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2013年09月15日 (日) | 編集 |
この家族は、我々自身だ。
自らの命の終わりを予感した父親が、自らの年金にすがって生活している息子のために、最後に残そうとしたものとは。
「バッシング」「春との旅」の小林政広監督が描くのは、社会全体の高齢化が進み、一方で格差はとめどなく拡大を続ける現代日本の抱える、悲しく深い闇の情景。
自室の扉を釘で打ち付け閉じこもり、静かな自殺を宣言した父親と、家族も仕事も失った息子。
お互いを思いやりながらも、何も出来ない現実と、ただ過ぎ去った幸せな日々への追想が切ない。
その深い皺に悲しみを湛えた仲代達矢と、息子役の北村一輝の扉越しの演技合戦も見ものだ。
肺癌で余命が幾ばくも無いことを知った不二男(仲代達矢)は、亡き妻の遺骨と共に自室に閉じこもり、一切の食べ物を取らずこのまま死ぬと言い出す。
不二男は、うつ病を患い、震災で妻子を失った一人息子の義男(北村一輝)のために、自分が死んでもそのことを隠し、年金を受け取れる様にと考えたのだった。
父の行動を理解出来ない義男は、扉越しの説得を続けるが、不二男はガンとして聞き入れない。
次第に衰弱する不二男の脳裏には、ほんの数年前までの幸せな人生の光景が、走馬灯の様に蘇っていた・・・・
「日本の悲劇」というタイトルからは、映画ファンなら1953年に公開された木下惠介監督作品が思い浮かぶだろう。
女手一つで息子と娘を育て上げながら、相次いで子供たちに見捨てられ、自ら死を選ぶ戦争未亡人の姿を描く文字通りの悲劇だ。
ある意味で、希望的な代表作「二十四の瞳」の対になる作品であり、地べたを這いつくばる様にして必死に生活している庶民の生きざま、死にざまを通して、戦後日本における家族の崩壊を描いた問題作だった。
そして60年後の平成の世の「日本の悲劇」は、未来に希望を持てない子供のために、親が命を捨てる。
映画の物語自体はフィクションだが、2010年に足立区で白骨化した老人の遺体が見つかった実際の事件にインスパイアされているそうだ。
この人物は1978年に「即身仏になる」と言い残して部屋の扉を閉じ、実に32年もの間そのまま放置されていた。
老人が死亡した後も家族が届け出ず、年金を受け取り続けていた事で詐欺罪に問われたが、その後日本中に同じような生死不明の高齢者が沢山いる事が判明し、社会問題としてクローズアップされたのは記憶に新しい。
本作の登場人物は僅か四人、一軒家の中だけで展開する物語である。
映画は入院していた不二男が息子の義男に伴われ、家に戻ってくるシーンから始まり、やがて不二男は自室の扉を釘で打ち付け、自分はミイラになるんだと言って閉じこもる。
扉の内でゆっくりと死へと向かう不二男と、扉の外で生へと留めおこうとする義男。
そして、二人の脳裏に去来する、幸せだった日々の記憶。
絶望の現在とほんの数年前の幸福な過去が交互に描かれる構成、一軒家の舞台をさらに絞り込んだ演劇的空間をカラーのシネマスコープで撮影し、モノクロ処理するなど、映画としての作りは極めて特徴的である。
基本はフィックスの長回しで、正確に数えた訳ではないが、全体のカット数は僅かに60ほどだろうか。
大きなテーブルの置かれた台所と不二男の自室、そして二つの部屋の間にある廊下に絞られたカメラポジションは、ほんの数パターンのみという簡潔さ。
非常に面白かったのは、スクリーンの外をイメージさせる音響演出だ。
シネマスコープを採用した映像は、フィックスでも生活空間をそれなりに広く描写する事が出来る。
ところがこの映画、決め込まれた構図のフレームから、人物が外れている時間が非常に長いのだ。
その間、画面には無人の空間が残されているだけだが、代わりに雄弁に語りだすのは画面の外から聞こえてくる様々な音である。
フレームを外れていても、そこに人がいない訳ではない。
映画館のマルチチャンネルの音響を生かして、義男の声や生活音、家の外から聞こえてくる雑音など、あらゆる音が四方から主張し、映像では殆ど描写されない家の構造までなんとなくわかるのだ。
これによって映画は四角く切り取られたフレームという視覚の頚木から放たれ、観客の想像力を刺激し、三次元の空間として認識されるのである。
トーキーの発明によって、映画という芸術は視聴覚を併せ持つようになったが、しばしば視覚に比べて軽視されがちな聴覚を、これだけ効果的に利用した演出はユニーク。
だが、考えてみれば、私たちは家で過ごす時は、家族の存在を実際に音で感じている事が多くないだろうか。
例えば台所で料理をしている時、リビングでテレビを見ている時、あるいは自室で読書をしている時など、視覚が特定の物事に集中していても、耳は家族の動向を逐一キャッチして息吹を感じている。
たとえ扉で隔てられ姿は見えなくても、そこで音がする事で、義男は不二男の、不二男は義男の存在を確かなものとしてとらえているのだ。
本作は視覚の情報をあえて限定する事で、聴覚の役割を増大させ、結果的に観客がその家にいるかのような臨場感を作り出す事に成功している。
色の無い暗い世界の中で、唯一色彩の光を取り戻すカラーのカットも、それまでとのコントラストがあるから非常に印象強く、それが過去のイメージである事が現在の悲劇性をより際立たせるのである。
四人の家族の中でも、殆どは父と息子の二人だけの会話劇として物語が進む。
仲代達矢と北村一輝の絶妙なコンビネーションによる、まるでライブの演劇の様に緊張感溢れる演技のせめぎ合いも本作の大きな見所だ。
特に仲代達矢が演じる不二男の、やり過ぎギリギリの役作り、全てを突き放すような独特の語り口調は、どこかユーモラスで重い題材を救っている。
小林監督はこのキャラクターに、彼の代表作の一つである「切腹」の再現を狙ったという。
なるほど、決断したら梃子でも動かない頑固なオヤジの姿は、まるで覚悟を決めた侍の様だ。
異なる世代の二人の俳優のキャラクターへのアプローチが、この作品の持つリアルなシチュエーションでありながら、戯画的・演劇的な世界観の輪郭を、確固たるものにしていると思う。
本作に描かれる人々は、日本のどこにでもいるごく普通の家族だ。
待ち望んだ初孫に恵まれ、二世代の家族が集う数年前の幸せな光景と、全てが崩壊しただ一人残った義男が、もはや返事の無い扉に語りかける現在のコントラストが描き出すのは正に悲劇。
映画は声高に何かを主張してる訳ではないが、彼らが抱えるうつ病、失業、癌、介護の問題、そして震災といった、この国の誰にでも起こりうる小さな悲劇の連鎖を通して、静かに社会に疑問を問いかける。
この家族は日本人一億二千万の縮図であり、彼らの悲劇は即ち「日本の悲劇」なのである。
映画のモチーフとなった足立区の事件の後、高齢者の死亡を隠して年金を詐取した事件が続々と発覚した。
人々は浅ましいと怒りを感じ、マスコミもバッシングを浴びせたが、では私たちは彼らの人生に何が起こったのかを想像したり、思いやったりしただろうか。
つい先日も、札幌で91歳の母親と59歳の娘が自宅で倒れているのが発見される事件が起こった。
母親は既に死亡しており、娘も2週間水だけしか飲んでおらず衰弱しきっていたという。
この事件では後に娘が死体遺棄容疑で逮捕されたが、彼女は母親の介護をするために仕事を辞め、発見された時に家にあった現金は数十円だけで、冷蔵庫も空だったそうだ。
はたして、私たちは彼女を犯罪者と責められるのだろうか。
行政に相談したら・・・とか外野から眺めて言うのは簡単だ。
しかし、後を絶たないこの種の事件は、当事者はそんな事は当然分かっていても、先の見えない絶望に耐えられないのだと思う。
根深い孤独と孤立こそ、この国の悲劇の原点なのかもしれない。
この映画をみたら、無性に父と酒を飲みたくなった。
我が親父殿の故郷の地酒、名手酒造店の「黒牛 純米吟醸」をチョイス。
紀州の酒は温暖な気候ゆえか、芳醇に香りまろやかで、比較的甘いのが特徴だ。
今度実家に帰る時は、この酒を持って行く事にしよう。
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自らの命の終わりを予感した父親が、自らの年金にすがって生活している息子のために、最後に残そうとしたものとは。
「バッシング」「春との旅」の小林政広監督が描くのは、社会全体の高齢化が進み、一方で格差はとめどなく拡大を続ける現代日本の抱える、悲しく深い闇の情景。
自室の扉を釘で打ち付け閉じこもり、静かな自殺を宣言した父親と、家族も仕事も失った息子。
お互いを思いやりながらも、何も出来ない現実と、ただ過ぎ去った幸せな日々への追想が切ない。
その深い皺に悲しみを湛えた仲代達矢と、息子役の北村一輝の扉越しの演技合戦も見ものだ。
肺癌で余命が幾ばくも無いことを知った不二男(仲代達矢)は、亡き妻の遺骨と共に自室に閉じこもり、一切の食べ物を取らずこのまま死ぬと言い出す。
不二男は、うつ病を患い、震災で妻子を失った一人息子の義男(北村一輝)のために、自分が死んでもそのことを隠し、年金を受け取れる様にと考えたのだった。
父の行動を理解出来ない義男は、扉越しの説得を続けるが、不二男はガンとして聞き入れない。
次第に衰弱する不二男の脳裏には、ほんの数年前までの幸せな人生の光景が、走馬灯の様に蘇っていた・・・・
「日本の悲劇」というタイトルからは、映画ファンなら1953年に公開された木下惠介監督作品が思い浮かぶだろう。
女手一つで息子と娘を育て上げながら、相次いで子供たちに見捨てられ、自ら死を選ぶ戦争未亡人の姿を描く文字通りの悲劇だ。
ある意味で、希望的な代表作「二十四の瞳」の対になる作品であり、地べたを這いつくばる様にして必死に生活している庶民の生きざま、死にざまを通して、戦後日本における家族の崩壊を描いた問題作だった。
そして60年後の平成の世の「日本の悲劇」は、未来に希望を持てない子供のために、親が命を捨てる。
映画の物語自体はフィクションだが、2010年に足立区で白骨化した老人の遺体が見つかった実際の事件にインスパイアされているそうだ。
この人物は1978年に「即身仏になる」と言い残して部屋の扉を閉じ、実に32年もの間そのまま放置されていた。
老人が死亡した後も家族が届け出ず、年金を受け取り続けていた事で詐欺罪に問われたが、その後日本中に同じような生死不明の高齢者が沢山いる事が判明し、社会問題としてクローズアップされたのは記憶に新しい。
本作の登場人物は僅か四人、一軒家の中だけで展開する物語である。
映画は入院していた不二男が息子の義男に伴われ、家に戻ってくるシーンから始まり、やがて不二男は自室の扉を釘で打ち付け、自分はミイラになるんだと言って閉じこもる。
扉の内でゆっくりと死へと向かう不二男と、扉の外で生へと留めおこうとする義男。
そして、二人の脳裏に去来する、幸せだった日々の記憶。
絶望の現在とほんの数年前の幸福な過去が交互に描かれる構成、一軒家の舞台をさらに絞り込んだ演劇的空間をカラーのシネマスコープで撮影し、モノクロ処理するなど、映画としての作りは極めて特徴的である。
基本はフィックスの長回しで、正確に数えた訳ではないが、全体のカット数は僅かに60ほどだろうか。
大きなテーブルの置かれた台所と不二男の自室、そして二つの部屋の間にある廊下に絞られたカメラポジションは、ほんの数パターンのみという簡潔さ。
非常に面白かったのは、スクリーンの外をイメージさせる音響演出だ。
シネマスコープを採用した映像は、フィックスでも生活空間をそれなりに広く描写する事が出来る。
ところがこの映画、決め込まれた構図のフレームから、人物が外れている時間が非常に長いのだ。
その間、画面には無人の空間が残されているだけだが、代わりに雄弁に語りだすのは画面の外から聞こえてくる様々な音である。
フレームを外れていても、そこに人がいない訳ではない。
映画館のマルチチャンネルの音響を生かして、義男の声や生活音、家の外から聞こえてくる雑音など、あらゆる音が四方から主張し、映像では殆ど描写されない家の構造までなんとなくわかるのだ。
これによって映画は四角く切り取られたフレームという視覚の頚木から放たれ、観客の想像力を刺激し、三次元の空間として認識されるのである。
トーキーの発明によって、映画という芸術は視聴覚を併せ持つようになったが、しばしば視覚に比べて軽視されがちな聴覚を、これだけ効果的に利用した演出はユニーク。
だが、考えてみれば、私たちは家で過ごす時は、家族の存在を実際に音で感じている事が多くないだろうか。
例えば台所で料理をしている時、リビングでテレビを見ている時、あるいは自室で読書をしている時など、視覚が特定の物事に集中していても、耳は家族の動向を逐一キャッチして息吹を感じている。
たとえ扉で隔てられ姿は見えなくても、そこで音がする事で、義男は不二男の、不二男は義男の存在を確かなものとしてとらえているのだ。
本作は視覚の情報をあえて限定する事で、聴覚の役割を増大させ、結果的に観客がその家にいるかのような臨場感を作り出す事に成功している。
色の無い暗い世界の中で、唯一色彩の光を取り戻すカラーのカットも、それまでとのコントラストがあるから非常に印象強く、それが過去のイメージである事が現在の悲劇性をより際立たせるのである。
四人の家族の中でも、殆どは父と息子の二人だけの会話劇として物語が進む。
仲代達矢と北村一輝の絶妙なコンビネーションによる、まるでライブの演劇の様に緊張感溢れる演技のせめぎ合いも本作の大きな見所だ。
特に仲代達矢が演じる不二男の、やり過ぎギリギリの役作り、全てを突き放すような独特の語り口調は、どこかユーモラスで重い題材を救っている。
小林監督はこのキャラクターに、彼の代表作の一つである「切腹」の再現を狙ったという。
なるほど、決断したら梃子でも動かない頑固なオヤジの姿は、まるで覚悟を決めた侍の様だ。
異なる世代の二人の俳優のキャラクターへのアプローチが、この作品の持つリアルなシチュエーションでありながら、戯画的・演劇的な世界観の輪郭を、確固たるものにしていると思う。
本作に描かれる人々は、日本のどこにでもいるごく普通の家族だ。
待ち望んだ初孫に恵まれ、二世代の家族が集う数年前の幸せな光景と、全てが崩壊しただ一人残った義男が、もはや返事の無い扉に語りかける現在のコントラストが描き出すのは正に悲劇。
映画は声高に何かを主張してる訳ではないが、彼らが抱えるうつ病、失業、癌、介護の問題、そして震災といった、この国の誰にでも起こりうる小さな悲劇の連鎖を通して、静かに社会に疑問を問いかける。
この家族は日本人一億二千万の縮図であり、彼らの悲劇は即ち「日本の悲劇」なのである。
映画のモチーフとなった足立区の事件の後、高齢者の死亡を隠して年金を詐取した事件が続々と発覚した。
人々は浅ましいと怒りを感じ、マスコミもバッシングを浴びせたが、では私たちは彼らの人生に何が起こったのかを想像したり、思いやったりしただろうか。
つい先日も、札幌で91歳の母親と59歳の娘が自宅で倒れているのが発見される事件が起こった。
母親は既に死亡しており、娘も2週間水だけしか飲んでおらず衰弱しきっていたという。
この事件では後に娘が死体遺棄容疑で逮捕されたが、彼女は母親の介護をするために仕事を辞め、発見された時に家にあった現金は数十円だけで、冷蔵庫も空だったそうだ。
はたして、私たちは彼女を犯罪者と責められるのだろうか。
行政に相談したら・・・とか外野から眺めて言うのは簡単だ。
しかし、後を絶たないこの種の事件は、当事者はそんな事は当然分かっていても、先の見えない絶望に耐えられないのだと思う。
根深い孤独と孤立こそ、この国の悲劇の原点なのかもしれない。
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