グリーンブラッド)も一緒にバービーランドに招待する。
ところが、バービーランドはいつの間にかケンが主役の「ケンダムランド」に名前を変えられ、バービーたちはケンに使えるようになっていた・・・
我が家はバービー人形の日本におけるライバル、というかフォロワーのリカちゃん派だったので、子供の頃はあまりバービーに馴染みがなかった。
後にアメリカに引っ越して、幼い従姉妹のベビーシッターをやった時に、バービーで散々遊ばされたので、ある程度は分かるようになったけど。
でもバービーを全く知らない人でも、心配はご無用。
映画の冒頭で、いきなりバービーの歴史が紐解かれるのだ。
しかも、このシークエンスが「2001年宇宙の旅」のパロディなのである(笑
赤ちゃん人形で遊んでいる少女たちの前に、モノリスよろしく巨大な初代バービーが出現する。
少女たちが今まで遊んでいた赤ちゃん人形を破壊して空に放り投げると、宇宙船ではなく「バービー」のタイトルが現れる。
赤ちゃん人形ばかりの市場にファッションドールが登場した衝撃を、あの映画の人類の進化になぞらえた技ありのオープニング。
本作でバービーたちが暮らすバービーランドは、全てがピンクに彩られた理想郷。
プロダクションデザインのサラ・グリーンウッドと衣装デザインのジャクリーン・デュランは、オモチャの世界に入り込んだような、大人でもワクワクする世界を作り出している。
この街に暮らす女性たちは、肌の色や体型に関わらず皆バービーで、学者や作家、大統領もバービー。
ビーチには人魚のバービーだっている。
バービー以外には、バービーの妊婦の友達ミッジなど、過去にマテル社が発売して廃版になったキャラクターが少数住んでいる。
男たちも全員バービーのボーイフレンドであるケンで、例外はケンの友達であるアランだけ。
バービーランドは女社会なので、社会を回す役割を果たすのは全てバービー。
ケンにはバービーに恋焦がれる以外に役割はなく、バービーとセットで存在する添え物だ。
ところがバービーについて現実世界に行ってみると、そこはバービーランドとは真逆。
社会の中枢にいるのは皆男で、女たちは脇役に甘んじている。
これはずっとバービーに付き従うしか、自己存在の意味を持っていなかったケンにとって衝撃だ。
すっかり現実世界に感化されたケンは、「男社会(patriarchy、厳密には“家父長制”)」の思想をバービーランドに持ち帰り、バービーたちを洗脳してバービーランドを男が主役でマチズモ全開の「ケンダム」に作り替えてしまうのだ。
一方、そんなことになっているとは知らないバービーは、持ち主と思しきサーシャに会いにゆくが、「バービー人形は卒業した、バービーは男社会を助長するファシスト」だと言い放たれる。
ずっと自分が「女の子の憧れ」だと信じていたバービーは大ショック。
しかしサーシャがバービーを卒業した後も、捨てずにずっと手元に置き、大切にして来たのは実は母親のグロリアだったのである。
マテル社の従業員でもある彼女が、理想化されたバービーではなく、死が頭から離れなくて、体にセルライトがある「平凡なバービー」を発案したことで、バービーの体に異変が起こったのだ。
面白いのは、劇中で描かれるマテル社の取締役会が、全員中年男性で女性が一人もいないこと。
誰よりもバービーが好きなグロリアも、実際にバービーを作る仕事はさせてもらえないのだ。
確かにマテル社は女の子の理想をバービー人形という形にし、それが現実を引っ張ってきた歴史がある。
お仕事シリーズのバービーに「宇宙飛行士」が登場したのは1965年で、アメリカ初の女性宇宙飛行士サリー・ライドがスペースシャトルに乗り込んだのは18年後の1983年。
こちらはまだ現実化してないものの、1999年には「大統領」も登場している。
バービーが女の子たちに「何者にでもなれる」という希望を与えたのは確かだろう。
しかし、いつの間にかバービーの世界は過度に理想化され「女の子は虚構で夢喰ってればいい」という本末転倒になっていないか?
サーシャのバービーに対する辛辣な批判、おじさんだらけの取締役会は、そんなマテル社の自戒の念の表れなのかもしれない。
ちなみに現実のマテル社の取締役会には、複数の女性(映画部門のトップも女性)がいるので、これはあくまでも映画の設定。
さてケンに乗っ取られてしまったバービーランドを取り戻すため、帰って来たバービーはグロリアや廃版キャラクターの協力を得てバービーたちの洗脳を解こうとするのだが、この方法がむっちゃシニカル。
グロリアに、現実社会の女に課せられた、ダブルスタンダードの辛さを語らせるのだ。
いわく「痩せろと言われ、痩せたら痩せすぎと言われ。リーダーになれと言われ、なったら威張るなと言われ。綺麗になれと言われ、綺麗になったらモテるなと言われる。」
他にも、現実社会の理不尽を山ほど語るのだが、今まさに「男社会」の中にあるバービーたちは、この言葉で洗脳が解けてしまうのである。
男がウンチクを語るのが大好きなのを逆手にとる作戦とか、バービーの愛を取り合ってお互いに戦わせる作戦とか、いちいち男心が分かってて思わず苦笑い。
しかし、この映画はバービーランドを取り戻すだけでは終わらない。
初めて脇役のポジションを味わった彼女たちは、ケンの切ない想いも知ることとなり、お互いに歩みよる。
バービーたちはそれぞれのアイデンティティを取り戻す一方で、ケンに対しても自分たちの添え物ではなく、独立したアイデンティティを確立することを勧めるのだ。
そう、男社会も女社会も極端ではいけない。
これはバービー人形の世界観を批評的に描きながら、現実と架空の二つの極端な世界が和解に至る物語なのである。
脚本がガーウィグとノア・バームバックの共著なのも納得で、これは女性目線だけでは成立しない。
ファシスト呼ばわりされたことでガッツリ落ち込み、葛藤するバービーの、成長と選択の物語としても観応え十分。
バービーというステロタイプな“型”を風刺的に演じながら、内面の揺れる心を説得力たっぷりに演じたマーゴット・ロビーが素晴らしい。
それぞれに役割があるお仕事系バービーと違って、確固たる目的がない定番バービーは、自らのアイデンティティに悩むのだが、彼女の前に現れるのが、バービー人形の生みの親で、元マテル社長のルース・ハンドラーのゴースト。
今は現実と架空の間に存在するルースに導かれ、バービーはどこに繋がるかはまだ未知数の、自らの物語を生きる決断をする。
女の子も男の子も、何者にもなれる可能性は持っているが、それは別に押し付けられるものではなく、自ら選び取るもの。
一見するとフェミニズムの話に思えて、実はそれだけではなく、フェミニズム、マスキュリズムを包括した幅広い社会のあり方を、笑って泣ける一大エンターテイメントとして描き出した大変な力作だ。
タイトルも、本当は「バービー」よりも「バービー&ケン」が相応しい。
やや台詞に頼った印象は残るが、本作の大きな客層である子供たちに向けて、きちんと論点を理解して欲しいという意図を感じるので、これはこれでいいと思う。
ただ、日本語字幕の言葉のチョイスはちょっとお上品すぎるよ。
これでは、本作の持つ“毒”が伝わらないではないか。
今回は、ピンクの世界の物語なので「ピンク・レディー」をチョイス。
ドライ・ジン45ml、グレナデン・シロップ20ml、レモン・ジュース1tsp、卵白1/2個をよくシェイクして、グラスに注ぐ。
その名の通り、美しいパステルピンクのカクテルで、卵白のソフトな口当たりが辛口のジンとグレナデン・シロップの甘味を優しく包み込み、まとめ上げる。
1912年に初演された、イギリスの同名ミュージカル・コメディーの舞台から名付けられたが、昭和の日本のアイドルデュオの元ネタもこのカクテル。

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2023年08月07日 (月) | 編集 |
パパとママが本当に願っていることは?
ピクサー・アニメーション・スタジオの27作目となる新作長編は、水・火・土・風の四つのエレメント(元素)の世界の物語。
舞台は擬人化されたエレメントたちが暮らすニューヨーク風の大都会、エレメント・シティ。
普段は触れ合うことすら許されない火のエレメントのエンバーと、水のウェイドが出会い、禁断のラブストーリーの幕が開く。
「アーロと少年」のピーター・ソーン監督が、7、80年代にニューヨーク、ブロンクスで韓国からの移民の息子として育った自分の少年時代からインスピレーションを得た物語で、自らメガホンを取り映画化した。
主人公のエンバーのV.C.にNetflixで配信された「ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれから」で注目されたリア・ルイス、相方のウェイドにマムドゥ・アチー。
生活感たっぷりに描かれる、エレメントたちのカラフルでユニークな世界はとても楽しいが、移民社会のリアルをカリカチュアした物語でもある。
水・火・土・風の四大元素が暮らすエレメント・シティ。
火の移民の子として育ったエンバー・ルーメン(リア・ルイス)は、両親が創業したコンビニエンスストア「ファイアプレイス」で次期店主の修行中。
しかし彼女は配達は得意なものの、接客が苦手で癇癪持ち。
ある日、面倒臭い客に激昂したエンバーは、地下室で大爆発。
すると、なぜか使われていない配管から水が噴き出し、市の検査員で水のエレメントのウェイド・リップル(マムドゥ・アチー)が流されてくる。
ウェイドは手作りの配管を見て、営業停止を宣告。
エンバーはウェイドが市役所に書類を提出するのを、なんとか阻止しようとするが失敗。
陳情の結果、金曜日までに水漏れの原因を突き止めれば、営業停止は撤回されることになり、エンバーに同情したウェイドも協力してくれることになるのだが・・・・
本作は6月16日に米国で封切れられたが、期待を遥かに下回る興行成績で大コケ。
しかし、その後は粘り腰の動員を続けているという。
なるほど、公開当時は敬遠され、口コミが効いてくると持ち直した理由はとてもよく分かる。
私も予告編を見た時に、「また説教臭い話か」と思った。
四つのエレメントが人種や属性を象徴し、楽しませるよりも先にポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)を押し付けて来るようなパッケージに見えたのだ。
実際ディズニーの近作には、物語上意味のない多様性設定が目立つ。
昨年公開された「ストレンジ・ワールド/もう一つの世界」は、これでもかと言うくらい多様性の設定が詰め込まれていたし、実写作品の「ジャングル・クルーズ」では主人公の弟が、突然脈略もなくゲイ宣言する。
これらは全て、設定だけで後は放ったらかし。
もちろん多様性が空気のように受け入れられてるのが理想だとは思うが、現実がそうなって無い以上、設定するなら意味を持たせるべきだろう。
観客はディズニーの理想を観たいのではなく、物語を楽しみに来るのだから。
ところが本作は、一見するとポリコレに見えて、実は全くポリコレでは無い。
いや、あえて言えば正しいポリコレか。
なぜなら本作の多様性には、全てバックグラウンドと物語上の意味があるからだ。
映画の冒頭で、若いルーメン夫妻が小船に乗ってエレメント・シティにやって来る。
言葉が分からないので入国審査官とも会話にならず、バーニーとシンダーという適当な英語名(?)を付けられる。
家を探そうにも、他のエレメントから火は危険だと敬遠されて貸してもらえない。
やっと見つけた廃墟同然のボロ屋で暮らしはじめ、身重だったシンダーがエンバーを産む。
バーニーは建物をなんとかDIYで改装し、遂に自分たちの城となる店をはじめるのだ。
これが移民の物語であること、エンバーが親世代の苦労を間近で見て育ったことを端的に表した秀逸なオープニングだ。
この映画の世界で、水はエレメント・シティにやって来た最も古い移民で、都市のインフラも基本水に合わせて作られている。
続いて土と風がやって来て、火のエレメントは一番遅れてきた新移民。
ディズニー/ピクサーの作品で多様性の都市と言えば、多種多様な動物たちが暮らす「ズートピア」だが、エレメント・シティも行ってみたくなるワクワクに満ちている。
韓国系であるピーター・ソーンの半自伝でもあるので、、新参者である火はアジア系っぽい風習を持ち他のエレメントから色々な差別や偏見を受けている。
エンバーが住んでいるのは、火のエレメントが固まって住んでいる区画で、煌びやかな高層ビルが立ち並ぶエレメント・シティの中心からは離れた下町。
これも、マンハッタンに対するブロンクスのイメージだろう。
移民の両親と、新天地で生まれた移民二世の子供。
両親たちは生活基盤を作るためにがむしゃらに働き、築き上げた全てを次の世代に託そうとするが、新世界の価値観で育った子供が親の考えをすんなり受け入れるとは限らない。
主演のリア・ルイスの代表作である「ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれから」も、似たような葛藤を抱いた中国系移民二世の物語だったが、他にも「ウエストサイド物語」から「イン・ザ・ハイツ」まで様々な作品を連想させる。
だが私には、今年のオスカーを受賞した「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」を娘の目線で描いたバージョンに思えた。
銀河の破壊神にはなってないが、エンバーも意識しないうちに、親の価値観と自分の中の新しい世界の価値観に引き裂かれて爆発寸前。
そのイライラが癇癪として表に出ているのだ。
そこにいい意味で育ちがよく、ボンボンのウェイドが現れたことで、彼に導かれるようにして少しづつ鬱屈した自分を解放して行く。
火のエレメントたちは、自分達が被差別階層であることを意識して、他のエレメントに敵愾心を抱いている。
特に水と火は、いろいろな意味で正反対。
触れ合えば火は消えてしまうし、水は沸騰して蒸発してしまうので、決して一つになることは出来ないと信じられているのだ。
ちょっと頼りない、ウェイドのキャラクターがいい。
家族揃って泣き上戸で、感情表現がいちいち大袈裟。
経済的にも恵まれた愛情深い家族のもとで、天真爛漫に育つとこうなるという説得力がある。
物心ついた時から、親の跡を継ぐことが当たり前と思って育ち、他のエレメントとの接触も避けてきたエンバーにとって、あらゆる面で対照的なウェイドとの出会いは世界がひっくり返るカルチャーショック。
恋に落ちた二人が初めて触れ合うシーンは、なるほど火と水の特性を生かして、どんどん熱くなる心を化学反応として上手く表現した。
主役二人が不定形でありながら、キッチリとキャラクターとして成立させているのも、よくよく考えると凄いことだ。
これは多様性の街で暮らしながら、閉じた社会で育った若者が、真の意味のマルチカルチャーの洗礼を受け、生きる道を自らの意志で決めてゆく物語。
エンバーの心理変化に若干の駆け足感はあるが、二人の真実の愛に泣かされた。
ピクサーブランドの生きる道は、本作や「ソウルフル・ワールド」みたいな、少し大人向け路線だと思う。
ところで、この映画で一番ダメダメなのは市役所なんだが、これも新移民の多い貧しい街のインフラは後回にされると言う、お役所仕事への皮肉なんだろうな、たぶん。
久々の短編「カールじいさんのデート」が同時上映。
「カールじいさんの空飛ぶ家」の続編で、とある女性にデートに誘われたカール。
何を話せばいいのか、最愛のエリーに顔向けできないのではないかと、中学生のように右往左往する可愛い映画だ。
7分の小品だが、じんわりとした余韻が暖かい。
監督は、オリジナルでも共同監督を務めたボブ・ピーターソン。
ニューヨークを模した都市で展開する本作には、ウォッカベースのカクテル「ビッグ・アップル」をチョイス。
氷で満たしたタンブラーに、ウォッカ45ml、アップル・ジュース適量を加え、軽くステアする。
カットしたリンゴを飾って完成。
世界中の人を惹きつける巨大都市に相応しい、シンプルながら飽きのこないカクテルだ。
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ピクサー・アニメーション・スタジオの27作目となる新作長編は、水・火・土・風の四つのエレメント(元素)の世界の物語。
舞台は擬人化されたエレメントたちが暮らすニューヨーク風の大都会、エレメント・シティ。
普段は触れ合うことすら許されない火のエレメントのエンバーと、水のウェイドが出会い、禁断のラブストーリーの幕が開く。
「アーロと少年」のピーター・ソーン監督が、7、80年代にニューヨーク、ブロンクスで韓国からの移民の息子として育った自分の少年時代からインスピレーションを得た物語で、自らメガホンを取り映画化した。
主人公のエンバーのV.C.にNetflixで配信された「ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれから」で注目されたリア・ルイス、相方のウェイドにマムドゥ・アチー。
生活感たっぷりに描かれる、エレメントたちのカラフルでユニークな世界はとても楽しいが、移民社会のリアルをカリカチュアした物語でもある。
水・火・土・風の四大元素が暮らすエレメント・シティ。
火の移民の子として育ったエンバー・ルーメン(リア・ルイス)は、両親が創業したコンビニエンスストア「ファイアプレイス」で次期店主の修行中。
しかし彼女は配達は得意なものの、接客が苦手で癇癪持ち。
ある日、面倒臭い客に激昂したエンバーは、地下室で大爆発。
すると、なぜか使われていない配管から水が噴き出し、市の検査員で水のエレメントのウェイド・リップル(マムドゥ・アチー)が流されてくる。
ウェイドは手作りの配管を見て、営業停止を宣告。
エンバーはウェイドが市役所に書類を提出するのを、なんとか阻止しようとするが失敗。
陳情の結果、金曜日までに水漏れの原因を突き止めれば、営業停止は撤回されることになり、エンバーに同情したウェイドも協力してくれることになるのだが・・・・
本作は6月16日に米国で封切れられたが、期待を遥かに下回る興行成績で大コケ。
しかし、その後は粘り腰の動員を続けているという。
なるほど、公開当時は敬遠され、口コミが効いてくると持ち直した理由はとてもよく分かる。
私も予告編を見た時に、「また説教臭い話か」と思った。
四つのエレメントが人種や属性を象徴し、楽しませるよりも先にポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)を押し付けて来るようなパッケージに見えたのだ。
実際ディズニーの近作には、物語上意味のない多様性設定が目立つ。
昨年公開された「ストレンジ・ワールド/もう一つの世界」は、これでもかと言うくらい多様性の設定が詰め込まれていたし、実写作品の「ジャングル・クルーズ」では主人公の弟が、突然脈略もなくゲイ宣言する。
これらは全て、設定だけで後は放ったらかし。
もちろん多様性が空気のように受け入れられてるのが理想だとは思うが、現実がそうなって無い以上、設定するなら意味を持たせるべきだろう。
観客はディズニーの理想を観たいのではなく、物語を楽しみに来るのだから。
ところが本作は、一見するとポリコレに見えて、実は全くポリコレでは無い。
いや、あえて言えば正しいポリコレか。
なぜなら本作の多様性には、全てバックグラウンドと物語上の意味があるからだ。
映画の冒頭で、若いルーメン夫妻が小船に乗ってエレメント・シティにやって来る。
言葉が分からないので入国審査官とも会話にならず、バーニーとシンダーという適当な英語名(?)を付けられる。
家を探そうにも、他のエレメントから火は危険だと敬遠されて貸してもらえない。
やっと見つけた廃墟同然のボロ屋で暮らしはじめ、身重だったシンダーがエンバーを産む。
バーニーは建物をなんとかDIYで改装し、遂に自分たちの城となる店をはじめるのだ。
これが移民の物語であること、エンバーが親世代の苦労を間近で見て育ったことを端的に表した秀逸なオープニングだ。
この映画の世界で、水はエレメント・シティにやって来た最も古い移民で、都市のインフラも基本水に合わせて作られている。
続いて土と風がやって来て、火のエレメントは一番遅れてきた新移民。
ディズニー/ピクサーの作品で多様性の都市と言えば、多種多様な動物たちが暮らす「ズートピア」だが、エレメント・シティも行ってみたくなるワクワクに満ちている。
韓国系であるピーター・ソーンの半自伝でもあるので、、新参者である火はアジア系っぽい風習を持ち他のエレメントから色々な差別や偏見を受けている。
エンバーが住んでいるのは、火のエレメントが固まって住んでいる区画で、煌びやかな高層ビルが立ち並ぶエレメント・シティの中心からは離れた下町。
これも、マンハッタンに対するブロンクスのイメージだろう。
移民の両親と、新天地で生まれた移民二世の子供。
両親たちは生活基盤を作るためにがむしゃらに働き、築き上げた全てを次の世代に託そうとするが、新世界の価値観で育った子供が親の考えをすんなり受け入れるとは限らない。
主演のリア・ルイスの代表作である「ハーフ・オブ・イット: 面白いのはこれから」も、似たような葛藤を抱いた中国系移民二世の物語だったが、他にも「ウエストサイド物語」から「イン・ザ・ハイツ」まで様々な作品を連想させる。
だが私には、今年のオスカーを受賞した「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」を娘の目線で描いたバージョンに思えた。
銀河の破壊神にはなってないが、エンバーも意識しないうちに、親の価値観と自分の中の新しい世界の価値観に引き裂かれて爆発寸前。
そのイライラが癇癪として表に出ているのだ。
そこにいい意味で育ちがよく、ボンボンのウェイドが現れたことで、彼に導かれるようにして少しづつ鬱屈した自分を解放して行く。
火のエレメントたちは、自分達が被差別階層であることを意識して、他のエレメントに敵愾心を抱いている。
特に水と火は、いろいろな意味で正反対。
触れ合えば火は消えてしまうし、水は沸騰して蒸発してしまうので、決して一つになることは出来ないと信じられているのだ。
ちょっと頼りない、ウェイドのキャラクターがいい。
家族揃って泣き上戸で、感情表現がいちいち大袈裟。
経済的にも恵まれた愛情深い家族のもとで、天真爛漫に育つとこうなるという説得力がある。
物心ついた時から、親の跡を継ぐことが当たり前と思って育ち、他のエレメントとの接触も避けてきたエンバーにとって、あらゆる面で対照的なウェイドとの出会いは世界がひっくり返るカルチャーショック。
恋に落ちた二人が初めて触れ合うシーンは、なるほど火と水の特性を生かして、どんどん熱くなる心を化学反応として上手く表現した。
主役二人が不定形でありながら、キッチリとキャラクターとして成立させているのも、よくよく考えると凄いことだ。
これは多様性の街で暮らしながら、閉じた社会で育った若者が、真の意味のマルチカルチャーの洗礼を受け、生きる道を自らの意志で決めてゆく物語。
エンバーの心理変化に若干の駆け足感はあるが、二人の真実の愛に泣かされた。
ピクサーブランドの生きる道は、本作や「ソウルフル・ワールド」みたいな、少し大人向け路線だと思う。
ところで、この映画で一番ダメダメなのは市役所なんだが、これも新移民の多い貧しい街のインフラは後回にされると言う、お役所仕事への皮肉なんだろうな、たぶん。
久々の短編「カールじいさんのデート」が同時上映。
「カールじいさんの空飛ぶ家」の続編で、とある女性にデートに誘われたカール。
何を話せばいいのか、最愛のエリーに顔向けできないのではないかと、中学生のように右往左往する可愛い映画だ。
7分の小品だが、じんわりとした余韻が暖かい。
監督は、オリジナルでも共同監督を務めたボブ・ピーターソン。
ニューヨークを模した都市で展開する本作には、ウォッカベースのカクテル「ビッグ・アップル」をチョイス。
氷で満たしたタンブラーに、ウォッカ45ml、アップル・ジュース適量を加え、軽くステアする。
カットしたリンゴを飾って完成。
世界中の人を惹きつける巨大都市に相応しい、シンプルながら飽きのこないカクテルだ。

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2023年08月04日 (金) | 編集 |
ついに運命が動き出す。
後に始皇帝として中国史上初の統一王朝を作る嬴政と、大将軍となる李信の若き日を描く大人気シリーズ第三弾。
蛇甘平原の戦いで魏の侵攻を退けた秦に、新たな危機が迫る。
10万の趙軍が国境を越え、要衝馬陽を巡って秦軍と激突する。
山崎賢人演じる信は、前作の後で王騎将軍に弟子入りしていたらしく、与えられた荒地民の平定を成し遂げ、今回は百人将、つまり指揮官となっている。
天下の大将軍への、着実な一歩を踏み出した訳だ。
彼の部隊は王騎将軍から「飛信隊」という名を与えられ、秦軍の中でも独立した特殊作戦を担うことになる。
ぶっちゃけ、出来は凄くいい。
面白さで言ったら、シリーズでも一番かも知れない。
でも、完結してないんだな。
前後編の構成になっていて、絶妙なところで幕切れとなるのだ。
「ミッション:インポッシブル」に続いて、夏休みの大作が洋邦揃ってPart1とは。
物語的には前半と後半が綺麗に分かれている作りで、前半は嬴政がなぜ中華統一を目指すのか、王騎将軍の問いに答える形で、趙の人質だった子供時代、秦への脱出行のエピソードが語られる。
人質として奴隷同然の扱いを受けていた嬴政は、祖父の崩御にともなって王位継承者として秦へ帰ることになるのだが、趙は彼が手の内にいるうちに亡き者にしたい。
嬴政は杏演じる紫夏という闇商人の女性に救われるが、彼女は趙軍の手にかかり命を落とし、嬴政は戦の無い世界を作る偉大な王となることを誓う。
この前半パートの主役は嬴政で、信は彼の語りを聞いているだけ。
後半は信が主役に戻り、馬陽の戦場で「飛信隊」を率い、敵の智将・馮忌の首を狙う合戦編。
シリーズ一作目が王都奪還を描いたゲリラ戦、二作目は正規軍同士の戦いをやや俯瞰した視点で描き、信は将軍の仕事とは何かを学んだ。
対して今回は、小部隊ながら実際に指揮官となって、絶対インポッシブルなミッションに赴くのである。
前作で登場した同郷の尾平、尾到、最強の暗殺者・羌瘣も再登場。
相変わらず、アクションは良い意味で漫画チックだが、三作目となってキャラクター同士の関係もこなれてきて、この辺りもIMFっぽい。
パワーの信とフットワークの羌瘣の、いい感じのコンビネーションバトルが大きな見ものとなっている。
前半後半それぞれにクライマックスがあって、1時間のよく出来た映画を二本観てるような作り。
二作目以降はコロナ禍にあって一作目のような中国での長期ロケーションが行えず、中国ユニットと連携してデジタル的な手法も駆使されているというが、相変わらずシネマスコープの画面が映える画作りが徹底されていて、日本の劇場用映画としてはスケール、クオリティ共にトップクラス。
後半の合戦は後方で碁盤の目を眺めるように戦いの大局を読む王騎将軍と、現場で死闘を繰り広げる信の視点が交錯し、マクロとミクロを同時に楽しめる工夫もユニーク。
新たな難敵登場という良いところで終わったので、長澤まさみ姐さんが演じる楊端和が再登場すらしい後編に期待大。
しかし原作のあらすじを読むと、どうも映画版の「キングダム」は次で打ち止めになりそうな気がする。
とりあえず現在までに刊行されている69巻のうち、後編までで16巻までの内容だそうで、もし全部映画化しようと思ったら、まだ十本以上必要になる計算。
流石にそれは無理だろうし、キリのいいところで終えるのもいいと思う。
というわけで来年も「ミッション:インポッシブル」と「キングダム」という、既視感のある夏になりそう。
今回は砂漠が舞台で喉が渇く映画なので、中国を代表する銘柄「青島ビール IPA」をチョイス。
世界的なIPAブームに、中国の老舗も日和ったか(笑
通常の緑瓶より苦味は4倍、麦汁濃度だそうで、なるほどガツンとくる。
キレはいいが、後味もしっかりしている。
普通の青島ビールに飽きた人は、一度試してみるといいだろう。
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後に始皇帝として中国史上初の統一王朝を作る嬴政と、大将軍となる李信の若き日を描く大人気シリーズ第三弾。
蛇甘平原の戦いで魏の侵攻を退けた秦に、新たな危機が迫る。
10万の趙軍が国境を越え、要衝馬陽を巡って秦軍と激突する。
山崎賢人演じる信は、前作の後で王騎将軍に弟子入りしていたらしく、与えられた荒地民の平定を成し遂げ、今回は百人将、つまり指揮官となっている。
天下の大将軍への、着実な一歩を踏み出した訳だ。
彼の部隊は王騎将軍から「飛信隊」という名を与えられ、秦軍の中でも独立した特殊作戦を担うことになる。
ぶっちゃけ、出来は凄くいい。
面白さで言ったら、シリーズでも一番かも知れない。
でも、完結してないんだな。
前後編の構成になっていて、絶妙なところで幕切れとなるのだ。
「ミッション:インポッシブル」に続いて、夏休みの大作が洋邦揃ってPart1とは。
物語的には前半と後半が綺麗に分かれている作りで、前半は嬴政がなぜ中華統一を目指すのか、王騎将軍の問いに答える形で、趙の人質だった子供時代、秦への脱出行のエピソードが語られる。
人質として奴隷同然の扱いを受けていた嬴政は、祖父の崩御にともなって王位継承者として秦へ帰ることになるのだが、趙は彼が手の内にいるうちに亡き者にしたい。
嬴政は杏演じる紫夏という闇商人の女性に救われるが、彼女は趙軍の手にかかり命を落とし、嬴政は戦の無い世界を作る偉大な王となることを誓う。
この前半パートの主役は嬴政で、信は彼の語りを聞いているだけ。
後半は信が主役に戻り、馬陽の戦場で「飛信隊」を率い、敵の智将・馮忌の首を狙う合戦編。
シリーズ一作目が王都奪還を描いたゲリラ戦、二作目は正規軍同士の戦いをやや俯瞰した視点で描き、信は将軍の仕事とは何かを学んだ。
対して今回は、小部隊ながら実際に指揮官となって、絶対インポッシブルなミッションに赴くのである。
前作で登場した同郷の尾平、尾到、最強の暗殺者・羌瘣も再登場。
相変わらず、アクションは良い意味で漫画チックだが、三作目となってキャラクター同士の関係もこなれてきて、この辺りもIMFっぽい。
パワーの信とフットワークの羌瘣の、いい感じのコンビネーションバトルが大きな見ものとなっている。
前半後半それぞれにクライマックスがあって、1時間のよく出来た映画を二本観てるような作り。
二作目以降はコロナ禍にあって一作目のような中国での長期ロケーションが行えず、中国ユニットと連携してデジタル的な手法も駆使されているというが、相変わらずシネマスコープの画面が映える画作りが徹底されていて、日本の劇場用映画としてはスケール、クオリティ共にトップクラス。
後半の合戦は後方で碁盤の目を眺めるように戦いの大局を読む王騎将軍と、現場で死闘を繰り広げる信の視点が交錯し、マクロとミクロを同時に楽しめる工夫もユニーク。
新たな難敵登場という良いところで終わったので、長澤まさみ姐さんが演じる楊端和が再登場すらしい後編に期待大。
しかし原作のあらすじを読むと、どうも映画版の「キングダム」は次で打ち止めになりそうな気がする。
とりあえず現在までに刊行されている69巻のうち、後編までで16巻までの内容だそうで、もし全部映画化しようと思ったら、まだ十本以上必要になる計算。
流石にそれは無理だろうし、キリのいいところで終えるのもいいと思う。
というわけで来年も「ミッション:インポッシブル」と「キングダム」という、既視感のある夏になりそう。
今回は砂漠が舞台で喉が渇く映画なので、中国を代表する銘柄「青島ビール IPA」をチョイス。
世界的なIPAブームに、中国の老舗も日和ったか(笑
通常の緑瓶より苦味は4倍、麦汁濃度だそうで、なるほどガツンとくる。
キレはいいが、後味もしっかりしている。
普通の青島ビールに飽きた人は、一度試してみるといいだろう。

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2023年08月01日 (火) | 編集 |
本当の友だち。
女王殺しの濡れ衣を着せられた騎士バリスター・ボールドハートは、ひょんなことからどんなものにも化けられるシェイプシフターの少女ニモーナとバディを組み、事件の真相を探りはじめる。
ND・スティーブンソン原作の同名の異世界グラフィックノベルを、「スパイ in デンジャー」のニック・ブルーノ、トロイ・クアン両監督で映画化した作品。
ユニークなのは、キャラクターは剣と魔法の中世ファンタジーみたいなのに、舞台はSFチックな未来都市というビジュアルデザイン。
古きと新しきを融合させて、スチームパンクとはまた違った独特の世界観を作り出している。
キャラクターデザインはメインVCのリズ・アーメットとクロエ・グレース・モレッツ寄せられ、2D調で描かれたアニメーションは未見性がある。
これは長年信じられてきた“当たり前”が変わる瞬間を描いた物語で、その意味では「ヒックとドラゴン」に近い。
王国ははかつて“偉大な黒いモンスター”に襲われ、危うく滅びそうになったのだが、伝説の勇者グロレスによって救われる。
モンスターは打ち破られたが、いつ復活しても対処できるように、グロレスによって王国を守護する騎士団が作られ、民衆からは英雄視されている。
そして1000年が経った現在でも、人々はこの世界の秩序を作り出したグロレスの言葉を盲信したまま。
騎士団は世襲制で、彼らの“敵“であるモンスターは、今や誰も見たことが無い。
主人公のバリスターは、女王によって才能を認められ、初めての世襲ではない庶民出身の騎士になるはずが、罠に嵌められる。
つまり彼が戦わなくてはならないのはモンスターではなく、社会の中にある硬直した価値観なのだ。
バリスターは庶民であるだけでなくゲイで、しかもその相手は騎士団の中でもエリート中のエリート、グロレス直系の子孫であるアンブローシャス・ゴールデンロイン。
まあこの辺りの情報過多系のマイノリティキャラクターはアメリカ映画だなあと思わせるが、魅力的なのはクロエちゃん演じるタイトルロールのニモーナだ。
彼女の正体は、かつて王国を襲った“偉大な黒いモンスター”そのもの。
元々ニモーナはグロレスの友達だったのだが、シェイプシフターのニモーナを恐れる大人たちによって引き裂かれ、やがてグロレスとも戦うことになってしまう。
つまりは、全ては大人たちの無知と偏見からはじまった誤解なのである。
ニモーナは、一人ぼっちの1000年間を過ごしてきて、破壊願望に取り憑かれているが、基本的に気はいい奴。
一方のバリスターも、ニモーナと同じく言われなき誤解によって追われる身。
女王が死んだ事件の現場で片腕を失い、今は機械の腕を装着している。
二人の鬱屈した異形の者の悲しみも、物語の情感をアップし、いよいよニモーナの中に眠る“偉大な黒いモンスター”が暴走をはじめるクライマックスまで、快調なテンポで物語が紡がれる。
全ての誤解を解くためのニモーナの行為は、ちょっと「アイアン・ジャイアント」風味も。
本作は、本来はディズニーに買収されて閉鎖されたFOX傘下のブルースカイ・スタジオの制作で、アンナプルナ・ピクチャーズが引き継いで完成させた作品。
買収当時は未完の状態だったとは言え、ディズニーは自社作品にはいない、新しいタイプの魅力的なヒロインをみすみす手放してしまった訳だ。
クライマックの禍々しい怪獣パニックも含め、アニメーション技法を生かし切った作品で、できれば劇場で観たかったクオリティ。
まあでも、完成しただけでもマシか。
世の中の争いの多くは、無知と偏見から生まれる。
今回は平和なカクテル「グリーン・ピース」をチョイス。
メロン・リキュール30ml、ブルー・キュラソー20ml、パイナップル・ジュース15ml、レモンジュース1tsp、生クリーム15mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
美しい青緑は目にも涼しげ。
生クリームがフルーツ系の甘味や酸味をまとめ上げて、優しい口当たりにしている。
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女王殺しの濡れ衣を着せられた騎士バリスター・ボールドハートは、ひょんなことからどんなものにも化けられるシェイプシフターの少女ニモーナとバディを組み、事件の真相を探りはじめる。
ND・スティーブンソン原作の同名の異世界グラフィックノベルを、「スパイ in デンジャー」のニック・ブルーノ、トロイ・クアン両監督で映画化した作品。
ユニークなのは、キャラクターは剣と魔法の中世ファンタジーみたいなのに、舞台はSFチックな未来都市というビジュアルデザイン。
古きと新しきを融合させて、スチームパンクとはまた違った独特の世界観を作り出している。
キャラクターデザインはメインVCのリズ・アーメットとクロエ・グレース・モレッツ寄せられ、2D調で描かれたアニメーションは未見性がある。
これは長年信じられてきた“当たり前”が変わる瞬間を描いた物語で、その意味では「ヒックとドラゴン」に近い。
王国ははかつて“偉大な黒いモンスター”に襲われ、危うく滅びそうになったのだが、伝説の勇者グロレスによって救われる。
モンスターは打ち破られたが、いつ復活しても対処できるように、グロレスによって王国を守護する騎士団が作られ、民衆からは英雄視されている。
そして1000年が経った現在でも、人々はこの世界の秩序を作り出したグロレスの言葉を盲信したまま。
騎士団は世襲制で、彼らの“敵“であるモンスターは、今や誰も見たことが無い。
主人公のバリスターは、女王によって才能を認められ、初めての世襲ではない庶民出身の騎士になるはずが、罠に嵌められる。
つまり彼が戦わなくてはならないのはモンスターではなく、社会の中にある硬直した価値観なのだ。
バリスターは庶民であるだけでなくゲイで、しかもその相手は騎士団の中でもエリート中のエリート、グロレス直系の子孫であるアンブローシャス・ゴールデンロイン。
まあこの辺りの情報過多系のマイノリティキャラクターはアメリカ映画だなあと思わせるが、魅力的なのはクロエちゃん演じるタイトルロールのニモーナだ。
彼女の正体は、かつて王国を襲った“偉大な黒いモンスター”そのもの。
元々ニモーナはグロレスの友達だったのだが、シェイプシフターのニモーナを恐れる大人たちによって引き裂かれ、やがてグロレスとも戦うことになってしまう。
つまりは、全ては大人たちの無知と偏見からはじまった誤解なのである。
ニモーナは、一人ぼっちの1000年間を過ごしてきて、破壊願望に取り憑かれているが、基本的に気はいい奴。
一方のバリスターも、ニモーナと同じく言われなき誤解によって追われる身。
女王が死んだ事件の現場で片腕を失い、今は機械の腕を装着している。
二人の鬱屈した異形の者の悲しみも、物語の情感をアップし、いよいよニモーナの中に眠る“偉大な黒いモンスター”が暴走をはじめるクライマックスまで、快調なテンポで物語が紡がれる。
全ての誤解を解くためのニモーナの行為は、ちょっと「アイアン・ジャイアント」風味も。
本作は、本来はディズニーに買収されて閉鎖されたFOX傘下のブルースカイ・スタジオの制作で、アンナプルナ・ピクチャーズが引き継いで完成させた作品。
買収当時は未完の状態だったとは言え、ディズニーは自社作品にはいない、新しいタイプの魅力的なヒロインをみすみす手放してしまった訳だ。
クライマックの禍々しい怪獣パニックも含め、アニメーション技法を生かし切った作品で、できれば劇場で観たかったクオリティ。
まあでも、完成しただけでもマシか。
世の中の争いの多くは、無知と偏見から生まれる。
今回は平和なカクテル「グリーン・ピース」をチョイス。
メロン・リキュール30ml、ブルー・キュラソー20ml、パイナップル・ジュース15ml、レモンジュース1tsp、生クリーム15mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
美しい青緑は目にも涼しげ。
生クリームがフルーツ系の甘味や酸味をまとめ上げて、優しい口当たりにしている。

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