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沈黙 -サイレンス-・・・・・評価額1750円
2017年01月24日 (火) | 編集 |
神はどこにいるのか?なぜ沈黙するのか?

江戸初期、キリシタン弾圧下の日本を舞台に、棄教した師を探すため日本に潜入したカトリック司祭たちの苦悩を描く遠藤周作の傑作小説「沈黙」を、巨匠マーティン・スコセッシが20年来の執念を実らせて映画化。
正に入魂の一作で、プロットは原作小説に驚くほど忠実に、パワフルなテリングで全くダレずに162分の長尺を描き切った。
原作同様に書簡のモノローグをうまく使う事で、ダイジェストを感じさせることなく、巧みに映像作品として再構成されている。
日本という“信仰の沼”で、神を求め続けたカトリックの司祭たちの心に、いったい何が起こったのか?
信仰の本質と人間のあり方を問う、ヘビー級の力作である。
※核心部分に触れています。

17世紀、ポルトガル。
イエズス会の本部に、日本で長年布教活動をしていた司祭のフェレイラ(リーアム・ニーソン)が、拷問に耐えかねて棄教したという知らせが届く。
フェレイラの弟子のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライバー)は、師が信仰を捨てたことが信じられず、ことの真相を突き止め、弾圧下にある信徒を導くために、日本に潜入することを願い出る。
マカオまで到達した二人は、日本人漂流者のキチジロー(窪塚洋介)を案内人として、長崎からほど近いトモギ村へとたどり着き、隠れキリシタンの村人から大歓迎を受けるが、フェレイラのことは誰も知らないと言う。
二人はトモギ村に身を隠しながら、五島の村にも赴いて、キリシタンの村人に告解や洗礼の儀式を行って過ごす。
しかしある時、トモギ村が役人の捜索を受け、十字架に唾を吐けという命令に応じなかった信徒のモキチ(塚本晋也)ら三人が水磔の刑で処刑される。
身の危険を感じたロドリゴとガルペは二手に分かれ、五島に逃げたロドリゴは山中をさまよっている時にキチジローと再会。
だが、小心者のキチジローはロドリゴを奉行所に密告し、彼は囚われの身となる。
ある日、通詞(浅野忠信)に仏教の寺へと連れて行かれたロドリゴは、そこでずっと探し求めていたフェレイラと再会するのだが・・・・


遠藤周作の原作を読んだのは20年くらい前。
私はクリスチャンではないが、子供の頃に近所のプロテスタント教会の日曜学校に行っていたこともあって、キリスト教には以前から興味があった。
今にして思うと「沈黙」は、この宗教のディープな部分に惹かれてゆくきっかけとなった小説だったかも知れない。
人間にとって信仰とはなんぞや?神はどこにいるのか?という内なる問いに苦悶する司祭の物語は、当時私の中にあった信仰への疑念とピタリとはまり、宗教観にも大きな影響を受けた。
この傑作小説を、マーティン・スコセッシが映画化すると聞いたのはもうだいぶ前のこと。
シチリア系イタリア人移民の子としてニューヨークで生まれ、教会の大きな影響下で育ったスコセッシが、子供の頃カトリックの司祭を志していたのは良く知られた話だ。
彼のキリスト教観を考える上で、29年前に大センセーションを巻き起こした「最後の誘惑」に触れない訳にはいかない。
少し長くなるが、「沈黙」を考察する前に振り返ってみたい。
この作品でスコセッシは、上流階級であるローマ人たちをイギリス英語で喋らせ、キリストとその弟子たちをニューヨーク訛りの英語とすることで、差別化するのと同時に作品を彼自身の世界へと引き寄せている。

新約聖書には、客観的に見ると幾つもの矛盾がある。
だが、聖典に疑問を唱えることは長年に渡ってタブーとされてきた。
ギリシャの小説家、ニコス・カザンザキスが1951年に発表した「最後の誘惑」は、新約聖書に対して、大胆な解釈を加えることで矛盾を解消したのだが、彼の描き出したあまりに人間的なキリスト像はカトリック教会からは禁書扱いされ、ギリシャ正教会はカザンザキスが亡くなった時、キリスト教墓地に埋葬することを拒否した。
そんないわくつきの小説を比較的忠実に映画化したものだから、当然ながら教会とキリスト教右派の信徒からは大反発をくらい、各地で上映反対運動が繰り広げられたのだ。
しかし、この物語が聖書を読んだ人が感じる疑問に対して、キッチリと納得できる解を与えてくれることは事実である。
例えば、ユダとは何者だったのか?なぜキリストを裏切ったのか?
キリスト自身は人間としての自分と、神の子としての神聖をどう考えていたのか?
そして、ゴルゴダの丘で磔になるときに「神よ、神よ、なぜ我をお見捨てになるのですか!」と疑問を口にしながら、その後「すべては成し遂げられた」と満足して死んでしまうのはなぜか?

「最後の誘惑」はこの二つの言葉の間に、驚くべき“脚色”を加えている。
キリストが神に問い掛けた時、彼の前に天使と名乗る少女が現れ、「神はあなたを試されただけよ」と十字架から解き放つ。
解放されたキリストはマグダラのマリアと愛し合うが、彼女は神によって天に召されてしまう。
悲しみにくれるキリストを、天使はラザロのマリアのもとに導き、彼は彼女と子供を作ってすっかり世俗的な人生を送るのである。
そんなある日、彼はイエスの死と復活を説くパウロに出会い、「私がイエスだ。でたらめを広めるのはよせ」と告げるのだが、パウロは「私のイエスはもっと偉大な人だ」と冷たく突き放す。
そして長い年月が流れ、エルサレム滅亡の日。
死の床にあるキリストの元に、弟子たちが姿を現し、ユダが彼を断罪するのだ。
「なぜ十字架を逃げた?新しい秩序となるべき人が国を滅ぼした」
そしてユダは告げる。
「あの天使の正体は悪魔だ!」
真実を知ったキリストが神に謝罪し、「どんな苦痛にも耐えます、私を救世主にして下さい!」と祈ると、彼の意識はゴルゴダの丘の十字架に引き戻され、ここで初めて「全ては成し遂げられた」と呟くのである。
この作品には平凡な人間として生き、死の恐怖におののきながらも自らを生贄とすることで全人類の罪を引き受け、遂に神の子となるキリストの複雑かつ強烈な葛藤が描かれており、キリストとの同化を求める「沈黙」のロドリゴの葛藤と比較してみると非常に興味深い。

マフィアと教会が幅を利かす移民社会で生まれ育ったスコセッシにとって、暴力と愛、悪と正義は背中合わせ。
彼にとっての信仰とは、人間たちが様々な矛盾に葛藤する時、心の内に見出す神の導きなのかもしれない。
本作でロドリゴとガルペが日本行きを願い出る理由も、殉教すら厭わないはずの師が拷問耐えかねて“転んだ”という矛盾に直面したため。
師の捜索と虐げられた信徒に福音をもたらすという情熱に駆られ、遥か極東の島国まで来たものの、熱意だけが空回りしてなんの希望も未来も見いだせない。
救うどころか、自分たちが来たことで信心深い信徒が処刑されてしまったという矛盾。
日本人キリシタンたちを襲う、余りにも理不尽で残酷な運命を目の当たりにし、それでも沈黙する神に対して、ロドリゴは少しずつ疑念を募らせる。
神は本当にいるのか?もしかしたら自分は、存在しないものに空虚な祈りを捧げているのではないか?
神聖の矛盾に関するロドリゴの内的な葛藤は、師であるフェレイラの言葉によって更に深まる。
再会したフェレイラは、「日本は沼だ」という。
どんなにキリストの愛という苗を植えても、全て変質して腐ってしまう。
一見すると敬虔な信徒に見えるキリシタンの農民たちは、実は彼らなりに解釈したキリスト教とは似て非なる独自の宗教を信じているに過ぎないのだと。
頑なに否定するロドリゴも、自らの心に生じた亀裂が次第に大きくなるのを感じざるを得ない。
そして遂に、自らの棄教と信徒の命との取引という究極の決断を迫られた時、ロドリゴは内なるキリストに導かれ“転ぶ”のだ。

ここまで、基本的に原作に極めて忠実に展開する物語は、棄教した後の最終局面で大きく解釈を変えてくる。
この部分は原作と映画というよりも、日本人とアメリカ人であるスコセッシの間で物語の読解が少し異なっている様に思う。
神は沈黙しているのではなく、ロドリゴの中で一緒に苦しんでいた。
原作では、元々キリストとの同化を求めていたロドリゴが、棄教の瞬間に神との新たな関係を見出して「私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ」と悟り、その後は江戸の切支丹屋敷の役人の日記として、ロドリゴが亡くなるまでの出来事が事務的に記されるのみ。
ところが映画では、オランダ人商人の書いた書簡として彼の長崎での暮らしや切支丹屋敷での出来事が、それまでのドラマの延長として描写され、人生の最期に彼がトモギ村でモキチにもらった十字架を抱いて死ぬことまでが描写される。

つまり映画版では、ロドリゴは密かにそれまでと同じ信仰を持ち続け、キリスト教徒として人生を全うしたことが示唆される。
彼は内心では教会も神も裏切ってはおらず、信仰は勝利したように見える。
だが、原作のロドリゴは「彼ら(教会)を裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違う形であの人を愛している」と言う。
これはある意味、前記したフェレイラの「日本は沼」論の肯定だ。
何度も裏切って、その度に告解に来るキチジローの顔を通して、弱く哀れな人々に寄り添う者としてのキリストを見たロドリゴの信仰もまた、日本という底なしの沼にあって変質している。
遠藤周作はキリスト教徒であることと、日本人であることの矛盾を終生追求した人で、彼の思想の根底には、日本人の求める宗教は現世と来世における利己的な救済であって、キリストの尊い自己犠牲によって、全人類が救われたとするキリスト教の教義とは本来相容れないとの考えがある。
信仰するからには自分の利益にならなければならないという宗教観は、日本だけでなく東アジア全体に言えることで、遠藤周作の考察が間違っていなかったのは、例えば人口の3割がキリスト教徒の韓国の教会が、シャーマニズムを取り込んで現世利益追求型に変質していったことでもよくわかる。
だから小説の「沈黙」では、ロドリゴが心にどんな秘密を抱えていたのかは、あえて曖昧なまま終わらせているのだが、モキチにもらった十字架というアイテムを加えてまで、ロドリゴのキリストへの帰依を強調したスコセッシは、日本人でないキリスト教徒として原作者の考察と葛藤に共感はしても、最終的には信仰の力を信じたいということなのだろう。

映画「沈黙 サイレンス」は、小説「沈黙」のエッセンスをマーティン・スコセッシがディープに考察し、自らの解釈で映像化した大力作である。
人間にとって信仰とは何か、人はどう生きるべきなのかという本作の問いは、今なお思想、宗教、人種などによる様々な抑圧が覆うこの世界に、大きな説得力を持って響く。
世界は激変していて、私たちだっていつ抑圧される側になるかわからない。
そんな時、私たちはキチジローになるのか、それともモキチなのか、ロドリゴなのだろうか。
観終わって余韻がじわじわと広がり、じっくりと考えさせられる。
それにしても、本作を成功に導いた大きな要因はキャスティングの妙だ。
主演のアンドリュー・ガーフィールドの青臭さが残る青年司祭も良いが、リーアム・ニーソンのフェレイラは、コスチュームもムードも嘗てニーソンが演じたクワイ=ガン・ジンを感じさせ、ダークサイドに落ちた説得力が倍増。
日本人キャストも皆素晴らしく、一見穏やに見えて、その底に恐ろしい嗜虐性を秘めた井上筑後守役のイッセー尾形や、ポーカーフェイスの通詞を演じた浅野忠信は原作のイメージ通り。
モキチ役の塚本晋也は、その風貌もあって、水磔のシーンでは本当にキリストに見えてきた。
そして、ロドリゴと好対照を形作り、影の主役ともいうべきキチジローは窪塚洋介のハマリ役である。
何度もなんどもロドリゴを裏切る、心弱きもう一人のユダは、それほど信心深くもないが、沈黙する神に対して心のどこかで畏怖を感じている、私たち大多数にとって一番感情移入しやすい人物。
新約聖書でユダをどうとらえるかが重要であるように、本作を読み解くキーパーソンはキチジローだ。

ちょっと面白かったのは、ロドリゴがトモギ村から逃げて、五島へ上陸するところで、廃墟となった村で野良猫の群れと出会うシーン。
原作でも野良猫がいる描写はあるのだが、こんな大群だとは思わなかった。
キリスト教は中世以来猫を忌むべき動物としてきて、魔女狩りの時代には魔女と疑われた女たちだけでなく、たくさんの猫も虐殺された。
まあその結果としてネズミが爆発的に増えて、ペストの大流行につながるから世の中因果応報なのだけど、ロドリゴにとって村人全員が連行された村で、魔女の眷属であり異端の象徴である大量の猫に迎えられるのは、地獄へと足を踏み入れるような意味があったのだろう。

今回は、キリスト教の儀式に欠かせない赤ワイン、栃木県のココファーム・ワイナリーの「のぼっこ」をチョイス。
小公子という早熟な品種をタンクで低温醗酵させ、発酵の後半には温度を落としてから瓶詰めされる。
発酵中に発生する微発泡が残り、豊かな果実の風味が味わえる。
気取らずに飲める、フレッシュな一本だ。

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コメント
この記事へのコメント
深いテーマです
ノラネコさん☆
さすがノラネコさんの考察です。非常によく理解できました。
ラストをやんわりと終わりにしたことで、明確な答えは?と後から深く考えてしまいましたが、確かにスコセッシ監督の原作を読んで受けた感想と原作者の想いの微妙なズレがあったからなのですね~
それはつまりアメリカ人でキリスト教信者と日本人でありながら信者という根本的な違いがあるからなのだと…納得です。
2017/01/24(火) 23:35:00 | URL | ノルウェーまだ~む #gVQMq6Z2[ 編集]
こんばんは
>ノルウェーまだ~むさん
スコセッシと遠藤周作にはやはりキリスト教観に違いがあると思います。
いや、キリスト教というか日本観かな。
日本という沼の深さを遠藤周作は知り尽くしているけど、スコセッシはそこまで深いとは実感できなかったんじゃないですかね。
だからロドリゴの選択に違いが出たのだと思ってます。
2017/01/26(木) 23:22:24 | URL | ノラネコ #xHucOE.I[ 編集]
こんばんはー
良かったですよね。
とんでもニッポンが描かれてはいなかったし、
じっくり見入りました。
父にも勧めているので近々見るはず。
モキチも良かったし、キチジローも、皆良かった。
2017/02/08(水) 00:07:01 | URL | mig #JTxNwRAU[ 編集]
こんばんは
>migさん
普通に邦画でしたよね。
ハリウッドの描くジャパンも、これがスタンダードになってほしいものです。
キャラ立ちした俳優陣は本当に素晴らしかった。
これ今年の日本映画の演技賞候補に当てはまるんでしょうかね?
2017/02/08(水) 23:18:12 | URL | ノラネコ #xHucOE.I[ 編集]
お久しぶりです。
私も実はスコセッシ監督の「最後の誘惑」何度も観て心に残っている作品です。わたしはクリスチャンなので、キリストを人間のように描いたあの物語は抵抗がないこともなかったのですが,ユダの役割とかはあの物語でとても腑に落ちたのを覚えています。

>遠藤周作はキリスト教徒であることと、日本人であることの矛盾を終生追求した人
なるほど!そう考えれば,彼の「沈黙」の言わんとすることがわかったような気がします。日本の宗教はどうしても利益を求め、キリスト教は必ずしもそうではなく、むしろ試練を喜ぶような面があって、とても受け入れられにくいですよね。それにこの国でクリスチャンとして生きる時には、どうしても少し信仰を曲げてまで周囲に合わせなければ角が立つ場面も多々あります。
今,原作を読んでいますが遠藤周作氏の他の本も読んでみたくなりました。


2017/02/22(水) 00:29:10 | URL | なな #-[ 編集]
こんばんは
>ななさん
私は「最後の誘惑」で聖書の色々不思議な部分が随分腑に落ちました。
特にユダが何者だったのかは、本当にああだったんじゃないかと思ったくらい。
スコセッシが「沈黙」に出会ったのはあの映画を撮った直後だったらしいので、ある意味彼にとっては続章のようなものなのかもしれません。
同じ宗教でも、文化が違うと変質するという考え方は、一神教の本場の人からすると面白い視点だったのでしょうね。
2017/02/24(金) 22:36:11 | URL | ノラネコ #xHucOE.I[ 編集]
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重厚な内容だった。
2017/01/24(火) 23:08:43 | だらだら無気力ブログ!
ま~ふだんなら見ないタイプの作品ですわな。(;^_^Aでも不思議と長くは感じませんでした。重たいんだけども前のめりでみれたかな。窪塚洋介のユダ感半端ないね。最後の江戸でのシー ...
2017/01/24(火) 23:23:28 | ペバーミントの魔術師
救いを求めて信仰してきたのに逆に不幸のどん底へ落ちて行く貧しい農民と、真理を見つけられずに苦悩する司祭が見えない網に絡めとられて身動きできなくなる姿があまりにも過酷で、2時間42分もあっという間の圧巻の映画だった。 時に碧く静かで美しく心を癒してくれるかと思えば、時に荒々しく黒く底が見えない深さに恐れおののく、まるで宗教とは海のよう。 深い。海のように深すぎるテーマ。
2017/01/24(火) 23:25:03 | ノルウェー暮らし・イン・原宿
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