酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
■ お知らせ
※基本的にネタバレありです。ご注意ください。
※当ブログはリンクフリーです。内容の無断転載はお断りいたします。
※ブログ環境の相性によっては、TB・コメントのお返事が出来ない事があります。ご了承ください
エロ・グロ・出会い系のTB及びコメントは、削除の上直ちにブログ管理会社に通報させていただきます。 また記事と無関係なTBもお断りいたします。 また、関係があってもアフェリエイト、アダルトへの誘導など不適切と判断したTBは削除いたします。

■TITLE INDEX
タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
■ ツイッターアカウント
noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
■ FILMARKSアカウント
noraneko285ツイッターでつぶやいた全作品をアーカイブしています。
万引き家族・・・・・評価額1750円
2018年06月06日 (水) | 編集 |
生きるために、家族になった。

東京の下町で暮らす、ある大きな秘密を抱えた一家を描く、異色のヒューマンドラマ。
貧しい生活を送る彼らは、家族ぐるみで万引きなどの軽犯罪を繰り返す。
是枝裕和監督は、デビュー作の「幻の光」から昨年の「三度目の殺人」に至るまで、ほぼ一貫して“家族”をモチーフとしてきた。
新生児の取り違えを描いた「そして父になる」で、彼は「家族を形作るのは血のつながりか?それとも共に過ごした時間か?」と問うた。

そして本作では、社会問題と混然一体となった、さらに複雑な問いを観客に投げかける。
今村昌平監督の「うなぎ」以来21年ぶりとなる、カンヌ映画祭の最高賞パルム・ドールの受賞も納得の、期待に違わぬ傑作である。
✳︎核心部分に触れています。

東京の下町。
マンションの谷間にある古びた小さな家に、家主の初枝(樹木希林)とその家族が暮らしている。
治(リリー・フランキー)と信代(安藤サクラ)の夫婦と息子の祥太(城桧吏)、信代の妹の亜紀(松岡茉優)の五人家族。
彼らはお金が足りなくなると、食べ物や生活必需品を万引きして調達するという生活を送っている。
冬のある夜、治は近所の団地の吹き曝しの廊下で、寒さに震えながら一人で遊んでいた幼い女の子(佐々木みゆ)に声をかける。
「ゆり」と名乗った女の子を見かね、治は家に連れ帰り体中に虐待の傷跡のある彼女を娘として育てることに。
決して満ち足りてはいない最下層の生活だが、それなりに幸せな日々が続く。
だが、治が仕事現場でケガをして働けなくなり、TVでは「ゆり」が行方不明になったことが報じられる。
そして、祥太の起こしたある事件によって、一家の生活は大きな転機を迎える・・・・


是枝裕和が描く“家族の肖像”は多種多様だ。
1995年の長編デビュー作「幻の光」では、江角マキコが心に深い傷を負った主人公を演じる。
彼女の子供時代に、認知症を患った祖母が失踪し、祖母を止められなかった罪悪感に加えて、数年前に夫を原因不明の自殺によって失ってしまうのだ。
能登の穏やかな日常を背景とした、新しい家族との生活と共に、喪失を抱えた女性の再生のプロセスを描いた秀作だった。
柳楽優弥に日本人初のカンヌ主演男優賞をもたらした「誰も知らない」で描かれたのは、母親にネグレクトされ、子供たちだけで生活する幼い四人の兄妹の物語だ。
それぞれに父親の違う四人が、大人たちの誰にも知られずに、ひっそりと生きて死んでゆく、21世紀の「火垂るの墓」とでも言うべき衝撃作だった。
最近作の「三度目の殺人」は、とある殺人事件の容疑者を担当することになった福山雅治演じる弁護士の視点で、人間の心の持つ複雑な闇、日本の社会の歪みや司法制度の問題にまで踏み込む、ディープな心理ドラマ。
ここでもやはり、家族の在り方が重要な要素となってくる。
そして本作は、上記の三作品を含む過去の是枝作品の全て、1995年から2018年までの24年間を内包する、現時点での集大成と言えるだろう。

リリー・フランキーや樹木希林ら是枝組おなじみの面々、初参加の安藤サクラ、松岡茉優、城桧吏と佐々木みゆ、一家を演じる俳優たちが皆素晴らしい。
特に海のシーンで樹木希林の見せる、なんとも言えない複雑な表情は絶妙だ。 

予告編のナレーションがちょっと誤解を招くのだが、この家族は決して犯罪で生計を立てている訳ではない。
治はケガをする前は建築現場で日雇い労働をしているし、信江はクリーニング工場で、亜紀は風俗店でそれぞれ働いていて、初枝には年金もある。
どうやら亜紀はお金を家に入れないでもいいという取り決めがあるようだが、おそらく月15~25万円程度の世帯収入はあると思う。
もちろん、家族の人数を考えれば典型的なワーキングプアで、貧困層ではあるのだけど、彼らが万引きをするのは、あくまでも生活を補うためだ。
もともと金に対する考え方がルーズな上に雇用形態が不安定で、いつ生活が立ち行かなくなるか分からない。
実際、治が現場でケガをしても労災はおりず、信代は簡単に仕事を切られる。
社会が自分たちを守ってくれないなら、自分たちも社会の決めごとを守る必要もないと、たいして罪悪感なしに犯罪に手を染めるのである。


映画は総尺のほぼ3/4を費やして、この家族の日常をじっくりと描いてゆくのだが、次第に彼らが抱える秘密が明らかになってゆく。
ゆりを含めて三世代六人の家族は、実は誰一人として血がつながっていないのだ。
もともと一人暮らしだった初枝の家に、奇妙な縁で集まって、対外的に家族を装っているだけなのである。
彼らが家族となっていったプロセスは詳しくは語られないが、もともと治と信江が訳ありの恋人同士で、息子の祥太は二人がパチンコ店の駐車場に駐められた車から“救出”したらしい。
亜紀は初枝の別れた夫が、別の女性との間に作った家族の孫で、居づらくなった実家を出てなぜか初枝のもとに身を寄せている。
「そして父になる」で描かれた二組の家族は、息子を取り違えられ、血と時間の間で葛藤するが、本作で描かれる家族には初めから血のつながりなどまったく無いのだ。
彼らを繋ぎ止めているのは、先ずはお金、次に孤独が作り出す縁


本作のエピソードの多くは、貧困と共同体の崩壊がもたらした実際の事件がモデルになっていて、誰もがどこかで「ああ、この話は聞いたことがある」と思えるようになっている。
例えば、親が死んだことを隠して、年金を詐取していた事件が全国で相次いだのは記憶に新しく、親のネグレトで子供が餓死したり、悲惨な状況で保護される事件も後を絶たない。
親が子供に万引きをさせた事件も、しばしば報道されている。
劇中では初枝が亡くなった時、治と信代が年金欲しさに遺体を隠すし、ゆりが行方不明になっても実の親は捜索願を出さない。
治と祥太が釣具店で万引きするシーンは、数年前に大阪で起こった実際の事件がモデルだろう。
これは社会のセーフティネットからこぼれ落ちてしまった人々、あるいはそもそもセーフティネットの存在すら知らない人々の物語であり、映画は決して彼らを擁護しないが、同時に断罪もしない。

群像劇的な構造を持つ物語の、軸となっているのは治と祥太の父子関係だ。
治は「店に置いてある商品は、まだ誰の物でもない(だから盗ってもいい)」と、とんでもない屁理屈を祥太に教えるのだが、祥太もそれを自己正当化のために受け入れている。
しかし、物語の後半になると、治は“誰かのもの”であるはずの車上狙いをするようになり、それまで家族として親しく暮らしていた初枝の遺体を埋めて、彼女が残したへそくりを自分のものにして大喜びする。
自分が属しているのが、普通の家族とは違った、いくつかの理由で一緒にいるだけの集団あり、永遠に続くものではないことを、祥太は少しづつ知ってゆく。
子供の演出に長けた是枝監督らしく、少しずつ変化してゆく祥太の心理描写は、「誰も知らない」の柳楽優弥を思わせて秀逸。
結局、祥太の心に芽生えた小さな正義感が起こした行動によって、一家の様々な犯罪は明るみに出て、偽りの家族は離散することになる。

しかし、この映画は傷ついた彼らを、それ以上痛めつけるようなことはしないのである。
2010年に、親の死亡届を出さずに、遺族が年金を詐取していたことが明るみになった事件は、社会的に大きな怒りを買った。
中央日報紙のインタビューによると、是枝監督は「はるかに深刻な犯罪も多いのに、人々はなぜこのような軽犯罪にそこまで怒ったのか、深く考えることになった」という。
確かに、あの時はマスコミにもネットにも怒りが沸騰していて、遺族リンチのような有様になっていた。
年金詐取にしろ、万引きにしろ、ぶっちゃけそれほど大した事件ではない。
もちろんお店などの被害当事者にとっては大変な損害だろうし、処罰すること自体は当然のことだ。
だが、直接の被害を受けたわけでもない赤の他人まで、我がことのように怒るのはなぜか。
この映画では、少女を守るという善意による罪を犯した治と信代には罰がくだされ、少女を虐待し、捜索願すら出さなかった実の両親の悪意は、すっかりと忘れられてしまう。
少女は再び、誰も守ってくれない元の環境に戻されてしまうのだ。
登場人物たちにとって、いくつかの問題は解決するが、別のいくつかはそのまま、あるいは悪化したまま。


本作を観ていて、どうしても思い出してしまうのが、先日公開されたアメリカ映画「フロリダ・プロジェクト」だ。
あの映画では住む家を持たず、モーテルに長期宿泊して爪に火をともすようにして暮らす、一組の母娘が描かれるが、実は観ている時に「誰も知らない」を思い出していた。
ドキュメンタリー的な事象へのアプローチ、自然な子供たちの演技というだけでなく、何処へも行けず、未来の展望も無い大人たちの閉塞と、ひどい環境でもどこまでも元気に無邪気な子供たちの日常が作り出す、悲喜劇のコントラストは印象として是枝作品にかなり近い。
「フロリダ・プロジェクト」では、撮影監督のアレクシス・サベによるカラフルなビジュアルが白眉だったが、本作でも是枝監督と初タッグとなる、近藤龍人による画作りが素晴らしい結果を生んでいる。
また両作の最大の共通項が、物語の帰結する先の曖昧さだろう。

人間は本来曖昧な存在で、その行いの何が正しくて、何が間違っているのか、単純に白黒つけられるのは法律で規定されているごく一部だけなのである。
ここにあるのは、確実にこの国のいくつもシーンの縮図であり、物語の中で解決しない問題は、そのまま私たちの心に重く残される。
答えが出せない曖昧さの中から、何を掴み取るのか、誰もが考えることを求められるのだ。
本作に対して、「日本人は万引きを教えない」だとか「犯罪を肯定してるから日本の恥」などとするアンチの思考停止こそが本当の恥。
今の日本がそうやって見たくないものに蓋をして、簡単に切り捨てる社会にだからこそ、この映画が圧倒的な説得力を持つのである。

今回は、やはり東京のお酒を。
清瀬のお隣、東村山の豊島屋酒造の「屋守 純米 中取り 直汲み生」をチョイス。
日本酒の製造プロセスには、もろみを搾って酒と酒粕に分ける上槽という作業があるのだけど、この際に、搾りたてのお酒をその場で瓶に詰めることを直汲みと言う。
直汲みならではの、酒中に残るほのかな微炭酸が柔らかな吟醸香と共に広がってゆく。
純米酒らしい米の旨みと、コクのバランスも良い。
毎年、この時期にしか味わえない、美味しい東京の地酒だ。

ランキングバナー記事が気に入ったらクリックしてね





ショートレビュー「恋は雨上がりのように・・・・・評価額1650円」
2018年06月01日 (金) | 編集 |
一人の雨降り、二人で雨上がりへ。

ここしばらくの漫画原作恋愛系映画の中で、ダントツに面白い。
小松菜奈演じる女子高校生が、バイト先の45歳のファミレス店長に恋をする。
この話のポイントは、基本的に恋をするのは女性側だけということ。
正直、映画がスタートしてしばらくは、あまり感心しなかった。
キャラクターの背景に関して説明的な描写が目立ち、特に大泉洋が好演するファミレス店長が、いかに冴えないおっさんなのかのネガティブイメージを、説明要員と化したベテランウェイトレス役の濱田マリに、全部台詞で喋らせてしまったのはあまりに安直。
尺の関係もあるだろうが、開始から10分くらいは、「こりゃあ期待できないかな」と思っていた。
しかし、この説明パートが終わると、映画は急速に魅力を帯びて立ち直ってくるのである。

当て書きされたかのように、絶妙に演者にフィットする登場人物の造形がいい。
女子高校生・橘あきらは、将来を嘱望された陸上選手だが、アキレス腱断裂の大怪我を負ってしまい、心が折れてしまった。
部活にも顔を出さなくなった彼女は、ファミレスでアルバイトを始めるのだが、そこの店長が大泉洋演じる近藤正己。
何かに依存的に夢中になっている人は、それが断たれると別の何かに依存するというが、あきらにとっては、近藤への恋だったと言うワケだ。
厳密に言えば、二人の間に流れている感情、というかあきらがほとんど一方的に募らせている思慕の念は、本当の恋じゃないかも知れない。
もちろん恋にも色々あるだろうが、彼女の場合は突然居場所を失った時に、暖かく受け入れてくれた包容力のある優しい大人に、癒しを求めたという面もあるだろう。
ともあれ、あきらは自分の気持ちを近藤へと思い切ってぶつける。

この物語が素晴らしいのは、子供のストレートな気持ちにおっさんが真摯に向き合って、大人としての対応をすること。
最近、山口メンバーやら日大アメフト部やら、現実の大人があまりにも大人げなく、子供の信頼を平然と裏切ることに幻滅していたので、フィクションの中でも近藤が本来あるべき大人としての行動をすることに救われた気分。
近藤はあきらの気持ちを受け止めて真摯に葛藤し、彼女にとっての最良の道へと導いてゆく。
まあ、この映画で一番のファンタジーは、実はこの近藤のキャラクター造形かなと思う。
現実に小松菜奈から突然告白されたら、あそこまで相手の気持ちを思いやりながら、自分の心をコントロールできる大人は少ないだろう。
私なら、少なくとも一瞬はドキマギして舞い上がる(笑
本作は、原作者も脚本家も女性。
このキャラクターは、ある意味女性目線で造形された理想のおっさんであり、世の男たちが目指すべき大人の姿なのかも知れない。

巧みなのは、単に子供を導くだけでなく、近藤もまたあきらの若いエネルギーに背中を押され、小さな一歩を歩みだす展開になっていること。
彼はもともと本の虫で小説家志望だが、ずっと芽が出ずに半ば諦めてしまっている。
そんな時にあきらとの交流が刺激となり、眠っていた情熱を再び動かされるのだ。
近藤の旧友で、成功した小説家役に、大泉洋の大学時代からの盟友にして、現在もTEAM NACSで活動を共にする戸次重幸をキャスティングするという、遊び心溢れるセンスがいい。
二人の再会のシークエンスは、小説を他のものに置き換えれば、かつて何かに情熱を捧げていて、今はもう忘れようとしている全ての大人たちにとって、暖かいエールとなるだろう。
物語の最後に、あきらが近藤に語りかける台詞が印象的。
これは映画の序盤のあきらと近藤とのやり取りの対となる台詞で、ちょっぴり切ない経験を通して、彼女もまた少しだけ大人に近づき、相手を思いやり歩み寄れるようになっていることを示す秀逸な描写。
人と人との縁がポジティブに作用し、皆が少しだけ幸せになる、とても気持ちのいい作品だ。

今回は、人生を変える「友だち」の話なので、「ゴールデン・フレンド」をチョイス。
アマレット20ml、ダーク・ラム20ml、レモン・ジュース20mlをシェイクし、氷を入れたタンブラーに注ぎ、適量のコークを追加して軽くステアする。
最後にスライス・レモンをのせて完成。
作者の中河宏昭氏によると、「 特別な友に、生涯の友に、唯一の友に贈るカクテル」という意味で命名したという。
ダーク・ラムとアマレットの組み合わせが、甘口の濃厚な味わいと香りを演出するが、タンブラーの大きさとコークの量でだいぶ印象が変わる。

ランキングバナー記事が気に入ったらクリックしてね





レディ・バード・・・・・評価額1700円
2018年05月29日 (火) | 編集 |
いつか、飛ぶ日のために。

シアーシャ・ローナン演じるラジカルな女子高生、自称“レディ・バード”のこじらせ気味の青春を描く、愛すべき佳作。
これはグレタ・ガーウィグ監督の、女優・脚本家としての代表作、「フランシス・ハ」の前日譚の様な作品だ。
サクラメント出身ニューヨーク在住、あのちょっと痛いキャラクターの、ちょうど10年前の話と考えるとしっくりくる。
子離れできない母との確執、報われない二つの恋、女友達との難しい関係。
ガーウィグは、嘗ての自分が抱いていたのであろう青春の葛藤に対して、未来から優しく寄り添い、レディ・バードの小さな成長を見届ける。
タイトル・ロールのシアーシャ・ローナンの達者っぷりはもはや言うまでもないが、「マンチェスター・バイ・ザ・シー」のルーカス・ヘッジスや、「君の名前で僕を呼んで」でオスカーにノミネートされたティモシー・シャラメ、本作で脚光を浴びたビーニー・スタインフェルドなど、旬な若い俳優たちの瑞々しい演技も見どころだ。

2002年、カリフォルニア州サクラメント。
カソリック系の高校に通うクリスティン・マクファーソン(シアーシャ・ローナン)は、“レディ・バード”を名乗り、周囲にもそう呼ばせている。
退屈なサクラメントから出たい彼女は、ニューヨークの大学への進学を希望しているが、母のマリオン(ローリー・メトカーフ)は経済的理由から地元にとどまることを主張、進路を巡って二人の関係はギクシャクしている。
親友のジュリー(ビーニー・フェルドスタイン)と演劇クラスのオーディションを受けに行ったレディ・バードは、そこでダニー(ルーカス・ヘッジス)という青年と出会い付き合うことに。
しかしある時、彼女はダニーがトイレで男とキスしているところを目撃してしまい、別れを決断。
カフェでバイトをすることになったレディ・バードは、そこでイケてるミュージシャンのカイル(ティモシー・シャラメ)と知り合い急接近。
新しい交友関係も出来て、いつの間にか演劇クラスから足が遠のいていた彼女を、ある日ダニーが訪ねてくるのだが・・・


大人になって、ふと過去を振り返ると、思い出すのはちょっと恥ずかしい失敗の連続だ。
これはそんな青臭くて愛おしい、青春の記憶としてのグレタ・ガーウィグの一連の私小説的自分語りに連なる作品。
私生活のパートナーでもある、ノア・バームバック監督と組んだ「フランシス・ハ」の彼女は、ニューヨークでバレエダンサーをしているが、20代後半に差し掛かっても芽が出ず、ダンサーとしては限界を感じている。
理想と現実の間で抗うフランシスは、ドタバタ走ってはずっこける。
同じく、バームバック監督とのコンビ作「ミストレス・アメリカ」では、イケてない女子大生トレイシーが、ガーウィグ演じる猪突猛進型の三十路女ブルックと出会い、世界が変わってゆく話だが、やっぱり彼女は失敗しまくるのだ。
ガーウィグ自身が主演した二作では、ヤングとアダルトとの間で葛藤する、等身大の大人の女性をリアリティたっぷりに、しかし生々し過ぎずユーモラスにカリカチュアして表現していたが、本作ではシアーシャ・ローナンという若き分身を得て、カメラの裏側に自分のポジションを据えた。

時代設定の2002年は9.11の同時多発テロの翌年で、遠く離れたサクラメントの平凡な日常にあっても、そこはかとなくその影響が漂っていた頃。
主人公のレディ・バードことクリスティンは、早く何者かになりたい渇望を抱えた高校生だ。
彼女は登場して早々、進路を巡って母親と口論して車から飛び降り怪我をする。
過去にガーウィグが演じてきたキャラクター同様、頭で考えるよりも先に体が動きだし、結果的にいろいろとやらかすのである。
思いっきり背伸びしている彼女にとって、保守的なカソリック系の高校に行っていることも、過保護な親の庇護のもとに暮らしていることも、クリスティンと言う平凡な名前も気に入らない。
自分を特別な存在にしたくて、レディ・バードを名乗り、髪を赤く染め、クリエイティブなクラスを履修する。
そしてもどかしい高校時代の終わりと共に、閉塞した故郷を抜け出し、誰も自分を知らない遠くの街で、自立した存在になりたいのだ。

物語の軸となるのは、レディ・バードと母親との関係。
母のマリオンは、ぶつかりつつも内心娘のことが大好きで、家の経済的な事情もあって、卒業後も近くにいて欲しいと思っているのだけど、思春期真っ只中のレディ・バードにはそんな親心も疎ましく思える。
「フランシス・ハ」にも、夢破れてサクラメントへ里帰りするシークエンスがあったが、本名すら封印するレディ・バードにとって、故郷は自分を縛る母親そのものなのだ。
ちなみに、サクラメントはカリフォルニアの州都だが、サンフランシスコやロサンゼルスといった華やかな大都会と違って、特に名所や特徴があるわけでもなく、規模も一回り小さく、ぶっちゃけかなり地味な地方都市。
このパッとしない街で、レディ・バードは親に反発しつつ、ダニー、次いでカイルとイマイチ割り切れない恋をして、同性の二人の友人ジュリーとジェナとの間で悩む。
特別な存在を目指しているものの、実際にやっていることはごく普通。
いわば青春映画あるある満載の、ごくシンプルな物語なのだが、軽妙な語り口の中に誰もが納得するリアリティがある。
レディ・バードの数々のイタタな失敗は、脛に傷を持つすべての大人にとって、自分の傷をえぐられる様。
決して大爆笑する様な作品ではないのに、絶妙な台詞回しによるクスクスが止まらず、スクリーンから目が離せない。
映画監督、グレタ・ガーウィグのテリングのセンスが抜群に良いのだ。

前面に出る訳ではないが、ちょっと面白いのが劇中劇との象徴的な二重性。
アメリカの学校では、選択カリキュラムに演劇クラスを取り入れているところが多い。
大会で勝ち抜くことを目指す日本の学校の演劇部とはまた違った、あくまでも授業の一環としての演劇なのだが、多くの場合、履修を希望する生徒はオーディションを受け、それぞれの特質に合った役割で参加する。
本作でダニー役を演じているルーカス・ヘッジスも、中学の演劇クラスの公演でスカウトされたのが俳優になった切っ掛けだそう。
劇中で、レディ・バードたちが上演するのが「メリリー・ウィー・ロール・アロング」だ。
「カンパニー」「スウィーニー・トッド」などで知られるミュージカルの巨匠、スティーヴン・ソンドハイムが1981年に発表した作品で、日本でも5年前に宮本亜門演出で上演されている。
物語の主人公はハリウッドで人も羨む成功を手にしたプロデューサーだが、彼自身は自分の人生の何もかもにうんざりしている。
彼は「なぜ(今)ここにいる?」を考えながら、現在を起点に嘗て同じ夢を共有していた友人たちとの、今に至る20年を思い返してゆく。
ピュアだった若者たちの栄光と挫折、それぞれの分かれ道。
その判断は正しかったのか、失敗だったのか、主人公の自問はやがて観客自身の過去への問いと重なってゆくのである。

この感覚は、レディ・バードの中に過去の自分を見つめる作者のガーウィグ、そして彼女のいくつもの失敗を、いつしか自分の青春期の経験に重ね合わせている観客の心理に通じる。
青春の痛さは、国や社会、ジェンダーの違いがあったとしても、確実に普遍的な共感を呼ぶ部分があって、レディ・バードのハイスクール・ライフは誰の心の中にもある、“あの頃の自分”へのモヤモヤした想いを刺激する。
最初から最後まで、とことんやらかして終わるレディ・バードの物語に、彼女同様に青春真っ只中のティーンエイジャーはもちろん、青春なんてウン十年前よ?というおっさん・おばさん世代も、ちょい親目線で自分のことの様に一喜一憂し、等しく心を鷲掴みにされるだろう。

ところで、レディ・バードの赤毛設定は、マイク・ミルズ監督の半自伝的作品「20センチュリー・ウーマン」でガーウィグが演じた、ニューヨーク帰りのパンクなフォトグラファー、アビーのキャラクターが影響しているのかもしれない。
本作が「フランシス・ハ」の延長線上にあるのは間違いないが、アビーもまたレディ・バードの10年後の姿と考えても違和感がない。
ニューヨークに旅立ったレディ・バードは、フランシスになるのか、アビーになるのか、映画が終わっても、物語の余白にジワジワと余韻が広がる。
これは、どこにでもいる一人の少女が、ズッコケつつも大人への階段を一歩だけ上り、今までとは違った人生の景色を見られる様になるまでを描く、リリカルで味わい深い優れた青春映画だ。

今回は、レディ・バード憧れの地「ニューヨーク」をチョイス。
ライまたはバーボンウィスキー45ml、ライムジュース15ml、グレナデン・シロップ1/2tsp、砂糖1tspをシェイクしてグラスに注ぎ、オレンジピールを絞りかけて完成。
ウィスキーの濃厚さをライムが軽くしてくれて、甘酸っぱくてほろ苦い。
やらかしても、やらかしても、しっかりと歩み続ける大人のためのカクテルだ。

ランキングバナー記事が気に入ったらクリックしてね





孤狼の血・・・・・評価額1700円
2018年05月27日 (日) | 編集 |
映画じゃけん、何してもええんじゃ!

いやー、これは面白い。
広島県の架空の都市・呉原を舞台に、東映が昭和の実録映画にディープなセルフオマージュを捧げたパワフルな犯罪映画。
北海道警の悪徳刑事を描いたピカレスク大河ドラマの傑作、「日本で一番悪い奴ら」の監督・白石和彌、脚本・池上純哉のコンビが、柚月裕子の同名小説を映画化。
暴対スペシャリストにして汚職刑事、狐のように狡猾で手負いの一匹狼のように恐ろしいダーティーヒーローを、役所広司が怪演。
彼とバディを組むことで、警察官として何をすべきなのか、大きな葛藤を抱えることになる若い刑事を松坂桃李が演じる。
嘗て東映が標榜した“不良性感度”全開、いい意味で昭和の猥雑さを感じさせる娯楽映画だ。

天皇の病状が悪化し、一つの時代が終わりつつある昭和63年。
所轄の呉原東署捜査二課に配属された日岡秀一(松坂桃李)は、暴力団との癒着が噂されるベテラン刑事の大上章吾(役所広司)と、サラ金の呉原金融の社員の失踪事件を担当することになる。
折しも呉原では、地元の尾谷組と広島の五十子会傘下で新たに進出して来た加古村組の関係が悪化。
尾谷組の組長が服役中の間に、加古村組が縄張りを奪い取ろうと動き、尾谷組との間でいつ抗争が始まってもおかしくない状況だった。
呉原金融は五十子会のフロント企業で、失踪が内紛絡みの殺人事件だと睨んだ大上は、手段を択ばない捜査で証拠を見つけ、加古村の動きを封じようとする。
広島大卒のエリートコースを歩んできた日岡は、時として法すら無視する大上の捜査方法に反発しつつも、抗争を止めるために協力してゆくのだが・・・


冒頭、養豚場で展開する容赦ないバイオレンスシーンから、いきなり度肝を抜かれる。
豚の糞と血にまみれ、人を人とも思わぬ男たちの外道っぷり。
「R15+」のレイティングとは言え、インディーズならまだしも、今時の邦画メジャーの作品でここまで凄惨な描写は珍しい。

昭和は64年の1月7日に終わり、その3年後には暴力団対策法が成立し、全国のヤクザ組織の活動には大きなブレーキがかけられることになる。
つまりこれは昭和ヤクザがそれらしい姿であった、最後の時代の物語なのだ。

さすがに手ブレする手持ちカメラは真似なかったが、冒頭のアナログ時代の三角マークから眉間に皺をよせた厳つい顔の男たち、外連味たっぷりの特徴的なナレーションやテロップ、音楽の使い方に至るまでいつか観た映画的記憶が満載。
「仁義なき戦い」シリーズ、「県警対組織暴力」、「実録 私設銀座警察」、「仁義の墓場」などなど、心に焼き付いた幾つもの名シーンが蘇る。
これは昭和のプログラム・ピクチュアをモチーフとした、昭和世代なら観るだけでノスタルジックなカタルシスを感じられる、いわば実録版「レディ・プレイヤー1 」なのである。

しかし、昭和世代のおっさんの映画マーケットなどたかが知れている。
この映画が秀逸なのは、単にラッピングの再現だけで満足することなく、物語の裏側に県警本部vs所轄警察署vs地元ヤクザvsよそ者ヤクザという、四つ巴の凝ったコンゲームが仕組まれており、互いに騙し合い、出しぬこうとする展開の面白さでも十分に魅せること。
呉をモデルとした架空の都市・呉原市は、地元の組織・尾谷組が伝統的に仕切ってきたが、組長は服役中で、その隙を突いて広島市に本拠を置く巨大組織・五十子会傘下の加古村組が進出を加速し、尾谷組のシマを奪いにかかる。
小競り合いが続く中、ついに尾谷組のチンピラが殺される事件が起こり、全面戦争がいつ起こってもおかしくない、一触即発の状況が続く。

役所広司演じる大上は、尾谷組とはズブズブの癒着関係が公然の秘密となっている。
彼は失踪した呉原金融の社員が、何らかの理由で加古村組のリンチに合い殺されたと見立て、殺人事件として立件することで加古村の動きを封じ、戦争を阻止しようとしているのだ。
大上は、ヤクザの撲滅は不可能でナンセンスと考えていて、彼のファーストプライオリティーはヤクザを警察のコントロール下に置くこと
そのためには、賄賂も取るし、便宜を図ることもあるし、暴力で屈服させることもある。
必要とあれば自らも法を犯す。

一方、彼とコンビを組むことになるのが、松坂桃李演じるエリート、日岡秀一だ。
彼は、単なる新任の所轄刑事ではなく、何かと不正の噂のある大上を密かに捜査するために、県警本部の監察官によって送り込まれたスパイでもある。
本作の主人公は、まだ人間としても警察官としても未熟で未完成な日岡で、常識人である彼の視点で話が進むので観やすい。
日岡と大上はバディであり、マスターとパドワンでもあり、ソーとロキの様な腹に一物ある関係でもあるのだが、物語が始まった時点で、日岡の目には裏社会と警察とが絡み合う、巨大な利害構造のほんの一部しか見えておらず、警察官は基本的に法を忠実に執行すれば良いと思っている。
彼にとって大上は、ヤクザ同士の対立を利用して私腹を肥やす悪徳刑事であり、倒すべき悪漢なのである。
しかし、事件の全貌を知るにつれて、粗野な仮面に隠された大上の真意、合法・違法の線引きでは割り切れないこの世界の闇、清濁併せ呑む覚悟を決めたものだけが、行使できる“正義”もあることを理解してゆく。

野獣同士が噛み合うのは構わない。
問題は、野獣が人間の手を噛まないようにすることであり、そのために必要なのは、自らが半身だけ野獣の一員となり、知恵を使って人知れず闇の世界を操る力を持つこと。
これは、一人の若い刑事がこの世界の真実を知って成長してゆく寓話であると同時に、必要悪としての「孤狼の血」の継承の物語なのである。

「シャブ極道」「渇き」に連なる破天荒なキャラクターを、重厚に演じる役所広司が素晴らしい。
最近「彼女がその名を知らない鳥たち」や、ロマンポルノもびっくりの珍作「娼年」などで、分かりやすいイケメン俳優からの脱却を図る松坂桃李も、大ベテランとがっぷり四つに組む好演を見せる。
石橋蓮司のクズっぷり、伊達男な江口洋介、案外いい人のピエール瀧ら、暴力の世界に生きる男たちが印象強いが、訳ありのクラブママの真木よう子や、日岡と恋仲になる薬剤師を演じる阿部純子など、出番は多くないものの、女性キャラクターもなかなかに魅力的だ。

「東映は、心にモンモンを背負ってる」映画業界の人々は、愛着を込めて東映をこう表現する。
昭和が終わる一年前を描く本作が、平成が終わる一年前に作られたのは、企画としての明確な意味があると思う。
フィクションの娯楽映画にも、過度なコンプライアンスを求める風潮が蔓延し、事なかれ主義に流されがちな時代にあって、白石和彌は昭和の劇薬を巧みに換骨奪胎し、次の時代に向けて不良性感度の復活を宣言した。
本作のベースの部分に、昭和の実録映画群に対する強いノスタルジーがあることは確かだが、それ以外も様々な要素をバランスよく組み合わせて配置した、間口は広くて懐の深いとても良く出来た快作娯楽映画である。
日岡秀一を描くシリーズ第2作、「凶犬の眼」の映画化も決定したそうで、楽しみに待ちたい。

今回は、呉原こと呉市のお隣、東広島市に本拠を置く広島を代表する銘柄、賀茂鶴酒造の「賀茂鶴 上等酒」をチョイス。
比較的リーズナブルな本醸造酒だが、特に燗で飲むのに適したおっさん向けの酒になっている。
昭和のアウトローを気取って、場末の飲み屋などで、海の幸を肴にして一杯やりたい。

ランキングバナー記事が気に入ったらクリックしてね



[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

賀茂鶴 上等酒 1.8L清酒 1800ml
価格:1750円(税込、送料別) (2018/5/27時点)



「ランペイジ 巨獣大乱闘」vs「GODZILLA 決戦機動増殖都市」
2018年05月23日 (水) | 編集 |
「ランペイジ 巨獣大乱闘・・・・・評価額1600円」
「GODZILLA 決戦機動増殖都市・・・・・評価額1650円」


怪物vs神。

奇しくも日本では同時公開となった「ランペイジ 巨獣大乱闘」「GODZILLA 決戦機動増殖都市」は、“怪獣”という同一モチーフを扱いながら、日米で異なる映画文化を究極まで純化したような、どこまでも対照的な二本となっている。

米国の“ジャイアント・モンスター”は、古くはサイレント時代の「ロスト・ワールド」、最近では「キングコング : 髑髏島の巨神」に至るまで、基本的には巨大な動物だ。
時として、人間や異星人によって作り出された人工的な存在なこともあリ、だからいくら強大で頑丈でも生物としての限界は超えられず、人の手で殺すことができる。
「ランペイジ」もその文脈に沿った一本で、もともと普通の動物だったアルビノのゴリラ、オオカミ、クロコダイルが、悪の企業によって宇宙ステーションで秘密裏に開発された、遺伝子を書き換える薬剤を吸い込んでしまい異常成長。
さらに様々な動物の遺伝子が混じりあい、ミューテーションして凶暴化する。

まあこの基本設定だけでも相当に強引だが、要するに嘗ての「巨大生物の島」をはじめ、何度も作られてきた動物巨大化のバリエーションで、思わず笑っちゃうくらいに御都合主義的かつ雑な映画だ。
主人公のドウェイン・ジョンソンは、動物学者なのになぜか元特殊部隊の軍人で、ヘリの操縦までできちゃう便利過ぎるキャラクターだし、悪の企業も宇宙ステーションまで持っているのに、関係者がほとんど経営者姉弟しか出てこないので、地方でこじんまりやっている中小企業にしか見えない(笑

しかも既に制御不能なのはわかっているのに、変な電波を出して怪獣たちを本拠地シカゴにおびき寄せてしまう意味不明さ。



でも、この手のハリウッド映画はそれでいい。
ファーストプライオリティは、怪獣たちに軍隊と都市を蹂躙させるスペクタクルな画を見せることであり、すべての要素はそのためのお膳立てに過ぎない。
PJ版「キング・コング」サイズのアルビノ・ゴリラから、初代ゴジラサイズのクロコダイルまで、大きさと形態の異なる3種の怪獣たちによる、都市破壊のカタルシス。
お約束のゴリラのビル登りをはじめ、怪獣映画オマージュもいっぱいだ。
クロコダイル怪獣は頭部がビオランテそっくりだし、ムササビとヤマアラシの遺伝子が融合したオオカミ怪獣は、滑空用の飛膜と背中の棘が特徴的で、元ネタはたぶんバランだと思う。


ドウェイン・ジョンソンの活躍により、ゴリラが正気を取り戻した後の三つ巴、いや四つ巴の怪獣プロレスも見応えたっぷりだ。

八面六臂のロック様は、まさに四匹目の巨獣で、おそらく怪獣相手に肉弾戦をやった、最初の人類なのではないか(笑

そして、そんな無茶な画に、説得力があるのが素晴らしい。
歴代のコングが興業のためにニューヨークに連れてこられた様に、ハリウッド映画における怪獣は、基本的に観客の未見性を満たすための見世物であり、その意味で「ランペイジ」は超正統派のアメリカン怪獣映画と言えよう。

対して、日本映画意における“怪獣”は、その祖であるオリジナル「ゴジラ」以来、象徴性を秘めたアイコンである。
特に日本型怪獣の保守本流である東宝作品では、それは時に戦争だったり、核だったり、あるいは公害だったり、人智を超えた何かのメタファーであり、いわば現在の祟り神だ。
神なのだから、人の手で怪獣を殺せることはほとんどない。
初代ゴジラを葬ったのは、オキシジェンデストロイヤーという架空の兵器だったが、劇中の描写通り、これも核兵器の裏返しであり、いわば核で核を殺すアイロニカルな物語だった。
近年では、「パシフィック・リム」が英語化した日本語という文脈で「カイジュウ」という言葉を使ったり、ギャレス・エドワーズ版「GODZILLA ゴジラ」が極めて日本版に近い怪獣の解釈をしていたり、日本とアメリカという二大怪獣大国は文化的に融合しつつあるが、依然としてイメージの差は大きいと思う。

「シン・ゴジラ」の大ヒットを追い風に作られたアニメーション版ゴジラは、ある意味メタファーとしての怪獣の究極系と言えるかもしれない。
本シリーズの怪獣たちは、人類の文明がレッドラインを超えて世界が飽和状態になると、地球そのもから生み出されたかのごとく、突如として出現したとされる。
怪獣関係のレビューで幾度か言及しているが、この設定は平成の日本型怪獣のルーツというべき巴啓祐の傑作漫画「神の獣」のバリエーションと言えるだろう。
あの漫画の怪獣オーガと同じく、ガイア生命としての地球にとって害となった人類文明を根絶やしにするために、無数に現れた怪獣たちを、最後にまとめて滅ぼすための究極の装置がゴジラであり、そこにはもはや核のくびきすら無いのである。

アニメーションという技法を選択することで、実写シリーズ様々な縛りから解放された本作は、私たちが長年に渡って親しんで来たいわゆる“ゴジラ映画”ではなく、ゴジラをモチーフにして、バリバリのハードSFをやった作品。
なにしろ散々メカゴジラの存在を煽って、まさかの自己増殖する都市“メカゴジラ・シティ”という、キャラクター性すら捨て去った新形態を持ってくるとはさすがに予想できなかった。
原理主義的ゴジラファンには受け入れられない作品かもしれないが、「魔法少女まどか☆マギカ」で、ジャンルのイメージを根底から破壊し、我々にトラウマを植え付けた虚淵玄の面目躍如たる作品だ。
ちなみに街が人間を取り込んで、全てが一つの金属生命のパーツとして機能するという設定の元ネタは、諸星大二郎の短編「生物都市」じゃないかと思うのだが、どうなんだろう。



怪物と戦う者は、自分が怪物にならぬよう。

300メートルの巨体に2万年を超える寿命、もはや神に等しいゴジラを倒すことが出来るのは、人間を超えたものだけなのか。
人と街が融合したメカゴジラ・シティがゴジラを倒したとしても、それは果たして人間の勝利と言えるのだろうか。

人類と同盟を組む超精神文明エクシフと超物質文明ビルサルドの狭間で、ゴジラに対する強烈な憎しみに突き動かされる主人公のハルオは、そもそも人とは何か、人類の進むべき道はどこか葛藤する。
地球そのものの象徴たるアニメーション版ゴジラが体現するのは、オリジナル「ゴジラ」の核戦争の恐怖でも、「シン・ゴジラ」の3・11への後悔でもなく、現代日本の、いや日本人から見た全人類が抱える閉塞感と、この星の未来への漠然とした絶望感なのかも知れない。

しかし、ここまで大風呂敷を広げると、あと一本でちゃんと畳めるのか心配になっちゃうが、体から鱗粉を出す謎の種族フツアが唱える玉子のなんちゃらとか、エンドクレジット後のメトフィエスの言葉とかからすると、次回はアレとアレが出てきて大団円なのか?
まあ狙ってハズシを仕掛けてるから、予想もしないような話に持って行く気もするが。

今回は怪獣映画二本なので、コンパスボックス社のスコッチウィスキー「ピートモンスター」をチョイス。
2000年創業の比較的新しいブランドだが、すでに酒好きの世界では広く知られている。
ラベルに描かれたモンスターは怪獣映画というより「ダーク・クリスタル」あたりに出てきそう。
名前の通りスモーキーな味わいで、フルーティさとスパイシーさのバランスも良く、ウィスキー好きには広く好まれる味わいだと思う。
ピートの怪物が作る美味しいお酒だ。

ランキングバナー記事が気に入ったらクリックしてね



[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

【あす楽】 コンパスボックスピートモンスター 46度 箱付 700ml
価格:5480円(税込、送料別) (2018/5/23時点)