酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
■ お知らせ
※基本的にネタバレありです。ご注意ください。
※当ブログはリンクフリーです。内容の無断転載はお断りいたします。
※ブログ環境の相性によっては、TB・コメントのお返事が出来ない事があります。ご了承ください
エロ・グロ・出会い系のTB及びコメントは、削除の上直ちにブログ管理会社に通報させていただきます。 また記事と無関係な物や当方が不適切と判断したTB・コメントも削除いたします。
■TITLE INDEX
タイトルインディックスを作りました。こちらからご利用ください。
■ ツイッターアカウント
noraneko285でつぶやいてます。ブログで書いてない映画の話なども。
■ FILMARKSアカウント
noraneko285ツイッターでつぶやいた全作品をアーカイブしています。
ショートレビュー「ショコラ 君がいて、僕がいる・・・・・評価額1600円」
2017年02月01日 (水) | 編集 |
最強のふたり。

映画の発明者として知られるリュミエール兄弟が残した作品の中に、二人の芸人がアクロバティックな芸を披露している物がある。
この映画に登場しているのが、本作の主人公であるショコラとフティットだ。
2人は19世紀が終わる頃、フランスの小さなサーカスで出会う。
道化師として限界を感じていたフティットは、「アフリカから来た危険な野蛮人」を持ち芸としていたショコラをスカウトし、コンビを結成。
まだフランス本土にアフリカ人が珍しかった時代、異色の二人組は大人気となり、やがてパリの一流サーカスに引き抜かれ大ブレイク。
道化師の芸というよりも、今でいう体を張ったコントの様なスタイルの彼らのステージは新鮮な笑いを誘い、パリ中に知らない人がいないほどの大スターとなるのである。
しかし成り上がり者のお約束。
一発当てたショコラは、浪費と遊びに走り、過去の失敗を知るフティットは、そんな彼を諫めるも耳を貸さず。

彼等の転機は、身分証を持たないショコラが、警察に逮捕された時。
冷たい牢獄に留め置かれたショコラは、どんなに人気者になっても、自分はフランス社会ではよそ者に過ぎないことを思い知らされるのだ。
彼は次第に「白人に蹴飛ばされる愚者の黒人」という自分のキャラクターを疑問に感じるようになり、現実に抗うように酒とギャンブルに逃げこむ。
そんなショコラを、フティットは支え続けるものの、二人の間は次第にギクシャクし、遂にコンビは解消を迎えてしまうのである。
宵越しの金は持たず、来るもの拒まずのプレイボーイ、絵に描いた様な芸人体質のショコラと、ストイックなお笑いバカのフティットの、対照的なキャラクターが良いコントラスト。

お笑いというものは、基本的に他者への攻撃性を内包していて、今でもステロタイプを前提とした差別ギリギリのコントがあるし、いわゆるいじり芸なんて、芸人同士の関係を知らない人が見るといじめじゃないの?と思うものも多い。
2人の芸も、基本的に白人が抱く黒人へのステロタイプを元にしているのだが、それが知らず知らずのうちにショコラに屈辱を与えていることに、フティットは気づかない。
ショコラが成功に浮かれているうちは良かったが、彼が金銭的な成功以上の社会的な承認欲求に目覚めてしまうと二人の関係は崩れてしまう。
フティットと別れたショコラが俳優への転向を模索するも、同じ舞台人とは言っても当然ながら芸人と俳優に求められるスキルは異なり、結局のところ客寄せパンダ。
全力を出し切っても承認されない現実は、見てるこっちも心が痛くなる。
一方のフティットも、ショコラがいなくては、嘗ての様な人気者の地位を保てない。
ショコラとフティットは、自分たちが一心同体であり、二人そろって初めて一つの芸術であったことを、お互いを失って初めて気づく。
軽妙に展開する二人のアーティストのユーモラスな物語は、やがてチャップリンの悲喜劇の様な、ビターな味わいと共に静かに幕を閉じる。
チャップリンの数ある名言の中に「To truly laugh, you must be able to take your pain, and play with it!.(あなたが本当に笑うためには、あなたの痛みを取って、それで遊べるようにならなければなりません。)」という印象的な言葉がある。
ショコラの痛みを取り、遊べるようになるのには、時代が少し早すぎたのかもしれない。
そういえば本作のロシュディ・ゼム監督は「チャップリンからの贈りもの」で喜劇王の遺体を盗み出す、マヌケな泥棒を演じていたっけ。

ビターな物語の後には甘いお酒を。
今回は主人公にちなんで「ゴディバ チョコレート・リキュール」をチョイス。
そのままだとかなり甘いので、氷で満たしたグラスに注いで、オンザロックで飲みたい。
チョコレートの味がしっかりしているので、カクテルにして色々組み合わせても面白いお酒だ。

ランキングバナー記事が気に入ったらクリックしてね






マグニフィセント・セブン・・・・・評価額1600円
2017年01月31日 (火) | 編集 |
誰のために、銃を抜くのか。

予想以上にイイ(・∀・)! 
伝説的な「七人の侍」「荒野の七人」をベースに、21世紀にリブートした西部劇。
主演のデンゼル・ワシントンと、漢の映画を得意とするアントワン・フークア監督とのコンビは、ワシントンに主演男優賞のオスカーをもたらした「トレーニング・デイ」から「イコライザー」を経て通算三本目。
本作でも、それぞれ訳ありの7人を束ねるワシントンがやたらとカッコいい。
人種的に旧作よりもグッとバラエティ豊かになった7人のガンマンvs圧倒的に強大な敵との戦いは大いに盛り上がる。
だが、クリント・イーストウッドが、フロンティアの神話としての西部劇を“殺した”「許されざる者」からはや四半世紀。
ネオ西部劇の時代に生まれた「マグニフィセント・セブン」は、一見すると映画史上の古典である旧作に忠実ながら、徐々に全く違った顔をのぞかせてくるのである。

1879年。
ローズ・クリークの町は、冷酷非道な悪漢バーソロミュー・ボーグ(ピーター・サスガード)に苦しめられていた。
地下に眠る金の採掘のため、ボーグは町全体の立ち退きを命令し、逆らう者は容赦なく殺され、教会すら燃やされた。
夫を殺されたエマ・カレン(ヘイリー・ベネット)は、町を守るためにガンマンを雇うことを決意。
探しに出た町で見かけた凄腕のガンマン、サム・チザム(デンゼル・ワシントン)に助けを求める。
敵がボーグであることを聞いたチザムは依頼を快諾。
流れ者のギャンブラーのジョシュ・ファラデー(クリス・プラット)、昔なじみの狙撃手グッドナイト・ロビーショー(イーサン・ホーク)、ナイフ使いのビリー・ロックス(イ・ビョンホン)、先住民殺しで知られるジャック・ホーン(ヴィンセント・ドノフリオ)、コマンチの戦士レッド・ハーベスト(マーティン・センズメアー)、メキシコ人ガンマンのヴァスケス(マヌエル・ガルシア・ルルフォ)を仲間に引き入れ、ローズ・クリークに帰還。
ボーグの息のかかった保安官たちを退けると、町民たちを訓練し、ボーグ一派の襲撃に備える。
やがて、地平線の向こうからボーグの“軍隊”が現れ、町の運命をかけた決戦が始まる・・・



一応、原題は「荒野の七人」と同一タイトルで、プロットの大まかな流れは踏襲しているものの、設定は全くの別物だ。
メキシコの寒村を舞台に、食糧を奪いに来る盗賊団との戦いを描いた旧作に対して、舞台は南北戦争後のアメリカ西部へと移り、悪漢は金の採掘のために武力で町を乗っ取ろうとする悪徳実業家に変更されている。
食糧ではなく、苦労して開墾した土地を奪われそうになった人々が、ガンマンを雇って阻止しようという訳で、この設定はシェールガスの開発のために田舎町を丸ごと買収しようとする業者と、反対する住民との葛藤を描いた「プロミスト・ランド」を思わせる。
ただ生きるか死ぬかであった旧作に比べ、歯止めなき資本主義の歪みを取り入れた今風の世界観と言えるだろう。

物語の背景は大きく変更されているが、7人のキャラクターには「荒野の七人」と「七人の侍」との共通点が感じられる。

黒ずくめのデンゼル・ワシントンは、もちろんユル・ブリンナーで、よく見ると髭のカタチが志村喬と同じ。
クリス・プラットは、スティーブ・マックイーンであり稲葉義男で、三船敏郎も入っている。
血で手を汚した人生の報いに怯え、人を撃てなくなるイーサン・ホークは、ロバート・ヴォ―ンと加東大介を足して二で割ったようなキャラクター。
ナイフの達人、イ・ビョンホンは非常に分かりやすく、ジェームズ・コバーンと宮口精二だ。
マーティン・センズメアー演じるコマンチの戦士は、ホルスト・ブッフホルツと木村功のキャラクターをアレンジ。
巨漢のヴィンセント・ドノフリオは、チャールズ・ブロンソンと千秋実的なキャラクター。
マヌエル・ガルシア・ルルフォは、仲間になる経緯がちょっとヴォ―ンっぽく、メキシコ人設定はブロンソンとも被るが、ほぼオリジナルと言っていいキャラクターだ。
まあ全員がピッタリ同じという訳ではなく、キャラクターを分解したうえで再構成し、人種がバラバラの“多国籍軍”化されている。
ガンマンを探しに来る村人が、旧作の男性からヘイリー・ベネット演じる女性に変更され、彼女が物語の終盤で大きな役割を果たすのも含めて、いかにも現在のハリウッド映画だ。


映画は、前半ほぼ1時間弱で7人の仲間を集め、中盤はド素人である住人の訓練と町の要塞化、最後の30分が決戦というシンプルで分かりやすい構造。
町の住人たちと7人の交流や恋愛要素など人間ドラマの部分がカットされた反面、アクション描写はボリューム満点。
前半の随所に盛り込まれたガンファイトは、ガンマンそれぞれのキャラクターを反映し、時にはクールに、時にはコミカルに色づけられていて楽しい。
そして、クライマックスの迫り来るボーグの軍団と、7人が率いる町との最終決戦はそれまでタメを作っていた分一気呵成、30分に渡る怒涛の活劇はまさに手に汗握るド迫力だ。
力任せに突進してくる敵を、様々な工夫で退けるバトルシークエンスは「荒野の七人」より、むしろ「七人の侍」の影響を強く感じさせる。
敵の隠し玉であるガトリング砲も、ちょうど「七人の侍」における“種子島”の役割に符合し、両作品からうまい具合に良いとこ取りした作品なのだ。

ただ、終盤に突然明かされるサム・チザムの過去設定にはちょっと驚いた。
舞台が南北戦争後、そしてインディアン戦争末期のアメリカに移ったことで、登場人物たちにそれぞれ嘗ての敵味方という因縁が生まれたのはまあいい。
しかし、ボーグをチザムの家族の仇にしてしまったのは如何なものか?
復讐の連鎖の設定は「七人の侍」「荒野の七人」というよりむしろマカロニ的で、チザムが助っ人の依頼を受けた動機が、最初から私怨を晴らすことだったように見えてしまい、戦いの意味が矮小化される。
現実的には敵との因縁があった方が、無私の戦よりもリアルなのは確かだろうが、圧倒的不利な戦に大した見返りもなく、義によって参戦するからこそ、マグニフィセント・セブン(素晴らしき7人)なのではなかろうか。

一見古典的に見えた物語も、実はイーストウッド以降のネオ西部劇のくびきからは逃れられず、だからこそ本来の物語のテーマそのものであり、「荒野の七人」も踏襲した「七人の侍」の「今度もまた負戦だったな・・・いや、勝ったのはあの百姓達だ。わし達ではない」に当たる台詞が無いのである。
これもモダナイズだと言えなくもないが、個人的にはせっかく21世紀にこの物語を作るのなら、単純なリーダーの復讐設定より、色々ワケありな他の6人の過去をもうちょい描いて、それぞれの戦う理由を多面的に見せた方が新しかった様に思うのだが。
まあそうは言っても、エンドクレジットでやっと流れるあのテーマ曲に胸熱になり、一昨年事故死したジェームズ・ホーナー大先生の最後のスコアに涙。

スケール感のあるエンタメ西部劇大作として、十分に楽しめる作品だ。

今回は、本作と同じ1879年にグスタフ・ニーバムによって創始された伝説のワイナリー「イングルヌック」をルーツに持つ、レイル・ヴィンヤーズの 「ジョージア ソーヴィニヨン・ブラン」をチョイス。
ソーヴィニヨン・ブラン100%の白は、複雑かつエレガントな香りが特徴。
スパイシーでドライな味わいはとても上品で、美味しいカリフォルニア・キュイジーヌと一緒にいただきたい。
ちなみに、現在「イングルヌック」の商標を所有しているのは、すっかりやり手のワイン屋のオヤジとなったフランシス・コッポラだというから面白い。

ランキングバナー記事が気に入ったらクリックしてね






ショートレビュー「静かなる叫び・・・・・評価額1650円」
2017年01月26日 (木) | 編集 |
絶望の果てに、見出した希望。

1989年12月6日。
フレンチ・カナダ最大の都市、モントリオールにあるモントリオール理工科大学に武装した男が侵入し、14人を虐殺、14人に重軽傷を負わせるという凄惨な事件が起こった。
本作は実際に起こったこの事件をモチーフとし、異才ドゥ二・ヴィルヌーヴが2009年に発表した旧作だが、素晴らしい出来栄えである。
学生たちで賑わうコピー室に、銃声が轟くショッキングなファーストカットから全く目が離せず、77分のコンパクトな物語は緊張感を保ったまま終始スリリングに展開。

豪雪のモントリオールに、モノクロのシャープな映像が絶妙に映える。

やはりこの人は天才だ。


この事件が特異なのは、他の学校乱射事件と違って、女性ばかりが殺されていること。
殺害された14人は全員女性で、怪我を負った14人のうち10人も女性。
犯人は自殺しているが、極端な反フェミニズム思想の持ち主で、“男性の職場”である理工系志望の女子学生に憎しみを募らせていったと考えられている。

映画は、犯人の青年、被害女性の一人で航空工学を志望するヴァレリー、彼女に心を寄せているらしい男子学生のジャン=フランソワの3人をフィーチャーし、事件の前、中、後で3人に何が起こったのかを、一部時系列を前後させながら描く。

犯人はなぜこんな事件を起こしたのか?
映画では、フェミニストに人生のチャンスを奪われたと思い込んでいる事が、彼の書いている“遺書”によって示唆されるが、具体的にどんなチャンスだったのかは描かれない。
実際の犯人は、父親によって幼少期から女性蔑視思想を教え込まれていたそうで、ありもしない被害妄想を募らせての犯行だったのかもしれない。
いずれにせよ、彼にとっては思い通りにならない人生の、憎しみと怒りのはけ口が女性であって、航空工学を志望するヴァレリーのような女子学生は、女であることを利用して男の職場を奪う憎きフェミニストという訳だ。

もちろん、それは一方的な思い込みに過ぎず、実際の理工系の女子学生は、男社会の厚い壁に苦しんでいるのだが、犯人にはそんな彼女たちを思いやる想像力は無い。
成績優秀なヴァレリーも、志望する企業の担当者に「子供が出来て辞められたらたまらない」という、現在ではセクハラとされる発言をされて幻滅している。
彼女は、教室に閉じ込められ最初に銃撃された9人のうちの一人で、重傷を負いながらもなんとか生き残る。
一方ジャン=フランソワは、負傷した別の女子学生を救い出すも、ヴァレリーへの銃撃を許してしまったことに自責の念を感じている。
共に凄惨な事件を経験した2人は、永遠に変わってしまった世界で、決して癒えない心の傷とどう向き合っていくのかという新たな葛藤を抱えることになるのである。

銃撃事件そのものは事実だが、映画に登場するキャラクター名は架空の存在。
だが実際に、生き残った被害者の多くは深刻なPTSDに悩まされ、事件にかかわったトラウマに耐えられず、自ら命を絶った者もいるというから、ヴァレリーとジャン=フランソワは何人もの被害者たちの、その後の人生から導きだされたキャラクターなのだろう。
そして、登場人物それぞれの母なる存在に対するアプローチも、実にヴィルヌーヴらしいポイント。
犯人の遺書で言及される母。
事件後にジャン=ピエールが、ある目的で訪れる実家の母。
そして、事件の記憶から立ち直ろうとしているヴァレリーの体に起こったこと。
理不尽な憎悪によって、無残に撃ち倒された若者たち。
絶望の果てに、僅かに見える光に救われる。

しかし、事件から四半世紀、昨年の6月にはフロリダ州のゲイナイトクラブで、同性愛者を狙った銃撃事件が起こり、実に50人が死亡し、53人が負傷するという米国史上最悪の惨事となった。
そして2017年の世界は、憎しみを煽り続けた男が世界最高の権力者の地位につくという、厄介な時代を迎えたばかり。
誰もが自分らしく生きられ、理不尽な憎しみと暴力が一掃される日は、まだまだ遠そうである。

今回は、ヴィルヌーヴの故郷カナダ、ケベックの地ビール「ボレアル」をチョイス。
数種類あるのだけど、オススメはジンジャーテイストでスッキリドライなLa Blanche。
シロクマのラベルもオシャレなのだけど、残念ながら日本には公式輸入されていない。
ケベックへ旅行へ行ったら飲んでみてほしい。

ランキングバナー記事が気に入ったらクリックしてね




沈黙 -サイレンス-・・・・・評価額1750円
2017年01月24日 (火) | 編集 |
神はどこにいるのか?なぜ沈黙するのか?

江戸初期、キリシタン弾圧下の日本を舞台に、棄教した師を探すため日本に潜入したカトリック司祭たちの苦悩を描く遠藤周作の傑作小説「沈黙」を、巨匠マーティン・スコセッシが20年来の執念を実らせて映画化。
正に入魂の一作で、プロットは原作小説に驚くほど忠実に、パワフルなテリングで全くダレずに162分の長尺を描き切った。
原作同様に書簡のモノローグをうまく使う事で、ダイジェストを感じさせることなく、巧みに映像作品として再構成されている。
日本という“信仰の沼”で、神を求め続けたカトリックの司祭たちの心に、いったい何が起こったのか?
信仰の本質と人間のあり方を問う、ヘビー級の力作である。
※核心部分に触れています。

17世紀、ポルトガル。
イエズス会の本部に、日本で長年布教活動をしていた司祭のフェレイラ(リーアム・ニーソン)が、拷問に耐えかねて棄教したという知らせが届く。
フェレイラの弟子のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライバー)は、師が信仰を捨てたことが信じられず、ことの真相を突き止め、弾圧下にある信徒を導くために、日本に潜入することを願い出る。
マカオまで到達した二人は、日本人漂流者のキチジロー(窪塚洋介)を案内人として、長崎からほど近いトモギ村へとたどり着き、隠れキリシタンの村人から大歓迎を受けるが、フェレイラのことは誰も知らないと言う。
二人はトモギ村に身を隠しながら、五島の村にも赴いて、キリシタンの村人に告解や洗礼の儀式を行って過ごす。
しかしある時、トモギ村が役人の捜索を受け、十字架に唾を吐けという命令に応じなかった信徒のモキチ(塚本晋也)ら三人が水磔の刑で処刑される。
身の危険を感じたロドリゴとガルペは二手に分かれ、五島に逃げたロドリゴは山中をさまよっている時にキチジローと再会。
だが、小心者のキチジローはロドリゴを奉行所に密告し、彼は囚われの身となる。
ある日、通詞(浅野忠信)に仏教の寺へと連れて行かれたロドリゴは、そこでずっと探し求めていたフェレイラと再会するのだが・・・・


遠藤周作の原作を読んだのは20年くらい前。
私はクリスチャンではないが、子供の頃に近所のプロテスタント教会の日曜学校に行っていたこともあって、キリスト教には以前から興味があった。
今にして思うと「沈黙」は、この宗教のディープな部分に惹かれてゆくきっかけとなった小説だったかも知れない。
人間にとって信仰とはなんぞや?神はどこにいるのか?という内なる問いに苦悶する司祭の物語は、当時私の中にあった信仰への疑念とピタリとはまり、宗教観にも大きな影響を受けた。
この傑作小説を、マーティン・スコセッシが映画化すると聞いたのはもうだいぶ前のこと。
シチリア系イタリア人移民の子としてニューヨークで生まれ、教会の大きな影響下で育ったスコセッシが、子供の頃カトリックの司祭を志していたのは良く知られた話だ。
彼のキリスト教観を考える上で、29年前に大センセーションを巻き起こした「最後の誘惑」に触れない訳にはいかない。
少し長くなるが、「沈黙」を考察する前に振り返ってみたい。
この作品でスコセッシは、上流階級であるローマ人たちをイギリス英語で喋らせ、キリストとその弟子たちをニューヨーク訛りの英語とすることで、差別化するのと同時に作品を彼自身の世界へと引き寄せている。

新約聖書には、客観的に見ると幾つもの矛盾がある。
だが、聖典に疑問を唱えることは長年に渡ってタブーとされてきた。
ギリシャの小説家、ニコス・カザンザキスが1951年に発表した「最後の誘惑」は、新約聖書に対して、大胆な解釈を加えることで矛盾を解消したのだが、彼の描き出したあまりに人間的なキリスト像はカトリック教会からは禁書扱いされ、ギリシャ正教会はカザンザキスが亡くなった時、キリスト教墓地に埋葬することを拒否した。
そんないわくつきの小説を比較的忠実に映画化したものだから、当然ながら教会とキリスト教右派の信徒からは大反発をくらい、各地で上映反対運動が繰り広げられたのだ。
しかし、この物語が聖書を読んだ人が感じる疑問に対して、キッチリと納得できる解を与えてくれることは事実である。
例えば、ユダとは何者だったのか?なぜキリストを裏切ったのか?
キリスト自身は人間としての自分と、神の子としての神聖をどう考えていたのか?
そして、ゴルゴダの丘で磔になるときに「神よ、神よ、なぜ我をお見捨てになるのですか!」と疑問を口にしながら、その後「すべては成し遂げられた」と満足して死んでしまうのはなぜか?

「最後の誘惑」はこの二つの言葉の間に、驚くべき“脚色”を加えている。
キリストが神に問い掛けた時、彼の前に天使と名乗る少女が現れ、「神はあなたを試されただけよ」と十字架から解き放つ。
解放されたキリストはマグダラのマリアと愛し合うが、彼女は神によって天に召されてしまう。
悲しみにくれるキリストを、天使はラザロのマリアのもとに導き、彼は彼女と子供を作ってすっかり世俗的な人生を送るのである。
そんなある日、彼はイエスの死と復活を説くパウロに出会い、「私がイエスだ。でたらめを広めるのはよせ」と告げるのだが、パウロは「私のイエスはもっと偉大な人だ」と冷たく突き放す。
そして長い年月が流れ、エルサレム滅亡の日。
死の床にあるキリストの元に、弟子たちが姿を現し、ユダが彼を断罪するのだ。
「なぜ十字架を逃げた?新しい秩序となるべき人が国を滅ぼした」
そしてユダは告げる。
「あの天使の正体は悪魔だ!」
真実を知ったキリストが神に謝罪し、「どんな苦痛にも耐えます、私を救世主にして下さい!」と祈ると、彼の意識はゴルゴダの丘の十字架に引き戻され、ここで初めて「全ては成し遂げられた」と呟くのである。
この作品には平凡な人間として生き、死の恐怖におののきながらも自らを生贄とすることで全人類の罪を引き受け、遂に神の子となるキリストの複雑かつ強烈な葛藤が描かれており、キリストとの同化を求める「沈黙」のロドリゴの葛藤と比較してみると非常に興味深い。

マフィアと教会が幅を利かす移民社会で生まれ育ったスコセッシにとって、暴力と愛、悪と正義は背中合わせ。
彼にとっての信仰とは、人間たちが様々な矛盾に葛藤する時、心の内に見出す神の導きなのかもしれない。
本作でロドリゴとガルペが日本行きを願い出る理由も、殉教すら厭わないはずの師が拷問耐えかねて“転んだ”という矛盾に直面したため。
師の捜索と虐げられた信徒に福音をもたらすという情熱に駆られ、遥か極東の島国まで来たものの、熱意だけが空回りしてなんの希望も未来も見いだせない。
救うどころか、自分たちが来たことで信心深い信徒が処刑されてしまったという矛盾。
日本人キリシタンたちを襲う、余りにも理不尽で残酷な運命を目の当たりにし、それでも沈黙する神に対して、ロドリゴは少しずつ疑念を募らせる。
神は本当にいるのか?もしかしたら自分は、存在しないものに空虚な祈りを捧げているのではないか?
神聖の矛盾に関するロドリゴの内的な葛藤は、師であるフェレイラの言葉によって更に深まる。
再会したフェレイラは、「日本は沼だ」という。
どんなにキリストの愛という苗を植えても、全て変質して腐ってしまう。
一見すると敬虔な信徒に見えるキリシタンの農民たちは、実は彼らなりに解釈したキリスト教とは似て非なる独自の宗教を信じているに過ぎないのだと。
頑なに否定するロドリゴも、自らの心に生じた亀裂が次第に大きくなるのを感じざるを得ない。
そして遂に、自らの棄教と信徒の命との取引という究極の決断を迫られた時、ロドリゴは内なるキリストに導かれ“転ぶ”のだ。

ここまで、基本的に原作に極めて忠実に展開する物語は、棄教した後の最終局面で大きく解釈を変えてくる。
この部分は原作と映画というよりも、日本人とアメリカ人であるスコセッシの間で物語の読解が少し異なっている様に思う。
神は沈黙しているのではなく、ロドリゴの中で一緒に苦しんでいた。
原作では、元々キリストとの同化を求めていたロドリゴが、棄教の瞬間に神との新たな関係を見出して「私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ」と悟り、その後は江戸の切支丹屋敷の役人の日記として、ロドリゴが亡くなるまでの出来事が事務的に記されるのみ。
ところが映画では、オランダ人商人の書いた書簡として彼の長崎での暮らしや切支丹屋敷での出来事が、それまでのドラマの延長として描写され、人生の最期に彼がトモギ村でモキチにもらった十字架を抱いて死ぬことまでが描写される。

つまり映画版では、ロドリゴは密かにそれまでと同じ信仰を持ち続け、キリスト教徒として人生を全うしたことが示唆される。
彼は内心では教会も神も裏切ってはおらず、信仰は勝利したように見える。
だが、原作のロドリゴは「彼ら(教会)を裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違う形であの人を愛している」と言う。
これはある意味、前記したフェレイラの「日本は沼」論の肯定だ。
何度も裏切って、その度に告解に来るキチジローの顔を通して、弱く哀れな人々に寄り添う者としてのキリストを見たロドリゴの信仰もまた、日本という底なしの沼にあって変質している。
遠藤周作はキリスト教徒であることと、日本人であることの矛盾を終生追求した人で、彼の思想の根底には、日本人の求める宗教は現世と来世における利己的な救済であって、キリストの尊い自己犠牲によって、全人類が救われたとするキリスト教の教義とは本来相容れないとの考えがある。
信仰するからには自分の利益にならなければならないという宗教観は、日本だけでなく東アジア全体に言えることで、遠藤周作の考察が間違っていなかったのは、例えば人口の3割がキリスト教徒の韓国の教会が、シャーマニズムを取り込んで現世利益追求型に変質していったことでもよくわかる。
だから小説の「沈黙」では、ロドリゴが心にどんな秘密を抱えていたのかは、あえて曖昧なまま終わらせているのだが、モキチにもらった十字架というアイテムを加えてまで、ロドリゴのキリストへの帰依を強調したスコセッシは、日本人でないキリスト教徒として原作者の考察と葛藤に共感はしても、最終的には信仰の力を信じたいということなのだろう。

映画「沈黙 サイレンス」は、小説「沈黙」のエッセンスをマーティン・スコセッシがディープに考察し、自らの解釈で映像化した大力作である。
人間にとって信仰とは何か、人はどう生きるべきなのかという本作の問いは、今なお思想、宗教、人種などによる様々な抑圧が覆うこの世界に、大きな説得力を持って響く。
世界は激変していて、私たちだっていつ抑圧される側になるかわからない。
そんな時、私たちはキチジローになるのか、それともモキチなのか、ロドリゴなのだろうか。
観終わって余韻がじわじわと広がり、じっくりと考えさせられる。
それにしても、本作を成功に導いた大きな要因はキャスティングの妙だ。
主演のアンドリュー・ガーフィールドの青臭さが残る青年司祭も良いが、リーアム・ニーソンのフェレイラは、コスチュームもムードも嘗てニーソンが演じたクワイ=ガン・ジンを感じさせ、ダークサイドに落ちた説得力が倍増。
日本人キャストも皆素晴らしく、一見穏やに見えて、その底に恐ろしい嗜虐性を秘めた井上筑後守役のイッセー尾形や、ポーカーフェイスの通詞を演じた浅野忠信は原作のイメージ通り。
モキチ役の塚本晋也は、その風貌もあって、水磔のシーンでは本当にキリストに見えてきた。
そして、ロドリゴと好対照を形作り、影の主役ともいうべきキチジローは窪塚洋介のハマリ役である。
何度もなんどもロドリゴを裏切る、心弱きもう一人のユダは、それほど信心深くもないが、沈黙する神に対して心のどこかで畏怖を感じている、私たち大多数にとって一番感情移入しやすい人物。
新約聖書でユダをどうとらえるかが重要であるように、本作を読み解くキーパーソンはキチジローだ。

ちょっと面白かったのは、ロドリゴがトモギ村から逃げて、五島へ上陸するところで、廃墟となった村で野良猫の群れと出会うシーン。
原作でも野良猫がいる描写はあるのだが、こんな大群だとは思わなかった。
キリスト教は中世以来猫を忌むべき動物としてきて、魔女狩りの時代には魔女と疑われた女たちだけでなく、たくさんの猫も虐殺された。
まあその結果としてネズミが爆発的に増えて、ペストの大流行につながるから世の中因果応報なのだけど、ロドリゴにとって村人全員が連行された村で、魔女の眷属であり異端の象徴である大量の猫に迎えられるのは、地獄へと足を踏み入れるような意味があったのだろう。

今回は、キリスト教の儀式に欠かせない赤ワイン、栃木県のココファーム・ワイナリーの「のぼっこ」をチョイス。
小公子という早熟な品種をタンクで低温醗酵させ、発酵の後半には温度を落としてから瓶詰めされる。
発酵中に発生する微発泡が残り、豊かな果実の風味が味わえる。
気取らずに飲める、フレッシュな一本だ。

ランキングバナー記事が気に入ったらクリックしてね






ゾウを撫でる・・・・・評価額1650円
2017年01月19日 (木) | 編集 |
触っているのは、どんな映画?

一本の映画がクランクインするまでの、映画に関わる様々な人を描く群像劇。
元々2013年にネスレシアターのインターネット配信用に作られた短編を連結させ、未公開部分を含めて再構成した作品である。
「ゾウを撫でる」とは何とも不思議なタイトルだが、これはインドの寓話「群盲象を撫でる」から取られている。
王が盲人たちに象を触らせ、「これは何だ?」と問う。
盲人たちは、足だとか牙だとか象の色々な部分を触って、自分が触った物について異なった意見を話す。
彼らが言っていることは間違ってないが、全体を俯瞰しないと象の本当の姿は見えない。
様々な人々が感性と技術を持ち寄り、分業して作って行く映画は、正に細部が組み合わされることで姿を現す象だ。
本作では、監督、脚本家、俳優陣、さらにはフィルムコミッションの担当者や、大道具を運ぶトラックの運転手など、映画制作の中枢から末端まで多くの人物が登場し、それぞれのエピソードは、適度な距離を保ちながら詩的な世界観を構成する。
「ツレがうつになりまして。」の佐々部清監督と、高倉健の遺作となった「あなたへ」の脚本で知られる青島武は、極めてユニークな記憶に残る佳作を作り上げた。

寡作な映画監督の神林(小市慢太郎)が、15年ぶりの新作映画「約束の日」に着手し、脚本を担当する鏑木(高橋一生)と共に地方の海岸へロケハンに訪れる。
台本印刷会社で働く栃原(伊嵜充則)は、送られてきた原稿の作者がシナリオ学校で同期だった鏑木であることに気付き戸惑う。
栃原によって製本された「約束の日」の台本は、出演する俳優たちに送られてゆく。
子役出身で彼女との関係に悩む高樹(金井勇太)、きつい性格が周りに疎まれている大女優の椿(羽田美智子)、人気若手俳優の松波(中尾明慶)、そして元妻が亡くなったばかりのベテラン俳優の椎塚(大杉漣)。
ロケ地のフィルムコミッションの榊原(菅原大吉)は、撮影準備に奔走し、大道具を運ぶことになったトラック運転手の梨本(金児憲史)とヒッチハイカーの森川(山田裕貴)は、奇妙な形状の積み荷に興味を惹かれる。
ところがクランクインが迫るある日、突然主演女優の失踪が報じられる。
強い風が吹きすさぶ撮影現場で、準備を整えた共演者やスタッフは主演女優が現れるのを待ち続けるのだが・・・・


なるほど、これは「アメリカの夜」+「ゴドーを待ちながら」という訳か。
フランソワ・トリュフォー監督の「アメリカの夜」は本作と同じく、ある映画の制作に係る人々を描いた、いわゆるセルフ・リフレクシヴ・フィルムの代表作。
本作の劇中で言及される「ゴドーを待ちながら」は、劇作家のサミュエル・ベケットによる戯曲。
一本の樹が立つ田舎の街道で、ゴドーという人物の到着を、ひたすら待ち続ける二人の男を描いた不条理劇だ。
本作では、映画「約束の日」のロケ現場で、スタッフや俳優たちが、最後まで顔が明かされない主演女優の到着を待っている。
もう一本、劇中であるバーを訪ねた神林監督が、キープしたボトルに書くのが「羅生門の様な夜に」という言葉。
「羅生門」はもちろん登場人物の視点によって、同じ事件が全く別の顔を見せるという黒澤明の傑作。
これは不条理劇と多面性の構造を持つ、映画を愛する人々の物語なのである。

冒頭、海岸へロケハンに訪れた神林に、脚本家の鏑木がこんな話をする。
彼が古い映画館で映画を観ていた時、フィルムが切れたのに切り替わらない。
実はその時、老映写技師(演じるは深谷シネマ支配人の竹石研二さん)は映写室で倒れて亡くなっていたのだ。
デジタル上映の現在の映画館に映写技師は必要ないが、フィルム上映では一巻が終わる毎に、画面に一瞬だけ表示されるパンチマークに合わせて、2台の映写機を切り替える必要があった。
映写技師の死から始まる物語は、フィルム映画の終焉から、デジタル時代の映画への再生へのプロセス
本来、インターネット配信用に作られ、劇場用長編へと進化した、本作の出自に符合するのが面白い。

本作はまた、ドラマの背景に配された3.11の記憶を色濃く反映している。

映画「約束の日」のキービージュアルとなる、ロケ地の海岸に大道具として作られたバオバブに似た樹は、たぶん「ゴドーを待ちながら」で街道に立つ一本の樹の反映であるのと同時に、3.11の津波を生き延びた陸前高田市の"奇跡の一本松"のメタファーだろう。
「約束の日」の内容は映画の中で詳しく語られないが、どうやらこの樹は人々に守られてきた希望の象徴の様な物らしい。
それは正に奇跡の一本松だし、一度死んだ松が保存プロジェクトによってオブジェとして復活した経緯も、映画という虚構の中で大道具として建てられることに重なる。

他にも、前記した奇妙なタイトル含め暗喩が散りばめられていて、物語を読み解いてゆくミステリ的楽しみも大きい。
特に
印象的なのが、神林監督がバーの女性に語る54本の奇跡の樹の小話
54の数字は何だろうと調べてみると、日本にある原発の数だとか。

そう思って観ると、この小話はかなり意味深い。

「ゾウを撫でる」は、単に映画愛を語る作品ではなく、そこから今という時代を俯瞰し、映画のあり方をも描こうとしてる。

インターネットで配信した連作を再構成し、映画館で公開という試みは、三浦大輔監督の「裏切りの街」もそうだった。

デジタル化、ネットワーク化によって、映画の形は変化し続けるだろうし、映画を成立させるのに様々な方法論も出てくるだろう。
本作の場合は、単につなぎ合わせたのではなく、物語の断片を組み合わせ、初めて全体像が見え、なおかつそのプロセスが物語を構成するというコンセプトが実に秀逸。
浮かび上がるのは、ポスト3.11の時代に、映画という希望を建てる人々を描いた独創的な作品だ。

上映館は少ないが、映画好きには是非オススメしたい。

今回は、劇中で神林監督が飲んでいる「I.W.ハーパー」をチョイス。
1877年に、ドイツ移民のアイザック・ウォルフ・バーンハイムによってケンタッキーに創業した、歴史あるあバーボンウィスキー。
飲み方はロックで。
羅生門の様な夜に、美女と語らいながら、チビチビと飲みたい。
ランキングバナー記事が気に入ったらクリックしてね


[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

IWハーパー ゴールドメダル 40度 正規 700ml あす楽
価格:1564円(税込、送料別) (2017/1/19時点)