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2013年10月23日 (水) | 編集 |
久しぶりに、振り切ったアングラ感満載の林海象が帰ってきた。
「彌勒 MIROKU」は、稲垣足穂の小説「彌勒(みろく)」を原作に、幻想的なモノクロ映像で描いた作品である。
87分の映画は二部構成に別れており、第一部「真鍮の砲弾」は、未来を夢見る5人の少年たちの物語。
ある者は科学者に、ある者は哲学者に、またある者は詩人になりたいと願っているが、夢想家の江美留だけは自分の将来を漠然としかイメージできない。
ところが、少年たちの一人がある日突然自殺してしまい、残された4人は空を見つめていた彼を悼んで山頂にある天文台を訪れる。
望遠鏡を覗く老天文学士に「何が見えるのか?」と聞く少年たちに、学士は逆に「教えてくれないか。僕たちはどこから来て、どこへ行くのかを?」と問いかける。
その答えを探す少年たちの中で、江美留は一冊の本に挟まれた彌勒菩薩の写真を見つけるのだ。
そこには「五十六億七千万年後に、人類全てを救済するもの」と書かれており、インスピレーションを得た江美留は、小説家になることを決意するのである。
第二部の「墓畔の館」は、それから数十年後、理想とは程遠い生活を送る大人になった江美留を描く。
小説は売れず、極貧生活の中で何か文章を書いてもその原稿を質入し、金を全て酒代に変えてしまう。
時には空腹に耐えかねて盗みまでも。
友人の放浪画家に背中を押されても、自分が何を書くべきかも分からない。
そんな江美留の夢には恐ろしい鬼が現れ、「お前の目指す人間とは何か?」と問う。
極限まで墜ちた精神状態の中で、やがて江美留は遠い過去の自分自身と出会うのである。
おそらく好き嫌いは明確に分かれるだろうが、私は嘗ての「夢見るように眠りたい」や「二十世紀少年読本」を思わせる本作のテイストが好きだ。
作品自体も特異だが、その背景や上映形態も含めて、なんとも型破りで従来の“映画”の定義には収まりきらない作品である。
スタッフや出演者は、京都造形芸術大学の現役の学生たち90人。
もちろん監督の林海象をはじめ、ベテランのプロフェッショナルたちがサポートしクオリティの担保はあるものの、制作作業は全て学生たちがこなしたという。
例えば、撮影監督の長田勇一がアングルをきって、実際に撮影するのは学生という風に。
キャストも第一部で五人の少年たちを演じるのは、全て俳優コースの学生たちだが、少年の役を少女が演じ、やたら文学的な台詞を口にする様はなんとも不思議な異世界感覚を呼び起こす。
制作スタイルだけでなく、興業形態もまたユニークだ。
宣伝媒体は用いず、公式サイトのほかはFacebookとTwitterの口コミのみ。
また本作には普通の映画の様に全ての音が入った「映画版」と、台詞と効果音だけが残され、音楽は生オケによって演奏される「生演奏版」の2バージョンが用意される。
後者は撮影が行われた京都下鴨神社での野外奉納上映に始まり、全国を行脚して上映会を繰り返すというまるでコンサートや芝居興業の様なスタイル。
私が鑑賞したのは、池袋の鬼子母神内の唐組・紅テントであった。
林海象監督が寺山修二の天井桟敷出身である事は良く知られているが、本当は状況劇場への入団を考えていたらしい。
ホントかどうかは分からないが、若き林青年が紅テントを訪ねた時、唐十郎が物凄い形相で小林薫を怒鳴りつけていて、その余りの迫力にビビッて止めたのだとか。
その後、映画監督となった林海象は1996年の「海ほおずき」で唐十郎を主演に迎えるのだが、今回は紅テントでの上映という事で、オマージュとしてこの作品のダイジェスト映像も流された。
天井桟敷出身の映画監督が、唐組の聖地・紅テントで演劇的構造を持った映画を生オケで上映する。
さらに上映前には映画で少年たちを演じた女優たちが、オープニングアクトで桟敷席をびっしり埋めた観客たちに直接呼びかけ、劇中で彼女らの回りを固めるのは佐野史郎、水上竜士、四谷シモンといった状況劇場出身の名優たち。
なるほどここには、マスメディアとしての映画が失ったもの、劇場という暗闇の非日常空間を共有するライブ感覚と熱気が確かにある。
第一部におけるメリエスの引用が示唆する様に、これは映画の再発見に関しての作品と言えるかもしれない。
溢れんばかりのイマジネーションを、小説として形にする事を選んだ江美留は、言わば創作のメタファー。
「人はどこから来て、どこへ行くのか」という問いは、同時に「(人の創作物である)映画とは何で、どこへ行こうとしているのか」と読み替える事が出来る。
デジタル技術とシネコンの登場によって、映画を取り巻く環境、映画そのものの定義も大きく変わりつつある現在。
メディアミックスで宣伝され、全国のシネコンで一斉に上映されるメジャー映画は、もちろん産業の保守本流としてあっていい。
しかし映画とは、本来自由なものだ。
本作は言わば過去と現代、アナログとデジタルのごった煮が生んだ異色の映画体験。
いかにもクラッシックな雰囲気でも撮影はHD、宣伝にSNSを駆使する試みはデジタル時代の現在だが、神社や芝居小屋での生オケつき興業、しかも映画のキャストがオープニングアクトで観客を直接スクリーンへと誘う演出など、映画と観客との距離感はアナログ感がたっぷりだ。
レオス・カラックスは「ホーリー・モーターズ」で、人間たちが“光る機械”に興味を失い、暗闇の中で創造の叡智=イデアを観るという神秘の共有体験の終わりを、劇場の衰萎による本質的な映画の終焉として予見して見せた。
「彌勒 MIROKU」はカラックスの描いた未来に対する、一定の答えを示している様に思う。
映画の未知なる可能性は、まだまだ残されている。
おそらく本作は、「映画版」と「生演奏版」では著しく印象が異なるだろう。
また「生演奏版」は毎回オープニングアクトなどに異なる演出が施されているそうだ。
私はまだ「映画版」を観ていないし、「生演奏版」は場を含めた興業全体を含めて一つの作品だと思うので、今回評価額は差し控える。
ちなみに「生演奏版」は今年だけでなく、来年も全国行脚を行うそうだ。
一つ言える事は、このユニークな体験をもう一度味わうために、私は確実に来年も行くだろうという事である。
今回は本作が生まれた京都は西陣の佐々木酒造の「京生粋 純米吟醸」をチョイス。
水はもちろん酒米は「祝」、吟醸酵母は「京の琴」と全て京都産に拘って作られた逸品だ。
フワリとした吟醸香が広がり、なんともたおやかで優美な仕上がりで、京料理との相性は抜群。
冷でも美味しいが、これからの季節はぬる燗にするのもお勧めだ。
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「彌勒 MIROKU」は、稲垣足穂の小説「彌勒(みろく)」を原作に、幻想的なモノクロ映像で描いた作品である。
87分の映画は二部構成に別れており、第一部「真鍮の砲弾」は、未来を夢見る5人の少年たちの物語。
ある者は科学者に、ある者は哲学者に、またある者は詩人になりたいと願っているが、夢想家の江美留だけは自分の将来を漠然としかイメージできない。
ところが、少年たちの一人がある日突然自殺してしまい、残された4人は空を見つめていた彼を悼んで山頂にある天文台を訪れる。
望遠鏡を覗く老天文学士に「何が見えるのか?」と聞く少年たちに、学士は逆に「教えてくれないか。僕たちはどこから来て、どこへ行くのかを?」と問いかける。
その答えを探す少年たちの中で、江美留は一冊の本に挟まれた彌勒菩薩の写真を見つけるのだ。
そこには「五十六億七千万年後に、人類全てを救済するもの」と書かれており、インスピレーションを得た江美留は、小説家になることを決意するのである。
第二部の「墓畔の館」は、それから数十年後、理想とは程遠い生活を送る大人になった江美留を描く。
小説は売れず、極貧生活の中で何か文章を書いてもその原稿を質入し、金を全て酒代に変えてしまう。
時には空腹に耐えかねて盗みまでも。
友人の放浪画家に背中を押されても、自分が何を書くべきかも分からない。
そんな江美留の夢には恐ろしい鬼が現れ、「お前の目指す人間とは何か?」と問う。
極限まで墜ちた精神状態の中で、やがて江美留は遠い過去の自分自身と出会うのである。
おそらく好き嫌いは明確に分かれるだろうが、私は嘗ての「夢見るように眠りたい」や「二十世紀少年読本」を思わせる本作のテイストが好きだ。
作品自体も特異だが、その背景や上映形態も含めて、なんとも型破りで従来の“映画”の定義には収まりきらない作品である。
スタッフや出演者は、京都造形芸術大学の現役の学生たち90人。
もちろん監督の林海象をはじめ、ベテランのプロフェッショナルたちがサポートしクオリティの担保はあるものの、制作作業は全て学生たちがこなしたという。
例えば、撮影監督の長田勇一がアングルをきって、実際に撮影するのは学生という風に。
キャストも第一部で五人の少年たちを演じるのは、全て俳優コースの学生たちだが、少年の役を少女が演じ、やたら文学的な台詞を口にする様はなんとも不思議な異世界感覚を呼び起こす。
制作スタイルだけでなく、興業形態もまたユニークだ。
宣伝媒体は用いず、公式サイトのほかはFacebookとTwitterの口コミのみ。
また本作には普通の映画の様に全ての音が入った「映画版」と、台詞と効果音だけが残され、音楽は生オケによって演奏される「生演奏版」の2バージョンが用意される。
後者は撮影が行われた京都下鴨神社での野外奉納上映に始まり、全国を行脚して上映会を繰り返すというまるでコンサートや芝居興業の様なスタイル。
私が鑑賞したのは、池袋の鬼子母神内の唐組・紅テントであった。
林海象監督が寺山修二の天井桟敷出身である事は良く知られているが、本当は状況劇場への入団を考えていたらしい。
ホントかどうかは分からないが、若き林青年が紅テントを訪ねた時、唐十郎が物凄い形相で小林薫を怒鳴りつけていて、その余りの迫力にビビッて止めたのだとか。
その後、映画監督となった林海象は1996年の「海ほおずき」で唐十郎を主演に迎えるのだが、今回は紅テントでの上映という事で、オマージュとしてこの作品のダイジェスト映像も流された。
天井桟敷出身の映画監督が、唐組の聖地・紅テントで演劇的構造を持った映画を生オケで上映する。
さらに上映前には映画で少年たちを演じた女優たちが、オープニングアクトで桟敷席をびっしり埋めた観客たちに直接呼びかけ、劇中で彼女らの回りを固めるのは佐野史郎、水上竜士、四谷シモンといった状況劇場出身の名優たち。
なるほどここには、マスメディアとしての映画が失ったもの、劇場という暗闇の非日常空間を共有するライブ感覚と熱気が確かにある。
第一部におけるメリエスの引用が示唆する様に、これは映画の再発見に関しての作品と言えるかもしれない。
溢れんばかりのイマジネーションを、小説として形にする事を選んだ江美留は、言わば創作のメタファー。
「人はどこから来て、どこへ行くのか」という問いは、同時に「(人の創作物である)映画とは何で、どこへ行こうとしているのか」と読み替える事が出来る。
デジタル技術とシネコンの登場によって、映画を取り巻く環境、映画そのものの定義も大きく変わりつつある現在。
メディアミックスで宣伝され、全国のシネコンで一斉に上映されるメジャー映画は、もちろん産業の保守本流としてあっていい。
しかし映画とは、本来自由なものだ。
本作は言わば過去と現代、アナログとデジタルのごった煮が生んだ異色の映画体験。
いかにもクラッシックな雰囲気でも撮影はHD、宣伝にSNSを駆使する試みはデジタル時代の現在だが、神社や芝居小屋での生オケつき興業、しかも映画のキャストがオープニングアクトで観客を直接スクリーンへと誘う演出など、映画と観客との距離感はアナログ感がたっぷりだ。
レオス・カラックスは「ホーリー・モーターズ」で、人間たちが“光る機械”に興味を失い、暗闇の中で創造の叡智=イデアを観るという神秘の共有体験の終わりを、劇場の衰萎による本質的な映画の終焉として予見して見せた。
「彌勒 MIROKU」はカラックスの描いた未来に対する、一定の答えを示している様に思う。
映画の未知なる可能性は、まだまだ残されている。
おそらく本作は、「映画版」と「生演奏版」では著しく印象が異なるだろう。
また「生演奏版」は毎回オープニングアクトなどに異なる演出が施されているそうだ。
私はまだ「映画版」を観ていないし、「生演奏版」は場を含めた興業全体を含めて一つの作品だと思うので、今回評価額は差し控える。
ちなみに「生演奏版」は今年だけでなく、来年も全国行脚を行うそうだ。
一つ言える事は、このユニークな体験をもう一度味わうために、私は確実に来年も行くだろうという事である。
今回は本作が生まれた京都は西陣の佐々木酒造の「京生粋 純米吟醸」をチョイス。
水はもちろん酒米は「祝」、吟醸酵母は「京の琴」と全て京都産に拘って作られた逸品だ。
フワリとした吟醸香が広がり、なんともたおやかで優美な仕上がりで、京料理との相性は抜群。
冷でも美味しいが、これからの季節はぬる燗にするのもお勧めだ。

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