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ショートレビュー「ジュラシック・ワールド/炎の王国・・・・・評価額1500円」
2018年07月29日 (日) | 編集 |
王国が、燃え尽きる。

2015年に14年ぶりにリブートされた、「ジュラシック・ワールド」に続く新三部作の第二作
映画史に革命をもたらした「ジュラシック・パーク」が、いわばオーランドにあるオリジナル・ディズニーランドだとすれば、前作はタイトル通りにフロリダのディズニー・ワールドだった。
第1作をベンチマークして、構成要素をトレースしながら、できるだけ派手に拡大改良したバージョンと言っていい。
その試みは、半分成功して半分失敗していたと思う。
現在の映像テクノロジーで蘇った恐竜の島は、人間・恐竜共に多様化したキャラクターと見せ場のつるべ打ちによって、夏休みのお祭り映画としてまことに相応しいものになっていた。
一方で監督・脚本を任されたコリン・トレボロウの手腕は、スティーヴン・スピルバーグ&マイケル・クライトンのコンビと比べてしまうとやはり数段落ちると言わざるを得ず。
色々な新機軸は良いとしても、いきなり現場責任者が職場放棄したり、プロットに荒っぽさが目立ち、マップの使い方が下手で、位置関係が全然描けていないものもサスペンスをスポイル。
売り物の恐竜の描写も、大きくパワフルにはなったものの、シリーズものの既視感を超えることは出来なかった。

今回、監督はトロボロウからJ・A・バヨナにバトンタッチしているが、トレボロウは三部作を通して脚本を担当しているのでテイスト的にはそれほど変わらない、というかディテールが荒っぽい欠点もそのままだ。
前作は第1作のリメイク的リブートだったが、今回は律儀に第2作「ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク」の焼き直しをやってきた。
噴火する島からの恐竜救出ミッションは、スリリングだが前半で早々に終わり、後半はパークの生みの親であるジョン・ハモンドの親友で、協力者だったベンジャミン・ロックウッドの秘密基地みたいな大邸宅を舞台としたアニマルパニック編。
前半と後半が全く異なるジャンルとなるのだが、バヨナの演出は悪くない。
島を脱出する船から、噴煙に包まれ消えてゆくブラキオサウルスの最期を見届ける悲痛な描写は本作の白眉だし、後半のロックウッドの孫娘を軸にしたサスペンスは、「永遠のこどもたち」や「怪物はささやく」など、ジュブナイルを得意とするバヨナの面目躍如。
全体に、アメリカでの酷評ほどには悪くなく、むしろテリングの下手さが目立った前作より、無邪気なB級感覚全開で楽しかった。

もっとも、物語にはやはり相当に無理がある。
ロックウッドの部下が恐竜を売りさばこうとするのは、現実の希少動物の密売などを比喩してるんだろうけど、さすがに恐竜は目立ちすぎてバレるだろう。
一作目から登場のマッドサイエンティスト、ウー博士の“生物兵器”インドミナス・ラプトル計画に至っては、いくらなんでも荒唐無稽すぎる上に、元々のコンセプトから離れすぎではないか。
前作のインドミナス・レックスもそうだったけれど、本作のボスキャラであるインドミナス・ラプトルも、純粋な恐竜じゃないという点で、もはやエイリアンでも怪物でも何に置き換えてもプロットは成立してしまう。
だから、もうこれはガワを似せているだけで、恐竜時代への冒険にワクワクしっぱなしだったオリジナルとは似て非なるものなのだ。
25年前「ジュラシック・パーク」を初日に米国の映画館で観た時、サム・ニールとローラ・ダーンが始めて恐竜を見るシーンで、劇場が「オー!」という歓声に包まれたのを昨日のことのように覚えている。
あの時は、まさに登場人物の驚きが完全に観客とシンクロしてたが、CGが当たり前の表現になった現在で、あの感覚を再び味わいたいというのは無い物ねだりだろうけど。

ジェフ・ゴールドブラム演じるマルコム博士の言う通り、これはテクノロジーというか、人間の欲望の暴走が“パーク”のレベルから“ワールド”に拡大する話。
その意味では、稀代のストーリーテラー、マイケル・クライトンの作り上げたテーマを引き継いではいるのだが、彼の作った世界観から出られないのがシリーズの宿命で限界か。
リブート版「猿の惑星」シリーズくらい振り切れば面白いのだけど、今回の恐竜たちが逃げ延びたとしても、たったあれだけでは最小存続可能個体数に遠く届かないので、再絶滅は確実。
隠し球的な裏設定がない限り、「恐竜の惑星」にはなりそうもない。
まあシチュエーションの自由度という意味では、次はなんでもアリになった訳で、「三部作の最後は一体どう収拾つけるのか?」という興味は尽きないけど。
エンドクレジット後の映像は、恐竜SFの元祖であるコナン・ドイルの「ロスト・ワールド」へのオマージュなのは明らかだが、世界のミニチュアともいうべき“あの街”に降り立ったのはなんだか意味深だな。

今回は火山の噴火から始まる話なので「ボルケーノ」をチョイス。
冷やしたラズベリー・リキュール25ml、ブルー・キュラソー25ml、シャンパン適量をフルート型シャンパングラスに注ぎ、オレンジピールを飾って完成。
ラズベリーの爽やかな香り、深海を思わせるダークブルーが美しい。
フルーティーで適度な甘みがあり、とても飲みやすいカクテルだ。

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ショートレビュー「私の人生なのに・・・・・評価額1600円」
2018年07月26日 (木) | 編集 |
ギターで紡ぐ、新しい私。

なかなか素敵な小品。
知英演じる将来を嘱望されている新体操のスター選手・瑞穂が、練習中に脊髄梗塞という病に倒れ下半身麻痺に。
青春の全てをかけた競技人生を絶たれ、一時は死を望むほど自暴自棄となった彼女の、再生の軌跡を描く物語だ。
実話ベースなのかな?と思わせる話だが、原作は清智英原作・東きゆう著のライトノベルだとか。
両親の愛情の支えもあり、大学への復学も果たし、競技自体には戻れないものの、トレーナーの誉田には指導者への転身を勧められている。
瑞穂もなんとか前を向こうとするのだが、やはり以前の自分とは違うという意識から、壁を作ってしまうのだ。

そんな彼女の前に、幼馴染でストリートミュージシャンの淳之介がふらりと現れる。
週刊誌の記事で彼女が倒れたことを知ったという彼は、数年ぶりに会った瑞穂を何の脈略もなく「一緒に歌おう!」と誘うのだ。
突然のことに戸惑う瑞穂に、淳之介は「だって楽しかっただろ?」と屈託なく笑う。
どうやら二人は中学の頃に一緒に歌ったことがあり、その時に彼女がとても楽しそうだったので、苦境から救うために誘いに来たらしい。
瑞穂からしたら、とっくに忘れていた思い出を引っ張り出す淳之介に反発しつつも、少しずつ心を動かされてゆく。

真っ直ぐな眼差しをした、二人のキャラクターがとても良い。
中学の頃に引っ越していった淳之介は、実は天涯孤独の身。
母親は出て行き、借金を抱えた父親も、息子に心中を迫った後にどこかへと失踪。
以来、ネットカフェに寝泊まりし日雇いの仕事をしながら、音楽を奏でることを生きがいに、ずっと一人で生きてきた。
一見対照的に見えて、その実心と体の違いはあれど、大き過ぎる傷を抱え、死を意識したことのある似た者同士。
「車椅子なのに『走れ、走れ』なんて歌えない」という瑞穂に、淳之介が子供やおばあちゃんたちの前で何度も彼女を走らせ、「あれ、何やってる?」と聞いてギャラリーから「走る」という言葉を引き出し、壁のブレイクスルーのきっかけになるところはとても映画的で素晴らしい。
台詞は必要最小限、可能な限り状況や心情を映像で語ろうとする原桂之介監督の意識は好印象だ。

露骨に瑞穂への恋心を隠さない誉田を含めて、基本的に良い人しか出てこないのだが、それぞれの善意のエクスプレッションは異なる。
それが瑞穂の心の中で咀嚼されて、彼女のリアクションとなりドラマを前に進める構造。
人生は色々失っていって苦しかったりするけれど、たまには楽しいこともある
優しく背中を押してくれる、気持ちの良い佳作だ。

しかし知英は竹中直人との入れ替わりコメディ「レオン」の時も素晴らしかったが、進化が止まらないな。
原監督はオムニバス映画、「全員、片思い」中の「片思いスパイラル」というエピソードで、心は男、体は女のトランスジェンダーの韓国人留学生役で彼女を起用していたが、今回は日本人設定だ。
日本語ネイティブでない外国出身で、ここまでナチュラルに日本語を使いこなした役者がいただろうか。
言葉の壁を乗り越えた先の演技者としてもとても端正で、海外移民経験者としては、この人にはリスペクトしかない。
淳之介役の稲葉友は、仮面ライダー以外で初めて見た気がするけど、この役は絶妙にフィットしていた。

この映画の二人は、音楽という人生を照らす新たな光に出会った訳だが、爽やかな映画に合わせてノンアル・カクテルの「サマー・ディライト」をチョイス。
ライム・ジュース30ml、グレナデン・シロップ15ml、シュガー・シロップ2tspをシェイクし、氷を入れたゴブレットに注ぎ、ソーダで満たす。
赤みがかったピンクは目に優しい乙女な雰囲気。
さっぱりとした喉ごしが、暑さを紛らわせてくれる。

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未来のミライ・・・・・評価額1700円
2018年07月21日 (土) | 編集 |
未来のために、過去と逢う。

予告編を何度見ても、どんな話なのかサッパリ分からなかったが、なるほどコレはネタバレせずに全体をイメージさせるのは難しい。
「サマーウォーズ」以来、“家族”をモチーフとしたアニメーション映画を作り続けてきた細田守監督の最新作は、甘えん坊の4歳児くんちゃんと未来からやってきた妹のミライちゃんが、秘められた家族の歴史を巡るファンタジー。
ただし、過去の細田作品のように、エンターテイメント性に富んだドラマチックな活劇を期待すると、思わぬ肩透かしを食らうかもしれない。
これは一軒の家の中庭で展開する、ある意味もの凄く私小説的な物語であり、4歳児の視点で見た小さくて大きな世界を、アニメーション手法を駆使して作ったクロニクル的細田家のホームビデオとも言える。
賛否両論ありそうだが、少なくとも他に似た作品を思いつかない、極めて独創的かつ冒険的な作品だ。
※核心部分に触れています。

4歳のくんちゃん(上白石萌歌)の家に、生まれたばかりの妹・ミライちゃんがやって来る。
おとうさん(星野源)とおかあさん(麻生久美子)は、ミライちゃんの世話にかかりっきりとなり、それまで二人の愛情を一身に受けていたくんちゃんは激しく嫉妬。
ミライちゃんをイジメる意地悪なお兄ちゃんになってしまう。
そんなある日、中庭で遊んでいたくんちゃんの前に、突然中学生になった未来のミライちゃん(黒木華)が現れる。
飼い犬のゆっこ(吉原光夫)もなぜか人間の姿となり、くんちゃんはミライちゃんに導かれるように、家族の過去と未来を巡る冒険の旅に出る・・・・


私の一番古い記憶は、1歳7ヶ月の時のもの。
ベビーベッドで天井のガラガラを眺めていると、父が私を抱き上げてベッドから出し、代わりに母が見たことのない赤ん坊をベッドに寝かせたのだ。
「え、そこは僕のベッドだよ。君はだれ??」
この記憶が本物かどうかは分からないが、妹が生まれて母と共に家に帰ってきた日の記憶だと思っている。

かように、新しい家族の出現というのは幼心には大事件なのだが、本作の主人公・くんちゃんは、私よりも少し年長の4歳で妹のミライちゃんと出会う。
「おおかみこどもの雨と雪」の時は細田監督にはまだ子供がおらず、「憧れで描いた」そうだが、あちらが多分に理想化された子育てだとすれば、こちらはリアリティたっぷりだ。
くんちゃんの元へ未来のミライちゃんがやって来るというアイディアは、監督の息子さんが「(夢の中で)大きくなった妹と逢ったよ」と語ったことから発想したそう。
私は細田守という映画作家は、本来職人的エンタメの人ではないと思っている。
出世作の「時をかける少女」は原作付きだったが、以降はずっとオリジナル。
自分が結婚して家族が増えると、大家族の奮闘を描く「サマーウォーズ」を、子供が欲しい時期になると「おおかみこどもの雨と雪」を、実際に子供ができたら、父性に葛藤する「バケモノの子」を作り、兄妹の父となり、ある程度実際の子育てを経験すると本作を発想する。
今、自分が感じていること、経験していることからのみ物語を紡ぎ出す、典型的な私小説作家だ。

ただ、圧倒的に高い演出力を持ち、職人的な仕事もできてしまうのと、「おおかみこどもの雨と雪」までは、名脚本家の奥寺佐渡子と組んでいたことで、世間からある程度作家性を誤解されているのではないかと思う。
ポスト宮崎なんて一部では言われているが、共通するのは演出力と物語の構成が不得手なところくらいだろう。
単独脚本の一本目となった「バケモノの子」では、後半複雑なプロットをまとめられず、ロジックが破綻してしまっていた。
今回は、ロジカルな説明要素をはじめから放棄し、くんちゃんに起こる“不思議”に明確な解を用意しなかったのは正解だと思う。
一応、未来のミライちゃんによれば、中庭の樫の木が家族の過去現在未来につながるタイムマシンのようなものらしいが、この映画のファンタジー部分は、そもそもくんちゃんを成長させるための装置に過ぎないので、ぶっちゃけこれが現実か幻想かはどうでもいいのである。

それにしても、4歳の男の子の視点で映画を丸ごと語るのは、かなり冒険だ。
一歳年上のクレヨンしんちゃんという先輩はいるが、あれは相当カリカチュアされた存在で、本作のようなリアリズムを前提としたキャラクターではない。
くんちゃんの視点で描いたため、映画の舞台は基本的には建築士のおとうさんが設計した、“世界”そのものであるユニークな構造の家の中と樫の木の中庭だけで、すべてのファンタジー・シークエンスはここを起点として描かれる。
細田監督の特徴的なスタイルに、引いた定点的同ポジの多用があるが、これも本作では幼児の見ている限定された世界を強調する。
登場人物の固有名詞も、劇中で命名される「ミライ(未来)ちゃん」と犬の「ゆっこ」以外は不明なまま。
家族は、一緒に暮している「おとうさん」「おかあさん」、たまにやってくる「ばあば」「じいじ」に、会話の中で登場する「ひいばあちゃん」「ひいじいちゃん」の四世代。
確かに自分が4歳の頃って、家族の正確な名前は知らなかった気がする。
もう少し大きくなって、幼稚園の年長組か小学校入学あたりで、親の名前を呼ばれたり、書いたりするようになり、ようやく親にも「おとうさん」「おかあさん」以外の名前があるんだということを認識するのだろう。

4歳児の世界は、名前一つとっても極めて小さくて限定的だが、本作は中庭で起こる不思議な現象によって、現実のくびきを超え現在過去未来を駆け巡るという壮大な世界観を構築している。
先ずはミライちゃんが生まれることによって、くんちゃんの知っている世界が変化すると、彼が生まれる前におとうさんとおかあさんの愛を独占していた犬のゆっこが人間の姿になり、くんちゃんの感じている感情が「嫉妬」であることを教える。
そして未来のミライちゃんが登場すると、そこからおかあさんが4歳児だった過去の時代へ、さらに戦争を生き抜いたひいじいちゃんの青春時代へ。
一人の人間の中には、それまで延々と受け継がれてきた家族の歴史がある。
いつもくんちゃんを叱るしっかり者のおかあさんにも、実はくんちゃんととても似たところがあり、ひいじいちゃんとひいばあちゃんは困難な時代に必死に命をつないでくれた。
まだ自我が固まっていないくんちゃんは、自分がひいじいちゃん、ひいばあちゃん、ばあば、じいじ、そしておとうさんとおかあさんの様々な選択の結果、存在していることを、ぼんやりとだが初めて理解する。
そして、自分が何者なのかを知るために未来へ。

当然ながら視点が4歳児だからと言って、子供向けという訳ではなく、むしろ実際の4歳児あるあるをよく知る子育て中、あるいは子育て後の親世代が一番楽しめる客層だと思う。
また子供がいなくても、誰もが一度は4歳児だったことがある訳で、ある程度自分の幼少期の記憶を持つ者、親の子育てを見てきた者なら誰もが感情移入できるようになっている。
ビビリなもので、さすがに新幹線でぶったりはしなかったが、くんちゃんのミライちゃんへの意地悪の数々は完全に身に覚えがあるので、今更ながらちょっと反省。
独り者の私が観ても、「ちょっと子供欲しいなあ」と思うくらいだから、若い夫婦やカップルが観ると、少子高齢化対策にもなったりするのかもしれない?

これは妹の誕生という未知の体験をきっかけに、自分が何者なのかを始めて意識する、くんちゃんの成長物語であると同時に、作者の反映であるおとうさん、おかあさんの“気づき”の物語。
さらには、「デジモンアドベンチャー」から「バケモノの子」までの、アニメーション作家・細田守の歴史も内包する集大成だ。
今回は職人的に“上手い”映画じゃないし、過去の細田作品と比べると娯楽性も高いとは言えない。
しかし、今現在作者が何を想い、何を描きたいのかはすごく伝わってくる、最高の作家映画だ。
細田監督には、彼にしか作れないこの路線を突き詰めて欲しい。
もちろん、再び相性抜群の奥寺佐渡子と組んで、エンタメ大作を作っても良いと思うけど。

今回は細田監督の故郷で、「おおかみこどもの雨と雪」の舞台となった富山の地酒、清都酒造場の「勝駒 純米」をチョイス。
ふくよかで上品な口当たりに、やや辛口でスッキリとした喉越し、適度な酸味のバランスが良いフルボディの酒。
蔵の規模が小さいこともあり、名声が高まる近年ではだんだん入手困難になりつつある。
映画同様に作り手の作家性が非常に強い酒だ。

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ショートレビュー「REVENGE リベンジ・・・・・評価額1600円」
2018年07月20日 (金) | 編集 |
皆殺しのエンジェル。

ドストレートなタイトルのまんま
砂漠の真ん中にある別荘で彼氏の友達のおっさんにレイプされた挙句、彼氏にも裏切られて殺されそうになった、マチルダ・ルッツ演じる主人公・ジェニファーの復讐劇。
荒涼としたロケーションから、てっきりアメリカ映画かと思っていたら、フランス映画だった。
ただし、セレブな彼氏のリチャードと二人の狩猟友達はフランス語話者で、彼女との会話は英語という設定。


自らをジャンル映画好きと語る新人の女性監督コラリー・ファルジャは、 最大限の屈辱と身体的な傷を負った主人公の復讐を、外連味たっぷりのビジュアルで描く。
ぶっちゃけプロットはありきたりだが、テリングのスタイルにすごく特徴的なクセがあるのだ。
安っぽい音楽に、レイプ男を爬虫類に見立てる様なシャレード表現も、どこか70年代プログラムピクチュア風で、血糊の量も半端ない。
明らかに狙ってB級テイストで作っているから、もろもろぶっ飛んだディテールも突っ込みは無しで。

野獣と化した三人の男たちに追われたジェニファーは、口封じのために崖から突き落とされ、あろうことか枯れ木に突き刺さってしまう。
これで生きているのも相当に無理があるが、一応刺さったおかげで地面への直撃は避けられ、うまい具合に重要な臓器にはダメージを受けなかったと考えればまあ何とか納得はできる。
その状況から、これまた強引な方法で脱出すると、いよいよとどめを刺そうとする男たちとのバトルシークエンスが始まるのである。

最初はチュッパチャプス舐めながら、いかにもバカっぽく登場するマチルダ・ルッツが、極限状態の中戦闘モードに覚醒し、女ランボーと化するとむっちゃカッコいい。
この種の映画には、キャラクターのギャップが大切ということを良く分かった演出だ。
ド素人のはずなのにジェニファーの戦闘適性が凄過ぎるとか、ナゼか応急処置の知識を授けてくれる幻覚が便利この上ないとか、あの処置じゃ外傷はともかく内出血が止まらないとか、そもそも岩砂漠を裸足で歩けるワケが無いとか、いろいろとご都合主義連発なのだけど、この種の映画とはそういうものだから気にしない。
いやもう彼女は、男たちを懲罰するために超自然的な力で蘇った死の天使と思っても良いだろう。


とことん卑劣なクズたちの、情けない死にっぷりも容赦無し。

瀕死の重傷を負った女に、とどめを刺す。

イージーな人間狩りのつもりが、いつの間にか逆に狩られていることに気付いた男たちの絶望感を強調するのは新鮮。
日本では残念ながらボカシが入ってしまうが、フルチンを晒してぶっ殺されるとか、男目線では悲惨すぎる。

ファルジャ監督は、男全般に恨みでもあるのだろうか(笑

回廊の様な家の構造を生かした、スプラッタなクライマックスもなかなか良くできていて、下手なホラー映画より多い流血までを効果的な伏線として生かすのは素晴らしい。
レイプリベンジものは数あれど、ジャンル映画好きは観逃せない快作だ。

今回は背中ならぬお腹に羽を生やしたジェニファーのイメージで、「エンジェル・フェイス」をチョイス。
ドライ・ジン30ml、アプリコット・ブランデー15ml、カルヴァドス15mlをシェイクしてグラスに注ぐ。
フルーツの甘い香りと柔らかな味わいが特徴的なスタンダードなカクテル。
スッキリしていて飲みやすいのだが、強めの蒸留酒ばかりをミックスした一杯で、当然ながら度数は非常に高い。
飲み過ぎると死の天使の顔を覗き見てしまうかも。

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菊とギロチン・・・・・評価額1750円
2018年07月18日 (水) | 編集 |
ただ、自由に生きたかった。

かつて実在していたアナーキスト集団「ギロチン社」と、ワケありの女たちが集う女相撲の一座を描く青春群像劇。
瀬々敬久監督が「ヘヴンズ ストーリー」同様のインディーズ体制で作り上げた、上映時間実に3時間9分という大長編だ。
関東大震災直後の不穏な時代を舞台とした物語は、閉塞感にあえぐ人々の生々しい感情を乗せて疾走する。
新人の力士・花菊を演じる木竜麻生をはじめ、韓英恵、東出昌大、寛一郎らが時代に翻弄される若者たちを熱演し、渋川清彦、大西信満、井浦新らベテランが脇を固める。
共同脚本は「サウダーヂ」の相澤虎之助。
まるで昭和のATG作品を観ているかの如く、圧倒的な熱量を持つ大怪作である。

大正時代の終わり。
関東大震災後の日本は、不況に見舞われ社会不安が高まる中で次第に軍部の力が強まり、自由で煌びやかな時代の気風は失われつつあった。
そんなある日、東京近郊の村に女相撲「玉岩興行」がやって来る。
この一座には、夫の暴力に耐えかね家出して入門した新人力士の花菊(木竜麻生)や、朝鮮出身の十勝川(韓英恵)ら、様々な過去を持つ訳ありの女力士たちが集まっていた。
同じ頃、中濱鐵(東出昌大)、古田大次郎(寛一郎)らアナーキスト集団ギロチン社の面々も、近くの漁師小屋に潜伏していた。
彼らは大杉栄(小木戸利光)たちが、震災のドサクサに紛れて甘粕正彦憲兵大尉に殺害された甘粕事件の報復テロに失敗し、官憲から追われていたのだ。
気晴らしに女相撲を見に出かけた中濱は、彼女たちのひたむきな相撲に心を打たれ、取材と称して花菊と十勝川に接触し、次第に打ち解けてゆくのだが・・・・


瀬々敬久監督は、公式ホームページで本作を企画した意図をこう綴っている。
『十代の頃、自主映画や当時登場したばかりの若い監督たちが世界を新しく変えていくのだと思い、映画を志した。僕自身が「ギロチン社」的だった。数十年経ち、そうはならなかった現実を前にもう一度「自主自立」「自由」という、お題目を立てて映画を作りたかった。』
なるほど、ギロチン社は実在した集団、女相撲そのものは実在だが映画に登場する一座はフィクション。
前者は作り手そのもの、彼らに力を与える後者は「自由」を象徴する創作という訳か。

物語は大正12年、女相撲の興行中に関東大震災が起こるところから始まる。
嫁いだ姉が乳飲み子を残して死に、やむなく姉の代わりに再婚させられた花菊は、粗野な夫の暴力に悩み、土俵で躍動する女力士たちを見て、「強くなりたい」と家出して入門する。
女相撲の存在は聞いたことがあったが、江戸時代から昭和30年代まで存続していたこと、なぜか山形にルーツをもつ団体が多かったのは知らなかった。
昭和30年代というと、プロレスブームの時代だが、女相撲の消滅と女子プロレスの勃興が重なるのは偶然なのだろうか。
本作の女相撲一座「玉岩興行」には、様々なバックグランドを持つ女たちが集う。
花菊と同じように夫から逃れて家出してきた小桜、朝鮮出身で元遊女の十勝川、沖縄出身の与那国や一座の親方の姪の勝虎。
女が自由に生きられない時代、出自を問わず、各地を巡る女相撲の一座は、ある種の駆け込み寺の様な役割を果たしていたのかもしれない。

一方、中濱鐵をはじめとするアナーキスト集団、ギロチン社の面々は、口では「革命」を叫んではいるものの、企業恫喝をしては金をせしめ、酒と女に使い果たす自堕落な日々を送っている。
大物アナーキストの大杉栄が甘粕正彦に殺害されると、一応報復を企てるものの、本人は逮捕されて塀の中なので、代わりにまだ高校生の弟を狙うという情けなさ。
さらに銀行からの資金強奪を狙って失敗、古田大次郎が誤って行員を刺殺してしまい、揃って逃亡者となってしまう。
彼らが潜伏し女相撲と出会う大正時代の船橋が、片田舎の漁村にしか見えないのが面白いが、当時の写真を見ると本当にあんな感じだから、現代のゴミゴミした風景しか知らないと新鮮だ。
理想はあるが行動が伴わないアナーキストの男たちは、地に足をつけ懸命に戦って生きている女相撲の力士たちと出会って変わってゆく。

物語の軸となるのは女相撲の花菊と十勝川、ギロチン社から中濱鐵と古田大次郎の四人。
だが、彼らが明確な主人公という訳ではなく、例えば朝鮮人を敵視する在郷軍人会だとか、勝虎と一座の行司を務める三治の恋だとか、花菊を取り戻しにくる夫の話だとか、様々な人物のサブプロットが複雑にからみあう。
3時間を超える上映時間に、凄まじい情報量が詰め込まれた物語は、教科書的な意味では構造と展開がかなり歪。
時系列がすっ飛ばされ、「えっ?そこ描かないの?」とか「あれはどうなったの?」的に落とされている部分、逆にそこだけ異様に密度の濃い部分があるのだが、これはおそらく狙いだろう。
人物描写をある程度表層にとどめ、言いたいことはとことん言う荒々しい作りが、より物語の生っぽさを強調し、リアリティを与えている。

震災の後は、キナ臭い時代が来る。
この映画の描き出す情景が、3.11後の右傾化する現在の日本の合わせ鏡なのは明らかだ。
女力士たちとギロチン社の青年たちが感じている閉塞は直接的には違うものだが、「自由に生きたい」という両者の渇望は共通。
しかし、正体のよく分からない、この国の“国体”なるものがそれを許さない。
「誰もが誰かに仕えてるのよ」とは「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」の名台詞だが、この映画の登場人物たちも同じ。
国体の頂点たる大正天皇、摂政の皇太子を含めて、この国に真に自由な人間はどこにもいない。

もっとも、その現状に対するスタンス、抗い方は異なる。
女に生まれたというだけで、男性優位社会で理不尽な仕打ちを受けてきた女たちは、「強くなりたい」と願い、自らの肉体を鍛え上げ、女相撲という居場所を守ろうとする。
一方、「社会を変革し、より良き世界に導きたい」と願うが、その術をしらない男たちは、風車に立ち向かうドン・キホーテの様にジタバタと暴れ、自滅してゆく。
女力士たちと男たちが、内面に沸々と煮えたぎるエネルギーを爆発させるように海岸で踊り狂う中盤のシーン、文字通りに権力とぶつかり合うラストの対比は本作の白眉と言える。

物語の中の立ち位置が、ある瞬間に入れ替わる工夫もいい。
特に、在郷軍人会のエピソードは極めて象徴的だ。
彼らは1918年から22年までの間、ロシア革命に干渉するためにシベリアに日本軍を展開させたものの、結局三千人以上と言われる甚大な犠牲者を出しただけで、何も得られなかったと評される“シベリア出兵”の帰還兵。
無意味な戦争に駆り出された挙句、今度は震災後のデマに踊らされて自警団として無実の朝鮮人を虐殺する。
一見すると残虐な抑圧者に見える彼らは、国体全体から見ると末端の捨て駒に過ぎない。
大西信満演じる在郷軍人会の指揮官は激しい反共・反朝鮮の思想を持ち、朝鮮出身の十勝川を捕えて拷問するのだが、それは自らのやってきたことの無意味と、罪悪感の哀しい裏返しなのである。

「菊とギロチン」は、女相撲の力士とアナーキストの青年たちの激しく刹那的青春を通して、現在の日本に“自由”を問う。
果たして今のこの国は、人々が性差や民族、思想や哲学の違いを超えて、本当の意味で自由に生きることが出来るのか。
もちろん、全体を見ればこの映画の時代からは大きく前進しただろうが、逆に硬直してしまっている部分もあるまいか。
奇しくも大相撲の時代錯誤な女人禁制が大きな批判を浴びた2018年に、この作品が生まれたのも面白い偶然。
ひとつだけ確実に言えるのは、ほぼ100年前の物語が、鋭い現在性を持って語りかけて来るという事実は、どう考えても憂うべきということだろう。

それにしても、今年は“怪作”としか形容できない邦画が異様に多い。
本作では永瀬正敏がナレーションを担当していることもあり、石井岳龍監督のアナーキー時代劇大怪作「パンク侍、斬られて候」とちょっと印象が被る。
この狂った熱量を持つ2本が同時期に公開されてるのも、よく考えると凄いことだ。
ちなみに3時間9分はの上映時間は全然長くはなく、むしろ魅力的な登場人物の物語を持っと観ていたかった。

今回は女相撲発祥の地と言われる山形から、寿虎屋酒造の「三百年の掟破り 純米大吟醸無濾過槽前原酒」をチョイス。
搾り出された酒に、一切何も手を加えないそのままの味わい。
奇妙な名の由来は、江戸時代の享保年間の創業以来、必ず火入れ殺菌してから出荷という300年間不変だった掟を破って作ったお酒だからだそう。
洋梨を思わせるフワリとした吟醸香と、微発泡のまろやかな口当たり。
ボディが強くて、それでいてスッキリしたキレもある。
やっぱ時には300年の家訓を破るくらいしないと、新しいものは生まれないな。
アナーキズム万歳!

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