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※noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
※noraneko285ツイッターでつぶやいた全作品をアーカイブしています。


2023年10月26日 (木) | 編集 |
人間はどこまで邪悪になれるのか。
先住民オセージ族の土地に湧き出した石油利権を巡り、欲望に取り憑かれた白人の男たちが、人間の最も暗い闇を見せつける。
デヴィッド・グランによるノンフィクション「花殺し月の殺人 インディアン連続怪死事件とFBIの誕生」を、エリック・ロスとマーティン・スコセッシが共同で脚色し、スコセッシがメガホンを取った。
物語の視点となる白人男性、アーネスト・バークハートをレオナルド・ディカプリオが演じ、もう一方の視点であり、アーネストの妻のオセージ族の女性、モーリーにリリー・グラッドストーン、物語キーパーソンとなる怪人ウィリアム・ヘイルをロバート・デ・ニーロが演じる。
隠されたアメリカ史のおぞましい側面を、じっくりと描き出した大力作で、206分もの上映時間を1秒たりとも飽きさせない。
今年80歳になる巨匠スコセッシの、円熟の技を堪能出来る傑作だ。
第一次世界大戦の帰還兵、アーネスト・バークハート(レオナルド・ディカプリオ)は、オクラホマのオセージに住む叔父のウィリアム・ヘイル(ロバート・デ・ニーロ)を頼り、運転手の仕事を得る。
先住民のオセージ族は元々住んでいた土地を追われ、オクラホマの荒地を当てがわれた。
ところが、この大地から石油が出たことで状況は一変。
利益の分配の権利を勝ち取ったオセージ族の人々には莫大な金がもたらされ、彼らは揃って富裕層となった。
同時に石油産業には全米から有象無象の流れ者が集まって来て、大規模な牧場を手に入れたウィリアムは”オセージヒルズの王“と呼ばれる成功者だった。
やがてアーネストは客として知り合ったオセージ女性、モーリー(リリー・グラッドストーン)と結婚し子供も出来た。
ある時、モーリーの姉のアナが何者かに射殺される事件が起こる。
やがてモーリーの近親者が原因不明の病や事件によって、次々と命を落として行き、いつに間にか一族の持つ石油の権利は全てモーリーの物となる。
元々糖尿病を患っていたモーリーに、ウィリアムは開発されたばかりのインスリンを手配するのだが、彼女の病状は急速に悪化してゆく・・・・
観る前に、原作を読んでいたのが正解だった。
登場人物が非常に多く、歴史的要素も絡んでくる。
冒頭1時間かけて事件が起こるまでの背景を描きこんではいるのだが、ある程度事前知識が無いと物語に入り難いと思う。
原作とは言わずとも、少なくともモチーフになっている「オセージ族連続殺人事件」を予習してから鑑賞した方がいいだろう。
事件の起こったあらましはこうだ。
コロンブス以来の400年に及ぶインデアン戦争は、1890年のウーンデッド・ニーの虐殺で、先住民の組織的抵抗が終結。
彼らは部族ごとに“reservation(居留地)”を当てがわれ、その中で自治を行うことになる。
住んでいた土地がそのまま居留地になる部族もあるれば、強制的に移住させられたケースも多々ある。
オセージ族も元々は現在のミズーリ州のセントルイスあたりの支配的な勢力だったのだが、現在のオクラホマに当たるインディアン準州の荒野に強制移住させられた。
ところが、不毛の土地のはずの新天地から、石油が出たことで地獄は天国に。
オセージ族の人々は、石油会社から鉱業権のロイヤリティを共同で受け取り、それを部族のメンバーで分配することで、全米有数の富裕層になったのである。
時を同じくして、石油関連の利権にありつこうと、全米から食い詰めた人々がオセージにやってくる。
単なる石油労働者もいれば、流れ者の犯罪者もおり、中にはオセージ族と結婚して、定住する者もいる。
そして当時の法律では、オセージの家族の誰かが死ぬと、その権利はオセージがどうかに関わらず、遺族に継承されるのである。
グランの原作は三部構成で、このような背景のもと、第一部でオセージ族の人々が次々と死んで行くのを描く。
その中でもモーリーの家族は、最初に姉アナが銃殺され、次は母が原因不明の病気で亡くなり、続いて妹ミニーの夫婦が家ごと爆殺されるという異常事態に見舞われる。
わずかな期間に20人を超える死者が出ているにも関わらず、まともな捜査は行われず、真相を解き明かそうとする者も殺される。
だが第二部になると、FBIの前身であるBOI捜査官のトム・ホワイトがワシントンから送り込まれ、ようやく事件の捜査が本格的にはじまるのだ。
事件・捜査・結果のプロセスがミステリタッチに明かされてゆくのだが、映画ではミステリ要素はスッパリと切り落とされている。
これは、ルポルタージュ要素の強い原作に対し、あくまでも事件の当事者であるバークハート夫妻のそれぞれの視点で語られる人間ドラマとしたい映画のスタンスの違い。
なにしろアーネストは犯人の一味なのだから、彼を主人公とした時点でミステリとしては成立しないのである。
モーリーの家族に起こった全ての殺人は、裕福な牧場主であり、アーネストの叔父である、自称“オセージヒルズの王”ウィリアム・ヘイルの仕組んだもの。
モーリーとその家族が全て死ねば、一族の権利は夫であるアーネストの物となる。
あとはアーネストが死ねば・・・なのだが、アーネストは恩人であるウィリアムに心酔し、やがて自分を追い詰める殺人の片棒を担いでいたのだ。
ここで強調されるのは人間の持つ二面性で、ウィリアムはいつも笑みを湛え、オセージ族の友を自認している。
おそらく彼自身は、本気でそう思っていたのだろうし、真相が発覚するまでは慕われていた。
しかし一方で、彼は自分の利益のためなら、全く躊躇せずに殺人を命じるのだ。
共犯者のアーネストは、ちょっと頭が弱く騙されやすい人物として造形されているのだが、元々強盗で小銭を稼いでギャンブルに注ぎ込むくらいのダメ人間。
そんな彼も、妻のモーリーと子供たちだけは真剣に愛している。
それなのに、自分もよく知っているはずの、モーリーの家族を殺すことには、全く動揺を見せないのである。
おそらく男たちの頭の中では、意識しない先住民への差別感情から、ある種のダブルスタンダードが成立している。
「オセージはいい人たちだが、白人より愚かなので、自分が生殺与奪の権を握ってもいい。」
あるいは、「モーリーは愛するが、他のオセージはどうでもいい。」
これらの都合のいい思考によって、一見矛盾する行動原理が彼らの中では共存し得ていて、それが欲望というエンジンによって暴走してしまっているのだろう。
いかにも温和そうな仮面の下に、狂気を感じさせるキャラクターを演じたロバート・デ・ニーロには改めて凄い役者だと思わせられた。
またいつもながら、ディカプリオは優男だがどこかが壊れたダメ人間を演じさせると、ピカイチだ。
そういえば彼は、アーネストを追い詰めるBOI長官で、のちにFBIを作り上げるジョン・エドガー・フーヴァーを過去に演じていたのも面白い縁。
映画は物語の視点をアーネストとモーリーに分けていて、当たり前だが彼女の視点だととんでもなく理不尽に思える。
自分たちは何も悪くないのに、次々と愛する家族が死んでゆく。
明らかな殺人が起こっているのに、地元の警察は形ばかりの捜査しかせず、いつまで経っても何も解決しない。
モーリーは糖尿病を患っていて、夫がインスリンという最新の薬を射ってくれるのに、どんどん悪化してゆく。
ついには、愛する夫が殺人の共犯として逮捕されるのである。
彼女は聡明な女性として造形されているが、この時点でもある程度夫を信じている。
最終的にインスリン瓶の中身に気付き、心を決めたようだが、まことに愛とは盲目である。
これも、ある種のダブルスタンダードか。
ちなみにこの事件の発覚を受けて、1925年には法律が改正されて、オセージの血を引く者以外は、石油の権利を相続出来なくなり、モーリーが継承した一族の権利も、無事に子供たちに引き継がれたそうだ。
ところで、原作では第二部で捜査と裁判が描かれた後、第三部として現代編が続いている。
ここでは探偵役として原作者のグランが登場し、現代のオセージを調査して、第二部の捜査と裁判がすくい上げなかったこと、見落とされた重大な事実が明らかとなる。
実は原作で一番ゾッとしたのは第三部だったので、ここが落とされたのはちょっと残念。
いや厳密に言えば第三部で明らかになった事実は、冒頭部分で提示されてはいるのだが、その時点ではこれからはじまる物語とどう関わるのか不明なので、意図が伝わり難くなってしまった。
まあ映画は、当事者の視点で語るドラマだから仕方がないと思う。
その分、作り込まれたオセージの文化など、映画ならではの見所も増えている。
原作と違ってオセージ族が先祖の土地を追われる儀式からスタートし、事件の顛末を描いたラジオドラマの収録ステージで、スコセッシ自身が登場して映画を締めたのも、グランの本をそのまま映画化したのではなく、スコセッシがテリングしたストーリーだという意図だろう。
それにしても「アイリッシュマン」からの、連続200分超え。
巨匠スコセッシの場合、もう配信プラットフォームを好き勝手に映画を作れる場所として、存分に利用しているのだろうな。
プロデュース陣も自前で抑えてるので劇場にもかけるし、アスペクト比もシネスコサイズ。
これくらい自由に作れるのも、偉大な実績があってこそだと思うが。
禁酒法の時代を背景とした本作には、蜂蜜を使ったカクテル「ビーズ・ニーズ」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、レモン・ジュース20ml、蜂蜜適量をシェイクする。
蜂蜜は混ざりにくいので注意。
この時代の粗悪品のジンを、なんとか美味しく飲もうとする努力によって、生まれたカクテルと言われている。
まあ現在のジンは粗悪品ではないが、この三つの素材を合わせようと発想した人は天才だと思う。
実際相性は良く、さっぱりとして美味しいカクテルだ。
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先住民オセージ族の土地に湧き出した石油利権を巡り、欲望に取り憑かれた白人の男たちが、人間の最も暗い闇を見せつける。
デヴィッド・グランによるノンフィクション「花殺し月の殺人 インディアン連続怪死事件とFBIの誕生」を、エリック・ロスとマーティン・スコセッシが共同で脚色し、スコセッシがメガホンを取った。
物語の視点となる白人男性、アーネスト・バークハートをレオナルド・ディカプリオが演じ、もう一方の視点であり、アーネストの妻のオセージ族の女性、モーリーにリリー・グラッドストーン、物語キーパーソンとなる怪人ウィリアム・ヘイルをロバート・デ・ニーロが演じる。
隠されたアメリカ史のおぞましい側面を、じっくりと描き出した大力作で、206分もの上映時間を1秒たりとも飽きさせない。
今年80歳になる巨匠スコセッシの、円熟の技を堪能出来る傑作だ。
第一次世界大戦の帰還兵、アーネスト・バークハート(レオナルド・ディカプリオ)は、オクラホマのオセージに住む叔父のウィリアム・ヘイル(ロバート・デ・ニーロ)を頼り、運転手の仕事を得る。
先住民のオセージ族は元々住んでいた土地を追われ、オクラホマの荒地を当てがわれた。
ところが、この大地から石油が出たことで状況は一変。
利益の分配の権利を勝ち取ったオセージ族の人々には莫大な金がもたらされ、彼らは揃って富裕層となった。
同時に石油産業には全米から有象無象の流れ者が集まって来て、大規模な牧場を手に入れたウィリアムは”オセージヒルズの王“と呼ばれる成功者だった。
やがてアーネストは客として知り合ったオセージ女性、モーリー(リリー・グラッドストーン)と結婚し子供も出来た。
ある時、モーリーの姉のアナが何者かに射殺される事件が起こる。
やがてモーリーの近親者が原因不明の病や事件によって、次々と命を落として行き、いつに間にか一族の持つ石油の権利は全てモーリーの物となる。
元々糖尿病を患っていたモーリーに、ウィリアムは開発されたばかりのインスリンを手配するのだが、彼女の病状は急速に悪化してゆく・・・・
観る前に、原作を読んでいたのが正解だった。
登場人物が非常に多く、歴史的要素も絡んでくる。
冒頭1時間かけて事件が起こるまでの背景を描きこんではいるのだが、ある程度事前知識が無いと物語に入り難いと思う。
原作とは言わずとも、少なくともモチーフになっている「オセージ族連続殺人事件」を予習してから鑑賞した方がいいだろう。
事件の起こったあらましはこうだ。
コロンブス以来の400年に及ぶインデアン戦争は、1890年のウーンデッド・ニーの虐殺で、先住民の組織的抵抗が終結。
彼らは部族ごとに“reservation(居留地)”を当てがわれ、その中で自治を行うことになる。
住んでいた土地がそのまま居留地になる部族もあるれば、強制的に移住させられたケースも多々ある。
オセージ族も元々は現在のミズーリ州のセントルイスあたりの支配的な勢力だったのだが、現在のオクラホマに当たるインディアン準州の荒野に強制移住させられた。
ところが、不毛の土地のはずの新天地から、石油が出たことで地獄は天国に。
オセージ族の人々は、石油会社から鉱業権のロイヤリティを共同で受け取り、それを部族のメンバーで分配することで、全米有数の富裕層になったのである。
時を同じくして、石油関連の利権にありつこうと、全米から食い詰めた人々がオセージにやってくる。
単なる石油労働者もいれば、流れ者の犯罪者もおり、中にはオセージ族と結婚して、定住する者もいる。
そして当時の法律では、オセージの家族の誰かが死ぬと、その権利はオセージがどうかに関わらず、遺族に継承されるのである。
グランの原作は三部構成で、このような背景のもと、第一部でオセージ族の人々が次々と死んで行くのを描く。
その中でもモーリーの家族は、最初に姉アナが銃殺され、次は母が原因不明の病気で亡くなり、続いて妹ミニーの夫婦が家ごと爆殺されるという異常事態に見舞われる。
わずかな期間に20人を超える死者が出ているにも関わらず、まともな捜査は行われず、真相を解き明かそうとする者も殺される。
だが第二部になると、FBIの前身であるBOI捜査官のトム・ホワイトがワシントンから送り込まれ、ようやく事件の捜査が本格的にはじまるのだ。
事件・捜査・結果のプロセスがミステリタッチに明かされてゆくのだが、映画ではミステリ要素はスッパリと切り落とされている。
これは、ルポルタージュ要素の強い原作に対し、あくまでも事件の当事者であるバークハート夫妻のそれぞれの視点で語られる人間ドラマとしたい映画のスタンスの違い。
なにしろアーネストは犯人の一味なのだから、彼を主人公とした時点でミステリとしては成立しないのである。
モーリーの家族に起こった全ての殺人は、裕福な牧場主であり、アーネストの叔父である、自称“オセージヒルズの王”ウィリアム・ヘイルの仕組んだもの。
モーリーとその家族が全て死ねば、一族の権利は夫であるアーネストの物となる。
あとはアーネストが死ねば・・・なのだが、アーネストは恩人であるウィリアムに心酔し、やがて自分を追い詰める殺人の片棒を担いでいたのだ。
ここで強調されるのは人間の持つ二面性で、ウィリアムはいつも笑みを湛え、オセージ族の友を自認している。
おそらく彼自身は、本気でそう思っていたのだろうし、真相が発覚するまでは慕われていた。
しかし一方で、彼は自分の利益のためなら、全く躊躇せずに殺人を命じるのだ。
共犯者のアーネストは、ちょっと頭が弱く騙されやすい人物として造形されているのだが、元々強盗で小銭を稼いでギャンブルに注ぎ込むくらいのダメ人間。
そんな彼も、妻のモーリーと子供たちだけは真剣に愛している。
それなのに、自分もよく知っているはずの、モーリーの家族を殺すことには、全く動揺を見せないのである。
おそらく男たちの頭の中では、意識しない先住民への差別感情から、ある種のダブルスタンダードが成立している。
「オセージはいい人たちだが、白人より愚かなので、自分が生殺与奪の権を握ってもいい。」
あるいは、「モーリーは愛するが、他のオセージはどうでもいい。」
これらの都合のいい思考によって、一見矛盾する行動原理が彼らの中では共存し得ていて、それが欲望というエンジンによって暴走してしまっているのだろう。
いかにも温和そうな仮面の下に、狂気を感じさせるキャラクターを演じたロバート・デ・ニーロには改めて凄い役者だと思わせられた。
またいつもながら、ディカプリオは優男だがどこかが壊れたダメ人間を演じさせると、ピカイチだ。
そういえば彼は、アーネストを追い詰めるBOI長官で、のちにFBIを作り上げるジョン・エドガー・フーヴァーを過去に演じていたのも面白い縁。
映画は物語の視点をアーネストとモーリーに分けていて、当たり前だが彼女の視点だととんでもなく理不尽に思える。
自分たちは何も悪くないのに、次々と愛する家族が死んでゆく。
明らかな殺人が起こっているのに、地元の警察は形ばかりの捜査しかせず、いつまで経っても何も解決しない。
モーリーは糖尿病を患っていて、夫がインスリンという最新の薬を射ってくれるのに、どんどん悪化してゆく。
ついには、愛する夫が殺人の共犯として逮捕されるのである。
彼女は聡明な女性として造形されているが、この時点でもある程度夫を信じている。
最終的にインスリン瓶の中身に気付き、心を決めたようだが、まことに愛とは盲目である。
これも、ある種のダブルスタンダードか。
ちなみにこの事件の発覚を受けて、1925年には法律が改正されて、オセージの血を引く者以外は、石油の権利を相続出来なくなり、モーリーが継承した一族の権利も、無事に子供たちに引き継がれたそうだ。
ところで、原作では第二部で捜査と裁判が描かれた後、第三部として現代編が続いている。
ここでは探偵役として原作者のグランが登場し、現代のオセージを調査して、第二部の捜査と裁判がすくい上げなかったこと、見落とされた重大な事実が明らかとなる。
実は原作で一番ゾッとしたのは第三部だったので、ここが落とされたのはちょっと残念。
いや厳密に言えば第三部で明らかになった事実は、冒頭部分で提示されてはいるのだが、その時点ではこれからはじまる物語とどう関わるのか不明なので、意図が伝わり難くなってしまった。
まあ映画は、当事者の視点で語るドラマだから仕方がないと思う。
その分、作り込まれたオセージの文化など、映画ならではの見所も増えている。
原作と違ってオセージ族が先祖の土地を追われる儀式からスタートし、事件の顛末を描いたラジオドラマの収録ステージで、スコセッシ自身が登場して映画を締めたのも、グランの本をそのまま映画化したのではなく、スコセッシがテリングしたストーリーだという意図だろう。
それにしても「アイリッシュマン」からの、連続200分超え。
巨匠スコセッシの場合、もう配信プラットフォームを好き勝手に映画を作れる場所として、存分に利用しているのだろうな。
プロデュース陣も自前で抑えてるので劇場にもかけるし、アスペクト比もシネスコサイズ。
これくらい自由に作れるのも、偉大な実績があってこそだと思うが。
禁酒法の時代を背景とした本作には、蜂蜜を使ったカクテル「ビーズ・ニーズ」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、レモン・ジュース20ml、蜂蜜適量をシェイクする。
蜂蜜は混ざりにくいので注意。
この時代の粗悪品のジンを、なんとか美味しく飲もうとする努力によって、生まれたカクテルと言われている。
まあ現在のジンは粗悪品ではないが、この三つの素材を合わせようと発想した人は天才だと思う。
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2023年10月23日 (月) | 編集 |
AIに愛はあるのか。
2060年代の近未来を舞台に、人類と進化したAIの戦争を描くSF大作。
「GODZILLA ゴジラ」「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」のギャレス・エドワーズが監督・原案・脚本・製作を兼務して作り上げた作家映画だ。
ジョン・デヴィッド・ワシントン演じる元軍人のジョシュアは、戦争の勝敗を決すると言われるAI側の最終兵器を探し当てるが、それはなんと幼い少女の姿をしたAIだった。
例えAIだとしても、あどけない子供を殺すことができるのか?
そしてそれは、本当に正しいことなのか?
ジョシュアと恋仲になる、AIを助ける女性マヤを「エターナルズ」のジェンマ・チェンが演じ、AIのレジスタンスのリーダー、ハルンに渡辺謙。
AIと人類との戦争という既視感のある設定に、西洋文明と東洋文明の対比や、アメリカの過去の戦争の記憶なども盛り込み、未見性を創出した意欲作だ。
※核心部分に触れています。
高度な思考能力を持ち、人間に似た容姿のAIが普及した近未来。
ロサンゼルスで核爆発を引き起こしたとして、アメリカはAIを人類の敵と認定し、西側諸国と共に戦争を開始。
しかし“ニューアジア”では人類とAIが共存の道を選んでいて、西側諸国を追われたAIがレジスタンス組織を作って潜伏していた。
陸軍のジョシュア・テイラー軍曹(ジョン・デヴィット・ワシントン)は、AIの進化を支える謎の人物“ニルマータ”の正体を探るべく、レジスタンス組織に潜入し、ニルマータの娘だとされるマヤ(ジェンマ・チェン)という女性と恋仲になる。
彼女が妊娠した頃、ジョシュアの報告を無視して米軍が組織の拠点を襲撃、NOMADと呼ばれる巨大な宇宙ステーションからの攻撃で拠点は破壊され、マヤも行方不明となってしまう。
5年後、退役したジョシュアは、ロサンゼルスの爆心地で、清掃作業員として働いているが、ハウエル大佐(アリソン・ジャニー)から新たな作戦に参加してほしいという打診を受ける。
ニルマータが開発した、NOMADを無力化する新兵器「アルファオー」を奪取するというのだ。
ハウエルから死んだはずのマヤが生きている映像を魅せられたジョシュアは、一抹の望みをかけて再びニューアジアに足を踏み入れるのだが、そこで彼を待っていたのは、兵器ではなく一人のAIの少女(マデリン・ユナ・ボイルズ)だった・・・・
久々にフランチャイズでもなく、シリーズ物でもないオリジナル脚本のSF大作。
このジャンルは巨額の予算がかかるために、要求されるリターンもなかなか厳しい。
過去10年でも、オリジナル作品でスタジオを満足させる額を稼ぎ出したのは、ジェームズ・キャメロンとクリストファー・ノーラン、あとはジョーダン・ピールの「NOPE/ノープ」位ではないか。
本作も本国興業ではかなり苦戦しているいらしいが、SFマインド溢れる素晴らしい仕上がりだ。
AIと人間の戦争というハードなモチーフで描くのが、ウェットな「真実の愛」と言うのが、実にギャレス・エドワーズらしい。
バジェットは、この種の映画としては比較的安めの8000万ドル程度なので、なんとか回収してまた新たなオリジナルSFに挑んでほしいものだ。
映画の世界観はちょっと複雑だ。
アメリカと西側諸国はAIとの戦争を遂行中だが、それ以外の国々では普通にAIが人間と共存している。
AIにはメカメカしい者もいれば、人間のような外皮をまとった者もいて、思考能力もまちまちの様だ。
アメリカは、AIのレジスタンスの拠点を見つけると戦闘部隊を送り込み、最後は衛星軌道にある巨大ステーション、NOMADからミサイル攻撃で片付ける。
舞台となるのは、現在のタイやベトナムあたりにあるニューアジアという国なのだが、冒頭で映し出される世界地図では、日本とニューアジアが同じようにハイライトされていたので、もしかすると同じ領域に属しているのかもしれない。
実際ニューアジアの街では、やたらと日本語が目に付くし、日本語を話すハルンもいる。
ハリウッド映画での日本かぶれは、今に始まったものではないが、本作の場合東洋と西洋の世界観の違いを描いているので、単なる賑やかしの日本趣味とはちょっと違う。
この映画で提示されるAIに対する価値観は、基本的にヒューマノイドは人間の友であるという「鉄腕アトム」以来の日本的なものだ。
近年では「her/世界でひとつの彼女」や「アフター・ヤン」の様に、ハリウッド映画の考え方にも多様性が生まれているが、本作と同じく未来のAIとの戦争を描いた「ターミネーター」シリーズに代表されるように、ハリウッドは伝統的に人間のように見えるヒューマノイドを「敵」として描いてきた。
ところが本作では、物語の前提からして違うのである。
戦争のきっかけになった核爆発も、実は人類側のエラーによって引き起こされていて、政府は事実を隠蔽し責任をAIに押し付けて排斥している。
結果的に世界にはAIの難民が溢れかえり、各国では戦争に対しプロテストする動きも出ている。
妙に既視感のある設定だが、これは従来のアメリカの戦争、外交政策に対する不信感が影響しているのだろう。
存在しない大量破壊兵器を口実に、イラク戦争を開始して以来、対テロ戦争という泥沼に引き込まれ、世界中に難民を溢れさせた事実を、存在しない脅威を口実に、AIとの戦争を始めた映画の設定に置き換える。
劇中で米軍は、ニルマータを殺害することを目的に、他国に好き勝手に戦闘部隊を送り込んでいるが、これもビンラディン殺害作戦などで実際に米軍がやっていたこと。
舞台が南アジアなのも、かつての大義なき戦争であるベトナム戦争を思わせる。
人間の姿のAIが、ほとんど有色人種なのもこの文脈だろう。
AIと戦争した結果、米軍はAIを使えなくなったので、自立思考できない自爆ロボットなどを使ってAIを攻撃しているのは、現実の逆転ですごくシニカルだ。
ハリウッドの大作でここまで明確に、アメリカそのものを「悪」と認定した映画は珍しい。
もちろんギャレス・エドワーズはオタクだから、日本文化が影響を与えているのはテーマ性だけでなく、ビジュアル的にも「AKIRA」や「風の谷のナウシカ」などからの引用多数。
ある程度の既視感はつきまとうが、一つのビジョンの中でトンマナは統一されたており、デザイン的にもなかなかに見応えがある。
プロットは子供を守るアウトローの逃避行という古典的なものだが、主人公の行動原理が「真実の愛」だというのがロマンチストなこの作家らしいところ。
ジョシュアは任務とは別に、心からマヤのことを愛してしまい、死んだはずの彼女に一目会うことが彼のファーストプライオリティになっているのだ。
やがてアルファオーの本当の正体が明らかになり、もはや任務そっちのけで「敵を愛する」彼のジレンマは頂点に達するのである。
そして「敵」としてのアメリカの、ラスボスであるNOMADを巡るクライマックスは、映像的にも未見性があって素晴らしい仕上がり。
全ての伏線が回収される、一番テンションがアガるシーンは、完全に「ローグ・ワン」の名シーンの再現だ。
この人滅びの美学が大好きで、そんなところも東洋的。
AI渡辺謙もかなり美味しい役で、久しぶりにスケールの大きなSF世界を堪能した。
ところで私が観たのはシネスコサイズのスクリーンだったのだが、上下が結構余ってるなと思ってたら、これアスペクト比が2.76:1というほとんどシネラマに近い超横長サイズ。
IMAXサイズは用意されてないらしく、本作に関してはIMAX鑑賞はおすすめ出来ない。
今回は、映画を観た人なら分かる「スリーピング・ビューティー」をチョイス。
トロピカルフルーツとウォッカ、コニャックをブレンドして作られるリキュール、ヒプノティック90mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
次にキンキーピンク・リキュール60ml、ウォッカ60ml、レモンライム・ソーダ30mlを氷と共にシェイクし、青いヒプノテックの層を壊さないように、静かに注ぎ入れる。
キンキーピンクが入手できない時は、類似のピンク系リキュールでも可。
グラデーションカラーが美しい、甘酸っぱいカクテルだ。
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2060年代の近未来を舞台に、人類と進化したAIの戦争を描くSF大作。
「GODZILLA ゴジラ」「ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー」のギャレス・エドワーズが監督・原案・脚本・製作を兼務して作り上げた作家映画だ。
ジョン・デヴィッド・ワシントン演じる元軍人のジョシュアは、戦争の勝敗を決すると言われるAI側の最終兵器を探し当てるが、それはなんと幼い少女の姿をしたAIだった。
例えAIだとしても、あどけない子供を殺すことができるのか?
そしてそれは、本当に正しいことなのか?
ジョシュアと恋仲になる、AIを助ける女性マヤを「エターナルズ」のジェンマ・チェンが演じ、AIのレジスタンスのリーダー、ハルンに渡辺謙。
AIと人類との戦争という既視感のある設定に、西洋文明と東洋文明の対比や、アメリカの過去の戦争の記憶なども盛り込み、未見性を創出した意欲作だ。
※核心部分に触れています。
高度な思考能力を持ち、人間に似た容姿のAIが普及した近未来。
ロサンゼルスで核爆発を引き起こしたとして、アメリカはAIを人類の敵と認定し、西側諸国と共に戦争を開始。
しかし“ニューアジア”では人類とAIが共存の道を選んでいて、西側諸国を追われたAIがレジスタンス組織を作って潜伏していた。
陸軍のジョシュア・テイラー軍曹(ジョン・デヴィット・ワシントン)は、AIの進化を支える謎の人物“ニルマータ”の正体を探るべく、レジスタンス組織に潜入し、ニルマータの娘だとされるマヤ(ジェンマ・チェン)という女性と恋仲になる。
彼女が妊娠した頃、ジョシュアの報告を無視して米軍が組織の拠点を襲撃、NOMADと呼ばれる巨大な宇宙ステーションからの攻撃で拠点は破壊され、マヤも行方不明となってしまう。
5年後、退役したジョシュアは、ロサンゼルスの爆心地で、清掃作業員として働いているが、ハウエル大佐(アリソン・ジャニー)から新たな作戦に参加してほしいという打診を受ける。
ニルマータが開発した、NOMADを無力化する新兵器「アルファオー」を奪取するというのだ。
ハウエルから死んだはずのマヤが生きている映像を魅せられたジョシュアは、一抹の望みをかけて再びニューアジアに足を踏み入れるのだが、そこで彼を待っていたのは、兵器ではなく一人のAIの少女(マデリン・ユナ・ボイルズ)だった・・・・
久々にフランチャイズでもなく、シリーズ物でもないオリジナル脚本のSF大作。
このジャンルは巨額の予算がかかるために、要求されるリターンもなかなか厳しい。
過去10年でも、オリジナル作品でスタジオを満足させる額を稼ぎ出したのは、ジェームズ・キャメロンとクリストファー・ノーラン、あとはジョーダン・ピールの「NOPE/ノープ」位ではないか。
本作も本国興業ではかなり苦戦しているいらしいが、SFマインド溢れる素晴らしい仕上がりだ。
AIと人間の戦争というハードなモチーフで描くのが、ウェットな「真実の愛」と言うのが、実にギャレス・エドワーズらしい。
バジェットは、この種の映画としては比較的安めの8000万ドル程度なので、なんとか回収してまた新たなオリジナルSFに挑んでほしいものだ。
映画の世界観はちょっと複雑だ。
アメリカと西側諸国はAIとの戦争を遂行中だが、それ以外の国々では普通にAIが人間と共存している。
AIにはメカメカしい者もいれば、人間のような外皮をまとった者もいて、思考能力もまちまちの様だ。
アメリカは、AIのレジスタンスの拠点を見つけると戦闘部隊を送り込み、最後は衛星軌道にある巨大ステーション、NOMADからミサイル攻撃で片付ける。
舞台となるのは、現在のタイやベトナムあたりにあるニューアジアという国なのだが、冒頭で映し出される世界地図では、日本とニューアジアが同じようにハイライトされていたので、もしかすると同じ領域に属しているのかもしれない。
実際ニューアジアの街では、やたらと日本語が目に付くし、日本語を話すハルンもいる。
ハリウッド映画での日本かぶれは、今に始まったものではないが、本作の場合東洋と西洋の世界観の違いを描いているので、単なる賑やかしの日本趣味とはちょっと違う。
この映画で提示されるAIに対する価値観は、基本的にヒューマノイドは人間の友であるという「鉄腕アトム」以来の日本的なものだ。
近年では「her/世界でひとつの彼女」や「アフター・ヤン」の様に、ハリウッド映画の考え方にも多様性が生まれているが、本作と同じく未来のAIとの戦争を描いた「ターミネーター」シリーズに代表されるように、ハリウッドは伝統的に人間のように見えるヒューマノイドを「敵」として描いてきた。
ところが本作では、物語の前提からして違うのである。
戦争のきっかけになった核爆発も、実は人類側のエラーによって引き起こされていて、政府は事実を隠蔽し責任をAIに押し付けて排斥している。
結果的に世界にはAIの難民が溢れかえり、各国では戦争に対しプロテストする動きも出ている。
妙に既視感のある設定だが、これは従来のアメリカの戦争、外交政策に対する不信感が影響しているのだろう。
存在しない大量破壊兵器を口実に、イラク戦争を開始して以来、対テロ戦争という泥沼に引き込まれ、世界中に難民を溢れさせた事実を、存在しない脅威を口実に、AIとの戦争を始めた映画の設定に置き換える。
劇中で米軍は、ニルマータを殺害することを目的に、他国に好き勝手に戦闘部隊を送り込んでいるが、これもビンラディン殺害作戦などで実際に米軍がやっていたこと。
舞台が南アジアなのも、かつての大義なき戦争であるベトナム戦争を思わせる。
人間の姿のAIが、ほとんど有色人種なのもこの文脈だろう。
AIと戦争した結果、米軍はAIを使えなくなったので、自立思考できない自爆ロボットなどを使ってAIを攻撃しているのは、現実の逆転ですごくシニカルだ。
ハリウッドの大作でここまで明確に、アメリカそのものを「悪」と認定した映画は珍しい。
もちろんギャレス・エドワーズはオタクだから、日本文化が影響を与えているのはテーマ性だけでなく、ビジュアル的にも「AKIRA」や「風の谷のナウシカ」などからの引用多数。
ある程度の既視感はつきまとうが、一つのビジョンの中でトンマナは統一されたており、デザイン的にもなかなかに見応えがある。
プロットは子供を守るアウトローの逃避行という古典的なものだが、主人公の行動原理が「真実の愛」だというのがロマンチストなこの作家らしいところ。
ジョシュアは任務とは別に、心からマヤのことを愛してしまい、死んだはずの彼女に一目会うことが彼のファーストプライオリティになっているのだ。
やがてアルファオーの本当の正体が明らかになり、もはや任務そっちのけで「敵を愛する」彼のジレンマは頂点に達するのである。
そして「敵」としてのアメリカの、ラスボスであるNOMADを巡るクライマックスは、映像的にも未見性があって素晴らしい仕上がり。
全ての伏線が回収される、一番テンションがアガるシーンは、完全に「ローグ・ワン」の名シーンの再現だ。
この人滅びの美学が大好きで、そんなところも東洋的。
AI渡辺謙もかなり美味しい役で、久しぶりにスケールの大きなSF世界を堪能した。
ところで私が観たのはシネスコサイズのスクリーンだったのだが、上下が結構余ってるなと思ってたら、これアスペクト比が2.76:1というほとんどシネラマに近い超横長サイズ。
IMAXサイズは用意されてないらしく、本作に関してはIMAX鑑賞はおすすめ出来ない。
今回は、映画を観た人なら分かる「スリーピング・ビューティー」をチョイス。
トロピカルフルーツとウォッカ、コニャックをブレンドして作られるリキュール、ヒプノティック90mlを氷と共にシェイクし、グラスに注ぐ。
次にキンキーピンク・リキュール60ml、ウォッカ60ml、レモンライム・ソーダ30mlを氷と共にシェイクし、青いヒプノテックの層を壊さないように、静かに注ぎ入れる。
キンキーピンクが入手できない時は、類似のピンク系リキュールでも可。
グラデーションカラーが美しい、甘酸っぱいカクテルだ。

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2023年10月20日 (金) | 編集 |
月は、見えていた。
凄みのある映画だ。
2016年7月26日未明に発生し、重度障害者19人が虐殺され、職員を含めて26人が重軽傷を負った「相模原障害者施設殺傷事件」をモチーフに、石井裕也監督が作り上げた超ヘビーな人間ドラマ。
近年の日本映画の中でも、群を抜いた問題作と言って良いと思う。
原作は辺見庸の同名小説。
劇中で起こる事件のあらましは実際に起こったことに近いが、原作者を投影した宮沢りえとオダギリジョー演じる作家夫婦を主人公とし、のちに発覚した同系列の施設の入所者虐待事件なども背景に加え再構成している。
東日本大震災を描いた著書がヒットしたものの、その後書けなくなった作家の堂島洋子が、施設のパート従業員として働き始めるところから物語は始まる。
彼女自身も、生まれてから三年間寝たきりだった我が子を亡くす経験をしてから日が浅く、生きるのは決して綺麗事でないことは知っているが、それでも意思疎通の叶わない大人の重度障害者が暮らす施設の現実には衝撃を受ける。
スタッフは大変な仕事にも関わらず低賃金で、入所者が声を上げられないことをいいことに、いたずら半分に虐待が日常化。
中にはずっと鍵を掛けられて、ケアもされずに放置されている入所者もいる。
この施設で、洋子は二人の若いスタッフと出会う。
一人は二階堂ふみが演じる作家志望の陽子、もう一人が磯村勇斗が怪演する、一見人当たりのいい好青年、自称「さとくん」だ。
陽子は小説の取材を兼ねて働いているのだが、施設の現状に心が折れる寸前。
さとくんは、当初どんな入所者にも親切に接しているのだが、急速に「意思疎通の出来ない入所者には心が無い。だから彼らは人ではない」という、ナチズム的な優生思想に取り憑かれて行くのだ。
一方の洋子は、自分と生年月日が同じの入所者の女性に感情移入する。
彼女にとっては息子の経験もあるので、意思疎通が出来ないイコール心がないとは思えない。
肉体的に言葉を発することが出来なくても、内側に閉じ込められた心があると信じている。
この様に、重度障害者に対して、真逆の捉え方をする洋子とさとくんがテーゼとアンチテーゼとなる構造だ。
キャラクターも演出も押しが強い。
激しいズームや傾く画面、スプリットスクリーン、時には会話の相手が自分の姿になるなど、さまざまな技法を駆使し、社会の歪みや心の揺れを強調。
四人の主要キャラクターには、それぞれの仕事や存在意義を辛辣に否定される描写がある。
洋子は酔った陽子に、自らの著作を「人間の暗い部分に向き合わず、綺麗事しか書いてない」と酷評される。
ストップモーションでアニメーションを作っている夫は、同僚に創作活動を意味の無いものと馬鹿にされる。
クリスチャンの家庭に育ち、父母との関係に問題を抱えた陽子は、書いた小説がずっと落選し続けている。
さとくんは、良かれと思って入居者のために描いた紙芝居の活動を、同僚から否定される。
自分はこの社会にいらない存在だと言われた時、人は矛先をどこに向けるのか。
もっといらない存在を見つけ、攻撃することで救われようとするのか、それとも自らを奮い立たせ、研鑽を重ねるのか。
生きるとか何か、人間とは何か、ただ存在しているだけではダメなのか、社会に必要とされるとはどう言うことなのか。
曇天が支配するダークな世界で、重層的な葛藤に直面するキャラクターたちを見ていると、次第に何が正しいのか分からなくなってくる。
非常に真摯に作られた作品で終始引き込まれたが、一点だけ気になったのは「犯人の声が一番デカい」と言うこと。
犯人の主張に対抗するには「命は存在するだけで価値がある」と経験的に知る洋子に、全力で主張させるしかないはずだが、最終的に提示されるのが主人公夫婦の極めてパーソナルな着地点なので、ここはちょっと弱い。
もちろん主人公夫婦に起こることと、彼らのドラマも感動的だ。
簡単には答えの出せない問題を扱っているがゆえに、結論を断定的に提示せずに、観客の思考を後押ししジンテーゼを委ねると言うのスタンスは理解できる。
しかしこの映画を観て、犯人の思想に共感する者が出てきそうな危うさを感じた。
お互いの中に自分を見ては否定する、中盤の直接対決はスリリングだったが、洋子は作中で書き上げる新作ではなく、もう少し映画の中で主張しても良かったのではないか。
いずれにしても、秀作には間違いないが。
今回は、カクテルの「レクイエム」をチョイス。
ウオッカ45ml、トリプルセック45ml、マリブ・ココナッツ・ラム 45mlを順にグラスに注ぎレモンライム・ソーダで満たす。
ドライなウオッカとトリプルセックの甘酸っぱさ、ココナッツ・ラムの甘い香りと、それぞれにベクトルの違う酒がお互いを引き立て合う。
人間も同じで、どんな人にも居場所はある。あるべきなのだ。
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凄みのある映画だ。
2016年7月26日未明に発生し、重度障害者19人が虐殺され、職員を含めて26人が重軽傷を負った「相模原障害者施設殺傷事件」をモチーフに、石井裕也監督が作り上げた超ヘビーな人間ドラマ。
近年の日本映画の中でも、群を抜いた問題作と言って良いと思う。
原作は辺見庸の同名小説。
劇中で起こる事件のあらましは実際に起こったことに近いが、原作者を投影した宮沢りえとオダギリジョー演じる作家夫婦を主人公とし、のちに発覚した同系列の施設の入所者虐待事件なども背景に加え再構成している。
東日本大震災を描いた著書がヒットしたものの、その後書けなくなった作家の堂島洋子が、施設のパート従業員として働き始めるところから物語は始まる。
彼女自身も、生まれてから三年間寝たきりだった我が子を亡くす経験をしてから日が浅く、生きるのは決して綺麗事でないことは知っているが、それでも意思疎通の叶わない大人の重度障害者が暮らす施設の現実には衝撃を受ける。
スタッフは大変な仕事にも関わらず低賃金で、入所者が声を上げられないことをいいことに、いたずら半分に虐待が日常化。
中にはずっと鍵を掛けられて、ケアもされずに放置されている入所者もいる。
この施設で、洋子は二人の若いスタッフと出会う。
一人は二階堂ふみが演じる作家志望の陽子、もう一人が磯村勇斗が怪演する、一見人当たりのいい好青年、自称「さとくん」だ。
陽子は小説の取材を兼ねて働いているのだが、施設の現状に心が折れる寸前。
さとくんは、当初どんな入所者にも親切に接しているのだが、急速に「意思疎通の出来ない入所者には心が無い。だから彼らは人ではない」という、ナチズム的な優生思想に取り憑かれて行くのだ。
一方の洋子は、自分と生年月日が同じの入所者の女性に感情移入する。
彼女にとっては息子の経験もあるので、意思疎通が出来ないイコール心がないとは思えない。
肉体的に言葉を発することが出来なくても、内側に閉じ込められた心があると信じている。
この様に、重度障害者に対して、真逆の捉え方をする洋子とさとくんがテーゼとアンチテーゼとなる構造だ。
キャラクターも演出も押しが強い。
激しいズームや傾く画面、スプリットスクリーン、時には会話の相手が自分の姿になるなど、さまざまな技法を駆使し、社会の歪みや心の揺れを強調。
四人の主要キャラクターには、それぞれの仕事や存在意義を辛辣に否定される描写がある。
洋子は酔った陽子に、自らの著作を「人間の暗い部分に向き合わず、綺麗事しか書いてない」と酷評される。
ストップモーションでアニメーションを作っている夫は、同僚に創作活動を意味の無いものと馬鹿にされる。
クリスチャンの家庭に育ち、父母との関係に問題を抱えた陽子は、書いた小説がずっと落選し続けている。
さとくんは、良かれと思って入居者のために描いた紙芝居の活動を、同僚から否定される。
自分はこの社会にいらない存在だと言われた時、人は矛先をどこに向けるのか。
もっといらない存在を見つけ、攻撃することで救われようとするのか、それとも自らを奮い立たせ、研鑽を重ねるのか。
生きるとか何か、人間とは何か、ただ存在しているだけではダメなのか、社会に必要とされるとはどう言うことなのか。
曇天が支配するダークな世界で、重層的な葛藤に直面するキャラクターたちを見ていると、次第に何が正しいのか分からなくなってくる。
非常に真摯に作られた作品で終始引き込まれたが、一点だけ気になったのは「犯人の声が一番デカい」と言うこと。
犯人の主張に対抗するには「命は存在するだけで価値がある」と経験的に知る洋子に、全力で主張させるしかないはずだが、最終的に提示されるのが主人公夫婦の極めてパーソナルな着地点なので、ここはちょっと弱い。
もちろん主人公夫婦に起こることと、彼らのドラマも感動的だ。
簡単には答えの出せない問題を扱っているがゆえに、結論を断定的に提示せずに、観客の思考を後押ししジンテーゼを委ねると言うのスタンスは理解できる。
しかしこの映画を観て、犯人の思想に共感する者が出てきそうな危うさを感じた。
お互いの中に自分を見ては否定する、中盤の直接対決はスリリングだったが、洋子は作中で書き上げる新作ではなく、もう少し映画の中で主張しても良かったのではないか。
いずれにしても、秀作には間違いないが。
今回は、カクテルの「レクイエム」をチョイス。
ウオッカ45ml、トリプルセック45ml、マリブ・ココナッツ・ラム 45mlを順にグラスに注ぎレモンライム・ソーダで満たす。
ドライなウオッカとトリプルセックの甘酸っぱさ、ココナッツ・ラムの甘い香りと、それぞれにベクトルの違う酒がお互いを引き立て合う。
人間も同じで、どんな人にも居場所はある。あるべきなのだ。

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2023年10月16日 (月) | 編集 |
人間たちに憐れみの讃歌を。
岩井俊二監督が、壮大なスケールで綴る音楽映画。
歌うことでしか声を出せない流浪のシンガーのキリエと、彼女に関わる人たちの十数年間に及ぶ物語を描いた178分の大長編だ。
キーとなる音楽を担当したのは、幾つもの作品で岩井監督と組んでいる小林武史。
これが映画初出演となる元BiSHのメンバー、アイナ・ジ・エンドがタイトルロールを演じ、海に消えた恋人を探す青年・夏彦に松村北斗。
そして「ラストレター」の広瀬すず、「リップヴァンウィンクルの花嫁」の黒木華、出世作となった「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」から奥菜恵と、歴代のヒロインたちが続々登場。
小さな役までびっくりするくらい豪華な顔ぶれで、現時点での岩井俊二ワールドの集大成と言って良いと思う。
※核心部分に触れています。
現在の東京。
ギター片手に街頭ライブをするキリエ(アイナ・ジ・エンド)に、通りかかった女性が歌をリクエストする。
家がないと言うキリエを、その女性、イッコ(広瀬すず)は自宅に誘う。
あまりに雰囲気が変わっていたので、最初キリエは気付かなかったが、実はイッコは帯広の高校時代の先輩、広澤真緒里だった。
実家がトラブルに見舞われ、大学進学も叶わなった彼女は、⼀条逸子(イッコ)と名を変えて、過去と決別していたのだ。
マネージャーを買って出たイッコは、東京で培った人脈を使い、キリエの歌を広めてゆく。
ところがある日、イッコは突然姿を消してしまう。
それでも、キリエの周りには才能あるミュージシャンが集まって来て、レコード会社からも注目されるようになる。
彼女の歌を聴いたギタリストの風琴(村上虹郎)が路上ライブに加わり、未来が順風満帆に思えた頃、キリエの前に警察を名乗る男たちが現れる・・・・・
冒頭の横に流れる紫の東映マークから、既に一筋縄ではいかない作品だと主張してくる。
キリエを演じるアイナ・ジ・エンドの、独特のキャラクターと声質無しでは成立しない企画だろう。
一度聴いただけで、テーマ曲の「キリエ・憐れみの讃歌」頭に張り付いて離れず、脳内でずーっとリフレインしている。
この曲を含めて最初から最後まで全編音楽が鳴りっぱなしで、遂にはカラスの鳴き声すら音楽に聞こえて心を揺さぶってくるのだ。
自作の劇伴を自ら担当したり、音楽家としての顔も持つ岩井俊二監督だが、ここまで音楽を前面に出した作品は「スワロウテイル」以来だろうか。
映画が終わって、劇場の灯りが点いた時、なんだかとても尊いものを観たという感覚になった。
端的に言って、3時間のエモさの塊りなのだ。
まあ岩井俊二はいつもエモいのだが、今回は感情に直接訴えて来る音楽物だけに特に。
物語のバックグラウンドには、東日本大震災の記憶が生々しく横たわる。
主人公の本名は小塚路花で、キリエと言う名は石巻に住んでいた少女時代に、津波に巻き込まれて行方不明となった姉の希(きりえ)から取ったもの。
母も津波で行方不明となっており、彼女は震災孤児なのである。
映画は現在の東京を起点に、キリエが小学生だった2010年から震災までの石巻、2011年の震災後の大阪、2018年の帯広を行き来する。
アイナ・ジ・エンドが二役で演じる姉の希は、松村北斗演じる夏彦と交際していて、彼の子を妊娠している。
希が行方不明となると、夏彦は大阪の医科大学への進学を断念し、故郷に留まって彼女を探し続けているのだ。
激しい揺れに二人が襲われるシーンは、非常にリアルかつ実際の地震と同じくらい長く、あの地震を経験した人はもしかすると記憶がフラッシュバックするかも知れないので、注意が必要だと思う。
やがて、キリエは石巻から遠く離れた大阪に現れ、黒木華演じる小学校教諭の寺石先生に保護される。
夏彦が大阪の医大に進学することを知っていた彼女は、消えた姉が大阪にいるかも知れないと思い、大阪行きのトラックに乗り込んだとみられる。
寺石先生は少ない手がかりから、夏彦を探し当てるが、彼も血縁ではないので、キリエは児童養護施設へと引き取られしまう。
そして2018年になってキリエと夏彦は帯広で再会し、イッコの家庭教師をしていた夏彦の紹介で、キリエとイッコは友達となるのだ。
かように、文にするとかなり複雑なプロットなのだが、映画になると川の流れのようにスムーズに流れてゆくのが、この人ならではのストーリーテリングのテクニック。
震災により深刻な喪失を抱え、声が出せなくなった主人公が、各地を旅し様々な人々との出会いを通し、過去と向き合い未来に歩んで行く物語は、文脈的には岩井俊二版の「すずめの戸締り」と言えるかも知れない。
キリエの実家はクリスチャンで、キリスト教的なモチーフが見え隠れする。
そもそもキリエという名前が三位一体の神を表す「主よ」と言う意味であり、本名のルカは新約聖書の「ルカによる福音書」の著者として知られる聖人。
希が妊娠中だったのも、おそらくキリエの中で聖母と重ね合わせる意図だろう。
しかし、こうしたディテールも含めて、本作はあらゆる意味で“岩井俊二成分”がめっちゃ濃いのである。
鳴りっぱなしの音楽、緻密に組み立てられた音響、時にライブ感あふれ、時にしんみりと心象を映し出す映像、そしてそれぞれが心に負った傷を隠し、ひたむきに生きるキャラクターを熱演する俳優たち。
筋立てをこうしてああすれば、客を泣かせられるという普通の映画文法とは根本的に違う、いわば全方位から攻めてくる力技だ。
作風は全く違うのだが、観ていていつの間にか作家の脳内世界に迷い込んでしまったかのような感覚は、「この空の花 長岡花火物語」をはじめとした大林宣彦の晩年の作品に近い。
若い印象の岩井俊二も、ふとプロフィールを見てみると、今年還暦を迎えている。
彼は映画作家として、伝説的な“映像の魔術師”の境地に近づいているのかも知れない。
いや、”映像と音の魔術師”か。
そう言えば、大林宣彦も音楽に造詣が深く、幾つもの作品で自ら作曲を担当していたし、何かと共通点は多い。
豪華過ぎる役者も皆いいのだが、特にエキセントリックなトリックスターを演じた広瀬すずは、新境地と言って良いだろう。
イッコは「リップヴァンウィンクルの花嫁」でCoccoが演じた真白と、綾野剛が演じた安室を合わせたようなキャラクターで、「ラストレター」の時の偶像化された少女性とはかなり違う、変幻自在のアウトローを魅力的に作り上げている。
そして圧倒的なパワーでスクリーンを支配する、アイナ・ジ・エンドの唯一無二の歌声の素晴らしさは言うまでもない。
こうして映画を思い出しながら文を書いているだけでも、切なくて痛々しくて、それでも希望を求めてしまう彼女の歌が頭の中で再生される。
まさに2023年を代表するエモい映画だが、もしかしたら盛り過ぎてくどいと思う人もいるかも知れない(笑
今回は音楽映画なので、音符のラベルが可愛らしいジェラール・メッツの 「クレマン・ダルザス ブリュット ロゼ 」をチョイス。
当主のエリック・カジミール氏に言わせると、ワイン作りは音楽と同じなんだそう。
オレンジがかった薄桃色の見た目も美しいが、複雑な果実香を伴った上品な味わいはエレガントで繊細。
キノコ料理など、山の幸との相性が良さそうだ。
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岩井俊二監督が、壮大なスケールで綴る音楽映画。
歌うことでしか声を出せない流浪のシンガーのキリエと、彼女に関わる人たちの十数年間に及ぶ物語を描いた178分の大長編だ。
キーとなる音楽を担当したのは、幾つもの作品で岩井監督と組んでいる小林武史。
これが映画初出演となる元BiSHのメンバー、アイナ・ジ・エンドがタイトルロールを演じ、海に消えた恋人を探す青年・夏彦に松村北斗。
そして「ラストレター」の広瀬すず、「リップヴァンウィンクルの花嫁」の黒木華、出世作となった「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」から奥菜恵と、歴代のヒロインたちが続々登場。
小さな役までびっくりするくらい豪華な顔ぶれで、現時点での岩井俊二ワールドの集大成と言って良いと思う。
※核心部分に触れています。
現在の東京。
ギター片手に街頭ライブをするキリエ(アイナ・ジ・エンド)に、通りかかった女性が歌をリクエストする。
家がないと言うキリエを、その女性、イッコ(広瀬すず)は自宅に誘う。
あまりに雰囲気が変わっていたので、最初キリエは気付かなかったが、実はイッコは帯広の高校時代の先輩、広澤真緒里だった。
実家がトラブルに見舞われ、大学進学も叶わなった彼女は、⼀条逸子(イッコ)と名を変えて、過去と決別していたのだ。
マネージャーを買って出たイッコは、東京で培った人脈を使い、キリエの歌を広めてゆく。
ところがある日、イッコは突然姿を消してしまう。
それでも、キリエの周りには才能あるミュージシャンが集まって来て、レコード会社からも注目されるようになる。
彼女の歌を聴いたギタリストの風琴(村上虹郎)が路上ライブに加わり、未来が順風満帆に思えた頃、キリエの前に警察を名乗る男たちが現れる・・・・・
冒頭の横に流れる紫の東映マークから、既に一筋縄ではいかない作品だと主張してくる。
キリエを演じるアイナ・ジ・エンドの、独特のキャラクターと声質無しでは成立しない企画だろう。
一度聴いただけで、テーマ曲の「キリエ・憐れみの讃歌」頭に張り付いて離れず、脳内でずーっとリフレインしている。
この曲を含めて最初から最後まで全編音楽が鳴りっぱなしで、遂にはカラスの鳴き声すら音楽に聞こえて心を揺さぶってくるのだ。
自作の劇伴を自ら担当したり、音楽家としての顔も持つ岩井俊二監督だが、ここまで音楽を前面に出した作品は「スワロウテイル」以来だろうか。
映画が終わって、劇場の灯りが点いた時、なんだかとても尊いものを観たという感覚になった。
端的に言って、3時間のエモさの塊りなのだ。
まあ岩井俊二はいつもエモいのだが、今回は感情に直接訴えて来る音楽物だけに特に。
物語のバックグラウンドには、東日本大震災の記憶が生々しく横たわる。
主人公の本名は小塚路花で、キリエと言う名は石巻に住んでいた少女時代に、津波に巻き込まれて行方不明となった姉の希(きりえ)から取ったもの。
母も津波で行方不明となっており、彼女は震災孤児なのである。
映画は現在の東京を起点に、キリエが小学生だった2010年から震災までの石巻、2011年の震災後の大阪、2018年の帯広を行き来する。
アイナ・ジ・エンドが二役で演じる姉の希は、松村北斗演じる夏彦と交際していて、彼の子を妊娠している。
希が行方不明となると、夏彦は大阪の医科大学への進学を断念し、故郷に留まって彼女を探し続けているのだ。
激しい揺れに二人が襲われるシーンは、非常にリアルかつ実際の地震と同じくらい長く、あの地震を経験した人はもしかすると記憶がフラッシュバックするかも知れないので、注意が必要だと思う。
やがて、キリエは石巻から遠く離れた大阪に現れ、黒木華演じる小学校教諭の寺石先生に保護される。
夏彦が大阪の医大に進学することを知っていた彼女は、消えた姉が大阪にいるかも知れないと思い、大阪行きのトラックに乗り込んだとみられる。
寺石先生は少ない手がかりから、夏彦を探し当てるが、彼も血縁ではないので、キリエは児童養護施設へと引き取られしまう。
そして2018年になってキリエと夏彦は帯広で再会し、イッコの家庭教師をしていた夏彦の紹介で、キリエとイッコは友達となるのだ。
かように、文にするとかなり複雑なプロットなのだが、映画になると川の流れのようにスムーズに流れてゆくのが、この人ならではのストーリーテリングのテクニック。
震災により深刻な喪失を抱え、声が出せなくなった主人公が、各地を旅し様々な人々との出会いを通し、過去と向き合い未来に歩んで行く物語は、文脈的には岩井俊二版の「すずめの戸締り」と言えるかも知れない。
キリエの実家はクリスチャンで、キリスト教的なモチーフが見え隠れする。
そもそもキリエという名前が三位一体の神を表す「主よ」と言う意味であり、本名のルカは新約聖書の「ルカによる福音書」の著者として知られる聖人。
希が妊娠中だったのも、おそらくキリエの中で聖母と重ね合わせる意図だろう。
しかし、こうしたディテールも含めて、本作はあらゆる意味で“岩井俊二成分”がめっちゃ濃いのである。
鳴りっぱなしの音楽、緻密に組み立てられた音響、時にライブ感あふれ、時にしんみりと心象を映し出す映像、そしてそれぞれが心に負った傷を隠し、ひたむきに生きるキャラクターを熱演する俳優たち。
筋立てをこうしてああすれば、客を泣かせられるという普通の映画文法とは根本的に違う、いわば全方位から攻めてくる力技だ。
作風は全く違うのだが、観ていていつの間にか作家の脳内世界に迷い込んでしまったかのような感覚は、「この空の花 長岡花火物語」をはじめとした大林宣彦の晩年の作品に近い。
若い印象の岩井俊二も、ふとプロフィールを見てみると、今年還暦を迎えている。
彼は映画作家として、伝説的な“映像の魔術師”の境地に近づいているのかも知れない。
いや、”映像と音の魔術師”か。
そう言えば、大林宣彦も音楽に造詣が深く、幾つもの作品で自ら作曲を担当していたし、何かと共通点は多い。
豪華過ぎる役者も皆いいのだが、特にエキセントリックなトリックスターを演じた広瀬すずは、新境地と言って良いだろう。
イッコは「リップヴァンウィンクルの花嫁」でCoccoが演じた真白と、綾野剛が演じた安室を合わせたようなキャラクターで、「ラストレター」の時の偶像化された少女性とはかなり違う、変幻自在のアウトローを魅力的に作り上げている。
そして圧倒的なパワーでスクリーンを支配する、アイナ・ジ・エンドの唯一無二の歌声の素晴らしさは言うまでもない。
こうして映画を思い出しながら文を書いているだけでも、切なくて痛々しくて、それでも希望を求めてしまう彼女の歌が頭の中で再生される。
まさに2023年を代表するエモい映画だが、もしかしたら盛り過ぎてくどいと思う人もいるかも知れない(笑
今回は音楽映画なので、音符のラベルが可愛らしいジェラール・メッツの 「クレマン・ダルザス ブリュット ロゼ 」をチョイス。
当主のエリック・カジミール氏に言わせると、ワイン作りは音楽と同じなんだそう。
オレンジがかった薄桃色の見た目も美しいが、複雑な果実香を伴った上品な味わいはエレガントで繊細。
キノコ料理など、山の幸との相性が良さそうだ。

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2023年10月11日 (水) | 編集 |
失われた夏を探して。
秋、冬、春の三つの季節の名前を持つ、三人の男女の物語だ。
風光明媚な高知に暮らす三人は、それぞれの「夏」に縛られて閉塞してしまった。
老人の「秋」は、二年前に最愛の妻の「夏」を亡くし、生きる意味を見失っている。
生前の妻がコーディネイトした一週間分の服を着て、毎朝かかりつけ医に通院するルーティンを守り続けている。
ずっとその日暮らしを続けている若者「フユ」は、幼い頃母の「夏」に虐待の末に捨てられた。
母の行方は分からず、その面影を探して年上の女性のもとを転々としながら、根無草のように彷徨っている。
主婦の「春」は、寂しさを感じている。
常に忙しい夫の「夏」とは、家に帰ってきても会話も無く、いつの間にか心も体も離れてしまっている。
ひょんなことから秋とフユが出会い、また別の時系列ではフユと春が出会うことで、それぞれの物語が動き出す。
88年生まれの俳優たちが立ち上げた映像ユニット、889Filmの初の長編作品。
中澤梓佐、麻美、関口アナン、椿弓里奈、同い年の四人は、俳優としての自分たちの活動の場を増やすために活動をはじめたと言う。
芝居を見てもらうための短編制作を重ねるうちに、映画作りそのものに魅せられ、外部のキャストやスタッフも交えて制作する様になり、5年目の今年結実したのがこの作品である。
メンバーの麻美が、高校生の頃から推敲を重ねてきた脚本を元に、自らメガホンを取り、プロデューサーを兼ねる中澤梓佐が三人の一人春を演じ、関口アナンがすれ違う夫の夏を演じる。
共同プロデューサーを務める椿弓里奈も、フユを愛する女性として出演している。
物語の軸となるフユを演じるのは、2000年生まれの新鋭・林裕太。
彼と交流する秋には、大ベテランの小林勝也。
性別も年齢も違い、一見すると接点のない三人の不思議な出会い。
隣り合う季節同士の秋とフユ、春とフユは交流するが、春と秋には接点が無い。
麻美監督は、寓意性を含ませながら、人々の閉塞した人生に光が射すまでの物語を丁寧に描く。
秋と春は、根無草だが若く生命力に溢れたフユを追いかける。
秋はいたずらで奪われた財布を取り返すため、春は一度だけ寝た彼の温もりを求めて、フユの背を探す。
二人にとっては、フユは生命の象徴であり小さな希望。
一方のフユは、母の面影を追い続けている。
母の記憶は虐待と結びついていて、フユは自分と寝る女性に首を絞めることを求め、時に自暴自棄な行動をとる。
彼は手作りの募金箱を常に首から下げているのだが、それも母が消えた時の記憶を再現しようとしたもの。
春にとって、フユとの出会いは寂しさを紛らわせてくれるものだったが、逆にフユは自分が春の中に見ている母の幻に虚しさを募らせる。
しかしあらゆる面で自分と対照的な秋との交流は、フユの刹那的人生にそれまでに無かった視点を与えてくれるのだ。
実際には春とフユとの出会いが先で、しばらくたった後に秋とフユの交流が始まるのだが、時系列がシャッフルされていることもあり、初見ではちょっと分かりにくい。
人生の道程では、生きることの意味が分からなくなったり、過去の出来事に囚われてしまうことはありがち。
でもちょっとした出会いや出来事が、自分でも気付かないうちに分岐点を作っていることもある。
ドラマチックな“事件”は何も起こらないが、生活しているだけで人間はずっと変わってゆく。
そんな当たり前のことに対する「気付き」を与えてくれる、センスの良い小品。
俳優ユニットの作品だけに役者が皆良いが、個人的には春を演じた中澤梓佐の孤独が強く印象に残った。
889Filmのユニークな活動にも注目して行きたい。
今回は、高知の地酒「酔鯨 純米大吟醸 山田錦」をチョイス。
幕末の土佐藩主、山内豊信は酒好きで、自らを「鯨海酔侯」と言う。
フルーティな吟醸香が広がり、軽やかで飲みやすい。
手に入りやすく、クオリティの割にCPが高いのも嬉しいポイント。
太平洋の海の幸と共に、美味しくいただきたいお酒だ。

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2023年10月08日 (日) | 編集 |
水の底で、自分に出会う。
なんの予兆もなく夫が失踪し、一人で家業の銭湯を経営する女性のもとに、謎めいた男が現れ住み込みで働きはじめる。
仲の良かったはず夫は、なぜ姿を消したのか?
現れた男は何者なのか。
2004年から翌年にかけて、月刊アフタヌーンで連載された豊田徹也の同名漫画を、映画作家として脂の乗った円熟期を迎えている「窓辺にて」の今泉力哉監督が忠実に実写映画化した作品。
登場人物の心の奥底に向けて、沈み込んで行くような感覚は、映画でもそのままだ。
主人公の関口かなえを真木よう子が演じ、突然現れた謎の男・堀隆之に井浦新、消えた夫の悟に永山瑛太。
トリックスターの探偵ヤマサキを、リリー・フランキーが演じる。
関口かなえ(真木よう子)は、東京の下町で亡き父から引き継いだ銭湯・月乃湯を夫の悟(永山瑛太)と共に経営していたが、二ヶ月前に悟は突然失踪。
以来休業していた銭湯を再開した日に、組合に仕事を斡旋されたという堀隆之(井浦新)が訪ねてくる。
堀は自分のことを一切語ろうとしない風来坊のような男だったが、銭湯経営に必要な資格を全て持っていたために、住み込みで働くことに。
なんとか新しい生活も軌道に乗った頃、かなえは幼馴染のよう子(江口のりこ)から、行方不明の悟を見つけるために探偵のヤマサキ(リリー・フランキー)を紹介される。
ヤマサキの強力で悟を探しながら、かなえは堀との共同生活を通して、少しずつ癒されてゆく。
ある日、廃業する同業者から重油バーナーを譲ってもらえることになり、かなえは堀と共に受け取りに向かうのだが、現地に着いてみるとその同業者は失踪していた。
動揺するかなえの脳裏に、昔から繰り返し見て
いる奇妙な夢の記憶が蘇る。
それはかなえが水中に沈められ、誰かに首を絞められるというものだった・・・・
本作を端的に言えば、人間はどこまで他人に自分を見せられるのか?いやそもそも自分に対しても見せられているのか?という話だ。
「アンダーカレント(undercurrent)」という聞きなれないタイトルには、「水の深層」と同時に「底意」「暗示」と言う意味もある。
そのタイトル通りに、水のイメージが多用されている。
かなえの家業である銭湯の浴槽、飼い犬リクの散歩コースである川沿いの道、仕事で地方へ行った時にふと立ち寄る湖、海に面したカフェ。
そして、かなえの記憶の中にある水のイメージ。
なぜ彼女は水中に落ち、誰かに首を絞められる夢を見るのか。
なぜそれを「自分が望んでいること」だと思うのか。
水面は静寂に見えたとしても、深層に何があるのかは水の上からは見えない。
失踪した悟にも、自らのことを語らない堀にも、かなえ自身にも、表面的な人格の底に、自分でもよく分からない別の自分がいる。
例えば人と話をしている時に、意識せずに自分の口から出てきた言葉に、「こんなこと考えてたんだ」と自分で驚くというような経験をした人は多いだろう。
かなえと面談して、悟のことを根掘り葉掘り聞いたヤマサキは「悟のパーソナリティーが見えない」と言う。
彼の表面的に見えていた部分は、本当の自分を見せたいための、アリバイのようなものではないのかと。
そして、それは他の登場人物にも、少なからず当てはまる。
軸の部分にはかなえがいて、ヤマサキを介した夫の探索と、入れ替わるように現れた堀との関係がツートラックとなり、物語が展開してゆく。
奇妙なトライアングルを形作る登場人物たちは、物語を通して今まで見えていなかった自己の内面と向き合わねばならないのだ。
湯を沸かすのに薪を使っている月乃湯では、悟がいた頃から重油バーナーへの転換を検討していたのだが、物語の中盤に近県の廃業する同業者からバーナーを譲り受けに行く描写がある。
ところが、実際に取りに行ってみると、その同業者は火事を起こして失踪しており、自分で火をつけたのではと噂されている描写がある。
ここでも、表面に見えていた人間の顔と、その実際の行動とのギャップを見せつけられたかなえは、静かに動揺する。
人間の心を巡る物語は、やがてかなえの心の底の底に封じ込められていた、ある残酷な記憶を呼び起こし、堀の正体と悟が失踪した理由も明らかとなる。
ヤマサキの調査によって、過去がことごとく嘘であることが明らかになった悟は、再会したかなえに「いい人」や「好青年」と言った表層的な自分の底にあった、ずっと隠してきた本性を告白する。
彼は表層の自分と深層の自分とのギャップを、自ら認識し、逃げることを選んだ。
対して、堀の持つ事情はもう少し複雑だ。
彼の素性はかなえの持つ罪の記憶と密接に結びついていて、かなえが記憶を取り戻した今、それを明かすことは彼女をますます傷つけることになるのではないかと葛藤している。
悟は最初から自分の二面性を認識していたが、かなえと堀は物語を通して、水の底にいるもう一人の自分と向き合い、それぞれの答えを出してゆく。
キャストには実力者が揃っているが、MVPはクセ強キャラの探偵ヤマサキに、見事なハマりっぷりのリリー・フランキーだろう。
原作のヤマサキは映画よりは少し若い印象なのだが、連載時期を考えると本当に当て書きだったのかも知れない。
下着ドロの少年のエピソードが省かれていたり、映画らしく時間経過を強調したりしている以外、構成から進行までほぼ原作通りだが、意外にもラストを変えてきた。
個人的には、ここを改変しなくても堀と田島の会話でその後起こることは想像がつくし、映画版は少々引っ張りすぎと思う。
新たなラストは、それはそれで想像力を掻き立てるものだが、どちらかと言うと原作の方が好みだな。
ところで、かなえの経営している銭湯・月乃湯は、原作では特にどことは明示されていなかったと思うが、映画ではどうやら江戸川区らしい。
江戸川区はそのほとんどが海抜0メートル地帯のはずなのだが、映画の中では月乃湯の近くに小高い丘があり街を見渡す描写がある。
あの平坦な区にこんな高い場所あったかなあ?と近場の住人としては思ってしまった。
まあ、どうでもいいことなのだけど。
風呂上がりにお酒を飲むのは本当はいけないのだが、なぜか銭湯の近くには大抵飲み屋がある。
今回は下町の酒「ホッピー割り」をチョイス。
まだまだモノが足りていなかった前後復興期の1948年に、贅沢品のビールの代用品として発売されたホッピーは、関東圏で人気が高まった。
ホッピービバレッジは、ビアジョッキと甲種焼酎、ホッピーをキンキンに冷やし、ジョッキに焼酎1に対してホッピーを5の割合で注ぎいれる“三冷”を公式に推奨している。
体に悪いと分かっていても、銭湯の帰りには一杯やりたくなる。
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なんの予兆もなく夫が失踪し、一人で家業の銭湯を経営する女性のもとに、謎めいた男が現れ住み込みで働きはじめる。
仲の良かったはず夫は、なぜ姿を消したのか?
現れた男は何者なのか。
2004年から翌年にかけて、月刊アフタヌーンで連載された豊田徹也の同名漫画を、映画作家として脂の乗った円熟期を迎えている「窓辺にて」の今泉力哉監督が忠実に実写映画化した作品。
登場人物の心の奥底に向けて、沈み込んで行くような感覚は、映画でもそのままだ。
主人公の関口かなえを真木よう子が演じ、突然現れた謎の男・堀隆之に井浦新、消えた夫の悟に永山瑛太。
トリックスターの探偵ヤマサキを、リリー・フランキーが演じる。
関口かなえ(真木よう子)は、東京の下町で亡き父から引き継いだ銭湯・月乃湯を夫の悟(永山瑛太)と共に経営していたが、二ヶ月前に悟は突然失踪。
以来休業していた銭湯を再開した日に、組合に仕事を斡旋されたという堀隆之(井浦新)が訪ねてくる。
堀は自分のことを一切語ろうとしない風来坊のような男だったが、銭湯経営に必要な資格を全て持っていたために、住み込みで働くことに。
なんとか新しい生活も軌道に乗った頃、かなえは幼馴染のよう子(江口のりこ)から、行方不明の悟を見つけるために探偵のヤマサキ(リリー・フランキー)を紹介される。
ヤマサキの強力で悟を探しながら、かなえは堀との共同生活を通して、少しずつ癒されてゆく。
ある日、廃業する同業者から重油バーナーを譲ってもらえることになり、かなえは堀と共に受け取りに向かうのだが、現地に着いてみるとその同業者は失踪していた。
動揺するかなえの脳裏に、昔から繰り返し見て
いる奇妙な夢の記憶が蘇る。
それはかなえが水中に沈められ、誰かに首を絞められるというものだった・・・・
本作を端的に言えば、人間はどこまで他人に自分を見せられるのか?いやそもそも自分に対しても見せられているのか?という話だ。
「アンダーカレント(undercurrent)」という聞きなれないタイトルには、「水の深層」と同時に「底意」「暗示」と言う意味もある。
そのタイトル通りに、水のイメージが多用されている。
かなえの家業である銭湯の浴槽、飼い犬リクの散歩コースである川沿いの道、仕事で地方へ行った時にふと立ち寄る湖、海に面したカフェ。
そして、かなえの記憶の中にある水のイメージ。
なぜ彼女は水中に落ち、誰かに首を絞められる夢を見るのか。
なぜそれを「自分が望んでいること」だと思うのか。
水面は静寂に見えたとしても、深層に何があるのかは水の上からは見えない。
失踪した悟にも、自らのことを語らない堀にも、かなえ自身にも、表面的な人格の底に、自分でもよく分からない別の自分がいる。
例えば人と話をしている時に、意識せずに自分の口から出てきた言葉に、「こんなこと考えてたんだ」と自分で驚くというような経験をした人は多いだろう。
かなえと面談して、悟のことを根掘り葉掘り聞いたヤマサキは「悟のパーソナリティーが見えない」と言う。
彼の表面的に見えていた部分は、本当の自分を見せたいための、アリバイのようなものではないのかと。
そして、それは他の登場人物にも、少なからず当てはまる。
軸の部分にはかなえがいて、ヤマサキを介した夫の探索と、入れ替わるように現れた堀との関係がツートラックとなり、物語が展開してゆく。
奇妙なトライアングルを形作る登場人物たちは、物語を通して今まで見えていなかった自己の内面と向き合わねばならないのだ。
湯を沸かすのに薪を使っている月乃湯では、悟がいた頃から重油バーナーへの転換を検討していたのだが、物語の中盤に近県の廃業する同業者からバーナーを譲り受けに行く描写がある。
ところが、実際に取りに行ってみると、その同業者は火事を起こして失踪しており、自分で火をつけたのではと噂されている描写がある。
ここでも、表面に見えていた人間の顔と、その実際の行動とのギャップを見せつけられたかなえは、静かに動揺する。
人間の心を巡る物語は、やがてかなえの心の底の底に封じ込められていた、ある残酷な記憶を呼び起こし、堀の正体と悟が失踪した理由も明らかとなる。
ヤマサキの調査によって、過去がことごとく嘘であることが明らかになった悟は、再会したかなえに「いい人」や「好青年」と言った表層的な自分の底にあった、ずっと隠してきた本性を告白する。
彼は表層の自分と深層の自分とのギャップを、自ら認識し、逃げることを選んだ。
対して、堀の持つ事情はもう少し複雑だ。
彼の素性はかなえの持つ罪の記憶と密接に結びついていて、かなえが記憶を取り戻した今、それを明かすことは彼女をますます傷つけることになるのではないかと葛藤している。
悟は最初から自分の二面性を認識していたが、かなえと堀は物語を通して、水の底にいるもう一人の自分と向き合い、それぞれの答えを出してゆく。
キャストには実力者が揃っているが、MVPはクセ強キャラの探偵ヤマサキに、見事なハマりっぷりのリリー・フランキーだろう。
原作のヤマサキは映画よりは少し若い印象なのだが、連載時期を考えると本当に当て書きだったのかも知れない。
下着ドロの少年のエピソードが省かれていたり、映画らしく時間経過を強調したりしている以外、構成から進行までほぼ原作通りだが、意外にもラストを変えてきた。
個人的には、ここを改変しなくても堀と田島の会話でその後起こることは想像がつくし、映画版は少々引っ張りすぎと思う。
新たなラストは、それはそれで想像力を掻き立てるものだが、どちらかと言うと原作の方が好みだな。
ところで、かなえの経営している銭湯・月乃湯は、原作では特にどことは明示されていなかったと思うが、映画ではどうやら江戸川区らしい。
江戸川区はそのほとんどが海抜0メートル地帯のはずなのだが、映画の中では月乃湯の近くに小高い丘があり街を見渡す描写がある。
あの平坦な区にこんな高い場所あったかなあ?と近場の住人としては思ってしまった。
まあ、どうでもいいことなのだけど。
風呂上がりにお酒を飲むのは本当はいけないのだが、なぜか銭湯の近くには大抵飲み屋がある。
今回は下町の酒「ホッピー割り」をチョイス。
まだまだモノが足りていなかった前後復興期の1948年に、贅沢品のビールの代用品として発売されたホッピーは、関東圏で人気が高まった。
ホッピービバレッジは、ビアジョッキと甲種焼酎、ホッピーをキンキンに冷やし、ジョッキに焼酎1に対してホッピーを5の割合で注ぎいれる“三冷”を公式に推奨している。
体に悪いと分かっていても、銭湯の帰りには一杯やりたくなる。

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2023年10月04日 (水) | 編集 |
ママの復活に必要なのは?
リチャード・リンクレイター+ケイト・ブランシェット初のコンビ作。
原作は、脚本家としても知られるマリア・センブルの小説「バーナデットをさがせ!」で、ブランシェットが演じるのは、シアトルに住む主婦のバーナデット・フォックス。
マイクロソフトでAIの開発をしている優しい夫のエルジーと、優秀な娘のビーと共に暮らしていた彼女は、ある日突然一人で南極に旅立つ。
この人、周囲の人間関係に色々問題を抱えていて、隣近所やママ友と衝突しまくり。
特に隣家に住むオードリーとは、度重なるトラブルによって犬猿の仲だ。
南極旅行は娘のビーから良い成績を収めたご褒美にと要求されたものなのだが、人間嫌いのバーナデットにとって多くの人が参加するツアーは地獄。
ますます奇妙な行動をとるようになって、夫のエルジーが心配して心療内科医に症状を相談すると、重度の鬱と診断される。
では、一体どうしてそうなっちゃったのか?がストーリーを通して紐解かれてゆく。
バーナデットは元から主婦だった訳ではない。
ロサンゼルスに住んでいた若かりし頃には、天才の名を欲しいままにした新進気鋭の建築家で、環境に配慮した建築の先駆者と言われていた。
ところが彼女が精魂を傾けていた、半径20マイルで調達した建材だけを使った「20マイルの家」の仕事がある事情から挫折。
ちょうどエルジーがマイクロソフトから仕事のオファーを受けていたこともあり、絶望したバーナデットは表舞台から姿を消し、シアトルに引っ越したのだ。
エルジーはその頃から少しずつ、彼女が変わっていったと言う。
人との関わりを避けるようになり、シアトルの都市計画を攻撃的にこき下ろし、顔も見たことのない“ネット秘書”に生活の全てを頼るようになる。
まあこう言う人の常で、最初バーナデットは自分が病気だと認めず、心療内科に入院を勧められて、家族を残して一人で逃亡した先が南極だったと言うワケ。
その選択が彼女の心に何をもたらしたのか?南極で彼女は何を掴むのか?と言う話なのだけど、相変わらずリンクレイターのストーリーテリングは軽妙で心地よく、丁寧にバーナデットの心の闇をすくい上げてゆく。
一人南極という非日常の世界に身を置き、今までの生活では決して会うことの無かった人々と出会うことで、ずっと閉塞していた彼女に変化が起きる。
20マイルの家を最後に建築の仕事から身を引いたのは、バーナデットにとっては精神的な自殺である。
真の芸術家は、創作せずには生きて行けないのだ。
エルジーもビーも、遅ればせながらその事実に気づき、一家は再生に向けて動き出す。
二人とも自分の人生でも選択を迫られていて、三人揃って新しい道に進むことになるのもいい。
ケイト・ブランシェットが素晴らしいのは言うまでもないが、寓話的な物語の着地点は、映画が始まった時点では想像もつかなかった。
まあ終盤の矢継ぎ早の展開は、ちょっと出来すぎに感じなくもないが。
これは一人の女性の生き方に関する映画だが、ある種の芸術家論としても面白い。
何度引退しても復活する宮﨑駿とかも、引退してる間はバーナデット化してたのかも。
主人公とバトルしてる隣人オードリー役の、クリスティン・ウィグがかなり美味しいポジション。
エンドクレジットでバーナデットの作る南極基地の建設現場が披露されるが、これは実際には南極点にあるアムンゼン・スコット基地ではなく、ブラント棚氷にあるイギリスのハリーVI基地。
環境負荷を可能な限り低減することを条件に設計され、複数のモジュールに分かれ、状況に応じて移動も可能な画期的な基地なんだとか。
なるほど、エコ建築家バーナデットの作品としては相応しい。
バーナデットが住むシアトルは、一般的には雨の多い街として知られているが、エルジーが勤めている設定のマイクロソフトをはじめ、スターバックスやボーイングなどアメリカを代表する企業の故郷でもあり、ベンチャー企業が多い都市でもある。
今回はこの街で生まれたユニークなお酒、シアトル・サイダー・カンパニーの「バジルミント」をチョイス。
メジャーリーグ、シアトル・マリナーズの本拠地、セーフコ・フィールドがあることで有名なソードー地区のクラフトビールメーカーのトゥー・ビアズ・ブリューイングが、ハードサイダー専門の醸造所シアトル・サイダーを創業。
ハードサイダーは、リンゴを原料とした発泡性の果実種で、シアトル・サイダーでは様々なフレーバーを発売している。
こちらはバジルとミントの葉を加えて再発酵させたもので、ツーンと鼻に抜ける清涼な香りが楽しめる。
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リチャード・リンクレイター+ケイト・ブランシェット初のコンビ作。
原作は、脚本家としても知られるマリア・センブルの小説「バーナデットをさがせ!」で、ブランシェットが演じるのは、シアトルに住む主婦のバーナデット・フォックス。
マイクロソフトでAIの開発をしている優しい夫のエルジーと、優秀な娘のビーと共に暮らしていた彼女は、ある日突然一人で南極に旅立つ。
この人、周囲の人間関係に色々問題を抱えていて、隣近所やママ友と衝突しまくり。
特に隣家に住むオードリーとは、度重なるトラブルによって犬猿の仲だ。
南極旅行は娘のビーから良い成績を収めたご褒美にと要求されたものなのだが、人間嫌いのバーナデットにとって多くの人が参加するツアーは地獄。
ますます奇妙な行動をとるようになって、夫のエルジーが心配して心療内科医に症状を相談すると、重度の鬱と診断される。
では、一体どうしてそうなっちゃったのか?がストーリーを通して紐解かれてゆく。
バーナデットは元から主婦だった訳ではない。
ロサンゼルスに住んでいた若かりし頃には、天才の名を欲しいままにした新進気鋭の建築家で、環境に配慮した建築の先駆者と言われていた。
ところが彼女が精魂を傾けていた、半径20マイルで調達した建材だけを使った「20マイルの家」の仕事がある事情から挫折。
ちょうどエルジーがマイクロソフトから仕事のオファーを受けていたこともあり、絶望したバーナデットは表舞台から姿を消し、シアトルに引っ越したのだ。
エルジーはその頃から少しずつ、彼女が変わっていったと言う。
人との関わりを避けるようになり、シアトルの都市計画を攻撃的にこき下ろし、顔も見たことのない“ネット秘書”に生活の全てを頼るようになる。
まあこう言う人の常で、最初バーナデットは自分が病気だと認めず、心療内科に入院を勧められて、家族を残して一人で逃亡した先が南極だったと言うワケ。
その選択が彼女の心に何をもたらしたのか?南極で彼女は何を掴むのか?と言う話なのだけど、相変わらずリンクレイターのストーリーテリングは軽妙で心地よく、丁寧にバーナデットの心の闇をすくい上げてゆく。
一人南極という非日常の世界に身を置き、今までの生活では決して会うことの無かった人々と出会うことで、ずっと閉塞していた彼女に変化が起きる。
20マイルの家を最後に建築の仕事から身を引いたのは、バーナデットにとっては精神的な自殺である。
真の芸術家は、創作せずには生きて行けないのだ。
エルジーもビーも、遅ればせながらその事実に気づき、一家は再生に向けて動き出す。
二人とも自分の人生でも選択を迫られていて、三人揃って新しい道に進むことになるのもいい。
ケイト・ブランシェットが素晴らしいのは言うまでもないが、寓話的な物語の着地点は、映画が始まった時点では想像もつかなかった。
まあ終盤の矢継ぎ早の展開は、ちょっと出来すぎに感じなくもないが。
これは一人の女性の生き方に関する映画だが、ある種の芸術家論としても面白い。
何度引退しても復活する宮﨑駿とかも、引退してる間はバーナデット化してたのかも。
主人公とバトルしてる隣人オードリー役の、クリスティン・ウィグがかなり美味しいポジション。
エンドクレジットでバーナデットの作る南極基地の建設現場が披露されるが、これは実際には南極点にあるアムンゼン・スコット基地ではなく、ブラント棚氷にあるイギリスのハリーVI基地。
環境負荷を可能な限り低減することを条件に設計され、複数のモジュールに分かれ、状況に応じて移動も可能な画期的な基地なんだとか。
なるほど、エコ建築家バーナデットの作品としては相応しい。
バーナデットが住むシアトルは、一般的には雨の多い街として知られているが、エルジーが勤めている設定のマイクロソフトをはじめ、スターバックスやボーイングなどアメリカを代表する企業の故郷でもあり、ベンチャー企業が多い都市でもある。
今回はこの街で生まれたユニークなお酒、シアトル・サイダー・カンパニーの「バジルミント」をチョイス。
メジャーリーグ、シアトル・マリナーズの本拠地、セーフコ・フィールドがあることで有名なソードー地区のクラフトビールメーカーのトゥー・ビアズ・ブリューイングが、ハードサイダー専門の醸造所シアトル・サイダーを創業。
ハードサイダーは、リンゴを原料とした発泡性の果実種で、シアトル・サイダーでは様々なフレーバーを発売している。
こちらはバジルとミントの葉を加えて再発酵させたもので、ツーンと鼻に抜ける清涼な香りが楽しめる。

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