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2020年10月10日 (土) | 編集 |
韓国で、女性として生きることとは。
16か国言に翻訳され、各国で広く共感を集めたチョ・ナムジュのベストセラー小説、「82年生まれ、キム・ジヨン」の映画化。
1982年に生まれ、夫と一人娘とともにソウルに暮らす33歳のキム・ジヨンに、ある時から奇妙な言動が現れる。
それはまるで彼女の母親や親友といった、近しい女性たちが憑依したかの様で、ジヨンにはそうなっている間の記憶がない。
平凡な主婦だった彼女は、一体なぜ心の病を発症してしまったのか?
映画は彼女の人生を紐解き、韓国社会で女性として生きることの難しさ、目に見えない透明な差別を描き出してゆく。
主人公のキム・ジヨンを、チョン・ユミが好演。
夫のチョン・デヒョンを、彼女と三度目の共演となるコン・ユが演じる。
俳優として長いキャリアを持ち、監督としていくつかの短編で高い評価を受けたキム・ドヨン監督が、見事な長編デビューを飾った。
※ラストに触れています。
キム・ジヨン(チョン・ユミ)は、夫のチョン・デヒョン(コン・ユ)と娘のアヨンと共に、ソウルのマンションに住んでいる。
彼女はもともと広告代理店で働いていたが、娘の出産を機に退職し、今では専業主婦だ。
秋夕の連休に、三人で夫の実家に里帰りした時、事件が起こる。
突然ジヨンが母親のオ・ミスク(キム・ミギョン)そっくりの口調で、夫の家族を非難し始めたのだ。
驚いたデヒョンは、その場を取り繕ってソウルに帰るが、妻はその出来事を全く覚えていない。
デヒョンは、彼女に何が起こったのかを隠したまま、精神科を受信することを勧めるも、高額な料金を知ったジヨンは受診してくれない。
その後も、ジヨンは亡くなった先輩そっくりに話したり、異常な症状が出ては消えるを繰り返す様になる。
そんな時、代理店時代の上司が独立して新会社を立ち上げることを知ったジヨンは、再就職を決意するのだが・・・
期待通りの素晴らしい仕上がりだ。
タイトルロールを演じるチョン・ユミと、夫役のコン・ユは安定感抜群。
二人は、ゾンビ映画の歴史を書き換えた「新感染 ファイナル・エクスプレス」以来の共演だが、これで「トガニ 幼き瞳の告発」と合わせて、共演作全てが秀作となった。
韓国で130万部を超える大ベストセラーとなった原作小説の表紙は、髪の長い女性の肖像が描かれていて、その顔の部分だけがくり抜かれ、向こうには荒涼とした荒野の風景が広がっている。
この世代でもっとも平凡な名前を持つ、顔のないキム・ジヨンは全ての女性の象徴であり、荒野は女性たちが生きている世知辛い社会というわけだ。
小説は、心を病んだジヨンが夫と共に精神科を受診し、主治医が彼女が生まれてから辿って来た人生を聞き取り、記録したカルテという設定で展開する。
2016年のソウルを起点とし、1982年の出生から現在までが時系列に沿って描かれているのだが、女性の生きづらさを表現するための、小説ならではの様々なロジックが駆使されている。
例えば、小説の男性は夫のデヒョン以外は名前が与えられていない。
女性のキャラクターは全て名前が付けられているのに、男性は「父」「弟」と言った具合で名前がないのだ。
これは韓国社会で既婚女性が「○○のママ」「○○の奥さん」などと呼ばれ、個としての名前を失ってゆくことの反転だという。
しかし、こういった文学的手法は映画では使えないし、第三者視点のカルテ設定も無理がある。
映画は基本キム・ジヨンの一人称的な視点に夫の視点が混じり合う形で描かれ、現在の夫婦の関係を軸として、彼女の回想として過去を振り返るという構成となっている。
もっとも、精神科受診が終盤に移動している以外は、中盤まで話そのものは非常に忠実。
過去の描写が減った分、原作で大きな比重を占めていた、ジヨンの祖母から三代に渡る女性の社会的ポジションの変化といった時代性の要素は希薄になっているものの、現在の主人公の感じてる生きづらさ、見えない差別にフォーカスしたのは正解だと思う。
過去パートが物足りないという人には、日本では初夏に公開された「はちどり」が、ちょうど本作の主人公と同世代となる少女の90年代を描いていて、テーマ的にも共通する部分があるのでお勧めしたい。
韓国の女性というと思い出すのが、私が80年代の終わりに米国に留学していた時に、遊び仲間だったAさんのことだ。
ある時、彼女が泣いていて、聞くと仲の悪い同郷の留学生に「Aさんは処女じゃない」と噂を流されて、それが韓国人留学生たちの間に広まってしまったのだという。
「韓国では処女じゃないとまともな結婚はできない。こんな噂が韓国に伝わったら人生が終わっちゃう」と泣く彼女を慰めつつ、なんと大時代的なと驚いた。
まあ当時の韓国人留学生は財閥の御曹司がいたり、ちょっと特殊な村社会的なグループで必ずしも一般的ではなかったかもしれないが。
80年代生まれのジヨンとは、ちょうどひと回り上の世代だが、本作を観ると価値観に隔世の感があり、改めて韓国女性の置かれているポジション、いや韓国社会そのものが、いかに短期間のうちに急激に変化したのかを実感する。
だが、変わる部分もあれば、なかなか変わらない部分もある。
家族の中で男子を優先しがちなこと、出産後に会社に残りづらい硬直した仕組み、家事や育児がワンオペになりがちなこと、専業主婦を下に見る風潮。
社会に不文律として組み込まれた理不尽が積み重なり、平穏な日常は気づかないうちに静かな生き地獄となる。
「ガラスの天井」という言葉はよく聞くが、ジヨンは階段を上がる以前に道を歩くたびに現れるガラスの壁にぶつかり、いつの間にか出口の無い密室に閉じ込められてしまったのだ。
たぶん彼女が感じているガラスの壁、透明な差別というのは、ベースの部分でよく似た文化を持つ日本の事情ともほぼ完全に一致するのではないか。
作中で印象的に使われている、「ママ虫」という言葉がある。
専業主婦は、夫の収入に寄生して楽して生きている害虫だという、非常に侮蔑的な言葉なのだが、映画の冒頭でサラリーマンからこの言葉を浴びせられたジヨンは、ショックを受けて逃げる様に立ち去ってしまう。
ところが、映画の終盤で精神科に通い始めた彼女は、再び「ママ虫」という言葉を使った男に対して、毅然として反論するのだ。
実は映画の後半は、原作小説と結構異なる。
ジヨンの再就職への挑戦が一つの山場となるが、これは映画のオリジナル。
物語の最後も、小説では彼女の主治医である男性医師が、「私は韓国で女性として、特に子どもを持つ女性として生きるとはどんなことなのか知っている」と言いつつも、出産のために退職する同僚の替りに「未婚の女性を探さなくては」という非常に皮肉な言葉を吐き出して終わる。
対して映画でジヨンの主治医になるのは女性で、物語の終盤にやっと受診した彼女に、「心の病気は(自覚症状がないので)病院に来るまでが大変で、来た時点で治療は半分成功」と告げる。
また夫のデヒョンの、男性として、夫としての葛藤描写、病気を知ったジヨンの実家の家族の描写も増えていて、全体にジヨンが周りの家族に包み込まれる様な構図となっている。
女性の生きづらさだけではなく、では周りはどうあるべきかをも描こうとしているのが映画の大きな特徴だ。
そして物語そのものも、主治医のカルテではなく、もともと作家志望だったジヨン本人が自分の半生を振り返って執筆した小説、というメタ構造に落とし込まれる。
この辺りは、放送作家として活躍していたチョ・ナムジュが、出産と育児のために退職せざるを得なくなった自分自身をモデルとして、原作小説を執筆した事実を取り込んだのだろう。
また小説には社名が出てこないジヨンの元上司が立ち上げる会社「春風」は、監督のキム・ドヨンが本作の製作のために作った映画会社と同名であり、作り手も自分をジヨンと同一視しているのが感じられる。
終始客観的な視点で、女性が韓国で生きる苦悩を描写した小説に対し、映画は顔の無い全女性の象徴ではなく、キム・ジヨンという個性に溢れ、それでいて誰もが感情移入出来る一人の女性の生き様をドラマチックに描く。
ビターな後味を残す小説と、明確なハッピーエンドを迎える映画、好みは分かれるだろうが、物語の閉じ方はこれはこれでアリ。
女性目線で共感できるのはもちろん、男性目線だといろいろ気づきを与えてくれる映画なので、デートムービーとしても最適だと思う。
今回は、コーヒーが重要なアイテムとなっているので、コーヒーリキュールを使った暖かカクテル「ホット・カルーアミルク」をチョイス。
カルーア30mlを入れたマグカップに、暖めたミルク適量を注ぎ入れる。
お好みで、ホイップクリームやシナモンパウダーなどを加えて完成。
コーヒー牛乳っぽいテイストの甘いカクテルで、飲むと体がホカホカしてくるのでこれからの季節にぴったりだ。
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16か国言に翻訳され、各国で広く共感を集めたチョ・ナムジュのベストセラー小説、「82年生まれ、キム・ジヨン」の映画化。
1982年に生まれ、夫と一人娘とともにソウルに暮らす33歳のキム・ジヨンに、ある時から奇妙な言動が現れる。
それはまるで彼女の母親や親友といった、近しい女性たちが憑依したかの様で、ジヨンにはそうなっている間の記憶がない。
平凡な主婦だった彼女は、一体なぜ心の病を発症してしまったのか?
映画は彼女の人生を紐解き、韓国社会で女性として生きることの難しさ、目に見えない透明な差別を描き出してゆく。
主人公のキム・ジヨンを、チョン・ユミが好演。
夫のチョン・デヒョンを、彼女と三度目の共演となるコン・ユが演じる。
俳優として長いキャリアを持ち、監督としていくつかの短編で高い評価を受けたキム・ドヨン監督が、見事な長編デビューを飾った。
※ラストに触れています。
キム・ジヨン(チョン・ユミ)は、夫のチョン・デヒョン(コン・ユ)と娘のアヨンと共に、ソウルのマンションに住んでいる。
彼女はもともと広告代理店で働いていたが、娘の出産を機に退職し、今では専業主婦だ。
秋夕の連休に、三人で夫の実家に里帰りした時、事件が起こる。
突然ジヨンが母親のオ・ミスク(キム・ミギョン)そっくりの口調で、夫の家族を非難し始めたのだ。
驚いたデヒョンは、その場を取り繕ってソウルに帰るが、妻はその出来事を全く覚えていない。
デヒョンは、彼女に何が起こったのかを隠したまま、精神科を受信することを勧めるも、高額な料金を知ったジヨンは受診してくれない。
その後も、ジヨンは亡くなった先輩そっくりに話したり、異常な症状が出ては消えるを繰り返す様になる。
そんな時、代理店時代の上司が独立して新会社を立ち上げることを知ったジヨンは、再就職を決意するのだが・・・
期待通りの素晴らしい仕上がりだ。
タイトルロールを演じるチョン・ユミと、夫役のコン・ユは安定感抜群。
二人は、ゾンビ映画の歴史を書き換えた「新感染 ファイナル・エクスプレス」以来の共演だが、これで「トガニ 幼き瞳の告発」と合わせて、共演作全てが秀作となった。
韓国で130万部を超える大ベストセラーとなった原作小説の表紙は、髪の長い女性の肖像が描かれていて、その顔の部分だけがくり抜かれ、向こうには荒涼とした荒野の風景が広がっている。
この世代でもっとも平凡な名前を持つ、顔のないキム・ジヨンは全ての女性の象徴であり、荒野は女性たちが生きている世知辛い社会というわけだ。
小説は、心を病んだジヨンが夫と共に精神科を受診し、主治医が彼女が生まれてから辿って来た人生を聞き取り、記録したカルテという設定で展開する。
2016年のソウルを起点とし、1982年の出生から現在までが時系列に沿って描かれているのだが、女性の生きづらさを表現するための、小説ならではの様々なロジックが駆使されている。
例えば、小説の男性は夫のデヒョン以外は名前が与えられていない。
女性のキャラクターは全て名前が付けられているのに、男性は「父」「弟」と言った具合で名前がないのだ。
これは韓国社会で既婚女性が「○○のママ」「○○の奥さん」などと呼ばれ、個としての名前を失ってゆくことの反転だという。
しかし、こういった文学的手法は映画では使えないし、第三者視点のカルテ設定も無理がある。
映画は基本キム・ジヨンの一人称的な視点に夫の視点が混じり合う形で描かれ、現在の夫婦の関係を軸として、彼女の回想として過去を振り返るという構成となっている。
もっとも、精神科受診が終盤に移動している以外は、中盤まで話そのものは非常に忠実。
過去の描写が減った分、原作で大きな比重を占めていた、ジヨンの祖母から三代に渡る女性の社会的ポジションの変化といった時代性の要素は希薄になっているものの、現在の主人公の感じてる生きづらさ、見えない差別にフォーカスしたのは正解だと思う。
過去パートが物足りないという人には、日本では初夏に公開された「はちどり」が、ちょうど本作の主人公と同世代となる少女の90年代を描いていて、テーマ的にも共通する部分があるのでお勧めしたい。
韓国の女性というと思い出すのが、私が80年代の終わりに米国に留学していた時に、遊び仲間だったAさんのことだ。
ある時、彼女が泣いていて、聞くと仲の悪い同郷の留学生に「Aさんは処女じゃない」と噂を流されて、それが韓国人留学生たちの間に広まってしまったのだという。
「韓国では処女じゃないとまともな結婚はできない。こんな噂が韓国に伝わったら人生が終わっちゃう」と泣く彼女を慰めつつ、なんと大時代的なと驚いた。
まあ当時の韓国人留学生は財閥の御曹司がいたり、ちょっと特殊な村社会的なグループで必ずしも一般的ではなかったかもしれないが。
80年代生まれのジヨンとは、ちょうどひと回り上の世代だが、本作を観ると価値観に隔世の感があり、改めて韓国女性の置かれているポジション、いや韓国社会そのものが、いかに短期間のうちに急激に変化したのかを実感する。
だが、変わる部分もあれば、なかなか変わらない部分もある。
家族の中で男子を優先しがちなこと、出産後に会社に残りづらい硬直した仕組み、家事や育児がワンオペになりがちなこと、専業主婦を下に見る風潮。
社会に不文律として組み込まれた理不尽が積み重なり、平穏な日常は気づかないうちに静かな生き地獄となる。
「ガラスの天井」という言葉はよく聞くが、ジヨンは階段を上がる以前に道を歩くたびに現れるガラスの壁にぶつかり、いつの間にか出口の無い密室に閉じ込められてしまったのだ。
たぶん彼女が感じているガラスの壁、透明な差別というのは、ベースの部分でよく似た文化を持つ日本の事情ともほぼ完全に一致するのではないか。
作中で印象的に使われている、「ママ虫」という言葉がある。
専業主婦は、夫の収入に寄生して楽して生きている害虫だという、非常に侮蔑的な言葉なのだが、映画の冒頭でサラリーマンからこの言葉を浴びせられたジヨンは、ショックを受けて逃げる様に立ち去ってしまう。
ところが、映画の終盤で精神科に通い始めた彼女は、再び「ママ虫」という言葉を使った男に対して、毅然として反論するのだ。
実は映画の後半は、原作小説と結構異なる。
ジヨンの再就職への挑戦が一つの山場となるが、これは映画のオリジナル。
物語の最後も、小説では彼女の主治医である男性医師が、「私は韓国で女性として、特に子どもを持つ女性として生きるとはどんなことなのか知っている」と言いつつも、出産のために退職する同僚の替りに「未婚の女性を探さなくては」という非常に皮肉な言葉を吐き出して終わる。
対して映画でジヨンの主治医になるのは女性で、物語の終盤にやっと受診した彼女に、「心の病気は(自覚症状がないので)病院に来るまでが大変で、来た時点で治療は半分成功」と告げる。
また夫のデヒョンの、男性として、夫としての葛藤描写、病気を知ったジヨンの実家の家族の描写も増えていて、全体にジヨンが周りの家族に包み込まれる様な構図となっている。
女性の生きづらさだけではなく、では周りはどうあるべきかをも描こうとしているのが映画の大きな特徴だ。
そして物語そのものも、主治医のカルテではなく、もともと作家志望だったジヨン本人が自分の半生を振り返って執筆した小説、というメタ構造に落とし込まれる。
この辺りは、放送作家として活躍していたチョ・ナムジュが、出産と育児のために退職せざるを得なくなった自分自身をモデルとして、原作小説を執筆した事実を取り込んだのだろう。
また小説には社名が出てこないジヨンの元上司が立ち上げる会社「春風」は、監督のキム・ドヨンが本作の製作のために作った映画会社と同名であり、作り手も自分をジヨンと同一視しているのが感じられる。
終始客観的な視点で、女性が韓国で生きる苦悩を描写した小説に対し、映画は顔の無い全女性の象徴ではなく、キム・ジヨンという個性に溢れ、それでいて誰もが感情移入出来る一人の女性の生き様をドラマチックに描く。
ビターな後味を残す小説と、明確なハッピーエンドを迎える映画、好みは分かれるだろうが、物語の閉じ方はこれはこれでアリ。
女性目線で共感できるのはもちろん、男性目線だといろいろ気づきを与えてくれる映画なので、デートムービーとしても最適だと思う。
今回は、コーヒーが重要なアイテムとなっているので、コーヒーリキュールを使った暖かカクテル「ホット・カルーアミルク」をチョイス。
カルーア30mlを入れたマグカップに、暖めたミルク適量を注ぎ入れる。
お好みで、ホイップクリームやシナモンパウダーなどを加えて完成。
コーヒー牛乳っぽいテイストの甘いカクテルで、飲むと体がホカホカしてくるのでこれからの季節にぴったりだ。

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この記事へのコメント
韓国と日本は似てるけど、韓国の方が喜怒哀楽が激しいお国柄と儒教精神がベースにあって、より生きづらいかなと感じてしまう。でもまあ、職場でセックスばかりやってて、それが出世と関係する島耕作みたいなマンガのある国だからあまり大きな顔もできないなあと思ったりもします。
2020/10/16(金) 22:18:06 | URL | fjk78dead #-[ 編集]
>ふじきさん
ところがね、実際に韓国で子育てしてる日本人に言わせると、圧倒的に向こうのほうが優しいらしいのですよ。
もちろん一長一短はあるだろうけど、過去30年の韓国の変化を見ても日本はやっぱ社会の動きがスローなんだと思います。
ところがね、実際に韓国で子育てしてる日本人に言わせると、圧倒的に向こうのほうが優しいらしいのですよ。
もちろん一長一短はあるだろうけど、過去30年の韓国の変化を見ても日本はやっぱ社会の動きがスローなんだと思います。
2020/10/20(火) 21:07:09 | URL | ノラネコ #xHucOE.I[ 編集]
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◆『82年生まれ、キム・ジヨン』新宿ピカデリー2
▲画像は後から。
五つ星評価で【★★★男に生まれてきてごめんなさい】
まず、タイトルの意味があまりよく分かっていなかった。「キム・ジヨン」って主人公の名前だろうくらいにしか思ってなかった。「キム・ジヨン」は1982年生まれの韓国女性のもっともありふれた名前だという事である。日本だったら「高橋愛」か「佐藤愛」辺り。
このキム・ジヨンが人生を生...
2020/10/15(木) 23:52:40 | ふじき78の死屍累々映画日記・第二章
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