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2022年03月06日 (日) | 編集 |
生きる、とは。
二十歳の時に難病の原発性肺高血圧症と診断され、「余命10年」を宣告された女性が、同窓会で再会した元同級生と人生最後の恋をする。
物語の主人公と同じ病によって、2017年に亡くなった小坂流加の同名ベストセラー小説を、「ヤクザと家族 The Family」の藤井道人監督が映画化した作品。
10年間の人生を懸命に生きる主人公・高林茉莉を小松菜奈が演じ、圧倒的な存在感でスクリーンを支配する。
彼女の、キャリアベストの好演と言っていいだろう。
運命の相手となる真部和人に坂口健太郎、茉莉の姉の桔梗に黒木華、両親を重松豊と原日出子が演じる。
岡田恵和と渡邉真子による脚色が素晴らしく、文字表現を映像表現に置き換える技術の、お手本の様な仕上がり。
本物の四季を写し込むため、一年に渡って撮影したと言うシネマスコープの映像も美しい。
どこまでもまっすぐに、“生きること”に向き合った傑作である。
2011年。
青春を謳歌していた二十歳の高林茉莉(小松菜奈)は、原発性肺高血圧症と診断さる。
発症後10年以上生きた人はほとんどいない、不治の病。
二年間の入院を経て、茉莉は退院するも、未来を閉ざされた人生に虚無感を募らせる。
2014年に、茉莉は三島で開かれた同窓会で元同級生だった真部和人(坂口健太郎)と再会。
両親との確執を抱えた和人は、生きる意味を見失っていて、東京で自殺未遂を起こす。
やがて和人に寄り添う様になった茉莉は、自分の心の変化に戸惑う。
終わりの決まった人生、もう恋はしないと誓っていたはずだったが、しだいに和人のことを愛するようになる。
茉莉は、焼き鳥屋で働き始めた和人と、病気のことは隠して付き合い、ウェブライターの仕事のかたわら、好きだった小説の執筆もはじめる。
だが束の間の平穏な人生は、長くは続かない。
ある日、和人と口論をした茉莉は、意識を失って倒れてしまうのだが・・・・
不治の病を患った女性の、最後の恋。
しかも恋人は、彼女の病気のことを知らない。
この設定だけで、多くの人の頭には大まかなストーリーと作品のイメージが浮かぶだろう。
中には、これだけで食傷気味になってしまう人もいるかもしれない。
しかし2時間の映画の旅を終えた時、最初に抱いたイメージはいい意味で裏切られ、すっかりかき消されているはずだ。
もし、人生の残りが10年と宣告されたら、人はどうするのか。
この10年という時間が、本作を特異なものとしているポイントだ。
大きなことを成し遂げるには短すぎ、全てを諦めてしまうには長すぎる、中途半端な時間。
例え誰かと出会って結婚しても、薬の影響で子供は持てず、近い将来には確実に愛する人と永遠に別たれる。
主人公の茉莉は、突然そんな状況へと投げ出され、理不尽な現実に葛藤しながら、最後の10年を懸命に生き抜くのだ。
原作小説とは、いろいろ設定が変わっている。
大きなところでは、茉莉がアニオタの同人漫画家でコスプレイヤーという設定は消え、和人も歴史ある茶道の家元の御曹司ではなくなっている。
この辺りは、原作のキャラクターのまま実写化すると、少女漫画的に浮世離れしてしまい、リアリティを感じにくいのと同時に、亡くなった作者の小坂流加さんの人生と、物語を重ね合わせるためだろう。
小坂流加さんは、茉莉と同様に二十歳で原発性肺高血圧症と診断され、二十八歳の時に「余命10年」を刊行。
その後、茉莉よりはずいぶん長く生きたが、本作の直接の原作となった文庫版の出版直前に三十八歳の若さで亡くなっている。
以前の版に比べて文庫版では闘病部分が大幅に加筆されているというのも、その間の彼女自身の闘病体験を反映しているからだろう。
だから映画になった本作では、茉莉は単なるフィクションの主人公ではなく、作者自身の人生をも取り込んだ半ノンフィクション。
映画の茉莉が、同人漫画ではなく「余命10年」と題された小説を書いているのも、彼女の故郷が小説の群馬から、作者の出身地である静岡県三島に変更されいてるのも同じ文脈だ。
物語の軸となるのは、生きることを諦めた茉莉と、生きる意味を見失った和人との切ない恋だが、両親や姉とのエピソードや、友人たちとのエピソードも豊富で、茉莉を取り巻く群像劇の風合いもある。
サブキャラクター同士の結びつきが強化されているのも特徴で、それによって後述する展開の工夫もできる様になっているのも映画版の特徴だ。
恋愛の要素は重要だが全てではなく、描くのは10年間の時間に彼女がどんな人たちと、どのように生きたかのなのである。
象徴的に使われているのが、茉莉が常に持ち歩いているビデオカメラだ。
原作の茉莉は、冒頭に登場する同じ病の先輩、礼子にアドバイスされて日記を書いている。
その言葉が各章の最後に出て来て、和人との恋の終わりと共に彼女は日記を燃やすのだが、映画では日記の代わりに礼子からビデオカメラを譲り受けるのだ。
瞬間を永遠に閉じ込めるビデオは、彼女の生きた証そのもの。
命の終わりが来たことを悟った茉莉は、思い出を噛み締めながら、ビデオを一本ずつ消去して行くのだが、最後の一本だけは消せない。
それは和人を写した最初のビデオで、これも後述する終盤の描写の伏線になっている。
日記からビデオへの変更が象徴する様に、原作小説の文字でしか表現できない要素を、巧みに映像でしか出来ない表現へと変換した脚色は、素晴らしい効果を上げている。
本作は終始淡々と茉莉の10年間を描き、露骨な泣かせは極力避けられているが、物語のクライマックスで彼女の脳裏に浮かぶ、もう一つの人生のビジョンは、ドランの「Mommy/マミー」や「ラ・ラ・ランド」に描かれた、“Ifの人生”を思わせる実に映画的な仕掛けで、誰もが涙腺を決壊させるだろう。
原作では離別の後で茉莉が和人と再会するのは彼女の葬儀だが、映画では彼女の死の床に彼が駆けつけるのも、茉莉の親友の沙苗を小説の編集者とし、和人とも友人関係にした脚色の技。
沙苗が和人に預けた脱稿したばかりの「余命10年」の原稿には、「会いたいよ・・・・、会いたいよ、和人・・・」という茉莉の魂の慟哭が描かれているのだから。
生に執着を持たないために、茉莉はもう恋をしないと誓った。
しかしそれは、積極的に生きることを諦めようとしていたから。
和人との運命的な再会によって、彼女は生きることの愛おしさに目覚め、自分の人生を物語として綴り、作品として生み出すことで死ぬ準備をすることができたのである。
この辺りのアレンジはストーリーテリングの上でも非常にスムーズかつ効果的で、本作の小説と現実のハイブリッドという性格をより強めている。
出ずっぱりで茉莉を演じる小松菜奈以外も、藤井道人監督の作品らしく役者が皆いい。
出番は短いながらも強い印象を残す親友の沙苗役の奈緒、相変わらず抜群の安定感をもたらす姉の桔梗役の黒木華、寡黙な中に深い愛情を感じさせる両親役の重松豊と原日出子、恋のキューピットとなる旧友役の山田裕貴、映画オリジナルキャラクターで、和人の師匠となるリリー・フランキー、誰一人として意味のないキャラクターはおらず、全員がこの映画の世界でリアルに生きているのだ。
本作は、いわゆる難病もののジャンル映画として捉えるべき作品ではないと思う。
一人の女性が自分の命を削って創作した生きた証であり、そのリアリティとヒューマンドラマとしての深みは、他の作品とははっきりと一線を画している。
作り手、演じ手のスタンスも、日本映画には珍しいエンドクレジットの献辞も含めて、原作と原作者への深いリスペクトを感じさせるもの。
人生の一期一会と、生きることの素晴らしさを感じさせる、充実の124分を味わってもらいたい。
映画の茉莉はウーロン茶を飲んでいたが、今回は同窓生と飲みたいビール。
静岡県の富士かぐや蒸溜所が作るクラフトビール「富嶽麦酒(ふがくばくしゅ) IPL」をチョイス。
富士山の伏流水とヨーロッパ産の麦芽とホップを使い、キャッチコピーの通りホップ感が強く、濃くて苦い。
今年もそろそろお花見のシーズンだが、公園で宴会とはまだいかなそう。
ところで、映画のラストは2020年の春のはずだが、コロナは無い世界線だったのだろうか。
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二十歳の時に難病の原発性肺高血圧症と診断され、「余命10年」を宣告された女性が、同窓会で再会した元同級生と人生最後の恋をする。
物語の主人公と同じ病によって、2017年に亡くなった小坂流加の同名ベストセラー小説を、「ヤクザと家族 The Family」の藤井道人監督が映画化した作品。
10年間の人生を懸命に生きる主人公・高林茉莉を小松菜奈が演じ、圧倒的な存在感でスクリーンを支配する。
彼女の、キャリアベストの好演と言っていいだろう。
運命の相手となる真部和人に坂口健太郎、茉莉の姉の桔梗に黒木華、両親を重松豊と原日出子が演じる。
岡田恵和と渡邉真子による脚色が素晴らしく、文字表現を映像表現に置き換える技術の、お手本の様な仕上がり。
本物の四季を写し込むため、一年に渡って撮影したと言うシネマスコープの映像も美しい。
どこまでもまっすぐに、“生きること”に向き合った傑作である。
2011年。
青春を謳歌していた二十歳の高林茉莉(小松菜奈)は、原発性肺高血圧症と診断さる。
発症後10年以上生きた人はほとんどいない、不治の病。
二年間の入院を経て、茉莉は退院するも、未来を閉ざされた人生に虚無感を募らせる。
2014年に、茉莉は三島で開かれた同窓会で元同級生だった真部和人(坂口健太郎)と再会。
両親との確執を抱えた和人は、生きる意味を見失っていて、東京で自殺未遂を起こす。
やがて和人に寄り添う様になった茉莉は、自分の心の変化に戸惑う。
終わりの決まった人生、もう恋はしないと誓っていたはずだったが、しだいに和人のことを愛するようになる。
茉莉は、焼き鳥屋で働き始めた和人と、病気のことは隠して付き合い、ウェブライターの仕事のかたわら、好きだった小説の執筆もはじめる。
だが束の間の平穏な人生は、長くは続かない。
ある日、和人と口論をした茉莉は、意識を失って倒れてしまうのだが・・・・
不治の病を患った女性の、最後の恋。
しかも恋人は、彼女の病気のことを知らない。
この設定だけで、多くの人の頭には大まかなストーリーと作品のイメージが浮かぶだろう。
中には、これだけで食傷気味になってしまう人もいるかもしれない。
しかし2時間の映画の旅を終えた時、最初に抱いたイメージはいい意味で裏切られ、すっかりかき消されているはずだ。
もし、人生の残りが10年と宣告されたら、人はどうするのか。
この10年という時間が、本作を特異なものとしているポイントだ。
大きなことを成し遂げるには短すぎ、全てを諦めてしまうには長すぎる、中途半端な時間。
例え誰かと出会って結婚しても、薬の影響で子供は持てず、近い将来には確実に愛する人と永遠に別たれる。
主人公の茉莉は、突然そんな状況へと投げ出され、理不尽な現実に葛藤しながら、最後の10年を懸命に生き抜くのだ。
原作小説とは、いろいろ設定が変わっている。
大きなところでは、茉莉がアニオタの同人漫画家でコスプレイヤーという設定は消え、和人も歴史ある茶道の家元の御曹司ではなくなっている。
この辺りは、原作のキャラクターのまま実写化すると、少女漫画的に浮世離れしてしまい、リアリティを感じにくいのと同時に、亡くなった作者の小坂流加さんの人生と、物語を重ね合わせるためだろう。
小坂流加さんは、茉莉と同様に二十歳で原発性肺高血圧症と診断され、二十八歳の時に「余命10年」を刊行。
その後、茉莉よりはずいぶん長く生きたが、本作の直接の原作となった文庫版の出版直前に三十八歳の若さで亡くなっている。
以前の版に比べて文庫版では闘病部分が大幅に加筆されているというのも、その間の彼女自身の闘病体験を反映しているからだろう。
だから映画になった本作では、茉莉は単なるフィクションの主人公ではなく、作者自身の人生をも取り込んだ半ノンフィクション。
映画の茉莉が、同人漫画ではなく「余命10年」と題された小説を書いているのも、彼女の故郷が小説の群馬から、作者の出身地である静岡県三島に変更されいてるのも同じ文脈だ。
物語の軸となるのは、生きることを諦めた茉莉と、生きる意味を見失った和人との切ない恋だが、両親や姉とのエピソードや、友人たちとのエピソードも豊富で、茉莉を取り巻く群像劇の風合いもある。
サブキャラクター同士の結びつきが強化されているのも特徴で、それによって後述する展開の工夫もできる様になっているのも映画版の特徴だ。
恋愛の要素は重要だが全てではなく、描くのは10年間の時間に彼女がどんな人たちと、どのように生きたかのなのである。
象徴的に使われているのが、茉莉が常に持ち歩いているビデオカメラだ。
原作の茉莉は、冒頭に登場する同じ病の先輩、礼子にアドバイスされて日記を書いている。
その言葉が各章の最後に出て来て、和人との恋の終わりと共に彼女は日記を燃やすのだが、映画では日記の代わりに礼子からビデオカメラを譲り受けるのだ。
瞬間を永遠に閉じ込めるビデオは、彼女の生きた証そのもの。
命の終わりが来たことを悟った茉莉は、思い出を噛み締めながら、ビデオを一本ずつ消去して行くのだが、最後の一本だけは消せない。
それは和人を写した最初のビデオで、これも後述する終盤の描写の伏線になっている。
日記からビデオへの変更が象徴する様に、原作小説の文字でしか表現できない要素を、巧みに映像でしか出来ない表現へと変換した脚色は、素晴らしい効果を上げている。
本作は終始淡々と茉莉の10年間を描き、露骨な泣かせは極力避けられているが、物語のクライマックスで彼女の脳裏に浮かぶ、もう一つの人生のビジョンは、ドランの「Mommy/マミー」や「ラ・ラ・ランド」に描かれた、“Ifの人生”を思わせる実に映画的な仕掛けで、誰もが涙腺を決壊させるだろう。
原作では離別の後で茉莉が和人と再会するのは彼女の葬儀だが、映画では彼女の死の床に彼が駆けつけるのも、茉莉の親友の沙苗を小説の編集者とし、和人とも友人関係にした脚色の技。
沙苗が和人に預けた脱稿したばかりの「余命10年」の原稿には、「会いたいよ・・・・、会いたいよ、和人・・・」という茉莉の魂の慟哭が描かれているのだから。
生に執着を持たないために、茉莉はもう恋をしないと誓った。
しかしそれは、積極的に生きることを諦めようとしていたから。
和人との運命的な再会によって、彼女は生きることの愛おしさに目覚め、自分の人生を物語として綴り、作品として生み出すことで死ぬ準備をすることができたのである。
この辺りのアレンジはストーリーテリングの上でも非常にスムーズかつ効果的で、本作の小説と現実のハイブリッドという性格をより強めている。
出ずっぱりで茉莉を演じる小松菜奈以外も、藤井道人監督の作品らしく役者が皆いい。
出番は短いながらも強い印象を残す親友の沙苗役の奈緒、相変わらず抜群の安定感をもたらす姉の桔梗役の黒木華、寡黙な中に深い愛情を感じさせる両親役の重松豊と原日出子、恋のキューピットとなる旧友役の山田裕貴、映画オリジナルキャラクターで、和人の師匠となるリリー・フランキー、誰一人として意味のないキャラクターはおらず、全員がこの映画の世界でリアルに生きているのだ。
本作は、いわゆる難病もののジャンル映画として捉えるべき作品ではないと思う。
一人の女性が自分の命を削って創作した生きた証であり、そのリアリティとヒューマンドラマとしての深みは、他の作品とははっきりと一線を画している。
作り手、演じ手のスタンスも、日本映画には珍しいエンドクレジットの献辞も含めて、原作と原作者への深いリスペクトを感じさせるもの。
人生の一期一会と、生きることの素晴らしさを感じさせる、充実の124分を味わってもらいたい。
映画の茉莉はウーロン茶を飲んでいたが、今回は同窓生と飲みたいビール。
静岡県の富士かぐや蒸溜所が作るクラフトビール「富嶽麦酒(ふがくばくしゅ) IPL」をチョイス。
富士山の伏流水とヨーロッパ産の麦芽とホップを使い、キャッチコピーの通りホップ感が強く、濃くて苦い。
今年もそろそろお花見のシーズンだが、公園で宴会とはまだいかなそう。
ところで、映画のラストは2020年の春のはずだが、コロナは無い世界線だったのだろうか。

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余命10年
数万人に一人という不治の病を患い、余命が
10年である事を知った20歳の主人公の女性が
死に向かって精一杯生きる様を描いた物語
【個人評価:★★★☆ (3.5P)】 (劇場鑑賞)
原作:小坂流加
2022/03/06(日) 21:53:19 | cinema-days 映画な日々
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