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2010年04月03日 (土) | 編集 |
「ジョニー・マッド・ドッグ」は、アフリカの内戦で過酷な運命を生きる、少年兵たちの凄まじい日常を描く問題作である。
ドキュメンタリー出身で、これが長編劇映画デビュー作となるフランスの新鋭監督、ジャン=ステファーヌ・ソヴェールは、内戦が終結したばかりのアフリカ西海岸の国 、リベリアで長期ロケを行い、主人公の狂犬ジョニーほかメインキャラクターにキャスティングされているのは、実際に内戦を戦った元少年兵たちであるという。
また撮影監督に、戦場カメラマンの経験を持つマルク・コルナンスを起用するなど、徹底的にリアルに拘り、凄みのある映画を作り出している。
内戦の混乱の中、子供たちだけで構成された反政府軍の部隊がいた。
“狂犬”と呼ばれる15歳のジョニー(クリストファー・ミニー)は部隊のリーダーであり、子供たちを率いて虐殺、略奪、レイプなど暴虐の限りを尽くしていた。
優勢に戦いを進める反政府軍はついに首都へ迫り、ジョニーの部隊も政府軍との激しい戦闘を制して街に進軍する。
一方、首都に住む13歳の少女ラオコレ(デージ・ヴィクトリア・ヴァンディ)は、足の悪い父を置いて、8歳の弟と逃げる途中、ジョニーたちが幼い少年を一方的に敵と決め付けて虐殺するのを目撃する。
付近に敵が残っていないか調べるジョニーは、ラオコレと弟を見つけるが、なぜかジョニーは彼女らに銃を向けなかった。
ラオコレは弟をビルに隠し、父を助けに家に戻ろうとするのだが・・・
映画は、変則的な二部構成の様な構造を持っている。
狂犬と呼ばれる少年兵、ジョニーの戦いに明け暮れる日常と、逆に彼らの暴力によって追い立てられる少女ラオコレの日常が交互に描かれ、やがて交錯してゆくのである。
彼らの立場は対照的だが、どちらも戦場に生きる子供と言う点では共通しており、二人を通して戦争の異なる顔が見えてくるというのが狙いだろう。
この映画には、物語の基本構造の他にも、絶望と希望、殺戮と誕生、静と動など様々な対照性のモチーフがあちこちに仕掛けられており、これが映画全体にメリハリの効いたリズムを与えるのと同時に、視点が画一的になるのを効果的に防いでいる。
冒頭の少年たちによる村の襲撃シーンは極めて印象的である。
目を覆いたくなる暴力と略奪が行われている同じ村で、一人の少年兵が純白のウェディングドレスを身に纏ってウットリしているのだ。
彼らの多くは女物のドレスやチョウチョの飾りのついた子供服を着ていたり、真っ赤なズラを被っていたり、兵士というにはあまりにもふざけた格好をしている。
最初、観客は彼らの容赦ない暴力に圧倒され、いくら子供でもこんな奴らは許せないと思うだろう。
だが、物語が進むに連れて、結局のところ彼らは主体性があって残酷な兵士になっているのではなく、戦場と言う状況の中で、極めて「子供らしく」生きているだけである事に気付く。
親を殺されたり、無理やり誘拐されたりして家族と言う居場所を失った子供たちは、新たな庇護者である武装勢力の大人たちに報われない愛を求める。
軍隊という擬似家族で、上官の大人たちに褒められたいから、自分を必要とされたいから戦うのであって、それはママの愛が欲しくて良い子にするのと何ら変わらない。
彼らは、良い子だから殺し、奪い、犯す。
戦闘前に上官がジョニーの額に傷をつけて、そこにドラッグを塗りこむ描写があるが、やがてはクスリよって恐怖感すら麻痺し、大人のための無邪気で忠実な殺人マシーンとなる。
そこには罪悪感などあるわけも無く、彼らは子供であるが故に、とても恐ろしいのである。
そんな狂気が支配する日常の中で、ジョニーの側近であるNGアドヴァイスが、略奪したブタに情が移ってしまい、食べようとする仲間に精一杯抵抗して泣いてしまうあたりは、ユーモラスだが彼らの中にある子供らしい優しさが垣間見られてちょっとホッとするシーンだ。
物心ついた頃から戦いの中に身を置いてた少年兵たちにとっては、戦場こそが世界。
しかし、大人にとっては従順で便利な戦力である彼らも、戦争が終ってしまえば用済みとなり、単に邪魔な子供に戻る。
ジョニーが「将軍」と呼んで絶対視していた上官も、実際には彼らを利用していたただの下士官で、当然ながら戦後の子供たちの面倒を見るような甲斐性など無く、新しい体制下で私腹を肥やす目算しか立てていない。
戦争しか知らない子供たちは、突然平和という知らない世界に放り出されてしまうのである。
戦場と言う遊び場を失って、手持ち無沙汰なジョニーの表情は、僅か15歳にして「ハート・ロッカー」の主人公と同じ虚無感を抱えている。
ジョニーを演じるクリストファー・ミニーら、元少年兵のキャストたちが体現する戦場のメンタリティは、子役芝居とは別次元の凄まじい説得力がある。
ソヴェールは、撮影前の一年間、単身リベリアに渡り、キャスティングされた子供たちと寝食を共にし、信頼を得ていったという。
子供たちに悪夢の様な経験を演技として再現させるというのは、素人考えでは危険な気もするのだが、彼らにとってはトラウマを克服するための演技セラピーの様な効果があったらしい。
また、出演した子供たちの将来のために撮影後には財団も作られたそうで、本作の様な作品の場合、撮りっぱなしにしないという姿勢はとても重要な事であると思う。
幸運にも映画出演のチャンスを得た15人の他にも、何万、何十万人もいるであろう心に深い傷を負った子供たちの将来に、この映画が少しでもポジティブな影響を及ぼす事を祈らずにはいられない。
ちなみに、この物語がリベリア内戦をモデルとしているのは確かだろうが、劇中ではどこの国の出来事というはっきりした説明は無い。
思うに、フランス資本でありながら、あえてリベリアで撮影し英語劇とした事も、それなのに何故か国名を明かさない事も、明確な理由があると思う。
まず、舞台を曖昧にしたのは、この映画に描かれた状況が、リベリアと言う特定の場所だけで起こった過去の問題と捉えられるのを避けるためだろう。
ジョニーたちがいるのは、リベリアかもしれないし、コンゴかもしれないし、スーダンかもしれない。
様々な要因で内戦や地域紛争が絶えないアフリカのどこかであり、どこであっても少年兵たちは現在進行形の問題として存在しているのだ。
そして、リベリアをモデルとしたのは、この国が他のアフリカ諸国には無い歴史的な背景を持ち、物語により深い象徴性を持たせる事が出来るからだろう。
実はリベリアは、アメリカ合衆国からアフリカに帰還した、解放奴隷たちが建国に深く関与した国であり、アフリカ大陸では例外的にヨーロッパよりもアメリカ文化の影響が強い。
国名のリベリアは英語で自由を意味するリバティから命名されているし、国旗のデザインも星条旗をモデルとしている。
映画の中ほどで、ラオコレが父を墓場に埋葬している所に、ジョニーたちが通りかかるシーンがある。
この時に、彼らが持っているラジカセから流れているのは、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのあまりにも有名な演説“I have a dream”なのである。
解放された自由なアフリカ人の理想郷となるはずが、どこかで間違ってしまった国で、この演説が流れている痛烈な皮肉。
また、キングと同時代に公民権運動のシンボルとなった、ジャズ歌手のニーナ・シモン版の「奇妙な果実」が使われているのも興味深い。
これは、リンチされて木から吊るされた黒人の死体を比喩した歌で、原曲が発表された1939年から現在に至るまで、人種問題を告発する象徴的な曲として広く知られ、歌い継がれている。
ソヴェールが、この映画で描かれている戦争を、米国とアフリカ双方の歴史の延長線上という文脈で捉えようとしているのは明らかだ。
ジョニーやラオコレが身を置いているのは、19世紀から続く果てしない戦いの「今」なのである。
アフリカ大陸の熱がそのままスクリーンから吹き付ける様で、非常に喉が渇く本作。
今回はリベリアのルーツであるアメリカから、その名も「アンカー・リバティ・エール」をチョイス。
熟成初期にカスケードホップをドライホッピングするのが特徴で、独特のフルーティなテイストを味わえる。
サンフランシスコの地ビールの雄、アンカーが生み出した力作だ。
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ドキュメンタリー出身で、これが長編劇映画デビュー作となるフランスの新鋭監督、ジャン=ステファーヌ・ソヴェールは、内戦が終結したばかりのアフリカ西海岸の国 、リベリアで長期ロケを行い、主人公の狂犬ジョニーほかメインキャラクターにキャスティングされているのは、実際に内戦を戦った元少年兵たちであるという。
また撮影監督に、戦場カメラマンの経験を持つマルク・コルナンスを起用するなど、徹底的にリアルに拘り、凄みのある映画を作り出している。
内戦の混乱の中、子供たちだけで構成された反政府軍の部隊がいた。
“狂犬”と呼ばれる15歳のジョニー(クリストファー・ミニー)は部隊のリーダーであり、子供たちを率いて虐殺、略奪、レイプなど暴虐の限りを尽くしていた。
優勢に戦いを進める反政府軍はついに首都へ迫り、ジョニーの部隊も政府軍との激しい戦闘を制して街に進軍する。
一方、首都に住む13歳の少女ラオコレ(デージ・ヴィクトリア・ヴァンディ)は、足の悪い父を置いて、8歳の弟と逃げる途中、ジョニーたちが幼い少年を一方的に敵と決め付けて虐殺するのを目撃する。
付近に敵が残っていないか調べるジョニーは、ラオコレと弟を見つけるが、なぜかジョニーは彼女らに銃を向けなかった。
ラオコレは弟をビルに隠し、父を助けに家に戻ろうとするのだが・・・
映画は、変則的な二部構成の様な構造を持っている。
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この映画には、物語の基本構造の他にも、絶望と希望、殺戮と誕生、静と動など様々な対照性のモチーフがあちこちに仕掛けられており、これが映画全体にメリハリの効いたリズムを与えるのと同時に、視点が画一的になるのを効果的に防いでいる。
冒頭の少年たちによる村の襲撃シーンは極めて印象的である。
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彼らの多くは女物のドレスやチョウチョの飾りのついた子供服を着ていたり、真っ赤なズラを被っていたり、兵士というにはあまりにもふざけた格好をしている。
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だが、物語が進むに連れて、結局のところ彼らは主体性があって残酷な兵士になっているのではなく、戦場と言う状況の中で、極めて「子供らしく」生きているだけである事に気付く。
親を殺されたり、無理やり誘拐されたりして家族と言う居場所を失った子供たちは、新たな庇護者である武装勢力の大人たちに報われない愛を求める。
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解放された自由なアフリカ人の理想郷となるはずが、どこかで間違ってしまった国で、この演説が流れている痛烈な皮肉。
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これは、リンチされて木から吊るされた黒人の死体を比喩した歌で、原曲が発表された1939年から現在に至るまで、人種問題を告発する象徴的な曲として広く知られ、歌い継がれている。
ソヴェールが、この映画で描かれている戦争を、米国とアフリカ双方の歴史の延長線上という文脈で捉えようとしているのは明らかだ。
ジョニーやラオコレが身を置いているのは、19世紀から続く果てしない戦いの「今」なのである。
アフリカ大陸の熱がそのままスクリーンから吹き付ける様で、非常に喉が渇く本作。
今回はリベリアのルーツであるアメリカから、その名も「アンカー・リバティ・エール」をチョイス。
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この記事へのコメント
これは面白そうですね。
学校で公民権運動を勉強してるので、今のアフリカにリンクしてるのは興味深いです。
友人と見に行きます。
学校で公民権運動を勉強してるので、今のアフリカにリンクしてるのは興味深いです。
友人と見に行きます。
2010/04/04(日) 20:02:18 | URL | ず~い #-[ 編集]
>ず~いさん
アメリカに留まったアフリカ系の苦難の歴史と、アフリカに帰った解放奴隷の歴史を、現在のアフリカの戦争をリンクさせたあたりが、この作品の持つユニークな視点だと思います。
ヴァイオレンスアクションとしてもなかなか良く出来ているのですが、公民権運動の知識をお持ちなら、より深く観る事が出来ると思いますよ。
お勧めです。
アメリカに留まったアフリカ系の苦難の歴史と、アフリカに帰った解放奴隷の歴史を、現在のアフリカの戦争をリンクさせたあたりが、この作品の持つユニークな視点だと思います。
ヴァイオレンスアクションとしてもなかなか良く出来ているのですが、公民権運動の知識をお持ちなら、より深く観る事が出来ると思いますよ。
お勧めです。
2010/04/04(日) 23:02:39 | URL | ノラネコ #xHucOE.I[ 編集]
今日は、週末に観に行ってきました。
本当に心が痛くなる映画でした。
ノラネコさんがおっしゃる様に、ジョニーは「ハートロッカー」の主人公と同じ目をしていましたね。
戦争というのは、大人も子供も関係なく、心を壊してしまうのだなと思いました。
僕はちょうど勉強してるところだったので、キング牧師の演説やアメリカの公民権運動の断片がところどころに出てくるのも面白かったです。
でもこのあたりは日本人にはスルーされそうですね。
本当に心が痛くなる映画でした。
ノラネコさんがおっしゃる様に、ジョニーは「ハートロッカー」の主人公と同じ目をしていましたね。
戦争というのは、大人も子供も関係なく、心を壊してしまうのだなと思いました。
僕はちょうど勉強してるところだったので、キング牧師の演説やアメリカの公民権運動の断片がところどころに出てくるのも面白かったです。
でもこのあたりは日本人にはスルーされそうですね。
2010/04/20(火) 16:00:58 | URL | ず~い #-[ 編集]
>ず~いさん
観に行っていただけてよかったです。
ただ残念ながらアフリカの少年兵というモチーフは日本の観客からはあまりにも遠そうです。
でも素晴らしい作品だけに、ちょっとづつでも広まっていって欲しいですね。
観に行っていただけてよかったです。
ただ残念ながらアフリカの少年兵というモチーフは日本の観客からはあまりにも遠そうです。
でも素晴らしい作品だけに、ちょっとづつでも広まっていって欲しいですね。
2010/05/01(土) 00:17:08 | URL | ノラネコ #xHucOE.I[ 編集]
逆にリアルすぎてリアリティが感じられなかったのです。
変な話ですが、今まで何度も見た少年へいたちの映像そのままで、既視感を感じてしまったせいかもしれません。
ジョニーの劇中何度か見せる優しい子供らしい眼差し、そこに希望を感じつつも、彼らに待っている未来が決して明るいものではないことが重くのしかかる作品でした。
変な話ですが、今まで何度も見た少年へいたちの映像そのままで、既視感を感じてしまったせいかもしれません。
ジョニーの劇中何度か見せる優しい子供らしい眼差し、そこに希望を感じつつも、彼らに待っている未来が決して明るいものではないことが重くのしかかる作品でした。
2010/05/05(水) 10:17:10 | URL | KLY #5spKqTaY[ 編集]
>KLYさん
リアルすぎですか・・・。
確かに冒頭の父親殺しのシーンは「ブラッドダイヤモンド」でもあったと思いますし、ドキュメンタリーでもこのモチーフは過去にありますよね。
ただ、私はやはり演技以上の物を引き出していたと思います。
印象的なのはむしろ静かなシーンですね。
リアルすぎですか・・・。
確かに冒頭の父親殺しのシーンは「ブラッドダイヤモンド」でもあったと思いますし、ドキュメンタリーでもこのモチーフは過去にありますよね。
ただ、私はやはり演技以上の物を引き出していたと思います。
印象的なのはむしろ静かなシーンですね。
2010/05/05(水) 22:11:21 | URL | ノラネコ #xHucOE.I[ 編集]
う~ん・・・
ある意味、こういった展開は原作に忠実なのかも、とも思いました。
数年前にビジネスジャンプ誌に連載されていた
「密林少年」
という題名に、カンボジア内戦の実情(触れ込みでは、ドキュメント)を描いたマンガを御存知でしょうか。
こちらの作品では、もう、戦友、といった言葉が陳腐に聞こえるくらい、主人公の周辺に現る少年兵、に限らず大人の兵士までが、それこそバタバタと死んでゆきます。
実際生き残った(生き残る為、彼がどれほど過酷な現実を踏破してきたかを、もう非情にも描ききっている)少年兵が、“地雷博物館”なる私設博物館を運営するばかりでなく、今も尚現存し続ける無数の地雷の撤去に、命がけで従事しているとのこと。
幾分ハリウッド映画的な展開になってしまうのかも知れませんが、もう少々少年兵達の生き様、キャラクター付けに気を配ったほうが、とも思えました。
途中スナイパーに襲撃され、何人か命を落とすのですけど、どういった位置づけの少年兵が、という説明が全くといっていい程なされていませんでしたので、作品の進行上カタルシス的にはどうなのかな、と。
これは、あくまで監督さんがドキュメンタリー出身の方なので、少年といえども、兵士を一つの駒としてでしか戦場では扱われないのだ、というリアルさを強調するメッセージなのかも、とも思いましたが。
それにしては少年兵士が、それぞれ派手なヘルメットを着用していたり、おかしな蝶の飾り物を背負っていたり、また花嫁衣装を身に纏っていたりと、余りにも目立つ、銃の標的になりがちな格好をしていたりして、幾分リアリティを殺いでいましたよね。
もう少し、こう、何と云うかな、熱き友情の絆が存在していた少年兵が、もう次々と犠牲になってゆき、その屍を乗り越えつつ、狂犬、と揶揄された主人公が折角最後一人生き残ったのにもかかわらず、結局無用の長物として、命を捧げたであろう上官から、大人たちから自らの居場所が失われてゆく、といった展開にしたほうが、もっとこう、観る者に訴えかけるものがあったのではと・・・
いや、これは小生、やっぱりハリウッド製戦争映画の観過ぎなのでしょうネ(笑)
ある意味、こういった展開は原作に忠実なのかも、とも思いました。
数年前にビジネスジャンプ誌に連載されていた
「密林少年」
という題名に、カンボジア内戦の実情(触れ込みでは、ドキュメント)を描いたマンガを御存知でしょうか。
こちらの作品では、もう、戦友、といった言葉が陳腐に聞こえるくらい、主人公の周辺に現る少年兵、に限らず大人の兵士までが、それこそバタバタと死んでゆきます。
実際生き残った(生き残る為、彼がどれほど過酷な現実を踏破してきたかを、もう非情にも描ききっている)少年兵が、“地雷博物館”なる私設博物館を運営するばかりでなく、今も尚現存し続ける無数の地雷の撤去に、命がけで従事しているとのこと。
幾分ハリウッド映画的な展開になってしまうのかも知れませんが、もう少々少年兵達の生き様、キャラクター付けに気を配ったほうが、とも思えました。
途中スナイパーに襲撃され、何人か命を落とすのですけど、どういった位置づけの少年兵が、という説明が全くといっていい程なされていませんでしたので、作品の進行上カタルシス的にはどうなのかな、と。
これは、あくまで監督さんがドキュメンタリー出身の方なので、少年といえども、兵士を一つの駒としてでしか戦場では扱われないのだ、というリアルさを強調するメッセージなのかも、とも思いましたが。
それにしては少年兵士が、それぞれ派手なヘルメットを着用していたり、おかしな蝶の飾り物を背負っていたり、また花嫁衣装を身に纏っていたりと、余りにも目立つ、銃の標的になりがちな格好をしていたりして、幾分リアリティを殺いでいましたよね。
もう少し、こう、何と云うかな、熱き友情の絆が存在していた少年兵が、もう次々と犠牲になってゆき、その屍を乗り越えつつ、狂犬、と揶揄された主人公が折角最後一人生き残ったのにもかかわらず、結局無用の長物として、命を捧げたであろう上官から、大人たちから自らの居場所が失われてゆく、といった展開にしたほうが、もっとこう、観る者に訴えかけるものがあったのではと・・・
いや、これは小生、やっぱりハリウッド製戦争映画の観過ぎなのでしょうネ(笑)
2010/05/09(日) 20:43:16 | URL | 埼玉の孤狼 #-[ 編集]
>埼玉の孤狼さん
原作は未読ですが、キャラクターへの過度の感情移入の様な演出的な部分は極力排されていると思います。
ただ、そこにいる人間があっけなく死ぬ、それが誰かは特に問題にならない世界、それが混沌が支配する戦場なのではないでしょうか。
まあハリウッド映画の方にリアルを感じちゃうのは何となくわかりますけどね。
>「密林少年」
これ読みたいですね・・・ジャンプにこんな内容のものが載っていたとは!
原作は未読ですが、キャラクターへの過度の感情移入の様な演出的な部分は極力排されていると思います。
ただ、そこにいる人間があっけなく死ぬ、それが誰かは特に問題にならない世界、それが混沌が支配する戦場なのではないでしょうか。
まあハリウッド映画の方にリアルを感じちゃうのは何となくわかりますけどね。
>「密林少年」
これ読みたいですね・・・ジャンプにこんな内容のものが載っていたとは!
2010/05/11(火) 23:16:06 | URL | ノラネコ #xHucOE.I[ 編集]
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『ジョニー・マッド・ドッグ』
原題:Johnny Mad Dog(2008)
全身に震えのくる傑作。ひょっとしたら今年の私的ベスト3に入るかもしれない...
2010/04/05(月) 10:32:49 | Simply Dead
ジョニー・マッド・ドッグ(2008/仏=ベルギー=リベリア)
JOHNNY MAD DOG
2010/04/05(月) 23:22:32 | Kozmic Blues by TM
アフリカのとある国の内戦で戦う少年兵たちの過酷な現実を描き出したバイオレンスアクション。かつて実際に内戦で戦った15人の子供たちをキャスティングした。子供たちは自分たちの経験からその役を演じ それが圧倒的にリアルな空気を生み出している。『バビロン A.D.?...
2010/05/05(水) 10:04:32 | LOVE Cinemas 調布
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