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2017年07月04日 (火) | 編集 |
再び、シネマトグラフからキネトスコープへ。
世界中で「映画とは何か?」という論争を巻き起こした、鬼才ポン・ジュノ監督によるNetflixオリジナル作品。
これは2006年公開の傑作、「グエムル 漢江の怪物」の対になるような作品だ。
「グエムル」では、米軍の垂れ流した毒薬による突然変異で、おぞましい姿を持つ人喰いの怪物が出現し、怪物にさらわれた少女を救うため、少女の家族が怪物と戦う。
予期せぬ脅威の出現に右往左往する韓国社会と無能な政府、強引に介入する米国やWHOといった外部勢力が暗躍し、混沌の中に現代韓国の歪みが浮かび上がるという仕組み。
今回、またしてもアメリカの作り出した怪物が、韓国の地で大騒動を巻き起こす。
しかし、本作の怪物は人間を喰うのではなく、逆に喰われる運命。
地球の食糧危機を救うべく、遺伝子操作で作られた“スーパー・ピッグ”と呼ばれているが、見た目はブタというより食用のカバ(?)のオクジャと、彼女を救おうとする少女ミジャの物語だ。
スーパー・ピッグを開発した米国企業ミランドグループは、話題作りと生息環境ごとの育ち方の違いを調べるために、世界中の26の農家に10年間飼育を委託し、そのうちの一つがミジャの家というワケ。
ミジャと祖父がオクジャと共に暮らす山深い韓国の田舎は、ある種の理想郷として描写される。
監督によると、このシークエンスは宮崎駿の「未来少年コナン」の影響を受けているという。
なるほど、隔絶された楽園の平和が、外界からの侵入者によってかき乱され、連れ去られた大切な存在を追って、少女が冒険の旅に出るという導入は、まさにあの傑作アニメの女の子版だ。
どこまでも広がる樹木の海で、ストレスなく育ったオクジャは、完璧なスーパー・ピッグとして回収され、ニューヨークのショーに出たあと食肉処理される運命。
なんとかオクジャを取り戻そうとするミジャの闘いに、食肉や動物虐待に反対する、ALF(動物解放戦線)のメンバーたちが参戦する。
だが、本作の場合、ミランドグループが悪玉でALFが善玉かと言うとそうでもない。
前者が暴走する商業主義の象徴なのは間違いないが、ALFも教条的な理念に凝り固まり、生物としての人間の業に目を瞑る、どこか歪んだ人々として描写される。
ミランドグループもALFも、人間を自然のライフサイクルから外れた存在と考えている点では、全く変わらない。
小さな理想郷の外の世界では、工場で製品として作られた動物が殺され、一方で過激派団体が暴れまわるという、ブラックジョークの様な光景が繰り広げられていることを、ミジャは初めて知るのである。
少女と怪物だけがピュアな存在で、それ以外は全部俗物というのは、いかにもポン・ジュノらしい。
タイトルにもなっているスーパー・ピッグのオクジャは、最初はあんまり可愛く思えないが、話が進むにつれてオクジャの愛情深い性格が描写され、ミジャとの関係がペットと飼い主というよりも、擬似的な母娘(ミジャが娘)であることが描かれると、急速に感情移入。
何しろオクジャはミジャが危険に晒されると、命がけで彼女を守ろうとするのだ。
それゆえオクジャが連れてゆかれるスーパー・ピッグの精肉工場が、完全にナチスの絶命収容所のメタファーなのは萎えた。
相変わらず、ブラックなテリングには容赦がないが、だからこそ単純なハッピーエンドでもなく、バッドエンドでもない、ラストの独特の余韻が生まれている。
終始仏頂面でミジャを演じるアン・ソンヒョンが素晴らしく、脇を固めるジェイク・ギレンホールの動物博士とか、ティルダ・スウィントンのCEOとかも、最高に気持ち悪くていい。
映画の国籍を軽々と超える、シニカルなSF風刺劇の傑作である。
当ブログは基本的にスクリーンで観た作品をレビューしているので、いつのもような評価額は出せない。
あくまでTV画面で観た印象で評価するなら、5点満点で4.8は付けたい。
とはいえ、これはやはりスクリーンで観たかった。
本作は配信のみの国と、劇場公開+配信の国に分かれている様だが、TV画面では収まりの悪いシネマスコープサイズでわざわざ作っているのだから、作り手が劇場での鑑賞を最善と考えているのは間違いないだろう。
Netflixの革新は、単にいつでもどこでも観られるユビキタス鑑賞に限らない。
観客だけでなく、興行関係者の意向にも左右される、既存の劇場用映画の制作システムに比べ、圧倒的に自由な制作環境。
作品を独占せずに、クリエイター側に権利を残すフェアなスタンスなど、今後の映画作りのスタンダードを劇的に変え、業界の既得権益を打破し、制作現場を“民主化”できる可能性を秘めている。
だからこそ、なんとか劇場との共存を模索して欲しいのだけど、それはNetflix側の努力だけでは不可能だ。
本作が今年のカンヌで、コンペ部門のセレクションに入りながら、フランスでの劇場公開予定が無いことから、審査委員長のペドロ・アルモドバルに「どの賞も与えるべきではない」と言われてしまい、その後の規定の改定により、来年度から配信のみの作品は、映画祭から排除されることが決まったのは記憶に新しい。
しかし、フランスは劇場を守るための規制が厳格過ぎて、劇場公開から36ヵ月経たないと、Netflixの様な定額動画配信サービスで配信できない。
これではNetflixが劇場公開したくても、出来る訳がないのだ。
ネット配信の波はもう止まらないし、興行への影響も確実に出て、淘汰される劇場も出てくるだろうが、映画館側の姿勢も変わらざるを得ないだろう。
それにしても、映画を劇場で観るのか、ネットで観るのかの論争は、まるで映画の発明を巡るエジソンとリュミエール兄弟の関係を逆転させたようで非常に興味深い。
映画のハードは、エジソンの開発したキネトグラフと、ジョージ・イーストマンによる動画用ロールフィルムの発明によって完成した。
だがこの時点では、映画を観るにはキネトスコープという箱型の鑑賞装置を覗き込むしかなく、キネトスコープパーラーという施設で、個別に鑑賞する仕組みだった。
現在では、衆人が集まる暗闇の中でスクリーンに映写する、リュミエール兄弟のシネマトグラフの登場をもって映画の完成とされている。
レオス・カラックスは、異色の寓話「ホーリー・モータース」で、映画の死を描いた。
“人々が光る機械に興味を失う”、それは古代の洞窟壁画から続く、暗闇の中で時空を超越する創造の叡智=イデアを観るという数万年に及ぶ神秘の共有体験が、十九世紀末にテクノロジーと融合することで生まれた、劇場用映画の静かなる終焉である。
共有体験をもたらしたシネマトグラフは滅び、再びパーソナルなキネトスコープに戻るのか、それとも共存の道を歩むのか。
映画館で、見ず知らずの人たちと分かち合う時間を至福と感じる私としては、映画の異なる楽しみ方として、両者共存は十分に可能だと思うのだが。
はたして10年、20年後に映画はどんな姿になっているのだろう。
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世界中で「映画とは何か?」という論争を巻き起こした、鬼才ポン・ジュノ監督によるNetflixオリジナル作品。
これは2006年公開の傑作、「グエムル 漢江の怪物」の対になるような作品だ。
「グエムル」では、米軍の垂れ流した毒薬による突然変異で、おぞましい姿を持つ人喰いの怪物が出現し、怪物にさらわれた少女を救うため、少女の家族が怪物と戦う。
予期せぬ脅威の出現に右往左往する韓国社会と無能な政府、強引に介入する米国やWHOといった外部勢力が暗躍し、混沌の中に現代韓国の歪みが浮かび上がるという仕組み。
今回、またしてもアメリカの作り出した怪物が、韓国の地で大騒動を巻き起こす。
しかし、本作の怪物は人間を喰うのではなく、逆に喰われる運命。
地球の食糧危機を救うべく、遺伝子操作で作られた“スーパー・ピッグ”と呼ばれているが、見た目はブタというより食用のカバ(?)のオクジャと、彼女を救おうとする少女ミジャの物語だ。
スーパー・ピッグを開発した米国企業ミランドグループは、話題作りと生息環境ごとの育ち方の違いを調べるために、世界中の26の農家に10年間飼育を委託し、そのうちの一つがミジャの家というワケ。
ミジャと祖父がオクジャと共に暮らす山深い韓国の田舎は、ある種の理想郷として描写される。
監督によると、このシークエンスは宮崎駿の「未来少年コナン」の影響を受けているという。
なるほど、隔絶された楽園の平和が、外界からの侵入者によってかき乱され、連れ去られた大切な存在を追って、少女が冒険の旅に出るという導入は、まさにあの傑作アニメの女の子版だ。
どこまでも広がる樹木の海で、ストレスなく育ったオクジャは、完璧なスーパー・ピッグとして回収され、ニューヨークのショーに出たあと食肉処理される運命。
なんとかオクジャを取り戻そうとするミジャの闘いに、食肉や動物虐待に反対する、ALF(動物解放戦線)のメンバーたちが参戦する。
だが、本作の場合、ミランドグループが悪玉でALFが善玉かと言うとそうでもない。
前者が暴走する商業主義の象徴なのは間違いないが、ALFも教条的な理念に凝り固まり、生物としての人間の業に目を瞑る、どこか歪んだ人々として描写される。
ミランドグループもALFも、人間を自然のライフサイクルから外れた存在と考えている点では、全く変わらない。
小さな理想郷の外の世界では、工場で製品として作られた動物が殺され、一方で過激派団体が暴れまわるという、ブラックジョークの様な光景が繰り広げられていることを、ミジャは初めて知るのである。
少女と怪物だけがピュアな存在で、それ以外は全部俗物というのは、いかにもポン・ジュノらしい。
タイトルにもなっているスーパー・ピッグのオクジャは、最初はあんまり可愛く思えないが、話が進むにつれてオクジャの愛情深い性格が描写され、ミジャとの関係がペットと飼い主というよりも、擬似的な母娘(ミジャが娘)であることが描かれると、急速に感情移入。
何しろオクジャはミジャが危険に晒されると、命がけで彼女を守ろうとするのだ。
それゆえオクジャが連れてゆかれるスーパー・ピッグの精肉工場が、完全にナチスの絶命収容所のメタファーなのは萎えた。
相変わらず、ブラックなテリングには容赦がないが、だからこそ単純なハッピーエンドでもなく、バッドエンドでもない、ラストの独特の余韻が生まれている。
終始仏頂面でミジャを演じるアン・ソンヒョンが素晴らしく、脇を固めるジェイク・ギレンホールの動物博士とか、ティルダ・スウィントンのCEOとかも、最高に気持ち悪くていい。
映画の国籍を軽々と超える、シニカルなSF風刺劇の傑作である。
当ブログは基本的にスクリーンで観た作品をレビューしているので、いつのもような評価額は出せない。
あくまでTV画面で観た印象で評価するなら、5点満点で4.8は付けたい。
とはいえ、これはやはりスクリーンで観たかった。
本作は配信のみの国と、劇場公開+配信の国に分かれている様だが、TV画面では収まりの悪いシネマスコープサイズでわざわざ作っているのだから、作り手が劇場での鑑賞を最善と考えているのは間違いないだろう。
Netflixの革新は、単にいつでもどこでも観られるユビキタス鑑賞に限らない。
観客だけでなく、興行関係者の意向にも左右される、既存の劇場用映画の制作システムに比べ、圧倒的に自由な制作環境。
作品を独占せずに、クリエイター側に権利を残すフェアなスタンスなど、今後の映画作りのスタンダードを劇的に変え、業界の既得権益を打破し、制作現場を“民主化”できる可能性を秘めている。
だからこそ、なんとか劇場との共存を模索して欲しいのだけど、それはNetflix側の努力だけでは不可能だ。
本作が今年のカンヌで、コンペ部門のセレクションに入りながら、フランスでの劇場公開予定が無いことから、審査委員長のペドロ・アルモドバルに「どの賞も与えるべきではない」と言われてしまい、その後の規定の改定により、来年度から配信のみの作品は、映画祭から排除されることが決まったのは記憶に新しい。
しかし、フランスは劇場を守るための規制が厳格過ぎて、劇場公開から36ヵ月経たないと、Netflixの様な定額動画配信サービスで配信できない。
これではNetflixが劇場公開したくても、出来る訳がないのだ。
ネット配信の波はもう止まらないし、興行への影響も確実に出て、淘汰される劇場も出てくるだろうが、映画館側の姿勢も変わらざるを得ないだろう。
それにしても、映画を劇場で観るのか、ネットで観るのかの論争は、まるで映画の発明を巡るエジソンとリュミエール兄弟の関係を逆転させたようで非常に興味深い。
映画のハードは、エジソンの開発したキネトグラフと、ジョージ・イーストマンによる動画用ロールフィルムの発明によって完成した。
だがこの時点では、映画を観るにはキネトスコープという箱型の鑑賞装置を覗き込むしかなく、キネトスコープパーラーという施設で、個別に鑑賞する仕組みだった。
現在では、衆人が集まる暗闇の中でスクリーンに映写する、リュミエール兄弟のシネマトグラフの登場をもって映画の完成とされている。
レオス・カラックスは、異色の寓話「ホーリー・モータース」で、映画の死を描いた。
“人々が光る機械に興味を失う”、それは古代の洞窟壁画から続く、暗闇の中で時空を超越する創造の叡智=イデアを観るという数万年に及ぶ神秘の共有体験が、十九世紀末にテクノロジーと融合することで生まれた、劇場用映画の静かなる終焉である。
共有体験をもたらしたシネマトグラフは滅び、再びパーソナルなキネトスコープに戻るのか、それとも共存の道を歩むのか。
映画館で、見ず知らずの人たちと分かち合う時間を至福と感じる私としては、映画の異なる楽しみ方として、両者共存は十分に可能だと思うのだが。
はたして10年、20年後に映画はどんな姿になっているのだろう。

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この記事へのコメント
ノラネコさん☆
オクジャが結構な知能指数でびっくりでしたね。遺伝子操作すると知能も高くなっちゃうのでしょうか?
食肉会社もALFもどちらも偽善を振りかざしていて、本当にピュアなのがミジャだけなのも韓国人の監督ならではな気がします。
オクジャの母性が愛おしかったデスね~
オクジャが結構な知能指数でびっくりでしたね。遺伝子操作すると知能も高くなっちゃうのでしょうか?
食肉会社もALFもどちらも偽善を振りかざしていて、本当にピュアなのがミジャだけなのも韓国人の監督ならではな気がします。
オクジャの母性が愛おしかったデスね~
>ノルウェーまだ~むさん
ポン・ジュノはもともと皮肉ぽい作風の人ですけど、今回は作家性と内容がベストマッチでした。
ハリウッドと韓国のいいとこ取りなんですよね。
出来が良いだけに、スクリーンで観たかったです。
ポン・ジュノはもともと皮肉ぽい作風の人ですけど、今回は作家性と内容がベストマッチでした。
ハリウッドと韓国のいいとこ取りなんですよね。
出来が良いだけに、スクリーンで観たかったです。
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評価:A 「殺人の追憶」「グエムル -漢江の怪物-」「スノーピアサー」のポン・ジ
2017/07/05(水) 12:56:46 | エンターテイメント日誌
ビジュアル的には特にそそられもしなかった作品なのだけど、私の中の永遠の傑作「グエムル-漢江の怪物」のポン・ジノ監督の作品なのだから、これが面白くないわけがないよね!
ネット配信だけで公開するNETFLIXでは勿体ないほどの、美しい韓国の大自然に、本物と見紛うばかりの新種の生物のビジュアルはあまりにリアルで驚くばかり。
2017/07/12(水) 23:39:23 | ノルウェー暮らし・イン・原宿
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