2023年02月13日 (月) | 編集 |
デミアン・チャゼルの「映画史」
「ラ・ラ・ランド」で史上最年少のアカデミー監督賞に輝いた若き異才・デイミアン・チャゼルが、1920年代から30年代にかけて初期のハリウッドに生きた人々を描いた群像劇。
メキシコ移民で映画界で身を立てる夢を抱いているマニーと、はちゃめちゃな行動力を持つ新進女優のネリー、そしてMGMを代表するサイレント映画の大スターのジャック。
彼ら三人を軸として、狂乱の20年代から激変するハリウッドと、時代の変化に置いて行かれまいと右往左往する人々が描かれる。
マニー、ネリー、ジャックをそれぞれディエゴ・カルバ、マーゴット・ロビー、ブラッド・ピットが好演。
トビー・マグワイア、ジーン・スマート、ジョバン・アデポ、リー・ジュン・リーらが、異なる立場から時代を象徴するハリウッドの住人たちを演じる。
本作は“音”が重要な要素となり、「セッション」以来チャゼルの全作品を手掛ける、ジャスティン・ハーウィッツの音楽も聴きどころが多いので、出来れば音響の良い劇場での鑑賞がオススメだ。
※核心部分に触れています。
1926年、メキシコ移民の青年マニュエル“マニー”・トレス(ディエゴ・カルバ)は、キノスコープ社の重役ドン・ウォラック邸で開かれるパーティーのため、“象”を運んでいた。
なんとか丘の上の邸宅に運び上げることに成功したものの、パーティーはカオスと化す。
マニーは招待されてないのに会場に入ろうとした、自称”スター”のネリー・ラロイ(マーゴット・ロビー)を助けコカインで意気投合。
乱痴気騒ぎの中で、明日の撮影に参加する予定だった女優がドラッグの過剰摂取で倒れ、代わりにその場にいたネリーがキャスティングされ映画デビュー。
あれよあれよという間に、本当にスターになってしまう。
一方のマニーは、酔い潰れていたベテラン俳優のジャック・コンラッド(ブラッド・ピット)を自宅に送ったところ気に入られ、MGMで働くことになる。
やがて、ニューヨークでトーキーという新しい技術で作られたワーナーの新作映画「ジャズ・シンガー」のプレミアが開かれることを知ったジャックは、マニーをニューヨークに送る。
“音のある映画”に熱狂する観客を見たマニーは、ジャックに電話をかけて「全てが変わります」と伝えるのだが・・・・・
アヴァンタイトルの、パーティーシークエンスで度肝を抜かれる。
ハーストキャッスルを思わせる山の上の邸宅に、マニーがウンコのシャワーに苦戦しながら何とか象を運び込んだと思ったら、ここからパーティー本番。
まずは長回しのワンカットでパーティーの全体像を見せると、タイトルが出るまで30分に渡って、壮大な乱痴気騒ぎが繰り広げられるのだ。
まさにこの世のありとあらゆる悪趣味と低俗と退廃をギュウギュウに押し込めたような、刺激的な欲望のるつぼ。
ここで出会う三人の人物、映画界を牽引する大物俳優のジャック、自称生まれながらのスターのネリー、そして映画の世界に憧れるマニーが物語の軸となる。
MGMの売れっ子で、誰もが一目置くジャックは、その時点でのハリウッドの栄光そのものだ。
田舎娘だが異常にエネルギッシュで才能豊かなネリーは、瞬く間にスターダムを駆け上がるアメリカンドリームの象徴。
三人の中で一番普通の人であるマニーは、感情移入キャラクターで観客の目となる役割。
パーティーシークエンスが終わると、三人それぞれの撮影シークエンスの始まりだ。
この時代のハリウッドは、なんでもありのネット黎明期みたいなもので、全米から野心を滾らせた者たちが集まってくるアナーキーな混沌の世界。
スタジオとは名ばかりの原っぱの撮影所では、幾つもの映画が同時進行で撮られている。
エピソードを矢継ぎ早に詰め込めるだけ詰め込んでゆく前半は、「セッション」の音楽バトルを思わせるリズム感。
キャラクターを生かしたはすっぱ娘を演じたネリーは、一気に才能を開花させ、大作の主役のジャックは、監督そっちのけで主導権を握り映画を仕上げる。
ジャックについて映画の現場に入ったマニーは、リスクマネージメントに長けた男で、次々と降りかかる困難を解決しスタジオの信頼を得てゆく。
虚実入り混じる本作には、アーヴィング・タルバーグなどの実在の人物もいれば、実在のモデルがいるキャラクター、完全に架空のキャラクターが混在している。
ブラッド・ピットはジョン・ギルバート、ダグラス・フェアバンクス、ルドルフ・ヴァレンチノを組み合わせてジャックのキャラクターを作り上げていったという。
ネリーのキャラクターはクララ・ボウを元に造形され、彼女とコンビを組む監督のルース(演じるはチャゼルの妻のオリビア・ハミルトン)は、女性映画監督の草分けの一人ドロシー・アーズナーがモデル。
中国系スター俳優で字幕作家、のちにヨーロッパに進出するレディ・フェイ・ジューは、アンナ・メイ・ウォン。
当時のハリウッドを俯瞰して眺め、登場人物にしばし”助言”を与えるゴシップ屋のエリノア・セント・ジョンには、作家でコラムニストのエリノア・グリンというモデルがいる。
一方、本作のストーリーテラーでもあるマニーと、終盤に登場しハリウッドの闇を象徴するギャングの元締め、ジェームズ・マッケイには特定のモデルは存在しない。
前半は若者たちは業界で足場を得て、ベテランはますます血気盛ん。
彼らは映画の持つ可能性の未来を夢見ているが、トーキーの出現が全てを変える。
撮影と同時に音を収録するために、同じ場所で同時に複数の映画を撮ることは出来なくなり、巨大なサウンドステージが建設される。
新しい技術は巨額の投資を必要とし、映画界は怪しげな山師たちの業界から、洗練された巨大産業へと変貌してゆく。
1929年に作られたドロシー・アーズナー監督の「ワイルド・パーティー」を模したと思しき、ネリー主演、ルース監督のトーキー第一作の撮影シーンでは、それまでの常識が一切通用しない状況に、スタッフもキャストもてんてこ舞い。
ここまではまだコメディタッチで楽しく観ていられるのだが、ハリウッドの変貌と共に徐々に世界観が変わってゆく。
トーキーになると、それまでのような大袈裟なジェスチャー主体の演技は通用せず、より自然な演技力が必要となり、俳優の声の質までもが評価の対象に。
業界もヤクザな破天荒さは敬遠され、作り手にも“道徳的な正しさ”が求められるようになる。
どんな業界でもそうだが、大きなパラダイムシフトが起こると、それによってチャンスを得る者も、淘汰される者も出てくる。
ジョバン・アデポ演じるトランペット奏者のシドニーは、映画に音がついたことで新たなスターとなった一人。
ちなみにシドニーは複数の黒人ミュージシャンを組み合わせたキャラクターだが、黒人の肌色が照明で白っぽく見えるために、黒色顔料を顔に塗られたのは当時実際にあったことだそうだ。
シドニーとは対照的に、ジャックは典型的なサイレント映画の演技スタイルが、ネリーは役のイメージとかけ離れたジャージー訛りの独特の声質が問題となり、伸び悩むようになってしまう。
トーキーという未来が本当にやって来た時、二人は可能性に隠れていた現実を思い知らされるのである。
そんな中でいち早くトーキーを生かす術を見出したマニーは、見事に立身出世を重ねてゆくのだが、結果的に本作の三人の主役たちは、皆それぞれの理由で映画界から姿を消すことになる。
愛ゆえにハリウッドでの地位を捨てることになるマニーが、20年後に映画の過去と未来を幻視するシーンは、「ラ・ラ・ランド」の“ifの未来”を思わせるメタ演出。
とことんまでに映画を利用し尽くすチャゼルの手法は、映画ファンの一部を熱狂させ、逆に一部は怒り心頭に発するだろう。
冒頭のパーティーでのあまりの悪趣味さも、観客によってはおぞましく感じるかも知れない。
しかしこのシークエンスの突き詰めた猥雑さが、逆にまだ何者にもなってない若者たちの純粋さを際立たせる。
マニーはコカインを吸いながら、「ずっと残る大きな物の一部になりたい」とネリーに言う。
いみじくもエリノアがジャックを諭すように語った通り、タイトルの由来となったメソポタミアの古代都市のように、一度でも映画に関わった人は死んでも作品の一部となり、50年後でも100年後でも、誰かがそれを観るたびに再発見される。
それを証明しているのが、三人がハリウッドを去って50数年後の1985年に生まれ、2022年の未来に本作を作ったデイミアン・チャゼル自身である。
映画の夢の裏側にある現実の痛みを描いた本作は、三人の個人の物語として捉えるとビターで切なく悲壮ですらあるが、映画史というメタ的な視点から全体を捉えると、大きな達成感があるという不思議な印象の作品。
終盤には突然「アンダー・ザ・シルバーレイク」を思わせる闇鍋的な世界観になったり、ちょっと散漫な映画になってしまった感はあるが、クレジーな人々を描いていても、映画自体はきっちりと理詰めで構成されたチャゼル流のパワフルな熱血映画賛歌。
賛否両論に分かれるのは仕方がない作品だが、私はこの挑戦的な力作を強く支持する。
パーティーにやってきたジャックが、やたらと沢山の酒を注文する描写があるが、今回はその中の一つ「ジン・リッキー」をチョイス。
氷を入れたタンブラーに、ライム1/2を絞り入れ、ドライ・ジン45mlとソーダを適量注ぎ、軽くステアする。
スライスしたライムを一切れ飾って完成。
甘さはなく、酸味とドライな喉越しを楽しむ大人な一杯。
189分の映画の熱量を、気持ちよく覚ましてくれるだろう。
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「ラ・ラ・ランド」で史上最年少のアカデミー監督賞に輝いた若き異才・デイミアン・チャゼルが、1920年代から30年代にかけて初期のハリウッドに生きた人々を描いた群像劇。
メキシコ移民で映画界で身を立てる夢を抱いているマニーと、はちゃめちゃな行動力を持つ新進女優のネリー、そしてMGMを代表するサイレント映画の大スターのジャック。
彼ら三人を軸として、狂乱の20年代から激変するハリウッドと、時代の変化に置いて行かれまいと右往左往する人々が描かれる。
マニー、ネリー、ジャックをそれぞれディエゴ・カルバ、マーゴット・ロビー、ブラッド・ピットが好演。
トビー・マグワイア、ジーン・スマート、ジョバン・アデポ、リー・ジュン・リーらが、異なる立場から時代を象徴するハリウッドの住人たちを演じる。
本作は“音”が重要な要素となり、「セッション」以来チャゼルの全作品を手掛ける、ジャスティン・ハーウィッツの音楽も聴きどころが多いので、出来れば音響の良い劇場での鑑賞がオススメだ。
※核心部分に触れています。
1926年、メキシコ移民の青年マニュエル“マニー”・トレス(ディエゴ・カルバ)は、キノスコープ社の重役ドン・ウォラック邸で開かれるパーティーのため、“象”を運んでいた。
なんとか丘の上の邸宅に運び上げることに成功したものの、パーティーはカオスと化す。
マニーは招待されてないのに会場に入ろうとした、自称”スター”のネリー・ラロイ(マーゴット・ロビー)を助けコカインで意気投合。
乱痴気騒ぎの中で、明日の撮影に参加する予定だった女優がドラッグの過剰摂取で倒れ、代わりにその場にいたネリーがキャスティングされ映画デビュー。
あれよあれよという間に、本当にスターになってしまう。
一方のマニーは、酔い潰れていたベテラン俳優のジャック・コンラッド(ブラッド・ピット)を自宅に送ったところ気に入られ、MGMで働くことになる。
やがて、ニューヨークでトーキーという新しい技術で作られたワーナーの新作映画「ジャズ・シンガー」のプレミアが開かれることを知ったジャックは、マニーをニューヨークに送る。
“音のある映画”に熱狂する観客を見たマニーは、ジャックに電話をかけて「全てが変わります」と伝えるのだが・・・・・
アヴァンタイトルの、パーティーシークエンスで度肝を抜かれる。
ハーストキャッスルを思わせる山の上の邸宅に、マニーがウンコのシャワーに苦戦しながら何とか象を運び込んだと思ったら、ここからパーティー本番。
まずは長回しのワンカットでパーティーの全体像を見せると、タイトルが出るまで30分に渡って、壮大な乱痴気騒ぎが繰り広げられるのだ。
まさにこの世のありとあらゆる悪趣味と低俗と退廃をギュウギュウに押し込めたような、刺激的な欲望のるつぼ。
ここで出会う三人の人物、映画界を牽引する大物俳優のジャック、自称生まれながらのスターのネリー、そして映画の世界に憧れるマニーが物語の軸となる。
MGMの売れっ子で、誰もが一目置くジャックは、その時点でのハリウッドの栄光そのものだ。
田舎娘だが異常にエネルギッシュで才能豊かなネリーは、瞬く間にスターダムを駆け上がるアメリカンドリームの象徴。
三人の中で一番普通の人であるマニーは、感情移入キャラクターで観客の目となる役割。
パーティーシークエンスが終わると、三人それぞれの撮影シークエンスの始まりだ。
この時代のハリウッドは、なんでもありのネット黎明期みたいなもので、全米から野心を滾らせた者たちが集まってくるアナーキーな混沌の世界。
スタジオとは名ばかりの原っぱの撮影所では、幾つもの映画が同時進行で撮られている。
エピソードを矢継ぎ早に詰め込めるだけ詰め込んでゆく前半は、「セッション」の音楽バトルを思わせるリズム感。
キャラクターを生かしたはすっぱ娘を演じたネリーは、一気に才能を開花させ、大作の主役のジャックは、監督そっちのけで主導権を握り映画を仕上げる。
ジャックについて映画の現場に入ったマニーは、リスクマネージメントに長けた男で、次々と降りかかる困難を解決しスタジオの信頼を得てゆく。
虚実入り混じる本作には、アーヴィング・タルバーグなどの実在の人物もいれば、実在のモデルがいるキャラクター、完全に架空のキャラクターが混在している。
ブラッド・ピットはジョン・ギルバート、ダグラス・フェアバンクス、ルドルフ・ヴァレンチノを組み合わせてジャックのキャラクターを作り上げていったという。
ネリーのキャラクターはクララ・ボウを元に造形され、彼女とコンビを組む監督のルース(演じるはチャゼルの妻のオリビア・ハミルトン)は、女性映画監督の草分けの一人ドロシー・アーズナーがモデル。
中国系スター俳優で字幕作家、のちにヨーロッパに進出するレディ・フェイ・ジューは、アンナ・メイ・ウォン。
当時のハリウッドを俯瞰して眺め、登場人物にしばし”助言”を与えるゴシップ屋のエリノア・セント・ジョンには、作家でコラムニストのエリノア・グリンというモデルがいる。
一方、本作のストーリーテラーでもあるマニーと、終盤に登場しハリウッドの闇を象徴するギャングの元締め、ジェームズ・マッケイには特定のモデルは存在しない。
前半は若者たちは業界で足場を得て、ベテランはますます血気盛ん。
彼らは映画の持つ可能性の未来を夢見ているが、トーキーの出現が全てを変える。
撮影と同時に音を収録するために、同じ場所で同時に複数の映画を撮ることは出来なくなり、巨大なサウンドステージが建設される。
新しい技術は巨額の投資を必要とし、映画界は怪しげな山師たちの業界から、洗練された巨大産業へと変貌してゆく。
1929年に作られたドロシー・アーズナー監督の「ワイルド・パーティー」を模したと思しき、ネリー主演、ルース監督のトーキー第一作の撮影シーンでは、それまでの常識が一切通用しない状況に、スタッフもキャストもてんてこ舞い。
ここまではまだコメディタッチで楽しく観ていられるのだが、ハリウッドの変貌と共に徐々に世界観が変わってゆく。
トーキーになると、それまでのような大袈裟なジェスチャー主体の演技は通用せず、より自然な演技力が必要となり、俳優の声の質までもが評価の対象に。
業界もヤクザな破天荒さは敬遠され、作り手にも“道徳的な正しさ”が求められるようになる。
どんな業界でもそうだが、大きなパラダイムシフトが起こると、それによってチャンスを得る者も、淘汰される者も出てくる。
ジョバン・アデポ演じるトランペット奏者のシドニーは、映画に音がついたことで新たなスターとなった一人。
ちなみにシドニーは複数の黒人ミュージシャンを組み合わせたキャラクターだが、黒人の肌色が照明で白っぽく見えるために、黒色顔料を顔に塗られたのは当時実際にあったことだそうだ。
シドニーとは対照的に、ジャックは典型的なサイレント映画の演技スタイルが、ネリーは役のイメージとかけ離れたジャージー訛りの独特の声質が問題となり、伸び悩むようになってしまう。
トーキーという未来が本当にやって来た時、二人は可能性に隠れていた現実を思い知らされるのである。
そんな中でいち早くトーキーを生かす術を見出したマニーは、見事に立身出世を重ねてゆくのだが、結果的に本作の三人の主役たちは、皆それぞれの理由で映画界から姿を消すことになる。
愛ゆえにハリウッドでの地位を捨てることになるマニーが、20年後に映画の過去と未来を幻視するシーンは、「ラ・ラ・ランド」の“ifの未来”を思わせるメタ演出。
とことんまでに映画を利用し尽くすチャゼルの手法は、映画ファンの一部を熱狂させ、逆に一部は怒り心頭に発するだろう。
冒頭のパーティーでのあまりの悪趣味さも、観客によってはおぞましく感じるかも知れない。
しかしこのシークエンスの突き詰めた猥雑さが、逆にまだ何者にもなってない若者たちの純粋さを際立たせる。
マニーはコカインを吸いながら、「ずっと残る大きな物の一部になりたい」とネリーに言う。
いみじくもエリノアがジャックを諭すように語った通り、タイトルの由来となったメソポタミアの古代都市のように、一度でも映画に関わった人は死んでも作品の一部となり、50年後でも100年後でも、誰かがそれを観るたびに再発見される。
それを証明しているのが、三人がハリウッドを去って50数年後の1985年に生まれ、2022年の未来に本作を作ったデイミアン・チャゼル自身である。
映画の夢の裏側にある現実の痛みを描いた本作は、三人の個人の物語として捉えるとビターで切なく悲壮ですらあるが、映画史というメタ的な視点から全体を捉えると、大きな達成感があるという不思議な印象の作品。
終盤には突然「アンダー・ザ・シルバーレイク」を思わせる闇鍋的な世界観になったり、ちょっと散漫な映画になってしまった感はあるが、クレジーな人々を描いていても、映画自体はきっちりと理詰めで構成されたチャゼル流のパワフルな熱血映画賛歌。
賛否両論に分かれるのは仕方がない作品だが、私はこの挑戦的な力作を強く支持する。
パーティーにやってきたジャックが、やたらと沢山の酒を注文する描写があるが、今回はその中の一つ「ジン・リッキー」をチョイス。
氷を入れたタンブラーに、ライム1/2を絞り入れ、ドライ・ジン45mlとソーダを適量注ぎ、軽くステアする。
スライスしたライムを一切れ飾って完成。
甘さはなく、酸味とドライな喉越しを楽しむ大人な一杯。
189分の映画の熱量を、気持ちよく覚ましてくれるだろう。

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この記事へのコメント
こんにちは。
>クレジーな人々を描いていても、映画自体はきっちりと理詰めで構成されたチャゼル流のパワフルな熱血映画賛歌。
賛否両論に分かれるのは仕方がない作品だが、私はこの挑戦的な力作を強く支持する。
私も正におっしゃるようなことを感じておりました。
デミアン・チャゼル監督は、熱量半端ない方なのだと思います。
>クレジーな人々を描いていても、映画自体はきっちりと理詰めで構成されたチャゼル流のパワフルな熱血映画賛歌。
賛否両論に分かれるのは仕方がない作品だが、私はこの挑戦的な力作を強く支持する。
私も正におっしゃるようなことを感じておりました。
デミアン・チャゼル監督は、熱量半端ない方なのだと思います。
>ここなつさん
この人は「パッション」の頃から熱血でしたからね。
その意味で彼のフィルモグラフィでは「ファーストマン」の異色っぷりが目をひきます。
ああいう静かな映画の時の彼も好きです。
この人は「パッション」の頃から熱血でしたからね。
その意味で彼のフィルモグラフィでは「ファーストマン」の異色っぷりが目をひきます。
ああいう静かな映画の時の彼も好きです。
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1920年代のアメリカ・ハリウッド。 毎晩開かれる映画業界の豪華なパーティの主役は、サイレント映画のスター俳優ジャック。 その会場で、スターを夢見る新人女優ネリーと、映画製作を夢見る青年マニーは心を通わせる。 時代は、サイレント映画からトーキーへ移り変わる転換期を迎えていた…。 ヒューマンドラマ。 ≪夢をつかむ覚悟はあるか≫
2023/02/13(月) 23:37:23 | 象のロケット
トーキー移行前後のハリウッドに生きた人々。スターの盛衰。
2023/11/03(金) 21:11:02 | 或る日の出来事
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