酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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デトロイト・・・・・評価額1700円
2018年02月02日 (金) | 編集 |
絶望の夜を、生き延びろ。

「ハート・ロッカー」「ゼロ・ダーク・サーティ」と言った漢の映画で知られるキャスリン・ビグロー監督が、1967年の夏に起こったデトロイト暴動を描いた超ハードな実録ドラマ。
発砲事件の発生を受けて、現場のモーテルに突入した地元デトロイト市警の警官たちは、通常の捜査手順を無視して、容疑者となった客たちを拷問し、暴力で自白を強要しはじめる。
カオスな戦場と化した街の一角で、その時何が起こっていたのか。
本作では、徹底的に作り込まれた“現場”で、観客も権力から銃を突きつけられた容疑者の1人となり、142分の恐怖の一夜を過ごすことになるのだ。
歴史を鏡とし、今なお人種間の対立が続く“アメリカの今”が見えてくる秀作である。
※ラストに触れています

1967年7月。
デトロイトの黒人居住区の無許可酒場で開かれていた、ベトナム戦争からの帰還兵を迎えるパーティーを市警が摘発。
反発する住民たちの投石は、瞬く間に暴動へと拡大していった。
歌手のラリー(アルジー・スミス)は、暴動によってチャンスを掴むはずのステージがキャンセルとなってしまい、仕方なく友人のフレッド(ジェイコブ・ラティモア)と共に、アルジェ・モーテルに宿をとる。
モーテルでジュリー(ハンナ・マリー)とカレン(ケイトリン・デヴァー)という白人女性と知り合ったラリーたちは、彼女らの友人の部屋へ向かうが、そこで一人の男が暴動の真っ最中にも関わらず、陸上競技用ピストルでふざけ始める。
呆れたラリーらは部屋へと引き上げ、女性たちは帰還兵のグリーン(アンソニー・マッキー)の部屋へと移った。
同じ頃、州兵隊と話していた警備員のメルヴィン(ジョン・ボイエガ)は、モーテルの窓から数発の発砲音を聞く。
通報を受けたデトロイト市警のフィリップ(ウィル・ポールター)らは、暴徒による狙撃と判断し、モーテルに乗り込むのだが・・・


アメリカでは、しばしばアフリカ系市民による暴動が起こる。
その多くの原因となるのが、警察による差別的な暴力だ。
大都市の一部が完全に無法地帯となる様な大規模なものは、1992年に黒人青年を殴打した白人警官に無罪評決が出た、いわゆる“ロドニー・キング裁判”に黒人社会の怒りが爆発したロス暴動以来起こっていないが、小規模なものは現在でも珍しくない。
つい最近も、ノースカロライナ州で黒人青年が白人警官に射殺された事件への抗議デモが暴動に発展し、流れ弾に当たって犠牲者がでたのは記憶に新しい。

この映画は、今よりもはるかに人種差別が激しく、改善を求める公民権運動が吹き荒れた60年代が舞台だ。
冒頭、アフロアメリカン現代史が、簡単なイラストと字幕によって解説されるので、予備知識がなくてもある程度の背景は理解できる。
とは言え、歴史のディテールとアメリカの人種問題の現状を知っていた方が、深く観ることが出来るのは言うまでもない。
主なモチーフとなっているのは、やはり警察による暴力がきっかけとなった、1967年のデトロイト暴動の最中に発生し、州兵を狙撃した容疑者とされた黒人青年たちを、デトロイト市警の白人警官たちが虐殺した“アルジェ・モーテル事件”だ。
モーテルの宿泊者の一人が、ふざけ半分に陸上競技のスタート合図用のピストルを窓から何回か鳴らしたのを、街を警備していた州兵隊が狙撃事件と誤解。
駆けつけたデトロイト市警の警官たちは、発砲元とされたモーテル別館の宿泊者を壁際に並ばせ、狙撃者を特定するために違法で残酷な“尋問”に取り掛かるのである。

映画は綺麗に三つのパートに別れていて、序盤約50分が暴動が始まって街全体に広まるまで、中盤50分がアルジェ・モーテルでの事件の一夜、終盤40分が後始末の裁判と関係者に陰を落とす事件の余波。
ドラマの三幕構造で言えば、第二幕の前半がモーテルの一夜、後半が裁判のシークエンス、その後が第三幕という構造になっている。
多くの立場の違う登場人物のいる偶像劇だが、映画の軸となるのはボーカルグループのザ・ドラマティックスのメンバーで、事件の夜にステージがキャンセルされ、たまたまモーテルに泊まっていたラリー・リードであり、彼がテーマを体現する実質的主人公と言える。

キャスリン・ビグローの演出は、例によって事件の現場に放り込まれたような圧倒的臨場感。
まだ誰が主人公なのか明確でない序盤、たっぷりと時間をかけて暴力のカオスが街全体に広がり、人種間の異様な緊張が増大してゆくプロセスをじっくりと見せる。
やがて、ギリギリの均衡を崩す様にモーテルで“事件”が起こると、映画はテリングのスタイルを大きく変えるのである。
このシークエンスは、編集による時間操作が無く、進行はほぼリアルタイム
半ドキュメンタリー的なある種の密室劇は、緊張が極限に達しどっと疲れる。

キャストの中で、比較的知名度の高いジョン・ボイエガとウィル・ポールターをそれぞれ中立の観察者と抑圧者のポジションに置き、被害者のモーテルの客たちには、アベンジャーズのファルコンの中の人を除いて、無名の俳優たちを配するキャスティングの妙も効いている。
狙いとしては、やはり知名度の低い若手俳優中心だった「ダンケルク」の「防波堤」のシークエンスに近い。
彼らが“どこにでもいそうな知らない人”だからこそ、観客もまた彼らの1人になった様な感覚となり、恐怖と絶望のシチュエーションに放り込まれる。
ただでさえ威圧感のある警官に、問答無用で身に覚えの無い事件の容疑者にされ、銃を突きつけられ「殺す」と脅されるのだから、コレは心底恐ろしい。
そして、第二幕の後半となる事件の後始末では、ボイエガ演じるメルヴィンも、黒人は中立にすらなり得ない現実を突き付けられ、絶望の淵に沈んでゆくのである。

白人警官たちのやってることはとことんゲスいのだが、何よりも半世紀も昔の事件を描いているのに、そうは思えないほど現在との同質性を感じさせるのが衝撃。
この50年で少なくとも法的には人種差別はほぼ無くなり、警察を含め要職につく有色人種は著しく増え、アフリカ系の大統領だって生まれた。
そんな変化にも関わらず、白人警官による暴力がなぜ無くならないのか、トランプの時代、時計の針はむしろ逆行しているのか。
ここ数年で相次いだ、白人警官による黒人青年の射殺事件でも、警官が殆ど罪に問われない状況は続いている。
本作に描かれた白人女性への容赦ない暴力も含めて、半世紀前の事件から見えてくるのは紛れもなく現在だ
物語の最後で、“白人のためのブラックミュージック”を拒否し、教会の聖歌隊に入ったラリーが歌うゴスペル、「Peace be still」の歌詞が、そのままこの映画のテーマと直結しているのでじっくりとお聴きいただきたい。
モーテルの夜、警官たちに強要されて神への祈りを歌ったラリーが、自らの意思でゴスペルをパワフルに歌い上げるラストは、今なお人種葛藤が続く中での、人間性への微かな希望を感じさせる秀逸なイメージだった。

今回は工場の街デトロイトが燃え上がる話なので、工場街生まれの酒「ボイラー・メイカー」をチョイス。
適量のビールを入れたグラスの中に、ショットグラスに注いだバーボンを落として完成。
元々はボイラー工場の労働者がビールにバーボンを入れたのが発祥とされるが、同様のビール+蒸留酒は、韓国の爆弾酒をはじめ世界中に存在する。
目的もどれも同じで、手っ取り早く酔っ払うこと。
二日酔い必至の危険な酒である。

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リバーズ・エッジ・・・・・評価額1750円
2018年01月30日 (火) | 編集 |
誰もが、ギリギリの縁に立っている。

閉塞した日常を送る6人の高校生の物語。
彼らが抱える葛藤は、同性愛、摂食障害、不通の愛、暴力衝動、予期せぬ妊娠、etc。
孤独と焦燥の中で生きる10代の若者たちを鮮烈に描く、岡崎京子の代表作の一つ「リバーズ・エッジ」が原作出版からほぼ四半世紀を経て映像化された。
メガホンを取るのは、これが初の漫画原作作品となる行定勲。
「アズミ・ハルコは行方不明」が記憶に新しい、演劇畑の瀬戸山美咲が脚色を担当し、二階堂ふみ、吉沢亮ら旬の俳優たちが文字どおりに体を張った熱演を見せる。
6人それぞれが抱える、痛々しい青春の衝動が事件を引き起こし、”生きる”とはどういうことかをナイフのような鋭さで突きつけてくるのである。

高校生の若草ハルナ(二階堂ふみ)は、恋人の観音崎(上杉柊平)から激しい虐めを受けていた山田一郎(吉沢亮)を助けたことから、彼と親しくなる。
ある日、ハルナは一郎からある秘密を打ち明けられる。
それは学校近くの河原に放置された死体のことだった。
彼は死体を見ることで、生きる元気をもらっていると言うのだ。
ハルナの後輩で、大量の過食と嘔吐を繰り返すモデルの吉川こずえ(SUMIRE)も、一郎と秘密を共有し、この死体を心の拠り所にしていた。
一方、田島カンナ(森川葵)は、同性愛者であることを隠している一郎への一方通行の愛を募らせ、ハルナの友人でありながら観音崎との逢瀬を重ねる小山ルミ(土居志央梨)は、父親のわからない子を妊娠する。
淀んだ日常の中、若者たちの間に少しづつ不協和音が増幅し、やがて彼らの人生を永遠に変える運命の夜がやってくる・・・


なんとヴィヴィッドな!
岡崎京子の傑作を、色々な意味でよくぞここまで見事に映像化した。
驚くほど忠実でありながら、極めて映画的なのである。
原作が書かれたのは1993年から94年にかけてだが、下手に話を現在に移し替えなかったのがよかった。
のちに"失われた20年”と呼ばれることになる、バブル崩壊からの急速な景気後退で、それまでのイケイケムードとは打って変わって、若者たちにとって希望的な未来の見えない時代が到来する。
スタンダードの狭いアスペクト比が、世界の閉塞を象徴して印象的。
映画は、あえてここが何年と言う時代設定に言及はないものの、原作を踏襲したセリフの内容などから、基本的には原作と同じ93〜94年頃と捉えていいのだろう。
90年代の後半から本格的に普及が始まった携帯電話の類は出てこず、それ故にお互いの想いがすれ違う構造。
これが現在なら、劇中の幾つかの"事件”は起こらない(起こせない)のだから、やはり時代を反映した物語なのだ。

面白いのは劇中の登場人物が、一人ずつインタビューを受けるというアイディア。
あくまでも登場人物であって、演じる役者のインタビューでは無いのだけど、ここだけは2018年に生きる素の彼・彼女らが透けて見える。
基本的に本作に描かれる青春の痛みはどれも普遍的なもので、それ自体に半世紀のズレは感じない。
だけど、日頃から10代の若者たちと濃密に接する仕事をしていると、葛藤する状況に置かれた時の反応や考え方はやはり少し違うと感じる。
上だけ見ていればよかったバブル時代が終わり、いきなりハシゴを外された90年代の若者たちは、五里霧中の時代に相当に迷い、抗ったと思う。
対して、最低限満ち足りてはいるものの、生まれてからずっと不況で、低成長の時代に生きている現在のティーンエイジャーは、ある意味達観していると言うか、自分に対しても他人に対しても現状をありのまま受け入れる傾向が強い。
もちろん個人によっても違いはあるが、端的に言えば世代全体として丸いのだ。
本作は、性格の違う6人のインタビューのシーンがあることによって、時代を跨いだ物語の同質性と同時に、現在からあの時代を俯瞰する視点を獲得しているのである。

一郎は同性愛と虐め、観音崎は抑えられない暴力衝動、こずえは摂食障害、カンナはあまりにも一途すぎる一郎への愛、ルミは父親の分からない妊娠と、登場人物はそれぞれにハードな問題を抱えているが、物語の軸であり、実質的な語り部のポジションにいるハルナだけは、特に大きな葛藤を抱えていない。
いや彼女の場合は、葛藤がないのが葛藤とも言える。
"二つ目の死体”が消えた後、こずえがハルナを指して「あの人は何でも関係ないんだもん」とうそぶくシーンがある。
彼女はいわば底の無い箱のようなもので、色々な感情が入ったとしても、すぐに抜け落ちて空っぽになってしまうのだ。
だから、観音崎とのベッドシーンでも全くの無気力、いわゆるマグロ状態で、セックスに感じるどころか艶っぽさの欠片もなく、関心はいつも見ているテレビ番組に飛んでいる。
観音崎とルミの、欲望のみで繋がっていた激しいベッドシーンとは、あらゆる意味で対照的。
性衝動と食べ物の関連性演出は、ちょっと「アデル、ブルーは熱い色」を思い出した。

悶々とした葛藤を抱え、常に心の痛みに突き動かされている一郎やこずえたちにとって、そんな風に全てをさらっと流してしまうハルナは、つかみどころのないタイプの人間で、だからこそ彼女のことが知りたくなってしまうのだろう。
エキセントリックな登場人物たちそれぞれが抱える青春の衝動が事件を起こし、生きることの意味を終始問いかけてくるドラマにあって、ニュートラルなポジションのハルナはそのまま観客の目となり、観客も彼女と共に考える。
そして、いくつかの出来事を経験することで、ハルナも少しづつ変わってゆく。
ある事件によって初めて感情を爆発させると、その次は人生を変える生と死のドラマが彼女を待っている。
これは、ただ生まれて漠然と時間を過ごしているハルナが、生きることの意味を考え、生きたいと思うようになるまでの物語。
物語の終わりには、青春のイニシエーションを経験し、成長したハルナの世界観を象徴するように、窮屈だったスタンダードの画面も、少しだけ広くなるのである。

覚悟を決めた渾身の演技を見せる、若い俳優たちが素晴らしい。
それぞれにベストアクトであり、今までのキャリアを超えた、新しい一面を表現している。
ハルナの内面を繊細に表現する二階堂ふみはもちろんだが、優しげな仮面の下にフツフツと沸き立つ怒りを隠した吉沢亮のあるショットの表情はゾッとさせられたし、森川葵なんて雰囲気がいつもと全く違うからクレジット見るまで本人と確信できなかった。
漫画の映画化といってもコスプレ系の作品ではないのに、キャラクターの再現度も恐ろしく高く、どの登場人物も画面に登場した瞬間に、記憶の中にいる漫画のキャラクターと完全に一致するのだから凄い。
若者たちのリアルな生と性を引き出し、四半世紀前の原作を現在に作る意味を明確に描き出した行定監督にとっても、本作は新たな代表作になったのではないだろうか。
近年の作品ではメランコリックな叙情性を持ち味としていたが、ここでは初期作品を思わせるギラギラした生っぽさが加わった。
岡崎京子の原作のファンとしてもこれは納得、作り手の情念を感じさせる傑作である。

今回は、川繋がりでウィスキーベースのカクテル「ムーン・リバー」をチョイス。
バーボンウィスキー40ml、コアントロー10ml、グレープフルーツジュース10mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
1985年に上田和男氏が考案したカクテルで、その名は映画「ティファニーで朝食を」で、オードリー・ヘップバーンが歌った主題歌にちなむ。
バーボンのコクとコアントローの甘みを、グレープフルーツの酸味が引き立てる。
鮮やかな黄色が川に映った満月を思わせる、美しい一杯だ。

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ショートレビュー「殺人者の記憶法・・・・・評価額1650円」
2018年01月25日 (木) | 編集 |
シリアルキラーvsシリアルキラー。

嘗て多くの人を殺めた殺人鬼、ビョンスはアルツハイマー症を発症し、表の仕事も裏の仕事も引退。
ところが、彼の住む街で新たな連続殺人事件が起こり、ひょんなことから二人の元・現シリアルキラーが邂逅を果たす。
主人公が認知症のサスペンスは、ナチスの戦争犯罪を扱った「手紙は覚えている」が記憶に新しいが、本作は主人公が忌むべき存在である殺人鬼というのがまずは意表を突く設定。
まあ確かに人殺しだって人間だから、歳もとれば認知症にもなるだろうけど、殺人鬼と認知症という二つのキーワードをリンクさせた原作者のアイディアはまことに秀逸。
しかもデジュと名乗った若い方のシリアルキラーは、いつに間にかビョンスに接近し、しれっと彼の娘のウンヒと恋仲になっているから、お父さんビョンスは大慌て。

無慈悲に他人の命を奪う二人の表の職業が、本来命を守る側の獣医と警官なのも面白い。
「主は与え、主は奪う」は聖書のヨブ記の言葉だが、神の様に他人の生殺与奪を握る殺人者もまた、奪い、そして与えるという訳か。
もっとも、やってることは同じだが、二人の動機、というか“殺しの思想”は対照的。
ビョンスは少年時代に暴力で家族を苦しめる父親を殺したことから、「正しい殺人もある」という考えに取り憑かれ、そこらじゅうにいる“世の中のゴミ”を、自分の基準でジャッジし葬ってきた。
身勝手極まりないが、どちらかといえば歪んだひとりビジランテの様なものだろう。
一方のデジュは、幼い頃にやはり母親に暴力を振るう父親を刺そうとしたところ、守ったはずの母親に殴られて瀕死の重傷を負ったのがトラウマ要因。
母親の裏切りによって、彼は全ての女性を恨み、殺すようになる。
殺しのスタイルも、素手で殺すビョンスに対してデジュは道具を使うなど、似ている様で、実はあらゆる点が対照的な二人のシリアルキラーの対決こそ、この映画の核心だ。

お互いの闇を知る怪物同士、父親と恋人の正体を知らない、無垢なるウンヒを間に挟んだ命がけの駆け引きは非常にスリリング。
ビョンスは、必死にウンヒをテジュから引き離して守ろうとするのだが、何しろ認知症なので、自分が何をやっているのか、次の瞬間には忘れてしまう。
例えば、ウンヒから映画館でデートしていると聞くと、急いで迎えに行くのだが、いざ映画館に入ると目的を忘れて、映画を観て笑い転げているうちに二人はいなくなってしまったり、肝心のデジュが何者かもしばし失念してしまうのだ。
“覚えられない”という現象が、サスペンスを増幅するのと同時に、もの哀しくシニカルな笑いにも繋がって、他に類の無い独特のムードを醸し出す。

またビョンスの視点以外のサブプロットを、極力排しているのもポイント。
病の進行と共に、彼の意識はだんだんと現実と妄想が入り混じったものになり、スクリーンに映っているものが事実なのかも曖昧になってくるのだ。
いったい何が本当の記憶なのか、誰が事件を起こしてるのかも含め、自分自身を信じられないビョンスと一体化した観客も、大いに混乱するしかない。
この辺り、ちょっとクリストファー・ノーランの出世作、「メメント」を思わせる凝った作劇で、心理サスペンスとかなりボリュームのあるアクションシークエンスとのメリハリも効いている。
残酷性が抑えられていることもあり、韓国犯罪映画の鬱要素は全部入ってるのに、後味は結構スッキリ。
ほぼ出ずっぱりで大怪演を見せる名優ソル・ギョングと、テジュを演じるキム・ナムギルとの火花散る演技合戦、ウンヒ役のキム・ソリョン、オ・ダルスらのキャスティングも絶妙。
心の迷宮に彷徨う118分、予想外の展開に何度も驚かされる、秀逸なクライムスリラーだ。

今回は、ラムベースのカクテル「アウトロー」をチョイス。
ラム20ml、テキーラ10ml、ウゾ10ml、グリーン・ミント・リキュール10ml、ライム・ジュース10mlをシェイクし、グラスに注ぐ。
好きな人にはたまらない、ウゾのアニス香がアクセントの相当に強いカクテルだが、グリーン・ミントの爽快感とライムの酸味が飲みやすく演出している。

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パディントン2・・・・・評価額1750円
2018年01月21日 (日) | 編集 |
渡る世間はなかなか厳しい。

ペルーの山奥からイギリスへとやって来たジェントルな子グマ、パディントンを描くシリーズ第二弾。
前作は、パディントンがロンドンに念願の家と家族を見つける物語だったが、今回はすっかり定住している彼が泥棒の濡れ衣を着せられる。
新参者には、社会はそんなに優しくないのだ。
果たしてパディントンは、事件の真相を解き明かして、人々の信頼を取り戻せるのか?
パディントン役のベン・ウィショーとブラウン一家の面々はもちろん続投。
ポール・キング監督は、異文化の出会いという前作の内容を踏まえつつ、登場人物たちの新たな葛藤により作品を深化させる。
素晴らしかった前作を、軽々と超える快作コメディだ。
※核心部分及びラストに触れています

ロンドンのブラウン一家の家に暮らすクマのパディントン(ベン・ウィショー)は、故郷のペルーで自分を育ててくれたルーシーおばさん(イメルダ・スタウントン)の100歳の誕生日プレゼントを物色中。
アンティークショップで、ロンドンの名所を描いたステキな飛び出す絵本を見つけたパディントンは、ロンドンに憧れていたおばさんへのプレゼントにぴったりだと思うのだが、それは世界に一冊しかない特別な絵本でとても高価。
そこで絵本を買うために、アルバイトに精を出す。
ところがある夜、アンティークショップに泥棒が入り、絵本を盗むのを目撃したパディントンは、追跡したものの逃げられてしまい、あろうことか自分が泥棒と間違えられて逮捕されてしまう。
刑務所に送られ、すっかり落ち込んだパディントンだが、ひょんなことから凶悪犯のナックルズ(ブレンダン・グリーンソン)と友達になり、それなりに楽しい生活を送りはじめる。
一方、パディントンの無実を信じるブラウン一家は、彼が見たという真犯人のポスターを作り、町中に貼り付けるも手がかりがつかめない。
実は真犯人は、ご近所に住む落ち目の俳優のブキャナン(ヒュー・グラント)なのだが、彼はこの絵本が秘密の宝の地図であることを知っていた・・・・


現代性、社会性、そしてもちろん娯楽性もたっぷりの、文句の付けようのない完璧なファミリー映画だ。
原作者のマイケル・ボンドは、第二次世界大戦中にドイツ軍の猛爆撃を受けるロンドンから田舎に疎開するために、トランクを持って名札を下げ列車に並ぶ子供たちのニュース映画を見たことから、この物語を着想したという。
2014年に公開された第1作は、アフリカ・中東からの難民がヨーロッパに押し寄せるのと時を同じくして作られ、パディントンが様々な事情で故郷を無くした難民のメタファーであることを明確化する。
未知の存在であるパディントンを、ホストたるロンドンっ子たちがいかにして迎え入れるのか?
同時に、ゲストたるパディントンは、他人の領域でどのように振る舞うべきなのか?
外部から来た存在が、硬直した家族の現状を変えるという「メアリー・ポピンズ」の話型を応用しつつ、異文化の出会いと衝突による葛藤と、相互理解を描いた優れた作品だった。

今回、すっかりロンドンに定住したパディントンは、ご近所の人気者になっているものの、彼を”危険な異分子”とみなして敵視する人も相変わらずいるのがポイント。
そこで、定住の次のプロセスとして“仕事”につくのだが、例によって新しい体験は失敗ばかりで、遂には泥棒の濡れ衣を着せられて不当逮捕されてしまうのだが、それみたことかと嘲笑する者も、信じていたパディントンに裏切られと考えショックを受ける者もいる。
そしてもちろんブラウン一家のように、彼の無実を信じて疑わず、身を粉にして救出に尽力する人々も。
パディントンが、一人の市民としてロンドンに定住していたからこそ分かる、新参者への不安定な信頼という現実がここにある。
囚われの身となったパディントンの方も、自分が本当にブラウン一家にとって“家族”と言える存在なのかと疑心暗鬼に陥り、ナックルズの口車に乗って脱獄の片棒を担ぐことになってしまう。
この辺り、実際の移民の若者が、社会からの疎外感を募らせて裏社会や過激派に堕ちてゆく過程を思わせてちょっと社会派。
まあパディントンは根が生真面目だから、決して悪には染まらないのだけど。

ブラウン一家の抱えていた問題は、前作で基本的に解消しているので、パディントンの心配はもちろん杞憂。
彼らは囚われた大切な家族を救うために、一致団結したチームとなって活躍する。
前半は刑務所に送られたパディントンが、なぜかナックルズと仲良くなって、刑務所をスイーツパラダイス化しちゃう楽しげなシークエンスと、塀の外でブラウン一家が真犯人を探す話、ブキャナンが絵本に隠されたお宝の謎を解くプロセスが並行して描かれる。
そして後半になると、三つのプロットがお宝のありかを目指し、一気に収束してゆくのである。
新キャラクターでは、ブレンダン・グリーンソン演じるナックルズも良いが、パディントンを陥れる悪役ブキャナンが出色の出来だ。
落ち目で借金まみれなのに、自意識過剰なナルシストというこの役は、ヒュー・グラントに当て書きされたという。
まあ本人は仕事がドッグフードのCMだけ、みたいに落ちぶれてるわけじゃないけれど、「ブリジット・ジョーンズの日記」をはじめ、数々のラブコメでダメ男を演じてきたグラントにとっては、かなり自虐的なキャラクター
しかし、前作のニコール・キッドマン同様に、おバカな悪役を心底楽しそうに演じていて本作の白眉と言える。
主役のパディントンまでも食い気味に、本当に最後の最後まで美味しいところをさらってゆくのだ。

各種オマージュ感じさせる見せ場もたっぷり。
刑務所の時計台は「モダン・タイムズ」だし、気球での脱出はギリアムの「バロン」か、もしかして「空かける強盗団」あたりも入っているだろうか。
刀を持ったブキャナンに対するバード夫人のセリフ「銃を持った相手にナイフだって?」は、「アンタッチャブル」で、ナイフを持った殺し屋にショーン・コネリーが言うセリフと同じで、その直後にあっさり逆転されちゃうのも一緒だ。
そして飛び出す絵本を見たパディントンが、絵本の中に入り込むような描写は、嘗て日本でも放送されていた人形アニメーション版「パディントン・ベア」そのもの。
あの作品ではパディントンは立体の人形なのだが、彼以外のキャラクターや町は飛び出す絵本の様な切り紙で作られているユニークな表現が印象的だった。

遊び心のあるディテールで小ネタをつなぎながら、ヘンリーが凝ってるヨガからジョナサンの趣味の鉄道模型まで、前半で細かく配したブラウン一家の伏線をパーフェクトに回収してゆくコミカルかつ小気味良い展開は、まさにストーリーテリングのカタルシス
本当に無駄なカットが全く存在しないのだ。
思いっきり笑って、最後にはパディントンと人々の慈愛の心に泣き、奇しくも本作のクランクアップの日にその死が公表された原作者への、エンドクレジットの追悼文で二度泣き。
もうちょっとだけ、パディントンを取り巻く社会のネガの部分が強くても良い気がするが、その辺の塩梅は作家のさじ加減。
観終わると、無意識に周りの人々に優しくなれる、ファミリー映画の教科書にしたい傑作である。

今回はパディントンの故郷、ペルーを代表する蒸留酒「タベルネロ ピスコ」をチョイス。
元々ペルーは葡萄の栽培に適していて、スペインの入植とともにワイン造りが盛んになったのだけど、ペルー産ワインが本国のワイン業者を圧迫しているとして締め出され、ワインの代わりに作られるようになったのが、同じ葡萄を原料とするブランデーのピスコ。
現在ではいくつもの銘柄が作られていて、蒸溜所や葡萄の種類で味わいに違いがある。
40°を超える非常に強い酒だが、香り豊かで口当たりはまろやでクセがなく、そのものの味を楽しめるロックがオススメ。
カクテルベースとしても便利な一本。

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ショートレビュー「わたしたちの家・・・・・評価額1600円」
2018年01月16日 (火) | 編集 |
形而上的なる我が家。

これは実にユニークな作品だ。
一昨年まで東京藝術大学大学院に在籍する学生だった清原惟が、その修了作品として監督したのが本作。
昨年開かれたユーロスペースでの卒業制作展で話題を呼び、その後PFFアワード2017グランプリを受賞。
本来は非商業映画ながら、今年改めてレイトショー公開されることになった、注目の“デビュー作”だ。

冒頭、狭くて暗い部屋の中で、真っ白なパジャマやネグリジェを着た少女たちが、安っぽい音楽で無邪気に踊っている。
するとその中の一人が、突然「シャッターの音がする」と言い出す。
彼女がこの映画の主人公の一人、「セリ」だ。
昔は店舗だったらしい、この家の玄関はシャッターなのだが、その音は他の少女たちには聞こえていない。

もうすぐ14歳の誕生日を迎えるセリは、父が失踪して以来、母の桐子と二人暮らし。
思春期の彼女は、最近桐子に恋人が出来たことに心乱されている。


一方、記憶を無くした「さな」は、フェリーの船上で知り合った透子によって、彼女の家に招き入れられ、そのまま同居人となる。

一見関係無い二つの物語だが、実は舞台となっているのは同じ家なのだ。

これは一体どういうことなのだろうか? 

映画が進むうちに、二つの物語は同じ家の時空が僅かにずれた、パラレルワールド的な関係であることが分かってくる。
それぞれの主人公、セリは父親を、さなは記憶を失っている。
ともに自分の大切な何かを無くした二人は、どこからともなく聞こえてくる声や音、気配、時には襖の穴などの痕跡となって、お互いの喪失を埋めるかのように共鳴。
二つの世界の接触は徐々に不穏な空気を増幅し、しかし独立したまま話は進む。


本作を鑑賞した印象を一言で言えば、俗っぽくない黒沢清だろうか。
リンチやリヴェットに影響を受けているという清原監督は、大学院では黒沢清に師事していたそう。
ただ、彼の映画にある見世物的な外連味や強い観念性はあまり感じない。
アプローチが形而上的なのは同じだが、もう少し世界観の軸足が実在性にまたがっている様に思うのだ。

いわゆる三幕の構造は、無くはないものの希薄。
並行する二つの世界というアイディアは、「インターステラー」や「フリンジ」の様なSF的展開には足を踏み入れない。
どちらかが現実でどちらかが幻、あるいはどちらかが未来でどちらかが過去、いやいやもしかしたら片方の世界の人々は死んでいる・・・? などと、いくらでも想像はできるものの、二つの物語の主従を含めて、そこは重要ではないのだ。
セリは襖に明けた穴から何を見たのか。
さなのプレゼントの箱には何が入っていたのか。
画面には映らない、閉塞した日常と非日常との境界への畏怖と憧憬、観客の心の中に膨れ上がる形而上的イメージこそが、この映画の核心だろう。

ポリフォニックに展開する物語は、徐々にエントロピーを増大させながら、同時にキャラクターの内面の葛藤については一定の収束を見る。

この塩梅が絶妙で、観客は世界観の謎への分かりやすい解を欲しながらも、物語が断ち切られることを納得させられてしまうのだ。
映画の閉じ方は難しく、本作の様な謎で引っ張る作品はなおさらで、作者の天性のセンスを感じさせる。

学生映画だから、正直色々な部分で稚拙さも感じるが、贔屓目に見ればそんなところも荒削りな味わい。

築90年の小さな民家を、時空の迷宮に仕立て上げた空間設計、胸騒ぎを掻き立てる音響演出などのテリングは、間違いなく相当に非凡である。
清原惟、この名は覚えた。

白日夢の様な不思議な世界観の作品なので、「デイドリーム・マティーニ」をチョイス。
シトラスウォッカ90ml、オレンジジュース30ml、トリプルセック15ml、シロップ1dashを氷を入れたミキシンググラスでステアし、冷やしたグラスに注ぐ。
柑橘類のフレッシュな香りが、甘味と酸味のバランスを引き立て、白日夢の幻想に誘う。

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