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2023年11月28日 (火) | 編集 |
鬼太郎-1.0
水木しげるが創造した妖怪少年、ゲゲゲの鬼太郎が生まれるまでを描いたザ・ビギニング。
2018年から放送されたTVシリーズ第6期と同じ世界線で、原作の「墓場の鬼太郎」に繋がる前日譚だ。
舞台となるのは昭和31年(1956年)。
ある村に住む財閥一族の継承問題に巻き込まれた、というよりも自分から飛び込んだモーレツサラリーマンの水木と、行方不明の妻を探すゲゲ太郎こと、体があった頃の鬼太郎のオヤジの物語が描かれる。
監督の古賀豪、脚本の吉野弘幸はTVシリーズにも参加していて、トンマナも統一されているが、レイティングの「PG12」が示すように、完全に大人向けのホラードラマ。
人間の欲望の悍ましさを描くために、かなりインモラルな物語となっているので、年少者の鑑賞には注意が必要だ。
奇しくもほぼ同時期に公開となった、もう一つの昭和の巨大IP「ゴジラ -1.0」とは何かと共通点が多いのが面白い。
※核心部分に触れています。
昭和31年。
日本の政財界に大きな影響力を持つ龍賀一族の当主、龍賀時貞(白鳥哲)死去する。
帝国血液銀行に勤める水木(木内秀信)は、利害関係の深い龍賀製薬社長の龍賀克典(山路和弘)が新当主となるのを見届けようと、龍賀一族が暮らす哭倉村へ向かう。
村で水木は、克典の妻で時貞の長女乙米(沢海陽子)、二人の娘で東京に憧れる沙代(種﨑敦美)、時貞の次女の息子の時弥(小林由美子)たちと出会う。
一族が集う屋敷で、時貞の遺言が読み上げられるが、当主に指名されたのは水木の目論む克典ではなく、長男の時麿(飛田展男)だった。
その頃、哭倉村に怪しい風体の男が現れ、行方不明の妻を探していると言う。
水木は成り行きで、ゲゲ太郎(関俊彦)と呼ぶようになった男の監視を命じられるのだが、時を同じくして龍賀一族の者が次々と何者かに殺される事件が起こる。
ゲゲ太郎が禁足地とされている湖の孤島に向かったことを知った水木は、彼の後を追うのだが、そこは妖怪が跋扈する異界だった・・・・
戦後復興途上の日本、因習と欲望が渦巻く田舎の名家、そこに起こる人智を超えた怪異。
これはいわば「ゲゲゲの鬼太郎」+「犬神家の一族」+「ゴジラ -1.0」だ。
あまり知られていないが、鬼太郎とゴジラは同い年。
第一作の「ゴジラ」が封切られたのは、1954年の11月3日。
鬼太郎は「妖奇伝」に収録された「墓場の鬼太郎」が最初と思っている人が多いが、実は1954年に紙芝居のキャラクターとして初登場している。
両者に共通するのは、戦争の影である。
ケロイドの皮膚を持ち、放射能の炎を吐く初代ゴジラは日本人の心に忘れえぬ傷を残した原爆のメタファーだし、鬼太郎では戦争をモチーフとしたエピソード「妖花」(TV第6期では「妖花の記憶」のタイトル)がよく知られている。
水木しげるが、自らの体験をもとにした戦争漫画を数多く残しているのは言わずもがなだ。
共に来年が70周年という節目の年に、戦後世代によってリブートされたゴジラと鬼太郎が、戦争へと突っ走った日本への批評的視点という共通項を持って作られたのも縁を感じる。
神木隆之介が演じた「ゴジラ -1.0」の主人公は、特攻隊くずれである。
彼は特攻から逃げ、さらに不時着した大戸島でゴジラを撃てなかったことで、仲間を見殺しにしてしまい、深い贖罪の念に苛まれている。
一方、水木しげるは兵士としてニューブリテン島に送られるが、彼のいた分遣隊は敵の奇襲攻撃を受けて全滅。
水木しげるは数十人いた分遣隊たった一人の生き残りで、その後マラリアにかかって療養中に爆撃にあい、左手を切断する。
彼の無事を知った上官の第一声は「なぜ生きて戻った」だったと言う。
本作の主人公である“水木“も、二度の玉砕突撃を生き残ったという設定で、水木しげる本人の分身であることは間違いない。
二本の映画の主人公は、その背負っているものが重なるのである。
水木しげるが内地への復員時に乗ったのが、「ゴジラ -1.0」のわだつみ作戦の旗艦となる駆逐艦雪風なのも不思議な偶然だ。
かように、その成り立ちを含めて共通項の多い両作だが、明確な違いもある。
「ゴジラ -1.0」の舞台は、戦後間もない昭和22年。
復興はおろか、海外に展開していた日本軍や民間人の帰還も途上で、全てが混沌としていた時代に、戦争がゴジラの姿となって追いかけて来る。
そしてゴジラが銀座から永田町へ向けて放った、核爆弾に匹敵する威力を持つ放射熱線によって、戦争に責任のある勢力を根こそぎ葬ってしまうのである。
戦後すぐの時点で既存の権力構造が全てなくなり、生き残った民間人だけで新たな日本を再建するという別の世界線を作り出しているのが「ゴジラ -1.0」なのだ。
一方、「鬼太郎誕生」の舞台は昭和31年。
昭和27年のサンフランシスコ講和条約で日本は独立を回復し、この年の経済白書で政府は「もはや戦後ではない」と宣言した。
高度成長期へ向けたイケイケの時代の始まりであり、サラリーマンの水木も成り上がる気満々。
ゴジラが物語の力で理想化された“if”の戦後日本を作り上げたとすると、こちらは戦争を起こした澱んだ力が、復興の華やかさの地下に蠢いている世界観である。
その力の正体が、戦争を支えた龍賀一族に象徴される人間の欲望だ。
龍賀一族は、戦前から龍賀製薬を通して“M“と呼ばれる特殊な血液製剤を軍に供給していて、これは人間の肉体や精神を大幅に強化するある種の麻薬。
水木の勤める帝国血液銀行もMの製法を知りたがっていて、彼を哭倉村へと送り込む。
しかし、そこで水木が見たのは、欲望の果てに堕ちた人間たちの、あまりにも悍ましい秘密なのである。
鬼太郎の世界には、人間とは別に幽霊族という種族が存在している。
幽霊族は人類よりもずっと以前に地球を支配した先住民だが、穏やかな気質だったために後から出現した人類に追いやられて地下に暮らすようになり、たまに地上に出て彷徨う姿から、幽霊族と呼ばれるようになった。
鬼太郎や目玉のオヤジは、徐々に数を減らしていった幽霊族の最後の生き残りなのである。
幽霊族の肉体は強靭で、さまざまな超能力を持つ。
そこに着目した龍賀一族は幽霊族を捕まえ、その血からMを精製して売り捌いているのだ。
血を抜かれても、幽霊族はすぐには死なず、やがてその魂は深い怨念を抱いた妖怪・狂骨となるが、どんどん巨大化する狂骨を封印しているのが湖の孤島。
ゲゲ太郎は、行方不明の妻が龍賀一族に囚われていると睨み、探しにやって来たのである。
龍賀一族はMの販売で巨利を得るだけでは飽き足らず、ここで書くことも憚られる悍ましい行為に手を染め、その結果として人ですらなくなりつつある。
水木とゲゲ太郎の前に立ちはだかる最大の怪異が、人間の欲望が作り出したものだというのは非常に象徴的だ。
物語の軸となるのは、村の生活に嫌気がさし、東京へ逃げたいと願う龍賀一族の令嬢・沙代と、彼女を利用しようとする水木の物語で、そこに妻を探す鬼太郎親父の物語が絡み、おどろおどろしい村の妖怪伝説の真実、龍賀一族の謎へと収束する構造。
水木の物語には、「総員玉砕せよ!」をはじめとした戦争漫画の記憶が内包されていて、このツートラックは別の話でやりたいくらいに濃いのだけど、鬼太郎ビギニングに繋げるためには組み合わせるしかない。
そのために、キャラクターの感情の動きが、かなり急ぎ足になっている部分もあり、そこはちょっと勿体無い。
龍賀一族の中で、かろうじて感情移入キャラクターだった年若い沙代と時弥が消し去られると、人間の欲望を一身に集約させた様なボスキャラが、もはや怪獣化した狂骨を操り襲いかかる。
本作は怪異との対決をスペクタクルなアクションとして成立させながら、「ゴジラ -1.0」とはまた別の視点で、戦争に突っ走り戦後もその芽を残す日本の総括を試みる。
欲望という名の怪物に取り憑かれた人間は、自らを滅ぼすまで肥大して行くが、虐げられた幽霊族にとって滅びの中の希望となるのは愛の結晶としての鬼太郎誕生なのだ。
しかし、半分欲望に染まっていた水木にとっては、それは同時に呪いでもあるという非常にシニカルかつよく考えられたソリューションだ。
戦争と深く結びついた桜のイメージを、クライマックスで使って来たのもお見事だった。
本作はあくまでも前日譚なので、鬼太郎自身は物語の括弧としてプロローグとエピローグに登場するに止まる。
TVシリーズは観ていなくても問題ないが、出来れば「墓場の鬼太郎」は読んでおいた方が味わい深く楽しめるだろう。
今回は鬼太郎コラボ酒、稲田本店の「純米酒 ゲゲゲの鬼太郎」をチョイス。
水木しげるが育った鳥取県境港市は、現在では鬼太郎たちの銅像が並ぶ水木しげるロードでも知られている。
稲田本店は同じ弓ヶ浜半島の米子市で、330年の歴史を持つ老舗酒蔵だ。
これは看板銘柄である稲田姫のバリエーションで、クセのない爽やかな香りと、五百万石らしいスッキリとした味わいのザ・日本酒。
これからの季節は海の幸と共に、ぬる燗でいただきたい。
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水木しげるが創造した妖怪少年、ゲゲゲの鬼太郎が生まれるまでを描いたザ・ビギニング。
2018年から放送されたTVシリーズ第6期と同じ世界線で、原作の「墓場の鬼太郎」に繋がる前日譚だ。
舞台となるのは昭和31年(1956年)。
ある村に住む財閥一族の継承問題に巻き込まれた、というよりも自分から飛び込んだモーレツサラリーマンの水木と、行方不明の妻を探すゲゲ太郎こと、体があった頃の鬼太郎のオヤジの物語が描かれる。
監督の古賀豪、脚本の吉野弘幸はTVシリーズにも参加していて、トンマナも統一されているが、レイティングの「PG12」が示すように、完全に大人向けのホラードラマ。
人間の欲望の悍ましさを描くために、かなりインモラルな物語となっているので、年少者の鑑賞には注意が必要だ。
奇しくもほぼ同時期に公開となった、もう一つの昭和の巨大IP「ゴジラ -1.0」とは何かと共通点が多いのが面白い。
※核心部分に触れています。
昭和31年。
日本の政財界に大きな影響力を持つ龍賀一族の当主、龍賀時貞(白鳥哲)死去する。
帝国血液銀行に勤める水木(木内秀信)は、利害関係の深い龍賀製薬社長の龍賀克典(山路和弘)が新当主となるのを見届けようと、龍賀一族が暮らす哭倉村へ向かう。
村で水木は、克典の妻で時貞の長女乙米(沢海陽子)、二人の娘で東京に憧れる沙代(種﨑敦美)、時貞の次女の息子の時弥(小林由美子)たちと出会う。
一族が集う屋敷で、時貞の遺言が読み上げられるが、当主に指名されたのは水木の目論む克典ではなく、長男の時麿(飛田展男)だった。
その頃、哭倉村に怪しい風体の男が現れ、行方不明の妻を探していると言う。
水木は成り行きで、ゲゲ太郎(関俊彦)と呼ぶようになった男の監視を命じられるのだが、時を同じくして龍賀一族の者が次々と何者かに殺される事件が起こる。
ゲゲ太郎が禁足地とされている湖の孤島に向かったことを知った水木は、彼の後を追うのだが、そこは妖怪が跋扈する異界だった・・・・
戦後復興途上の日本、因習と欲望が渦巻く田舎の名家、そこに起こる人智を超えた怪異。
これはいわば「ゲゲゲの鬼太郎」+「犬神家の一族」+「ゴジラ -1.0」だ。
あまり知られていないが、鬼太郎とゴジラは同い年。
第一作の「ゴジラ」が封切られたのは、1954年の11月3日。
鬼太郎は「妖奇伝」に収録された「墓場の鬼太郎」が最初と思っている人が多いが、実は1954年に紙芝居のキャラクターとして初登場している。
両者に共通するのは、戦争の影である。
ケロイドの皮膚を持ち、放射能の炎を吐く初代ゴジラは日本人の心に忘れえぬ傷を残した原爆のメタファーだし、鬼太郎では戦争をモチーフとしたエピソード「妖花」(TV第6期では「妖花の記憶」のタイトル)がよく知られている。
水木しげるが、自らの体験をもとにした戦争漫画を数多く残しているのは言わずもがなだ。
共に来年が70周年という節目の年に、戦後世代によってリブートされたゴジラと鬼太郎が、戦争へと突っ走った日本への批評的視点という共通項を持って作られたのも縁を感じる。
神木隆之介が演じた「ゴジラ -1.0」の主人公は、特攻隊くずれである。
彼は特攻から逃げ、さらに不時着した大戸島でゴジラを撃てなかったことで、仲間を見殺しにしてしまい、深い贖罪の念に苛まれている。
一方、水木しげるは兵士としてニューブリテン島に送られるが、彼のいた分遣隊は敵の奇襲攻撃を受けて全滅。
水木しげるは数十人いた分遣隊たった一人の生き残りで、その後マラリアにかかって療養中に爆撃にあい、左手を切断する。
彼の無事を知った上官の第一声は「なぜ生きて戻った」だったと言う。
本作の主人公である“水木“も、二度の玉砕突撃を生き残ったという設定で、水木しげる本人の分身であることは間違いない。
二本の映画の主人公は、その背負っているものが重なるのである。
水木しげるが内地への復員時に乗ったのが、「ゴジラ -1.0」のわだつみ作戦の旗艦となる駆逐艦雪風なのも不思議な偶然だ。
かように、その成り立ちを含めて共通項の多い両作だが、明確な違いもある。
「ゴジラ -1.0」の舞台は、戦後間もない昭和22年。
復興はおろか、海外に展開していた日本軍や民間人の帰還も途上で、全てが混沌としていた時代に、戦争がゴジラの姿となって追いかけて来る。
そしてゴジラが銀座から永田町へ向けて放った、核爆弾に匹敵する威力を持つ放射熱線によって、戦争に責任のある勢力を根こそぎ葬ってしまうのである。
戦後すぐの時点で既存の権力構造が全てなくなり、生き残った民間人だけで新たな日本を再建するという別の世界線を作り出しているのが「ゴジラ -1.0」なのだ。
一方、「鬼太郎誕生」の舞台は昭和31年。
昭和27年のサンフランシスコ講和条約で日本は独立を回復し、この年の経済白書で政府は「もはや戦後ではない」と宣言した。
高度成長期へ向けたイケイケの時代の始まりであり、サラリーマンの水木も成り上がる気満々。
ゴジラが物語の力で理想化された“if”の戦後日本を作り上げたとすると、こちらは戦争を起こした澱んだ力が、復興の華やかさの地下に蠢いている世界観である。
その力の正体が、戦争を支えた龍賀一族に象徴される人間の欲望だ。
龍賀一族は、戦前から龍賀製薬を通して“M“と呼ばれる特殊な血液製剤を軍に供給していて、これは人間の肉体や精神を大幅に強化するある種の麻薬。
水木の勤める帝国血液銀行もMの製法を知りたがっていて、彼を哭倉村へと送り込む。
しかし、そこで水木が見たのは、欲望の果てに堕ちた人間たちの、あまりにも悍ましい秘密なのである。
鬼太郎の世界には、人間とは別に幽霊族という種族が存在している。
幽霊族は人類よりもずっと以前に地球を支配した先住民だが、穏やかな気質だったために後から出現した人類に追いやられて地下に暮らすようになり、たまに地上に出て彷徨う姿から、幽霊族と呼ばれるようになった。
鬼太郎や目玉のオヤジは、徐々に数を減らしていった幽霊族の最後の生き残りなのである。
幽霊族の肉体は強靭で、さまざまな超能力を持つ。
そこに着目した龍賀一族は幽霊族を捕まえ、その血からMを精製して売り捌いているのだ。
血を抜かれても、幽霊族はすぐには死なず、やがてその魂は深い怨念を抱いた妖怪・狂骨となるが、どんどん巨大化する狂骨を封印しているのが湖の孤島。
ゲゲ太郎は、行方不明の妻が龍賀一族に囚われていると睨み、探しにやって来たのである。
龍賀一族はMの販売で巨利を得るだけでは飽き足らず、ここで書くことも憚られる悍ましい行為に手を染め、その結果として人ですらなくなりつつある。
水木とゲゲ太郎の前に立ちはだかる最大の怪異が、人間の欲望が作り出したものだというのは非常に象徴的だ。
物語の軸となるのは、村の生活に嫌気がさし、東京へ逃げたいと願う龍賀一族の令嬢・沙代と、彼女を利用しようとする水木の物語で、そこに妻を探す鬼太郎親父の物語が絡み、おどろおどろしい村の妖怪伝説の真実、龍賀一族の謎へと収束する構造。
水木の物語には、「総員玉砕せよ!」をはじめとした戦争漫画の記憶が内包されていて、このツートラックは別の話でやりたいくらいに濃いのだけど、鬼太郎ビギニングに繋げるためには組み合わせるしかない。
そのために、キャラクターの感情の動きが、かなり急ぎ足になっている部分もあり、そこはちょっと勿体無い。
龍賀一族の中で、かろうじて感情移入キャラクターだった年若い沙代と時弥が消し去られると、人間の欲望を一身に集約させた様なボスキャラが、もはや怪獣化した狂骨を操り襲いかかる。
本作は怪異との対決をスペクタクルなアクションとして成立させながら、「ゴジラ -1.0」とはまた別の視点で、戦争に突っ走り戦後もその芽を残す日本の総括を試みる。
欲望という名の怪物に取り憑かれた人間は、自らを滅ぼすまで肥大して行くが、虐げられた幽霊族にとって滅びの中の希望となるのは愛の結晶としての鬼太郎誕生なのだ。
しかし、半分欲望に染まっていた水木にとっては、それは同時に呪いでもあるという非常にシニカルかつよく考えられたソリューションだ。
戦争と深く結びついた桜のイメージを、クライマックスで使って来たのもお見事だった。
本作はあくまでも前日譚なので、鬼太郎自身は物語の括弧としてプロローグとエピローグに登場するに止まる。
TVシリーズは観ていなくても問題ないが、出来れば「墓場の鬼太郎」は読んでおいた方が味わい深く楽しめるだろう。
今回は鬼太郎コラボ酒、稲田本店の「純米酒 ゲゲゲの鬼太郎」をチョイス。
水木しげるが育った鳥取県境港市は、現在では鬼太郎たちの銅像が並ぶ水木しげるロードでも知られている。
稲田本店は同じ弓ヶ浜半島の米子市で、330年の歴史を持つ老舗酒蔵だ。
これは看板銘柄である稲田姫のバリエーションで、クセのない爽やかな香りと、五百万石らしいスッキリとした味わいのザ・日本酒。
これからの季節は海の幸と共に、ぬる燗でいただきたい。

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2023年11月23日 (木) | 編集 |
バカものどもの青春。
何これムッチャ面白い。
品川ヒロシ監督の映画って、いまいち突き抜けない印象だったが、コレは大化けした。
本作の主人公は、原作者の井口達也自身。
つまり実録物なのだがは彼は品川ヒロシの友人で、小説と映画「ドロップ」にも準主役で登場している。
昔の不良仲間の実体験が、映画のベースとなっているのは珍しい。
まあ実際に彼らが10代だったのは80年代のことだから、ノスタルジー方向に仕上げる手もあったと思うがそっちには行かない。
色々現代に合わせて脚色しつつ、“今”を描く青春ストーリーになっている。
「窓辺にて」の玉城ティナのヤンキー彼氏がインパクト大だった倉悠貴が主人公を演じ、醍醐虎汰朗、水上恒司らフレッシュな顔ぶれが揃った。
少年院上がりの保護観察中で、ケンカを封じられた超不良と言う設定からして、既に捻りがあって面白い。
“狛江の狂犬”なる異名をとった達也が、少年院を出所後に身を寄せるのが千葉にある叔父夫婦の焼肉店「三塁」だ。
保護観察中は地元のワル仲間と連絡を取ったり、バイクに乗ったりすることは御法度なためだ。
だがどこにいたって、類は友を呼ぶ。
早速地元の不良と揉めた末に、相撲(あくまでも喧嘩じゃない)をとり勝利。
不良漫画の常で戦った後は意気投合し、それが暴走族・斬人の副総長の安倍要だったことから、斬人と繋がりが出来て、敵対する爆羅漢(バクラカン)との抗争に巻き込まれるというワケ。
関係ないけど斬人のメンバー、年齢不詳に老けてるけど、こいつら17歳設定なのね(笑
達也はもし喧嘩がバレたら、死ぬほど居心地の悪い少年院に逆戻りなので、それだけは避けたく、ゆえに喧嘩は出来ない。
また杉本哲太と渡辺満里奈演じる叔父夫婦がやたらといい人たちで、叔父は達也に「お前はバカだが、クズじゃねえ」と言う。
ぶっきらぼうだが仕事にはストイックな叔父、やたらと親切で褒められるとすぐにMTKG(明太卵かけご飯)をサービスしてしまう叔母の生き方は達也にも響き、少しずつ変わってゆく。
社会からOUTを宣告された自分を受け入れてくれた家族に仲間、守るべきものを見つけた主人公の成長物語としてもよく出来ている。
まあ、最後まで喧嘩しないまんまだと不良映画にならないので、クライマックスまでは達也以外がアクションを担当し、爆羅漢のクズっぷりをたっぷりと強調し、「これなら仕方がないよね」と言う状況を作り上げてから満を持して主人公投入。
アクションもキャラごとに個性があって、優男対決のボスキャラ戦は華麗に関節技を狙い合うのに対し、達也が担当する中ボス戦はどこまでも泥臭くと上手く差別化され、リズミカルな殺陣もかなりハイレベル。
ところで斬人のボスの醍醐虎汰朗は金髪ロン毛の細面で、「東京リベンジャーズ」のマイキーくんとキャラがかぶる。
不良キャラにも、流行り廃りがあるのだろうか。
漫画原作を生かしたカッコいいトランジションに、ズバズバとハマる伏線と、アクション以外にも見どころは多い。
そして本作の最大の魅力は、漫画チックなキャラクターの対抗による、掛け合いの面白さ。
ボーリング場でのトークバトルとか、大爆笑もの。
品川ヒロシが脚本も兼務しているが、この辺りのセンスはさすがだ。
エンドクレジット後にも映像あるし、シリーズ化を期待したい。
今回は叔母ちゃんのMTKGがもの凄く美味そうだったので、これに合わせて岡山県倉敷の菊池酒造株式会社の「燦然 山廃純米 雄町」をチョイス。
ふくよかに立つ雄町の香りが、魚卵との相性抜群。
それでいて口当たりは軽やかで、飲みやすい。
冷酒でも美味しいがTKGと合わせるのなら、ぬる燗にした方がマッチングがベターだろう。

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2023年11月16日 (木) | 編集 |
命の水が出来るまで。
嫌々ながらクラフトウィスキーの記事を書くことになった、ウェブニュースのボンクラ記者と、幻のウィスキーの復活に挑む蒸留所の若き女性経営者の物語。
「SHIROBAKO」シリーズなどのP.A.WORKSがアニメーション制作を担当し、同社所属の吉原正行が劇場用長編監督デビューを飾った。
ストーリーテラーとなるのは、25歳にして転職5回、何をやっても長続きしない高橋光太郎(V.C. 小野賢章)で、得意ジャンルの無い山岡士郎みたいな、やる気のないキャラクターだ。
怠惰に生きてきた光太郎が、全く未知の世界であるウィスキー作りの現場をルポし、記事を書くことなるのだが、相手先の社名を間違えるは、準備不足でまともに質問もできないは、当初は散々やらかす。
だが徐々に、取材対象である駒田蒸溜所の社長・駒田琉生(V.C. 早見早織) に感化され、仕事をする意味を見出してゆく。
二人が一見対照的で、でも奥底には似た部分があるのがいい。
駒田蒸留所は長野県某所にあり、もともとは原酒からウィスキーを蒸留していてのだが、長野県北部地震で深刻な被害を受けて蒸留が出来なくなり、琉生の父である先代社長も他界。
琉生が大学を中退し、残された原酒からブレンドしたクラフトウィスキーを作り、ヒットさせたという設定。
資金をかき集めて蒸留を再開したものの、ウィスキーの原酒には長い熟成期間が必要で、かつての人気銘柄だった「独楽(KOMA)」復活までは前途多難。
琉生は才能あるブレンダーであり、情熱的な経営者ではあるものの、本人は内面に様々な葛藤を抱えている。
当初は光太郎にとってメンターとなる琉生だが、徐々に相互に影響しあう関係となり、彼女にとっては今までの仕事の意義を再確認する物語となっている。
光太郎が覚醒するのがちょっと唐突な気はするが、なんらかの切っ掛けでやる気スイッチが入っちゃって、突然有能になる人って実際いるから、まあOK。
なんとなく見たことある蒸留所がいっぱい出てきて、酒好きには映像で見るちょっとした聖地巡礼の気分も味わえる。
光太郎がど素人設定なので、ウィスキーとはなんぞや?ハイボールのもと?というレベルの人にとっても入門編としても親切な作りになっている。
アニメーションも、スクリーンサイズに十分に耐えるよう、丁寧に作られている。
題材が題材だけに、流体表現には特に力が入っていて、ファーストカットのオン・ザ・ロックは渾身の仕上がりだった。
P.A.WORKSの名アニメーター、川面恒介によるキャラクターデザインも今風の雰囲気で、本作では主題歌も歌っている早見沙織の声質が、琉生のキャラクターにとても合っていて心地よい。
現在ではジャパニーズウィスキーは各国で引っ張りだことなり、多くの銘柄が値上がりし過ぎて気楽に味わえなくなってしまった物も多いが、架空の銘柄だと分かっていても、「独楽(KOMA)」を飲んでみたくなるのだから、成功していると言えるだろう。
基本は家族の物語で、亡き父からの想いを娘の琉生、訳ありで疎遠の兄、そして母が受け継ぎ、心を一つにして、やっと幻のウィスキーが復活できるという日本の家族経営の中小企業の人情噺を、仕事に目覚めた光太郎の視点で描く。
ジャパニーズウィスキーの熱き魂を、丁寧に綴って素直に気持ちのいい物語になっている。
何気にエンドクレジットで、ずらずらと無数のクラフトウィスキー銘柄が並んでいて驚いた。
徹底的なリサーチも、完成した作品から透けて見える。
ジャンルは違えど同じもの作りをする人たちへの、作り手のリスペクトを感じさせる秀作だ。
今回は本作と提携している富山県の三郎丸蒸留所の「玉兎 2022エディション」をチョイス。
三郎丸蒸留所モルトをキーモルトに、多彩な樽で熟成された原酒をブレンドし、年毎に異なるテーマで作られる。
ブレンデッドウィスキーらしい華やかな香りと、まろやかなコクが楽しめる一本。
CPが高いのも嬉しいところ。
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嫌々ながらクラフトウィスキーの記事を書くことになった、ウェブニュースのボンクラ記者と、幻のウィスキーの復活に挑む蒸留所の若き女性経営者の物語。
「SHIROBAKO」シリーズなどのP.A.WORKSがアニメーション制作を担当し、同社所属の吉原正行が劇場用長編監督デビューを飾った。
ストーリーテラーとなるのは、25歳にして転職5回、何をやっても長続きしない高橋光太郎(V.C. 小野賢章)で、得意ジャンルの無い山岡士郎みたいな、やる気のないキャラクターだ。
怠惰に生きてきた光太郎が、全く未知の世界であるウィスキー作りの現場をルポし、記事を書くことなるのだが、相手先の社名を間違えるは、準備不足でまともに質問もできないは、当初は散々やらかす。
だが徐々に、取材対象である駒田蒸溜所の社長・駒田琉生(V.C. 早見早織) に感化され、仕事をする意味を見出してゆく。
二人が一見対照的で、でも奥底には似た部分があるのがいい。
駒田蒸留所は長野県某所にあり、もともとは原酒からウィスキーを蒸留していてのだが、長野県北部地震で深刻な被害を受けて蒸留が出来なくなり、琉生の父である先代社長も他界。
琉生が大学を中退し、残された原酒からブレンドしたクラフトウィスキーを作り、ヒットさせたという設定。
資金をかき集めて蒸留を再開したものの、ウィスキーの原酒には長い熟成期間が必要で、かつての人気銘柄だった「独楽(KOMA)」復活までは前途多難。
琉生は才能あるブレンダーであり、情熱的な経営者ではあるものの、本人は内面に様々な葛藤を抱えている。
当初は光太郎にとってメンターとなる琉生だが、徐々に相互に影響しあう関係となり、彼女にとっては今までの仕事の意義を再確認する物語となっている。
光太郎が覚醒するのがちょっと唐突な気はするが、なんらかの切っ掛けでやる気スイッチが入っちゃって、突然有能になる人って実際いるから、まあOK。
なんとなく見たことある蒸留所がいっぱい出てきて、酒好きには映像で見るちょっとした聖地巡礼の気分も味わえる。
光太郎がど素人設定なので、ウィスキーとはなんぞや?ハイボールのもと?というレベルの人にとっても入門編としても親切な作りになっている。
アニメーションも、スクリーンサイズに十分に耐えるよう、丁寧に作られている。
題材が題材だけに、流体表現には特に力が入っていて、ファーストカットのオン・ザ・ロックは渾身の仕上がりだった。
P.A.WORKSの名アニメーター、川面恒介によるキャラクターデザインも今風の雰囲気で、本作では主題歌も歌っている早見沙織の声質が、琉生のキャラクターにとても合っていて心地よい。
現在ではジャパニーズウィスキーは各国で引っ張りだことなり、多くの銘柄が値上がりし過ぎて気楽に味わえなくなってしまった物も多いが、架空の銘柄だと分かっていても、「独楽(KOMA)」を飲んでみたくなるのだから、成功していると言えるだろう。
基本は家族の物語で、亡き父からの想いを娘の琉生、訳ありで疎遠の兄、そして母が受け継ぎ、心を一つにして、やっと幻のウィスキーが復活できるという日本の家族経営の中小企業の人情噺を、仕事に目覚めた光太郎の視点で描く。
ジャパニーズウィスキーの熱き魂を、丁寧に綴って素直に気持ちのいい物語になっている。
何気にエンドクレジットで、ずらずらと無数のクラフトウィスキー銘柄が並んでいて驚いた。
徹底的なリサーチも、完成した作品から透けて見える。
ジャンルは違えど同じもの作りをする人たちへの、作り手のリスペクトを感じさせる秀作だ。
今回は本作と提携している富山県の三郎丸蒸留所の「玉兎 2022エディション」をチョイス。
三郎丸蒸留所モルトをキーモルトに、多彩な樽で熟成された原酒をブレンドし、年毎に異なるテーマで作られる。
ブレンデッドウィスキーらしい華やかな香りと、まろやかなコクが楽しめる一本。
CPが高いのも嬉しいところ。

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2023年11月13日 (月) | 編集 |
普通ってなんだろう?
寺山修司原作の傑作「あゝ、荒野」の監督・岸善幸と脚本・港岳彦が再タッグを組み、朝井リョウの同名ベストセラー小説を映画化した作品。
頑なに常識に囚われた父親、不登校の小学生YouTuber、男性恐怖症の大学生、そして人には理解されない不思議な性的指向を抱えた三人の若者たち。
様々な“壁”によって分断されれた人々の物語は、一見無関係に展開し、やがてある事件をきっかけにして、一つのストーリーラインへと収束する。
激変してゆく世の中に、戸惑いを隠せない検事の寺井啓喜を稲垣吾郎が演じ、人には言えない性的指向を持つがゆえに、生き辛さを感じている地方在住の女性、桐生夏月を新垣結衣が演じる。
最近、なんだかおかしな方向で語られることの多い、“多様性”というモチーフを新たな切り口で描いた物語で、誰にとっても非常に示唆に富む作品となっている。
いわゆる、“時代に呼ばれた映画”だと思う。
検事の寺井啓喜(稲垣吾郎)は不登校の小学生の息子・泰希(潤浩)がYouTuberになりたいと言うのを聞いて、戸惑いを隠せない。
反対はしたものの、泰希は妻の由美(山田真歩)の後押しやNPOの助けを借りて配信を初め、徐々に人気者になってゆく。
岡山に住む桐生夏月(新垣結衣)は、中学の頃の同級生だった佐々木佳道(磯村優斗)が帰郷したという噂を聞く。
夏月は「水」に対してしか性欲を覚えないが、このことを誰にも話せず、誰とも親密な関係を築けずに孤独な人生を送っている。
そんな彼女にとって、佳道は人生で唯一出会った同じ性的指向を持つ人物だったのだ。
大学生の神戸八重子(東野絢香)は、過去のトラウマから男性恐怖症となり、男性との接触を極力避けてきた。
だがある時、多様性をテーマとしたイベントの企画で、諸橋 (佐藤寛太)というダンサーの男性と知り合い、徐々に惹かれてゆく。
それぞれに葛藤を抱えた人々の日常が過ぎてゆき、ある事件が起こる・・・・
朝井リョウの原作は未読。
私たちが“多様性”という言葉を使う時、もしくは耳にする時、それは人種や宗教、年齢、肉体的・精神的な障害のあるなし、あるいは性的指向など、様々な意味を持つ。
だがしかし、現在語られている多様性は本当に多様なのだろうか?
見えやすい、もしくは自分の想像できる範囲内の多様性になってしまってはいないか。
多様性という言葉とは裏腹に、そこにはある種のマイノリティのステロタイプが出来上がっていて、そこに当てはまらない人たちがが抜け落ちてしまっているのでは?という危うさがある。
本作も予告編を観た時は「LGBTQモチーフか」と思ったが、全くアプローチが違った。
この作品が秀逸なのは、情報も多く、先入観を持つ人も少なくないメジャーなマイノリティ(と言うのも変な話だが)ではなく、ほとんどの人が判断基準すら持たない、マイノリティの中のマイノリティを俎上に上げることで、観客の意識を完全にニュートラルにしてしまったことだ。
人でないものや体の一部などに性的な興奮を覚えるという、フェティシズム自体は古くから知られている。
体の一部や動物などはまだ理解できるような気もするが、本作の夏月、佳道、大也が性欲を感じるのは「水」なのである。
人を愛せず、水を愛するというのは一体どう言うことなのだろうか?
登場人物の心の動きを想像すると未知の世界が開けるようで、失礼ながら宇宙人の心を覗いている感覚で、観てる間ずっとゾワゾウが止まらなかった。
これがもしもう少し具体的な形のある物だとすると、おそらく受け手の感覚も変わってくる。
例えば人形など人に近い形の物だと、嫌悪感から「変態」と言う言葉が頭をよぎる人もいるだろう。
形も色も無い水という性欲の対象が、あまりにも理解出来なさ過ぎて、ただ不思議だという感覚だけが残る。
以前からSNSなどで言ってるが、私は誰もが自由に生きられる世界は、見方によっては誰もが不快な世界だと思う。
人は自分を中心に世界を見ているので、自分にとって分からないこと、理解出来ないことは避けるか拒絶する傾向にある。
同性愛者に対して、障害者に対して、特定の人種に対して、あるいは異性に対して、自分とは違うからと、嫌悪や忌避の感情を抱く人は沢山いる。
稲垣吾郎が演じる寺井啓喜の行動と思考がまさにこれで、成功者としての人生を歩み、自分の価値観が固まってしまっているので、そもそも息子の不登校が理解出来ない。
彼にとっては、学校とはたとえ嫌なことがあったとしても、我慢して行くべきところなのである。
自分の成長過程では存在しなかった、YouTuberはもっと分からない。
訳のわからない動画を配信して、いいねをもらうなど、そのうち消えてしまう虚業にしか思えず、息子は限られた人生を浪費しているようにしか思えないのだ。
映画は、社会のマジョリティを代表する啓喜と、認知されないマイノリティの夏月を天秤の双方の皿に配置し、二人の周りに様々な立場で生き辛さを感じている人たちを配している。
観客は夏月たちに感情移入しつつも、ある意味常識人である啓喜の言っていることも分かる立場で、物語を俯瞰する。
水を愛するという、今までの人生で全く接点のなかった人たちの苦悩を見て、何を感じるか。
とりあえず、夏月たちの性的指向は人畜無害であるが、特殊すぎて他人に打ち明けられず、結果孤独を抱えてしまうのも理解出来る。
私はこの映画を観て“52ヘルツの鯨”の話を思い出した。
海を回遊する鯨は、鳴き声で遠くの仲間ともコミュニケーションをとっているが、過去40年に渡って52ヘルツと言う極めて珍しい周波数の鳴き声をもつ個体が観測されている。
他の鯨とは周波数帯が違うので、この個体は他の誰ともコミュニケーションをとることができず、世界で一番孤独な鯨と呼ばれているのだそう。
人間はその内面にどんな秘密があったとしても、一人ぼっちでただ生きていくことは出来る。
でもそれは、本当に充実した人生と言えるのか。
本作の白眉と言えるのが、偽装結婚した夏月と佳道が、セックスを擬似体験するシーン。
ぎこちなく体位の真似事をした後、佳道が夏月に体重を預け、そっと抱き合う。
初めてお互いの体温を感じた二人は、性欲とは違った、存在を求め合う“正欲”の尊さを実感するのである。
誰にも言えず、孤独に生きて来て、偶然にも理解者を得ることが出来た幸運。
でもそんな人は多くは無く、世間の目は冷たいまま。
映画は、水を愛する人々をモチーフに、人はどこまで“得体の知れない人”を社会の一員として受け入れることができるか?と問う。
いろいろな考え方があるのは承知しているが、個人的には犯罪性があるかどうかと、自分の考え方を他者に押し付けるかどうかだと思う。
劇中でも水フェチだが小児性愛者でもある男(水フェチは子供に近づくための偽装かもしれない)と関わってしまったがために、佳道と大也が大変な目に遭うが、ここで事情聴取に呼ばれた夏月と担当検事の啓喜の対話がクライマックス。
淡々と語る夏月には、深く繋がっている佳道がいるのに対し、啓喜はその傲慢な振る舞いによって、家族に去られている。
彼は存在を認識していなかったマイノリティとの対話で、意識しないうちに自分の常識を周りに押し付けていたことを思い知らされるのである。
そしてこれ以上描くと、この映画が絶対避けるべき”断定”の要素が入ってきてしまう、ギリギリで物語を落とすラストショットのセンスの良さ。
かように、“普通”の定義とは難しく、“多様性”という言葉はとてつもなく奥が深い。
この記事でも、夏月たちを「性的指向」と「性的嗜好」のどちらで表現すべきか悩んだ。
彼女らの場合は、必ずしも性的興奮を伴うとは限らないようなので「性的指向」とした。
作品の世界観を象徴する複雑なキャラクターを、国民的に好感度の高い新垣結衣が演じている意味は、とても重いと思う。
ありそうでなかった視点で、新たな世界を見せてくれる傑作である。
今回は水を愛する人たちの物語なので、「上善如水(じょうぜんみずのごとし)純米吟醸」をチョイス。
新潟県越後湯沢にある白瀧酒造の代表的な銘柄で、「水は全ての存在を潤し、争いごとをせず、誰もが嫌がる低地へとたまる、最上の善である」という老子の言葉が由来。
名前の通り、フルーティーで強いクセがなく、すっきりとした水のように軽やかに飲めるので、つけ合わせる酒の肴を選ばない。
吟醸酒特有の香りも抑え目なので、日本酒を飲み慣れてない人のための入門酒としても適している。
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寺山修司原作の傑作「あゝ、荒野」の監督・岸善幸と脚本・港岳彦が再タッグを組み、朝井リョウの同名ベストセラー小説を映画化した作品。
頑なに常識に囚われた父親、不登校の小学生YouTuber、男性恐怖症の大学生、そして人には理解されない不思議な性的指向を抱えた三人の若者たち。
様々な“壁”によって分断されれた人々の物語は、一見無関係に展開し、やがてある事件をきっかけにして、一つのストーリーラインへと収束する。
激変してゆく世の中に、戸惑いを隠せない検事の寺井啓喜を稲垣吾郎が演じ、人には言えない性的指向を持つがゆえに、生き辛さを感じている地方在住の女性、桐生夏月を新垣結衣が演じる。
最近、なんだかおかしな方向で語られることの多い、“多様性”というモチーフを新たな切り口で描いた物語で、誰にとっても非常に示唆に富む作品となっている。
いわゆる、“時代に呼ばれた映画”だと思う。
検事の寺井啓喜(稲垣吾郎)は不登校の小学生の息子・泰希(潤浩)がYouTuberになりたいと言うのを聞いて、戸惑いを隠せない。
反対はしたものの、泰希は妻の由美(山田真歩)の後押しやNPOの助けを借りて配信を初め、徐々に人気者になってゆく。
岡山に住む桐生夏月(新垣結衣)は、中学の頃の同級生だった佐々木佳道(磯村優斗)が帰郷したという噂を聞く。
夏月は「水」に対してしか性欲を覚えないが、このことを誰にも話せず、誰とも親密な関係を築けずに孤独な人生を送っている。
そんな彼女にとって、佳道は人生で唯一出会った同じ性的指向を持つ人物だったのだ。
大学生の神戸八重子(東野絢香)は、過去のトラウマから男性恐怖症となり、男性との接触を極力避けてきた。
だがある時、多様性をテーマとしたイベントの企画で、諸橋 (佐藤寛太)というダンサーの男性と知り合い、徐々に惹かれてゆく。
それぞれに葛藤を抱えた人々の日常が過ぎてゆき、ある事件が起こる・・・・
朝井リョウの原作は未読。
私たちが“多様性”という言葉を使う時、もしくは耳にする時、それは人種や宗教、年齢、肉体的・精神的な障害のあるなし、あるいは性的指向など、様々な意味を持つ。
だがしかし、現在語られている多様性は本当に多様なのだろうか?
見えやすい、もしくは自分の想像できる範囲内の多様性になってしまってはいないか。
多様性という言葉とは裏腹に、そこにはある種のマイノリティのステロタイプが出来上がっていて、そこに当てはまらない人たちがが抜け落ちてしまっているのでは?という危うさがある。
本作も予告編を観た時は「LGBTQモチーフか」と思ったが、全くアプローチが違った。
この作品が秀逸なのは、情報も多く、先入観を持つ人も少なくないメジャーなマイノリティ(と言うのも変な話だが)ではなく、ほとんどの人が判断基準すら持たない、マイノリティの中のマイノリティを俎上に上げることで、観客の意識を完全にニュートラルにしてしまったことだ。
人でないものや体の一部などに性的な興奮を覚えるという、フェティシズム自体は古くから知られている。
体の一部や動物などはまだ理解できるような気もするが、本作の夏月、佳道、大也が性欲を感じるのは「水」なのである。
人を愛せず、水を愛するというのは一体どう言うことなのだろうか?
登場人物の心の動きを想像すると未知の世界が開けるようで、失礼ながら宇宙人の心を覗いている感覚で、観てる間ずっとゾワゾウが止まらなかった。
これがもしもう少し具体的な形のある物だとすると、おそらく受け手の感覚も変わってくる。
例えば人形など人に近い形の物だと、嫌悪感から「変態」と言う言葉が頭をよぎる人もいるだろう。
形も色も無い水という性欲の対象が、あまりにも理解出来なさ過ぎて、ただ不思議だという感覚だけが残る。
以前からSNSなどで言ってるが、私は誰もが自由に生きられる世界は、見方によっては誰もが不快な世界だと思う。
人は自分を中心に世界を見ているので、自分にとって分からないこと、理解出来ないことは避けるか拒絶する傾向にある。
同性愛者に対して、障害者に対して、特定の人種に対して、あるいは異性に対して、自分とは違うからと、嫌悪や忌避の感情を抱く人は沢山いる。
稲垣吾郎が演じる寺井啓喜の行動と思考がまさにこれで、成功者としての人生を歩み、自分の価値観が固まってしまっているので、そもそも息子の不登校が理解出来ない。
彼にとっては、学校とはたとえ嫌なことがあったとしても、我慢して行くべきところなのである。
自分の成長過程では存在しなかった、YouTuberはもっと分からない。
訳のわからない動画を配信して、いいねをもらうなど、そのうち消えてしまう虚業にしか思えず、息子は限られた人生を浪費しているようにしか思えないのだ。
映画は、社会のマジョリティを代表する啓喜と、認知されないマイノリティの夏月を天秤の双方の皿に配置し、二人の周りに様々な立場で生き辛さを感じている人たちを配している。
観客は夏月たちに感情移入しつつも、ある意味常識人である啓喜の言っていることも分かる立場で、物語を俯瞰する。
水を愛するという、今までの人生で全く接点のなかった人たちの苦悩を見て、何を感じるか。
とりあえず、夏月たちの性的指向は人畜無害であるが、特殊すぎて他人に打ち明けられず、結果孤独を抱えてしまうのも理解出来る。
私はこの映画を観て“52ヘルツの鯨”の話を思い出した。
海を回遊する鯨は、鳴き声で遠くの仲間ともコミュニケーションをとっているが、過去40年に渡って52ヘルツと言う極めて珍しい周波数の鳴き声をもつ個体が観測されている。
他の鯨とは周波数帯が違うので、この個体は他の誰ともコミュニケーションをとることができず、世界で一番孤独な鯨と呼ばれているのだそう。
人間はその内面にどんな秘密があったとしても、一人ぼっちでただ生きていくことは出来る。
でもそれは、本当に充実した人生と言えるのか。
本作の白眉と言えるのが、偽装結婚した夏月と佳道が、セックスを擬似体験するシーン。
ぎこちなく体位の真似事をした後、佳道が夏月に体重を預け、そっと抱き合う。
初めてお互いの体温を感じた二人は、性欲とは違った、存在を求め合う“正欲”の尊さを実感するのである。
誰にも言えず、孤独に生きて来て、偶然にも理解者を得ることが出来た幸運。
でもそんな人は多くは無く、世間の目は冷たいまま。
映画は、水を愛する人々をモチーフに、人はどこまで“得体の知れない人”を社会の一員として受け入れることができるか?と問う。
いろいろな考え方があるのは承知しているが、個人的には犯罪性があるかどうかと、自分の考え方を他者に押し付けるかどうかだと思う。
劇中でも水フェチだが小児性愛者でもある男(水フェチは子供に近づくための偽装かもしれない)と関わってしまったがために、佳道と大也が大変な目に遭うが、ここで事情聴取に呼ばれた夏月と担当検事の啓喜の対話がクライマックス。
淡々と語る夏月には、深く繋がっている佳道がいるのに対し、啓喜はその傲慢な振る舞いによって、家族に去られている。
彼は存在を認識していなかったマイノリティとの対話で、意識しないうちに自分の常識を周りに押し付けていたことを思い知らされるのである。
そしてこれ以上描くと、この映画が絶対避けるべき”断定”の要素が入ってきてしまう、ギリギリで物語を落とすラストショットのセンスの良さ。
かように、“普通”の定義とは難しく、“多様性”という言葉はとてつもなく奥が深い。
この記事でも、夏月たちを「性的指向」と「性的嗜好」のどちらで表現すべきか悩んだ。
彼女らの場合は、必ずしも性的興奮を伴うとは限らないようなので「性的指向」とした。
作品の世界観を象徴する複雑なキャラクターを、国民的に好感度の高い新垣結衣が演じている意味は、とても重いと思う。
ありそうでなかった視点で、新たな世界を見せてくれる傑作である。
今回は水を愛する人たちの物語なので、「上善如水(じょうぜんみずのごとし)純米吟醸」をチョイス。
新潟県越後湯沢にある白瀧酒造の代表的な銘柄で、「水は全ての存在を潤し、争いごとをせず、誰もが嫌がる低地へとたまる、最上の善である」という老子の言葉が由来。
名前の通り、フルーティーで強いクセがなく、すっきりとした水のように軽やかに飲めるので、つけ合わせる酒の肴を選ばない。
吟醸酒特有の香りも抑え目なので、日本酒を飲み慣れてない人のための入門酒としても適している。

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2023年11月09日 (木) | 編集 |
家族って、めんどくさいけど愛おしい。
相模原障害者施設殺傷事件をモチーフにした衝撃作、「月」が記憶に新しい石井裕也監督が、オリジナル脚本で描くファミリームービー。
初タッグとなる松岡茉優と窪田正孝という実力者を主役に迎え、ちょっと壊れつつも愛にみちた家族の姿をコミカルに綴った。
主人公の折村花子は、初の長編映画の撮影を控えている駆け出しの映画監督。
映画の内容を詰める忙しい毎日の中、ひょんなことから鼻血の染みたアベノマスクをつけた不思議な青年、舘正夫と出会い意気投合。
しかし人生上り調子だったはずが、プロデューサーと助監督の裏切りにあい、長年の夢だった「家族の映画」から自分だけ外されてしまう。
諦めきれない花子は、なぜか正夫を唯一のスタッフに、長年疎遠だった実家でホンモノの家族を撮り始める。
家族という存在が物語のベースにあるのは同じだが、絶望を描く「月」とは対になるようなビター&ハッピーな作品。
崖っぷち映画監督の松岡茉優が、なんとなく東京を彷徨う空気の読めない窪田正孝と出会い、沸々と湧き上がる怒りのパワーを、自分の家族にぶつけて自主映画を撮る。
実家に集うのは、佐藤浩市の父と、BMWを乗り回す池松壮亮のオラオラ系長男、カソリック神父をしている若葉竜也の次男という濃い面々。
時にクセの強さでゲップが出そうになる石井裕也作品の登場人物だが、ここまで全員クセの塊だとかえって見やすい。
家族以外にも、やたらと“業界の常識”を振りかざす三浦貴大の助監督なんて、この人物自身が「こんな奴いねー」的な極端なキャラなんだけど、戯画的な面白さはピカイチだ。
いやーこれは、作者の実体験入ってそうだな。
この映画観て「これ俺じゃね?」ってゾワゾワしている人いるのでは(笑
そもそも花子は、なぜ家族の映画を撮りたいのか。
一家の母親は、ずっと以前に家を出てゆきそれっきり。
父親とはずっと連絡をとっておらず、兄弟同士も疎遠。
実際の家族関係にはあまり恵まれていない花子が、家族の映画を作ろうとする訳は、幼い頃のぼんやりとした思い出にしかいない母親の、本当の気持ちを確かめたいのかも知れない。
まだ長編映画を撮ってないのに、ウイキペディアにページがあるのも、たぶん母親の目に留まればと自分で作ったから。
分解してしまった家族を認めたくなくて、フィクションの映画にすることでケリをつけようとしたのだが、図らずもホンモノの家族で半ドキュメンタリー的に映画を撮り始めたことから、くすぶっていた本音のぶつかり合うところとなる。
しかし末娘の妹キャラは、どんなに口が悪くても、親父や兄貴にとっては本音では可愛くてしょうがないのだ。
怒りにまかせて豪速球で想いを投げても、ブツクサ言いながらもそれを受け止めてくれるのは家族だから。
母親の気持ちが分からなかったとしても、彼女はずっと家族に見守られてきたのである。
怒って笑って泣いて、採取的には大いなる愛に着地する。
アフターコロナの時代感も上手く生かされ、怒りをモチベーションにする者、達観するもの、変えようとする者、包み込む者、それぞれの立場から家族という存在が立体的に浮かび上がる。
なかなかに味わい深い、「家族の映画」である。
本作はどこが舞台なのか定かでないのだが、益岡徹が経営している美味しそうな海鮮料理の店が出てくるので、海の幸にぴったりの日本酒「酔鯨 純米大吟醸 山田錦」をチョイス。
銘柄は自ら「鯨海酔侯」と名乗った幕末の土佐藩主、山内豊信に因んだもの。
フルーティな吟醸香も爽やかで、すっきりした味わいは、脂の乗ったお刺身などと楽しみたい。
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相模原障害者施設殺傷事件をモチーフにした衝撃作、「月」が記憶に新しい石井裕也監督が、オリジナル脚本で描くファミリームービー。
初タッグとなる松岡茉優と窪田正孝という実力者を主役に迎え、ちょっと壊れつつも愛にみちた家族の姿をコミカルに綴った。
主人公の折村花子は、初の長編映画の撮影を控えている駆け出しの映画監督。
映画の内容を詰める忙しい毎日の中、ひょんなことから鼻血の染みたアベノマスクをつけた不思議な青年、舘正夫と出会い意気投合。
しかし人生上り調子だったはずが、プロデューサーと助監督の裏切りにあい、長年の夢だった「家族の映画」から自分だけ外されてしまう。
諦めきれない花子は、なぜか正夫を唯一のスタッフに、長年疎遠だった実家でホンモノの家族を撮り始める。
家族という存在が物語のベースにあるのは同じだが、絶望を描く「月」とは対になるようなビター&ハッピーな作品。
崖っぷち映画監督の松岡茉優が、なんとなく東京を彷徨う空気の読めない窪田正孝と出会い、沸々と湧き上がる怒りのパワーを、自分の家族にぶつけて自主映画を撮る。
実家に集うのは、佐藤浩市の父と、BMWを乗り回す池松壮亮のオラオラ系長男、カソリック神父をしている若葉竜也の次男という濃い面々。
時にクセの強さでゲップが出そうになる石井裕也作品の登場人物だが、ここまで全員クセの塊だとかえって見やすい。
家族以外にも、やたらと“業界の常識”を振りかざす三浦貴大の助監督なんて、この人物自身が「こんな奴いねー」的な極端なキャラなんだけど、戯画的な面白さはピカイチだ。
いやーこれは、作者の実体験入ってそうだな。
この映画観て「これ俺じゃね?」ってゾワゾワしている人いるのでは(笑
そもそも花子は、なぜ家族の映画を撮りたいのか。
一家の母親は、ずっと以前に家を出てゆきそれっきり。
父親とはずっと連絡をとっておらず、兄弟同士も疎遠。
実際の家族関係にはあまり恵まれていない花子が、家族の映画を作ろうとする訳は、幼い頃のぼんやりとした思い出にしかいない母親の、本当の気持ちを確かめたいのかも知れない。
まだ長編映画を撮ってないのに、ウイキペディアにページがあるのも、たぶん母親の目に留まればと自分で作ったから。
分解してしまった家族を認めたくなくて、フィクションの映画にすることでケリをつけようとしたのだが、図らずもホンモノの家族で半ドキュメンタリー的に映画を撮り始めたことから、くすぶっていた本音のぶつかり合うところとなる。
しかし末娘の妹キャラは、どんなに口が悪くても、親父や兄貴にとっては本音では可愛くてしょうがないのだ。
怒りにまかせて豪速球で想いを投げても、ブツクサ言いながらもそれを受け止めてくれるのは家族だから。
母親の気持ちが分からなかったとしても、彼女はずっと家族に見守られてきたのである。
怒って笑って泣いて、採取的には大いなる愛に着地する。
アフターコロナの時代感も上手く生かされ、怒りをモチベーションにする者、達観するもの、変えようとする者、包み込む者、それぞれの立場から家族という存在が立体的に浮かび上がる。
なかなかに味わい深い、「家族の映画」である。
本作はどこが舞台なのか定かでないのだが、益岡徹が経営している美味しそうな海鮮料理の店が出てくるので、海の幸にぴったりの日本酒「酔鯨 純米大吟醸 山田錦」をチョイス。
銘柄は自ら「鯨海酔侯」と名乗った幕末の土佐藩主、山内豊信に因んだもの。
フルーティな吟醸香も爽やかで、すっきりした味わいは、脂の乗ったお刺身などと楽しみたい。

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2023年11月04日 (土) | 編集 |
戦争は、ゆるしてくれない。
「シン・ゴジラ」の衝撃から7年。
レジェンダリーのモンスター・ヴァースの諸作品や、遙か未来の世界を舞台としたいわゆる「アニゴジ」三部作、Netflixで配信された「ゴジラ S.P <シンギュラポイント>」を経て、久々に日本で作られれる実写映画。
昭和22年、戦争の惨禍で何もかも失い、疲弊し切った終戦直後の日本に、突如として巨大未確認生物・呉璽羅(ゴジラ)が襲来する。
日本製としては節目の30本目の作品となり、シリーズ70周年の記念作品でもある。
西武園ゆうえんちの「ゴジラ・ザ・ライド 大怪獣頂上決戦」を手がけ、過去にも「ALWAYS 続・三丁目の夕日」の冒頭で、ゴジラを登場させている山崎貴監督が、満を持して本編のメガホンを取った。
主人公の敷島浩一を演じる神木隆之介をはじめ、浜辺美波、安藤さくら、吉岡秀隆ら、過去の山崎作品からキャストが結集。
山田裕貴や佐々木蔵之介も参加し、オールスターキャストの豪華な布陣となった。
人間を噛み砕き踏み潰す、史上最も恐ろしいゴジラであり、新たな歴史を切り開く大傑作だ。
※ラストに触れています。完全ネタバレ注意。
太平洋戦争末期。
特攻隊員の敷島浩一(神木隆之介)は、零戦の不調を理由に大戸島の飛行場に着陸するが、整備兵の橘宗作(青木崇高)に機体に故障は無いと指摘される。
その夜、島民から呉璽羅(ゴジラ)と呼ばれている恐竜のような生物が飛行場を襲撃し、整備隊は橘を残して全滅し、敷島はからくも生き残る。
二年後、復員した敷島はひょんなことから出会った大石典子(浜辺美波)と、空襲で死んだ母親から彼女に託された明子という幼子と暮らしているが生活は苦しく、新生丸という船に乗り組み危険な機雷処理の仕事をしている。
そんな頃、太平洋の海中を謎の巨大生物が移動しているのが探知され、新生丸も駆り出される。
海中から出現した生物を見た敷島は、それがかつて大戸島で遭遇したゴジラが巨大化した姿だと確信する。
重巡高雄の砲撃を物ともせず、強力な熱線によって高雄を撃沈したゴジラは海へと消える。
やがてゴジラは東京に上陸、銀座の街を蹂躙するが、逃げ惑う群衆の中には銀座に働きに出ていた典子の姿もあった・・・・・
前作の「シン・ゴジラ」は、1954年の初代「ゴジラ」以来の、未知の巨大生物が歴史上初めて現れた世界、怪獣という概念すら存在しない世界を描た。
時代設定が1947年と初代よりも前に設定されている本作も、過去にゴジラが存在したことのない完全リブートの世界線だ。
戦後9年という時点で作られた初代「ゴジラ」は、日本人の記憶に深く刻まれた原爆のメタファーで、ケロイド状の皮膚や口から吐く放射能火炎にそのイメージが重なる。
ただ原爆は敵国による攻撃だったので、基本的に日本人は受動的な立場だ。
一方、「シン・ゴジラ」では、2011年に発生した東日本大震災の結果起こった、想定外の原子力災害をゴジラに重ね合わせた。
政権内に視点を置くことで、あの時何が悪かったのか、どうすべきだったのかということを、ある種の後追いシミュレーションとして描いた作品だ。
こちらも、第一義的には自然災害によってもたらされた問題なので、ゴジラはただ歩き回り、攻撃されれば身を守るという、生物として当たり前の行動に終始する。
本作は、初代やシンを含めた過去のどのゴジラ映画ともアプローチが違う。
終戦直後の日本に現れたゴジラは、明確な破壊と殺戮の衝動を持って人間に襲いかかる。
この時代の日本には、敷島のような帰還兵や典子のような空襲のサバイバー、大切な何かを失い、自分の中で戦争が終わってない、終わらせられない人たちが沢山いる。
特に敷島は特攻隊くずれである。
彼は出撃したものの途中で怖くなり、機体不調を偽って大戸島に降り、今度は島に出現したゴジラを撃つことが出来ず、結果島の整備兵たちを見殺しにした。
大きな罪悪感と自戒の念に苛まれ、自分は生きる資格のない人間だと思っている。
実際に特攻隊で生き残った者は、世間から後ろ指をさされ、避世的な生活を送る人も多かったようだ。
彼にとって、深海から現れたゴジラは、永遠に追って来る戦争の呪いであり、絶望の淵にいる自分を、地獄へ突き落とす戦争の悪魔だ。
敷島は自分自身の中にある、戦争そのものとしてのゴジラと戦わなければならないのである。
山崎貴は自作を含む多くの映画的記憶を元に、技術的チャレンジを交えながら、この絶望の怪物の惨禍を描く。
一見してクリストファー・ノーランの「ダンケルク」、スティーヴン・スピルバーグの「JAWS ジョーズ」「ジュラシック・パーク」の影響は明らかだ。
戦後の混乱の中で出会った敷島と典子、明子が疑似家族になってゆくのは「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズで吉岡秀忠が演じた茶川さん親子を思わせる。
また序盤で戦うことを拒否し、結果的に大きな葛藤を抱える敷島の姿は、「エヴァンゲリヲン」シリーズの主人公、碇シンジに重なるのは言うまでもないだろう。
キャラクターの思考の淡白さは、むしろ草食系などと言われる現代人にこそ分かりやすく、感情移入しやすくなっている。
しかし映画は、すでに「ゼロ」の状態の主人公を、さらに「マイナス」へと徹底的に追い込むのである。
小笠原諸島でのゴジラとの再びの遭遇は、ゴジラが海洋生物であることを改めて思い起こさせる海洋パニック。
いわば怪獣サイズのジョーズとの、命がけの追いかけっこだ。
海のシーンがこれほど多いのは予想外で、しかも超絶に出来がいい。
これは「アルキメデスの大戦」で、海戦を描くことで得たノウハウの成果だろう。
「ザ・クリエイター 創造者」のプロモーションで来日した米国版「GODZILLA ゴジラ」の監督、ギャレス・エドワーズは、山崎貴との対談の際に「バジェットは1億ドル(150億円)くらい?」と聞いたそうだが、おそらく実際にはネットでその1/10程度では?
それでいて、普通の日本映画で見られる実写VFXのレベルを遥かに超えている。
見せ方のコンセプトが違うので、単純比較は出来ないが、「シン・ゴジラ」と比べても技術的進化は顕著で、できれば後学のために本作のVFXワークフローを公開してもらいたいものだ。
続く銀座蹂躙のシークエンスは、初代へのオマージュ満載。
列車の襲撃やビルの屋上で取材する報道陣を襲う災難などは、明らかに意識して似せている。
2万トンという体重や体の大きさも初代に近い設定だが、その重量で目の前の地下鉄を踏み抜く描写などもライブ感を高め、大きすぎないが故の巨大生物がどんどん近づいてくる恐怖は、まさに「ゴジラ・ザ・ライド」の進化系だ。
浜辺美波に文字通りの“クリフ・ハンガー”をやらせていたのは驚いたが、映画はプラトニックな関係のまま敷島の心の支えとなっていた典子を直後に奪い去るのだ。
歴代のゴジラ映画でも重要な見せ場となっていた、放射能火炎、あるいは放射熱戦の描写は、おそらくギャレス・エドワーズ版の影響を受けた、尻尾から頭に向かって鰭が順番に発光し、さらに「ガコン、ガコン」と突起が飛び出すカウントダウン方式。
しかも本作の放射熱戦は、ほぼ波動砲のレベルで、命中した場所に小型核爆弾並みの被害をもたらす絶望のカウントダウンなのである。
いくら背を向けても、戦争はゴジラの姿となって追って来て、決してゆるしてはくれない。
典子を失った敷島は、とうとう自分の中の戦争と向き合うことを決める。
この映画の特徴の一つに、ゴジラ対策が徹底的に民間主導ということが挙げられる。
「シン・ゴジラ」でも民間人が活躍する描写はあったが、基本的には政府視点で全体を見下ろす構造。
だが本作では「お上の視点」は全く見えない。
政府もGHQも保身に走って役立たず、庶民は自分の身を自分で守るしかないという視点は、政府を盲信した結果、散々な目に遭った時代の話だからこそ説得力を持つのだが、同時に21世紀の現状に対する辛辣な批判とも感じられるのは皮肉だ。
立案されたゴジラ殲滅作戦も、実在しない秘密兵器の類は一切登場せず、当時の科学的知識と生物学的な常識を使ったリアリティのあるもの。
そして、ここで航空機ファンなら垂涎の瞬間がやって来る。
この時代はまだ自衛隊は発足前で、ゴジラに対抗する兵器は全てGHQから返還された旧日本軍の在庫という設定。
最初に撃沈される重巡高雄をはじめ、雪風や響などの駆逐艦、銀座でゴジラを砲撃する四式中戦車などが登場するが、クライマックスでゴジラをトラップに誘導する敷島の乗機として登場するのが、十八試局地戦闘機「震電」なのである。
機体後部にプロペラを持つエンテ型の先尾翼機のフォルムは文句なしにカッコよく、過去にも「王立宇宙軍 オネアミスの翼」や「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」などのアニメーション作品に類似した機体が出てきたが、実写映画に登場するのはこれが最初だろう。
機体がテイクオフするシークエンスが、丸ごと「王立宇宙軍」へのオマージュになっているのも微笑ましい。
もっとも震電を選んだことで、描写としては困ったことになってしまっている。
敷島は密かに機内に爆弾を仕込み、作戦でゴジラを倒し切れなかった時に、“特攻”しようとしている。
だがこれは死ぬためでなく、生きるための戦いなので、ギリギリで脱出するのだが、震電は後ろにプロペラがあるために、実機ではまずプロペラを爆薬で脱落させ、パイロットが飛び降りるようになっている。
しかし当然これでは機体の向きがぶれてしまうので、映画では「脱出装置」なるものが装備されている設定。
問題はこの時点で射出座席は欧米でも開発段階なことで、敗戦国の民間人が使用できるとは思えない。
仮に使用できたとしても、プロペラが問題になるのは変わらないはずだが、その辺はスルーで敷島はいつの間にか脱出している。
山崎貴はやはりビジュアルの人だけあって、映像的なカッコよさ優先で、割とリアリティラインを低くする傾向がある。
テーマ的には絶対こうでなければならないし、私的には理解できるのだが、ディテールに拘りのある人には引っかかる描写だろう。
同様のことは、敷島が典子と感動的な再会を果たす展開にも言え、ぶっちゃけ「あの爆風の中でどうやって生き残った?あんたターミネーター?」と思わないでもなかった(笑
(※これに関して、首筋に付着していたG細胞の再生能力のためではというご指摘を受け取った。なるほど、そう考えると次回作へのヒントなのか?)
このような点も含めて「ゴジラ -1.0」はかなり好みが分かれる作品なのは間違いなく、おそらく「シン・ゴジラ」と同様に賛否両論(今でこそほぼ名作認定されているが、公開当時は賛否が真っ二つに割れていた)となるだろう。
でもそれこそがゴジラなのだ。
怪獣プロレスのようなライトな扱いの場合を別として、あまりにも強すぎる象徴性を持ってしまったが故に、ゴジラが体現する戦争やキャラクターの描き方へのスタンスなど、受け手の考え方が違うだけで文句はいくらでもつけられるし、私も数多くの減点ポイントのある作品だと思う。
しかし「見たことのない画を存分に見せてくれる」映像的な未見性をはじめ、加点方式で考えてゆくと長所が短所をはるかに凌駕し、天井を突き破ってしまうのだ。
ドラマ的にも全く容赦なく主人公を追い込んでゆく前半と、生死を分ける葛藤の結果、ついに未来へと前を向く後半の変化のドラマは十分に観応えがあった。
まさに2023年の日本映画を代表する“キング・オブ・ムービーズ”であり、山崎貴のキャリアベスト、同時に初代を別格とすれば、現在までに作られた歴代ゴジラ映画のベストである。
山崎貴は「もう一本撮りたい」と言っているようなので、「ゴジラ ZERO」は彼に任せるにしても、「シン・ゴジラ」で平成シリーズを一旦リセット、ここで完全リブートしたことで、シリーズとしては作りやすくなったのではないだろうか。
このままゴジラとの戦いが続いている、パラレルワールドの昭和をやってもいいし、この映画の世界線で現在編をやってもいい。
IPの可能性を広げるという点でも、見事な仕事をやってのけたと思う。
今回は、ストレートに「ゴジラ」をチョイス。
米国でエメリッヒ版の「GODZILLA」公開時に考案された、濃い緑が印象的なカクテル。
氷を入れたロックグラスに、ジン20ml、アップル・リキュール20ml、メロン・リキュール20ml、ブルー・キュラソー20ml、レモンジュース1tspを注ぎ、ステアする。
色が緑なのはエメリッヒ版ゴジラを含めて、米国では昔からゴジラは緑系の色で描かれることが多かったからだろう。
飲んでみると、甘口でフルーティでとても飲みやすい。
名前とは逆に、優しい味のカクテルだ。
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「シン・ゴジラ」の衝撃から7年。
レジェンダリーのモンスター・ヴァースの諸作品や、遙か未来の世界を舞台としたいわゆる「アニゴジ」三部作、Netflixで配信された「ゴジラ S.P <シンギュラポイント>」を経て、久々に日本で作られれる実写映画。
昭和22年、戦争の惨禍で何もかも失い、疲弊し切った終戦直後の日本に、突如として巨大未確認生物・呉璽羅(ゴジラ)が襲来する。
日本製としては節目の30本目の作品となり、シリーズ70周年の記念作品でもある。
西武園ゆうえんちの「ゴジラ・ザ・ライド 大怪獣頂上決戦」を手がけ、過去にも「ALWAYS 続・三丁目の夕日」の冒頭で、ゴジラを登場させている山崎貴監督が、満を持して本編のメガホンを取った。
主人公の敷島浩一を演じる神木隆之介をはじめ、浜辺美波、安藤さくら、吉岡秀隆ら、過去の山崎作品からキャストが結集。
山田裕貴や佐々木蔵之介も参加し、オールスターキャストの豪華な布陣となった。
人間を噛み砕き踏み潰す、史上最も恐ろしいゴジラであり、新たな歴史を切り開く大傑作だ。
※ラストに触れています。完全ネタバレ注意。
太平洋戦争末期。
特攻隊員の敷島浩一(神木隆之介)は、零戦の不調を理由に大戸島の飛行場に着陸するが、整備兵の橘宗作(青木崇高)に機体に故障は無いと指摘される。
その夜、島民から呉璽羅(ゴジラ)と呼ばれている恐竜のような生物が飛行場を襲撃し、整備隊は橘を残して全滅し、敷島はからくも生き残る。
二年後、復員した敷島はひょんなことから出会った大石典子(浜辺美波)と、空襲で死んだ母親から彼女に託された明子という幼子と暮らしているが生活は苦しく、新生丸という船に乗り組み危険な機雷処理の仕事をしている。
そんな頃、太平洋の海中を謎の巨大生物が移動しているのが探知され、新生丸も駆り出される。
海中から出現した生物を見た敷島は、それがかつて大戸島で遭遇したゴジラが巨大化した姿だと確信する。
重巡高雄の砲撃を物ともせず、強力な熱線によって高雄を撃沈したゴジラは海へと消える。
やがてゴジラは東京に上陸、銀座の街を蹂躙するが、逃げ惑う群衆の中には銀座に働きに出ていた典子の姿もあった・・・・・
前作の「シン・ゴジラ」は、1954年の初代「ゴジラ」以来の、未知の巨大生物が歴史上初めて現れた世界、怪獣という概念すら存在しない世界を描た。
時代設定が1947年と初代よりも前に設定されている本作も、過去にゴジラが存在したことのない完全リブートの世界線だ。
戦後9年という時点で作られた初代「ゴジラ」は、日本人の記憶に深く刻まれた原爆のメタファーで、ケロイド状の皮膚や口から吐く放射能火炎にそのイメージが重なる。
ただ原爆は敵国による攻撃だったので、基本的に日本人は受動的な立場だ。
一方、「シン・ゴジラ」では、2011年に発生した東日本大震災の結果起こった、想定外の原子力災害をゴジラに重ね合わせた。
政権内に視点を置くことで、あの時何が悪かったのか、どうすべきだったのかということを、ある種の後追いシミュレーションとして描いた作品だ。
こちらも、第一義的には自然災害によってもたらされた問題なので、ゴジラはただ歩き回り、攻撃されれば身を守るという、生物として当たり前の行動に終始する。
本作は、初代やシンを含めた過去のどのゴジラ映画ともアプローチが違う。
終戦直後の日本に現れたゴジラは、明確な破壊と殺戮の衝動を持って人間に襲いかかる。
この時代の日本には、敷島のような帰還兵や典子のような空襲のサバイバー、大切な何かを失い、自分の中で戦争が終わってない、終わらせられない人たちが沢山いる。
特に敷島は特攻隊くずれである。
彼は出撃したものの途中で怖くなり、機体不調を偽って大戸島に降り、今度は島に出現したゴジラを撃つことが出来ず、結果島の整備兵たちを見殺しにした。
大きな罪悪感と自戒の念に苛まれ、自分は生きる資格のない人間だと思っている。
実際に特攻隊で生き残った者は、世間から後ろ指をさされ、避世的な生活を送る人も多かったようだ。
彼にとって、深海から現れたゴジラは、永遠に追って来る戦争の呪いであり、絶望の淵にいる自分を、地獄へ突き落とす戦争の悪魔だ。
敷島は自分自身の中にある、戦争そのものとしてのゴジラと戦わなければならないのである。
山崎貴は自作を含む多くの映画的記憶を元に、技術的チャレンジを交えながら、この絶望の怪物の惨禍を描く。
一見してクリストファー・ノーランの「ダンケルク」、スティーヴン・スピルバーグの「JAWS ジョーズ」「ジュラシック・パーク」の影響は明らかだ。
戦後の混乱の中で出会った敷島と典子、明子が疑似家族になってゆくのは「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズで吉岡秀忠が演じた茶川さん親子を思わせる。
また序盤で戦うことを拒否し、結果的に大きな葛藤を抱える敷島の姿は、「エヴァンゲリヲン」シリーズの主人公、碇シンジに重なるのは言うまでもないだろう。
キャラクターの思考の淡白さは、むしろ草食系などと言われる現代人にこそ分かりやすく、感情移入しやすくなっている。
しかし映画は、すでに「ゼロ」の状態の主人公を、さらに「マイナス」へと徹底的に追い込むのである。
小笠原諸島でのゴジラとの再びの遭遇は、ゴジラが海洋生物であることを改めて思い起こさせる海洋パニック。
いわば怪獣サイズのジョーズとの、命がけの追いかけっこだ。
海のシーンがこれほど多いのは予想外で、しかも超絶に出来がいい。
これは「アルキメデスの大戦」で、海戦を描くことで得たノウハウの成果だろう。
「ザ・クリエイター 創造者」のプロモーションで来日した米国版「GODZILLA ゴジラ」の監督、ギャレス・エドワーズは、山崎貴との対談の際に「バジェットは1億ドル(150億円)くらい?」と聞いたそうだが、おそらく実際にはネットでその1/10程度では?
それでいて、普通の日本映画で見られる実写VFXのレベルを遥かに超えている。
見せ方のコンセプトが違うので、単純比較は出来ないが、「シン・ゴジラ」と比べても技術的進化は顕著で、できれば後学のために本作のVFXワークフローを公開してもらいたいものだ。
続く銀座蹂躙のシークエンスは、初代へのオマージュ満載。
列車の襲撃やビルの屋上で取材する報道陣を襲う災難などは、明らかに意識して似せている。
2万トンという体重や体の大きさも初代に近い設定だが、その重量で目の前の地下鉄を踏み抜く描写などもライブ感を高め、大きすぎないが故の巨大生物がどんどん近づいてくる恐怖は、まさに「ゴジラ・ザ・ライド」の進化系だ。
浜辺美波に文字通りの“クリフ・ハンガー”をやらせていたのは驚いたが、映画はプラトニックな関係のまま敷島の心の支えとなっていた典子を直後に奪い去るのだ。
歴代のゴジラ映画でも重要な見せ場となっていた、放射能火炎、あるいは放射熱戦の描写は、おそらくギャレス・エドワーズ版の影響を受けた、尻尾から頭に向かって鰭が順番に発光し、さらに「ガコン、ガコン」と突起が飛び出すカウントダウン方式。
しかも本作の放射熱戦は、ほぼ波動砲のレベルで、命中した場所に小型核爆弾並みの被害をもたらす絶望のカウントダウンなのである。
いくら背を向けても、戦争はゴジラの姿となって追って来て、決してゆるしてはくれない。
典子を失った敷島は、とうとう自分の中の戦争と向き合うことを決める。
この映画の特徴の一つに、ゴジラ対策が徹底的に民間主導ということが挙げられる。
「シン・ゴジラ」でも民間人が活躍する描写はあったが、基本的には政府視点で全体を見下ろす構造。
だが本作では「お上の視点」は全く見えない。
政府もGHQも保身に走って役立たず、庶民は自分の身を自分で守るしかないという視点は、政府を盲信した結果、散々な目に遭った時代の話だからこそ説得力を持つのだが、同時に21世紀の現状に対する辛辣な批判とも感じられるのは皮肉だ。
立案されたゴジラ殲滅作戦も、実在しない秘密兵器の類は一切登場せず、当時の科学的知識と生物学的な常識を使ったリアリティのあるもの。
そして、ここで航空機ファンなら垂涎の瞬間がやって来る。
この時代はまだ自衛隊は発足前で、ゴジラに対抗する兵器は全てGHQから返還された旧日本軍の在庫という設定。
最初に撃沈される重巡高雄をはじめ、雪風や響などの駆逐艦、銀座でゴジラを砲撃する四式中戦車などが登場するが、クライマックスでゴジラをトラップに誘導する敷島の乗機として登場するのが、十八試局地戦闘機「震電」なのである。
機体後部にプロペラを持つエンテ型の先尾翼機のフォルムは文句なしにカッコよく、過去にも「王立宇宙軍 オネアミスの翼」や「スカイ・クロラ The Sky Crawlers」などのアニメーション作品に類似した機体が出てきたが、実写映画に登場するのはこれが最初だろう。
機体がテイクオフするシークエンスが、丸ごと「王立宇宙軍」へのオマージュになっているのも微笑ましい。
もっとも震電を選んだことで、描写としては困ったことになってしまっている。
敷島は密かに機内に爆弾を仕込み、作戦でゴジラを倒し切れなかった時に、“特攻”しようとしている。
だがこれは死ぬためでなく、生きるための戦いなので、ギリギリで脱出するのだが、震電は後ろにプロペラがあるために、実機ではまずプロペラを爆薬で脱落させ、パイロットが飛び降りるようになっている。
しかし当然これでは機体の向きがぶれてしまうので、映画では「脱出装置」なるものが装備されている設定。
問題はこの時点で射出座席は欧米でも開発段階なことで、敗戦国の民間人が使用できるとは思えない。
仮に使用できたとしても、プロペラが問題になるのは変わらないはずだが、その辺はスルーで敷島はいつの間にか脱出している。
山崎貴はやはりビジュアルの人だけあって、映像的なカッコよさ優先で、割とリアリティラインを低くする傾向がある。
テーマ的には絶対こうでなければならないし、私的には理解できるのだが、ディテールに拘りのある人には引っかかる描写だろう。
同様のことは、敷島が典子と感動的な再会を果たす展開にも言え、ぶっちゃけ「あの爆風の中でどうやって生き残った?あんたターミネーター?」と思わないでもなかった(笑
(※これに関して、首筋に付着していたG細胞の再生能力のためではというご指摘を受け取った。なるほど、そう考えると次回作へのヒントなのか?)
このような点も含めて「ゴジラ -1.0」はかなり好みが分かれる作品なのは間違いなく、おそらく「シン・ゴジラ」と同様に賛否両論(今でこそほぼ名作認定されているが、公開当時は賛否が真っ二つに割れていた)となるだろう。
でもそれこそがゴジラなのだ。
怪獣プロレスのようなライトな扱いの場合を別として、あまりにも強すぎる象徴性を持ってしまったが故に、ゴジラが体現する戦争やキャラクターの描き方へのスタンスなど、受け手の考え方が違うだけで文句はいくらでもつけられるし、私も数多くの減点ポイントのある作品だと思う。
しかし「見たことのない画を存分に見せてくれる」映像的な未見性をはじめ、加点方式で考えてゆくと長所が短所をはるかに凌駕し、天井を突き破ってしまうのだ。
ドラマ的にも全く容赦なく主人公を追い込んでゆく前半と、生死を分ける葛藤の結果、ついに未来へと前を向く後半の変化のドラマは十分に観応えがあった。
まさに2023年の日本映画を代表する“キング・オブ・ムービーズ”であり、山崎貴のキャリアベスト、同時に初代を別格とすれば、現在までに作られた歴代ゴジラ映画のベストである。
山崎貴は「もう一本撮りたい」と言っているようなので、「ゴジラ ZERO」は彼に任せるにしても、「シン・ゴジラ」で平成シリーズを一旦リセット、ここで完全リブートしたことで、シリーズとしては作りやすくなったのではないだろうか。
このままゴジラとの戦いが続いている、パラレルワールドの昭和をやってもいいし、この映画の世界線で現在編をやってもいい。
IPの可能性を広げるという点でも、見事な仕事をやってのけたと思う。
今回は、ストレートに「ゴジラ」をチョイス。
米国でエメリッヒ版の「GODZILLA」公開時に考案された、濃い緑が印象的なカクテル。
氷を入れたロックグラスに、ジン20ml、アップル・リキュール20ml、メロン・リキュール20ml、ブルー・キュラソー20ml、レモンジュース1tspを注ぎ、ステアする。
色が緑なのはエメリッヒ版ゴジラを含めて、米国では昔からゴジラは緑系の色で描かれることが多かったからだろう。
飲んでみると、甘口でフルーティでとても飲みやすい。
名前とは逆に、優しい味のカクテルだ。

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2023年11月02日 (木) | 編集 |
第36回東京国際映画祭の鑑賞作品つぶやきまとめ。
異人たち・・・・・評価額1650円
大林宣彦の映画、と言うより山田太一の小説「異人たちとの夏」の、舞台を英国に移しての再映画化。
脚本家の主人公が、生まれ育った街を訪ねると、幼い頃に亡くした両親の幽霊と出会う。
基本的には忠実な映画化だが、設定上の大きな変更は2点。
まず、こちらは夏ではなく冬。
英国にはお盆がなく、かわりに家族が集まる祝日として、クリスマスを持って来た。
もう一点は、主人公がゲイの設定で、このことで幽霊の両親とも確執を抱え、原作の桂にあたる新しく出会う恋人も男性。
これは主人公の抱いている、疎外感を強化するためだろう。
日本も英国も、身内の幽霊は怖く無い。
端的に言えば、心にしこりの様な孤独を感じていた主人公が、亡き両親とのつかの間の邂逅を通して、孤独の正体と自分自身を知って行く物語。
作中に登場するもう一人の幽霊の扱いと、物語の着地点が原作とも大林版とも相当異なっているのも、この世界は仮初めで、孤独は死者生者関わらず付き纏うと言うことか。
主人公の故郷が結構遠く(日本で言えば都心から埼玉くらい?)、行き帰りの電車のシーンが二つの世界の隔たりを効果的に表している。
丁寧に作られた心理劇で、怪談要素は殆ど無くなっているが、これはこれでオリジナリティのあるユニークな再映画化だ。
トニーとシェリーの魔法の光・・・・・評価額1600円
チェコ製の、とても愛らしい人形アニメーション。
電球のように体が光るという特異体質のトニーが、アパートに引っ越してきたシェリーと友達になり、ほとんどの大人たちには見えない、闇落ちした土地の精霊を助けようとする。
典型的な少年少女の冒険譚だが、中庭のある円筒形のアパートの中だけで展開する物語で、ワクワクするプロダクションデザインが素晴らしい。
比較的シンプルなプロットの中に、ルッキズムの問題や親離れ子離れ出来ない関係など、誰にでも覚えのあるリアリティのあるモチーフを盛り込み、大人も子供も幸せになるゴールを目指す。
まっくろくろすけの親玉みたいな、土地の精霊が可愛い。
監督のティーチインで、とても身近なところから物語の着想を得ているのが印象的だった。
「明る過ぎる髪の色」から、「体が光る」という発想がなぜ出てくる(・・?)
開拓者たち・・・・・評価額1600円
20世紀初頭のチリ。
富豪の地主に雇われ、開拓の邪魔になる先住民を殺して回る三人の男たちのロードムービーだ。
いわばチリ版「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」で、実話ベースの真面目な話だが、なぜかディテールにマカロニっぽさがある。
三人の一人は先住民とのミックスで、最終章以外は、殺す側と殺される側、両方の立場を持つ彼に視点が置かれている。
南半球の荘厳な自然と、その懐の中で描かれるとんでもなく愚かでおぞましい人間の行いのコントラスト。
男たちの旅を描く終盤までは、当時起こった事象。
数年後を描く最終章は、歴史をどの角度で残すのか?というエピソード。
120年後の現在からかなり皮肉っぽく俯瞰しているのだが、未来から見たら我々も同じでは?という問いかけにもなってる。
ある人物の表情を映し出す、ラストカットが秀逸。
ミス・シャンプー・・・・・評価額1700円
刺客に追われたヤクザの親分を、美容院の洗髪係が助けたことからはじまる、抱腹絶倒のラブコメ。
端的に言って、めちゃくちゃ楽しかった。
ちょっとおバカで愛らしいカップルの物語は、ギデンズ・コーのお笑いセンス全開。
主人公カップルが二人ともちょっとダメな人なのがポイントで、絶対応援したくなるキャラクターだ。
恋に落ちて腑抜けた二人の話に、ヤクザの抗争が上手く組み合わされ、大いに笑かしてちょっと切くお互いを想う、実にいい塩梅のラブストーリーが出来上がった。
あらゆるエピソードにキッチリとオチを付けてくるのも見事だが、適度な下ネタとバイオレンスをスパイスにした、あの手この手のギャグのバリエーションもすごい。
エンドクレジットの最後の最後まで、見逃せないし聴き逃せない。
監督はQ&Aでも質問に答えるというより、ひたすら面白いこと喋ってたw
日本公開がまだ決まってないそうだが、これは是非ともどこか買ってもらって、正式公開してほしい。
出来ればちょっとズレた正月映画としてw
ペルシアン・バージョン・・・・・評価額1750円
傑作!素晴らしい。
イラン系アメリカ人の大家族に生まれ、二つの文化の間で育った作者の自伝的な物語。
軸となるのは主人公と移民1世の母親との確執なんだが、この二人むっちゃ生き方パワフルで、実はそっくり。
お互い頑固で似てるが故に、なかなか認められない。
脚本家の主人公が、母を理解するために彼女の物語を書き始め、やがてそれは60年代のイランから半世紀に及ぶクロニクルになって行く。
そして主人公自身の身に起こるある事件を通して、母娘の大いなる共感の物語に着地するのだ。
登場人物が第四の壁を超えて語りかける、アップテンポなストーリーテリングが心地よく、いい意味でセンチメンタルな家族のドラマ。
なぜかマサラ映画風味のダンス演出も含めて、すごく楽しい映画だった。
作者と同じ様なバックグラウンドを持つと思われる外国人の観客も多く、Q&Aでも彼らが感情移入しまくってるのが感じられた。
やっぱり家族ものはほっこりして良いなあ。
これも早期の正式公開を望みたい。
個人的、今年の東京グランプリ。
タタミ・・・・・評価額1700円
こんなにも重苦しく、息詰まるスポーツ映画を初めて観た。
イラン代表の柔道選手が、イスラエル選手との対戦を避けるために、イラン協会から棄権を命じられた実際のケースをモデルに、イラン出身のザーラ・アミールとイスラエル出身のガイ・ナッティブが、共同監督して作り上げた大変な力作だ。
権威主義政権が支配する国では、国民の人権も自由意志も、いかに軽視されるか。
生殺与奪の権を奪われ、自分が単なる国家の部品であると宣言された選手と、板挟みになるコーチ、それぞれの葛藤を試合と並行して描く。
実際のケースでは男性だった選手は女性に変えられ、スポーツの問題の限らず、ジェンダー差別の問題も内包。
終盤の選手のある行動は、マフサ・アミニさんの事件を反映したものだろう。
本作に関わったイラン人は全て亡命者だったため、ジョージアでの撮影も危険を考慮して大使館協力のもと、秘密裏に行なわれたという。
世界が二元論で語られる権威主義の世界観を表すBWの映像と、閉塞的なスタンダードサイズの画面。
亡命者たちの経験を取り込んだ、スパイ映画もどきの政権からの圧力描写など、細部に至るまでリアリティ満点だ。
ロボット・ドリームズ・・・・・評価額1650円
擬人化された動物たちが住む、80年代のニューヨークが舞台。
孤独な犬の主人公は、キットのロボットを作り親友(というかほぼ恋人)に。
ところがある事情で、二人は一年間も離れ離れになってしまう。
「ブランカニエベス」のパブロ・ベルヘルの、初アニメーション作品。
これは過ぎ去って行く「今」を、いかにして素晴らしい過去にして行くか?という映画で、実際にニューヨークに住んでいた、監督自身の記憶が反映されているそう。
アタリ・ポンのぼっちプレイを皮切りに、懐かしの80年代カルチャーが画面を埋め尽くす。
セリフは無いが、さまざまなシャレードを駆使し、巧みにキャラクターの感情を伝えてくる。
未来から自分の人生を振り返った時、幸せな時間は多い方がいい。
そのためには、今は捨てなくてはならないものもある。
可愛らしい絵柄で展開するのは、人生の喜怒哀楽を詰め込んだ一年間の思い出のカレンダー。
子供も楽しめると思うが、大人にこそグッとくる。
原作はサラ・バロンのグラフィックノベルで、読んでみたくなった。
ところで、出てくるキャラクターの名前が「ドッグ」とか「ダック」とか、基本的に種類名なのに、アライグマだけ「ラスカル」なのはやっぱオマージュ?
西湖畔に生きる・・・・・評価額1600円
中国杭州を舞台に、茶摘みとして働く母親と、大学生の息子の物語。
まるで山水画の様な、美しい山村の風景の中で描かれる生活。
ところが、母親は仕事をクビになると、突然怪しげなマルチ商法の世界にのめり込んでしまう。
息子は必死になって母を取り戻そうとするが、組織から自己肯定感を刺激する手法で洗脳された母は聞き入れてくれない。
原題は「草木人間」。
冒頭と終盤の人と自然が調和した描写で、中盤の人間の欲望丸出しのドラマをサンドイッチした様な構造。
アプローチは相当変えてきたが、伝統的な暮らしと現代中国が抱える歪みのコントラストは「春江水暖」とも通じる。
主人公親子を演じる、ウー・レイ、ジャン・チンチンが素晴らしい。
人はなぜ、怪しさ満点のうまい話にころっと引っかかってしまうのだろうな。
エア・・・・・評価額1600円
息子アレクセイ・ゲルマンによる、第二次世界大戦中に実在した、旧ソ連の女性戦闘機パイロットたちの物語。
恐れ知らずに戦場に現れた彼女たちは、やがて戦闘や事故で次々と死んで行く。
物語の開始当初は、特定の主人公を置かない群像劇のスタイル。
しばらくすると、アナスタシア・タリジナ演じる、彼女たちの中でも特に複雑な背景を持つ、ジェーニャという女性にフォーカスし、以降は彼女が主役になる。
ジェーニャは過酷な戦場でさまざまな経験をして、多くの友人や愛するものを失う。
長い戦争を描く物語で、エピソードは狙って断片的。
この作りはNetflix版「西部戦線異状なし」にきわめて近く、いわばあの映画の女性版、空軍版。
低予算は明らかだが、空中戦の描写では視覚情報をほぼパイロットたちから見えているものに絞り、臨場感を得られる様に工夫されている。
明日が必ずあるとは限らない、戦場の無常感もよく表現出来ており、ぶっちゃけ現在進行形で侵略戦争してる国で、このような反戦に軸足を置いた映画が作れることに正直驚いた。
プーチン曰く、あれは戦争じゃなくて「特別軍事作戦」だからなんだろうけど。
いい映画だが、現実と映画の逆転が、どうしても皮肉に感じられてしまうのは仕方ないよね。
ロクサナ・・・・・評価額1600円
主人公はタイトルロールのロクサナではなく、車上荒らしにあって困っていた彼女を助けた、ちょっとダメな人だけど心の優しい青年フリード。
ロクサナに下心を出して、甲斐性無しなのに大きく出たら、実は彼女は訳アリで、ものすごく痛い目にあうことに。
もっともロクサナはロクサナで、もっとも酷い目にあうのだけど。
これ背景にあるのが、経済制裁の結果4人に1人は職が無いと言うイランの高い若年失業率。
だからフリードもプー生活だし、ロクサナも無理に無理を重ねて食い繋ぐしかない。
ある意味、シニカルなブラックコメディなのだが、イランでは体制批判すると、パナヒみたいに公開できなくなっちゃうし、下手すると投獄される。
そこで、あくまでも運の悪い若者たちの痛い青春と言う体裁にして、実際に苦しんでいる観客には、批判されている対象がちゃんと分かると言う寸法。
権威主義体制下では、映画作るのにもトンチがいる。
しかし相変わらずイランの刑法って、西側諸国の法体系と全く違うと言うか、全体にアバウト過ぎない?って思うのだが、これで一応社会が回るのがすごいな。
ロクサナ役のマーサ・アクバルアバディが、フリードが惚れちゃうのも納得の美人さん。
リンダはチキンがたべたい!・・・・・評価額1700円
本年度アヌシーの最高賞受賞作。
ママの勘違いで叱られたリンダは、罪滅ぼしとして亡きパパの味であるピーマン・チキンをリクエスト。
ところがストライキの影響で、町の店が全て閉まってチキンが買えない!
どうしてもチキンが食べたいリンダの執念がママを暴走させ、遂には団地の住民たちを巻き込んだ大騒動を引き起こす。
「大人のためのグリム童話 手をなくした少女」が記憶に新しい、セバスチャン・ローデンバックが独創的なタッチで描き出すのは、小さな騒動が加速度的に大ごとになって行く、アナーキーなコメディだ。
ミュージカル風味もユニークで、悪ガキたちと大人気ない大人たちのドタバタ劇には大いに笑かしてもらった。
これは思い出に関する物語で、パパが亡くなった時に幼過ぎたリンダに彼の記憶はないけど、パパの作ってくれた料理の味は舌が覚えている。
彼女はピーマン・チキンを食べることで、パパが存在していたことを初めて実感する。
ギャグ満載だけど、それだけでは終わらない、リリカルで素晴らしい作品だ。
深海レストラン・・・・・評価額1650円
家庭の事情で深い孤独を抱えた少女・参宿は、乗っていた船から落ちてしまい、魚人たちが集う“深海レストラン”に迷い込み、奇妙なピエロの支配人・南河のために働くことになる。
「西遊記 ヒーロー・イズ・バック」のティエン・シャオポン監督、この方熱烈な宮崎駿LOVEらしく、オマージュ満載で、それでいて未見性も凄い。
「ハウル」とか「ラピュタ」とか元ネタの面影はありつつも、中国伝統の墨絵アニメーションを、極彩色のデジタル技術で再解釈したような映像は、驚くべきクオリティで圧倒される。
でも、シナリオが破綻してる所まで、宮﨑駿に似せなくてもいいのにな・・・と途中まで思っていた。
実際中盤までは怒涛の映像津波に押し流されるが、全く緩急無く話的には何が起こっているのかよく分からない。
参宿と夏河、そんな絆深める所無かったやん!とか突っ込んでたら、終盤の大ドンデンで前半のとりとめのない展開を含めて、強引に納得させられてしまった。
ある意味で禁じ手なのだが、これをやられると何も言えない。
この辺りになると、ちょこっと「ライフ・オブ・パイ」も入ってくるが、最終的にはオマージュを超えて、独自性のある世界観に着地するんだな。
宮崎作品以上に、動き続けるゴージャスなアニメーション映像を堪能する作品だが、前半が観辛いのは確かなので、ここはもう少し落ち着ける時間が欲しかった。
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異人たち・・・・・評価額1650円
大林宣彦の映画、と言うより山田太一の小説「異人たちとの夏」の、舞台を英国に移しての再映画化。
脚本家の主人公が、生まれ育った街を訪ねると、幼い頃に亡くした両親の幽霊と出会う。
基本的には忠実な映画化だが、設定上の大きな変更は2点。
まず、こちらは夏ではなく冬。
英国にはお盆がなく、かわりに家族が集まる祝日として、クリスマスを持って来た。
もう一点は、主人公がゲイの設定で、このことで幽霊の両親とも確執を抱え、原作の桂にあたる新しく出会う恋人も男性。
これは主人公の抱いている、疎外感を強化するためだろう。
日本も英国も、身内の幽霊は怖く無い。
端的に言えば、心にしこりの様な孤独を感じていた主人公が、亡き両親とのつかの間の邂逅を通して、孤独の正体と自分自身を知って行く物語。
作中に登場するもう一人の幽霊の扱いと、物語の着地点が原作とも大林版とも相当異なっているのも、この世界は仮初めで、孤独は死者生者関わらず付き纏うと言うことか。
主人公の故郷が結構遠く(日本で言えば都心から埼玉くらい?)、行き帰りの電車のシーンが二つの世界の隔たりを効果的に表している。
丁寧に作られた心理劇で、怪談要素は殆ど無くなっているが、これはこれでオリジナリティのあるユニークな再映画化だ。
トニーとシェリーの魔法の光・・・・・評価額1600円
チェコ製の、とても愛らしい人形アニメーション。
電球のように体が光るという特異体質のトニーが、アパートに引っ越してきたシェリーと友達になり、ほとんどの大人たちには見えない、闇落ちした土地の精霊を助けようとする。
典型的な少年少女の冒険譚だが、中庭のある円筒形のアパートの中だけで展開する物語で、ワクワクするプロダクションデザインが素晴らしい。
比較的シンプルなプロットの中に、ルッキズムの問題や親離れ子離れ出来ない関係など、誰にでも覚えのあるリアリティのあるモチーフを盛り込み、大人も子供も幸せになるゴールを目指す。
まっくろくろすけの親玉みたいな、土地の精霊が可愛い。
監督のティーチインで、とても身近なところから物語の着想を得ているのが印象的だった。
「明る過ぎる髪の色」から、「体が光る」という発想がなぜ出てくる(・・?)
開拓者たち・・・・・評価額1600円
20世紀初頭のチリ。
富豪の地主に雇われ、開拓の邪魔になる先住民を殺して回る三人の男たちのロードムービーだ。
いわばチリ版「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」で、実話ベースの真面目な話だが、なぜかディテールにマカロニっぽさがある。
三人の一人は先住民とのミックスで、最終章以外は、殺す側と殺される側、両方の立場を持つ彼に視点が置かれている。
南半球の荘厳な自然と、その懐の中で描かれるとんでもなく愚かでおぞましい人間の行いのコントラスト。
男たちの旅を描く終盤までは、当時起こった事象。
数年後を描く最終章は、歴史をどの角度で残すのか?というエピソード。
120年後の現在からかなり皮肉っぽく俯瞰しているのだが、未来から見たら我々も同じでは?という問いかけにもなってる。
ある人物の表情を映し出す、ラストカットが秀逸。
ミス・シャンプー・・・・・評価額1700円
刺客に追われたヤクザの親分を、美容院の洗髪係が助けたことからはじまる、抱腹絶倒のラブコメ。
端的に言って、めちゃくちゃ楽しかった。
ちょっとおバカで愛らしいカップルの物語は、ギデンズ・コーのお笑いセンス全開。
主人公カップルが二人ともちょっとダメな人なのがポイントで、絶対応援したくなるキャラクターだ。
恋に落ちて腑抜けた二人の話に、ヤクザの抗争が上手く組み合わされ、大いに笑かしてちょっと切くお互いを想う、実にいい塩梅のラブストーリーが出来上がった。
あらゆるエピソードにキッチリとオチを付けてくるのも見事だが、適度な下ネタとバイオレンスをスパイスにした、あの手この手のギャグのバリエーションもすごい。
エンドクレジットの最後の最後まで、見逃せないし聴き逃せない。
監督はQ&Aでも質問に答えるというより、ひたすら面白いこと喋ってたw
日本公開がまだ決まってないそうだが、これは是非ともどこか買ってもらって、正式公開してほしい。
出来ればちょっとズレた正月映画としてw
ペルシアン・バージョン・・・・・評価額1750円
傑作!素晴らしい。
イラン系アメリカ人の大家族に生まれ、二つの文化の間で育った作者の自伝的な物語。
軸となるのは主人公と移民1世の母親との確執なんだが、この二人むっちゃ生き方パワフルで、実はそっくり。
お互い頑固で似てるが故に、なかなか認められない。
脚本家の主人公が、母を理解するために彼女の物語を書き始め、やがてそれは60年代のイランから半世紀に及ぶクロニクルになって行く。
そして主人公自身の身に起こるある事件を通して、母娘の大いなる共感の物語に着地するのだ。
登場人物が第四の壁を超えて語りかける、アップテンポなストーリーテリングが心地よく、いい意味でセンチメンタルな家族のドラマ。
なぜかマサラ映画風味のダンス演出も含めて、すごく楽しい映画だった。
作者と同じ様なバックグラウンドを持つと思われる外国人の観客も多く、Q&Aでも彼らが感情移入しまくってるのが感じられた。
やっぱり家族ものはほっこりして良いなあ。
これも早期の正式公開を望みたい。
個人的、今年の東京グランプリ。
タタミ・・・・・評価額1700円
こんなにも重苦しく、息詰まるスポーツ映画を初めて観た。
イラン代表の柔道選手が、イスラエル選手との対戦を避けるために、イラン協会から棄権を命じられた実際のケースをモデルに、イラン出身のザーラ・アミールとイスラエル出身のガイ・ナッティブが、共同監督して作り上げた大変な力作だ。
権威主義政権が支配する国では、国民の人権も自由意志も、いかに軽視されるか。
生殺与奪の権を奪われ、自分が単なる国家の部品であると宣言された選手と、板挟みになるコーチ、それぞれの葛藤を試合と並行して描く。
実際のケースでは男性だった選手は女性に変えられ、スポーツの問題の限らず、ジェンダー差別の問題も内包。
終盤の選手のある行動は、マフサ・アミニさんの事件を反映したものだろう。
本作に関わったイラン人は全て亡命者だったため、ジョージアでの撮影も危険を考慮して大使館協力のもと、秘密裏に行なわれたという。
世界が二元論で語られる権威主義の世界観を表すBWの映像と、閉塞的なスタンダードサイズの画面。
亡命者たちの経験を取り込んだ、スパイ映画もどきの政権からの圧力描写など、細部に至るまでリアリティ満点だ。
ロボット・ドリームズ・・・・・評価額1650円
擬人化された動物たちが住む、80年代のニューヨークが舞台。
孤独な犬の主人公は、キットのロボットを作り親友(というかほぼ恋人)に。
ところがある事情で、二人は一年間も離れ離れになってしまう。
「ブランカニエベス」のパブロ・ベルヘルの、初アニメーション作品。
これは過ぎ去って行く「今」を、いかにして素晴らしい過去にして行くか?という映画で、実際にニューヨークに住んでいた、監督自身の記憶が反映されているそう。
アタリ・ポンのぼっちプレイを皮切りに、懐かしの80年代カルチャーが画面を埋め尽くす。
セリフは無いが、さまざまなシャレードを駆使し、巧みにキャラクターの感情を伝えてくる。
未来から自分の人生を振り返った時、幸せな時間は多い方がいい。
そのためには、今は捨てなくてはならないものもある。
可愛らしい絵柄で展開するのは、人生の喜怒哀楽を詰め込んだ一年間の思い出のカレンダー。
子供も楽しめると思うが、大人にこそグッとくる。
原作はサラ・バロンのグラフィックノベルで、読んでみたくなった。
ところで、出てくるキャラクターの名前が「ドッグ」とか「ダック」とか、基本的に種類名なのに、アライグマだけ「ラスカル」なのはやっぱオマージュ?
西湖畔に生きる・・・・・評価額1600円
中国杭州を舞台に、茶摘みとして働く母親と、大学生の息子の物語。
まるで山水画の様な、美しい山村の風景の中で描かれる生活。
ところが、母親は仕事をクビになると、突然怪しげなマルチ商法の世界にのめり込んでしまう。
息子は必死になって母を取り戻そうとするが、組織から自己肯定感を刺激する手法で洗脳された母は聞き入れてくれない。
原題は「草木人間」。
冒頭と終盤の人と自然が調和した描写で、中盤の人間の欲望丸出しのドラマをサンドイッチした様な構造。
アプローチは相当変えてきたが、伝統的な暮らしと現代中国が抱える歪みのコントラストは「春江水暖」とも通じる。
主人公親子を演じる、ウー・レイ、ジャン・チンチンが素晴らしい。
人はなぜ、怪しさ満点のうまい話にころっと引っかかってしまうのだろうな。
エア・・・・・評価額1600円
息子アレクセイ・ゲルマンによる、第二次世界大戦中に実在した、旧ソ連の女性戦闘機パイロットたちの物語。
恐れ知らずに戦場に現れた彼女たちは、やがて戦闘や事故で次々と死んで行く。
物語の開始当初は、特定の主人公を置かない群像劇のスタイル。
しばらくすると、アナスタシア・タリジナ演じる、彼女たちの中でも特に複雑な背景を持つ、ジェーニャという女性にフォーカスし、以降は彼女が主役になる。
ジェーニャは過酷な戦場でさまざまな経験をして、多くの友人や愛するものを失う。
長い戦争を描く物語で、エピソードは狙って断片的。
この作りはNetflix版「西部戦線異状なし」にきわめて近く、いわばあの映画の女性版、空軍版。
低予算は明らかだが、空中戦の描写では視覚情報をほぼパイロットたちから見えているものに絞り、臨場感を得られる様に工夫されている。
明日が必ずあるとは限らない、戦場の無常感もよく表現出来ており、ぶっちゃけ現在進行形で侵略戦争してる国で、このような反戦に軸足を置いた映画が作れることに正直驚いた。
プーチン曰く、あれは戦争じゃなくて「特別軍事作戦」だからなんだろうけど。
いい映画だが、現実と映画の逆転が、どうしても皮肉に感じられてしまうのは仕方ないよね。
ロクサナ・・・・・評価額1600円
主人公はタイトルロールのロクサナではなく、車上荒らしにあって困っていた彼女を助けた、ちょっとダメな人だけど心の優しい青年フリード。
ロクサナに下心を出して、甲斐性無しなのに大きく出たら、実は彼女は訳アリで、ものすごく痛い目にあうことに。
もっともロクサナはロクサナで、もっとも酷い目にあうのだけど。
これ背景にあるのが、経済制裁の結果4人に1人は職が無いと言うイランの高い若年失業率。
だからフリードもプー生活だし、ロクサナも無理に無理を重ねて食い繋ぐしかない。
ある意味、シニカルなブラックコメディなのだが、イランでは体制批判すると、パナヒみたいに公開できなくなっちゃうし、下手すると投獄される。
そこで、あくまでも運の悪い若者たちの痛い青春と言う体裁にして、実際に苦しんでいる観客には、批判されている対象がちゃんと分かると言う寸法。
権威主義体制下では、映画作るのにもトンチがいる。
しかし相変わらずイランの刑法って、西側諸国の法体系と全く違うと言うか、全体にアバウト過ぎない?って思うのだが、これで一応社会が回るのがすごいな。
ロクサナ役のマーサ・アクバルアバディが、フリードが惚れちゃうのも納得の美人さん。
リンダはチキンがたべたい!・・・・・評価額1700円
本年度アヌシーの最高賞受賞作。
ママの勘違いで叱られたリンダは、罪滅ぼしとして亡きパパの味であるピーマン・チキンをリクエスト。
ところがストライキの影響で、町の店が全て閉まってチキンが買えない!
どうしてもチキンが食べたいリンダの執念がママを暴走させ、遂には団地の住民たちを巻き込んだ大騒動を引き起こす。
「大人のためのグリム童話 手をなくした少女」が記憶に新しい、セバスチャン・ローデンバックが独創的なタッチで描き出すのは、小さな騒動が加速度的に大ごとになって行く、アナーキーなコメディだ。
ミュージカル風味もユニークで、悪ガキたちと大人気ない大人たちのドタバタ劇には大いに笑かしてもらった。
これは思い出に関する物語で、パパが亡くなった時に幼過ぎたリンダに彼の記憶はないけど、パパの作ってくれた料理の味は舌が覚えている。
彼女はピーマン・チキンを食べることで、パパが存在していたことを初めて実感する。
ギャグ満載だけど、それだけでは終わらない、リリカルで素晴らしい作品だ。
深海レストラン・・・・・評価額1650円
家庭の事情で深い孤独を抱えた少女・参宿は、乗っていた船から落ちてしまい、魚人たちが集う“深海レストラン”に迷い込み、奇妙なピエロの支配人・南河のために働くことになる。
「西遊記 ヒーロー・イズ・バック」のティエン・シャオポン監督、この方熱烈な宮崎駿LOVEらしく、オマージュ満載で、それでいて未見性も凄い。
「ハウル」とか「ラピュタ」とか元ネタの面影はありつつも、中国伝統の墨絵アニメーションを、極彩色のデジタル技術で再解釈したような映像は、驚くべきクオリティで圧倒される。
でも、シナリオが破綻してる所まで、宮﨑駿に似せなくてもいいのにな・・・と途中まで思っていた。
実際中盤までは怒涛の映像津波に押し流されるが、全く緩急無く話的には何が起こっているのかよく分からない。
参宿と夏河、そんな絆深める所無かったやん!とか突っ込んでたら、終盤の大ドンデンで前半のとりとめのない展開を含めて、強引に納得させられてしまった。
ある意味で禁じ手なのだが、これをやられると何も言えない。
この辺りになると、ちょこっと「ライフ・オブ・パイ」も入ってくるが、最終的にはオマージュを超えて、独自性のある世界観に着地するんだな。
宮崎作品以上に、動き続けるゴージャスなアニメーション映像を堪能する作品だが、前半が観辛いのは確かなので、ここはもう少し落ち着ける時間が欲しかった。

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