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2021年09月23日 (木) | 編集 |
その時、スレブレニツァで何が起こっていたのか。
作品の密度と熱量に圧倒される。
1990年代、旧ユーゴスラビア連邦崩壊の結果勃発した、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争末期。
第二次世界大戦以降の欧州で起こった、最悪の大量虐殺事件として知られる「スレブレニツァの虐殺」を一人の現地の女性の視点で描いた作品だ。
主人公は、停戦監視のために展開していた国連保護軍の基地で、通訳として働くアイダ。
イスラム教徒のボシュニャク人勢力と、分離独立を主張するセルビア人勢力が血で血を洗う紛争を繰り広げる中、スレブレニツァは国連から安全地帯として指定されていたが、停戦は守られず街には強力な武力を持つセルビア人勢力が侵攻。
国連軍基地には攻撃から逃れた3万人のボシュニャク人市民が保護を求めて押しかけるが、小さな基地は早々に満杯となり、大半はいつ攻撃されるとも知れない無防備な基地外に留め置かれた。
カオスの戦場で、ボシュニャク人でありながら国連軍の職員でもあるアイダが、家族を救おうと奮闘する顛末が描かれてゆく。
2007年に発表した長編第1作「サラエボの花」で、ベルリン国際映画祭の最高賞、金熊賞に輝いたヤスミラ・ジュバニッチ監督の大労作だ。
1995年7月。
ボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァ近郊の国連保護軍基地で、通訳として働くアイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)は、基地に押し寄せる無数の難民たちの姿に驚愕する。
セルビア人勢力のスルプスカ共和国軍が、スレブレニツァに侵攻。
虐殺を恐れた多くの市民が、国連軍に助けを求めて来たのだ。
その数、実に3万人。
わずかな数の兵士しかいない基地に、とても入りきれる数でなかったが、アイダは難民の中に家族の姿を見つけ、夫と二人の息子をなんとか基地内に迎え入れることに成功。
スルプスカのムラディッチ将軍(ボリス・イサコビッチ)との交渉の結果、難民たちは国連軍の保護のもと後方に移送されることになるが、国連軍が計画を立てる前にムラディッチはバス隊を仕立て、基地の外にいる難民を勝手に移送しはじめる。
国連軍のカレマンス大佐(ヨハン・ヘルデンベルグ)が抗議するも、頼みの綱のNATO軍は動かず、圧倒的多数のセルビア人勢力に包囲された国連軍にもはや打つ手は無い。
ムラディッチのバスに乗ったら、確実に殺される。
アイダは、家族を救うために、なりふり構わない行動に出るのだが・・・
かつてのイスラム帝国とキリスト教世界が、侵入と奪還を繰り返して来たバルカン半島は、様々な民族宗教が入り乱れ、一度民族主義に火がついたら止められない“欧州の火薬庫”と呼ばれて来た。
第一次世界大戦は、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、セルビア民族主義者に暗殺されたことをきっかけに始まり、全世界を巻き込む空前の大戦争となった。
第二次世界大戦後は、チトー大統領のカリスマ性によって、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国として統一を維持するが、彼の死後は東欧民主化の余波を受けて連邦が崩壊。
北部のスロべニア、クロアチアは内戦の結果早々に離脱するも、泥沼の紛争に陥ったのがユーゴスラビアの中央に位置し、三つの民族がそれぞれの主張を掲げたボスニア・ヘルツェゴビナだ。
イスラム教徒のボシュニャク人が主導する政府に対して、正教徒のセルビア人たちは旧ユーゴスラビア軍の装備を奪取し、スルプスカ共和国の分離独立を宣言、カソリックのクロアチア人も反旗を翻し、自分たちの領土を確保するための三つ巴の内戦に陥る。
本作の舞台となるスレブレニツァは、もともと各民族が混在するボスニア政府の支配地だったが、徐々にボシュニャク人の難民が流入し、周囲をセルビア人勢力に包囲され孤立していった。
1993年には国連がスレブレニツァを安全地帯に指定し、国連保護軍が展開するも、停戦監視が主任務で戦闘を想定した部隊ではない。
旧ユーゴスラビアは軍事大国だったので、わずか数百人の軽武装の国連軍では、そもそも相手にならないのである。
本作の劇中でも基地司令官のオランダ軍大佐が、NATOに空爆を要請して聞き入れられない描写があるが、国連が本格的な装備を持った和平履行部隊を組織し本格介入するのは、虐殺事件が起こった後のことなのだ。
もっとも、規模の大きさは別として、民間人虐殺はセルビア人だけが行なったのではない。
本作はあくまでもスレブレニツァで起こった事件を、その場に居合わせたアイダの視点で描いたものだが、事件に至る紛争の間それぞれの陣営が敵対するエスニックグループを民族浄化した。
ボシュニャク人に虐殺されたセルビア人も少なくなく、お互いに対する積み重なった怨みが事態をエスカレートさせたのもまた事実。
作中でも「セルビア人を殺した奴らは許さない」という台詞もある。
これは四半世紀前に起こった、忘れてはならない歴史を描いた物語だが、偶然にも強烈な現在性を持つこととなった。
何しろ、この映画に描かれる光景は、つい先日アフガニスタンで起きていたこととそっくりなのである。
アフガニスタンもまた多民族国家で、タリバンは多数派のパシュトゥーン人主体。
欧米の軍に協力したりして、迫害を恐れている人たちは、多くが非パシュトゥーンの少数民族だという。
迫りくるタリバンから逃れるため、無数の市民がカブールの空港に押しかけるが、飛行機に乗れるのは限られた人たちだけというのも、本作のシチュエーションと共通する。
アイダはボシュニャク人だが国連軍の職員でもあるので、彼女は国連軍と共に撤退するリストに載っているが、夫と二人の息子は載っていない。
脱出を希望する全員を助けられないのは明白で、スレブレニツァの状況はアフガニスタンよりもさらに厳しい。
カブール空港には各国の航空機が続々と到着し、協力者とその家族を救い上げていった一方で、こちらは国連軍とその関係者と認定された者しか脱出できないのである。
誰を助けて、誰を見捨てるか。
民族浄化の連鎖を見て来たアイダは、セルビア人勢力が用意したバスに乗せられたら最後、夫や息子たちが二度と戻らないことを知っている。
ここからアイダはなりふりかまわない行動に出て、強引に家族をリストに入れるよう画策するのだが、現実は甘くない。
圧倒的多数のセルビア人勢力の中で、孤立した国連軍の無力さもショッキングだ。
セルビア人勢力にボシュニャク人を勝手に移送され、基地と目と鼻の先で虐殺されているのが分かっているのに何も出来ない。
自分たちを送り込んだ国連もNATOも、全てを現場に押しつけ沈黙したまま。
中立地帯のはずの国連軍基地に、セルビア人の兵士が我がもの顔で押し入り、ボシュニャク人たちを連れ去ってゆく。
殺されると分かっているのに彼らを止めることが出来ず、咽び泣く国連軍の若い兵士の姿が心に刺さる。
どこまで事実に添っているのかは不明だが、最後には基地司令官まで自室に引きこもり、職場放棄してしまうのには唖然とした。
まあ実際のところ、彼に出来ることは何もなかったのだろうけど。
この事件の後、1998年に起こったコソボ紛争では、NATOが大規模な軍事介入を行い、一連の旧ユーゴスラビアを巡る紛争はようやく終結に向かうことになる。
軍事介入の是非はともかく、やはり官僚組織は一度ことが起こらないと動かないもののようだ。
ボスニア・ヘルツェゴビナでの紛争は、事件の半年後にデイトン合意が結ばれたことによって終わり、セルビア人主導のスルプスカ共和国とボシュニャク人・クロアチア人主導のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の共存体制が築かれる。
映画の最終章では、戦後スレブレニツァに戻って来たアイダの姿が描かれる。
紛争が始まる前は教師だったという彼女は、小学校の教師として復帰するのだが、戦後のスレブレニツァが位置するのはスルプスカ共和国内である。
多民族都市だったスレブレニツァには、アイダのように戻って来たボシュニャク人もいれば、セルビア人もいる。
平和になったからといって、全てのわだかまりが解消するはずもない。
小学校で開かれた子供たちの発表会には、かつて殺し合った敵同士が今は生徒の親として同席している。
顔の表情を手のひらで隠す、生徒たちのパフォーマンスが象徴的。
発表会を見守るアイダの、笑っているとも怒っているとも、全ての感情を押し殺したような表情が、全てを物語る。
いつまで経っても繰り返される、人類の罪と罰。
映画は基本的に、妻であり母であったアイダの経験だけに絞って分かりやすく描かれているが、この映画をきっかけとしてもっと歴史を知ってほしいという意図は明確だ。
今、観るべき傑作である。
今回はバルカン半島の蒸留酒「ラキヤ」をチョイス。
様々な果実を発酵させて作られる伝統的な酒で、昔は自家製が普通だったという。
バルカン半島のキリスト教徒は、儀式で使うワインの代用にすることもあるとか。
非常に強い酒なので、ショットグラスでクイっと飲むのが普通だが、ウォッカなどと同じように冷凍庫でキンキンに冷やしてもなかなか美味しい。
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作品の密度と熱量に圧倒される。
1990年代、旧ユーゴスラビア連邦崩壊の結果勃発した、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争末期。
第二次世界大戦以降の欧州で起こった、最悪の大量虐殺事件として知られる「スレブレニツァの虐殺」を一人の現地の女性の視点で描いた作品だ。
主人公は、停戦監視のために展開していた国連保護軍の基地で、通訳として働くアイダ。
イスラム教徒のボシュニャク人勢力と、分離独立を主張するセルビア人勢力が血で血を洗う紛争を繰り広げる中、スレブレニツァは国連から安全地帯として指定されていたが、停戦は守られず街には強力な武力を持つセルビア人勢力が侵攻。
国連軍基地には攻撃から逃れた3万人のボシュニャク人市民が保護を求めて押しかけるが、小さな基地は早々に満杯となり、大半はいつ攻撃されるとも知れない無防備な基地外に留め置かれた。
カオスの戦場で、ボシュニャク人でありながら国連軍の職員でもあるアイダが、家族を救おうと奮闘する顛末が描かれてゆく。
2007年に発表した長編第1作「サラエボの花」で、ベルリン国際映画祭の最高賞、金熊賞に輝いたヤスミラ・ジュバニッチ監督の大労作だ。
1995年7月。
ボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァ近郊の国連保護軍基地で、通訳として働くアイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)は、基地に押し寄せる無数の難民たちの姿に驚愕する。
セルビア人勢力のスルプスカ共和国軍が、スレブレニツァに侵攻。
虐殺を恐れた多くの市民が、国連軍に助けを求めて来たのだ。
その数、実に3万人。
わずかな数の兵士しかいない基地に、とても入りきれる数でなかったが、アイダは難民の中に家族の姿を見つけ、夫と二人の息子をなんとか基地内に迎え入れることに成功。
スルプスカのムラディッチ将軍(ボリス・イサコビッチ)との交渉の結果、難民たちは国連軍の保護のもと後方に移送されることになるが、国連軍が計画を立てる前にムラディッチはバス隊を仕立て、基地の外にいる難民を勝手に移送しはじめる。
国連軍のカレマンス大佐(ヨハン・ヘルデンベルグ)が抗議するも、頼みの綱のNATO軍は動かず、圧倒的多数のセルビア人勢力に包囲された国連軍にもはや打つ手は無い。
ムラディッチのバスに乗ったら、確実に殺される。
アイダは、家族を救うために、なりふり構わない行動に出るのだが・・・
かつてのイスラム帝国とキリスト教世界が、侵入と奪還を繰り返して来たバルカン半島は、様々な民族宗教が入り乱れ、一度民族主義に火がついたら止められない“欧州の火薬庫”と呼ばれて来た。
第一次世界大戦は、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、セルビア民族主義者に暗殺されたことをきっかけに始まり、全世界を巻き込む空前の大戦争となった。
第二次世界大戦後は、チトー大統領のカリスマ性によって、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国として統一を維持するが、彼の死後は東欧民主化の余波を受けて連邦が崩壊。
北部のスロべニア、クロアチアは内戦の結果早々に離脱するも、泥沼の紛争に陥ったのがユーゴスラビアの中央に位置し、三つの民族がそれぞれの主張を掲げたボスニア・ヘルツェゴビナだ。
イスラム教徒のボシュニャク人が主導する政府に対して、正教徒のセルビア人たちは旧ユーゴスラビア軍の装備を奪取し、スルプスカ共和国の分離独立を宣言、カソリックのクロアチア人も反旗を翻し、自分たちの領土を確保するための三つ巴の内戦に陥る。
本作の舞台となるスレブレニツァは、もともと各民族が混在するボスニア政府の支配地だったが、徐々にボシュニャク人の難民が流入し、周囲をセルビア人勢力に包囲され孤立していった。
1993年には国連がスレブレニツァを安全地帯に指定し、国連保護軍が展開するも、停戦監視が主任務で戦闘を想定した部隊ではない。
旧ユーゴスラビアは軍事大国だったので、わずか数百人の軽武装の国連軍では、そもそも相手にならないのである。
本作の劇中でも基地司令官のオランダ軍大佐が、NATOに空爆を要請して聞き入れられない描写があるが、国連が本格的な装備を持った和平履行部隊を組織し本格介入するのは、虐殺事件が起こった後のことなのだ。
もっとも、規模の大きさは別として、民間人虐殺はセルビア人だけが行なったのではない。
本作はあくまでもスレブレニツァで起こった事件を、その場に居合わせたアイダの視点で描いたものだが、事件に至る紛争の間それぞれの陣営が敵対するエスニックグループを民族浄化した。
ボシュニャク人に虐殺されたセルビア人も少なくなく、お互いに対する積み重なった怨みが事態をエスカレートさせたのもまた事実。
作中でも「セルビア人を殺した奴らは許さない」という台詞もある。
これは四半世紀前に起こった、忘れてはならない歴史を描いた物語だが、偶然にも強烈な現在性を持つこととなった。
何しろ、この映画に描かれる光景は、つい先日アフガニスタンで起きていたこととそっくりなのである。
アフガニスタンもまた多民族国家で、タリバンは多数派のパシュトゥーン人主体。
欧米の軍に協力したりして、迫害を恐れている人たちは、多くが非パシュトゥーンの少数民族だという。
迫りくるタリバンから逃れるため、無数の市民がカブールの空港に押しかけるが、飛行機に乗れるのは限られた人たちだけというのも、本作のシチュエーションと共通する。
アイダはボシュニャク人だが国連軍の職員でもあるので、彼女は国連軍と共に撤退するリストに載っているが、夫と二人の息子は載っていない。
脱出を希望する全員を助けられないのは明白で、スレブレニツァの状況はアフガニスタンよりもさらに厳しい。
カブール空港には各国の航空機が続々と到着し、協力者とその家族を救い上げていった一方で、こちらは国連軍とその関係者と認定された者しか脱出できないのである。
誰を助けて、誰を見捨てるか。
民族浄化の連鎖を見て来たアイダは、セルビア人勢力が用意したバスに乗せられたら最後、夫や息子たちが二度と戻らないことを知っている。
ここからアイダはなりふりかまわない行動に出て、強引に家族をリストに入れるよう画策するのだが、現実は甘くない。
圧倒的多数のセルビア人勢力の中で、孤立した国連軍の無力さもショッキングだ。
セルビア人勢力にボシュニャク人を勝手に移送され、基地と目と鼻の先で虐殺されているのが分かっているのに何も出来ない。
自分たちを送り込んだ国連もNATOも、全てを現場に押しつけ沈黙したまま。
中立地帯のはずの国連軍基地に、セルビア人の兵士が我がもの顔で押し入り、ボシュニャク人たちを連れ去ってゆく。
殺されると分かっているのに彼らを止めることが出来ず、咽び泣く国連軍の若い兵士の姿が心に刺さる。
どこまで事実に添っているのかは不明だが、最後には基地司令官まで自室に引きこもり、職場放棄してしまうのには唖然とした。
まあ実際のところ、彼に出来ることは何もなかったのだろうけど。
この事件の後、1998年に起こったコソボ紛争では、NATOが大規模な軍事介入を行い、一連の旧ユーゴスラビアを巡る紛争はようやく終結に向かうことになる。
軍事介入の是非はともかく、やはり官僚組織は一度ことが起こらないと動かないもののようだ。
ボスニア・ヘルツェゴビナでの紛争は、事件の半年後にデイトン合意が結ばれたことによって終わり、セルビア人主導のスルプスカ共和国とボシュニャク人・クロアチア人主導のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の共存体制が築かれる。
映画の最終章では、戦後スレブレニツァに戻って来たアイダの姿が描かれる。
紛争が始まる前は教師だったという彼女は、小学校の教師として復帰するのだが、戦後のスレブレニツァが位置するのはスルプスカ共和国内である。
多民族都市だったスレブレニツァには、アイダのように戻って来たボシュニャク人もいれば、セルビア人もいる。
平和になったからといって、全てのわだかまりが解消するはずもない。
小学校で開かれた子供たちの発表会には、かつて殺し合った敵同士が今は生徒の親として同席している。
顔の表情を手のひらで隠す、生徒たちのパフォーマンスが象徴的。
発表会を見守るアイダの、笑っているとも怒っているとも、全ての感情を押し殺したような表情が、全てを物語る。
いつまで経っても繰り返される、人類の罪と罰。
映画は基本的に、妻であり母であったアイダの経験だけに絞って分かりやすく描かれているが、この映画をきっかけとしてもっと歴史を知ってほしいという意図は明確だ。
今、観るべき傑作である。
今回はバルカン半島の蒸留酒「ラキヤ」をチョイス。
様々な果実を発酵させて作られる伝統的な酒で、昔は自家製が普通だったという。
バルカン半島のキリスト教徒は、儀式で使うワインの代用にすることもあるとか。
非常に強い酒なので、ショットグラスでクイっと飲むのが普通だが、ウォッカなどと同じように冷凍庫でキンキンに冷やしてもなかなか美味しい。

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この記事へのコメント
国連の無力感は衝撃的でしたね。現場ではあんなに苦しい想いをしていたとは…。
オスカー作品『ノーマンズランド』の皮肉なラストも印象的でしたが、こちらのラストも凄く印象的。
どうかアイダが人の道を踏み外すようなことだけはしないでほしい。子供を復讐に巻き込まないでほしいと心から願いましたよ。
オスカー作品『ノーマンズランド』の皮肉なラストも印象的でしたが、こちらのラストも凄く印象的。
どうかアイダが人の道を踏み外すようなことだけはしないでほしい。子供を復讐に巻き込まないでほしいと心から願いましたよ。
>にゃむばななさん
あの場にいた誰の心にも、ふつふつとした怒りが宿っているのでしょうね。
ボスニアだけではない。
例えばフランコ後のスペインや、戒厳令解除後の台湾など、かつて国内で憎しみあったどの国にもあるケースでしょう。
怒りを押し殺し、生きてゆくしかないのだと思います。
あの場にいた誰の心にも、ふつふつとした怒りが宿っているのでしょうね。
ボスニアだけではない。
例えばフランコ後のスペインや、戒厳令解除後の台湾など、かつて国内で憎しみあったどの国にもあるケースでしょう。
怒りを押し殺し、生きてゆくしかないのだと思います。
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ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争末期の1995年7月11日、東部の街スレブレニツァ。 元教師のボシュニャク人女性アイダは、オランダ部隊が管理する国連保護軍施設で通訳をしている。 セルビア人勢力の侵攻で街が陥落し、2万人もの避難民が殺到した国連施設はすし詰め状態。 アイダは夫と2人の息子を、強引に施設内に招き入れる…。 ≪そこに、神はいなかった―≫ 社会派ドラマ。
2021/09/25(土) 12:04:25 | 象のロケット
結末を事前に知ることなく鑑賞。「敢えて知ることなく」といういつものパターンである。だが、もし結末を知った上でだったなら、劇場に足を運ばなかったかもしれない。それ程までにヘビー。そして観終わった後、しばらく立ち直れなかった。打ちのめされる作品にはこれまでいくつも接してきたけれど、ただ単に「打ちのめされる」というのとも違う。かなり打ちのめされる作品でも、その後に日常生活があり、その中には別のお楽...
2021/12/29(水) 10:30:50 | ここなつ映画レビュー
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