酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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ソウル・ステーション/パンデミック・・・・・評価額1650円
2017年10月02日 (月) | 編集 |
絶望が、やって来る。

ヨン・サンホ監督によるゾンビ映画の大傑作、「新感染 ファイナル・エクスプレス」で、ソウル発プサン行きのKTXが出発する数時間前を描く、文字通りの前日譚。
日本、韓国とも「新感染」の後に遅れて公開されたが、実際にはアニメーション作品の本作が先に作られ、続編として実写作品が企画されたというユニークな経緯を持つ。
出てくるのは娼婦に、ヒモに、何人ものホームレス。

韓国社会の底辺の人々が、突然のゾンビパニックに襲われる。
非常に間口の広いエンターテイメントとなっていた「新感染」に対し、勝手知ったるアニメーション手法で描かれる本作は、ネガティヴパワーMAXのゴリゴリの作家映画だ。
「新感染」の感動を期待した人はビックリするだろうが、この容赦の無さこそ、人間の底知れぬ闇を描く本来のヨン・サンホなのである。
※核心部分に触れています。

ある夜、一人の老ホームレスが首から血を流し、ソウル駅の一角で倒れる。
異変に気付いた弟は助けを求めるが、誰にもまともに取り合ってもらえず、兄は息絶えてしまう。
弟は、「兄が死んでしまった、助けて下さい」と駅員にすがるが、奇妙なことに兄の遺体は大量の血痕を残して、忽然と消えていた。
その頃、風俗店から逃げ出し、場末の安ホテルに身を寄せているヘスン(シム・ウンギョン)は、恋人のキウン(イ・ジュン)が勝手に自分の写真を出会い系サイトに載せ、売春させようとしていることに気づく。
問い詰めるとキウンは逆切れする始末で、怒ったヘスンは勢いでけんか別れ。
行き場もなく夜の街をさまようが、ソウル駅で狂暴化した暴徒が人々を襲っている所に出くわし、ホームレスの男と共に逃げ回ることになる。
その頃、キウンの元に出会い系サイトのヘスンの写真を見た男がやって来るが、彼は家出した娘を探していた父親(リュ・スンヨン)だった。
怒り心頭の父親の車に乗せられたキウンは、ヘスンを探して安ホテルに戻るが、そこでも既に異変が起こっていた・・・




主人公ヘスン役の声優は、前作の「新感染」で列車に乗り込んでくる“最初の感染者”を演じたシム・ウンギョン。
足の傷の位置など共通点もあるが、コスチュームも違うし同一キャラという設定ではない模様。
世界観以外は、物語的に繋がっている訳ではないので、本作単体で観ても問題ない。

それでも、二部作としての構成はよく考えられていて、こちらもある種の父娘ものの構造を持ち、韓国社会の様々な問題を提起する社会派の寓意劇なのも共通。

だが、「新感染」が災厄からの脱出、即ち絶望の中の希望を描くのに対し、ゾンビの街となったソウルを舞台とするこちらは、絶望の中の絶望を描く。
前作に登場するのは韓国社会の中流以上の人物だが、本作の軸になるのは韓国社会の底の底にいる人々だ。
ヘスンは家出して借金まみれとなり、風俗店で働いていた元娼婦で、彼氏のキウンは自堕落で甲斐性なしのヒモ。
ゾンビパニックの中、へスンと行動を共にするのは、ソウル駅を根城にするホームレスのおじさんだ。
「新感染」の登場人物は、色々問題を抱えていたとしても、基本的には満ち足りた人々で、突如として起こった災厄から脱出さえすれば、希望に帰り着くことが出来た。
一方で、最初からどん底の日々を送っている本作の登場人物にとって、生きていても、ゾンビに襲われても絶望しかないのである

前作は「泣けるゾンビ映画」として話題となったが、本作には劇中でヘスンとホームレスのおじさんが号泣するシーンがある。
家出してきたことを悔い、「家に帰りたい」と泣くヘスンに、おじさんが「俺の帰る家はもうどこにも無いんだ!」と泣き返す。
しかも、ただ家に帰りたいという登場人物の切なく細やかな願いに、物語が用意する答えは、この上なく残酷だ。
映画のプロットは、安全な場所を探して夜のソウルを彷徨う、ヘスンとホームレスのおじさん、彼女らを探すキウンと父親、二組四人によるツートラック。
ヘスンにとって、長年会っていない父親は、絶望的な状況を抜け出せるかもしれない、ほんのわずかな希望であり、「新感染」におけるプサンのようなものだ。
ところが、物語のクライマックスで、ヨン・サンホは悪意たっぷりに、観客もろともヘスンを地獄へと突き落とす
ここでの展開は、キャラクターの行動原理的にやや強引ではあるのだが、映画のテーマをクッキリと際立たせる。

権力に対する不信も、本作はより辛辣だ。
現代のゾンビ映画のひな形となった、ジョージ・A・ロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド」は、ただ一人生き残った黒人男性がゾンビと間違えられ、白人のガンマンたちに射殺されるというショッキングな結末を迎える。
「新感染」のラストで、ヨン・サンホはこれの反転をやったわけだが、本作ではさらに再反転
状況を把握できていない政府は、ゾンビに追われて逃げ惑う人々をホームレスの暴動と勘違いし、武力を使って鎮圧するのである。
ヨン・サンホは、二部作のゾンビを、人々が非日常として見て見ぬふりをするホームレスのメタファーと語っており、このシークエンスはまさに映画の世界観を象徴する。
前には軍・警察、後ろにはゾンビ。
力なき人々は、誰からも助けられずに滅びてゆくほかはない。
ソウルからプサンへと逃げ延びる「新感染」の構造が、朝鮮戦争の展開と酷似していることは前作のレビューで指摘したが、本作で人々が権力に見捨てられて死んでゆく様は、朝鮮戦争の緒戦、韓国軍がソウル市民と防戦している自軍を置き去りにしたまま退路の橋を爆破し、軍民に多大な犠牲者を出した韓国史の恥部“漢江人道橋爆破事件”を思い出した。

「ソウル・ステーション/パンデミック」は、実写とアニメ、社会階層の上下、希望と絶望など、いくつもの要素が「新感染 ファイナル・エクスプレス」の対になるように作られた作品だ。
ここには前作のような、人間の無償の愛によるエモーショナルな感動はなく、社会の最下層の人々が辿る悲惨すぎる運命に、違う意味で泣けてくる。
ゾンビを社会問題のメタファーとして描き、本当に恐ろしい人間の心の闇を浮かび上がらせる、まことに正統派のロメロ映画の子孫であり、優れた寓意劇だ。
しかしこれ、もし単体で公開していたら、ヨン・サンホの過去の作品同様に、興行的成功は難しかっただろう。
知る人ぞ知るクセの強い映画作家だった彼を、圧倒的に観やすい「新感染」に導いたプロデュースチームは、新海誠に「君の名は。」を作らせた川村元気と同じ位凄いことをやっている。
何気にこの二人、作風は真逆だが共にカルトなアニメーション監督で、2016年の夏に突如として国民的大ヒット作を放つなど、経歴に通じる部分があるのが面白い。
大メジャーに躍り出た彼らの次回作に興味は尽きないが、ヨン・サンホは漫画家の古谷実のファンで、「シガテラ」をアニメーション映画化する希望をもっているそうだ。
うーん、チョイスがいかにもこの人らしくて、ものすごく観たいぞ。
ヒットはしなそうな気がするけど(笑

今回は、夏のソウルの夜に起こった黙示録的悪夢の物語なので、寝苦しい暑い夜に飲みたい、焼酎の真露をベースにした「真露カッパー」をチョイス。
冷やした真露45~60mlを適量のミネラルウォーターで割り、スティック状に細くスライスしたキュウリを入れて完成。
焼酎につけるとキュウリの甘味が強調されて、飲みながらポリポリ食べるのが美味しい。

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ショートレビュー「わたしたち・・・・・評価額1650円」
2017年09月27日 (水) | 編集 |
わたしたちが、しなければいけないこと。

人付き合いの苦手な孤独な少女ソンと、転校生のジア。

小四の夏休みの初めに出会った二人は、直ぐに"親友"となるのだが、二学期が始まると少しずつすれ違うようになる。
これが長編デビュー作となるユン・ガウン監督が、自らの体験をもとに作り上げたリアリティたっぷりの子どもたちの世界。

あの子のことスキ、あの子はキライ。
小学生の頃は、凄く仲が良さそうに見えた女の子たちが、いつの間にか別のグループになっていたり、ハミ子になっていたりするのが不思議だった。
同年代の男子の未熟な脳みそでは理解しがたい、女の子たちの独特の関係が、リリカルで繊細なタッチで描かれる。

冒頭、体育の授業でドッジボールをする子どもたち中にいるソンを、被写界深度の浅い望遠レンズが捉える
カメラは彼女に張り付いたまま、他の生徒は殆ど描写しない。
するとソンは、味方チームの一人から「ラインを踏んだ」と、早々にアウトを宣告されてしまう。
気だるげな表情がますます曇り、クラスの中で孤立している状況と、やりきれない疎外感を端的に表した秀逸な描写だ。
そんな彼女にとって、学校という閉鎖社会から解放される夏休みに、自分を知らないジアと出会ったことは、全てをゼロから始められる相手との、又とない機会になるのである。
だが、それもつかの間、ジアが地域の子どもたちのコミュニティに馴染み始めると、ソンの置かれた状況も彼女に知られてしまう。

思春期の入り口の頃には、親たちの社会が子どもたちにも投影され始める。

塾の月謝が払える家と払えない家の子、子どもにケータイを持たせる家とそうでない家の子には、スクールカーストが生まれ、「あの子の親は◯◯」といった噂も、"穢れ"となり友だちを選別する。
あの子とこの子は仲がいい、この子はあのグループに嫌われているといった、子供たちの間の力学も、目に見えない壁となって友だち関係を変化させてゆく。
ソンとジアの場合は、クラスの中心にいる優等生、ボラとの関係が裏切りと嫉妬を生む。

自ら作ってしまった幾つもの溝に引き裂かれ、モヤモヤを抱えながら毎日を過す少女たちは、いかにして葛藤にケリをつけるのか。

「(友だちと)ずっと叩き合っていたら、いつ遊ぶの?ぼくは遊びたい。」

色々と拗らせちゃっているお姉ちゃんに、負の連鎖の愚かさを悟らせる、四歳の弟くんの名言が光る。
決して大人目線の綺麗ごとの話にはせず、現実の厳しさを反映しつつも、彼女らが子どもゆえに希望の見える物語は、同じような境遇に陥っている子どもたちに、凄く勇気を与えるのではないか。
誰もが原体験として持つビターな記憶を描く、この作品の普遍的なドラマ性は、大人が観ても子どもが観ても心に響くと思う。

本作で企画を務めるイ・チャンドンは、監督作品こそ2011年の「ポエトリー アグネスの詩」以来途絶えているものの、近年では「冬の小鳥」のウニー・ルコント、「私の少女」のチョン・ジュリ、「フィッシュマンの涙」のクォン・オグァンに続いて本作のユン・ガウンと、若手作家たちを次々とデビューさせている。
この方は映画監督になる前は、教師で作家で社会運動家だったという異色の経歴の持ち主なのだけど、原石を見極め磨き上げる才能にも恵まれている様だ。
ようやく撮影開始が伝えられた、久々の監督作品「バーニング」も楽しみ。

ユン・ガウンは是枝裕和にも大きな影響を受けたそうで、どこまでも丁寧に心情をすくい取る心理劇に、二人の"師匠"の特質はしっかり受け継がれているのではないか。

「우리들(わたしたち)」という示唆に富んだタイトルが、最後にスッと腑に落ちる、素晴らしいデビュー作だ。



今回は、子どもたちの未来に広がる世界をイメージし「アラウンド・ザ・ワールド」をチョイス。
ドライ・ジン40ml、ミントリキュール10ml、パイナップルジュース10mlをシェイクし、グラスに注ぐ。
グリーンミントチェリーを一つ、グラスの縁に飾って完成。
パイナップルジュースの甘味に、ミントの香りがふわりと立つ。
美しいターコイズグリーンも目に涼しい、さっぱりとした夏向きのカクテルだ。

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ショートレビュー「サーミの血・・・・・評価額1650円」
2017年09月22日 (金) | 編集 |
変えられる自分と、決して変われない自分。

スウェーデン、フィンランド、ノルウェー、ロシアにまたがる極北の地、ラップランドに暮らす北欧先住民族サーミ人の少女、エレ・マリャの物語。
サーミの血を引くアマンダ・シェーネル監督は、自分の一族の長老たちの中の、サーミを嫌うサーミの存在から本作の発想を得たという。
素晴らしい好演を見せるエレ・マリャ役のレーネ=セシリア・スパルロクと、妹役のミーア=エリーカ・スパルロクの姉妹は、実際にノルウェー北部でトナカイを放牧して暮らしているそうだ。
 
全く差別の無い人間社会は地球上に存在せず、今では人権思想の先進地帯である北欧にも、恥ずべき歴史がある。
嘗てはラップ人と呼ばれた放牧民サーミは、映画の舞台となる1930年代のスウェーデンでは、劣った人種として差別され、寄宿学校ではサーミ語も禁止、進学の道も閉ざされている。
サーミの子供たちは、都会から来た学者に“生きた標本”として扱われ、教師には「あなたたちの脳は文明に適応できない。街に出れば絶滅してしまうから、故郷で伝統を継ぎなさい」と諭される。
無垢なる子供時代を過ぎ、自分が被差別階層で、このままでは未来が無いと気付いた時、人はどうするのか。
ある者は、諦めて差別と好奇の目を甘んじて受けるだろう。
またある者は、怒りを胸に支配階層に対してプロテストし、社会を変えようとするのかも知れない。
もう一つ、自らの民族的アイデンティティを捨て、支配階層の中で別人として生きる道もある。
サーミの人種的な特徴は、ゲルマン系スウェーデン人とそれほど明確な違いはないのだ。

生来のエレ・マリャという名前を捨て、クリスティーナと名乗る老女を描く現在のシークエンスで、彼女が10代だった1930年代の過去がサンドイッチされる構造。
ある意味、最も辛く過酷な人生を選択した少女時代と、年輪を重ねた現在との対比が、鈍い痛みとなり観客の胸に突き刺さる。
エレ・マリャは自分がサーミであることを嫌い、金髪碧眼の典型的ゲルマン系の教師、クリスティーナに憧れている。
教師からもらったフィンランドの詩人、エディス・セーデルグランの「どこにもない国」を読んだ彼女は、教師の名を真似てクリスティーナと名乗り、差別と伝統の鎖に縛られたサーミではなく、自由な人生を生きようとするのだ。
だが、たとえ名前を変え、新たな家族を作り、教師になるという夢を叶えても、自らの中にあるサーミの血と誇りはくすぶり続ける。
運命に抗い、何者かに成りたかったエレ・マリャは、自らの存在を抹殺することで道を切り開くが、その代償として大切なものを失い、民族を裏切った者として一生罪悪感を抱えて生きざるを得ない。

終盤、姉とは対照的にサーミとして生きて死んだ妹に、絞り出すように謝罪するクリスティーナは、物語のラストでようやく子供時代を過ごした故郷へと足を踏み入れるが、そこはもう彼女の知っているサーミの地ではないのである。
本作の舞台は遠い北欧の国だが、描かれているのは、日本のいわゆる通名の問題や部落差別、あるいは民族的な境遇が似たアイヌの歴史にも通じる内容で、決して過去の話では無い普遍的テーマを内包している。
私はこの映画を観て、韓国系の友人から聞いた話を思い出した。
現在の北朝鮮の出身だった彼女の祖父は、戦前日本名を名乗り、東京で政府の官僚として活躍したエリートだった。
しかしその反面、同郷の人々との交流は極力避けていて、戦後亡くなるまで親戚も含めて殆ど絶縁状態だったそうだ。
差別は、人から何を奪うのか。
たとえ今は差別が無くなった、弱まった、表には出なくなったとしても、本作の主人公の様に過去の差別によって大き過ぎる傷を負った人たちは、今も血を流しながら生きていることに、改めて気付かされた。
まだサーミだった頃のエレ・マリャが歌う伝統歌唱、ヨイクの調べが心に染み渡る。
丁寧に作られた見応えある拘りの力作だが、できればアマンダ・シェーネル監督には、エレ・マリャとは違う道を選んだ、妹のその後を描く物語も観せてほしい。
二つの視点を持つことで、初めて見えてくる“サーミの今”もあるのではないだろうか。

スウェーデンは寒い国らしく、非常に豊かなアルコール文化を持つが、今回は祝いの席などに欠かせない代表的な蒸留酒、「スコーネ アクアビット」をチョイス。
18世紀ごろに完成したとされるアクアビットは、ウィスキーと同じくラテン語の命の水(aqua vitae)を語源とし、ジャガイモを原料として蒸留した後、キャラウェイやアニスなどで香り付けした酒。
この香り付けは銘柄ごとに違いがあり、個性豊かなアクアビットが出来上がる。
スコーネはキャラウェイの香りとマイルドな口当たりが特徴で、冷凍庫でキンキンに冷やし、ビールをチェイサーにしていただくのが現地流。
まあ、日本人は悪酔いするわな(笑

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エイリアン:コヴェナント・・・・・評価額1600円
2017年09月19日 (火) | 編集 |
ついに“奴”が生まれる。

リドリー・スコット監督による、「エイリアン」前日譚。
2012年の「プロメテウス」に続く第二弾は、スコット作品としては38年ぶりに「エイリアン」のタイトルが復活した。
内容的にも、人類はどこから来たのか?という謎解きの要素が強かった前作から、ぐっとホラー色を増して着実に伝説の第一作に接近。
種の起源を巡る宗教性を引き継ぎながら、前作では最後まで出てこなかった、H・R・ギーガーのデザインによる、“エイリアン(ゼモノーフ)”誕生のエピソードが描かれる。
宣伝では前作との繋がりはメンションしてないが、ストーリー的には「プロメテウス」の完全な続編で、観てないと作中あちこち意味不明だと思うので、最低限「プロメテウス」と、できれば第一作を鑑賞しておくのがオススメだ。
※核心部分に触れています。

人類の起源を探るべく、惑星LV-223に向かったプロメテウス号が、消息を絶ってから10年。
移民船コヴェナント号は、地球から冷凍休眠中の2000人の移民と、1400人分の胎芽を乗せて、惑星オリエガ6に向かっていた。
船を管理するアンドロイドのウォルター(マイケル・ファスベンダー)以外は、乗組員も皆冷凍休眠に入っていたが、予期せぬアクシデントに見舞われ、船長のブランソン(ジェームズ・フランコ)は死亡し、副官のオラム(ビリー・クラダップ)が指揮をとることに。
ブランソンの妻で、テラフォーミング技術者のダニエルズ(キサリン・ウォーターストン)ら乗組員は、悲しみを癒す間もなく船の修復に取り掛かる。
ところがパイロットのファリス(ダニー・マクブライド)らが船外作業をしてる時、突然どこからかノイズだらけの通信を受信。
解析の結果、それは航路からほど近い、未知の地球型惑星から発信されていることが判明。
冷凍休眠中の乗客を危険にさらすとダニエルズは反対するが、オラムは惑星の探査をすることを決定する。
やがて、惑星に降り立った一行は、遺棄された巨大な異星人の宇宙船の残骸を発見するのだが・・・


ある意味、リドリー・スコットのSF映画の、集大成とも思える作品である。
「プロメテウス」のレビューの最後で、私は「船が飛び立った先は“パラダイス”か、それとも“エデン”なのだろうか?」と書いた。
前作は人類の種の起源を巡るきわめて宗教色の強いミステリで、30億年前に地球に命の種を蒔いた創造主“エンジニア”の存在を求めて、ショウ博士ら調査チームの乗った探査船プロメテウス号が、古代の星図に描かれた惑星LV−223に向かう。
ところがその星はエンジニアたちの実験場で、彼らは自ら作り出した変異する恐るべきクリーチャーを制御できず、星を放棄していたのだ。
同じクリーチャーに遭遇した調査チームも襲われるが、生き残ったショウ博士とアンドロイドのデヴィッドは、残されていたエンジニアの宇宙船を起動し、彼らの本星を目指して飛び立ったのである。
つまり、次回作の舞台はエンジニア=創造主の星、即ちそれは“パラダイス”か“エデン”だろうと思ったのだ。
まあその予測は半分当たって、半分外れていた。

確かにショウ博士らは創造主の星にたどり着いていたが、その星はLV−223から持ち込まれたクリーチャーの元になる病原体によってあっさりと滅ぼされ、“パラダイス”ならぬ“インフェルノ”へと様変わりしていたのだ。
そしてその星からの通信を運悪くキャッチしてしまったのが、コヴェナント号だったという訳。
シリーズ中、スコットがメガホンを取った作品は、毎回宇宙船の名前が内容とリンクしている。
第一作の「ノストロモ」は、コンラッドの同名小説で、権力に利用され結局は死んでしまう主人公の名だったし、「プロメテウス」は、ゼウスの命に背いてまでも、人類に火(文明)を与えたギリシャ神話の神だ。
今回、2000人を超える移民を乗せて、宇宙を旅する「コヴェナント(COVENANT)」とは、聖なるものとの契約を意味する言葉。
これが、神から聖約として十戒を与えられた、モーゼの率いるユダヤの民の比喩なのは明らかだが、では創造主が滅びた星で、聖約を交わす相手は一体誰なのか?

本作の冒頭、ピーター・ウェイランドによって創られたアンドロイドは、ミケランジェロの彫刻を見て、自分をデヴィッドと名付ける。
デヴィッドとは旧約聖書の登場人物で、ペリシテ軍の巨人ゴリアテを倒し、やがて自分を妬んだ王のサウルに命を狙われるも、彼の死後に全イスラエルの王となったダビデのことである。
ダビデは、悪霊に悩まされるサウルの心を癒すために竪琴を弾くが、本作でもデヴィッドはピーターの前でリヒャルト・ワーグナーの「ラインの黄金」第四場の「ヴァルハラ城への神々の入城」をピアノで弾きこなし、ピエロ・デラ・フランチェスカの「キリストの降誕」を鑑賞する。
ここではサウルとダビテの王権の移行に絡めて、両者の未来の関係を暗示すると共に、創造主たるピーターに対して、「貴方が自らを模して自分を作ったのなら、芸術を理解する心も含めて同じ能力がありますよ」というさりげない、しかし明確なアピール。
しかも有限の命しか持たない人間に対し、アンドロイドは死から解放されている。
やがて人間を自らより劣ったものとして認識したデヴィッドにとって、人類の創造者たるエンジニアもまた、崇敬の対象ではないのである。
コヴェナント号の聖約は、“パラダイス”であったはずの星を、自らが創造主となり完璧な生物を作り上げる新たな実験場“インフェルノ”へと変えた地獄の王、デヴィッドと結ばれるのだ。

他にも、本編終盤に登場する在りし日の乗組員の記念写真が、明らかにダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を意識した構図(本作のプロローグとなる“LAST SUPPER”と題したプロモーション・リールも公開されている)だったり、様々な宗教的な暗喩が含まれているが、脚本家のテイストの違いか、それらは「プロメテウス」ほど思わせぶりではなく、物語の表層に配されていて比較的わかりやすい。
本作は基本的にデヴィッドが人類でもエンジニアでもない、新たな世界の創造主となり、第一作に登場したこの宇宙の絶対生物、“エイリアン”を完成させるまでの物語であり、人間の登場人物は相対的に犠牲者としての役割しか持たされていない。
全編を通して、デヴィッドにとって最大の脅威となるのは彼の改良型、全く同じ姿をしているが、創造の欲求を持たず、人類の従順な同伴者であるコヴェナント号のアンドロイド、ウォルターである。
本来、人間が使役させる目的で作られた両者が対決するという構図は、スコットが作り出したもう一つのSF金字塔「ブレードランナー」における、ブレードランナーと逃亡レプリカントの関係を思わせ、思わずニヤリ(劇中に明示はないが、スコットはハリソン・フォード演じるブレードランナーもまたレプリカントであると語っている)。

「エイリアン:コヴェナント」は、宗教色・哲学色の強い謎解きもの、という色彩が強かった前作よりも、全体的にシンプルで観やすくまとまっていて、シリーズ本来のSFホラーとしてはなかなか面白い。
フェイスハガー状態からの成長速度が少々早過ぎの気はするが、惑星からの脱出船上のバトルシークエンス、コヴェナント号の中での第一作を思わせる捜索シークエンスと、大きく二つあるvsエイリアンの見せ場はスリリングだし、エイリアンもシャワールームでイチャイチャしてるカップルを背後から串刺しとか、唐突にB級感覚あふれる下世話な襲撃まで見せてくれて終盤大活躍だ。
しかし、端的に言って本作の方が「プロメテウス」よりも完成度は高いと思うが、宗教ミステリ好きとしては、破綻が目立つものの前作の凝った筋立ての方が個人的には好みだった。
信心深いオラムが部下に信頼されてないなど、設定はされているものの、あまり生かされていないディテールも多く、物語的にはやや物足りなさを感じる。

新たな創造主との聖約を結んだコヴェナント号の向かう惑星オリエガ6は、カナンの地にはなりそうもないが、本作のラストは直接第一作に繋がるものではない。
まだ企画は流動的な様だが、スコット監督による「Alien:Awakening」あるいは「Alien: Covenant 2」と呼ばれる続編は、すでにシナリオ段階にあるのは間違い無い模様。
楽しみだが、どんな話になるにしろ、全体を通しての整合性をとるのはかなり難しそうだ。
まあ今までの流れからすると、デヴィッドもまた自ら創造したエイリアンに滅ぼされそうな気がするけど。
ちなみにオリエガとは馭者座のことで、こちらにもギリシャ神話のエピソードがいろいろあるので、次回作のヒントになるのかもしれない。

今回は悪夢の始まりを描いた作品ということで、「ナイトメア・オブ・レッド」をチョイス。ドライジン30ml、カンパリ30ml、パイナップル・ジュース30ml、オレンジ・ビター 2dashを氷を入れたグラスに注ぎ、ステアする。
その名の通り、赤みがかった色が美しいカクテル。
フルーツの甘みと苦味が絶妙にバランスし、辛口でアダルトな味わいだ。

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ショートレビュー「三度目の殺人・・・・・評価額1700円」
2017年09月14日 (木) | 編集 |
“真実”の正体とは。


てっきり原作ものだと思っていたら、オリジナルだとは。
二度目の強盗殺人で逮捕され、すぐに自供するもコロコロと供述を変える容疑者・三隅と、彼に振り回される敏腕弁護士・重森。
最初から死刑確実、「負け」が決まった単純な裁判のはずが、事件の背景を調査するうちに、重森の中で少しずつ有罪の確信が揺らいでゆく。
なぜ三隅は殺したのか?彼は本当に犯人なのか?なぜ供述をかえるのか?

是枝裕和監督の新境地と言って良いだろう。
ここ数年の彼は、主に“家族の在り方”をモチーフとして、「色々問題はあるけど、やっぱり希望はあるよね」的な、影はあるもののポジティブで、良い意味で分かりやすい映画を作ってきた。
ところが本作は、安易な感動要素を排し、表層に隠された人間社会のダークサイドを容赦なく抉ってくる。
しかも物語の輪郭は形を変え続け、124分の間観客の思考を常に揺さぶってくるのだ。
本作も“家族の在り方”は重要な要素になっているのだが、今までの作品からぐるっとカメラ位置を反転させて、裏側から撮ったような味わいが印象的。

文書で魅力を表現するのが非常に難しい作品だが、普通のミステリと思っていると、予想もしない所に着地する問題作だ。
※ここから核心部分に触れています。鑑賞後にお読みください。

役所広司が怪演する三隅は、掴みどころのない謎めいたペルソナを持つ。
言ってることは二転三転して無茶苦茶なのに、その言葉の底には確信的な何かがあると感じさせるのだ。
何よりも勝ちにこだわり、“依頼人の利益”だけを重視している重森は、拘置所の接見室で三隅となんども言葉を交わすうちに、この男の底知れぬ闇に取り込まれ、本来彼にとって興味の無いはずの“真実”を求めざるを得なくなる。
そして、それは私たち観客も期待しているものだ。

だがこれは、作者によるかなり意地悪なミスリードで、普通のミステリでは最重要となる“真実”は、この映画では全く重きを持たない。

映画「ゾウを撫でる」のタイトルにもなった、インドの説話がここでも引用される。
王様が盲人たちにゾウを触らせるが、脚を触った者、鼻を触った者、耳を触った者、それぞれに語るゾウの“真実”は全て異なる。
ならば本作の観客が、最後に目にする象の姿とは何か。

この映画は、最初から事件の“真実”を描こうとはしていない。
三隅は自分のことを「空っぽの器」だと言う。
日本の司法制度は、“真実”が明らかになる場ではなく、誰もが空っぽの三隅の中に、都合のいい人物像をあてはめ、そこに浮かび上がるストーリーに、“真実”と思いたいものを見ているだけ。
判決が出た後、重森が三隅と接見するシーンで、二人を隔てるアクリルガラスに三隅の顔が映り込み、重森の顔と重なる描写がある。
鬼畜に等しい殺人者なのか、人生を狂わされた犠牲者なのか、彼が何者なのかを決めているのも、実は彼自身ではないと言うことを、重森はようやく理解するのである。

事件の被害者の一人娘であり、三隅に対して特別な感情を抱く咲江は、裁判で自ら証言する機会を奪われ、「ここでは誰も本当のことを話さない」とつぶやく。
タイトルの「三度目の殺人」=「死刑」は、最後まで正体が見えない曖昧な意思によって決定され、物語のラストで重盛は、自ら身を置く法曹社会における“真実”の不在を知ってしまう。
そう、“真実”があると思っていた場所に、それは無いということが、本作が突きつける“真実”なのである。
ずっと重森と共に、フィクションとしての事件の“真実”を求めてきた観客は、虚構と現実の垣根を唐突に外され、もはや指針となる“真実”の存在しない世界の四つ筋で、どこにも行くことが出来ずに立ちすくむだけ。
これはいわば、裁判劇に比喩した「内容的にも感情的にも、分りやすいストーリー」を求める観客に対する、映画作家・是枝裕和からの挑戦状。


単純な殺人事件から始まって、人間の心の持つ複雑な闇、日本の社会の歪みや司法制度の問題にまで踏み込む、懐の深い心理ドラマだ。

福山雅治と役所広司、火花を散らしぶつかり合う二人の名優の狭間で、キーパーソンとなる広瀬すずが素晴らしく良い。

ぼーっと観ていれば理解できる類のイージーな作品ではなく、観客に真剣な思索を要求する。
観終わると、誰かと語り合いたくなる映画だ。

今回は、福島県の豊国酒造のその名も「真実 吟醸酒」をチョイス。
実は蔵元の御嬢さんの名前から取られたそうだが、丁寧に作られた日本酒らしい端正な酒。
ふわりとした米の吟醸香と、まろやかな口当たり、スッキリとした喉ごしが楽しめる辛口の一本だ。

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