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2021年08月14日 (土) | 編集 |
“ギフト”をもたらすのは、神なのか、悪魔なのか。
日本人にもほとんど知られていない、第二次世界大戦中の日本の核開発を描いた異色の作品。
昨年の8月15日に放送された、NHKのスペシャルドラマの劇場編集版だ。
本年度の大河ドラマ「青天を衝け」のチーフ演出を務める黒崎博が、史実をベースとしたオリジナル脚本を執筆し、監督を兼務。
米国のプロダクションとの共同制作により、「愛を読むひと」で知られる音楽のニコ・ミューリーをはじめ、多くの外国人スタッフが参加している。
主人公の京都帝国大学の学生・石村修を柳楽優弥が好演。
弟の裕之に三浦春馬、母親のフミを田中裕子、幼馴染の世津を有村架純が演じる。
TVドラマ版とは編集が大幅に異なり、実質似て非なる別の作品になっているので、ドラマを観た人でも新鮮に鑑賞できるだろう。
昭和20年初夏。
京都帝国大学で、物理学を専攻する石村修(柳楽優弥)は、海軍の核開発を担う荒勝研究室の一員として、実験材料となるウランの確保に奔走していた。
戦局は日増しに悪化し、輸入の止まったウランを手に入れるのは容易ではなく、高純度のウラン235の精製に使う遠心分離機の開発は遅々として進まない。
そんな時、幼馴染の朝倉世津(有村架純)が、体の不自由な父の清三(山本晋也)と共に家の離れに転がり込んできた。
航空兵となっていた弟の裕之(三浦春馬)も、肺を患い療養のために一時帰宅。
子供の頃からお互いをよく知る三人は、束の間の青春を謳歌する。
修と裕之は目の前のことしか見えていないが、世津は戦争が終わったら教師となって子供たちを教えたいと夢を語る。
やがて、裕之は部隊へ帰隊し、修の研究漬けの日々が戻ってくる。
徐々にではあるが、開発も進み出したある日、修は広島に米軍の新型爆弾が落とされたことを知る。
それは、日本の科学者たちが熾烈な開発競争に敗れた瞬間だった・・・・
本作の企画は、広島の図書館を訪れた黒崎博が、核開発に参加していた京都帝国大学の若い研究者の日記を目にし、そこに綴られていた等身大の若者らしい言葉に興味を抱いたことからスタートしたと言う。
アインシュタインが、有名な「E = mc2」の等式を発表したのは1907年。
Eはエネルギー、mは質量、cは光速度で、要するに物質が光に近い速度で運動すると、そこから巨大なエネルギーを取り出せると言うものだ。
これを人工的に起こすのが核分裂で、取り出したエネルギーを動力として使えば原発となり、兵器として利用するのが核爆弾。
大戦当時は戦争のルールを覆すゲームチェンジャーとして、各国が核爆弾の開発を急いでいた。
日本の場合、進行していた開発計画は二つ。
理化学研究所の仁科芳雄の研究室を中心とした陸軍の「二号研究」と、京都帝国大学の荒勝文策の研究室による海軍の「F研究」で、本作が描くのは後者。
国の運命をかけた研究でも、仲の悪い陸軍と海軍の主導権争いで、研究が二本立てになってしまうのが、いかにも縦割りの日本らしい。
冒頭、イッセー尾形演じる陶芸窯の主人が、膨大な数の骨壺を焼いているシーンから物語は幕を開ける。
TVドラマ版の冒頭とラストにあった現在の広島のシーンはカットされ、主人公の修が貴重なウランを求めて、ウランを釉薬として使う陶芸窯を訪ねるところから始まるのだ。
この短いシーンは、情報量が非常に多い。
1945年の初夏には、すでに陶芸窯の仕事が釉薬を必要とする日用品ではなく、戦争犠牲者の骨壺作りになっているくらい、戦局が悪化していること。
爆弾を作るには、数トンの量が必要なウランを確保できず、研究生がわずか数キロを求めて彷徨っていること。
当時の日本の社会と研究者が置かれている状況が、爆弾と同じ炎を使う窯で象徴的に描き出される。
これらのことからも分かる様に、劇場版はTVドラマ版より、科学者としての主人公の心情に寄り添った視点から描かれている。
物語の中で、科学者が兵器を作ることの倫理的な意味を問われた荒勝教授は、「自分たちは兵器を作ってるんじゃない。未来を作っているんだ」と答える。
これが詭弁であることは、おそらく荒勝自身も分かっているだろう。
しかし彼らには他に選択肢が無いのだ。
もちろん学生である修には、関わらない決断をすることもできたはずだが、彼は核の炎が未来の世界に何をもたらすのかを頭では理解しながらも、その悪魔的な魅力に取り憑かれてしまっている。
彼は、核分裂の光が美しい、もっと見たいと語る。
明日が確実にあるものとは限らない、戦争の時代。
航空兵となった弟の裕之は出撃の時を待ち、世津の家は街の防火帯を作るために取り壊された。
皆生き延びるために精一杯の中、修だけは別の世界を見ているのだ。
この瞳の奥に情念の狂気を宿した主人公は、「風立ちぬ」の堀越二郎を彷彿とさせる。
だが、修が追い求めたものの闇は、あまりにも深すぎた。
実際に原爆が使われた広島の地に立ったことで、修は核の正体を見せ付けられるのである。
広島に続いて長崎に原爆が投下されたことで、人々は次は今まで空襲がなかった京都だと噂する。
ここで修は、母のフミと世津に疎開を進め、自分は研究者の仕事して京都が破壊されるその瞬間を見たいと言うが、フミは研究者の母の責任として、京都を離れないと言う。
ドラマ版だと主人公の葛藤は、あえて途中で終わらせているが、劇場版はその先を描く。
爆発を見るために登った比叡山で、修は大きな握り飯を食べる。
それは、特攻隊員として先に散った裕之の、最後の旅路にフミが持たせたのと同じもの。
食糧難の時代、米をふんだんに使った握り飯が、今生の別れの覚悟を意味するのは明らかだ。
自分が今しようとしていることは、科学者としては正しいかもしれないが、人間として間違っていることにようやく気づいた修は、憑物が落ちた様な顔をしている。
そして映画は、再び広島へと向かう修を、ある人物の“声”と対話させ、大きなジレンマを抱きながらも、一応の結論を導き出すのである。
果たして科学は人類にとって、神の福音なのか、悪魔の呪いなのか。
複雑に矛盾した柳楽優弥と、死を覚悟しながらも少年のような笑顔を浮かべる三浦春馬、地に足をつけ未来を見据える有村架純。
若者たち三者三様の青春の情景が、痛ましくも瑞々しい。
観応えある秀作である。
本作は日本酒を飲み交わす描写が印象的だが、洛中唯一の老舗酒蔵、佐々木酒造の「聚楽第 純米吟醸」をチョイス。
端麗やや辛口で、軽やかな吟醸香のフルーティな味わい。
スッキリした喉ごしを、冷で楽しみたい。
銘柄の聚楽第とは豊臣秀吉が京都に築いた豪華絢爛な城郭風の大邸宅で、現存はしないものの桃山文化を代表する建築物。
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日本人にもほとんど知られていない、第二次世界大戦中の日本の核開発を描いた異色の作品。
昨年の8月15日に放送された、NHKのスペシャルドラマの劇場編集版だ。
本年度の大河ドラマ「青天を衝け」のチーフ演出を務める黒崎博が、史実をベースとしたオリジナル脚本を執筆し、監督を兼務。
米国のプロダクションとの共同制作により、「愛を読むひと」で知られる音楽のニコ・ミューリーをはじめ、多くの外国人スタッフが参加している。
主人公の京都帝国大学の学生・石村修を柳楽優弥が好演。
弟の裕之に三浦春馬、母親のフミを田中裕子、幼馴染の世津を有村架純が演じる。
TVドラマ版とは編集が大幅に異なり、実質似て非なる別の作品になっているので、ドラマを観た人でも新鮮に鑑賞できるだろう。
昭和20年初夏。
京都帝国大学で、物理学を専攻する石村修(柳楽優弥)は、海軍の核開発を担う荒勝研究室の一員として、実験材料となるウランの確保に奔走していた。
戦局は日増しに悪化し、輸入の止まったウランを手に入れるのは容易ではなく、高純度のウラン235の精製に使う遠心分離機の開発は遅々として進まない。
そんな時、幼馴染の朝倉世津(有村架純)が、体の不自由な父の清三(山本晋也)と共に家の離れに転がり込んできた。
航空兵となっていた弟の裕之(三浦春馬)も、肺を患い療養のために一時帰宅。
子供の頃からお互いをよく知る三人は、束の間の青春を謳歌する。
修と裕之は目の前のことしか見えていないが、世津は戦争が終わったら教師となって子供たちを教えたいと夢を語る。
やがて、裕之は部隊へ帰隊し、修の研究漬けの日々が戻ってくる。
徐々にではあるが、開発も進み出したある日、修は広島に米軍の新型爆弾が落とされたことを知る。
それは、日本の科学者たちが熾烈な開発競争に敗れた瞬間だった・・・・
本作の企画は、広島の図書館を訪れた黒崎博が、核開発に参加していた京都帝国大学の若い研究者の日記を目にし、そこに綴られていた等身大の若者らしい言葉に興味を抱いたことからスタートしたと言う。
アインシュタインが、有名な「E = mc2」の等式を発表したのは1907年。
Eはエネルギー、mは質量、cは光速度で、要するに物質が光に近い速度で運動すると、そこから巨大なエネルギーを取り出せると言うものだ。
これを人工的に起こすのが核分裂で、取り出したエネルギーを動力として使えば原発となり、兵器として利用するのが核爆弾。
大戦当時は戦争のルールを覆すゲームチェンジャーとして、各国が核爆弾の開発を急いでいた。
日本の場合、進行していた開発計画は二つ。
理化学研究所の仁科芳雄の研究室を中心とした陸軍の「二号研究」と、京都帝国大学の荒勝文策の研究室による海軍の「F研究」で、本作が描くのは後者。
国の運命をかけた研究でも、仲の悪い陸軍と海軍の主導権争いで、研究が二本立てになってしまうのが、いかにも縦割りの日本らしい。
冒頭、イッセー尾形演じる陶芸窯の主人が、膨大な数の骨壺を焼いているシーンから物語は幕を開ける。
TVドラマ版の冒頭とラストにあった現在の広島のシーンはカットされ、主人公の修が貴重なウランを求めて、ウランを釉薬として使う陶芸窯を訪ねるところから始まるのだ。
この短いシーンは、情報量が非常に多い。
1945年の初夏には、すでに陶芸窯の仕事が釉薬を必要とする日用品ではなく、戦争犠牲者の骨壺作りになっているくらい、戦局が悪化していること。
爆弾を作るには、数トンの量が必要なウランを確保できず、研究生がわずか数キロを求めて彷徨っていること。
当時の日本の社会と研究者が置かれている状況が、爆弾と同じ炎を使う窯で象徴的に描き出される。
これらのことからも分かる様に、劇場版はTVドラマ版より、科学者としての主人公の心情に寄り添った視点から描かれている。
物語の中で、科学者が兵器を作ることの倫理的な意味を問われた荒勝教授は、「自分たちは兵器を作ってるんじゃない。未来を作っているんだ」と答える。
これが詭弁であることは、おそらく荒勝自身も分かっているだろう。
しかし彼らには他に選択肢が無いのだ。
もちろん学生である修には、関わらない決断をすることもできたはずだが、彼は核の炎が未来の世界に何をもたらすのかを頭では理解しながらも、その悪魔的な魅力に取り憑かれてしまっている。
彼は、核分裂の光が美しい、もっと見たいと語る。
明日が確実にあるものとは限らない、戦争の時代。
航空兵となった弟の裕之は出撃の時を待ち、世津の家は街の防火帯を作るために取り壊された。
皆生き延びるために精一杯の中、修だけは別の世界を見ているのだ。
この瞳の奥に情念の狂気を宿した主人公は、「風立ちぬ」の堀越二郎を彷彿とさせる。
だが、修が追い求めたものの闇は、あまりにも深すぎた。
実際に原爆が使われた広島の地に立ったことで、修は核の正体を見せ付けられるのである。
広島に続いて長崎に原爆が投下されたことで、人々は次は今まで空襲がなかった京都だと噂する。
ここで修は、母のフミと世津に疎開を進め、自分は研究者の仕事して京都が破壊されるその瞬間を見たいと言うが、フミは研究者の母の責任として、京都を離れないと言う。
ドラマ版だと主人公の葛藤は、あえて途中で終わらせているが、劇場版はその先を描く。
爆発を見るために登った比叡山で、修は大きな握り飯を食べる。
それは、特攻隊員として先に散った裕之の、最後の旅路にフミが持たせたのと同じもの。
食糧難の時代、米をふんだんに使った握り飯が、今生の別れの覚悟を意味するのは明らかだ。
自分が今しようとしていることは、科学者としては正しいかもしれないが、人間として間違っていることにようやく気づいた修は、憑物が落ちた様な顔をしている。
そして映画は、再び広島へと向かう修を、ある人物の“声”と対話させ、大きなジレンマを抱きながらも、一応の結論を導き出すのである。
果たして科学は人類にとって、神の福音なのか、悪魔の呪いなのか。
複雑に矛盾した柳楽優弥と、死を覚悟しながらも少年のような笑顔を浮かべる三浦春馬、地に足をつけ未来を見据える有村架純。
若者たち三者三様の青春の情景が、痛ましくも瑞々しい。
観応えある秀作である。
本作は日本酒を飲み交わす描写が印象的だが、洛中唯一の老舗酒蔵、佐々木酒造の「聚楽第 純米吟醸」をチョイス。
端麗やや辛口で、軽やかな吟醸香のフルーティな味わい。
スッキリした喉ごしを、冷で楽しみたい。
銘柄の聚楽第とは豊臣秀吉が京都に築いた豪華絢爛な城郭風の大邸宅で、現存はしないものの桃山文化を代表する建築物。

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1945年、夏。 京都帝国大学・物理学研究室では〈原子核爆弾〉の研究開発が進行中で、若き研究員・石村修は研究に没頭していた。 そんな時、軍人の弟・裕之が一時帰宅し、幼馴染の女性・朝倉世津と共に、3人は浜辺で束の間の“夏休み”を味わう。 そして8月6日、アメリカ製の新型爆弾が広島に投下された…。 戦争ヒューマンドラマ 。 ≪僕らは、未来を作っていると思ってたー≫
2021/08/15(日) 15:56:18 | 象のロケット
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