酒を呑んで映画を観る時間が一番幸せ・・・と思うので、酒と映画をテーマに日記を書いていきます。 映画の評価額は幾らまでなら納得して出せるかで、レイトショー価格1200円から+-が基準で、1800円が満点です。
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ラ・ラ・ランド・・・・・評価額1800円
2017年03月03日 (金) | 編集 |
そこは、夢を見られる街。

二年前、鮮烈な音楽バトル映画「セッション」で、センセーションを巻き起こしたデミアン・チャゼル監督の最新作は、前作とはガラリとムードを変えたミュージカルスタイル。
タイトルの「ラ・ラ・ランド」とは、ハリウッドの俗称であるのと同時に、陶酔して夢の中にいるような精神状態のことでもある。
ジャズピアニストで自分の店を持ちたいと願うセブ、女優を目指すミアという二人の夢追い人の出会いから恋の熱情と葛藤、そして青春の終わりまでを描くパワフルな音楽映画だ。
チャゼルが相変わらず無駄のないキレキレのテリングで魅せ、ライアン・ゴズリングとエマ・ストーンという旬な二人がセブとエマを演じる。
※ラストに触れています。

クリスマスが近い、現代のハリウッド。
女優になることを夢見、アリゾナの田舎からやってきて6年、未だオーディションに落ち続けているミア・ドーラン(エマ・ストーン)は、ある夜ピアノの音色に誘われてレストランに足を踏み入れる。
だが、そこにいたジャズピアニストのセバスチャン”セブ”・ワイルダー(ライアン・ゴズリング)は、オーナーの意に沿わない演奏をしたとしてクビになってしまう。
その日から、偶然にも何度も会うことになる二人は、いつしか恋に落ち、一緒に暮らし始める。
セブにはいつかジャズの店を開くという夢があるが、現実は厳しい。
ミアとの暮らしのために、フュージョンバンドのキーボードプレイヤーとなったセブは、図らずもミュージシャンとして成功してしまうが、それはある意味自分の夢からは遠ざかることを意味していた。
一方のミアもなかなか仕事が上手くいかず、季節がめぐる頃には二人の間には秋風が吹くようになってしまう・・・・


予告編のイメージから、どうしてもレトロオマージュな正統派ミュージカルを期待させるが、実は大きなミスリードだ。
この映画は、そんな作品の"フォーマット"に気を取られると本質を見失う。
冬・春・夏・秋、そしてもう一つの冬の五つの章から構成された物語は、確かにディテールには作者の映画的記憶として、古き良きハリウッドミュージカルがちりばめられている。
だが本作は、巷で言われているような古典ミュージカルの復権とか、MGM回帰などのベクトルは持ち合わせていない。
何しろここには、ジーン・ケリーの「雨に唄えば」からマーティン・スコセッシの「ニューヨーク・ニューヨーク」、バズ・ラーマンの「ムーラン・ルージュ」に至る全く毛色の違った何本ものミュージカル、さらには「理由なき反抗」や「カサブランカ」といった非ミュージカル作品を含む、無数のオマージュがゴチャゴチャにぶち込まれていて、そこには何の系統性も見出せない。

思えばデミアン・チャゼルという人は、音楽観も映画観も極めて独特だ。
ライアン・ゴズリング演じるセブは、”昔ながらのジャズ”に固執しているが、元々ジャズなんて即興性の高いフリーな音楽で、それほど長くない歴史の中でどんどんスタイルを変えてきたはず。
だからセブ、すなわちチャゼルの考える昔ながらのジャズがどんなものなのか、今ひとつ分からない。
セブはミアと付き合いだすと、金のために学生時代の知人がやっているジャズとR&Bが融合したようなフュージョンバンドに入って活動を始めるのだけど、これが結構カッコイイのである。
要するに、セブがやりたい音楽ではない、イコール堕落したダメな音楽という位置付けではないようなのだ。
音楽も映画も、チャゼルの中には世間一般のカテゴライズとは別に、あくまでも彼の価値観に基づく古典的正統派と、新しくてカッコイイけど正統派ではないオレ基準の分類があって、どっちらにしても自作に引用するのは好きなものだけ、ということなのかも知れない。

彼の映画におけるオマージュはあくまでもオマージュで、それぞれにちゃんと意味をもたせているが、作品で言いたいことの本質に関わってくることはないのである。
この独特のスタンスは、作中での音楽や映画の扱いにも表れている。
ジャズピアニストであるはずのセブは、他の人が演奏している真ん前で、ミアにジャズの素晴らしさをベラベラと講義するし、女優を目指しているミアは、上映中のスクリーンの前に突っ立って影を落とし、二人は映画そっちのけでキスしようとする。
どちらも、音楽や映画を深く愛する人たちからすれば「ちょっと待てよ」と思ってしまう描写なのだが、チャゼルにとっては愛する映画も音楽も自分の作品世界に取り込まれた段階で、全て表現手段の一つになってしまうのだろう。

だから、本作の予告から夢いっぱいの明るいミュージカルを期待していると、癖のあるゴリゴリの作家映画を観せられることになり、相当面くらう。
この映画におけるミュージカルとは、あくまでも映画的に登場人物の感情を伝え、チャゼルのイメージするラ・ラ・ランドの世界観を表現する手段に過ぎない。
本作は青春映画であると同時に、映画を通してショービス界に生きる人々をメタ的に描くセルフ・リフレクシヴ・フィルムの一種だ。
この映画のハリウッドは、いわばチャゼルの脳内でカリカチュアされて再構成された、ファンタスティックではあるが厳しい現実を反映したラ・ラ・ランド。
一見するといつの時代だか分からなくなるレトロモダンな世界観で、セブの車が今となってはクラッシクなビュイック・リビエラ・コンバーチブル、ミアが乗っているのが現代のハリウッドで大人気のプリウスというのも、作家の映画的記憶としての過去と現在が入り混じる作品世界を象徴する。

冒頭、大渋滞のフリーウェー上で繰り広げられる、ド派手なミュージカルシークエンス。
この映画はミュージカルのスタイルで語りますよ、渋滞にはまった車のように人生でなかなか進めない二人の物語ですよ、そして二人の最悪の出会いが象徴するように一筋縄ではいかない映画ですよ、という作品全体のイメージを端的に語る力技で一気に世界に引き込まれる。
そして出会いの冬、徐々に接近する春、恋の炎が燃え上がる夏、そして文字通り秋風の秋。
マジックアワーでの長回しのミュージカルシーンが美しい。
ラ・ラ・ランドで出会ったセブとミアの物語はしかし、夢の様には上手くいかない。
二人は共に夢追い人だから、お互いを応援するうちに恋に落ち、今度は恋に囚われて夢を捨てようとする。
四季を通じて二人の恋を追った物語は、一度は女優を諦めて実家に帰っていたミアが、セブに背中を押されて参加したオーディションで大きな手応えを感じるところで一区切り、最後の二度目の冬の章ではいきなり5年後に飛んでいるのである。

どうやら別れてしまったらしい二人は、それぞれの道で成功を収めている。
ミアは今やスター女優となり、優しい夫と娘にも恵まれて幸せに暮らしていて、セブもまた夢だった拘りのジャズの店を開いて人気店となっている。
そして、ある日偶然にも二人の運命は再び邂逅するのだ。
冒頭と同じく大渋滞にはまったミアと夫は、食事をするためにフリーウェーを降り、ジャズの音色に誘われるようにして一軒の店に入る。
店の名は、セブがいつか店を開いたら付けたいと語っていた「Seb’s」
ここからが、この映画の驚くべきクライマックス。
二人の思い出の曲を演奏する懐かしいセブの姿を見ながら、ミアは二人の出会いから現在までの”if”の過去を見る。

もしも出会いが最悪でなかったら、もしも二人が別れなかったら、もしも一緒にパリへ行っていたら、もしも家族になっていたら。
描き割りの背景で演じられる7分間の”if”の人生劇場は、グザビエ・ドラン監督の「Mommy/マミー」で、全ての母なるものの夢、おそらく訪れないであろう幸せな”if”の未来を描く、切な過ぎるシークエンスを彷彿とさせる。
あるいは、愛し合う運命の二人がすれ違いを繰り返す、「君の名は。」以前の新海誠的であるとも言えるかもしれない。
いや、ミアが見ているのが単なる夢ではなく、彼女の想いが作り出したアナザーワールドだとしたら、これは結末の違うもう一つの「君の名は。」と捉えても、あながち間違いではないと思う。

夢を見られる街、ラ・ラ・ランドでも二つの夢は同時には掴めない。
セブとミアは、弱気になった時に夢を後押しする、同志としてお互いに必要な関係だった。
彼らはそれぞれの夢を叶えるために、恋を諦めなければならなかったが、それは愛の終りを意味しない。
映画は、セブとミアが笑みを浮かべながらお互いを見つめ合うところで幕を閉じる。
成功者になった二人にとって、ラ・ラ・ランドでの陶酔の日々は過去。
もう人生を共に歩むことはなくても、彼らの中で嘗て育まれた愛の記憶は永遠に生き、それぞれの夢を追いながらしっかりと地に足をつけて生きてゆくのだろう。
これはデミアン・チャゼルによる映画と音楽へのラブレターであり、若者たちの青春の熱情とその終わりを描く、切なくも美しい物語。
普遍性と未見性が絶妙にバランスする、文句なしの傑作である。

今回はラ・ラ・ランドのイメージに合わせてカラフルなカクテル、「エンジェルズ・デイライト」をチョイス。
グラスにグレナデン・シロップ、パルフェ・タムール、ホワイト・キュラソー、生クリームの順番で、15mlづつ静かに重ねてゆく。
スプーンの背をグラスに沿わせて、そこから注ぐようにすれば崩れにくい。
虹を思わせる四色の層が比重の違いで生まれる。
先ず目で味わい、口の中で多様な味が一つに溶け合う不思議な感覚は、まさに陶酔のラ・ラ・ランド。

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お嬢さん・・・・・評価額1700円
2017年02月26日 (日) | 編集 |
欲望の罠にかかるのは誰か。

1930年代、日本統治下の朝鮮を舞台に、”お嬢さん”の莫大な財産を巡るコンゲームが繰り広げられる。
プレイヤーは狡猾な詐欺師、薄幸の令嬢、成り上がりの富豪、訳ありの侍女。
原作は英国の作家サラ・ウォーターが、ビクトリア時代の英国を舞台に描いた「荊の城」で、2005年にはサリー・ホーキンス主演でテレビドラマ化されている。
複雑怪奇な四つ巴の騙し合いは、倒錯したエロスの館で、先の読めない官能のサスペンスとなって観客を幻惑。
145分の長尺を全く飽きさせない。
文字通り体を張った俳優陣の好演も見もので、韓国映画界きっての映像テクニシャン、パク・チャヌク監督の現時点での集大成といえる大作である。
※ネタバレあり!核心部分に触れています。

1939年、朝鮮。
犯罪グループに育てられた孤児の少女・スッキ(キム・タエリ)は、 ”藤原伯爵”を名乗る詐欺師(ハ・ジョンウ)からある依頼を受ける。
それは、莫大な資産の相続人である華族の令嬢・秀子(キム・ミニ)の侍女として働き、”伯爵”の結婚詐欺を助けること。
秀子は深い森の中にある屋敷で、希少本コレクターである叔父の上月(チョ・ジヌン)とと暮らしている。
”伯爵”の計画は、スッキの助けを借りて秀子を誘惑し、駆け落ちして結婚した後、彼女を日本の精神病院に入院させて財産を奪うというもの。
スッキの献身的な態度に、秀子は次第に心を開いてゆき、計画は順調に進む。
そして、いよいよ駆け落ちの日がやってくるのだが・・・・・


怒涛の面白さである。
天才パク・チャヌクの作品は、しばしば才気迸るテリングのパワーと筋立てのバランスが悪く、勢い余ってつんのめってしまうことがあるが、本作ではチャヌクとチョン・ソギョンによる脚色が非常に上手くいっている。
物語は三部構成となっていて、第一部が主にスッキの視点から見た、秀子との出会いから駆け落ちまでの顛末。
第二部は、同じ時系列を今度は主に秀子の視点で語るネタばらし編。
そして第三部では、四つ巴のコンゲームの末に何が起こったのか、遂に全体像が見える。
第一部、二部はそれぞれに切り欠きのように欠損している描写があり、組み合わせて初めて真相が分かる仕組み。
物語の進行とともに登場人物の実像が少しずつ見えてきて、次第にその心に隠された本当の感情が浮き彫りとなるというわけだ。

第一部で語られる事件の表面は、上記のあらすじ通り伯爵とスッキの共犯による結婚詐欺。
秀子の叔父の上月は、実にところ日本人ではなく、日本の名家と婚姻を結んだ朝鮮出身の成り上がり者だ。
彼の功名心を利用して接近した詐欺師が、”藤原伯爵”と名乗って屋敷に入り込み、秀子の侍女として送り込んだスッキに手伝わせて密会の機会を作り、誘惑する。
首尾よく秀子がその気になり、日本に逃げて彼女を精神病院に入院させようとしたところでどんでん返し。
実はもとから相思相愛の伯爵と秀子は、上月から逃れるためにスッキを秀子の身代わりとして精神病院に監禁し、秀子はスッキに成り代わって生きていくという計画を立てていたのだ。
騙されたスッキは、自分を朝鮮人の侍女だと思い込んでいる、哀れな華族の令嬢として病院に囚われ、伯爵と秀子が逃亡に成功するとことで第一部完。

ここまででも結構意外性のある物語なのだが、第二部になると今度は第一部で起こっていたことが丸ごとひっくり返される。
スッキは計画通り、献身的に秀子に尽くすことで彼女に取り入るのだが、元々素直な性格ゆえに籠の鳥として孤独な人生を送る秀子に深く感情移入してしまう。
ついには、伯爵との初夜のために、秀子に夜の営みを手ほどきするうちに、主人と使用人の関係を超えて情愛を結んでしまうのだ。
二人は愛し合うにようなり、秀子はスッキを自分の身代わりにさせるという伯爵の陰謀を明かし、元の計画を女二人で伯爵と上月を同時に罠に嵌める、逆転の計画に書き換える。
そして、騙し騙され二転三転するコンゲームは、第三部において自由を得た女たちの新たなる旅立ちと、男たちの悲惨な破滅で幕を閉じるのである。

パク・チャヌクといえば代表作である「復讐三部作」を含めて、復讐を作家とのしての根源的なテーマとしているが、本作も端的に言えば女たちによる、男性至上主義への復讐譚と言えるだろう。
この映画に登場する主要な四人の男女のうち、二人の男は基本的に女を将棋の駒としか思っていない。
屋敷の主である上月は、日本領朝鮮にあって支配者である日本の崇拝者として描かれる。
彼は日本人になりたくて日本人と結婚し、日本のエロティックな希少本を集め、日本風と洋風が折衷した屋敷に住んで、日本風の生活をしている。
さらに自分が認められるために、日本人の上流階級の男たちを集め、あられもない内容の稀少本の朗読を秀子にさせて辱めることにより、生粋の華族である彼女を精神的に支配して満足している卑劣な男だ。
もう一人の自称”伯爵”の詐欺師もまた、スッキを犠牲にして秀子の財産を手に入れようとしており、人を思いやる心を持たない冷酷な人物として描かれている。

男たちが権力と金を得るのに必死なのとは対照的に、スッキと秀子はお互いを知ってゆくうちに、邪な考えをぬぐい去り、二人で協力し合って抑圧からの脱出を目指す。
彼女らの境遇も十分に同情を誘うもので、第二部終盤に至って観客はすっかり彼女らにシンパシーを抱いているので、熾烈なコンゲームの末に二人が男たちを出し抜くプロセスは痛快だ。
そして、もはや日の目を見ることの無い男たちの最期と、自由を得た女たちの愛の営みが対照的に描かれるクライマックスは、外連味たっぷりの暴力と官能の描写が組み合わさり、いかにもパク・チャヌクらしい。
秀子とスッキの濃厚なベッドシーンは、秀子が朗読する希少本の春画を思わせるハードかつコミカルな味付けになっており、日本のヘンタイ文化の韓国的解釈としても面白い。
俳優陣は皆熱演だが、かなりの比重を占める日本語演技にはやはり微妙な違和感がある。
ただ日本人の観客から観ると、日本統治下の朝鮮の森に建てられた虚構の館で、日本人のふりをしながら騙し合いをするという、本作のシニカルなメタ的な構造の中では、朝鮮語訛りもある種すっとぼけた演出効果になっている様に思う。
官能描写ゆえR-18指定なので高校生以下は観られないが、大人は必見の大怪作である。

今回は二人のヒロインの物語ということで、Bの頭文字を持つ2つの酒で作るカクテル、「B&B」をチョイス。
リキュールグラスにベネディクティン30mlを注ぎ、その上にブランデー30mlをそっとふろーとする。
パッと見は同じ様な茶色の酒だが、比重が異なるので綺麗な層を形作る。
飲んでゆくとブランデーのコクにベネディクティンの甘みが混ざり合って、複雑な味わいとなる。
非常に強いので、そにままめくるめく官能の夢の世界に連れて行ってくれるだろう。

しかし成人映画が製作費12億円、本国だけで動員400万人って凄い。
人口5千万人の国で、どんだけ映画好きなんだ韓国人。
残念ながら日本では成立しない企画だろうな。

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ショートレビュー「雨の日は会えない、晴れの日は君を想う・・・・・評価額1650円」
2017年02月23日 (木) | 編集 |
人生の「中身」を確かめたい。

「ダラス・バイヤーズクラブ」「私に会うまでの1600キロ」など、どん底に落ちた人間たちの逞しい復活劇を得意とするジャン=マルク・ヴァレ監督と、怪優ジェイク・ギレンホールが初タッグを組んだヒューマンドラマ。
ある日突然、それまでの人生が吹き飛んだら、人間はどうなるのか。
ギレンホール演じるディヴスは、妻の父が代表を務めるウォール街の投資銀行にコネ入社して順調に出世し、何不自由ない生活を送っている。
しかしある朝、妻の運転する車に乗っていた二人は交通事故に遭い、ディヴスは助かったものの妻は亡くなってしまう。

突然の事故で妻を亡くしたのに、「悲しくもなんともない」という物語の発端は、去年の「永い言い訳」と一緒。
ただ、起点となる心の状態は同じでも、その理由と物語の展開は全く異なる。
あの映画のモッくんは、妻が事故死した時に愛人を家に引っ張り込んでいるような最悪な奴で、ベースにあるのはタイトルが示唆するように贖罪意識。
対して、本作のギレンホールは別に不貞を働いているわけでも、妻との仲が破綻してるわけでもない。
ただ、いつも当たり前に存在していた妻がいなくなったのに、涙すら流すことが出来ない自分自身に戸惑い、自分は本当に妻を愛していたのか、結婚生活とは何だったのか、それまでの人生の中身を改めて確かめなければ、前へ進めなくなってしまうのである。

そして彼は、人生を文字通りに解体し始める。
生前の妻が「故障しているから直して」と言っていた冷蔵庫を切っ掛けに、会社のパソコン、トイレの個室、ついには自宅まで重機でバラバラにしてしまう。
だから原題は「DEMOLITON(取り壊し)」
ただこれは、あくまで再生のための破壊。
劇中のセリフにもあるが、全てはメタファーだ。
冷蔵庫は知らなかった妻の心、パソコンは実体のない数字を扱う仕事の中身、そしてトイレの個室は自分自身、家は結婚生活そのもの。
テレビに映し出されるニホンザル、廃棄される予定のメリーゴーランド、妻の残したメモ用紙。
細かく設定されたシャレードの配置と、小道具の使い方の上手さに唸る。

「永い言い訳」のモッくんが、竹原ピストルの家族との関わりを通して心の平穏を取り戻してゆくように、本作でもナオミ・ワッツが好演するカレンと、自分はゲイではないかと悩むジュダ・ルイス演じる息子クリスとの交流が、ディヴスにとって大きな転機となる。
もっとも、竹原ピストルはモッくんとは真逆のキャラクターだったが、カレンとディヴィスはどちらかといえば似た者同士。
だから疑似家族の二人の父親とは異なり、友達以上恋人未満で心のうちを明かせる同士に近く、微妙な距離感を保ったのがいい。
カレンとクリスの精神的な後押しもあって、十分な創造的破壊の後、ディヴスはようやく喪失を実感し、亡き妻のために彼なりの喪の仕事をすることで、人生を前に進めることが出来るのだ。
人間の弱さと、人を想う気持ちの切なさにそっと寄り添う、詩情豊かな佳作である。

突然の人生の転機に心が対応できず、傍目には狂気にも見える破壊衝動に突き動かされるディヴスを演じるジェイク・ギレンホールが相変わらず素晴らしい。
この穏やかだけど、どこかいっちゃってるキャラクターは、彼に合わせて当て書きされたようにピッタリだ。
癖のある俳優の魅力を巧みに引き出すジャン=マルク・ヴァレは、ハイレベルの安定が続く。
今年は「私に会うための1600キロ」のリース・ウィザースプーンと再タッグを組んだ「Big Little Lies」 、エイミー・アダムズ主演の「Sharp Objects」の2本のTVシリーズを手がけるようだが、こちらも楽しみだ。

今回は主人公夫婦がロング・アイランドに住んでいるので、この島の名を持つカクテル「ロング・アイランド・アイスティー」をチョイス。クラッシュド・アイスを入れたグラスに、ドライ・ジン15ml、ウォッカ15ml、ホワイト・ラム15ml、テキーラ15ml、ホワイト・キュラソー15ml、レモン・ジュース15ml、コーラ適量を注ぎ、ステアする。
お好みでレモンスライスとチェリーを飾って完成。
やたら材料の種類が多いカクテルで、アイスティーと言いつつも紅茶は一切使われていない。
適度に甘口で飲みやすいが、ハードリカーの集合体なのでアルコール度数は高い。

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サバイバルファミリー・・・・・評価額1700円
2017年02月19日 (日) | 編集 |
世界から“電気”が消えたなら。

毎回作品のモチーフ選びがユニークな矢口史靖監督が、今回俎上に上げるのは突然電気が消滅してしまった世界
全ての都市機能が止まった東京から脱出し、生きるために最果ての田舎を目指すとある一家の冒険を、半分シリアス半分コミカルに描いたサバイバルロードムービーだ。
本作はまた、お父さんは仕事中毒、子供達はスマホが命、お母さんは魚すら捌けない、典型的な現代日本の核家族が、もしも電気の無い世界へ放り込まれたらどうなるのか? というシミュレーションSFでもある。
3.11が垣間見せた、現代文明の源である電気使えない状況の更にその先では、いったい何が起こるのかという意味でも興味深い作品だ。
亭主関白なくせに頼りないお父さん役を小日向文世、お母さん役を深津絵里、息子と娘を泉澤祐希と葵わかながそれぞれ演じる。
※ラストに触れています。

東京のマンションで暮らす鈴木家は、経理の仕事をしてる父親の義之(小日向文世)、専業主婦の光恵(深津絵里)、大学生の賢司(泉澤祐希)、高校生の結衣(葵わかな)の四人家族。
当然のように便利な家電やネットツールに囲まれた生活を送っていたある日、原因不明の電気消失が起こり、あらゆる電化製品が使えなくなってしまう。
停電だけでなく、乾電池すら機能せず、何の情報も無いまま時間だけが過ぎ、東京は次第に荒廃してゆく。
水や食料も手に入り難くなり、少しずつ人々の姿が街から消えてゆく中、義之は家族を連れて光恵の実家がある鹿児島を目指すことを決意する。
なんとか人数分の自転車を手に入れ、一家は西を目指して出発するのだが、それはいつ終わるとも知れない苦難の旅の始まりだった・・・



突然、世界から電気が消える。
まあリアルにシミュレーションすれば、電気が消えた段階で世界中の全原発がメルトダウンして少なくとも北半球は壊滅。
もっと厳密に考えるなら、私たちの脳細胞も電気信号でやりとりしているワケで、その瞬間地球上の高等生物は全て死に絶えるはずなのだが、そこはあくまでも映画。

序盤は、3.11後の混乱を思わせる既視感のある展開。
ただ、コンセントだけでなく電池やバッテリーも使えない設定なので、テレビやラジオ、ネットも不通、自動車も動かないから一切の情報が入らないという点で、震災当時よりも不安感が強いシチュエーションだ。

しかもその状態のまま何日経っても復旧することはなく、物流が完全にストップした都市社会は徐々に崩壊してゆく。
物が届かないのだからハイパーインフレが起こり、次は貨幣が価値を失い、物々交換の原始的経済に逆戻り。
地域のコミュニティが、あくまで地元に留まって自分たちの街を守ろうという意見と、もはや街を捨てて脱出するしかないという意見で対立するのも、3.11で見た風景だ。
鈴木家が、まるで夜逃げするかのようにコソコソと出発するのが、いかにも世間体を重視する日本社会らしい。


もちろん、電気は無いよりもあった方がいいが、消えてしまって見えるものもある。

矢口監督の前作「WOOD JOB! 神去りなあなあ日常」は、都会の若者がど田舎の生活を通して、本当の人生に目覚めてゆく話だったが、本作はもっと極端な状況に都会人の鈴木一家を追い込み、丸裸にする。
家長としてのプライドだけは高く、現実には何も出来ない平凡な男であることを思い知らされる義之は、余裕しゃくしゃくで事態を楽しんでいる様な時任三郎と藤原紀香のサイクリスト一家と出会った時には、まだ見栄を捨てきれない。
しかしその後、幾つもの困難を超える頃には、ちょっと頼りないものの決断力のあるリーダーへと変貌している。
生魚すら触ることを嫌がっていた光恵や結衣、片思いの相手を物陰から見守ることしかできなかったヘタレの賢司も、生きるために動物の命を奪うことにもはや躊躇しない。
彼らは、生と死に直面する極限の旅を通して、時にぶつかり合いながらも次第に結束し、生物として覚醒してゆくのである。

典型的な日本の核家族を主人公として、一家四人でのサバイバルという設定が秀逸。

この映画を観る観客は誰であっても、四人それぞれのキャラクターに感情移入し、自分に置き換えて考えることができるだろう。


偶然だろうが、「この世界の片隅に」に似た描写が多いのも面白い。
戦争と電気消失と原因は異なるが、日常が非日常に塗り替えられてゆく中、最初は何も分からなかった主人公が、他人の助けによって野草の食し方や冷蔵庫の無い時の肉の保存法を学ぶシチュエーションは既視感がある。
電車が動かないので再登板した蒸気機関車に乗車中、トンネル内で煙る描写などもお約束だがほぼ同じ。
電気が戻って街にポツポツと明かりが灯るところも、戦後灯火管制が解かれて呉の街に明かりが広がってゆくシーンを思い出した。
また、どちらの映画も意図して人間を優しく描く
もし現実に映画のように戦争や文明崩壊が起こったら、自分だけが生き残ろうとしたり、残された物資を力で抑えようとする利己的な人間も出てくるだろう。
しかし「この世界の片隅に」で主人公のすずさんは、戦争という形のない暴力に打ちのめされるものの、彼女の周りには悪意の人はいないし、この映画でも鈴木家は助けられこそすれ、誰かによって苦しめられることはないのである。
どこまで行けば、人間のコミュニティは完全に崩壊するのか。
純粋なシミュレーションと考えれば甘いのだろうが、困難な状況にあっても「人間はこうありたい」という希望のドラマを描くというスタンスならば、私はこれで良いと思う。


しかし後ろに座ってたおっさんが、終わった時にボソッと「東電のCM映画だな」と言ったのには「そういう受け取り方もあるのか」とびっくり。

なぜなら本作は電気文明の恩恵を描いた作品ではなく、電気があることで、普段気付くことが出来ないものを描く作品だからだ。
二年半の電気無し生活の末に、消えた時と同じように突然電気が戻った時、鈴木家の面々の喜ぶでもなく、悲しむでもなく、何とも言えない戸惑いの表情がとても印象的。
失って得たものがあることを知ってしまった以上、現代の消費文明は既に彼らにとって必ずしも100%の肯定すべきものではないのである。
だから、映画の中で一度滅びかけて再生された文明は、ほんの僅かでもベターな方向へ進んでいるはず。
たとえそれが希望的予測だとしても、人間はそうであって欲しい。
エンターテイメントとしてよく出来ているだけでなく、私たちの生き方に対して興味深い問いかけを含む力作である。

今回は鹿児島に到着したら飲みたい酒、鹿児島市に本拠を置く本坊酒造の地ウィスキー「マルス エクストラ」をチョイス。
1949年にブレンド販売を開始し、1960年に山梨にウィスキー蒸留所を開き自社生産に移行、現在では信州蒸留所と薩摩半島南端の津貫蒸溜所を持つ。
一升瓶入りがユニークなエクストラはCPの高いブレンデッドで、比較的ライトで甘みが強いのが特徴。
個人的にはライバルのトリスなどと同じく、ハイボールで飲むのが一番のオススメ。

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ショートレビュー「ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男・・・・・評価額1600円」
2017年02月15日 (水) | 編集 |
自由の民として、生きる。

南北戦争下のミシシッピ州、ジョーンズ郡。

戦死した甥の遺体を母親に届けるために南軍を脱走し、やがて沼地の奥に脱走兵と逃亡奴隷のサンクチュアリを作った男の物語。
更に彼は貧しい農民たちと手を組んで、収穫物を徴用しようとするアメリカ連合国(南部連合)の命令を拒否。

当然南軍は討伐のために騎兵隊を送り込んでくるのだが、地の利を生かして返り討ちにするばかりか、“ジョーンズ自由州”という半独立国を作り上げてしまう。

なんだか「地獄の黙示録」のカーツ大佐みたいな設定だけど、主人公のニュートン・ナイトは実在の人物だ。
もっとも、この人に関しての記録は虚実が入り乱れて半分神話化しており、どこまでが真実なのかは謎の部分が多く、史実をモチーフにした寓話と見るべきだろう。


異端の白人が迫害された黒人たちを率いるという物語は、一見すると白人の救世主が苦境にある有色人種を解放する、典型的な“White Savior話型”の様にも見える。
しかし、脚本も手掛けるゲイリー・ロス監督は、この人物をもう少し複雑に造形する。
ナイトは逃亡奴隷の庇護者というわけではなく、自らも脱走兵であり、貧しい農民であり、南部連合という国家権力によって搾取される存在。
本来奴隷制度を必要としているのは、広大な農園を持つ金持ちだけであって、僅かな土地を耕す大多数の農民たちにとっては、関係のない戦争に駆り出され命を落とすという理不尽さに対する憤りが原点にある。
誰かに支配される人生ではなく、自由に尊厳を持って生きたいという共通の目標に向かって、逃亡奴隷や農民たちと共闘するうちに、ナイトは白人とか黒人とかの人種を超えた「金持ちに虐げられた土着の農民」という一つの“民族集団”を作り上げるのだ。


だからこの物語の核心は、南北戦争の終わりと同時に彼らが共通の目標を失って、民族集団として瓦解してゆく終盤にある。

終戦は終わりでなく、別種の苦難の始まりにすぎない。

奴隷解放によって生まれた新たな葛藤は、戦争中の様に激しく表に出ない分、弱き者により過酷にのしかかる。

戦争によって一時的に追放されていた既得権層の復活と抵抗、差別感情が地下に潜ったことによるKKKの勃興、巧妙に制度化される人種差別。

映画は1862年から1877年までのニュートン・ナイトの半生と、85年後に彼の子孫の身に起こったある出来事を平行に描く。

歴史の中の二つの点は、映画の物語によって一つの時間軸で結ばれ、一世紀に及ぶ合衆国の長い、長い闘争の歴史を紐解くのである。

しかし貧しい白人たちが反乱を起こし、一旦は勝利したかに見えるが、政治家の二枚舌によってハシゴを外されるってどこかで聞いた話だ。

対立の構図は大きく異なるものの、ニュートン・ナイトの葛藤はいまだ現在進行形。

かなり変則的な筋立てのバランスは良いとは言えないが、アメリカ史を考える上でユニークな視点をくれる力作である。

今回はナイトが生きた時代、1874年にミシシッピ川河口のニューオーリンズのバーテンダー、マーティン・W・ヘロンによって考案されたリキュール「サザンカンフォート」をチョイス。
中性スピリッツに、ピーチをはじめとした数種のフルーツ、ハーブのエキスを加えて作られる。
スカーレット・オハラやシシリアン・キッスなどのカクテルのベースとしても有名だが、ここはシンプルにライムトニック割りで。
トニックウォーターのほろ苦さとライムの酸味が、サザンカンフォートの優しい味わいを引き立ててくれる。

ちなみにナイトの物語は、1948年にも「砂塵」で知られるジョージ・マーシャル監督によって「Tap Roots」として映画化されている。
日本未公開だが、相当に脚色されていて、70年後の本作と観比べると面白い。

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