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この世界の(さらにいくつもの)片隅に・・・・・評価額 Priceless
2019年12月25日 (水) | 編集 |
すずさん、久しぶりじゃったね〜

2016年11月に公開された、こうの史代原作、片淵須直監督による「この世界の片隅に」の批評的・興行的な大成功を受けて、新たに制作された未映像化部分を含めた完全版。
先日、東京国際映画祭で上映された「特別先行版」からもいくつかのシーンが加えられ、最終的な上映時間はオリジナルよりも42分も伸びた168分。
単体のアニメーション映画としては、世界的にも稀な大長編だが、もちろん単純に尺を伸ばしただけではない。
三年前のオリジナルから、作画や彩色も一部修正され、コトリンゴがうたうエンディングテーマ「たんぽぽ」も重厚な印象に再録されるなど、全体がより作り込まれたものになっている。
タイトルも「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」と改まり、テーマ的にもオリジナルを内包しつつよりワイドに、よりディープに進化した。
10年代の最後に登場した、このディケイドのベスト・オブ・ベストといえる珠玉の傑作である。

浦野すず(のん)は、広島市の南端に位置する江波で育った絵が得意な少女。
昭和19年の初春、18歳になった彼女は、故郷から20キロ離れた軍港の街、呉に暮らす北條家の長男で、軍法会議の事務官をしている周作(細谷佳正)のもとへ嫁ぐ。
すずは周作を知らなかったが、ずっと以前の子供時代に、周作がすずを見初めたのだという。
港を見下ろす山裾にある北條家は、すず夫婦と足の悪い義母・サン(新谷真弓)、海軍工廠で働く義父の円太郎(牛山茂)、出戻りの義姉・径子(尾身美詞)とその娘・晴美(稲葉菜月)のにぎやかな六人家族。
若き主婦となったすずは、次第に物資が不足してゆく中、工夫を凝らして一家を盛り立てる。
そんな頃、すずは道に迷って入り込んだ呉の朝日遊郭で、白木リン(岩井七世)という同世代の女性と出会い、道を教えてくれたお礼に、手に入りにくくなった食べ物の絵を描いてあげ、意気投合する。
しかし再会を口にするすずに、リンは「こんな所にはさいさい来るもんじゃない」と言うのだった。
そして、家の蔵を整理していた時、すずはリンの着物に描かれていたのと同じ、綺麗なリンドウが描かれた茶碗を見つける・・・・


当たり前だが、物語の骨子そのものはオリジナルと変わらない。
広島の江波に生まれた想像力豊かな少女、浦野すずが、太平洋戦争末期に軍都・呉に住む北條家の長男・周作のもとに嫁ぎ、戦時下の食糧難や米軍の空襲、家族の死などさまざまな体験をしながら成長してゆく。
この物語が特異なのは、典型的な三幕構成ではなく、日々のこまかなエピソードが、無数に積み重なるような構造で作られていること。
いや、物語のベースの部分に三幕はしっかり見て取れる。
しかし、すずさん本人が「うちゃあぼーっとしとるけえ」と語っているように、彼女は極めて平凡かつ受動的な人で、普通の物語の主人公のように積極的に動かない。
何しろぼーっとしてる間に結婚までしてしまい、物語の中で「自分はこうしたい」と初めて明確に主張するのが、もう映画も終盤、原爆投下の朝に「広島の実家に戻るのをやめる」と径子に告げるシーンなのである。

この映画は、戦争の時代でもひたすら平凡を貫くすずさんの日記帳の様に、受け身の彼女が経験する様々な出来事を描写してゆくのだが、オリジナルでは描かれていなかったいくつものエピソードが組み込まれることで、物語が有機的に変化し、元々あったシーンに新たな意味が付与される。
例えばすずさんが尋常小学校六年の時に、彼女の幼馴染にして初恋の人である水原が、事故死した兄の鉛筆をくれるシーンがある。
オリジナルの映画だと単に「鉛筆をくれた」と言う現象だけなのだが、本作ではその前に水原のせいですずが鉛筆を無くしてしまう描写が加えられ、二人の間に異なる感情のやりとりが生まれているのである。
本作では特に、オリジナルでは迷子になったすずさんに、道を教えるエピソードしか描かれなかった、遊郭のリンさんとのエピソードが大幅に増えていて、彼女の存在が周作との夫婦の関係にも影響してくる。

すずさんは、自分と結婚する前の周作を知らない。
しかし、周りの人々の言動や、リンさんとの交流を通して、彼女は徐々に理解する。
自分と結婚する前に、周作には別の恋人がいたこと。
その人にプレゼントしようと周作が買っていた茶碗に、鮮やかなリンドウの花が描かれていたこと。
リンさんの持っている名札が、周作のノートの切れ端であること。
いくつもの状況証拠が重なることによって、すずさんはリンさんこそが周作が最初に愛した人であることを確信し、自分はもしかしたら彼女の“代用品”に過ぎないのではないかと葛藤する。

オリジナルでは、すずさんと周作の夫婦と、義姉の径子と晴美親子との絡みを中心に展開していったが、本作ではすずさんを軸として、片方に周作、もう片方にリンさんがいるというヤジロベエの様な関係になっていて、すずさんが内と外で新妻としての悩みを募らせつつ、径子親子や水原が彼女の人生に影響を与えてゆく。
これにより、彼女のキャラクターがぐっと多面的になって、妻として周作へ静かにぶつける怒りや、一人の女性としてのリンさんへのコンプレックスなど、天然なだけではない複雑な人間性を描き出すのである。
また、すずさんの感情との対比によって、周作の心理描写もより豊かになった。
重巡青葉の水兵となっていた水原が、入湯上陸で北條の家に泊まりに来た夜、彼女を水原のいる納屋へと送り出した周作が、玄関のカギをかけてしまう描写などに、お互いの過去への苦悩が見て取れる。
それまで異なる人生を送ってきた新米夫婦の、時にはつまずきながらの、二人三脚の成長物語としての側面は大幅に強化されている。

周作の言葉を借りれば、人生は振り返って「過ぎたこと、選ばんかった道」ばかり。
すずさんとリンさんの人生は、もしかしたら入れ替わっていたかもしれない。
周りの反対を押し切って、周作がリンさんと結婚していたら、すずさんと周作は幼いころに一瞬邂逅しただけで、一生再会しなかったかもしれない。
妹のすみちゃんの言う通り、北條家に気兼ねして広島の実家に帰っていたら、原爆で死んでいたかもしれない。
右腕の怪我があるので、すずさんは原爆直後の広島への救援活動には参加出来なかったが、実際に広島へ行った隣組の知多さんは被爆し、原爆症の症状が出ている。
彼女もまた、“もしも”のすずさんなのである。
いくつもの「選ばんかった道」の結果として、すずさんの今の人生がある。
おそらくすずさんは、草津の祖母の家で出会った“座敷童”が、行き場なくさまよっていた頃のリンさんだったことにも気付いただろう。
戦後の焼け跡の広島で、戦災孤児となった幼い少女を、偶然出会ったすずさんと周作が躊躇なく連れ帰ったのは、もしかしたら晴美の面影だけではなく、リンさんの気高くも薄幸な人生が心によぎった結果かもしれない。

タイトル通り、本作はすずさんというキャラクターを掘り下げ、彼女の見る世界を広げることによって、「この世界の(さらにいくつも)の片隅」を見せてくれる。
もの言わぬ記憶の器でなく、すずさんの視点を通して語られることで、彼女の周りにいた人たちも死んで消えてなくならず、物語の虚構を超えて、かつて存在していたかもしれない人たちとして物語の中で新たな命を持つ。
元の物語はそのまま生かされているので、「この世界の片隅に」と全くの別ものという訳ではない。
しかし今まで見えていたのが、すずさんの見た50%の世界だとしたら、今回は限りなく100%へと広がった。
オリジナルの時点でとんでもない傑作だったが、それを丸ごと取り込みさらなるブラッシュアップを経て、もはや文句のつけようがない。
日本映画史上、アニメーション映画史上に永遠に残るであろう、国宝級の名作はプライスレス!

今回は、今や広島を代表する蔵の一つとなった、呉の相原酒造から「雨後の月 大吟醸 月光」をチョイス。
雨が降った後、顔を出した月が澄み切った光で周りを照らす、と言うイメージで命名されたと言う。
低温熟成された大吟醸は、まろやかに旨味が広がり、まことに芳潤。
戦争という最悪の荒天を生き抜いた、すずさんたちの命の輝きこそ、この酒に相応しい。

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スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け・・・・・評価額1300円
2019年12月23日 (月) | 編集 |
42年の旅の終わり。

1977年の「エピソードⅣ:新たなる希望」から始まる、「スター・ウォーズ・サガ」九部作一応の完結編。
もともと監督としてアナウンスされていたコリン・トレボロウの離脱を受けて、「エピソードⅦ:フォースの覚醒」を手がけたリブート職人、J・J・エイブラムスが急遽監督に復帰、クローザーを任された。
しかし、エイブラムスとクリス・テリオによる脚本は整合性を著しく欠き、制作体制のゴタゴタによる混乱は、出来上がった作品にハッキリと現れている。
映画史に大きな足跡を残した九部作の最終作は、残念ながら「エピソードⅠ:ファントム・メナス」を超えるシリーズワースト作品となってしまった。
※核心部分に触れています。

クレイトの戦いから一年後。
レイア(キャリー・フィッシャー)率いるレジスタンスに、またしても危機が迫る。
嘗て銀河帝国を支配した皇帝パルパティーンが復活し、未知の領域にある隠されたシスの星、エクセゴルで巨大な艦隊を建造。
スノークを殺し、ファースト・オーダーの最高指導者となったカイロ・レン(アダム・ドライバー)を呼び寄せる。
新艦隊のスター・デストロイヤーは一隻で惑星を破壊できるキャノンを装備していて、艦隊が動き出せばもはや止めることは出来ないが、先手を打とうにもレジスタンスはエクセゴルの位置を知らない。
ジェダイの修行を続けていたレイ(デイジー・リドリー)は、ルークがエクセゴルへのコンパスとなるシスのウェイファインダーを探していたことを知り、フィン(ジョン・ボイエガ)、ポー(オスカー・アイザック)、C-3PO(アンソニー・ダニエルズ)、BB-8と共に、手が足りを求めて砂漠の惑星パサーナへと降り立つのだが・・・


私が「スター・ウォーズ」に出会ったのは、本国公開から遅れること一年以上、1978年の初夏のこと。
今はなきテアトル東京のシネラマスクリーン、立ち見も含めてギッシリ埋まった劇場で、最前列の前の床に座って観た。
地元に映画館の無い田舎者ゆえ、実はこれが映画館で外国映画を観た最初の体験だったのだが、大きく湾曲したシネラマスクリーンに包まれた没入感は抜群で、小学生の私はすっかりこの世界に魅了されてしまったのだ。
これがきっかけとなって、次々とルーカス、スピルバーグ作品の洗礼を受け、結局映像制作を生業とするようになってしまったのだから、「スター・ウォーズ」は私の人生を変えた作品となった。
だから、40年以上追い続けたサガの終わりがどうであれ、受け入れようと思っていたのだが・・・。

本作が、期待されたクオリティに、遠く及ばない作品になってしまった原因は明らかだ。
ルーカス・フィルムのプロデュースチームの、シリーズ全体に対するビジョンが欠落していたからである。
同じディズニー傘下でも、今年の4月に過去12年間、22本のシリーズ集大成として「アベンジャーズ/エンドゲーム」を放ったMCUが、大成功を収めることが出来たのは、プロデュースチームにケヴィン・ファイギという絶対的な司令塔がいたからだ。
プロデューサーシステムのハリウッドでは、プロデュースチームのボスの権限は絶大。
ファイギが長年に渡って全体を俯瞰し、しっかりとした価値観、世界観の道筋を付けていたからこそ、単体作品ではシリアスからコメディーまで、ジャンル横断的なテリングの多様性があっても、全てのキャラクターはMCUという一つの宇宙へと帰結することが出来た。
対して、ディズニー傘下の新生ルーカス・フィルムでは、新しいシリーズを作るにあたって、キャスリーン・ケネディ以下のプロデュースチームが、過去にジョージ・ルーカスが作り上げた世界観以外、なんのビジョンも持っていなかったのではないか。

実際、2015年にエイブラムス監督でリブートされた「フォースの覚醒」は、素晴らしい仕上がりだったが、非常に保守的な作りだった。
基本的なストーリーラインは、「新たなる希望」の焼き直し。
もちろん、21世紀の作品として色々モダナイズはされているものの、フォースを操ることのできる特別な人間、ジェダイとシスの対立を軸とした神話的な物語なのは、ルーカス時代と何ら変わらない。
いわばファンの観たかった古典的「スター・ウォーズ」であり、究極のファン・メイド・ムービーとでも言うべき作品だった。
新シリーズも三部作となることは決まっていたので、この時点でエイブラムスたちは、完結までのガイドラインとなる原ストーリーを作っていたはず。

ところが、続く「エピソードⅧ:最後のジェダイ」を任されたライアン・ジョンソンは、ジェダイが一人も出てこない名も無き民衆の「スター・ウォーズ」を描いたスピンオフ、「ローグ・ワン」のテーマを取り込み、エイブラムスとは対照的にモダンで衝撃的な物語を導き出す。
彼がやったのは、“フォースの民主化”である。
ジョンソンの作り出した世界では、フォースは誰でも持っている力で、本来誰でも使える。
これは光のジェダイと闇のシスという、二つのフォース使いのグループが世界のバランスを司る、ルーカスの作り出した世界の全否定であり、「スター・ウォーズ」宇宙の革命だった。
誰もがフォース使いになれるというのは、むしろ「機動戦士ガンダム」の“ニュータイプ”に近い考え方だ。
まあプロットのディテールが雑で破綻している部分があったり、もともと曖昧だったフォースの枷を外して何でもありにしてしまったのは明らかにジョンソンの罪だが、私はこの革新的な世界観の転換は、シリーズの再活性化という意味で大いに肯定されるべきだったと思う。

このままの世界観で九作目まで引っ張ればよかったし、実際にジョンソンも九作目の構想を練っていると語っていた。
だが、トレボロウ降板劇のあとで呼び戻されたのは、ジョンソンではなくエイブラムス。
おそらくエイブラムスは困惑しただろう。
ジョンソンが、最初に作られた原ストーリーをどこまで尊重したからは分からないが、「フォースの覚醒」と「最後のジェダイ」では物語の指向するベクトルがまるで違ってしまっている。
フレンチのコース料理だと思って食べ始めたが、途中から出てくる皿が中華料理になってしまったようなもので、二つの作品の個性を生かしつつ、整合性をとって完結に導くのは至難の技だ。
しかも、監督交代のゴタゴタによって、プリプロダクションの時間は大幅に削られてしまっていて、本作を観ると脚本開発の時間が足りていないのがよく分かる。
もうちょっと詰めれば、何とかなりそうな部分も多いだけに返す返すも勿体なく、せめて公開を延期して、あと一年脚本に時間をかければ、結果は違っていたかもしれないが、今となっては後の祭り。

エイブラムスは、自分のテイストではない「最後のジェダイ」を可能な限り“無かったこと”にして、原ストーリーから再構成して、「フォースの覚醒」との整合性を取ろうとしている。
ウェイファインダーの位置を記した暗号を知るために、C-3POの回路をハッキングできる技術者を探しに、惑星キジミへ向かうエピソードが、「最後のジェダイ」の”マスター・コードブレイカー”を探して、惑星カントニカにあるカジノ都市へ潜入する話とまる被りなのは、おそらくどちらも同じ原ストーリーを基にしているから。
「スカイウォーカーの夜明け」は、エイブラムス版の「エピソードⅧ」と「Ⅸ」を一本にまとめた構成になっているのだ。
物語作りのセオリー通りなら、第二部でやっておかなければならない、レイの出自のネタバラシ(「帝国の逆襲」の「I am your father.」に当たる)が本作にずれ込んでいるのも、ジョンソン版の物語とエイブムス版の物語を強引に繋げた結果だと思う。
だが、「最後のジェダイ」を完全に無視するわけにもいかず、フィンの感じるフォースなど中途半端に設定を残しているので、当然ながらこれは上手くいっていない。

さらに悪いことに、水と油の二作を無理矢理繋げるのに、ジョンソンが何でもありの魔法にしてしまったフォースを開き直って大活用。
「最後のジェダイ」では遠く離れた場所に自分の幽体を出現させる、死後幽体だけになっても、現実世界に物理的影響を与えられるなどの新解釈が登場したが、今回は別の場所にいるレイとレンが直接ライトセーバーの刃を交わす(「最後のジェダイ」のルークはレンのライトセーバーをかわしているだけだった)、空間を超えて物を交換するなど、フォースの魔法っぷりはブーストがかかって加速。
死者を蘇らせたりするのは、「ダースヴェーダーが成し遂げられなかったこと」=「愛する者の命を救うこと」という意味が読み取れるが、それは別にフォースを使わなくても出来るだろう。
パルパティーンの復活ガッちゃんビームに至っては、これなら艦隊もデス・スターも要らないじゃないか、一人で宇宙征服でも何でもできるじゃないか、という位にスーパーマン化してしまった。
そもそもパルパティーンが蘇ったのも、フォースのダークサイドの技術だとしたら、もはや生と死すら意味を失ってしまう。

おまけに「そんな設定あったけ⁈」って驚きの事実が、どんどん出てくる御都合主義。
例えば唐突にレイアがジェダイの訓練を受けていて、ライトセーバーまで持っていたというエピソードが出てくるが、これは小説版のパラレルワールドの設定で、今までの正史では全く語られてこなかった。
レイアがジェダイの騎士でレイのマスターになれるのなら、最初からわざわざルークを探す必要もなかったはず。
結局、真逆のベクトルをもつ二つの作品を、まとめあげて完結させるという無茶ぶりに挑んだ結果、エイブラムスがかろうじて描き切れたのは、アイデンティティに葛藤する名無しのレイちゃんと、彼女のことが好きでたまらない、厨二病ストーカーのレンくんのツンデレ初恋物語だけだった。
レンはともかく、レイの感情は全然繋がってないのだけど、前作でそれほど突っ込んで描かれなかった部分なので、「フォースの覚醒」との繋がりがわりとスムーズ。
ルークの時代は「ジェダイの子」という属性で充分だったが、最後までアイデンティティに悩む本作は、やはり21世紀の物語らしい。

限りなく存在感の薄い、本作の新キャラクターの中で注目すべきは、エンドアの衛星ケフ・バーで登場するジャナ率いる逃亡ストーム・トルーパーの一団だ。
彼女らとフィンの会話から、ファースト・オーダーのストーム・トルーパーは宇宙のあちこちで捕らえられた子供たちであり、元来の悪ではないことが強調される。
また内面のフォースの善なる作用によって、フィンやジャナたちのように脱走するケースだってある。
もし完結編が「最後のジェダイ」の延長線上で展開するなら、終盤は彼女らが中心となっていたはずだ。
レジスタンスの呼びかけに、抑圧されてきたファースト・オーダーの名も無き兵士たちが恐怖に打ち勝って反乱を起こし、パルパティーンの帝国再興の野望を挫く。
フォースが実は誰でも使える力であることが明らかとなり、ジェダイやシスといった旧時代の象徴は意味を失い、レイはジェダイの軛から逃れ、銀河はより自由な冒険の時代に入る。
もしこうなっていたら、「スター・ウォーズ」は確実に世界を広げ、新たな可能性も生まれていただろう。
しかしルーカス・フィルムは、寡頭制的な古めかしい宇宙神話の世界に、再びシリーズを閉じ込めることを選び、可哀想なストーム・トルーパーたちもシスと共に無慈悲に滅ぼされる。

四苦八苦しながらも、レンとレイのごく小さな物語としてサガ終わらせたエイブラムスには、心から「ご苦労様」と言いたい。
しかし「最後のジェダイ」で路線転換したのなら、そのままライアン・ジョンソンに任せるか、もしくは最初からエイブラムスが三本とも撮っていたら、こんな混乱した完結編にはならなかっただろう。
「スター・ウォーズ」の今後としては、もうすでにディズニーチャンネルで「ジェダイの帰還」と「フォースの覚醒」の間を描くドラマシリーズ「マンダロリアン」がスタートしているが、映画を含めて今後も展開させてゆくなら、ルーカス・フィルムは体制一新した方がいい。
「フォースの覚醒」以来のスピンオフを含めた5作品中、3作品で監督降板のゴタゴタが起こっているのは、いくらなんでも尋常ではない。
プロデュースチームに作りたい作品の明確なビジョンが無ければ、どんなに名監督を集めてもシリーズとしては破綻する。
長年のファンとしては、いつの日か始まるであろう、新しい映画シリーズが成功することを祈りたいものだ。

“May the force be with you・・・”

今回は宇宙をイメージして「スターダスト・レビュー」をチョイス。
ドライジン(ボンベイサファイア)45ml、ブルーキュラソー5ml、パルフェタムール5ml、コーディアルライム1tsp、ライムを一片。
上記の材料を、氷を入れたシェイカーに全て入れ、シェイクしてカクテルグラスに注げば出来上がり。
成層圏の空のような深い青が美しい、ドライなカクテル。
1996年のHBA創作カクテルコンペティションのドライ部門優勝作品で、作者は庄司浩さん。

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ショートレビュー「家族を想うとき・・・・・評価額1700円」
2019年12月19日 (木) | 編集 |
私たちの物語。

これはハードにつき刺さる映画だ。
社会保障のシステムから、理不尽に締め出された弱者を描いた「わたしは、ダニエル・ブレイク」に続いて、83歳の巨匠ケン・ローチが英国の市井の人々の厳しい人生を描く。

舞台はイングランド北東部のニューカッスル。

マンチェスター出身で、10年前の金融危機で建設の仕事を失い、増え続ける借金と闘いながら職を転々としている中年オヤジ、リッキーが主人公。
妻のアビーは訪問介護師で、自分は個人事業主として宅配便のフィランチャイズの仕事をはじめたばかり。
一度は諦めた夢のマイホームを買うために必死に働きながら、長男のセブと長女のライザ、二人の子供を育てる日々。

しかし少しでも稼ぐために時間に追われ、いつしか子供たちと共に過ごす時間が減っていき、家族はバラバラになりかけている。

個人事業主とは名ばかりで、自分の宅配ルートを維持するために四六時中働きっぱなし。
休みは取れず、ケガや病気の保証も無く、荷物を管理・追跡するために、会社からレンタルしている高価なスキャナー端末に生活のすべてを支配される。

日本でも最近Uber eatsの労働問題が話題となったが、実質的には単なるブラック企業の労働者なのに、形式的に個人事業主扱いになってしまうこの手のシステムは、ちょっとした副業くらいならともかくオールインは怖すぎる。

妻のアビーも同じ様な雇用形態で、もともと優しく献身的な人ゆえに、担当している老人たちが困難に陥ると無給でサービス出勤することも。


貧困とは金が無い、イコール時間が無いことである。
映画を観ていると、もっとまともに働ける職場に移ればいいのにと思わないでもないが、現実には常に疲れ果てていて何も考えられず、次から次へと出てくる目の前の問題に対処するので精一杯。
明日をどう乗り切るか?以上の事を考える心の余裕がそもそも無いのだ。

働いても働いても楽にならない、そんな親を見て育つ子供達も、どこか諦めてしまっていて、コミュニケーションが取れていないので家族の関係もギクシャク。
爪に火を灯す様にして稼いだ金が、反抗期のドラ息子の不祥事で吹っ飛んでしまう事態には、リッキー目線で見ていると怒りが湧き上がってくるが、息子は息子で絶望を募らせているんだよなあ。


映画の中で起こっていることは、全てが普通で恐ろしくリアル。
どのエピソードも宅配や介護の仕事あるあるだし、親子関係の諸々の話も誰もがどこかで経験してきている様なものばかりだ。

遠い英国を舞台とした物語ではあるのだが、このプロットをそのまま日本に置き換えても全く自然に成立してしまうのだ。

いや、ゼロ年代に新自由主義的政策の洗礼を受けた国なら、世界中どこでも当てはまる話だろう。

この物語が圧倒的な普遍性を持つということは、私たちの社会は無責任資本主義とでも言うべき、おかしな方向へ向かっている様に思えてならない。

原題の「sorry we missed you(お会いできずに残念です)」は、リッキーの勤める宅配便の不在票に書かれた言葉。
彼は、いつの間にか宅配の客だけでなく、愛する家族をも「miss」しそうになっている。

常に穏やかで決して怒りの感情を見せないアビーが、あることでリッキーの上司、もとい契約相手にブチ切れる瞬間と、あまりにもビターなその後の展開。
リッキーの一家に起こったことは、明日は我が身に起こっても決して不思議ではない。

これは世知辛い時代を生きる、「私たちの物語」だ。

こんな世の中、パブでビールでも飲まないとやってられねえ!
ということで、今回は舞台となる町の名前繋がりから、「ニューキャッスル ブラウンエール」をチョイス。
香りは豊かだが比較的軽く、苦味が少なくて非常に飲みやすい。
そのため英国では、犬の散歩の途中でパブに立ち寄る飼い主に好まれるので、「ドッグ・ビール」とも呼ばれているそう。

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ぼくらの7日間戦争・・・・・評価額1650円
2019年12月15日 (日) | 編集 |
ありのままの自分でいるために。

1988年に実写映画化された宗田理の小説「ぼくらの七日間戦争」の、「七」が「7」に変わった31年ぶりのリメイク的な続編。
「ドリフェス!」などで知られる村野佑太が長編劇映画監督デビューを飾り、脚本は湯浅政明監督の「DEVILMAN crybaby」が記憶に新しい大河内一楼が務める。
理不尽を押し付ける大人たちに、子供たちが反抗し、7日間の“戦争”を繰り広げるという基本プロットは共通。
正直なところ、旧作は私個人的にはあまり刺さらなかった記憶がある。
原作は未読だが、映画は全体に説教くさくて、いかにも大人が考えた子供のフリーダムという、ステロタイプなイメージを打破できていなかった。
しかし本作では、この31年間の社会の変化を反映して、物語のディテールは全くの別物となり、人数的にぐっと絞り込まれた子供たちの葛藤には、実写映画よりも生身のリアリティを感じられる。
※核心部分に触れています。

北海道に住む鈴森守(北村匠海)は、いつも一人で本ばかり読んでいる戦史マニア。
彼は隣に住む幼馴染の千代野綾(芳根京子)に恋心を抱いているが、ずっと告白出来ずにいる。
ある日、守は地方議員をしている綾の父親が東京の中央政界への転出が決まり、綾も共に引っ越しを迫られていることを知る。
引越しの日は、一週間後の綾の誕生日の直前。
この街に留まりたいという綾に、守は意を決して言う。
「一緒に逃げましょう!」
綾の親友の山咲香織(潘めぐみ)、クラスの人気者の緒形壮馬(鈴木達央)、とことん明るい阿久津紗希(道井悠)に彼女の幼馴染の秀才、本庄博人(大塚剛央)がこの“バースディ・キャンプ”に参加。
6人は、街外れにある閉鎖された炭鉱へと向かうのだが、そこには一足先に侵入していた者がいて、ちょっとした家出は、大人たちを巻き込んだ“戦争”へと発展してゆく・・・


原作小説が出版された1985年に比べれば、日本の社会は少なくとも表面上は、ずいぶんと自由になった。
もちろん、いまだに硬直した部分は残っているし、変わっていないところは頑なに変わらないのもこの国の特徴だが、当時に比べれば個人を社会の不文律の枠にはめる風潮が薄れたのは確かだろう。
良くも悪くも現実世界に比べればずっと縛りの弱い、インターネット空間へと人々の活動領域が広がったのも、一人ひとりがより素の自分を出せる世界への、変革の推進力になっているのかも知れない。
だが、自由な部分が増えれば増えるほど、逆に別の縛りも生まれてくるもの。
本作で子供たちが立ち向かうのは、過去の自由のその先にある、21世紀の新たな自由の問題なのである。

旧作では中学生だった子供たちは高校生へ、立て籠もるのは廃工場から北海道の閉山した炭鉱へと変更されている。
そもそもの発端は、主人公の鈴森守が想いを寄せる幼馴染の千代野綾が、政治家の父の仕事の都合で誕生日直前に東京に引っ越すことになったこと。
故郷を離れたくない綾は、守や友人たちの力を借りて、プチ家出して“バースディ・キャンプ”へと出かけるのだ。
この時点では、反抗の動機は旧作と比べてもかなり弱く、“戦争”へと結びつくようなものではないのだが、これは作劇上の狙いだろう。
廃鉱山に隠れていた、マレットと名乗る不法在留のタイ人の子供との出会いによって、守たちは成り行きで大人たちに宣戦布告。
結果として、それまで決して他人には見せなかった、“本当の自分”と向き合わざるを得なくなる。

本作で描かれるのは、一定の自由があるからこそ見えてくる、多様性への更なる壁
ここで登場人物の年齢を上げたことが効いてくる。
中学生ほど子供ではなく、かと言って大人と認められる年齢でもないが、社会の仕組みはそろそろ理解できるようになり、人との表面的な関係には忖度が必要なことも、素の自分を知られることの恐ろしさも知っている。
本作の子供たちは、既に半分大人社会に取り込まれかかっているのだ。

“戦争”の原因を、国籍という自分ではどうしょうもない出自で追い詰められてしまった、マレットを守るためとしたのが良い。
国籍、イジメ、自己否定の心に性的マイノリティの葛藤。
テーマのベースの部分では旧作を踏襲しながら、登場人物が抱えているそれぞれの問題、彼らを追い込んで行くSNS社会の描写は実に現代的。
リメイクではなく続編の体裁ゆえに、旧作のウリだった61式戦車は出てこないが、トロッコやエレベーターなど、鉱山ならではのギミックが新たな未見性を作り出す。
戦史マニアの守をリーダーに繰り広げられる、大人たちとの頭脳戦はなかなか楽しい。
「塔の上のラプンツェル」のランタン祭のモデルになったことでも知られる、タイのコムローイ祭でお馴染みの幻想的なランタンと、クライマックスのあるアイディアを結びつけたビジュアルは、アニメーション表現ならではの飛躍を感じさせて秀逸だ。
大人たちとの小さな、しかし全力の戦いを通して、子供たちは傷つきながらもより大きな自由を獲得し、彼らの姿は常識という閉塞の中に生きている大人たちにも影響を与えてゆく。
子供たちの葛藤と奮闘に、素直に共感のできる優れた青春ストーリーだ。

旧作のヒロインだった宮沢りえが、再び同じ役名で登場し、二つの作品を繋ぐ役割
まあ物語上には直接的な関連は無いので、旧作は観ていないでも問題ないだろう。
守役の北村匠海はもう声優としてもプロフェッショナルの領域だが、綾を演じる芳根京子も上手い。
やっぱり声優の演技には、独特のセンスが必要なんだよなあ。

今回は、「自由のための戦争」繋がりで「キューバ・リブレ」をチョイス。
タンブラーにライム1/2を絞り、クラッシュドアイスを入れ、ラム45mlを注ぎ入れた後でコーラで満たし、ライムを一切れ飾って完成。
19世紀末のキューバ独立戦争当時、独立派支援のためにキューバに駐留していた米軍将校が、アメリカのコカ・コーラとキューバのラムをミックスしたカクテルを考案。
その名称として、独立派の愛言葉だった「ビバ・キューバ・リブレ(キューバの自由万歳)」が定着したという。
高校生にはちょっと早いが、ライムの酸味と炭酸の刺激が爽快な、青春の味。

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ショートレビュー「巻貝たちの歓喜・・・・・評価額1600円」
2019年12月11日 (水) | 編集 |
海底からの歓喜の歌。

映画ブロガーでもある、齋藤新監督の自主制作映画「巻貝たちの歓喜」を上映会で鑑賞。
不思議なタイトルだが、これがかなり面白い。
北海道沖で突如大爆発が起こり、キノコ雲が目撃される。
放射能が検出され、人々は核爆発だと噂するも、政府は否定。
爆発の正体は謎のまま、以降その海域産のつぶ貝を食べた人に入水自殺者が相次ぐようになる。
政府の依頼を受け、原因を探る女性生物学者の洲谷は、つぶ貝を食べたことで、10年前に死んだ妻の幻覚を見たという元写真家の男、来栖と出会う。
自殺者たちは皆、つぶ貝によって今は亡き愛する者の姿を見せられて、海に誘い込まれて沈められていたのだ。

事態の核心を握る来栖と、真相を解き明かしたい洲谷を軸とした会話劇。
幻覚というにはあまりに生々しく、脳が虚実を判断できないその現象を、洲谷はチベットの言葉で実態化した思念を表す「トゥルパ」と呼ぶ。
なぜ、つぶ貝たちは死者の姿を見せるのか。
なぜ、他の者たちと違い、来栖は沈められずに生きているのか。
水を介した死者との邂逅は、タルコフスキーの「惑星ソラリス」を思わせる。
実際影響を受けているそうだが、うまく本歌取してオリジナリティのある作品に仕上げている。

現象の謎を追う物語は、やがて第二次世界大戦中にドイツのハイゼンベルグ博士が開発していた幻の原爆と、フルトヴェングラー指揮の「交響曲第9番」のレコードという“鍵”に行き着く。
「交響曲第9番」は、駆け出しの音楽家だったベートーベンが、シラーの詩「歓喜に寄す」に感銘を受けて、曲をつけようと思い立ったことから構想された作品。
実際に交響曲が書き下ろされたのは晩年になってからだが、シラーの詩をアレンジしたパワフルな第四楽章は「歓喜の歌」として知られ、日本では年末の風物詩だ。
74年前に、何処かへと忽然と消えた死と破壊の象徴としての原爆と、あふれんばかりに生命の喜びをうたう交響曲。
時空を超えた科学と芸術は溶け合い、一体となってこの世界に再び現れたのだろう。

海は命が帰り、生まれるところ。
浜辺は現世と常世が、渾然一体に混じり合うところ。
よくできた推理小説のように、ミステリアスに展開する物語は、いつしか生と死、永遠と一瞬、記憶と実存の曖昧な境界へと踏み込んでゆく。
ハードSFに行ってもおかしくない設定ながら、二つの世界を結びつけるのが“愛”という、もっとも強くウェットな感情なのが面白い。
先日鑑賞した「ライフ・イットセルフ 未来に続く物語」も、虚実が入り乱れる世界観の中、唯一実存を確信できるものが、目に見えない“愛”であるという結論だったが、人間はつくづく愛し愛されたい生き物なのだなあ。

よく考えられた脚本だが、説明的要素を極力排したがゆえ、来栖以外のキャラクターの伏線はちょっと分かりにくい。
ケロイドの皮膚の洲谷や、キーパーソンとなる地下アイドルのるる子の過去の喪失に関しては、もう少し描写があっても良かったように思う。
全体の完成度が高いので、音が割れ気味だったり、シーンによってはノイズが目立つなど技術的な欠点もちょっと気になった。
しかしSF的設定から詩的な心理ドラマへと持ってゆくあたり、センス・オブ・ワンダーを感じさせる力作。
非常に文学的なプロットなので、小説化しても面白そうだ。

今回はつぶ貝をつまみに食べたい旭川の地酒、高砂酒造の「国士無双 純米大吟醸」をチョイス。
明治時代に、戊辰戦争に敗れた会津藩から移り住んだ、小檜山鉄三郎が創業した蔵。
国士無双は淡麗辛口、雑味無くスッキリとした北国らしい酒で、爽やかな吟醸香に、米の深い旨みが引き立つ。
魚介類との相性もバッチリだ。

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