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2023年09月18日 (月) | 編集 |
僕らはみんな、生きている。
これは色々な意味で凄い映画だ。
アニメーションユニット「超平和バスターズ」の一員であり、「さよならの朝に約束の花をかざろう」で長編監督デビューを飾った岡田麿里の監督第二作。
製鉄の街・見伏に暮らす14歳の中学生たちの物語だが、ここは普通の街では無い。
ある冬の夜、製鉄所で起こった謎の爆発事故の結果、見伏は外界から切り離されただけでなく、時間も流れなくなってしまったのだ。
永遠の冬に閉ざされた街では、子どもたちの成長も止まる。
大人たちは、このままの状態を保っていれば、いつか元の世界に戻れる日が来ると信じ、住民に「変化」することを禁じる。
人間は、変化しない人生を受け入れることが出来るのか?はたしてそれは「生きている」と言えるのか?
これは永遠の子どもであることを義務付けられた中学生たちによる、反乱の物語である。
※核心部分に触れています。
菊入正宗(榎木淳弥)は、見伏に住む14歳の中学生。
この街は、ある年の冬に起こった原因不明の製鉄所爆発事故によって、時間と空間が元の世界から切り離されてしまった。
人々の肉体の時間も止まり、老いることも死ぬこともない。
大人たちはいつか元の世界に戻れた時、自分たちが変わっていると色々不都合があると考え、子どもたちに変化することは罪だと教える。
元の自分を忘れないために、将来の夢や髪型、好きな人嫌いな人まで書き込む「自分確認票」の提出を義務付けているが、正宗はずっと拒んでいる。
ある日、正宗は同級生の佐上睦実(上田麗奈)に誘われて、廃墟となっている製鉄所の第五高炉を訪ね、そこで言葉も話せない野生のオオカミの様な少女・五実(久野美咲)と出会う。
五実は幼い頃に外の世界からやって来た娘で、時間の止まったこの街でただ一人成長する存在。
街を仕切る睦実の義父・衛は、五実の心が成長しなければ、この街は永遠に続くと信じている。
だが正宗と出会ったことによって、五実の心に化学反応が生じ、街の空を巨大な亀裂が覆い尽くす・・・・
異才・岡田麿里が、フルスロットルの作家性で大爆走。
濃縮された人間の感情全部入り、全力で心が叫びたがってる。
出口なき時間の止まった街に閉じ込められ、永遠に14歳を生きることになった中学生たちの物語は、相変わらず凝った設定だが、ここから更に世界観を捻って来るのだ。
大人になることの出来ない子どもと言うモチーフは、萩尾望都の傑作短編「金曜の夜の集会」やティム・バートン監督の映画「ミス・ペレグリンと奇妙な子どもたち」などにも共通するが、本作の場合はこれらの作品の様に、時間ループに閉じ込められているわけではない。
見伏の街からは、時間の流れそのものが消えてしまっているのだ。
事故が起こった原因は、劇中でも明示されない。
一応、神職の末裔である佐上衛の説によると、山を削って鉄鋼を生産していた見伏の民に対する神罰みたいなことらしいが、何らかの超自然的な現象が起こって街は丸ごと異界となった。
この謎めいた世界の正体に対する知的好奇心と、「この世界の片隅に」のMAPPAが手掛ける超絶クオリティの映像が、先ずは作品の両輪となって観客の心を掴み取る。
やがて大人たちが隠していた五実という変数が投げ込まれ、この世界は現実ではなく、現実の一瞬を模した写しの様なもので、いわば「まぼろし」だということが明らかになる。
だから現実世界では元通りに時間が流れ、成長し大人になった正宗たちがいる。
異界の見伏が元の世界と再び合流するのは、最初から不可能なのである。
この事実を知ったことによって、正宗たちの中で何かが大きく動き出す。
「心が叫びたがってるんだ。」「空の青さを知る人よ」など、岡田麿里は現実とは少しズレたファンタジーの設定の中で、少年少女の生々しい心情を巧みに描き出す人だが、今回はその特質を自らさらに掘り下げいる。
映画を観ていると男子中学生たちの下ネタや、睦実の正宗に対する挑発的な行為、さらに最初は言葉を話せず、まるで無垢な幼女のように振舞う五実といった、キャラクターの「性」を感じさせる描写に戸惑いを感じる。
だがこれは敢えてであり、物語全体を通せば絶対に必要なものなのだ。
時の止まった見伏で、人々はどれほどの歳月を過ごしているのか。
亀裂から見える現実世界の正宗たちから推測するに、おそらくは20年以上。
つまり正宗たちは、見た目は14歳でも中身は30代の大人である。
14歳を20周もすれば心は自然に成熟してゆくが、それを表に出すことは許されない。
彼らは現状維持で良しとする大人たちによって、中学生を演じることを強要されているのだ。
物語の中の正宗たちは、以前社会問題となった失神ゲームとか、高いところから飛び降りるゲームとか、わざと痛みを感じる遊びをしている。
それは物凄く歪な世界で、歪に生きることが当たり前とされている状況で、自分が何のために存在しているのかも分からなくなって、少しでも生の実感が欲しいゆえの衝動的行動。
そんな彼らが、自分たちがまぼろしで、生きてもおらず死んでもおらず、明日弾けて消えてしまうかも知れない不安定な存在だと知った時、どうするのか。
物語の中で、いつか大人になったらラジオのDJになりたいと語っていた少年は、それが叶わない夢だと悟ると、自らに亀裂を生じさせて消滅してしまう。
でもたとえまぼろしであっても、そこに住む人々は体感としては生きている。
全てを諦めてしまえばそこで終わりだが、いつ終わるとも分からない世界で懸命にかりそめの生を追求したっていいのである。
その覚悟を決めた正宗に、もう中学生を演じる必要はなく、彼は睦実と激しくキスをする。
このキスシーンは、観てる方が背徳感をおぼえるほど生々しいものだが、この作品で性を感じさせる行為は、まさに生きていることの証であり、まぼろしゆえの精一杯の抵抗なのである。
さらに終盤になると、五実を巻き込んださらに歪な三角関係が形作られ、本来の現実世界へと五実を返すための冒険と、この世界を終わらせないための挑戦が、新たな物語の両輪となり怒涛の勢いで突っ走る。
逆「銀河鉄道の夜」的な列車を使ったスペクタクルな見せ場は、文字通りのノンストップ大活劇で、登場人物の溢れ出す感情を燃料に、息苦しいほどの熱気を感じさせる。
変化が罪とされる見伏は、先の展望を描けず、閉塞した現在日本をカリカチュアした街と言えるだろう。
同時に「君の名は。」の大ヒット以来、少年少女を主人公としたファンタジーの「求められる」テンプレートのメタファーなのかも知れない。
新海誠が「天気の子」を経由して「すずめの戸締り」で、自らセカイ系を否定してみせたように、岡田麿里もまた「独自の道を行く」とこの作品で宣言したように思える。
台詞の一字一句、画面の隅々まで作者独特のカラーが行き渡った、ある意味最強の作家映画。
未来へ進む人へエールを贈る、中島みゆきのエンディングテーマ「心音(しんおん」がダメ押しで心を打つ。
おそらく、心の奥底まで刺さる人がいる反面、ある程度の読解力が必要な作品で、中身大人とは言えディープな14歳のキスなど、危うい描写もてんこ盛りなので、そこだけで拒絶反応を示す人も多いと思う。
しかし、こういう尖りまくった作品が、それなりにメジャーなパッケージで出てくる層の厚さと、本当の意味での多様性こそが、日本のアニメーションの最大の強みなのだ。
岡田麿里と「アリスとテレスのまぼろし工場」は、2023年の映画史に忘れられない爪痕を残した。
ところで、素晴らしい作品なのは間違いないのだが、なぜこのタイトルなのだろう?
行けども行けどもアリスもテレスもまぼろし工場も出てこないので、途中まで間違えて別の映画来ちゃったんじゃないかと思ってしまった。
インタビューを読むと、10年前に作者が執筆しようとしていて、映画の雛形となった小説のタイトルが「狼少女のアリスとテレス」だったそうだけど、実際の映画には「アリス」と「テレス」出てこないじゃん(笑
劇中に出てくる「希望とは、めざめている者の見る夢」という格言もアリストテレスの言葉だというが、ちょっと弱い。
まあ、ぶっちゃけ観てるうちに忘れてたけどさ。
「君たちはどう生きるか」とはまた違った意味で、中身とタイトルが乖離している作品だった。
本作の舞台となる見伏市は架空の街だが、製鉄所のモデルになったのは君津市にある日本製鐵の日本製鉄の製鉄所。
今回は君津の地酒、森酒造店の「上望陀 特別純米生原酒」をチョイス。
木更津の上望陀地区産の、千葉県産の酒造好適米「総の舞」100%で作られる、まさにザ・地酒。
やや辛口でスッキリした味わい、冷で美味しいがぬる燗でもいけそう。
房総の海の幸とあわせたい。
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これは色々な意味で凄い映画だ。
アニメーションユニット「超平和バスターズ」の一員であり、「さよならの朝に約束の花をかざろう」で長編監督デビューを飾った岡田麿里の監督第二作。
製鉄の街・見伏に暮らす14歳の中学生たちの物語だが、ここは普通の街では無い。
ある冬の夜、製鉄所で起こった謎の爆発事故の結果、見伏は外界から切り離されただけでなく、時間も流れなくなってしまったのだ。
永遠の冬に閉ざされた街では、子どもたちの成長も止まる。
大人たちは、このままの状態を保っていれば、いつか元の世界に戻れる日が来ると信じ、住民に「変化」することを禁じる。
人間は、変化しない人生を受け入れることが出来るのか?はたしてそれは「生きている」と言えるのか?
これは永遠の子どもであることを義務付けられた中学生たちによる、反乱の物語である。
※核心部分に触れています。
菊入正宗(榎木淳弥)は、見伏に住む14歳の中学生。
この街は、ある年の冬に起こった原因不明の製鉄所爆発事故によって、時間と空間が元の世界から切り離されてしまった。
人々の肉体の時間も止まり、老いることも死ぬこともない。
大人たちはいつか元の世界に戻れた時、自分たちが変わっていると色々不都合があると考え、子どもたちに変化することは罪だと教える。
元の自分を忘れないために、将来の夢や髪型、好きな人嫌いな人まで書き込む「自分確認票」の提出を義務付けているが、正宗はずっと拒んでいる。
ある日、正宗は同級生の佐上睦実(上田麗奈)に誘われて、廃墟となっている製鉄所の第五高炉を訪ね、そこで言葉も話せない野生のオオカミの様な少女・五実(久野美咲)と出会う。
五実は幼い頃に外の世界からやって来た娘で、時間の止まったこの街でただ一人成長する存在。
街を仕切る睦実の義父・衛は、五実の心が成長しなければ、この街は永遠に続くと信じている。
だが正宗と出会ったことによって、五実の心に化学反応が生じ、街の空を巨大な亀裂が覆い尽くす・・・・
異才・岡田麿里が、フルスロットルの作家性で大爆走。
濃縮された人間の感情全部入り、全力で心が叫びたがってる。
出口なき時間の止まった街に閉じ込められ、永遠に14歳を生きることになった中学生たちの物語は、相変わらず凝った設定だが、ここから更に世界観を捻って来るのだ。
大人になることの出来ない子どもと言うモチーフは、萩尾望都の傑作短編「金曜の夜の集会」やティム・バートン監督の映画「ミス・ペレグリンと奇妙な子どもたち」などにも共通するが、本作の場合はこれらの作品の様に、時間ループに閉じ込められているわけではない。
見伏の街からは、時間の流れそのものが消えてしまっているのだ。
事故が起こった原因は、劇中でも明示されない。
一応、神職の末裔である佐上衛の説によると、山を削って鉄鋼を生産していた見伏の民に対する神罰みたいなことらしいが、何らかの超自然的な現象が起こって街は丸ごと異界となった。
この謎めいた世界の正体に対する知的好奇心と、「この世界の片隅に」のMAPPAが手掛ける超絶クオリティの映像が、先ずは作品の両輪となって観客の心を掴み取る。
やがて大人たちが隠していた五実という変数が投げ込まれ、この世界は現実ではなく、現実の一瞬を模した写しの様なもので、いわば「まぼろし」だということが明らかになる。
だから現実世界では元通りに時間が流れ、成長し大人になった正宗たちがいる。
異界の見伏が元の世界と再び合流するのは、最初から不可能なのである。
この事実を知ったことによって、正宗たちの中で何かが大きく動き出す。
「心が叫びたがってるんだ。」「空の青さを知る人よ」など、岡田麿里は現実とは少しズレたファンタジーの設定の中で、少年少女の生々しい心情を巧みに描き出す人だが、今回はその特質を自らさらに掘り下げいる。
映画を観ていると男子中学生たちの下ネタや、睦実の正宗に対する挑発的な行為、さらに最初は言葉を話せず、まるで無垢な幼女のように振舞う五実といった、キャラクターの「性」を感じさせる描写に戸惑いを感じる。
だがこれは敢えてであり、物語全体を通せば絶対に必要なものなのだ。
時の止まった見伏で、人々はどれほどの歳月を過ごしているのか。
亀裂から見える現実世界の正宗たちから推測するに、おそらくは20年以上。
つまり正宗たちは、見た目は14歳でも中身は30代の大人である。
14歳を20周もすれば心は自然に成熟してゆくが、それを表に出すことは許されない。
彼らは現状維持で良しとする大人たちによって、中学生を演じることを強要されているのだ。
物語の中の正宗たちは、以前社会問題となった失神ゲームとか、高いところから飛び降りるゲームとか、わざと痛みを感じる遊びをしている。
それは物凄く歪な世界で、歪に生きることが当たり前とされている状況で、自分が何のために存在しているのかも分からなくなって、少しでも生の実感が欲しいゆえの衝動的行動。
そんな彼らが、自分たちがまぼろしで、生きてもおらず死んでもおらず、明日弾けて消えてしまうかも知れない不安定な存在だと知った時、どうするのか。
物語の中で、いつか大人になったらラジオのDJになりたいと語っていた少年は、それが叶わない夢だと悟ると、自らに亀裂を生じさせて消滅してしまう。
でもたとえまぼろしであっても、そこに住む人々は体感としては生きている。
全てを諦めてしまえばそこで終わりだが、いつ終わるとも分からない世界で懸命にかりそめの生を追求したっていいのである。
その覚悟を決めた正宗に、もう中学生を演じる必要はなく、彼は睦実と激しくキスをする。
このキスシーンは、観てる方が背徳感をおぼえるほど生々しいものだが、この作品で性を感じさせる行為は、まさに生きていることの証であり、まぼろしゆえの精一杯の抵抗なのである。
さらに終盤になると、五実を巻き込んださらに歪な三角関係が形作られ、本来の現実世界へと五実を返すための冒険と、この世界を終わらせないための挑戦が、新たな物語の両輪となり怒涛の勢いで突っ走る。
逆「銀河鉄道の夜」的な列車を使ったスペクタクルな見せ場は、文字通りのノンストップ大活劇で、登場人物の溢れ出す感情を燃料に、息苦しいほどの熱気を感じさせる。
変化が罪とされる見伏は、先の展望を描けず、閉塞した現在日本をカリカチュアした街と言えるだろう。
同時に「君の名は。」の大ヒット以来、少年少女を主人公としたファンタジーの「求められる」テンプレートのメタファーなのかも知れない。
新海誠が「天気の子」を経由して「すずめの戸締り」で、自らセカイ系を否定してみせたように、岡田麿里もまた「独自の道を行く」とこの作品で宣言したように思える。
台詞の一字一句、画面の隅々まで作者独特のカラーが行き渡った、ある意味最強の作家映画。
未来へ進む人へエールを贈る、中島みゆきのエンディングテーマ「心音(しんおん」がダメ押しで心を打つ。
おそらく、心の奥底まで刺さる人がいる反面、ある程度の読解力が必要な作品で、中身大人とは言えディープな14歳のキスなど、危うい描写もてんこ盛りなので、そこだけで拒絶反応を示す人も多いと思う。
しかし、こういう尖りまくった作品が、それなりにメジャーなパッケージで出てくる層の厚さと、本当の意味での多様性こそが、日本のアニメーションの最大の強みなのだ。
岡田麿里と「アリスとテレスのまぼろし工場」は、2023年の映画史に忘れられない爪痕を残した。
ところで、素晴らしい作品なのは間違いないのだが、なぜこのタイトルなのだろう?
行けども行けどもアリスもテレスもまぼろし工場も出てこないので、途中まで間違えて別の映画来ちゃったんじゃないかと思ってしまった。
インタビューを読むと、10年前に作者が執筆しようとしていて、映画の雛形となった小説のタイトルが「狼少女のアリスとテレス」だったそうだけど、実際の映画には「アリス」と「テレス」出てこないじゃん(笑
劇中に出てくる「希望とは、めざめている者の見る夢」という格言もアリストテレスの言葉だというが、ちょっと弱い。
まあ、ぶっちゃけ観てるうちに忘れてたけどさ。
「君たちはどう生きるか」とはまた違った意味で、中身とタイトルが乖離している作品だった。
本作の舞台となる見伏市は架空の街だが、製鉄所のモデルになったのは君津市にある日本製鐵の日本製鉄の製鉄所。
今回は君津の地酒、森酒造店の「上望陀 特別純米生原酒」をチョイス。
木更津の上望陀地区産の、千葉県産の酒造好適米「総の舞」100%で作られる、まさにザ・地酒。
やや辛口でスッキリした味わい、冷で美味しいがぬる燗でもいけそう。
房総の海の幸とあわせたい。

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