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2015年02月20日 (金) | 編集 |
彼女と彼、すれ違う二つの世界。
ニューヨークを舞台に、崩壊しつつある一つの愛の顛末を、女と男双方の視点で「エリナーの愛情」と「コナーの涙」という別々の映画に仕立て上げた異色作。
要するに、イーストウッドの硫黄島二部作のコンセプトをラブストーリーでやった訳で、国家間の最大の葛藤は戦争だけど、男女間の場合それは愛という事か。
心に大きな虚空を抱えた二人は、すれ違いと邂逅を繰り返してゆくが、彼らが見ていたのは果たして同じ世界だったのだろうか。
プロデューサーも兼務するジェシカ・チャステインがエリナーを、ジェームズ・マカボイが夫のコナーを演じ、ウィリアム・ハートやイザベル・ユペール、ヴィオラ・ディビスらベテランが脇を固める。
監督・脚本は、これが長編デビュー作となるネッド・ベンソン。
ニューヨークに住むエリナー(ジェシカ・チャステイン)とコナー(ジェームズ・マガボイ)は、子どもを失った事で大きな喪失感に苛まれ、エリナーの自殺未遂を切っ掛けに二人の結婚生活は破綻してしまう。
実家に戻ったエリナーは、父の務める大学で美術史の聴講生となり、辛い思い出の詰まったアメリカを離れ、ヨーロッパ留学を夢見る様になる。
一方のコナーは、経営するレストランの赤字が続き、外食業界の重鎮である父親の援助を受け入れるか否かの決断を迫られている。
別居以来、エリナーはコナーの事を避けてきたが、ある夜大学の講義を受けていたエリナーの前に、突然コナーが姿を現す。
驚いたエリナーは、コナーに酷い言葉を浴びせてしまうのだが・・・・
一つの愛を二つの視点で描くと言っても、単純に同じ事を分割して描いている訳ではない。
本作がユニークなのは、これが主観性とは何かに関する作品だという事だ。
人は、同じ出来事に対して、どれくらい違った体験をしているのだろうか。
芥川龍之介は、映画「羅生門」の原作ともなった短編小説「藪の中」において、一件の殺人事件を巡って、七人の登場人物にそれぞれに矛盾する証言をさせる事で、人間がいかに主観的存在であるかを描き出して見せた。
「藪の中」の場合、登場人物が明らかに嘘をついている事で、証言が食い違ってゆくのだが、本作のネッド・ベンソンは男女の視点を分ける事によって、そもそも人間は何かが起こった時点で異なる体験をしているのだと説く。
同じ出来事を描いていても、視点が異なれば、それが物語上同じ意味を持つとは限らないのである。
二本の作品が大きくオーバーラップするシーンが3つあるが、ここの描き方には要注目だ。
台詞そのものが変わっていたり、それを口にする人間が違っていたり、エリナーがコナーに背を向けていたり、抱き合っていたりとだいぶ異なる。
これは同じ出来事を男女がどのくらい違って見ているのか、その差異を味わう映画であって、基本的に両方が組み合わさって一本。
日本では公開されない様だが、実際に海外では一本にまとめてしまったバージョンもあり、できれば二本続けて鑑賞したいところだ。
では、どちらを先に見る方が良いのか?という事だが、私が実際に観たのは「エリナーの愛情」から「コナーの涙」の順。
しかし個人的な意見としては、その逆が良いと思う。
なぜならば、「コナーの涙」の方がシンプルで入りやすく、しかし明らかに切り欠き部分が多く、単体の映画としては微妙に成立していないからだ。
原題の「The Disappearance of Eleanor Rigby:Him/ Her(エリナ―・リグビーの失踪:彼にとって/彼女にとって)」が示唆する様に、二部作全体としての主人公は妻の方。
子どもの死という起点から、より大きな葛藤を抱え込んだのはエレナ―であって、コナーの主な葛藤はむしろ彼女の状態に誘発されたものであり、映画の関係としても「エリナーの愛情」がメインで「コナーの涙」によって保管される構造となっている。
そしてこれはたぶん作者が男性という事もあるのだろうけど、コナーの人間性はとても分かりやすい。
レストラン業界のレジェンドを父に持つボンボンながら、あえて親の援助は受けず、つっぱって同じ業界で勝負をかけるも、どうしてもうまくいかない。
おまけに子どもを亡くして、唐突に妻にも去られるという、泣きっ面に蜂状態だ。
仕事に行き詰まり、理解不能の妻の行動に翻弄されている彼が、何に葛藤し、何を求めているのかはドラマを通じて明確に伝わって来る。
彼の救済に必要なものが何なのかはイメージしやすく、コナーは感情移入キャラクターなのだ。
だが、物語上「コナーの涙」で解消されるのは、レストラン経営という物質的な問題までで、彼が抱えている葛藤の根本、即ち愛の部分は解消されず、ドラマ的には未完成のままである。
対するエリナーは、米仏のハーフで父親は大学教授という絵に描いたようなインテリ層で、彼女自身の人物像もかなり複雑に造形されている。
「エリナーの愛情」は、冒頭いきなり彼女の自殺未遂というショッキングなエピソードから始まり、徐々に彼女の過去に何が起こったのか、どんな問題を抱えているのかが少しずつ明かされてゆく。
ただコナーと違い、エリナーの内面は終始ミステリアスなベールに隠されていて、彼女が何を考えていて、何を欲しているのかはなかなか見えてこない
いや勿論、子どもを失った事が大いなる喪失なのは間違いないのだけど、そこから自殺未遂するまでの半年間、彼女の中でどんな感情が育ち、大きな葛藤となっていったのかというプロセスは、少なくともコナーほど単純ではないのである。
また人間関係という点でも、唯一の家族である父とも壁があり、友人も仕事関係の人しかいないコナーに対して、エリナーは両親や妹、甥っ子ら暖かな愛に囲まれている。
現実が充実しているからこそ、逆に喪失が彼女を苦しめるのだが、感情をあらわにしない彼女に感情移入するのはなかなか難しい。
だから個人的には、「コナーの涙」で作品世界にスッと入って、二人の抱えている複雑かつ異なる葛藤を理解しておいてから、「エリナーの愛情」で彼女の本質をじっくり考察した方が物語の言わんとするところが読み解きやすいのではないかという気がしている。
もちろん、人によってエリナーのほうがキャラクターとして分りやすいという人もいるだろうし、ミステリアスな「エリナーの愛情」から入って「コナーの涙」でその答えを考えるという観方もある。
確かなのは、「ラブストーリーズ」二部作は、愛をモチーフにした人生の物語の映画であり、たとえ多くの時間を共有している夫婦と言えど、それぞれの物語は異なっているという事だ。
大きな試練の時ほど見ている世界の差異は大きくなり、お互いを理解し共感するためには、真摯な努力が必要になってくるのだろう。
この事自体は当たり前の事なのだけど、改めて特異な構造を持つ映画として見せられると、自分自身と人との関係に置き換えても考えさせられる。
まあ、一本の映画に観客の数だけ解釈と感想が存在するのも、人がそれぞれ異なる物語を生きているからで、リア充の人はこの映画を観て語ることで、パートーナーとの絆が深まったりするのかもしれない。
今回は、劇中に出てきたノンアルコール・カクテル「シャーリー・テンプル」のアルコールあり版、「ダーティ・シャーリー」をチョイス。
ウォッカ30ml、スプライト又は7up150ml、グレナデン・シロップ1dashを大き目のグラスに注ぎ入れ、軽くステアする。
好みでライムジュースを適量加え、最後にマラスキーノチェリーを2粒加えて完成。
見た目も味も甘いソフトドリンクっぽいカクテルだが、スッキリしていてアルコールが苦手な人でも飲みやすいだろう。
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ニューヨークを舞台に、崩壊しつつある一つの愛の顛末を、女と男双方の視点で「エリナーの愛情」と「コナーの涙」という別々の映画に仕立て上げた異色作。
要するに、イーストウッドの硫黄島二部作のコンセプトをラブストーリーでやった訳で、国家間の最大の葛藤は戦争だけど、男女間の場合それは愛という事か。
心に大きな虚空を抱えた二人は、すれ違いと邂逅を繰り返してゆくが、彼らが見ていたのは果たして同じ世界だったのだろうか。
プロデューサーも兼務するジェシカ・チャステインがエリナーを、ジェームズ・マカボイが夫のコナーを演じ、ウィリアム・ハートやイザベル・ユペール、ヴィオラ・ディビスらベテランが脇を固める。
監督・脚本は、これが長編デビュー作となるネッド・ベンソン。
ニューヨークに住むエリナー(ジェシカ・チャステイン)とコナー(ジェームズ・マガボイ)は、子どもを失った事で大きな喪失感に苛まれ、エリナーの自殺未遂を切っ掛けに二人の結婚生活は破綻してしまう。
実家に戻ったエリナーは、父の務める大学で美術史の聴講生となり、辛い思い出の詰まったアメリカを離れ、ヨーロッパ留学を夢見る様になる。
一方のコナーは、経営するレストランの赤字が続き、外食業界の重鎮である父親の援助を受け入れるか否かの決断を迫られている。
別居以来、エリナーはコナーの事を避けてきたが、ある夜大学の講義を受けていたエリナーの前に、突然コナーが姿を現す。
驚いたエリナーは、コナーに酷い言葉を浴びせてしまうのだが・・・・
一つの愛を二つの視点で描くと言っても、単純に同じ事を分割して描いている訳ではない。
本作がユニークなのは、これが主観性とは何かに関する作品だという事だ。
人は、同じ出来事に対して、どれくらい違った体験をしているのだろうか。
芥川龍之介は、映画「羅生門」の原作ともなった短編小説「藪の中」において、一件の殺人事件を巡って、七人の登場人物にそれぞれに矛盾する証言をさせる事で、人間がいかに主観的存在であるかを描き出して見せた。
「藪の中」の場合、登場人物が明らかに嘘をついている事で、証言が食い違ってゆくのだが、本作のネッド・ベンソンは男女の視点を分ける事によって、そもそも人間は何かが起こった時点で異なる体験をしているのだと説く。
同じ出来事を描いていても、視点が異なれば、それが物語上同じ意味を持つとは限らないのである。
二本の作品が大きくオーバーラップするシーンが3つあるが、ここの描き方には要注目だ。
台詞そのものが変わっていたり、それを口にする人間が違っていたり、エリナーがコナーに背を向けていたり、抱き合っていたりとだいぶ異なる。
これは同じ出来事を男女がどのくらい違って見ているのか、その差異を味わう映画であって、基本的に両方が組み合わさって一本。
日本では公開されない様だが、実際に海外では一本にまとめてしまったバージョンもあり、できれば二本続けて鑑賞したいところだ。
では、どちらを先に見る方が良いのか?という事だが、私が実際に観たのは「エリナーの愛情」から「コナーの涙」の順。
しかし個人的な意見としては、その逆が良いと思う。
なぜならば、「コナーの涙」の方がシンプルで入りやすく、しかし明らかに切り欠き部分が多く、単体の映画としては微妙に成立していないからだ。
原題の「The Disappearance of Eleanor Rigby:Him/ Her(エリナ―・リグビーの失踪:彼にとって/彼女にとって)」が示唆する様に、二部作全体としての主人公は妻の方。
子どもの死という起点から、より大きな葛藤を抱え込んだのはエレナ―であって、コナーの主な葛藤はむしろ彼女の状態に誘発されたものであり、映画の関係としても「エリナーの愛情」がメインで「コナーの涙」によって保管される構造となっている。
そしてこれはたぶん作者が男性という事もあるのだろうけど、コナーの人間性はとても分かりやすい。
レストラン業界のレジェンドを父に持つボンボンながら、あえて親の援助は受けず、つっぱって同じ業界で勝負をかけるも、どうしてもうまくいかない。
おまけに子どもを亡くして、唐突に妻にも去られるという、泣きっ面に蜂状態だ。
仕事に行き詰まり、理解不能の妻の行動に翻弄されている彼が、何に葛藤し、何を求めているのかはドラマを通じて明確に伝わって来る。
彼の救済に必要なものが何なのかはイメージしやすく、コナーは感情移入キャラクターなのだ。
だが、物語上「コナーの涙」で解消されるのは、レストラン経営という物質的な問題までで、彼が抱えている葛藤の根本、即ち愛の部分は解消されず、ドラマ的には未完成のままである。
対するエリナーは、米仏のハーフで父親は大学教授という絵に描いたようなインテリ層で、彼女自身の人物像もかなり複雑に造形されている。
「エリナーの愛情」は、冒頭いきなり彼女の自殺未遂というショッキングなエピソードから始まり、徐々に彼女の過去に何が起こったのか、どんな問題を抱えているのかが少しずつ明かされてゆく。
ただコナーと違い、エリナーの内面は終始ミステリアスなベールに隠されていて、彼女が何を考えていて、何を欲しているのかはなかなか見えてこない
いや勿論、子どもを失った事が大いなる喪失なのは間違いないのだけど、そこから自殺未遂するまでの半年間、彼女の中でどんな感情が育ち、大きな葛藤となっていったのかというプロセスは、少なくともコナーほど単純ではないのである。
また人間関係という点でも、唯一の家族である父とも壁があり、友人も仕事関係の人しかいないコナーに対して、エリナーは両親や妹、甥っ子ら暖かな愛に囲まれている。
現実が充実しているからこそ、逆に喪失が彼女を苦しめるのだが、感情をあらわにしない彼女に感情移入するのはなかなか難しい。
だから個人的には、「コナーの涙」で作品世界にスッと入って、二人の抱えている複雑かつ異なる葛藤を理解しておいてから、「エリナーの愛情」で彼女の本質をじっくり考察した方が物語の言わんとするところが読み解きやすいのではないかという気がしている。
もちろん、人によってエリナーのほうがキャラクターとして分りやすいという人もいるだろうし、ミステリアスな「エリナーの愛情」から入って「コナーの涙」でその答えを考えるという観方もある。
確かなのは、「ラブストーリーズ」二部作は、愛をモチーフにした人生の物語の映画であり、たとえ多くの時間を共有している夫婦と言えど、それぞれの物語は異なっているという事だ。
大きな試練の時ほど見ている世界の差異は大きくなり、お互いを理解し共感するためには、真摯な努力が必要になってくるのだろう。
この事自体は当たり前の事なのだけど、改めて特異な構造を持つ映画として見せられると、自分自身と人との関係に置き換えても考えさせられる。
まあ、一本の映画に観客の数だけ解釈と感想が存在するのも、人がそれぞれ異なる物語を生きているからで、リア充の人はこの映画を観て語ることで、パートーナーとの絆が深まったりするのかもしれない。
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この記事へのコメント
ラブストーリーズというタイトルからは苦く切ない大人のカクテルの味わいの本編は意外でしたね。失踪というコナーの涙で描かれたカフカ的世界の迷宮或は不条理が、エリナーの愛情で少しずつ繙かれていく…。観客自身がこの二枚の絵画を頭の中で違いを楽しみながら編集する醍醐味。二本の映画自体がポスターとして部屋に貼られたクロード・ルルーシュ監督の(男と女)みたいで男女のコミュニケーションの困難さを象徴しているのかも。
2015/09/01(火) 09:07:59 | URL | PineWood #mdX0xzVk[ 編集]
>PineWoodさん
そうですね。
この二本の映画そのものが交じり合うカクテルのよう。
同じ話でも描写が異なるみたいに、そもそもお互いを分るってこと自体が傲慢な幻想なのかもしれません。
人間は主観の生き物だから、コミュニケーションは本当に難しいです。
そうですね。
この二本の映画そのものが交じり合うカクテルのよう。
同じ話でも描写が異なるみたいに、そもそもお互いを分るってこと自体が傲慢な幻想なのかもしれません。
人間は主観の生き物だから、コミュニケーションは本当に難しいです。
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ニューヨーク。
幼い我が子を亡くしたエリナー(ジェシカ・チャステイン)とコナー(ジェームズ・マカヴォイ)。
小さなレストランを経営するコナーは、2人で悲しみを乗り越えようと腐心してきたが、エリナーは苦悩に苛まれるばかりだった。
エリナーが起こしたあることをきっかけに、2人は別居、距離を置くことになるが…。
最愛の子どもの死をきっかけに、別れを決断したカップルが、再生へと向かう...
2015/02/26(木) 01:44:22 | 心のままに映画の風景
映画「ラブストーリーズ コナーの涙」を見た感想とあらすじです。ややネタバレもあります。テアトル梅田で見ました。 一緒にいるだけで幸せだった。なのに、いつしか、心はすれ違い、君は去って行った。僕はいつだってここに居たのに、君は居なかったと言う。君が寂しい思いをしてたって僕は気づかなかった。一緒にいたのに僕は気づかなかった。 一緒にても孤独だって僕は気づかないふりをしていた。僕は僕の寂しささえ気...
2015/03/05(木) 16:23:52 | ミニシアターで映画を
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